史標 shihyo 12 (6/6/1993)

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O.D. A.

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「史標J 出版局

発行1993年6月 6日

O. D. A.

ソルネス

ヒルデ

ソルネ・ス

ヒル-T

ソル、不ス

ヒル-T

ソル・不ス

ヒルJT

ソル、不ス

ヒルJT

ソル・不ス

だから、もう絶対に、-|絶対にそういうものは、もう建てな

いんだ!

教会にしろ、教会の培にしろ

(ゆっくりうなずき)人が住む家だけね.

人間の住居だ、ヒルデ

でも高い渚や、尖培の付いた家ね

できたらね

明るい調子になり)そう、ところで、||さつ

き言ったように、ーーその火事が、わたしを今日あらしめたんだ。棟梁

として、つまりね.

どうしてあなた、自分のことを建築家って言わないの、他の人み

たいに0・

ちゃんとした勉強をやったわけじゃないんでね。わたしの知識

は、おおかた独りで習い覚えたものだからね

それでも成功したじゃないの、棟梁さん

火事のお陰さ・庭のあらましを建築用地に分割してね・そして

そこへ、それこそもう思うように家が建てられたものだからね・それか

らあとはトントン拍子だ

(うかがうように初手を見て)あなたって、とても幸運な人なの

ね。そういう具合に行くなんて

(陰穏に)幸運?

あんたもそう言うのかね?

みんなと同じ

ように。

イプセン可棟梁ソルネス』第二幕、原千代海訳)

「史標」第12号1993年6月 6日発行

早稲田大学理工学部建築史研究室内

O. D. A. r史標j 出版局

169 東京都新宿区大久保 3-4-1

55N号館8階 10号室電話 03・3209・3211 内線 3255

目と免と面(1)

'明治"的手法とその根拠( 1 )

-r 美術の説』と f 美術真説』

目次

* * * * *

中・近世ドイツ語圏の建設関連史料試訳 1-2

~マテウス・ベプリンガーの雇用契約書 (1480年)

美術史と価値の複数化

~ハインリヒ・ヴェルフリンを巡って

* *本* *

アプシール発掘調査現場から出土したヒエラティック・インスクリプションについて

古代エジプト太陽の船復原レポート( 3 )

古代エジプトの家具 7

割前 * * 本 *

方位論ノート

撤積損徒然

* * * * 割前

後記・執筆者略歴・お知らせ (p.67)

河津優司(p.O l)

中谷礼仁(p.05)

安松孝(p.15)

太田敬二(p.21)

西本真一(p.29)

白井裕泰(p.37)

西本直子(p.4 1)

溝口明則(p.49)

高野恵子(p.59)

自と免と面( 1 )

河津優司

「目と免と面」

久しぶりに小難しい顔をして、固い頭を絞り、肩のこる文を書こうと思っていたら、那

須君からの第 2 信( fi'史標.!I 1 1 号)。

「あいつにもわかる文を書かなきゃいけないのか j

と思ったら、少々気が重くなってきた。

彼に、特別読んでもらいたいとも思ってはいないが、こうやって気になるってことが読

者を意において書くということか?

何だかいやな気分だなあ。好き勝手に書いて、誰にでも読んでもらえて、それでいて金

になるのなら、それ以上のことはないが、僕のまわりはいまだそんなふうになっていない

(そうなってくれないかなあ、と僕は大きな口を開けて待っている)。

多分にこちらの力量の問題もあるだろうが、それはそれとして、それはそれなりに、い

まだ失わずにいる楽しみも保持している。そこから早く抜けよ、と那須は言っているのか

もしれないが、そう簡単にこの楽しみを他人に手渡してたまるものか。

書くことによる余禄の歓びを禁断のものとはしないが、自分のために書く、という姿勢

は、おかげで掠め盗られないですんでいる。僕みたいに人づきあいのいい手合いはそうす

ることでしか正面むかつて自分と渡り合えないのかもしれない。

(それにしても、できることなら禁断の樹の実を腹一杯喰ってみたい)

というわけで、誰にも期待されないだろう、きわめて個人的な「目と免と面」の話が始

まる。

ふたたび「目と免と面」

このテーマの発端は「免」という木砕(きくだき)タームの出現にある。この「免」は

『木砕之注文.!I (中世木砕書)に見られるもので、大雑把に言って、良く知られている木

割ターム「面J と同じ内容を持つものと考えていい。その実、随分とその語の持つ背景(

パックゲランド)が違うごとはこの作業でもやがて語られることになるだろうが、とりあ

えず川、わゆる『木砕之注文.!I (fi'寿彰覚書.!I )における木割体系の特質J (渡辺勝彦・

岡本真理子・内藤昌 日本建築学会論文報告集 3 79) くらいのことは、最低限の読者と

して知っておいてもらいたい(知らなくとも筆者個人としてはかまわないのだが…)。

それはさておき、筆者の当面の興味は、ごの「免」が「面」と同じような性格を持ちな

がら、 「面」でなく何故「免」でなければならなかったのか、にある。この号|っ掛かりの

解読作業の先に、近世木割書における「住宅木割 j の特殊な位置付けの意味がいくらかで

も解明されるものと考えている。

以下、筆者のきわめて個人的な解読作業が展開される。

(いやに親切な書き手だ。どんな作業もいつもきわめて個人的なものと決まっている

のにね。こんな筆者ってほんとにいやだね。)

「目 J

「免J と「面」とを直接につなぐものは音の「めん」であろうことは想像に難くない。

「免」が「綿J や「緬j でなく「面」に置き換わった事情を取り敢えず措いたとしての話

である。が、 「免」と「面」をつなぐ音は「めん」だけではなかった。意外なことに「免」

も「面J も「め」と読む。変体がな・異体がな・万葉がなにおいては「めJ を/;(.妻・免

・面・目・米・馬の漢字で表記していた。したがって、中世、 『木砕之注文』において「

免」を「めJ と読んだ可能性がある。実際はたぶん「めん」と読んだだろう。しかし、そ

れに先行して、まず「め」ありき、それを「免J と置き、やがて「めんJ と呼ぶ、という

展開は考えられなくもない。そごで、 「免J の拠って来たるところを探るために、 「免j

自体の探求をさし措いて、 「め」をまず検討することにする。

ふたたび「自」

論の展開の仕方や作業方法には他の手もあるだろうが、ここでは論を展開するための作

業ノートとして、国語辞典の中の妨僅を記録してみる。

『古語大辞典JI (中国祝夫・和田利政・北原保夫編 198 3 年初版 小学館)によれ

ば「め j の項目は「目・眼」、 「雌・女・牝・妻j 、 「海布・海藻j 、 「係助詞(上代東

国方言) J 、 「接尾語(奴) J の 5 項目が揚がっている。一方、 『日本国語大辞典JI (1

973 年初版小学館)では上の項目に「芽|、 「名詞(方言) J 、 「字音語素(馬) J

の 3 項目が加わって計 8 項目。

「目・眼」や「女j や「海藻j が何故同じように「め j と発音するのかの探求はここで

はひとまず措くとして、とりあえず、直接関係しそうな「目・眼」の項をのぞいてみる。

『古語大辞典』

め[自・眼}

(一) (名) <:動詞「み(見)る J と同根。 rめ(芽) J とも同根か。他の語に上接し

て複合語を構成する場合には「ま J となることがある〉①動物の視覚感覚器官。@顔。

姿。@見ること。見えること。会うこと。④<: r ま(間) J と同源か〉網の目。継ぎ目。

編み目。⑤そのことに出会うこと。場合。境遇。⑥紋どころの一つ。方形の中央に点を

一つ打った形。

(二) (接尾〕①順序を数える語。②衡量の単位。一貫の千分の一。もんめ。

『日本国語大辞典』

2

め{自・眼】

[ー] (名〕

(一)人や動物に備わる感覚器官の一つ。光の刺激を受けて、外界の状況を知るための

器官。普通、人をはじめ脊椎動物のように頭部に二つあって対をなすものをいう。動物

の種類によってその個数・位置・構造・機能は異なり、一様でない。まなこ。①眼球・

根験などを含む視器全体をいう。②視器の主要部分である眼球をいう。人をはじめ脊椎

動物のものは、輩膜・脈絡膜・網膜に包まれ、その内部に水様液・ガラス液を満たし、

レンズのはたらきをする。目玉。目の玉。@人の顔の中の、①のついている位置・高さ

を表す基準としていう。

(二)日のはたらきをいう。干見覚をつかさどるものとして、また、,む↑青を表出するもの

としての眼。①ものを見る目。また、モのはたらき。ものを見る動作。 I 自につく J I

日を離す J r 日を配る J I 日恥ずかし j などの形で用いる。②特に 、 恋しくおもう人を

見ること。男女が会うこと。③対象を見る目の向き。視線。 1 日をそばめる J r g を引

く r 日を注ぐ日が移る j などの形で用いられる。④目の様子。めっき。まなざし。

また、日で情意を表すしぐさ。自の表情。日づかい。目顔。 r 目を見す J 日で知らせ

る J r 日で殺す J r 日に物言わす j などの形で用いられる。⑤日で見た感じ。それを見

るときの気持ち。 I 日を驚かす日を喜ばす j などの形で用いられる。@(限定の語

を伴って)その立場に立って見ること。それを見る立場。見方。⑦対象を正当に認識し

評価する力。鑑賞、鑑定、洞察、識別などをする自の力。眼刀。見識。めがね。 r 目を

肥やす I r 日がきく I 日かしごし j などの形で用いられる。@眠るごと。睡眠。 r夜

の目 J@好意、晶展(ひいき)などの心ざし。そのような心ざしをもって見ること。 1-

日をかける J I 目を入れる j などの形で用いられる。⑩にらみつけること。にらんで叱

ること。また、そのしぐさ。目玉。お目玉。 I 日をもらう目をする!などの形で用

いられる。⑪動物の自に準ずる機械の作用。光学機器や電波探知機などの、物の像をつ

くりだすはたらきを比喰的』こいう。 r カメラの日 J ミクロの日 J レーダーの日 j

(三)見る対象をいう。①見る対象となる顔や姿。特に、 「君が r妹がJ などの限定

を伴って会いたいと思う人の顔や姿をいう。上代において多く用いられた。②自に見え

る姿や様子。 I 日の目 J r人目そばめ j などの形で用いられる。@日に見る姿、楼

子の意から転じて、その者が出会う、自身の有様、境地、境遇。めぐりあわせ。体験。

「憂き目 J つらい日 J

(四)位置、形状、価値などが自に似ている形状をいう。①事柄の中心となる点。また

は重要な点。物の中心。中心にある穴など。 I 台風の日 J ②目、特に眼球を思わせる形

状のもの。 (a)双六(すごろく)などに用いる饗(さ Lサ面につけられた、ーから六まで

の点。 r賓の自 J (b)文様、または、紋所の名。方形または菱形の中心に点を一つ打った

図柄のもの。紋所には旬、つつめ J rかどたてひとつめ J I じゅうろくめ j などがある。

(c)鏑矢(かぶらや)の鏑にあけた穴。通常、三ないし八か所にあける。 (d)幕の部分の名。

軍陣に用いる幕にあけた物見のための穴。全部で九つあけ、上の二つは大将、中の三つ

は臣下、下の四つは諸軍勢の物見とする。また、との二つは日月を、中と下との七つは

七曜を表すともいう。 (e)縫針の、糸を通す孔。めど。耳。

(五)連続する、物と物との隙間(すきま)。間の区切り。区切りをつける線条。また、

3

そのように刻まれたもの。①交差する何本もの線条の聞にできる隙問。(司織られた糸と

糸との聞にできた隙問。織り目。布目。 (b)網、寵、垣、建などの、編まれた聞にできた

隙問。編み目。 (c)碁、将棋、双六の盤や方眼紙などで、縦横の線によって区切られた中

の部分。縦横に交わる何本もの線の間にできる空所。 (d)囲碁で、連結が完全な石で囲ん

である一つ、または連結した二つの空所。また、交互の着手によって最終的にそうなる

形。個別に二つ以上の日がある一連の石は、イキといって絶対に取ることができない。

(e)隣接する物と物との聞の隙問。板や瓦を並べ合わせたときにできる際問。 r板目(い

ため) j r 目張り J r 目塗り」②聞をおいて並んでいる線条、または、稜(りょう)。

(司撮臼(ひきうす)、播鉢(すりばち)などの、物をすりつぶす面に立てた筋。 (b)鋸(

のこぎり)の歯、三つ目錐(きり)などの先。鎗(やすり)の面などのように、多数に

立てた稜を持つ突起。 r鋸の目 J r鋸の日 J (c)木材の縦の断面にあらわれる筋。 r 正日 J

f 木目(もくめ) J (d)道具を使ってできる筋目。帯で、掃いた後や櫛けずった後の筋。

(六)空間的、時間的な切れ目。二つの物、あるいは二つの事態の区切りや接点。転じ

て、物の条理、また計量の区切りや、単位をいう。多くの場合、動詞の連用形と複合し

て用いられる。 r切れ目 J r切り目 J r分け目 J r折り目 J r裂け目 J r境目 J r合わ

せ目 J r繋ぎ日 J r綴じ目 J r くけ日 J など。①物を切り離し、または合わせた箇所に

生ずる線状の痕跡(こんせき)。または離合する先端の部分。②異質の物が部分的に混

在する部分。 r焦げ目 J rよごれ日 J など。③異なる状況に転ずる境目。状況が転換す

る時点。その間際。動詞の連用形と複合して用いられる。 r死に目 r弱り目 J r落ち

目 J r 金の切れ目 J r時候の変わり目 j ④物事の条理。筋道。筋目。普通には「文目(

あやめ) J という。⑤計量・計測のために、秤(はかり)その他の計器類に刻んだしる

し。計量、計測の区切りを表すしるし。目盛(めもり) 0 -)自に掛ける。⑥秤、または

析(ます)ではかる量。量目(りょうめ)。目方。秤目(はかりめ)。析目(ますめ)。

「出目(でめ) J r 目減(めペ)り J r 日が足らぬ j →目に掛ける。⑦器(うつわ)の

容量。全量。転じて、物事の可能な範囲。 r 目いっぱい J r 七分自 J 目八分 J ③近世

における銀貨の量目の単位、匁(もんめ)の略。ーの位の数が零であるときにだけ用い

られる。ただし、十を除く。

(七)近世から明治時代にかけて行なわれた茶商の符丁で、八の意。

[ニ] (感動〕

日をむき、にらみつける動作に伴って発することば。特に人を叱ったりたしなめたりす

るときに用いるが、実際の発音は、 「めえ J ないし「めつ J となる。

[三] (接尾〕

①数詞のあとに付いて、初めから数え進んでひと区切りをつけた、その区切りまでの数

を表すのに用いる。②形容詞の語幹、動詞の連用形などに付いて、そのような度合い、

加滅、性質、傾向の意味を添える。 r細め J r長め J r控えめ J rおさえめJ など。現

代では、形容詞の連用形に付けていう場合がみられる。 r細いめ J r 長いめ j など。〈

補注:> r め(芽) J と同語源とされる。 r まぶた J r まつげ j などの複合語に含まれる

「ま J の形もあり、 f 見る j と同語源か。〈語源説:> (1) ミエ(見)の反〔名語記・日本

釈名〕。ミエ(見得)の義〔日本語原学二林嚢臣〕。ミエ(見)の約〔国語本義・大言

海J (2) ミ(見)に通ず〔日本釈名・国語蟹心紗・燕石雑志・言元梯・ (この項続く)

4

"明治"的手法とその根拠( 1 )

-r 美術の説』と『美術真説J

口いわゆる明治について

中谷礼仁

カイゼル髭は辰野金吾につきものだ。教科書を通して, I明治j とつきあってきたぼくたちに

は少なくともそうだ。あの屈強な髭親父の像をほくたちも「辰野金吾」と呼ぶ。しかし髭なんて

ハゃそうにもノぴもしないハタチそこそこの辰野が何を語っていたのかなんてことは,その像か

らは伺い知ることができない。あの髭面は「明治j が半ば歴史として葬り去られつつあった時代

に撮影された,いわば形骸化されたシンボルではないのか。いわゆるおかたい「明治J を象徴し

ているあの髭面から明治"を生きていた様々な意識に遡行するには,いささか難があり過ぎ

るといわざるを得ない。

確かにこの20年ちょっとの聞で, I 日本近代j の量的成果は上がった。ぼくたちは錯綜した,

多元的な,ほとんど大文字の物語なんて語りょうもないほど,ゆたかな断片に飾られている。し

かしそれらの多くがまた本質的ではなかったことも事実だ。それらは何故か明治における「建築j

という概念の当初の成立過程を問わないまま,半ば権威化してしまっている。 70年代当初にそれ

なりの役目を果したとされる長谷川尭にせよ村松の空白を埋める意味での「反近代j にすぎなかっ

たし,早稲田の日本近代ゼミで,新入生に最初に教えるガイドブックはいまだに稲垣の f 日本の

近代建築 上・下』 η でしかないのである。少なくとも頭をガツンとやられたような本に出会え

ることは少ない。

そのような状況の中で,ぼくたちはほんの100年前の人々と話をしてみる必要を感じていた。

「洋風建築j の移入過程が明治政府の近代化政策に伴って始められたという常識をほくたちは知っ

ている。 r建築J という概念自体,その地点においてしか意味的に成立しなかったことも知って

いる。それなのにぼくたちは「建築」という言葉を,何のみさかいもなく様々な領域に,果ては

隣の新築お知らせ看板にまで広げている。この状況は鍛え直せるならそうしたほうがいい。

つまり現在的課題とは明治"とぼくたちとが全く関係を持っていないかのように見える点

である。それは全く逆のように聞こえるかも知れないが、いわば「建築j をめぐって[語る J 主

体と「語られる J 対象との境界が、暖味で未分化なままズーッと続いてきているからである。そ

こでは"明治"のみならず結晶することのなかった種々のプラスティックな建築論が腐りきるこ

ともなく放置されている。おそらくこれまで日本近代において展開された建築論が,批評される

契機を常に持ち続けていれば,事態はより風通しの良いものとなったはずである。だから少なく

ともこれからは,これまでの言説をそのままのかたちで重ね書きしてはいけない。 Iテクストの

現前に直面する者の優位は何かj と蓮見重彦は問うている。それは「内容とともに形式をも読み

うるという視点を獲得することj にほかならない。ぼくたちの能力は脆弱であるかもしれないが,

'1 r 日本の近代建築[その成立課程] 上・下』稲垣栄三著、鹿島出版会、昭和54年。

5

この論のたて方は個人的な理由とは関係なく重要である。

でもこれは予想以上に難問だ。"明治"建築論は驚くほど観念的なのだ。そして,そこに介在

する設計行為者たちの「主体性j のありかをもまた問わなくてはならないだろう。明治における

建築が充分に「政治的j であったという前提は,そこに設計行為者の「主体性j が存在しないと

いうことを意味しない。 r政治」と「文学j とを分けることが本質的でないことと同じことであ

る。

さて今,ぼくたちにキーを与えてくれるのは , r美術j という言葉である。

口河合浩蔵「美術の説j

明治時代は言葉の発明が盛んに行われた時代であった。しかしその運動は,具体的に何を指し

示しているのか,深く考えるほどさっぱりわからない言葉の群れを生んだ。ここで本題としたい

「美術」という言葉もその一例である。

ここでためしに広辞苑・第 3 版で「美術」をひいてみる。

美術(ビジュツ)…差を表現する技盤,すなわち蓋盤。空間ならびに視覚の美を表現する芸術,すな

わち造形芸術。絵画喝彫塑,建築,工芸美術など。

ここでの「美術」と I美を表現する技術J は同義反復である。つまり「美術j とは指し示され

るものがあいまいで,空虚なシーニュでしかない。この新しい造語につきものの特質は, r美術j

を設計方法の根幹においた"明治"建築論にも影響を与えていたはずである。

明治21 (1888) 年,創刊間もない[建築雑誌~ 21号に, r美術ノ説」という"明治"建築論が

掲載されている。筆者である河合浩蔵は,安政 3 (1856) 年生まれ,工部大学校を明治15 (1882)

年に第 4 回生として卒業した後に関西方面で活躍することになる建築家である円。彼はこの論に

おいて[美術j 概念を援用しながら論を展開している。

先に種をあかしてしまえば河合の言説の大半は,明治15年に発表された,当時の「お雇いj 哲

学者A ・フェノロサの I 美術真説』をそのまま書き写しているようなものだ。しかし論的な構造

において,とても大きな両者の差異が存在する。それは以下のような部分に表れている。

抑も我造家学は工部の部内に入る事を得るといへども尋常の工学と大に異る所あり,同じき所は物理

を云ふなり,異る所は美術を云ふなり.央れ美術なる物は実地万有の形象守容し其神と質とを想像模写

しE之を奏合錯綜し千状方態来た曽て有さる新奇妙々の形状を現出するの術にして其結果たるや麗然と

して自然に形神を具有し唯一完全別に天地あるが如きものなり。故に造家の本理を探らんと欲せは必す

美術に依らさる可からす。

蓋し建築は外部を以て衣裳とし内部を以て精神とす。(アンダーラインは筆者)

1 r 日本では傍系に終始したドイツ派の異端の紋章であった。代表作に明治40年代の小寺家厩舎,明治37年の神戸地方裁判所がある。」建築家新建築198112月臨時増刊 J P. 22

6

この言説は表面的には矛盾しているといわざるを得ない。なぜなら美術的な物象である建築の

本質を「形神を具有し唯一完全別に天地あるが知きものj と結ぴ,フエノロサから援用した形而

上的な一元世界に求めながら,ただし「建築は外部を以て衣裳とし内部を以て精神とすj という

それとは異質な二元的な建築認識をも包摂しようとするからである。しかしその矛盾の存在から

彼の説を検討に値しない戯れ言のように扱ってはならない。この一文をめぐる意味は明治"

建築論の根を規定するものとして,詳細な検討を必要とする。 r美術J をめぐる一元的な把握と

二元的な把握の併合,その決して融合しない両者を対極に置きつつその聞を揺れ動く方法論にこ

そ明治"的手法の特質があると考えてみたいのである。

口フェノロサ f美術真説j

中村義一円によれば, r美術j の字句がわが国で初めて使われたのは, rウィーン万国博覧会

に出品をすすめるために全国各府県に発せられた,明治 5 年 (1872年)正月の参議大隅重信によ

る「出品差し出し勧請書j に添付された出品規定の訳文」内においてであるらしいことが,現在

わかっている。ウィーン万国博覧会の成果に学ぶところがあった明治政府は,貿易増進につなが

る伝統美術の奨励を目的に内国勧業博覧会を企て,明治10年と 14年に開催した。内務省により行

われた内国勧業博覧会は,建築も含め,当時の国内に存在していた様々な工芸に, r貿易美術J

という共同体聞の価値(世界市場における価値)を与え,対外向けの「ニッポンj 印の新商品と

しての価値的再生産を与えることに成功した勺。

明治15年に出版され,以後の日本における「美術j という概念のおおもとを決定したとまで言

われている A ・フェノロサの [ 美術真説』が,同年 5 月に行われた「日本美術工芸ハ果シテ欧米

ノ需要二適スルヤ否ヤj の講演筆記であることは 以上のような意味で象徴的であろうと思われ

る。フェノロサの貿易論としての講演が, r 美術真説』と翻訳されて,国内一般に流通したとい

う経緯は,見落とされやすいが非常に重要なテーマをはらんでいる。つまりこの意図的な翻訳で

もあった「美術j という言葉は,その初期において「国内j における様々な工芸を, r世界(こ

こではとりあえず西欧) J という新しい市場へ突入させるために加えられた解釈,言語装置でも

あったからである。さてこの有名ではあるが,図書館の隅に葬り去られてしまっている『真説』

をなるべく忠実に紹介してみることにしよう。なお本論に目次,小見出しは記されていない。各

章だてのテーマの設定,アンダーライン,文中の註(*)は中谷によるものである。

"1 r 日本近代美術論争史』求龍堂, 1981年による。

"2 これら博覧会的な日本的価値の検証は たとえば吉見俊哉『博覧会の政治学』 中公新書, 199:

