伊藤道郎のアメリカにおける舞踊活動 - waseda university...215...

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213 はじめに 伊藤道郎(1893-1961)は 20 世紀前半から中頃 にかけて世界的に活躍した日本人舞踊家の一人であ る。彼は 1912 年、19 歳でドイツに留学し、ロンド ンを経てニューヨークに在住、1929 年から 1941 までロサンゼルスを本拠地に舞踊家・舞台演出家と して国際的に活躍し、舞踊教育にも力を注いだ。し かし、日本においては彼の海外での活躍は充分に知 られているとはいい難い。 そこで本稿では、道郎が渡欧してからアメリカ在 住までの活動にも触れ、中でも長期に亘り在住した ロサンゼルス時代の舞踊活動から、ローズボウル、 ハリウッドボウルの大規模な野外公演に主眼を置 き、そこで伊藤道郎はどのような舞踊を踊り観客を 魅了したのか、公演を成功に導いた作品の評価はい かなるものだったのか、主に道郎の自伝や論考、弟 千田是也の記述、末裔所蔵の当時の写真、プログラ ム、雑誌、新聞記事などの一次史料を基に検証し考 察する。併せてハリウッドボウルの設立経緯と大規 模な公演の意義についても論究する。 幼少期から渡欧まで オペラ歌手を目指し 19 歳で海外留学した伊藤道 郎はどのような幼少期を過ごしていたのであろう か。自伝や弟千田是也のエッセイによれば、道郎は 1893 4 13 、父為吉と母喜美栄の次男 して東京、神田三崎町に生まれている。父親は日本 人初のカリフォルニア大学卒業生で、建築技師とし て当時珍しい三角形の耐震家屋を考案し、高名な建 伊藤道郎のアメリカにおける舞踊活動 ── ロサンゼルスでの活動を中心に ── 柳 下 惠 美 Michio Itos Dance Activities in the United States: His Career in Los Angeles Emi YAGISHITA Abstract Michio Ito (1893-1961) was one of the influential Japanese dancers whose performances fascinated Western audiences during the first half of the twentieth century. In 1912, he moved to Germany. The outbreak of World War I prompted Ito to relocate to London in 1914, then to New York in 1916. Later, he settled in Los Angeles, performing as a dancer, serving as an artistic director internationally, and teaching dance at his own studio from 1929 to 1941. However, his activities during this period were not as widely known in Japan. Therefore, this paper will cover Michio Itos travels in Europe and the U.S., before focusing on his dance activ- ities in Los Angeles where he stayed for more than 10 years and designed large-scale outdoor performances at venues such as the Rose Bowl and the Hollywood Bowl. Primary historical sources for this paper include rare material in the possession of Michio Itos descendants: photos, magazines, newspapers, Michio Itos writings, and the writings of the dancers brother, Koreya Senda, as well as material from the Los Angeles Philharmonic Archives and the Toyo Miyatake Studio. I will describe and analyze Michio Itos performances, particularly examining the reception of his dances by Western audiences. This paper will conclude with a discussion of the significance of the massive performance staged by Michio Ito at the Hollywood Bowl in Los Angeles. WASEDA RILAS JOURNAL NO. 4 (2016. 10)

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Page 1: 伊藤道郎のアメリカにおける舞踊活動 - Waseda University...215 伊藤道郎のアメリカにおける舞踊活動 ロサンゼルスでの活動を中心に 舞踊家⒂の養成に努めることになる。しかし、1929

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伊藤道郎のアメリカにおける舞踊活動── ロサンゼルスでの活動を中心に ──

はじめに

 伊藤道郎(1893-1961)は 20世紀前半から中頃にかけて世界的に活躍した日本人舞踊家の一人である。彼は 1912年、19歳でドイツに留学し、ロンドンを経てニューヨークに在住、1929年から 1941年までロサンゼルスを本拠地に舞踊家・舞台演出家として国際的に活躍し、舞踊教育にも力を注いだ。しかし、日本においては彼の海外での活躍は充分に知られているとはいい難い。 そこで本稿では、道郎が渡欧してからアメリカ在住までの活動にも触れ、中でも長期に亘り在住したロサンゼルス時代の舞踊活動から、ローズボウル、ハリウッドボウルの大規模な野外公演に主眼を置き、そこで伊藤道郎はどのような舞踊を踊り観客を

