史標 shihyo 20 (6/6/1995)

80
While riding on a train goin' west , 1 fell asleep my rest. 1 dreamed a dream that made me sad, Concerning myself and the first few had With eyes 1 stared room Where my friends and 1 spent many an afternoon, Where we together weathered many a storm, La ughin' and the early hours of the morn. By the old wooden stove where our hats was hung, Our words our songs were sung, Where we longedfor nothin' and were quite Talkin' and about the world outside. With haunted hearts through the heat and cold, We never thought we could ever get ol d. We thought we could sit forever in fun But our chances really was a million to one. As easy it blackfrom white, lt was all that easy to tell wrong from right. And our choices were few and the thought never hit That the one road we traveled would shatter and split. How many a year has passed and gone, And many a gamble has been lost and won, And many a road taken by many a friend, And each one l' ve never seen again. 1 wish, 1 wish, 1 wish in vain, That we could sit simply in that room again, Ten thousand dollars at the drop of a hat, l' d give it all gladly if our could be like that. (Bob Dylan, "Bob Dylan 's O.D.A.

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While riding on a train goin' west,

1 fell asleep for ω take my rest.

1 dreamed a dream that made me sad,

Concerning myself and the first few frienゐ 1 had

With haがdamp eyes 1 stared ω the room

Where my friends and 1 spent many an afternoon,

Where we together weathered many a storm,

Laughin' and singin' が11 the early hours of the morn.

By the old wooden stove where our hats was hung,

Our words were ωld, our songs were sung,

Where we longedfor nothin' and were quite satiポed

Talkin' and aゾokin'about the world outside.

With haunted hearts through the heat and cold,

We never thought we could ever get old.

We thought we could sit forever in fun

But our chances really was a million to one.

As easy it was ω tell blackfrom white,

lt was all that easy to tell wrong from right.

And our choices were few and the thought never hit

That the one road we traveled would eνer shatter and split.

How many a year has passed and gone,

And many a gamble has been lost and won,

And many a road taken by many a friend,

And each one l've never seen again.

1 wish, 1 wish, 1 wish in vain,

That we could sit simply in that room again,

Ten thousand dollars at the drop of a hat,

l'd give it all gladly if our liνes could be like that.

(Bob Dylan, "Bob Dylan 's Dreamつ

E部行きの列車にのって

創刊 5 周年記念号

O.D.A. I史標J 出版局

1995年夏号

やするうと L で ひとねむり Lた

かを L ぐなるような夢を居た

J3れ自身とごぐ古い友だちの夢

半分泣いた日で居たるのは

友だちとおれが午後をすごした部屋

いっ L ょに多ぐの届をやりすごLた部屋

笑ったり款ったり L で夜~明か Lたるのだった

古い薪ス F ープのぞ li'に(~う Lがかかっていた

j式会 L はかたられ、遺骨はうたわれた

なににるあこゑfれず満足 ι きフでいた

ぞとの世界について L ゃべり冗談いいあっていた

浸かれたような心で熱 ιたりさめたり Lながら

年をとぶことなんかかんゑfえなかった

いつまでる前侠にすわりつづけるとおるっていた

だがそんなことは百万分のーの確率だった

黒白をさめるのがかんたんなように

善悪をさめるのはぜんぜんかんたんだった

こたえは数多ぐなぐ お 6 いるよらなかった

おれたちの放する道が裂けで砕けるをんで

何字の字がすき、、さっただろう?

多ぐの熔けが当り、はずれた

多ぐの友が多ぐの道を行った

ぞ L て 6 うだれとるあわなかった

どうか どうか どうか 6 うしミちど

みの部屋にすわりたい といってるむだだ

一万円Lでる投げ出すよ

3ちんと公生援ができるのだったら

(;j{7" ・デイラシ fポプ・テγ ラシの夢j 、片桐ユズ)v釘j

「史標J 第20号一一一創刊 5 周年記念号1995年夏号 (6 月 6 日発行)

早稲田大学理工学部建築史研究室内

O.D.A. I史標」出版局

169 東京都新宿区大久保 3-4・ 1

55N号館 8 階10号室 電話 03・3209・3211 内線 3255

FAX 03-3204-5486

「史標J 創刊 5 周年記念号

目次

〈巻頭言〉 過剰と希少,あるいは乾坤ー榔の弁証法 中川武 (p.i)

* * * * *

町並み景観の形成手法について 近江八幡市と彦根市の事例比較 白井裕泰 (p.1)

ハワイにおける日系移民の宗教建築について 湊石ローレン (p.7)

博物館における近代建築史研究の一課題 米山勇 、‘.ノ

1i

1i p

〆,‘、

* * * * *

山へのオマージ、ユ 良永和淳 (p.15)

* * * * *

米国建築雑誌にみるアントニン・レーモンドの活動と評価( 2 ) 高橋知之 (p.19)

テオドール・フィッシャーと 19世紀近代 太田敬二 (p.25)

* * * * *

中・近世ドイツ語圏の建設関連資料試訳 2-2

レギウス・フェッシュの雇用契約書 (1495年) 安松孝 (p.31)

イタリア中世山岳都市を訪ねて(1) 輿水結子 (p.35)

* * * * *

fマーナサーラ j の建築法則 ~その5

『マーナサーラ 』 における「建築j の分類と単位体系 黒河内宏昌 (p.39)

東南アジアのす法体系について 高野恵子 (p.43)

方位観の始原へ(4 ) 鳳雛村建築遣社に関する覚書 溝口明則 (p.47)

* * * * *

古代エジプトの家具 E・1 箱・橿・足台 西本直子 (p.55)

オベリスクについて 西本真一 (p.61)

s. クラーク/R.エンゲルバッハ「古代エジ、プトの建築技術(仮) J 訳 2

石原弘明・伊藤忍・柏木裕之・黒河内宏昌

小島富士夫・高橋啓介・西本真一-西屋宗紀 (p.65)

* * * * *

史標第 1 号-1 9 号総目次 (p.69)

* * * * *

後記・執筆者略歴・お知らせ (p.72)

過剰と稀少,あるいは乾坤一榔の弁証法

中川武

今から30年近く前のことだが, 学部の卒業間際から 3年間ほど,詩と批評を中心と

した同人誌のグループに加わっていたことがある( r浮標(みおつくし) j という雑

誌名, r史標J とーす似ているね) 0 3 号雑誌で、終ってしまったのは,私が毎号巻頭

言らしきものを書いていたせいかもしれないが,最初から遊び半分,というより,月

に l 回のペースで開いていた読書会とその後の飲み会に主眼を置いていたようなもの

だったからだろう 。 けれども,曲がりなりにも雑誌を出していると,プロの書き手や,

その予備軍,ませた高校生,原稿用紙 1 枚につき 5∞円(当時)ずつ出し合って自費

出版している真剣勝負の人達 (わたし達の『湾標j の印刷製本費は広告でまかなって

いた)などの“文学"的な風貌との出会いにはことかかなかったのである 。 そのころ,

ガリ版刷りの同人誌で書きつづられた黒田寛ーの『社会観の探求J が高校生に読み継

がれていた,という噂や,吉本隆明の『試行J における,内容もさることながら,発

行形態への,一種の憧れのようなものがあって,いつかきっと『建築学の探求』といっ

た同人誌活動をやりたい と夢想していた。 それが60年代末の雰囲気であったといえ

ばそれまでだが,その種の夢想をわたしはかなり長く持ち続けていたように思う 。 し

かし,身近かに似た活動を見聞きしたり,頼まれればそのような建築同人誌に寄稿し

たりしたこともあるが,積極的に自分で活動を起こすことはなかった。 徐々に自分自

身の社会的関係が異なってきたこともあるだろうが,発表する機会は無数にあるのに,

書くべき内容だけがない,という想いが強まっていったからに違いない。

書くことにまつわる活動の全体の中に,勉強会的な共同性の意味が,現在まったく

無いと思っているわけではない。 けれども, 60年代末には共同体の側に危機があった

のに対し,現在は,共同体の中に飲み込まれていかざるをえないような個の側に,よ

り前提的な危機が存在するのだとすれば,共同性に対して本質的に対立するという書

くことの意味が,より重視されなければならないのかもしれない。 同人誌研究会的な

活動に対するこのような得失の気持を持ちながら,わたしは『史標』に対するかなり

熱心な読者であったと思う 。 最も伸び盛りの年代の諸君が中心であったから当然とも

いえようが,一号一号,確実に,書き手として成長していく様子が窺えるのが何より

の楽しみであったし,中にはわたし自身啓発を受けた内容も多かったと記憶している 。

『史標』の活動が 5 年間, 20号に達したことを慶こぶとともに,あらためて,研究と

書くことの意義の根底について考えて欲しいと思う 。 それは,ポストモダニズムのよ

うな,ほがらかなものではなくて,まったく気付かないような過剰性とミニマルアー

トのように悲哀に満ちたものではなく,むしろ誇りに満ちた稀少性を同時にカバーす

る身体,いいかえれば,日常性と革命の聞をゴムのように行き来する精神の場所を探

求することだとわたしは考えている。生きていれば,あと 5 年後を楽しみにしている。

町並み景観の形成手法について- -3lI:"7-.工ノ\幌昏子行と豆妻不良子行 α〉 妻菩仔リ上ヒ車交 一

白井裕泰

1.はじめに

平成 6 年 4 月,埼玉県上尾市の建築審査会の委員を委嘱された。 市の担当者の話を聞く

と,審査会は年に 3-4 回聞かれるだけとのことであったので, それならばあまりご迷惑

をかけることはないだろうと考え , 門外漢であるにもかかわらず委員を引き受けることに

した 。

実際に,平成 6 年度に聞かれた審査会は 3 回であった。 第 1 回は委員の紹介と会長の選

出,第 2 回は視察,第 3 回は研修会 (都市計画法及び建築基準法の改正内容について)と

いった内容であり,実質的な審査会の審議はなかった。 このことは私にとって喜ばしいこ

とであり,特に第 2 回の視察は大変有意義なものであった 。

視察は平成 6 年 8 月 29 日 ( 月 ) 30 日 ( 火 ) に行われ. 29 日は近江八幡市内. 30 日は彦根

市内を見学した。 両市の町並み景観に対する考え方が対比的であり,興味深かったので,

今回は両市の町並み景観の形成手法について報告したい。

2. 近江八幡市の町並み景観

歴史

天正 14年 (1586 ) 豊臣秀吉の甥秀次の八幡城築城により八幡町が聞かれ,以後商工業を

中心とする城下町として発展した。 秀次死後,近江商人の本拠地として商業都市へ変貌し

fこ 。

町並み

市内の新町通り ( 図 l 参照 ) は八幡商人のふるさとといわれ,江戸末期から明治にかけ

て建てられた商家が整然と残って町並みを形成している ( 図 2 参照〉。 ここには郷土資料

館・歴史民俗資料館・ 童文旧西川邸があり,市立資料館として見学でき,八幡商人の隆盛

ぶりや質実な生活様式を知ることができる 。

八幡堀

近江商人の発祥と発展,また町の繁栄に大きな役割を果たした八幡堀は,江戸後期には

大津と並ぶ賑わいを見せた。 現在の八幡堀周辺には , 白壁の土蔵や旧家が建ち並んで,歴

史的景観を形成している (図 3 参照 ) 。

町づくり

近江八幡市の町づくりは以下のような経緯で進められた 。

八幡堀は東西両端を琵琶湖に接し,湖上交通の運河として重要な役割を果たしてきたが

鉄道や自動車などの陸上運搬の発達により,運河としての役割を失い,都市下水の増加に

より,堀の水面が泥で埋められた。

このことから八幡堀を埋め立てて,道路や駐車場に転用すべき考え方が提案された。 こ

れに対し,昭和44年青年会議所が八幡堀の修景保存運動を開始し,さらに昭和50年には自

治会,各種団体,労働組合も共鳴し,町のシンボルである八幡堀をもとの姿に戻そうと市

民が堀の清掃に積極的に取り組んだ。 このような市民運動を受けて,県は八幡堀の全面し

ゅんせつ工事を実施した。

さらに昭和50年には 「よみがえる近江八幡の会J が. 55年には 「明日の近江八幡を考え

る会」という市民組織が設置された。

近江八幡の歴史・風土を生かした町づくりを目指した市民運動に支えられて,市は 「近

江八幡市総合発展計画」 の一環として. r水と緑と文化のまちづくり 」 を進めた。

昭和57年国土庁の 「水緑都市モデル地区整備事業」 の指定を受け,市民参加で作成した

事業計画に基づき 3 ヶ年で 1 億円の事業を展開した。 その事業内容は,

①八幡堀周辺の修景整備(石畳の散歩道,あづまや,親水広場,照明,ベンチ等の設置,

橋の補修など〉

②古い町並みの修景保存(土塀の新設,案内板の設置. r見越しの松」 の植裁等による修

景の保存)

であった。

また市民は自分達の趣意にそった町づくりをより積極的に進めたいということから,昭

和58年 12月,市民の知恵と資金を結集した 「ハートランド資金会議」が設立された。 この

「会議」が実施する事業として ,

①固有の優れた文化の発見,再発見活動への協力・援助 (文化活動)

②固有の優れた文化の顕彰,伝承,保全に対する協力・援助(資料館・博物館の建設)

③固有の優れた風土,文化,伝統の保護・保全に対する協力・援助(自然環境の保全,緑

化プラン,地場産業の保護〉

が考えられた 。

さらに昭和63年 9 月,八幡堀周辺に 「伝統的建造物群保存地区保存条例」 を制定したの

を契機に. r住んでいたい町,ここで死にたい町,ここに人を呼びたいまちづくりを目指

して」 市民の自主的な町づくりが全市に広がりをみせた。 その結果,次のような多くの協

定が締結された。

①八幡堀水と緑の風景を守り育てる協定(平成元年〉

②浅水井湧水と緑と歴史のあるまちづくり協定(平成 2 年)

③駅前大通りうるおいと魅力あるまちづくり協定(平成 2 年)

④大中町安らぎのある農の里づくり協定(平成 3 年)

⑤長田町蛍火舞う小川と緑の里づくり協定(平成 3 年)

⑥金剛寺往古の湧水と緑と潤いあるまちつo くり協定(平成 4 年)

⑦四季の花咲く大樹の里池田本町まちづくり協定(平成 4 年)

⑧歴史がある長福の里まちづくり協定 (平成 5 年)

このように近江八幡市の町並み景観に対する考え方は. r住んでいたい町づくり」を前

提とした伝統的町並みの保存であり,地域住民の自主性を尊重した行政の取り組みに特徴

が見られる 。 すなわち,近江八幡市の町並み景観の形成手法は,自然と人間との共存の伝

統を守ることで. r心のやすらぎJ と 「 うるおしリのある生活空間を追求したものである

といえよう 。

3. 彦根市の町並み景観

歴史

井伊家によって金亀山に彦根城が誕生し,幕末に至る歳月の中で彦根の基盤が築き上げ

られ,城下町として発展した 。 古くから琵琶湖畔の湖東平野に広がりを見せ,近畿,関東,

2

北陸を結ぶ交通の要衝であった。 そのため現在の彦根市は,城下町の風情を色濃く残しつ

つら商業都市としてばかりか,湖東ーの内陸工業などの産業都市として発展を続けてい

る 。

町並み

彦根市本町地区は,慶長 8 年 (603 ) 彦根城の築城に併せて,城下の町割りがここから

はじめられたという歴史的に由緒ある町である(図 4 参照) 。本町 2 丁目旧職人町あたり

の東西の細い町筋に古い町並みが多少残っているが,積極的にここを紹介しているとはい

えない。 むしろ国宝彦根城を中核とした,新しい町づくり,すなわち国際観光都市を目指

して,彦根城京橋口から南へ至る町筋を城下町づくりプロジェクト 「夢京橋キャッスルロ

ード」 として開発していることを強くアピールしている ( 図 5 参照) 。

町づくり

彦根市は本町を南北に縦断する都市計画道路本町線を設定し,町屋の町割りを今日の彦

根の 「まちづくり 」 の基盤として整備を進めている 。 本町は築城当時の幅員で 6m と狭小

なため,今日の車の大型化とモータリゼーションに対応できるように,昭和60年度から都

市計画道路整備事業により,延長350mの聞を幅員 18m に改良することにした。

また歴史的に由緒ある 「まちなみ」 を道路整備により失わない配慮から, rまちなみ景

観の再生」を住民に提唱し,住民の理解のもとに,地区計画により一定の地区を定め,城

下町彦根の顔として再生することになった。

この「夢京橋キャッスルロード」 の町づくりとは,都市計画課で作成されたまちなみ修

景基準に従って,お土産店,喫茶店,和菓子屋,ブティ ッ ク,酒屋など,黒・茶・白・グ

レーで色調を統ーした切妻屋根の町屋風建物を建てようとするものである。平成 5 年 4 月

現在で, 23軒が完成し 7 年度には約60軒の町並みができることになっている 。 これは伝

統的町並み景観の保存ではなく, r官J 主導の近代的町並み景観の形成であり,平成の城

下町づくりとして新しく創造しようとするものである 。

彦根市では, 21世紀に向けて,高齢化,都市化, 高度技術化,情報化,国際化など,新

たな課題に対応するため,平成元年彦根総合発展計画 「彦根ルート 2001計画」 を策定し,

「明日に向かつて息吹のみなぎる町」 を目指し,さまざまな事業や施策を進めている 。 ま

ちづくりの指針(理念〉として次の 5 つのスローガンを掲げている 。

①人を尊び愛情あふれるまちづくり (基本的人権の尊重)

②快適でくらしがふくらむまちづくり(市民生活の質的向上)

③健康でふれあいのあるまちづくり(地域社会の再構築)

④豊かで活力に満ちたまちづくり(産業振興,都市基盤の整備)

⑤明日を拓く人を育むまちづくり(教育の質的向上,生涯学習体系の確立)

4. 行政の姿勢とその背景

彦根城は平成 4 年に世界遺産条約の文化遺産暫定リストに記載されたが,江戸時代の地

割りを残す城下町全体としての価値を重く見るべきである。それにもかかわらず,彦根城

のメインストリートともいえる京橋口からの南北の町筋に,都市計画道路を設定し,たと

え伝統的町並み景観の再生を目指したものであっても,全く新しく創作した町並みであり,

地割りを変更して再開発を行っているのは,大いに議論の余地がある 。 この問題点は,い

まさら蒸し返すつもりはないが,古くて新しい 「開発と保存」 の問題に帰結するといえよ

3

つ 。

一方,近江八幡市の町並み景観形成は,伝統的町並みの保存を目指したものであり,昭

和50年から始まった歴史・風土をし、かした町づくりを目指した 「民」 主導保存型のもので

あり,彦根市の 「官」 主導開発型の町並み景観形成と対比的である 。

この町並み景観形成における手法の差異は,そのまま都市の性格の違いに由来するもの

と考えられる 。 近江八幡市は,近江商人の発祥の地であるが,現在は他の商工業都市のベ

ットタウン的性格をもっている 。 そして歴史的に住民自治が発達してきた風土から, r心

のやすらぎ」 と 「 うるおいのある 」 生活空間の創造を目指している 。 これに対して彦根市

は,近畿・関東・北陸を結ぶ交通の要衝という地理的条件から,ハイテク産業を中心とす

る工業都市への発展が期待され,新しい国際都市の創造を目指している 。 したがってその

町づくりはどうしても 「官」主導に頼らざるを得なくなる 。

また両市の性格の違いがそこで働く職員の意識にも大きく影を落としているように思わ

れた。 町並み景観に関する近江八幡市の担当者は,活力創生課(もと企画課,何とすばら

しいネーミングであろうか)の職員であり,自らの役割が市民運動をお手伝いすることに

あることを強調した。 彦根市の担当者は,都市計画課の職員であり,新しい町並みの創造

に意欲を示し,またその実現に自信を窺わせたが,残念ながら市民の戸はさっぱり伝わっ

てこなかった 。

両市の町並み景観の見学を終えたとき,説明した職員の性格にも大きく影響されたかも

知れないが,両市の町並み景観に対する対比的な考え方の差異だけが強く印象に残った。

5. おわりに

第 2 次世界大戦の終戦後,民主主義の理念に基づいて憲法が制定され,明治維新以来の

近代国家形成の過程において成立した社会システムが大きく改革されたと理解していた。

しかし現在問題となっている日米経済摩擦は, 日米聞の経済システムの構造すなわち社会

システムそのものの差異に原因があり,日本の社会システムが明治以来の閉鎖的な 「官」

主導のシステムであったことがあらためて明らかになった 。 アメリカが要求しているのは,

市場開放であり,そのためには思い切った規制緩和を実行しなければならない。 ところが

「官」 主導のシステムにおいて 「規制J はシステムを支える土台のようなものであり,こ

れを完全に撤廃することは 「官」 システムの崩壊を意味することになる 。 このように考え

ていくと,今日に至るまで明治以来の 「官」 主導のシステムは厳然と存続していたことが

わかる 。

現在の日本社会の閉塞感は,国際化の時代をむかえて, 日本の 「官J 主導のシステムが

行き詰まったことを意味し, しかしながらいまだ「民」主導のシステム(真の民主主義)

が確立していないことにいらだちを覚えていることの裏返しであるといえよう 。

このような今日的状況を考えたとき,近江八幡市の町づくりは,わたしたちに重要な示

唆を与えてくれるように思われる 。

【謝辞】

上尾市には近江八幡市・彦根市視察の機会を与えてくださったこと,近江八幡市・彦根

市には多くの貴重な資料の提供とともに懇切丁寧な説明を頂いたことに対して,心から感

謝の意を申し上げます。

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ハワイにおける日系移民の宗教建築について

湊石ローレン

研究概要

ハワイに移民した日本人達は、日本社会の伝統・生活を保持しながらも、ハワイの風土

や社会環境に、定着・同化した。 そこでは日本の伝統文化を基盤としながら、ハワイの文

化が取り込まれてゆく 。 この社会的特質は、日本人移民達による宗教建築の展開・変遷の

経緯によく表れていると思われる 。

ハワイへの日本人移民は明治元(1868) 年より本格化し、その後100年の間に仏堂、神

社、そして日本建築の形式を持っ たキリスト教会などが建立された。 本研究ではハワイの

日本人移民によって建立された宗教建築の分析を通し、日本の伝統的な建築様式及び技術

が、ハワイという環境下においてどのように変質し、継承されていったかを明らかにする 。

研究計画の内容

ハワイに移民した日本人達は、日本の社会の伝統・生活を保持しながらも、ハワイの風

土や社会環境のなかで、現地への定着・同化をしていった。 そこでは日本の伝統文化を基

盤としながら、ハワイの文化が取り込まれてゆく 。 この社会的特質は、日本人移民達によ

る宗教建築の展開・変遷の経緯によく表れていると思われる 。

本研究では、ハワイの日本人移民によって建立された多数の宗教建築を取り上げ、日本

の伝統的な建築様式および技術の、ハワイにおける持続と変容の経過の分析を研究の中心

テーマとする 。 また、ハワイの日本移民史において、日本の宗教建築が多数建立された歴

史的意義を考究する 。

・仏教建築について

ハワイへの日本人移民は明治元(1868) 年より本格化し、その後1889年には最初の開教

師(京都の本願寺の僧)がハワイに上陸した。 ハワイの主要な5島に、多数のプランテ

ーションが設立され、そこでは様々な宗派からなる仏教建築がおよそ百棟建立された。 そ

の仏堂と隣接して、必ず学校などの公共施設が併設され、そこに日本人によるコミュニティ

の中心地が形成されている 。 ハワイにおける仏教建築の変遷の経緯を通観する 。 そして日

本人移民の現地への定着・同化に際して、仏教建築の果たした役割を明らかにする 。

・神社建築について

またハワイでは神社建築も多数建立された。 海外において神社の造立をおこなったこと

の意義は大きく、信仰の対象とされた祭神を調査し、母国を離れてハワイへ移民した日本

人の生活意識を明らかにする必要があろう 。 神社は仏教の場合と異なり、個人によって造

立がなされた例もしばしば見られるが、日本人のコミュニティによって建てられ、維持さ

れることが多かった。 この時彼等自身が日本人であることは強く意識され、神社建築の表

現においても工夫がこらされたと思われる 。 日本の伝統的な神社の建築様式を踏襲したも

のについて、建築を構成する各部材は米国から輸入された規格製材が用いられている 。 ハ

ワイでは、日本神社の建築形式を基盤にしながら、近代的要素を巧みに加えて、新しくか

っ継承的な技術が生まれている 。 日本建築の伝統的な形式や技術が、ハワイという環境の

下でどのように変質したか、またその継承的な展開を分析する 。

7

-日本建築の形式をもったキリスト教会

米国の日本移民などのキリスト教布教活動の影響も強く、その反映として日本建築の形

式をもったキリスト教会が生まれた。 そのうち「日本キリスト教会J (後にマキキ・キリ

スト教会に改称)では、 1940年の改築の際に、城郭建築の造形を取り入られた。 ハワイの

キリスト教会に日本の建築様式が用いられることの歴史的意味を考察する 。

研究計画立案の経緯

これまで、日本建築の設計技術史の研究を遂行してきたが、そこでは建築における下部

構造と上部構造を媒介するものとしての設計技術、設計方法に注目し、建築表現の生成の

論理を構築した。 本研究は、これら一連の日本建築史研究の延長線上に位置づけられるも

のである。

日本は、多くの国へ移民を送っ たが、その移民政策の社会的意義を考究することは非常

に重要である 。 そしてそのような時代や社会の制約のなかで、建築が規定されてきた条件

を踏まえつつ、どのような表現の地平を新たに創造したかを考えたい。 ハワイにおける日

本人移民による宗教建築は、これまでの日本建築史研究を対象化するうえでの重要な鍵と

なり、この点を踏まえ本研究が立案された。 ハワイにおける日本の宗教建築に関し、実測

調査も含む本格的な調査研究がなされるのははじめてである 。

当該研究の独総性

移民史の概説や、仏教の布教問題に関する論考は散見されるものの、ハワイの日本人移

民による宗教建築を対象とした既往の研究は皆無である 。 その意味で、本研究は非常に新

規性に富むものである 。

また、満州や朝鮮地域などの旧日本植民地地域における移民政策史や、技術交流を通し

た近代建築史に関する諸研究はみられるが、ハワイへの移民政策は前述のそれとは基本的

に性質を異にするものである。特にハワイの日本人移民による宗教建築は、非常に特徴的

な形式や技術をもつものであり、日本の伝統的な宗教建築が文化的な折衷をとおして、新

たな展開をみせてゆく経緯が読みとれる 。 さらに南方地域の建築研究に新たな視座を与え

る研究としての独創性、萌芽性にも満ちたものであることを自負している 。

10 刀v

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白崎

諸J・ワ〉

み寸

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8

在ハワイ寺院建築

e x. おだいし寺

湖所 Hamakua , Hawaii島

創建 1 930 年

階数 : 1 階建て(高床)

建築材 : 木材

E量段者・ハワイ日系大工

e x. Honako漕同禅

tI所 : Honako, Hawaii島

創建 191 6 年

噌築 : 1 935

修理 1 950年

階数階建て(高床)

建築材・木材,生子板(屋棋)

建段者・ハワイ日系大工

e x Puna本願寺

tI所 : Puna, Hawaii島創建 1 937 年

指数 : 2 階建て

建築材:木材,

鉄板(正面部)

建段者:ハワイ日系大工

9

可.、,

在ハワイ神社建築

ハワイにおいて建設された神社建築の一例として、このMaui神社がある.この実例において注目すべき点は、建築を構成する各部材に米国から繍入された規格製材が用いられている事実である . また、当時の建股配録が残されている .

