史標 shihyo 6 (12/12/1991)

58
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6 「史標J 出版局O.D.A.

発行1991年12月 12 日

〆'ー、. . . . . . 、......

よ〈再

上人これを熟覗たまふに、

Uよち申うつり晶い

初重より五重までの配合、

usu

こう

屋根庇腐の勾

はい配

、腰の高さ、

色る‘,

bりふ柑

橡木の割賦、

Mqhう世直島

Eub也AVU申

τusnv

どと日串

九輪請花露盤賓珠の種裁まで何処に可厭なるとこ

みづua也之れ晶同

r申告占う

ろもなく、水際立ったる細工ぷり、此が彼不器用らしき男の手にて出来たるも

tJ、専

のかと疑はる〉ほど巧撤なれば、

世そか

濁り私に歎じたまひて、

かMMどもをも

箇程の技儒を有ちな

む相、っヲ喧つ晶

b・晶

がら空しく埋もれ、名を務せず世を経るものもある事か、傍眼にさへも気の毒

いかくやし

なるを首人の身となりては如何に口惜きことならむ、

か、る

あはれ如是ものに成るベ

てかろ

きならば功名を得させて、

いだと、ろだの為そ

b

多年抱ける心願に負かざらしめたし、

〈さ舎

草木とともに

くももといん担ん

wbF

朽て行く人の身は園より因縁偲和合、

書し

よしゃ惜むとも惜みて甲斐なく止めて止

まらねど、

たとA九之だ〈みぜうそ品噛だいのち

偲令ば木匠の道は小なるにせよ其に一心の誠を委ね生命を懸けて、

あ円去し急た柏田

もひ

慾も大慨は忘れ卑劣き念も起さず、左

目、IJ\

由みぽ

唯只撃をもっては能く穿らんことを思ひ、

かん担えっと

&2btc

飽を持つては好く制らんことを思ふ心の尊さは金にも銀にも比ヘ難きを、僅写

レホ寸AU

いたづ日〈ぼうるヴ

惑す便宜も無くて徒らに北白の土に設め、よ為電っと

4・た吟

冥途のをと奮し去らしめんこと思へ

島底抗

ば倒然至極なり、りゅう島町し申ウ晶

Fh唱し

良馬、玉を得ざるの悲み、FA

v

b

u

-

-

M

高士世に容れられざるの恨みも詮ず

か世

bhuv

-F

喧う

るところは異るととなし、よしょし、我圃らずも十兵衛が胸に懐ける無償の賓

じ噛

V,、bうあと

珠の微光を認めしこそ縁なれ、之主ぴしごといひつ

此度の工事を彼に命け、

hv〈。

せめては少しの報酬を

まとと

ば彼が誠賓の心に得させんと思はれけるが、,.崎、. . . . . . 、‘J

(幸田露伴『五重塔』より)

「史標」第6号1991年12月 12日発行

早稲田大学理工学部建築史研究室内

O. D.A. r史標j 出版局

169 東京都新宿区大久保 3-4・1

51号館17階04室電話 03-3初9・3211 内線 3256

目次

古代エジプト建築に関する文献について(1)

古代エジプトの家具 3

中世末期・近世初頭ドイツ語圏の切石工とその関連聡種における

親方志望者の技術的能力の評定方法について

一規約における制度の類型ー

「ポンの円環J

ドイツ連邦議事堂の計画をめぐって

* * * マレーシアの住宅建築

マレーシアの民家園 ーミニ・マレーシアー

キ* *

仕口考(下)

建築史から見た体育施設(2 )

近代の迷路→云統の現在一

"比例"論・ III ー数学と非数学ー

* * * 後記・執筆者略歴

お知らせ

西本真一 (p. 1)

西本直子 (p.η

安松孝 (p. 11)

太田敬二 (p. 19)

成田剛匂.23)

白井裕泰 (p. 29)

掘真人句.35)

河津優司句.39)

溝口明則句.43)

句.53)

(p.54)

古代エジプト建築に関する文献について( 1 )

西本真一

研究室で必要な、古代エジプトに関する文献を買い集めることを始めて 3 年が経った。

ようやく研究室の本棚4 つがいっぱいになったところである。

日本の書店に注文すると割高になり、しかも日数がかかるので、今では注文の一切を直

接、出版元へ送りつけるようにしている。考古学関係の古書のみを扱う 5 つの専門店を含

め、現在取り引きをおこなっている出版社・古書店の総数は 20そこそこである。定期購読

をおこなっている雑誌はわずか 6 誌にとどまっている。 一方、購入すべき書籍のリストは

いっこうに短くなる気配がない。

それでも、絶版であるため入手は無理かと忠われていた本が運良く買えたりしたことも

あり、ささやかな文庫としての体裁は次第に整いつつある。目下のところ、 Macintosh を利

用した文献リストを作成中であって、 1992年の春には作業を終えたいと,思っている。

まだ未見の書籍が山のようにあるのだけれども、古代エジプト建築の基本的な文献に関

してはひと通り揃えることができたような気がしないでもないので、この際、発行年)1噴も

著者名j噴も関係なしに、また勝手な註釈を施しながら、とこで中間報告をおこなうことと

する。購入することが困難であるにも関わらず、書名だけは度々参考文献の頁で繰り返し

日にするという腹立たしい書物にも一応は触れておく。

なお、カイロにおける書籍の購入や博物館付属図書館での文献のコピー作業は、エジプ

ト調査に参加した隊員が押し進めたことを明記しておかなくてはならない。

書籍の購入に当たってはどうしても個人的趣味に走りがちなのであって、これを正す上

でも、購入希望の書籍に関してはこれからもお知らせ頂ければと切に願う。

Smith , William Stevenson: The Art and Architecture of Ancient Egypt , The Pelican History of Art , revised with additions by William Kelly Simpson (Harmondsworth , 1981) (初版、改訂版とも研究室所蔵)

初版は 1958年であって、著者の死後、シンプソンによって改訂版が出された。よく引用

される書籍のうちのひとつであり、古代エジプト建築に関する文献案内においては必ず書

名がうかがわれる書籍である。初版と改訂版とでは中王国と第 2 中間期についての記述が

多少、改変きれている。註は充実しており、特にシンプソンによる改訂版では最近の研究

成果が多く取り入れられている。未公刊資料を豊富に掲載している点も見逃せない。

全体は第 l章「先史・初期王朝期J 、第 2章「古王国J 、第 3 章『中王国の消長」、第

4 章「新王国J 、第 5 章 f末期王朝J の 5 部に分かれるが、第 1 章と第 5 章の記述は少な

く、また中王国についてもそれほど詳しくは述べられていない。これは中王国期の建築そ

のものが当時、多くの点で不明であったことにもよっている。現在ではいくらか調査も進

んでいるため(例えばセンウセルト I 世・アメネムヘト皿世のピラミッド複合建築、メン

チュヘテプ葬祭殿、テjレ・エjレ・ダーバの煉瓦造遺構など)、この辺の事情は多少異なっ

てくるであろう。

古代エジプト建築の通史を扱ったものとしてはしかし、今でも生命を失っていないと思

われる。多数の遺構を詳細に挙げてはいない反面、古代エジプトの長い歴史における建築

の変遷過程をうまくまとめている。

著者は古代エジプト美術史を専門としていた研究者であり、特に古王国期の美術につい

ては造請が深い (A History of Egyptian Sculpture and Painting in the Old Kingdom , 1946、またThe Old Kingdom in Egypt , in Cambridge Ancient History , 1962など)。ポ

ストン美術館のキュレーターを長く務めた。

Petrie , (Sir) William Matthew Flinders: Egyptian Architecture , (London , 1938)

(研究室所蔵)

イギリスの高名なエジプト学者による著書。彼の働きによってエジプト考古学が確立し

たといっても過言ではない。生涯に約千点にのぼる著作・論文・書評を著し、それらは今

日でもなお頻繁に引用される傾向にある。彼が数多くの遺跡を最初に発掘したということ

も理由のひとつに挙げられようが、しかし例えばPyramids and Temples of Gizeh (1883) ,

lllahun , Kahun and Gurob (1892) , Tell el Amarna (1894)などが未だに参照されるのは

その厳密な調査内容が評価されているからに他ならない。活動の初期において、彼はスト

ーン・へンジを研究対象とする本を出版しており、また晩期においては主たる関心をエジ

プトからパレスチナヘ移した。出土土器に関し、その形態を類別することによって編年の

方法を考案するなど、エジプト学に偉大な足跡を残したこの学者の一生そのものがきわめ

て興味深く、徹底的な調査をおこなったことを証するいくつかの有名な逸話が今日に伝え

られている。

彼は専門的な報告書の執筆と並行して入門書を著すことにも力を注いだが、この本はど

ちらかと言えば、入門書として出版されたものと思われる。第 1 章「煉瓦による建造J 、

第 2 章「葦・ヤシ・木材」、第 3章「石材による建造J 、第4章「運搬j 、第 5 章「石造

工法J 、第 6 章「荷重支持の様態j 、第 7 章『材料の強度j 、第 8 章「屋根の架構法j 、

第 9 章「扉と窓J 、第 10章「計画J の全 10章からなる。建築について体系的に述べた著作

ではなく、またいささか古い本ではあるけれども、古代エジプト建築の面白さを平明に解

説しているという点では見逃すことができない。具体的なす法をこと細かに記しながら述

べるあたりに著者の姿勢が端的にあらわれている ω

Clarke , Somers and Engelbach , R.: Ancient Egyptian Hasonry; The Building Craft (London , -1930) (全頁コピーしたものを研究室所蔵) ユ

Clarkeは建築家であって、エジプト考古学が確立を迎えた初期の時代に数々の遺構を実

測し、図面化した。 Engelbachは技師としての教育を受け、 Petrieの発掘調査なども手伝

っているが、同時にカイロ博物館で十万点にのぼる展示品の索引を作成した功績を残して

いる。

本書は60年前の著作ではあるが、今でも基本文献の一冊に数えあげられている書物。古

代エジプトにおける建築の施工方法を網羅したものとして有用。近年に至っても、この種

の分野を研究主題とする書物はきわめて少ないの修正、並びに増補すべき点は多々あるの

だが、建築を専門とする者にとっては必見の書物である。

第 1 章「エジプトにおける初期の組積方法J 、第 2章「石材の切り出し:軟らかい石J 、

2

第 3 章「石材の切り出し:硬い五」、第4 草 (J逗搬ωための出J 、弟斗与 r ~J足前k. [;げ

る準備j 、第 6 章「基礎」、第 7 章「モルタ lレ J 、第 8 章「石材の取扱い J 、第 9 章「石

材の仕上げと設置」、第10章「ピラミッドの建造J 、第 11章「床敷きと柱礎石j 、第 12章

「桂」、第 13章「アーキトレーヴ・屋根・降雨に対する防策J 、第 14章「扉と出入口 j 、

第 15章「窓と通風口」、第16章「階段」、第17章「アーチ、及び荷重軽減のためのアーチJ

、第 18章 f組積に対する仕上げ・彫刻・彩画j 、第四章「煉瓦組積j 、第 20章「エジプト

における数学」の全20章から構成され、これに補説としてし 「古代工ジプトにおける道

具j 、 2 、 f本書で取り上げたエジプト・ヌビアにおける遺跡j 、 3 、 「年表 J (簡略化

されたものであって、詳しくは記述されていない)、 4 、 「参考文献J が付く。

石材の接合方法、雨水の処理法、神殿等にうかがわれる日光の取り入れ方など、実例が

豊富な図版を用いて説明されており、古代エジプトにおける石造建築の建造方法を知る上

で欠かすことのできない文献。

Arnold , Dieter: Building of Egypt; Pharaonic Stone Masonry (New York , 1991)

(研究室所蔵)

著者Arnoldは現在、メトロポリタン美術館のキュレーターの職にあり、主に中王国期に

属する建築遺構の発掘調査を次々と手がけた。私の知る限り、最も美しい建築図面を描く

人物である。

この著書については、別稿の抄録を参照していただきたい(日本建築学会「建築雑誌j

文献抄録、 1991年 12月号掲載予定)。目下のところ、研究室において翻訳作業を続けてお

り、 3 分の 2程度を試訳し終えたところである。

Smith , Earl Baldwin: Egyptian Architecture as Cultur叫Expression (New York ,

1938 , New edition 1968) (初版を研究室所蔵、新版はコピーしたものを所蔵)

著者は考古学者であるとともに建築家でもあり、プリンストン大学の教授として建築史

の講義をおこなった。他に「帝政ローマと中世期における建築の象徴J (1 956) などの著

作がある。

本書「文化の表現としてのエジプト建築」の本文中には写真が一枚も掲載されていない。

代わりに多数おさめられているのは著者自身の手書きによる図版であり、特に透視図の出

来栄えは素晴らしい。ただ、図版が小さいことが惜しまれる。

第 1 章「環境j 、第2章 f観念の成立j 、第 3章『王朝期切建築の始まり j 、第 4 章「

サッカラの階段ピラミッドJ 、第 5章「王朝期の墳墓」、第 6章「王朝期の神殿 I J 、

第 7 章 f王朝期の神殿ζIIJ 、第 8 章「末期王朝期における神殿j 、第 9 章「家屋、都市

及び王宮」、第10章 fエジプトの建築家と彼らの方法J 、第11章「文化の表現としての建

築J から構成され、古代エジプトにおける主要な遺構に関して建築学的観点から言及がな

されている。

表題に示されているように、古代エジプト人たちの精神世界がどのように建築作品に投

影されたかを語っており、この意味では画期的な本である。エジ、フ。ト建築の始源を記した

第 2章、建築計画について述べている第10章は重要。

なお近年中に翻訳が刊行の予定である(翻訳者失念、中央公論美術出版刊)。

3

Badawy , Alexander: History of Egyptian Architecture; Vol. 1, From the Earliest Times to the End of the Old Kingdom (Cairo , 1954;

reprint 1990 , London) Vol. 11 , The First lntermediate Period , the Middle Kingdom , and the Second

1ntermediate Period (Berkeley and Los Angeles , 1966) Vol. 111 , The Empire (the New Kingdom) , From the Eighteenth Dynasty to the

End of the Twentieth Dynasty 1580-1085 B.C. (Berkeley and

Los Angeles , 1968)

(第 l 巻は再版を所蔵。第 2 巻は全頁コピーしたものを所蔵。第 3 巻は研究室所蔵)

当時知られていた建築遺構をほとんど全て網羅している労作。古代エジプト末期のプト

レマイオス王朝期・ローマ期の建築に関する第4巻の刊行も予定されていたが、未刊のま

まに終わった点が惜しまれる。

第 1 巻は先史時代から古玉固までを、第 2 巻では第 l 中間期から中王国期を経て第 2 中

間期までを、また第 3 巻においては新王国期の建築を扱う。各遺構の概要を知るには最適

の本であり、ところどころに著者自身によっ Jて描かれた建物の復原案が挿入されている。

ただし墳墓の壁画にうかがわれる絵などから、彼が復原をおこなった建築の姿図などに対

しては、近年、反論が出された (Assaad , Hany: "The House of Thutnefer and Egyptian

Archi tectural Drawings" , in The Ancient WorJ d, Vol. V1 , 1983) 。寝室などの屋根の上

に設置されたと考えられている通風口についても、その復原の根拠をめぐり、 Barry Kemp

らから異議が出されている (Kemp , B.: "The Window of Appearance at EI-Amarna , and the Basic Structure of This City" , in Journal of Egyptian Archaeology , Vol. 62 , 1976) 。

しかしながら、古代エジプト建築についてこれほどまでに包括的な記述をおこなってい

るものは類がなく、特に世俗建築に関し、詳しく述べている点で他書を断然、圧倒してい

る。

著者はカイロ大学で教鞭を執った後、アメリカのカリフォルニア大学に研究活動の場を

移して精力的に執筆を続けた。

Badawy , A.: Ancient Egyptian Archit民tural Design; A study of the harmonic

system , University of California Publications Near Eastern Studies Vol. 4

(Berkeley and Los Angeles , 1965) -,コピーを研究室所蔵)

上述の "History of Egyptian Architecture" 第 2 巻、第 3巻とほぼ同時期に書かれた

著作であり、古代エジプト建築の平面・立面・断面における幾何学的分析をおこなってい

る。副題にあらわされている通り、そして「人体における均衡美J という節が設けられて

いることから推量される通り、遺構の各部寸法にうかがわれる調和した比例関係に主たる

関心が寄せられているが、今日から見ればこの点に危うさがなくもない。

全体は 5 つに分かれ、第 1 部ではエジプト美術における調和、既往の研究の紹介、慣例

に従った方法とそれらからの逸脱を記している。第 2 部では調和に富む建築意匠の方法、

実際に用いられたであろう道具とその扱い方などについて述べ、第 3 部においてはクフ壬

のピラミッドに見られる数学的特質、七角形に関する問題等を挙げる。第 4 部では実例が

4

掲載されており、幅広い年代にわたった多数の遺構例を対象として、各図版上に無数の対

角棋や円弧が引かれ、種々の分割線が割り出されている。第 5 部に結論を置く。

幾何学的操作を重ねることによって建築計画やその形態を分析する方法は、ピラミッド

に関する研究において現在でも一部で熱心になされているが、全体の流れとしては幾何学

的手法による分析に対し、慎重な構えが取られつつあるといえよう。しかしながらメディ

ネット・ハブ神殿域の平面図に均等に引かれたグリッドなど、さらに考察が重ねられるべ

き興味深い図版も散見される。

ßadawy , A.: Architecture in !ncient Egypt and the Near East (Cambridge , 1966)

(研究室所蔵)

同じ ßadawyによる、建築史を扱った書。対象を中近東の建築にまで拡大しており、近隣

諸国における遺構との比較をおこないながら通史を展開している点に特色がある。それほ

ど頁数が多い著作ではなく、入門書として書かれたものと思われる。エジプト建築に関す

る記述については、前述した "History of Egyptian Architecture" の要約が載せられて

いると考えてよい。

ßadawy , A.: Le dessin architectural chez les anciens 馮yptiens; ノtude

comparative des repr駸entations 馮yptiennes de constructions (Cairo , 1948)

(研究室所蔵)

建築が絵画として描かれる際にどう表現され、またそこからどのような建築が復原され

るかを考察した著作。古代エジプト建築の起源に関わる論考を多く含む。

第 i 部は全 7 章から構成され、第 1 章「古代における素描」では絵画表現の手法、用途

別に分けられた建築の各々の描かれ方、絵が描かれたパピjレス、石片などの素材について

述ベる。第 2章 f建築の聖刻文字j では建築に関わる形態をモチーフとした約 20種の聖刻

文字に関して考察をおこない、その後の第 3章「世俗建築j 、第 4 章「軍事建築J 、第 5

章「宗教建築J 、第 6 章「葬祭建築J 、第 7 章「庭園建築j においては、 5 つに大別され

た各建築描画の実例を挙げて考察している。第 2 部は古代エジプトにおける絵画的表現の

特徴を踏まえ、建築を描いた際の誇張の方法、また二次元の画面における構成方法といっ

たものを扱う。

全 3 巻からなる "History of Egyptian Architecture" と並んでBadawyの代表作に数え

あげられる書であり、建築家であるとともにエジプト考古学者でもあった著者独自の視点

が最大限に生かされている。訂正が必要と思われる点がいくつか見られることはすでに記

したので、ここでは繰り返さない。第 3章が最も長く、またこの章に問題が最も多いはず

であるが、他書では断片的にしか取り上げられない興味深い事例を含めて包括的に紹介を

おこなっており、有用である。

Perrot , Georges and Chipiez , Charles: ! History of Art in Ancient Egypt , Z Vo1s.