魅了したのか、公演を成功に導いた作品の評価はいかなるものだったのか、主に道郎の自伝や論考、弟千田是也の記述、末裔所蔵の当時の写真、プログラム、雑誌、新聞記事などの一次史料を基に検証し考察する。併せてハリウッドボウルの設立経緯と大規模な公演の意義についても論究する。

幼少期から渡欧まで

 オペラ歌手を目指し 19歳で海外留学した伊藤道郎はどのような幼少期を過ごしていたのであろうか。自伝や弟千田是也のエッセイによれば、道郎は1893年 4月 13日⑴、父為吉と母喜美栄の次男⑵として東京、神田三崎町に生まれている。父親は日本人初のカリフォルニア大学卒業生で、建築技師として当時珍しい三角形の耐震家屋を考案し、高名な建

伊藤道郎のアメリカにおける舞踊活動── ロサンゼルスでの活動を中心に ──

柳 下 惠 美

Michio Ito’s Dance Activities in the United States:His Career in Los Angeles

Emi YAGISHITA

Abstract Michio Ito (1893-1961) was one of the influential Japanese dancers whose performances fascinated Western audiences during the first half of the twentieth century. In 1912, he moved to Germany. The outbreak of World War I prompted Ito to relocate to London in 1914, then to New York in 1916. Later, he settled in Los Angeles, performing as a dancer, serving as an artistic director internationally, and teaching dance at his own studio from 1929 to 1941. However, his activities during this period were not as widely known in Japan.  Therefore, this paper will cover Michio Ito’s travels in Europe and the U.S., before focusing on his dance activ-ities in Los Angeles where he stayed for more than 10 years and designed large-scale outdoor performances at venues such as the Rose Bowl and the Hollywood Bowl. Primary historical sources for this paper include rare material in the possession of Michio Ito’s descendants: photos, magazines, newspapers, Michio Ito’s writings, and the writings of the dancer’s brother, Koreya Senda, as well as material from the Los Angeles Philharmonic Archives and the Toyo Miyatake Studio. I will describe and analyze Michio Ito’s performances, particularly examining the reception of his dances by Western audiences. This paper will conclude with a discussion of the significance of the massive performance staged by Michio Ito at the Hollywood Bowl in Los Angeles.

WASEDA RILAS JOURNAL NO. 4 (2016. 10)

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築士フランク・ロイド・ライトとも親交があったようだ⑶。母親は理学博士飯島魁の娘⑷で、道郎に学力をつけさせ帝大に入学させたいと思っていたようである。しかし道郎の幼少期の環境は三崎町にあった川上座で音二郎・貞奴の新劇、三崎座で旧劇、末広座では女芝居と毎日のように乳母と鑑賞するなど勉強とは程遠く、歌舞伎も母に連れられ観に行っている。中学生頃からハーモニカやバイオリンに興味を示すなど音楽に関心を持つようになった道郎は、オペラ歌手を目指して三浦環(柴田環)⑸に師事し、1911年、『釈迦』で伊藤聴光という偽名を使い、合唱団の 1人として初舞台を踏んでいる⑹。本場でオペラを学ぶことを希望した道郎は、19歳になるとドイツへの留学を決意した。きっかけは当時伊藤家と親交のあった知人がライプチヒ滞在中に本場のオペラを鑑賞しており、現地での学びを勧めたことや義兄の古荘大尉がドイツに在住していたからであるが、この選択は自然の成り行きであったと思われる。