に簡便にまとめられている。

7

題 |「フエノロサ氏演述大森惟中筆記美術真説全明治十五年十月 龍池会蜘|緒言| 「緒言J* r 美術真説』の第一声は奇妙なことにフェノロサではない。その緒言において,フェノロサ

の講演を公にすることの経過と旨が,龍池会という日本「美術j の振興を目的とした団体によっ

て報告されている。発表主体はあくまで龍池会である。大体の内容はこんな感じだ。

本年(明治15年) 5 月 14日,龍池会が上野公園内教育博物館の観書室にフェノロサを招待して開講

され,福岡文部卿以下+数名が臨場した。彼の論によって「我邦美術の特に万国に超絶せし所以の理」

を知るべきこと,また近来我邦における美術の衰退を指摘し,彼の美術の「真説J によって,美術に従

事する者たちが, r勉めてその考案を良くしJ r競ふてその技術を精く」すことによって, r我邦美術

の振興する以て庶幾ふべきなり J 。 と結んでいる。

本論 1 r 一般美術の本議(段落01 ~20) *ここからいわゆるフェノロサの部分が始まる。当論は意味的におおよそ 4 つのテーマに別れ

るが,その構成は割合はっきりしている。ここではまず,一般的な美術の存在を規定し,その性

質を定義することから始められる。

圃董術の隆替消長,童術挽回の方法としての美術考究の必要性 (01 ~03)

画術を研究する方法は, r宇内凡百の事物におけるがごとく J ,その「隆替消長する所以の本源j に

遡ることで,その末流(現在)がどこにゆくかを観察すべきである。それはあたかも「人生花木」のよ

うで司当初は「嬰児J のごとく.これを養うモノの力によって「成熟J し,一度「極盛の期」に達すれ

ば,だんだんと「衰頚j してゆくのは「自然」の勢いである。日本の画術も同様に,既に数百年前に

「精妙j を極めたが司年をおうごとにその勢いは衰えている。もしそれを挽回しようとするなら,その

「源因を討究せんことを要す」。いま「日本に於てその固有の美術を振起するの緊急なる」ことから,

これを論述する。

E善美としての美術の追及 (04)

二つの開化の人力 r世界の開化は人力の効績に外ならずJ ,そして「入力J の効積には 2種類ある。

一つは「須用( r人生必需器用を給する J ) J であり,もうひとつは「装飾(人の心目を娯楽し気格を

高尚にする J ) J である。

装飾=美術 r装飾なるものを名けて美術と称すJ 0 r美術j は「装飾J をその主眼としているが,

だからといって「須用」でないとしてなはらない。 r須用なるものは真に実用に適するが故に善美とな

り.美術なるものは善美なるが敢に実用 lこ過するに至るの芽あり I 。

善美としての美術の追及;ゆえに「美術j においても「善美J をなしているものこそが,その「美術」

たる本旨であることは明かである。 r美術の善美と称する所のものj が,まず私の考究する第一の問題

である。

8

-美術の種類 (05)

現在の文明諸国における「美術j とは.音楽,詞歌,書童,彫刻,舞踏などである。これらは美術の

名の下に「共有連帯の性質J を持っているが,その特殊な性質に関わる諒党には,間違ったものもある。

これからそれらについて「弁駁j する。

・間違った「善美j としての美術の例 (06~09)

第 r技量の精巧j を美術の善美とするもの。

第 2; r心意を愉悦せしむる事J を美術の善美とするもの。

第 3; r天然の実物に疑似する」事によって美術の善美とするもの。

以上 3 点は間違った解釈である。美術は「模写する物件の性質中に存することを知るべしJ 。

園美術の性質の定義(1O~12)

「美術の性質はその物件と他物との舛直の関係に非ずj 。外面の「関係は美術外の諸物に両属する J •

例えば絵に書いた果物を見て食欲がわくのは,食欲という外の関係によって生じるものであり,美術の

本質ではない。つまり「美術」の性質とは「内面の関係」にほかならないこと. rその事物の本体中に

在て存するや疑を容れずj 。それは「静坐潜心してこれを熟視せば神駆せ魂飛ぴ爽然として自失するが

ζ主主J (*いわゆる形而上的な)ものである。

・二つの「内面の関係J , r族集(グルップ) J 的と「全体連貫J 的 (13~14)

「内面の関係J には 2種類ある。ひとつは「篠集(グルップ) J 的であり,単なる集合にすぎない,

完全ではない。もうひとつは「全体連貫J 的でありー恰も「一分を欠けば全体立たず,全体なければ一

分も亦存する」事ができない関係である。後者を「了覚」若しくは「感応J という。

E全体連貫のキーとしての「妙想J (15~20)

後者のように「各分子互に内面の関係を保ち終始相依て常に完全唯一の感覚を生ずるものJ .これを

美術の「妙想アイジャJ .,という。 r天然の物件はその妙想を得ること J 完全ではない,つまり「妙想」と

は「形補変更すべからざる一極点j である。美術を善美にならしめるものはこの「妙想J である。

人々は外面の関係を追及するが,なお獲得できないのがこの「妙想」である。このことからもいかに

美術が社会に寄与するところが大きいかを知れ。 r美術家J は通常「職工」と同一視されているが,彼

らこそ「高徳の僧J といっても過言ではない。美術はほとんど「宗教j のごとしである。

本論 2 [ 各搬妙想、の差異(段落21 ~42)

*前章で一般的な美術,次いで「善美としての美術J を定義し,その構造を明らかにした彼は,

次に[美術j が「善美j たりえるキーである「妙想j についてその内容を詳しく規定する。

置美術的方法, r音楽J r重J r詩j における妙想の表出の差 (21 ~24)

「音楽J r壷J r詩J という分野のちがいは「旨趣J の妙想と「形状j の妙想との配合の差異によっ

事1 r妙想、j はその送り仮名からもわかるように, 1,仰の訳であろうと思われる。

9

ている。 r詩J では「旨趣」の妙想を主とし司 「形状J の妙想を次とする。 r音楽」は逆に「形状」の

妙想を主とし, r旨趣j の妙想を次とする。 r壷」は「楽と詩との間にある J 。

特に「童J において「形状」とは「回線.陰ES,色彩J の 3 者であり,その妙想と「旨趣J の妙想と

を「協和排整」することが重要である。

圃善美としての美術に必要なもの, rì湊合j と「佳麗J (25~28)

では一歩踏み込んで婁術の「善美ならんが為に要する所の諸般の資格を」論究しなくてはならない。

まず美術としての童術が「必ず完全純一J であるためには, r主J としての「緊合する一点j と, r客」

としての「他の部分j があるように「各部の布置」が適当である必要がある。これを名付けて「章の湊

合J という。また,壷中の部分的な「妙想J としての「佳麗J をも必要とする。 r佳麗」は童の一部に

すぎないから善美ではないが, (あくまでも部分的な妙想として) r佳麗J は存在する。

・旨趣と形状(図線,色粉,明暗) * r湊合j と「佳麗J =重の人格 (29~37)

以上のことを, r旨趣」と形状であるところの「回線,色粉,明暗J と組み合わせて八格として,婁

にそなわるべき性質とする。

すなわち「回皐の湊合J r濃淡の湊合J r色彩の湊合J r回線の佳麗J ri献の佳麗J r色彩の佳麗j

「旨趣の湊合J r旨趣の佳麗」である,骨としてこれらの詳細な説明に向かっている。

・八格を統合させるための力二つ, r意匠の力J r技術の力J (38~42)

そのほかにそれらを自在に操る力を「意匠の力J という。しかしこれだけでは「真正の美術j とはい

えない。またそれらを達成できる力を「技術のカJ といい‘含めて「童の十格J という。これらを基準

として諸派の善悪を鑑定する。

本論 3 [ 東洋の画,西洋の油絵,比較による検討(段落43~49)

*この部分は輩を中心に述べられているので割愛する。ここは今まで特にとりあげられている

有名な部分で,フェノロサの基準にもとづいて,西洋油絵をいたづらに模倣するよりも,日本の

伝統董に優れた点が見いだされることを述べた部分である。ただひとこと記しておきたいのは,

彼の基準によって, r西洋油絵j と「日本董j が比較可能なものとして扱われている点である oe1

本論 4 r 日本美術工芸は果たして欧米の需要に適するや否や?とその方法*最終にあたるこの章では,まとめとして対外輸出に必要な日本美術の貿易的価値を定める。

またその価値づくりに必要な政策を具体的に述べて終わっている。

・貿易美術隆盛のための二つの要件 (50~52)

美術はおおいに日本の実益に影響を亙ぼすものである。日本は「絹綿銅磁器又は木工等の美術品の輸

'1 ただし f 日本近代美術史論J 高階秀爾,講談者学術文庫, 1990年に簡単に要約されているので

を参照されたい。

10

出国J である。しかしその額は未だに僅かなものだ。 r彼等未だ知らず欧人何を要するを…鴎乎製造貿

易の萎摩して振るわざる亦怪しむに足らざるなり。 J

日本の工人の実情は憐れむべきものである。これを扶起するには二つの方法がある。第 1 に「善良の

材質友ぴ便宜の方法を求めんが為に経験をなすの意を奮起せしむるべし。」第 2 に新しい考案を奨励す

べきである。

・( r美術j 的資格に欠ける)文人画批判 (53~56) ・1

美術を奨励する前に「文人童J は,これを排斥せねばならない。文人章は「文学美術の妙想に外なら

な」いからである。 r唯行筆酒落たるの美あるも,是れ練熟の功にして,以て妙想を得たりとなすべか

らず。即ち旨趣に就てこれを論ずるも.その佳麗なるもの甚だ穿なり。」

圃重術の退歩する源因 (57~58)

*新しい妙想が生まれない,ただ過去におもねるだけの態度についての批判とともに,新しい「美術j

教育の必要性が述べられている。この場合の「美術j とは,単に絵の書き方を伝授するというような具

体的な方法以前に,新しい「美術」という観点をを教えること,つまり意識改革をこそ目指していたよ

うに思われる点は重要だろう。

・日本董術を起こす方法 (59~66)

美術学校の設立 (60 , 61) ,美術家への援助 (62) ,婁術の宣伝 (63-66) …美術協会の設立,博

覧会の開設,美術の講談会開催。 r外国に於て開設する内国博覧会の例に依り,取捨選択して殊に日本

の実用に適せしめ,以て実益を収めんことを務め,;1:',庶幾くは吾人糞望する所の正鵠に達するを得,以

て公衆を誘導し,輿論を提繍し,童家の巧拙を明にし,褒E乏を公にするを得,J3.つ童家をして互いに競

争勇進の気象を起こさしむべきなり j 。 以上がそのおおよその内容である。

口 3 つの地平と垂直な力

フェノロサの予期せざる,龍池会との合作ともいうべき f 真説』についての評価は,例えば以

下のようなものに代表される。

特に指摘したいのは,一つには彼がここであくまでも,鑑識と批評の芸術基準を作り上げようとしている

ことだ。そのものの内面の関係を保ってつねに完全唯一の感覚を生じるのが.美術の〈妙想アイジつであって,

妙想のあるかないかが美術と非美術とを区別する基準である,とする理論展開';1:,観念的であってしかし秩

序だっている。…従来このフ工ノ口サの説は司スペンサーの進化論的立場とへーゲルの観念論哲学の思想的

重茎の結合したー我が固において唱矢とみるべき美学的な著述として丁寧に解釈されたり,また,なんの変

哲もない通俗的な観念美学の解説にすぎぬとみなされたりしてきた。…いず‘れにしても当時,それの与えた

事1 ここではじめて「芸術(ゲイジュツ) J の用語が用いられている。( r文人霊は他の芸術の墨

すべからず…量に陶銅器の製造を改進するの効なかるべしJ 0 )この用語法からは,美的な「技討

を指していた,近世以来の用語として用いられている。

11

影響の大きさだけは,疑いがないようにみえる(アンダーラインは筆者)01

しかしこのようなまとめでは,この説が「与えた影響の大きさ j の理由を把握することはでき

ない。ぼくたちはもはや直接的な可能性を見いだすことのできない「進化論的立場j や「観念論

哲学j に規定されたテクスト= r 真説』の内容に埋没することはできなくなっている。この本の

当時与えた影響を把握するには,その「内容j の背後にある発言者ならびに読者が共有していた

前提的な構造を検討しなくてはならない。ぼくたちは今,以下のような点を新たに抽出できるだ

ろう。

まずフェノロサは 3 つの価値地平を設定しているように見える。高いものからいえば,

それは「善美!と称される. r内面的|な追及によって嬉得される -7王的な地平.

つぎに「開化の人力|と称される f須用=実用!と「装飾=美術|で構成されたこ元的地平で

ある。フェノロサはこのレベルを「善美j にはなりきれない「一般美術j の生まれる地平と規定

する,と同時にここは「開化」と表現される近代化,対世界化の価値を決定する前提でもある。

つまりこの位相にあってはじめてモノは「一般美術j となり,対「世界j と交換する価値を身に

まとうのである。

そして遠く隔たった最下層に未聞の地平が広がっている。それは以前に存在していた異なる価

値によって規定されたモノ(例えば文人画)がうごめく骨董的な空間である。

見るべきなのは前二者の関係のみではなく三者が形成している構造である。それは「美術j に

よって語られる新しく挿入された「開化J の性質をあらわにする。フェノロサたちが今後の「日

本美術j をつくりだすにあたって「文人董j を退けなければならなかったのは,それが国家聞の

流通に通用しない局所的な価値に規定されていたからにほかならない。挿入された「開化の人力J

とは,比較しようのないモノを翻訳可能にしてしまうような価値地平である。ここにおいて始め

て国家は例えば,貨幣という抽象性を仲立ちにして,かつて「比較しようのなかったモノ j を売

買することが可能になる。だから「開化j 地平によって初めて売。物として存在可能となる「日

本美術j と,その地平上において明治政府が買い上げることができた「洋風美術J には,比較可

能な統一性を前提とする「異質J な両者という奇妙な関係が取り結ぼれているのである。ついで

彼はそのような「異質j さを統一する「善美j という地平を規定するが,そこでは[西洋=泊絵」

と「日本=董j という比較不可能であったモノが最終的には同ーの価値基準で測られうる,真の

「美術j 的エッセンス「善美j に到達するのである。以上のような「美術j という価値に付着し

ている特性は,こう言い換えることもできる。つまり統一へと向かう幻想は複数の「国家J の存

在という異質なものを前提にしているという事実である。しかしその「異質j 存在自体は交換を

可能にする統一的な価値を逆に必要としている。それらの循環構造が世界資本主義システムと表

現されるところのものであることは,もはや言うまでもないことだろう。

'¥ r 日本近代美術論争史J 中村義一著,求龍堂,昭和56年

12

以上のようにフェノロサの「美術j をめぐる構造を,彼の講演の本来の題名通りに「貿易物と

しての日本美術j 論として整理してゆくと, r開化j の地平において「一般美術j と対立的に規

定された人生必需器用を給するための「須用j という概念が本来的に不要なキーワードであった

ように思えてくる。実際, r須用J は初めの方に軽く触れられているに過ぎないのだが.\最終

的にはこの「須用J も, r善美」として f美術J に統一されえると彼は述べている。

そしてこの 3 つの地平をつらぬく番古な力(人為力)が存在している。これによって日本の骨

董は,例えば「教育j を通して,売り物としての「装飾美術j となり,最終的には「妙想j を通

して「善美としての美術j に統ーされるのである。 r装飾美術j が国家の存在を前提としている

かぎり,新しい価値付けを促そうとする「教育j も政治的であり, r善美J という均質の神へ向

かう表現過程である「妙想j もまた「装飾美術j という政治に規定されている。彼からすれば充

分に装飾美術的であった建築に「妙想j を持ち込もうとした河合も同様に政治的でありながら,

また充分に「人為J =主体的でありえるのである。また「人為力」に比して「自然j ははなから

相手にされていない。なぜなら「自然j はそれだけでは価値を生まないからである。この場合,

価値を見いだすのはあくまでも「人為j なのである。

~

?

QQQ

.1 段落04を参照のこと

13

f 美術真説』と比較することによって明らかにされた河合の説の特質は,一元的な「善美とし

ての美術j 概念を援用することによって,国家を前提とする一般的な「貿易,装飾美術J の一部

分として制限された"明治"建築の意味をズラしてゆこうとした作業であった。しかしこの試み

は全く失敗したといってよい。フェノロサにおいては, r二つの開化の人力j として, r須用j

の範時と「装飾美術j の範時とがまず別物として規定されてはいるが,彼が付言しているように

それらは「善美j によって比較可能的に統ーされるのである。しかし河合の場合,建築はあくま

でも「内部的精神一物理J v s r外部的装飾一美術j という対立によって成立していることを疑

うことさえないのである。つまり一元論を希求しながら, r建築j 的意識は二元的な地平を全く

超えることができない。これは不思議なことである。フェノロサの仮説はそれがリアリティを持

っか否かに関わらず,その構造を認めることはたやすいからである。ぼくたちはその不思議さの

根拠を,これから問わねばならない。

本稿を終わるにあたって一つ定義をしてみたい。それは,建物毛う〈る業非(今,便宜上[建

築j という言葉なしで表現してみた)における日本近世以前η と明治とを明瞭に分ける一つの差

異は, r近代国家J 的政策と「建物をつくるという行為j 自体とが離れがたく存在してしまう観

念的な諸制度の存在の有無に集約されるのではないか,という点である。もちろん奈良の頃から

社や仏教寺院は「国家j 的な関わりにおいて存在してきた。だからここでいった"明治"をこれ

からは, r世界(資本主義) J 的な地平から「日本国J を意識せざるを得ない状況にともなって

表れてきた国家的政策としての建物を作る行為= r建築J 世界のあり方だけを表現している,と

言い直すことにしよう。

"1 ぼくはここで近世以前のイメージを政治的なものとかけ離れた純粋な「建築j 的世界のようド

ているかもしれない。しかしそれは作業的な仮説に過ぎない。

14

a ・ 4)

中・近世ドイツ語圏の建設関連史料試訳 1-2

マテウス・ベプリンガーの雇用契約書( 1480年)

(前稿よりつづく)

安松孝

21 und dem ist also das unns der jetzgemelt maister Matheus Beblinger von Esslingen

22 versprochenn und verhaissenn hautt das er dem minster und werck desselben unnser

23 frowenn pfarrkirchen bawes sein lebtag ganntz auss und als lanng er lebt mit sainer

24 kunst und maisterschaft getruwlich dienen ausswartten versechenn und dem bawe der

25 egenannten pfarrkirchen ausswendig unnd innwenndig wie wir oder unnser nachkomen

26 an der pfleg in pflegersweisse im das ie zu zeittenn von bevelh wegen unnsers herren

27 burgermaister und rautes hie zu Ulme bevelhenn werden und auch sust was er

28 schedlichs an dem bawe gewar wurde notdurfticlich versorgen soll unnd wolle nach

29 desselben bawes ere nutz unnd notdurft

b・ 4)

また前述のエスリンゲンのマテウス・ベプリンガー親jjがわれわれに約束した通り、 rrr]人はミユ

ンスターと聖母教区教会堂建設工事に、同人が生存している限り終身で、自らの技芸と熟練によ

って誠実に仕え、専念し、管理し、前述の教区教会堂の内外で、われわれとその後任者が、わが

ヘルである当地ウルムの市長・市参事会の命により、ププレーガーの職務においてその時々に命

じるように、またそのほか堂人が建設に害を与えると気づいたものを、必要に応じて管理しなけ

ればならず、またこの建設の名誉、利益、必要に進んで従う。

c・4)

21 dem ist also das ...: es ist an dem, daß …が「…のことは本当だ」という意味であり、ま

た dem ist nicht so が「そうではない」という意味であるので、この文節は daz 以下の通りであ

ることを示しているのであろう; 24 getruwlich > getriulich: 誠実に.M恥iJ ; 24 ausswartten >

auswarten: warten bis zum Ende; �erdauern; obliegen (専念する).FnhdG; 24 versechen >

versehen: Vorsorge trefen (準備・配躍する), verordnen (命令する). FnhdG ; 27 bevelhen>

befelhen: anvertrauen (任せる)FnhdG ; bevelhen: 任せる:命ずる. (bevalch / bevolhen); 28

gewar wurde: > ee gewar werden (sîn): に注意する、に気づく

15

a ・ 5)

30 er haut auch unns und unnsemn nachkomen versprochen und verhaissen das er sein

31 lebtag ganntz auss hausshablich hie zu Ulme in der statt sitzen und belibenn und ob dem

32 vorgenannten unnser frowen minster und bawe ausswendig und inwenndig als vorstaut

33 nach aller notdurft mit seiner kunnst und arbait sein und warttenn das notdurffticlich

34 versorgenn und von Ulme der statt dehains wegs nit reitten wanndem noch komen so11

35 noch will denn mit unnserm oder unnser nachkomen pfleger des vermelten bauwes

36 guttem willen und erlauben

b-5)

同人はまた、同人が終生当地ウルムに定住して留まり、前述の聖母ミュンスターと建設のために、

前述のようにその内外で、すべての必要にしたがって、自分の技芸と労働によって管理し、これ

を必要に応じて処理すること、そしてわれわれと前述の建設におけるわれわれの後任のプフレー

ガーの同意と許可なしには、ウルム ftíから出かけて遍歴レ帰還するというようなことを望まず、

またそのようなことをおこなわないことを、われわれとその後任者に約束した。

c-5)

31 hausshablich> haushablich, -heblich: adj.(alem.schw臙.) ans舖sig. FnhdG ; 31 ob: 1 (1)

(a) 空間的に über, oberhalb, w油rend. (b) mit dat. od. gen. 原因・理由を表わす.A81df;33

sem: 動詞のsem であろうが、どう訳するかは判然としない; 33 warttenn> warten: (3) 気をつ

ける、配慮する、 gedenke an die sippe dîn, durch rehte liebe warte m 絜 (私と)あなとの親戚関

係を思い出し、本物の好意を示して私を助けてください• MhdJ ; warten: bewachen, verwalten,

pflegen. FnhdG ; warten: 11 (1)世話をする (2) et2 っかさどる、 seinesAmtes warten 執務する

(3) 監視する • K S ; 34 dehains > dehain: irgendein: kein FnhdG; 34 reitten > reiten: (1) (馬

などに)乗って行く (5) reisen KS (6) (obd.) fahren. > r羡en: (1)馬に乗る (2) 行く MhdJ ; 35

wil1en: auch Wohlgefallen: Einwilligung. FnhdG ; 35 denn 除外の dennI dann, niemand ist

gut, denn der einige Gott ただひとり神以外、良い者はいない。 Es sey denn vmb ehebruch 姦

通を行なった場合は別だが• KF ; > danne, denne, dan, den: III (ne +接続法 +dann の形で)す

るのでない限り .MhdJ

a ・ 6)

37 Der selb maister Matheus hautt unns auch versprochen und verhaissen das er sein lebtag

38 ganntz auss oder die wyl er des vermeltenn munsters und bauwes geswomer und

39 bestellter kirchenmaister ist sich dehains andem wercks denn der obgenannten unnser

16

相 frowenn pfarrkirchen bauwes weder innerhalb noch ausserhalb der statt Ulme nicht

41 verfahenn noch unnderwinden sol1 noch will in dehain weg denn mit unnserm oder

42 unnser nachkomen pfleger erlauben

b ・ 6)

またこのマテウス親 Jjは、[1>1人が終生にわたって、または前述のミュンスターと建設の、任命さ

れて宣書したキルヒェンマイスターである聞は、われわれとその後任のプフレーガーの許可なし

に、 1:述の聖母教医教会堂の建設以外の工事を、ウルム市の内部でも外部でも、決して引き受け

ないことを、われわれに約束したD。

c ・ 6)

41 verfahenn> verfahen: zugestehen; sich eines dinges verfahen: etw. untemehmen.

