史標 shihyo 21 (9/9/1995)

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O. D. A.

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「史標」出版局

1995年秋号

O. D. A.

サッシユの窓を大きく開けると、南からの風が雪崩れてきた

流しの窓はもちろんのこと、二つの部屋の東側の、

永く閉ざしたままだったガラス障子、それに食堂の出窓や厨の窓までを次々にひらいていくと、きれいにととの

えられていた家の中はたちまちに、やんちゃな風をはらむ洞となって荒れはじめた

雲が速くはしる物干し場

のほうに、呆然とした目を向けていると、細腕の二本からみあう格好でやどり木が、折れて落ちてきた

上げると、隣家から蔽かかる大きな樺が、わが身をはげしく風に洗わせていた。斜めに切られた天窓から

は、日光の幾状かが射してきでは消え、その間合いに混じるように梅の膏も吹きこんできた。とばされた

小机の上の紙の類いは、落ちたところからまた、意思あるように舞い立とうとしていた。

船よね、これじゃあ。身の内から湧き起る別の声に衝かれるように、女は高く言った。

ミンネルト教授の。彼は胸の中で応えて笑った。インドからオランダの家へ向う教授の航路は安ら

もオ杖まもよ

かだったか。海へ旅立わ人が若い女から贈られたといわれる、家思ふとこころ進むな風守り好く

していませ荒しその路、という古歌を、ふざけるように口遊んだ。しかし、彼には家が船であっ

た。船は家であった。勤めを辞めようとする長い緩慢な努力の中に、彼はなお日を過していた。

彼は例の詩作をつづけようとしていた。

台所のほうから呼ぶ声がした。机を離れていくと女はそこにいなくて、声ばかりが小路の、

稲妻の第一の角あたりで立った

o

l--

見ていて、そこのトイレの前の窓。

周の外ぴらきの戸があそぶ半畳の暗がりに、スクリーンのように懸る窓は、家でただひ

とつ北へ向い、浅い春にまだ閉ざされたままでいた。左の磨りガラ

スの中央に、板塀の隙が映るのか、ぼんやりとした緑の線が浮んでい

るのに、彼ははじめてのように注意を向けた。そのときことさらな建

音が、右手からゆっくりと近づいてきたかと思うと、鮮やかな天然色

の倒立画像となった女が、左手から、伸びあがるように浮き出た。

と見

る聞に、建音と擦れ違

て右へ消えた。

彼はあわてて窓を引き聞けた

そこには硬貨ほどもない節穴があって、目

を寄せると、小路の向う側の家の、一段高い生離の緑が覗いていた。光り

はその穴のところで逆立ちしていた。彼は女に往き来を強いて、単純で

くきやかな幻を、それからくりかえし愉しんだ。女が疲れると彼が代

り、それから二人とも、とうとう二畳の間に坐りこんで窓を仰ぎ、

少ない人通りをしばらくは待ちわびたりした。風の荒れる家は、

暗箱か眼底のようにも、彼らを落ち着かせた。

り 1

気、

(平出隆「家の緑閃光」より)

「史標」第21号1995年秋号( 9 月 9 日発行)

早稲田大学理工学部建築史研究室内

O. D. A. I史標J 出版局

169 東京都新宿区大久保 3-4-1

55N号館 8 階10号室 電話 03-3209-3211 内線 3255

FAX 03-3204-5486

目次

「自然j 概念から見た 19世紀近代と

テオドール・フィッシャーの建築改革理念 その l 太田敬二 (p.1)

* * * * *

s. クラーク/R.エンゲルバッハ「古代エジプ トの建築技術 (仮) J 訳 3

石原弘明・伊藤忍・柏木裕之・黒河内宏昌

小島富士夫・高橋啓介・西本真一・西屋宗紀 (p.l1)

クメール建築の屋根形状ーシュムレアップ講義 溝口明則 (p.15)

* * * * *

ダイ・ル一族の神話 (1) 高野恵子 (p.25)

* * * * *

国立市本田家住宅について 白井裕泰 (p.33)

* * * * *

Y邸新築計画 西本直子 (p.39)

* * * * *

後記・執筆者略歴・お知らせ (p.47)

「自然j 概念から見た19世紀近代と

テオドール・フィッシャーの建築改革理念

その l 太田敬二

前稿で試みたように,テオドール・フィッシヤ}の建築理念をその 19世紀以降の思想、

の文脈において通観すると 「自然j 概念が重要な意味を持っているらしいことが理解さ

れる 。 そこで,今回からこの「自然j 概念に焦点を当てて,近代におけるフイツシャーの

位置について考察をすすめる 。

1 )近代における「自然J 概念の 3 つの段階

まず,次の 2 点について順次検討を進める 。

a) ドイツ語の Natur ということばは,通常日本語で「自然j と訳されるが,その使用

法によって「本性j とも「天然j とも訳し得る 多様な意味を持っている 。 フイツシャー

の「自然j 概念はどのような意味で使われているのか。

b) 建築を「自然j との関わりにおいて論じることは,西欧においては古くから行われて

いたことである 。 しかし,フィ ッ シャーが重要な意味を与えた「絵画的j のような概念は,

実は 18世紀に端を発しまた[固有性j といった概念は17世紀から 18世紀にかけての古

典主義理論の中で確立されたものであり,さらに「部分と全体の統一J はそれ以前の古典

主義理論に遡る 。 すでに前稿において示唆したように,フイツシャーの建築理念には19

世紀を批判し,それへのアンチテーゼとして18世紀あるいはそれ以前の芸術論に帰還す

る傾向がある 。 こうした傾向の中での「自然J 概念の位置と役割。

a) まず, Natur ということばについてだが,これは西洋思想にとってきわめて重要な概

念であり, したがってその包括的な把握はほとんどそのまま西洋思想の全史に等しくなろ

う 。 ここでは,ひとまず現代における意味を整理しておく 。 いろいろな分け方があろうが,

フイッシャーの用法との兼ね合いで 以下の意味を区別しておく必要があるだろう 。

i) 人間の手の触れられていない,原生的な環境。 川,山,海,空,雨風,気候,植物,

その他の生物など。 また,条件付で人間を含む可能性もあるが,その場合,次の意味が関

係してくる 。

ii) 本来あるべき,必然的な性質の意味。 元来人間にも他の存在にも,また物質にも精

神にも適用されるが,人聞が思想の主題として立ち現われてくると,人間に本来そなわっ

た本性といった意味が優勢になる 。

後者の意味において人間の中の Natur が確認され,自然状態の人間を想定することがで

きれば,その限りで人間を前者の意味の自然に含めて考えることができる 。 その場合, r人

間の手の触れられていない自然j というのは,人間を全く除外するということではなく,

ただ人聞の不自然な要素を除外するという意味で,本来の(natürlich) 状態においては人

間も自然に含めることになる 。

とりあえずこの区別によってフイ ツ シャーの言説における「自然J を見ると,どうなる

だろうか。 フイツシャーは 1903年の言説の中で「自然な感覚j という概念を前面に押し

出し,これを「こんにち物質主義と一面的な科学的見方によって隅に追いやられた美的文

化J に関わるものとして位置づけているく 1903F) 。 そして都市の造形に関して「あらゆ

る部分をひとつの統一へとまとめること J , r周辺環境 (Umgebung) との共鳴J , r周辺

環境の固有性 (das Eigenartige ) を(中略)最高度に高める j ことなどを主張している 。 こ

れらはいずれも,建物を自然環境の一部となすことを主張していると理解される 。 問題は,

いかにして自然と建築とを結びつけるかということにおかれる 。

こうした言説において,建物と環境との関係を論じるときは「自然j は(i)の意味に

理解きれる 。 しかし「自然な感覚j というときには (ii )の意味に力点が置かれていると

いうことができるだろう 。 建物と自然というときには,人工物である建物と,人間の手が

入らない自然とが対置されていると見られ,他方[自然な感覚j は逆に人間の能力を指し,

しかもそれには「本来あるべき能力j といった意味が込められていると見られるからであ

る 。 このように区別すれば,フィッシャーの言説にはふたつの「自然j が混在することに

なる 。 しかし,両者を密接につながるものとして,あるいはつながるべきものとして述べ

ていることも確かである 。 人間と自然とがひとつにつながり,そのつながりが建築に表現

されるとき,建築はその本来の姿を獲得するのである 。 そのつながりをもたらすものは,

人間の内なる自然にほかならない。 それが,フイツシャーのいう「自然な芸術感覚j であ

ると考えられる 。

b) では,第 2 の問題,すなわちこうしたフイッシャーの「自然j 概念の源泉はどこにあ

るのだろうか。 19世紀において失われた建築の質を回復するために「自然な感覚J を尊

重すべきことを主張しながら,フィッシヤ}はルソーに言及し,次のように述べている 。

[たぶん当時においては,大方は倫理的文化に向けて,自然への回帰が言われたのだと思い

ます。 今日では,美的文化に向けて一一物質主義と一面的な科学的見方によってすみに追い

やられた美的文化にこのことばは向けられているように思われます。 J < 1903F, p.5 >

この言説には,フイツシャーが (i) ルソーの時代からひっの指針を得ていることと, (ii)

他方でルソーの時代と自らの時代との相違を意識していることが示されている 。

まず前者 (i) について。ルソ}は 18世紀半ば頃より数々の著作を出し, r 自然j とい

う概念を軸に現代社会の腐敗を厳しく批判した。 その「自然j とは果たして何を意味して

いたのか。 ルソーは [エミールj の中で,人聞を教育するものとして,人間に生来備わっ

た身体・精神の両面における成長能力としての「自然J と,そうした能力の活用方法を教

える「人間J と,みずから積み重ねてゆく経験としての「事物j の 3 つをあげている 。 こ

こでいわれる「自然j は一般的な意味での「本性j と理解されるが, しかしルソーは次の

ようにも述べている 。

「自然人は,まったく自分自身のためにのみ生きている 。 彼は整数によって勘定のできる,

一人で完全な全体であって,自分自身,あるいは自分と同等のものに対してしか関係を持た

ない。 J < 1762R,戸部松実訳368頁〉

ここに述べられている自然は,合理性それ自体である 。 それは自由に成長し,変化し,適

応してゆくような動的な自然ではない。 こうした自然に対して「社会j が対置される 。

「社会人は何分のーという分数によって数えられ,その価値は,社会という全体との関係に

おいて決められる 。 よい社会制度というのは,最もよく人間本来の自然を抹殺し,人聞から,

その絶対的な存在を奪って,一つの相対的な存在を与え<自我〉を共同体のなかに転移さ

せてしまう制度のことである J <同368頁〉

ここには大いなる矛盾がある 。 その中で,

2

「自然、と人間とによって反対の道に引きずられ,そのいろいろな衝動に身を引き裂かされて,

われわれは中途半端な道をたどり,結局,どちらの目標にも達しないのである J <同 370頁〉

ルソーはこうしてこの両者が一人の中に一致して矛盾のない人聞を理想とし,それを「自

然人j と呼んだ。 そしてこのルソーの自然人に理想の人間像を求め,その探求はフイツシ

ャーのいうように一見して倫理的な性格を帯びたものとなる 。

ここではふたつの点が注目される。一つは,ルソ}の「自然人j あるいは「自然状態I

を求める主張は倫理的なものであるが,その出発点としての「自然J は合理性そのものと

して考えられているということである 。 フィッシャーがこうした「自然j の見方にどのよ

うな態度を取ったのか,それは後に検討する。

もうひとつは,フィッシャーが「この偉大なスイス人とその時代」と述べていることで

ある 。 ルソーは数々の著作を通じて後の思想に大きな影響を与えたが,当時の思想界にあ

ってはその強い個性によって独特の位置を占めていた。 しかし,フイッシヤ}はルソーの

個性に共鳴しているだけではなく, Iその時代j という総体のなかでルソーを見ていると

考えられる 。 フイツシャーの「芸術J , I絵画的j といった概念を検討しでも分かるのだ

が, 19世紀を強く批判するフイツシャーの理念には, 19世紀以前の思想,とくに 19世紀

近代が明確な,思想的基盤を獲得する直前の時期,すなわち 18世紀思想との類縁性が認め

られる 。 このことから, I自然j という概念についてもレソーに言及されていることは

単なる偶然ではないと考えられる 。 ルソーの強い個性は18世紀当時においては多くの批

判もあびており,それをもって時代の一般的な考えであったということはできないのだが,

フイツシャーの中ではルソ}の「自然J は 19世紀批判の他の諸概念とひとつにつながる

ものとして理解され, Iルソーとその時代J がひとつの「偉大j として言及されているの

である 。

( ii) しかし,フィッシャーの建築理念の問題と価値を理解するには,それが単なる 18

世紀への回帰ではないことをも明確に把握する必要がある 。 上のフイッシャーの言説では,

「倫理的j 問題としての「自然j と, I美的j 問題としての[自然J との相違が語られて

いる 。 ここでフイッシャーは何を言わんとしているだろうか。 これを考えるには, 18世

紀の思想と, 19世紀の思想との相違を確認しておく必要がある 。

カッシーラーはルソーとカントとの関係について論じて,その「自然j 解釈の相違を次

のように述べている 。

Iカントがルソーの 『 自然状態j の原理をいかなる意味で解していたか,そしてそれをさら

にいかなる方向へ発展させたか(後略) 。 カントはそこに一一カント自身のその後の思想の

用語を使って表現すればLー構成ではなく統制的な原理を見たのである 。 かれはルソーの理

論のなかに,存在しているものについての理論ではなく存在すべきものの理論を,存在して

いたものの説明ではなく存在すべきものの表現を,懐古的な哀歌ではなく将来への予言を見

たのである。 J < 1944C,原好男訳34頁〉

ルソーはその「自然状態J の原理を,カントのように,人間能力の体系的・包括的批判の

中に位置づけることはしなかった。 カッシーラーはルソーの 『告白j の中の次の一節を引

きながら,むしろそれは「ほとんど直観のように生じてきたj ものだと言う 。

f森の奥深く,わたしが大胆に素描した歴史の原初の時代の直観を求め,発見した。 人びと

が陥りがちな安易な虚像はすべて退けた。わたしはあえて人間の本性を露にし,裸形のなか

でそれを見,人間の本性を変えた時代と事件の流れを追おうとした。 人為の人と自然人を比

3

較して,われわれが自称している完成のなかに,われわれの悲惨さの真の源を指摘したのだ

ったo J < 1944C,原好男訳中の引用による .46頁〉

カントは,ルソーによって直観されたこの「自然状態J からインスピレーションを受けて,

自らの批判哲学を形成したという 。 しかし,ルソ}の「自然j は先に見たように,合理性

そのもの,静的,普遍的な存在である 。 それはむしろ複雑に変化する人聞社会の対極に位

置する 。 そこからルソーの課題もはじまるのである 。 それでもカントは自らの批判哲学を,

jレソーの「自然状態j の真意を継承したものと考えていた。 カントは,ルソーのいう「自

然状態j を実際にそこに戻るべき原始のある状態としてではなく,現代社会の虚偽と誤り

を見出すための指針,現実と,現実になるべきものとの区別を主張する理念と捉えた。 さ

らにカントはそれが存在ではなく,存在すべきものであり,かつてあったものではなくこ

れから存在すべく目指されるべきものと捉えた。 すなわち「自然J を「構成J として存在

するものではなく,先験的な「統制的 (regu! ativ) 原理J ,きまぎまな経験を統合し,正

しい認識を可能とし,そこに目的を与え,目的との適合・不適合を正しく判断し行動する

ことを可能にするものとして捉えた。 こうして, r自然状態j は,カントの用語で理性の

実践的能力の先験的原理へと変貌するのである 。 もう少し詳しくみておこう 。

カントの批判哲学の中では「自然j 概念そのものは,より限定された意味においてのみ

用いられている 。 すなわち,

I我々の解する(経験的意味における)自然とは,現象の全体がその現実的存在に関して必

然的規則すなわち法則に従って統括せられたところのものである 。 J <1 781K, 2 .ed.. ,篠田

英雄訳291 . 292頁〉

ここでは自然は物自体ではな く, 現象の統括として,すなわち人間の意識の中の表象の総

体として語られている 。 しかしそれは,自然が何の対象も持たない表象の戯れにすぎない

ということではない。 それは「必然的規則すなわち法則に従って統括せられたところのも

のである j 。続けて言う 。

Iそれだから自然をまず可能ならしめる或る種の法則一一しかもア・プリオ 1) な法則がある 。

経験的法則は経験によってのみ,しかも経験をも初めて可能ならしめるところのかかる根源

的自然法則によってのみ成立 し,かつ見出され得る 。 J < 1781K, 2.ed.. ,篠田英雄訳292頁〉

すなわち,カントは「自然j を現象の統括と規定し,その限りで「自然j はそれを「自然j

として認識する者が存在してはじめて存在し得るものとしている 。 しかしカントは「自然j

の現実的存在を否定しているのではない。 ただ,われわれの認識をこえた「自然j を語る

ことは,形而上学に属する問題だというのである 。 これにたいして,カントはまず,われ

われが何を知り得るのかという問いから出発するのだ。 だとすれば,われわれが検討し得

るのは,あくまでわれわれの認識の対象として現われた「自然j でしかない。 しかしそれ

は各人それぞれの観念の中で勝手に担造された幻影なのでもない。 そこには客観性がある 。

そしてその源をカントは「根源的自然法則j に見た。 しかしそれは「現象のうちに存在す

るのではなくて,およそ悟性を有する限りの,そして現象が与えられているところの主観

に関係してのみ存在する j ものである 。 これによってわれわれは,われわれが経験する数

多くの素材を統括し, r自然j として認識する 。 しかし,その統括それ自体は経験からは

生じ得ない。 それは一切の経験なしに先天的に存在する原理だという 。

このようにカントは,経験によらない先天的認識の可能性と限界を 『純粋理性批判J に

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おいて展開した。 しかしそれはわれわれの認識能力を対象とするもので,われわれがその