ヨーロッパからアメリカへ

 1912年 11月 6日、横浜港からヨーロッパに向かった道郎は、12月 23日にマルセイユを経由し 5日後の 28日にベルリンに到着した⑺。 ベルリンでは山田耕筰に音楽を学び、翌年 6月にはライプチヒのオペラ歌手マルガレーテ・レーマンに師事する。しかし、ベルリンでイザドラ・ダンカンの舞踊公演に感銘した道郎は、山田に舞踊家になることを薦められ、ヘレラウのダルクローズ学院に入学、唯一の東洋人⑻として後に道郎の舞踊の源となるリトミックを学ぶことになる。しかし第一次世界大戦が勃発すると、逃れるようにロンドンに向かった⑼。 ロンドンは道郎にとって思いがけない幸運を手にした場所となり、その後の国際的なキャリアを築く土台が形成されていく地となった。幸運は当時の著名人が集まるカフェ・ロイヤルでレディ・オットライン・モレルのパーティーに招待されたことに始まる。当時金銭的に非常に困窮し踊る衣装もなかった道郎は、オットラインから提供された衣装を身に付け独自の踊りを披露した⑽。このパーティーには芸術家庇護者のレディ・キュナードをはじめとする錚々たる面々が顔を揃えており、自身の踊りを披露するのに絶好の場となったことは間違いない。実際、レディ・キュナードから翌日開かれるパー

ティーで踊るようにと招待され、そこで当時の英国首相アスキスの誕生日祝いのサプライズとして踊りを披露している⑾。このことが話題となり、道郎は時代の寵児としてその名が知られ、あちらこちらから声がかかるようになっていく。その後 1914年 11月から翌年 4月頃までの間、レディ・オットラインが夫と共に開いていた木曜の夜会に時折参加し⑿、私的なパーティーやコロシアム劇場で踊ることになる。 またカフェ・ロイヤルでは、知人エズラ・パウンドの紹介で詩人ウィリアム・B・イェイツと知り合い、彼が能からインスピレーションを得て創作していた舞踊劇「鷹の井戸」にパウンドと道郎も関わることになった。この作品の上演は 1916年 4月 2日にレディ・キュナードのサロンで私的に行われたが、その 2日後にはレディ・イズリングトンのサロンでロンドン・フィルハーモニーの指揮者トマス・ビーチャムの指揮の下、半ば公に上演され、鷹を演じた道郎は脚光を浴びた。300人ほどの観客の中にはアレクサンドラ女王もいたという。「鷹の井戸」で成功を得た道郎は、当時戦争中でロンドンの状況も芳しくなかったことも影響してかニューヨークの劇場の出演依頼から渡米することになる。 1916年秋、期待に胸を膨らませニューヨークに到着した道郎は、現地の芸術状況が決して彼の満足するものではないことを知る⒀。そこで彼は 11月13日、新たな試みとしてワシントンスクエア・プレイヤーズで「武士道」を披露した。既に日本的作品である「鷹の井戸」を公演し自らのアイデンティティーを実感していたことから、この時「武士道」に着手したと考えられる。この作品の絶賛から、プレイヤーズの団員達でシアター・ギルドを結成し、12月 6日に初めてのダンス・リサイタルを、翌年3月 8日に再びリサイタルを行った。また同年夏には、アドルフ・ボルムのバレエ・カンパニー「バレエ・インタイム」に入団し、アメリカ各地を巡演、1918年 2月と 4月には山田耕筰の音楽に合わせて「さくらさくら」、「猩々」、「白孔雀」を踊るなど再びリサイタルを行っている。その後、ロンドンで高評価を得た「鷹の井戸」の公演をグリニッジ・ヴィレッジ・フォーリーズでも行うなどその他数々の作品の創作も手掛けている。 このように精力的に公演活動を行う一方、ニューヨークに舞踊学校⒁を創設し、そこで次世代を担う

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舞踊家⒂の養成に努めることになる。しかし、1929年、アメリカ各地を巡演し、同年 4月 28日にロサンゼルスのフィギュエロア・プレイハウスでの公演を終えた後は⒃、ロサンゼルスに居を定めることにした⒄。道郎は、これまでの生活の拠点であったニューヨークと比較し、次のように新しい土地での希望を語っている。