(Translated and edited by Walter Armstrong , London , 1883) (現在第 2 巻のみ研究室

所蔵、第 1 巻は近日中に入荷予定)

同じ著者たちによって "Histoire de l'Art dans l' Antiquité" が著されており、 1881

5

年に出版されたその第 1 巻ではエジプト美術が扱われている。未だ確かめていないのであ

るが、おそらくはその英訳であろうと考えられる。

古代エジプト建築に関し、始めて詳しく触れた著作として書名は頻繁に挙げられている。

研究室では第 l 巻を欠いているので、第 2 巻の内容のみを簡単に紹介したい。第 1 章「世

俗建築、軍事建築」、第 2 章「建造の方法、オーダ一、付髄的形態J 、第 3 章「彫刻」、

第 4 章 f絵画J 、第 5 章「工芸」、第 6章「エジプト美術の一般的性格、及び美術史上で

言及されるエジプトの地名」、以上の 6 章から構成される。

図版は数多く掲載されている。特に第 2 章では柱に関する説明が詳しい。柱の配置法に

ついても 30枚に及ぶ平面図や透視図を交えながら解説がなされており、非常に理解しやす

い。ただし、用語はギリシア建築で用いられるものが転用されている。

エジプト建築の基本的な構成を知るのに便利な本である。下記の著作と併せて見ること

をお勧めする。

Jéquier , Gustave.: Manue1 d' Arch駮1ogie ノgyptienne; Les É1é・ents de

l'Architecture (Paris , 1924) (全頁コピーしたものを研究室所蔵)書名から了解されるように、建築部位に関してまとめられた便覧といった書。図版多数。

著者はスイスのエジプト考古学者であり、エジ.プト学で大きな働きをなしたG. トfasperoの

下で学んだ。サッカラ地区で多数の発掘調査をおこなった研究者として有名である。

第 l 章「素材J 、第 2 章「基礎j 、第 3 章「壁 (Les cl�ures) J 、第 4 章「柱 (Les

supports) J 、第 5 章『屋根j 、第 6 章『付属物(石棺、オベリスク、石碑等を扱う) J 、

第 7 章「彫像」の全 7 章から構成される。柱の形状、またこれに施された装飾に関しては

100頁以上を費やして詳細な記述をおこなっており、利用価値は高い。

Jéquier , Gustave: L'architecture et 1a d馗oration dans l'ancienne ノgypte; Vol. 1, Les temples memphites et th饕ains (Paris , 1920) Vo1. 1I , Les temples ramessides et sa�es (Paris , 1922) Vol. 111 , Les temples ptol駑a�ues et romains (Paris , 1924)

(3 巻とも研究室所蔵)

神殿建築に関する大判の写真集であり、前述した Les ノl駑ents de l' Architecture の

図版編といった位置を占める。ポートフォリオとなっているので複数の写真を見比べる際

には便利であろう。修復がおこなわれる以前の状態を示す、遺構の貴重な写真を含む。

Spencer , A. Jeoffrey: Brick Architecture in Ancient Egypt (Warminster , 1979)

古代エジプトにおける煉瓦造建築遺構を扱ったもの。資料としては出版された報告書に

多くを頼っているが、前書きで述べられているように、煉瓦造建築に対して詳しい報告を

おこなっている刊行物はきわめて少ないため、現時点で暫定的にまとめられた書という感

が非常に強い。巻末に付された煉瓦の組積法のうち、プトレマイオス王朝期の遺構に観察

されることが多いと言われるもののいくつかについては、初出の年代を引き上げる必要が

ある。本書の記述に拘泥されるととなく、むしろ煉瓦造建築に関する分析方法の一指針が

そこに示されているとみなした方がよいと思われる。(続)

6

古代エジプトの家具 3

西本直子

格子を持つ腰掛け

新王国時代にもっとも普及していた腰掛けは格子を持つものであった。この構造は新王

国時代に発展したものと思われる。フアラオや王宮の人々、更に工芸職人や大工まで~当

時のエジプト入社会で広範に使われていた。特筆すべきはテーベの著名な墓で格子を持つ

腰掛けが多数壁画に描かれていることである。(デイヴイス1933年・図版XXXVIIIデイヴ

イス 1963年 図版 E 、 VI ・デイヴィス1933年A 図版X班、 XXV 、 XLV ・デイヴィス

1907年図版XV 、 XVIII ・デイヴィス1941年 図版四、 XXVll・デイヴィス 1923年 図版V 、

四・デイヴイス1930年図版LXI ・デイヴイス1953年図版XXX羽、 L 1 ・デイヴイ

ス 1925年・図版V 、 X 1 )この様式の家具は第二中間期と新王国初期の工芸職人が使用し

ていた素朴な腰掛けから派生したと思われる。格子の腰掛けは角材による四本の脚及び脚

部を固定する貫で構成され、脚上端は座枠にほぞ穴継ぎされている。貫と座枠の聞は各面

とも格子に筋違が入れられている。

腰掛けでも椅子でも花台でも格子は構造上の工夫であるという説がある。私は格子が構

造上重要な役目を果たしていることには同意するが、かかる荷重を受けるために発生した

という意味では同意しかねる。というのも私はいくつかの例で格子が互いに接着もされず

簡単に突き付継ぎで模で止められているのを目にしているからだ。

22. 格子の腰掛け(図版74)

第四王朝・ブルックリン美術館 ニューヨーク Cat. No.37. 45E ・出所不明・ L=26佃E

W=229.. H=243阻

これはとても小さな腰掛けで当時の工芸職人が使用していたものと類似している。脚は

17四角の良質材でできている。脚の断面は上部が僅かに広がり (25mm角となり)、座枠と

脚部を視覚的に滑らかに繋げている。脚と座枠は簡単なほぞ穴継ぎで接合され、貫 (15凹

X7mm) と脚の接合は片腰付きほぞ穴継ぎである。この仕口は貫が垂直材に比ペ薄ドとき

古今を問わず家具によく用いられる。座枠は上面が僅かにしゃくられ三次曲面をなしてい

る。座枠の厚みは中央で14mm端部で35mmと変化し、端部には脚部との接合のため、ほぞ穴

が切られている。座は加工された七枚の平板からなる。端の板は座枠であり、内側の五枚

が31mmであるのに対し46mmの幅を有している。各板の間には互いに約6mmの隙間がある。

板は長手方向の座枠に実矧ぎされている。

座枠の下部で格子の筋違は脚と貫に接している。束の長さは芯々で145皿、圧縮材であ

る筋違は160mmの長さである。おのおの7. 5mmX5. Ommの断面を持つ材でできており、座枠

点端と貫に接合されている。

23. 格子の腰掛け(図版75)

7

内、、h

74.

75.

76.

8

年代不祥・メデルハウスムゼート ストックホルム・Cat.No.MM19.668 ・ L=495固

体445.. H=465u ・未公刊

大きさは前述の例のほぼ二倍であるが、この型の腰掛けの典型的構造をもっている点は

同じである。相違点は座が板張ではなく編んで作られているとごろである。座枠にはムシ

ロ状の座部分を編むための紐を通す穴が設けられている。

24. 格子の腰掛け(図版76)

第18王朝・約BCl375年・トリノ エジプト博物館・Cat. No. 8512-8511 ・カーの墓 第

8墳墓テーベ -L=419.. W=330.. ・ベーカ 1966年 p.116 図版154

テーベのカ一(※)の墓では四例の見事な格子の腰掛けが発見された。(原註:本著に

ては二例のみを紹介している。)それらは我々の期待どおり鮮やかに切り取られた部材に

よる精巧な仕口と二次または三次曲面を為すムシロ編み又は板張の座を有している。当初

は全体が白く塗られていたが、その大部分が剥落し、現在では材も露になっている。

ここでは古代の木工職人が有したもうひとつの一般的な筋違の扱いがみられるが、実に

彼らは当時になって初めて同じものを作れるだけの技術の達成をみたのであった。垂直な

束(原註:座枠と貫の聞の)は二本の筋違よりも断面が大きい。これらの筋違は一端を束

と座枠の隅角部に、他端は貫(脚固め)と脚の隅角部にそれぞれ突け付け継ぎされている。

(原註:前述の二例ではなされていないが)貫と脚の接合部は束と座枠の接合部同様だぽ

で補強されていると思われる。なぜなら斜めの圧縮材にかかる力は直接両接合部を通って

床面へと伝わるからである。

※建築家カー カーは第18王朝最盛期のフアラオ・アメンヘテプ皿世に寵愛を受けた

建築家である。ルクソール・王家の谷より1. 5キロ、王妃の谷より1. 0

キロ、クルナト・ムライの丘西方に墓の建造に関わった人々の集合住

居跡デル・エル・メディーナがある。カーはここに住む職人の長であ

った。 Shiaparelliがデル・エル・メデイ ナで彼と妻メリト (Meryt)

の墓を発見した際、多くの日常品が副葬品として発見され、現在トリ

ノ博物館に収められている。日常使用したと思われる家具もあり、そ

れらは職業柄一つ一つよく吟味されている。中には貴族たちが所有す

る椅子の形骸のみを手近な素材で模造した品もあり、なかなかおもし

ろい。

25. 格子の腰掛け(図版77)

第18王朝・ BC1350年・ツタンカーメンの墓・エジプト博物館・カイロ・ JE62041 ・

Carter NO.81 ・ H=305.. W=380.. ・カータ -1923年 p. 217 図版LXXillA

ツタンカーメン王の墓では二例の格子の腰掛けが発見された。一例は三次曲面の座を持

ち全体が白く塗装された飾り気のないもの (JE62040) 。もう一例(図版77) は構造材に

高価な材を使用した比較的高級な品である。この腰掛けの枠組みは杉と思われる材で作ら

れ、座は三次曲面をなす五枚の板からなっている。うち三枚は黒檀で、黒檀に挟まれた残

9

りの二枚は象牙である。各々の板の境には象牙と黒檀でできた目地が座の表裏に施され、

意匠上の効果を上げている。だぽは象牙で覆われた上、さらに半球状の黒檀で覆われてい

る。

26. 腰揖け(図版78)

第18王朝・ BC1350年・ツタンカーメンの墓・エジプト博物館・カイロ・店62038・臼rter

No.467 ・ H二450.. W=450.. D=431.. ・カータ -1933年 p. 219 ・図版Lxvm ・ベー

カー1966年図版酒(カラー)

この作品はとても美しい。脚は猫の脚をかたどって彫刻がなされ白く塗装されている各

々が、銅で覆われ先端に厚い青銅板を打ち付けられた円筒のうえに乗せられている。白く

塗装された座は削られた数枚の板からなる三次曲面をなしている。廻縁と板との仕口はほ

ぞ穴継ぎで、先端を金で覆われただぼで留められている。脚と座の仕口もこれと同様であ

る。座の下には上下エジプトの統合の象徴である装飾的な花が配されている。貫も含めて

彫刻された木部に金箔を被せた見事なものである。

77.

78.