FnhdG; 41 sich unnderwinden > sich underwinden: auf sich nehmen. FnhdG ; との語とー

語-相。

d-6)

D. 中世後期の著名建築工匠の活動

中世後期の著名な建築工匠は、複数の都市の重要な建設活動の E匠長の地位を兼任ーする例が

少なくない。ツンフト制度における親方の営業権が、各都市別に枠づけられているのに対して、

異質な原理が作用している。建設関連職種のツンフト規約にも、大規模な工事に都市当局が[匠

長を任命する場合は、ツンフト規制の枠外となることが述べられている場合がある。

各地の重要な E事を兼任する例として、たとえば有力工匠家系エンジンガ一家の父祖ウルリ

ッヒ・フォン・エンジンゲンの活動をみてみよう。かれは 1392年から 1417年まで、ウルムのミュ

ンスターの L匠長であったが、さらに1399年にはシュトラスブルクのミユンスターの[医長に就

任し、同地でミュンスターの塔の建設指揮にあたった。またほぼ同じ頃、エスリンゲンの聖母教

会の工医長にも任命されている。これらの教会堂建設は、 ドイツ後期ゴシックを代表するような

重要な作例をもたらしており、とくにシュトラスブルクとウルムは当時のもっと大きな建設活動

であった。

都市参事会は有能な建築工匠を獲得するために、自ら都市のツンフト制度の枠組を崩して、

遠方から親方を招聴した。またほかの都市の参事会からの依頼を受けて、自らが雇用する建築工

匠を紹介する場合もあった。マテウスのこの雇用契約では、工事の兼任に都市、当局の許可が必要

であることを明記し、との点に関する権限の所在を明確にしている。マテウスは後に、ウルムの

地位を残したままでエスリンゲンの聖母教会の建設指揮を引き受けるが、その契約書においても、

エスリンゲンの現場に行くことに、ウルム市参事会の許可が必要であることが記載されている。

17

a-7)

43 dartzu so so11 er alle die visierungenn so durch sein vorfarenn kirchenrnaister �er das

44 rnunster und thuren der vorgenantenn unnser lieben frowenn pfar出rchennjetzo gernacht

45 und vorhannden sein oder die er inn der egeschribenn zeite seiner lebtag oder als lanng er

46 kirchenrnaister sein hinfuro selbs dartzu rnachenn wurdet nach seinern abganng oder

47 wann er nicht rner kirchenrnaister sein wurde dernselbenn unnser lieben frowenn bauw

48 und ainern anndern kirchenrnaister den unnser herren von Ulrne an sein statt besteUet

49 unnd auff genornen hetten werden und beleibenn laussen one allerrnengklichs i汀ung

50 unnd widerrede

b-7)

加えて同人は、先任のキルヒェンマイスターによって、前述の聖母教医教会堂のミュンスターと

塔に関して最近作成されて手元にあるもの、あるいはそれに加えて今後、同人が生存中またはキ

ルヒェンマイスターの任にある前述の期間に、白ら作成したすべての図面・模型Eを、同人の死後、

または同人がキルヒ ェ ンマイスターの任を離れたときに、ウルムのわがヘルたちが同人の代わり

に任命して受け入れた別のキルヒェンマイスターとこの聖母建設に、妨げたり異議をとなえたり

することなく、引き渡さなければならない。

c・ 7)

43 vorfarenn> vorfar: auch (Arnts-)Vorgänge工 FnhdG; 制 thuren > thuren, turn, turen,

tom: Turrn , Gef舅gnis. FnhdG ; (tür: 扉、人口.MhdJ は、単数 4 格がtür、複数 4 格が凶reな

ので、この箇所には該当しない) 44 jetzo > iezuo: 今、ちょうど今;先ほど . MhdJ ; 49 werden:

(4) jrn の手に帰する、与えられる • MhdJ ; auch zuteil werden. FnhdG ; 49 irrung: Stりrung,

Streit. FnhdG

d-7)

E. 図面・模型Visierung

Visierung という言葉は、中世末期・近世初頭ドイツ語圏の建設関連の史料の中に散見され

る。そしてそれらの用例から、この3葉は図面あるいは模型の意味であることがわかる。たとえ

ばレーゲンスブルクの1514年の石切:C"石積E ・石庄工の規約には親方作品の要求がみられるが、

親}j志望者の能hを判断するための実地の建設活動がない場合、粘 f: (lebtenn oder t勾1)で vIslr

を作成するように求めている。この場合は、 VIslr は模型を意味すると考えられる。 1526年のパー

ゼ、ルの石切工の親方作品の規定では、木あるいは厚紙(carten)で 3 階建ての建物のviesierungを作

成することが求められているが、この例も模型の意味であろう 。 他店、タンにおける 1495年のレ

ミギウス・フェッシュ親Jiの雇用契約では、 「平面のvyslerung を羊皮紙に作図する J とあって、

18

この言葉が図面の意味で用いられている。

また中 tlf:後期lの建築図面は、史料上に記録されるだけでなく、 ドイツ語圏各地に残存してい

る。マテウス・ベプリンガーが作成したウルムのミュンスターの西正面・塔の図面(図版 1 )も

残っている。模現の方は図面ほど古いものは残っていない。 ドイツ語圏にどのくらい古い建築模

型が残っているのかは確認していないが、ハンス・ヒーパーによって1519'"'-"1521年に作成された

レーゲンスブルクのツア・シェーネン・マリア教会の木製模型(図版 2 )、同じ作者による 1519

年のアウクスプールクのベルラッハ塔の木製模型などは、案者の知る巾では早い例である。

グリムのドイツ語辞典によれば、 Visierung の動詞型であるVlsleren はフランス語のVlser

から派生した言葉である。 visierenの古い用例としてつぎのような語義が記載されている。 r計測

しながら計阿する 、 正しい関係で、そして芸術の法則にかなった形で描写する;建築や造形芸術

の作品の下図を作成する;建築の図面を作成する j 。

図版ウルムのミュンスター西熔の図面

15世紀末、マテウス ・ ベプリンガーによる

出典) N Borger-Keweloh lJ1e mltlelalterhche Dome 1m 19 Jh

19

図版 2 :レーゲンスプルクのツア ・ シェーネン ・ マリアの筏型

1519-1521、ハンス・ビーバーによる

出典) Hítchc目k: German Renalssance Aπhltecture

a ・ 8)

51 darumb und umb solichen diennst wir im geredt und versprochen haben das wir oder ob

52 wir enw託ren unnser nachkomen an der pfleg in pflegersweise die weil er also im dinst ist

53 unnd den vor unnd nachgeschribner weise verwiset und nicht lennger alle jaur unnd ains

54 jeden jars allain unnd besonnder raichen und geben sollen newntzig gutter reinischer

55 guldin der statt Ulme werunng nemlich auff jede temperfasten in demjaur dritthalben

56 unnd zwanntzig guldin reinischer unnd dartzu in der behausung auff dem platz dar inne

57 maister Maurici sein vorfaren kirchenmaister auch gewesen ist beliben laussen

b-8)

そのような勤めのために、われわれは同人に、われわれ、あるいはもしわれわれが退任したらそ

の後任者が、プフレーガーとしての職務において、同人がその任にあって前後に記されているよ

うなかたちで管理している問、そしてその期間を越えることなく、すべての年ごとに、ウノレムの

通貨単位で90良ライン・グ、ルデ、ンを、すなわちその年の四季の斎日ごとに22 .5 ライン・グルデ、ンを

とくに与えること、さらにそれに加えて、同人の先任のキルヒェンマイスターにあたるマウリツ

イ親方Fが住んでいた広場に面した住宅に住まわせることを約束した。

c-8)

51 darumb und > und: als Bestandteil mehrgliedriger Konjunktionen , um einen adv.

Ausdruck Konjunktionscharakter zu verleihen (s.509), z.B.:升istan ぬ mite und ers ersach,

.. (Tristan, sowie (od. indem) er sie erblickte,…). PMS 357:3 Anm.l ; 51 umb: (3) (原

因・目的・関係)…のために; 52 enw舐en > en: (2) ne [否定詞]. envant < en vant (nicht fand).

MばJ; 53 verwiset > verwesen の現在 3 人称単数、 verwësen: zunichte machen; anjs. stelle

treten; verwalten, verwesen , versehen, sorgen f�. ML ; 54 raichen> reichen: (3) 差し出す

MhdJ ; 55 temperfasten> temperfaste: (schwめ.) Quatemberfasten (四季の斎日). FnhdG

d-8)

F マウリツィ親方(モリッツ・エンジンガー)

ミュンスター建設の工匠長の職務におけるマテウス・ベプリンガーの先任者は、モリツツ・

エンジンガーである。モリッツ・エンジンガーは著名工匠家系エンジンガ一家の一員で、 1430年

頃に生まれ、ウルムで先任の工匠長であった父マテウス・エンジンガーが1463年に没した後、そ

の後任となった。ウルムのミュンスター建設では、 14世紀末にウルリッヒ・フォン・エンジンゲ

ンが工匠長に就任して以来、エンジンガ一家が娘婿などを合め 5 人つづけて工匠長の地位を独占

した。モリッツは1477年頃まで、ウルムのミュンスター建設を指揮し、その後ベルンのミュンスタ

ー建設の工匠長などに就任、没年は1483年以前と推定されている。(次号につづく)

20

美術史と価値の複数化

ハインリヒ・ヴ、エルプリンを巡って

太田敬二

20世紀初頭のドイツでは文化・生活・学問のさまざまな分野において改革運動が大きな

高まりをみせようとしていたけ。この時期を代表する建築家のひとりとして,テオドール・

フィッシヤ一(1862-1938) の名前をあげることができる。フィッシャーについては既に

本誌第 7 号(1992年3月)に小論を書いたが{ヘその建築理念を追いながら密かな比較項と

して筆者が念頭に置いていたのは,ほぼ同世代の美術史家,ハインリヒ・ヴ、エルフリン

( 1864-1945) である。ヴ、エルフリンの著作の中にブイツシャーの名前は現れず,またフ

イツシャーもヴ、エルプリンには言及していない。しかし両者は共にミュンへンと深い関わ

りを持ち,彫刻家ヒルデブラント (3が両者を結び付ける位置に立っている。ヴ、エルフリン

とヒルデ、ブ、ラントは深い親交を結び,ヴ、エルプリンの美術史学に決定的な影響を与えた。

フィッシャーもまたヒルデ、プFラントの創作理念に強く共鳴し,フィッシャーとヒルデ、ブ、ラ

ントとの聞に交わされた書簡も残されている。理念上からも確認されるヒルデブ、ラントを

介した両者の親近性から考えて,フィッシャーとヴ、エルプリンが互いの仕事に全く無関心

であったとは思えない。とくにその鋭い観察眼でルネサンス・バロック建築の特質を描い

て見せたヴ、エルプリンがフイツシャーの建築をどのように見ていたか, しかも同時代人と

してどう評価していたかは非常に興味ある問題である。この点についてただひとつ,ヴ、エ

ルプリンの直接の弟子であったガントナ一氏の貴重な証言が残されている。それによると,

ヴ、エルプリンはフイツシャーがシュトゥットガルトに設計した美術館の正面外観を rア

ルフ。ス以北に実現された最も美しいコロネード」と賞賛していたという (4 (図 1 )。これ

がヴ、エルプリンとフイツシャーの具体的関係について今のところ伝えられるすべてである。

ヴェルプリンがフイツシャーの建築の何を評価したのかは,定かでない。ヴ、エルプリンは

同時代の美術についてそれほど多くの評論を残しておらず,これに対する評価も暖昧であ

る。従って,後は推測によるしかない。とりあえず r密かな比較項」にとどまらざるを

えない所以である。

しかしフイツシャーとの関連は置くとしても,ハインリヒ・ヴェルプリンは私にとっ

て常に気になる存在であった。それはヴ、エルプリンが私の歴史研究のテーマと深く関わる

ということだけでなく,私の歴史研究の方法それ自体がヴ、エルプリン史学の内部にあるか

らだろう。つまり私はヴ、エルプリンの提起した美術史の方法を基礎として,当のヴ、エルフ

リンを研究の対象にしようとしていることになる。そこで本稿では私の個人的なこだわり

の一端を一一これまでヴ、エルプリンについて書かれた膨大な論考との重複を恐れずに一一

敢えて私なりに整理してみたいと思う。それは r価値の慢数化J ということである。

ヴ、エルフリンの最も重要な業績が形式分析の手法にもとづく様式史の基礎付けにあると

するなら,その代表的著作を1915年に刊行された『美術史の基礎概念』とすることに異論

はないだろう(文献1)。これはその副題『近世美術に於ける様式発展の問題』が示すよ

うに,近世美術(ルネサンスとバロック)を対象とした研究書であるが,ヴ、エルプリンは

この書を,ひとつの方法論の提示と考えていた。その序言でヴ、エノレプリンは自らの美術史

21

を「人名なき美術史j と呼び r個々の芸術家に就いて語るばかりでなく,如何に線的様

式から絵岡的様式が生じ,構築的様式から非構築的様式が生ずるに至ったか,等々を間隙

なき連続に於て示すつの美術史が現れねばならないJ と述べる。しかし,戦時中に刊

行されたこの書では様式分析に必要な図版の挿入もままならないないため r私は自分の

意見を/H来るだけ簡略にして単純な表現に持ち来しそうして中間的工作は総て断念しつ

つ,専ら発展の基礎概念を確立しようと試みた」と述べている(文献1: pp.7-8) 。その言葉

通り,この需はきわめて明解な構成をとっている。 r緒論J と「結論J の間に,ルネサン

スとバロックのそれぞれに対応した五対の「基礎概念J を論じた五つの章が挟まれるとい

う構成である。そして実に,その全文が作品の比較記述で埋められている。そこには両家

の逸話や生涯に関する人物伝も,歴史的記録に基づく史実研究も,さらには図像学的解釈

さえも見山すことはできない。

一 ・例をあげておこう。ヴ、エルプリンは第 l 章「線的と絵画的J の rflで,ルネサンスの「線

的(彫塑的・可触的) J 性格と,バロックの「絵画的j 性格とを対置させながら,建築に

ついてもこの概念を適用する。

「勿論,絵画と建築とでは全く事情を異にする一一建築はその本質-上絵画と同程度に

仮象の芸術となり得ない一一。けれ共,それは唯だ程度の差であって,絵画的なもの

の本質的契機はその偉弦に適用され得る J (文献1: p . 111)

そして,バロック建築を仮象的,ルネサンス(クラシック)建築を身体的・可触的なもの

として特徴付けようとする。

fクラシックの建築と雌も見られることを欲するもので,その可触性は唯だ観念上の

意義に過ぎないJ 。しかし 「クラシック様式に於ては恒常的形式が強調点を有し,

関 1 テオドール・ブイツシャー,シュトゥットガルト美術館 1909-13年第二次大戦にて破壊,戦後ディテール等を簡略化して再建,写真は再建前

22

これに比べて推移変化の現象は何等の独立的価値をも持っていないに反して,絵岡的

様式に於ては構図は最初から『図象』を日当てとしている。(中略)それが客観的形

式から離れれば離れるほど,その建築はより一層絵両的と評価されるのである。 J (文

献1: pp.113-114)

例えば,絵閥的建築の例として,ローマのサンタンドレア教会堂が挙げられる(図 2) 。

「この前面部では,形の一つ一つが恰も個々の波の如く全体の大波の中に巻き込まれ

て,その中に全く埋没して了う程である。この原理は厳格建築のそれとは正反対のも

のである。(中略)総てのルネサンスから区別される標徴として諸々の形の相互作用

ということが常に残されているのである。 J (文献1: pp.126-127)

これに対して,

「数個の円蓋を持てる円形建築としてのブ、ラマンテの聖ぺーテル寺院[ロ ーマのサン・

ピエトロ寺院(引用者註) ]は,やはり多数の観面を生じたことであろう。けれども我々の意味に於ける絵画的観面は,この建築家やその時代の作家にとっては無意味の

ものだったことであろう。その根本の点は実在する所のもので,何れかにずらされた

閃象ではなかったので、ある。 J (肉 3) (文献1: p.114)

美術の虚史記通がこうした徹底した作品記述と比較から成り立つということは,こんに

ちの我々にとってはそれほど驚くべきことではないかもしれないが,当時においては画期的な意味を持っていたと考えられる。この書が出版された当時ヴ、エルプリンの間近にいた

ヨーゼフ・ガントナ一氏は,その様子を次のように述べている。

「私はこの,薄いけれどもかくも重大な一巻の書物が,はじめてミュンヘンの書店に

l

i

--ille

--

L一一一一↑ド:]:1 サン・ピエトロ九二院、 ローマ、ブラマンテの計[同案、ド I師同( ~美術史の基礎概念』中に持凶はなし、)

←岡 2 サンタンドレア・デッラ・ヴアツレ教会4;町、 ローマ( n'~術史の法礎概念』より)

23

陳列された1915年の12月の日を,あたかも戦争の際中であったが,容易に忘れないで

あろう。私はその当時,大学の最初の学期にいた。そしてヴ、エルプリンは毎週四時間

ずつ, ~~代絵画館(5の絵聞について明示される問題に関して講義した。そのためわれわ

れは日々その講義で語られたものをその書物に書かれた詩葉と比較し原作について

実地に吟味することができたJ (文献3: p.129)

当時においては,まずなによりもヴ、エルプリンの生き生きとした作品記述,作品を捉える

観察眼とこれを伝えることばのJJが学生遠の心を捉えたのであろう。しかしこの著が後

代に与えた影響は,こうした個々の観察にあるのではなく,個々の観察がひとつの様式と

して体系付けられてゆく,その様式史的構想にあったと思われる。その構想を基底で支え

るのは r視形式」という概念である。ヴ、エルプリンはこれを3語にたとえながら次のよ

うに説明している。

r -般に言語はそれ自身の発達を持っている。そうして最も強い個人的天賦を持った者でも定の時代には般的可能性から突飛に離れない a定の表出形式を言語か

ら獲得することが出来たに過ぎないのである。 J (文献1: p.399)

美術作品にも同様に r美術がその範囲内に止まり,又止まらねばならなかった視覚可能

性と形成可能性」とがある。だとすれば,時代ごとの「視覚可能性と形成可能性J を的確

に認識することなしに,美術作品の歴史的変遷を正しく理解することはできないだろう。

そしてヴェルプリンはこの「視覚可能性」を「それ自身としては無表UiJであるが, しか

し r ~定の美がその範囲内で形をとることが出来る所の図式j のようなものとして捉え,

ルネサンスとバロックはそれぞれに異なる f図式J を持っていると考えた。

「もし我々が異れる時代の作品を同列に並べて,それが我々に与える印象から出発す

るならば,美術史の中には誤った判断が逗入って来ることであろう。我々はそれらの

異なれる表出の仕方をただ気分の点からのみ解釈してはならない。それらは夫々異っ

た言語を発している J (文献1: p.403)

qi1]様に,ブラマンテの如きの建築と,ベノレニーニの如きのそれとを気分の Lから直

接に比較しようとするのは誤りである。プラマンテは別個の理想、を具現するばかりで

なく,彼の表象の仕}iが予めベルニーニのそれとは異って組織されている。 J (文献1:

p.403)

ヴェルプリンの提唱する「綿的/絵両的J , r平面/深奥J , r閉じられた形式/開かれ

た形式J , r多数性/統 a性J , r明瞭性/不明瞭性」といった概念は,この「視形式」

の相違を認識し,作品をその本来の生命において理解するための「観照の範鴎」と考えら

れているのである。

こうして例えばルネサンス絵画の線的(彫塑的,触覚的)性格と,バロック絵岡の絵画

的性格どを対比させる中でも r視覚可能性J の相違が強調される。

「仮にラフアエルがヴ、エラスケスの描いた法王肖像画を見たとしても,自分が劣って

いるとは考えなかったことであろう。即ち彼の絵は全く異なれる基礎の上に組み立て

られているに過ぎないのである(中略)絵岡的なものは,自然模倣という唯・の課題

の解決に於けるー層高次の段階ではなくて, ー般に種類を異にした解決法である。 J

(丈献1: p.54)

作品解釈における複数の価値の認識は,ヴ、エルプリンがその先駆者というわけではないと

しても,少なくともヴ、エルプリンによって美術史の}j法論の中に位置づけられた,美術史

24

学 f:の画期的認識の転換であったと考えられる。

いうまでなく価値の多様化そのものは19世紀の建築史の中に既に見紛うことなくぷされ

る現象であった。ヴェルプリンに見られるよう な価値認識の姿勢が形成される背景として,

古典主義が唯 a絶対の地位を保ち得なくなりつつあったという美術界の状況をあげること

も誤りではないだろう。ヴェルプリン自身,同時代の芸術創造活動の状況に「視覚形式の

多様化」を見ている。

「占い美術と今日の美術との対立をば,前者に於ける視覚形式の一様性と後者に於け

る視覚形式の多様性ということにもまして感銘的に云い現したものはないJ (文献1:

p.lO)

しかしヴ、エルプリンの認識をこうした事態を前にしての単なる聞き直りと考えることは,

この認識の画期的転換の意義を見誤ることになる。それは上に見た通札価値判断の放棄

ではなく,むしろ対象をその生きた価値のもとに捉えようとするものであった。

ところで,この「視形式J そのものはヴ、エルプリンも言うように「無表出な関式」にす

ぎず,その意義は作品解釈の基盤となるところに認められる。しかし、当時の人々にはこ

の「視形式J が単なる作品解釈の基礎であるだけでなく,そこに芸術作品の本質的な価値

の問題が隠されているようにも思われた。

ガントナー氏は次のように述べている。

r1900年のころヨーロッパの青年たちのうちに純粋形式に対する激しい情熱が勃興し

ていた(中略)すなわち,美術作品を純粋にただその内的な根源から認識し解明せん

とする熱情である。ヴ、エルプリンはいわば芸術学におけるこの精神的象徴主義の代表

者となったのである J (文献3: p.l21)

ヴ、エルプリンの様式史は「人名なき美術史J r形式主義批評J r美術史の自立」といった

概念のもとに,更にその後の美術史・建築史研究にも甚大な影響を及ぼす。例えばジーク

フリート・ギーデイオンもまたヴ、エルプリンの直接の弟子であったが,その有名な著作『空

間・時間・建築』の冒頭でまずブ、/レクハルトとヴ、エルプリンの名前をあげ,自らの近代建

築史記述をこの美術史学の伝統の上にたつものとしている。

「在、は,美術史家として,かのハインリヒ・ヴ、エルプリンの門弟の a人である。私達

門弟は,彼のすぐれた講義のみならず,彼との個人的接触によって,時代精神という

ものを把握することを教えられた。 J (文献4: p.2)