粗野で物質主義すぎるニューヨークは好きではなかった。そこは自然から非常に遠く、人間は自然から遠くにいることは出来ない。西側のここでのみ私は調和のとれた生活を見つけることが出来る。ここは全世界からの素晴らしい希望がつまった場所で、10年後には中心地になるだろう。既にここでは東と西の精神が私たちの空気上で出会っており、そして日々の生活の中でも出会おうとしている。⒅

ロサンゼルスでの初期公演活動

 1929年 4月 28日付のフィギュエロア・プレイハウスのプログラムをみると、この公演で、道郎は山田耕筰の「2つの扇」と「トーン・ポエム」の no.1と 2、ラヴェルの「中国人俳優の印象」、ショパンの「ボール」、スクリャービンの「プレリュードopus no.11」から no.9、十八番であるアルベニスの「タンゴ」、ドリーブの「ピチカート」(図 1)を踊っている。また自身は踊らなかったが、サラサーテの「ハバネラ」、ドビュッシーの「影」を新作として発表していることがわかった⒆。翌日の新聞で、道郎

は「タンゴ」で忘れられないほどの印象を与え、もう一つの目玉作品の「ピチカート」は驚くほど正確なタイミングで踊っていた、と絶賛され、さらに道郎の作品は独創性と芸術のモダンな原則に沿っていると高く評価された⒇。 この年道郎は野外公演として、6月にバーンズドール・パークにあるカリフォルニア・アート・クラブの庭の劇場で野外コンサートを21、8月から 9月にかけて 300人ほど収容できる22アーガスボウルで 5回の公演(8月 5日、12日、19日、26日、9月 2日)を、9月 20日にはアーガスボウルよりもさらに広いローズボウルで光のページェント(図2)を行うなど精力的に活動した。特に光のページェントは、フラッドライトがついた 6つの鉄塔をスタジアム内に取り付けることを祝う趣旨で行われたもので、地元の住民 5000人がこの会場に集るなど大盛況となった23。「ペールギュント」では地元の踊り手が踊り、「アンダンテ・カンタービレ」ではロサンゼルスのダンサーや道郎の下に集まった日本人ダンサーが踊った。道郎自身も得意のシャドウ・ダンスを披露することが当時の新聞に記述されている24。100人以上で構成されたロサンゼルス・シンフォニー・オーケストラの演奏の下、総勢 200人が踊り壮大な公演となった25。公演前の 9月 5日付の新聞には「この種の手の込んだページェントが続けられるかどうかは、それが成功するか否かにかかっている26。」と道郎の技量を計るような記事が記載されていた。 この記事は道郎にとって重圧であったのか、成功させるために自らが十八番とする「ピチカート」を

図 2:ローズボウルでの光のページェント図 1:「ピチカート」

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プログラムに組んだと思われる。以下の批評から、光のページェントは称賛の中、道郎の思惑通り成功裡に終わったことがわかる。

巨大な金色のスクリーンを背景にすらりとした黒い姿がくっきりと浮かびあがり、ローズボウルを支配した。日本人の舞踊家、ミチオ・イトウが有名なシャドウ・ダンスを踊ると五千人の観客は魅了され静まりかえった。(中略)オーケストラやサーチライトの上や後ろでポーズをとると、彼の身体の影が背後のスクリーンに投影された。観客の静かな称賛と「ピチカート」を演奏する音楽家たちの緊張感、これら全てがその優雅な姿に集中した。彼がローズボウルを支配したということは、芸術家の勝利である。27

 10月 21日にもロサンゼルスに創設直後のエベル・サロン28でリサイタルを行っていることが新聞記事から判明した29。

ロサンゼルスでの舞踊教育と日本凱旋公演、そして大学での講義

 道郎は公演を続けながらハリウッドにおいてもスタジオを持ち、舞踊教育を行っていた。当時の新聞記事によると、道郎はMichio Ito Studiosという自らの名前をつけた舞踊学校でプロのダンサー向けの上級クラスとアマチュアのダンサー向けのコミュニティ・クラスの双方を指導していた(図 3)。この学校は、その後公演を行うことになるハリウッドボウルからそう遠くないハリウッド・ブルバードに位

