アメリカ研究所 座談会 設立四十周年 - doshishaアメリカ研究所座談会...

20
座談会 アメリ 設立四十周 ーマ日までの歩みとその 研究所設立の経緯 吉田一九五八年三月、同志社大学アメ り力研究所が設立されました。歴代の所 長、始めは委員長と申しましたが、また 多くの先生方のご努力で今日までまいり ましたこと、ありがたいことだと思って おります。この四十年はずいぶん長い年 月であったと思います。所長としては松 山先生は八年から八三年まで、岩山先 生は八二年から八十六年までお務めいた 出席者 土口田謙二 ^^^^矢学名 ^^^^^^矢学 佐々木隆さーーを (大学アメリカ研究所助教授) 司会^^^^尖学アメリカ <発言順・敬称略 だきました。山^山^生は同志^に^を得 られる前からアメリカ研究所の創設され るところに関わっておられました。この お二人と私の前任者でいらっしゃる釜田 先生、この四十年の相当部分を研究所員 としてご努力いただいた佐々木先生、新 しく赴任された池田先生にも今回の座談 会に参加していただきました。四十周年 にあたって、記憶にあることぱかりでな く、今後、どう考えていくべきかという お話も賜れたらと思います。私は四十周 年に当たる巡り合わせで、たいへん光栄 な役割をさせていただいておりますが、 本日の司会は昨年度までの研究所の事情 をよく御存知の釜田先生にお願い致しま す。 釜田アメリカ研究所は五八年に設置さ れ、本年は五十年目に向かって一歩を踏 み出した年ということになります。四十 年を振り返るにはいい時期かと思いま す。将来に向ってアメリカ研究所が同志 社の中でどういう役割を果たしうるの 16

Upload: others

Post on 29-Jan-2021

3 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 座談会

    アメリカ研究所

    設立四十周年

    ーマ日までの歩みとその成果

    研究所設立の経緯

    吉田一九五八年三月、同志社大学アメ

    り力研究所が設立されました。歴代の所

    長、始めは委員長と申しましたが、また

    多くの先生方のご努力で今日までまいり

    ましたこと、ありがたいことだと思って

    おります。この四十年はずいぶん長い年

    月であったと思います。所長としては松

    山先生は八年から八三年まで、岩山先

    生は八二年から八十六年までお務めいた

    出席者

    土口田謙二(大学アj研究所長大学文学部教授)

    ^^^^矢学名誉教遥

    ^^^^^^矢学文学部教遅

    佐々木隆さーーを

    (大学アメリカ研究所助教授)