上で何をしうるか,何をすべきか,それをいかに判断すべきかという問題はまた別に論じ

られなければないらない。 そこでカントは,さらに [実践理性批判j としてその実践的能

力についても批判をすすめる 。 ここでカントは,認識論における法則の概念に対して,実

践における指針としての「目的j 概念を論じる 。 ルソーもすでに次のように述べていた。

f教育が人為であるかぎり,それが成功するということはまず不可能である。(中略)細心

の注意をはらってなしうることは,せいぜい多少とも目標に近づくこと であって,目標に到

達するためには,よほどの幸運が必要である。その目標とはなんであろうか。 それは自然の

目的そのものである 。 J <傍点引用者, 1762R,戸部松実訳366頁〉

カントは I純粋理性批判j と同様に,主観と客観,そしてその先験的原理の枠組みにおい

て,今度は,意志を統制する実践的理性にとっての「目的j 概念を検討する 。 その詳細は

後にまた検討するが,ここに現われる「自然目的J という概念には,さきの「自然法則J

の概念とともに,ルソーに見られた合理的自然観に通じる[自然j の姿がある 。 しかし,

カントはそれをまず人間主観の 「統制的原理j として位置付け,人間と自然との関係を可

能性の問題として示したのである 。

こうしたルソーとカントとの相違をフィ ッシャーの建築との関係論において考察するた

めには,さらにカントのこの新しい「自然j 論と, I美j ないしは「芸術j の問題との関

係をも見ておく必要がある 。 カントははじめの純粋理性批判と,つづく実践理性批判とを

明確な原理, I自然J と「自由J , I法員U と「目的j において区別する 。

「哲学が,概念によって物を理性的に認識する原理(論理学のように,対象の差別にかかわ

りなく思惟一般の形式の原理だけではなくて)を含む限り,哲学を一一普通に行われている

ように, 理論的哲学と実践的哲学とに区分することは,確かに当を得た遺り方である 。

しかしそうなるとかかる理性的認識の原理にそれぞれの対象を指示するところの概念もまた

種別的に異なるものでなければならない, (中略)かかる概念は,二通りしかない,そして

これらの概念がそれぞれの対象を可能ならしめるような相異なる二通りの原理を与えるので

ある 。 即ちそれは一一自然概念と自由概念とである 。 J < 1790K,篠田英雄訳21頁〉

しかし同時に,こうして原理的に区別されたふたつの領域を媒介するものとしてカントは

「判断力j を位置付ける 。 そしてこの判断力についての批判においてカントははじめて美

の問題を扱う 。 まず判断力は次のように位置付けられる 。

「悟性[理論理性]の立法のもとにおける自然概念の領域と,理性[実践理性]の立法のも

とにおける自由概念の領域とは(いずれも自分自身の原理に従いつつ)互いに多大の影響を

及ぼすことがあり得るにも拘らず,他方においてこの両領域は,超感性的なものと現象とを

分かつところの広大な深淵によって完全に分離されている 。 その限りにおいて, 一方の領域

から他方の領域への橋渡しは,まったく不可能である 。 しかしたとえ自由概念に(またこの

概念の含む実践的規則に)従うところの原因性を規定する根拠が,自然のうちに存しないに

しても,また感性的なものが,主観における超感性的なものを規定し得ないにせよ, しかし

その逆は可能であり(中略) ,このことはまた自由に よる原因性の概念のうちにすでに含ま

れているのである 。 それだからこの原因性に因由する結果は,自由の形式的法則に従って,

世界において生じることになる 。 (中略)ところで自由概念に従うところの結果は究極目的

である 。 この究極目的(或は感覚界におけるその現象)は実在すべきものであり,そのため

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にかかる究極目的を可能ならしめる条件が, (感性的存在者即ち人間としての主観の)自然

