andrew marvell - doshisha...andrew marvell と「閉じられた場jの理想 21...

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AndrewMarvell「閉じられた場」の理想 てと 村仲 19 1652 12 月, AndrewMarvellは,二年あまり過したヨークシアのア ップルトン (Appleton Yorkshire) を去った。この時を境として,“The Garden" や“TohisCoyMistress"を書いた形而上派詩人としての彼 は姿を消す. アップルトンは 1650 6 月に議会派軍総指揮官を辞した Fairfax J(Thomas thirdBaronFairfax of Cameron) が寵棲した自 領である. Marvellは, 卿の一家がこの地に移ると殆んど同時に招かれ て,卿のひとり娘 Mariaを教えることになった Marvell Miltonの友人として, Cromwell のもとで働くためマ ップツレトンを去ったのである. この希望は,少し遅れはしたが実現する. 1659 1 月には国会議員となり,王制復古後も 1678 8 月に死ぬ迄,議員 として反政府的な政治活動を続けた@ この時期に彼が書いたものには, f 情詩と呼び得るものはー篇も含まれない. 殊に王制復古後に書いたもの は公的な哀悼詩などを除くと,詩・散文とも政治に関わる調刺が主であり, その痛烈さで、名高かった.この変貌は,適切な解釈の視点が見出されない ために,従来一種の非連続と感じられてきた. EarlMinerの次のような 言葉は,こういった事情をよく示している: Ith salwaysbeenthoughtadilemmairresolvablethatthe fine delicate muchconsidering mind creative of Marvell's lyricsshouldalsohavewrittensuchnoisysatire. 3

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Andrew Marvellと

「閉じられた場」の理想

てと口 村仲 夫

19

1652年12月, Andrew Marvellは,二年あまり過したヨークシアのア

ップルトン (Appleton,Yorkshire)を去った。この時を境として,“The

Garden"や“Tohis Coy Mistress"を書いた形而上派詩人としての彼

は姿を消す. アップルトンは 1650年 6月に議会派軍総指揮官を辞した

Fairfax概J(Thomas, third Baron Fairfax of Cameron)が寵棲した自

領である. Marvellは, 卿の一家がこの地に移ると殆んど同時に招かれ

て,卿のひとり娘 Mariaを教えることになった

Marvell は Miltonの友人として, Cromwell のもとで働くためマ

ップツレトンを去ったのである. この希望は,少し遅れはしたが実現する.

1659年 1月には国会議員となり,王制復古後も1678年 8月に死ぬ迄,議員

として反政府的な政治活動を続けた@ この時期に彼が書いたものには, f子

情詩と呼び得るものはー篇も含まれない. 殊に王制復古後に書いたもの

は公的な哀悼詩などを除くと,詩・散文とも政治に関わる調刺が主であり,

その痛烈さで、名高かった.この変貌は,適切な解釈の視点が見出されない

ために,従来一種の非連続と感じられてきた. Earl Minerの次のような

言葉は,こういった事情をよく示している:

Ith且salways been thought a dilemma irresolvable that the

fine, delicate, much considering mind creative of Marvell's

lyrics should also have written such noisy satire. 3

20 Andrew Marvellと I閉じられた場J の理想

本論は,謎めいたこの変貌を,アップ。ルトン時代のものとされる詩に繰

り返し現われる「関じられた場」のイメージを追う事によって,理解しよ

うとするものである 4 閉じられた場」 とは,具体的にはバストラルの

場をさすが,アヅブ。ルトン時代のものとされる彼の詩は全てこのジャンル

と深い関わりを持ち,直接これに属するものも多い 5 それ等は,バスト

ラノレそのものを問題にしている点でラ特異な意義を持っている.

バストノレは回国を舞台とするものではあるが,この田園は現実から閉じ

られた理想郷であって,文化的洗練度の高さ,言い換えれば,人工性に於

てこれを生み出した教養人@宮廷人の社会に等しい.6 それ故にこそ,こ

のジャンノレは現実批判のためのコンヴェンションとして用L、られもし,ま

た宗教的な次元では, βortus conclusus (the enclosed garden)の伝

統と重なりもするのであるー 7 前者は古典の伝統,後者はキリスト教の伝

統に由来する(古典。キリスト教を関わず,様々な「庭」の伝統も,もち

ろん流れ込んでいる).この両者の合体したキリスト教人文主義(Christian

humanism)がルネサンスの核心的要素であった事 8 またノξストラルが

主に宮廷文化圏で発達した事を思えば,これ等が崩壊しようとしていた17

世紀中葉の英国で 9 バストラルの「閉じられた場Jが白らを生み出した文

化の危機を象徴するに到っていた事はおのずと明らかであろう. Marvell

のバストラル作品がノミストラル自体を問題にしているというのは,この象

徴的な場への彼の問題意識の反映が,作品中に見られるという事をさす.