Maui 神社

場所: Wailuku. Maui島創建 1 9 1 5 年移築 1 9 5 5 年階数: 1 階建て建築材:木材,柿板(屋根)建般者 ; 日本人大工(友清盛一)

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建築配録の一部分

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FLOOR PLt:,l-I

10 図ハワイ州建築保存役所

博物館における近代建築史研究の一課題

米山勇

建築が三次元の空間であることはいうまでもないが、都市がそうした個々の建築の集ま

りによって形成されていることは、日本近代の都市建築史を考える上で重要な事項である 。

筆者が研究対象の中心としている佐藤功一(1878-1941)は、建築界でいち早く「民家」

を見いだした建築家であるが、同時に彼は真っ先に「都市美観」の問題に着目した人でも

あった。こうした都市認識のあり方は、官庁集中計画1) に代表されるような明治期以前の

怖蹴的な「都市計画J とは本質的に異なるもので、弟子にあたる今和次郎(1888-1973)

の考現学にも連続する視椋によるものである。近代都市としての東京の像は、このような

個々の主体的風景の連続として捉えられるべきであり、研究に際しては、都市の構成要素

であるそれぞれの建築についての空間レヴェルでの分析が必要になってくるのである 。 筆

者が所属する東京都江戸東京博物館の都市歴史研究室では、各スタッフがそれぞれの専門

に応じた視点で江戸・東京に関する研究を行っている 。 こうした博物館における研究のあ

り方が大学のそれと異なるのは、常に研究と展示との連関について考慮を寄せなければな

らない点である。前述したような、東京の生きた都市像についても、ただ各時代の地図な

どの総合資料を蓄積・保管するだけでなく、個々の建物についての研究成果を 3 次元レヴェ

ルの情報として人々に提示していく必要がある 。

江戸東京博物館の分館・江戸東京たてもの園は、各時代の建築空間を実際に体験できる

という意味で、多くの野外博物館の中でもユニークな存在である 。 そこでは、写真や絵図

では得ることができない、生きた空間としての江戸東京に接することができる 。 しかし、

収蔵できる建築物の数や規模には当然ながら限りがあるし、また、今もなお使われている

「現役j の建物を展示することも現実的に不可能である。建築の展示としては実際の空間

体験が理想であることはもちろんであるが、博物館研究の役割としては、都市を構成して

きた様々な建築に対し、収蔵とは離れた地点での調査・分析を蓄積し、情報として提供し

ていくことも重要であろう 。

従来、 CADIま建築設計の分野で用いられてきたが、研究分野においても三次元情報の

データベース化と CG による建築空間の疑似体験において有効なメディアである 。 たとえ

ば、佐藤功一設計の反町茂作邸(昭和 2) 2) の場合、設計者によると思われるいくつかの

図面が遣されているが、それらから建築の全体像をつかむことは難しい。 実測調査に基づ

いて作成した CG画面によれば、日ごろ、建築図面を読む機会のない一般の人にも建築の

全容をつかむことができる。

また、内部空間への介入も容易であり、時間を追って建築空間を移動することもできる 。

さらに時間や天候などのファクターをデータ化することで、さまざまな状況に応じた復元

を行い、情報として提示することも可能である 。 展示にかかわる問題だけではなく、こう

。明治19年、 H.エンデ&w.ベックマン。

2) 本住宅の概要と特質については日本建築学会大会で報告している。(米山勇、川添登、中川武、市川陽

子 r佐藤功一設計の反町茂作邸についてJ /市川陽子、川添登、中川武、米山勇 r r反町茂作邸J

にみられる佐藤功ーの住宅観J ,以上、日本建築学会大会学術講演梗概集,平成 6 )

11

した空間的情報として、都市東京を形成した様々な建築について情報を蓄積し、公開して

いくことも、大学の研究室とは違った、博物館における近代建築史研究の課題の一つであ

ると考える。

反町茂作邸外観透視図(南東/北東) , Power Macintosh 81∞'/80AV使用 (作図筆者,以下同)

12

屈覇

反町茂作邸函孟 ー[1,=0;; 一一一一

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(ワイヤーフレーム)

反町茂作邸 アイソメトリック

市4

遠望

山へのオマージュ

良永和淳

今まで史標に書いてきたことを

建築として表現したい、と思って

いた。ここに載せる「ソキア研修

所」はその一部が表現されている

と考えている。

自然休養村である緑豊かな山の

中で、自然になじみつつ主張する、

ということを考えたのはバイエル

ンのヴィース教会の美しさが、今

だにわすれられなし、からかもしれ

ない。隣地には 「山神様」 の石の

小さな嗣があり、山をセレプレイ

トすることに迷いはなかった。そ

外観 して山における目舷くような身体

キャノピー15

の変様を建築的に表現することを

考えはじめた。シュティフターの

「水晶」などが思い浮かんでいた

こともあっ fこ。

また、施主の光学機器メーカー

としてのイメージから「光J ["視

覚」を考えているうちに 「バロッ

ク 」 の概念に親しみを感じるよう

になった。

こうした思いの中でスケッチを

重ねていくうちに、この作品に至

った。

家具やオブジェを含め、こうし

た思いを込めることができたのは

幸いであった。

16

ラウンジ

17

外観夜景

18

計画概要

設計施工

建築名称

建築主

主用途

竣工年月

所在地

敷地面積

地域・地区

建築面積

延床面積

軒高

主主主吉r """�"' 珂又同同

外部仕上

屋根

外壁

鹿島横浜支店

ソキア研修所

株式会社 ソキア

研修所

1994年 6 月

神奈川県足柄上郡

松田町寄

8. 134. 07nf

都市計画区域外

1. 842. 35nf

2. 180. 52nf

8. 335m

12. 140m

7ス77ルト シングル葺、

ト ッ プうイト

複層熱線反射がス

45二丁掛磁器質

タイル貼

関口部 了)~~サッ シュ電解着色

内部仕上(主な部屋)

(室名:ラウンジ)

天井 棟前イカル極

壁 欄付合板、アクリル樹指

共同設計者

写真家

プうスターこて重り

タイルカーペッ ト

FFE: イリ了

アーバン7-ツ

米国建築雑誌にみるアントニン・レーモンドの活動と評価( 2 )

高橋知之

太平洋戦争と建築家

日米戦争にさしかかり、日本の建築家に選択肢として残っていたのは軍需工場か、 「近

親相姦」とまでいわれてしまう自邸や親族の住宅設計、もしくは沈黙であった。当時の対

戦国であった米国でも建築家にとってあまり状況は変わらなかった刻 。 レーモンドと共

にインドに同行し、現地に残されたGeorge 中島に至っては、開戦後、ユタ砂漠の日本人・

日系アメリカ人強制収容所に抑留される有様である。

断絶・破壊行為の究極である戦争を前にして軍需工場・陸軍キャンプ以外に当時帰国し

ていたレーモンドを含めアメリカ人や亡命建築家達に与えられたのは、表現としての創造

ではなく国防の理念に規制された米国政府からの依頼である「国防住宅J 約の製造であっ

た。 ArchitecturalFourm 1941年10月号にはその一つであるベズレヘム国防住宅計画(1940)

が、そしてPencil Points 11月号にはその時の状況を語る「アメリカ住宅協会との仕事ーラ

ンハム条例の下でJ 約が載っている 。 一方1944年のPencil Points には 2 回に渡ってレーモ

ンドの活動と姿勢を解説した記事※4 が載るが、そこでレーモンドの戦争への貢献は他の

建築家よりも大きいとされている制 。 これらの仕事は「タトル、スィーリ一、プレイス

&レーモンド」純という技術障を含む会社を設立して行っている 。

※ 1 日本において太平洋戦争中のレーモンドの米軍関係の設計活動に関して触れたものに:

前掲Sid White "Antonin Raymond: Builder of Vision" 三沢浩「時間と建築・レーモンド

小論J (A ・レーモンド 『私と日本建築j 、鹿島出版会、 1967年前掲三沢浩訳『自

伝アントニン・レーモンドJ 藤森照信『日本の近代建築(下)一大正・昭和篇 -.1

(岩波新書、 1993年)などがある 。 ただし 『 自伝J 以外はいずれも数行だけで、詳細に

は言及していない。

※2 英語では "defence housing" 0 "Council of National Defence" による "construction industry's

defence program" ( r国防建設計画J ) の内の "defencehousing projects" の一部。 rランハ

ム条例」の下でおこなわれた国防労働員(軍人)家族のための緊急住宅供給政策。 レー

モンドの他に Louis 1. Kahn 、 Walter Gropius、 Eero S拙rin巴n などが参加している

(Architectural Foum 75 , October 194 1) 。

業3 Working With USHA under the Lanham Act, Pencil Points 22, Nov. , 1941. ここでレーモンドは設計に対する政府の規制に抗議している 。 何軒かの意匠的・機能的検討は許され

たものの、政府が要求した住宅は機能を最低限満たした既存の規格を越えてはならない

まさに近代建築批判が標的とする画一的で無表情なものであった。

※4 Frank G. Lopez "Perspectives, The Different Gascon: Antonin Raymond" Pぽt 1 & 11, Pencil

Points 25 , June&July 1944.

※5 レーモンドと米軍との関係は第一次世界大戦にまで遡る 。 1919年の来日直前までは在

スイス情報部将校として謀報機関 (U.S. Army Intelligence office in Europe.) に所属している。

※6 Tuttle, S巴巴lye, Place,加dRaymond.

19

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SECOND FlOOQ PLAN

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FIRST FLOOQ PLAN

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国防住宅計画のなかで意匠的・機能的検討が許された試験的単体住宅のうちのこつは二階建てで

ある 。 一つ(左上)は経済的な柱と梁構造を利用したレーモンドのオープン・プラン解決策で、

もう一つは従来の壁構造を使っている 。 両方には水平に聞く窓があり、裏口と居間の聞には引戸

がある。また双方とも玄関が入り込んでおり、後部の入口は網戸で因われている。石炭で熱せら

れる暖房ユニットを個々に地下設置できるようにもなっている。サイディングには石綿板が使わ

れている。

20

レーモンドの設計による三つ目の試験的住宅は一階建てである。この単体住宅に設計者は組立式

のユニット・クローゼット導入し、平面は自由に仕切ることができるようになっている。情造的

にはまわりの壁と中心コアで支えられている。越屋根はパスルームに必要な採光と換気を供給す

る。

FLOOR PLAN 。 la....T.WIO

一また1946年1月付けのArchitectural Foum は、レーモンドが1943年の初めに米軍から依頼

を受けた日本の労働者住宅の実物大レプリカ設計についてとりあげている約 。 そこでは

ニュージャージー州エリザベスのスタンダード石油会社制を介して依頼されたその24棟

の住宅の用途が焼夷弾の効力を調べる実験の標的であり、ユタ爆撃実験地区現地で即座に

組立てられるようにあらかじめ工場でプレハブ化され、またそれに付随して実験を幾度と

なく繰り返せるように代用の部材も山積みに用意されていたことなどが具体的に語られて

いる 。 この記事によれば、そこに掲載されている陸軍の検閲によって公開された数枚の写

真だけが、唯一残された記録である。

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TOKYO WORKERS HOUSING (above view shows typical tile roofs) was duplicated by U. S. prefaber. Because

Japanese houses are based on modular system (which in turn is based on the 3 x 6 floor m<lts) they were

easy to adapt to prefab construction. Architect Raymond designed houses from memory.

※7 "PREHAB TARGET: Antonin Raymond duplicates Japanese workers houses for U.S.Armyヘ

Architectural Foum 84, January 1946. なお、前掲藤森照信『日本の近代建築(下) 一大

正・昭和篇- J における「アリゾナ砂漠に東京の下町を再現し、焼夷弾の有効性を試し

ている」の記述内容は「ユタ砂漠」あるいは「ユタ爆撃実験地区」の誤りと思われる 。

また、前掲 『自伝アントニン・レーモンド』には「ニュージャージーのソコニー石油会

社の研究部と共同で」とある 。

※8 Standard Oil Development Co. of Elizabeth, N.J.

21

STRUCTURAL FRAME (above) was reinュforced by rattan weave. Adobe was applied (bottom picture) .and wall fin-

ished with lime 山ter coat う

HOUSES were set on square concrete piers. Fire walls (lower right) , not used in Japan , were built between every two units to limit bombing effect.

was exactly reproduced. A bomber flew to Hawaii to collect enough floor mats from Japanese com 町、 unity.

日本の労働者住宅の実物大レプリカArchitecturalFoum 84, January 1946より抜粋

22

Joinls were morlised and doweled

戦争の影響下のもう一つの選択肢として、住宅設計や内装などの小規模なものがあった。

レーモンドが終戦までに米国で手掛けた軍関係以外の作品としては、 1941年PencilPoints

10月号にコネチカット州のヒッチ邸 (1940) が、 Architectural Fourm 11月号における「最

近の作品集j にはペンシルベニア州ニューホープ農場のレーモンド事務所 (1939)、地方

住宅の計画案やニューヨークのケンブリッジ・ガラス会社のショウルーム(内装、 1941)、

ニュージャージー州のトニー・ウィリアムズ邸 (1939)なと守が載っている。また 1942年の

Pencil Points 8月号では、ニューヨーク州モントークポイントのカレラ邸 (1940) の紹介

と共にレーモンド自身の近代建築に対する見解を語った「真のモダニズ、ムに向かつて」約

という題の論文が掲載されている 。 さらに1944年のPencilPoints 5月号にニュージャージー

州ランパートピルの石の家 (1940) が、 ArchitecturalFourm 12月号に前項のニューホープ

の家が、そして 1945年のPenci/ Points 7月号にニューヨーク市衛生局車庫(1943) が掲載

されている。

第二次大戦終戦までの米国の建築雑誌に見る限りレーモンドの建築活動は 1930年代になっ

て注目され始め、その後日本だけでなく米国におけるものも小規模な作品も含めて雑誌に

掲載されるなかで評判はあまり芳しくないが名目上国際的建築家としての認識を受ける。

また、当時のレーモンドは論文等で様式主義を否定すると同時にmodem archit民tureの定義

に近代風な様式 ("Modemistic Style") の枠を越える解釈を提示している。今後は戦後の活

動と評価もあたりながら、 「近代建築J の問題に関連してレーモンドの建築とその近代建

築論を体系的に位置づけてゆく 。 また、戦後日本の外交と諸大使館建築の建設にレーモン

ドは多く関与しており※10 、その辺りの事情も外務省外交史料館の史料を活用して※11 解明

してゆく。

※9 "Toward True Modemism" , Penci/ Points, August 1942.

※ 10 イタリア大使館日光別邸、フランス大使館、チェコスロヴイア大使館、ソビエト大使館、ア

メリカ大使館、カナダ大使館、アメリカ大使館アパート、ベルギー大使館宿舎、イラン大使

館、イスラエル大使館 などをはじめ、レーモンドは日本の外交に関わる建築を多く手がけ

ている。

※ 11 外務省外交史料館外務事務官の協力のもと。

23

レーモンド(戦前:外ル、スィー1)ヘアレイス&レ任ン卜・/戦後:レイ壬ン卜ιラ卜 ・) による米軍関係の

作品リスト

Antonin Raymond's work for U.S.Military (Tuttle, Seelye, Place,&Raymond /Raymond & Rad )

1940 U.S.H.A. Defence Housing: Belhlehem, Pa.

1941 Camp Uplon, Facililies for Thre• Coasl Artillery Regimenls: Camp Uplon, LI, NY.

1942 Camp Kilmer Slaging Area: Shehon, NJ. ; Army Servi叩 Forces Depol: Belle Meade, NJ. ;

Camp Shanks Slaging A児a: Or岨geburg , NJ. ; Hospilal al Camp Kilmer: Shel阻止 NJ. ;

Hospilal al Camp Shanks: Orangeburg, NJ. Japanese Model HOllsing for Tesl pu中ose: Ulah Proving Ground ;

Fort 0日, Airport, Housing & Hospilal facilities & addilion: Fort Dix, NJ. ;

1951 U.S. Army Engineer Base Mainlenance Shop (Raymond&Rad)・ Schenecady , NY. ;

General Masler Plan for Anderson Air Base (Raymond&Rad): Guam, Marianas ;

Masler Plan for Anderson Air Base: Guam, Marianas; Hospilal for Anderson Air Base: Guam, Marianas

1952 Faci!ities for Ihe U.S.Army (Raymond&Rad) ・ lsland of Azores ;

Facililies for Ihe U.S.Army (Raymond&Rad) ・ Walerv!iel Arsenal, NY. ;

Facililies for Ihe U.S.Army (Raymond&Rad): Scheneclady, NY. ;

Clark Field -Addilional Facilities (Raymond&Rad): Luzon, Philippines ;

U.S.Air Bases, Survey & Addilional Facilities: Japan ; J田nes FoπeSlal Causeway, Yokosuka Naval Base: Japan ;

F.E.A.F.Medical Facililies all over Japan: Japan ; Base Headquarter B山lding U.S.Army: L司jes , Azores ;

U.S.Air Force & Navy Facilities: Lajes, Azores; Camp Drake Headquarters Building: Akasaka, Sailarna, Japan ;

Okinawa Slale Departmenl Housing: Okinawa

1953 Recreational Facililies, U.S.Naval Base: Norfolk, Va

1959 Mainlenance Shop for U.S.Army: Korea; Library for U.S.Army: Korea ;

Service Club for U.S.Army: Korea; Osan Air Base for U.S.Air Force: Osan, Korea

国防建設計画費用の内訳 (Architectural Foum , July 1941 より抜粋)

DEFENSE CONSTRUCTION EXPENDITURES in thousands of dollars

Totcl Value Ploced TOlol Volup. Bolonce Scheduled Dun r可 l引 in Ploce ()(l '0 be

T,問 of Cons!ru.::tion p,司'0'0 Holf 1941 July 1, I引 ,x問nd吋

MILlTARY HOUSING Army 舶に-Borrocks 741.;;9 48ヲ, 1 3 1 729.012 12.297 Army QMC-Ho甲tols 20, 1 ;ニ 1 マ.010 19.21五 ~羽

Army Air Co'ps-eorrao:::ks I 27,8rJÏ ';3.1::0 75.718 究明9

No吋-Borrcζh 36,251 115'6 お.822 10.429 Navy-H田pi !ol S 14,25; 6,33., 8.577 5 品自

Totol 939.818 569.105 858,i25 81.403

MILlTARY AERONAUTICS Army Air Cor匹' <93.1国 152.243 176.769 316.340 Army Air Corps-<主ltside U. S 69.岱4 19131 34 岨 1 35.∞3 No~y Aer.四百utic Facilities ヨ明.1日 15 1 骨4 2ラ4 ,2 11 53 らゆ

Total 870,353 323.368 柑5.国 1 .05.192

OTHER MILlTARY Army QMC-Misc' 12,7'ò 6.759 8.703 4.0-行

rmy QMC一心u!s ide U S 曲,6:9 1l.2!1 31.320 37.259 N口市y Yords � Docks-l山sc . ' 見4.6>.) 116.%7 215. 斗59 169.161 Total 465.977 145,047 255,482 210.-495

Totol Militory 2,276,158 1,037,620 1,578,968 697, 1~泊

INDUSTRIAL-PUBlIC Interior De同rtrnent 4∞ 4∞ 400 QMC-0,d問nce Plo円fS 531.54; 224.342 272,142 2円59.402

rmy ir Ccrps-Plonts 4邑7ï9 24.454 31.512 15.267 rmy Ordnance-Plonrs 26β14 13.598 17.523 8.<91 Army Chemi亡口IWロ rfore-PJonts 1]5 115 135 Novy Yords (, Docks一心,d同no. 27.0;6 13.3-19 1 6,7∞ 10.336 Novy Bureou of Ships-Plonls 110.930 57.987 74.725 36.205

.INavy BUrecu of Aero,-PlonIS 17.171 8,975 11.ヌ話 5 日5

Novy Bur開u of Ordnance-Planrs 57.CS守 目.827 38.437 18.623 De fen児 Plont COr凹ratton 13:.3田 69.770 89.897 <3.493 Re:∞st山口ion F i同町e Corp 10.199 5.331 6.870 3.529 U. S. Moritime Commissicn 16,34 1 8.542 11β~ 5.333 lend . l朗日 p"司『ロm 2'Y.l.α刀 17 豆沼 17 .ヌxl 232.5つo

Totol 1 .225 .9ヲ9 474 , 1間 588,415 638.m

INDUSTRIAL-PRIVATE' 245,050 88,926 155,186 89,86‘ MISCELLANEOUS PROJECTS Defense Hou~ i吋 500.町刀 126.日E 129.αE 371.白河