置していた。スタジオでは、歌、ユーリズミックス、パントマイム、バレエ、タップ、ボールルーム、フェンシング、アクロバティックなどのクラスが用意されていたようである30。かつて道郎がニューヨークに開いた学校のプログラム(動きの訓練、リズムの訓練、振付のための舞踊構成、インプロヴィゼーション)31と比較すると、ロサンゼルスではよりバラエティに富んだプログラムを提供していることがわかる。ここで道郎はダンスの教師やダンサーになりたい人のための奨学生を募集し、3か月の特別コース32や冬休みの特別コースも設置している33。 1930年 5月と 7月の新聞には、エディス・ジェーン34の舞踊学校で道郎が「教師とプロフェッショナルのためのサマースクールを行う」という記事が掲載されている。それには、道郎は 1週間に 6回ほど指導にあたり、普通のクラスと夏のマスタークラスの中からハリウッドボウル、パサデナ・ローズボウルでの 3回の公演に出演する人材を選ぶ予定であることが伝えられている35。また 5月の新聞には、夏期講習は 7月 14日から 8月 9日に行われることや 8月 15日から始まるハリウッドボウルでの公演と 9月初旬のパサデナ・ローズボウルの年に一度の公演予告がされており、これらの公演に出演するキャストを現在のクラスと夏期講習で学んでいる生徒の中から選ぶと伝えられている36。この掲載文から大規模な公演が行われる兆しが見える。 また自身の学校とジェーンの学校で指導にあたりながら、道郎が東アジアへのツアーを企画していることが当時の新聞記事から判明した。当初は東京、上海、香港、満州で公演を行う予定であったが、そ

©Michio Ito Foundation図 3:ロサンゼルスの学校で指導にあたる伊藤道郎

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の後の新聞記事では日本ツアーについてのみの記述に変わっていた。最終的に日本での公演ツアーのみに決定した可能性は高い。日本ツアーの期間は新聞によって 12週間37、10週間38とその期間が異なっているが、3月 12日にロサンゼルスを発ち 6月初旬まで日本に滞在していたことから、12週間程度のツアーであったと思われる。来日した道郎と彼の生徒は39、1931年 5月 3日に帝国劇場で、5月 14日には日比谷公会堂で公演を行っている40。この時試演会を観ていた漆原六朗は、「4月 13日の試演会を見て」という批評で「伊藤にこそ新らしい美の舞踊への出發があるような気がした41。」と称賛している。日本での公演ツアーを無事終えた道郎は、日本郵船の龍田丸で彼の生徒と共にロサンゼルスに戻った42。日本での公演が大好評であったことから、彼のスタジオの生徒を毎年日本に送ることを決めたようである43。 道郎の南カリフォルニア大学での夏期講習の指導はツアー前から数々の新聞で報じられていたが44、この大学で教える機会を得たのは、当時、彼の生徒ルス・プライスが南カリフォルニア大学の身体教育学科に在籍していたためであろう45。新聞によると、道郎は大学の夏期講習で 4つのクラスを受け持ち46、秋には公立学校でも、ダンスの歴史、リズム、そしてダンスに関連していることについて講義すると報じられている47。このことから、道郎は舞踊家の養成はもとより、舞踊を体系的にとらえて論理的に解説する手法を身に付けていたことが分かる。晩年、道郎は舞踊概念について母国語で数多くの記述を残してしているが、その主たる部分はこの時既に出来上がっていたと考えられる。

ハリウッドボウルの設立経緯と初公演

 道郎が 1930年、1937年に 20000人の観客を前に大規模な公演を行ったハリウッドボウルの設立経緯についてここで簡単にふれたい。設立の発端は、地元の住民が夏の音楽祭のための場所をつくろうという行動から始まったようだ。1910年、映画がハリウッドを拠点に製作されるようになると D・W・グリフィスの「国民の創生」が 1915年に公開されるまでには多くの著名人がハリウッドに引っ越してきた48。1910年の時点で 5000人程であったハリウッドの住民は、ハリウッドでの映画産業の急成長とともに 1920年までには約 10倍に膨れ上がり、