的本性のうちに前提されるのである 。 そこで実践的なものを度外視しでかかる条件をア・プ

リオリに前提するところのものが,即ち判断力である 。 判断力は,自然概念と自由概念とを

媒介するところの概念,即ち自然の合目的性という概念を与える,そしてこの蝶介的概念が,

純粋理論理性から純粋実践理性への移り行きを,また自然概念に従うところの合法則性から

自由概念に従うところの究極目的への移り行きを可能ならしめるのである 。 J < [ ]内引

用者付記, 1790K,篠田英雄訳,上61頁〉

カントはこうした認識論批判の体系を以下のような一覧にして示している 。

心的能力の全体

認識能力

快・不快の感情

欲求能力

適用の範囲

自然

芸術

自由

カントはこのような心的能力の体系的批判にもとづいて [美j および[芸術j の概念

を規定する 。 すなわち,美は悟性による認識の対象とは異なり,その判断に概念を必要と

しない。また,それは対象に対する関心(利害関係)とも無縁で,目的を持たない。 しか

しそれにもかかわらず美的判断は論理的判断の普遍性と,道徳的判断の合目的性をもっ。

つまり,それは目的なき合目的性,主観的普遍性をもっO このようにして,カントは美的

判断についても,純粋理性,実践理性において措定された先験的原理の枠組みの中で考察

をすすめ,これとの関係の中で, しかし悟性や理性の対象とは区別されるものとして美を

位置付け,また認識とも欲求とも異なる営為として芸術活動を説明するのである 。

いうまでもなく,こうした思想の当否がここでの問題なのではない。 ここでのテーマは,

カントがその時代に与えた思想的基盤である。カントの試みにおいて「自然j という概念

それ自体は,もっぱら純粋理性の認識能力に関わるものとして定義されるが, しかしさし

あたって重要なのは,ア・ブリオリな原理としてあげられた法則,目的概念もまたすべて

I自然j に密接に関わるということである 。 I自然j ということばそれ自体は限られた意

味でしか使われていない。 しかしそれはことばの定義の仕方の問題にすぎない。 カントの

先験的原理は「自然j との密接な関係の中におかれている 。 このことは,すでに見たよう

に,カントが自ら主張するルソ}との連続性においてはっきりとしている 。 フィッシャー

の{自然j 概念はいうまでもなくこうした関連性をすべて含めて使われていると考えられ

る。その意味で,フイツシャーはカントの思想を jレソーにまで再び押し戻して理解してい

るようにも見える。しかし フイツシャーの中には カントが提示した思想的基盤もまた

生きていると考えられる 。 確かにフィッシャーはカントには言及していないし,またその

熱心な読者であったとことを示す証拠もない。しかし フイッシャーはゲーテを信奉して

おり,そのゲーテはカントに強い共感を示していた。 カントは認識論を自らの仕事とした

が,ゲーテはそれに共鳴しつつ,それを基盤に自ら行動し,その軌跡を思索,文学,科学

に残した。 そこで次の問題は,ゲーテがこれまでに見てきた範囲でのカントの思想をどこ

まで受け入れ,それを基盤としてその芸術論を形成し,また芸術活動を行っていたかとい

うことである 。

エッカーマンは [ゲーテとの対話j に次のように記している 。

[私はゲーテに,近代の哲学者のうちで誰が最もすぐれていると思うか,と尋ねた。 rカン

6

トが, J と彼は言っ た, r疑いもなく最も秀れている 。 彼はまたその教えがたえず影響 し,

我がドイツの文化の中に最も深くしみ込んでいる人の一人である 。 又その著書を読まなくて

も君は彼の影響をうけている 。 (後略) J J < 1822E, 1827年4月 11 日,亀尾英四郎訳,上

271頁〉

あるいは,今日の眼から見ればゲーテとカントの共通点を見つけ出すことの方が困難かも

しれない。 しかし,われわれは時代の状況を念頭に置く必要があるだろう 。 ゲ}テは自ら

カントとの共通点を次のように述べている 。

I主観と客観との区別,更に,すべての事物はそれ自身のために存し,コルクの樹は我々が

瓶の栓にするために成長するものではないという見解,これらはカントと私と共通している 。

そしてこの点で彼と一致したのが嬉しかった。 J <向上 271頁〉

ここでゲーテが言っ ていることは当たり前のことのようにも見える 。 しかし,当たり前と

見えることの背後に,当時の時代状況が見えてくる 。 カッシーラーはヴォルテールをあげ

てこのことを説明している く 19440 。 訊刺物語 『カンディードJ (1759) に登場する賢

人パングロスは次のようにいう 。

「すべてのものは何らかの目的があってつくられているのだからして,必然的に最善の目的

のためにある 。 よろしいかな。 鼻は眼鏡をかけるためにつくられている 。 ゆえにわれらは眼

鏡をかける 。 脚は見ればわかるとお り靴をはくために設けられている。 ゆえにわれらは靴を

はく 。石は切って城を建てるために形づくられている 。 ゆえに御前は見事なお城を持ってい

なさる 。 (中略〉してまた豚は食うためにつ くられているのだからして,われらは年中豚を

食う 。 J < 1759V, 吉村正一訳14-15頁〉

主人公カンデイ ードは世界を経巡りながこの人物とともに数々の悪と災難に見舞われて,

その調和的目的論に救いを求めるが,パングロスはますます己の哲学の世界,その中にお

いてのみ可能な調和の世界に埋没し,現実そのものから逃避してゆく 。 残されたカンデイ

ードはただ「何はともあれ,わたしたちの畑を耕さねばなりませんj ということしかでき

ない。 カントの批判哲学は,当時のひとびとがある堪えがたい違和感を感じはじめていた

思想的基盤を根底的に検討し直し,新たな思想、の基盤をつくる役割を果たした。 ゲーテは

それを, í主観と客観の区別J にもとづく目的概念の分析により「すべての事物はそれ自

身のために存j することを明らかにしたものとして評価した。 ここでカント批判哲学にお

ける「主観j と「客観」の概念を包括的に検討することはできないが,次のことは確認し

ておきたい。

それは,主観・客観という概念, ドイツ語で言う "Subjekt" と "Obj ekt" の概念が対立す

る概念として認識論的に位置付けられたのは18世紀以降のことであり,それ以前におい

ては,例えば "Subjekt" は主題, "Objekt" は意識内容などを意味し,今日のような相互対

比的区別はなかったということである 。 í主観と客観の区別j はカントが経験的要素と先

天的原理との関係の中で人間の認識 ・判断・ 実践能力を考察するなかで,決定的な重要性

をもっに到ったのである 。 その意味で,ゲーテの指摘はひとつの本質をつかまえたものだ

といえる 。

こうして確立された「主観j の概念は, í芸術j 概念と結びついて 19世紀芸術論の重

要な基盤となってゆく 。 カントは,美的判断力の普遍性を主観のア・プリオリな原理から

基礎付けようとした。 そして,そこでは芸術は,美的技術と位置付けられる 。 しかし,ガ

ダマーは次のように指摘する 。

7

「主観性のア・プリオリ による美的判断力の基礎づけは,カントの後継者たちにおいて超越

論哲学的な反省の意味が変化したとき,まったく新しい意味をもつことになった。 カントに

おける自然美の優位を根拠づけ,天才概念を自然へと結びつけていた形而上学的な背景がも

はや持ちこたえられなくな る と,芸術の問題の位置づけが新しい意味をもってくるのである。

(中略)芸術の立場から見ると , カントの趣味概念と天才概念との関係は根本から変わって

しまう 。 今や天才の概念の方がより包括的な概念になり,逆に趣味の価値は下落せざるをえ

なかった。 J

I フィヒテやシェリングも , 他の点ではカン トの超越論的構想、力の所説に従っていたが,美

学に関しては,構想力概念を新しい意味に使った。 その結果,カントとは違って,芸術の立

場は無意識の天才的な創造の立場として,一切を包みこむものになり,自然もまた精神の所

産として理解され,同じくそこに包括されることになったのである 。 J

「しかしその結果,美学の基礎そのものにずれが生じた。 (中略)カントがあれほど熱狂

的に述べた,自然の美に対する道徳的関心は,いまや芸術作品において人間は自己と出会う

という考え方の背後に退いてしまうのである 。 ヘーゲルの壮大な美学のなかでは,自然美は

わずかに〈精神の反映〉として登場するにすぎない。 自然美は結局のところ,美学の体系全

体のなかではもはやいかなる自立的契機でもなくなってしまったのである 。 J く 1960G>

ここにわれわれは,ブイ ッシャ ーの「自然j 概念との関連において, 18世紀から19世

紀にかけての 3 つの段階を区別し得る 。 ひとつは,ルソーの「自然J ,次にカントの「自

然J ,そしてカント以後の「自然j である 。 ルソーの「自然j はいまだ認識論的に位置付

けられていない合理性としての自然であった。 カントはその意義を主観の先験的な原理と

いう考えによって,可能性として位置付ると同時に,その関連において「芸術j を意味付

け,それによって独立した地位を与えた。 そしてカント以後, I自然J の形而上学的な基

盤が弱体化する中で, I芸術j は「自然」とのつながりを失い,主観の奥深くにその根拠

を求めるようになる 。

フイッシャーの「自然j 概念にはこれらが微妙かつ複雑に混ぎりあっている 。 しかしそ

の混ざり方には,所定の意味を見出すこともできる はじめのフイツシャーのことば,ル

ソーは「倫理的j 問題として「自然j を主張したが,今や「美的j 問題として「自然j が

主張されるべきだという言説を思い起こそう 。 ここでフイツシャーはルソーに依拠しつつ

ふたたび「自然j を主題とすることを主張する一方, しかしそれが今日ではルソ}と異な

り, I美j のためになされると主張している 。 これはまず,フイツシャーがルソーの「自

然J と,カントあるいはそれ以後の「自然J の意味の相違を認識していたことを示してい

ると考えられる 。 では,フィ ッシャーの中で「自然j と「美j と「芸術j とはどのように

位置付けられていたのだろうか。

実はフィッシャーには,カント以降の「芸術j の主観主義への偏向に対して,ふたたび

「自然j との関わりで芸術を理解すべきだという考えがあった。 例えば,フイツシャーは

「芸術j の衰退に対して, I自然な芸術感覚j の必要性を主張しながら,その第一歩とし

て「我を忘れること j を説いている< 1901F) 。 つまり,フィッシャーの[自然J 概念は,

19世紀の「芸術j の在り方に対するアンチテーゼとしての意味を持っていた。 フイツシ

ャーはこの意味で,今日では「美的J 問題として「自然j が問題となると述べているのだ

と考えられる 。 従って,ここでフィッシヤ}が「芸術的j といわずに「美的j といったこ

8

とも,単なる偶然ではなく, 当時においてはむしろ主観主義を想起させる「芸術j という

概念に[自然美J を対置させるために,意図的に「芸術j ということばを避け, I美的j

と述べたのだと考えられるのである 。 この範囲において われわれはフイ ッ シャーがカン

トの書物を通じて直接影響を受けていたと仮定する必要はない。 なぜなら,フィッシャー

にはゲーテへの傾倒が明らかで,そしてゲーテの芸術および自然概念に,すでにルソーと

の相違は含まれているからである 。

このように,フイ ツ シャーは「自然j 概念を, I芸術j 概念とともに, 18世紀, 19世

紀,および両者の転換期のそれぞれの相違をある程度意識しつつ使用していた。 しかし,

その相違は,歴史学的関心を動機として意識されたものではなく, 19世紀の問題を把握

し,それを批判し,そこから脱するための機軸を求める中で意識されたものであると考え

られる 。 こうした背景を考慮することで はじめてフイ ツ シヤ}の「自然J 概念の個々の

内容の理解も可能となるのである 。

2) フィッシャーの建築論における「自然J と「悟性j の理念的位置

まず,フイツシャーが19世紀を批判するにあたって,芸術の堕落とともに, I科学的

方法j への偏向を非難したことの意味を考えてみよう 。 それが,客観的思考そのものを否

定するものでないことは明らかである 。 というのは,フィッシャーの批判は学問という領

域そのものに向けられたものではなく,芸術との関係に向けられたものだからである 。 勿

論それは,芸術家という限られた者だけの問題でもない。 そうではなく,芸術と学問の問

題はつねに一組で考え られているということである 。 そして両者をひとつの問題として捉

えるためには,両者に通底する基盤が必要で、あろう 。 しかし,それは今あるものではない。

だからこそ,問題なのである 。 フィ ッ シャーの課題はその基盤を見出すことにある 。

フィッシャーは移り住んで間もないシュト ゥ ットガルトにおける講演で,地元の聴衆を

前に次のように述べている 。

「教授が講演をするとい う 仁科学的に厳密な,周到に計画され,導入として歴史の経緯

からはじまり,反論の余地のない一一あるいはそう見えるにすぎないテーゼで締め括られる,

そういった講演が期待されているかと思います。 しかし残念ながら私はそのいずれも差し上

げることができません 。 お聞かせできるのは,ひとりの人間のありのままの意見であり,そ

の人間は(中略) ,確かに長年実践をつうじて都市建築の中に芸術を目指してはきたが, し

かしその仕事の経験からむしろ,われわれがこの新しい分野に対して教義を打ち立てるに到

るはまだまだはるかに遠いということを確信しているのです(中略) 。 はじめに原則を,す

なわち高度に専門的で,それゆえに必然的に一面的な原則を探し,そしてそれに従って行動

するというのが確かにこの時代精神にかなったことなのでしょう 。 しかし,芸術において是

とすべきものは,たいていこれとは逆の過程において生じるのです。 本当の価値がまず生ま

れ,それを科学が役立てるのです。 従って,いわばこれが私の意見なのですが,都市建築芸

術は,まさにそれが芸術であるがゆえに,その源泉,その素材,その当否は悟性によっては

尽くせないのです。 芸術は生そのものと同様に,限りなく多様です。 そしてその本質を単純

な公式にとらえようとする これまでの試みはすべて挫折を余儀なくされてきました。 全体を

把握したと考えた者も,ただそのしっぽをつかんだにすぎなかったのです! J < 傍点引用者,

1903F, p.4 >

では,果たして何が可能なのだろうか 。 フィ ッ シャーはここで,控え目にではあるが「自

然な感覚j を主張する 。

I悟性によって悟れないのなら,一体われわれは何を導き手としたらよいので し ょう 。 私自

身が日ごろ悟性の上位に置いているのは,自然な感覚ということです。 J

科学と芸術とをひとつのものとして捉える理念的な基盤をフイツシャーは人間の「生J に

見出していることがここには示されている 。 しかし,それを建築と都市に実現するには,

「悟性j だけでは不可能である 。 I悟性j に可能なのは,手段に関与することで,価値そ

のものを創出することは悟性のみでは不可能だからである 。 こうしたフイツシャーの言説

から見ると,芸術の科学への依存という批判も,科学そのものを有害とするものではなく,

ただ人聞の「生j をその価値において捉え,それを人間の環境形成の技術に反映する手立

てがどこにも存在しなくなることを指摘したものと理解される 。

しかし,いずれにせよそれが現代の芸術の実情だとすれば, I生j を実現し,またそれ

によって科学をも生かすことになる「導き手J を見出すことが問題となる 。 フィ ッシャ ー

はその可能性を「自然な感覚j に見出そう としている 。 従って,まずこのことから逆にこ

こでの「自然な感覚J は「悟性j に欠けたものを補うものとして考えられていることが理

解される 。 このことは 重要である 。 なぜなら,この考えには悟性の限界という明解な認

識があり,それはまさに 19世紀に獲得されたものだと考えられるからである。一見レ

ソーのテーゼ,あるいはより 遡っ た時代の建築論への素朴な回帰と見える「自然j 概念の

復権は,しかし単なる過去への回帰ではなく,悟性の可能性と限界を認識し,それを補う

ものとして位置付けられた「自然j であるという点で,フィッシヤ}はやはり 19世紀以

降の思想的基盤に立っているということができる 。 (続く)

参考・引用文献

1759V Voltaire, Fran輟is Marie Arouet de: Candide ou l'optimismer, 1759 (邦訳 fカンディードJ 吉村正一郎訳, 岩波文庫 1956年)

1762R Rousseau, Jean-Jacques: Emil, ou de l'Education, 1762 (邦訳 fエミー jレj 戸部松実訳,中央公論社 1966年)

1781K Kant, Immanuel: Kritik der reinen Vemunft, 1781 (邦訳 『純粋理性批判j 篠田英

雄訳,岩波文庫 1%1年)1788K Kant, Immanuel: Kritik der praktischen Vemunft, 1788 (邦訳 『実践理性批判j

篠田英雄他訳,岩波文庫 1979年)

1790K Kant, Immanuel: Kritik der Urteilskraft, 1790 (邦訳 『判断力批判j 篠田英雄訳,

岩波文庫 1%4年)1822E Eckermann, Johann Peter: Gespr恥he mit Goehte in den letzen Jahren seines

Lebens, 1822・32 (邦訳 fゲーテとの対話j 亀尾英四郎訳,岩波文庫 1940年)

1切1F Fischer, Theodor: Städtebau, 1901. In: Nerdinger, Winfried: Theodor Fischer, 1988, ppお0-.お2

1903F Fischer, Theodor: Stadterweiterungsfragen mit besonderer R� cksicht auf Stuttgart, 5畑仕gart 1903

1944C Cassirer, Emst: Rousseau, Kant, Goethe, 1944 (邦訳 r18世紀の精神j 原好男訳,

思索社 1989年)

1%侃 Gadamer, HanシGeorg: Wahrheit und Methode, 1%0 (邦訳 『真理と方法j 轡田

収他訳,法政大学出版会 1986年)

10

(承前)

S. クラーク /R. エンゲルバッハ『古代エジプトの建築技術(仮) J 訳 3

石原弘明・伊藤忍・柏木裕之・

黒河内宏昌・小島富士夫・高橋啓介・

西本真一 ・西屋宗紀

研究者にもたらされたジョセル王の建造物での付柱の使用は大きな驚きであったが、いくつか

のその付柱にフルーティングが施されていた点は、公衆のさらなる興味をかきたてることにな っ

た。フルーティングはたいがいの王朝を通じて見られるものの、付柱はエドフ、カラプシャ、デ

ンデラなどにあるプトレマイオス期やローマ期といった後の時代の神殿においてさえもほとんど

知られていない。付柱は「柱をかたどるもの」と言ってよいであろうが、構造的にはわずかな有

用性を持つだけである。それは壁体の組積から彫り出されたもので、これによ って強度が増すわ

けではない。ジョセル王の建築では、変わった異例の付柱が見受けられるが、独立柱については

まったく見られない。装飾を抜きにするならば、それらには真正の付柱(図1)と、建築学的に

は付柱と言えようが実際には壁体と柱との混合と考えるべきもの(図 2"'4) の 2 種類が見られ

る。セシル・フアース氏は"Annnales � SぽVl印"誌第25巻の 158ページでそれらについて述べてお

り、 「建造者は独立柱に関して充分な知識を有していたが、この場合では木の丸太をあらわすよ

う赤く塗られた石灰岩の梁からなる重い屋根を支えるため、長さの短い壁の端部を彫刻する方を

選んだということが明らかである」と記している。

G. ライズナ一博士は、第 4 王朝のギザのマスタパを例にとって、著者のひとりに次のように御

教示くださった。

「最長で250 ~285Clllの石灰岩の版が実際の屋根の材料として用いられている。長い版では50cmから

80cmの厚さを持つ。壁体の石灰岩では、屋根版やアーキトレーヴにおいてなされているのと同じく、石材の

層理の方向は水平に、自然な状態となるように置かれている。第 4 王朝で用いられた四角い柱では、層理の

方向が垂直に走っている。石材はよく選別され、またアーキトレーヴはきわめて用心深く置かれたので、柱

が破損することは非常に稀であった。アーキトレーヴや屋根版の中央部にかかる荷重は、石の耐荷重を越え

ることはなかった。荷重がかかる柱聞は通常120~150Clllで、これらの屋根の上には、 20~100cmの厚さを

持つ充填層だけがあった。」

ジョセル王の時代の建築家たちは、 9 フィート前後の柱聞にも石を架け渡せると信じていたよ

うに思われるが、しかしそのような長さに渡って屋根版をアーキトレーヴの上にあえて載せること

はしなかった。その一方で、小さな石材から造られた独立柱の支持力については、彼らは大いに

疑っていたであろう。実際に丸太を屋根に用いることはこの時代、すでに遠い過去の話であった

と想像すべきではない。ライズナ一博士は著者たちに、ギザのメンカウラーの神殿の北通廊や倉

庫において、屋根が木の丸太で造られていることを知らせてくれた

ジョセル王の石造建築で見られる建築形態のなかでひときわ興味深いものは、階段ピラミッド

外周壁の南東角にある列柱廊の、条線がつけられた柱であろう(図 3 、 4) 。この柱の形は以後

1 階段ピラミ ッドの北にある第 3 王朝のマスタパでは、角を丸く落とされた木の角材が、通廊を囲む組積

壁の上端に沿って置かれ、その上に屋根材が並べられていた。この建物では屋根材の下面が丸太をあらわす

よう 、 丸く仕上げられていた。角を丸く落とされた木の角材は、屋根材が壁体に及ぼす不均一な荷重分布を

ならすためのものである。

1 1

において見ることはできない。柱頭は単純で、幅広いアパクスが載るだけである他の変わっ

た形態としてはパヒ。ルスの茎の形をした付柱が挙げられ、葦に特徴的な三角形の断面を有してい

る(図 7 、 153) 。柱頭はパピルスの開いた花をあらわしており、この形は王朝時代の最後まで用

いられ続けた。ある建物上部の正面にはもともと、曲がってアーチ状となったコーニスを支承す

る条線が刻まれた細い付柱が、各嗣堂に 3 つずつ、並ベて飾られていた。これらの付柱はこれま

で知られている限りでは、柱の両側に垂れ下がった 2 枚の葉に似た形で上端が終わっており(図

5 、 6) 、またそこには前から後ろに貫通するほぼ円筒形の穴が開けられている。これはおそら

く、建物前面の屋根のかかっていない中庭を覆う日除けを、吊って固定するためのものであろう。

あるいはまた、排水のための銅製の雨樋を受けていたのかもしれない。

ジョセル王の石造建築に関しては、その建築的な形態や技術がジョセル王の治世下に発展した

のか、あるいはその前に少なからぬ歴史があったのかという、興味深い問題が提起される。当初

はそれらがあまりにも早く進歩を遂げることができたとは信じられず、また付柱の存在は、独立

柱がより早い時期の石造建築に存在したに違いないことの絶対的な証拠であると思われた。だが

私たちは今や、美しく整形された石材の上に施された彫刻はたぶんジョセル王の時代に発達した

のであろうし、その形態は煉瓦や植物の形態から導かれたのであろうという考えに傾いている。

独立柱は確かにジョセル王の前から知られていたに違いないが、しかしそれはただヤシなどの木

の幹や葦を泥で固めた原始的なものであったのだろう (p.6) 。そのような柱が石に変えられた時

には、壁と組み合わされることで強化されなければならなかったらしいのだが、ここから第 3 王

朝の王女たちの嗣堂の付柱が、直ちに生み出されたのであろう。独立柱が初めから造られたらし

い他の諸国では、その後長い期間に渡り、付柱が発展することがなかった。ジョセノレ王の建築家

たちにより、独立柱が試みられたのではないかと考えることは可能であるが、しかしアーキトレー

ヴや屋根の石材を充分に支えるような強度は持ち得なかったであろう。これらの点について確か

めようとするのは未だ早計であり、将来サッカラの発掘によって独立柱があった証拠が見出され

るかもしれない。すでに発掘がなされた嗣堂や柱廊においてさえも発展の形跡は看取することが

でき、組積造における層の積み方はますます真っ直ぐ積まれるようになって、建設の際の接合部

をより密接にするさまざまな創作上の技芸の進歩が見られる。ジョセル王の数世紀前から、多少

組雑な石積みを伴う建物は知られており、初期の先王朝時代から、非常に堅い石の切断方法や仕

上げ方に関する知識はあった。それゆえ建造者たちがひとたびトゥーラ=マッサラの石切場でう

かがわれるような、質が良く容易に加工できる石に、家屋で見かける興味をそそられた建築的な

形態を真似て刻みつけようという考えを持った時、この芸術が非常な早さで発展していったであ

ろう点は驚くに当たらない。大きな石材が積まれた巨大な建造物が、永遠に残るようにと考えら

れて造られた時、ジョセル王の繊細な装飾はもはや施されることがなかった。壮大さと非常な正

確さとが建築家の主眼であった時の建物において、それはもはや、ふさわしくなかったからであ

る。

(続)

1 Lauer, Annales du Service , vol. xxvii , pp. 112-33を参照。復原された柱頭が示されている。

12

図 3 階段ピラミッド外周壁南東隅部、ジョセル王の列柱廊。第 3 王朝、サッカラ

(写真はエジプト政府、考古庁の提供による)

図 4 ジョセル王列柱廊西端の横長の広問。第 3 王朝、サッカラ

(写真はエジプト政府、 考古庁の提供による)

図 5 付柱頂部。ジョセル王の建造物、

第 3 王朝、サッカラ

(写真はエジプト政府、考古庁の提供による)

図 6 図 5 の付柱頂部の斜めからの立面

(写真はエジプト政府、考古庁の提供による)

..1':'.,...-

1 ) ;:二

図 7 パピルスの茎と頂部をかたどった付柱、サッカラ、第 3 王朝、王女の詞堂から

(写真はエジプト政府、考古庁の提供による)