    司会^^^^尖学アメリカ研究科長大学法学部教返

    <発言順・敬称略

    だきました。山^山^生は同志^に^を得

    られる前からアメリカ研究所の創設され

    るところに関わっておられました。この

    お二人と私の前任者でいらっしゃる釜田

    先生、この四十年の相当部分を研究所員

    としてご努力いただいた佐々木先生、新

    しく赴任された池田先生にも今回の座談

    会に参加していただきました。四十周年

    にあたって、記憶にあることぱかりでな

    く、今後、どう考えていくべきかという

    お話も賜れたらと思います。私は四十周

    年に当たる巡り合わせで、たいへん光栄

    な役割をさせていただいておりますが、

    本日の司会は昨年度までの研究所の事情

    をよく御存知の釜田先生にお願い致しま

    す。釜

    田アメリカ研究所は五八年に設置さ

    れ、本年は五十年目に向かって一歩を踏

    み出した年ということになります。四十

    年を振り返るにはいい時期かと思いま

    す。将来に向ってアメリカ研究所が同志

    社の中でどういう役割を果たしうるの

    16

  • か、将来の展望を含めてお話を賜ればと

    思います。松山先生、岩山先生、両先生

    から、研究所はどういう目的で同志社の

    中に設けられたのか、というところから

    お話いただければと思います。

    松山二十五周年の時座談会が開かれ

    ました。それまでのアメリカ研究所の責

    任者だった先生方にお集まりいただきま

    した。岩山先生が所長だったと思います。

    私と岩山先生、研究員の方も出席して、

    その中で物故者になられた方が、上野直

    蔵先生、小松幸雄先生、遠藤汪吉先生、

    大下尚一先生。かって研究所が委員長制

    度の時、委員長であった五人のうちご健

    在なのは山本浩三先生お一人だけです。

    初代所長の大下さんも亡くなられまし

    た0 オーティス.ケーリー先生はお元気

    ですが、日本におられないですから。設

    立当時のことを身をもって体験された方

    かいらっしゃらない。研究所を作ってこ

    られた方々のお話を聞けなくなったのが

    残念であると思います。

    ご存知のように、アメリカ研究所の母

    体は「京都アメリカ研究セミナー」であ

    りまして、最初は東京大学とスタンフォ

    )、

    ード大学が提携していたセミナーのイク

    ステンションで、東京でやったあと、一

    回目を京都でやるという形でした。それ

    九五一年のことでした。その次の年

    にはイリノイ大学の協力で一示都セミナー

    が開かれましたその後関西でこのセミ

    ナーを独自に持とうという計画が練ら

    れ、五三年は準備のために休んで、五四

    年に京都大学と同志社大学が協力して

    「京都アメリカ研究セミナー」が確立され

    ました。ロックフエラー財団の援助を得

    て京都大学に事務局を持ち、アメリカの

    学者がディレクターとして常駐していま

    した。このロックフエラーからの援助が

    切れる前に、京都大学も同志社大学もア

    メリカ研究を学内で推進する機関をつく

    り、アメリカ研究セミナーを続行する受

    皿にすることにしました。それで、京都

    大学はアメリカ研究センターをつくり、

    同志社では研究所にすることになって、

    同志社大学アメリカ研究所が設立されま

    した。ですから「京都アメリカ研究セミ

    ナーL が母親となり、その子どもとして

    同志社大学アメリカ研究所」ができたと

    いうことです。

    当初、弘風館の社会学科の研究室の一

    部屋を借りて研究所が置かれました。備

    品はアメリカ研九九セミナーで使っていた

    ものを持ち込み、謄写版もセミナーで使

    つていたものでした。研究所ができたの

    が五八年、京都大学の「アメリカ研究セ

    ンター」と同志社大学の「アメリカ研究

    所」の共催で「夏期セミナー」を続けて

    いくようになりました。最初、研究所に

    は職員がもらえなくて、総務部から兼任

    で来てもらいました五年くらい続きま

    したかねそれから人専任をもらって、

    事務長が霧部から出向してきて二人に

    なりました

    その後九九年に、大学院アメリ

    力研究科が研究所を母体に生まれまし

    た。セミナーを母体に研究所が生まれ、

    今度は研究所を母親にして研究科ができ

    た。将来、研究科がどんな子どもを生ん

    でくれるか期待しております。

    岩山アメリカ研究所がスタートしたの

    ゛、か

    九五八年三月二八日で、私はアメリ

    力研究所がスタートした四日目に大学の

    助手になりました。アメリカ研究所がス

    タートしました三月二八日の一週間前、

    座談会●アメリカ研究所聾四十周年

    17

  • 大学の部長会で、学長(大下尚先生の

    お父さん)が、少し前に社会学研究所が

    人文科学研究所になり、理工学研究所も

    できた、「これで同志社大学は研究所を作

    るのはやめたしとおっしゃったそうです。

    そのときの教務部長の上野先生が「それ

    は困る。待ってくれ」と発言され、急い

    で研究所の規約を作られ、承認されたと

    聞いています。弘風館四階の研究室に場

    所だけができた。教務部長と学部長が委

    員で、命令をする人だけがいる。初代委

    員長は自分でガリ版を刷る。記録する者

    もいない。図書を買っても分類する人も

    記帳する人もいない。仕方なく私がそん

    な仕事をしていました。そして一年ほど

    して、研究所も啓明館に移り、事務方が

    出向で総務部から来ました。

    なぜアメリカ研究所ができたかという

    と、示都大学と同志社大学で、毎年、単

    発的なアメリカ研究のセミナーをしてい

    た。しかしこれでは日本にアメリカ研究

    が根づかない。土台を大学そのものにお

    けば、アメリカ研究のヨ冨岳甜住m三ユ一ゆm

    が生まれてくる可能性が出てくるのでは

    ないか。予算を見ますと、図書購入費

    共同研究のプロジエクト研究費が始めか

    らあったんです専任研究員は麻田貞雄

    先生が最初で、九六三年に就任されま

    したその頃は黒社大学には専任研究

    員がもう一人理工学研究所におられただ

    けでした。アメリカ研究所の方は、翌年

    にはドナルド・グレンさんと明石紀雄さ

    んが来られたので三人になりました。今

    は研究所と研究科で七人です。隔世の感

    がします。

    松山日本の学術研究の中心は東京で

    す。東京以外のところでアメリカ研究所

    を作ろうとしたわけです。立教大学にア

    メリカ研究所が戦前からありましたが、

    ほとんど機能していない。東京大学のア

    メリカ研究資料センターはずいぶん後で

    できたものです。京都は焼けていないか

    らアメリカ研究にとって日本の大切なも

    のがある、そこでアメリカ研究をやれぱ

    根づくのではないかということでした

    岩山社会科学分野では国公立も含めて

    専任研究員が教員の身分でいるところは

    なかったんです。立教も上智もアメリカ

    研究所、アメリカ・カナダ研究所で職員

    が一人。私立大学の研究所で専任研究員

    を置いたのは同志社が先駆けです。最近

    よしだけんじ 1938年大阪府生

    まれ'68年同志社大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了'71

    年文学部専任講師、'82年教授文学部文化学科教務主任、文学部長を歴任'98年4月よりアメリカ研究所長主な論文に「r認識」の構造的把握の試み」(人文学第149

    rJ.デューイの「哲ぢ、 1990.3

    学をめぐってーその経験論的特質の一考察一」(r日本デューイ学会紀要」第35号、 1994.6)なとほかに著・訳多数。

    吉田謙二氏

  • でも兼任の形が多い。

    松山東京大学でも資料センターです。

    国立大学では文科系の研究所は難しい。

    京都大学の人文科学研究所は戦前からあ

    りますが、普通はセンター止まりです。

    同志^が^究^の形にしたのは上^先生

    に先見の明があったからだと思います。

    釜田当時、同志社に人文科学研究所が

    ありましたね。そことの関係は議論にな

    つたのですか。

    岩山それはね、もっと後になってから。

    財政が難しい時、合体しようかとい、瓢

    論がありました。十年、十五年たってか

    らです。

    松山アメリカ研究所は職員がほしいけ

    れども、予算が苦しい時で、とてもそん

    な余裕はない人文科学研究所と合体し

    て、その巾の一っにアメリカ研究が入れ

    ばいいのではないかと、かなり真剣に考

    えことがあります。

    吉田それは一九七0年代ですか。

    岩山もっと前です。六0年代中頃です。

    委員長が合体せよと。

    編集部同志社には当時、ハーバードの

    サポートがあったのでは。

    岩山それはアメリカ研究所に来ていま

    せん。最初、ロックフエラー財団から六

    万ドルもらってスタートした。十人か

    十二人にアメリカ研究の勉強をさせる

    と。そういうお金を持っていたこともあ

    つて、合体させることはできなかったん

    です。

    佐々木設立の際の大事な要因は二十五

    周作の悪儷会で触れられています。

    j

    東京以外にアメリカ研究を根づかせたい

    という要求が学会にあった。その受け皿

    が同志社にすでにあったことが重要で

    す。新島襄以来、第二次大戦前にも、同

    志社には日米間の親密な関係がアーモス

    ト館を中心にあった。ケーリーさんとい

    う貴重な人材が、終戦直後同志社にお

    られてコーディネータ役をして下さった

    ことも重要だと思います。

    松山京都のセミナーにロツクフエラー

    の助成金があった。それが切れた時点で、

    一九五九年一月、事務所を解散するとな

    つたわけです。研究所はその前年にでき

    た。アメリカ研究を学内で残さないとい

    かんと、一年前に弘風館の一室に研究所

    を作ったわけです。翌五九年、楽友会館

    にあったセミナー事務所も解散する。同

    座談会●アメリカ研究所撃四十周年

    まつやミのぶなお/1928年東京

    生まれ。'54年同志社大学大学院文

    学研究科英文学専攻修士課程修

    了'55年文学部助手、'58年文学部

    教授。'95年定年退職、名誉教授。

    現在京都女子大学文学部英文学科

    教授同志社大学アメリカ研究所

    長、日本アメリカ文学会会長なと

    を歴任主な著哲に文学とアメ

    り力の夢(共著、 1997)英宝社な

    ど多数

    松山信直氏

    19

  • 志社としては受け皿を作った。事務所に

    あった資料の本がほしかったんですが、

    全部京大へ行ってしまって、未だに倉庫

    に眠っているそうです。同志社は研究所

    があるから資金援助の件でアジア財団に

    話を持っていきやすかった。ロックフエ

    ラーが切れた後受け皿があるからと。

    岩山アメリカ研究がなぜ同志社に生ま

    れたか。戦前から、人文・社会科学の分

    野でアメリカ関係の講座があったのは、

    国立では東大だけだったんです。同志社

    には戦前からアメリカ文学の講義があっ

    た。戦後もあった。他の大学にも、英文

    学科や英文学専攻はあってもアメリカ文

    学の講義はなかった。同志社はやってい

    るなと、一般的飯められていた。京都

    大学にはアメリカ史という現代史はあっ

    たが、中心はヨーロッハ史です。京大文

    学部の英文専攻にアメリカ文学担当の専

    任ができたのは、英文が講座になった

    時に一っ入った。アメリカ研究の先生が

    いるというのは珍しかったわけです。

    吉田二十五周年の時の大下先生のお話

    では、当時アメリカでアメリカ研究と

    いう考え方が盛り上がっていたというこ

    とでしたが。

    岩山もうちょつと古いんです。一九三

    年代にすでにいくつかのアメリカ研究

    のプログラムが出てきている。学部のプ

    ロクラムもあるし、盛り上がってきたの

    は五年代ですが、年代からできて

    います。

    アメリカ研究の流れ

    釜田アメリカ研究の中身のイメージは

    当初から人文系、社会科学系を一緒にし

    た幅広いものですねその概念は、四

    年代、五年代にモデルがあるのですか。

    セミナーをモデルにしたのですか。

    岩山アメリカ研究というディシプリン

    を持って、その中で経済、歴史、文学と

    いうそれぞれの要素を統合していくとい

    うことでした。しかし同志社のアメリカ

    研究も、別個なものが、なかなかまとま

    つていかなかったと思います。

    松山そしてね、アメリカの大学でやっ

    ていることにモデルを仰ごうとしても、

    アメリカのアメリカ研究自身が必ずしも

    つではなかった。ハーバード方式は歴

    いわやまたじろう/1933年京都

    府生まれ。'58年同志社大学大学院

    文学研究科英文学専攻修士課程修了'62年アイオワ大学大学院英文

    学研究科修了(M.F.A.)。'97年力ー

    ルトン大学 Logum Doctor(LL.D.)。'55年文学部助手、講師、助教授を

    経て'71年教授、チ見在に至るこの

    問、教務部長、アメリカ研究所長、文学部長、第25代大学長を歴任また'92年から日本私立大学連盟

    常務理事、大学基凖協会理事などに就任主な著にコロンビア米文学史(共訳)山口店、大

    学改革と大学評価(共著)大学基準協会などがある

    岩山太次郎氏

    20

  • 史と文学が中心です。則品=mず§豊'