Brilish Purc旧日司仁α"'0 14.356 5.474 6.田2 7.55<

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テオドール・フイ ツ シャーと 19世紀近代

太田敬二

テオドール・フイツシャーについてはすでに本誌 7 号で概略を紹介した。 その後別の場

所で,教育論,都市論,比例論,伝統理念,空間概念,同時代の芸術論やタウトをはじめ

とする次世代の建築家との関係など, より詳細な論考を試みた。 検討しておかなければな

らない問題まだ他にもあるが,一旦ここで全体を通観し,フイッシャーの歴史的位置づけ

について,おおまかな見取図の作成を試みたい。

l.テオドール・フイツシャーとモダニズム(近代主義)

「モダニズム」という概念はどうも暖昧で 歴史的認識の基盤とするにはこころもとな

いところがある 。 それは,機能主義,有機体論,様式統合,技術主義,構造合理主義,合

理主義といった,確かに密接に関係してはいるが決して同一ではない諸概念を包括してい

る 。 ところが,これらの諸概念に通底するものはこの語からは何ら示唆されていない。 そ

れでも「モダニズムj という概念が便利で,容易に手放すことができないのは,これらの

諸潮流が1920年代後半にいちどきに表面化し,その多様性にもかかわらず以前の建築とは

一線を画すという点ではひとつのまとまりをなすように見えるからであろう 。 しかしその

まとまりは,モダニズムそれ自体の共通性からではなく,むしろそれらが拒んだ、 ものの共

通性,つまり様式主義の拒否によっていわばネガテイブに規定されていることになる 。 近

代技術の導入をめぐる議論も,おおむねこの様式問題の枠の中で展開されていると見るこ

とカfできるだろう 。

その点ではフイツシャーも例外ではない。 フイ ッ シャーの建物を見ると,あるものは中

世ドイツ風の装いを示し,あるものは古典主義の衣装をまとっている 。 その点では, 19世

紀建築とかわらないように見える 。 しかし 19世紀の様式主義を乗り越えるべき問題とす

る認識はフイ ッ シャーの言説にも明確に示されるだけでなく,むしろそれこそが最も重要

な問題であり,かれの改革思想の出発点であったと考えられる 。 ただ問題の解決が,様式

を想起させるオーナメントの拒絶や,機能や構造への建築形態の徹底的還元によってもた

らされるとは考えなかったというにすぎない。 フイツシャーはその晩年に,若い世代によ

って数々の革新的建築が作られて行くのを目撃する 。 これらの新建築(ノイエス・パウエ

ン)を,個人の「創造の自由」を尊重する教育者フイ ツ シャーはひとつの実験としては認

めるものの 円 それを解決とは見倣していない。しかしこの立場の相違は必ずしも決定的

なものではないだろう 。 というのは生まれつつある新しい建築を最終的な解決とするモダ

ニズムの主張にも多分に戦略的な側面があると思われるからである 。 当時の社会・文化的

背景を含めた広い視野の中で見れば フィ ッ シャーの試みとモダニズムのそれとはむしろ

一連のものと見ることもできる 。

19世紀末以降, ドイツは皇帝ウイルヘルム 2 世のもと,高度経済成長の道を突き進んで

きた。 次々に生み出される新しい技術の成果(鉄道・交通網の発達,電信・電話機,写真,

照明器具等)だけでなく,人文諸科学においても科学的方法は着実に成果をあげていた。

ウェーパーが宗教的現象を社会学的視点から分析しで注目を集めたのもこの頃である 。 し

25

かし同時に,教育, 宗教,医学,工芸など,人々の生活や人生観に密着した領域を中心と

して 19世紀近代への根底的批判が現われてくる 。 建築はその中で二面的な位置を占めるこ

とになるだろう 。 新しい技術の成果や経済成長による生産力の増加からその恩恵を受ける

のは建築である 。 しかしまた人々の生活に密着した応用芸術として, 生活改革の主役とな

るのも建築である 。

改革の思想はフイッシャーに限らず, 19∞年初頭のドイツ建築の動向を強く規定する 。

ベーター・ベーレンス ヘンリー・ヴァン・デ・ヴェルデ リヒャルト・リーマーシュミ

ッ ト,ベルンハルト・パンコ ッ ク,ブルーノ・パウルなど,当時の指導的建築家の多くが

絵画・工芸を出発点とし,生活・文化改革の理念をより広 く 実現するため,建築家に転身

した者であることにも,改革運動の性格がよく示されている 。 もちろん,当時のドイツの

技術発展と経済成長を全面的に肯定し もっぱら技術者 商業活動に専念する建築家も多

かった。 しかし,結果的には改革の建築家が指導的役割を獲得して行く 。 フイ ツ シャーの

建築理念もこうした改革思想の中に位置づけられ その様式主義批判も単に建築内部での

改革にとどまらず, 19世紀文化そのものへの批判の様相を帯びてゆく 。

2. フイッシャーと 19世紀近代

しかしフイ ッ シャーの場合 建築改革は社会・文化に対する問題意識を出発点とするも

のではなく,むしろ建築家として様式主義の乗り越えを模索する中で,問題の根底に建築

と社会・文化との関わを見出 したのだと考えられる 。 この順序は重要である 。 19世紀の社

会や文化に対する批判は「建築」という観念に規定されることになるからである 。 フ イツ

シャーの言説には, 19世紀の建築が本来の意味での「建築」ではないという意識が伺える 。

そしてそれはほとんど19世紀に固有の問題として理解されている 。

1900年頃の言説を見ると,フ ィッ シャーはまずカミロ・ジ ッ テの都市造形論を基盤に ,

建築を都市の一部として捉えなおすことによって, 19世紀建築を乗り越えようとしていた

ように見える 。 フィッシャーは 19世紀がその巨大な生産力を背景に作り上げてきた都市を

激しく批判し, ["切り妻やアルコーヴが互いに譲らず競い合いJ ,賑やかであるにもかか

わらず「単調」で「硬直j していると指摘する 。 こうした現代都市には近代以前の都市が

対置される 。 例えばドイツ中世の面影と骨組を残す都市では「すべてが新鮮で個性的であ

るにもかかわらず落ち着きが」あり,凹型の壁面,閉じた広場,公共建築の適切な配置な

どによる「一級の絵画的質」が認められるという 。 ここではひとつひとつの建物の意匠は

全く議論の対象となっていない。 むしろ 建物を個別に捉えることが19世紀の問題点なの

だとされている 。 重要なのは建物と建物との関係であり,その関係は「絵画的質」という

点から評価される 。 このようにまずフイ ツ シャーは視点を都市に広げることで, 19世紀が

建築と考えてきた個々の建物を,実は都市という「全体」にと っ てのー要素,全体によ っ

て規定され,全体から導き出されるひとつの結果にすぎないとするのである 。 しかしフイ

ッシャーはさらに建築の背後にあってこれを規定するものとして, ["大地J ["人民J ["精

神J ["芸術感覚」等に言及する 。

「ベルリンからミュンヘン に まで響きわたった 『純粋様式j のかけ声のもと,ひとはギ

リシア様式のかの学問的な抽象をいっ ていたにすぎなかった。 それはギリシアがその大地

と人民から導き出したものとは根本的に異なるものであったJ ["問題はかの精神にあり,

26

取り戻すべきものは唯一この精神なのですJ 。 またフイ ツ シャーは 19世紀が誤った学校

教育によって「芸術感覚j を抹殺してきたともいう 。 これらの概念は「近代数学的な生命

のない厳密性J , I必然性のない規則性の硬直J I精神的に不毛な形式主義j に対置され,

「一面的な科学的見方J ゃ「官僚主義j が批判される 。

ここでフイ ッ シャーは建築の問題を建築単体ではなく より広範な都市の視点からとら

え直すだけでなく,都市を介してさらに 19世紀の社会制度,ひいては 19世紀の思考そのも

のに疑義を呈し,いわば19世紀の根底に矢を向けていると見られる 。 19世紀の社会や思考

にまで深く巣くったある問題が「絵画的J 建築を不可能にしているというのである 。 こう

した文明批判の方向を決定づけているのが「建築J の観念だとすれば, I絵画的J 建築の

概念には実に重い意味が込められていることになる 。

しかしフィ ッ シャーの言説には「絵画的」に関する明確な説明はない。 そのため, 一見

すると当時一般に「絵画的」と呼ばれているものを指して感覚的に用いているようでもあ

る 。 I絵画的j の語はすでに, フイ ッ シャーが基盤とするカミロ・ジッテの著述に見られ,

そこでは文字どおり絵画のような印象深い情景,都市の景観を指している。また,そこに

は建築の存在するがままの形態に対して むしろそれが喚起する視覚的印象といった含み

もある 。 したがって作品の構成や規則といった観念的な認識ではなく,感覚的な知覚に関

わり,変化や動きといった印象を指しているように見える 。 しかしカール・ヘンリーツイ

という建築家は 1897年に「絵画的建築」を改めて主題として取り上げ,こうした一般的な

「絵画的J の概念を否定している 。

ヘンリーツィによれば「絵画的建築j は「建物群におけるコントラストの強調,同じ形

の反復による単調さの忌避,輪郭の変転する生き生きとした動き」として規定されるもの

ではなく,むしろ建物とその周囲との「関係j の問題だという 。 そして「絵画的」な効果

につながるような「関係J を知るために「絵画的な建物とそうでないものとを並べて両者

を分析する」こと,とくに「自然j との関係に注目して分析することが重要だとして, I何

故なら,建築は自然を模倣するのではないにしても,そこからしばしば造形の法則を窺い

知ることができ,その意味で自然は建築の最良の教師だからである」と述べている 。

実はフイツシャーは,このへンリーツィをジッテの主張の実践者として賞揚している 。

そしてフイツシャー自身も 1903年の言説では「絵画的」よりむしろ「自然な芸術感覚j と

いう概念を前面に出し,これを「こんにち物質主義と一面的な科学的見方によって隅に追

いやられた美的文化J に関わる問題だと位置づけている 。

自然の背後に建築の法則を探ることができるという考えは古くから見られる 。 フイ ッ シ

ャーが「自然」に言及するとき,この伝統を後ろ盾にしていることは間違いない。 しかし

19世紀の美学はむしろ自然美と芸術とを根本的に区別して扱ってはいなかったか。 そうだ

とすれば,ここで改めて「自然J を主張することの裏には 19世紀美学が前提とするもの

への批判がこめられているのではないか。

西洋思想における「自然」概念の変遷をたどろうとすると ほとんど西洋思想そのもの

の歴史になってしまう 。 しかし,フイ ツ シャーの建築理念が含む19世紀への批判の意味は

「自然j 概念の変遷の中でしか明らかにし得ない。 検討しなければならない事柄は多岐に

わたるが,とりあえずごく簡単な見取り図を作成しておこう 。

27

3. フイツシャーと 18世紀の「自然j 概念

ルネサンスの建築家はウイトルウィウスの建築書を参照しながら,建築と人体との類比

(アナロジー)を探求した。しかしそれは徹頭徹尾「類比」によるもので,形態上認めら

れる種々の相似,類似,対応,照合にもとづいていたと考えられる。アルベルティは,開

口を奇数にすることの根拠として「自然を観察すれば明らかなように,動物はなるほど左

右一対の目,耳,鼻孔を持つが,しかし中央の位置に一つ堂々とした口を備えるからであ

る J と述べている 。 数についてはその他に,惑星の数,日数,生まれ月,指の本数との類

似が語られる 。 ルネサンスの建築書は総じて経験に従い,事実に即した記述が支配的であ

るように見えるが,ひとたびその理由づけを試みる段になると,今日もはや理解しがたい

類似の列挙がたち現われてくる 。 そこでは自然と建築とが類似の鎖によってつながれてい

るかに見える。

しかし 17世紀以降,類似に代わって「同一性と差異性の体系j が人々の思考を支配する

ようになり,自然の意味,役割,他の存在との諸関係,要するにその存在様態は大きく組

み替えられることになる。建築と自然との関係付けにおいて,もはや類似は周縁的な役割

を持つにすぎない。 自然は同一性と差異性の体系とアプリオリに結びついている 。 118世

紀には,自分を正当化したいと思うものは自然を引き合いに出し,自然を味方につける j

(スタロパンスキー)とさえ言われる。自然は時代のキーワードとなる 。 商工業者は「自

然を制御するという目的のために 自然を支配している一様な諸法則を武器に使う(中略)。

たとえ人間そのものも自然の因果法則に従う存在であるとてしも,人間は実験をとおして

この因果法則を認識することで,それを支配する力を獲得する J (同)と考えられるよう

になる。

この中で,建築はどのような位置を占め得るのだろうか。それは人為として明らかに自

然とは区別される 。 しかし,建築は自然がそうなろうとしている純粋状態を表していると

も見倣される。そもそも人間も自然の一部である 。 自然の解釈によって,また建築の種類

によって自然と建築との関係はさまざまな形態をとるだろう。個々の事例については慎重

な検討が必要だが,例えば18世紀後半に盛んに議論された「崇高j の概念はこの時代の建

築のあり方と,その後19世紀に起きたこととの関係を知る手がかりとして注目される 。

エドマンド・パーク (Edmund Burke 1729・97 )は『崇高と美の観念の起源』の中で「崇

高」の概念を自然と結びつけて論じたが,白井秀和氏によれば,建築家ブレは「パークの

崇高の分析に深く同調し具象化することの中に,自らの,自然を作品へと立ち現すという

大テーゼへの道を見出したj という 。 1ブレにあっては,崇高なるものは,実は,自然実

現のために不可欠な条件である j 。ブレ自身は次のように述べている。 1私は芸術が自然

と抗うことのないようにあらん限りの注意を払う。私は自然の貴重な効果の数々を借り受

け,これらの効果を芸術に適合させる 。 そして,自然の付与の恩恵によってこそ私は,芸

術を崇高性へと高める方法を明らかにするのである 。 J (白井175)

ブレの巨大な幾何学建築は理性の時代における自然認識の枠組下で,建築の居場所,主

役としての座を見出そうとする試みのひとつであると見ることもできるだろう 。 しかしそ

の試みが巨大建築という形をとらざるを得なかったことに理性の時代の臨界点が垣間見え

る。ニュートンの名で象徴される理性の形は,崇高という,人間の内からあふれる感情に

よってはちきれんばかりに見える。実際, 18世紀末頃から差異と同ーの体系はその限界に

28

達し,自然の全体を象る独占的な地位を失う 。 しかし破綻をきたした体系の間隙に新たな

概念が生まれ,それを基盤に 19世紀的理性が改めて再構築される。フーコーはその新しい

概念を「意志」と「生命」と「労働」の 3 つに集約させている。しかしさしあたり重要な

のは,ブレがその建築に与えた幾何学的形態はかつての全体性を失ったという事実である 。

その後もしばしば純粋形態は建築に現われる 。 しかし,それは自然をその全体性として表

現するものではなく,その部分,その影,その兆候にすぎない。 こうして建築はかつての

居場所を失う。

20世紀の建築史家ギーデイオンは 19世紀について「それ以前の時代に用いたのと同じ近

づき方をしたのでは満足な結果が得られないであろう」と述べている 。 1この時代に関す

る十分に包括的な洞見を 19世紀のモニュメンタルな建築から抽き出すことは到底不可能

である」。そしてギーデイオンは 19世紀建築史記述の主題として,作られた建築それ自体

ではなく,むしろ「建築的可能性」を取り上げる 。 1 しかし,われわれは,ここでは,こ

の時代の新しい建築的可能性について 人知れず時代の深みから芽生えてきたような発展

に関心を払うことにする J 。 こうして記述はまず「近代技術」から始められる 。

確かに 19世紀の建築はもはや「全体j ではなく,ただ「可能性j として存在してきたの

だと見ることもできるだろう 。 そのとき主役は「近代技術J となる 。 もちろん建築は「芸

術」としての地位も保持し続けていた。 しかし, 20世紀の美術史家フォークトは次のよう

に述べる。 119世紀はもはや特定のくみずからの〉様式をもたないため,これを探し求め

なければならなかった。 ただし,こうした追求に参与したのは,建築にたずさわるすべて

の人々ではなく,狭い意味での建築家のみであった」 。 ここでも 19世紀の建築はまず「探

求j として述べられる。しかし 「芸術j としての建築はあまり成績が芳しくなかった。 19

世紀において芸術家とはまず傑出した独創性,特異な創造力の持ち主である 。 それはむし

ろ理性に対置される 。 芸術は理性では捉えきれない何ものかを捉えるもの,芸術家として

生まれてきた人間の着想の閃き,魂から発する真理を表現するものと見倣される 。 その花

形はむしろ画家,作曲家,詩人であった。

19世紀におけるこうした状況に対してフイッシャーは建築の場を取り戻そうとしたのだ

と考えることもできる 。 そうだとすれば,建築がまだ自然の表象であった最後の時代, 18

世紀が引き合いに出されるのはむしろ当然と言えよう 。 フイッシャーは「自然な感覚j を

再び取り戻すことを主張しながら,かの 18世紀人ルソーに言及し,ルソーは倫理的動機か

ら「自然への回帰」を求めたが われわれは「芸術」のために「自然」に帰らなければな

らないと述べている 。 しかし帰るべき「自然」はもはや 18世紀の,あの理性によって象ら

れた「自然」では有り得ないだろう 。 それは 19世紀の認識,分断された同一性と差異性の

体系を「生命j の概念で再び統合しようと試みる世紀の「自然」でしかありえない。

フーコーによれば,博物学から近代の生物学への移行は「有機的構造」という概念の導

入とともにはじまる 。 生物はもはやそれぞれの形態学的特徴によって分類されるのではな

く, 1機能という目に見えぬ明確なもの」を基盤に分析される 。 ここに,機能的システム

としての有機体という生命体の定義が成立し,以来他のすべての区分はこの「生命」の下

位区分となる 。 こうした有機体概念は生物学だけでなく,哲学,美学にも色濃く反映して

いる。とくにドイツ・イエナの文学グループは,有機的形式概念を文学論に適用し,これ

を芸術家の精神の内なる声と結合させて,ロマン派美学を形成する 。 詳細は別稿に譲るが,

29

フイッシャーの自然概念にはこのロマン派文学理念の強い影響も認められる 。

フィッシャーの「絵画的」あるいは「自然な感覚」の概念は, 19世紀近代の建築のあり

方に対する不満から, 19世紀的世界そのものに対する批判をはらみつつ醸成されたものと

考えられる 。 しかしその批判はあくまで 19世紀の認識の世界の内でなされている 。 そのた

め,改革の試みは過去の世界への回帰の様相を示す一方で,むしろ 19世紀近代をその全体

性において具現するものとして立ち現われてくる 。 こうした両義的なモーメントは20世紀

初頭のモダニズム運動そのものにも通底すると考えられる 。 その可能性と限界については

別に論じる 。

註 フィッシャーは弟子の一人をパウハウスに送り,またパウハウスの閉鎖の危機に際 し

ては擁護もしている 。

参考・引用文献

拙稿「都市,空間,比例 テオドール・フイッシャーの建築理念についてJ r史標J 第7

号, 1992年3月

拙稿「近代建築表現の形成過程に関する研究 その 3 -5 J r 日本建築学会大会学術講演梗概集J 1992年8月, 1993年9月, r 日本建築学会関東支部研究選集j 1993年7月

拙稿「ブルーノ・タウトのフ イツ シャ一事務所在籍時代の図面についてJ r 日本建築学会

大会学術講演梗概集J 1994年9月

拙稿 120世紀初頭ドイツの建築改革運動に関する研究 その 1 -2 J r 日本建築学会計画系論文集』 第464号, 1994年10月,第474号, 1995年8月掲載予定

レオン・パ ッ ティスタ・アルベルテ ィ『建築論j 相川浩訳,中央公論美術出版 1982年(執

筆1443・52年頃)

ジャン・スタロビンスキー 『自由の創出j 小西嘉幸訳,白水社 1982年 (原書初版1964年)

白井秀和 íEι. ブレの建築 (論)における崇高性の問題J r 日本建築学会論文報告集J

第330号, 1983年8月

ミシェル・フーコー 『言葉と物j 渡辺一民他訳新潮社 1974年(原書初版1966年)

ジークフリート・ギーデ イ オ ン『時間・空間・建築j 太田賓訳,丸善 1955年 (原書初版

1941年)

アドル・マ ッ クス・フ ォ ークト r 19世紀の美術j 千足伸行訳,グラフ イッ ク社 1978年(原

書初版1971年)

30

a ・ 6)

中・近世ドイツ語圏の建設関連史料試訳 2-2

レミギウス・フェッシュの雇用契約書(1495年)

(Gsellen vrloben)

44 Item was gsellen er halt wo einche weren so von

45 bephel vogt schaffner vnd rat im bepholn wurd

46 ze vrl�en sol er mit f�en tun es sy was vrsach

47 das woll.

b・ 6)

安松孝

同人がどのような職人を雇用していても、幾人かの者が、フォークト、シャフナ一、市参事会の

命により、同人に解雇するように命じられたなら、どのような理由であれ、同人は適切にそれを

行なわなければならない。

a・7)

48 Item er soll kein buw f�emen nocht� dann der im

49 vs bephel schaffner vnd ratz bepholn wurt doch nit dester

50 minder sol er in sin ratschlag was er ye bedungkt nりtdurfft

51 vnd das 凶tzest sin nit verbergen sonder ze allen molen

52 f�schlahen vnd ze erkonnen geben.

b-7)

シャフナーと市参事会の指示によって同人に命じられたのでなければ、同人はいかなる建設も着

手したり実施したりしてはならない。とはいえ同人に必要と思われることや、きわめて有益であ

ることは、助言の際に隠さすことなくその都度申し出て、知らせなければならない。

a・8)

(Diener ze haben)

53 (S・め Item wir gonnen im ouch mit disem brieff wenn man

54 emstlich buwt das er inn sinem hus haben mog zwen

31

55 diener denen man souillon geben sol all wuchen als andem

56 gesellen vff der h�ten der ein sol ein tり,wlichergsell sin

57 so das gnugsarポ konne vnd sin werck vmb den lon erschief

58 als ander t�lich gsellen vff der h�ten der ander sol sin

59 einjunger oder ler gsell der ouch darzu gnug starck schicklich

60 vnd t�lich sye

b・ 8)

(徒弟を持つこと)

* gn�sam

われわれはまた、建設活動が盛んに行なわれている場合は、ヒュッテのほかの職人と同額の賃金

を毎週与えるべき 2 人のディーナー[徒弟(奉公人) ]を、同人が自宅に持つことができること

を、この文書によって同人に許可した。その 1 人は、十分な能力があり、ヒュッテのほかの有能

な職人と同様に、賃金を得て制作物をうまく造り出す有能な職人でなければならない。もう 1 人

は、それに対して十分に頑健であり、器用で有能であるユンガーあるいはレール・ゲゼ、ル[とも

に徒弟]である。

a ・ 9)

(Nitmer ge路11en haben 也nnim befholen)

61 Item er sol1 ouch niemant vff der h�ten halten

62 noch vffnemen denn solich gese11en die do k�nen stein

63 howen vnd schicklich sy syent frombd oder heimsch

6 4 er sol ir ouch vff der hütten 凶t mer lassen denn* alsvil

65 im ouch zu yetlicher zyt von einem vogt schaffner vnd

66 rat zo Tann gegont w�t zehaltend

(furdem gesellen)

67 doch gselln die do wandlen mag er die woch us so man

68 stattlich vff der h�ten wergkt vntz vff den nehsten* lon

69 furdem vnd denn furer lassen wandlen als dann dar inn

70 h註tten recht vnd eins meisters harkomen vnd gewonheit ist

b・ 9)

(命じられた以上の人数の職人を雇用しないこと)

*dess

*necsten (!)