14

1 .導入

クメール建築の屋根形状

ーシェムレアップ講義一

溝口明則

みなさん(プノンペン芸大生 7 人。日本チームの研修生)今晩は。今日もハードな一日

でした。そのあとで講義を受けるのは,なかなか辛いものがあります( 8 月 17 日,午後 8

時30分)。講義をするほうも同様の感想です。でもせっかくの機会だから,いま関心を持

っていることについて話をしたいと思います。あまりまとまっていませんが,ぜひ一緒に

考えてみてください。

ここ数日,何人かのひとたちに,パイヨン外回廊の内壁に沿って散在している石材置場

の中から,とくに屋根部材だけを捜しだし 1 点 1 シートでスケッチと採寸をしてもらい

ました。この作業の目的は,パイヨン北経蔵の屋根を復原するための基礎資料作りです。

現在,伽藍のあちこちに,落下したいろいろな建築部材を集めた石材置場があります。こ

の中から北経蔵の部材を見つけだすためには(さしあたり屋根部材に絞って調査をしたん

ですが) ,どれが経蔵の部材で,どれがそうでなし、かを区別できるようにならないといけ

ない。そのためには,バイヨン伽藍の中のすべての屋根部材について,よく分かっていな

ければならないわけです。

屋根の形状は,みたところどの遺構もみんな同じようなものですから,屋根部材につい

てもよく似ているはずです。もし経蔵の部材だけ,なにか特徴があるとしたら,それを発

見するために,パイヨン伽藍のなかの,すべての屋根部材のヴァリエーションを網羅した

カタログを作る作業が必要だったのです。

ようやくカタログ作りにメドがついてきました。幸いなことに,北経蔵の屋根部材の特

徴がはっきりしてきました。どうやら他の遺構の屋根部材と,うまく識別できそうです。

2. クメール建築の屋根形状の問題

さて,この屋根部材の形(図 1 )は,いったいどこから来たのだろうか。個人的にいま

もっとも関心のあるテーマはこの問題です。

屋根形状といっても 2 つの問題が含まれています。 1 つめの問題は, レリーフのように

彫りだしている瓦型の問題です。 そして 2 つめの問題は屋根全体の形状です。おいおい述

べるように,この 2 つの問題は決して独立した問題ではなく,相互につながり合っていま

す。そしてこの問題の背景をうまく掴み上げることができれば,クメール建築の起源を考

える上で,おそらく,意味ある手掛かりになるのではないかと予想しています。

(1)瓦型の起源

さてはじめに瓦型の問題です。似たような形を,わたしたちは日本でみています。いま,

日本に残っているもっとも古い形式は,およそ 1300年前のものですが,それは平瓦と丸瓦

とを組み合わせて作った「本瓦葺」の形状です。まず,この瓦についてお話しましょう。

人類の文明は,はやい時期に石造建築を生み出しました。これには,いきなり石造ない

し煉瓦造で建築を構築する場合と,木造建築を発明し,これを石造に置き換えていくとい

う, 二つの経緯がありました。人類が作った 2 つの典型的な構造は「壁を建てる構造」と

1 5

「柱と梁で架構する構造」です。 前者は煉瓦や石を用いるし,後者はまず,木造の部材を

組み合わせることで生まれました。

さて柱と梁の構造は,住を地中深く埋めることで, しっかりした構造を作ろうとします。

しかしこの方法では,木の場合,柱の足元が腐ってしまい,永く建っていることができま

せん。日本では,条件が揃っていても,長くて50年程度しかもたないといわれています。

そこで,木造建築を下敷きにして,これを石に置き換えるという発想が現れることにな

りました。石で作ればもっとはるかに永く,建築を保っていられるからです。そのような

建築は,人類の初期文明の時代に,強い王権の成立を条件として,そのような王権によっ

て推進されました。煉瓦造や石造の建築は,ピラミッドやストゥーパ,そして壮大な神殿

建築に用いられました。ピラミッドは,エジプトが統一国家とし安定しだした紀元前2700

年頃からおよそ 200年のあいだに集中して作られました。また,いまはスリランカにしか

残っていない巨大なストゥーパも,もともとは紀元前 300年頃の,アショカ王のインド統

ーを契機として,それ以後の時代に現れたものです。ヒンドゥー教の石造寺院も,グプタ

王朝の時代. 4 世紀頃から作られるようになりました。

いずれも,王はただの人間ではなく神や仏陀と同値であります。王の権力の強さを,そ

して祭記集団と合体した王権の絶対的な力を象徴するものとして,建築は広義の神殿であ

ることと同時に,永遠に建ちつづけることが求められたのです。現在,世界中に残ってい

る多くの遺跡は,たしかに王権が消滅したのちまで残りつづけることになりました。

さて,東アジアでは,石造建築はあまり発達しませんでした。いい石があまりなかった

こと,地震が多いことなど,いろいろな原因が考えられています。そこで木造建築のまま

永遠に建ちつづけるために,いろいろな工夫が生まれました。

まず,礎石の上に柱を建てる方法です。これは柱根を腐らせないように土中に埋めず,

石の上に木の柱を載せるという方法ですが,このままだと柱は,単に石の上に置かれてい

るだけですからすぐに倒れてしまいます。ですから柱同士を横の部材でしっかりと繋がな

ければならない。それで,礎石柱の構造は,木造の架構技術が高度に発達していないと成

立できないわけです。

第 2 に,組物が発達しました。軒を深くして雨水を避けようとしたためです。このため

に丸桁を片持ちで支えようとする複雑な架構,組物を柱上に設けるようになりました。

第 3 に,これは第1.第 2 の工夫と繋がっていますが,側面に石材を張った高い基壇を

構築するようになったことです。 深い軒は必ず基壇よりも外まで延びていて,軒先から落

ちる雨水が基壇の外に落ちるように工夫されています。

第 4 に,酸化水銀を用いて木部をコーティングしようとします。日本の古代建築の軸部

が大抵赤い色に塗られていたのはこのコーテイング I丹」を施した結果です。そして,

部分的に金属板を用いて被覆することも行われました。

最後に,瓦屋根を用いたことです。やきものである瓦を屋根上に敷きつめて,木部を水

分から守ろうとしたわけです。瓦の発達は,木造建築を永遠化しようとする契機を通して

なされたのです。

さて,屋根について考えてみましょう。瓦を剥ぐと,その下に垂木があります。垂木は

深い軒をもっ建築であればあるほど,放射状に並べることが構造的に有利なはずです。日

本ではこれを「扇垂木」とよんでいます。 1400年前の日本に,そのような屋根が存在して

16

いました。しかしすぐに平行垂木が現れ,現在に至るまで主流はずっと平行垂木でした。

平行垂木は軒隅で隅木にぶら下がります。ただでさえ軒の出が長くなる軒問で,隅木に

ぶら下がることは構造的にきわめて不利な方法です。平行垂木の起源を考えれば,どうも

瓦を掛けようとしたことが原因のようです。平行に垂木を並べてあいだに平瓦を掛けわた

し,垂木の上,平瓦のつなぎ目に丸瓦を被せるのです。そこで軒先の瓦では,垂木の先端

を保護するために瓦当というものをとり付けました。軒先丸瓦の先端部のことです。

中国「周原」で発見された,起源前1000年の宮殿か霊廟のような遺跡で,東アジアでも

っとも古い瓦が発見されています。世界最古かどうかよく知りません。これは「半瓦当」

(図 2 )という形状で,この遺跡ではこの種の瓦だけが見つかっています。つまり,軒の

先端にだけ瓦を葺いたらしいのです。そ ういうわけで,瓦はごく初期のうちから,垂木の

先端を保護するという働きも求められていたことがわかります。

平行垂木に平瓦を掛ける。そのつなぎ目,垂木上に丸瓦を載せる。こうして東アジアの

瓦の原則的な形式が作られていきました。 瓦の成立は垂木を平行に,そして等間隔に並べ

る起源に関わっているわけです。 垂木は深い軒を構成するための重要な部材であるばかり

か,瓦を葺くための重要な部材でもあったわけです。

一方,南アジアの瓦は縦長のフラットなもので,先端の形が三角か半円,蓮弁の形をし

たものもあります。そして後ろの辺を下に折り曲げたかたちをしています。こういう瓦 1

種類だけを用い,隣とのつなぎ 自 に上の瓦を重ねて交互に配置します。つまり「本瓦」の

ように 2 種類の瓦を使い分けることがない。南アジアでは,瓦を引っかけるために垂木上

に直交して施設された,等間隔の横材の方が重要で,屋根全体の重量も軽いものです。大

仁 ぺ{て 経警齢 4言論図 2 周原発掘五i 東周城出土「半瓦当」

西周晩期「簡瓦J . r板瓦」

17

きな軒を出そうとする工夫がないわけではありません。しかし東アジアのものほど深くは

作らなかったことと,この種の瓦が発達したこととは関係があると思います。結果的に垂

木は薄い材を用いたままで,組物に関しても東アジアほどには発達しなかったように思え

ます。さて,この南アジアの瓦についても,起源はよく知りません。現在のカンボジア仏

教寺院の屋根に葺かれている瓦はこの種のもので,直接にはタイから入ったものだと思い

ます。ただ,あとでもう一度触れるつもりですが,インド建築は長いこと瓦を持っていな

かったのではないかと思われます。

丸瓦と平瓦を組み合わせる屋根瓦の形式は,垂木の並べ方も含めて,屋根全体の構造に

深く関わった存在であったわけです。軒の出についてはずいぶん違いますが,古代ギリシ

ア建築にもよくにた瓦と垂木の組み合わせがあります。たとえばパルテノン神殿は主要部

を石造とする建築ですが,梁や小屋組は木造で,瓦の形式もにたような組み合わせをみる

ことができます。東アジアと同じような,縦長の断面をもっ垂木も復原されています。こ

こで丸瓦にあたるものは三角形ですが。古代ギリシアの建築も永遠性を求めたために,瓦

が発達したといえるかも知れません。

パイヨンの回廊のように,あちこちの遺構の屋根に刻まれた「本瓦葺」と思える形状は,

すでに石造化のなかで,独特の, 一種のレリーフとしての発達を経ているようです。です

からみなさんは,この屋根形状を 「本瓦葺」 であるとする主張に,すんなりと賛成しにく

いかも知れません。

たしかにパイヨンの瓦型は,丸瓦に当たる凸部が中央の広い帯と,これを挟んで、左右に,

原則として 3 つず、つの小さな帯が,階段状に背後に下がりながらとりついています。そし

て平瓦に当たる場所は,単に凹凸の谷部を形成する帯ともみえそうです。パイヨンの瓦型

をみるだけでは,たしかに直ちに 「本瓦葺」とはいいにくい点もあります。

それで今日,昼休みのあいだに,ピメアナカスの回廊 01世紀初頭)屋根をポラロイド

で撮ってきました。見てもらえるとよくわかると思いますが, ピメアナカスの屋根では,

丸瓦に当たる形状が半円の筒のように深く削り出されています。平瓦に当たる場所はまっ

たくの平面で,日本の平瓦のように湾曲してはいません。よく文様を見てください。ほぼ

一定の間隔で,点線のような文様が瓦型を横断して水平に走っています。これは瓦の継ぎ

目をモティーフにしたものだと思います。そして瓦当です。瓦当は痛みが激しいのですが,

ほぼ円形といってよい形状をしています。蓮弁 1 枚をレリーフにする点もパイヨンのもの

と同じです(図 3 )。

そのようなわけで,時代を遡ると 「本瓦葺」の形状がはっきりしてきます。パイヨンの

中にも原型に近いと思われる形状が,場所によって残っています。瓦型自体は同じもので

すが,十字国廊の庇で何カ所か,あゆみが細かくてずいぶん彫りが深く I本瓦葺」を訪

併とさせる場所がみっかりました。上部基壇上の第 2 礼堂前室の屋根は,四方切妻の屋根

であるため,瓦型がわずかしか掘り出されていないんですが,やはり歩みが細やかで、彫り

が深く,丸瓦にあたる凸部がわりあいはっきりしています。

さてパイヨンの瓦当の文様は,蓮弁 1 枚を浮き彫りにしています。日本の場合,八葉の

蓮弁を刻印することがふつうです。蓮華をモティーフにするという点では同じですね。こ

ういうモティーフも,クメールの瓦当が,おそらく中国を起源とした形式を踏まえたもの

ではないかと想像させるわけです。日本の建築と同じ起源に由来すると思えるのです。し

1 8

かし石造のクメール建築は,石造であるためか深い軒を出さず,瓦当はほとんど壁にくっ

ついています。石造だから深い軒を作る必要もないわけですが。

(2) 屋根形状

さて,今度はクメール建築の屋根形状全体に目を向けてみましょう。クメール建築の屋

根形状はインド建築のものと似ていないこともない。とくにインドの馬蹄型の装飾妻壁な

どは, 一見してクメール建築と同じもののようにもみえます。 1000年期前後のインド建築,

たとえばパンチャ・ラタの遺跡の屋根形状(図 4 )などは,全体の姿としては,たしかに

クメール建築の屋根形状に似ているともいえます。しかしよくみるとだいぶ違います。イ

ンド建築の屋根形状は,以下の 2 つの点で,クメール建築と異なっています。

第 1 に,屋根よりも一回り大きなペディメントが立つという屋根形状は,インド建築に

ないわけではありませんが,クメール建築よりもずっと新しい時代になってみられるもの

だと思います。第 2 に I本瓦葺」 と想像できなくもない形状が表れるのも,やはりはる

か後代になってからでないと見当たらなかったように記憶しています。それ以前は,ふつ

う茅や藁を葺いたように,屋根面に凹凸のレリーフなどはなく,平滑な面だったと思いま

す。たしか,ガンダーラ遺跡の壁面レリーフなど,古い時代,起源後数世紀のインド建築

では,草葺の屋根を多用していた形跡があったと記憶しています(図 5 )。

この問題は,クメール建築がヒンドゥー寺院であるために,以前からインド建築やイン

ドネシア建築とよく比較されながら,とくに起源と思われる地域が特定できていない問題

と関わってくると思います。つまり,屋根形状に限られたものですが,クメール建築の独

自の形状が,いったい何に基づいたものなのか,という問題に関わるのです。

7バネ- ~l ワ}~/わけー}~. Tウル寺院

( 9 世紀)

パンチャ ・ ラタ( 8 世紀)

りパJ - tk/ナヴシ1ワラ寺院 (17世紀)