演劇愛好家、音楽や芸術愛好家をはじめ、地元の住民も野外の劇場の必要性を実感するようになった。 ハリウッドボウルの開幕までには紆余曲折があり49、主に企画を推進し資金集めに苦労していたのは、「ハリウッドボウルの母」と呼ばれるアルティ・マソン・カーターだった。開幕したばかりの 1922年、まだアメリカにおけるダンスは芸術として初期段階にあったが、新しいダンスを開拓しようと考える振付家、舞踊家のハリウッドボウルでの数々の新しい試みがアメリカのダンスの礎を形作ることとなった。1922年 7月 11日の正式なオープンの日に先立って行われた 8日のプレシーズンの「カルメン」で、100人ほどの踊り手をステージに立たせ舞踊を披露したのはアーネスト・ベルチャーであった。翌日のロサンゼルス・タイムズ紙によると、この「カルメン」で最も優れていたのは踊りのシーンであったと評されている50。その後もハリウッドボウルで公演を行ったダンサーには世界的に名を残しているルス・セント・デニス、テッド・ショーン、モード・アラン、ミハイル・フォーキン、ヴェラ・フォーキナ、アドルフ・ボルム、ホセ・フェルナンデス、アグネス・デ・ミル、レスター・ホートン、ブロニスラヴァ・ニジンスカなどが名を連ねている51。 道郎がハリウッドボウルで公演することになったいきさつは明確にされていないが、ハリウッドボウルの母と呼ばれたカーターが道郎の新しいモダンな試みに賛同する記事を記していることから52、カーターの推薦もあった可能性は高いが、アーガスボウルやローズボウルで壮大な野外公演を成功させていた道郎の実績が評価されたことが大きな要因と考えられる。ハリウッドボウルの公演により、道郎は一流芸術家の仲間入りを果たしたといえるのではないだろうか。

1930年のハリウッドボウルでの初公演

 1930年 8月 15日、道郎は初めてハリウッドボウル(図 4)で公演を行った(図 5)。この公演について新聞各紙がこぞって事前に報道したことから、地元での関心が高かったことが窺える。まず 8月 3日のロサンゼルス・タイムズ紙には、道郎が「イーゴリ公」(図 6、7、8、9)と「シェエラザード」の双方に振付けをしていること、また父の為吉と弟がハリウッドを訪れていること、そして秋には道郎が

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日本に行く予定であることが記述されている53。その 3日後の同新聞には、道郎が「シェエラザード」と「イーゴリ公」54の双方の作品に長期間のリハーサルを費やしていると掲載された55。しかし公演 2日前の 13日の新聞には、「シェエラザード」の文字はなく、125人のダンサーが「イーゴリ公」を踊ると伝えるのみでであった56。 公演の前日の 14日のエクスプレス紙では、アメリカ合衆国オリンピックフェンシングチームのメン

バーであるラルフ・B・ファルクナー57が「イーゴリ公」の中で 2つの剣を操る「グラディエーターの踊り」(図 10)に出演することが宣伝されている58。シチズン紙は、ハリウッドボウルのマネージャー、グレン・M・ティンダルが道郎の振付ける「イーゴリ公」に多大な関心を寄せており、大きな半円形の劇場の歴史において最も輝かしい作品になることを期待している、と伝え、同時に道郎の弟熹朔が衣装を担当していることを紹介している59。

図 4:ハリウッドボウルの様子図 5:ハリウッドボウルのプログラム

(「イーゴリ公」のみ伊藤道郎の作品が披露されたことがこのプログラムからも分かる)