この意味で,アップ。ルトンがパストラルの理想、と危機を共に体現してい

たという事を,見逃してはならない. Fairfax卿は自ら詩作もし哲学的思

索を好む人であったから,アップ。ルトンという田園所領への隠退は,一見,

「膜想的田園穏棲j というノ々ストラル的生活理想10の完全な実現である.

しかし,卿は台頭する Cromwel1の前から退いたのであって,この意味

ではアヅプルトンは,新しい現実の海に包囲された古い理想の孤島だった

のである@大貴族たる卿の力の故に保持され得たこのような環境は,本質的

Andrew Marvellと「閉じられた場j の理想 21

虚構性を持っている. パストラルの中で,アップ。ルトン時代の Marvell

のものが特異な位置を占めるのには,こうした事情もあずかっている.

こうして見る時, Marvell がアップルトンに入る直前に書いたと思わ

れる“AnHoratian Ode upon Cromwell's Return from Ireland"が

重要性をおびてくる@この詩に於て,革命qこ起つ Cromwellの決断は,

理想としての「閉じられた場」の放棄として表現されている:

The forward Youth that would appear

Must forsake his lVIuses dear,

N or in the Shadows sing

His Numbers languishing.

‘Tis time to leave the Books in dust,

(11. 1-5)11

Cromwellが放棄するこの生活は,実質的にはアップルトンの生活と変り

がない.すなわち Marvellは, 時代の動向を察しそれに関わる倫理的必

要を覚えながら 9 なおアップルトンに入っていったという事になる.そこ

での彼の生活は,最初から葛藤をもって始められたと言えよう.

Marvellのパストラルの特殊さをよく示すものとして, “The Mower

against Gardens"がある. 壁で閉ざされた「庭j は現実の田固とは別

の世界である.話者たる草刈人(これはそれ以前のパストラルになかった

登場人物である〉は,自分の住む田園の中にそのようなものが出来た事を

腹立たしく思い,人為的な虚構だと非難する:

Luxurious Man, to bring his Vice in use,

Did after him the W orld seduce:

22 Andrew Marv巴11と[閉じられた場j の理想、

And from the fields the Flow'rs and Plants allure,

Where Nature was most plain and pure.

He first enc1os'd within the Gardens square

A dead standing pool of Air:

And a more luscious Earth for them did knead,

Which stupifi'd them while it fed.

(11. 1-8)

一見, 'Nature'側の者が‘Art'を非難するという,いわゆる ‘pastoral

complaints'の一例に過ぎないようであるが,考えてみれば因われた

庭」の方が伝統的パストラノレの場なのである.その花咲き乱れる庭にニム

フやサテユロスの{象が置かれているという指摘。1.37-8)は, この庭の

そうした性質を物語っている。話者たる草刈人は,それを包囲する開かれ

た位界一一現実一一ーに身を置いているのだから,ここでは奇妙な逆転がお

きているのである.アップルトン邸自体が回国の中の「洗練された田園」

であった事,また草刈人はそこでの生活と切り離せないものであった事を

考えれば,‘adead standing pool of Air'はアップルトン邸とも重なる

であろう.この言寺は,パストラルのコンヴエンシヨンにのっとりながら,

パストラルを批判しているのであって, Rosalie Colieの造語法を借用す

れば, ‘meta-pastoral'とでも呼ぶべきものである 12

「閉じられた場Jの虚構性は“UponAppleton House"中の通例‘the

History' と呼ばれる部分では,更に明瞭に表われる.13Fairfax 家の祖

先の一人 (SirWi11iam Fairfax)が,アップルトンにあった尼僧院を破

壊・併合する事が述べられるのであるが,それは彼の許婚者である Isabel

Thwaites を, この尼僧院が幽閉したためである. 彼女を誘い込む尼僧

は,自分の世界を壁に「閉じられた場Jhortus conclususだと 9 誇らしげ

に語る:

Andrew Marvellと「閉じられた場j の理想

IWithin this holy leisure we

ILive innocentIy as you see.

IThese walls restrain the World without,

IBut hedges our Liberty about.

lThese Bars incIose that wider Den

IOf those wild Creatures, called Men.

lThe Cloyster outward shuts its Gates,

lAnd, from us, locks on them the Grates.

(11. 97-104)

23

この「閉じられた場Jを尼僧が裏返しに言っているのは,単なる機知以上

の意味を持つと考えられる.そこで暗示される君主踊性ぽ,彼女が尼僧院で

の生活を意義づける言葉が物語る.用いられるメタファが強い官能性をは

らんだものである事に注意したい:

lNor is our Order yet so nice,

lDelight to banish as a Vice.

lHere Pleasure Piety doth meet;

IOne perfecting the other Sweet.