図 4 インド建築の屋根

19

クメール建築の起(むo った屋根の形は,さしあたり,草葺ないし土葺の屋根,あるいは

その両方の屋根形式に由来すると推測されます。ところが屋根の高さを大きく越えるペデ

ィメントの形式は,単に草や茅,藁を葺いた形状であるとみるとうまく理解できそうもな

い。屋根よりも大きな妻壁を前後に付けた理由は,中央を主に土で葺いたためではないか

と思っています。

5 世紀の日本の家型埴輪にょ くにた形式があります。いま手元に資料がないのでくわし

いことは分かりませんが,丸い切妻屋根の前後に大きな板状の部材,屋根より一回り大き

な破風板が付いています。これは土を葺いたとき,側面を保護するために付けられていた

のではないかと思います。屋根の上半分には,たしか竹か葦か,なにかその種のもので編

んだ覆いを被せた表現がなされ,上に鰹木が並んでいたように記憶しています。この埴輪

に関する先行研究については調べたことがありませんが,土葺の可能性はすでに指摘され

ているのかも知れません(図 6 )。これとは別に I上土門」という門の形式がずっと後

まで残ってきました。この門も土という葺材によって表れる形状,蒲鉾形の形状を残し,

妻には屋根よりも大きな妻壁が立っています。

家型埴輪の屋根形状は,クメール建築の屋根の形状,とりわけペディメン トを立てた形

にそっくりだと思います。 EFEOの図面を見ていますと,ペディメントは垂直に立っとは限

らず,頂上が外に転んでいるものもあるのです。

軒先で強く短い反りを持ちながらも,全体として起(むo った屋根の形状は,結局,土に

由来するのではないかと思いますが,同時に,垂木なども含めた小屋組の構造も,当然な

がら「本瓦葺J を生み出した構造とはずいぶん異質なものであったはずです。したがって

丸瓦と平瓦の組み合わせは,クメール建築の中から生まれたとは考えにくく,どこかよそ

から来たものだと予想することになるわけです。

垂木が瓦掛けの性格を合わせ持つような構造で屋根を作ると,屋根は棟の尖った,全体

に反りを持つ形状になりやすいと思います。そう,クメール建築の中にもまれにそのよう

な屋根形状の遺構があります。パンテアイ・スレイのゴープラ (11世紀初頭)のようにで

す(図 7 )。また, 10世紀頃に作られた寺院のうち,ゴープラは小屋組を木造としていま

す。 これは母屋桁や棟木の大入れ跡が三角形の妻壁側面に残っていますから,かなりはっ

きりしたものです。失われた木造屋根については,いろいろ復原案が提出されていますが,

おそらくパンテアイ・スレイの例と同じで,日本建築の切妻屋根とほぼ同じ,三角形の形

状をしていたと恩われます。本瓦葺の屋根の場合,屋根の頂上近くで強い起りを持っとす

ると,雨仕舞の上でかなり不利なことになりますから。発掘された瓦をみると,やはり

「本瓦」型で,丸瓦に相当するものと平瓦に相当するもので構成されています。ただいず

れの瓦も背面近くに,下を向いて,短い板や 1 , 2 本の串状の棒が突き出ていますから,

横材の瓦掛けを打ち,これに引っかけて瓦を留めていたことが判ります。この種の瓦は日

本にはないんで・すが,紀元前 800年よりも遡る「西周後期」の「周原」遺跡で発掘された

「筒瓦J I板瓦」と原則的に同じものですね(図 2 )。

さて三角形の切妻屋根は,ごく通常の屋根形式だったと考えてよし、かどうか,よくわか

りません。もしこのような屋根形状と小屋組の構造がふつうだったとすれば,石造に置き

換えたとき,なかなかアンコールの数々の遺跡がみせる蒲鉾形の形状, トンネルヴオール

トの形状にはなりにくかったと思うからです。屋根の上部が丸くなる形状は,土を葺く場

20

合,棟が尖っていると雨仕舞いが悪くなるためで,丸い形状に合わせた小屋組を作るため

にも,幅広い大きな破風板が必要だったのではないかと思っています。 そしてそのような

構法の屋根では,必然的に深い軒は出し切れません。 土を葺いた蒲鉾形の屋根こそ , 木造

の土着の神殿,あるいは穀物倉庫などに用いられた,なにか特別な価値が与えられたクメ

ール建築の屋根形式だったのではなし、かと考えています。

クメール建築によく見られる,砲弾を並べたような棟飾りの形状も,おそらく土を葺い

た屋根の,頂部の雨仕舞の収まりに由来するのだと思います。なにかディテール上,必然

的な祖形を持っていたのでしょう 。 鰹木とは違いますが,のちの形式化も含めてよくにた

性格を持っていたようです。

中国の民家などにも,本瓦葺でありながら棟の頂上を平らにした照り起り(てりむ(り)の例

があったと思います。これらの建築の起源については,手元に資料がないのでいまはなん

ともいえません。あまり古いものはなかったと思いますが自信がありません。たしか棟木

を 2 本並べて照り起りの形状を作っていたと記憶しています(図 8 )。

こういう蒲鉾形の屋根と本瓦のような瓦を葺くこととは,基本的に矛盾すると考えざる

をえません。瓦の重さに耐える小屋組を作ると,丸い屋根は本来,ひどく作りにくいと思

うからです。そしてそのような屋根は雨仕舞も悪くなるからです。 さらに,先程いいまし

たように,垂木などの部材,ひいては屋根形状と瓦の形とは, 一体として発達したもので

すから。たとえば中国の民家のように,垂木を強く湾曲して照り起りを作り出す技法があ

ったとしても,少なくとも起源の形式としては,とても考えにくいのです。

そういうわけで,木造のクメール建築がある時代に瓦を知り,これを伝統的な屋根の上

図 7 : PH I MEANAKAS 外のゴープラ

21

図 8 ・ 中国民家の屋根

に載せたのだと考えるのが一番自然であるように思います。あるいはすでに出来上がった

組み合わせがあって,これが伝えられた可能性も,もちろん考えられます。いずれにしろ,

土を葺いた屋根面に瓦を並べたのではなし、かと想像しています。古代の日本建築でも,平

行垂木に直接平瓦を並べた例はみつかっていません。ふつう垂木の上に野地板を敷き,こ

の上に土を葺きました。

ついでのことですが,日本の古代初期では,そのような構法を用いながらも,垂木のあ

ゆみと瓦のあゆみが同じであることが原則だったようです。発掘でみつかった 7 世紀中頃

の木造建築の部材や,模型のように小さな建築で,おかげで外気に晒されず,建立当初の

状態を残す遺構などから,このような収まりがあったことが分かります。しかし一方,こ

の構法のおかげで「扇垂木」であっても瓦を葺くことが可能だったのです。

つまり,あらかじめ土を葺いておくと瓦の馴染みがよいのです。同時に,垂木以下,小

屋組とはあまり関わらずに「本瓦葺」が可能になります。ですから,クメールの失われた

木造建築も,草葺と併用であったとしても,おそらく土を葺いていたのではないかと思っ

ています。もしそうでなかったら,湾曲した屋根上に瓦を載せることは,構法としてひど

く困難な作業になるばかりか,雨仕舞にも問題を残したでしょう。

では「本瓦葺」が外来のものだとして,なぜ屋根として完成しているものの上に,わざ

わざ瓦を載せなければならなかったのでしょうか。この原因こそ,東アジアに起源がある

と予想するもう一つの理由です。

先程 5 つの項目を上げて述べましたように,東アジアでは瓦を葺くことが,同時に基壇

を持ち,金属コーテイングがなされ,複雑な組物をもって礎石上に構築される建築に施さ

れたものでした。それは木造とはいえ特別なもので,他の世界の木造建築と石造建築の距

離と同じほどの距離を,ふつうの木造建築とのあいだに保っていたのです。瓦葺はそうし

た工夫の全体を象徴することで,建築の特別な価値をも象徴したのです。瓦を特別なもの

とする価値観は,東アジアのように,木造のなかで多様な工夫がなされた結果,同じ木造

のなかの差別化という過程を経た世界で,はじめて表れてくるものだといえます。

瓦を葺くこと自体に象徴的な意味がある。瓦を葺くことで特別な建築になる。そのよう

な価値観を理解することなしには,土葺の上に瓦を載せるという無駄一無駄をするとい

う意味で,屋根の上に屋根を重ねる,という意味の日本の諺がありますーそのような無

駄としかみえない事態を,十分に理解することはできないと思います。おそらくクメール

時代のある時期に,瓦を葺くことが建築に特別な意味を与えることだということを十分に

理解して,そして瓦葺を受け入れたのだと想像しています。

それでは,いったいいつごろ,クメールは瓦を受け入れたのでしょうか。この問題はか

なり難しい問題です。推測の上に推測を重ねることになりそうです。

塔以外の石造建築の屋根が木造から石造に替わっていく中間に,わずかな時間ですが,

煉瓦のヴオールトが採用される時期があります。 10世紀後半から 11世紀初頭頃でしょうか。

この時期の煉瓦造ヴオールトは,修復されているものも多くありそうですから確かなこと

は判りませんが,屋根面にこれといったレリーフは施されていないようで,滑らかな,凹

凸のない蒲鉾形に仕上げられています。 10世紀以前に遡る煉瓦造の塔状嗣堂をみますと,

煉瓦を積んだのちに,ずいぶん複雑な形状に彫りだしています。このことから比較すると,

蒲鉾形の屋根にかぎつてなんのレリーフも施していない点は,この時代の木造建築の屋根

22

が,いぜんとして土葺のままの平滑な表面を保っていたからではないかと想像されます。

タケオの中段に建つ経蔵で:は庇屋根しか残っていませんが,砂岩製の屋根面には何も彫ら

れておらず,瓦型といえるものはありません。そればかりでなく軒の瓦当にあたる形もあ

りません。未完成であった可能性も残りますが。ところがノ〈ンテアイスレイ (11世紀初

頭)になりますと,煉瓦の場合も石造の場合も,いずれの屋根も平滑な蒲鉾形のままなの

に,軒には丸い瓦当形が整然と並んでいます。

いろいろな点から,蒲鉾形の屋根を石で作りだすごく初期の時代頃,平行して,瓦葺が

導入されたと考えてもよさそうです。おおよそのところ,紀元1000年頃でしょうか。

想像を逗しくすれば,この頃瓦型が導入されたとして,受け入れ可能な木造建築は,吹

放しの住居とはちょっと考えに くい。瓦葺を支えるだけの強い構造をもっていたはずです

から。とすれば土壁の建築だったのではないか。瓦が葺かれた建築は,もともと倉のよう

な建築だったのではないかと予想されます。 ただ,石造の遺構によく見られる連子窓を持

っていたでしょうから,穀物倉庫を原型としていたとしても,単なる倉ではなく,土着の

神殿建築のようなイメージも考えられます。 はたしてどうでしょうか。

3. クメール建築様式の起源を巡る問題

おそらく中川先生の講義で聞いていると思います。クメール建築は石造でありながら,

部分的に柱と梁の構造が組み込まれています。アンコール・ワットの経蔵や回廊に判りや

すい例が遣っています。この構造は,たとえばインド建築が壁面のレリーフなどに,木造

建築の形式を彫りだしているのとは違って,構造の発想そのものが木造に基づいたもので

す。クメール建築は,インドのヒンドゥー教寺院の影響を受けていることは間違いないこ

とですが, しかし木造を起源とした独自の石造建築を作ろうとしていたと思えます。

同時に,石造建築の制約がクメール建築に特徴を与えていることもみすごせない点です。

クメール建築はとうとうアーチ構造を生み出すことなく,迫り出し構造のままで石造建築

を作りつづけました。迫り出し構造の特徴は,塔のように高い建築を建てるのに有利なも

のです。柱間や壁の間隔のわりに背が高くなる傾向があるからです。しかしそのような建

築を作れば,主構造を周囲から支え,補強するための付属構造が必要になってきます。ク

メール建築は,日本建築でいえば身舎と裳階の組み合わせのように,中心の構造体と付属

構造体など,構造体の単位がは っ きりしたものになっています。構造体の単位は平面と屋

根の分節とがセットになっていますから,ペディメントを挟みながら,少しずつ高さを落

として繰りかえす屋根形状が,構造の単位をそのまま反映したものになっているのです。

その結果クメール建築は,深い陰影のある独特のシルエットを生み出しています。こうい

う建築様式が成立したために,アーチ構造を生み出す必要がなかったのでしょう。

そしてときどき独立柱が使われています。その柱頭の形式はコーニス型です。柱基と柱

頭を入れ換えても,たいして違わないような形状です。これは,壁構造の上部にコーニス

型をつけるという様式の下で,そのような壁体を可能なかぎり削りとっていって,最後に

柱型を残したような形状です。クメール建築の石造の独立柱は,あたかもこのようにして

生まれたような姿をしています。つまり,組物があったとはいいきれないのです。

こういう点にも,石造クメール建築の祖形となった木造建築の特徴が,うっすらとです

が,見えそうな気がしています。ほぼ同時代の南インドの寺院の壁面に刻まれた,柱頭や

肘木をもっ発達した柱型とは,著しい相違を示しているのです。

23

クメール建築様式の起源を考えようとすればするほど,木造時代の建築を無視すること

ができなくなると思います。 ヨーロッパでは木造建築があまり発達しなかったこともあっ

て,世界的な傾向として,若干,木造建築が軽視されているようです。これからクメール

建築について考えようとするみなさんは,遠回りのようにみえるかも知れませんが,失わ

れたクメールの木造建築について,よく考え,調べてみるべきではなし、かと思います。

最初に言いましたように,建築の起源は煉瓦や石で作る場合と木で作る場合があります。

この両方を均等にみて,考えることが,カンボジアの建築とその歴史を考える上で,一番

重要なことだと思います。現存するクメール建築は石造ですから,いままでインド建築や

インドネシア建築と比較されることが多かった。これは研究として,もちろん正当な姿勢

なのですが, しかし基盤となったであろう木造建築について考えを巡らすとき,いままで

省みられることのなかった東アジアの影響について,あらためて注目すべきではないかと

思っています。そしてそのことが,石造化されたクメール建築の祖形を考える過程で,重

要な手掛かりになるのではないかと考えています。

追記と図版出典:

シェムレアップにて,日本チームの調査に参加しているプノンペン芸大の学生達(研修

生)に講義をする機会があった 。 上記の文章は,この講義用メモにもとづいて整理したも

のである。海外調査中のため手元に資料がなく,あやうい記憶を辿って立論している点が

気になっている。仮説ないし試論として読んでいただければ幸いである。

第 7 次調査では,パイヨン北経蔵の復原調査を担当した。 現地に入ったときには,すで

に西本氏が,わずか 2 週間のあいだに,遺構全体の大方の部材調査を終え,考察までもま

とめられていた。私に残された課題はわずかなもので,失われた身舎,妻庇屋根の復原考

察だけだった。テーマが絞られたおかげで,クメール建築の屋根形状について考える機会

をもつことができた。蒲鉾形の屋根と「本瓦葺」様の瓦型レリーフとが,どうしても馴染

まない。この不思議な組み合わせに,疎略であっても当面の仮説を作ってみたいと思った。

同時にカンボジアの学生たちに,木造建築の重要性を伝えたいという願望も加わって,こ

のような議論になった。動機が不純だから,見当違いを犯しているかも知れない。

講義後の質疑応答の中で,学生から,カンボジアでは土壁の構法に牛糞を混ぜるという

指摘があった。スサに当たる繋ぎの繊維をこうして獲得するのである。この構法はおそら

く世界のいたるところに存在していただろうが,日本人にはなかなか思い至ることができ

ない。このような構法を用いて,壁ばかりか屋根にも土を葺いた時代があったかも知れな

いと,いまは想像している。

図 2 )北京大学考古学研究室編 「商周考古学概説」 煉原書店 1989

図 4 )ジョージ・ミ 71工ル「ヒンドゥ教の建築 ヒンドゥ寺院の意味と形態」 鹿島出版会 1993

図 5) 77�-7':j-{ ,1 I図説ガンダーラ 異文化交流地域の生活と風俗」 東京美術 1993

図 6 )東博編「特別展 日本の考古学 その歩みと成果」 東京国立博物館 1988

図 7) MAZZEO/ ANTONINI “Monuments of Civilzation ANCIENT CAMBODIA"

CASSEL London 1978

図 8 )霊IJ致平・王其明「中国居住建築簡史 城市,住宅,園林」中国建築工業出版社 1990

24

ダイ・ル一族の神話 (1)

高野恵子

近年の中国では,辺境に住む少数民族に固有の文化への関心が高まっているようだ。雲

南省でもその機運は強く,書店にはごく最近発行された少数民族文化に関する書物が大量

に販売されている。宗教,習俗,歴史に混じって多くの神話,伝説故事の類を集めた資料

が出版されている。ダイ・ル一族に関しても,これまでは断片的に紹介されるにすぎなか

った神話が, 1 冊にまとめられ,発表された。なかなか興味深い内容のものも多いため,

この場を借りてダイ・ル一族の創世神話を訳出してみたい。

ここで紹介する神話はIi'西双版納俸族民間故事集成 JJ (品購県民委・西双版納州民委

編,雲南人民出版社, 1993) に収録されているものから選んだものである。

-英駅(インハ。ー)神の創世・

伝説によれば,遥か遠い昔には太陽も月も星々もなく,天と地はいまだ形成されていな

かった。太空には奔騰する気体と煙霧と狂風が充満し,下面にははてしない大海が広がり

その表面は泡沫に覆われていた。狂風は億万年の聞やむことはなく,煙霧と気体と泡沫と

をかき混ぜ合わせて,ついに一つの大円体を作り上げた。この大円体は限りない太空の中

に阿松亥(アソンハイ) *1年間漂い続け,耳,目,鴫,鼻,手足の全てを備えた創世神王,英帆

に変化した。英肌は翼を持たなかったが彼は飛ぶことができ,風や逆巻く雲のように広い

太空を遊び飛んだ。彼はものを食べず,雲の水を飲み身を養うことができた。英1Y1..が生ま

れて十万年が経つと,彼の智恵と神力は更に力を得て,較べるものないものとなっていた。

彼の身長は十万約孔掌 (11'Yァナ) * 2におよんだ。両日は太陽のごとく輝き,その視力は十万

約礼掌の遠くを見ることができ,広い耳柔は天地を遮ることができ,十万約札掌以上の遠

くの物音を聴くことができた。英帆の両顎には豊かな髭が貯えられ,髭の 1 本の太さは 1

万抱,その長さは 5 千「約(孔掌) J であった。巨大な頭は豊かな髪に覆われ,その太さ

は 1 万抱えもあり,長さは 7 千約,その神力は 1 千匹の大象を繋ぐことができる程であっ

た。彼の太い両腕は長さ 3 万 9 千約にも及び,太い両腿は4 万約の長さに及んでいた。較

べるものない大神である英肌の寿命は 8 万4 千哩*3に至るものだった。

聡明な智恵を持つ英肌神は,奔騰し続ける気体と煙霧に満たされた広大無辺の太空を眺

めて,天地開闘の大事業を起こそうと決意した。英駅神は高らかに宣言した。 r智恵と神

力を借りて,身上の垢を用いて太空を自由自在に飛び回る神車を作りだそう。その神車に

乗り,天地を開関する。」英帆は手を擦りあわせて垢を落とし,それをこねあわせて神車

を作った。 r我が神車に長い翼が生え出させたまえ,これに乗って天と地を作りにいこう。」

英肌は精力に溢れた神であり,それ故彼は極めて活動的である。宣言が終わると神車は

*1原註;ダイ族の古い数量単位。億の 3 つ上の単位。

*2原註;ダイ族の長さを表す最も大きな単位。 1 約は人間の視線の及ぶ長さに相当し,一

般には45里から 50里に相当する。札掌は量調。

*3原註 2 億年に相当する年数。 8 万 4 千哩は数えきれない年数を示している。

25

動きだした。すると見よ,神車に 2枚の長い翼が生え,自の醒めるような輝きを発し,そ

の姿は金の鳳嵐のようだった。英明、はその姿を見て非常に喜び,早速車に飛び乗ると,神

車は空ヘ舞い上がった。英帆の垢の塊は非常に大きく,広さ 3億約乱掌,長さ 9 億約十し掌

であった。英1Y1は車の上に極めて静かに座していた。神車は英1Y1を乗せて自由自在に太空

を飛び,大風も煙霧もそれを阻むことはできず,まるで河を悠々と詠ぐ大魚のようであっ

た。英肌は白い若々たる大海を見,思った。 r この広い大海の底にはいったい何があるの

だろう。車を駆って大海に潜り,それを確かめよう。」そして神車に座したまま分厚い煙

雲を突き抜け,一気に波清逆巻く大海に潜り,海中を泳ぎ回った。彼は海の中に 1 匹の巨

大な巴阿撒 (Jドアネン)魚の他,なにものも見ることができなかった。英肌は興ざめし,大海

から飛び出してまた太空の中を飛び回るのだった。彼は心中暗く肱く。 rなんと広い太空

と大海か,手に負えぬ,更に 10万年経ても何も効果がないであろう。私は天地を作りたい

のに。」この時,彼は水面に多くの泡沫が漂うのを見つけ,興奮して叫んだ。 r ああ,天

と地を作ることは私の意志である。大海にはこれほど多くの泡沫とかすがあり,私の身体

にはこれほど多くの垢がある。これをこねて一つの垢球を作り,これを水中に置けば,私

はその垢球の上を走ることもできょう。 J 彼は巨大な手に力を入れて,身体を上下に擦り

あわせた。垢は大きな山が倒れる知く落下し,高い山を成した。英帆はこれをこねて大き

な円球を作り,海面上に投げ入れた。彼は神車に座して巨大な手で水面上の泡沫とかすを

掬い取り,すると泡沫とかすは折り重なる山脈のようになった。彼は左手で白い泡沫を抱

え,右手で黒いかすを抱えてそれを大円球の上に塗り込み,巨大な,巨大な垢球を作り上

げた。その様子はまるで麻宗朴(マサオン7守)料のようであった。英肌は大声で告げる。 r私

を天地の主催者とすべく力をかしたまえ,私の垢の球円体を無限に大きく固くしたまえ J

すると垢球は急速に上下,左右,そして四面八方に広がっていき, 1 千倍もの大きさとな

った。風と浪のまにまに垢球は海上を漂った。この時の英肌神の垢球を捧麻羅(へ。ンマラ)