しかしヴ、エルプリンのこの著は当初から多くの批判にさらされる。そこには本質的問

題に触れるものもあったが,誤解にもとづく批判も少なくなかった。まず,批判の多くは

「人名なき美術史」に対して向けられた。つまり「視ることの歴史」においては芸術家達

の個性は等閑に伏され,人聞の人格性は抹殺されているというのである。

確かにヴ、エルプリンの記述はもろもろの美術作品の内容的問題に a切触れず,ただ形態

の分析にのみ関心を集中させているかに見える。これが美術史の研究として極度に片寄っ

た視点であることは否めない。しかしいうまでもなくヴ、エルプリン自身そのことを自覚

しながら,その序d と結語において自らの研究を,より大きな様式史的構想の鼻部として

位置づけている。ヴ、エルプリンによれば美術作品の分析は「表出J r品質J r表現の仕}jJ

(視形式)の 3 点からなされる。

25

まず表出とは,美術作品を個人,民族,時代の表出として理解し,両荷の関係を明らか

にすることである。しかしこれをヴ、エルプリンは r作品の芸術的品質に触れるものでは

ないJ とする(文献1: p. 15) 。

これに対して,品質の問題は,美術史家よりも,芸術家達が創作を通じて常に取り組ん

でいるところの問題であり,この問題に対して「現象の差別点から出発する美術史家j は

無力であるように見える。しかしヴ、エルプリンは,芸術が現れるのもまたこの形式の樟々

の層においてであって,直接「普遍法則的なもの」に触れないからといってこうした「様

式を形作る所の諸条件j を軽視するべきではないとする。いわば,そこにおのずと質の問

題が合まれているという(文献1 : p.1 6) 。

そして,おそらくこの質の問題により深く関わる要閃として「表現の仕HJ ,すなわち

「形成可能性」が最後に述べられる。

「芸術家は誰しも,彼がそれに拘束されている- ~定の『視覚的』可能性を見出す。凡

ゆるものが凡ゆる時代に可能なのではない。視ることそれ白身にはその歴史がある。

そしてこの『視覚の諸層』を摘発することが美術史の最も基本的な課題と見倣されね

ばならない。 J (文献1: p.17)

ヴ、エルプリンのこの「視形式j 概念に直接持Iけられた批判もあったが,その多くはこの

ことばが生理学的,物理学的な連想を与えることに起因するものであった。ヴ、エルプリン

の言う「視」はあくまで画家の眼による「視」なのだが,これをあたかもカメラの眼のよ

うに誤解することからくる批判である。しかし,いずれにせよ「視る J という三葉はヴ、エ

ルプリンによってさまざまな比輸を交えて用いられており,その意味が充分明確にされて

いないということは確かである。この問題は,例えばルドルブ・アルンハイムやゴンプリ

ッチなどによって更に探究がすすめられ,その著作の中で,より明解なことばに置き換え

て論じ直されている。

その他の,より本質的な批判については,ここでは簡単な紹介に留める。それは,たと

えばヴェルプリンの理論における「内容」と「形式」との鋭い分割の問題である。ヴ、エル

プリンはこれについて後に次のような弁明を述べている。

「この比輸をいまは避けたいと思う。なぜならそれは形式概念をあまりにも強く機械

化し,あたかも形式と内容とが:つの明断に分割せらるべき要素として並立するかの

ような,誤った見方に誘惑するかもしれないからである。もとよりいかなる観照形式

も観照せられたものを前提としている。したがってその a方がどの程度までその他方

を制約するか,それが問題なのであるj ヘ

あるいはパノフスキーの『ゴシック建築とスコラ学』や一連の図像解釈学研究は内容と形

式をその密接な繋がりの内に捉えようとした試みと見ることができるかもしれない。

最後に,ヴ、エルプリンの,こうした作品記述の「精密J な諸概念を定立しようとする試

みが,はたして本当に実現可能なのかという疑問をあげておく。例えば,ヴェルプリン白

身は『美術史の基礎概念』を「模索的J なものとしているが,果してルネサンスとバロッ

クを,その作品に内在する「視形式J によって絶対的なものとして定立することは本当に

可能なのか。模索に果てに, ー体何が期待され得るのだろうか。ヴ、エルプリンの師であり,

その美術史研究に重要な影響を与えたヤコブ・プルクハルトは,実はヴ、エルプリンの「視

形式J という概念に理解を示さなかった。ブルクハルトはヴェルプリンに当てて,次のよ

うに書いている。

26

「人々が別の眼を獲得したかどうか,私は知りません。けれども別の太陽が大空にか

かっていました。そうしてそれがあらゆる色彩を別様に見えしめ,ことにまったく別

様の濃影を投げたのです。 j

そして,プルクハルトは「視形式J の転換ではなく,ルネサンス末期の社会の変化,

「当時の国家構造の変化(あれほど個性的に興味ある借主達の没落) ,社交界におけ

る,イタリアの散文における,ラテン語の厳格なキケロ主義における,建築芸術の単

純・強力なものへの偉大な変遷における変化j を語るヘ

確かにヴ、エルプリンの「視形式J の概念は若い世代を魅了する大きな可能性と同時に,

方法論上のきわめてやっかいな問題をも抱え込んでいたのだといえる。しかしここでは

ただひとつのことを明らかにしたい。つまりヴ、エルプリンの「視形式」という概念は,も

ともと美術作品の「質J を問題とするものとして構想されているのであり,その意味で価

値判断そのものの放棄へと進んでゆくような価値相対主義とは a線を画すということであ

る。ヴェルプリンは後に述べている。

「ひとつひとつの作品の価値判定への道を拓くための重要な一歩となったのは,もは

や」種類の美術のみを唯一の可能な美術とせず,多様性を認めたことであった。 J (文

献2: p.482)

作品の価値の多様性を認めることによって,却って作品のより正確な判断が可能となった。

これは美術史上の進歩である。

「われわれはすでに寛容になっていて,あらゆる美術上の発言を,たとえどれほどプ

リミティヴ、でエキゾ、チックな諸文化におけるものであっても,それぞれ正当に評価し

ようとする。そして,これは確かにひとつの進歩である。いろいろな物をそれぞれ岡

有の基準で測るのでなく,異質・の基準で測っていた時代に比べてそうである。 J (文

献2・ p .482)

そして更にヴ、エルプリンはこうした価値の多様化が価値の放棄ではないことを主張するた

めに,これらの諸価値の上位に位置する,いわば形而上学的な価値の存在を仮定しようと

する。

「これによって,いっさいの価値の医別が棄てられてしまったかといえば,けっして

そうではない(中略)われわれはここでもまだ一種の究極的統ーのようなものを信じ

ているわけである。 J (文献2: p.482)

しかし価値の相対性そのものが価値の発見であり得るという認識の意義を主張するため

には,必ずしも形而上学的価値を想定する必要はないように思われる。その意義は,ある

対象の美を証明するための美術史から,ある対象に生命を吹き込む美術史への転換にある。

プルクハルトはヴ、エルプリンの「視形式J に対して理解を示さなかったが,そのプルク

ハルトからヴ、エルプリンは眼の快楽を美学の根本原理とすることを学んだという。しかし

「そのブ、ルクハルトが言っている。見る人間の側の体験にすべてがかかっている。自

分にできるのはいわば輪郭を措くことだけであり,その輪郭は読者の感覚に理めても

らわねばならない…J (文献2: p.483)

ヴ、エルプリンはプルクハルトから受け継いだこの考えを,いわば歴史の中に移し換えた。

彼はルネサンスの解体・退廃として時間の中におきざりにされたバロックを,歴史的な変

化の運動の中へと~ E1.連れ戻す。そしてそこに,ルネサンスどは異る価値の発見を見出す。

27

ヴェルプリンは「視形式」という図式によってわれわれにその「輪郭」を与えるだろう。

こうしてバロックの成立は,現住のわれわれ自身の体験となる。

おそらくヴ、エルプリンがもたらした美術史的認識の恵義を的確に認識しつつ,美術史家

パノアスキーは「人文学の実践としての美術史」を語る。

「物理的な観察というのは,何事かが『起る』ところでのみ(中略) ,可能なもので

ある。そして,究極的には数学の公式という形で表わされるのも,そうした変化なの

である。 - }j , 人文学が直面しているのは,そうしなければ見失われてしまうものを

補足するという課題ではないのであって,そうしなければ仮死の状態に留まるものを

蘇生させることこそがその課題なのである。一時的な現象を取り扱って時聞を停止さ

せるかわりに,人文学は,時間がみずから停止している領域に入り込んでいって,そ

れをふたたび活動させようと試みる J (文献5: p.468)

こうして私は,私自身がその内に在る歴史学へのこうした自覚が,西洋近代的なもので

あることを想いつつ,再び19世紀末という時代へと潜入してゆくのである。

引用文献文献1 : ハインリヒ・ヴ、エルプリン『美術史の基礎概念,近世美術に於ける様式発展の問題』守屋謙:訳, 1936年岩波書店(原著初版1915年)

文献2: ハインリヒ・ヴエルプリン「美術作品の説明J 新田博衛訳( W世界の名著 続15(近代の芸術論) ~中央公論社 1974年)原書初出は1921年

文献3: ヨーゼフ・ガントナー「ヴェルプリン略伝J Wガントナーの美術史学,パーゼル学派と現代美学への寄与』中村:柄編訳, 1967年勤草書房。 1948年,ヴ、エルプリンの没後 3 年に行われた講演

文献4: ジークフリート・ギーデイオン『空間・時間・建築』太田賓訳丸善1955年(初版1941 年)

文献5: アーウイン・パノアスキー「人文学の実践としての美術史」柏木隆夫訳( W世界の名著 続15 (近代の芸術論) ~中央公論社 1974年)原書初出は1940年

尚, q|用はそれぞ、れの邦訳書に依ったが,訳語の統一上,筆者が若干変更を加えた部分もある。

註1) 上山安敏『神話と科学ーヨーロッパ知識社会,世紀末"'20世紀』岩波書店 1984年2) 拙稿「都市,空間,比例ーテオドール・フィッシャーの建築理念についてJ W史標』第 7 号(1992年3月) 19-24頁

3) Adolfvon Hildebrand (1 847-1921)。画家ハンス・フォン・マレー,美学者コンラート・フィードラー,ヴェルプリン等と親交を結ぶ。その著『造形美術における形式の問題』(初版1893年,清水清氏による邦訳1927年,岩波書店)は近代芸術学に大きな影響を与えた。

4) ネルデ、インガー氏のガントナ一氏からの開き取りによる。 Nerdinger, Winfried: Theodor Fischer. 1兜8 München. 参照

5) 引用の「古代絵画館j は, ドイツ語の弓語が確認できなかったが,おそらくミュンヘンのアルテ・ピナコテークのことであろう。ここには吉代ではなく,中世から近世の絵画が展示されている。

6) Wölftlin, Heinrich: Gedanken zur Kunstgeschichte. Basel, B. Schwabe 1940. p. 20. 今同はこの書を参照できなかった。文献2中の引用に依る。

7) ブ、ルクハルトのヴ、エルプリンへの手紙(1896年8月 29H,バーゼル) 0 in: Jacob Bruckhardt und Heinrich Wölftlin, Briefwechsel und andere Dokumente ihrer Begegnung, 1882-1897. hrsg. v. Joseph Gantner. Leipzig, Koeh1er & Amelang. p. 149. 引用の邦訳は文献2中の引用に依った。

28

アプシール発掘調査現場から出土したヒエラティック・インスクリプションについて

岡本真一

アブシールの建築遺構に f~1する発掘調査によって、ヒエラティックで文't が記された1i

材がいくつか発見された。これらの文字は、建造に際し工人たちが党え書きとして 11 付や

作業坑もしくはその長の名などを書きとめたものと考えられる(詑 1 )。発凡された文字

は調査隊Jヲ占班によって逐\ トレースがなされて資料化が進められており、一部につい

ては解読もおこなわれつつある。ここでは考 r'i.f}fによる分析研究の成果を踏まえながら、

建築学的な観点から重要と思われる諸点についてのみ、簡単に触れることとしたい ω

なお、ことで使J/Iしたトレ ー スはすべて考山班によってなされたものである。資料の提

供に対し、 j享く謝意を表する。

/1

丘二~~~A札l.l/戸\

コ。τ;; 11

江---e-\

29

同 1 (ぬ 46 0 ll\上位置: 3ß トレンチ、表層)

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/i~IIJ ( の作業班) (註 2)

増水期第 2JJ191J W;3)

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左側(の作業班) (末尾の 一部を欠く)

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ι~f==0守合?

(No 8650 mU\'L置: 2Bt,持 rl l)

smoy.. •

N.i開IJ (の作業}}f.) ...

l斗 4

(Nu 6700 lI¥ J:位置: 2C)

3bd 2 3ht sw 6 wnmy...

哨水!UJ第 2)]G !1、右側(の作業班) ...

I刈 5

30

I f

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ιJつ

即日my. • •

l斗(j (Nu 11-328、後に Nu 619として迫加な録。 IHU'L筒:大 lí: 1',)

-Í i側(の作業五Jf.) ... UU�)

31

f 位

?

ι[;J 戸, d:

ベ川;:;

nM 同 7 (N日 962 0 i!'t U立置: 2C)

wnmy

-Í i~\II (の作業焼... CJ!:7)

iムゎ3辺ザj{;

?

叫ん阻訓?

?

|買IB (No 1t180 lI'. U占罰: :l\l、第1} fM) wnmy lmn-m-w i3 '1

同 8 (No 9580 Il¥ U'í. 置: 2U、南暗西 flJ)

wnmy lmn-m-w i3 ?

イ i側(の作業fÆ) 、アメンエムウィア?註 8)

~i側(の作業班)、アメンヱムウィア?註 g)

32

L

?

M

A

m

叫 ?

註 1 建築石材などに記されたヒヱラティックによる文字については平くから知られてい

たものの、簡略な報告にとどまる場合が多く、包括的な研究が始まったのはごく最近であ

る。石材に記された中王国却jのヒエラティックに関しては Felix Arnold , The Control

Notes and Team Harks; The South Cemeteries of Lisht. Publications of the Metroュ

politan Museum of Art , Egyptian Expcdition , Vol. XXIII (New York 1990) を参照。

占王国期のものについては、 Miroslav Verner , Baugraffi t i der Ptahschepses-Hastaba;

Abusir 11 (Praha 1992) が詳しい。

註 2 新王国期における工人たちは、通例 f右組,IJJ (wnmy) と f左側 J (smhy) と呼ばれ

るふたつの班に配属された。 Jaroslav CernÝ , 'Papyrus Salt 124 (Brit. トlus. 10055)' ,

in Journal of Egyptian Archaeology XV (London 1929) , p. 252: Jaroslav Cer吋 , A

ComlDunヘty of Workmen at Thebes in the Ramesside Period (Cairo 1973) , pp. 99-100

参照。両班への配給物の記録、あるいは建築工事における日誌の代わりとして石灰岩片に

記された克字資料(単数形でオストラコン、複数形でオストラカ)の解読から、こうした

職制がl明らかにされた。 Jamslav ternd , Ostraca hi6ratiqIIes;cataloEIJe E6drai des

antiquit駸 馮yptiennes du Hus馥 du Caire, Tomes I-IV (Cairo 1930-1935) , passimなどで見られるように、ディール・アル=マディーナの労働者集合住居祉から多量に出土し

たオストラカが特に有名であるが、アビュドスから出土したもの(第 19王朝)にも smhy と

いう記述が見られる(Ilenri Frankfort , The Cenotaph of Seti I at Abydos, Vol. 1

(London 1933) , pp. 92-94: Vol. 11 (London 1933) , PI. XC) 。以上の資料を参照しなが

ら検討をおこなった結果、当遺構の石材に書かれた文字の rf' にも、上述の wnmy' や,smhy'

を示すと思われるものが含まれていると判断された。なお、 f右側の作業班j 、 I左側の

作業班j という三いん・は、船舶の乗組員の班分けに対して月j いられていたものに由来する

と言われている (M. Bierbrier , The Tomb-Bui1dcrs of the Pharaohs (New York 1984) ,

p. 27: また、 Rosalie David , The Pyramid Bui1ders of Ancient Egypt (London 1986) ,

p. 66など).

註 3 r19J (へ)については、 Ge叫 Möller , 11 ierati叫e Paläog叫hie , Band 11

(Leipzig 1927) , p. 60,註 3 を参照した.

註 4 U 付の読み方などは考古班から多くの教示を得た。との場合、 f第 2 月 J (行)

はほとんど消えかかっているが、古 のように記されていたと推定される。

註 5 I4I11 (;;)ではなく、 r5 日 j あるいは r6 日 j と記された文字の一部分が消えている可能性が高い。市ller , ibid. 参照。

φn 、、 h

註 6 右側(の作業政) J 悩μの次に続く文字は日であると忠われる。

註7ι」の上の文字は消えていると忠われる。少し離れて左側に記されている文字に関

しては不明。

註 8 人名 fアメンエムウイア J 恨み~~~叫に関しては、考古抑制ばっている。刊本叫 (川)は『型船J を意味するため、 「酬のアメン J というほどの意味

になると思われる。同じくぞ瓜泌を含んだ名前である,IJaremu i a' がヒエラティックで記されている例を、参考として図 10に掲げる (J. Cernン and A. 11. Gardiner , Hieratic

Ostraca , Vol.I (Oxford 1957) , Pl. LVII , 3 Verso) 0 B. Porter and R. L. B. Moss ,

Topographical Bibliography of Ancient Egyptian Hieroglyphic Texts , Reliefs and

33

?ω?包主主ドアグ与をヨ

払 h'A-ムz;之、旬、引ム2 フ

3 Vcrso

針。γ!とる士

~~イヲ布るよti

--IA区l~~Jd-i ~二ノゴ二円!ぷえd

3 Verso

PLATES L V II, LVIIA

3. O. NASH 1巧5. Liムlme白5釘sro∞O∞ne,

sla却ug許hte白re吋d ox. Verso, empty jars for oil and fat held by Haremuia.

図 10

['aintings , Vol. 111 , Hernphis , I'arl 2 (Oxford 1981 , sccond ed.) には、執事長 (Chi e f

sleward) の称号を持つ新王国!VJの人物 f アメンエムウィア J (P. 7(3) と、射手長(l!ead of

bOllmen) の称号を持つ新 E国期の人物 f アメンエムウィア J (P. 556) に関する遺物が掲載

されており、こうした名前が実際に存{E したことが知られる。なお、左下の文字について

は作業班のマークとも考えられるが、詳細は不明。

詑 9 アメンエムウィア j に関しては註 8 と同じく、考古班による解読を参照した。左

上の文字については不明である。

考察

r -i' i{){IJ (の作業政) J 、 「左側(の作業班) J という言葉とともに r I 付や人名が記され

る例は、オストラカにおいてしばしば凡ることができる。しかし尖際の建造石材にこの班

名が記されみごとはきわめて珍しく、その怠味で当遺構から発見されたヒエラティック・

インスクリプションは注日される。観察の結果、 「左側(の作業班) J を怠 l沫する,smhy'

の丈字が書かれたものは 4 つ、また r~í側(の作業班) J を怠l沫する文字 wnmy' が記され

たú材は 5 つという点数が得られた。この他に同級の文字が記されていると思われる小片

も数点発見されているが、現段階では確認できないのでここでは対象に合めない。

34

, smhy' と記された石材のうち、 3ß (設定された調査地域のグリッドとその記号名称につ

いては図 11 を参照)のトレンチから出土した凶 1 の Nn 46は表J~から見つかっており、ま

た図 3 の Nn 8-167 (後に Nn 641 として登録)も地表から取り上げられたものであるから、

原位置を保っているとは考えにくい。この l両者を除いた残りは 2Cの拡張部から出土した図

2 の Nn 712 と、 2[\の潜のrJ l から見つかった[~] '1の Nn 865の 2 つである。 2Cの拡張部は当遺

構のお半分に相当する場所に位置しており、また 28の j停は建物のほぼ長軸上に該当する。

現在、遺構は正面から見て左半分の発掘を大jj終えたところである点を勘案しながら、次

に, wnmy' と記された石材を眺めてみる.

r ;(i側(の作業班) J と書かれた 5 つの石材のうち、図 6 の Nn [¥-328 (後に Nn 649 とし

て登録)はやはり地表から取り上げられたものであるから、原位置を保っているとは思わ

れない。残りの 4 つは、 2Cから出土した図 5 の Nn 670と図?の Nn 962 、 2ßの南壁西角で見

つかった図 8 の Nn 958、そしてぬの第4 層から発見された図 9 の Nn 148である。 2Cから掘

り mされた Nn 670 と Nn 962のIl.\土場所は当遺構のほぼ長軸上に位置する。一方、 2ßのI$j壁

西角で見つかったNn 958、及び3Bの第 4 層から発見された Nn 148は、どちらかといえば当

遺構の左半分に相当する場所から出土していることが閲 11 から了解されよう。

以上を簡単にまとめるならば、 (1)原位置から大きくは動かされていないと思われる

, smby' r左側(の作業班) J と記された石材は、当遺構の長軸上、あるいは建物の右半分

から出土している。( 2 )同じく原位置から大きくは動かされていないと忠われる wnmy'

f右側(の作業班) J と記された石材は、当遺構の長軸仁、あるいは建物の左半分から出

土している。(3 )現在、建物は左半分の発掘を終えたととろである。また原位置からさ

ほど動かされていないと思われる石材に関し、 「右側(の作業班) J と記されたものの方

が、 『左側(の作業班) J と記されたものよりも出土点数が若干多い。

資料数は限られているのであるが、さしあたり、以上の点が指摘される。

ここで思い起こされるのは、ラメセスW世王墓の平面図において f右 j と f左 j に関す

る指示が墓の入仁1 から奥を向いてなされるのではなく、基の奥から入口の方を向いて指示

されているという Gardinerによる指摘である (Howard Cartcr and A. 11. Gardiner , ' The

Tomb of Ramesses IV and the Turin Plan of a Hoyal Tomb' , in Journal of Egyptian

Archaeology IV (London 1917) , p. 144) 。もし当遺構の場合においても f右j と f左 J

が建物の奥から人口を向いた時に言われるのだとすれば、現在発掘を終えた部分は建物の

右半分に該当し、この場所から出土した石材の文字 wnmy' 、 I右側(の作業班) J といラ

その意味と一致する。

新王国期において墳墓造営の工人たちが「右j と f左j と呼ばれる班に分かれて作業を

おとなったらしいという点は指摘されながらも、これらの両班が実際に建築物の f右 j と

I左J をそれぞれ分担して作業したのかどうかに関しては不明なままである (ßierbrier ,

op. cit.)。しかし当遺構から見つかったヒエラティック・インスクリプションを詳細に

研究することによってこの点が解明される可能性があり、今後当遺構の「左半分(建物の

正面から見て右半分) J の発掘調査が進められ、, smby' 、 『左側(の作業班) J という文

字が記された石材が多く発見されるならば、貴重な資料が得られるととになろう。 wnmy'

あるいは, smby' と記された石材の出土位置を正確に記録し、これを分析することで、新王

国期における建築の建造過程の一端が明らかにされるように思われる。

35

A v

目、,

石軍主 府対宗寺一向

2C 28

硬化而 6フ

t J1| も

プ回一

ツ賢一

チ周一

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氏耽一

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' 以 i耐坑

びコ11H

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c v

D

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常議二会;~?ト!三三?