ISO through the mortal fruit we boyl

lThe Sugars uncorrupting Oyl:

IAnd that which perisht while we pull,

11s thus preserved cIear and full.

(11. 169-76)

事実,すぐさま,次のような描写が現われる:

lEach Night among us to your side

24 Andrew Marvellと「閉じられた場」の理想

lAppoint a fresh Virgin Bride;

IWhom if our Lord at midnight find,

IYet Neither should be left behind.

IWhere you may lye as chast in Bed,

IAs Pear1s together billeted.

IAll Night embracing Arm in Arm,

lLike Chrystal pure with Cotton warm.

(11. 185-92)

これでわかるとおり,この尼僧院の内で、は9 敬度が官能の快楽iこすりかわ

っている.14 '''Here Pleasure Piety doth meet" という言葉は,パスト

ラノレの場の理想のはらんでいた危険性を9 見事に表現しているのである.

また,尼僧院を守ろうとする尼達の無力さの徹底した戯画化は,彼女等が

理想としていた虚構の脆さを印象づけるものである. 破壊者・解放者が

「壁Jを破る者として現れるのも,住意しておきたい:

XXXII

Some to the Breach as against their Foes

Their Wooden Saints in vain oppose.

Another bolder stands at push

With their old Holy-Water Brush.

While the disjointed Abbes threads

The ging1ing Chain-shot of her Beads.

But the lowd'st Cannon were their Lungs;

And sharpest Weapons were their Tongues.

XXXIII

But, waving these aside like Flyes,

Andrew Marvellと「閉じられた場j の連想

Young Fairfax through the Wall does rise.

Then th' unfrequented Vault appear'd,

And superstitions vainly fear'd.

The Relics false were set to view;

Only the Jewels there were true.

But truly bright and holy 刀twaites

That weeping at the Altar waites.

(11. 249-64)

25

「閉じられた場」を一方で、このように扱いながらも,突は Marvell自身

は,それに強い愛着を持っている.このアンピヴアレンスを, 同じ“Ap-

pleton House"中の,通例U'the MeadoVv-'および 叶leもNood'と呼ば

れる連続した二つの部分が示してくれる.前者は草刈人の世界ヲ後者は詩

人がそこから退いて入ってゆく森を措いている.前者に於ては9 自の前で

一年を過ぎさせる手法がとられたり,また言葉には多くの奇想、(conceits)

が散りばめられたりしているが,各場面は確固とした現実の情景を視覚的

に提示する.それが現実の田園であってパストラルの場で、はないという事

は,いくつかの場面であきらかであろう.たとえば, くいなのひなを誤っ

て大鎌にかけてしまった或る草刈人が暗い気持になっている所へ, Thest-

ylisという女〈この名は,いわゆる‘pastoralnames'に属する〉が飛び

込んで、ぎて,血まみれの鳥を食糧にしようとひったくってしまう:

But bloody Thesylis, that waites

To bring the mowing Camp their Cates,

Greedy as Kites has trust it up,

And forthwith means on it to sup:

(11. 401-4)

26 Andrew Marvel1と「閉じられた場」の理想

また,仕事の後で草刈人達と女達が繰り展げる宴の場面では,男達の汗の

においが述べられる:

And now the careless Victors over the grass play,

Dancing the Triumphs of the Hay;

Where every Mowers wholesome Heat

Smells like an Alexanders sweat.

(11. 425-28)

このような,健康的とはいえ組野この上ない現実の場から,詩人は森へと

退く.森の外周は,現実から内部を囲み踊てる壁に他ならない:

When first the Eye this Forest sees

It seems indeed as Wood not Trees:

As if their Neighbourhood so old

To one great Trunk them all did mold.

There the huge Bulk takes place, as ment

To thrust up a F~fth Element;

And stretches sti1I so closely wedged

As if the night within were hedg'd.

(11. 497-504)

一歩入り込めば内部は意外にひらけているのであるが,そこは逃れてきた

者の安全を保証する「聖域J (1. 482)であわノアの箱船にもたとえら

れるひとつの完全な位界 (11.483-86)である. この「閉じられた場」の

特徴は,そこが‘God'sArtist'としての, ‘Nature' が支配する場だと

いう事である:

What Rome, Greece, Palestine, ere said

Andrew Marvel1と「閉じられた場Jの理想

1 in this Light lVIosaick of leaves read.

Thrice happy who, not mistook,

Hath read in Natures mystic Book.

(11. 581-84)

27

これは hortusconclususでの膜想の結果であっ!て 15言い換えれば,この

場がパストラルの場に他ならない事を示しているのである.このような充

足の場に留まりたいという詩人の愛着は,それをよしとしない判断を持つ

だけに,狂おしいものとならざるをえなして

Bind me ye Woodbines in your ltwines,

CurI me about ye gadding Vines,

And Oh so cIose your CircIes lace,

That 1 may never leave this Place:

But, lest your Fetters prove too weak,

Ere 1 your silken Bondage break,

Do you, 0 Brambles, chain me too,

And courteous Briars nail me through.