*5と呼ぶ。この時からようやく,垢の大地が存在するようになった。

垢の大地は風と波にもてあそばれ,水上を大きな芦のように漂っていた。 10万年が過ぎ,

英肌は焦っていた。 r捧麻羅はどうしてこのように漂っているのか。更に阿松亥年後には

沈み,水によって溶け落ち,私がそれが安定するように望んでも,かなわず沈没してしま

うに遣いない。」英帆はまた身体の他の部分の垢を落とし,垢の杭をこねあげて宣言した。

「私の智恵と神力を借りて,我が垢杭を大きく,長く,太くさせよ。」英駅の言葉は霊験

あらたかである。たちまち煙霧は消滅し,垢杭は突如 10万抱えもの太さ, 18万尋もの長さ

の大神柱に変化し,その表面は平滑であった。英夙はその垢柱を事沙浬羅(ハオシャニエラ)判と

名付けた。英肌は両手で柱を抱え挙げ,水中に突き刺した。柱は捧麻羅の中央を突き抜け,

下端は大海に深く入り,上端は捧麻羅の上に突き出していた。英駅は捧麻羅に基礎を与え

たのであり,それはまるで芦が杭の上に固定されて堅牢になったようであった。彼は左を

*4原註;ダイ語。野生の果実の一種で,丸く,皮は光って滑らかで,味は甘い。麻宗朴は

地上で最初の果実とされる。

*5原註;ダイ語の固有名詞。 r捧 J は天神,天仙の意。 r羅」は世界,世の道の意。 r捧

麻羅j は全球をさす。

*6原註;天地を支える大柱。

26

見右を眺めて満足し,どこか居眠りをするのに快適な場所を探した。英肌は竃沙浬羅の頂

きが平坦であるのを見て昼寝に最適であると考え,神車をその上面に着陸させた。勢いよ

く事沙浬羅の頂きに着地したとき,彼は全身がふるえるのを感じた。すなわち事沙浬羅は

不安定であり,左右に揺れていたのだ。英肌神はできる限りの早さで,あわてて神車を柱

の頂きから飛び立たせた。そしてあらためて神車を着陸させようとしたが,しかし柱の揺

れは一層ひどくなり,いまにも大海に落ちてゆきそうに思えた。英帆はようやく事沙浬羅

から神車を飛び立たせ,不安に駆られた。 r捧麻羅は事沙浬羅を得たのに,なぜ定まらな

いのか。その原因が何か,ちょっと見てみよう。」英1Yì.は神車に乗って水に潜り,事沙浬

羅の根元に至った。ここで彼は,水はいたって深く,柱が海底まで届かずにいまだ水中に

あることを見つけた。彼は自分の軽率さを後悔し,何とか方法がないものかと考えをめぐ

らせた。見ると彼の身体の上にはなお多くの垢が遺っており,それを使って事沙浬羅を支

える四本足の台を作ることにした。英帆は身体の垢を擦り落とし,まるでもち米を練るよ

うにこねあわせて四脚四梁の台を作った。これは我々人間の建築架構と同じものである。

英帆は垢台を水中に漂う捧麻羅の下に置こうとした。英1Yì.は無限の神力をもって垢台を一

気に水中に投げ入れると,それは一頭の大象に変わった。その象牙は大樹のように太く,

その身の丈は72万約,尾の長さは 5 千尋,水中にあって大山の様であった。英肌はそれを

見てとても喜び,その象に「章月朗宛(チャン1工ランワン)*1と名付けた。月朗宛神象は全身光り

輝き,海底を輝き照らして透明にした。こうして捧麻羅は水中に強固に固定された。つぎ

に英夙は事沙浬羅を捧麻羅から抜き取り,力を込めて大象の背に差し込んで捧麻羅を安定

させた。そして英肌は捧麻羅を地と成し,重量沙浬羅を天と成した。こうして天と地が作ら

れた。

天と地を更にはっきりと分割し,また東西南北方向を見分けるために,聡明な創世神で

ある英帆は,天と地の中間に四道大門を作り,また垢を用いて 4 つの西投(シーラ)石を作っ

てそれぞれ四道大門の傍らに据えて天地の東西南北の目印とした。この時英帆の識は 4 万

2 千哩となっていたので,彼は10万年の休息をとることにした。そして彼は身体に残った

垢を丸めて一枚の敷物とし,事沙浬羅の頂きに敷き,宣言した。 r我が垢の敷物を広く厚

く,柔らかくまたしなやかにせよ。」この時垢の敷物に変化が置き,素敵に柔らかい緑色

の敷物となった。英夙はその上に倒れ込み睡眠を取った。

英肌は正しく 10万年後に目覚めた。彼が目を聞けると敷物の上に彼の垢が満ちているの

が見えもう造るものがないので)たいへん悲しくなって思った。 r この黒い垢はたい

へん貴重なものだ。なんとかして利用できないものか。 J 彼は四道大門の周囲に動植物の

一切無いのを見,己の間違いを悟った。そして敷物の上の黒い垢をかき寄せて 1 対の獅子

と, 1 頭の大象と, 1 頭の黄牛を造った。英夙は雄牛を天地の西門に,離獅子を南門に,

大象を北門に,黄牛を東門に置いた。こうして 4 つの動物がそれぞれ一道大門を守ること

*7原註;光輝く大象。ダイ族の伝説中では地を支える神象で,全身からまばゆい輝きを発

し,その神力は無比であるとされる。

訳注;章(チャン)はダイ語で象の意。従って象の固有名詞は月朗宛 (1エランワン)となる。

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となった。英肌は天と地の 4 つの方位を代表させて戯梯立(シティリ) * 8 と名付けた。それぞ

れには,雌獅子が顔を向ける南を梯立烏轡桐(ティリウルアンケ) ,雄獅子の向かう西方を梯立阿

麿麻克雅(ティリアラマゲヤ) ,黄牛の向かう東方を梯立宗朴(ティリザオンゲア) ,大象の向かう北方

を梯立布抜維帯恰(ティリT' Jγ ウェイヂィハ)と名付けた。こうして天の底には四大洲があること

となった。

英1J11はまた身体の垢を落とし,それを 3 つに分けて一斉に神象の背骨の上に投げ降ろし

た。すると 3 つの垢の塊は 3 つの大山に変わり,神象の背の上に悠々とそびえ立つた。こ

れが宇宙で最も高い班魯剛 (Jγ ン!トr ン) *9山峰が完成した。この時に英肌の身体の垢は全

て使い終わり,手指の爪が抜け落ちた。彼は傷心し r ああ,私は歳を取った。爪が指か

ら落ちてしまった。」爪を拾って月朗宛神象の足元に投げると,爪は 1 本の幅広い紐帯と

なり,神象の 4本の脚を引き寄せた。こうして天地を分ける加恰宛 (γ ァハワン) *10ができた。

こうして英帆の創世の大業は完成した。(景洪県)

-大地の由来・地球が出来たとき,地球上には海水が溢れ返っており,生命を育む土地が無かった。

ある日, 2 人の天神が地球上へ降りてきて,至るところ水ばかりで地面がないのを見て,

自分の身体の垢を用いて大地を造り,波清荒れ狂う大海の上ヘ置いた。

地球に大地は生まれたが,海水の上に漂っていたため,大地は始終揺れ動いていた。ど

うするべきだろうか?しかし彼らは方法を思いつかず,そのまま天宮へと戻って行った。

ある日, 1 人の女神が彩雲に乗って舞い降りてきた。彼女は大地が海上で揺れ動いてい

るのを見て,自分の日から歯を 4本抜き取り,大地の 4角に落とした。女神が呪文を唱え

ると, 4 本の歯はものすごい勢いで長く,太くなり,水底に刺さった。揺れ動く大地はこ

うしてしっかりと固定された。

地球には安定した大地が生まれ,花や樹木,烏や獣やそして人間が育っていった。

(副海県)

-布桑該 (T' fJtJ-ィ)と雅桑該( tfJtJ"ィ) (人類の始祖となる老夫婦神)・

中自麻道事副 (J\ 0 "9" 1 J\オムン) *11の天地が聞かれ形成されるとき,地球上には何もない土地

と若々とした海の他には何もなかった。この時地球上には人はなく,動物もなく,草花や

樹木もなく,なにものの音も戸も聞こえず,日や月や星や,大自然の鮮やかな色彩もなか

った。地球上は,到るところ静寂と昏暗に満ちていた。

地球に新たな活力を与えるために,新鮮な精気に満ち満ちている神仙王は,徳高く善良

川原註;ダイ語の固有名調。 r梯立 J は洲の意 r戯」は4 をさす。従って「戯梯立」と

は四大洲をさす。

本 9原註;ダイ族神話中の大山の名。伝説では地上で最も高い石の峰である。

*10原註;天と地の分界線。

寧 11原註;ダイ語。ダイ族の最も早い時期についての伝説で,仏経典に記載される。布桑該

と雅桑該が瓢箪を破って人類を創生した時代のもの。

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で,神通力の高大な布桑該と雅桑該の老夫婦神を派遣した。彼らは仙瓢箪を携えて地上に

到り,人類と万物を創造した。

布桑該,雅桑該が地上に来た後,彼らは仙瓢箪を破壊した。見よ,瓢箪の粉は地に落ち

て,千万の活動的な生命を育んだ。老夫婦はたいへん喜び,彼らは更に瓢箪の粉を天空に

向かつて撒き,地球を覆った。仙瓢箪は天空に至り,すると天空は星に溢れ,日月の光り

に溢れた。仙瓢箪は地球上に到り,たちまち草花に溢れた。地球上は美しい自然で満たさ

れた。

しかし,この時地球上には依然として人類や動物はいなかった。仙瓢箪には人類や動物

を育む力がなかったためである。布桑該と雅桑該は考えた。 r地球上はいまや広く豊かな

世界となっている。さあこの世界の命を創造しよう J 彼らは神仙の意志に従い, 100年の工

夫を経て人と自然界の千万の動物を造った。

老夫婦は日夜休まずに仕事をした。彼らは泥を用いて人形を作ったが,布桑該は男を,

雅桑該は女を作った。泥人を作った後,布桑該,雅桑該はそれを一対の夫婦とし,命と霊

魂と活力を与え,日光や風雨の洗礼を受けるようにした。とても長い時間が過ぎた後,一

対の泥人形の夫婦は生きた人間に変わり,地球上を動き廻り始めた。しかし,彼らには言

葉がなく,会話もできなかった。そこで,布桑該と雅桑該は彼らに言葉を与え,話すこと

と考えることを教え,彼らに「人 J という特別の名を与えた。この時より地球上には人が

いるようになった。彼らは布桑該と雅桑該の保護と指導の下で,働くことを覚えた。こう

して地球上での人類の歴史が始まったのである。

更に,布桑該と雅桑該は泥を用いて象,馬,牛,羊,猪,狗,鶏,鴨,虎,豹,封(山

狗) ,狼,ヨツメジカ,鹿,鳥などの千差万別の形と大きさの異なる動物を作り,それぞ

れに名前を与え,海や森林に解き放した。こうして海には魚や員などの水の生物が住むよ

うになり,陸には沢山の種類の獣や鳥や虫が住むこととなった。死の世界だった地球はこ

うして生命に溢れた世界に変化した。(景洪県景諦郷)

-太陽の伝説・

布桑該・雅桑該と同時に誕生した神王に皮干し禍(1:。わオ) *12 というものがいる。これは

風雨と雲の王である。彼の神威と力量は英帆神王には劣る。空中を盛んに動く雲は,彼の

口と鼻より吹きだしたものであり,彼の誕生は,天地が永遠の暗黒に閉ざされていたとき

であった。従って彼は千億年万億年の間動かず,厚い雲はじっと動かず横たわって,黒雲

となっていた。天地が形成され,日月星が誕生すると彼は大いに悩み怒った。彼は乱暴に

跳ね起き,天地を指さして怒鳴った。 r誰がこのように大胆なことをしでかしたのだ,空

間に一片の光を投げるとは?私は天地に光明が存在することを認めない。私は太陽を月を,

星を捉え,全て呑み込んでしまおう! J

皮礼禍は言い終わると双眼を聞けた。眼球からは一筋の冷たい光が放たれ,太陽と月と

星を照らした。同時に彼の巨大な手が雲を動かし,雲は満天に満ち溢れ,荒れ狂って太陽

と月と星を厚く遮り,捉えてしまった。彼は口から水を吐き出すと,水は空を覆う強風暴

本 12原註;強風暴雨の化身。

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雨となり,地球を洗めてしまった。この時天地には雷鳴がたなびき,狂風暴雨に覆われた。