    ヨ含一でやっていましたね。佐々木さんが

    行った十年くらい前はミネソタ大学で社

    会科学を取り込人だ研究を始めたと聞き

    ましたが。

    佐々木アメリカのアメリカ研究は、一

    九三0年代からアメリカのナショナリズ

    ムの高揚と共に始まるんです。

    ド大学のンヨゆ二命二δ三=籍二0=のプロ

    グラムを筆頭に出てきますね。アメリカ

    におけるアメリカ研究は、文学、歴史中

    心で、ンヨ含§=含ぐ一一一昼牙戸ンヨ売二畠=

    合=三ゆがアメリカにおけるアメリカ研

    究だった。ところが、それにいろんな分

    野が加わってきて、一九六0年代の半ば

    くらいから文化人類学のアプローチが入

    つてきます。このアプローチはへンシル

    ベニア大学が中心にやりだしたプログラ

    ムです。経済や政治などは、それぞれの

    学部でやっているのがアメリカでの研究

    です。

    松山文化人類学はもっと早かったので

    はないですか。

    佐々木個別的にはね。ただ、アメリカ

    研究がその方法を借用するようになるの

    は近年のことです。

    釜田アーモスト大学でアメリカ研究が

    ありましたね。あの中に法律関係が入っ

    ているのに気がついて幅広いなと感じた

    ことがありますが、でも、もともとは文

    学、歴史が中心であったと。研究所のス

    タート時のモデルはどうだったのでしょ

    岩山アメリカの外交史です。

    池田麻田先生ですか。

    佐々木イエール大学で勺=辻.を取られ

    て翌年くらいに。

    池田最初は歴史が中心だった。その後

    社会科学系統が重点的に研究されていま

    すね。そのあたりの転換はどういう形で。

    岩山人口密度です。

    松山アメリカの研究をしておられる方

    が同志社に大勢おられた。戦前にアメリ

    座談会●アメリカ研究所讐四十周年幻

    向が出て、ヒストリー中心でした。買う

    資料もヒストリーです。文学の方は英文

    学科にあるから、二重になるのは勿体な

    いと。今も研究所の本の八0パーセント

    はヒストリーです0

    池田最初に専任になられた方の分野

    よ0

    う岩山当初は、かなりケーリー先生の意

    ι

    佐々木隆氏

    ささきたかし/1944年京都市生まれ。'73年伺志社大学大学院文学研究科修士課程修了。'刀年ミネソ

    タ大学大学院アメリカ研究科修士課程修了(M. A.)。'73年同志社女子大学学芸学部英文学科助手、'74

    年同志社大学アメリカ研究所専任研究員(助手)、'86年同教授、'91年大学院アメリカ研究科教授主な著に「100年前のアメリカー世

    紀転換期のアメリカ社会と文化

    (共編著)修学社などがある

  • 力に留学してこられた方もおられた。経

    済の松井七郎先生や原猛先生教育学の

    吉川哲太郎先生などです。

    岩山二0年代、三0年代に留学してい

    る方がおられた。それぞれ自分の専門分

    野を持っておられるけれど、アメリカで

    勉強してきたならアメリカ研究をやれ

    と0松

    山上野先生はイギリスの中世文学が

    専門でしたが、三0年代にアメリカに行

    かれて、ノーベル賞をもらった小説家の

    シンクレア・ルイスを読んでおかないと

    いかんと考えられたようです。そして、

    周辺にアメリカ文学をやる人を作ろうと

    されました。私も本当はイギリス文学だ

    つたんです。新制大学ではイギリス文学

    ばかりでアメリカ文学をやる人はあまり

    いなかったんです。大学院の二年目にな

    つた時、「イギリスなんかやめてアメリカ

    に変われ」と一言われました。先生のとこ

    ろで跡を継ぐ人を育ててもらって集まっ

    たのがアメリカ研究者になっていった。

    上野先生の発想にはそういうところがあ

    つたと思います。

    岩山僕も学部の時はイギリス文学で

    す。ジエームス・、ショイスだった。大学

    院に入ってアメリカ文学に変わった。

    釜田四十年の間にアメリカでのアメリ

    力研究とは一味違ったものができあがっ

    てきたと思います。

    佐々木日本のアメリカ研究そのものも

    そうですね。アメリカを研究している人

    たちが一種のミ§牙二で学会を作って

    いる。

    池田実際にジャーナルに出ているもの

    は歴史、文学あたりが中心ですね。アメ

    り力経済分析とか法律、社△至モ人類学

    はないと思いますが。過去のアメリカ型

    のモデルで学会の方は行っているわけで

    すね。

    佐々木筋としてはアメリカに関する研

    究をしている人が構成している。しかし

    数から口えば、歴史、文学研究が圧倒的

    に多い

    池田入っている先生方はそうですね。

    入っていない先生方は経済、法律の先生

    と力

    佐々木共通した関心は歴史がコアにあ

    ります

    編集部同志社の中だけの研究所ではな

    くて、京都周辺のアメリカ史の研究者が

    いけだけいこ/1949年兵庫県西

    宮市生まれ。神戸女学院大学卒業。

    イリノイ大学でPh.D.取得(文化

    人類学)。イリノイ大学講師、ハミ

    ルトン大学助教授を経て、'91~'97

    年コロンビア大学バーナード・カ

    レッシ助教授'97年9月よりアメ

    り力研究科・研究所助教授主な

    著{井に A Room FU// of 肋rrors

    H1宮h schoo/ Reunioun5 1n Mldd/e

    Amehca (スタンフォード大学出

    版)「老いの危機管理一生きられた

    経験としての阪神大震災」(岩波講座現代社会学13巻)など英語・日

    本語論文多数

    池田啓子氏

  • 参加していたのではないかと羨ましい感

    じがします。

    松山それは大下さんのつながりがあり

    ますね。アメリカ史の専門家で、後に日

    本アメリカ学会の会長をされた今津晃先

    生が同志社の旧制の予科で教えておられ

    たことがあって、大下さん、ケーリーさ

    んと三人がコアになって、アメリカ史の

    研究をやる人たちが集まるというきっか

    けができました。この人たちはいい仕事

    をしていますよ。『アダムズ家の人々』の

    研究が最初の一っの成果ですね。その後

    棚訳だとか、論文集を出版されました。

    編集部そういう研究生活に場を提供し

    たということがあると思います。

    佐々木松山先生、岩山先生を中心に文

    学の人たちも集まってきて、論文集を作

    るということもありました0

    松山アメリカ文学会の関西の中心的な

    ことをやろうというのが上野先生の発想

    でした。

    岩山今では、アメリカ文学専攻の教員

    が大学に複数いるところがかなり出てき

    ましたが、以前は少なかった。アメリカ

    史は今でも少ない。

    佐々木先生方の世代を中心に、戦後い

    ち早くアメリカに行くチャンスに恵まれ

    た先生方が多かったことは、同志社にと

    つて幸いでした歴史、文学にとどまら

    ず、経済、法律の分野でも。藤倉皓一郎