10

中世末期・近世初頭ドイツ語圏の石切工とその関連職種における

親方志望者の技術的能力の評定方法について

規約における制度の類型

1. はじめに

安松孝

中世あるいは近世の手工業の規約にみられる親方資格の条件についての規定には、経済

的・社会的条件から技術的条件まで多種の内容が要求されており、ある職人(雇職人)が

親方になる可能性を左右する要件がその職人の技術的能力だけではない事情が知られる。

石切工や石積工などの石材を扱う建築工匠においても事情は同じであり、親方になるには

少なからぬ経済的負担や一定の社会的条件の充足などが不可避で、ある。この点に関しては、

中世主義に始まる建築や芸術の分野での石工についての著述や研究においては、職人から

親方〈の過程が技術的あるいは芸術的な能力に偏って語られている感を否めない。ただし

中世末・近世初頭の段階で、 ドイツ語圏の石切工やその関連職種の親方が手に技術を持っ

た独立の小生産者という性格を失っているとは考えにくく、技術的能力が親方地位の取得

における関心事の l つであったことは間違いないであろう。

ここでは石切工とその関連職種について、この親方地位の取得における技術的能力の評

定に関して、規約にみられる制度の把握と分類を試みる。この職種に関して伝来する規約

はすべて 14世紀以降のものであるが、 14世紀の規約は親方地位の条件をほとんど記さない

ので、ごこでは15世紀以障を対象とし、下限は制度が画一化してくる 16世紀前期頃とする。

この 2 世紀ほどの期間には親方地位の技術的能力の評定方法についていくつかのタイプが

混在しており、移行期の様相が窺われるが、その制度的異同には時間的な差異が含まれて

いる可能性が考えられる。また年代を遡ると技術的条件に関して何ら言及しない規約が多

くなるが、このことは技術的能力が親方地位と関係しないということを意味するわけで、は

ない。むしろ何らかの潜在する制度や慣習を想定すべきであろう。とはいえ潜在する制度

についてその内容を明確にすることは難しく、史料に明示された制度をもとに推定してゆ

く以外にないであろう。その意味においても、時代を下る規約にみられる制度的異同に注

目することが、推定の材料を与えるかもしれない。

なお北部ドイツの煉瓦造地域は本稿の検討の対象外である。また職種の名称は、 Stein­

metzを石切工、 Maurerを石積工と訳するが、 Maurerを Steinmetzの意味で、使う中世の用語

例のあることが、これまでの研究で明らかになっている。しかしここでは史料の職種名の

ままとする。石切工の関連職種には石積工のほ金石彫工Steinhauer、石葺工Steindecker

などがあり、このほか石切工は大工、彫工、指物師、大鋸などと同一のツンフトを形成す

ることがある。こうした合同ツンフトの規約も検討の対象とする。

2. 親方志望者の技術的能力の評定方法の諸類型

石切工とその関連職種において、親方地位の取得に対して規約上に設定される諸条件の

内、技術に関連するものは、技術の習得としての修業に関する条件と、その結果としての

技術的能力に関する条件がある。修業に対する条件とは徒弟制度と職人遍歴であり、後者

は一部の規約にしか規定されない。徒弟修業の方は15 ・ 16世紀にはそもそも就業条件とな

11

っているのであり、その場合には徒弟修業なしには職人として働くことも許されない。他

方、習得された技術的能力については、単に親方として十分な技術を持たなければならな

いと述パるだけの場合も少なくないが、能力評定の方法について規定する規約も少なから

ずみられる。評定方法にはさまざまな形態があるが、それらを制度の外見から区分すると、

以下の 5 類型に分類できる。

類型A 制作によるもの

類型B 試聞によるもの

類型C 組合集会によるもの

類型D 組合首長あるいは役付の親方によるもの

類型E 保証人によるもの

この分類は、規約文言に拘束されており、論理的な整合性に限界がある。たとえば類型

Dの組合首長による評定は、どのような方法で組合首長が能力評定をおこなうのかが記さ

れていないため 1 つの類型として抽出される。しかし組合首長は能力評定にあたって親方

志望者に試問をおこなうのかもしれない。類型C も組合集会における評定方法が不明で・あ

る。したがってこの分類は相互に重複する場合が考えられるが、ここでは推定を加えずに、

文言上に述べられた制度の形態を問題としたい。以下に各類型について例をあげて解説す

る。

(1) 類型A 制作によるもの

類型A は親方作品Meisterstückと呼ばれる制度で、各種の手工業にみられる。石切工と

その関連職種における早期例は、 1507年のニュルンベルクの建築工匠規約や1514年のレー

ゲンスブルクの石切工・石積工・葺工の規約である。レーゲンスブルケではごれに先立つ

1488年の規約が、親方になるために必要な技術的能力を具体的に、しかし親方作品として

は要求しない形で規定している。この必要能力の規定の技術的内容は異例なほど詳細かっ

具体的であり、その内容が若干の変更をともなって1514年の規約に親方作品として取り入

れられているのである。この1488年の規約はしかしこれらの内容を実際に制作してみせる

ことを求めていないので、この時点で親方作品の導入とみなすことはできない。このほか

ノイスの 1487年の建築諸職種の規約が、一般論として親方志望者がその手工業をおこなう

能力があるか否かを検査する beprobenように求めている例がある。 beprobenということば

は、親方作品がProbと呼ばれる場合があることから、親方作品による能力評定を求めてし ピー

ることも考えられるが、単に試問するだけである可能性も否定できない。いずれにせよ、

筆者の検討の範囲では、北部の煉瓦造地域を除くと、規約上でドイツ語圏の石切工とその

関連職種における親方作品は明確なかたちでは16世紀前期から現われ、その後、時代を下

るにしたがって普及してゆくことがわかる。しかし16世紀後期まで下っても、すべての規

約がこの制度を規定する状況にはなく、各地で制度的な異同が生じている。

この親方作品が規約上に現われる時期は、親方作品が実際におこなわれるようになった

時期と一致するのであろうか。あるいはそれ以前にこの制度が潜在していた時期があった

のだろうか。あるいは逆に、制度化されても実施されなかった状況を考えるべきなのであ

12

ろうか。この点について答えるためには個別の事例の詳細な検討が必要であろうが、親方

作品の規定の一部にはこの制度が新規に導入された経緯が述べられている。また一連の規

約が残存し、その規定内容から親方作品導入に至る制度の変遷を把握できる場合もある。

表 l は石切工とその関連職種における早期の親方作品について、導入経緯を検討したもの

であるが、親方作品の導入に先行する必要能力の規定が異例に詳細なレーゲンスブルケの

場合がやや暖昧なものの、そのほかについては規約に記載された時点以前の段階で親方作

品が慣習的に潜在していた可能性を想定する必要はないであろう。またこの制度の導入が

石切工の反発を引き起こした事例があり、かれらにそれ以前の制度との相違が強く意識さ

れる場合があったことが知られる。たとえばP ・フライシュマンによれば、ニュルンベル

クにおいては1507年に市当局の主導で石切工と大工に親方作品が制度化されるが、石切工

たちはこれに抵抗し、 1516年の時点でも実施には至っていなかったという。したがって、

1507年以前の段階で、親方作品の制度が行なわれていたが規約には明記されていないとい

う推論は成立しない。同様に1542年頃に市当局の指示で親方作品を石切工と石積工に導入

したシュトラスブルクにおいても、石切工はそのような親方作品はかれらの間でほとんど

おこなわれていないとして、当局の定めた親方作品に異義を唱えている。 1548年に親方作

品を制度化したチューリッヒの石切工は、それ以前に岡市の石切工の間にはこの制度がな

く、そのために能力のない者が親方になって市民に被害を及ぼしているとし、市当局に制

度の導入を求めた。 1549年のウルムの石積工に対する親方作品の規定においても、同様に

経験不足の者を排するという目的を掲げて組合が市当局に親方作品の制度化を求め、これ

を受けて当局が制度を規定した。このように親方作品は石切工とその関連職種においては、

16世紀前期以降に新たに導入されていったとみることができる。しかしそれ以前に何らの

技術的能力の評定なしに親方が誕生していたとは考えにくいので、親方地位を志望する際

に制作をおこなうという方法以外の、何らかの慣習があったとみるべきであろう。

建築関連の職種においては、ほかの繊維や金属加工のような比較的小さな製品をつくる

職種とは異なり、親方志望時点で製品を制作するという制度(親方作品)は適合しにくい

ように思われる。建築の実作を要求するとすれば、そもそも評定に適合する内容の建設を

おこなう機会があるか否かが問題となる上、一部の規約には職人は自分で独立して仕事を

引き受けることが禁じられている。もちろん自費で建築をつくってみせるわけにもいかな

い。そこで石切工とその関連職種においては、親方作品を模型や図面によって代用する制

度が発達してゆく。ただしレーゲンスブルクの1514年の規約には、模型による代用はあく

まで実作の機会がない場合に限定しているので、実作が親方作品になるという理念が一部

にみられることが注意を号|く。しかし石切工と関連職種の親方作品は、ほとんど模型ある

いは図面であるとみてよい。なお地域的な分布についてみると、早期の例はドイツ語圏南

部の都市にみられ、とくにニュルンベルクとレーゲンスブルクというフランケン地方の 2

都市が先行している。またこれらの早期例の導入の主体についてみると、経緯が明記され

る 5 例の中で市当局が指示したのが 3 例、組合の請願により市当局が許可したという形態

をとるものが 2 例となっている。後述する類型E と比パて、制度に対する当局の関与が大

きいことが 1 つの特徴である。

早期に親方作品を導入した都市において親方作品導入以前の能力評定の制度がどのよう

なものであったのかという点に関しては、ニュルンベルク、ウルム、ミュンヘンについて、

13

残存する一連の規約や導入過程の説明から明らかにすることができる 。 ニュルンベルクで

は親方作品の導入と合わせて、職人を新規に親方にする権限を特定の親方を任命して集中

化するという指示が当局より与えられている。この措置によって廃止されたのは、どの親

方も新規の親方の保証人となり得たそれ以前の慣習であった。 すなわちニュルンベルクで

は、保証人による技術的能力の保証(類型E) から、親方作品(類型A) と役付の親方に

よる判定(類型D) への移行がなされたのである。ウルムにおいては、親方作品を導入し

た 1549年の規約に先行する 1499年の規約が残存しており、その時点では親方志望者の能力

を 3 人の親方が組合と市当局に保証するという制度が存在したことが知られる。したがっ

てここでも保証人的な制度(類型 E) が先行し、 16世紀に親方作品(類型A) ヘと移行し

たのである。他方、ミュンヘンでは1488年の規約と、 1550年に親方作品の規定を付記した

もとの規約(1537年以降)において、組合集会における能力評定(類型C) を規定してい

る。組合集会においてどのような能力評定や手続きがおこなわれたのかについては述べら

れていないので、この制度は類型B 、 D 、 E のどれかにに重複するかもしれない。

(2) 類型B 試問によるもの

類型B は類型A と区別されずに論じられる場合があるが、親方作品(類型A) は一定の

時間的・経済的負担を伴うので、一線を引くておく必要がある。つまり親方作品はその制

作費、検定料、誤謬に対する罰金などの経済的負担と、ある期間、制作に拘束されるとい

う時間的負担があり、それらは職人には少なからぬ障害となる。この負担と関連して、制

作すべき製品の個数や質を高めることで、職人を親方地位から遠ざけ、新規の親方数を調

整できるのである。また逆に、親方作品の内容が規約に明記される場合には、単に能力を

要求する場合に可能である恋意的な評定が抑制されるという作用も想定できょう。このよ

うに親方作品から制作によらない類型B を区分すると、それに該当する規定は、ケヴ‘ェア

フルトの1574年の石切工・石積工規約、および場所・年代とも明記されないある所領の石

切工・石積工規約にみられる。しかしこの 2 つの規定はほぼ同文であるので、 1 系統にま

とめられる。この規定の制度は、ある 2 人の親方がほかの親方の同席のもとで親方志望者

を試問することによって、かれの能力の評定とするという内容である。ここで 2 人の親方

は、組合首長や試験のために組合から任命される親方とは記されておらず、任意に選択さ

れるようにみえる。

この制度は、同席すべきほかの親方(複数)の範囲によっては、組合集会において能力

を評定すると定める類型C と重なってくる。また試問する 2 人の親方が親方志望者の側の

選択によるとすれば、この 2 人の親方とは保証人的な存在にほかならず、類型Eに近い制

度ということになる。その場合かれらの試問とは、ほかの組合成員の同意を得るための手

続き的なものであるかもしれない。このように類型B は、一種の試験である点で類型Aに

近似するかにみえるがλ かえってそのほかの試験によらない方法に近似する可能性も考え

られるのである。とくにこの制度を規定する規約の一方が現ザクセン=アンハルト州のク

ヴ‘ェアフルトのものであり、またもう一方のある侯国(~買)の規約もザクセンの成立で

ある可能性が考えられるので、ザクセン地方一帯の1462年の石切工規約が規定する保証人

的な制度(類型 E) との関係が注目される。一方は試問者、他方は保証人であるが、人数

はどちらも 2 人であり、保証人が試問者に転化し、これに組合の合意が加えられたという

経緯を考えることもできょう。

14

(3) 類型C 組合集会によるもの

組合集会における能力評定はミュンヘンの規約が1488年と 16世紀前期に規定しているが、

その具体的な方法は記されていない。その後1550年に親方作品の制度を石積工に導入して

いるので、同市では15世紀以来の集会による能力評定から、 16世紀中期に親方作品による

評定に移行したという経緯がみられる。組合集会による評定においては、親方志望者の技

術的能力に対して組織としての承認が与えられ、その結果は市当局への報告が義務づけら

れている。この点では親方作品と同様に、市当局の建設活動への管理体制を反映している。

評定方法をまったく記さずに組合が能力を認定する必要を説いている 1423年のエアフルト

の規約も、親方地位に一定の能力が必要であることを規定すると同時に、組合の関与なし

に新規の親方が誕生することを抑止しているのであろう。

(4) 組合首長あるいは役付の親方によるもの

レーゲンスブルクの1488年の規約は前述のように親方になるのに必要な能力を具体的に

列記しているが、その規定に続いて市の工事のためにシュタットマイスターStadtmeister

が雇用される場合にはそれ以上の能力が必要であり、宣誓親方(組合首長)の助言により

雇用を決定することが記されている。一般の親方の必要能力については、評定方法が記さ

れていない。また岡市の1514年の規約は前述のように親方作品を要求しているが、一般の

親方になる場合についてもさらに組合において宣誓親方の 4 人あるいはその一部が親方志

望者の技術的能力について報告すること、またそれ以外の報告も受け、十分に検討すパき

ことを説いている。親方作品は組合首長が判定するごとになっているので、組合首長によ

る報告とは親方作品の判定結果であるかもしれないが、この組合首長による報告を記す項

目は親方作品の規定より前に置かれ、親方作品についてまったく言及していないため、異

なる 2 つの制度が 1 つの規約に併存しているような印象を与える。このようにレーゲンス

ブルクの規約における能力評定の制度は複雑な形態をみせるが、組合首長が能力評定にお

いてかなり重要な役割を果たす点で特徴づけられる。宣誓親方と呼ばれる組合首長は市当

局に宣誓して従属し、組合の仕事以外に、市内の建設や不動産上のトラブルに対する裁判

において判決を下す権能を与えられている。

1591年のシュパイアーの石切工・石積工規約には、能力評定をおこなう役付の親方がみ

られる。ごの規約は先行する 1575年と 1581年の規約を改定したもので、前の規約の内容を

引き継ぐ形で規定される項目があるため制度の全容が把握できないが、規約制定の意図は、

岡市で働く石切工が全ドイツ的な広域組織としての「石切工兄弟団J を背景に、ドームの

ヒュッテを拠り所として独自の手工業裁判をおこない、ツンフ卜の裁判権にしたがわない

という市当局にとって好ましからざる実状を打開することにあった。この規約の能力評定

の方法は、親方作品によるものと考えられるが、遍歴職人と「親方作品をおごなわなかっ

た市民」について、石彫りに雇用する場合に検査役Beseherによる能力評定を要求してい

る。検査役の制度はしたがって職人としての石切工の雇用に対するものであるが、あるい

は親方作品の判定もその権能に含まれるかもしれない。検査役の選出方法は記されていな

いが、この規約の性格からみて選出には市当局の承認が不可欠であると考えてよい。

また前述のようにニュルンベルケでは1507年に親方作品を導入した際に、親方地位を新

規に与える資格を、選出されて市当局に宣誓した特定の親方に集中し、その親方が親方作

品の判定もおこなうと定めている。以上の組合首長や役付の親方による能力評定の制度は、

15

石切工やその関連職種の組合に対する市当局の管理が拡大してゆく中で成長していった。

すなわち市当局は組合首長や役付の親方を通じて市の建設活動を管理し、市内で働く建築

工匠の技術的水準についてもかれらに責任を負わせているのである。

(5) 類型E 保証人によるもの

類型E は上にみたニュルンベルクやウルムにおいて、類型Aや類型Dに先行する制度と

して存在していたが、それ以外に 1462年のザクセン地方一帯の石切工規約と、 16世紀前期

のチロル地方の石積工規約にみられる。ザクセン地方の規約は、全ドイツ語圏的組織とし

ての「石切工兄弟団」の1459年の規約に言及しながら、トルガウにおける石切工たちの集

会で定められたもので、 「石切工兄弟団J 規約とならんで石切工の広域的な組織の規約の

早期例の l つである。親方地位取得の能力に関係する規定は、ある工事の長としてのく親

方〉の地位に、それまで親方でなかった者が就任する場合には、 2 人の親方がその能力を

保証しなければならないというもので、およそ今回扱った規約の範囲では能力評定の方法

についてのもっとも古い規定である。ここに規定されているのは、ひとまず現場毎の く親

方〉の地位であると考えられるが、この規約においてはそれ以外に親方地位の取得に関す

る規定がない。とするとこの規約においては現場の長の地位にある者はく親方〉と呼ばれ

るが、現場を離れるとその工匠はく親方〉ではなくなるようにみえる。ところが「仕事の

ない親方」に関する規定があるので、親方の地位は属人的な性格を持っていることが確認

できるのである。これらを整合して解釈するには、ある職人がはじめて現場の長としての

く親方〉になることが、同時に属人的にも親方となることであるという、親方地位の観念

を必要とするであろう。中世末の著名工匠家系であるロリッツァ家において、コンラー卜

・ロリッツァが息子マテスをニュルンベルクの内陣建設において親方としたという記録に

は、ある現場の長への初めての就任と、その工匠の属人的な意味での親方八の昇格が重ね

合わせられる形態の親方の観念をみてとることができるかも知れない。その際に、ロリッ

ツア家の例では親が子を親方にしているのだが、このザクセン地方の規約における 2 人の

技術的保証人の内の l 人が親であることも、こうした事例からみておおいにあり得ると考

えてよいであろう。

チロル地方の石積工規約は、 「石切工兄弟団」の1459年規約をもとに1460年にシュテル

ツインゲで集会を開いて形成されたチロル地方の石切工組織において、石積工の成員が増

加したことに対応して 16世紀初頭噴に規約書に付記されたものである。この石積工規約に

は、親方志望者は能力を保証する 2----3 人の保証人を必要とするという規定がみられる。

したがって能力評定の方法が保証人による点でザクセン地方の規約とまったく同一である

が、とくに現場の長としてのく親方〉ヘの就任とは関連づけられていない。なおこの規約

は「石切工兄弟団」の1459年規約に付記されているが、 1459年規約の方は現場の長として

のく親方〉ヘの就任に対して、親方と能力のある職人が空席のく親方〉地位に応募できる

ことを規定するだけで、能力評定については一切規定していない。

このザクセンとチロルの規約は両方ともその制定に当局が関与せず、石切工の組織の内

部において独自に制定されている。したがって、親方作品や組合首長などによる能力判定

と相違して、当局の意向がほとんど作用していないものと考えることができる。また組合

の認定や承認という手続きすら明示されておらず、親方志望者と保証人の聞の狭い領域に

おいて新規の親方が誕生し得る点で、ほかの類型との相違が際立っているといえよう。こ

16

の点ではウルムの1499年の規約は保証人が組合と市当局に対して能力を保証するという形

態で、類型E の中に組合や市当局と保証人の関係にレヴ、エルの相違が認められる。

3. 能力評定の類型をどう位置づけるか

以上の 5 類型についてどのような変遷の経緯を描けるであろうか。

制度の導入された年代からみても、またその導入経緯からみても、石切工にとって親方

作品(類型A) は中世以来のかれら慣習とは異質な制度であり、ほかの手工業の制度を雛

型に、石切工の外部から持ち込まれたと考えるごとができる。その際に、市内の建設活動

の統括やその水準に関心を持つ市当局のイニシアティヴが少なからぬ役割を果たしている。

石切工がこれに抵抗する場合もみられたが、この時期には各地の石切工や石積工の問で不

正就業者の排除が強く意識されており、親方作品は能力評定制度の明確化や当局による公

的な保証という点で、かれらにとっても利するところがあったものと推察される。

この親方作品と平行して進展したのは、だれが職人を親方にすることができるのか、と

いう点に関連する変化であった。親方志望者の技術的能力の評定が、すべての親方に聞か

れるのではなく、特定の親方、すなわち組合首長やその目的のために選出された役付の親

方に限定されるようになるのである(類型D) 。このような変化は、親方作品と同様に新

規の親方の技術的能力について、公的に評定するという形態の萌芽でもある。ミュンヘン

の事例にみる組合集会による評定は方法が不明だが、市当局八の報告義務をともなってお

り、同様に組合と市当局による能力の公的な評定を充足する制度である(類型C) 。

中世以来の石切工の親方地位の取得における能力評定の方法は、それらとは異なるもの

であったと考えられる。しかし 15世紀以前の規約は親方資格についてはわずかしか規定し

ていない場合が多く、中世末までその実体は判明しない。しかしニュルンベルケやウルム

における制度の変遷が示し、また能力評定方法の規定でもっとも年代を遡るザクセンの石

切工規約が示すように、中世末の制度は、複数の保証人が親方志望者の技術的能力を保証

することによって、技術的な面における条件の充足とみなすという形態であったと考えら

れる。この制度を規定する規約の内、ザクセンの規約やチロルの規約は内部的な文書であ

って、当局が制定に関与していない.このことからも、保証人による制度が本来の石切工

や石積工における親方地位の能力評定を反映していると考えられるのである(類型E) 。

なお試問によるものは、今回みいだされた事例に関していえば、試問者の任意性において

保証人的な制度に近いものと思われる(類型B) 。しかしこの制度は親方作品に近い形態

も考えられ、親方作品の一部に組み込まれる場合もある。

保証λ的な制度の実例として、前述のようにマテス・ロリツアーのニュルンベルクにお

ける親方地位の取得をあげることができょう。そこでは父が子をある建設現場の長とする

ことで、同時に属人的にも親方としているのである。ロリツア一家のような著名な工匠家

系の例をそのまま一般化することはできないとしても、親方志望者とその保証人の聞には

密接な人的関係を想定しうるものと思われる。族縁的関係や、その職人が親方家計に属し

ているか否かという就業形態上の関係が、保証人的な制度においては重要な役割を果たす

であろう。従来、中世の石工の親方地位の取得における技術的能力の評定について、親方

作品が石切工や石積工のツンフトの制度であり、いわゆるヒュッテで働く石切工はこの制

度を持っていなかったという区分が通説となっている。ヒュッテの石切工の間では、親方

17

作品に代えてクンストディーナーという特別な徒弟期間が親方地位取得に対して設定され

ていたというのである。しかしこのような通説の類型区分とは異なり、ウルムやニユルン

ベルクにみるように、石切工や石積工のツンフトにおいても早い段階では保証人による制

度がとられていたのであり、親方作品はかなり年代を下ってから、市当局が関与しながら

導入されたのである。したがって、ヒュッテの石切工とツンフトに属する石切工の間で、

能力評定の慣習において原理的に相違があるわけではない。 16世紀にはいると石切工とそ

の関連職種のツンフトにおいて徐々に親方作品が浸透してゆく一方、 15世紀に「石切工兄

弟団」規約において示されたツンフトとヒュッテの聞の一線は次第に解消してゆくという

経緯をたどったのである。

表 l 石切工とその関連職種における早期の親方作品の導入経線 ( 1550年以前)

年代 場所

1507 N�nberg

1514 Regensburg

1543 Stra゚burg

1548 Zurich

1549 Ulm

1550 Mtinchen

職極 導入経緯

St Zm 建築に閲する庖主の苦情が増大した。 m当局はそれまでどの続方も織人を鋭

方にする際に保証することができたのに対して、今後は石切工と大工の手工

業について、それぞれ 2 人の親方にその権限を限定する。かれらによって判

定される続力作品・試験に合絡することを鋭方地位取得の条件とする。行切

工はこの制度の導入に抵抗し、 1516年時点、でも尖1Mされてい心、かった。

St Mr Dk 導入経緯を記さず。 1488年に縦方になる者の必要能力として列記した内容(

評定方法不明)を一部変更して続方作品として要求。笑作の機会がない場合

は僕型でも可とする。これらの先立つ 1467年の規約には能力規定がないため

15世紀中期の制度は不明。

St Mr 市当局が石切り、石績み、屋仮説きの鋭方作品を通事入したが、石tjJ工はこれ

に対してそのような観方作品はかれらの11:1では僅かにしかおこなわれていな

いと言って抗議した. 1543年に市当局は内容を変更してかれらに家作と燃焼

階段の観方作品を定めた.

St 必要な修業をしていない者が親方になって市民に領者を 与えているというぬ

切工の市当局に対する請願を受けて、組合から提出された規方作品に関する

規約を市当局が認可。

Mr 経験のない親方が加入を許され人々に彼害を与えているという石績工の請願

にを受けて、市当局が親方作品を組合に許可。なおこれに先行する 1499年の

規約では、続方志望者の能jj.を組合と市当局に対して 3 人の続方が保証する

ことによる能力評定の制度が規定される。

Mr 1537~ 1550年の規約に1550伺こ親方作品の規定を付記。導入経緯は記さず。

それ以前の 1488年と 1537~1550年の規約は組合集会における能力評定を規定

する。

略号 St: Steinmetz 石切工) / Mr: Maurer (石積工) /

Dk: Decker (鷲工) / Zm: Zilllmermann (大工)