雷音は皮礼禍の怒戸であり,稲妻は彼の目から放たれた閃光であり,風雨は彼の口から吐

き出された水と気であった。こうして雲は太陽と月と星を厚く遮り捉え,大雨は地球を覆

いつくした。皮札禍神の怒りは収まらず,大声で 3 回天に向かつて叫んだ。そして大きな

口を開け,太陽と月と星を呑み込んでしまったために,天地は漆黒の闇となった。

天空には太陽も月も星もなく,人類はまた,天地の形成されていない頃のような暗黒時

代に戻ってしまった。樹木は枯れ,花花はしおれ,人々は作物を採ることができず,鳥も

飛ばなくなった。人と動物のあらかたは死に絶え,日一日と数を減らしていった。暗黒と

死の災難は人間を包み込んだ。

この時,人類に 7 人の兄弟が在った。彼らは火神王の息子達であった。彼らは生まれた

時に天に在って,父母の身辺の火を喰らい,火と煙とで育った者たちだった。 7 兄弟の血

統は火神であったため,彼らは火の化身でもあった。こうして彼らはとても大きく,肝の

座った気性の激しい男に育ち,誰にも彼らを止めることはできなかった。

7 兄弟は18才になったのに,もはや父母の家業を継承することができなくなってしまっ

た。太陽と月と星は皮礼禍に呑み込まれ,天下に暗黒、が満ちたためである。この事件は兄

弟を激怒させ,彼らは天空に登り,自ら火を放って悪も基である皮礼禍神を焼き殺そうと

決心した。そして万年億年にわたって吐き出され続けてきた黒雲を焼き付くし,人類に明

るい光を与えようとした。

長兄が初めに出陣した。彼は天空遁かで 1 戸叫び 1 団の火球に変身した。皮干し禍神は

それを見て大いに怒り,巨大な手を動かして雲をかき混ぜた。突然閃光がひらめいて雷音

が鳴り響き,天空には暴風雨が荒れ狂った。長兄一人では勝てないと見て,次男も天空に

飛び上がり,また火球に変身した。しかしそれでも勝利は得られず,火炎は風雨に曝され

て消え入りそうに見えた。地球から上空を見上げていた残された 5 人の兄弟達は,兄達が

勝利を得られそうもないのを見て,一斉に空に飛び上がり, 2 人の兄の作戦を助けようと

した。そして天空には 7 つの烈火が出現し,天地を照らした。 7 兄弟は皮干し禍神に勝利し

たのだ。しかし彼らは再び地上に戻ることができなくなり, 7 つの太陽となって天空高く

存在することとなった。

天空にただ一つの太陽があったときですら,その熱量は大地を焼き付くすほどであった

が,この時空に突然 7 つの太陽が出現して, 7 つの太陽の熱は一斉に人々に降り注ぎ,そ

して地球に大火が起こった。大火は盛んに燃え続けた。地球の表皮,草花,樹木が焼き尽

くされて灰となり,人と動物は焼け死に,翼を持った鳥達は飛び去ることもできなかった。

大海は囲炉裏の上の油鍋のように盛んに沸騰し,魚達は沸騰する海の中で全て死んだ。 7

つの太陽は熱を放射し続け,地球上の火炎と天空の太陽の熱とがあわさって,猛烈な勢い

で天下の一切のものを焼き付くした。そして地球の火炎は更に深く入り込んでいき,地球

の奥を焼き始めた。この時,河や海や湖の一切は干上がり,大山と岩石は黒い灰と化した。

大火は収まると見えてまた燃え盛り,その回数は64以上に及んだ。燃焼は 1 万年続き,地

球の半分を焼き付くした。

1 万年の聞に,地上で生活していた人々は全て焼け死んだ。天上に住む英帆神王は,人

類に涼傘を投げ与えた。涼傘は地上で 1 本の菩提樹に変わり,大火は菩提樹の側には近寄

れなかったので,その下に逃げ込んだ人々は,焼け死ぬことを免れた。彼らはこの大火の

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時代を生き残り,人類の祖先となったのである。

大火は地球の半分を焼き,地上の上空には 7 つの太陽が距離を隔ててさまよっていた。

7 つの太陽は地球を熱くいぶり,人類はいつまた危険に曝されるとも解らなかった。この

苦しいときが 5 千年続いた後,人の世に一人の青年が生まれた。彼の身体は大きく,腕は

象郁子の樹の知く,胸は広く厚く,その 1 歩は山を跨ぎ,ひとたび飛び跳ねれば山々を飛

び越えることができた。

青年は天上の 7 つの太陽を見上げ,地上の人類に光と熱を無情に投げかけるのを見て,

7 つの太陽を射落とすことを誓った。彼は十万五千斤の 1 振りの膏弓を作った。また彼は

大石山の山上に到り, 7 つの固い岩を磨いて,鍍を作った。彼は毎日石を磨き, 6 年掛け

て 6 つの大山が磨き終わった。 6 つの岩はそれぞれ 1 万 8 千斤の大きな石鍍となった。 7

つめの岩に取りかかったとき,力を入れすぎてしまったために岩は轟音と共に 2 つに割れ

てしまった。彼は腹を立て,岩の一方の断片を東に,またもう一方を西ヘ投げ捨てた。そ

の結果,両岩片の落ちたところには石の山ができた。

火のような性格の青年は,左手で十万斤の寄を掲げ,右手に六本の石矢を抱えて山上へ

駆け登った。彼は大きな目を見聞き,巨大な頭を振り挙げて,両足をしっかりと開き,太

陽を射る準備をした。そして力を込めて弦を引き絞り,矢をつがえて足をふんばったとき,

山は砕け散った。次に彼は 2 つの山をそれぞれ左右の足場にしたが,それも砕け散って砂

の山になってしまった。彼は大声で吠えた。 rなぜ地球はこんなにも弱いのか,どうやっ

て太陽を射ればよいのだ? J 彼は周囲を見回して,突然自分が東と西に投げ捨てた岩片が

東西に対峠する岩山になっているのに気付いた。その山の頂は雲に隠れており,地球上に

はそれほど高い山は他になかった。青年はたいへん喜び,笑い戸をあげた。 r あの山を足

場として日を射るのになんの不都合が在ろうか J 。彼は両足を開き,片足を西辺の岩山ヘ,

もう片足を東辺の岩山へかけ,踏みしめてみた。岩山は微動だにせず,堅牢だった。そし

て青年は弓を引き絞り,天上で最も大きな太陽を狙って 1 本自の弓を放ち,最も大きな太

陽を射落とした。そのため炎熱はかなり少なくなった。彼は続けて第 2 ,第 3 の弓を放ち,

熱はその度に少なくなっていった。こうして彼は 6 つの太陽を射落とし,天下は温和な世

界になった。彼は更に 7 つめの太陽を射落とそうとして, 7 つめの鍍となるはずの岩を,

磨くときに割ってしまったことを思い出し,たいへん残念に思った。

青年が射落とした 6 個の太陽は, 7 兄弟の兄達であった。いま末弟だけが天上にあり,

兄たちが一人ずつ青年に射落とされるのを見て,天上から青年に許しを乞うた。 r命を助

けてください,このままでは私も死んでしまいます。今より以降,私は必ず人類の希望を

照らし,わが身の光と熱を人類の幸福のために用い,私の今までの罪を償います。」矢は

もうなく,青年は射たくても射てず,また太陽の苦しげな命乞いを間いて,青年はかわい

そうに思い警告した。 r私はおまえを射たない。しかし,今より後,おまえは半天だけに

おり,ずっと天下のために尽力せよ。さもなくば私はおまえを射落とすだろう。」この時

以来,天上にはただ一つの太陽があって,半天を占め,昼夜ができることとなった。

勇敢な青年に射落とされた 6 個の太陽は,一斉に地上に落ちた。この時 6 個の太陽の死

体の頭部からは,火のような血と沸騰した脳汁が流れ出していた。太陽の火血と沸騰した

脳汁は,地球の四面八方に広がっていた。火血と脳汁が流れ着いた場所では,人も,動物

も植物も全て焼け死んでしまった。太陽の身体はとても大きく,流出した火血と脳汁は無

31

尽蔵であった。石は溶け,大樹は火血を浴びて焼け,海水は火血と脳汁の下にあってその

水は一様に沸騰した。地球上で生活していた人々は太陽の火血と脳汁を避けて,群れを為

して森林を逃げまどった。老人と子供は早く走れないために火血にやられて焼け死に,脳

汁を浴びて沸騰死した。大地は嘆き声と詑き声で満ちた。

人と動物の悲惨な死とその叫ぴ戸は,第16天にまで届いた。そこに住んでいる英夙神王

はそれを聞いて,目をこらして人間の様子を窺った。見れば火血と脳汁が六個の太陽の死

体から流出しており, 6 条のあふれんばかりの大河のように見えた。英夙神は悲痛な叫び

をあげた。 r しまった,火血と脳汁が私の地球を焼いている!大水をもって下界を冷却し,

人類を救おう。」英駅神は口を開いて,空間の潮風と冷霧を吸い込み,水に変えた。そし

て彼は神の噴を開き,地球に水を吐きだした。英駅神の口から吐き出された水はたちまち

盆を返したような大雨になって天地を覆い,一気に地球になだれ落ちた。英帆神は飲まず

喰わずで地球の上空で 100日間水を吐き続け,大雨は100 日 100夜の間降り注いだ。そうして

地球は若々たる無限の水域と化した。地球の高山は水中に没し,ただ皮礼胡 (t。ツァ7) 山と

いう高山一つが水没せずに,水面上に山頂を半分覗かせていた。地球上の動物はみな山に

向かつて泳ぎ,その大部分は溺死してその死体は水面を漂い,海を泳ぐ大魚に喰われた。

大水は地球を 100日以上覆い,ついに 6 個の死んだ太陽の火血と脳汁を冷却した。 100 日後,

大雨は止み,洪水はゆっくりと引き始めた。更に 100日後,地球はもとのような形に回復し

た。この時に皮礼胡山頂にあって幸いにも生き残った人や動物が降りてきたが,その数は

極めて少なかった。

数年後,地球上の土は次第にその質を変えて柔らかくなり,様々な植物は復活し,大地

には森林が出現した。そして,人と様々な動物はゆっくりと繁栄していった。(景洪)

-天地の喧嘩・昔むかし,天と地は兄弟であった。兄弟は仲が悪く,いつも喧嘩ばかりしていた。天は

背が高かったので,いつも自分の足元にいる弟の上に毎日唾を吐きかけていた。弟の上に

はいつも身を刺すような冷風が吹いており,人々は寒さを避けて,山の中の洞窟に住み,

外ヘ出ょうとしなかった。こんな日々が 3年間続いた。

一陣の冷風が, 2 人の喧嘩の種となった。天は跳ね暴れて,弟が恩知らずであると決め

つけた。地は眠えて,兄の心は醜く,太陽と月を独占していると非難した。さんざん罵倒

した挙げ句,天と地は取っ組みあいを始めた。山は揺れ,閃光がひらめき,巨石は彼らに

踏み砕かれ,大樹は彼らに押し倒された。ひとしきりやり合っても勝利が得られないこと

に苛立った兄は,叫んだ。 r殺してやる,焼き殺してやる J 怒声を上げると,弟の上に

火球を投げつけた。弟は身の上に茅草や樹木や野藤を厚く纏い,たいへん燃え易かったた

め,激しく燃え始めた。しかし兄は弟の勝ち誇った声を聞いた。 r火が手に入った,火が

手に入った,もはやおまえの太陽の光などいらぬ J

人々は地上に火があることを聞いて,洞穴から這い出し,草に火を付けて洞穴ヘ持ち帰

った。こうして人類は火を得,生ものを食べることも,寒さにふるえることもなくなった。

天と地の兄弟は,お互いに行き来しなくなり,永遠に離れて暮らすことになった。

(景洪県景説郷)

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国立市本国家住宅について白井裕泰

はじめに

これまでに,天保 9 年頃(1838)に建立された六間型の上層農家でありながら,床の間・

押板がオクの西面に備えた特色をもっ昭島市旧中村家住宅について報告をした(史標19.

P.31-42参照)。

今回は,六間型農家の成立過程を考察する上で重要な資料の l っとして,現在多摩地方

においてもっとも古い六間型農家の遺構と考えられる本田家住宅について,その概要を報

告することにする。

概説

本国家住宅は,国立市谷保 5 122 に所在する。現在国立市は,国立駅南側の繁華街が

栄えているが,江戸時代は甲州街道沿いの旧谷保村がこの地域の中心であった。 r新編武

蔵風土記稿」によると,上谷保村には栗原郷の鎮守である谷保天満宮を中心に 160軒の民家

があり,また下谷保村には96軒の民家があった。下谷保村の中で本国家は漢方医をつとめ

る由緒ある家柄であった。

国立市においても,近代化の波にあらわれて,茅葺き屋根の古民家は昭和30年代を境に

急速にその姿を消し,現在ではほとんど見ることができなくなってしまった。このような

状況の中で,建築年代が江戸時代中期にまで遡る可能性のある上層農家が,それほど改造

されることなく残されているのはきわめて希有なことであり,その点からみても,本田家

住宅は貴重な文化財であるといえよう。

本国家の屋敷地は,ほぽ東西に走った甲州街道の北側に面し,約400m東に行った街道の

南側には谷保天満宮がある。本田家への最寄りの駅は J R 南武線谷保駅であり,そこから

南に 150m下がって一旦甲州街道にでてから,さらに西へ進めば,約10分ほどで到着する。

屋敷地の南東隅に薬医門があり,そこをくぐるとダイドコロ入り口へ向かつて飛び石が

延びている。主屋の南側にはちょっとした庭園がつくられ,現在はなくなってしまったが,

かつては池もあったという。主屋の北側にはさまざまな草花が植えられ,それを挟んで西

寄りに土蔵,東寄りに新屋があり,屋敷地の西北隅に稲荷神社がまつられている。またダ

イドコロ北側出入口のすぐ北に井戸が設けられ,現在も渇れることなく水をたたえている。

現状平面は喰違形六間型の東南隔にショインが付属した形式であり,屋根は曲り屋造り

となっている。主屋西側に土間部,東側に床上部を配した逆勝手の平面構成となっている。

ダイドコロと呼ばれる土間部には表西にショサイ,裏東にオカッテを,また床上部には,

表にヒロマ・ゲンカン・ナカノマ,裏にチャノマ・オへヤ・オクを配し,さらにヒロマ南

側に三畳二間,ナカノマの南側にショサイ,オクの北側の便所をそれぞれ付属させている。

大戸を入ったダイドコロの西南隅にはショサイ,北側出入り口西脇には物置が設けられ,

西北隅は倉庫として使用されている。ダイドコロの東北隅にはオカッテが設けられ,その

北側にフロパがある。ダイドコロの床はコンクリート叩きであり,上部には中 2 階が設け

られ, したがって天井は板賓の子天井となっている。ただしショサイは 8 畳敷き床,根太

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天井であり,オカッテはフローリング床,化粧ベニヤ天井となっている。

床上部はすべて畳敷き床で,ヒロマ 12.5畳,ナカノマ・ショサイ・オク・チャノマ 8 畳,

ゲンカン・オヘヤ 6 畳となっている。天井は,ショサイ・ナカノマ・オク・オヘヤが梓縁

天井,ヒロマ・チャノマがベニヤ板天井,ゲンカンがフスマ紙天井,床上部東側と北側縁

およびショサイ南側縁が化粧軒裏天井となっている。

外回りの建具は,ゲンカン南面とオク・ナカノマ・ショイン東面をのぞいてすべてガラ

ス戸である。内回りは,ヒロマ・ダイドコロ境とチャノマ・オカッテ境が格子窓付き板戸,

ヒロマ・ゲンカン境が帯戸,ゲンカン・ナカノマ境,ナカノマ・ショイン境,ナカノマ・

オク境,オク・オへヤ境,オヘヤ・チャノマ境,ゲンカン北面,オへヤ南面が襖戸,ヒロ

マ南面,ナカノマ・オク東面,オへヤ・チャノマ北面が障子戸,ショイン東面がガラス窓

付障子戸である。またオカッテ南面,東面,風呂焚き場東面,物置西面,ダイドコロ・三

畳間境が腰板ガラス戸,ゼンシツ・ショサイ境,ゼンシツ北面が襖戸,ゼンシツ南面が障

子戸となっている。

ダイドコロからショサイへのアガリハナにはゼンシツがあり,北側に 1 聞の押入が設け

られている。ショサイの北面・西面にはオシイタが設けられ,ショサイ・ゼンシツ南側に

は畳敷きの縁があり,西端に便所を設けている。

ヒロマには東面北端に半間幅の押板,北面東端に半間幅の仏壇が,ゲンカン北側に半間

幅の抑入 3 個が,ショイン南側に 1 間半幅の出窓,東面南端に半間幅の押入が,オク北側

東寄りに床の間,西寄りに棚が,オへヤ南側 1 聞と半間幅の押入が,それぞれ設けられて

いる。またチャノマ西面北端に l 間幅の置戸棚が置かれている 。 オク北側の便所は,東端

に小便器,その西側に和式大便器,西端には水洗の洋式便器が置かれている。

建築年代

建築年代は,棟札や建築部材に書かれた墨書銘などの直接的資料がないので確定するこ

とはできない。

過去帳および家伝によると,初代定経までの本国家は,上毛白井(群馬県)にあり, 2

代定寛の時に川越に移住し,さらに寛永年中 (1624-44) 4 代定之が谷保の現在地に移った

とされる。本田家住宅が建築される可能性のある最初の時期は,谷保の地に最初に住み着

いた寛永年中である。川越から現在の地に移住したわけであるから,当然住宅が建築され

たであろう 。

江戸中期までの本田家は,馬の調教,あるいは獣医を家業とし,幕府や広島藩に勤仕す

るほどの家柄であった。その後遅くとも 9 代定緩の代までには漢方医に転じ,それ以降の

当主は代々名主や年寄りとして村政に参画した。また本国家文書の中に「天満宮本社建立

勧進帳略縁井序J (延享 4 ・ 1747年)があるが,これは谷保天満宮本社の建立に際して,

本田家 7 代定庸が谷保村の名主として指導的役剖を果たしたと考えることができる。した

がって住宅が建築される可能性のある第 2 の時期は,谷保天満宮本社の建立時期と同じこ

ろの 18 世紀中から 9 代定綴が名主に就いたと考えられる 18世紀末である。寛永年中に建築

された当初の住宅は,約 130 - 180年ほど経過すればかなり傷んだものと考えられ,また 9 代

定綬の戒名に「院居士」がついていることから窺われるように,名主にふさわしい住宅と

して建て替えたとしてもそれほど不自然ではない。

34

また本田家には「金屋諸職人作料其外払方牒J (嘉永 2 ・ 1849年)という家普請の記録

があり,このとき母屋南側の書院および母屋西側を増築したものと考えられる(詳しくは

改造経緯の項を参照)。したがって少なくとも本田家住宅は嘉永 2 年以前に建築されたこ

とだけはいえそうである。また本田家文書から約50年後の明治31- 33年頃に屋根替え修理

を行っていることが窺われ,そして現在の建物が嘉永 2 年に屋根の葺き替え時期にきて大

きく改造を行ったとすれば,嘉永 2 年から 50年ほど遡った 18世紀末に建築された可能性を

指摘することができょう。

一方,民家様式から建築年代を推定することも可能である 。 現状の平面形式が東南の書

院の聞を除けば喰違い形の六間型平面であることから,少なくとも 18世紀末を下ることは

ない上層農家の特徴を示していると考えられる。あるいは 18世紀中にまで遡る可能性も否

定することはできない。

このように当住宅は, 18世紀中 末にかけて建築されたと推定することができる。

改造箇所

部材や改造の新旧を判定し,さらに聞き取りを手がかりに,改造の経緯を明らかにする。

年代 改造内容 根拠

18世紀中一末|現在の本田家住宅が建築される? 民家様式

嘉永 2 年

(849)

昭和 6 年頃

母屋南側ショインおよび母屋西側ダイドコロを増築する。 I 金屋諸職

人作料其

外払方牒

トンボグチ南方にあった薬医門を現在の位置に移築する。 I 聞き取り

昭和 10年頃 |ヒロマ南側にサン ジ ョウマ 2 聞を増築する。 聞き取り

昭和35年頃 |ダイドコロ西南隅部にショサイ・ベンジョを設ける。 聞き取り

昭和48年

復原考察

母屋東北陥部のベンジョを水洗トイレに改造し,オカッテ l 聞き取り

およびその北側のフロパを改造している。

痕跡・聞き取り調査によって明らかになった改造部分を当初の状態に復原すると,当住

宅の形式は以下のようになる 。

平面は逆勝手の喰違形六間型であり,ダイドコロと呼ばれる西側土間部と,表にヒロマ

・ナカノマ・デイ,裏にカッテ・オへヤ・オクを配した東側床上部から構成される。

ダイドコロは叩き土間であり,天井は竹賓の子天井となっている。西南隅部にウマヤを

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設けているが,これは獣医を家業としていた名残であろうか。また東北隔にカッテが張り