また他所者であれ地元民であれ、石材を切ることができる適切な職人以外の者を、ヒュッテに受

け入れて保持しではならない。同人はまた、その時にタンのフォークト、シャフナ一、市参事会

32

によって許可されている人数を越えて、彼ら[職人たち]ヒュッテに留まらせてはならない。

(職人を雇用すること)

しかしヒュッテで盛んに工事をしている場合は、 ヒュッテの法および親方の伝統と慣習にしたが

って、同人は遍歴する職人をその週を通じて賃金[支払日]まで雇用し、その後さらに遍歴させ

ることができる。

a・ 10)

(Gesellen in cost)

71 Vnnd wa redlicher g間llen -die dann vff der h�ten stunden

72 vnd do zu geschickt vnd wol stein zu der nötdurfft 恒inden*

73 hりweneiner zwen, oder mer weren die lieber by meister

74 Rumeyn inn siner cost sin welten vmb ler* oder 匙回路~*

75 (8.9) kunst willen dann 組 eimwurt oder anderswo zeligend wie do

* kunden

*der 料vm

77 meister Rumey mit den * solben gesellen vberkompt vnd die in sin * dem

78 herberg vnd cost nimpt das sol vnd wollent wir im wol gunnen

79 vnd in daran nit hindern doch das er vff der h�ten ze yetlicher

80 zyt nit mer gesellen hab dann im gegont w�t vnd t�lich

81 ouch als vorstat.

b・ 10)

(住込みの職人)

そして、ヒュッテで働いてきて、それに対して熟練しており、必要に応じて石材を切ることがで

きる 1"-'2 人程度の職人が来て、修業あるいはクンストのために、宿屋やそのほかの所に寝泊ま

りするよりは、むしろルマイ親方のもとに住込みになることを望むなら、ルマイ親方がその職人

と合意し、彼らを住込みで受け入れることを、われわれは同人に許し、同人をこの点について妨

げるべきではなく、またそうするつもりもない。ただし同人は、その時にヒュッテにおいて彼に

許可されている以上の職人を持たず、また前述のように[その職人たちは]有能でなければなら

ない。

a・ 11 )

(Gesellen vmb kunst dienen)

82 Wer ouch sach so m組 ernstlich ze buwen* hett das ein gsell

83 oder zwen so vff der h�ten f� den h�tenlon t�lich weren

84 zebruchen meister Rumey vmb einch* stuck oder kunst willen

85 dienen welten die mag er zu im nemen vnd deren der kunst halb

33

* zebuwen

* einchs

86 gewyes田ndoch das darumb nit mer 吋fder h�ten gehalten

87 werde* denn im ie bepholhen*キ wurt vnd das die gnugsam t�lich vnd *werden

88 geschickt syent 料 bepholen

b・ 11 )

(クンストのために奉公する職人)

建設活動を盛んに行なわなければならないときには、ヒュッテにおいてヒュッテの賃金で雇用す

るに植する能力のある 1 人あるいは 2 人の職人が、ある作品あるいはクンストのためにルマイ親

方に奉公することを望むなら、同人はそれらの者を自らのもとに引き受け、クンストのために彼

らを教えることができる七ただしそのために、同人にその都度命じられている以上には[職人た

ちは]保持されてはならず、またそれらの者は十分能力があって腕がよく[なければならない]。

d・ 11)

A. 第8 ・ 10 ・ 11項の関係について

第10 ・ 11項はクンストを学ぶことを望む職人を、フェッシュ親方が受け入れることを許可する内

容であり、重複しているようにみえる。さらに第8項でフエツシュ親方に許可された住込みの徒弟

(奉公人)の内、 1人は職人として働く者であって、第10項が欄外の付記の通り住込みの職人の規

定であるなら、これも重複していることになる。規定内容を整理すると:

表 フェッシュ親方に許可された雇人

項目 呼称 条件 人数

第8項 Diener (徒弟・奉公人) ヒュッテの他の職人と同等・住込み 1人

向上 通常の徒弟・住込み 1人

第10項 Geselle (職人) 修業やクンストのために住込みになることを希望 1"'2人程度

ヒュッテでの仕事に能力のある職人

第11項Geselle (職人) 作品やクンストのために奉公することを希望 1"'2人

ヒュッテでの仕事に能力のある職人

第8項と第10項は、フエツシュ親方の家に住込みであることが明記されている。第11項は住込みと

は言っていないが、 rdienen 奉公するJ r zu im nemen 自らのもとに引き受け」という言い方

からみて、第11項の職人も住込みである可能性が考えられる。いずれも住込みであるとすれば、

住込み職人には3種類のタイプがあることになるが、その差異は判然としない。第10 ・ 11項はいわ

ゆるクンストディーナーに該当するが、第11項の方にだけ親方による教育が明記されている。第

10項は、遍歴職人の雇用を規定した第9項と「そしてJ という接続詞で結ぼれており、遍歴職人が

親方の家に住込みになる場合を規定しているのかもしれない。 r宿屋J への寝泊まりに言及して

いる点も、この項目が地元の職人に関するものでないことを示している。(つづく)

34

イタリア中世山岳都市を訪ねて( 1 )

輿水結子

今春、新緑が太陽に肱しいイタリアのラッツイオ、トスカーナ、ウンブリアの 3 州に点

在する中世山岳都市を巡る視察 ( ? )旅行に参加した。 トスカーナはイタリアの中でも、

その田園風景の美しさには定評があり、新緑や花々に彩られたこの季節でのパスの窓から

の眺めは、すばらしい自の保養となった。 この旅行は、主には中世からの山岳(岳上)都

市を視て廻ったが、その他にも、ローマやフィレンツェのような古都、ルネッサンス期の

ヴイラや庭園等も見学した 。 以下に、その見学コースを示す 。

EZ圃・E夜画幅ーーーーーーーーーーーーーーーー -1I~]~LAiiÐJr;耳J~.iII -I''''Li~五司

尾根に治った山岳部市、大聖堂、カンポ \\ 尾根に治った旧都市と新都市広場、バラッツズ・ブブリコ。 ヴ

4A

ツテ

ヲン

ラポポ

て/、

、チオ

宝イキ

一アy

大メエ

市部上E

るJe、つ&

M

災uの世中

アドリア,勾

市立美術館でピエロ・

デラ フランチェスカ

のルネサンス期信画を

鑑賞。

-F聞K'.M::;f己圃・

斜面上都市 ニノニョリ

7広~‘J(ラ yツ~

デイ ・コンソリ、 /(

ラッツ A ト ヮカ レ、

古代ローマ刷出。

."・... ~岨圃台地上の山岳部市、大

聖堂、サン ・ バトリツ

イオの井戸 [二軍蝶施)

l'i山上 ,\11市サン フ

ランチェスコ聖堂‘ザンヲ ー キアラ聖堂、ロy カ ・ 2ジ 弓ーレ

ヴィラランテ{宮殿、

陸軍)), パルコ ・ デイ・

モストリ(ポマルツォ

にあるオルシ一二軍ヴ

ィうの庭園l.フェレン

トの古代ローマ劇場。

• ー. -

尾恨に沿った山岳小郡市、パラッツズ ・ 塵上の山岳小都市

ファ Jレネーゼ(宮殿‘庭園、蛾施階段)

力ステッリロマーニ {アルパーノE陵の将軍部市、ヴィラ ・アJレドプラ

ンデイ ニ(宮殿.庭園)

図 l

これらの山岳都市の中で、今回はまずカルカータとビティリアーノの 2 つを紹介する 。

圃カルカーターその歴史と現在一

カルカータは、エトルリア人の集落を受け継ぎ中世に栄え、現代にそれらの原形を留め

る最も歴史的な集落都市の一つに数えられる。そしてカルカータの集落都市構造、

及びその歴史は、この地域の集落都市形態を集約する典例として、近年注目され始め

ている 。

その位置は、ローマより北西にあり、エトルリアーローマ期、及び中世を通じて、カッ

シア街道のマッザーノ・ロマーノ (M a z a n 0 R 0 m a n 0 )とフラミニア街道のスタ

ピア (Stab a) を結ぶ地方道の宿場町として栄えた 。

35

カルカータは、この地方道と交差するトレイア渓谷 (T r e a) に突出した台地の上

にあり、対岸には、カルカータ先住民の残した塔とカザーリ(集落)の跡( トーレ・フ。ツ

サン)が今も残っている 。

中世カルカータの集落都市構成は、領主の宮殿及び城壁、城門、 3 つの教会に L字状の

広場、そしてカザーリ(集落) である 。

それらの建物は、エトルリア人達の洞窟住居群の上に建てられ、エトルリアーローマ、

そして中世初期には、それらの洞窟住居群と地上の建物が一体となって集落都市を構成し

ていたと考えられる 。 一(写真 1 )→文献 3

現在、カルカータは 5 0 戸も世帯が無いぐらい小さな街である 。 トーレ・プッ

サンを横目に、かつて城門であったアーチを抜けると、そこにはこじんまりとだ

が、非常にゆったりと人々が暮らしている広場へ出る 。 広場と言うにはあまりに

も小さな空間であるが、街の憩の場になっているのは確かなようである 。 街の中にあ

る家の数ほどの世帯は無く、随分空き家も見られる 。 広場を中心として、四方八方に狭い

路地が街の外へ向かっている 。 路地の向こうの光に誘われて進んで行くと、 15m も行か

ないうちに、すぐ下が切り立った崖になっている自然の城壁に出る。進んで行くと、崖で

はなく、いつのまにか他所の家の庭に出るような路地もある。このように、 1 5 分もあれ

ば、街全体が見ることが出来る小さな街である 。

ある路地で、改装中の建物の前を通りかかったので、工事の人に何故改装をしているの

かを尋ねた。 彼が言うには、その建物は来月から街のコミュニティーセンターとして使わ

れるということであった。 このように小さい街でも、文化度が高い、さすがイタリアと感

心していた。そう思いつつ歩いていると、 3 0 代の個性的な女性とすれちがい、言葉を交

しているうちに、彼女がオランダ人の人形作家であることがわかり、彼女のアトリエを見

せてもらうことになった。 そこは、アトリエと店が一緒になっており、彼女の家はまた別

にあるそうだ。ここで、先程のコミュニティーセンターの件が理解できた。 ここカルカー

36

タは、何年か前から、様々な国 (主にヨーロツノ'\)の芸術家達が移り住み、その活動の場

としているのである 。

このようなことが起こるのも、カルカータの持つ魅力ゆえである。こじんまりとしていて

質素だが、外界の俗世と隔絶された、ゆったりと時が流れる静かな街、中世からあまり

時を経ていない街、これがカルカータなのである 。

.ピテイリアーノーその歴史と今一

ピティリアーノもまた、カルカータと同様に、エトルリア人の街を引き継いだ街である

それは、近隣の領土から発見された多くの墓(ネクロポリ)によって、また、街の建って

いるエトルリア人達の洞窟住居の穴によってもわかる 。

現存しているピティリアーノについての正式な記録によると、 106 1 年の 4 月 2 7 日

に教皇ピッコロ 2 世の命によって、ピティリアーノのそばの、やはりエトルリアーローマ

からの街であるソヴァーナに聖堂参事会長が派遣された時に、ピテイリアーノもその教区

に指定された。 そして、他の中世都市と同様、都市同士の戦いや競争で栄え、 1 3 世紀は

一応アルドプランデイーニ家の所有であったが、 1 3 世紀末にローマのオルシーニ家出身

である教皇ニ ッ コロ 4 世の甥のロマーノとアルドプランデイーニ家最後の相続人アナスタ

シアとの結婚によりオルシーニけの領土となった。その後は、フイレンツェ、メデイチ、

トスカナ大公など様々と領主が変わり現在へ至る 。

その形態と街の主要建物を以下に示す。 (図 2 )

国a

M

-

9

0

図 2

1.オルシーニ家の城塞

(アントニオ・サンガロ設計)

2. 要塞化されたカピソ ッ トの

塔のある門(入口)

3. オルシーニ家による水道

(サンガロ設計)

4. サンタ・マリア教会

5 . サン・ピエトロ・エ・パオロ大聖堂

6 . ユダヤ人礼拝堂残存部分

7. ヘプライ系無酵母パン工

8. ソヴァーニ断崖

9. プルスカルピ宮殿

1 O. 広場

37

地図からもわかるように、ほほ東西に細長く伸びた都市である 。 岳上都市の単一尾根型

の都市で、ドゥーモ広場を通る東西の中心軸が一番レベルが高い。 (図 3 参照)中心を通

る道を含め 2 、 3 本の太い道以外は、両崖側に向かつて下る細い路地ばかりである 。 しか

も、南北方向は 1 001位しかない。 東西方向も 5 001 以内に納まる長さで、我々の頭

にある「都市j の観念からは程遠い大きさである 。 しかし、有力貴族の所有地であったた

め、図 2 の主要箇所を見ると、水道や比較的立派なドゥーモがあり、よく整備された街と

いう、印象を受けた。主要道を歩きながら左右の路地を見ると、両崖に抜けている路地は

隙聞から光が見えて、路地の良さが実感できる 。 図中の 1 0 の広場は、両側が抜けている

珍しい広場である 。 また、岳上都市には珍しい、ユダヤ人街 (s nagoga) がある

のも、ここの特徴である 。 このように、特異な地形をうまく生かした街造りをおこなった

ことが地図から、そして歩くことからわかる。

Pitigliano, Val di Fiora

<主要参考文献> ι図 3

1. GIOVANNI FANELLI , FRANCESCO TRIVISONNO ,

‘ C t t a A n t c a i n T 0 s c a n a

Sanson Ed torw , F renze , 1982

2. EDOARDO DETTI e t.,

45

‘ C tta murate e sv luppo comtemporane

Ediz on C. 1. S. C. U , Mi lano , 1968

3. I語りかける中世:イタリアの山岳都市・テベレ川流域」

大谷幸夫ほか、都市住宅別冊 集住体モノグラフィ J 3 、鹿島出版会

4. Gida rap da d' Ital ia 4 ,

‘ Laz 0 , Abruzzo , Mo 1 se , Sardegna'

Tour ng Cl b Ital ano

5. gu da tur st ca ‘ PITIGLIANO

38

『マーナサーラ』の建築法則

~その 5 ・『マーナサーラ』における『建築』の分類と単位体系~

黒河内宏昌

我々が『マーナサーラ』に初めて自を通した時の疑問は、 (1)宗教に関わる記述がきわめ

て多いこと、 (2)建築設計方法の規定内容がきわめて雑多で、錯綜しているように見えるこ

と、であった。

前稿および前々稿では、この(1)の問題について若干の考察をしてみた。その結果、 『マ

ーナサーラ』がヒンドゥー教の神学と建築法則の聞を、特有のシステムにより密接に結び

付けていることがわかった。両者の結びつきは、ヒンドゥー教のエッセンスとインド建築

の根本的な設計理念の接触とも言える。たとえば、 『マーナサーラ』は神々のパンテオン

を敷地に宿らせるために、ヒンドゥー教世界の縮図であるマンダラを用いるが、乙の建築

用マンダラは、敷地の幅と長さを等分割した格子上に描かれるきわめて特殊なマンダラで、

建築設計の基礎となる単位格子の概念に通じている。また占星学的な建築の吉兆判断は、

都市や建築の全体規模の数値を用いて行われるが、全体規模は建築の設計においてまず最

初に決定され、すべての細部寸法を導き出す基本となる寸法である。このようにヒンドゥ

ー教神学と建築法則は、両者の根幹の部分で、巧みに関係付けられているのである。

一方(2)の問題は、建築設計方法独自の問題といえる。11'マーナサーラ』の英訳・解題を

行なった Acharyaは、この建築書はきわめて広範囲の対象(南北インド全地域の建築様式)

を体系化して規定していると述ペているが臨}、どのように建築が体系化されているのか

を整理しなければ、内容が把握できないのは当然である。しかし『マーナサーラ』の建築

の体系化を詳細に検討した既往研究は、現時点でもまだない。

本稿ではまず、 『マーナサーラ』が対象とする(広義の) r建築J とは何であり、それ

がどのような項目立てで記述されるのか、またその分類に関連する単位体系の相違と、そ

の背景についてを述べてみたい。

1. rマーナサーラ』における『建築』の定義

『マーナサーラ』第 3 章「建築の分類」ではまず、この本が扱う建築としての対象につ

いて、

「土地、大規模建築 {har町a(都) }とその他の建築、乗物、寝台とその他の寝椅子が、

(建築としての対象の) 4つの分類である。 J (第 3 章「建築の分類J 第 3 行目、 o 内 Acharya付加、 {}内筆者付加)

と述べている。すなわち『マーナサーラ』は、敷地、建築、乗物、家具をあわせて広義の

「建築J と考えていたのである。

しかし『マーナサーラ』の全体構成は、これら 4つの分類(次頁表 1 . A) だけでは充

分に言い表わすことができない。11'マーナサーラ』には建築内外に安置される彫像の規定

(第51,.....70章)がきわめて膨大にあり、この彫像もまた広義の「建築」に含まれる重要な

要素(あるいは上述4要素のいずれかの中に含まれるのかもしれないが)であると言えよ

つ。

また上述4つの分類要素のうち建築に関しては、より細かな項目立てが必要とされる。

39

まずーっの項目立てとして、建築単体、 (建築単体の集合としての)建築群、 (建築群の

集合としての)都市の分類(表 1 . B) が挙げられる。またもう一つの項目立てとして、

記堂、門、マンダパ、住宅、王宮といった各建築種類による分類(表 1 ・ C) が挙げられ

る。

|肱仏側|ば酬| C 建築種類別

-浬峰崎市岬清司喧津市坤崎嘩盟諸店時晴晴嘩時時崎市早盟諸喧嘩暗嘩暗暗暗埠埠埠偉埠時嘩暗暗崎市時指揮偉埠崎市峰崎幡市四埠噂偉暗暗嘩雄時崎市ヰ嘩埠暗暗暗嘩峰崎晴

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ダ築

堂ン宅建通宮

各建築共通配門マ住各共王

都市建築単体群

. 単体

一ーっ群

ー 単一一固 体

.群

. 建

: 築

乗物

: 家

- 具

敷地

章タイトル

目次建築家の資賓と寸法体系建築の分類敷地の選択土壌の検査貴闘E削船tJIIt削陶雌建築マンダラマンダラ八の供物村落街と城塞建築の規模基礎基台基座柱エンタブラチャーと屋綬継手仕口建築の全般的特徴1 層建築2 層建築3層建築4層建築5 層建築6 層建築7 層建築8層建築9層建築10層建築11層建築12層建築敷地境界壁従属神の配堂などの配置門左翼量マンダパ住宅住宅配置入居式扉扉の寸法王宮王の資質王の序列と資質車と戦車寝椅子、寝台、ゆりかご御座アーチ主御座台装飾樹王冠装身具と家具3大神リンガヨニ女性神ジャイナ教彫像仏教彫像賢人像神聖物の彫像信者像鳥ガルーダ牛獅子彫像の比破寸法最大型10タ ーラ寸法中間型10タ ーラ寸法垂緩からの寸法彫像のワックスが付誤った建造の罰開眼

40

『マーナサ ラ』全体調摩成と項目分類表 1

2. r建築』と単位体系

『マーナサーラ』における「建築」の各項目には、設計方法の視点から見た場合、用い

られる尺度が異なるという、根本的な相違がある。

表2 は『マーナサーラ』に述べられている単位の体系である。指尺(出沼ula) の 3 種類

(1 自宅ula= 6 、 7 、 8yava) については、その使い分けは記されていないが、 4種類の

肘尺については、用いられる対象の相違が規定されている。それによると各肘尺は、

( kishku = 24angula 乗物と家具、またはあらゆる対象

( prajapatya =25田明Ila 住宅

創畑町一mushti =26叫ula 大規模建築

ωhan町 graha ニ27叫ula 都市

となっている。これらは表 1 ・ Aの分類上では、①一乗物、家具、@渇児島一建築であり、

これにより建築と乗物&家具に使用される肘尺が区別される。次に後者は表 1 ・ Bの分類

上では、④一都市、~-建築群、建築単体となり、建築群の規模に応じて肘尺が区別さ

れる。そして最後に後者を表 1 ・ Cの分類に乗せると、②-住宅、③その他の建築となり、

建築の種類仁応じて肘尺が区別される。乙のように『マーナサーラ』に示された 4種の肘

尺は、 『マーナサーラ』における「建築」の分類や項目立てにそって区分することができ

る。

複数の長さの肘尺は、他の南インドの伝統的建築書にも共通して述べられている。 B.Da

gensによって英訳・解題された『マヤマタ』では、まったく同名同換算値の4種類の肘尺

が見られる臨)。ただし『マヤマタ』では、①乗物、家具、③建築、④都市となり、②

の対象は述べられていない。同じく Dagensによる『アジターガマ.!l Ii'ラウラヴアーガマ』

では 3種類の肘尺が見られ倒) 、 ①乗物、家具、②プラーサーダとマンダパ臨}、③王

宮、都市、貯水池となっている。しかしいずれにせよ、これらは建築と乗物&家具、建築

の規模と種類の分類と解され、 『マーナサーラ』と同ーの区分と考えられよう。

3. 異なる単位長が用いられる理由

対象により用いられる肘尺の長さが異なる理由は、簡単には解明出来ないが、乙こでは

設計方法や施工の観点から、その理由として考えられることを一つ示しておこう。

『マーナサーラ』は対象の規模が大きくなるにつれ、長い肘尺を適応するように規定し

ている。Ii'マーナサーラ』では対象はまず、実長で全体規模を指定されるが、これを用い

れば、たとえば同じ r4肘尺J という指定でも、 「部屋の壁内法=4肘尺」と「家具の幅

二 4肘尺」では家具の実長の方が若干短くなる。家具は建築に納められ、建築は建築群の

敷地内の指定された区画に納められ、建築群は都市の敷地内に納められる。こうしてみる

と、小規模の対象が短い寸法体系を用いることは、納まりを考えれば、誤差を吸収するき

わめて合理的な方法であると考えられる。もし誤差や納まりをあらかじめ考慮して寸法指

定をするならば、たとえば「家具の幅=3肘尺21指尺J などの煩雑な寸法数値規定が必要

となり、それは膨大な建築書の規定内容を、さらに複雑化する乙とになるであろう。

Dagens (1註7) は『アジターガマ.!l Ii'ラウラヴァーガマ』において、実際の設計では①の肘

尺のみがすパての対象に用いられたのではないかと推測している。この説の根拠は、建築

書に別案として①の肘尺をすべての対象に用いてもよいことが付記されていること、建築

41

書のほとんどすべての記述内容が、 1 肘尺=24指尺の関係で換算されているという 2 点で

ある。そしてこの 2 点は『マーナサーラ』でもまったく同様に見られる事柄である。

しかし筆者は、 『マーナサーラ』をはじめとする各建築書の記述は、必ずしも①の肘尺

だけを対象として書かれたものではないと考える。 24、 25、 26、 27指尺で4種類の肘尺の

長さを決定したのちに、これらを24等分して各々新たな指尺を設定するのであれば、建築

書の記述は守られる。すなわち、建築大工と家具大工は各々、 1 肘尺=24指尺と刻まれた

長さの異なる肘尺を持って設計施工に当たったと考えるのである。そうすれば各部の計画

に際して、統一的な単位換算体系とそれによる簡潔な数値規定を用いながらも、上述した

納まりの便宜を自動的仁実現することが可能となるのである。

このように『マーナサーラ』の規定方法は、規模を考慮した「建築J の分類を行ない、

それらに異なる長さの単位長(肘尺)を当てはめ、統一的な単位換算体系とより単純化さ

れた規定数値を用いることにより、納まりよく誤差を吸収する設計施工を実現するという、

きわめて合理的なシステムであったと考えられる。

単位名 単位名の意味 換算値 適用

paramnu 無限小の艶子、原子

ratha-dhuli 車一息 = 8 para岨nu

valagra 毛の先 = 8 ratha-dhuli

liksha シラ ミ の卵 = 8 valagra

yuka シ、 フ一 ミ、 = 8 liksha

yava 大麦 二 8 yuka

angula 指、親指、指幅 二 6 yava

angula H = 7 yava

angula 11 = 8 yava

Vltastl 先広聞げのま距たで掌降の距の、親手鯵指首~か小ら指指 =12 angula

kishku |腕 | =2 viusti(24angula) |輸らゆ、る対家象具;あprajapatya Prajapati から下賜さ I = 2 vi tasti + 1 angula I 住宅

れた(肘尺 (25angula)

dhanur-皿shti I 弓の柄?

dhanur-graha 弓の手?

danda 棒尺

raJJu 綱、 (8 肘尺?)