18

「ボンの円環」

ドイツ連邦議事堂の計画をめぐって

太田敬二

1990年10月 3 日、ドイツ民主共和国という国家は消滅し、 「ドイツ」の名を冠する国家

は世界中でただーっとなった。それからおよそ 7 ヵ月後の 6 月末、より広大な国土と人工

と、そして問題をもかかえることになったドイツ連邦共和国の首都をめぐって、いままで

通りボンにとどまるべきか、それともかつてのドイツ帝国の首都ベルリンに戻るべきかを

決定する最終採決が行われた。

この間の経緯をここで操り返す必要はないだろう。すでに雑誌新聞等をつうじて繰り返

し報道されてきたことと思う。結果として首都はベルリンに決定された。しかし実際に首

都として機能しはじめるのはいったいいつのことになるのか、移転の計画さえまだたって

いない。ベルリンに首都が決まってからすでに将来のベルリンを夢見る多くの計画や出版

物が出されたが、ここではむしろ逆方向に、ベルリンに首都が移ったあとポンに取り残さ

れることとなった建築物に目を向けてみたい。ここでいうのは、いうまでもなくドイツ連

邦政府および連邦議会のための建築群である。

ボンに政府が置かれたのが1949年のことであるからこれらの建築物の殆どは戦後のもの

である。 r殆ど」というのはこれらの建築群の中に 1933年に教育アカデミーとして建てら

れ、その後政府機関の建物に転用されたものが含まれているからである。 r含まれる J と

いうよりも、戦後の新政府はこのパウハウス風の近代建築を仮の住まいとしてスタートし

たのであるから、むしろこれが現在の建築群の「核J をなしているというべきかも知れな

い。この建物はその後の改築や増築を経てはたしてどこに戦前の部分が残されているのか

一瞥では見分けがつかないような状態となっている。 1949年から幾度かに分けて建築家シ

ュウィッパート(Jの設計にもとづいた改築工事がおこなわれた(図 1 )。おのおのの工事

期間は短いもので、完成した建築も写真を見る限り装飾のない、きわめて簡素なものとい

う印象をうける。議場は南北の壁が全面ガラスとなった開放的な空間で、戦後ドイツ民主

主義の象徴としてその後40年近くにわたり連邦議会政治の中心舞台となってきた。しかし

1987年には議事堂新築の計画が浮上し、修復保存か改築か、あるいは新築取り壊しかをめ

. 、

.!:'.-

一一­b ・..・ )~~1印、r.t: ~.'''' 処ベ ヘ ,

19

〈コ図 l

ぐって活発な議論が展開される <2。結局この旧議事堂はごく一部を残して取り壊されるこ

ととなり、現在新しい議事堂の建設工事がすすめられている。

建設中とはいってももうすでに躯体は完成し、あとは内装を残すのみとなっていた新議

事堂は1991年内の完成を予定していた(図2,図3)0 6 月の首都決定で工事のその後の行方

がどうなったか、筆者はまだ聞いていないが、いずれにせよこの建物がその本来予定され

ていた用途に用いられることはもうない。この増築はベーニッシュ&パートナー

(Behnisch & Partner) の設計になるが、日本ではこの名前は案外知られていないかもし

れない。ミュンへンのオリンピック・センター<1967-1972) を設計した建築家であるとい

えば一番とおりがよいだろう。オリンピック・センターはなにかフライ・オットーの 「作

品」であるという見方が一般化しているようだが、この建築の創出にあたっての両者の役

割を正確に分けて考えるのは実際難しいと思われる。ともあれ、この作品がドイツ国内で

のベーニッシュ&パートナーの名を一躍高めたことは確かであり、ボンの計画もミュンへ

ン・オリンピックに引き続いて着手されることになる。

1974年9 月のドイチェ・パウツァイトゥンクに掲載されたボンの計画図面を見ると、現

在工事中のものよりもはるかに大規模なもので、議事堂を含めて現在のものとはかなり様

相が異なっている(図4)。当初の計画が20年にわたる好余曲折をへて今日の形を整えるよ

うになるまでの経緯については、ドイツ連邦共和国の暫定的な首都としての微妙な位置づ

けや、ファシズム以降あるべき国家的建造物のイメージなどさまざまな問題が複雑に絡ん

でくるのだが、それらの詳細を語るにはまた稿を改めねばなるまい。

「ボンの円環 (Bonner Runde)J と呼ばれるように、この会議場の大きな特徴となってい

るのは中央議長席のまわりに円形に配置された議員席である。このような配置は実はすで

に 1949年の改築時に建築家シュウィッパートによって提案されていた。これは当時実現す

ることなく、実施されたのは扇形の議員席をもっ議場であった。ちなみに戦後建てられた

有名な議事堂、シャンディガール、ブラジリア、ダッカの各議事堂では、議場の空間はい

ずれも円形となっているが、議員席は完全な円形には配置されていない。

しかしこの円形議事堂はベーニッシュ&パートナーの他の作品とくらべると、むしろ単

純な幾何学形態の使用の仕方がどこか硬直した印象を与えるものとなっている。ベーニッ

20

寸図 2

V図 3

シュ自身、この形態をとった理由として講義を聴くような場ではなく、議論を行う場を形

成したかったことをあげ、とくに円形が直接に「民主主義」を象徴すると考えているわけ

ではないことを強調している。。

この 「民主主義」の建築というのはベーニッシュ&パートナーを形容するのによく使わ

れることばのひとつである。この形容は二重の意味で使われているようである。ひとつは

「パートナー J の命名にすでに示唆されている設計集団としての運営形態について、もう

ひとつはかれらのつくる建築そのものの開放性、柔軟性、部分と全体との関係性といった

特質に対して。前者についてはともかくとして、後者のように、ある建築物をある政治体

制に直結させるような形容には疑問を持たれる人も多いだろう。ここでその是非を論じる

ことはしないが、たとえばランプニャーニが、特定の政治体制を表現する特定の建築形態

というものは存在しないのだ、と改めて主張しなけれはならないような建築的環境が現実

にあるということは強調しておきたいへとくに戦後ドイツの建築家のおかれた立場を考

えるとき、こうした形容が現実に持つ社会的影響力には無視できないものがある。ここで

改めて述べるまでもなく、ナチズムのもとで建築がおおきな役割を果たしたという事実は、

ナチズムと直接的な関わりを持ってしまった建築家個人の倫理的責任を越えて、社会にお

ける建築の役割そのものをいまなお問い続けなければならないという、ある種の倫理的義

務感としてこんにちに残されている。例えば彼らの代表作とされるミュンへンのオリンピ

ック・センターにしても、ナチ政権下で催された 1936年ベルリン・オリンピックに対して、

その過去のイメージを刷新するにたる新しいドイツを、あるいはその向かうべき方向性を

他国に印象づけるような斬新な建築表現がそこに期待されていたことは明らかである。

「民主主義的」建築とは実はベーニッシュ自身のことばでもあるのだが、しかしここで

ベーニッシュが言うのは民主主義社会における設計活動のありかたであり、建築形態はあ

くまでその結果としてあらわれるにすぎない。シャロウンやへーリンクの名をあげるまで

もなく、こうした理念は近代運動以来、ドイツ建築のひとつの正統をなしているといえよ

う。そしてそのことは、ベーニッシュ&パートナーがすでにふたつの国家的規模の建築を

手掛けていることとも無関係ではないと思われる。

しかしこのような建築的背景は1970年代から活発化する景観保存問題や歴史主義の復興、

わきでる近代主義批判によってにわかに表面に浮上してきた。ことに 1977年のシュトット

ガルト国立美術館新館の設計競技におけるスターリング案と、ベーニッシュ&パートナー

案とをめぐる議論は、新たな建築界の構図を一般に印象づけることとなった。しかしそダ

ン/ポスト・モダンというこ構図のもとに、議論が建築の形態をめぐってのみなされること

は、当のベーニッシュ側の理念からいっても公正を欠くことになろうし、また逆に戦後ド

イツの建築界が歩んできた歴史的背景、その背後にかくされながらすでに、そしていまも

なされつつある歴史的選択の再検討なしに一方的にポスト・モダン=歴史主義再興の熔印

を押すこともまた不当といわざるをえないだろう。

もし建築が社会や政治に限らず、元来あらゆる事象を巻き込んでゆくものなのだとすれ

ば、そのことに無自覚なままなされる議論は、実は建築のもっとも本質的な問題をとりこ

ぼしていることにさえなろう。少し話がひろがりすぎたかも知れないが、ここでとりあげ

たボンの議事堂計画にも、モダン/ポスト・モダンといった対立構図の背後に隠された建

築の本質的な問題への入り口が用意されているように思われるのだ。

21

自土

1) Hans Schwippert (1899 唱 1973)。ダノレムシュタッ卜、シュトットカ♂ルトの工科大学で学

び、卒業後エーリッヒ・メンデルゾーンの事務所で働く。ルドルフ・シュヴァルツとも

共働。アーへン工科大学教授、デュッセルドルフ・アカデミー学長。シュウィッパート

の設計になるボンの旧連邦議事堂は「世界の現代建築 5、ドイツ篇 J (猪野勇一他編)

1953に紹介されている。

2) Deutsche Bauzeitung 1987.09.pp92- 93にこの採決をめぐる討論の議事録が一部掲載さ

れている。その他 CONRADI , Peter "Bonner Runde" in: Deutsche Bauzeitung 1989.

08.pp22-24

3) 1990 "G�ter Behnisch im Gespr臘h mit Klaus-Dieter Weiss" in: Werk , Bauen十

Wohnen 1990.09.pp2-11

4) 1978 LA門PGNAN I, V. 門. "Auf dem Weg zu einer faschistischen Architektur?'¥1980

同 "可Di同e 0山is比kα仙u凶1βssion um die C印h山川i r川川『町mare

D臥ul門司1ont , Kり ln , 1986に収録

なおベーニッシュ&パートナーについては at u 1990 年 5 月号で特集が組まれているので

参照されたい。

図 4[>

22

マレーシアの住宅建築マレーシアの民家園 ミニ・マレ シア

成田剛

( 1 )はじめに

お隣りの国でありながら今まで:訪れる機会のなかったマレーシアにやっとこさ行ってき

た。建築見学というより、マレーシアという国がどんなところかを知りたいがための旅行

であったのだが、マラッカで立ち寄ったミニ・マレーシアで見た、マレーシアの伝統的住

宅建築にちょこつと興味を引かれたので、せっかくだからここに紹介することとしよう。

(2) マレーシアの民家園 ミニ・マレーシア

ミニ・マレーシアはマラッカ郊外にあって、マレーシア 13州それぞれの伝統的住宅建築

を実物で見せてくれる、いわゆるマレーシア版民家園である。驚いたことに(いや、あた

りまえか)ガイドブックはもちろんノぐンフレットすらなかったため、スケッチ以外にひと

つひとつ自分で説明書きを書き写すという面倒な作業を要求されてしまった。以下は、英

文による説明書きの直訳。

1.プルリス州の長屋根住宅1 プルリスの伝統的マレーシア住宅はプルリス長屋根

住宅として知られ、 70年以上年代は湖る。このタイプの住宅は徐々に消滅しつつある。プ

ルリス長屋根住宅は多数の束、つまり杭から成っており、 Rumah Ibu (住宅主体部)はし

ば‘しば24本以上の東上に立っている。それは引き延ばされた形態2 と、端に "tabir

layer" (妻壁)を有した横屋根3 を持つ。プルリス長屋根住宅は Ccngal と Damar Laut

の木で造られている。その壁は "pelupuh yang berkclarai" (縞柄に織り込んだ平たくし

た竹片)で造られている。その屋根葺き材は Rumbia(sago) あるいは Nipah榔子、そして

しばしば Senggora タイルによる。建物は "rumah ibu" と "dapur" (台所)で構成される。

住宅主体部は、 "ruang lepar" つまり "serambi" (ベランダ)、市ilik" (個室)、

"r凶ng tengah" (中央部)と "r凶ng tamn" (客間)から成る。 "rumah dapur" (台所)は、

仕切壁ではなく "ruang selang" と呼ばれる通廊のみによって分けられている。

2. ぺナン州の長屋根住宅 ペナンにおいては、 Rumah Bumbung Panjang (長屋根住

宅)、 Rumah Serambi 、そして Rumah Sermbi Gajah Menyusu とし、ったようないくつかの

異なる形式の伝統的マレーシア住宅が見つかっている。 "serambi" はベランダを意味し、

"gajah menyusu" は子に乳を飲ませる象を意味する。これら様々な伝統的住宅は徐々に消

滅しつつある。後者は、 "rumah ibu" の屋根が"serambi" の屋根より高いというその屋根

の形状で認知される。この特殊な建物は子に乳を飲ませる象に似ている。建築は "tabir

layer"を端に有した長い横屋根による。建物全体は "rumah ibu" と "dapur" から成る。住

宅は ruang rumah tangga" (なerambi" の前に位置した延長されたベランダ)、 ruang

tengah" 、 "ruang serambi dalam" (内ベランダ)、 "ruang gajah menyusu" 、そして、

"dapur" に分割される。住宅建造に使用されている材料は Cengal と Meranti材で、屋根

葺き材は Rumbia(sago) 榔子である。

3. クダー州の長屋根住宅 クダー長屋根住宅の形態は、住宅の様々な区画の配置を

23

除き、プルリス長屋根住宅のそれにほとんど類似している。クダ一長屋恨住宅は延長され

て、 "tabir layer" を端に有した長い横屋根を有する。 "bumbung dapur" (台所の墨根)

は"rumah ibu" のそれよりも低く、建物全体はほとんど子に乳を飲ませる象のように見え

る。クダ一長屋根住宅は何本もの束、つまり杭の上に建っており、 "rumah ibu" のそれは

20本以上である。使用されている材料は Cengal 、 Yeranti そして Damar Laut 材、そし

て竹で、屋根葺き材は Rumbia(sago) と Nipah榔子、そして Senggora タイルである。そ

の壁は "pelupuh yang berkelarai"で造られている。クダ一長屋根住宅はいくつかの区画、

つまり前方に位置する ruang lepar" 、 ruang rumah tangga" 、 "ruang tengah¥se-

rambi sama naik" (内ベランダ)、 "bilik" そして "dapur" は後方に位置する。

4. ペラ州の長屋根住宅 ペラの伝統的マレーシア住宅は Rumah Kutai ( kutaiは古

いという意味)と呼ばれる。これらの住宅はぺラ河沿い、つまり中部地区、下ペラとクア

ラ・カンサーにのみ位置している。 Rumah Kutai は "pelupuh yang berkelarai"で造られ

た"tabir layer" を有した延長された屋根を持つ。 "tabir layer" の基部は主として倉庫

として使用される"alang para buang" (屋根裏部屋)となっている。 Rumah Kutai の主体

部は 12あるいは 16本の東を有する。それはあ "scrambi" 、 "ruang tamu" (居間)、そして

" bilik" から成る。背後には、 ruang sclang" と呼ばれる屋根のない通路によって分けら

れた "rumah dapur"がある。使用されている材料は木と竹である。木は束と小屋組に用い

られ、一方、壁は竹で造られている。屋根葺き材は Rumbia(sago) 榔子である。

5. スランコール州の長屋根住宅 スランゴールのいくつかの"kampungs" (村)では

60年以上も経った伝統的マレーシア住宅がいまだに認められる。これらの住宅は、歴史的

繋がり上、マラッカとヌグリ・スンビランのそれらとたいへん似ている。スランゴールの

伝統的マレーシア住宅は三つの部分から成り立っている。つまり、 "rumah ibu" 、 "rumah

te昭ah" 、 "rumah dapur" である。 "rumah ibu" は ruang serambi¥"anjung" (前室)、

そして" bilik" から構成される。 "rumah tcngah" は"ruang rumah tangga\"bilik" 、そ

して"rumah ibu" と "dapur" をつなぐ"ruang tengah"から成る。この種の住宅はまた、屋

根が長く真っ直ぐで平行な棟から成り、屋根の端が 2段重ねの木で造られた "tabir

layer" となっている長屋根住宅としても知られる。住宅主体部は 12本の主束、つまり 6本

の高束と"serambi" のための 6本の短東の上に建っている。使用されている木は Cengal 、

G iam、 Damar Laut、 Yeranti 、 Kapur 、そしてKempasで、一方屋根葺き材はRumbia(sago)

あるいは Nipah榔子で:ある。

6. ヌグリ・スンビラン州の長屋根住宅 ヌグリ・スンビランで認められる伝統的マ

レ ーシT住宅はスマトラのミナンカ/くウに認められるものに非常に類似している。それら

は横長で、屋根の両端には上向きアーチとなった"tabir layer" がある。建物は、 "rumah

ibu" 、 ruang tengah" 、そして"dapur"から成る。 "rumah jbu" は "serambi" と "an­

J ung" から成る。 ruang tengah"は小さな居間と個室から成る。ヌグリ・スンビラン長屋

根住宅は、少女のための寝室、あるいは倉庫として使用される "peran" (屋根裏部屋)を

持つ。

7 . マラッカ州の長屋根住宅 マラッカでは、伝統的マレーシア住宅はRumah Yelayu

Welaka、つまりマラッカ・マレーシア住宅と呼ばれる。今日においてもマラッカ全域にお

いて認められる。それは主として、その石と中国とインドから輸入された多色タイル張り

24

による階段によって認識される。その元々の形態においては、マラッカ長屋根住宅の ru­

mah ibu" は 12あるいは 16本の主東上に建つ。建物は、 "rumah ibu" 、 ruang tengah" 、そ

して "dapur"から成る。 "rumah ibu" は" serambi"から成っており、しばしばそれへ導く

階段を有した "anjung" が付け加えられる。 ruang tengah" には部屋があり、 "rumah

ibu" と "dapur" は" selang" と呼ば、れる通路によって分かれている。 ruang tengah" には、

特に結婚式が行われる際には女d性のための寝室、そしてまた物置空間として使用される

"peran" (屋根裏部屋)がある。マラッカ長屋根住宅は、通常 Cengal 、 Meranti そして

Damar Lautで建造される。

8. ジョホール州の五屋根住宅4 ジョホールにおける伝統的マレーシア住宅 Rumah

Limas Bugis 、つまりブギス五屋根住宅は、屋根の四端に突出する 4本の "perabung"

(短棟)につながる "perabung panjang" (長棟屋根)によって認識される。屋根面のすぐ

下の屡根の縁は、彫り物で場市される。この種の住宅はポンティアン地区で見受けられる。

この住宅の主要な特徴とは、主棟それぞれの端が直立した鋭い木製突起物になっているこ

とである。ジョホールの伝統的マレーシア住宅は、 "anjung" に接続した"serambi" を持つ。

"serambi" は "rumah ibu" と壁によって分けられている。 "rumah ibu" と "rumah dapur"

は" sclang" 、あるいはなelasar" と呼ばれる通路によって分けられている。使用されて

いる材料は、 Ccngal 、 Keranji 、 Pcnak 、そしてIleranti を含む。

9 . クランタンナト|の長屋担住宅 クランタンには 2種類の伝統的マレーシア住宅があ

る。それらは、 Rumah Bujang (単住宅5 )と Rumah Tiang Dua Bclas (12東住宅6 )であ

る。 Rumah Tiang Dua Belasは、コタ・パルはもちろん多くの村々で見受けられ、およそ

100 年湖る。とはいえ、その数は次第に減少しつつある。この独特な伝統的住宅は"rumah

ibu" のための 12本の主東と 6 本の長束から成る。それは、 "tabir layar" に papan pemeュ

leh"つまり "tumpukasau" (雨除け板)が固定された長い屋根を持つ。壁は彫刻で装飾され

た木製ノ fネルによる。元来の形態の Rumah Tiang Dua Belasは 3 つの主要部分、つまり、

"selasar" を有した"rumah ibu" 、 "rumah tcngah"、そして"rumah dapur" から成る。

ruang tengah" と" dapur" は個室に再分されていない。

10. トレンガヌ州の五屋根住宅 トレンガヌではいくつかの種の伝統的マレーシア住

宅が発見されている。それらのうちのひとつがブスッ地区で発見された Rumah Limas Buュ

ngkus である。それはトレンガヌのマレ一人では20世紀になって以来一般的であった。不

幸なことに今日見つけられるものは無く、今日存在するものはわずかに40、 50年湖るだけ

である。それは簡単に見分けることができる。屋根は、その四階に突き出る 4本の短かい

棟を持った"perabung rurus" (直線大棟)から成る。屋根面のすぐ下の縁は木製彫り物で

装飾されている。この独特な住宅はいくつかの形態を有する。あるものは長方形で、ある

ものは正方形である。それは、"anjung" 、 "serambi" 、 ruang tengah\ そして"rumah

dapur"から成る。それらは主としてCengal、Ileranti 、あるいはKapur 材によって建てら

れている。屋根はタイから輸入された Senggora 瓦によるが、地元で造られたものもある。

1 1.パハン州の長屋根住宅 ノむ\ンの伝統的マレーシア住宅はRumah Serambi Pahang

と呼ばれる。この独特な形式は徐々に消滅しつつある。しかし、いくつかの村においては

いまだ見ることが可能で、 100 年近く湖る。 Rumah Serambi Pahang は、 "tabir layar"

が彫り物で縁取られた長い屋根を有する。それは、 "rumah ibu" と "dapur" から成り、そ

25

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26

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図 2 マラッカの典型的住宅

の間は "selang" と呼ばれる通路になっている。それはまた、いくつかの他の部分を含ん

でいる。正面は守uang serambi" となっており、他の 2 つの部分、 "pentas" (高くなった

壇)と "perbalai" (居間)を含む"rumah ibu" へと続く。背面には "ruang serambi be-

lakang" つまり "ruang kelek anak" (ベランダ)がある。守umah dapur" は、各々待合室

として ruang penanggah" (主台所空間)と調理のための"pelantar" (踊り場)で構成さ

れる。

12. サノザI~ トゥアランの Lotud Dusun伝統的住宅 この独特な Lotud Dusun伝統的住

宅は、トゥアラン地区で発見された。この独特な民族集団は、いまだ極めて特異な文化を

保持する小さな Dusan/Kadazan族のひとつである。 Dusan/Kadazan 民族集団はサパの最も

大きな民族集団である。 Lotud 住宅の建造の際に使用される材料は主として、マングロー

プ、竹、 Nipah榔子、そして態といった森の産物である。住宅は通常、村の共同体全員を

共なって "gotong royong" に建造される。建物はたいへん買味深いものである。総べての

祭儀が住宅内で行えるよう創造されており、とんな儀礼も住宅の外部で行う必要はない。

住宅の特徴は、使用されている材料、そしてベランダ (soliu )、洗濯場 (pantaran) 、

食堂 (soriba) 、寝室 (kawas )、そして屋根裏部屋 (iilud )といった 5 つの異なる措

成単位の配置によって視覚化される。

13. サラワク州の Iban 長屋住宅7 長屋住宅は Iban 族の伝統的住宅であり、し 1 く

つかの単室住宅の並列より成り立つ。これら住宅は、安全性と文化の観点からユニークな

ものである。建築は、外部からの影響を受けない民族集団の地域的伝統によって定まって

いる。長屋住宅の東は、簡単には腐朽しない地元の硬木である。屋根面は、青 Rumbia と

し 1 ったような Rumbia(sago) 榔子、 Pantu やMulong、そして厚い葉を持つ他の木々によっ

て葺かれる。長屋住宅の壁は、 Tercngtangといった樹皮、あるいは割竹による。床面は、

竹、厚板、あるいは樹皮による。 "tangga" (梯子)は斧によって切り目を付けた丸太によっ

て作られる。長屋住宅は、 "tanju" つまり "serambi\ruai"つまり ruang tcrbuka"