    先生もそうだし、柳原胖夫先生などの人

    たちが研究所をもり立てて下さったと思

    ます。

    い岩山アメリカ研究というより、それぞ

    れのディシプリンの中でアメリカ研究を

    やる。これは同志社だけでなく、日本の

    アメリカ研究者の傾向としてあると思い

    ます。アメリカ学会の論文を見ても、ア

    メリカ研究を論文のテーマとして見るこ

    とは難しい。それぞれの分野の中でやっ

    ているわけです。

    吉田アメリカ学会も、アメリカにかか

    わる各ディシプリンの研究者のミ§'

    牙=になっている。アメリカ研究という

    ヨ岳如唇岳ル昇一区一ゆmをどうやって日本の

    中で確立してぃくのかという問題です

    ね。

    池田私の専門分野を見ましても、専門

    的な細分化が進んでいる。それと同じこ

    とが経済、法律の分野でも口える。そう

    いう分野倫度なスヘシャリストでなけ

    儀会●アメリカ研究所登四十周年

    32

    かまたたいすけ/1941年中国旅

    順市生まれ。'67年同志社大学大学

    院法学研究科修士課程修了の後、

    法学部助手、講師、助教授を経て

    '79年に教授、現在に至る。この問、

    法学部長、国際センター所長、ア

    メリカ研究所長を務め、'94年より

    現職最近霄いたものに r憲法の世紀、憲法の課題一議会制と司法

    審査制一」(「法学教室」 1998.4NO.21 D がある。

    釜田泰介氏

  • れぱ一流の学者と評価されないわけで

    す。同じ分野同士でも栗しにくくなっ

    てきている。人類学はもともと総合的学

    問というメリットがあって、歴史や文学

    の方とよくお話ができるんですが。

    佐々木 mでゅ含巴一路牙=は学問の必然で

    しょうが、しかし如§一N一一Nゆすることも

    方で必要ですから。何とかしないと。

    釜田何稔合性のある研究をする時、

    中心になる、つなぎになるものは、何で

    しょうか0

    松山私はコアになるのは歴史だと思い

    ます。歴史をマクロに見る目を持ってい

    ないと、自分の専門とするミクロの世界

    が見えてこない。ミクロの世界とマクロ

    の世界の両立をやっていかないといけな

    )し

    いと思います

    池田歴史というのは重要だと思いま

    す。それぞれの分野でどんなに専門度の

    高いことをやっていても、一番重要なコ

    ンテキストとして、歴史と、そこから生

    み出される文化、この二つの視点を入れ

    た研究が日本におけるアメリカ研究だと

    私は感じています。アメリカの歴史的、

    文化的文脈を理解した上で、一局度な専門

    研究がなされる。そこで初めて違う分野

    の専門知識が生きてくるのだと思いま

    す。佐

    々木二十五周年の冊子に載っている

    大下先生の研究所発足時の張ですが、

    研究所が発足した時、苦労したのは、違

    う分野の研究者の間に、いかにしてアメ

    り力研究の共通理解を形成するかに腐心

    した。分野が異なってもアメリカ文明に

    比白が理解を持とうということで、この研

    究所をまとめていこうと努力した」と書

    いておられます

    池田ただ、二十一世紀のアメリカ研究

    アメリカ文明論のとらえ方を変えて

    は、い

    かないといけないと思うんです。今ま

    でのアメリカ文明論はアメリカに独特で

    ユニークなものは何かという視点から、

    アメリカを一つの独立した社会として見

    たり、日本との比較で見たわけですが、

    もう一墨誘・=山牙コ巴な時代なんです。国

    境を越えていかないといけない。そのた

    めには、もっとアメリカというものをヨ

    ロッハや他国との関連のなかで研究し

    ていかないといけないと考えています。

    アメリカ研究所はアメリカだけという視

    点ではなく、他の(地域研究)工りアス

    タディズとも連携を持って、その中でア

    メリカを理解する、もう少し広げたグロ

    ルな視点をもっていかないといけな

    バいのではないでしょうか。

    岩山そのためには、アメリカだけを対

    象に特殊性を見るのではなく、特殊性を

    見るにも関連性をということ、その通り

    だと思います。前から何回も計画があり、

    試みられたのですが、どうしても根づか

    なかったと思います

    釜田ここでアメリカ研究所四十年を踏

    まえた将来像についておうかがいしたい

    と思います。アメリカ研究所が今後なお、

    大きな成果を果たすとすれば、それは何

    なのでしょう。

    岩山アメリカ研究所の将来像として

    は、研究するところであると同時に教育

    の機能も持っ必要がある。学問の継承性

    も含めて重要です。幸い大学院にアメリ

    力研究科ができました。学部の教育は総

    合科目に「現代文明とアメリカ」などり

    アメリカ研究のBAプログラム

    24

  • レー式の講義はありますが、いずれも単

    発で終わっている。学部の中に「アメリ

    力研究」を深める学生を作り上げていく

    ためには、アメリカ研究のプログラムを

    作って、それを修了してBAが出せるよ

    うな制度が必要です。科目はいろいろな

    学部に別々におかれていても、統合させ

    ることで、そこからBAが生まれてくる。

    それを母体に研究プロ、ジエクトが生まれ

    てくる可能性もある。そのきっかけを作

    るというようなものが必要ではないか。

    池田私が教えていたコロンビア大学、

    バーナードカレッジのアメリカ研九九は、

    今、おっしゃったシステムです。ちゃん

    とした学部があるのではなく、アメリカ

    研究プログラムがあって、そのプログラ

    ムの指定した単位を習得すれぱアメリカ

    研究専攻のBAが取れるというもので

    す。アメリカにはメジャー(主専攻)、マ

    イナー(副専攻)のシステムがあります

    から、たとえばメジャーは社△至子でマイ

    ナーがアメリカ研究とか組み合わせもき

    松山発展的に細分化してきた感じで

    す細分化すれぱするほどミクロ的な見

    方になる。もっと広げてアメリカの歴史

    全体を見渡すマクロな面からの科目がほ

    しい

    吉田アメリカ研究の継承性からいきま

    すと、周辺的な努力をむなしく重ねてい

    るような感じで、 BAをちゃんと取れる

    人を作っていかないといけませんね可イ

    とかアメリカ研究プログラムを確立して

    いく道がないものですかね。

    岩山プログラムの中で中心的な科目に

    なるものを研究所が設置する。今はそれ

    ぞれの学部がやっていますが、各学部の

    カリキユラムの中にアメリカ研究をマイ

    ナーしたモデル・コースを作る。それを

    取ればどの学部でも卒業に必要な科目の

    部分になるような履修モデル・コース

    を作る。

    釜田学部はどうなるんですか。

    岩山所属学部の学士になる。経済学部

    だったら、学士(経済学)(同志社大学)