(11. 609-16)

今引用した詩行が,先の尼僧院の場と,現われ方こそ違え,或る種の病

的な官能性を共有している事が認められるであろう.これは,次に論じる

“The Nymph"や "TheGarden"では更にはっきりとしたものになるが,

Marvellの「閉じられた場」が必ず持っている特徴であって,実は "The

Mower against Gardens"でも見られたものである.これは, Marvell

の執着が官能レベルのものであった事,したがって彼がそれを断ったのは

何よりも意志的行為だったという事を,強く示唆する.そして閉じら

れた場」の放棄が自らの性向に背く意識的,意志的なものだったというこ

28 Andrew Marvell と f閉じられた場」の理想

の推測は,それ以前と以降の彼が殆んど非連続に見えるという事実を説明

し得るものであろう.

「閉じられた場」の危機がアップルトンに入る以前から詩人の心の中に

あった事は, 既に“Ode"を例にあげて述べておいた. “The Nymph

complaining for the death of her Faun"では,この「閉じられた場J

は最早,その現実からの隔離を保証する壁を持たない.それ故に,現実と

の致命な接触をおこしてしまうのである.詩は,可愛がっていた白い仔昆

を,現実の内戦の影ともいうべき通りすがりの騎兵達に射殺された,ニムフ

の嘆きの独自という形をとっている.仔鹿は彼女にとって,投影された自

己であるが,彼女自身は D.P. Norfordが“Apparentlyvirginal, the

Nymph really is sensual: like her Fawn she is 'Lillies without,

Roses within'か16 と指摘したとおわ濃密な官能性を無垢な少女という虚

構の自己像で包んだ女である 17 仔鹿もニムフも,またニムフが匂 Garden

of my own (1. 71)'と呼ぶ場も 9 お互い象徴し合う関係にあって,究極

的にはひとつの世界の三様の現れ方である.仔鹿を抱いてこれ迄の生活を

回想する彼女の言葉は,したがってナルシシズムの表現であるが,宗教性

・官能性のわけ難く混じりあった含蓄に富み,かくして出現するのは,妖

しく華麗ではあるが疑いなく病的な世界である:

1 have a Garden of my own,

But so with Roses over grown,

And Lillies, that you would it guess

To be a little Wilderness.

And all the Spring time of the year

It [the FaunJ loved to be there.

Among the beds of Lillies, 1

Have sought it oft, where it should lye;

Andrew Marvell と「閉じられた場J の理想

Yet could not, ti1l it self would rise,

Find it, although before mine Eyes.

For, in the flaxen Li11ies shade,

It like a bank of lillies laid,

Upon the Roses it would feed,

Until its Lips ev'n seem'd to bleed:

And then to me ‘twouJd boldly trip,

And print those Roses on my Lip.

But all its chief delightも;vasstill

On Roses thus it self to fill:

And its pure virgin Limbs to fold

In whitiest sheets of Lillies cold.

Had it 1iv'd long, it would have been

Li11ies without, Roses within.

(11. 71-92)

29

この「庭Jは,宗教的象散性から官能性まで,パストラルの場のあらゆる

可能性を実現している点、でも興味深いものであるが,同時に,本質的な危

機をはらんだ自己欺臓の構造を持たされている事が,決定的な特徴になっ

ついる.ニムフは,回想を続けるうちに一種のエグスタシーに達し,自分

が仔昆の後を追って死に,共に石像として残るというヴィジョンを得る:

Now my sweet Faun is vanish'd to

Whether the Swans and Turtles go:

In fair Elizium to endure,

With milk桐 whiteLambs, and Ermins pure.

o do not run too fast: for 1

Will but bespeak thy Grave, and dye.

30 Andrew Marvel1と「閉じられた場j の理想

First my unhappy Statue shall

Be cut in Marble; and withal,

Let it be weeping too: but there

Th' Engraver sure his Art may spare;

For 1 so trully bemoane,

That 1 shall weep though 1 be Stone:

Until my Tears, still dropping,

1司Tearmy breast, themselves engraving there.

There at my feet shalt thou be laid,

Of pure Alabaster made:

For 1 would have thine Image be

White as 1 can, though not as Thee.