応悶鴻ロたよ\ b

H V

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岡 11 アブシール発掘遺構平而間

36

古代エジプト太陽の船復原レポート ( 3 )

白井裕泰

はじめに

1 993 年 1 月 1 2 日午前 1 1 時、マジックハンドを使って、ピット内から太陽の船の

木片を取りあげることに成功した。わずか 4. 6 g の木片を日本に持ち帰り、 1 月 2 6 日

京都大学木質科学研究所所長の佐々木光教授に木片の分析を依頼した。

今回の分析の目的は大きく分けて次の 4 つがある。①樹種の同定、②木材の属性、③腐

朽の原因、④木材の絶対年代。分析の担当責任者は、分析①が伊東隆夫教授、分析②が東

順一助教授(京大農学部)ほか、分析③が桑原正章教授、分析④が木方洋二名古屋大学教

授である。なお分析②の比重と強度試験の数値の末尾は試料が小さく、脆いため信頼性に

乏しい。また分析④は C 14の分析によって明らかにする予定であったが、現在分析は行っ

ているものの、分析に要する時間が足りないためまだ結果が得られず、今回報告すること

はできなかった。

このレポートは、京都大学木質科学研究所から提出された報告書を要約したものである。

分析の結果

記号|目的

2 -1 I 樹僚の同定

2 -2 I 木片の属性

2 -3 I 腐桁の原因

内容

顕微鏡による 3 断面〈倹断面

・柾目 ilii ・飯田商}の観察

平衡含水率

方法

1)落射顕微鏡による小プロ y

クの観察

2) 光学顕微鏡による薄片(ヱ

ポネシ樹脂による包埋法〉

の観察

3) 走査型電子顕微鏡による小

プロ y クの観察

結果

①構成細胞はほとんど仮道管からなる

②欽射仮道管が存在する

③放射柔細胞墜は厚く、末端竪 li ß:珠状である

⑥放射組織上下線辺の細胞に

角張った給昆が多数みられる

⑤柑方向仮道管と放射柔細胞

との交差する分野壁孔がスギ

型を呈する

12.2%

結論

サンプル lまヒマラヤスギ属の

-f聖と同定される

地理的嫡生分布と過去のピラミ y ド出土樹種、ならびに船

材としての耐久性を考慮する

と、レパノンスギの可能性が

高い

湿度90%の下では異常に乾燥

している

木材中の水の化学的吸着点が

非常に少なくなっている

セルロース結晶化度の分析 Ix線回折分析注 ①セルロースが怪度に減少 |リグニン・スケルトン化して

リグニンの変化

比重の測定

強度試験

t式料に含まれる有機物の分析

I) pH の分街

蛍光顕微鏡による観察

②セルロースの結晶化I.tはも i 全体に脆弱化しているとのものと大きな抱違はない

リグニンの自家蛍光が健全材|リグニンの変質が著しいのそれより微弱である

寸法制定は読取り顕微鏡によ|含水率 12% における惟定比重|幾分低下しているように恩わ

る(試験片の寸法: (. (x 1. 1 I 約0.40 れる

x 5. (m.)

7 イクロ・ベンデf ング・テ l 曲げ強度 (K g/c nf) : 1(0. (8 I 健全材の曲げ強度800- 1. 200

スト,中央集中街震 (試験 1.2 1.6((平均68) 試験片の問 1 Kg/cnfに比べて 15分の l 程度片の平均寸法: 1.2x1.1x9. I で強度のパラツキが非常に大 l に低下している

9爾・〉

37

きい

5. 2 6 (酸性〉 ある時期に厳あるいは7 ルカ

リ性に傾いた可能性があさ

Z) C. H. N. 0 の分析 ICHN コーダ |①炭素と水素が減少②~素が士官加 ②生物に含まれる蛋白や代謝

産物または土土産あるいは水中

の窒素分が吸着

酸素自動分析装置 |含量は変化していない |酸素の消費系と酸素含有物質の生産系が見かけ上つり合っ

ている

3)試料中…化学術遺|…分折ー俳|赤褐色および縄…析し!ヘミセルロースの減少の分析(化学結合.11r能11<な よる赤外スベクトルの解折〉 た結果、スベクトル吸収の鋭

ど楕造に関する情報) さは減少特に 1700- 1600c.-' のカルボ

ニル遂に由来する吸収の減少

liI:料中に含まれる各糧元素の

分析1)舗の州(州事の原因 lICF発光分光分折保存のための薬剤使用) 原子分光分析

l①加山町山全レパノンスギに対して数 10

-100倍検出

②特に Fe.Mg.Al. |土峰に由来する可闘が極め

C 8の…ぃ|叩③Hg.Cr.Cu などの頭 重金属系防腐剤は使用してい

金属 11.特筆されるほどの量で ない

は江い

Z)~1 :t/の分析{金属の存|イオンクロマトグラフィー在形態を縫測)

|①高い蹴イオン (C 1 一〉会置が忽められた

|( F e 山崎似して存在する可能性

N 8 が食埴として存在する可

能性

②崎俊イオン (N O.ー〉含量!②原因不明が高い

3)無機物質等の同定 |…伝子 白色粒子 |造岩鉱物…存在柱状物質等の化学栂造黒色不透明佐子および透明 7

ィルム状物の主成分は α 一 Q

uartz[α-S 10.1 その{也造

岩鉱物Anorothi te. Labradori

te. 粘土鉱物Muscovi te

②NOZ 黄色を主体とするもの

の主成分は NOI.と問機,その

{也碕酸アンモニウム [N H ‘ N 0.1

……を一|高濃度の金属温はーるものの主成分は,木材片, ら土埠を含む水とともにもた

α- Quartz. シュウ酸カルシ らされた

ウムと泊化カルシウムの泡で

ある C8C.0.C8CI. ・

7 H.O

④昆虫の脱け殺(約O. 3園田〉

が見いだされた

t立状物質等の締成元型軽同定 ISEM-XMA |①鮒色~栂色紙赤褐色部|無機化合物叫由来に大別

小片の中に褐色~黒褐色粒状物

白色粒状物,鋭利な角を持つ

透明物

( C 8 (主要物質〉と C 1 が検出

③白色粒状物からジルコニウ

ム (Z 1) (主要元素〉と珪

~ (S 1 )が検出

④鋭利な構遣を持つ透明物か

らは謹素〈主要元素)カリウム (K) パリウム( B a) が

1・ 1 検出

f立状物質の組成 1FT -1 R |③は酸化刈コエ九砂(S 1 0.) の形態で存在

③は淫砂の形態で存在

38

腐朽原因の考察

木片の組織が劣化し、セルロース及びへミセルロースが分解され、 リグニンも変質して

いることが明らかになったが、その原因として次の 2 つが考えられるb

( 1 )長期の保存による化学的な劣化

セルロース及びへミセルロースの分解原因として

a. 酸素などによる酸化反応

b. 加水分解反応

①水とともに持ち込まれた土壇中に含まれる金属塩により触媒され、分解が促進

された。

②検出された金属元素が塩化物として存在する可能性も高い。

③へミセルロ}スのアセチル基から徐々に発生する酢酸によって、セルロースが

加水分解される可能性もある。

( 2 )微生物的な劣化

結論

a. 放線菌(おそらく Streptomyces属菌)が観察された。これは木材劣化菌として挙

げられているが、積極的な木材腐朽は行わない。しかしセルロース及びへミセルロ

ース分解酵素を生産し、劣化に関与したと考えられる(汚染時期は不明であるが比

較的新しいものと推定される)。

b. 昆虫による直接あるいは間接の食害の可能性もある。

以上の結果を要約すると以下のようになる。

( 1 )サンプルはヒマラヤスギ属の一種と同定され、同属 4 種(ヒマラヤスギ、アトラス

シダ一、レバノンスギ、キプロスシダー)のうちレバノンスギである可能性が高い。

( 2 )含水率は 12.2% であり、異常に乾燥している。これはセルロースやリグニンの水の

化学的吸着点が非常に少なくなっているためである。

( 3 )セルロースやへミセルロースが極度に減少し、 リグニン・スケルトン化して、全体

に脆弱化している。

( 4 )劣化の主な原因は、化学的な劣化と考えられる。太陽の船が一時的に冠水したこと

によって、水中に含まれていた金属塩(鉄イオンなど)が何らかの触媒になって、加

水分解を促進した。この他の原因として、酸による加水分解、放線菌や見虫による生

物的な劣化の促進の可能性もある。

( 5) r 太陽の船 j 全体の劣化については、他の部分の試料分析を行わないと正穣にはい

えないが、船全体で劣化が進行している可能性が高い。

おわりに

2 月 25 日、京都大学木質科学研究所において京大スタッフ(佐々木・伊東・桑原教授)

と太陽の船プロジェクトスタッフ(白井・黒河内・虞田)が、分析結果を踏まえて協議を

した。そのとき、桑原教授によって木片から土壌に由来すると考えられる種々の金属塩

(鉄イオンなど)が存在することが指摘され、この土壌はピット外部から、蓋石の陳閣を

伝わって浸入したものと推定された。実際にピット上部の蓋石相互あるいは蓋石と壁の隙

間に詰められたモルタルは所々剥落し、そこから泥水が流れ込んだ痕跡がみられた。$ また

ピットの石灰岩壁には水平に 2 筋のラインがはっきりと確認された。これらの点を稔合的

39

に勘案すると、太陽の船が埋葬されたピット内は、少なくとも 2 回冠水したととがあったとの結論が得られた。

今回のサンプリングで得られた木片は腐朽の甚だしいものであったため、木片ゆ分析の

中心は腐朽原因の追求にあったといっても過言ではない。問題なのは、これから太陽の船

の部材を取りあげて、復原するにあたって、どのような修復方法が想定されるかである。

もしも京大のレポートの結論に述べられているように、 「船全体で劣化が進行している

可能性が高い J 場合、古材をできる限り再用する復原修復は、多くの困難を伴うことは容

易に想像される。その修復方法はいわゆる人工木材を多用せざるを得ないといえよう。ま

ず構造的に再用できる強度をもっているが部分的に腐朽している部材は、腐朽した部分を

除去して新材に置き換えるか、人工木材を充填するかいずれかである。次に構造的に再用

できない部材の場合、心材としての新材の表面に、化学処理を施した表面材を張り付け、

一部に人工木材を用いる。いずれの場合も、復原された f太陽の船」の姿は、人によって

印象は異なるかもしれないが、無惨な姿を露呈することになるであろう。ただ古材をでき

る限り残したという意味において、その修復に対してある一定の評価は得られることは間

違いない。

もしも全ての部材が構造的に再用できない状態であった場合、中川教授が主張するよう

に、太陽の船の部材の調査を終えた段階ですべての部材を保存し、すべて新規材に置き換

えて復原するという方法がある。すなわち原寸の模型を作製するということになる。この

過程で太陽の船の設計方法や仕口を含めた部材の加工・組立技術を明らかにし、その結果

として古代エジプトの太陽の船の形式性を復原できれば、その歴史的意義は計り知れない

ものがある。

またすべての部材を保存すると決定された場合、その保存の仕方に様々な方法が考えら

れる。 1 つは保存する部材をすべて化学処理を施す方法がある σ 他の 1 つは保存する部材

に一切の化学処理を施さないで、保存する環境、すなわち部材収蔵庫内部の空気を古材の

腐朽がこれ以上進行しないようにコントロールする方法である。木材の腐朽の原因は、水

と酸素による加水分解を防げばいいのであるから、収蔵庫内の空気の成分を窒素ガスに置

き換え、湿度を 20% 程度に一定させればよいことになる。

もしも桑原教授が危慎したこと、すなわち「船全体で劣化が進行している」という推論

がはずれた場合、わが国で行われている文化財建造物の修理方法を適用すればすむことに

なる。その方法の基本方針は、 「古代エジプト太陽の船復原レポート( 1 ) J の中の復原

方針で述べたとおりである。ここで再び繰り返すが、太陽の船の復原の成功の鍵は、ひと

えに復原の理念にあり、この理念を決定したら、最後までこれを貫き通すことである。そ

の理念とは、復原を伝統的な技法で行うのか、近代的な技法で行うのか、あるいは両者を

どの程度織り混ぜて行うのかである。個人的な意見を述べることが許されるのならば、太

陽の船の修復方法は、伝統的な技法で行いたい。すなわち全体的な腐朽の場合は継木、部

分的な腐朽の場合は矧木によって、古材の腐朽した部分を新しい同種材に置き換えて再生

する方法である。

確かに船全体が劣化している可能性は高いに違いない。問題はどの程度劣化が進んでい

るかである。来年には蓋石をあけることになろうが、ほとんど表面的な劣化に留まり、構

造的強度に問題のない部材が過半数を大きく越えることをただ祈るばかりである。

40

古代エジプトの家具 7

西本直子

Ancient Egyptian Furniture Vol.I (著者: G. ki llen) の邦訳も七回目を迎え、かし、

摘んでではあるが本著の可成の部分を載せさせてもらった。建築の平面計画などをしてい

ると空から地上を見ているような視座を経験することがあるが、訳者は同時に地面からも

建築を感じてバランスをとる必要を感じる。そのバランス行為としては実際にある、ある

いは立ち上りつつある建築物の中に身を置くことも効果的だが、もう一つ、ディテールを

悉さに見たり考えたりすることでも充足されている。実はもともと本著を繕く作業は訳者

にとってのバランス行為として始められた為、抜粋部分が詳細図周辺に偏りがちになり、

目次の順番も無視したかたちになった。そこで改めてこの本の日次を紹介させてもらいた

し、。

略語表と前書

第 1 章:家具素材 第 2 章:道具 28例 第 3 章:寝台 15例

第 4章:腰掛け(スツール) 29例 第 5 章:椅子 11例 第 6 章:卓台 8例

第 7 章:壷竪 3例 現存する家具および収蔵する博物館リスト 図版 118枚。

(紹介される家具の順番は、著者の考える家具の発展段階を踏まえている。)

訳し始めた当初、家具は身体に直接触れて、古代人の生活を身近に感じさせてくれるデ

ィテールがあるのではないかと予想していたが、古代エジプトの家具については現存する

多くが権力者の副葬品で実生活で使用されたものではないことや、玉座のように象徴の意

味合いの方が強いものもあり、生活の道具ではあるが、寧ろ夢の象徴であった点で、実生

活とは多少距離のあるものであった。しかし夢の象徴としての家具ということばは妙に現

在の家具と重なってくる。無論当時とは夢の表わし方が異なっているが、家具にはどこか

ファンタステイクな小世界を体現してきたようなところがあるのではないかと思う。

この巻に挙げられた家具類は古代エジプトの家具のハイライトをほぼ網羅しているが、

全体に一つの共通項で括られている。つまり特定の荷重をある一定の高さで支持する構造

体である。近く出版される第 2 巻は収納の箱物を中心に編むということであるが、やはり

線材により荷重を支える第 1 巻の構造体に華やかさがあるだろう。第 1 巻の中でも特に腰

掛けや卓台、壷竪に見られる 3 本脚は、軽やかで斬新な魅力を感じさせる。古代世界では

ギリシャにも 3 本脚の青銅製テーブルが見られる。工法の容易さや剛性の得やすさなど、

現在4 本脚が一般的になっている理由はいくつか考えられるが、もっと根源的な理由は日

常の床が平滑になったことだろう。当時の床には安定を得る 3 という数字がまさに意味を

持っていたと思われる。今回紹介する最初の壷竪は、一木から削りだした荒っぽい仕上げ

でありながら、 3 本脚と皿の軽やかな関係が新鮮で、皿に載せられる壷に懸かる引力を柔

らかく受ける脚の形態は生物学的な強烈な印象を与える。担う機能が細分化されているた

め、構造体が整理されていくと、このように一種オブジェのようになる例がある。現代で

は作家がオブ、ジェ的に家具を扱うことは半ば一般化されているが、古代エジプトで作家で

41

はなく職人の中からこうした鋭い形態が生まれていることには興味を惹かれる。

次回は最後に残った道具の章を紹介したいと思う。

第 6章卓

先史時代

創世記の卓はエジプトにおいて重要な役目を担っていたと思われる。実際の食物ではな

く供物が載せられていたと思われるが、というのも古代エジプトでは食卓を利用した痕跡

をはっきり示す例がないからである。当時の重要な卓の用途は宗教上の、供物台と推定さ

れている。墓から発見されるほとんどの卓の用途は供物台である。例えば第2王朝のヘル

ワンの石碑には召使が食物を載せた台に向かつて座っている図がある(サアド1957年)。

アラパスターの供物台の好例がコベンハーゲン国立博物館 CCa t. No. 7496) に収蔵されて

おり、第 1 或いは第2王朝と推定されている(径345mm 高さ 90mm) 。

最古の木製台は第 l 王朝に遡る。注目すべき例の一つが現在(元東)ベルリンのエジプ

ト博物館 CCat.No.10772) に収蔵されている。以下に挙げる二例は1911年-----1912年のペト

リによるタルカンの発掘により発見されたものである。

1.低い台(図版103 ・ 104)

第 1 王朝、タルカン、墳墓527 ・アシュモレアン博物館、オックスフォー ド、 Cat.No.19

12.603 . H=561DlR L=450皿 W=280皿・ベトリ 1913年、 25ベジ。

この台は一枚の厚板を削ったものであるが、現在では割れがひどく、崩壊寸前である。

この特異な例の裏面は、厚板の端部に削り残された隆起部分が脚となっているのが興味深

い(図版104) 。この台は灰の詰まった九つの壷と共に墳墓527で発見され、ベトリによっ

てs. D. 77* とされている。

* S. D. 法:ペトリーが考案した継起年代法。先王朝時代の土器の分類により、

エジプト先王朝期の相対編年を確立させた。

2.低い台(図版105.106、図33)

第 1 王朝、タルカン、墳墓136 ・マンチェスター大学博物館、マンチェスター、 Cat.No.

5456 . H=60mm L=480mm W=278mm ・ペトリ 1913年、 25ペ ジ、図版XI -XII 。

ペトリはこの台を前述の例より僅かに新しいS.D.81 としている。全体のデザインは 1 の

オックスフォ ドのものと違わないが質は数段上である。裏面に、四本の脚が削りだされ

ている(図版106) 。何らかの理由で天板の一端は丸くデザインされている。

壷を置くためか、挨っぽい床面から食物を隔てるためか、低くて小さな台が普及してい

たと思われる。小さな石の台も使用され、タルカンで二例が発見された。 一つは墳墓1982

において、もう一つは墳墓136においてである。共にデザインは木製の例と同じである。

小卓は王朝期の一般的な家具であった。ケルマでタルカンのものと同定される小卓の部

分が発見されたが、このケルマの例は第二中間期と推定された(ライスナ -1923年、 229

ページ、図版219) 。最も新しい例は第18王朝、レクミラの墓、テーペの墳墓100に描かれ

ている(デイヴィス 1953年、図版LXV) 。

42

一守ーー回目・寸 ヨ げb

10。

E

。 200"首潤

図33

古王国

第5王朝に引き鋸が登場して初めて、鋸により製材された板を使った接合部を持つ家具の生産が可能になった。ベルリンのエジプト博物館には第5王朝の小車が (Cat.No.16436 )

収蔵されている。丁寧な細工で柄穴継ぎされた単純な枠組みである。ベルリンの例は小さく、高さはほんの177mmで‘ある。第6王朝には紀元前約2340年のメレルカのマスタバ、ルー

ム21の壁に見られるレリーフには、台や箱を含む多くの高度に発展した家具が描かれている。(メレルカはテテイ 1 世に仕える高官であった。デユエjレ1938年、随所が参考とな

る)この墓の壁画は複数の貴重な様式と、第6王朝までの台の変遷を示してくれる。最も重

要な点は大きく平らな矩形の台が造られていたことで、壁画中で職人が作業台や、作業椅子として使っている。宗教上以外の目的で台が使われている例はこれが最初である。

第3王朝にこのような家具が造られ始めた可能性が大きい。紀元前約2650年、ヘシラーの墓で、素朴な台の姿図と見なされている図がある。脚と笠木と、卓台もしくは寝台でも見受けられる台の貫がはっきり見て取れ、何れにしても、第3王朝の間荷重を支える台を

造る技術が駆使されていたことを伝えている。

第18王朝

3. 供物台(図版107)

第18王朝、紀元前約1400年・エジプト博物館、トリ人 Cat.No.8258 ・ H=476mm

L=7490 W=3811U1 ・カ の墓、テーベ・スキアパレツリ 1927年、 118ページ、図100右

・ベカー 1966年、 150ページ、図版233右。

紀元前約1375年頃の建築家カーの墓から、前述のメレルカの壁画に描かれたものと似た、ほぽ同じ二つの卓が発見された。描かれた角材に鋸号|き製材された板で造られたものと比較されたい。貫は脚』こ柄穴継ぎされ、だぼで補強されている。卓の作業面は数枚の板でできており、各端と、黒で平行に描かれた線の聞に、一連の象形文字らしきものがある。もともと卓全体は白く塗られている。墓で発見された卓には共に供物である食物が置かれて

いた。

43

メレルカのマスタバ墳墓に示されている卓はもっと優雅なデザインがなされている。天

板の下に四分の一円窪んだ形の繰り型が施されている。この型の好例を二つ以下に紹介す

る。

4. 供物台(図版108)

第17或いは18王朝、ドゥラアブルネッガ、テーベ・メトロポリタン博物館、ニューヨー

ク、Cat.No. 14. 10. 5 . H=4501BD1 L=635mm W=311mm ・カーナボン卿寄贈1914年・ベ

カ -1966年、 150ペジ、図版235。

天板を支えるキャベット=コーニス(四分の一円窪んだ繰り型)のある台は第17、 18王

朝に広まった。ごれらは主として供物台として使用された。この例は特に端正である。台

の上面は枠kほぽ同じに突板を貼られている。突板は厚く全体を覆っている。写真左隅下

の繰り型の大部分が壊れ、その下の二本の堅木のだぽと枠との構造体が露見している。繰

り型の横桟と脚の聞に直角なブラケットがあるが、人工的に曲げられたもので、明色の材

で包まれて、繰り型の桟の下面と、脚の内面にだぼで止められている。

5. 卓(図版109)

第18王朝・ブルックリン博物館、ニュ ヨ ー ク、Cat. No. 37. 41. E . H=3301B11 L=521mm

W=311u ・ベーカ -1966年、 152ベ ジ、図版236。

この二番目の卓はやや新しく、堅固な構造で保存状態が良い。卓の桟と貫はやや末広に

なった脚に納穴継ぎされ、だぼで補強されている。キャベットニコーニスの繰り型をもっ

分厚いテ ブル面は隅では正確に留め継ぎされ、等間隔に釘で固定された玉縁により、架

構に接続されている。

図版109

6. 卓台(図版110)

第18王朝、紀元前約1400年、カーの墓、テーベ・エジプト博物館、トリ人 Cat.No. 843

44

2.Hニ298u L=787mm W=539mm ・スキアパレッリ 1927年、 118~120ベ ジ、図103 ・

ベーカ - 1966年、 118ページ、図版1650

この台は通常とはデザインも構造も異なるが、前述のキャベ、ソト=コーニスのある台の

型を踏襲していることは明らかだ。この台の構造は丸棒でできているが、接合の柄穴は柄

の肩が等しく掛かるように開けられていることに気付かれるだろう。この特異な台の職人

芸は見事で、材の仕上げは上等である。このような台は花を飾るのに使われたか、或いは

庭で使われ、いわゆる田園風生活の為のものであったともいわれている。

7. 三本脚の卓台(図版111 - 113、図34)

第18王朝・大英博物館、ロンドン、 Cat.No.2469 ・ L=68011111 Wニ460mm H = 4901BJ11・ベ

←カ -1966年、 153ペジ、図版237。

三本脚の卓台は古代エジプトではヘレニズム時代になるまで、二、三の例が18王朝のテ

ベの貴族の墓に描かれている以外にあまり普及していなかった(サ ブソ デルバ ゲ

1957年、図版XXII ;デイヴィス 1930年、図版LVIII-LIX ;デイヴィス 1953年、図版 L) 。

機能的には四本脚のテーブルと比パて、どんな床面でも安定するという大きな利点がある。

この例の天板は三枚の鋸引き板で作られ、両端を走る二本の横材で、互いに釘で固定され

ている(釘の位置は図34を参照)。湾曲する脚は削りだされたもので、手斧の痕がはっき

りと見て取れる。天板とその下の横桟には脚の角柄が貫通する柄穴が開けられている。 一

方は中央に一本、他方は両隅近くに二本の脚が配されている。各接合部は天板に緊結する

ためにしっかり模打ちされている(図版112) 。ほとんど剥落しているものの卓台全体に

漆喰が塗られ、着彩されていた。三筋の色の帯で囲まれた余白には画が描かれている(図

版113) 。女神レネヌトを顕わす明るい金色のような黄色で塗られたコブラが、赤い寵に

入っている図である。コブラの前には、供物台の左手の長い垂直な帯に書かれた文章から

パペルパと思われる死者の安全な旅路を願い、食物が供物台に載せられている。

亡ゴロ100 。 500mm

図34 も

45

8. 葦と蘭草の供物台(図版114)