表 2 rマーナサーラ』の単位体系

二26 個別la

ニ27 angula

二 4 dhanur-圃ushti

= 8 danda (hasta?)

大規模建築

都市計画

(註 1) Wlndian Architecture According to Manasara Silpasastra~ (Manasara

Series vol.2) , P.K.Acharya, pp.130~133 (註 2) Wマーナサーラ』第 3 章第 7~8行目では大規模建造物として凶r町aという単語

が用いられている。

(註3) Wマヤマタ』第 5章「寸法体系j 第 2~l1a行

(註4) W Archi tecture in 出e Ajitagama 田ld the Rauravagama~ , B. Dag叩s, 1984,

pp.13~14

(註 5) これらの建築書では、プラーサーダは 6層の寺院建築、マンダパは 3 層のパピリ

オンと規定されている。

(註 6) Dagens, p.14 42

東南アジアの寸法体系について

高野恵子

東アジアで一般的に用いられている尺貫法が,もとは身体尺に基づいていたことは周知

の事実であろう。欧米で用いられているヤードポンド法も,成立時期や基準となった部位

寸法は異なるとはいえ,やはり身体尺に基づいた寸法体系である。東南アジアを訪れると,

現在の日本と同様に日常的にはメートル法が用いられているが,特殊な場面では伝統的な

度量衡,即ち身体尺に基づいた体系が用いられているのを見ることができる。

ダイ族やラオ族の大工達は,しばしば彼ら独自の伝統的な寸法体系について説明してく

れる。それぞれの単位長の名称は,主にその基準となった身体部位の名称を宛てており,

その体系に基づいて彼らの住居は建設されているのである* 10 Ii'マーナサーラ』はもちろ

ん,東南アジアに居住する様々な少数民族においても状況は同じであるが,それぞれの民

族(もしくは文化)が基準として用いる人体各部位や,単位長聞の換算値には若干の特徴

が見られるように思う。個々の報告は様々な形でなされているが,それをまとめたものは

ないので,整理のためにこの場を借りてそれぞれの特徴を考えてみたい。

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*1拙稿「ダイ・ル一族の住居設計方法について 1 ・ 2 J (史標16 , 17号)参照

43

『マーナサーラ』に見られる寸法体系は,塵から無限に近いものまでが揃えられている

が,極端に小さな,あるいは大きな寸法単位は建築には直接関係するとは思われず,実際

の建築物に関する記述にも出てくることはない。ここではあくまでも建築に用いられそう

な単位長を取り上げることとする(ただし,ピルマと『マーナサーラ』との類似性を明確

にするため,指幅よりも小さな単位長を取り上げた)。

・インド建築書『マーナサーラ』等に見られる寸法体系の特徴

インドの古代建築書として名高い F マーナサーラ.ll ,インド中世の数学書 r リーラーヴ

アティー』叫等の古文献には,無限小寸法から無限大寸法までの多くの単位長が精密な換

算値とともに記述されている。

実際に人体に直接基づくことのない観念的な単位長(毛髪幅,胡麻幅等)聞の換算値は

一定して 8 進法を取るが,指幅から尋に到る極めて実際的な単位長聞は,現実味を帯びた

換算値によって指定されている。即ち,ほとんど同じ人体各部位寸法から生じた中国の寸

法体系が, 10進法に適合して発達する過程で実際的な部位寸法長を捨て去り,更に普遍性

を獲得するために人体以外のもの(黄鐘による音律)に基準を求めて合理性を追求したの

に対し,インドの寸法体系は人体部位寸法とそれに基づいた単位長とを完全に切り離すこ

とをせず,客観的な原器(身体以外のもの)を持たなかったという点で,よりプリミテイ

ブな姿を温存したまま制度として発達した体系である考えられよう。

指幅アンギュラと肘尺ハスタもしくはキシュクは記述中に極めて頻繁に現れ,明らかに

他の単位長よりも高位に置かれたものであるといえる。指幅アンギュラは 8 ヤーヴァを基

準として 6 , 7 ヤーヴァの 3 種,肘尺ハスタは24アンギュラを基準として25 , 26 , 27アン

ギュラの 4種の肘尺が挙げられているが,対象となる建築物(家具や乗り物,村や都市ま

でをも含む)によって使い分けられていると考えられる。日本でも古代においては数種の

尺が並存し,都市や宮殿の造営が行われていた可能性が指摘されているがIi'マーナサー

ラ』の記述にみられるほど明確な区別(規模や対象物に対して)は行われていないようで

ある。

インドには Fマーナサーラ』以外にも建築書が残されているが,寸法体系に関する記述

はほとんど共通しているようだ。その実長はともかく,制度としての寸法体系が普遍性を

有していたことは明かであろう。この体系はインド外においてもある程度の普遍性を有し

ていたようで,全くといっていいほど同様の寸法体系をインド外の民族に見ることができ

る。パリに伝えられる伝統的寸法体系はIi'マーナサーラ』に極めて類似したものである

判。ネパール*4およびチベット *5で用いられる寸法体系は,入手できた断片的な資料によ

*2A.D.1149もしくは1150 ,パースカラ II 世著。天文書『シッダーンタシローマニ』のー。

矢野道雄他 r インド天文学・数学集.ll (朝日出版社1980) に訳出

判野口英雄「建築と空間象徴 J (東南アジア研究22-0 1, 1984) 氏はバリのす法体系は『マ

ーナサーラ』の影響というよりはむしろ rカウテイルヤ実利論,1] (B.C.312"'300頃)の移

植であることを指摘している。

*4黒津高行「学位論文『ネパールの王宮における中庭建築の復原的研究』研究報告 J (日

本工業大学研究報告別巻91-02 , 199 1)

*5中国科学院自然科学史研究所主編『中国古代建築技術史.ll (科学出版社1985)

44

れば,用いられる人体部位,名称ともに『マーナサーラ』とほとんど同じものとなってい

る。この 3 つの民族はいずれもインドから多大な文化的あるいは宗教的影響を受け,イン

ド的世界観を強烈に有する民族である。文化の流入する際に制度としての寸法体系(度量

衡制度全体も)が移植されたことを示すものであり,インド的文化の強大さに改めて気付

かされるものである。

.Irビルマ民族誌』判に見る寸法体系の特徴

この中に記述された寸法体系は,かなりの部分を上述『マーナサーラ』に負うものの,

それぞれの名称は独特のものであり,ビルマ語に基づいたものであると思われる。

体系としては完成されたものであり,少なくとも記述による限り厳密な換算値を有する。

指幅未満の観念的な単位長に関しては『マーナサーラ』と全く同じ基準物,換算値を有し,

指幅(文中では「指の長さ J ) ,肘尺 (24指幅に相当) ,尋 (4 肘尺)も『マーナサーラ』

と同様である。注目すべきは指幅と肘尺との聞にスパンではなく,親指+拳幅( r揖指を

広げた拳の大さ J )が用いられ,そのため指幅→親指+拳幅→肘尺の換算値が 8 , 3 とな

っている点である。実際の人体部位寸法では, 2 スパンよりも 3 (親指+拳幅)の方が肘長

さに近似しており,同時に指幅→親指+拳幅聞の換算値に,より下位の単位長間と同じ 8

進法を用いることができるために選択された部位寸法と考えることができる。実際に建造

物にどのように単位長が用いられているかは文中に記述がないため不明である。

・タイの伝統的寸法体系*7

ピルマと同様Irマーナサーラ』に基づきつつも若干の独自性を加味した合理的な寸法

体系となっている。指幅と肘尺との聞にスパンを用いるのは『マーナサーラ』と同様であ

るが,ここで用いるスパンは親指~小指という,若干長いものであり,実際の人体寸法で

も 2 (親指~小指)長は肘尺に極めて近似した寸法となる。本来のスパンである親指~中指

はクーゴーと呼ばれ,他の単位長との換算値を持たない独立した単位長として存在してい

る判というが,換算値を持たないためにほとんど用いられることはないという。合理的な

寸法体系を確立する上で捨てざるを得なかった単位長であろう。

・ダイ・ル一族およびラオ族

両者とも全く同じ単位を有し,その名称も当然ながら極めて類似している。全体の体系

はタイと極めて類似するものであるが,その中に他との換算値を持たない単位長が幾っか

含まれている点で特徴的である。それはビルマに現れた拳幅を用いた単位長であり,肘尺

との換算も可能なものが含まれているが,聴取した限りではそれぞれ全く独立した単位長

として考えられている。またタイと同様に微妙な差を持つ 2 つの単位の並寄(スパン 2 種)

も見られるが,両者ともかなりの頻度で用いられている点でタイの整備された寸法体系と

は異なっている。

ここではスパン(親指~中指)→肘尺の換算値は 2 とされている。しかし実際の人体部

位寸法では, 2 スパンは肘尺に若干短く,精密さに欠ける。彼らはそのことを知ってはい

*6シヱウェイ・ヨー/園本嘉平次・今永要訳『ビルマ民族誌.!I (三省堂 1943 ,原著Yoe , Shway "The

Burman , his Life and Nations" London , 1910 , 3rd ed.)

*7石井米雄他監修『東南アジアを知る事典.!I (平凡社 1986) 参考

判聴取調査による

45

るが,実際的にはおおよその換算値を理念的に厳密なものとして取り扱っている。そのた

め計測されたものが誤差を含むこととなるが,それが建造物の施工方法に影響を与えてい

ると考えられる。

この両民族で用いられているす法体系は,非常に初源的な身体尺の概念(即ち人体部位

寸法そのもの)と,高度に整備された合理的な寸法体系とが同時に混在した,複雑な構造

を有した体系であるといえよう。

・その他少数民族*9

ここに挙げた諸民族はいずれも同地域に居住し,同一語族に属する民族である。極めて

細かく分割された単位長を有し,それを用途によって自在に使い分けているが,相互の換

算値は存在しないと報告されている。他に精密な資料がないため断定はできないが,極め

て初源的な身体尺の概念がそのまま生き続けている体系であるといえよう。

・まとめ

以上を概観すると,強大な文化圏を確立した民族,即ち国家を形成し得た民族は合理的

に組織化された寸法体系を有し , 地縁共同体的な社会組織を保ち続けた民族ほど体系と呼

べないような非合理的な寸法体系を用いていることが判る。後者に較べて前者が用いる単

位長の数が少ないのは,厳密な換算値を設定するが故に微妙な長短の差を個々の単位長に

よって表現することが不必要となり,換算しにくい単位長が捨てられていった結果であろ

う。その取捨選択の範囲は身体尺に基づく以上限られたものではあるが,そこに民族の独

自性が現れていると捉えることができる。

ここで取り上げた各民族に共通して , あくまでも人体部位に忠実であろうとする姿勢が

強くみられる。中国ではかなり早い時期にそれぞれの単位長が人体部位寸法から講離し,

それによって完全な 10進法という極めて合理的な体系を獲得しえたのに対しIiマーナサ

ーラ』では 8 進法を目指しながらも部分的に異なった換算値を設定せざるをえず,以下の

民族も全てこれに倣っている。また『マーナサーラ』に見られるように建築物の最小基準

す法として指幅と肘尺が用いられ,他の単位よりも上位に置かれている点でも共通し,日

本あるいは中国が,各単位寸法を比較的同列に扱おうとしたのと対置される特徴である。

また,ダイ族やラオ族では 1 ソークは 2 フープに等しくなるが, 1 フープは1/2ソークで

はないという証言を聴く。これは即ち,各単位長はそれ以上分割することが不可能である

ことを示しているが,ここに単位分数の存在を見て取ることができる判 O

インドの周辺諸民族の寸法体系には,何れも『マーナサーラ』と同様の要素を見いだす

ことが可能である。ピルマやタイという多数民族は明らかにインド文化からの影響を多大

に受けた民族であるが,更にその周辺に居住する少数民族がどのようにインド的文化から

影響を受けたのかをここで即断することは不可能である。また,寸法体系の実際の用いら

れ方,体系の全容に関する資料は極めて少なく,その特徴を明確に指摘するのも難しい。

現在少数民族に関する研究は進みつつあるので,今後の資料の充実に期待するところ大で

ある。

本 9若林弘子 r高床式建物の源流.!I (弘文堂1986)

*10単位分数の考え方については溝口昭則 r" 比例"論・ III-数学と非数学ー J (史標 6 )

参照

46

方位観の始源へ (4)

鳳雛村建築遺祉に関する覚書

溝口明則

1 .はじめに

股の甲骨が発見されてから百年になる。この間,中国古代遺跡の発掘調査は,専ら 「股

虚」を中心に行われてきたが,最近になって,調査の対象が周以後の時代に向けて広がっ

てきている。 1976年には 「周原」 で大規模な発掘調査が行われた。周原は周の本拠地で,

股王朝から西伯(西方の侯)として扱われた文王(ほぼ前1088'"'-'1038) とその子武王(ほ

ぽ前1038'"'-'1025) とが,ついに般を滅ぼし,新たに 「豊」 や「錆」に周王朝の新都を構え

たのちも,周王朝の重要な政治拠点でありつづけた土地である。

その年,周原の発掘で現れた建築遺祉(鳳雛村第 1 号建築基祉)は r南北全長46m ,

東西32.6mあり,すべての建物は整然とした版築土台の上に造られ」た,柱根下に礎石を

据えた木造建築であった。 r塘壁は版築によって築造され,厚さはふつう 58'"'-'60c皿 」 であ

る。また,ごく少数だが縄文をもっ瓦(棟瓦であったらしい)が発見されており,現在の

ところ瓦葺のもっとも初期に属する遺構とみられている 1 ) 。

建築遺祉の基壇下から大量の卜占用の甲骨が発見されたが,従来各地で発見された周代

刻辞甲骨の総量をしのいでいるため,むしろこの方が注目されてきたようである。ト甲の

中には,股王朝の帝乙(ほぼ前1084'"'-'1016) に犠牲を捧げることを占ったものや,周王朝

初期の大臣の名を持つものなどが含まれており,この建築の建立年代を股代末期~周代初

頭頃,およそ前1000年以前とみなす決定的な根拠になっている。また基壇上に「紅焼土」

が大量に発見され「周王朝晩期の残存物」が発見されたことで r同王朝晩期の聞に焼け

落ちたという仮説」が立てられているようである。もちろん,木造建築であるから,それ

ほど長期にわたって維持できたかどうか,不明な点も多い。

平面の形式は,図 1 に掲載したように奥行が深く,南面し,東西辺を画する「廟」や背

面の「寝j で固まれた複合建築で,中央の 「殿堂」 によって前後に区分される。建築形式

については,およそ「前朝後寝」 ないし 「前堂後室」といわれる形式と考えられている。

建築規模がそれほど大きくないことから,貴族階級の建築とも予想されているが,宮殿で

あったか宗廟であったかは,いぜんとして結論が出ていないようである。宗廟は,原則と

して宮殿建築を模して作られたため,両者に形式上の相違がないと考えられたためである

が,杉本憲司氏は,東西に「廟」 を持つことを理由に宗廟建築を予想されw'文物』の考

察を引いて周王室に関係する施設だと考えられている 2) 。

さて,注目したい点は,南北方位にわりあい精確な中軸線に沿って,左右対称の平面が

構想されながら,おそらく最も重要と思える中央の 「殿堂」 を,桁行 6 間,平入とする点

である。 r殿堂」 中軸線上には中央の柱が位置するから,入口はこれを避けて,東側に偏

して配置される。

「殿堂」前方の庭,文献から「大庭」ないし「中庭」とみなされた庭には,北面に 3 か

所,東西にそれぞれ 2 か所,いずれもスロープあるいは 3 段程の階段が施設されている。

北面 3 つのスロープは,いずれも左右対称の位置から東にずれ,側面それぞれ 2 つの階段

47

のうち,両南端の階を除いて,西面の階は北に,東面の階は南に寄っている。つまり,北

面中央の入口が東に寄ったため,これに合わせてつぎつぎに,時計回りに回転したような

配置をとっている点が目をひくのである。

以上の構成をみれば,この遺構が南北の中軸線を規準に,東西相称の形態を持ちながら,

相反するように「殿堂」桁行を偶数間とし,入口構えを東側に寄せて設けるという構成が,

きわめて意図的なものであることが明らかである。しかし今のところ,この問題に言及し

た論考は見いだせていない。

2. 南北軸の優位

拙速に考察したものだが,かつて股代の王墓について検討を試みたことがある幻。図 2

4に掲載したように,この時代の王墓(甲種 I 式大型墓)の平面形式は,すでに 4 方位の

概念が十分に成熟していたことを示すばかりでなく 4 方位の均等な価値を象徴する十字

型の,平明な平面形式を用いて「中心」を視覚的に明示するという水準に到達していたと

考えた。甲骨文字の四方風神においても,すでに報告したことがあるように幻 4 方位が

等価なものとして扱われている。そして甲骨文の中には「西北J などの表現もあるから,

股代には, 4 方位の原則的な概念が成熟していたことが確実である。

王墓を子細に観察すれば,被葬者は北を頭に仰臥する点と,東西北の三方の腕を

階段とし,南に伸びた腕だけをスロープとすることから,南北の軸線がやや優位に扱われ

ていることがわかる。枢は南のスロープから下ろされ,墓坑中央に安置されたであろうか

ただ,

鳳猿村で発掘された建築遺

祉の平面図。 南北方位に従

う奥行の深い複合建築で,

「四合院」とよぷ文献もあ

る 。 よく似ているが,もち

ろん後代の概念をうかつに

当てはめるべきではない。

塘壁の表面や家屋の内外の

床は,細砂・白灰・粘土を

混ぜた「三合土」で固く塗

られていた。 南西の「府」

床下のニつの穴から大量の

甲骨が発見され,建立年代

確定の手掛かりになった。

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周代建築基祉の平面図

48

図険西省岐山鳳雛,

ら,枢の安置ののち埋設されてしまうとはいえ,南を正面とする施設だと思えるためでも

ある。図 2 -Bに掲載した墓坑の形式(甲種 E 式大型墓)では,先の例と比較すると東西の

腕が省略された形式だが,省略とはいえ東西を等価に扱うことで I中心」の明示をかろ

うじて維持しつづけているとみられる。これは「天子南面」や,北面(して天子に対面)

することが臣として使えることを意味するという,中国の歴史を通じて守られた,主従の

位階を象徴する空間的な制の基盤となり,出発点となった考え方である。

南北軸がはやくから優位に扱われた理由は明らかではない。一般的に人類史の初期には

東西軸が早くから発達し,南北軸の発達が遅れるように思える。その原因は,太陽を媒介

に東と西が対として捉えやすいことにたいし,北は北極星が指標になっても,対する南に

(北半球ではとくに)はっきりした指標が見いだせないためである。南を方位の概念に組

み込んでいく過程では,まず,東西を対の存在として了解する,つまり二つの方向を結び

つけ,一組のものとして捉えるというアイデアの成立が要件になると思える。また,東西

を対として理解するとき,同時に両方向を繋ぐ太陽が,特別な神格として扱われる傾向も

あるようにも恩われるが,このような見方からすれば,中国古代では,太陽を特別の神格

として認識したという兆候が希薄であること,そして東西軸を優位とする傾向も,かなら

ずしも明瞭でないことに,大きな特徴があるのだといえる。

中国古代では,超越的な主宰者として,早くから「天帝J があった。太陽もまた,この

主宰者の支配下の存在にすぎなか っ た 。 北天の不動点に位置する天帝が,下天の統治者で

ある天子の特権と正当性を容認し,保証するという宇宙観は,遅くも戦国時代に文献に現

れてくるようだが,天帝という超越的主催者は,すでに股代の甲骨文に現れており 「帝j

という文字で表現される。この字型は「示」で表されるものよりもっと大きな,特別な神

卓を形象したものだといわれる 。 方神(方位神) ,雲なども 「方帝J I雲帝」のように帝

として扱われる場合があり,鳳を帝の使とする表現もあるが,このようなとき I帝」を

明確に表すため「上帝」という表現も用いられたと考えられているから,たしかに「帝J

はさまざまな神格の上位に置かれていた。方神(と風神ニ鳳)や雲など,天空に関わる神

々だけが「帝」に連なる神格とみなされたようにもみえるが,般の末期には,王家の祖霊

も「帝」として扱われるようになったといわれる。 I帝」の概念は決して分かりやすいも

のではないが,自然現象をも主宰する超越的な存在として,早期に成立していたようであ

る4)。とはいえ股代では,天空に存在するらしいという以外に,北極星の座に位置するな

ど,特定の居所が与えられていたとする記録はないらしい。

4 方位の発達と深く関わり,このシステムの発達程度の指標を示すと思われるものに暦

法がある。農耕を基盤とする国家にとって,精確な暦法システムの構築は不可欠なものだ

が,暦法システムの構築のために行われる天文観測の蓄積が,精確な方位システムを組み

立てる前提条件と思えるためである 。

股代の暦法を概観しよう。甲骨文字では太陽と一日とは同じ文字「日」で記され,十日

つまり「旬」をー単位とする暦が成立していた。同時に,太陽も十個あると考えられた。

十干は十個の太陽それぞれ,十日の一日ず、つそれぞれに与えられた名である 6) 。十個の太

陽が交代で,そして繰り返し天空を横切るのであるから,日々太陽が東で誕生し,西で没

するという見方ではない。そのためエジプトなどにみられる,東西に価値の偏差を認める

見方が発達しにくかったようにも思える。

49

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図 2 -B : 河南省安陽侯家荘,商代後期甲種 11 式大型墓の平面図と断面図

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商代の陵墓の分布略図

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図 2 -C :河南省安陽侯家荘武官村,

新石器時代,仰韻文化の時

代から南北方位を優先する

ような考え方があったよう

である。詳細は不明な点、も

多いが,殿代の王墓と,原

則として同じ方位戦に従っ

ているようにみえる 。 fこだ

仰詔文化の育は周に,竜山

文化の畜は殿と考えられて

いるから,各文化を超えて,

南北方位を優先する考え方

があったのかも知れない。

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-B

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玄争"