(居間)、そして"bilik" という 3つの部分から構成される。 "ruai" と "bilik" の上には、

睡眠、あるいは穀物と備品を保管するために使用される"sadau"つまり "peran" がある。

(3 )ミニ・マレーシアのマレーシア伝統的住宅建築

説明書きと実物がどうも合わないような点もいくつかあるし、そもそも州別という形で

住宅形式の選別を行うという方法に疑問を感じてしまう。ひとつの州で:複数の住宅形式を

持っていてもおかしくはないし、複数の州にまたがって存在するものもあるであろう。何

を基準に選出したのかわからないが、ここではそれは置いておくこととしよう。とにかく、

明らかにその特徴を異とする東マレーシア(ボルネオ島) 2 州(サノ〈州、サラワク州)、

及びヌグリ・スンビラン州の住宅は除いて、ここでは西マレーシア 10州の住宅に注目し、

特にその屋根の形態について少し触れておこう。

10州の住宅を、屡根の形態で大別すると、切妻形式、寄せ棟形式、入母屋形式の 3種と

見ることができる。切妻形式と入母屋形式のものには、さらに腰折れ式と通常のものの 2

種がある。但し、これら住宅の多くは "rumah ibu" と "rumah dapur" 、場合によっては"

rumah tengah" や "anjung" までもが個々の上屋を有するため、単純に分類することは難しし」

27

"rumah ibu" " rumah tengah" " rumah dapur " " anJung "

プルリス 入母屋腰折れ 切妻

ペナン 切妻腰折れ 切妻

クダー 入母屋腰折れ 切妻

ペラ 切妻腰折れ 切妻

スランゴール 切妻腰折れ 切妻 切妻腰折れ 切妻

マラッカ 切妻腰折れ 切妻腰折れ 切妻

ジ ョホール 入母屋 入母屋 入母屋

クランタン 切妻腰折れ 切妻 切妻腰折れ

トレン方、ヌ 寄せ棟

ノ \/\ノ 切妻腰折れ 切妻

さらに方流れの庇が付された例も見受けられるし、腰折れ屋根の下段部分がなcrambi"

を覆うために延長された庇と考えられる例も存在する。

屋根の形状だけではマレーシアの伝統的住宅建築というものを特徴付けることはできな

いのであるが、タイの伝統的住宅建築、特に中部のそれと比較して気づく点は、タイの場

合、そのまま破風にも表れる柔らかい曲線を描く屋根の反りがひとつの大きな特徴である

のに対し、マレーシアの場合、屋根は直線を描き、全く反りが認められないことである o

従って、小屋組もタイのように梁と東を交互に何段も積み上げるという方法はとらず、梁

中央に棟木を支える東 1 本だけを立てるといった至極単純な構法が採用されている例が多

いようである。

( 4 ) おわりに

マレ ー シアの伝統的住宅は、 "rumah ibu" 、 "rumah tengah" 、 "rumah dapur" 、そして

~ scrambi" などが、その床レベルを微妙に変えて配されている。時間の都合上、ミニ・マ

レ ーシアでそれに関し詳しく観察できなかったのは残念であった。とはいえ、マレ ー シア

の住宅建築については "The l.Ialay House" (Lim Jee Yuan, 1987) を始めとするよい研究

書が出ているので、興味がある人には一読をおすすめしたい。しかし、それによればマレ

ーシア東剖L 特にクランタン州、トレンガヌ州ではタイから影響を受けた屋根に反りを持っ

た住宅形式が一般的であるとあり、少々困惑してしまった。ミニ・マレーシアでタイ式住

宅が見られなかったのが、マレー シアとタイという民族、宗教を異とする 2国閣のあまり

主好とはいえない間柄による・・・ ・、というのは自分の考え過ぎと思いたわ。

言之

三 1 :原文 "long roofed house"

さ 3 原文 "horizontal roof"

註 2: 原文 "an elongated shape"

註 4: 原文 "five-roofed house"

三 5 ; 原文 "single house" 註 6: 原文 "twelve post house"

三 '7 原文 "long house"

三 8 : ここでは取り上げなかったヌグリ・スンビラン州の住宅だけは、大棟両端が反り上

がった曲線を描いている。

28

イ士ロヨ雪 (~)

白井裕泰

1 .はじめに

『匠家仕口雛形 ~ (甲良若狭棟利、享保 13年)によって、木材の接合法を 「 仕口 」 とい

うことが明らかにできた。そして仕口には、大別すれば組手と継手があり、さらに組手に

は組立と渡し掛けがあり、継手にはいわゆる継手と矧ぎがあり、また組手と継手の中間的

性格をもつものとして、 「組継手 J (留、指口)があると考えることができそうである。

この考え方を仕口の概念図として整理すれば、以下のようである。

組立 l つの材に他の異種材を差し込む T 字形接合|組手 渡し掛け l つの材に他の異種材を渡し掛ける 十字形接合|

仕口 組継手 留 2 つの同種材を直角に組む L 字形接合. 継手 継手 2 つの同母材を直線的に継ぐ I 字形接合

i'ìl ぎ 2 つの同種材を而的に継ぐ 口字形接合

2 .近世建築における仕口の使用例

仕口は、近世建築において、どのように使用されていたのであろうか。実際に解体修理

された寺院・神社・住宅建築の例を取り上げて、その実態を見てみることにする(表 A ・

B . C 参照)。

(八)または( ß) と( C )に共通する仕口を取り上げてみると以下のようである。

村部:柱 ;柄、両柄 (A • C に共通な組手仕口、 B は柄のみ)

貫 ; m~ 鎌継( A ・ C に共通な継手仕口、 B は継手なし〉

造作:敷居 ;横目違 (A ・ B ・ C に共通な組手仕口)

鴨居 ;胴突 (A ・ B ・ C に共通な組手仕口

長押 ;襟留( B ・ C に共通な組手仕口、 A は雛留)

床板 ;突付 (A ・ B • C に共通な組継手仕口)

梁組:小屋梁 ;渡胞 (A ・ B ・ C に共通な組継手仕口〉

鎌継 (A ・ C に共通な継手仕口、 B は継手なじ〉

また( C) に見られない部材の仕口を取り上げれば以下のようである。

軸部:頭貫 ;落鴎 (A ß に共通な組手仕口、 B のみ相欠)

台輪 ;台輪留(八の組手仕ロ)、箱目違竿車知継 (A の継手仕口〉

海老虹梁;腰掛蛾( B の組手仕ロ)

蹴放 ;竪目 j主殺継( ß の継手仕口)

組物:斗・肘木・蛙股;太柄 (A B に共通な組手仕口)

縁 :縁程・地覆・平桁・架木;箱目違竿車知継 (A の継手仕口)

地覆 ;八つ中留( ß の組継手仕口)

29

(AJ 寺院í.l! 3甚 ・ 天軍寺山門(東京~i't海市、宝層 9 年)

区分 純手 組継手 調書手 備考

紬隠 4主 両柄、柄

寅 略鎌継

U�;f 落皇a

台愉 台倫留 箱目 i盆掌車知継

組物 斗・肘木 太柄

縫股 太柄

通.tt 木 盟企画鎌継

床組 土居桁 !i柄、相欠 金僧継

大引 落 tl

隅又首 相欠

遺作 床俵 突付

lJt放 目よ畠 聖目.i3殺継

盟主居 償目iI

鴨居 胴突

長仰 t軍愉目iI、鎗柄 園陸留 (QtlJ

段級 tl 柄,

慢 目iI

壁天井板 樋骨4 倉旬|

録 縁厄 竪柄 箱目途ヰ~ J在知継

I也沼 同 、容量a 同

平桁 同 問

然木 小彼!ti 同、

高綱H: i置し納

たたら東 tl 柄

斗東 平柄

縁葛 実留

軒 丸桁 捻組、相欠

木負 鎌継

茅負 大留 半嶋掌車知 t健

布)(甲 実留 芋継

隅木 平柄、相欠

泉純 土居桁 渡腹、杓子柄 金愉自主

牛買E 苦F 鎗

耳Z 平柄、鎗柄

小屋梁 渡E思 鎌継 戸

はね木 杓子柄

小屋 小屋東 平柄、 童書納

組 母屋桁 相欠 鎌車健

t車木 S草継

Jf垂木 設車健

妻 B市 破風 4証 実留、姻 tl

懸à 目遣

iC 買2 太柄

太源東 柄、太柄

笈形 目iI

30

( ß) 沖 f土建築:武線御滋神社(東京 1'IH't t聾市、慶長 II 年創述、元後 13年修理)

区分 組手 組継手 継手 骨E 考

紬音E 住 柄

貫 小侵柄

頭貫 落泊、 4目欠

木~ 掌.知引独鈷継

海老紅型E tI柄、 腹自争直轟

組物 斗・肘木 丸通し柄

蛙股 太柄

床組 大ヲ| 欠込

透作 床~ 突付

無目敷居 大入れ

無目鶴居 胴突

長押 t草'曲目途 大留

方立 曲折目jfJ;

~納,

篇目途竿車知継

壁板 実 ~I

天井自民 I'd$倉 ~I

録 縁 ;巨 術、初欠

隅又首 中日欠

縁葛 相欠、 皇畠柄

自量級 突付

地 11 八つ中留

平桁 柄

禦木 指欠 設継

高畑柱 柄

'f 丸桁 t温柄

本負 曲折目iI柄 目通継

茅負 鎗柄 半・骨量車線

布!I甲 大留 目 ii継

濃紺 牛買E 寄生轟

はね木 相欠

小屋 E車 3巨 平柄、信柄

組 母屋桁 鎌継

棟木 鎌継

Jf垂木 設調2

奏飾 破風~ 実留、畑鎗

懸魚 !'.I ii 柄.

.紅緊 太柄

太J!á東 二~柄

笈 1移 目 ill

31

(C) 住宅注築 ・ 旧下回家住宅(東京認西多摩郡羽村町 、 弘化 4 年)

区分 F且手 組織手 継手 備」雪

柑宮E 土台 f!l欠 金姶継

住 柄、両fl'Il 金姶継{後補)

買 略 a継

上陸・ 柄、大入れ

-差鴨居

床組 大づ| 伊f

造作 床 t反 突付

敷居 横・竪雇目途

鳴居 胴突

長w t震 f曲目i; t軍鎗留

天井阪 天井刃

軒 事F 桁 IllJll 2車線

策制l 中引決・ 柄、渡腺 , a継

敷梁

ttm 柄、渡 JW

1再ヨミ 柄、 息遣柄

上島桁 鎌 2淀

小屋 叉首 扇柄

*Jl 慮中・ 盆ね縦

t草木

子 :木負 ;芋継( A の継手仕口)、目違継( B の継手仕ロ)

茅負 ;半島侍竿車交日継 (A の継手仕口)、半勝鎌継( B の継手仕口)

裏甲 ;芋継・実留 (A の仕口)、目違継・大留( B の仕口)

: 三組:小屋東;寄蛾 (A B に共通な組手仕口)

妻日 :破風仮 ; t国賊・実留

3 . 仕口の性格

こ の ようにみてくると、社寺建築にあって住宅にない仕口は、組物・縁・軒・妻飾まわ

J の 仕 口であって、逆にこれらの要素が社寺建築の様式を形成しているともいえる。また

、 三 組 は、社寺建築が和小屋、住宅建築(民家)が文首組であり、両者の構造形式が異な

で て い るため、そこに使用される仕口に相違が見られるのは当然であろう。このことは一

ι ・て を 意味しているのであろうか。この違いは堂宮大工と屋大工の仕口に関する情報量

7 議) の違いであり、木材を取り扱う組立技術の違いであるといえよう。

送手 lま部材を延長したり、修理したりするための技術であるから、建築の規模が小さけ

ごまっ たく継手を使用することがない場合も起こりえる。したがって、木組の基本は組

三 二あ る といっても過言ではない。日本建築は様々な部材から構成されているが、部材相

吉 を担 み立てて行くのが組手技術であり、それこそ釘 l 本も使わない仕事の妙がここに隠

さ rて て い る 。 そしてこの絶妙な組手によって構造的強度が保証されるのである。さらに建

さつ三 !立 を拡大するときに、材木の切り出し長さに一定の規格があるため、どうしても継

32

手技術が必要となるのである。

すなわち、日本建築の設計・施工において、組手・継手の仕口に関する技術は欠くこと

のできない要件であり、この技術を充分に習得しているかどうかが堂宮大工の資質として

大きく問われるのである D

ところで、仕口の原形・基本形をあげれば以下のようになる。

原形 基本形

,

突付け 殺ぎ 垂木などを継ぐときに用いる。

留め 土台・台輪・長押・茅負・破風などに用いる。

欠込み 大入れ 住に梁を柄差する場合、梁の荷重を柄だけに負担さぜな

いように大入れとする。

{士口 差込み 住に梁、桁に柱を柄差する。柄が抜けないようにするには

住・梁の場合鼻栓・込栓、桁・柱の場合割り模とする。

貫入れ 柱に貫を通す。貫を住に固定するには棋締めする。さらに

強固にするには柱に貰を聴掛けし、模締めする。

輪薙込み 住に頭貰を組む場合、輪薙込みか落蟻とする。

相欠き 腰掛け 部材を継ぐとき、柄・竿に荷重をかけないために用いる。

鎌掛け 差込んだ柄が抜けないように用いる。

胞掛け 桁や梁に梁を渡し掛けるとき、ずれないように用いる。

また仕口は大きくいって 2 つの性格をもっている。 l つは構造材の接合強度を増大する

こと(蛾・目違・胞掛け・車知・栓)、他の 1 つは化粧材の見え掛かりをよくすること

(大入れ・腰掛け)である。ここでいう仕口による接合強度の増大とは、部材に働く引張

りと捻れに対してどのように対処するかということである。

1. おわりに

伝統工法による木造建築を造るためには、大工として、少なくとも大入れ・柄差・寄蛾

・鼻栓(または込栓)・渡腿・略鎌継・鎌継・金輪継だけは体得しなければならない。こ

れだけの仕口を知っていれば、 100 年もつ住宅ができる事は間違いないであろう。そし

て何よりも、それらの仕口を学ぶことを通して、木造における納まり(ディテール)のも

つ美意識を学ぶことになり、木造に対する感性が養われることになる口

したがって、仕口は構造的接合だけではなく、木と人を結ぶ粋となり、そのことで本来

の役割を果たすことになるのだといえよう。手の技術の精華が建築に込められてはじめて、

そのものに生命を付与することができるのである。

33

市……虹…

二一一 一

組手 組継手.継手

仕口の概念図

\\~ -.

一一一一

巴・ー・

---•• -

一・

1

・・

il

--kr.

園周

.、.

【一〉膏

一引…… 組継手

34

建築史から見た体育施設 (2)

堀異人

前稿では、コロッセオを中心とする古代のスポーツ施設について述べた。本稿では日本

を中心に現代までを概観したい。

3. 近代日本の曙光

前提

近代建築は 18世紀の啓蒙主義をはじめとする認識論的転換とその後の産業革命による構

造、材料、生産技術の飛躍的な展開によって準備されたものである。 軽やかな鉄骨やコン

クリートシェル構造による大空間建築は、駅舎や博覧会場、工場といった新しいタイプの

建築とともに、大規模なスポーツ建築物をあ生み出すに至った。ここで賦与された技術は、

全く新しいスケールを可能とするものではあったが、それはクラシカルな規範やスケール

にからめとられたり刷、新しい技術の内部に自然消滅してしまったりして、表現としては

なかなか自立しにくいものであったといえよう。

日本の近代は、これら全てを外からの異物として摂取することから始まるのである。明

治的苦悩の温厚なノスタルジーから出発してみたい。

明治の木造体育館

いつの頃からか木造の学校講堂を見なくなって久しい。がらんとした木造による空間に

は暖昧でノスタルジックな空気があったが、それもいつの間にか、膿ろげな記憶と共に消

え去っていく。雨天の時などに、この「講堂J の中で体育をされた記憶をお持ちの方もあ

るかもしれない。油の染み込んだ黒々とした木の床での、居心地の悪さと申し訳なさとが、

薄々と思い起こされる。この不思議な感覚は、木造の講堂が伝来の武道場の精神性につな

がるようなものを留めていることを喚起するのだ。

我国の学校体育館は、明治 3 0 年代に f講堂兼屋肉体操場」なるプロトタイプを成立せ

しめ、以後は専用体育館へと分化、発展していく歴史を辿る制。しかしこのプロトタイプ

の影響力はかな広大きく、体育館のー壁面にプロセニアムを切り、ステージを設けるパター

ンは広く人口に贈茨していることはいうまでもない。運動器具を横に見ながら、鉄骨トラ

スの下で汗の臭It ~残る中で催される現代の卒業式や朝礼には、最早、明治の精神性誌微塵

も感じられない。勿論、薄暗さや居心地の悪さももう無くなったわけである。

代々木オリンピックプール

近代のスポーツ施設を捉えるうえで、アテネから再開された一連の近代オリンピックに

おける建築群は有効な視座を与えてくれる。我が国の国立屋内総合競技場は、そのなかに

あってもひときわ重要な建築といえよう。これは、 1 9 6 4 年東京オリンピックの国家的

プロジェクトの一環として建設されたもので、 2 つの体育館とそれらをつなぐための複合

35

建築で構成されている。主体育館は、一万五千人収容の水泳場、冬期にはアイススケート

リンクになるように計画されている。付属小体育館は四千人収容のバスケット場である。

そのふたつを結ぶものとして、管理室、食堂等の諸施設と、道、広場が付設される 。 建築

史がピークで語られる時に、この建築の存在は、更に大きなものとなるのだ。

物理的に巨大な空間を覆う構造としては鉄骨トラスによるドームやヴオールトがあるが、

ここでは吊構造が採用されている。 これは空間の節約でもあり、 「ドームのような凸空間

に比べて、吊構造による凹空間は、空間容量を極小にするだろうし、それは暖房負荷を軽

くし、音響処理を容易にするものであるJ 、と設計者は記している桁。

構造は二本のメインポールと二つのアンカーブロックからなる吊り橋の如きものが基本

である。ポールとアンカーブロック聞の二本のメインケーブルは平行であるが、メインポー

ル聞の二本のメインケーブルは、そこから更に I 型鋼の吊り材が屋根を構成すペく、外周

に向かつて引張られる為、レンズ型の開口を作りだしている。これはトップライト及び人

工照明用の空間として役立つている。

構造が、隠されることなくデザインと結び付き、これ程までに昇華されたことは並々な

らぬことであり、そこには突き抜けてしまったもののみが発する、或る種の格と迫力があ

る。大空間建築に於いて構造がデザインたり得た例としては、ネルヴイ制やトロハ削の諸

作品があるが、しかしそれは構造技術者の節度ある美に留まっていた。勿論、丹下以降に

も数多くの構造のアクロバティックな応用が試みられ、実現されている。しかしそのうち

のいくつが、代々木の表現レベルを越えたことであろうか?どれだけ新技術が開発されよ

うとも、それがすぐさま表現として成功するとは限らない。表現を与える者には、超越的

と もいえる作業が必要なのである。

主体育館のもう一つの特徴は平面計画にある。一般に大スタンドは、円や長方形などで

閉じられた平面となるのであるが、ここでは基本の円が中心軸に沿って半分ずつズラされ、

二つの三日月が相対するプランが採用されている。このズレは二つの巨大な関口を生みだ

し、原宿側、渋谷側にそれぞれの入口を与え、アプローチから入口、そしてスタンド客席

に至る、明解かつ安全な流れを約束している。

建築を取り囲む環境の設計も忘れてはならないものである。二つの体育館を結ぶ形で細

長い建築物があるが、ここには管理室その他と食堂、サブプールが納められる。上部は歩

行者専用道で L字型に曲がり、原宿駅へとつながっているが、ここからは山手線内側の東

京の風景を楽しむことができる一方で、両体育館の刻々之変わりゆくシークエンスの妙を

義わうこともできるようになっている。見事な動線計画といえよう。尚、この歩道の敷石

は都電の廃初をリサイクルしたものである。 一

持々 木オリンピックブールの建設過程の写真から当時の様子を少しお伝えしよう。夜を

しての建設作業の現場なのだが、主体育館の屋根を作る為仁、その下一面全面に足場が

轟 く 組まれ、 3 台の大クレーンが交錯する様は壮観で、思わず熱いものがこみあげてくる。

現場全体から伝わるイメージは古代的なものだ。この建築は、戦後日本のメルクマールと

なったa それは最阜、誰にも越えることのできない(丹下自身でさえ)ものとなったので

&る .