第18王朝、紀元前約1400年、カーの墓、テーベ・エジプト博物館、トリノ、 Cat. No. 834

3 ・ H二298mm L=787mm W=539mm ・スキアパレッリ 1927年、 118ペー ジ、図101上・ベ

ーカ 1966年、 117ページ、図版162b。

世界中の公的私的コレクションで、古代エジプトの卓台の例は希少である。木材は大変

高価で、あったので大きな卓台が造られることは身分の高い人々の埋葬の為の家具を除いて

はほとんどなかった。驚くべきことに、、ソタンカ ーメンや、ユヤとトゥヤの墓から一つも

卓台は発見されなかった。

そして 17及び18王朝の聞に主として卓台の構造体に、葦と蘭草の家具が登場しでも驚く

には及ばない。(ベルリンのエジプト博物館に収蔵されている化粧道具箱・ Cat. No. 1177

は第17王朝と推定され、テーベのメンチュホテプ女王の墓の遺跡から発見されたもので注

目に値する;未公刊)葦と蘭草は一度乾燥すると単純な卓台をつくる良い材料になる(図

版114) 。ここでは脚は四本の強い葦の茎で作られ、長く柔軟な蘭草でしっかり束ねられ

たやや細い部材で側面と台の下に斜め筋違いが設けられている。この構造は実際の荷重を

支えることができた。というのも発見されたとき、パンの供物が実際に載せられていたか

らである。供物台の天板は蘭草を一本一本並べ、三本の蘭草の紐を一本は天板の真ん中に、

後の二本はそれぞれ端で台枠に結びつけて作られた。これらの紐は蘭草の天板まわりで束

ねられ、しっかりした蘭草の次の束周りで結ぼれる前に、下の葦の側枠まわりでも束ねら

れ補強された。

第 7 章 壷竪

古王国

第6王朝と推定されるメレルカの墓から、古王国期に壷(訳注:丸底で立てられない)

を置く二つの方法が見られる。 一つは(図35) 単純な部材を柄穴継ぎした低い四角い台で

ある。天板は一枚の板からなっていたと思われる(このような壷竪の大変良い例がベルリ

ンのエジプト博物館・ Cat. No. 16436に収蔵されている) 。

もうひとつの古王国の例は平らな底の大きな壷の収納を示している。この壷竪の構造(

図36) は前述の例と似ているが、天板が外れ、壷を支えるように貫に直交する小割材が配

されている。このような壷竪はテーベの中王国、新王国期のレリ フによく見かける。好

例がテーベの墳墓100、レクミラの墓に描かれているが、比較的背の高い壷竪の型に似た、

末広の脚を持つ二つの小さな木製壷竪で、各々一つ、丸い壷を収めている。(デイヴイ

スス 1953年、図版XXXVIII)

丸底の壷が作られ、その台が必要となった。これらの用途に初期には木製の壷竪が供さ

れていたが、後に石、アラパスター或いは土器の壷竪が、広く使われた。

1.壷竪(図版115)

46

古王国・市立博物館、リモ ジュ、 Cat.No. E958 . H= 114mm ・未公刊。

この初期の木製壷竪はフランス、リモ ジュに現在収蔵されている。木部を皿状に削っ

た部分で丸い壷の底を受けるものであるが、皿状の部分は三本の脚で、宙に浮いている。手

斧や撃の痕跡がはっきりと残っている。

図版115

第18王朝

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2. 壷竪(図版116- 117、図37)

第18王朝・大英博物館、ロンドン、 Cat.No.2470 ・ H=660mm

ベーカ -1966年、 153ページ、図版2400

L=470mm W=470阻・

中王国期に輸入材がふえると、木の使用量の少ない、背の高い壷竪が流行家具になり、

中王国や新王国の石碑や、貴族の墓の壁画に多く描かれるようになった。好例がケルエフ

の墓、テ ベの墳墓192に、供物を捧げる王女の行列がそれぞれ壷を置いた八つの壷竪の

前を歩いてゆく光景が描かれている。(ベーカ -1966年、図版243) 乙のようにやや脚が

末広に傾斜している壷竪は現在カイロにあるエジプト博物館に収蔵されている (JE35270A、

35270B、 35270C) 。しかし、大英博物館にあるこの例は質とデザインにおいて飛び抜けたも

のである(図37) 。

以前の例と同様、主たるデザイン要素は丸底の壷を台のある位置に据える方法である。

この例ではその方法は壷台の一部で厚板に取り付けられた上部に広がった円筒形の環によ

る。この両側面には中央の厚板と円筒と共に四角い壷台を作っている、より小さくて薄い

部材がある。この三つの要素は台の側枠の横桟に水平にだぽで止められている。これらは

厚い漆喰層で覆われている。

この台の全体構造は単純である。四本の末広に傾斜する脚は台の側枠と貫で別々に支持

47

され、柄穴継ぎと回定だぼで留められている。(図版117) 台の格子の斜材は簡単に模か

突き付け継ぎされて固定されているので、筋違いのない構造体とほぼ同じと考えられる。

ちょっとした筋違いが構造体に加えられ糊着けされていたものと思われるのは、貫の一部

に焦茶色の接着剤の痕がまだ少し残っているからである。全体は漆喰で塗られており、特

に漆喰が厚塗りされている円筒部と台は何も装飾されていない。主構造部は漆喰上に基色

の金が塗られ、更に装飾として、深緑、浅い緑、赤の四角が描かれている。

図37

3. 小さな壷竪(図版118、図38)

100 0 ~

200I11III 届面画面逼

第18王朝・大英博物館、ロンドン、 Cat.No. 2471 . H=3901D W (基部) =2400. ベー

カ -1966年、 153ページ、図版241 。

この非常に小さい壷竪は六本の撰んだ柱の間で、小さな壷を支えるようにデザインされて

いる。これらの柱は丁寧に鋸で引かれ、各要素は注意深く突き付け継ぎされた少なくとも

二つの部分からなる。これらの接合部は殆ど他の脚と同じ部分で継がれることはなく、ま

たこの部分を消すために漆喰で塗られている。この特異な壷竪の構造上の興味ある特徴は

三本の接合貫材が組まれている方法である。各貫は柄穴継ぎと補強だぽで湾曲した柱に接

続されている。三つの部材は大変込み入った接合で一点で、交わっており、互いに60度の角

度で、三重の相欠き継ぎがなされている以外考えられない。

卓台同様、壷竪も葦と蘭草でつくられたことが想像に難くない。紀元前約1360年のアマ

ルナのメリレ2世の墓では、奴隷たちによって、軽々と運ばれている査を載せた華著な台

が描かれている。

紀元前1400年のカーの墓からも葦と蘭草の台が発見された。一般に壷竪と考えられてい

るが、丸底の壷を支えるような形ではない。宝物を飾るために使われていたのかもしれな

い。これは、ソタンカーメンの金の玉座の背もたれ部分にフアイアンスで象眼された台と似

ている。緑色は、葦と蘭草の構造であることを示していると考え得る。また不思議な色の

円筒が備えられている。残念なことにカーの台は1939年から 1945年の戦争中に紛失した。

48

方位論ノート

溝口明則

1.はじめに

先年の夏の終わりごろ,方位について考える機会があった。与えられたテーマは,風水

思想、の中の建築と方位の関係を考える,というものであった。方位,建築,風水という 3

つの項目を並べてみると,建築と方位とのかかわりこそが主要なテーマであるようにみえ

る。このテーマは,まだ十分なパースペクティブが捉えきれていないようにも思えたし,

ここからみると風水思想は,さしあたり墳末なことのように思えた。そこで,方位とは何

かという問題と,もともと建築と方位とはどのような関わりを持っていたか,という 2 つ

の問題を考えてみようとしたり。

1 ヵ月というずいぶん厳しい制約のおかげで,かえって書き終えることができたように

思う。しかしその結果は,日頃の勉強不足が露呈し,資料収集と解読の限界を,あらため

て思い知らされることになった。

2 .方位と方向

4 五位について,漠然と問題を感じたのは, 10年以上前に雑誌で読んだ人類学者の報告

である。アメリカ・インディアンのある部族の「方位J (と記していたと記憶している)

の概念が,彼等のテリトリーを貫通する一本の川に従って作られているというものだった。

つまり東西南北という概念ではなく,川上と川下の 2 つだ、けが彼等の普遍的な「方位」の

概念だというのである。これは,川がうねり,ときに流れの向きが逆転するようにみえる

場面でも,川上は川上として,常に流れに即応した絶対の方向基準であることを意味する。

同じように,大きな河川を,より普遍的な方向の概念の手掛かりとする例は,世界のさま

ざまな地域に残っているという指摘もあったと思う。

この種の「方位」は 4 方位の軸線,いわば不動の直交座標をイメージする私たちから

みると,流れに従ってどのようにも変化する基準という概念が,実感としてよくわからな

い。しかしこの種の方向感覚は,意外にみじかなものである。私たちが地下鉄を利用し,

街を歩いて目的地に至る道程では,わざわざ 4 方位に頼ることなく,さまざまな目印を繋

いで目的地に達する。この種の経験は全体として普遍的であり,共有されているが,具体

的な目印については,個人的なものもありうるから,共同体の総員が認めているものとは

限らない。反対に,誰にとっても明瞭な特別の目印があったとすれば,それは相対的に,共

同体の中で普遍的な存在になりうるといえる。アメリカ・インディアンの「方位J とは,

このようなものだとみることができる。つまりこれは,私たちが「方位」という概念でた

だちに了解する 4 方位という基準に基づいたものではないから,もともと「方位」の概念、

(の一種)とみること自体に,問題があるのだと思う。それでもこの人類学者の報告は,

ずいぶん考えさせられるものであった。今度の機会に本棚を引っ繰り返して探したのだが,

とうとうこの論考は見つからなかった。

代わりに似たものをみつけた。パリ島の方向の概念である。バリ島は,中央に火山を戴

いた島だから, "1 という川が火山の中腹から海に向かつて放射状に流れ出ている。集落は

49

ふつう川の中流に営まれるため,集落を結ぶ道路は,島中どこでも川を横断し,島を周囲

する。個々の集落を越えた普遍的な方向の概念は,ここでもやはり「川上(山の方向) J

と「川下(海の方向) J の 2 つだという。これは,島の特殊な地形のおかけで,どの集落

にいっても通ずる方向の概念になっている。このためこれを 4 方位の概念で表そうとす

ると,かえって混乱がはじまる。 4 方位に翻訳すれば,ょくにた形状の集落にも関わらず,

集落ごとに,方向を表すことばが変化してしまう。パリ島のそれぞれの集落にとっては,

かえって煩雑なことになってしまうのである。

「方位」について再び考えさせられたのは 7 年程前だった。ほとんど参加できなかっ

た『マーナ・サーラ』のゼミで,ただ一度だけ翻訳の分担を受けたことがあった。担当の

部分は,いわば地鎮祭について記されたところで,これから神殿を作ろうとする土地に,

土壇を構築して神々を勧請する祭配について書かれていた。建築家が膜想によってシヴァ

神となり,土壇各部に配置された神々に,次々に供物を与えるのである。シヴァ神自体に

は当然供物がない。シヴァは饗応される側ではなく,する側にいるためである。しかし土

壇の北東隅には,たしかにシヴァの庫が設けられており,シヴァ(である建築家)は,こ

こを起点として正方形の土壇の周囲を,供物を与えつつ右続三匝する。この所作には,異

邦人がよく理解できないさまざまな疑問が残るが,ともかく北東隅という点がずいぶん気

になった。中央にはブラフマンが座し,あたかもプラフマンを中心としたパンテオンであ

るかのようだが,祭最日の構造は,シヴァ神が中心であることを示している。そしてにも関

わらず,シヴァの座が中央からもっとも離れた辺境に置かれていたためで、ある。こんなふ

うに,ときどき「方位」に関わる素朴な疑問が立ち表れ,そのつど,何となく気にはなっ

ていたが,好奇心は立ち消えていた。

ところで,歴史地理学などの分野でも r方位」に関する言及は多い。これらの論考に

表れる「方位」の概念は,ふつう私たちが知っている 4 方位を意味する場合が多く,この

ことが読んでいて違和感を感じさせない。しかしこの種の論考では,かなり古い時代を対

象としながら r方位J の概念が,まるで人類とは無関係に,最初から客観的事実として

存在しつづけていたかのように扱っているものが多い。つまり人類がものごころついた頃

には,東西南北や 4 方位のシステムがすべて揃っており,人類はこれに気づいて,自分た

ちの世界像の構築に利用したかのような印象を与えるのである。しかし「方位J の概念も

また,これを生み出さないわけにはいかなかった社会的な必然性に従って,人類がいずれ

かの時代に発明したものであるはずだと,歴史を研究する者なら思わずにはおれない。そ

して,太古の「方位」の概念が,東西南北の 4 つの方位の上に構築されたものであっても,

私たちが理解しているものと同じものだと簡単に想定してしまっていいのだろうか? と

いう疑問も,おそらく沸いてくるにちがいない。

3 .方位の概念

この種のさまざまな,かなり奇妙に思える議論は,つまるところ「方位」の概念と「方

向」の概念とが,混濁したままである点に原因があるように思える。アメリカ・インディ

アンの報告は,その共同体が共有する普遍的な概念である,という点で,私たちの方位と

同等の役割を果たしているようにみえるが, しかしこれは方位ではない。 一方,東西南北

が揃っているからといって,このことが直ちに現在の方位と同じものだ,と即断すること

にも注意が必要である。まず,方位という概念を検討しておこう。

50

方位は 4 つの方向の地平線の中の,それぞれただ 1 点を指す概念である。私たちは,例

えば「東」という言葉のなかに rおよそ東の方向」という意味と r真東J という意昧

とを二重に持っており,これを適宜使い分けている点に注意する必要がある。前者は方向

の指標としてたまたま真東を用いた場合であり,この指標が「東京タワー j や「富士山 J

など,指標になるものなら何でもかまわない。もちろん河川であることもありうる。ただ,

河川の場合は目標物とは限らず,先に述べたように,流れ自体が方向を明示する,という

機能に注目する場合もある。

一方「真東」の概念は,すでに確立している方位の概念に従ったもので,具体的にこれ

を明示するものは磁石を除いて存在しない。とはいえ厳密には磁石が示す針の方向とも異

なり,季節によって変化する日の出の方向とも異なっている。春分と秋分の日の出の位置

を手掛かりに,観念として構築されたものであり,反対項に西,そしてほかに南や北が存

在することを前提としたものである。

漠然と「東J というとき,私たちは方位としての真東と,これを指標とするおよその方

向である東とを,併せて用いているのである。たしかに方位としての東は,このように幅

のある概念の中心を占めているようにみえる。方位としての「東J が原理を担ってはいる

が,これは理論的な原理なのであって,歴史的な発達過程からみると原理とはいえないは

ずである。歴史的な発達過程と理論的な原理とは,ふつう逆転している。ぱらぱらに発見

され,個別の存在として信じられていたものが,時間の経過のなかで共通する特質が見い

だされ,徐々に原理に気づかれていく,という過程を経るためである。論理的な起源(原

理)と歴史的な起源とが異なることは,当然のことのはずだが,両者はおうおうにして混

同されている。

現在,方位のシステムは 4 方位を基点とすることで,相対的に自己の位置を知ることが

可能なシステムとして機能している。しかし本来 4 方位の観念は,個々の目印を手掛かり

に自分の位置を知る,という方向感覚とは意味あいが異なっているように思える。 r東」

や「北」は,もともと日の出の位置や北極星を目印としたもので,これはそのまま「東京

タワー」や山や河川のような目印と同等の役割を果たすが,同時にそれら単なる目印の意

味を越える,何らの特質もあわせ持つてはいない。したがって「東J や「北」も,本来単

なる目印であり, 4 つの方位が相互に結びあって成立する方位のシステムは,用いる道具

が同じであっても,全体として目印としての,個々の「東」や「北」と同じものではあり

えない。この相違がもっとも象徴的にあらわれたものが「南j の方位である。太陽や北極

星など,他の方位のようなたしかな目印が存在しないにも関わらず r南」は 4 方位の一

つに位置づけられている。 r南」はシステムの構成要素としてのみ意味があるといえる。

したがってシステムとしてみた方位は,天体などの日印を手掛かりに,人類がいずれかの

時代に発明した観念とみることができるのだと思う。

このような特質が予想されるにも関わらず,私たちが 4 方位を自己の相対的な位置を知

るための手掛かりであるかのように感ずる原因は,ひとえに磁石の存在によっている。コ

ンパスの針と周囲の円盤とが 4 方位を私たちの方向感覚の基点に結びつけている。しか

し磁石の発明(指南車)は 3 世紀頃まで下るもので,それよりも2000年も前に, 4 方位の

観念は成立しつつあった。そこで,本来の 4 方位を,単なるオリエンテーリングのための

装置とみる見方は,単純にすぎると感じられることになる。

51

4 方位とは,単なる目印の水準を大きく越えた存在である。目印どうしを繋いで構築さ

れたシステムは,結局,世界像の構築に深く関わっている。この特質こそ 4 方位の本当

の問題なのだと思える。

論考を組み立てていた時点、では,領域を指す方向の概念が,地平線上のただ 1 点、を搭サ

方位の意味に転換した時代を,資料に則してどの様に述べたらよいのか, しばら く 見当が

つかなかった。ようやく時間切れ寸前に,暖昧に X字に区分された世界が,明確な十字で

区分される時点を以て 4 方位の概念、の確立の時期と考えた。これは聖刻文字の都市や集落

を意味する⑧の文字が,中王国時代を挟んで窃という文字に変化したことに勇気をえ

て記したものである。いずれも都市の平面のかたちを文字化したもので,建物が口の文

字で示されることと同様である。都市の平面を表す文字の変化は,文字としてみれば単に

450 回転した程度の,些細な変化にすぎないようにもみえるが,背後にある,世界像の巨

大な変動を象徴するものであったと思える。つまり, もともと領域を含意する概念が,領

域どうしを区画する境界の意味へと変質するのである。

カノプス壷が象徴する北東,南西などの}j位の表現を,この概念の発生の説明に用い,

古王国時代にすでにこれらの壷が現れたように記したが,これは明らかに理解不足で,カ

ノプス壷とカノプス拡の発生を混同していた。枢があれば当然壷が中に人るのだと思い込

んでしまった結果である。カノプス壷の確実なものは,中王国時代に下るようである。

4. 方位の発生

方位という,私たちの方向の概念、の基層を形成している原理は,歴史上のどこかで積極

的に作られたはずで,これがなぜ,どうやってつくられたかということについて,なかば

強引に,ともかく筋道をつけて報告した。なお,いまもってよくわからない点が多々ある。

そのうち最も気になるものが,無理を承知で例をあげれば,なぜ 3 方位でも 5 方位でもな

く 4 方位になったのか? という問題である。私たちは 4 方位をあたりまえのものとし

ているので,そうなった原因はごく自然なことのように感じられるが,同時に,うまく説

明できないという矛盾した感覚を覚える問題である。

甲骨文字の 「東 」 は,扶桑の木を登って太陽が表れるところを描いたもので,全部で10

個ある太陽のうちの 1 個が,地上に表れるときの状況を示している(残りは地下に残る。

十日を旬として暦法の単位とする考え方に繋がっている)。つまり当時の神話に従った日

の出の絵文字である 。 I木ニ扶桑」 と「日=太陽J とを組み合わせているから,神話と対

照すれば「東 j を意味することになったとみることに違和感がない。一方 I 西」の方は,

もともと巣に入った烏を描いたものといわれる。したがって「西」は夕暮れに特徴的な自

然、現象を描写したもので,太陽とは直接関係のない絵柄(文字)である。つまり「東」 に

ついては空間的な特質が表れているといえなくもないが I 西 j については,明らかに時

間の表徴であり,方向や方位など,空間的な概念とは無関係とみえる。したがってふたつ

の概念は,発生期においては,必ずしも対の概念として成立していたわけではなかったこ

とがわかる。同じように 「北」 は背中,ないし背中を向ける意味を持っているとされ,

「 南 」 は巨大な太鼓と,これを叩く人を表したものといわれている。この 2 つの方位につ

いても対であった様子はみえない。つまり,後に 4 つの方位を表すことになるそれぞれの'

文字は,もともとぱらぱらな存在なのであったれ。

笈川博一『古代エジプト JJ 3) のなかに I南へ行く J と 「北へ行く j という意味を持つ

52

聖安IJ文字が紹介されている。

ナイル渓谷はほとんど常に北風が吹いている。このためエヅプト語で 「南へ行く J ,つま

り 「河を遡る J を表すへンティは帆を張った船という字だ。逆はへディで帆を降ろした船 安になる 。 河を下るにはなんの苦労もない。 舵さえ取っていれば,流れと共に下ることがで

きる。

南と北は船という共通の記号の下で,帆の相違で示されている。つづいて,

トトメス一世の石碑には南に流れるユー フラテス河の叙述があるが,そこには 「南へ行く

(遡る) J ために北へ行く(下る)河 J と書かれている。

としてユーフラテス河の描写に関する,奇妙な表現を紹介している。これは,南や北の概

念が,ナイル河と癒着したものであることを示している例で,方位の概念が,機重にも重

なったさまざまな意味を含んだ文字の中の,ごく一部を形成するにすぎないものであった

ことがわかる。この文字は,まず川を「遡る/下る J という,より確かな意味を中核とし

て形成され,その上に,比晴として北や南という方向の意味を加えてきた,という発達過

程を予想することができる。つまり文字が現れた時点では,方位だけの独立した概念を形

成していたわけではないのである。ただ,ここでは南/北(遡る/下る)が対として捉え

られている点に注目しておくべきであろう。

このように 4 方位の概念が表れる段階よりも前に,すでに後に 4 方位に転用されるこ

とになる文字が揃いつつあった。これらの概念を整理し,東西の対,南北の対,そしてさ

らに 4 つの方位の概念が成立する過程は,いぜんとしてなぞに満ちているようである。

すでに報告したように,こうした概念を支える天体のふるまいを十分に理解できるだけ

の蓄積が,人類の占時期になされたことは疑いがない。そしてそのような時代は,アジア

的な時代をおいて他には考えられない。しかしそれでもなお,文字の発生の過程を考えた

とき,どうして 4 方位に対応するものが,うまし、ぐあいにそろっていたのだろうか,とい

う疑問が残りつづける。なぜ,ナイルの川上と川下のような概念、が,都合よく 4 方位の概

念、に昇華できるよう,準備されていたのだろうか。先に述べたアメリカ・インディアンの

河川と同じように,相対的にもっと普遍的ではあるが,地球上の特殊性,地形の延長上に

ある天体の存在が,早い時期から方向の概念、に示唆を与えていたということなのだろうか。

ひるがえって,アメリカ・インディアンの共同体やパリ島に残る方向の概念、などは,特殊

な地形に強く縛られていたため,私たちが共有するより普遍的な方位の概念に到達するこ

とのできない限界を,最初から持っていたとみることになるだろうか。

5. 対の概念と不等価性

発表した論考では,アジア的な時代において 4 方位が神王の中心性を明示するための

周縁を形成する要素として位置づけられたと考えた。この時点では 4 方位は相互に,中

心に対して等価なものでなければならない。しかし方位は,東一西,南一北とそれぞれ対'

になった時点,つまりより発生期に近い時点で,すでに不等価な,対立的な価値を帯びて

いたと思える。例えば東=生,西二死,というような価値である。方位が抱いていたこの

53

..