3 仰詔文牝(新石器時代)遺跡から出土した墓卦

50

古代中国は,太陽太陰暦を採ると考えられているが,股代では,日々王朝の各祖霊を祭

ることを優先した,一年を略355 日とする程度の暦が施行されており,閏の扱いについて

もとくに精密なものではなかったとみられている。 I一年」に相当する文字がない(甲骨

文字の「年」は「みのり」と読む)ことは注目される。とはいえ,一年に相当する概念が

まったくなかったともいい切れない。この時代の王は祭記集団の長であり, 卜占の判定が

できる唯一の存在,祭記王という性格を持っていたから,特定の祖霊の祭りを,たとえば

3 度執行したことで,王の在位が 3 年目に入っていることが示されたと考えられている。

したがって暦法についてみれば,とくに精密なものという印象を受けないのである。

さらに 4 方位を表す文字について見てみよう。甲骨文字では I東」が扶桑の木に(十

個のうちの一つの〉太陽が掛かつて天空に飛び出る直前の状態を示し I西」が烏が巣に

こもる形象を示しているとみられている。また「南」は巨大な太鼓とそれを打つ人の形象

であり,南方の異族を意味し,また彼らが祭儀に用いる太鼓(銅鼓とみられている)も意

味していたと考えられた。 I北」 については,二人の人間がそれぞれ背を向け合った形象

とみられている。つまり,東西南北の原義は,相互にはっきりした連関を示すものではな

く,背後にシステムを予想させるようなものではない。これは,西本真一氏が紹介された

古代エジプトの 4 方位を表す文字が,東西,南北それぞれに共通の部位をもち,相互の連

闘を予想させる字形で構成されているらしい点と,著しい相違を示している 6)o 方位を表

す甲骨文字の形象がきわめて個別的であり,システムが含意されないと思えることに対し,

4 方位システムの発達は異常に早すぎるように思える。ただ,神話の上では,東西の方位

に関わる古い神格「東母J と 「西母」 が甲骨文で併記される場合も多いように,両者のあ

いだに対の関係が獲得されたとみられる表現もある。

さて,図 3 に掲載した図版は,新石器時代に遡る仰詔文化の墓祉である 7)O 前2000年頃

であろうか,精確な年代はよくわからない。被葬者は南に頭を向けて仰臥するが,東西に

配されたカラス員のモザイクは,それぞれ西を虎,東を龍とすると考えられている。東西

のモティーフに関しては,漢代に成立する四神の前身ともみなされているが,そうであれ

ば股代をはるかに遡る時代に 4 つの方向の概念が成立し,さらに東西をほぼ均等に扱うと

ともに,南北の軸をやや優位とする考え方が生まれつつあったたことになる。

北を特別な方位とする根拠が不明瞭なため,股代の王墓の平面にみられる,わずかだが

東西軸に対して南北軸が優位を示す理由もよくわからない。概説したように,東など,他

の方位を特別視する見方も,そして相対する方位のあいだに優劣の階梯を認める見方など

もはっきりしないといえる。

黄河文明が現れる直前の時代に,すでに南北を優位とするらしい方向の観念が現れ,た

だちに超越的な主宰神である 「帝」 をいただいた宇宙観に到達しているようにすら思える。

太陽神のように具体的な神格が主宰神となるステップが,飛び超えられてしまっていると

いう印象を受けるのである。この原因については,いぜんとしてよく理解することができ

ないのだが,股代の戦車がメソポタミア起源と予想されていること,春秋・戦国時代に下

る占星術がバビロニアから伝えられたものとする見方もあること,白川静氏のように,見

寵山のイメージをジグラットに求める意見もあること 8にそして同氏が,北極星を特別視

する起源を西域の遊牧民に求めていることなどから,総体として,発達した方位観が西方

の先進文明から伝えられたとみる方が妥当なようにも思われる。方位システムの発達はそ

51

れほど異常な速度をもつように思えるのである。

3. 潜在する東西軸

前述のように中国初期文明には,南北軸に価値を置いた考え方が顕著で,東西軸に関し

ては存在感が希薄である。それでも,わずかなものにすぎないが東西を対とする,そして

優位と劣位の関係すら保存するようにみえる方向感覚の例を見いだすことができる。

周王朝時代の拠点の一つである魯国には,周王朝初頭頃,つまり件の建築とほぼ同時代

に建設された都城「曲阜」がある。現在,春秋時代より遡る周代都域社の発見例として唯

一の遺跡である。股王朝を倒した直後,武王の弟周公の子である伯禽が,般の生き残りの

六氏族を集めて治めたとされる都城である。楊寛氏によれば I曲阜古城の城門の配置や

幹線道路の配列から見ると,古城の重心〔宮殿などが築かれる主要部〕は,西部及び中央

北部にあり,古城全体は「坐西朝東J (主要部が西に位置し,全体として東向き〕の構造

であったことがわかる」という形式の都市であった由〕。図 4 に掲載した図版からは,指摘

されたような都市構造は必ずしも明瞭ではないが,試掘が各所でなされている段階で,全

面的な発掘調査がまだなされていないらしい。

古代中国には二つの席次のシステムがあるとされる。一つはすでに述べたように,北を

天子の居所とし,南に臣下を配して対面するものである。いま一つは「賓主の礼」で,東

に主人,西に賓客が位置して向かい合う。この席次は一見して西を優位に,東を劣位にす

るようにみえるが,真意は 「東面」することに価値を置いたもののように思える。楊寛氏

のいう「坐西朝東」はこのシステムに相当する。

「坐西朝東」のシステムについても詳細がわからないが,南北の軸線を主とするシステ

ムとは別に,東西軸に基づく システムが私的な場面で使われていた。少なくとも「漢書』

『史記』などに事例が記録されているらしい。 4 方位システムの自然、な発展からみれば,

東西軸に基づくシステムの方が先行すると予想される。そして南北軸優位のシステムは,

強い王権によって作為的に構想された可能性が高いといえる。ゆえに東西軸に価値を置く

システムが潜在的にであっても,実在した可能性は高いのである。ただ I坐西朝東」シ

ステムがなぜ都城に採用されたのか,その理由がよくわかからない。この礼を単に私的な

ものとみるだけでは,解釈に限界があるように思われるのである。

52

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虚の都城「幽阜」平面

の構造は「坐西朝東」

とも考えられているが,

平面図をみるだけでは

よく判らない。 本格的

な発掘調査を待って判

断すべきかも知れない。

図 4 幽阜魯古城遺跡平面図

4. 凪雛村の周代初期の「殿堂」平面

百頭で,鳳雛村で発見された建築造祉の 「殿堂」 が,桁行を偶数間とする構成を採って

いることを述べた。 入口の構成,そして付随する階の構成などが南北中軸線に対し非対称

の構成を採ることは,意図的なものだと判断したが I殿堂」の構成の背景に,東西軸を

優先する「坐西朝東」のシステムがあったと想定することで,事態を少し整理することが

できそうに恩われる 。

「殿堂」 内部の西側を上位とし,東側を下位とする位階を予想するのである 。 もちろん

上位の人物(あるいは祖霊)は東面し , 下位の人物は西を向いて対面する 。 東西軸を優先

する儀礼の制が偶数聞の建築を求めたとみるべきであり,そのために入口は東に偏るのだ

とみることになる 。 これは天子と臣下が相対する南面,北面の構造ではない。 しかし,た

だちにこの建築が私的な施設だとみなす根拠もない。 いぜんとして股王朝の西伯(西方の

侯)にすぎなかった周の王族達にと っ て,股王朝の南北軸優先システムを採用することが

困難であったというふうに考えることもできる。その背景には,股王朝の南北軸優先シス

テムが,中原を支配する大王に限られた特権であったとみなされていたこと,東西軸に則

るシステムが背後に生き延びていたこと,などを予想しなければならない。

あるいはまた,股王朝とは異なる周の伝統として,東西軸システムを優先する儀礼の形

式が存在し,これに則って「宗廟」 ないし 「宮殿」 が計画されたと考えるべきかも知れな

い。そうであれば,周代初頭に建設された魯の曲車は,周の伝統に従って計画されたとみ

ることになる。そして般を倒し中原に進出した周は,覇者として股王朝の南北軸優先シス

テムを,次第に導入していったとみることになるであろうか。

『史記』伍子育列伝に,楚の平王に対し,伍子育が 「親しく北面して仕えた」 という記

述があり,春秋時代頃には,諸侯においても「天子一 臣下」 の儀礼が採用され,普及して

いたようである。つまり公的な関係一般に,次第に援用されつつあったとみられる 。 とす

れば春秋時代以後,東西軸を優先するシステムが遺存したとしても,私的な場面の儀礼に

限定されていった可能性が高いといえる。この結果が「賓主の礼」 ではなかっただろうか。

つまり「坐西朝東」 という,後に 「賓主の礼」に限定されてしまう儀礼は,股王朝に由来

する「天子 臣下」 の儀礼だけを例外とした,公的な性格を併せ持ったシステムであった

可能性も予想、させるのである 。

6. 結び

北の方位を特別視し,南北の軸線を優先する古代中国の方位観は, 一見してきわめて成

熟度の高い,高度なシステムへ到達していたようにみえる。しかしこのシステムは,文字

記録によって遡ることのできるもっとも早い時代に,すでに十分に成熟していたようにみ

え,システムの発達過程がよく 見えてこない。 それでいてこのシステムの周辺は,必ずし

もバランスよく成熟しているようにはみえず,かえ っ て源初の匂いを強 く はなっている 。

全体として奇妙な,不可思議な印象を与えている 。 この印象に関しては,具体的な事例を

通じて明快に指し示すことができなのだが,総体として,西方の先進文明の影響を予想さ

せずにはおかないようである 。

とはいえわずかなものであっても,東西軸を優先した痕跡がどこかに残されているとい

う予感があった。方位観の自然な発達のイメージからみれば,当然あるべきもののように

思えるのである。

53

周代初頭頃の鳳雛村建築遺祉を,このような文脈でとらえ直すことで,中国古代の方位

観の実態に,もう少し近づけるのではないかと考えてきた。中心軸からはずれた入口の構

成は,背後に強い意思を感ずるからである。また,この遺祉の検討を通じて,幾多の偶数

柱間構成の遺構を考える際にも,重要な手掛かりを与えるのではないかという予想もあっ

た。ひとつの建築とはいえ,壮大な世界像に従って構成されるという,専制国家の精神を

予想しているためである。いずれにしろ見過ごせない事例だと思っていた。

しかし,東西軸を優先するシステムが潜在しているという予断に基づいて解読を試みて

いるために,あるいはまったく見当を失しているのかも知れず,そのことが中国古代の方

位システムの理解を錯綜させてしまいかねないという危倶も感じている。いぜんとして確

かな感触をつかみきれていないのである。

もう少し深い検討を行いたいのだが,分かりやすく興味深い事例に,なかなか巡り合う

ことができない。手掛かりも少なく,強引な作業を強いられている。その結果,考察と準

備の不足をあらためて痛感することになった。何よりも,古代中国に疎いという論者の能

力に起因することはいうまでもない。

拙速であることは承知していながらも,書きつづけることが考えることと重なりつつあ

る最近の状況では,不足を痛感しつつも記す以外に手だてがない。いっとも予想できない

が,あらためてこの問題を整理しなおし,決着をつけたいとは思っている。

1 )北京大学考古学研究室編『商周考古学概説』 煉原書店 1989

2 )杉本憲司『中国古代を掘る 城郭都市の発展』 中央公論社 1986

氏は王恩田「岐山鳳雛村西周建築群基祉的有関問題J (IT'文物jJ 1981年 l 期)の所説

を引いて「①門道の中央が高く,その両側にある呪句が基壇上に建てられていることか

ら,文献にいう「台門」にあたり,これは『礼記』礼器にみえる,天子・諸侯の建築に

だけみられるものであること 。 ②門道の正面につくられた影壁は,文献にいう「樹」に

あたり,これも『礼記』郊特牲などでは,天子・諸侯だけがつくることのできるもので

あり,特に天子のものが外につくられていること。③ト占において,亀甲を使用できる

のは天子・諸侯だけであること,④その規模がIT'周礼』考工記 匠人にみえる天子の

明堂に比較的近い」など 4 点から 「 この宗廟は周王朝に関係するもの」という結論を紹

介されている。

3 )拙稿『建築と方位の避遁jJ I風水とデザイン」所収

4 )白川静『甲骨文の世界 古代股王朝の構造』

5 )貝塚茂樹編『古代股帝国』

1 N A X 1992

平凡社 1972

みすず書房 1967

6 )西本真一『古代エジプトの方位観jJ I建築雑誌1347J 所収 日本建築学会 1993 ・ 9

7 )張光直『撲陽三騒と中国古代美術防防人獣モチー7.JJ I ドルメン /(2)J 言叢社 1990

8 )白川静『中国の神話』 中央公論社 1980

9 )楊寛『中国都城の起源と発展』 学生社 1987

前掲註: 2) 杉本氏の論考では 「坐西朝東」について直接言及することはない。四方

城壁のうち,東門が最初に完成したことについても,東夷に備えるためだとされている。

54

古代エジプトの家具 11- 1

~箱、橿、足台~

西本直子

今回から、すでに御紹介した"ANCIENTEGYPTIAN FURNITURE Vol. 1 ": by Geoffrey Killen (著

者について詳しくは史標 3 号P. 15参照。 )の続巻として、昨年Aris & Phillipsより出版された"AN­

CIENTEGYPT1ぜ~FURNITURE Vol. 2 -Boxes, Chests and Footstools"の訳を時に考察を加えながら行おうと思う 。

第一巻ではまず家具造りを支える"素材と道具

まえて寝台.スツ一ル . 椅子.テ一ブル.花台について紹介していたが、続巻は副題のとおり、古代エ

ジプトの箱物家具のみを集めている。 72枚の写真を巻末に収め、断面図を中心とする86枚の図面(全て

キレン氏が作成。 ミリメートル単位)を各アイテムの解説と並置させ、対象を概念的と言うよりも寧ろ具

体的に考察する著者の姿勢は相変らず一貫している 。 第一巻の目次立てからすれば、家具の発展段階で

箱物家具がこの順番にくるのは、薄板製材に必要な技術等からして充分額ける 。 けれども箱物家具とし

て別冊になっていることにはそれ以上の必然性があると私には思える 。 細かな用途から離れ、少しおお

ざっぱな機能の掴み方をすると第一巻に登場した家具は身体や物品を乗せて地面から浮かすことが目的

であるが、箱物家具は囲い込み、区切ることが主目的であり、空間との対応がはっきり違っている。 私

は秘かにこうした造形上の違いを本質的なものとして本著の内容が分けられたのではないかと思ってい

る 。 あるいは著者にはそれほどの意図はないかも知れないが、用途は様々ながら箱をキー ワードとして

集められた品々を見ることで、囲い、区切る作業について何か見えてくるかも知れないと期待している 。

<目次>

図版リスト

写真リスト

参考文献及び略語

第 1 章 : 初期の遺物

第 2 章: 古王国期の箱の断片

第 3 章: 中王国期の箱

第 4 章 : 新王国期の箱

第 5 章: ペルポ ー とカ ー のコレクション

第 6 章: ユヤとテュヤのコレクション

第 7 章: ツタンカ メンのコレクション

第 8 章: ラムセス王朝期及び後期の箱

第 9 章 : 足台

続各国博物館の収蔵品カタログ

(3 例)

(4 例)

(3 例)

(7 例)

(6 例)

(5 例)

(28例)

(5 例)

(8 例)

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vii

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1

8

23

30

38

46

51

81

87

93

写真 105

(注釈: 第 5.........7 章に登場するのは充実した副葬品を残す人々で、みな新王国期の人物である 。 古

い方から、ペルポ一、カ一、ツタンカ ー メン、ユヤとテュヤとなるが、とのうち王族はツタンカ メン

のみである。 副葬品も特に充実しているため、目次では順を振り替えたと思われる。 カーについては史

標 6 号に手短に注釈を加えたので参照してほしい。 初登場のベルボ について詳しくは後に述べられる

が、実は私は第 1 巻で登場した 3 本脚の支持形態を特異に感じ、史標12号P.41で古王国期のものについ

て考察を加えたのだが、同号P.45、図34の繊細な印象の 3 本脚のテ ブルはペルポーの墓から出たもの

だ、った 。 第 1 巻ではPa-Per-Pa、 パ ・ペル・ パと表記されているが、ピアチェンティ ニの著書では

Perpautとなっている 。 ポ ター・モスのTopographical Bibliography of Ancient E島市tian Hiero-

55

glyphic Texts , Reliefs and Paintings 1によれば"イミの息子"とかかれているが、イミは外国人のよう

である。 )

箱物家具は足台を除いて全て収納に使われている。 つまり蓄えるものがあるという豊かさの印であり、

(材料となる)板材をつくる技術力の高度さからしても収納家具を所有することが今では想像できない

経済力と労働力の集中を意味し、単に身の回りを整理する道具であることを越えて、それぞれの身分を

象徴したと想像することはできる。 さらに当時の家屋から推測して、鍵の掛かる箱は、貴重品を保管す

る重要な役目を担ったと思われる。当時の人々が箱に鍵をかけるときの意識は、我々が玄関に鍵をかけ

るときの慎重さに近いものであったかもしれない。 収納家具は現在の収納家具からは想像しえない象徴

的な意味を多く被っていることを念頭に置いておくべきである 。 そうでなければ時に過剰と思われる装

飾や、入念な細工の理解を誤りそうだ。

それでは第 1 章、初期の箱物家具から見ていきたい。

第 1 章 最古の例

先王朝時代

木材による箱や枠の加工は先王朝時代から見られる 。 ナガ・エド・デルの墳墓はアビドスの北方 3 0

キロ、ナイル河の東岸に位置するが、とこで大変保存状態のよい先王朝期の箱による埋葬が見つかって

いる。 当地は1901年--...1904年の聞にカルフォルニア大学の指示の下、ハーストエジプト調査隊により発

掘された。 とれら埋葬のための箱は、使用される樹種にあわせ、構法は種々様々に変化している 。

墳墓N7457の箱はほぼ完全な形で発見され、大きさは長さ 157センチ、幅71センチ。 ちょうど18セン

チだったであろうと推測される深さで発見されている。 重ね継ぎされた厚板からできている(リスゴウ、

P.280 図版124d, f) 。 コ ナ の止め方は不明瞭で、他の箱とは異なり、隅の補強材や柱状の縦枠が

入ってない。しかし、墳墓N7292の同型の箱は、隅の接合部で、両材に斜めに穴を開けたところに皮紐

を 1 本通して補強している 。 とれらの箱は墓の壁を支持するためのもので、底板、天板はない。 小枝で

造っ た敷物を遺体の下に敷き、さらに箱の上部に同じものを被せる。

墳墓N7531の埋葬用箱はやはり板で造られているが、隅は、垂直な棒に皮紐で結わえ付けて突き付け

継ぎされている(リスゴウ、 p. 345, figs. 155a-d, 154d) 。 もう一つの箱か枠と思われる残骸は、大

変粗末なものだが、 一隅は互いに留め継ぎされていた(リスゴウ、 p. 205 , fig. 90a, d) 。

初期王朝期

サッカラ

箱 (fig. 3 )

(略)

(中略)

墳墓 S3504、サ ッカラ第 1 王朝エジプト博物館、カイロ

長さ470mm 幅210mm 高さ90mm

エメリ 、 1954, p. 43 , fig. 27, pls. XVIII , XXXI

ベイカ 一 、 p. 26, fig. 13

完全に残った最古の箱はサッカラの墳墓S3504でエメリ により発見された。 墳墓の小さな付室で二

つの箱がそれぞ、れ一部分ずつ見つかった。 どちらも大変保存状態はよく、使用されている木材の質や、

箱を形成している板材を造る技術から、木材の加工方法のひと通りの知識があったことがわかる 。

この箱の隅の固定には重ね継ぎが使われている (fig.3) 。 側板と妻板の下部は底板を受けるよう切り

欠きが施されている 。 底板は、二枚の薄板が長手方向できっちり突き付け継ぎされ、両材にほぞ穴を切

り緩く雇ざねを入れて補強されている(エメリ 、 1954, pl. XVIII rAJ, fig. 27) 。 腐って亡失しては

いるが、各仕口は皮紐で固定されていた。 こう した固定方法は、木材用の接着剤が発見されるまで寝台

枠の工法に広く見られる 。 皮組は仕口を斜めに貫通する二個一組の穴を通っている。側板と底板を長手

方向で固定するために 3 本の皮組が使われ、隅部では 2 本の紐で補強されている。

56

横断する部材で、箱の内部は 2 つに仕切られている 。 後方は、深いままで、恐らくゲームの道具が収

納されたと思われ、手前の部分は側板より高さの低い 3 枚の中仕切りで4つの細長い空間に仕切られて

いる 。 この長手方向の仕切板は、正面の妻板と短手方向に内部を区切る前述の板に溝を切って収められ

ている。 長手方向の仕切板のうち 1 枚は、短手方向の仕切り板とぶつかる手前で一段高くなり、箱の側

板と同じ高さに揃えられている 。 意図的な形だが何故との細工がなされたかその目的は不明である。 そ

してこれは推測だが、ゲームの標的となったのではないだろうか。 底板の一方に、 3 組の穴が開けられ

ているが、長手方向の仕切り板とは関係なく、何か他の要素を固定するために聞けられている。 (以下略)

ナカダ (略)

フレーム構造

木製縦橿と貫材が多数サッカラでエメリ により発見されて

いる。 これにより第一王朝の職人達が薄板を支持する枠を構

成しえたことがわかる。 ある材は両端部にほぞを持ち(エメ

リ 一 、 1954年、 Cat. No. 301 p. 53 , fig. 50) 、別の材は

一端を噛み継ぎして、もう一端に一本ほぞがあるものもある

(エメリ 一 、 1954年、 Cat. No. 2071 p. 52, fig. 46 A) 。

各接合部のあご部分には補強だぼが貫通する穴がある。

後にエメリーが発見したデンの時代と推定される墓で (S

3507) 、彼は隅を斜め継ぎした象牙の枠と、平行な横桟に

ほぞ穴継ぎされている十字形の部材を発見した(エメリ 一 、

1958年、 Cat. Nos. 75-78 p.84, pl. 100[A] ) 。 これはお

そらくゲーム用道具箱だったと考えられている 。

装飾技術

とうした初期の時代の箱の装飾は、象巌・浮き彫り・象牙

の帯やファイアンスの飾り板などでなされていた。 サッカラ

S3504の墳墓で、薄く漆喰を施したうえに三角形のファイ

アンスの部材で飾られた箱の断片が発見された(エメリ 一 、

1954年、 p. 38, fig. 16, pl. XXXI[CJ) 。 ファイアンスは

下地の木に撃で正確に彫られた窪みに謬のような極く簡単な

接着剤で張り付けられている。 この技術はギザ・古王国期の

へテプヘレス一世の家具の装飾でよく使われていた。

もう一つ大規模な初期王朝の墳墓がアビドスにあるが、そ

とでは第一王朝期の幾人かの王の墓と、第二王朝期の二人の

王の墓がある。 アビドスはナカダ第一期の当初から重要な部

落であった。 との敷地はまずマリエッ トにより発掘され、次

にアメリノーにより発掘された。 彼は1895年-96年の聞に、

蓋のちょうつがいの一部と考えられる一端にほぞ穴のある家

具の部材を発見した(アメリノ一、 pl. XXX1) 。 第二のこれ

に合致する部分が後にペトリにより発見されている(ペト

リ、 1901年、 pl. XLIII[22J) 。二つは現在持ち寄られ、

オックスフォード・アシュモレアン博物館で一つのものをな

している (E1255, E138) 。 片側は木やファイアンスの三角

の破片で象嵐されており、図版2 で見られるが、まだ少数の

57

3. Box, Saqqara. 1 dyn

6. Ivory inlay patterns.

青や緑の破片がのこっている。 この品は束ねた葦を模して大変詳細に彫刻された美しい面を持っている 。

この精魂込めた装飾はサッカラでエメリ が発見した木と象牙に共に見られる(エメリ 、 1954年、 pp.