36

千駄ヶ谷新東京都体育館

誰もがそこそこに、ファショナブルにスポーツを楽しむようになり、商業主義的な民間

スポーツ施設の高人口密度の中でエクササイズに励む人々の姿も日常的になってきている。

今、公共体育施設に寄せられる期待は大きい。新しく完成した都体育館が呈示している問

題とはどのようなものなのだろうか?

新東京体育館は既存施設の老朽化のため、同敷地に建て直されたものである。新しく完

成した複合施設は、一万人収容のメインアリーナ、サブアリーナ、陸上競技場、屋内プー

ル場の 4 つで構成されている。設計は入札で槙文彦氏が決定され、設計 2年、施工 3 年と

いう長丁場で作業は進められた。

千駄ヶ谷の駅前に立つと、メインアリーナの兜のような屋根が目に入ってくる。これは

槙氏が藤沢市秋場台文化体育館や幕張メッセで設計した屋根のシリーズに属し、既に自家

薬寵中と化した鉄骨造ステンレス仕上げの屋根である。法的規制から建物の高さが30m

以下に押さえられていた為か、屋根は全体としては水平方向にのびやかに広がり、藤沢ほ

どの威圧感を与えていない。全体の中で、やはり特異なこの屋棋を除けば、あとは趣味の

良い正統的な近代主義建築言語で仕上げられているといえよう。

それぞれの建築には、駅前敷地角の中心点から放射状に伸びるアフローチ(遊歩道)を

ったっていくことができる。その丁度真ん中のアブローチは、敷地を斜めに横切って青山

方面に抜けられるようになっていて、公共道的役割を果たす一方、それぞれの建築の変化

の妙を楽しませることに成功している。

デザイン、ディティール、素材の選択のどこをとっても節度ある趣味の良さがあり、全

体は陽気な軽やかさに満ちている。サブ・アリーナのジグラッド型屋根や、ルーブル美術

館のガラスのピラミッドは、ここでは実に品艮く引用されている。ここでの洗練度の高さ

は多くの人に受けいられていくことであろう。 D. スチュワート氏は、この体育館をめぐ

る論考の中で、 「公共の多目的使用のスペースに限れば、洗練度において東京体育館に勝

る建物は、 1 990年のこの大都市には、間違いなく存在しないJ と評価している制。。

ラデイカルな新しさや鋭さよりも、適度な心地好さが求められ、それに答えている点に、

これからの公共施設の指標となるものを示唆しているといえよう。

4. おわりに

古代から近代への素描を試みるにあたって去来した思いは、人間の深いところに存する

スポーツへの希求の変わらぬ純粋さであった。容れものがいくら新奇な形をとろうとも、

そこで行なわれるスポーツは新奇なものとはならない肉体と結び付いた原理は、建築

に住居と同様に最も厳しいものを要求する一方で、肉体を飾り或いはその単なる背景とし

て退いていくことをも要求する。このアンピパレントな要求の振幅の中に未知なる建築も

模索されていくことであろう。時を経て残存していく建築が、願わくば人間に取り残され

ないことを希みたいものである。

37

註、 本稿は、 I体育の科学J 1991年 5 月号に掲載されたものを、改訂したものです。

5) ドイツ、イタリアのファシズム建築を想起されたい

6) 木下秀明、近代日本における体育館の歴史、日本大学人文科学研「研究紀要J N. 2

2 , 1 979

7) 丹下健三、国立屋内総合競技場の設計をかえりみて、 新建築 1 964年十月号

8) Nervi , Pier Luigi (1891-1979)

コンクリート構造のダイナミックかっ繊細な作風で知られる。一連の体育館建築(ローマ、

1956"'1960) で有名。

9) Torroja , Eduardo (1899-1961)

コンクリート・シェル構造のサルスエラ競馬場スタジアムの設計者。

: 0) D. スチュワート、 LIGHTNESS ー東京都体育館をめぐって一、新建築1990年

6 月号 槙文彦、大空間とアーバンデザイン、新建築 1990年 6 月号

¥1 )逆に、古代遺跡の前で仮設施設を用意して競技を開催することが考えられ、実際に成

功 した例がある。第 1 7 回ローマオリンピックでは、カラカラ浴場遺跡、マッセンツィオ

のパシリカ遺跡で、レスシングや体操が行なわれた。

建築文化6501, p.99

38

近代の迷路一伝統の現在

河津優司

「おいしい生活」 西武百貨店のキャッチコピー「おいしい生活」が衝撃的な登場をは

たしたのは昭和 5 7 年、 1 9 8 2 年のことだった。コピーライタ一糸井重里が一躍時のス

ターとなり、吉本隆明が「日常会話は詩句を越えた J と言い、総合詩雑誌「鳩よ! J が創

刊された。あれからもうすでに 1 0 年近くの歳月が流れ去ろうとしている。あの衝撃は一

体{可だったのか。

「おいしい生活」以前にも「じぷん、新発見J (昭和 5 5 年)、 「不思議、大好き J (

昭和 5 6 年)と西武百貨店の一連のコピーはこの頃ひとつのコンセプトで展開されていた。

ライターはいずれも糸井重里。その反響は相当に大きなもので、先に書いたとおり、テレ

ビ、ラジオ、出版界と大騒ぎをしていた。が、どう大騒ぎをしていたのかと今考えてみる

と、どうも心許ない。ひとり公告業界や、糸井重里をはじめとするコピーライターが注目

を浴びていた。 “業界物"が流行るのもこの騒動の中からのものである。その結果残され

たものといえば、コピーの衝撃力が改めて認識されたこと、コピーライターという職業が

脚光を浴びたこと、そして誰でもが詩(文)を作れると実感したことなどだろうか。

「のにびり行こうよ俺たちはJ rおいしい生活J 以前にも同様なコンセプトをもった

コピーはあった。

「モーレツからビ.ユーティフルヘ J (富士ゼロックス 昭和 4 5 年)

「のんびり行ごうよ俺たちは J (モービル石油 昭和 4 6 年)

「せまい日本 そんなに急いで どこへ行く J (総理府昭和48 年)

などがその代表的なものだろう。ここには何かしらの哀感がある。もっと極端に言えばド

ロップアウト(正統な路線からの脱落)の匂いすらする。しかし、いずれも多くの人々の

共感をあつめ人口に槍笑したものである。もう少しこのようなコピーを集めてみよう。

「ガンバラナクッチヤ J (中外製薬・昭和46 年)

「中ぐらいもいいもんさ J (キリンビール昭和 47 年)

「ゆっくり走ろう、ゆっくり生きょう J (日産自動車 昭和47 年)

「いったい日本はどうなるのだろう J (サントリー角瓶 昭和48 年)

「ちかれたびーJ (中外製薬昭和 50 年)

「しあわせつてなんだっけJ (キッコーマン 昭和 6 1 年)

「くうねるあそぶJ (日産昭和 6 3 年)

太平洋戦争の終戦が昭和 20 年 (1945) 。あれからもう 46 年の年月が過ぎ去った。

この間の日本の劇的変化、発展は目を見張るものがある。終戦時には世界中の誰もが、日

本人すらが予想だにもしなかったことがこの国ではおきている。この急速な変化はいまだ

かつて人類史のどこにも存在しなかった。その付けを知らず知らずのうちにわれわれは被

つてはいないか。そのような悲哀を上のコピーたちが代弁しているように思う。

39

京料理」 京都に行って京料理を堪能する。一切れ一切れの料理を、眼でも、耳でも、

言でも 、心でも、五感全体で昧わう。この京料理を昧あうことのすばらしさとは一体何な

- ノ か。

茶懐石。 その日の茶席に相応しいように、そこに同座する少人数の客人ために、亭主に

与っ てもてなされる料理。京料理はこの茶懐石にその源を発するといわれている。

厳選された人のみが招かれる茶会。その茶会のための準備は、計り知れないほど以前よ

り 時間をかけて行なわれる。懐石の料理の材料は勿論のこと、膳も器も箸も、座を彩るー

輸の花までも、全身全霊をかけむけた亭主の目配り、気配りがいきとどく。それでもなお

その茶会がうまく終始するとは限らない。このような不確定な、厳しい条件を乗り越えて

ー一期一会」、 「一味同心」 といった会が稀(まれ)に成立することになる。

このような厳しいもてなしを準備し、 「一期一会」、 「ー昧同心」の実現を希(ねが)

フ 亭主の情熱を、今日どのように表現することができるのだろうか。

人を相手に、人とともに喜ぶことへの情熱。すでに現代人の心の中には全く 無くなって

) ま った、というには揮られるが、人の良いといわれる日本人の心情の中でさえも、影が

笛 く な ってしまっていると考えられている。影が薄くなったというよりも、むしろ、近代

リ ヨ 本社会のなかでそれを発揮する場を失ってしまっていると言い換えたほうが適切かも

~ ::'Jな い。近代的心情ではそれを「無駄J なこと、すなわち経済的でないこと、損なこと

こ捉えてしまう 。 近代社会がその場を奪ってしまった、と言ってもいいかもしれない。

嘆石膳の質とは一線を画さなければならないが、京料理を食する人は、京料理を通して

ー も てなし」を味わっている。形骸化(商業化)したものであれ最高の接遇の料理の形を

ι験 している。料理人の腕でも、昧の豊かさでもなく、そのような「もてなしj の知恵を

考人 できた古人の心を、古人の生きた前近代を味わっている。高いお金を払って、近代社

会が捨て去ってきた「無駄」の固まりを食しているということになる。

- !\の盆J 越中高岡の「風の盆J 。三日三晩踊り明かし、一年を三日で過ごすといわれ

る ー嵐の盆」の祭りが今年は中途で中止された。幾万という観光客が狭い町の辻々を埋め

ふ \レ 、踊りの連が辻を通れないほどになったという。

ー亘の盆」 、それはそれで非常に情緒ある祭りだが、これはかつてどこの町にも存在し

で さく 懐か しい「町の文イヒ」、村々にもあった「里の文化」のひとつである。

!-zい時間の堆積のなかに咲いた日本の「文イヒ」そのものの生き残り。都市の文人たちが

主受 J 、やがて里々に伝わり、そこで大切に育まれた前近代の「地方文イヒJ 。里の浄瑠璃、

治訳 、 神楽、獅子舞。町の習字、生け花、茶の稽古、連歌の会。僧侶や神官、隠居した老

、 老婦人、これらの人々に支えられた地方の文人の世界。だれもが参画することのでき

三 身三な文化。 これらの慎み深く、地に根付いた文化は今ではあまりに希少なものとなっ

ー ザ まった。

理ぺ こ れら に対する渇望が高まっている。それは失ったものに対する郷愁のみが原因で

よ 二・ へ それらの文化の有り様に対して羨望の目を向けているのだ。それは現状のカルチ

ーーマン タ ーの講習で代替できるものではない。近代が育もうとしている文化の有り様は

~ r'I よう なものなのか。そこへ至るまでの余りにも速い道程の前に人々は過去への郷

40

愁を禁じえないでいるのだ。

近代「無駄」考 日本における急激な近代化が遵守してきた根本原理は何よりも“経済

効率"だった。そのために“合理的"であることが求められ、その結果“経済的" “合理

的"でないものはことごとく“無駄なもの"として排除されてきた。こうして、近代が登

場する前の、いわゆる前近代が育んできたものの多くが、 「無駄J というレッテルを張ら

れていとも無造作に放捕された。家庭内で使われていた帯、はたき、洗濯板や竃、羽釜な

どは“利便性"の尺度のもとで捨てられ、その代わりに掃除機、洗濯機、レンジ、電気盆

が供給された。このように一つ一つ身近なものから「無駄」を排しながら、モノと情報と

消費に充ち満ちた近代社会が形造られてきた。

しかし、 「無駄」なものが捨てられた時に失ったものは単に“もの"だけではなかった。

“もの"に付着した「無駄J の固まりのような精神世界をも同時に捨て去った。その時に

はそれが当たり前であるかのようにいとも簡単に放捕した。一旦手放したものはもう二度

とは帰ってこなかったが、その時はそんなものは痛くも淳くもなかった。その結果、 「近

代J のモノの豊簡の海のなかに、眼に見えない、大きな空洞を抱え込むこととなった。

政治家の脱税や金融機関の不正融資など品性に欠けた行状ははもう驚くにあたらない。手

元で家族までが崩壊しはじめている。情報にかき回された時代の空気は澱み、胸から吐き

出される呼気も薄汚れている。

しかし、それに対する無意識の反動はすでに現代人のなかに起こり始めている。黒魔術

的なオカルトや占い、不可思議な超能力に対する強い興味は本来近代的価値を否定するも

のだった。 r風の谷のナウシカ」、 「トトロ」、 「魔女の宅急便J (~、ず、れも宮崎駿のア

ニメ映画)が大ブームを呼び起こしたのは、近代人が失った価値観の再考を促すものだっ

た。これらは「無駄J の再興を意味している。

これが、近代に反乱しようとする反動なのか、現代が物質的な近代の成果の上に立って

より精神的に豊かな近未来を達成するための必然、なのか、今はまだわからない。

自に見えないものへの現代人の積極的なアプローチが示唆し、教えるものは大きく重い。

近代の過渡において今希求されるべき物はなにか。その具体像の提示が求められている。

しかし、

111t1

〈Vv・--Aハ〉』thill

橋本重治さん

ご主ロ一は自然食品の会

日切一社を経営し、毎

エ留/一回、埼玉県の自

ミメ一宅から東京まで

Il--通勤していた。

片道二時間?十年も二十年

もこれが続く。「ものが」読

み土そ耕す日を思う一汁一

菜あれば事忌る」と詠んだ

ことがあるV七十歳を過ぎ

て、福島県・三春町広引っ

越じた?ゆるやかな山なみ

そ望む、自然に恵まれた土

地である。とこで生まれ、

少年時代を過とした。「五

川りんそろそ号ぼう

十年の喧晩、忽忙の都会生

活から離れて、別世界。日

本にも、ζのような生活が

残っているのか」と知人へ

の手紙に書いたV借りた畑

で大伎やトマトなどを育て

る。自分でつくるほかに、

季節の野菜を隣人が持って

来てくれる。「ほんとはい

いおしめりだこと」という

あいさっそ聞く。朝の散歩

道で新聞配述の高校生から

「おはようとざいます」と

言われ、一瞬あわてた。見

知らぬ心半生が立ち止まり

「こんにちは」とおじぎを す

るV少年のころの友人に

出会った。いもづる式に知

り合いに会う。「いき通え

て、えがったなし」と友人

が喜んでくれた。草刈り奉

仕、盆踊り、と地域の行事

もある。親身に互いの世話

そし合うが、平捗にはなら

ぬ。その度合いがいい。大

正の初めに建った駅の待合

室には、町の女性たちが奉

仕でつくった様々な座布団

が置いてある:-V新しい

国民生活白書児、居住環境

や労働条件、余暇などにつ

いての都道府県別「笠かさ

総合指標」があった。首都

圏や大都会は瓜績が恐い。

点数の割り出し方に議論は

あるだろうが、一応の目安

として、地方の生活の質そ

見直させる試みだV橋本さ

んは「これが本来の人生だ

ったのではないか、との思

いがあります」と言う。耕

して作ったものを食べ、分

かち合い、勤勉に働き、会

えば言葉を交わし、病む人

があれば心を痛め、見舞い

の心を届ける。つましい人

間の募らし。「豊かさ」ど

は、あるいはこういうもの

か、と考えるそうだJ'一

41

て : 1 1 ポるう か丸こいだ戸川るに之、て怜むい うらで !5 つかんだ 一 江:-j U!~ 士 " '.~υ〉よ(こ~~ /;'ζことr5' ,~ ,\ ,'(['j f=! と{.~~ 、 /-./,よ<1 午コしむマ j'こ:こで 3 花、勾 r'λこ ':t1,

一之心 ろ )1 1 、 15 りうりははがさしープ亡さン ,; '!f 刀 、 て-l-_ ;fてかバド:-J 、ヲf ろにゐ "二プζ:こ"シ J 、j つ ωコ,,-- 、己主ゴユ カ ) ' .. プ九ノこ I'-r~ _:)~ . 1', 1 己 ;、 > r 之、ららえ-;- : ': 、こ,1..ぺ同二L っご J 、よÏ:. p~ t~ -.Jつ辺 !!!j' 。 くめな ,二 】 )'j ~ , ~t , ;J\ て た Jこっ、そ'-ーコ !j) ては:こ ヌ i '1: :己さひかにて、ん fこうごよる~~ ,',- ,三、 .... )、f よ','と之 fイ\-引〆2 1 h'l , '':''ι そ 、つ iJ )一、 そはにらさ!に冷でむうるコ円,,:,\へ三1 1Y1;す う /~'l ))J � 1J ;.1: ゅのあて ιち

、 , Yr. 、?千 )n} せわたくのらとそに J)) , いと.'(二・の lこ:こそなずは、1"3:1るいる~ ノコ え辺つゐ二二')いる u 刀、、ん λ~... " ,;J うしノ亡、ム,'t'~ ぷ d れどっ三〆ト~ Jìr ぞいゐこ

: 三 て にたと J て てだ;立に ,,'三はのとそ 勺 く 1:7 っ、 、 い刊のノ:ゴ亙 :11 た J手

全 千 三宗男管き (((;;;(((;:;;1511(:;;(JLぷ(嵩"安藷忠雄 れ玩叫ぶι ; っ し 川うの札 I寸コ )7ヨー イ己ずにすf とかの三 つ 、のだよや . -ー だ)住つぷ子

二 生 か交れすくにうりい定はて辺 [þ ~乙伍反々 とげ心て 11ぬけ坪諮っん道、 : í j 今。陀に今、|灯。ら σ さーい1'7] こ人 j)j: 応にそT:k な待く(た店れてで

コ ÷ を改 がよの最わ主主.1n~ れ1.1'るの|汲々のし顔んに京ちれあ ;'í..\かてくさJ?,\.: ~ !l.長め 、しヲーもっ情び災た rfI つr.['J らの'"之なをな近附にるえがらわるではみ か て J込と供国てそも 'r~i 入、しはすごi-: \:i~j が変ふづをし j去し)泌反 fこ以、京二 に 下 た I'~<; 1.ζ 受♂い凶だ工ーか、、日はらえうくみてのぐけ対。 L乙蚊/"し iげ しじち11: ;,つじ ;0,\の;どし 「及川の、下手るに。せいな白山 ~l[ J j交は以か

.:~.~ Î:二日 ててに dc もるに胤の、述j ゃなあっ j到し るた JÞJ 0: けの、、りらι ー か が 背き、かJ!j'(\犯とふ「に氾ーな屯かたて Lとて ほ 3 を、て辺 !jト1 とねタ