(11. 109-22)

この意味するところは,既にあきらかであろう.過去の自分の死と 9 その

記憶としての固定である.仔鹿を失い,これ迄の生活を続けられなくなっ

た事を契機として,ニムフの虚構であった人格は崩壊する.しかし,心理

学に問う迄もなく,死のグィジョンは新しい自己としての再生を暗示する

ものである 18

ニムフの言葉を通じて虚構の場の妖しい魅力を描き出してゆく Marvell

を見れば,彼がその魅力に抱いていた愛着を知るのに十分であろう.しか

し彼は,ニムフに死のヴィジョンー現実の死ではないーを得させているの

である閉じられた場」は遂に崩壊したが,同時に内J~;こ居る者が自ら

を超克して新しい人格として再生するであろうという可能性が,示され

るのである.この詩以前では「閉じられた場」は壁に護られており,それ

を失った時には,たとえば先の尼僧院と尼僧達がそうであった如く,完全

に滅び去る他なかった. Marvell が「内」に居たという事を考えると,

Andrew Marvel1と「閉じられた場Jの理想 31

この事実はいくら強調しでも過ぎる事のない重要性を持つ.現に「閉じら

れたJパストラル的理想の内にあり,かっその魅力に強くとらえられてい

た詩人が自己を超克する時,これ以外の心的ダイナミズムが考えられるで

あろうか.彼は,パストラルの場の集大成ともいういうべき「庭J の内で9

その象徴であるニムフに自ら死のヴィジョンを得させる形で,それを表現

したのである.

“The Nymph"は, Marvell の心中で決断が既に行われた事を示

すものと考えられる.そして,彼の最高傑作たる“TheGarden"は,今

迄追ってきた「閉じられた場j への彼の対応が終結点・放棄に到った事を

示すと同時に,アップルトン時代を中心とした‘外→内→外'という彼の

動きそのものをも,ひとつの詩中に象徴的に表わしている.もっとも,極

めっきの難解な詩でこれ迄に試みられた主な解釈だけでも相当な数にのぼ

るため,遂一問題点を検討しながら全体を解釈する事は,短いスベースで

は不可能である.そこで,ここで、は内Jから「外」への場の移行とい

う点、に関し決定的な重要性を持つ第6スタンザから第9スタンザに焦点を

あてる事にする.それをもって,述べてきた視点の有効性を問うものとし,

論を終える事にしたい.まず,当該箇所を引用しておく:

IV

Mean while the Mind, from pleasure less,

Withdraws into its happiness:

The Mind, that Ocean where each kind

Does streight its own resemblance find;

Yet it crea tes, transcending these,

Far other W orlds, and other Seas;

Annihilating al1 that's made

To a green Thought in a green Shade.

32 Andrew Marvel!と「閉じられた場」の理想

VII

Here at the Fountains sliding foot,

Or at some Fruit-trees mossy root,

Casting the Bodies Vest aside,

My Soul into the boughs does glide:

There like a Bird it sits, and sings,

Then whets, and combs its silver Wings;

And, til1 prepar'd for longer flight,

Waves in its Plumes the various Light.

VIII

Such was that happy Garden-state,

While Man there walk'd without a Mate:

After a Place so pure, and sweet,

What other Help could yet be meet!

But Itwas beyond a Mortal's share

To wander solitary there:

Two Paradises Itwere in one

To live in Paradise alone.

IX

How well the skilful Gardener drew

Of flow'rs and herbes this Dial new;

Where from above the milder Sun

Does through a fragrant Zodiack run;

And, as it works, th I industrious Bee

Computes. its time as well as we.

Andrew Marvel1と「閉じられた場」の理想

How could such sweet and wholesome Hours

Be reckon'd but with herbes and flow'rs!

33

第7スタンザと第 8スタンザ、の落差は誰の目にもあきらかであろう.第6

スタンザ,或いは第7スタンザ迄で達成される類稀れな持情詩的高揚を考

えれば,詩としては最後の二つのスタンザ〔殊に第 8スタンザ〉を欠いた

方が良いと望むのは当然であるが l~ その視点からで、は, ひとつ(或いは

二つ〉のスタンザを Marvellの犯した痛恨の誤ちと見る他なくなる.む

しろ,この落差・非連続を合理的に詩の意味に組み入れ得る視点が求めら

れねばならない. この非連続を筆者は, Marvell 本人のアッフ。ノレトン時

代とそれ以降の見かけ上の人格的非連続と,同じ性質のものであると考え

る.