    となる。各学部がそう思えばい

    )0

    松山でも各学部はそれは思いたくない

    と口うでしょう(笑)。

    座談会●アメリカ研究所登四十周年

    関する講義がたくさんあるわけですか

    ら、そういう制度を作るのが可能であれ

    ば、それらをつなげることは難しいこと

    ではないと思います。

    岩山日本の大学は同志社だけでなく、

    「学部の壁Lには侵しがたいものがあるこ

    とも事実ですが、学部の壁を越えてのプ

    ログラムを作る意義はあると思う。

    池田アメリカでは三年生から専門を選

    びます。一、二年生は全体が同じなんで

    す。大学の構造上の問題ですね。簡単に

    乗り越えられない

    釜田そういう問題について、研究所と

    してどう貢献しうるのでしょうか。

    岩山総合科目も、最初、そういう視点

    からスタートしたんです。単発に人文系

    に置くとかということではなかったんで

    す。

    池田その点では前進してきています。

    今まで一つだった「現代文明とアメリカ

    社会L では来年度から二つのコースをや

    ることになりました。「日米関係に加え

    て来年度は「アメリカのジエンダーとラ

    イフコース」を開講し、学生の興味にょ

    りこたえる形に発展しつつぁります。

    く松山

    池田

    部の大学院でもそうです。

    現在でも同志社はアメリカ研究に

    25※ B3Chelor of ArtS の略、以下 BA と三己す

  • 釜田学術という場合はどうなるのです

    )0

    力岩山学術という学位もあります。同志

    社は出していないが、修士以上はありま

    す。釜

    田アメリカ研究でBAを出す。今は

    既存の学部だけど、学術というのを出せ

    れば。

    岩山それは可能なんですよ。大学設置

    基準では。

    松山学部の壁がある以上は、経済学士

    でも商学士でもいいじゃないですか。そ

    の学生にとって経済はメジャーかもしれ

    ない。でもマイナーの方はアメリカ研究

    だということを学部で認めて、あちこち

    の学部にあるアメリカに関する科目の受

    講を認めたらいい。

    池田井N=m・=N一一0旦と大きく口ったけ

    れども、せめて一益=m,ユゆでNニヨ曾一でもい

    (笑)。

    い吉田今の大学の組織で学術が出せると

    いうのはどういう意味ですか。現在の同

    志社大学の学部組織では学術はむりなん

    ですか。

    岩山学則を変えれぱいい。経済学部は

    学上(経済学)を出す。文学部は学士(文

    学部)です。そこに文学部が文学という

    )0

    宝名と同時に、学術を入れたらいし

    別にどこも同志社大学が決めたらあきま

    せんと一言いません。

    土口田そうですか。

    岩山今は学位の呼称は自由になった。

    修士の学位名でも一九九一年までは限ら

    れていたが、今は内容にふさわしいのな

    ら自由です。こういう呼称の修士号を出

    していると、学則の中に入れて申請すれ

    ばいいわけです。

    松山問題は学士の名前ではないんです

    ね。

    土口田それを各学部で提案して、コミテ

    イを作ってプログラムを作る。そうすれ

    ば、りべラル・アーツ・カレッジとい、つ

    考え方で進むんじゃないですか。今、そ

    れがなくなってきていますからね

    釜田そういう過程でアメリカ研究所が

    役割を果たしうるということですね。ア

    メリカ研究所の将来に関して何か。

    池田今日、先輩の先生方のお話をお聞

    きして、アメリカ研究所の四卜年の歴史

    を支えてきたのは、やはり人と人とのつ

    ながりなんだということを強く感じまし

    た。そのことをつのレッスンにして、

    これからのアメリカ研究所はグローバル

    に人のつながりを創っていかなければと

    思います。

    私は、アメリカにおけるアメリカ研究

    とのつなかりを強めていくことはもちろ

    んですが、アジアやヨーロッハなど、私

    たちと同じようにアメリカを異文化とし

    て研究している国々の研究者とのつなが

    りも広げていく必要があると考えていま

    す。そのためには、まず人を流通させな

    ければいけないと思います。私がここへ

    来て一番感動したのは、研究所のゲス

    ト・ブックに残されたビジターの方々の

    サインです。しびれるような偉大な先生

    方のお名前が直筆のサインで載っていま

    す。今回四十周年黒でお招きしたりン

    ダ・カーバー先生やジョン・スコット先

    生も、タルコット・ハーソンズやロバー

    、ノ

    ト・マートンの記帳を見て感激されてい

    ました。、ショーンズ・アンブラワ1先生、

    アジアのアメリカ研九九

    26

  • クラワ1先生などの記帳もある。皆さん

    感激されます。その中に自分も名前を連

    ねられるという幸せがある。こういう歴

    史のある研究所の活動に参加したという

    ことに喜んでいただきました。私の一つ

    の目標はアジアの拠点となること。アメ

    り力研究学会との連携を持つこと。それ

    を支えるためには人を回さなければいけ

    ない。私が着任してからの一年半の間に

    もいろいろな著名な方々がいらっしゃい

    ます。その方々を通じて、新しい可能性

    が広がっています。人を流通させるため

    に具体的にどんなことをすればよいかと

    考えてみると、たとえば、アメリカの経

    験で言うと、アメリカで研九九一所と名のつ

    くところにはほとんどフエローがおりま

    す。フエローは研究に携るかたわら、大

    学院の教育にも当たっていただけるメリ

    ツトがあります。研究科は初期に比べれ

    ばスタッフの人数は増えていますが、そ

    の分、学生の興味も細分化し、多様化し

    てきている。研究科七人の教授陣でも、

    カバーしきれない問題を持ってくる学生

    もいます。フエローでアメ研に来て、帰

    られた方を巾心に学生の研究にアドバイ

    スする制度を作ることはできないかと思

    います。

    松山アメリカ研究所はもともとアドバ

    イス.コミティのようなものです(笑)。

    私が所長の頃でも、学生が文献や資料を

    求めて研究所に来ました。

    池田それをもっと活性化する形で、ア

    メリカ研究科の先生が主査で指導するに

    しても、内容にょってはりンダ・カーバ

    ーさんの所に行けという形にすれば指導

    体制を充実させることができる今、日

    本では大学院戦国時代ですが、アメリカ

    と直結した教*門をしているということで

    ユニークで魅力的な大学院を作れる。そ

    ういう海外とのりエ、ソンを作ることがで

    きれば研究所の活動が大学院にも貢献で

    きると思うんです。

    岩山人の流通をどのようにするか。一

    番問題になるのはお金です。アメリカ研

    究所もずいぷん前から、アメリカ研究振

    興会からお金をもらって、毎年、 0§.

    m-0旦フエローを迎えています確かに

    フエローは研究所自身を活性化します。

    アジア各国のアメリカ学会へ、学生を、

    研究者を送るそこでもりエ、ソンが生ま

    れる。

    池田アメリカでタイトなバジエットに

    は慣れています。日本の大学のバジエッ

    トの大きさには度肝を抜かれますが、人

    を呼ぶご父流することについてのお金は

    あまりないんです。いろんな規制があっ

    て、制度を作っていかないとお金がつい

    てこないので、アメリカ研九九所フエロー

    システムを作るとか。

    釜田全学的なフエロー制度を作る時期

    に来ているのでしょうか。

    岩山その時期だと思います。ただお金

    がないので(笑)。

    池田これからそういう動きが重要だと

    思われるのは、アメリカにおけるアメリ

    力研究学会、りンダ・カーバーさんの後

    ゛\ノ

    ジャニス・ウォルウエイさんが会長にな

    りましたが、その方の今度の学会での会

    長就任講義のテーマは「アメリカのアメ

    り力研究の国際化L ということでした。

    向こうもアメリカ以外の国のアメリカ研

    究と交流したいと思っている。日本の人

    たちもアメリカに呼びたいし、そちらか

    らもどんなアメリカの学者を日本に送っ

    てほしいか提悶してほしいと、りンダ

    .