こ をぶ った四な〆えとしは 11 日目白に 2 さ刈私 、そ、ーゆ附けつð' Jミ汁:>::5' の日宰 iiff 9_~j なはて、主 ['1J r!i 、わぶたしは 事の私f)寺くへ欣ぷのの

三 し よ え に で本を JUJ るがな、 íß! 雨、にあゐえ。て、 itiJ 胤は涜。よしり 1汗臼

三 f 号 三 命 雪ゐ主主 2 支店合出店雪空 342 今態里 民翌日 k ぎ A5 自宗包つ ゐ の う('J.I<;ぞ C な II\J る芯な此いれゐのう冷 L乙折 々しもしにとそが出店

(グ刊)思ま1葉汗Eヨ写E月火曜日. ~ 9 1 年(平成 3 年)7月 30日

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一行ぺ

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近代建築 近代建築が遵奉してきたものが一体何だったのか。そのために何が放輔され、

:1が失われたのか。 r無駄J (目に見えないもの)の再興とは近代建築にとって何なのか。

ー無駄J (目に見えないもの)の提示が近代建築に可能か。このような視点で近代建築を

竺い直してみる作業が可能ではないかと考えている。その際に「無駄J なものを装飾や様

式に置き換えることは意味がないごとのように思える。住宅では家族の問題、他の建築で

二 、個と共同体の関わりの問題になるのだと思っている。これが建築における目に見えな

(了)( r無駄 J )の視座だといまのところ考えている。

42

. 、 ものの

“比例"論. m -数学と非数学一

溝口明則

1 .実用算術と数学

前の稿で 1) 実用算術と数学との相違について r比例j の検討を通じて間接的に言及

してきた。数の操作をこの 2 種に分類したのはプラトンであった。私達はこの分類に魅力

を感じながら, しかし釈然としないものも感じている。この原因は,プラトンのいう数学

と現代の数学とに質の相違があるためである。古代ギリシアのピタゴラス学派の数学は,

「万物は数である」とし寸前提のもとで,世界に内在する隠された法則を追求する哲学,

ないし宗教的な世界認識の方法という特質を帯びていた。一方,プラトンは数学を,ピタ

ゴラス学派とは少し違った視点から評価していたと思える。彼は数学を,数や幾何学図形

に内在する法則性を発見し,論理的な手続きによって正しく推理し論証する営為とみるが,

それは,数学の方法がプラトンの世界認識の方法と相同であり,方法の水準で・イデア探究

法のモデルというべきものであったためである。つまり,プラトンにとっては論理的証明

法,弁証法にこそ価値があるのであって,数を扱うこと自体は,第二義的なものに過ぎな

かった。したがって彼の,計算術と数学という分類は,世界認識の方法という視点からな

されている。これに対し現代の数学は,数や幾何図形という閉じた世界の中で,内在する

一般法則を論証的に発見することに価値を置いている。両者の内容はよく似たもののよう

だが,立脚点の相違は決定的なものである。このため,私達はプラトン流の分類に戸惑う

ことになるのである。

古代と現代の数学の相違を暖昧にしているもうひとつの問題は,数学を応用する場面に

おいて現れる。プラトンの分類では,実用算術と数学とが原理的に同ーの,演算のような

基盤を共有し,これより上部で鋭く対立する。つまり,数を扱うことのうちの特別なもの

だけが数学なのであった。したがって,数学の応用という問題は切実なものではなかった

であろう。ところが近代の数学教育は,一方で古代ギリシア数学の成果を取り込み,さら

に,事象を数を手掛かりに扱うことのすべてを,数学の応用であるかのように扱っている。

このことが私たちの眼差しを規制し,プラトンの分類を難解なものにしているのである。

数を扱三世界全体の中で,数学が占める位置と大きさ,目的などの相違,これらが問題

を複雑にしている原因である。数学という概念は歴史を遡るほと、小さく,数学に分類され

ない数の扱い方の領域が相対的に大きなものであったはずである。かつて数学に区分され

なかった数を扱う方法とは,一体どのようなものだっただろうか。これを理解するために

は,人類が経てきた数に対する経験を整理してみる必要がある。

プラトンの数学と計算術との分類は,私たちに事態の複雑さを,そして近代が覆い隠し

てきた異質な世界が存在することを気づかせてくれる。本稿では人類が経験してきたさま

ざまな数の扱い方をすくいあげようと考えている。これは,前近代の建築設計技術を確実

に捉えようとするための必要条件だと思える。 r比例J 概念の導入が事態の理解をかえっ

て困難にしてしまった原因も,近代数学があらゆる数の扱いをすべて自己の内部に取り込

み,近代人の視覚がこれを当然と感ずる内なる制度を築いてきたためなのだと考えられる。

43

2. こと iまと数

数の世界が特殊なふるまいをするとはいえ,本質的に世界を描写することばであるごと

に相違はない。まず数の,ことばとしての特質から検討を始めたい。

ことばは,現実の個々の経験から,特定の共通する現象=概念を抽象したものである。

例えば「赤L リということばは,さまざまな事象の中から抽象されているため,そのもの

としては独立して存在していない。それは,例えば,赤い布,赤い光,赤い石,赤い馬,

赤い顔料・・・・などと,ものの特徴としてのみ存在している。こうした言葉は形容詞として

知 られるものだが,数もまた形容詞として発生し,言語の一部を担っていたのだと考えら

れ る。 r少し」や「沢山」の「羊j などの,より明確な表現である r 3 頭」の「羊」など

と いうように。現在でも,日常の中で,数は数詞とともに表現されることが多い。これは,

教の形容詞的なはたらきをよく示し,数が〔単位〕や数詞に付随して現実を描写するので

ある。しかし数は他の形容詞とは異なった特別なふるまいをする。数は,観念の中にだけ

存在するにも関わらず,私たちの意思とは無関係に,自然的といえる法則に支配されてい

る。 そしてこの法則は,それ自体が一般性を持っている。人類がこの法則に気づきはじめ

でと き,数は何者かを形容することから独立し,数自体として関心の対象になり始める。

設を独立して表現するとき,数は名詞として扱われるが,このことは,数が現実に存在す

る対象と同じように,独立した存在として認識されはじめていることを示している。そし

で教は,観念が生み出したものであるから,同ーの数のあいだに固体差は有りえず, した

-'っ て他の言語で形容する必要のない,現実のように独立した存在であって,なお一般性

;:;..戸っ ている,という不思議な存在へと変貌するのである。

教の名詞化,数の独立化の過程は,数自体のふるまいが独特であることの発見によるの

?あろ う が,この特質は,おそらく演算の発見に深く関わっている。

ロ完が 3 頭の羊を r 3 頭」と認識するとき声をあげて数えてし、く。これは,厳密には 1

干 . 1=3 と L 寸演算が行われているとはいいきれず, JI頃序数という用い方に近し、。つ

芝 ワ 教を手掛かりに順番を認識していくことに近い。ところが順序数の最後の数は,その

をま司法の演算を行った場合と同値になる。ひとつふたつと数えて最後が 3 になることは,

二づ全部で 3 頭であることをも意味してしまうのだ。演算の対象となる数は基数といわれ,

曹三教とは異質なものだが, しかし加法において両者が溶け合っている。とすれば形容詞

- - て の教が独立した対象へ変貌してL ぺ最初の段階が,おそらく加法の発見に負うのだ

こ ん る ことができそうである。そして演算の発見が,数の独特のふるまいを認識させ,数

モ詮二 L た対象とみなすきっかけになったのであろう。

:rそことばとして用いる様態は,①〔単位〕を付随して形容詞的に機能する場合,②数

ふ プ 三 コか'名詞として機能する場合,というこつの様態に分けることができる。表現の相

違 ζ. E.こ対する まなざしが大きく異なっていることを象徴している。

:J: c '単位〕と度制

=ニ ーた実体, 例えば果実や家畜,家屋などは,固体として分節されていることによっ

三 ずか ら 「数える」と L 、う行為を保証している。このとき,数と〔単位〕との連合は

竃三 .こま立し.数は形容詞的に事象の属性を表現する。しかし長さや体積,重さなどは固

;"1 .- 三 ?号待たず, いわば連続体である。このような対象は,数とは関係を持ちにくいも

三で で :r~覆念が明瞭になると,これらをやや強引に「数える j ことのできる対象,つ

44

まり固体として扱うことを促したと考えられる。一定の基準尺度,一定の升,一定のおも

りなどの発生は,当然のことだが,連続体を不連続なものとして扱うことによって r数

える J (計測する)ことを可能にする工夫である。基準は当初,自己の肉体や身近な物質

を用いたであろうが,大規模な社会が成立するにしたがって制度化され,原器を以て実体

化してL 、く。仮の固体化が厳密なものになればなるほど,強力な国家体制によって常に監

視することも必要になる。一方,この制度が確実な土台を提供できれば,流通等の制御と

発達は巨大な成果が期待できる。度制は,このような過程を経て不連続化された「長さ」

であるが, しかし不連続な目盛りがあらゆる自然の長さを,確実に「数え」られるものに

還元できるわけではない。自然の長さは,目盛りにぴたりと合致することの方がはるかに

稀である。長さを「数える」ことが現実の対応力を獲得するためには,度制の階梯を複数

用意し,いわば無限に不連続を当てはめることで連続を把握しようとする工夫が必要にな

る。尺や寸,分など現実の計測に密着している単位を出発点として,厘,毛,糸・・・・等々

の無限小へ,そして反対に無限大へ展開して L ぺ原因は,観念の上で,不連続の階梯を無

限に繰り返すことで連続へ到達しようとする意図とみることができる。一見して無意味な

ものとも見えるが,十進法などの同一ルールの階梯を繰り返すことで,不連続な単位から

経験的な,自然の長さの実感を奪い,まるで長さが本質的に「数える J ことが可能なもの

であるかのような自律的な体系を構築する。あたかも貨幣を価値そのものと錯覚させてし

まう転倒した内なる制度と同様に,世界の「長さ J はもともと「数える」ことが可能であ

るかのように感じさせる力を獲得する。この体系は,長さを自然の中に放置せず,内なる

制度を形成することで「長さ J を制御可能なものにしているのだといえる。

こうして「長さ」は数と結び付く。例えばここに r 5 尺」という<数十単位>があると

する。このとき r 5 J は「尺」に対して形容詞のように働いている。したがって,関心の

中心は r 5 J 自体ではなしこれが l 尺という度制の基準寸法の,丁度 5 倍,五つ分に相

当する具体的な「長さ J である。しかし「長さ J は数えることが可能になることによって,

数に固有の自然的特質に巻き込まれるのである。例えば, 5 尺を 3 っ割りにすることは,

具体的な操作として実行することは可能なのだが,度制の目盛りで精確に著すことは不可

能である。しかし 6 尺を 3 っ割りにする場合は,数の表現に何の問題も起こらない。同

じように商取引,精確な歴法による時閣の制御,土地の測量など,数をあっかうあらゆる

場面で,数は,その自然的特質の支配下にあるのだといえる。

ところで,古代メソポタミア(パビロニア)の数学に対する現在の解釈には,この時代

にすでに論証的数学が成立したとする見解も現れている。パビロニアの算法は r長さ」

「巾 J r面積J など〔単位〕を意味する言葉を,未知数を表すものとして利用し,文章を

以て連立方程式や数次方程式を表現するものであった。この特質に対する理解は,

メソポタミアの問題での“長さ"や“幅"とし、う単語は,たぶんわれわれの文字 X , Y とほ

とんど同じように解釈されるべきぺきなのであろう。それは,くさび形文字書版の著者

たちが,個別の事例から一般的抽象化へ突き進んでいったとしてももっともなことだか

らである。さもなければ,面積に長さを加えることについて,ほかにL、かなる説明を与

えうるだろうか? ;力ール・利ヤー『数学の歴史~ J 2)

45

という見解がある。これは,具体的な「長さ J や「巾 j などは単に未知数を示す記号に過

ぎず,その本質は代数学というべき水準に到達している,という見解である。しかしこの

現象は,数学の問題というより,バビロニアの算法が確かに数そのものに注目していると

みるか,それとも「長さ」や「面積」に関心が注がれているとみるか,とし寸問題なのだ

と思える。数に〔単位〕が併記される数の形容詞的表現は,具体的な「長さ」や「面積J

な どに関心が集中しているとみるのが妥当であろうが, しかし,その中に数だけが対象と

して自覚されている場合,両者が溶け合ってしまっている状態など,解読する側からみた

と き,錯綜した内容を伴っていることに注意しておきたい。

4 . 葉明の演算

数の独特の特質に注目することが,ことばの上では数を名詞として扱うことに繋がるが,

こ こでは,現実のさまざまな事象の説明のためではなく,数自体が関心の対象になる。 2

笥で述べたように,数の自然的特質は,演算の発見に負うところが大きいと予想される。

私たちは,最も基礎的な演算を四則演算として理解している。ユークリ ッ ドの定義でも,

定理や公理を説明する際に,自明のものとして四則演算が用いられている。つまり四則演

算は公理や定理よりも根源的なものであり"いわばひとが数を扱う最も基礎をなすものと

さ れている。数学と実用算術とが数を扱う個々の場面で,必ずしも明瞭に区別できない原

ヨは,演算という数を扱う根源的な部分が両者に共通しているためとも考えられるのであ

る 。 以上は,いわば数学史家や数学者の見解である。この見解はまった く 当然のことのよ

う だが,にも関わらず,ことはそれほど簡単ではない。四則演算は,本当に数を扱うこと

二通底する基盤であったのだろうか。源初の状態を理解することは困難だが,人類史のご

ノ 初期の具体例, リンド・パピルスなどの史料に則してこの課題を考えてみよう。

(1) リンド・パピルスの乗法

j ンド・パピルスは,約3500年前のエジプトの算術テキストで, B. C. 1650年頃にこのテ

エ ス トを写した書記の名に因んで、アーメスのパピルスとも呼ばれている。この原本は B. C.

:::300"-' 1800年頃まで遡ると予想された,世界最古の「数学書」である。数および後述する

'単位分数J の表記は〔表 1 J に示したが,確かに十進法に基づいた数体系を持っている。

R 32とし寸記号を付された問題は,乗法の例と見なされている。この問題で,源初の乗

去について考えてみる。これは 12x 12の解をうる計算手順が記されたものだか, (表 2 J

に示 し たような手続きを採っている。左半分がヒエログリフ(右から左へ読む) ,右半分

.その翻訳である。説明の便のために上から順に①~④と行番号を記しておこう。③行目

こ事行自の右端に付けられた r/J は,最後に加えられる数値を意味している(加えられ

結果が解である)。

この手順はどういう意味を持っているのだろうか。まず,①行目に計算される基本の数

:2~記 している。この①行目をもとに②行目では,①行目の数値にそれ自身を加えたもの,

つ ま り 12を 2 つ加えたものを記し,③行目は②行目の数値24に24を加えたもの,結果的に

す 汗 ヨ の 12を 4 つ加えたものを記している。解を示す④行目も,③行自の値48に48を加え

七もの , 12を 8 つ加えたものを記している。つまり,③行の 12x 4 の値と④行の12x 8 の

とが揃ったところで両者を加え,④行自の12x 12の解へ到達している。この手続きが意

援する ものは,乗法の問題とされながらも,演算内容は明らかに加法が中心で,乗法とい

え るものは 2 倍するということだけである(勿論これを加法とみることもできる)。そし

46

て, 4+8=12という既知の加法を利用して,ここへうまく誘導しているのである。

また,カフン・パピルス(リンド・パピルスとほぼ同時代) No. 6 で・は, 16 x 16を求める

ために〔表 3 J のような手続きを採っている。ここで・は,①行自に計算の基準の数を記し,

②行目でいきなりこれを10倍した値を記している。そして③行自では,今度は 5 倍した値

を記している。結果的に16X (1+1O+5) とし寸計算に還元していることがわかる。

でも加法が原則ではあるが, 10倍すること(おそらく十進法の位取りを利用)と 5 倍する

ことという 2 つの乗法を見ることができる。

(2) リンド・パピルスの除法

次に除法を見てみよう。除法の例ではリンド・パピルス R69の問題 f1120になるまで,

80から始めて,加えよ(掛けよ) J という内容のものが除法の問題だと見なされている 410

『守

'-'-

表 2 リンド・パピルス R32の解法

02X 12の解を求める問題):古代エジプトの数記号表 1

e : ~

y nn 111 -AC;

nn 11

一①12 1 lln

2.1

1111 1 4 Z

。=よ111 3

(綜)

(把手)

(なわ1)

(蓮の花)

ln

10

100

1000 ② 24 2

1/

z

。=よnll 12

己H

ふ4a(

(かじか蛙)

10000

100000

③ 48 / 4 JJII /

1111/

J J 11

8

I lI lnη 1111(1(1

B 今

(無限の神)1000000

ー④144 合計96 / 8 llllmdbmzr

d. Tηd b ~ 441

111 =3

'f( ミ~t1~f\n îíï 問 m l l lJ=mω も nn

表 4 リンド・パピルス R69の解法

(1120-;-. 8 の解を求める問題)

/ 1 80 ・…一一①

ー②

ー③

ー④

…⑤

800

160

320

10

2 /

表 3 力フン・パピルスNo. 6 の解法

06 x 16の解を求める問題)

/ 1 16 一一一一①

/ 10 160 ・ 一一 一一②

/ 5 80 ・ 一一 一 ー ③

合計 256 一一一一④

R21 (4 -;-.15の解法)

15 ー①

1 +τ-…②

一一一③

…④

るすと母

①②③④⑤⑤分

船一一…………浮

解一一一

一-

-数

法のの

解8

の・一・ぞ

16

司L1i

R(

Fhd

o白

R

ロハ

R24 09-;-. 8 の解法)

ー②

一③

一④

ー⑤

商 :2+τ+す一一一 ⑤

1120

/

4

合計

3 /

表 5 リンド・パピルス R24.