第5スタンザに於ていわゆる‘animalsoul' 次元での「庭」との同化

を達成した話者は,第 6スタンザでその状態の自己を超越する.発展の論

理として,ここ迄は異議のないところであろう.しかし,ここから先に行

くには,次の第 7スタンザとの聞での,話者の意識(言葉〉の焦点、の移動

を確認しておく必要がある.第 6スタンザではそれは限りなく「内Jに入

り込む事によって超越を表現しているが,第7スタンザ、では逆に,超越は,

そのようにして豊かな世界となった‘Mind'(‘Soul' と名は変わってい

るが〉の烏としての外在化によって,表現されるのである.第6スタンザ

の‘mind'と第7スタンザの‘Soul'が同ーの実体であるという事は,ー

の中の多様というネオプラトニズムの観念を介して見る時自明であるが 20

両スタンザの聞に色彩上の照応が見られる事からも確められる.この二つ

のスタンザ、の間にある変化の本質は,後者では話者の意識一一言葉を出す

主体が置き去られた身体の方に移る事にある.これは,第6スタンザでは

超越状態に自らを「閉じ」て充足していた自己から,それを冷やかに眺め

る自己が分離した事を示す.第7スタンザの状態を第6スタンザのそれよ

34 Andrew Marvel1と「閉じられた場J の理想、

り完全な(より高揚した〉エグスタンーとする見方は,その方が第7スタ

ンザ迄をより素晴しいものに見うるのは事実であるが,筋が通らないよう

に思える.このスタンザには,醒めた自分の出現,および前スタンザ、の

「内へ」から「外へ」という,次に実現される移行のパターンの伏線を見

る方が妥当であろう.

このように見る時,第7スタンザと第8スタンザの聞の落差・非連続は,

最早不可解なものではない.第 7スタンザの話者が身体の側にあって醒め

ている事を考えれば,第 8スタンザは,その「醒める」という動き,意識

的になる方向への延長として,むしろ積極的な意義を持つものとなる.そ

こに置かれた, エデンの園にかけたおちは, Miner (彼は第8スタンザ

さえなければ,と繰り返し嘆いている〕が面白くもない (nownot very

funny)21 と苦々しげに非難したものであるが, それも, 話者の醒めて

「しらけ」た心境を示すものとすれば,誠に効果的である. Marvellが言葉

遊び、にかけて持っていた天才的な能力を考えれば,事実面白くもないおち

がそこにある事は,誤ちであるよれ面白くなし、からこそであった蓋然性

の方が高い.第6スタンザで達成される,外に対して「閉じられた J心

(内に向かつて「開く」わけであるが〉という場からの自意識の脱出と復

権は,第 7スタンすごから第 8スタンザにかけて完了するのである.

詩的表現の一般論から言っても,心的レベルのこの移行は9 現実の場の

移行という対応を要求すると考えられる.更に,第5スタンザから第7ス

タンザで話者の居る場が,先に“UponAppleton House"を論じた際に「閉

じられた場Jとして確認しておいた森の内部に酷似しているという事21を

想起すれば."that happy Garden-state"という言葉が具体的には聖域と

してのあの森が与えるものをさすのではないかと思うのは,自然であろう@

17世紀の‘formalgardens'に膜想の次第にのっとった場がよく設けられ

ていたという事実は,ヴィジョンに到る膜想がそのような場で行われねば

ならなかったという事を意味するわけでは勿論ないので,さほど重要な事

Andrew Marvell と「閉じられた場」の理想 35

ではない.むしろ重要なのは,場のカテゴリーを考える時, "Upon Apple-

ton House"の中の‘theWood'の部分で、示された場が第7スタンザ迄の場

に似ており 22同時に,第9スタンザの場は同じ“UponAppleton House"

中の‘theGarden'で描かれる‘formalgarden'に近いという事である.

この部分を引用しておこう. Fairfax卿が胆精をこめて手入れをし,要塞

の形を模して造成した庭の描写である:

XXXVII

When in the East the Morning Ray

Hang out the Colours of the Day,

The Bee through these known A11ies hums,

Beating the Dian with its Drumms.

The Flow'rs their drowsie Ey lids raise,

Their Silken Ensigns each displayes,

And dries its Pan yet dank with Dew,

And fills its Flask with Odours new.

XXXVIII

These, as their Governour goes by,

In fragrant V olleys they let fly;

And to salute their Governess

Again as great a charge they press:

None for the Virgin Nymph [MariaJ ; for She

Seems with the Flow'rs a Flow'r to. be.

And think so stim though no compare

With Breath so sweet, or cheet, or cheek so fair.

XXXIV

36 Andrew MarveIlと「閉じられた場j の理想

Well shot ye Firemen! Oh how sweet,

And round your equal Fires do meet;

1司Thoseshrill report no Ear can tell,

But Ecchoes to the Eye and smell.

See how the Flow'rs, as at Parade,

Under their Colours stand displaid:

Each Regiment in order grows,

That of the Tulip Pink and Rose.

(11. 289-312)

とうして見る時,話者は ‘that happy Garden-state' と ‘formal

garen' を分けて考えており,前者から後者へと実際の移動を行っている

ので、はないか,という考えが避けられないものとなってくる 23 前者が過

去形で想起されているのも,ただ神話時代の事だからという理由だけによ

るのではない.前者が‘God'sArtist'としての‘Nature'の支配する場と

して現実から閉じられたものであるとすれば,後者は専ら人の業の成果で

あって,両者ははっきりとした対照をなす.違ったコンテグストに於ては

アップノレトン邸自体が「閉じられた場J であったが,ア y プルトン邸内で

は「聖域」は‘formalgarden'ではなく,森なのである.話者は,閉じられ

た主観的・私人的充足(そこには,パストラルが示すあらゆる伝統の享受

が含まれている〉の場から,聞かれた人の業の世界に出てくるのである.