    座談会●アメリカ研究所聾四十周年

    27

  • カーバーさんもおっしゃつ

    ています。向こうが呼んで

    くれたり送ってくれても、

    こちらが全然お金もない、

    呼ぶシステムもないという

    ことでは、今後連携してい

    く上で難しくなるのではな

    いかと思います。

    土口田フエローシステムを

    文部省の補助に申請するこ

    とよ0

    岩山人文・社会科学の分

    野では、そういうのが通る

    プロジエクトは難しい。た

    だ、同志社の制度でプロジ

    エクト研究を出しています

    ね。最高二百万円の学術奨

    励の。共同研究をする時に、

    外国の人を入れて、緒に

    調査研究が必要であるとい

    うのも一つの方法だと思い

    ます。共同研究では同志社

    の専任の人が過半数いない

    といけないのですが。年間

    二千万円くらいの予算です

    ね。今ある制度を活用して考えるとか。

    松山私は文部省の科学研究費を取るこ

    とをもっと考えてもいいと思います。共

    同研究に一、二名、外国の人を入れて。

    三年で成果を発表しないといけない

    のですが。

    池田私は、「同志社アメリカ研究フエロ

    という名前を確立させることが大切

    だと思っています。たとえば、

    ド大学ライシャワ1研究所フエロー」と

    か「プリンストン一局等研究所フエロー」

    とかのように。

    政府から出るお金を「同志社アメリカ

    研究フエローL と呼べるんですか。

    松山 0§m-0旦フエローを受け入れて

    いるわけですから「それに準ずるもの」

    とすることはできるわけです。学外の金

    でも。

    池田研究所の企画に乗ってくれるよう

    な民間の基金はないんですか。

    佐々木こういうプロジエクトに対して

    助成します、という呼びかけはたくさん

    来ています。地方公共団体からも。

    池田財団だけでなく、京都の財界とか。

    同志社の卒業生とか。

    '98年Π月24日に開催された、アメリカ研究所40周年記念シンホジウム「ジェンダー・国家・市民権」

    一「

    ノ、

    ノゞ

    28

  • 海外の人の流通のことを申しました

    が、もっと日本の国内にもアヒールして

    ゛)、い

    かないといけない。たとえば、一般の

    人が興味を持てる企画を立ててもいいん

    じゃないかと思います。アメリカ研究者

    だけでなく、分野を越えて。この前のシ

    ンポジウムでは、りンダ・カーバーさん

    に加えて上野千鶴子さん、西川祐子さん、

    牟田和恵さんに来ていただいて、「ジエン

    ダー.国家.市民権L を企画しました。

    社会学者歴史家ジエンダー学、文化

    人類学など幅を広げる試みでした。関心

    のある一般市民の方に来ていただくこと

    も念頭においていました。おかげさまで

    たくさん^ていただきました。こういう

    かたちで研究所のビジビリティを高めて

    いく。それで、学生確保にもつながると

    思うんです。

    松山アメリカ研究所も市民講座に積極

    的に乗っていこうと、二年問、芦屋の文

    化センターでやりました。この文化セン

    ターでは三年の一セットを三、四持って、

    そのつを「アメリカ」をテーマにやり

    たいから協力してもらえないかと凶われ

    ました。一年目は人を集めにくい、聴衆

    座談会●アメリカ研究所璽四十周年

    も集めにくい、ということだったので、

    同志社大学アメリカ研究所が後援となる

    と強いからと易れて、二年続けていろ

    んな方にお'していただきましたその

    他にも、神戸YMCA、朝日カルチャー

    センターなどにも協力してきました。

    池田黒社のキャンパスで、アメ研主

    催でやることが重要だと思います。

    松山京都女子大学では春と秋、公開講

    座を開きます。講演でもいいし、一つの

    テーマでシンポ、ジウムもいい0 シリーズ

    )0

    の講演会もいい

    池田同志社のキャンハスに来てもらう

    、ノ

    ことに意味がある

    松山無料でいいから、秋にはアメリカ

    研究所が何かをやっていると、公開して

    いくこともいいですね。

    池田アカデミックなものと、学生も一

    般市民も行ってみょうかというものと両

    方。広告能力をアメリカ研究所は持たな

    いといけない。今回のシンポジウムはノ

    ウハウが備わっていないので一からやり

    ましたが、もっと広報活動を積極的にや

    らないと。

    研究所と研究科

    釜田松山先生がおっしゃつたように、

    セミナーを母体にして研究所が生まれ、

    研究所を母体にして研究科が生まれた。

    次に研究科は何を生み出すのか。研究所

    と研究科の関係について、いかがですか。

    岩山形の上では別の組織であっても、

    中身は一つで進まないといけないと思

    う。それぞれが別々のものをやるという

    ことでは成果は少ないと思いますね。ニ

    つでありながら、同じ目標に向かってい

    る。アメリカ研究科は、母体になる研究

    所があったのでできた。独立研究科とし

    て、私立としては二番目くらいの独立研

    究科です。二つに組織が分かれているよ

    さを利用することも必要です。

    松山ただね、確かにつという形には

    なったけど、動かしているのは一人の人

    が二股をかけているということがあるで

    しょう。研究員の方が、研究所の研究員

    と研究科の教員の二枚看板になってい

    る。つでありながら一つのものをする

    のが研究員にとってプラスなのか、マイ

    ナスになっていないかどうか。研究科は

    29

  • 学生がいるから教えないといけない。学

    生の相談などの応対がある。研究所は研

    究活動です。そのへんの問題を、これか

    ら先どうしていくのかが問題だと思いま

    す。佐

    々木それはまさに今の研究所と研究

    科の問題です。アメリカ研究科は恵まれ

    ていると思うんです。偶然の要素も作用

    したのですが、第一段が京都セミナーで、

    段が研究所、その上に大学柴できた。

    セミナーをやめた時点で大学院への移行

    がスムーズにいった幸いな例です。セミ

    ナーが終わったのが一九八七年、棚原先

    生がアメリカ学会の会長をされていたの

    が八七S八九年です。ハハ年に広島大学

    で、「地方におけるアメリカ研究を振興し

    ていく方法は何かという△議があった。

    京都セミナーが終わったが、どうするか

    ということで、その時、棚原先生から

    「佐々木君、大学院はどうか驫をされ

    た。それが発学す。幸い笹田先生が学

    長、岩山先生が教務部長でしたので、棚

    原、笹田岩山のトリオで大学院を作っ

    ていただいたわけです。

    以前から研究所は贅沢だという意識が

    学内で言わず語らずにあった。教育的に

    はどう還元するのか。そこへ大学院がで

    きたことで、研究所の研究成果を教育に

    還兀する方法がつできたわけです。当

    面は、松山先生が指摘されたように、研

    究所と研究科、研究所の研究活動と研究

    科の教育活動のバランスをどうとってい

    くかが大きな課題だろうと思います。そ

    こをクリアしないと、いい研究科になら

    、し