種の意味は根強く 4 方位が中心を明示する周縁として,意味が組み換えられでもなお生

き延び、つづ、けていた。この種の状況の好例と思えるもので,準備したが割愛せざるをえな

かった例を挙げておこう。

古代インドの 4 つの方向は,東一西の順でく十>の価値,く 〉の価値という対立項を

形成しており,北 南もこの順で同様の価値を帯びている。以下に検討する文献には,こ

の象徴が 4 方位に準拠した都市の構造の中に,確実に生きつづけていることが示されてい

る。仏陀の最後を記録した経典『マハーパリニッヴァーナ・スッダーンタ.JI 4) によれば,

仏陀は「クシナーラー」という小都市ないし村邑の郊外の,沙羅双樹の下で大浬繋に入っ

た。彼が入滅したのち r クシナーラー」に住むマッラ族は,盛大な葬列を組んで,彼の

遺骸を火葬の地へ移そうとする。しかし枢が持ち上がらない。それは,葬列の順路が神霊

たちの意にそわないためであった。この箇所を以下に引用すると,

ヴァーセッタ(マッラ族の長)たちょ。お前たちの意向は,くわれらは,舞踏・歌謡・

音楽・花輪・香料をもって尊師の遺体を敬い,重んじ,尊び,供養して,南に通ずる道路

によって都市の南にはこび,外に通ずる道路によって都市の外にはこび,都市の南におい

て,尊師の遺体を火葬に付そう>というのである。ところが,ヴァーセットたちょ。神霊

たちの意向は,くわれらは,舞踏・歌謡・音楽・花輪・香料をもって尊師の遺体を敬い,

重んじ尊び,供養して,北に通ずる道路によって都市の北にはこび,北門から都市の中

に入れて,中央に通ずる道路によって都市の中央に運び,東円から出て行って都市の東方

にあるマクダノf ンダナ(天冠寺)と名づけるマッラ族の嗣堂に進んで,そこで尊師の遺体

を火葬に付そう. >というのである。

枢が持ち上がらない原因について,尊者アヌルッタマがマッラ族の長たちに説明する箇所

である。この内容を整理すると,以下のようになる。

①マッラ族の提案した順路

南に通ずる道路

(都市の南側)

②神霊たちの主娠した順路

北に通ずる道路

(都市の北側)

' 外に通ずる道路

(都市の外)

参北門から都市の中

中央に通ずる道路で都市の中央に運び

東門から出て

ゃ都市の南へ

一都市の東へ

マッラ族の提案する順路には,やや暖昧な点があるが,このようにみてよいであろう。

さて,沙羅双樹が「クシナーラー」の郊外の,どちらの方向にあったかについては記され

ていないが,仏陀は沙羅双樹の下で頭を北に向けて臥し,右脇腹を下にして顔を西に向け,

日没を見ながら大浬繋に入った。したがって仏陀の西側には日没を遮るものがなかったこ

とになるから,この方向に「クシナーラーJ があったとは考えにくい。つまり仏陀は,

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「クシナーラー」からみて,この都市の南か西,あるいは北にいたことになる。ところが

葬列の順路に関する記述には r クシナーラー J の南と北を通る順路が提案されており,

西に関してだけ言及することがない。そこで,仏陀入滅の地は「クシナーラー j の酉の郊

外で,ここから葬列が出発するとみることがもっとも妥当である。

葬列が「クシナーラー」の西から出発すると仮定して,マッラ族の主張する葬列の順路

と,神霊たちが主張する順路とをそれぞれ図示すると,以下のように整理できる。

①マッラ族の提案した順路 I I ②神霊たちの主張する順路

N I I N

クシナ-7- 'fr lll

よTIlli--

Gu

西 西 火葬地

クシナー う ー

火葬地

マッラ族の提案では,葬列は都市の中を通らず南の郊外で火葬される。これはおそらく,

(1) 死の犠れを都市の中に持ち込まない。

(2) 南は死を司るヤマ神の方位で,死を象徴する方向であった。

という 2 点を含意するものであった。つまり,

(3) 葬列(死横)は,吉祥を象徴する北や東には近づかない。

という意味を含んだものであったであろう。マッラ族が提案する葬列の順路は,おそらく

古代インドにおいて,ごく常識的なものだったと見られる。ところが神霊たちの主張はこ

れとことごとく対立し,

(1)'葬列を(あえて)都市の中を通し,都市の中央の十字路を通過する 。

(2)' 死 = 南という象徴の対局にある北から都市に入る,そして都市の中央を東に折れ,

マッラ族の聖地である東の嗣堂の前で火葬を行う。

という内容である。つまり整理すれば,

(3)' 死を象徴する南の方角には一切近づかず,吉祥を象徴する方位だけを通る。そして

最も聖なる場所,清浄な場所で火葬を行う。

ことになる。これは仏陀の死が,大浬繋への到達を意味するもの,つまり,通常の死とは

正反対の,織れや禁忌どころか最上の吉祥を意味する出来事であった,という神霊たちの

評価が含まれているとみることができる。

ここに現れた 4 方位の象徴は,東と北をく十 > の価値,西と南をくー〉の価値とみてい

ることが明らかである。そして「内 」 をく+>. r外J を く 〉としている点も見逃すこ

とができない。都市の平面形状に象徴されるように,一見して 4 方位は出そろい,中心に

対して周縁を形成し,等価なものとしてあっかわれているようにみえるが,ここになお,

55

不等価な対立的な価値が生き延びていることが知られる。

次の例は,都市の中で死者が出たときのケースである。 IF マヌ法典Jl 5) によると,

死んだシュードラは都城の南門から運び出すべし。ドヴィヅャ(引用註:上位三身分)

は,正しく. [ヴァイシャ,クシャトリヤ,ブラーフマナの順に〕西,北および東門から

[運び出すペし J 0 (5 ・ 92)

ここでは 4 つのヴァルナ(カースト)の成員が都市の中で死んだ場合に,①死臓を避け

るために都市の外に運ぶ,ということと,②所属ヴァルナの序列にしたがって東を最優位

として北,西の順に価値を下げ,南を最劣位とする,という 2 点が記されている。これは

単に 4 方位の中に序列があることを示すだけでなく,東西の対と南北の対とのあいだにも,

価値の上下の観念があったことを暗示している。しかしこの価値は,東と西がそれぞれ正

と負であるような意昧とは異なる。東西の対よりも南北の対の方が相対的に価値が低いと

いう意味あいであって,南北の対が否定的な意味をもっているわけではない。そこで 2 つ

の対が統合されたとき,両者の正の価値をもっ東と北とが,正の価値の第1, 2 位,そし

て西と南とが負のカテゴリーの中の 1 位と 2 位に配当されたと見られる。

こうして方位どうしが合成されたとき,北東という方位が最優位の価値を,南西という

方位が最劣位の価値を帯びることになる。 IFマヌ法典』の中に以下のような記事がある。

森に住むブラーフマナは,以上のおよびその他の生活規則(引用註:省略)を励行すべ

し。また自己の成就のために,ウパニシャツドに含まれる種々の聖句(シュルティ) [の

勉学に励むべし J 0 (6 ・ 29)

〔それらは〕学問と苦行の増大および肉体の清めのためにリシ,ブラーフマナおよび家

長によって励行された。 (6 ・ 30)

あるいは心を集中し.7l<と空気を食し身体の倒れるまで,東北を目指して直進すべし。

(6 ・ 3 1)

偉大なリシたちのこれらの所業のいずれかによって肉体を遺棄した後,ブラーフマナは,

悲しみと恐怖を離れてブラフマンの世界において繁栄する。 (6 ・ 32)

バラモン階級は,年齢を重ねたのち,社会的な責務を子供に譲り渡し,森に隠棲して行

者となる。この行はプラフマンとの合ーを願って行われるが,この隠者の生活規則につい

て記されたものが上の記事である。 6 ・ 31に宗教的な自殺の方法が解かれているが,膜想

し断食したまま歩きつづ、ける方向が「東北J である点は,この方角が最上の吉祥を象徴す

るためである。この行によって,彼は「ブラフマンの世界において」来世を快適におくる

ことが可能になる。反対に í西南」の方向が帯びる象徴が表れた例もある。これは五つ

挙げられた大罪 01 ・ 55) の一つを犯したとき臆罪のために行われるもので,罪人は,

-・・ニルリティ(死の女神)の方角(西南)に倒れるまで直進すべし。 (11 ・ 105)

というものである。倒れるまで直進するという共通の表現からみても,先の「東北」に向

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かつて進む行法の反対項を形成している。

アジア的国家が形成されるころ,東西の対と南北の対とは,中心を明示するための周縁

を形成するものとして,セットとして扱われるようになった。この時点では,各方位の対

立的な価値は,一端棚上げされたとみられる。しかし,これらがもともと帯びていた対立

する価値の方を尊重すると 4 方位を統合したことが,新たに価値どうしの合成を生み出

す契機となる。この結果が「東北」一「西南」という方位,対立項を生み出した原因であ

る。あたかも座標の基準となる軸線が450 回転したような変化になっている。そして,こ

れが先に述べたシヴァ神の座の意味であり,一見して辺境といえる区画でありながら,同

時に最優位に位置するという,矛盾ともみえる配置の原因なのだと考えられる。

6 .世界の分割

四方を意味する文字は,当初,それぞれ独立した意味を含んでいた。そして,人類史の

どこかの段階で東と西,北と南は,それぞれ対であると同時に対立する意味あいを鮮明に

していったようである。この発生の過程については,古代インドをみる限り,東西の対が

まず形成されたように思われる。その後,東西の対,南北の対が出そろった後,それぞれ

の対どうしがさらにセットとなって 4 方位を形成することになった。

一応,このような発達過程を予想したが,それでもなお 4 方位の発生については,ど

こか納得のいかないものが残る。話がうますぎるという気がしてならないのだ。どうして

ほぼ同時期に,あちこちの文明で同じような世界像が生まれたのか? 太陽を指標とする

方向感覚は,大河の氾濫原に現れた人類の文明が,どこでも大河の周囲に広大な平原を持

っていた,つまり大河から離れたとたんに方向の指標を持たないという,共通する地形に

はぐくまれたためなのであろうか? 特に南北という方向の現れには,東西(太陽)とは

異質な,何か特別の発生の契機があったような気がしてならない。この方位は北極星(後

に北天の中心点)を指標に現れたものだとしても,反対項となる南の指標が不明瞭である。

東西は太陽を媒介に対の概念に到達できそうだが,南北には対となるべき契機がみつから

ない。例外は,先に述べたナイル河で,北極星の方向と合成されて,この軸線を生み出す

ことになったのかも知れない。このことだけに注目すれば 4 方位がそろって等価なもの

として扱われた起源はエジプトにあり,他の文明は,東西は自前の概念であったとしても,

南北の方位の概念は伝えられたものであったようにもみえる。

現在,文明伝播論はタブー視されているが,股代の戦車はメソポタミア起源とみられて

おり,方向の観念の発達は,馬行や車行の歴史と深く関わっているともみえる。つまり,

中国には 4 方位も一緒に,メソポタミア経由で伝えられた可能性も予想できそうである。

しかしこのことと相反するように,世界中に残る創世神話には,世界を 2 分割するモテ

ィーフと 4 分割するモティーフが繰り返し現れている 6) 0 2 分割は天と地,男と女などが

代表的なものだが. 4 分割のモティーフも時間や空間や人種など,あらゆるものが対象に

なっている。この種の神話の中に,天を支える 4 本の住ないし 4 柱の神などと一緒に,東

西南北の 4 つの方向(方位?)も現れている。これは,エジプトのカノプス壷ばかりでな

く,新大陸の創世神話にも大量に認められるので,単純な伝播論ではとても説明がつかな

い。とすればもともと人類は,ごく初期の段階から,ものを分割することで秩序づけ理解

するという世界との関わり方を共有していた,と捉えるべきであろうか? 分割という操

作のもっとも源初のものが 2 分割であり 4 分割はこの操作を 2 回繰り返すという簡単な

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ものだ。 2 分割iを繰り返すという操作はIrリグ・ヴェーダ』の数の表現のうち,分数表

現の中にも認められたものである 7) 。こうした原型的な操作と理解の仕方が( 2 次元的だ

が)空間に適用されたことが 4 方位の現れる本当の原因であったのかも知れない。

7.結び

4 方位の発生のメカニズムについては暖昧なことが多く,論考でははっきり記せなかっ

たが,手掛かりは「分割 l にあるような気がしている。東の領域と西の領域とを区画する

北一南の軸線が出現し,このことがあらためて東一西を境界線とする北と南の領域という

見方を成立させ,結局 4 方位を結ぶ十字の軸線が世界を 4 つの領域に区画する,という

段階が予想される。しかし 4 方位が揃うことで生まれたものは, 5 番目の要素「中心J で

ある。東西の対,南北の対がそれぞれ形成された時代には,中央は 2 つの領域の接点を形

成する閥,境界,切断線にすぎなかった。したがって世界は 2 つの領域のいずれかに属し,

両世界に跨がる存在はありえない,というものだったであろう。本来 2 つの部分で構成さ

れていた世界は 2 種類(東西と南北)の区分法が統合された時点で,ついに空間に第 5

の領域 I中心j を生み出す。それゆえに,強力な,至高の聖性を主張した王権による意

図的な介入なしに 4 方位が組み立てられることはなかったと思えるのである。

ひとたび発明された「中心」は,古代仏堂内陣の三尊の配列や,古代中国の 9 つの世界

区分,呈茶羅の配置など,多様な空間的構成の要として,以後の人類史を生き延びている。

奇数柱聞の左右対称の建築形態なども,こうした空間把握を前提としたときはじめて,わ

りあい平明に理解できるようである。発表した論考は,あちこちに不徹底で不足の部分が

目につくが,当面,このように見ておくことで,あたりまえのようでいながら,あらため

て考えるとよくわからない様々な問題に,少し分け入ることができそうな気もしている。

方位の起源の問題は,世界像の発生期の問題,幾何学的な図形の起掠の問題,空間の把

握の仕方,演出の方法などの問題, したがって建築や都市形態の問題と深く関わっている。

アジア的といわれる時代,きわめて強力な王権が生み出された時代に,これら人類文明が,

以後の歴史の発達の方向に,一定の枠組を与えたように思われる。素朴な科学から呪術に

いたるまで,そしてそれらを支えた世界観など,この時代の種々の発明は,いまでも私た

ちの,世界に対する見かた,接し方,感じ方,考え方などに,気づかないうちに巨大な影

響を及ぼしているように思われるからである。そのためにこそ,方位や世界像に象徴され

るこの時代の精神は,同時に現在の,私たち自身の問題でもあると感じている。

1 )拙稿『建築と方位の避遁JI I風水とデザイン J 所収

2 )白河静『甲骨文の世界 古代殿王朝の構造』

3 )笈川博一『古代エジプト』

INAX 1992

平凡社 1972

中央公論社 1990

4 )中村元訳『仏陀最後の旅 大パリニッパーナ経』 岩波書店 1980

5 )渡瀬信之訳『マヌ法典』 中央公論社 1991

6) M=L ・ 7tì ・ 77ì'J Ir世界創造の神話』 人文書院 1990

彼はユング派の心理学者なので,創造神話の共通項を「集合無意識J に還元してしまうJが,

もう少し歴史的な説明もできるように思える。

7 )拙稿『リグ・ヴェーダの数を伴う表現』 「史標 9 J 所収 1992-9

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ヌ-$7 二/ノぐ

事故ぞ賛企貝各E実尽 前編

高野恵子

3 月 26日早朝。言わずもがなの快晴。メコン河沿いの崖つ縁をガタガタパスで走る事約

1 時間。巨大なトランクを 3つも抱えそれから小さなパックパックを一つ。燕が群れ飛ぶ

河を渡って,やっと辿り着いた小さな街が,あの懐かしい栂積損である。街は相変わらず

小さく,そして南国の熱気をはらんでいた。

八角亭

徹積損略図 記載した道路は全て実際に走ったもの

=舗猿道路一未舗主主路市寺院

①副季 ⑤長春満 ⑨受日要②受嵐弁 ⑥長作 ⑬受広竜

③受莫寧 ⑦隻折 ⑪受j食代

④受隊 ③畏芳 ⑫受j夜勤

⑬受区

長ヨ官官軍

受や

到来略

φ (岬『佃西叩双淵版酬納僚附線刷社会矧歴融史拙紘ニ.!16剖問h今回の調査は総勢5名,人物紹介は以下の通り。

まずN 0 23歳牡牛座O型,一見抜けているように見えてその実結構細かい気配りをする。

メンバー中最もまじめな男であるが,見た目は怪しい香港人。海外旅行はこれが初めて,

いきなりこんな所に来てしまったら,もう普通の海外旅行はできないな,という他のメン

バーの言葉に無言で領く。

次に 24歳天秤座B型,仙台育ちのO 。一見最も繊細そうに見えながら,その実可愛らし

い話題を最も提供してくれる男。そのお話には枚挙にいとまがないが,本人の名誉のため

に伏せて置こう。彼の起こした事件は放って置いてもじきに伝説になるだろうから。しっ

かりしているのか,それともマヌケなのか,今一つ判然としない,困ったちゃんである。

それからブラジル生まれの S , 25歳獅子座B型。沢山の通り名を持つ男。飛行機の中で

自分のサインの練習をするしっかり屋である。 rB型の男は一見図太そうに見えながら,

実は繊細な心を持つj というのが持論。メンバー中で最も海外旅行に慣れた人物であ弓う。

ポリシーはパックパックの中に詰まっているようで,トランクを引きずる我々の姿に嘆き

59

続けていた。

最後にT こと私, 27歳天秤座AB型。メンバー中調査最多出場記録を持つが,これは当然。

工人だけ女性であるため自分の非力さを強調し,男性諸氏に荷物を持たせる 。 rこんな時

だけずるいJ という非難の声を開き流すのが得意。

更に 9 スペシヤル・ゲストのQ。上海育ちの31歳,現在日本に留学中。超美人と噂の棄

を持つ。 親分凱の快活な男で,持ち前の陽気さを発揮して我々の中の切り込み勝長となる 。

大酒飲みとの噂通り,うわばみである 。 美女を見ると口説かずに辻おれない性格のよ う だ

が?調査参加が土壇場で決まったために遅れて到着。

以上のメンツで立ち向かった調査は予想以上の成果を上げたことは言うまでもない。そ

の報告はいずれ行う事になろうが,今は難しい話は無し ο 調査記録に決して現れない日々

の苦労を綴ってみょうか。

26 日 10時。轍撰担いちばんの宿,竹楼到着。 Tは4譲かしがる事しきりであり,他の 3 名

は珍しげにあたりを見回す。それも無理はない,いままで宿泊してきた近代的ホテルとは

打って変わって,ここはダイ族の伝統的住居をベースとした,いわゆる民宿である。とい

うよりも,村長さんの家に泊めて費っている , といった方が近いかも知れない。特に外国

人を意識した家具調度は置かず,ごく普通のダイ族の家にしか見えないこの宿は,異国情

緒(特に菊留のそれ)を求める物見高い外国人観光客が好んで訪れる。もちろん街には他

にも幾つかの外国人用宿泊施設が存在するが,何れも中国大睦の各所で普通に見られる恥

造の四角い建物であり,一泊の料金が竹竣の半分であるのにも関わらずあまり人気はない。

中国ちしからぬ中国を見にやって来た外国人旅行者にとっては当たり前の反応であるが,

それに気付いてダイ族伝統様式を強調する経営者の見識に誌感心させられる (余談である

が,他の清治施設では竹楼の盛況を逆恨みし,経営者の悪口を言う人には事欠かない)。

もちろんこの宿は,日本人の感覚ではお世辞にも「諸課J とか fきれいj といった形容

詞が当てはまるものではないが,それでも街の中では最も清諜かっきれいである事を誇る。

たとえ他のイ告の料金を取ろうとも,トイレとシャワーがきちんと積えるという事実は我々

外国人には貴重な事だ。それに,高いと言っても一泊僅か8 元{約 160円) , 200元を超

えるような近代的ホテル(しばしば断水・停電・故障といったトラブ‘ルに見舞われる)に

比べればタダ同然である。また,経営者一家の人柄の良さと,適度な無関心さは我々旅行

者にとっては誠に快適 , くつろいだ気分にしてくれる。さらに前年の改装で,それまで閉

鎖的で患が詰まるようだ、った寝室の壁に連子窓を設け,少々蚊に協まされはするが開放的

で明るい部屋となったことも嬉しい変化である。

我々の部屋は東北鵠の部屋であち,朝日が美しく差し込む。真下iこ Jj\露ちゃんの小屋が

あるキュートな部屋でもある。 すが事前にいろいろと脅かしていた甲斐があち, N及び S

は「以外ときれいだね」と満足そうであるが,ただ一人Oのみは扉の無いお短所を見てお

ぞけをふるう。 r一人じゃ入れないj と思わず口走ち,全員の励ま しのいじめに合う羽 目

となる(その後彼はしばらくの関本当に一人で行かなかった。なかなかに頑酪である)。

一周それなりに部屋に満足して荷物を置き,街の探検に乗り出した。

60

行政上でのこの街の名前は,正確にはムンハン(勤宰)である。しかしこの名は漢族の

つけたものであるためか,ダイの人々のほとんどがこの名を呼ばずに,地域全体の名称で

ある f撒積損J を街の名として使用している。撤積損地区の最大の都市であるムンハンに

その名を代表させる事は別にそれほどおかしな事ではないが,こんなところにも文革の影

響を見るような気がする。 1965年に本格的に開始された文化大革命は毛沢東思想の下に展

開され,古い思想、・習慣・風俗を一掃することを目的としていたが,もともと毛沢東思想

に共鳴した訳でも,また漢民族と同じ旗の下に居た訳でもないダイ族にとっては,己のア

イデンテイチイーの全てを否定されるような信じられないような運動であったろう。ダイ

族が先祖代々守ってきた仏閣は破壊され,彼らの言語すら弾圧されたという。 1981年の文

革全面否定によって嵐はようやく止んだが,ダイ族の人々の心の中に,漢民族に対する根

強い不信感を残した。日本人をはじめとする外国人には一様に寛容な態度を見せる彼らだ

が,漢族だけにはいささか厳しい批判の目を向けている。

文革の後,さすがにやりすぎたと思った漢民族は,一転して少数民族優遇策を取り始め

た。例えば,少数民族は子供2名までが認められ(漢族は l 名のみ) ,それを超えた場合

の税金も比較的安い。農作業収穫物も漢民族よりも擾先して高い値段で政府が買い上げて

いる。中国人民としての教育は義務づけられているが,それ以外に民族特有の言語・文化

伝達のための学校を開く事は認められており,宗教も全面的に開放されている。こういっ

た漢族ご機嫌取りをさりげなく当然の権利として受け取り,以前受けた屈辱を心に刻み込

んだまま表向きには忘れたブリをしてみせる彼らダイ族の良い意味でのいい加減さは,ま

ことにアジア的というか,明るい享楽的な性格を表しているのだろう。

街はメコン河北岸の} 11岸段丘の上にある。東西に走る幹線道路2本とそれを南北に繋ぐ

支線道路に固まれたこくこく小さな街で,地図など無くてもすぐにその全てを把握する事

ができる。東西両側及び南部jには村が入り込むように隣接し,というよりも, 3 つの村が

形成する三角形の間に行政府を置いて街としたという方が感じが出る(本当の所は判らな

いけれど。ちなみに竹楼は正確には東側の村に属する)。南北の高低差はかなりあり,自

転車で一気に駆け登るのが厳しく,車でさえもエンジンを瑞がせながら登っていくほどで

ある。実際,この地の人々は無理をせずに自転車を引いて登り,この坂に挑戦するのは血

気盛んな少年たちか己のバイクを誇示する若者,または外国人観光客のみである。

西の支線道路を南に下ったところにメコン河の船着き場がある。ここには上流の景洪か

らの連絡船と,メコン南岸からのはしけが止まる。幅広くゆったりと流れる大河メコンだ

が,意外とその水深は浅い。我々が訪れた頃は乾期の最終期であったために河の渇水が激

しく,景洪からの連絡齢は航行不能となっていた。当然河I揺は狭くなっており,対岸まで

は歩いて渡れそうなほどである。対岸の丘の上にはダイ族の村があり,その奥の山中には

ハニ族の村もあるという。この辺りでは橋は一切架かつておらず,こちら側との連絡はは

しけのみ,当然自動車は渡れないので対岸にも自動車用の道は無い。 r開発」という視点

でみるならば,対岸の村々はこちら最nに比べるとかなり遅れている。そのためかどうか,

向こう側は「外国人立入禁止地区J である。もっとも,多くの観光客がその禁を犯して対

岸へ渡り,山中を踏破してハニ族の集落を訪れてはいるが。そういった中国政府の禁令に

対して非常に寛容であるのもこの地域の特徴である。さすがは少数民族による自治権の確

61

立した地域と言うべきであろう。

船着き場のすぐ東側に, 1可に突き出すような形で丘が張り出している。この上に南村の

寺院であるワット・マンモオハン(長莫宰)が西を向いて建つ。ダイ族の村にはその入口

に相当するような部分に必ず寺院を持っており,もちろん寺院の名は村と同じである。大

抵の村の寺院は幹線道路に面して建つのが普通であるが,この村にとっての幹線道路はす

なわちメコン河なのだろう。今でこそ動脈路としての価値を失ってしまってはいるが, } f!