出し,北側にナガシとミズガメが置かれている。南側出入り口(トンボグチ)外側東脇に

はフロバが設けられ,縁側から出入りするようになっている。ダイドコロ西北隅にはカマ

ドが設けられ,北側の壁にコウジンサマがまつられている。

床上部はヒロマ・カッテ・オへヤが板敷き床・竹賓の子天井で,ナカノマ・デイ・オク

は畳敷き床・梓縁天井である。ヒロマの東面北端には半間幅の押板が設けられ,北面東端

に仏壇・神棚が設けられている。カッテにはイロリが切られている。ナカノマ北側には押

入が付き.オク北側には東寄り l 聞の床の間,西寄り 1 聞の違棚が設けられている。また

ヒロマ南側に外縁,ナカノマ南側には式台,またデイ・オクには曲折りに切目縁形式の外

縁が設けられ,名主階層の格式を物語っている。オクの北側にはベンジョが設けられてい

る。

各部屋境の建具は,ダイドコロ・ヒロマおよびカッテ境は開放,ヒロマ・ナカノマ境お

よびナカノマ・デイ境は鏡板戸,デイ・オク境は襖戸である。部屋の外国りは,ヒロマ・

デイ南面,デイ・オク東面が 3 本溝の敷鴨居に板戸 2 枚,障子戸 l 枚となっている。ナカ

ノマ南面には舞良戸 4 枚と障子戸 2 枚が建て込まれている。カッテ・オヘヤ境,カッテ北

側には板戸,ダイドコロの出入り口には大戸が建て込まれている。

当初の上屋規模は,桁行8. 5間,梁行 3 間であり,南側・東側・北側に 1 間,西側に1. 5

間下屋を出した四方下屋造となっている。

屋根は寄棟造・茅葺で,下屋部分は葺き下しとなっている。

評価

本国家住宅は,様式からみて江戸中期にまで遡る可能性をもっているが,少なくとも 18

世紀末を下ることはない。

当家は少なくとも 9 代定綬以降名主をつとめた家柄であり,その格式が喰違形六間型の

平面形式, 2 間半四方のヒロマ,式台付きナカノマ,デイ・オク境の欄間,オク北側の床

の間・違棚,デイ・オクまわりの曲折りの切目縁形式である外縁などに窺われる。

また古式な点として 1 間間隔に立つゴヒラの大黒柱,ヒロマ・ナカノマ境とカッテ・

オへヤ境の喰い違い,ヒロマ・ナカノマ・デイ・オクの各部屋境の中央に柱が立つこと,

四方下屋造りの構造など江戸中期に遡る要素が多くみられる。

このように本田家住宅は,江戸後期における名主階層の住宅形式である整形六間型に先

行する喰違形六間型の平面形式をもち,さらにこの形式をもっ遺構としては,現時点にお

いて東京都の中で他に例を見い出すことができない。したがって当住宅は都内において六

間型形式の最古の遺構として位置づけることができる。

以上の点から判断すれば,本田家住宅は民家史上重要な遺構であり,文化財として永く

後世に保存する価値を充分認めることができるものと評価することができる。

36

第 1 図本田家住宅現状平面図

第 2 図 本国家住宅 中古復原平面図(嘉永 2 ・ 1849年)

第 3 図 本国家住宅 当初復原平面図 08世紀中一末)

37

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l 第 4 図本国家住宅 当初復原南立面図

| 第 6 図 本国家住宅 当初復原北立面図

l 第 8 図 本田家住宅 当初復原桁行断面図

第 5 図 本国家住宅 当初復原東立面図

/

! 第 7 図 本田家住宅 当初復原西立面図

| 第 9 図 本国家住宅 当初復原梁行断面図

<概要>

Y邸新築計画

所在:青森県三沢市

敷地面積: 248.63m2 建蔽率 : 60% 容積率: 200%

地域地区:区画整理地区内、開発許可NO.3

構造:木造 (2 x4工法) 平屋

建築面積: 118.3m2 延ベ床面積 : 118.3m2

外部仕上:金属板、サイデイ ングボードVP、プラスチッ クサ ッ シ、ベアガラス、

煉瓦ブロ ッ ク、砂利

西本直子

内部仕上:フローリング、ピ、ニーノレクロス、 松材、透明ガラス、ステンドグラス(施主製作)

今年の夏は心身ともに長く気怠い毎日で、幸運の女神も全く夏ノ〈テされたかと思うことばか

りだったが、思い返せばささやかながら2つほど良いことはあった。その一つは偶然誕生日に秋吉

敏子の公演を聴けたことで、もう 一つはこのY邸計画ができたことだった。

Y氏夫婦は親戚である。

去年から家を建てたいとは聞いていたが、気に入った敷地が見つかり話が急に現実になった

ということだった。律儀に声を掛けてくれ、有り難いことだと思いながら、どのくらいのスタン

スで仕事をすればよいのかわからず何もせずにいた。というのは、この計画には、敷地を売った

建設業者が必ず施工するという設計者からすればかなり決定的な約束ごとがあったからである。

そうした状況で果たして図面を書いてよいものかと惑っていた。しかし結局その業者の矢のよう

な催促により(彼らには建築完成後に土地代を合む全ての支払がなされるらしい)、基本設計図

を描き始めることになった。

敷地は西と南が道路に面した角地で14m x 18mの矩形の造成地である。南北方向に奥行きが

深い。配置は駐車場を角にもってきたこと以外は施主のスケッチからすんなり決まった。

長いこと放ってあったのでその間施主の方でかなり細かく図面を描いていた。情報源が住宅

産業関連に片寄ってはいるが、現在素人でもその気になれば平面を検討できるくらいの情報はあ ¥

るようだ。方眼紙を使って90cmグリッドで書かれていた。平面に見られた特色は平屋であること、

夫婦の体格によるものか全体にスケールが大きいことの 2 点だった。どちらも都市部の家ではな

かなか望めない条件で、この計画の大きな魅力となっていた。設計に際し、基本的に構法や材料

38

は一般的であることを鉄則と決めた。現場が遠いうえに、設計を依頼してくれた身内の好意を慮

れば、さしあたり平和に工事が開始される必要がある。こうした枠組みで何ができるか。

まず雪が気になった。しかし多雪地域であるのに三沢では例年3伽n程度の積雪しかないとい

うことだ った。実際三沢を訪れてみるとどの家も多雪地域仕様にはなっていなかった。目につい

たのは、 ほとんどの屋根がカラー鉄板葺きで、 3寸以上の勾配をとっていることと、掃き出し窓が

ないことだった。更に感じたのは、 Y邸のスケーノレ感がこの土地に相応しいということだった。

若夫婦は 1 年間フランスで滞在した経験があるが、この辺りには、ル・アープルと同じような苦

漢とした草原があるという。

大きなスケール感がこの家のテーマだと感じ、 10m x 12mの内部空間を一続きの空間とする

ことがこの計画の主眼となった。 見せられた平面図が西側と東側で住み分けられ、せっかくの水

平のひろがりが半分にしか感じられない気がした。そこで居間と食堂を対角線方向に雁行して配

し、空間に奥行きを造ると同時に居間と食堂を区切るともなく繋ぐ関係にした。屋根は中心を持

つ寄せ棟とし、天井を勾配なりに貼り、個室の壁は桁辺りまでで止めて、あくまで大屋根の掛かっ

た10m x 12mの空間の中に個室の箱があるという形にしたかった。だが構造の専門家に聞くと屋

根の規模に対し桁レベルでの水平構面が少なすぎるということで外壁周囲にぐるりと水平の天井

を造り、更に頂点を支える位置でトラスを掛け、そこにブリ ッ ジを掛けて個室上部にできる床面

を繋ぐことにした。構造上有効な床面はロフトとして収納や来客時に積極的に使われる。ロフト

には簡単な梯子で昇る程度に考えていたが、 「子供が昇りたがるから安全な階段にして欲しい」

という施主の要望で後付けではあるが階段を設けることになっている。 雪のため、軒の出を浅く

しているので外観は全体にボコ ッ とした塊になった。隣棟の関係で頂点をずらしたので表情がで

きている。施主は寄せ棟の話をしたとき方形の御堂のようにならないかと心配していたので偏心

させることをとても気に入ってくれた。そして採光が必要なところを狙いぽつぽつと穴を開けて

いった。現地では掃き出し窓のない壁面開口の小ささを補うためか、多数の家にーっか二つ、 ト ッ

プライトが付いていた。この家ではト ッ プライトが更に夏場の風通しに有効に働いてくれると思

う。ちなみにこの周辺の住居では冬は灯油ボイラーによる床暖房とスチームヒーターが一般的に

使用され、夏は扇風機があれば充分である。

これは基本設計であるのでこの後建設会社がどのように対応してくるかはまだわからない。

一応設計課と構造・構法の打ち合わせをしながら計画を進めているが、今後コスト調整を経た段

階で一般材のみを使ってこの計画のアイデアが生き残れるかどうかが決まる。来年の夏には完成

予定である。

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一一一一一~->ti..il.J<封旦且lL!2'Q 山白色姐よ三二一一二 施主のスケッチ

40

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平面図

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隣地境界線

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上部軒ライン Cd

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8-8' 断面図

A-A' 断面図

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北側立面図

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東側立面図

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南側立面図

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道に添って角を曲がり南側正面まで歩いてみる

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ご三』

45

:私信

'レバノン杉が絶滅の危機に瀕しています。" 5 月の朝日新聞にレバノン杉再生を呼びかけ

る小さな記事が載っていました。ここ数年古代エジプトの家具をつぶさに見ている私にとっては

気になる内容でした。 NGO活動としてレバノン杉を保護しようという国際レバノン杉協会の発起

人の方々の動機や意見も気になり 、 大枚¥5.000の入会金を支払い6月 23 日の"森と文明 レバノ

ン杉再生計画"と題された講演会に出掛けました。

会場に入ると、国際レバノン杉協会のマークとSACHAのイラストが入ったTシャツに、ちく

ま新書「森と文明の物語一環境考古学は語る」 という 1冊の本が渡されました。

最初に会長である梅原猛さんが"森と文明"というテーマで都市文明の第一歩を踏み出した

ギルガメシュ王と森の神フンパパのエピソードを話され、レバノン杉について次のように語りま

した。"森は続々と破壊されていったわけですが、最後まで残った森がレバノンの森でございま

す。今レバノンの森が荒野の中にわずかに残っております。杉といってもレバノンの杉は松に近

い種類で、幹が真っ直ぐに直立しますので、宮殿や船のマストに非常にょいということで、多く

切りはらわれました。今残っているレバノン杉の森は、中近東に残った最後の森になるわけであ

ります。聖書には何十ケ所かのレバノン杉の引用がありますが、まさにレバノン杉は古代国家の

憧れの木であり、古代国家の彫刻をよく見ますと、世界を征服した王様たちがレバノンに行って

木を切るというレリーフがたくさん出て参ります。レバノンはそうした素晴らしい森の宝庫であっ

たわけです。"植樹の風習を持つ日本がレバノンの森を救うことは意義深いと結ばれました。

次に、渡された本の著者である安田嘉憲さんがレバノン杉の歴史と現状について話されまし

た。映されたレバノンの森のスライドは寒々しく数本のレバノン杉がたつのみで、その木々さえ

立ち枯れ始めていました。再生させることでレバノン杉を人類と自然の共生のシンボ、ルとしたい

と熱く語られました。

また木を再生させる方法について民間の植栽のプロや大学や公共機関の樹木の研究者による

具体的な案が示されなかなか興味深いものでした。

建築や家具はいわばギルガメシュ的なものでレバノン杉にとっては敵かも知れませんが、人

聞はレバノン杉を愛したからこそ使ったわけで、私も再生できるのならば微力ですが協力したい

と d思っております。

御興味を持たれた方はどうぞ下記まで御連絡ください。

\一一一一

国際レバノン杉協会事務局

干 154 東京都世田谷区駒沢3・25・21

Tel: 03-3422-8584 F邸: : 03-3422-7534

Nifty Serve IDNo.:PXB03743

⑦白血

./3.btJJ剛 C.átJr 'l3u1I.II.

※10月には実際レバノンの森を訪れる旅が企画されています。

46

西本直子

• '…

後記・執筆者略歴

女この暑い時期にカントを読むと いう のは何か「自然」に反したことをしているような気もするが、

「自然に帰れ」というルソーのモ ッ トーも一般に流布していたのとは少し違う意味を持っ ていたよう

だし、まあいいか (太田敬二・関東学院大学・放送大学学園非常勤講師,略歴は第 6 号に掲載)

* (石原弘明・早稲田大学大学院理工学研究科修士課程 l 年、略歴は第19号に掲載)

* (伊藤忍・早稲田大学理工学部研究生、略歴は第19号に掲載)

* (柏木裕之、略歴は第19号に掲載)

女 (小島富士夫・早稲田大学大学院理工学研究科修士課程 l 年、略歴は第19号に掲載)

* (高橋啓介・早稲田大学大学院理工学研究科修士課程 2 年、略歴は第19号に掲載)

*今夏に連れていっていただいたアンコール調査には強い興味を抱いた。 折を見てパイヨンの建築につ

いての感想も本誌に寄せてみたいと思う 。

(西本真一・早稲田大学理工学部助教授、略歴は第 l 号に掲載)

* (西屋宗紀・早稲田大学大学院理工学研究科修士課程 1 年、略歴は第19号に掲載)

*今年の最高気温は28t もう秋だ 10日前まで40t を超える遺跡の中にいたのに はゃ なつかしい

気がする 河上君事務所開設おめでとう 将来の大発展を 心からお祈りします

(溝口明則 ・ 文化学院建築科講師,略歴は第 l 号に掲載)

食中国語は表音文字しか持たないため、外国語の当て字には四苦八苦しているようです。 おかげで読む

方も、音を拾うのが大変。 時々似ても似つかない音になったりするので冷汗ものです。 まあどこの言

葉でも似たようなものなのでしょうが。

(高野恵子, 関東学院大学非常勤講師, 略歴は第 9 号に掲載)

女行政にお金がない。 ないわけではないが文化財保存にお金を回す精神的ゆとりがないのである 。 本田

家住宅もご多分に漏れず風前の灯火となっている 。 いつになったら、本当の意味において伝統文化に

「やさしいJ 愛の手がさしのべられるのかと恨み節をぶっ ても詮無いことだが、ついつい口に出てし

まう。(白井裕泰・共栄学園短期大学助教授,略歴は第 l 号に掲載)

*今年ほど暑いと夏休みは必要だなと実感します。 エアコンのない我が仕事場では今年とうとう扇風機

を買いました。 でも夏はやっぱり仕事する季節じゃないですね。

(西本直子・建築家、略歴は第 3 号に掲載)

47

お知らせ

* r史標」原稿募集規定本誌への投稿を歓迎いたします。 論文、報告、書評、作品紹介、人物紹介、随筆等、内容は自由。 建

築学以外の論考に関しても可。 縦使いA4版の用紙にワープロ打ちの原稿 (40字 X40行、上方余白は

29mm、左右余白28mm、文字間隔3.8mm、行間隔6.2mm) で 4 枚以上、かっ原則として偶数ページに

おさめることとします。 第 1頁1行目から2行目を表題、 3行目右に著者名、 4行目は空けて5行日から本

文とします。 図版や表なども文中に貼り込み、そのまま印刷できるように版下の状態で提出してくだ

さい(後記: 160字以内、略歴: 136字以内) 。 投稿者には原稿が掲載された号を一部無料で差し上げ

るほか、ご希望に応じて必要部数を実費にてお頒けいたします。 必要部数をお知らせください。

原稿は下記宛、郵送願います。

169 東京都新宿区大久保 3・4-1

早稲田大学理工学部 55 ・ N 号館 8 階10Ä

建築史研究室内 O.D.ト. r史標J 出版局

TEL03・3209・3211 ext. 3255

FAX03・3204-5486 直通)

なお、 「史標J 第22号の締切は 1995年 12月 2日(土) (必着)です。ご寄稿をお待ちしております。

食質疑・討論原稿募集規定

掲載原稿に対する質疑や、討論の申込みも受け付けております。 ページ数は自由で、その他の原稿の

形式に関しては上記のものと同一で構いません。 提出期日は随時。多数のご質問・ご批判をお待ちい

たしております。

女誠に勝手ながら、都合により今号から 1 部 1 ,∞o円に値上げさせていただきました。 ご理解いただく

とともに、これからも変わらずご愛読くださいますよう、お願い申し上げます。

女「史標J 定期購読について

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なお、 1994年 6 月より口座を下記に変更しております。 お間違いなきょう御注意ください。

口座名義 :O.D.Ä. 事務局

口座番号:郵便振替口座 口座番号 00180-0-769906

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「史標J 第21号(1995年秋号)一一一 O.D.A. r史標」出版局発行

定価 1 ,000 円 (本体価格 971 円)