"The Mower against Gardens"にあった非難からも知られるとうり,

‘formal gardens'に投入されたような庭園技術は17世紀に急激に発達した

ものであるから「庭Jが‘Art'を表現するのは不思議な事ではない.第8

スタンザは,移動の時聞に対応する.

最終スタンザが第8スタンザより肯定的な調子を持っている事も,見逃

してはならない.William Empsonが指摘した如く,忙しく飛びまわる蜂

Andrew Marve1!と「閉じられた場」の理想 37

のありさまは第 1スタンザの ‘Labours'を,すなわち negotit仰を想起

させるが,M それを憤って話者は「庭Jに入ってきたのではなかったか.今

彼は,同じものに対して肯定の態度をとるのである.してみれば,話者の

体験したエクスタシーは,懐悩からの浄化のそれでもあったのだろうか.

ニムフがエグスターの中に得たヴィジョンで暗示された新生は,この詩に

於て実現をみると言って良さそうである.それは同時に, 1予情的高揚の終

鷲でもあった.

これ迄,アッフ。ルトン邸を,理想としての「閉じられた場Jの実現と見

つつ, Marvellの当時の詩中にそのイメージを追ってきた我々は,こうし

て,彼の最高作である

きた事の表現として,人生に見られるそれと等価であると見る点に達した

わけである.このように見る時 "TheGarden"は,ア y プルトン時代

が彼にとって意味していたものの,圧縮された表現である.詩の世界でこ

うして「閉じられた場Jからの訣別を表明した彼は,やがてア y フ。ルトン

を棄てる事になる.“Ode"で Cromwellをバストラル的理想を克服した

ものととらえていた彼が去っていったのは, 現実の Cromwellのもとへ

であった.

Marvel1の場合には,作品の年代が極めて暖昧な事,また私的事柄につ

いて自ら書き残したものが殆んど無い事などから,このような作業は,視

点を定めての再構成とならざるを得ない.要は,得られた作品解釈技術上

の利点が,おかした危険にまさるかどうかであろう.

本論では,文学・思想から生活理想まで包含するものとして,パストラ

ノレという観念を用いた.一般に Marvel1をもって終るとされている伝統

は純粋に文学的なものであり,このようなアプローチには不使だったため

である.たとえば,形而上派詩人の伝統の終蒋は,ここで、論じた彼の変貌の

中にその最も意義深い形を見出すだろうし,事実 Minerがこの派の詩人

38 Andrew Marvell と「閉じられた場」の理想

達の究極的特徴とする‘privatemode'25は閉じられた場」のイメージ

に直接結びつくものである.しかし,これをパストラノレという言葉で自然

に示されるような生活理想のレベルに迄拡大して用いる事は,危険であろ

う.一方,広い意味範囲を持つものとしては文化史的概念,たとえば「マ

ニエリスム」がある.ルネサンスの終末段階としての「マニ L リスム」が

17世紀英文学に於て問題になる時,殆んど常に Marvellが唯一の典型と

される事を思えば,26 ルネサンスという巨大な文化的運動の終駕を彼の変

貌に見る事も可能な筈である.しかし,問題を出来るだけ Marvell個人

に限るため本論ではこの魅力的な概念を用いる事は,避けねばならなかっ

た.

1 以下,伝記的な事柄については, Pierre Legouis, Andrew lVlarvell (2nd

ed. ; London: Oxford U凶γersityPress, 1968)によっている.

2 Marvellの行i青詩の製作年代は,僅かの例を除けば非常に暖昧で、あるが,一般

に,アップルトンを離れる迄に書かれた(大部分がアッフツレトン時代)と考えられ

ている.

3 EarI Miner, The Restoration Mode from Milton to D.ryden (Princeton,

N.]. Princeton University Press, 1974), p. 404.

4 閉じられた場J に焦点をあててマーヴェルの行情詩を読む試みは,各詩の実

際の読み方に於ては筆者とかなり意見を異にするが,既に,川崎寿彦『マーヴェ

ルの庭~ (東京,研究社, 1974)に於てなされている.

5 パストラノレというジャンノレに焦点をあてて MarveIlの詩を論じているのは,

Donald Friedman, MarveU's Pastoral Art (London: Routledge & Kegan

PauI, 1970).

6 この点については Wi~m Empson, Some Versions of Pastoral (London:

Chatto & Windl同 1935)が参考になる.なお9 パストラノレの歴史の整理,およ

びこのジャンノレに於げる‘Nature'と‘Art'の問題については,主としてEdward

W. Tayler, Nature and Art in Renaissnce Literature (New York: Colum-

bia University Press, 1964)を参考にした.