    ない、いい研究所にもならない研究所

    )し

    の研究員が4人、研究科の専任が3人で

    す。その間のコーディネート、いかに共

    )し

    通の研究活動の場を持って教育に生かし

    ていくかが大きな課題だと思います。

    研究の枠にとらわれず、器的にも比較

    論的にも枠組みを広げて、アメリカを再

    検証することを眼目にしています。アメ

    り力研究はアメリカが対象ですが、比較

    的自由に、理論的にもクリエイティプに

    研究ができると思うんです。研究の成果

    を著作にすることで外に向かって貢献が

    できると思います。チーム研究はアメリ

    力にはあまりありません。エンジニアリ

    ングなどの分野で大きな予算でチーム研

    究をしていますが、文科系では共同研究

    のモデルはあまりないと思います。

    松山日本では桑原武夫の京大の人文研

    がモデルではないですか。人文研の「ル

    ソー研究」は文科系の共同研究の成果だ

    と思います。関西は共同研究をやります

    が、東京は匹狼が主流のように思いま

    ゛)、

    す。共同研究は関西の特色というか示都

    の特色だと思います

    佐々木異質なものをぶっけてお亙いに

    刺激しあってということです後期課程

    の学生に積極的に部門研究に加わっても

    らい、先輩の研究から学ぶ中で、自らの

    道を見出していくという、有機的な関係

    が出来ると良いと思います

    )0

    共同研究の課題

    釜田共同研究は今後どうなっていく

    べきなんでしょうか。池田先生が来られ

    て、今までアメリカ研究所にはなかった

    新しいプロ、ジエクトがスタートしました

    力池田私の部門研究は「ジエンダーの視

    点から問いなおすアメリカ」というタイ

    トルがついていますが、従来のアメリカ

    30

  • 岩山研究所規定の中で、「部門研究」と

    いうのは園取近になってょうやく予算がつ

    くようになりました以前は、アメリカ

    研究所の研究プロジエクトに対してどれ

    だけ予算を組むか、人文科学研究所はい

    くら組むかという形の予算だったんで

    す。佐

    々木研究所が予算配分機関で終わっ

    てしまう可能性があるのは問題です。プ

    ラスアルファを考えないといけない。

    岩山京都大学の人文利学研究所では三

    十数人の研究員が共同研究しているんで

    すが、専門分野と必すしも一致していな

    人文科学研究所の専任以外の人も入

    )0

    、つているんです。一方、国際日本文化研

    究センターの研究プロジエクトはこれと

    違って、国取初からプロジエクトを作って、

    専任の人は十二人です。「こういうテーマ

    でやりますしと一言って先生を採用してい

    る。それぞれの研究分野に近い分野でフ

    エローも募集している。フエローは国が

    招く形になっています。研北九協力者もつ

    けています。職員ではない。プロジエク

    トが動くためにはそれをやる人と同時に

    システムをりエゾンする人がいる。アメ

    座警●アメリカ研究所聾四十周年

    31

  • り力研究所の共同研究は、ぜひりエゾン

    ができるような人に来てもらわないと

    一盡誘・昆牙コ巴な形でやろうとした時に

    大変だという気がします。

    釜田同志社の学部単位の学問領域は伝

    統的な形ですね。今後もこういう形が望

    ましいのか、アメリカ研究という学際性

    と、何が共同研究のテーマになるのでし

    ようか0

    岩山どちらもいると思います。研究の

    テーマにょってミクロなところにいくも

    の、インターディシプリナリーなものと。

    どちらかに限定すると、かえってスムー

    ズに動くことを阻害するのではないかと

    思います。

    松山従来の共同研究のうち、学部単位

    のものは法律や経済が中心でした。それ

    以外のところはいくつかの学部にまたが

    )0

    つています。両方あることがいい。こう

    でなければいかんと限る必要はない。で

    も、それよりも研究成果をどうやって発

    表して問うのかが問題でしょう。そこが

    まだできていない。「同志社アメリカ研

    究」誌とどうからんでくるのか。単行本

    の形にするのか。

    池田単行本をめざさないとウソです

    ね。目標はそこに設定してやらないと研

    究の意味がないと思います。

    松山これまでに単行本になったのもセ

    ミナーの成果で、研究所の共同研究の成

    果とは言いがたい。私の知っている限り

    では、六五年に弘文堂から出版した『現

    代のアメリカ文化像』(翻訳)(ンヨ含§コ

    「『売mで魯牙ゆm、ゆ住.え.則.mで一一一含)があり

    ます。

    佐々木近年では、経済・商学部の方々

    が出された『現代アメリカ経済研究』、文

    化研究のグループが出した『百年前のア

    メリカ山紀転換期のアメリカ文化と社

    会』の二冊があります。九五年に。

    ました。三通OKしてアドバイザーにな

    ると正式に手紙を書きました。今後そう

    いう事態が増えてくると思います。実際

    に去年、フルブライトのフエローシップ

    をうけられたべスターさんの受け入れ依

    頼が、フルブライトから同志社に来まし

    て、大学からの依頼でアメリカ研究所が

    受け入れました。そういう活動も私個人

    としては重要なものだと思いますが、

    かがでしょう。

    松山研究所としては日本研究は枠外の

    話ではないかと思います。同志社の場貪

    留学生はどこが受け入れているんです

    岩山国際センターが役割を果たしてい

    ますが、大学としては留学生のための研

    究所があるというわけではない。

    松山そういうところが受け入れるべき

    で、アメリカ研究所としては直接の関係

    はないと思います。

    釜田学生諸君を見ていると、 AKPの

    受け皿は学内ではないようなんですね。

    白取近は後からできたスタンフォードセン

    ターが充実して資料もある。 AKPの方

    が学生の研究条件が悪くなったと言って

    日本研究とアメリカ研究所

    釜田海外で行われている日本研究とア

    メリカ研究所はどういうふうに関係して

    いるのでしょうか。

    池田今年、国際交流基金やフルブライ

    トから、アメリカで日本研究をしている

    大学院生の博士論文のフエローシップの

    受け入れをしてほしいと依頼が五件あり

    )0

    32

  • おられます。

    岩山アメリカ研究所ということから考

    えると、松山先生と同意見です。アメリ

    力研究と日本研究では負担になる要素が

    強い。日本研究の母体を作るなら別個に

    作るべきだと。日本研究をしている人を

    アメリカ研究所、研究科が呼ばないとい

    う狭い気持ちはないんです。けれどもア

    メリカ研究所が日本研究の場所にもなる

    というのは今のような人数では場所も予

    算もむりだと思います。

    池田釜田先生が言われているのは、研

    究所自体が日本研究の場所になるという

    ことではなく、文化交流に役割を果たす

    べきだということですか。

    釜田 AKPには今までは場所を提供し

    ましたが、もっと充実する方向をと田やっ

    んです。

    岩山それをやりかけるとアメリカ研究