8 百6 2 16 2

//'fJ///

,

3 τ

/ 12

2

4

3

/ 4

2

4

商 :τ+百一一⑤

「単位分数J を示す。

5+す

47

3

商:

などの記号は,す,す,百

これを〔表 4 J に示す。これは,左側の r/J の付いた数字の合計 00+ 4 )が除法の本

当の解なのだが,記述の方法は乗法の場合とまったく同じである。ここでは①に基本とな

る数値を挙げ,②行目はこれを 10倍したもの,③行自は①行自の数値に自身を加えたもの,

④行目は③行目の数値にそれ自身を加えている(= 2 倍している)。したがって,先述の

リンド・パピルス R32の演算と,カフン・パピルスNo. 6 の演算の特徴とをともに備えたも

のになっている。なによりも注目すべきは,除法の解法が乗法の解法をそのまま転用して

いる点である。そして,乗法が実質的に加法の特別なものなのであるから,除法の問題と

されるものでも,演算の原理は加法の,巧妙だが煩雑な転用という特質を色濃く帯びてい

る。このような特質を,伊藤俊太郎氏は,

その解き方は,しばしばきわめて巧みなものがみられるが,独特な単位分数への固執と,

乗法や除法を加法に還元して行なう加法原理は,彼らの計算をきわめて特異な煩雑なも

のにしており,ここにむしろ彼らの数学的エネルギーの大部分が消費されたといってよ

L 、。 [伊藤俊太郎『ギリシア人の数学~ j 5)

と述べている。しかしこのこととは別に.除法を考えるために見過ごせないものがある。

それは,ここで「単位分数J (分子を 1 とする分数)と呼ばれた分数表記法の問題である。

(3) r単位分数J と<わる>こと

表 l のように,ヒエログリフは 1 = I , 10= n などの数字を組み合わせて数一般を〈こ> . 1. ~ <:>

表し r単位分数J の表記は, 1/2=ζ 1/3= �l 1/12= ñíl などと記している。1/2を

除いて,他の「単位分数J はすべて数字の上にフットボール型の印を載せて示すが,単位

分数ではない「唯一の例外J として2/3という分数も用いられている。これらの「単位分

数」を用いて除法の問題が解かれている。例えばR24は r 8 でもって 19を得るように計算

せよ J と L 寸問題, R25は r 3 でもって16を得る・・・・ J , R21 は r 4 でもって15を得る・・

・・ j と L 寸問題である。これらの解を〔表 5 J に示す。 R24は最も簡単な演算で計算され,

1/2. 1/4. 1/8. という系を用いて整数でわることができない部分に,次第に接近してしぺ。

R25でも同様だが, 1/3や2/3 と L 寸分母を 3 とする分数の系が採用されている。 R21では,

1/5. 1/10. 1/ 15 という,分母が 5 の倍数の系が使われている。これらの例から「単位分

数J 自体がごく簡単な除法の解を示していることがわかる。

さて,ヒエログリフの「単位分数J には,伊藤俊太郎氏によって「唯一の例外J とされ

る 2/3とし寸分数が含まれている。これは行と L ヴ記号を用いて表現される。しかし,

もし1/2の表記が行であるとしたら,これは1/1. 5という表記と見ることもできる。した

がってこれも一種の「単位分数J とみることができ r例外j と見なすことが妥当なのか

否か問題が残る。小数を分母として認めない現在の「分数J の概念が「例外J の本当の原

因という疑いが残るのである。一方 r単位分数J 以外の分数一般はひとつの記号で・表す

ことができず r単位分数」の和として文章の形を採って表される。例えば 5/6を示そう

とすれば「 ζ に合を加える J (= 1/2+ 1/3) などとし寸表現が用いられる。

したがって,これらの表記法の特質は,特に分数一般の中から分子が l となるものだけ

を扱っているわけではなく,もともと分子が 1 となるものだけが意識され,それに相応す

る記号が成立しているとみるべきである。とすればエジプト数学は,数を現す記号として,

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自然数と「単位分数」だけで構成されていることになる。矢野健太郎氏は,

算術と代数の方面では,まず分数に関することがかなり詳しくのせられている。ヨーロ

ッパでも,算数の教科書の終りの方に分数のことが現れたのはつい二百年ほど前のこと

であるのを思い出せば,このアーメスのパピルスに分数のことが詳しくのっているのは

驚くべきことといわねばならない。矢野健太郎『幾何の発想~日)

としている。この分数も「単位分数」を指しているはずである。分数一般のうち,例えば

3/5などは 3+5 と表すことができるが, 3 X 1/5 と表すことも可能で・ある。分数一般を表

す記号がなく r単位分数」だけが記号化されているとき,すべての分数は「単位分数J

Xn Cn=2 以上の整数)あるいは「単位分数」を n個分加えることで始めて記すことが

できる。つまりこのような記号体系の下では,分数一般は r単位分数J に乗法ないし加

法という演算を付随させて,始めて表現できる数値であることに注意しなければ、ならない。

ここでは「単位分数」とはくわる>という 1 回の演算の解を示し,分数一般を示そうとす

れば,<わる>という演算に加えてくかゆる>ないし<加える>というもう一つの演算の

過程を複合させるほかはない。とすると,伊藤氏の「単位分数」と L 寸表現も矢野氏の

「分数」も明らかにおかしなことになる。 r単位分数J とは分数一般の概念を前提として,

このうち特に分子を l とするものだけに与えられた名称だからであり,エジプト算術には

その「分数」一般にあたる概念が存在しなかったと考えられるからである。

「単位分数」とし寸概念は廃すべきであるが,それならば r単位分数j とよばれてい

るものは一体何なのだろうか。私にはこの記号群こそくわる>とし寸演算の源初の形態を

示したものに思える。私達の<わる>という演算の概念は,割られる対象の数を選ばない

が,源初のくわる>ことは,その対象を必ず 1 つ(の主企)とみなしていた,ということ

を示しているのである。例えば, 3/5は私達にとっては 3 を 5 で割ることなのだが,源初

のくわる>演算では 3 つつの対象ひとつひとつをまず 5 でくわる>。そして,それぞれ

からひとつずつのピースを取り出す。つまり1/5+1/5+ 1/5 0/5 X 3 )なのである。また,

割られる対象が<わる>数よりも多ければ,例えば 6 つの果実を 5 つに分けるとき,まず

6 つから 5 つを差し号 I ~ 、て,残りのひとつを 5 つでくわる>。果実が 7 つならば 5 つを

差し引いた後 2 つをそれぞれ 5 つに<わる>。この発想は,<わる>という演算が,数

r と数とのあいだで行われる演算に昇華する以前に,主(J) と数とのあいだで行われる操作,

あるいは主0)を数で制御することであったことを示すものである。つまり,いまだに数は

名詞化しきれず,主0)を操作するという特質を強く帯びているのである。主旦を分割する

ときその対象はいつでも果実ひとつ,麺麹 1 塊,羊 l 頭であり 1 を分割することこそ現

実の割るとし寸行為,除法の源初の形態なのである。リンド・パピルスの「単位分数」は,

主0)の操作,つまり分割するということと<わる>という演算とが,いぜんとして不分明

なままであることを示しているのである。

(4) 源初の演算

古代エジプトの算術では,先に引用したように<加える>とし寸演算を文字通り「加え

る J と記すが,これが表面に現れるただひとつの演算である。減法や乗法,除法は,ごく

簡単な例を除いて記されることがなし、しかし「単位分数」の記号は,明らかに除法の存

49

在を示している。先述のように . 数 ;こ は基数と順序数という区別がある。前者は演算一般

の対象となる数だが,後者は順番を付すときに用いられる数である。しかし両者は , 加法

において溶け合っているのだった。 <数える=加える>という演算が源初のものであれば,

<わる > とい う 演算は,何らかの操作の結果,希望通りに<数える>ことを実現させる操

作である。つまり < わる > こ とは<数える>ことを挟んで,<加える > ことの裏面に位置

している。これに対し<ひく> ことは <加える > ことの逆方向の操作である。これらの演

算の相互関係に対して,乗法とは,源初においては加法のうちの特別な場合,同じ数を繰

り返し <加える > という演算である。パビロニアの数学では,煩雑な50進法を用いたこと

もあって乗法の数表が作られていた。乗法とは複雑な演算であり,数表なしにこれを行お

うとすれば,九九を知らない小学生が加法を用いて代用しようとする,あの演算となる。

乗法の持っ ている効率のよさは, じつは煩雑な数表の存在が不可欠である。つまり乗法は ,

他の演算と異なって特別な工夫を必要とするものであった。したがって,数を扱う源初の

歴史の中では,最も後に成立したものだと予想することができるのである。

現在の四則演算は,これらの演算が出揃い,相互に変換可能なものとして成立したこと

で,一体となって数学の体系の基層を構成'している。そして,数を観念として教えようと

する現在の数学教育では,四則演算の中で,除法はあとから教える複雑な演算として扱わ

れている。しかし人類史の過程からみれば,四則演算ははじめから一体のものなのではな

く,なお除法は,現実の,生活に密着した操作であったとしなければならない。

5 . 結び 一「これは数学ではない」

主 0)の属性を数によって示す状況は,いぜんとしてことばの世界の問題だといえる。こ

のとき演算とみえる操作も,実際には主企を制御する方法以上のものではなかった。実用

算術とは,数と数とのあいだの関係を問題にしているようにみえても,実際は現実を,数

を手掛かりに制御しようとする操作である。これに対し数学は,現実の世界から離れ,純

粋に数と数との関係にのみ注目する。したがって実用算術における数が形容詞的な特質を

付随することに対し,数学では,数は名詞として扱われることになる。けれども指摘して

きたように,主企の形容詞である数といえども,名調としての数と同様に,数の自然的特

質に同じように支配される。このとき形容詞としての数は,つねに名詞としての数に,つ

まり数そのものとして操作の対象に,置き変わる可能性を苧んでいるといえる。実用算術

の個々の場面が複雑な様相を呈する原因,ときとして算術と数学とが不分明となる原因は,

この交換の過程が潜在的な可能性として付随していることと,私たちの常識が,過去の資

料に対し,無自覚に数にのみ注意を払うように仕向けているためである。建築の設計技術

のよ うに,主0)に則して洗練されてきた操作の体系は,皇0)から離れて成立した数学とは

本来異質な も のである。にも関わらず,個々の操作があたかも数学の応用であるかのよう

に見える原因は , 以上の指摘によって,およその理解が可能になると思える。この種の誤

謬の例について考えてみよう。

山田寺金堂は, 以前福摘したように 7) 3 間 X2 聞の身舎に 3 間 x2 閣の裳階を巡らした

平面を持 っ てい る。 正面総聞は 15m丁度,側面総間も 12m丁度であり,正面は等間 3 聞に

割ってい るため. 大尺 ( 略35cm ) でも小尺(略30佃)でも完数が認められず,完数住閣を

生み出す33. 333 ・・ ∞と し 寸 持異な造営尺度が想定された。指摘したように,この遺構は小

尺で計画されたとしか考えられないが,なぜ当初,小尺が否定されたのか考えてみよう。

50

小尺を想定すると,正面柱聞は 16. 666・・尺という端数値を持つ。端数値柱聞が否定され

た原因は,柱間寸法が完数であることを例外のない前提と捉えたことにあるが,つまりは

数にだけ注目したことに起因する。小尺によって生み出される端数柱聞は,総間 5 丈の 3

つつ割りである。小尺を擁護する立場が注目したものは 5 丈の「長さ J 自体であり,結果

としての数(住閤寸法)には特に意味を与えていなし、。この解釈は明らかに実用算術,あ

るいはもっと源初の操作を想定している。ところが数自体を対象とした操作だとみると,

無限循環を繰り返す端数寸法は我慢のならないものとなる。近代の数学的常識が数にだけ

注目することを強要し,このことが小尺を排除した判断の根底に横たわっているのである。

一方,薬師寺三重塔の身舎二重の柱間では,総聞を17尺(天平尺)として中聞を5.60尺

脇聞を5. 70尺としている。わずか 1 寸だけだが,中間ミ脇聞という制に抵触しでいる。こ

れは 17尺という総聞を 3 っ割りにしつつ,寸の単位で丸めたためだとみられるが,こごに

は「長さ」の操作に加えて丸めるという数自体への注目がある。しかしこれは,最初の操

作が数に対する操作ではないのだから数学的なものではない。しかし実用算術といえども

数の自然的特質を数学と共有し,数そのものへの関心を余儀なくされることを示している。

実用算術的な操作を基礎に,数自体への注目も加わること,このことが奈良時代の完尺柱

間計画の特質を象徴しているのだと思える。

飛鳥時代と奈良時代では,すでに数への注目の仕方が異なるともみえるかも知れない。

しかし建築設計技術のように,実体に則して複雑に主企の大きさを制御してし、く技術体系

は,人類が経験してきたさまざまな,ム0)の,そして数の扱い方を重層的に含んでいると

みるべきである。例えば『匠明』に度々みられる「三分ニ割リテ弐分可用J などの表現は,

数だけに注目していれば r三分二J と L 寸分数として表現されるものである。この種の

分数は私たちになじみ深いが,紀元前後に完成し,奈良時代にテキス卜とされた中国の数

学書『九章算術』においてすでに見られる表現である。~匠明』の中にも「三分壱J ない

し「三分壱算」など,確かに分数とみれる表現もあるが,上に挙げた例は,これらの表現

とは性格が異なっている。それは,①( 1 つの)対象を 3 つに<わる>,②この断片を 2

つく加えた> r長さ」を採用する,というこ回の操作の過程を表明しているからで,操作

の対象が数そのものでないことが明らかである。この表現が本質においてリンド・パピル

スの演算に似ていることは偶然ではなし」これこそ~を数を手掛かりに操作するときの,

人類の普遍的方法のひとつだからである。したがって,この操作が2/3という分数と同じ

結果になっても,これは分数ではありえない。まして「三分ニ割テJ を「単位分数J など

としてはならないのである。~匠明』の操作は,皇笠を制御すると L 寸視野に密着してお

り,数によって記述される背後に確かな主企の手応えを予感させるのだといえる。

..r 2 に対する解釈も,さまざまに論じられてきた。例えば,河津優司氏と渡辺勝彦氏と

が指摘した「ハカクの大免J (正八角形柱の一辺) a) は,代数的に表現すると一辺が ..r 2

を含む数式で表される。両氏の指摘に対し,一辺の長さが無限に続く端数値となるから,

これに忠実な長さをとるはずはなく,端数は丸めたのだろうとする解釈があった。この解

釈は数の操作と主0)の操作とを混同していることが明らかである。建築は,私たちからみ

れば ..r 2 と L 寸無理数で表現されるような部材長さを,古くから用いてきた。例えば法隆

寺金堂の庇隅間(正方形の平面)には,対角線に繋梁が配されている。この梁の真々寸法

は隅間一辺の ..r 2 倍に当たるが, しかしこのことが,飛鳥時代に無理数の概念があったこ

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とを証 し ているわけではなし、これは主2の操作の結果を,数にのみ注目するとあたかも

数学的知識を持っていたかのようにみえる例である。同じことが「ノ\カクの大免」におい

てもいえる。別に無理数を知らなくても,そして数自体を操作しなくても正八角形は作れ

たはずであり,そのような技術がなければ建築が実現できたはずがなし、からである。この

誤解は,主0)に則して行われた過程を,現代風に代数を用いて説明した途端,その説明に

引っ掛かつて皇2の操作と数の操作とを混同してしまったという初歩的なミスである。し

かし木割書の表現が主企の操作を確実に説明するために,数の操作であるかのように表現

せざるをえず,そしてこのことが設計技術の変容を押し進める潜在力となりえることにも

注意する必要がある。私たちがミスだと指摘するような現象が, ミスが原因ではなく,過

去の建築技術の中に潜在していた可能性も高いのである。

「ノ、ヵクの大免J に対する第三者の解釈を批判することは簡単だが,批判している先か

ら別な場面で同じような過誤をおかしかねない点に,設計技術の解読の難しさがある。そ

れは工匠たちが数を形容詞のようにみていたのか,名詞としてみていたのか,いし、かえれ

ば,主0)を数を用いて制御しようとしていたのか,数を数によって制御しようとしていた

のか,このことを見極めることが意外に困難なためであり,さらに,このように異質な 2

つの操作が混在することにすら,無自覚な場合が多いためである。

プラトンの実用算術と数学との分類が,直ちにこの 2 つの場合に当てはまるとはいいき

れない。しかし,数に関わる操作は以上のように分けることができ,数学は,少なくとも

数を数によって制御しようとするものに属してしゅ。そして応用数学は,ム0) と主2との

関係,あるいは主0) と数との関係を,数と数との関係に置き換えて理解し,制御する。こ

のため,みかけ上数学との差はないといってよい。そして建築史家たちも数学史家たちも,

過去のさまざまな数の扱いに対して,あたかも応用数学の問題を解くような態度で接して

いる。つまり,すべてを数と数との関係に還元してしまい,その上で,数の扱いが稚拙で

あるとして,未発達な数学と断定し続けているのである。このように,なにもかも数学と

みなしてしまう現在の視野にとって,プラトンの分類が衝撃的なものであることは間違い

がない。私たちは過去からのメッセージを手掛かりに,そろそろ近代の硬直し始めた枠組

みから抜け出てもいいころではないか。そうしなければ私たちは,いつまでも過去をみて

いると錯覚しつつ,過去の中に現在の雛形を,幻のように見続けることになるのだ。

1 )拙稿『“比例"論・ 1- 比例概念とその背景一』 史標 3 1991 ・ 3

拙稿『“比例"論. n - r比例J ・美・設計技術ー』 史標 4 1991 ・ 6

2 )カール. B. ポイヤー 「数学の歴史 1 工 :;1 卜からギリシアまで」 朝倉書店 1983

3.4 ・ 5)伊藤俊太郎「ギリシア人の数学」 講談社 1990

6 )矢野健太郎『幾何の発想』 講談社 1990

7) ~山田寺金堂の造営尺度について』 史標 1 1990 ・ 9

8 )河津優司『住宅木割書の研究 その 7 面砕と丸往』 建築学会梗概 1986

渡辺勝彦他『いわゆる『木砕之注文~ ( ~寿彰覚書~ )における堂・社・門の木割体系』

建築学会論文報告集 378 1987

註記:リバ・パピルスの問題は,ヴ7 ン・デル・ヴ7 Jl.iン『数学の繋明~ (みすず書房1984) を参照した。

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後記・執筆者略歴

大「ナルニア国ものがたり」についての後編を書くつもりであったのだが挫折した。ノートを取りながら

読み進めるという、慣れないことをしたのが大きな原因である。日を改めて出直したい。

(西本真一・日本学術援興会特別研究員、略歴は第 I 号に掲載)

大今回のラチスの腰掛けは著者の言うようにラチスをデザインとして用いていたなら極めてモダンな考え

方で面白い。全般に何気ない形態のものが多いがそれが時に意図的なものに思えてくる。

(西本直子・建築家、略歴は第 3 号に掲載)

ヲ貨 (安松孝・湘北短期大学非常勤講師、略歴は第 1 号に掲載)

大この 1 0 月に帰って来て今回初めて書いた原稿。今回未完成の建築をテーマにしてみたが、原稿そのも

のが未完成品になってしまったような気もする。これから書き綴ってゆくであろうことがらへの序として読

んでいただければ幸いです。

(太田 敬二・ 1 9 6 0 年生まれ/1 983 年早稲田大学理工学部建築学科卒業/1 988 年同大学院理

工学研究科博士課程単位取得退学/1989-1991 年DんO\D留学生としてミュンへン

工科大学留学)

大待ちに待ったフィールド・ワークの季節到来。 1 0 月初句のマレーシア、中句のラーンナー調査に引き

続き、 1 1 月初句はスコターイ調査に行ってきた。 1 2 月初句には東北タイ調査、新年はできればミャンマ

ーで迎える予定。ラーンナー調査にはどうしてももう一度行かねばならず、とにかく調査資料を整理する時

聞が足りないのが頭痛の種。

(成田剛・タイ国シンラパコン大学大学院、略歴は第 1 号に掲載)

大あなたが窮極の仕口を身につければ、すぐにでも 100 年もつ住宅をつくることができる。こんな簡単

なことが現在たいへんむずかしくなっている。明日からでもいいから身近な大工さんへ窮極の仕口を教えて

もらいたい。

(白井裕泰・早稲田大学専門学校非常勤講師、略歴は第 1 号に掲載)

大建築の外にばかり注目する習慣がついて、いきおい"無人の建築美の世界(写真やパース等) "からは

遠ざかりつつあるようです。外で遊ぶのもいいものですよ。

(堀 真人・鹿島建設、略歴は第 4 号に掲載)

大沢登さん、長期定期購読料受領いたしました。どうもありがとうございます。最低、沢登さんのあの定

期購読が続く限り頑張らなくっちゃいけませんね。沢登さんも是非一度投稿して下さい。質問でもいいです。

われわれの励みにもなります。原稿料はありませんが、是非是非一度お願いいたします。 ー

(河津優司・会計、国士館大学非常勤講師、略歴は第 1 号に掲載)

大15年ほど前、フィリップ・ソレルスという前衛小説家の、たしか「数一ノンブルJ という作品を手にと

った。観念的で美文調の表現が鼻につき、 50頁を超えるころにはうんざりし始め、結局読みきれずほうり出

した。 r比例j 論が深みにはまり、数について考えさせられるようになって、ふと、この本のことを思い出

した。もう一度チャレンジしてみょうか。

(溝口明則・文化学院建築科講師、略歴は第 1 号に掲載)

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本誌への投稿を歓迎いたします。論文、報告、書評、作品紹介、人物紹介、随筆等、内容は自由。

建築学以外の論考に関しても可。縦使いA4版の用紙にワープロ打ちの原稿 (40字 X4併子、上方余白は

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料で差し上げるほか、ご希望に応じて必要部数を実費にてお頒けいたします。必要部数をお知らせく

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TEL 03-3209-3211 ext. 3256、 FAX 03-3200・2567

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* 現住 * 場 *

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54

ーコ ー、也、、‘主主主E、 4

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