7 閉じられた庭」のイメージについては Stanley Stewart, The Enclosed

Garden (Madison, Wisconsin: The University of Wisconsin Press, 1969)

Andr巴w Marvel1と「閉じられた場」の理想 39

に詳しい.第5章が Ma訂rv問el1の

8 ノルレネサンスをどう考えるカかミについては,筆者は, Hiram Haydn, The Counter

Renaissance (New York: Harcourt, Brace & World, 1950)に多くを負って

L 、る.

9 この点については, 時代に対処しかねて挫折してゆく国教会的人文主義者達を

綿密に描き出している, William Haller, The Rise 01 Puritanism (New

York: C01umbia University Press, 1938)第4章が, Hiram Haydnのテー

ゼ、の基本的な正しさの傍証とも読めて,筆者には興味深かった.

10 この理想と古典との関係,及びその17世紀国で、の実情については,Mar巴2・Sofie

Rostvig, The Happy 1.1an, 2 v01s. (2nd ed. Os10, Norwegian University

Press, 1962)に詳しい.同書中, “Upon App1eton House" を論じた部分が,

Michae1 Wi1ding (ed.), 1.1arvell (London: Macmi1lan, 1969), pp. 215-32

に収録されている.

11 以下, Marv巴11の詩の引用はすべて ThePoems and Letters 01 Aηdrew

1.1ω'vell, ed. H. M. Margoliouth, revised by Pierre L巴gouis (London:

Oxford University Press, 1971), 1から.

12 Rosalie Colie, My Ecchoing Song (Princeton, N. J. : Princeton University

Press, 1970). Colieは, Marvell の持情詩を, それ迄の子予情詩技法の実践批評

だと考え‘Meta-poetry'と名付けた.

13 この長詩は,次の 6つの部分にわかれるとする LouisMartz の考えが,一般

に受けいれらている:“the House, the History, the Garden, the Meadow,

the W ood, and the Vision of Maria." (Louis Martz, The Wit 01 Love

(Indiana: The University of Notre Dame Press. 1969), p. 182.)

14 これは,既に多くの研究者によって指摘されてきた事である.最も早い例とし

ては, Ruth Wal1erstein, Studies in ceventeemh Century Poetic (Madison,

Wisconsin: The University of Wisconsin Press, 1950), p. 185.

15 当時の‘forma1 contemplation'については, Louis Martz, The Poetry 01

Meditathon (New Haven: Yale Univer sity Press, 1950)詳しい.

16 Don P. Norford,“Marvell and the Acts of Contemplation and Action,"

Journal 01 Literary History, IL (1974), 60.

17 ニムブを「無垢 (innocence)Jの象徴とする見方がある. たとえば Earl

Miner,“The Death of Innocence jn Marvell's 'Nymph Comp1aining for

the Death of h巴rFaun', " 1.1odern Philology, LXV (1967), p. 9-16.

18 死一再生j のヴイジョンについては9 主としてユング派の研究宮参考にした.

C. C. ]ung, Four Archetypes, trans. R. F. C. Hull (London: Routledge &

40 Andrew MarveIlと「閉じられた場Jの理想

Kegan Paul, 1972); ]ung, The Psychology of Tran毛ference,trans. R. F.

C. HuIl (Princeton, N. J. Princeton University Press, 1969);河合隼雄

『影の現象学~ (東京:思索社, 1976)など.

19 Earl Miner, The Metaρhysical Mode from Donne to Cowley (Princeton,

N.]. Princeton University Press, 1969), p. 89.

20 この視点については, WaIlerstein, op. cit.以来,研究されつくした観がある.

21 Miner, The Metaphical Mode, p. 89.

22 この事は,しばしば指摘されている. 両者が同じ心理の表現であると示唆して

いるのは, Ruth Nevo, The Dial of Virtue (Princeton, N.]. Princeton

University Press, 1963), pp. 109-110.

23 比較的新しい研究に於ても,場の移動が実際におきているとされる事はないよ

うである.一般には,現実の「庭j が hortusmentis (the garden of the

mind)にエクスタシーの中で変容し,再び現実の「庭こ戻る,とされている.

したがってこの見解では,すべては‘formalgarden'でおきているという事にな

る.しかし. Miner, The Metaρhysical Mode, p. 90には,この移動があるの

かもしれない,という示唆が見られる.

24 Wil1iam Empson, Some Versions of Pastoral, p. 124.

25 Cf. Miner, The MetaPhysical Mode.

26 Arnold Hauser, Mannerism (London: Routledge & Kegan Paul, 1965),

1, pp. 394-52; WylieSyper, Four Stages of Renaissance Style (Garden

City, N. Y. Doubl巴day,1955), pp. 20-22, 118-19.