    所も研究科も大変なエネルギーがいりま

    す。釜

    田今の枠組みではむりですね。学内

    を改組して。

    吉田三段目か四段目のロケットとして

    次の段階に何があるか。松山先生、岩山

    先生の御意見もよくわかるんですが、今

    年来られた口N三五乏.勺一N牙さん、ご本人

    は明治期の日本のイメージの映画を作る

    と。ああいう方が来られることで、アメ

    り力研究所のアメリカ研究が刺激にな

    る。プラスになる面があるんでしょうね。

    松山個人の刺激になることは構わない

    と思います。

    池田全面的にそこまで事業を始めるこ

    とはないということですか。

    松山それ自体が研究所がプロジエクト

    をサホートするということではないと思

    います。これはアメリカにおける日本研

    究を日本のアメリカ研究にとり入れるか

    という問題だと思います。将来的にはそ

    うだと思いますが、現在ではもっと主流

    と考えるアメリカ研究を中心とすべきで

    はないでしょ、つか。

    編集部韓国でアメリカ研究も盛んにな

    つています。時々交流ができないかなと

    思います。

    池田それがアジアを拠点とした一つの

    内容なんです。アメリカで一緒に勉強し

    た韓国人の留学生が、いまは韓国に帰っ

    てプロフエッサーになっている。そうい

    う関係を結んでいけぱりエ.ソンはできる

    と考えているんです。

    松山韓国のアメリカ学会とりエ、ソンは

    あります。毎年大会に三、四人派遣して

    います。一方こっちへ韓国の人が意見交

    流に来ます。セミナーをやった頃、東南

    アジアの各国からアメリカ研究者がやっ

    てきてアジアにおけるアメリカ研究につ

    ながりができていました。

    佐々木個人レベルでは、私も韓国へ行

    きましたし、今年はオランダに招かれま

    したが、同志社がホストとして、という

    ことがない。部門研究を充実して実りを

    結んでいく上で、外国の人たちの意見も

    ぜひ聞きたいと思います。六つプロジエ

    クトがあるわけですから、研究成果が成

    熟して、それぞれ外国の専門家と意見交

    換しようじゃないか、というところまで

    いかないとだめだと思います。

    セミナーから共同研究へ

    吉田アメリカ研究セミナーから研究所

    が生まれて、研究所から研究科が牛まれ

    た。一定方向の発展過程があった。今、

    座零●アメリカ研究所聾四+周年

    33

  • アメリカ研究夏期セミナーが果たした役

    割を相うものを失っているのではないで

    すか

    佐々木それを共同研究でやっていくと

    いうことだと思います。

    吉田共同研究は池田先生が口われたよ

    うに、私も何かちょつと違うのではない

    かと思います。その部分が欠けてきてい

    ると思います。

    岩山四十年間の歴史を見ますと、アメ

    り力研究セミナーがアメリカ研究所を作

    る要因になった。アメリカ研究所ができ

    て三十六年間は、セミナーの運営が主な

    仕事だったわけですが、夏期セミナーは

    啓蒙的な要素が強かった。三十回くらい

    からプロジエクトを作ろうと専門家会議

    が加わった夏期セミナー自身が研究所

    を引っ張りあげて研究所の活動をしたわ

    けです。その後セミナーがなくなり、

    研究所の共同研究がその役割を果たして

    いくわけですが、なかなか難しいですね。

    池田夏期セミナーの参加者は。

    岩山述べ千人くらいでした。

    池田 m仁ヨヨ含名又亘0で昇ごCm工一,

    m=ンというものをやっていけぱ、また次

    のロケットで何か出てくるかもしれな

    部門研究の中から何か湧いてくるも

    )0

    ものがあれぱいいですね。

    )し

    岩山その時に一つ必要なものがある。

    一つはお金です。もう一つはマンハワー

    です。制度的にもってくるよりも、単発

    でも大いに進めていく必要はあると思い

    ます。制度にするのは大変なことです。

    松山文部省の科研費にこだわるようで

    すが、部門研究のどこかが科研費を取っ

    ている。そして三年ごとに外への成果の

    発表を迫られるわけですから刺激になる

    のではないかと思います。

    佐々木九八二年の設立二十五周年か

    ら後の十五年間に何が起こったか。二つ

    あると思います。一九九一年の大学院の

    創設が大きな出来事だろうと。もう一つ

    はアメリカ研究所が啓明館から博遠館に

    移った。これは単に建物だけでなく、研

    究所、研究科の人的な構成が変わった。

    二十五周年はまだアメリカ研究所が歴史

    になっていなかった時代だと思います。

    設立された先生方がご活躍でした。八三

    年から今年までに、アメリカ研究所の設

    立に当たって労を取られた上野先生、大

    下先生が相次いでお亡くなりになりまし

    た。岩

    山僕も死なないといかんな。歴史を

    作るために(笑)。

    佐々木ケーリー先生もご帰国になられ

    た。それと入れ代わりにずいぶん新しい

    先生方が移転と共に加わられた。池田先

    生もそうですが、七人のうち五人が一九

    九六年以降の先生方です。この方々は人

    生の半分以上をアメリカで過ごしておら

    れる。日本よりアメリカの期問が長い。

    これは大きな変化になると思います。今

    後五十周年の節目に向けて、新しいスタ

    ツフがあと十年間に段ロケットの上に

    何を積み上げるか、研究所の将来はここ

    にかかっていると思います。

    釜田アメリカ研究所は東部から西部へ

    と移ったと一舌われました。セミナースタ

    ート時アメリカ側の提携大学はイリノ

    イ大学だった。イリノイ関係の池田先生

    をお迎えできたのも何か不最なご縁と

    思います。最後の締めくくりを池田先生

    さしこに

    34

  • 同志社大学アメリカ研究所略年表

    1951年京都アメリカ研究セミナー(京都大学と共催)

    1958年同志社大学アメリカ研究所設立(委長制、弘風館4階研究室)

    1959年 r京都アメリカ研究期セミナー」と名称変更

    1962年セミナー務局、アメリカ研究所に移転

    アメリカ研究所、啓明館へ移転

    1963年紀要 r同志社アメリカ研究」」刊

    専任研究就任

    1966年研究所部門研究 4部門発足

    1973年委長制から所長制へ

    19刀年京都アメリカ研究期セミナーに併せて専門家会開催(~198刀

    1980年務長就任

    1987年京都アメリカ研究期セミナー終了

    1991年大学院アメリカ研究科修士課程」設

    1993年大学院アメリカ研究科博士後期課程設

    1994年アメリカ研究所・研究科、博遼館へ移転

    にお願いします。

    池田先輩の諸先生方にお話を伺ってた

    いへん勉強させていただきました。組織

    を作るのは人なのだということを肝に銘

    じ、研究所設立の時の精神、そして先輩

    諸先生方のご努力を引き継ぐような形

    で、二十一世紀の新しい世界の状況に合

    うようなアメリカ研九九所を作っていけれ

    ばと、理想主義的な言葉になりますが、

    私自身の心に刻んでいる次第です。

    釜田どうもありがとうございました。

    (一九九八年三月一九日

    博遠館会議室にて収録)

    座鑒●アメリカ研究所聾四十周年 5