辺の風景はかつての栄華を器ばせる。

離着き場の岸辺で溶々と流れるメコン河を見やる。日本の寒さが嘘のような強い日差し

と爽やかな風。翻る菩提樹の葉と宝鐸の響き。露出したJ!!底に遊ぶ色とりどりの蝶。対岸

に連なる誌やかな山並と遠くの村から立ち登る炊の煙。日本人である我々には限りな く 壊

かしく,と同時に実に異国的な風景である。

日本との時差 1 時間。中国で、は何処へ行っても北京諌準時が使用されているからだ。し

かし,撤積損は地図で見れば明らかなようにバンコクの真北,しかも北回帰線よりも南,

香港とほぼ同緯度である。本当ならば時差 2時間の筈なのだから,日が暮れるのは遅い。

7 時半を廻ってようやく辺りが暗くなる。そして,暗くなると本当に暗い。もちろん街に

は(村にも)電気はあるが,水力発電によって供給してるために渇水期にはしばしば停電

する。そしてもっとも乾いた時期である今は,毎日必ず停電するのである。夕食に入った

食堂では店の軒先に出した丸テープlレの上に蝦燭を灯し,月の光をあびて食事を採る。一

般的には非常にロマンティックな状況であるが,ロマンティシズムとは事象ではなく,そ

の演出に真価がある事を痛いほど認識した。帰り道,真っ暗な坂道で, 0が牛の落とし物

に足を踏み入れるという,可愛らしい話題を早速提供してくれた。やはり,南国情緒と西

洋的ロマンテイシズムはなかなか両立しないのだろうか。

3 月 27日。遠い記a憶を必死に辿って貸し自転車震を探す。一昨年は竹楼はす向いの建物

に大量の自転車があった筈だが,尋ね歩くと街に貸し自転車屋は 1 軒のみ,台数は僅か 8

台。普通街が観光化していくと貸し自転車は増えると思うのだが。街中を走り回る三輪タ

クシー,小型タクシー,マイクロパスがその回答だろうか。やっと借り受けた 4台の自転

車は,どう見ても廃車寸前のポロポロである。鍵はなく,ブレーキは甘く,時にはペダル

がはずれ,チェーンが切れ…。日本では商売物はこまめに手入れをするし,客は金を払っ

て商品を葉ってやるという強気の態度に出られるが,こちらでは商売物よりも何よりも自

分の持ち物の方が大事であるし,客が金を払って商品を譲って頂くのである。お客様が神

様か,ご主人が神様か。この辺りに資本主義と共産主義との認識差を見る。主義の差とい

う物は,ごくごく身近に転がっているものである。

著しく観光化された感のある街に,或いは地図が発行されたかもしれないと密かな期待

を抱いていたが,虚しい望みであった。

中国では当たり前の事であるが,辺境の小さな街には地図がない。そこに生活する人々

には地図なぞ必要ないし,地図を必要とするような余所者に好き勝手にうろっき回られて

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は困るからである。更に,機援損が所属する西双版納付!はベトナム・ラオスに接する国境

地域であり,軍事的見地から正確な地図の流出を嫌っているらしい。ごく最近まで外国人

立入禁止地区であったのにはもちろん軍事的要素が強く働いているからだろう。

この程度の街ならば地図は大して必要ないが,周辺地域となると話は別である。舗装さ

れた主要幹線道路は数が少ないので把握し易く,これを辿っていて迷う事はない。しかし

多くの村は幹線道路沿いではなく,そこから分岐した細い未舗装路の奥にある。というよ

りも,もともと縦横に走る道路の一部,車両奈遥を必要とする部分のみが舗装され,村に

入る通路は以前のままの姿で残されているというべきだろう。幹絡道路から姿が見える村

はともかく,大抵の村はその位置がはっき り とは摺めない。また,どこにどのように村が

分布しているかも皆目見当がつかない。毎日通り過ぎていた林の向こう側に村があった,

等というのはごく当たり前である。同時に当然のように観光案内も無いから,撒議士員を訪

れた旅行者はめくら減法にうろっき廻るか,諦めて街でおとなしくしているかのどちらか

しか手段はない。観光地(それも世界的に著名な)としてはお粗末な限りであるが,これ

が中国らしさというものであろう。

さて,我々の手には,前回の調査でめくら減法走り毘った成果と,中国政府発行のダイ

族社会歴史調査に掲載された地図がある。この地図は全てに於いて正確さとは無縁である

ものの,周辺にある村の名称や大ざ、っぱな位置関磁を把握する事はできる。かといって,

村が点、で示されるこの地図を頼りにうろつくのは結構難しい。村の中を縦横に走る道のど

れが隣村へ通じているのか,地図に記載された隣村へと続く道は,一捧どれなのか。記壊

に頼ろうとも, 2年前の記憶は遠く,あたりも少々様変わりしているようだ。始めの数日

龍は殆ど探検気分である。

まず手始めは,街に最も近いと同時に南の幹線道路が村内中央を貫通する村である。マ

ンスマン村。戸数 100を超える大きな村で,村のほほ中心に位置する寺院は近在では最古

でありかつ最高の格式を誇る。建築物としてのレベルも最も高い。 2年前まではそれなり

に高名でありながらも観光客の注意は全く引いておらず,時折祈りを捧げるダイの人々が

見受けられるばかりの静かな件まいを保っていた。だが。

その変貌ぶりには自を見張る。見覚えの無い派手な看板が寺の門に掲げられ,広大な寺

前広場にはみやげ物屋が立ち並ぶ。見明や景洪からのものと思われるマイクロパスが観光

客を満載して次々にやってくる。そしてかつて「呈孫満J と綴られていた村名も r長春

満J という美字を当てはめたものに変更されていた。かつて関散としていた村は,程か 2

年間に一大観光地と化していたのである。

この村はそれから毎日通過する事になるが , その間にも如実に変貌ぶりが観察された。

数日後,村の入口に現場が着工した。幹線道路の両脇に柱を並べたこの現場は , 村の門を

造るためだという。一大観光地としての体裁を整えようというものだろう,多分門の上に

は村名を記した額を掲げて r熱烈歓迎合、到来J という,中国お決まりの横断幕を張った

りするのだろう…位に考えていた。日に日に門はその形をあらわにし,かなり立派な楼門

であることが解ってきた。その傍らには煉瓦造の小屋のようなものが同時に形を顕しつつ

ある。調査最終日の4 月 12日,未だ屋根を施工中の状態で門柱に鉄柵扉が付けられ(もち

ろんモティーブはダイ族の象徴,孔雀である) ,観光客から入場料を取り始めた。 l 人 1

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国 6元(約 120円)。接らの小屋は料金所である。更に門のすぐ北側の空き地では別の現

場が動いている。こちらは門の着工に遅れる事 3 日 ,製材に手間取りなかなか姿を頭きな

い。村が入材料を取り始めた時点ではまだ柱すら立っていなかったが,尋ねればこれはレ

ストランであるという。観光客を当て込んでのダイ族伝統料理専門店で,完成すれば色々

な留から客がやって来るんだと,大工は誇らしげに胞を張った。

村の中を歩くと西欧人の姿が目立つ。何れもパスで‘やってきた間格である。寺前広場に

面したある大きな家の露台には大人数の西欧人が腰を下ろして茶のサービスを受けている。

もちろん中国人の観光客も多い。香港人もかなりの数である。被らはパスから吐き出され

るとまっすぐ寺へと入り,仏に祈りを捧げた後で‘小坊主が売るおみくじを引く。ひとしき

り騒いだら寺前に立ち並ぶみやげ物屋でおみやげの物色である。

みやげ物震には大したものは置いていない。織物,乾燥果物,種子を綴った数珠,牛の

骨を加工した装飾品,そして銀施工。明らかに民族様式をあらわしたその銀の腕輪や耳掛

りは恐らく先祖から伝わった家の宝であろう。 備投はやfれも安く,銀の腕輪ですら言い種

で1 , 000円を切る。客が乗り気でないと見ると鑓段をどんどん下げ,とにかく売ろうとする

のだ。試しに尋ねてみたならば 1 本 120円まで落ちてしまったのには驚いた。売り子はこ

の村の住人らしいダイ女性と,街に住む漢族とが半々である。漢族の女性達は臼俸がパス

から降りると問時にかしましい呼び込みを始める。一人一人に声を掛け,興味を持った様

子を見せると商品の能書きをまくしたて,その結果彼女達の高品はそれこそ飛ぶように売

れるのである。一方ダイの女性達は呼び込みもせず,客が商品を覗き込み手に取って眺め

ていても,顔を上げるでもなく愛想、も振りまかず,ただ黙々と編み物を続けている。彼女

達の民接特有の動じらいや中国語の不備がそうさせるのかもしれない。それでも,彼女達

のふてくされたような,投げやりな表情が,民族のプライドを必死に守ろうとしているか

のように見えてくる。

ここは舗装道路だったろうかと疑問を持ちながら隣村のマンツア(長紳)へ向かう。確

か以前はもうもうと土ほこりの舞い上がる凸凹道だったような気がするが今は平坦で実に

快適な舗装道路である。再現uには林と畑が広がり,その向こうに家々の屋根が見え露、れし

ている。ほんの 10分寝しか走っていないのに,こちらの村の件まいは変わらない。寺の前

で休憩していると,坊主やら村人やらが親しげに話しかけてくる。日本から来たと応えた

ら,寺の塀にチョークでサインを頼まれたのには驚いた。彼らの言う通りに書く。日く

f私たちは日本から来ました。この村はとっても素敵! J 話を聞いていると,隣村マンス

マンの繁栄ぶりが少々妬ましいらしい。 r ここだって捨てたもんじゃないよなj という彼

らの言葉に複雑な患いが浮かぶ。

戸数70余,マンスマンに比べると,古めかしく落ちついた印象の強い村である。実際こ

の村には伝築80年という家があり,寺読もそれほどレベルの高いものではないにしても威

厳のあるものだ。私は以前からこの村の雰囲気が好きだったが,隣村が著しく変貌した今,

この村もじきに変わっていくのだろう。だがすぐ燐にマンスマン大寺をひかえ,特に目玉

商品の無いこの村はどのように観光イじされて行くのだろうか。タイに巡干しに行きたいと語

る青年学僧のおだやかな物腰にようやく救いを見いだしたような気がした(マンスマンの

寺には今若い学指は居ない)。

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午後は北の舗装道路を辿る。この道は街を出てしばらく行ったところで大きく北に向か

つてカーブを描き,北東へ向かう。 1985頃に新たに関かれた道で,周囲には昔ながらの細

い未舗装路が縦横に走る。識や涼やかな林,被方まで・広がる水田とその中にこんもりと在

る村の姿,更に披方の緩やかな山並。沿道は美しい風景に事欠かない気持ちの良い道であ

る。 250CC位のバイクでツーリングするには最高であろう,しかし我々には自転車しかな

いのでひたすらにペダルをこぐ。

街のすぐ東には魚池という名の大きな潟があり,南北2つの幹線道路はこの識を挟んで

通っている事になる。水掛け祭が近い今は,午後になると竜船競争の練習が盛んである。

静かな湖面を伝って聞こえる太鼓の響き,遠くに小さく浮かぶ竜船が瀬面を滑るように進

む。

マンノンタイ{長波代)村は瀬に南面し,美しい林に圏まれた小さな村。幹線道路から

はこんもりと繁った林に臆されて見る事ができない。この辺りの林は大きく 2種類に分け

られる。 1 つは苦から自生しているもので,雑木林である。その中に最も多く生えている

ものは,ねじくれた幹を持ち薄く小さな葉をつける。この木はどうやらダイ族にとって大

事なものであるらしいが,それが何故大事なのか,それを説明できる人は少ない。若者は,

「憎正か長老なら知っていると思うけどj と言葉を濁した 。

もう 1 種類の林は,整然とした美しい木立の植林である。こちらは白樺に良く似た白く

真つ産ぐな幹と美しい薄縁色の葉をつける。 rグイチヤオの木J とー殻には呼ばれている o

fグイチャオ(漢字表記は不明) J とは,幹に傷をつけ惨み出す樹被を採集する仕事を言

い,その樹液を煮つめて天然ゴムを作る。この林は漢族の公営農場に所属するもので,そ

の経営のために多くの漢族がこの地に移住してきたという(帝国のものであるこの木は,

雲南省南端の中居唯一の亜熱帯地方でなければ育たない)。この仕事に携わる人々は漢族

が主俸ではあるが,地元ダイ族の人々も多くが参加している。乾期のみに行われるこの作

業は採集量によって賃金が支払われるので,農間期の彼らにとっては手軽なアルバイトな

のだろう。

「グイチャオJ の;存在は諜族とダイ族との交流を生み出している。管理の関部上神の近

辺に住まねばならぬ漢族は,ダイ族の村のはずれに住居を構え共に暮与す。 壮年の男達や

用心深い女達はともかく,子慎達は民族の分け隔てなく無邪気に遊ぶ。道すがら出会った

農場の青年は rボクの親友はダイ族なんだj と彼の肩を抱いた。陰にこもって反発し合

う反面で,こんな嵐に荷の疑問もなくっき合える謂揺があることにほっとする 。彼らの世

代が壮年になる頃には,辺境地区の民族問題なと

マンノンタイからは!日来の未舗装路を辿る。我々の持つ,村を点で表した地図で誌何が

なにやら見当がつかず,目的地であるマンロウ(長芽)村への道を尋ねながら進むしかな

い。発音の悪い私と漢字が余り読めないダイ女性達(昼日中外をうろついているのは女性

か小さな子洪だけだ)とのコミュニケーションはスムーズとはいい難いものの,何とか用

は足す。教えられるままに初めての道を走り,本当に彼女は解っていたのだろうかとの不

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安を外に出すまいと懸命に走る。乾ききった道は,もうもうと土壌を巻き上げる。マンコ

ワンロン(量広竜)村を通り過ぎ,ょうやくマンロウに入った。

マンロウ村の寺院は立派なもので,八角亭と呼ばれる聖堂(タイ仏教建築ではポート,

もしくはモンドップと呼ばれるもの)を持つ。この名は幾層にも重なった小さな切妻屋根

が8棟,円形に連なって堂の屋根となっている為に付けられた愛称である。堂は下部壁体

までは煉瓦造漆喰仕上げ(恐らく壁棒内部に構造捧としての柱が立っているのだろうが,

現状では厚い壁が自立しているようにしか見えない)上部屋根は木造瓦葺きである。平

面はほぼ正方形の四隅に 3段の九帳面を設けたものでタ凡I掻面の頂点を結んでいくと八角

形となる。その上に一旦円形の天井を張り(天井板の端は壁外へ飛び出す) ,天井裏に細

い梁を井桁に組んで4本の支柱を立て, /J\梁・小束を交互に整然と組み上げて屋根を構成

する。昼根法上へ行くほど、小さくなる切妻屋接を少しづっ後退させながら 9 段重ねたもの

が8列,円形に記されている。それが質上で i つにまとまり ,その上に相輪(臼本のもの

とは少々形が異なる。伊j えば,九輸は 9 重ではなく 5重である)が載せられる。屋根は全

体として裾広がりの急な煩斜を持った山形となる。この小屋組がどのようになっているの

かかねてから関心を持っていたのだが,以前ここを訪れた擦に中を見せて欲しいと頼んだ

ところすげなく断られた事がある。理由は寺内の聖域だから。展を明ける事すらも拒否さ

れたのであった。

しかし今日はあの震が開いていた。遠惑がちに中をのぞき込もうとする我々の姿を見つ

けて小坊主達が見張りにやって来る。ダメで元々と見学を申し込んでみる,まず3人の男

性を前に立てて。するとあっさりと OKが出たのである。だが,もちろん私は許されない。

理由は女だから。

男女差別を認めない中国の中にあっても少数民族の生活文化,特に宗教に関するものの

中では伝統的な差別は連綿と守られている。女は{曽になれないし,寺内の聖域に触れる事

は許されない。逆に,家を訪問した場合,男はその家の寝室には入れないのが通常である。

女(だけ)であれば,たとえそれが余所者であろうとも(比較的)快く見せてもらえる。

どちらが得をするわけでもないという,こく当たり前の性差別法決して不快なものではな

いが,謂査の際には少々因る事もある。今回もそんな場合だ。

結局,男性諸氏が中へ入って写真を鍾る間,私は外でおとなしく待つ。しかし実際に中

へ入ったとしても,天井が張られているため小屋組は直接見ちれなかったろう。天井位置

は以外と高く,最も背の高い S ですら精いっぱい背伸びしてやっと天井の破れ目から蛋上

近くを覗き見られる程度で、あった。こんな時にどれほどオ}ト・アオーカス・カメラが有

り難いものであるかを実感する。穴から一杯に手を延ばし,適当にレンズの向きに当たり

を付けてシャツタ}を切る。それでもきちんと写真は撮れるのだ。そして私も自分の自で

架構を見る事ができるのだ,たとえ間接的であろうとも。

もう午後も遅くなった。午後 6時までに自転車を返さなければならないので少し急ごう。

同じ道を辿るのはつまらないから ,道を開き聞き街へと戻る。ガタガタ道の終わるところ

にマンテイン(蔓析)村がある。ここからはもう舗装道路,宿まではもう一息だ。紙数も

尽きてしまったのでマンティン村の話はまた次回。

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後記・執筆者略歴

大那須君よ,元気だろうか?僕は"いつまでたってもちっとも変わらん"と皆が言う。本人は少しは変わっ

ているつもりなんだけどね。本号の尻切れトンボの投稿,史標ならではなんだぞ。

(河津優司・武蔵野女子大学短期大学部講師,略歴は第 1 号に掲載)

大季節のかわり目のため,鼻たらしつつ何とか仕上げましたが,やや構成がボーっとしているかもしれま

せん。とりあえず今回発表したものを起点に"明治について"考えてみたいと思っています。

(中谷札仁・早稲田大学理工学研究科後期博士課程 2 年,略歴は第 8 号に掲載)

* (安松孝・湘北短期大学非常勤講師,略歴は第 1 号に掲載)

大とうとう禁断の(と自分では思っている)ヴェルフリンに手を染めてしまった。書いてみると案の定話

が広がって広がって,収拾がつかない。書き上がってみると,はじめに考えていたのと全然違うものになっ

てしまった。それでも懲りずにまた挑戦します。

(太田敬二・関東学院大学・放送大学学園非常勤講師,略歴は第 6 号に掲載)

大読み方が分からない文字に接し,再び10年ぶりに同じ作業を試みようという気になった。くずし字辞典

をいやいや51 いていた修士 l 年の頃を懐かしく思い起こしながら,古い言葉をめくる時間を過ごしている。

(西本真一・早稲田大学理工学部建築学科専任講師,略歴は第 1 号に掲載)

大 4 月から共栄短大に通うことになり,まだ新しい環境に慣れていません。短大まで自宅からは 2 時間半

もかかり,まるで小旅行をしているようです。そんな中で史標の原稿をかくのはたいへんでした。今回の

京大の木材分析レポートの概要を紹介させていただき,お茶を濁ごしました。

(白井裕泰・共栄学園短期大学助教授,略歴は第 l 号に掲載)

大古代エジプトの家具の本の全訳をざっと終えた時点でちょっと気抜けしたのと仕事が重なり少し御無沙

汰してしまいました。お休みした聞に友人を訪ねて旅も致しました。先日久しぶりに本を聞いてみると,

この本自体に拘りはないのですが,構造体と機能とか,生活,ディテールというようなことばが赫のよう

に脳に刺さって気になって仕方がないので又,投稿致しました。あー 早く抜けないかな。

(西本直子・建築家,略歴は第 3 号に掲載)

大年度の入れ換わりのゴタゴタが一段落する 5 月の終りころは 毎年軽いケンタイをおぼえる時期だ授

業も初期の緊張がうすらいで うす暗い「西洋建築史j の教室では 学生が落ちつかない戸外に出れば

陽光の下をすずしい風が吹いている よし! 休講にして散歩に出ょう もう梅雨が近くまできている

(溝口明則・文化学院建築科講師,略歴は第 1 号に掲載)

大日本語に無い字を題に使ってしまうと,たいへん汚いのだということを思い知らされたけれど,仕方な

いじゃないか。はやく Chinese Talkが欲しい。

(高野恵子,関東学院大学非常勤講師,略歴は第 9 号に掲載)

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お知らせ

大「史標」原稿募集規定ならびに研究室移転に伴う原稿送付先変更のお知らせ

本誌への投稿を歓迎いたします。論文、報告、書評、作品紹介、人物紹介、随筆等、内容は自由。建築

学以外の論考に関しでも可。縦使いA4版の用紙にワープロ打ちの原稿 (40字 X40行、上方余白は29mm、

左右余白28mm、文字間隔3 .8mm、行間隔6.2mm) で 4 枚以上、かつ原則として偶数ページにおさめるこ

ととします。図版や表なども文中に鮎り込み、そのままコピーできるように版下の状態で提出してくださ

い(後記: 160字以内、略歴: 136字以内)。樹高者には原稿が掲載された号を一部無料で差し上げるほか、

ご希望に応じて必要部数を実費にてお頒けいたします。必要部数をお知らせください。

なお,本年 4 月より建築史研究室移転にともない原稿は下記宛、郵送顕います。

169 東京都新宿区大久保 3-4・ 1

55 . N号館 8F 階 10・ A

「史標 J 出版局

早稲田大学理工学部

建築史研究室内 O.D.A.

TEL 03-3209-3211 ext. 3255

FAX 03-3200-2567 (共用ですのでかならず研究室名を併記してください)

なお、 「史標」第 13号の締切は 1993年09月 04 日 (土) (必着) です。ご寄稿をお待ちしております。

* * * * *

大質疑・討論原稿募集規定

掲載原稿に対する質疑や、討論の申込みも受け付けております。ページ数は自由で、その他の原稿の形

式に関しては上記のものと同一で構いません。提出期日は随時。多数のご質問・ご批判をお待ちいたしま

す。

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口座番号:住友銀行、田園調布支店、店番 237、(普) 1075921

なお「空標|第11号に掲載した口座番号は間違っておりましたのお詫びして

いただきま主且

上記の呑号に訂Eさせて

「史探J 第 12号一一一一一 00 A. r 史探 j 出版局 発行