38, 46 , figs. 15, 33, pls. xxvm, XVm) 。 裏側は同様に表面を処理されており、まだ僅かな部分は鍍

金の下地となる良質の布で覆われている 。 極く小さな金の破片が束ねた葦を彫刻したうえに押しつけら

れているのがさらに見受けられる。 この面の中央には王の印であるセレク(パレスを現す門を象ったヒ

エログリフ)が刻まれ、門の上に隼とホルス神がとまっている 。 玉名はこの飾り板から失われているが

セメルケトの墓から出土したものとされている。

アピドスでの後のペトリ ーの発掘で多数の新しい物品がでた、

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58 一一一一

大な収集をしたからである 。 墓はサッカラのものと規模も形状も類似しており、発見された多くの家具

はサッカラのものと形状が類似していることがよくわかる。 象牙製や木製の典型的な雄牛の足を象った

家具の脚の相当数のコレク ションが発見された。またベトリは脚が載っている円筒形の台にそれをめぐ

る輸が刻まれているのだが、その本数が変化していることを特記している 。 彼は輪の本数は脚が造られ

た王朝によるもので、 29本ではメナ王の治世、 19本ではゼル(ジェル)、…14本ではデンとなるように

造られたと推測した(ベトリ、 1901年、 p.34) 。 ナカダ期の雄牛の脚についてドウ・モルガンが発見し

たもう一つの興味ある特長はほぞの面に鋸で挽かれた一組の交差する筋である(エジプト博物館・カイ

ロ、 JE31783) 。 この印は木材の小さな円の中にも見られる(エジプト博物館・カイロ、 JE31786) 。

多分このような印は家具の所在を示すためか、あるいは職人の署名か、または職人の工房を示す公認の

印であったのだろう 。 箱の側板と思われる多数の木材がアピドスの墓からも発見されている。 それらに

は蟻ほぞ継ぎのための斜めの切り込みがある。 とれらは箱の部材と見られるが、隣り合う木材にあるべ

き垂直な釘がこの発掘で見つからず、蟻ほぞ継ぎされたと考えられている。

ねじれたり、交差したり、あるいは斜めに、あるいはジグザグにと言うパタ ンで線彫りされた大量

の象巌用象牙の帯が初期王朝期に関する多くの発掘で見つかっている (fig. 6) 。 いくつかの特長的な

パタ ンが上エジプトと下エジプトで見つかっているがこの初期王朝期では類似した標準的な形が使わ

れていた。 いくつかの部材には象牙製小釘を通す穴があけられ、とれで木製の骨組みに象巌を固定して

いた。釘頭(fig. 6 H とfig. 6 I)を模した装飾と鎖 (fig.6 L) のモチ フはエジプトの伝統的家具や

現代の家具でもまだよく見受けられる 。

エメリ ーはサッカラのヘマカの墓、 S3035、で二つの箱を見つけた。 ヘマカはデン王の統治下で重要

な位置を占めた役人であった。 箱は色とりどりに彩色された木と象牙で象巌されていた。 一つは白蟻で

かなり損傷を受けていたが(エメリ 、 1938年、 Cat. No. 433 , p.41 , figs. 11, 33) 、内部中程にぐ

るりと突き出しているモ ルディングのある矩形の造形である。 との縁には多数の穴が開けられており、

その目的は不明である。 しかし発見当時、中にたくさんの円盤が収められていた。 箱の外面は下地の木

に水平に木製の帯が象台売されている 。 とれらの個々の帯は下地の木を部分的に残しである間隔下地を露

出させて象巌され、その部分に格子を描かれた水平の帯は互い違いに市松に配されている 。 箱の縁は半

円形に型取られ、十字形や線のパタ ー ンで象牙が象巌されている。

二つ目の箱は最初のものより小さく丸い形である(エメリ 一 、 1938年、 Cat. No. 432 , p. 41, p1. 23

A) 。 箱の側面は注意深く水平の二本の帯と共に配列された木製の垂直の帯で象白託されている。 第一王朝

期の終わりから第三王朝期の始めの聞に箱のデザインに劇的な変化が窺われる 。 この種の家具での速い

変化は他に類を見ない。 しかし、少数の第三王朝期の箱の断片がサッカラのジョセル王の階段ピラミツ

ド複合体の墓泥棒が使う通り道でフ アース とキベルにより発見された。 これらの断片はセメルケトの統

治下のものと同定されている第一王朝期の要素と同様の方法で刻まれている (fig.2) 。王家のコブラ

であるウラヱウスが彫られ、セレクの枠の中にネチェルケトの銘が打たれている(エジプト博物館・カ

イロ、 JE69498 , 6950 1) 。 この通路ではまた多くのファイアンスと象牙の象巌が発見された(フアー

ス、 i p. 139; ii p1. 109 [1. 2 cf, 3 , 4]) 。

ヘシラーの箱

現在カイロ ・エジプト博物館にある多数の華麗な彫刻を施された箱は、マリエットにより、サッカラ

のヘシラ ーの墓から発見された (S2405[A]) 。 ヘシラ ーは第 3 王朝の始め、ジョセル王の統治下に、指

導的な医師 ・歯科医として従事した人物である 。 これらのパネルはいかに木工技術が成熟していたかを

物語っているが中でも素材表面の装飾である。 パネルの 1 枚は、へシラ ーが雄牛またはガゼル様の脚を

持つ典型的な初期王朝期のスツールに腰掛けている姿を描いている 。 このスツ ルはタルカンで発見さ

れた第 1 王朝期の寝台枠(キレン、 1980年、 p. 25 , fig. 6, p1s. 31-34) よりも少し背が高いが全体に類

似している 。

墳墓はその後忘れられ、ついにはサッカラの砂で覆われ見失われた。 壁画の優れたコレクションをつ

59

ぶさに見いだしているキベルがこれを再発見した。 この壁画を見ると、へマカの墳墓で発見された箱か

ら年月を鋲んで家具がどれほど発展したかが解かる。 最もよく分かる点の一つは、箱の典型の数である。

厚板T構成され、隅を革紐などで締めつけられたと思われる単純な矩形の箱や仕切り箱(注:ゲームの

道具などを入れる。 tray: 現在ではトランプを入れる箱の意)がこの壁に描かれており、まずこれらの箱

の代表的な収容物を知ることができる。 それらの箱はナカダ期のように黒檀で作られたらしい。 という

のは黄色の塗料の斑紋が黒い表面をこの堅く異国情緒溢れる材の木肌と木目を真似てさっとちりばめら

れているからだ。

ゲーム用の箱は大変よく見られるものだったようだ。 ある例は(キベル、 1913年、 fig.3 , p.20) 仕

切り板で箱の内部をいくつかの小区画に分けている 。 外側の区画には各 6 色の数取り(勝負の点数を数

える算木など)や玉が納まる。 大きな中央の区画には着彩した象牙製の雄ライオンが 3個と、雌ライオ

ンが 3個、それぞれ着彩した木製の台に据えられて収められる 。 との壁画に描かれている二つ目の箱は

多数の木工道具を収めるよう作られた(キベル、 1913年、 fig.4, p. 21) 。 典型的な木製の柄を持つ銅

製の鋸、斧、二本の撃、よき、砥石、恐らく弓ぎりを使用する際使われた石の椀などである 。 とれらの

道具は赤を背景に描かれている。最後に、もう一つの箱は(キベル、 1913年、 fig. 5, p. 23)、十個の

ナンバリングされた物差しあるいは重りの一式を収めている。 それぞれ左から右に向かうほど大きくなっ

ている。 とれらの上には 1 1 個の比較的小さな木片と椀(注:弓ぎり用)に二個の物差しが収められて

いるが、そのうちの一つは箱と同じ素材で作られている 。

多数の様々な大きさの樽も描かれているが、皆薄板で作られている 。 壁画の質は大変高い。 描かれて

いる形、茶色い節のまわりに描かれた木目は大変美しく描かれている(キベル、 1913年、 pl. III) 。 板

はたがで締められ、樽の蓋と底は共に断面は四角く、樽の中間は断面が円弧を描いて膨らんでいる 。

更に細い脚で立つ 4つの端正な箱がこの墓に描かれている (fig. 7 ) 。 これらはいくつかの面白い展開

を見せている 。 まず、とこでは枠組み工法が一般的になっていたことが解かる。我々はすでに第 1 王朝

期から職人達が枠組み工法の能力を持っていたととを知っている。 これら 4つの檀は水平な桟が垂直な

脚に接合されているのがよく解かる 。 次に枠に固まれる余白(注:鏡板部分)が真中と下の横桟の聞に

交互に置かれたヒエログリフの象徴的な文字で埋められている 。 この装飾は家具に関して、広く王朝期

の終わりまで使われた。

第 1 の箱 (fig. 7 A) は黄色く塗られ、木製の構成物であることを示している。 切り抜かれた要素は上

部に安全の象徴であるジェドの柱を戴く富の象徴ティエトを含んでいる。 これらの記号は隣の箱にも使

われている (fig.7 B) が、一番下の横桟の上に交互に並べられている。 箱 (fig.7 C) は同じデザイン

だが黒い表面に黄色の斑紋がちりばめられ黒檀のような黒い木自の木で造られている 。 ティエトは黒く

塗られているので、それ自身黒檀のように思われる。 最後の例 (fig.7 D) は比較的明るい色の木で構成

され、黄色く塗られている 。 固まれた枠のなかにジェドの柱の飾りがあり、輪郭を赤く描かれている 。

(注釈:ティエトとジ、エド、富の象徴と安全の象徴。 箱物の家具が意味する収納、即ち蓄積と保管を

ずばり現わしている。 )

7. Box designs , Saqqara , III 砂n.

A 日 c D

60

オベリスクについて

西本真一

オベリスクに興味を抱いたのは、アブシールの発掘調査で柱の断片が出土し、その復原過程で柱の

テーパーが重要な鍵となったことか直接の契機となった。 アフシルの柱のテ パ は約 2度である 。

半割り ドラム型をした柱の石材の接合面は極めて荒い仕上げで、テ パー を測る際に基準となる水平

面が確保されず、測定値の精度をこれ以上向上させることは期待できない。 約 2度という値は 1 /28

の勾配と近似し、古代エジフトにおける尺度が 1 キューピット =28ディジッ トという関係を考慮する

ならば、この柱を作る時には高さ 1 キュ ビット当たり 1 ディジットの水平距離を測ってこのテー パ

ー を求めたと、 差し当たり推測できそうである。 ルクソ ールでの調査の時、勾配計を持っていくつか

の葬祭殿を回り、いずれもとれと近い約 2 度という値を得た。

しかしながらこのわずかな角度が、 1 キューピッ ト当たり本当 に 1 ディジッ トなのかそれとも 1 ディ

ジット半なのかといった大きな問題が残されている 。 類例をさらに増やして全体の傾向を把握したい

のであるが、残念ながら柱を包括的に論じた先行研究は限られており、美術史的観点から形式の類別

やそれらの起源を考察しているものはいくつかあっても、アブシールの住の復原に必要な情報を指し

示すよ う な著作を見い出すことは容易ではない。

さて柱は古代エジプト語で"iwn"と記されるが、オベリスクもまた同じ言葉で呼ばれることを、ある

時調べものをしていて偶然に知った 。 そこ で思い出したのがオベリス クのテ パ である 。 あのテ

パーは古代エジプトの柱のテーパー と近いのではないか? 柱のテーパ を一覧にまとめた著作は

私の知る限り、まだ書かれていないように思われるが、オベリスクの大きさに関してはゴリンジ1)や

エンゲルバッハたちによって示されている。 ここでは工ンゲルバッハによるリストを掲げておとう 2) 。

PYRA- PYRA- TOTAL TAPER WEIGHT OBELISK, BASE MIDION MlDION HEIGHT (see f∞t- IN (feet), BASE HEIGHT (feet) , noto 2) , TONS, (feet) , (feetl ,

Aswan , , .. 13 ・8 8 ・2 14 ・ 8 137 24・3 1, 168 Aswan (later pro-

ject) . . . . 10 ・3 6・6 17 ・4 105 23 ・7 507 Lateran1 , , . , 9 ・8 6 ・ 2* 14 ・8・ 105 ・6 29 ・3 455 Hatsheps�et 7'9 5 ・8 9 ・7 97 42 ・8 323 Vatican . . , , 8 ・8 5 ・9 4'4 83 26 ・9 331 Luxor .• , , , , 8 ・2 5'1* 6 ・4* 82* 28 ・2 254 Paris . . , , 8・。 5 ・ E 6・4 74 26 ・5 227 New York 1, , , , 7 ・7 5 ・3* 5 ・4* 69 ・6 29・。 193 London1 . , . . 7 ・8 5 ・ 3* 5 ・4* 68 ・5 27 ・4 187 Mataria1 , , ,. 6 ・2 4 ・0・ 6 ・6* 67 27 ・5 121 Tuthm�is 1 .. 7 ・。 4 ・6 7 ・8 64 24・2 143

1 After Gorringe, Egyptian Obelisks. 2 By taper 1 mean the length of the shaft in which one unit

decrease in width is observed.

"Asw組"とあるのは、アスワンに残されている未完成のオベリスクである 。 もし完成したならば、

最大規模を誇る大きさであった。 斜めに寝かせられたかたちでオベリスクが岩盤から半分ほど切り 出

されているが、そのまま放棄されたらしい。 オベリスクや掘削面には基準線と想定される線が何本か

1) Henry Honeychurch Gorringe: Egyptiαn Obelisks αρndon 1885)

2) R. Engel bach: The Problem 01 the Obelisks (New Y ork 1923)

61

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図 2 アスワンの未完成のオベリスクそばの石切り場に残されている基準線(R. Engelbach: The

Aswan Obelisk, with some remarks on the Ancient Engineering , Cairo 1922 , Plate 4)

SCALE 1:25

M ETR E So 2 3

ROYAL CUBITSo 2 3 4 5 6

引かれており、エンゲルバッハによってオベリスクを作る工程が考察されている(図1) 。 岩盤の亀

裂に気づき、これを回避しようとして規模が縮小された痕跡も残存しており、リスト中、 "later

pr<句ect"とあるのがこれで、長さが30 フィ ー トほどもとの大きさから縮められた。 ''Lateran'' とはローマ

の聖ジョパンニ広場に立つオベリスク、''Hatshepsôwet'' は "futhmôsÌs 1" と同じく、カルナック神殿に

一本ずつ立っているオベリスクである 。 吋atlc組"はサン・ピエトロ広場に立つ文字が彫られていない

オベリスク、 "Luxor" はルクソール神殿の前に一本だけ立つもので、対で立てられていたもう一本は

パリに運ばれ、現在でもコ ンコルド広場に残る。 ''New Yorlc" 及び"Lond:m" はそれぞれ同地に現在立っ

ているもので、もとは下エジフトのへリオポリスに対になって立っていた。ルクソールとパリのオベ

リスクの場合と同様に、ニューヨ ー クとロン ドンのオベリスクの大きさはほぼ等しいこ とが表から 了

解される 。 また "Mataria" はへリオポリスに今でも立っているオベリスクを指すの。

この表の下に註として書かれているように、テーパーについて工ンゲルバッハは、オベリスクの全

幅が 1 だけ減るのにどれだけの長さを必要とするのかを記録している 。 つまりオベリスクの片側だけ

を見てその勾配を測るのではなく、オベリスクの両側の傾きを一緒に合わせた値をここに記している

のである 。 とのような一見奇妙な測り方をした理由を、彼はどこにも述べていない。 また彼のこの表

を引用する研究者にとっても理解し難いらし く、エンゲ、ルバッハの挙げるテ パーの値を二分して、

オベリスクの片側の勾配の数値に改めている論考も見られるω 。

しかし未完成のオベリスクがあるすぐ傍に、もうひとつ小さなオベリスクが切り出されたような痕

跡が残っていることが、頁数は少ないもののエンゲルバッハによって報告されており(図 2) 、彼は

これに関して、線 c が水平線をあらわしているように思われること、壁面に残っている何本かの基準

線から考えて、この小さなオベリスクは 1 /17.5のテーパーを有していたらしいことなどを考察して

いる 。 おそらくエンゲルバッハは、横たわった状態で切り出されるオベリスクを想定しながら前掲の

表におけるテーパーを想定したようである 。

エンゲルバッハの表のうち、テーパーの欄では24前後の値をもっ一群、 28近辺の値をもっ一群が認

められる 。 これらは 1 キュ ー ビットにつき 1 ディジッ ト、あるいは 1 小キュ ー ビ ッ ト(前述の王キュ

ーピットと異なり、 24ディジットからなる長さ)につき 1 ディジットの勾配を意味するのかもしれな

い。パリのオベリスクは26.5のテーパー となっているが、これはルクソ ールのオベリスクと同形であ

るはずであり、ルクソ ールのオベリスクは28.2 とされている 。 ニューヨ ークのオベリスクもまた、値

が29.0 と若干上回るが、これと同形であるはずのロンドンのオベリスクでは27.4である 。 問題となる

のはハトシエプスト女王のオベリスクがもっ42.8という突出した値であるが、 42という数値からは 1

キュービ ッ ト半、すなわち28+14ディジットという値が想起されよう 。

外周壁のテパは 1 キュ ビッ ト(= 7 パム)につき 1 パムであるという、いくつかの報告

例5) を思い起こす時、これらは今後検討を重ねる価値のある問題を提起するように思われる 。 いずれ

稿を改めて詳細に論じてみたい。

3) 以上はErik Iversen: Obelisks in Exile , 2 Vols. (Copenhagen 1968) による 。

4) Cf. John B. Rutherford: "Construction Stresses on Obelisksへ inAkten des viel制 internationalen

臠yptologen Kongresses, M�chen 1985, Band 2 (Studien zur Alt臠yptischen Kultur Beihefte 2, Hamburg 1988), pp

125-136

5) 溝口明則氏の実測による 。 またL. Borchardt: Das Grabdenkmal des Kön伊 Ne-userーが(Leipzig 1卯η, p . 155 ;

G. Robins and C. C. D. Shute: "恥1athematical Bases of Ancient Egyptian Architecture and Graphic Art" , in Historia

Mathematica 12 ぐToronto 1985), pp 107-122

64

S. クラーク/R. エンゲルバッハ「古代エジプ卜の建築技術(仮) J 訳 2

(承前)

第 1 章

石原弘明・伊藤忍・柏木裕之・

黒河内宏目・小島富士夫・高橋啓介・

西本真一 ・西屋宗紀

エジプトのように永い期間変化のない国では、石造建築の原型を発見することは簡単であると

たやすく考えられがちである。しかし実際には、例えば塔門などに見られるすべての建築形態の

起源が、古代の人が作ろうとした葦と泥による、どれかひとつの初源の建築形態に求められると

いう考えをはっきりと強く主張することに対しては、注意深くならなければならない。幾人もの

学者がエジプト建築の形態を説明する独創的な意見を提出しているがl 、しかしどれも満足のい

くものではないと言えるであろう。

煉瓦造と葦と泥による構造がエジプ トの形態の発展を担ったということも、ほとんど間違いな

いかのように見える。マスタパにうかがわれるパネリングは、運搬が可能な木造の小屋 (p. 124)

にその起源を持つとさえ示唆されているが、しかしこの独創的な理論は一般には受け入れられて

いない。

最も原始的な建物の形態がどのようなものであったのかは、興味が尽きない問題である。今日、

エジプトの農夫は集落において煉瓦造の小屋に住むが、田畑でいくらか長い期間を過ごさなけれ

ばならない時には、とうもろこしの茎で堀立小屋を作る(アラビア語で bûs) 。このような堀立

小屋を作る彼らの方法とは、榔子の縄を用い、地面の上で大きなマットのようにこの葦植物を縛

り合わせるというものである。これらのマ ッ トは立ち上げると小屋の壁となる。時として葦の下

端は地中に数インチ埋め込まれるが、その他の場合にはただ単に地表に置かれるだけである。構

造をより強固にするために、 3 インチの厚さに束ねられたとうもろこしの茎が、時折壁の上端近

くで水平に、また隅部においては垂直に縛りつけられる。これがエジプトの建物において通常、

縄で縛ったように表現されるトーラス繰型と円筒形の原型であると考えられている。

古代エジプトではとうもろこしの茎は知られではなく、最も一般的な葦植物のひとつはパピル

スであったと思われる。この植物は独特な形状の頭部を持ち、広く石柱に模刻され、また墳墓の

壁画に描かれた。もしパピルスがその頭部を付けたまま使用されたと考えるなら、小屋や囲いの

壁を構成するそれらの並んだありさまは、コーニスに少なからず相似するであろ う。しかし、多

くのエジプトの石造コーニスにおける装飾の形の中には、 明らかに葦類を模していない装飾の形

もあり、しばしば、ヤシの葉であるようにうかがわれることもある。

それゆえにエジプトのコーニスやトーラスの繰型は、柱の骨組とヤシの葉で作られた原始的な

小屋にその起源を持っている、と言われてきた\この解釈を裏づけるものが、墓や寺院の壁画

に描写されたある嗣堂の絵の中で見つかっている。メンフィスで発見された石材に描かれている

ライオン神の嗣堂の絵3 では、嗣堂の外面は十字形のパターンで覆われており、同様の事例が他

にも知られている。しかしヤシの葉による小屋が今日において、知られていないこともないが、

農夫が小屋にヤシの葉を使うことは非常にまれであるということを認めなくてはならない。コー

1 Petrie , Arts and Crafts , p. 63

2 Petrie, Arts and Crajts, p. 63

3 Petrie , The Palace of Apries (Memphis L乃, 目 XVIII

65

ニスやトーラスの円筒形の起源について論議する他の意見も出されているが、それらを検討する

ことは本書の本筋からは幾分、それることになる。

ピラミッドは、古代の長の墓の上に築かれた円錐形の石の山にその直接的な祖が正しく求めら

れるかもしれないとすぐ想像されるであろうが、しかし示される証拠はこの推測と大きく反して

いる。知られている最も初期の上部構造1 は円錐形では全くなく、球形であり、ピラミッドは別

の段階で、初期の古王国時代における墳墓の上部構造を形づくったもの、つまり平面が四角く、

側面が傾斜を持った低い基壇から発展したことは明らかである。ピラミッドは実際には、復合し

た「マスタパJ 2 が発展したものである。

柱は多くの場合、非常に原始的な形にまでその起源を辿ることができる。葦の束は、泥と一緒

にうまく使うと、今日shadûfとして知られている、揚水機の釣り合い重りのような重量物を支える

ことができるまでになる。他のより強い支持体はヤシの幹であるが、厚板としては使えない。ど

のような材料に由来したのかがあらわされている花形で柱を飾りつけることを思いつくのに、そ

れほどたいへんな想像力は必要としない。アプシールではヤシの葉の柱頭を持つ第 5 王朝の柱が

見つかっているが、パピルス柱については、この形をした第 3 王朝に遡る付け柱の柱頭がサッカ

ラで見つかっている(図7)ため、時期は幾分早いと思われる。柱を装飾する次の段階は、柱頭

にロータスやユリの花を連想させる花形で柱を飾りつけることであったようであり、それは通常

建物の屋根を支える柱の上端の周りに、結わえつけられるのが慣例であった。ロータス柱は第 5

王朝の時から使われるようになった(図 159) 。

エジプトの小屋は葦やヤシの葉で屋根が葺かれ、熱は完全に遮られる。厚板がこの目的で使わ

れたということを示す証拠は見つかっていない。それ故、神殿の平らな屋根石のブロックの原形

が厚板にあると考えるのは、正しいとは言いがたいであろう。良い石を使う中で、それらは自然

に開発されたと考えた方がより妥当である。

知られている最も古い石造の屋根は、石を立てて据えており、その高さは少なくとも幅の 2 倍

ある。これらの石材の底面は半円形に欠き込まれ、しばしば、置き並べられた丸太やヤシの幹を

あらわした彩色が施されている。この形式の屋根はサッカラやギザの第 3 、第 4 王朝のいくつか

のマスタパに見られ、また新しく発見されたジョセル王の時代の嗣堂でもうかがわれる。こうし

た並べて置かれる石材では雨水が入りやすいという欠点があるが、ジョセルの石造建築では、こ

れらの石の下面にある石製の「丸太」の塗装が良好な状態にあり、ほんのわずかの雨しか実際に

は浸入してこなかったということが示されている。砂岩を使う機会が増大し、上述した形の石材

を用いるよりも、比較的大きい空間に平らな板を用いて屋根を架けることができるようになった

時、丸太の形を施された屋根の伝統はほとんど忘れ去られてしまったようである。

もっと重要ないくつかの建築形態の起源となったかもしれない慣習的な流儀を簡単に探ってき

たので、次にエジプトの石造建築が実際にいつ誕生したかを調べることにする。最近までこの問

題は全く明快であると思われていた。アビュドスにある第 2 王朝のカーセケムイ王の墓3 では、

彼の祖先たちの場合のように墓室内が木材で覆われる代わりに、石で覆われていた。墓室の大き

さは17フィート x lOフィートで、深さは約 6 フィートである。建物の他に、この神殿の門に用い

られた花筒岩製のまぐさがヒエラコンポリスで見つかった4 。第 3 王朝の最初の王であるサアナ

クトは長さ 200フィート、幅80フィートのマスタパをベイト・カラーフに建て、中には 3 つの小さ

い石室を作った。ベイト・カラーフにはまた、長さ 300フィート、幅150フィート、高さ 30フイ

I Petrie, Gizeh and R俳h, Pl. VE

2 長方形の平面を持ち、各面に傾斜のある古代の墳墓の上部構造は、考古学者の間では古くからこの名で

知られている 。 これは家屋の戸口外側で椅子として用いられる、泥で作られた基壇を指すアラビア語である。

3 Petrie, HistoηI of Egypt (1923) , i , p. 37; Royal Tombs, ii , pp. 12-14

4 Quibell , Hieraconpolis, i , Pl. II 現在はカイロ博物館所蔵。

66

一ト以上という大きなマスタパもあり、何人かはジョセル王の墓のひとつであったと考えている。

その中には長い下降通路があるが、石組みの中に落とし込まれた 5 つの巨大な落とし戸によって

塞がれており、その向こうには広い水平の通路が続いている。 50フィート以上も地下の場所には

12の部屋がある。泥面に残る押印から、ジョセルの治世のものであることは疑いない石造建

築として知られる次の例は、ジョセルの階段ピラミッドである。これはその規模において、それ

まで建てられたなにものをも凌駕しているのであるが、しかし最近までそこに見ることができた

ものは、ひどく崩れた中心部の建物だけであった。この内部には、紬薬のかけられたタイルで美

しく部屋内を覆っている例で見られるような、独特な装飾が施されているのだが、幾人かの学者

はその評価に関し、ほとんどが後の時代に作り直されたと考えている。第 3 王朝は、およそ100年

間続き、 5 人の王によって治められたと信じられているが、彼らの名前以外に何も分かつてはい

ない第 3 王朝の最後の王か、第 4 王朝の最初の王であったスネフェルのいわゆる偽ピラミッ

ドが、知られている石造の中では次に来る作例である。その素晴らしい外装と立派に建てられた

ピラミッド神殿は、質においてこれに続くギザのピラミッドの水準に肉迫している。

以上が第 4 王朝でなされた巨大構築物の建造へと至る、仮想された道程である。サッカラの考

古庁によっておこなわれた近年の研究はしかし、エジプトにおける石造建築の発生に関する学者

の見解がかなりの部分、改めら麗奈ければならないことを示しており、第 3 王朝に属することが

間違いない階段ピラミッドの周囲に建つ建物群は、それまで出会ったこともない種類の石造建築

であって、考古学者にとってたいへん珍しい建築的な特徴を示している。

その優美で心地好い建築の形態は別として、ジョセル王の治世における石造技術をうわベだけ

眺めると、後に続くピラミッドや神殿と同じくきわめて質が高い点が印象づけられるかもしれな

い。またこの石造技術の方法は、いくらか謎めいた理由によって後に失われてしまったという考

えが、次第に根づき始めたようにも見える。だがこれは完全な間違いである。ジョセル王の石造

技術は一般的に言って第 4 、第 5 王朝の見事なマスタパやピラミッドの石造技術よりも質が非常

に劣っており、使われた石材が小さいことから、構築には多くの時間を要しなかったと推定され

る。ジョセル王の治世の最後か、あるいはその後に続くほとんど詳しいことが分かつていない時

期に、圧倒的な迫力が、特に王の葬祭建築において求められ、建造物の石材の大きさは巨大化す

る。エジプト人は滑車や荷揚げ装置を思いっかなかったようにうかがわれるため (p. 85) 、石材

の重さが数人では持ち上げられなくなったとたんに、仕上げの方法や石を据え置く技術にかなり

の変化が訪れたはずである。第 3 王朝の小さい石材による石造技術が研究されるとともに、その

後に続く巨石を用いた石造技術はただ単に、それを応用しただけであるということが次第に明ら

かになってきた。

(続)

1 Garstang, Mah龝na and B黎 Khall�j. Pls. VI , VII.

2 アビュドスの王名表は、この時期の王として 3 人挙げているだけである。 Petrie, History of Egypt (1923) ,

i , P 39

67

図 1 第 3 王朝の王女の詞堂の正面部分、サッカラ

(写真はエジプト政府、考古庁の提供による)

図 2 サッカラの王位更新祭のための神殿の背後の小神殿、フルーティングがなされた列柱

(写真はエジプト政府、考古庁の提供による)

68

「史標J 掲載一覧

第 1 号 (1990年9月 9 日発行)

山田寺金堂の基準尺度について 溝口明則

村落の中小寺社造営における名主の位置 旧武

蔵国多摩郡柴崎村の八幡神社天保期造営を事例

として 河上信行

概報失われてゆく昭和初期住宅土井家住宅

一典型的中廊下型住宅 河津優司

タイのクメール建築 アシンメトリーの法則

成田剛

[SCHNEEGANS, papiers Ms.870] 所収の石切工・

石積工規約とクヴェアフルト市の石切工・

石積工規約について 安松孝

手の技術の諸問題(1) 白井裕泰

建築表現に関するエスキース(i) 西本真一

紀行女人禁制の峯一大峯山本堂一 河津優司

第 2 号(1990年 12月 12 日発行)

ノート平成の大嘗祭 河津優司

徳川幕府の建築規制に関する覚書 河上信行

「中の間と脇の聞の比J について 一日本建築史

の設計技術論的研究に潜在する課題 溝口明則

ラオスのクメール建築 ーワット・プーを訪ねた

3 泊 2 日の調査旅行記 成田剛

[SCHNEEGANS, papiers Ms.870] 所収の石切工・

石積工規約とクヴェアフルト市の石切工・

石積工規約について(下) 安松孝

建築表現に関するエスキース (ii) 西本真一

手の技術の諸問題(2 ) 白井裕泰

「関係」の問題 一新たな世紀末における 良永和淳

第 3 号(1991年3月 3 日発行)

建築表現に関するエスキース(Üi) 西本真一

「即」の心性一建築の動態 良永和淳

手の技術の諸問題(3 ) 白井裕泰

古代エジプトの家具 1 西本直子

fマーナサーラ』の建築法則 ーその 1 rマー

ナサーラ j の写本 黒河内宏昌

タイのクメール建築 2 -プラサート・ムア

ン・シン最北端のクメール建築 成田剛

石切工マイスター・ハンス・ニーセンベルガー

のフライブルクにおける係争について(上)

ーマイスタークネヒトおよびマイスターf乍

品の制度をめぐって 安松孝

e比例'論・ I 一比例概念とその背景 溝口明則

芸術新潮 1 月号. 2 月号 特集「謎の仏像j 河津優司

"府内と府外"の断面 河上信行

69

第 4 号 (1991年6月 6日発行)

ラオスの社寺建築 ーヴイエンチャンとルアン・

パパーン 成田剛

『マーナサーラ j の建築法則 ~その 2

ナサーラ j の年代~

古代エジプトの家具 2

'比例T 論・ II 一比例概念とその背景

『マー

黒河内宏昌

西本直子

溝口明則

石切工マイスター・ハンス・ニーセンベルガー

のフライブルクにおける係争について(下)

ーマイスタークネヒトおよびマイスターイ乍

品の制度をめぐって 安松孝

C. S. ルイス「ナルニア国ものがたり」の空

間構成に関するエスキース 1 西本真一

手の技術の諸問題 (4 ) 白井裕泰

建築史から見たスポーツ施設 堀真人

国際高等研究所シンポジウムに参加して 良永和淳

第 5 号特集:ディテール(1991年9月 9 日発行)

仕口考(上) 白井裕泰

竹田の町屋について 川合俊彦

言葉としてのディテール 河津優司

内省へ向かう空間とディテール 良永和淳

THE PENT AGONAL MONU加æNTS OF PAGAN

成田剛

古代地割法の全体計画と細部の計画 溝口明則

第 6 号(1991年12月 12 日発行)

古代エジプト建築に関する文献について(1)

西本真一

古代エジプトの家具 3 西本直子

中世末期・近世初頭ドイツ語圏の切石工とその

関連職種における親方志望者の技術的能力

の評定方法について 一規約における制度

の類型 安松孝

「ボンの円環」 ードイツ連邦議事堂の計画をめ

ぐって 太田敬二

マレーシアの住宅建築 ーマレーシアの民家園,

ミニ・マレーシア 成田剛

仕口考(下) 白井裕泰

建築史から見た体育施設(2 ) 堀 真人

近代の迷路一伝統の現在 河津優司

'比例'論・ III 一数学と非数学 溝口明則

第 7 号(1992年3月 3 日発行)

義妹への手紙(春) 河津優司

古代エジプトの家具 4 西本直子

古代エジプト建築に関する文献について(2 )

西本真一| 訳太田敬二

小石川後楽園の意匠について(上) 白井裕泰 | 中・近世ドイツ語圏の建設関連史料試訳 1-1

都市,空間,比例 テオドール・フツイシャー

の建築理念について 太田敬二

'比例'論・ IV 一神話としての黄金比 溝口明則

第 8 号(1992年6月 6 日発行)

ヴィリー・ヴァイエス教授著「ケルン大聖堂内

陣の平面システム」 太田敬二

アコシュ・モラヴアンスキー著「建築美術の新生

一中欧におけるモデルネへの道 19()()~ 1940J

安松孝・みゆき

小石川後楽園の意匠について(中) 白井裕泰

忠太新報 中谷札人

タイのクメール建築 3 ーカオ・プラ・ヴイ

ハン(その 1 ) 成田剛

雲南の住居西双版納のダイ・ル一族 高野恵子

古代エジプトの家具 5 西本直子

古代エジプト建築に関する文献について ( 3 )

西本真一

'比例'論・ V ー勾配を巡って 溝口明則

第 9 号(1992年9月 9 日発行)

古代エジプトの家具 6

f リグ・ヴェーダ』の数を伴う表現

小林古径邸拝見之記

忠太のカケラを捜して

平成 4 年夏の光景

西本直子

溝口明則

白井裕泰

中谷札仁

河津優司

パウル・フォン・ナレディ=ライナー著『建築

と調和j 第 3 章 2 r度量単位と尺度J (1)

太田敬二

建築工匠の世襲と家族経営に関するノート 安松孝

第10号(1992年12月 12 日発行)

私標論(これでオシマイかも知れないが、その1)

那須武秀

最近したこと考えたことから 成田剛

五大のかたち I 溝口明則

パウル・フォン・ナレディ=ライナー著 f建築

と調和j 第 3 章 2 r度量単位と尺度J (2)

訳太田敬二

古代エジプト太陽の船復原レポート 白井裕泰

ルイス・カーンの「誤読J ?…ルーミーをめぐっ

て 良永和i享

"地図にない町" 中谷札仁

第11号(1993年3月 3 日発行)

古代エジプト太陽の船復原レポート (2 ) 白井裕泰

パウル・フォン・ナレディ=ライナー著『建築

と調和j 第 3 章 2 r度量単位と尺度J (3)

70

マテウス・ベプリンガーの雇用契約書

(1480年) 安松孝

f比例論 VI ー幻の都市「クサーヴァティー」

の平面一 溝口明則

雲南の住居 一徳宏州瑞麗のダイ・ナ一族高野恵子

風と光と 20の私と 中谷札仁

私標論(その 2) 那須武秀

第12号(1993年6月 6 日発行)

目と免と面(1) 河津優司

"明治"的手法とその根拠(1)~ r美術の説j と『美術真説j 中谷札仁

中・近世ドイツ語圏の建設関連史料試訳 1-2

~マテウス・ベプリンガーの雇用契約書

(1480年) 安松孝

美術史と価値の複数化 ~ハインリヒ・ヴェル

フリンを巡って 太田敬二

アブシール発掘調査現場から出土したヒエラテ

イツク・インスクリプションについて 西本真一

古代エジプト太陽の船復原レポート(3 ) 白井裕泰

古代エジプトの家具 7 西本直子

方位論ノート 溝口明則

撤積損徒然 高野恵子

第13号(1993年9月 9 日発行)

徹積損徒然後編 高野恵子

古代エジプト建築に関する文献については)

西本真一

中・近世ドイツ語圏の建設関連史料試訳 1・3

~マテウス・ベプリンガーの雇用契約書

(1480年) 安松孝

「絵画的」建築と身体(1) 太田敬二

目と免と面(2 ) 河津優司

覚書一近世民家の消滅一 白井裕泰

第14号(1993年12月 12 日発行)

スリランカの歴史的建築書『マンジュシュリー

パーシタ』について 黒河内宏昌

ルアン・パパンのラオ族の家 1 高野恵子

アプシール発掘調査から出土したヒエラテイツ

ク・インスクリプションについて(その 2)

文化財建造物の修理について

architectureの「翻訳J (1)

「絵画的」建築と身体(2 )

第15号 (1994年3月 3 日発行)

「エジプトの建築J (その1)

西本真一

白井裕泰

高橋知之

太田敬二

西本真一

方位観の始源へ(1) 溝口明則

ルアン・パパンのラオ族の家 2 高野恵子

移築保存された建造物群 白井裕泰

西山卯三研究 那須武秀

20世紀建築史記述の見直し作業に関する覚書

太田敬二

第16号 ( 1994年6月 6日発行)

中・近世ドイツ語圏の建設関連史料試訳 2-1

~レミギウス・フェッシュの雇用契約書

(1495年) 安松孝

建築家パウル・シュミットヘンナー(上) 太田敬二

日々の夜ながと「東京日記」 中谷レーニン

ルアン・パパンのラオ族の家 3 高野恵子

方位観の始源へ(2 ) 溝口明則

青梅における先史・古代の民家 白井裕泰

ラメセウム出土のオストラカについて 西本真一

第17号 ( 1994年9月 9日発行)

古代エジプトの家具 8 西本直子

『マーナサーラ j の建築法則 ~その 3 rマー

ナサーラ j の全体構成と土地に対するアプ

ローチ 黒河内宏昌

ダイ・ルー族の住居設計方法についての考察

その 1 高野恵子

建築家パウル・シュミットヘンナー(中) 太田敬二

'比例'論. VII -数えることと設計技術 溝口明則

東京における日本庭園の内と外 白井裕泰

C. S. ルイス「ナルニア国ものがた り」の空

間構成に関するエスキース 2 西本真一

第18号(1994年12月 12 日発行)

天目山栖雲寺庫裡について 白井裕泰

ダイ・ル一族の住居設計方法についての考察

その 2 高野恵子

インドネシアの建築 河津優司

インドネシア・チャンデイ モールデイングの

分類と分析 鈴木菜穂子

インドネシア・チャンデイにおける基壇モール

デイングの形状変化に表象される建築空間

の分節的表現について 小野邦彦

王宮都市の構造 14世紀マジャバイトの帝都を

中心に(1 ) 池亀彩

ジャワ島・パリ島の木造建築について 御船達雄

方位観の始源へ(3) rマンダラの源流j を巡っ

て 溝口明則

建築家パウル・シュミットヘンナー(下) 太田敬二

71

第19号 ( 1995年3月 3 日発行)

米国建築雑誌にみるアントニン・レーモンドの

活動と評価(1) 高橋知之

20世紀建築史記述における「伝統主義J および

「保守派j 概念への批判的注解 太田敬二

fマーナサーラ j の建築法則 ~その 4 建築の

寸法と Ayadi Sadvarga 黒河内宏昌

S. クラーク /R. エンゲルバッハ「古代エジプト

の建築技術(仮)J 訳 I 石原弘明・伊藤忍・柏木

裕之・黒河内宏昌・小島富士夫・高橋啓介・西本

真一・西屋宗紀

0邸増築計画

昭島市旧中村家住宅について

西本直子

白井裕泰

第20号創刊5周年記念号(1995年6月 6日発行)

巻頭言:過剰と希少,あるいは乾坤一郷の弁証法

中川武

町並み景観の形成手法について 近江八幡市と

彦根市の事例比較 白井裕泰

ハワイにおける日系移民の宗教建築について

湊石ローレン

博物館における近代建築史研究の一課題 米山勇

山へのオマージュ 良永和淳

米国建築雑誌にみるアントニン・レーモンドの

活動と評価 (2 ) 高橋知之

テオドール・フイツシャーと 19世紀近代 太田敬二

中・近世ドイツ語圏の建設関連資料試訳 2-2

~レミギウス・フェッシュの雇用契約書

(1495年) 安松孝

イタリア中世山岳都市を訪ねて(1) 輿水結子

『マーナサーラ j の建築法則 ~その 5 rマーナ

サーラ j における「建築J の分類と単位体系

黒河内宏昌

東南アジアの寸法体系について 高野恵子

方位観の始原へ (4 ) 鳳雛村建築遣社に関す

る覚書 溝口明則

古代エジプトの家具 11-1 箱・植・足台西本直子

オベリスクについて 西本真一

S. クラ ーク/R.エンゲルバッハ 「古代エジプト

の建築技術(仮)J 訳 2 石原弘明・伊藤忍・柏木

裕之・黒河内宏昌・小島富士夫・高橋啓介・西本

真一-西屋宗紀

後記・執筆者略歴

女史標20号発行おめでとうございます。 創刊から5年を経過し よくぞここまで続いたものだと感慨もひ

としおです。 永く続けることにも大きな価値があるものと思っています。 みなさん,史標のますますの発

展をお祈りください。 そしてまた惜しみないご協力をお願い申し上げます。

(白井裕泰・共栄学園短期大学助教授,略歴は第 1 号に掲載)

女一年の博士課程で、どんな研究がおもしろいか最初に考えていたとき、まずハワイの日系人であるとい

うことがとても重要な要素になった。 自分のものになりやすい研究、自ら direct に進めることができる

研究、ということで在ハワイの宗教建築研究を決心した。

(湊石ローレン・早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程 3 年/1966年生まれ

/1989年ハワイ大学建築学部卒業/1993年オレゴン大学大学院建築学科卒業)

*今年度から、博物館と大学という、性格の異なる 2 つの研究機関に身をおいて研究をさせていただくこ

とになりました。 博物館での近代建築史研究といえば、横浜開港資料館の堀勇良先生や国立科学博物館の

清水慶一先生といった偉大な先人がおられますが、その業績を目標にしつつ、独自のスタンスで研究をし

ていきたいと考えています。 今回は、自己紹介程度の軽薄な原稿になってしまいましたが、機をあらため

て自身の研究について報告させていただければ幸いです。

*

(米山勇・東京都江戸東京博物館専門研究員,文化学院建築科非常勤講師/1965年東京生まれ

/1988年早稲田大学理工学部建築学科卒業/1993年同大学院理工学研究科博士後期課程単位取得退学

/主著:新潟県の近代建築(共著,新潟日報事業社 平成 6 年) )

(良永和淳・鹿島建設株式会社横浜支店建築設計部,略歴は第 2 号に掲載)

食レーモンドがらみの資料収集はいろんな方面で予想を上回る展開になりつつある。とりあえず次は、外

務省外交史料館の史料をスキャンするのを楽しみにしている 。

(高橋知之・早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程 3 年,略歴は第19号に掲載)

*ひとり日本を離れ, ドイツの片田舎でひたすら勉学の道に励んでいた私のもとに突然「史標」が送られ

てきたのが 5 年前,個人的にはあっというまに時間が過ぎたような気がするが,その聞に出版された「史

標」全巻を前に,その厚み,重さ,そこにこめられた数々の寄稿者の思い,その存在感に圧倒される思い

です。 夏には合本がでます。 ご希望の方はお早めに予約を願います。

(太田敬二・関東学院大学・放送大学学園非常勤講師,略歴は第 6 号に掲載)

宮崎 (安松孝・湘北短期大学非常勤講師,略歴は第 l 号に掲載)

女今回、初めて史標に参加させて戴きました。 一番の弱輩者で、知識も文章力も未熟ではありますが、こ

れからも書き続けられたら、と,思っています。 どうぞ、よろしくお願い致します。

(輿水結子・早稲田大学理工学部建築学科 4 年/1972年東京生まれ)

* (黒河内宏昌・理工学総合研究センター客員講師、略歴は第 3 号に掲載)

72

女史標に原稿を載せてもらえるようになって3年,我ながらよく書いたものです。 研究の方はなかなか進

まないけれど。で,もし東南アジアのす法体系で面白い資料を御存じの方,ぜひ教えて下さい。 またこれ

から皆さんに読んで、いただけるような内容のものをぼちぼちと書き続けて行きたいと思っております。

(高野恵子,関東学院大学非常勤講師,略歴は第 9 号に掲載)

女「史標J が始まるころ 冗談のように20号まで続く夢を見ていた まさか本当に20号が出るとは思って

も見なかった 毎号が創刊号のようであった 5 年間を経て 今や「史標j は たしかな歴史的事実になっ

たのだと思う (溝口明則・文化学院建築科講師,略歴は第 1 号に掲載)

*あっという聞の 5 年で、当初は毎号欠かさず書こうという決意でしたが、何回かお休みをいただきまし

た。オベリスクに関してはいずれまとめて学会誌に発表したいと思っております。

(西本真一・早稲田大学理工学部助教授、略歴は第 l 号に掲載)

*箱という形態はどうも気になる。最も単純な形態といわれるが、これから御紹介するように箱が作れる

ことは文明の一つの段階を示す。第 l 巻では 3 点支持の腰掛けや台が目を 51いたが、これらの家具と箱物

家具は一線を画すると思う。(西本直子・建築家、略歴は第 3 号に掲載)

(石原弘明・早稲田大学大学院理工学研究科修士課程 l 年、略歴は第 19号に掲載)

(伊藤忍 ・早稲田大学理工学部研究生、略歴は第19号に掲載)

(柏木裕之、略歴は第 19号に掲載)

(小島富士夫・早稲田大学大学院理工学研究科修士課程 l 年、略歴は第 19号に掲載)

(高橋啓介・早稲田大学大学院理工学研究科修士課程2年、略歴は第19号に掲載)

(西屋宗紀・早稲田大学大学院理工学研究科修士課程 l 年、略歴は第19号に掲載)

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* *

お知らせ

* * *

女「史標」原稿募集規定

本誌への投稿を歓迎いたします。 論文、報告、書評、作品紹介、人物紹介、随筆等、内容は自由。 建築

学以外の論考に関しても可。縦使いA4版の用紙にワープロ打ちの原稿 (40字 X40行、上方余白は29mm、

左右余白28mm、文字間隔3.8mm、行間隔6.2mm) で 4 枚以上、かっ原則として偶数ページにおさめるこ

ととします。第1頁1行目から2行目を表題、 3行目右に著者名、 4行目は空けて5行目から本文とします。 図

版や表なども文中に貼り込み、そのまま印刷できるように版下の状態で提出してください(後記: 160字

以内、略歴: 136字以内)。投稿者には原稿が掲載された号を一部無料で差し上げるほか、ご希望に応じ

て必要部数を実費にてお頒けいたします。 必要部数をお知らせください。

原稿は下記宛、郵送願います。

169 東京都新宿区大久保 3-4・1

早稲田大学理工学部 55' N号館 8 階lOA

73

建築史研究室内 O. D. A. í史標」出版局

TEL03・3209・3211 ext. 3255

FAX 03-3204-5486 直通)

なお、 「史標」第21号の締切は 1995年9月 2 日(土) (必着)です。ご寄稿をお待ちしております。

女質疑・討論原稿募集規定

掲載原稿に対する質疑や、討論の申込みも受け付けております。 ページ数は自由で、その他の原稿の形

式に関しては上記のものと同一で構いません。 提出期日は随時。 多数のご質問・ご批判をお待ちいたして

おります。

女「史標j 定期購読について

本誌の定期購読をお望みの方は、年間購読料 3,200円(年 4冊刊行、郵送費を含む)を下記宛、お振込

みください。 何号から購読ご希望かを必ずお知らせ願います。 またパックナンバーを御希望の方は編集部

までお問い合わせの上、下記宛ご送金ください。

なお、 1994年 6 月より口座を下記に変更しております。 お間違いなきょう御注意ください。

口座名義: O.D.A. 事務局

口座番号:郵便振替口座 口座番号 00180-0-769906

女「史標」合本の予約について

本誌パックナンバーについてお問い合わせを頂いておりますが、すでに品切れのものもあり御迷惑をお

かけしております。そこで5周年の機会に、パックナンバーを年度ごとにまとめ、合本として再版するこ

ととしました。 御希望の方は葉書に集と部数を明記して, 7月中に上記住所宛御予約下さい。 料金は振込

用紙にて上記口座宛お振込み下さい。 価格は以下のとおりです。

「史標」合本( 8 月頃発行予定)

第 l 集第 l 号~第 4 号

第 2 集第 5号~第 8 号

第 3 集第 9号~第12号

第 4集第13号~第16号

定価各 5∞o円(送料込)

パックナンバー在庫状況(1995年6月 6 日現在)

第 l 号残部僅少 第 8 号残部僅少

第 2 号残部僅少 第 9 号在庫有り

第 3 号品切れ 第10号残部僅少

第 4 号品切れ

第 5号残部僅少

第 6 号残部僅少

第 7号残部僅少

第11号品切れ

第12号在庫有り

第13号在庫有り

第14号在庫有り

定価各 500 円(第 1 号~第 4 号)

600 円(第 5 号~第16号)

800 円(第17号~ )

74

第15号在庫有り

第16号残部僅少

第17号在庫有り

第18号在庫有り

第19号在庫有り

第20号在庫有り

「史標」第20号 ( 1995年夏号) 一一一 O.D.A. I史標」出版局発行定価 800円(本体価格 777円 )