©LA Philharmonic Archives

図 8:「イーゴリ公」©LA Philharmonic Archives

図 10:グラディエーターの踊り©LA Philharmonic Archives

図 9:「イーゴリ公」©LA Philharmonic Archives

図 7:「イーゴリ公」©LA Philharmonic Archives

図 6:「イーゴリ公」©LA Philharmonic Archives

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 同日のハリウッド・カリフォルニア・ニュースは、道郎がアメリカで歴代大統領のハーディング、ウィルソン、クーリッジの前で踊ったことの功績に触れ、ハリウッドボウルで披露するのは、ロシアの踊りでも他の学校の踊りでもなく、舞踊家、振付家である伊藤道郎の作品であり、それは古い舞踊学校の作品とは異なったものであると記述している60。つまり、これは道郎がカリフォルニアで全く新しい試みに挑戦しようと、大規模且つスペクタクルな舞台芸術の創作に取り組んでいることを意味していると理解できる。 公演当日の 15日にも地元の新聞の多くが道郎の公演について報道している61ことから、いかにこの公演が住民から関心を寄せられ注目されていたのか推測できる。シチズン紙は、9回目になる毎年恒例の「星空の下のシンフォニー」の最後の舞踊作品として宣伝し62、サタデーサンセットも今夕、伊藤道郎のバレエダンサー125名がソリストとして舞台に現れ、並外れたイベントが行われる、と大規模な場所での道郎の作品に関心を持たせるような記事を掲載している63。エクスプレス紙は道郎の作品がボウルの観客に披露するものの中で最も輝かしい作品の1つになるであろうと報じており、道郎の作品に対する期待度が大きいことが伝わってくる64。翌日の新聞記事に次のような称賛記事が掲載された。

昨夜、ミチオ・イトウと彼のバレエは丘の中腹の立見席までも埋め尽くしボウルからあふれるほどの観客から真の大喝采を受けた。アンサンブルはとくに素晴らしく、踊り手たちの作る角度によって即座に色が変わるまだら染めの衣裳は、非常に効果的だった。(中略)明らかに踊りのために背景の形状が賢く使われ、場面には常に変化する色、模様、リズムが多彩に入り乱れていた。65

ボウルではこれまで多くのバレエ公演が行われてきたが、この日本人芸術家によって演出され、舞台化されたものほど美しいものはなかった。(中略)踊り手たちは豪華な東洋風の衣裳をつけ─それは部分的にロシア風、中国風、ペルシャ風、アラビア風であったが─オーケストラ・ボックスの前にひかれた紗幕を背景にして魅力的なアンサンブルを見せた。(中略)ロサ

ンゼルスに住んでいるイトウはこの共同体の輝くばかりの宝である。彼と踊り手たちは、今後もボウルで公演するよう頼まれるであろう。66

上記 2つの批評から、踊り手の技量そのものではなく、道郎の演出のすばらしさ、さらには熹朔の舞台美術と衣裳の美しさを称賛していることが分かる。

少なくとも 20000人の観衆がミチオ・イトウのバレエとバーナーディノ・モリナリの指揮するオーケストラを観賞するためにハリウッドボウルへむかった。(中略)彼はボロディンの「イーゴリ公」からの踊りを、動きと色彩の風変わりなページェントの中で視覚化した。(中略)100以上の数になるコール・ド・バレエはいくつかのグループに分かれ、(中略)音楽の様々な内なる声を表現していた。日本人の演出家は、動きの天才的な調和を考案し、(中略)今までの型にはまらないものであった。このスペクタクル全体はこの類の他の作品をさらに見たいという気にさせるような豪華さの勝利であった。イトウのような芸術家こそ舞踊と野外を愛する共同体にとって貴重な存在である。67

この批評も道郎のスケールの大きな演出や色彩の美しさ、豪華さの方により高い評価をしている。以上、殆どが称賛の記事であったが、伊藤の作品と演出を称賛しながらも、アマチュアの踊り手たちという言葉の表現から踊り手の技量に対する批判が一部感じられる下記のような記事もあった。

コスモポリタンな日本人芸術家・伊藤道郎は絵のような効果を使い、黒で覆われたオーケストラにヴェールをかけ舞台を柔らかい印象にし、彼の舞踊の異教徒的なものというよりも踊り手たちのオリエンタルでロシア的な衣裳の色によって成功を収めた。シンプルで示唆的な舞台を創作した日本人の技術により、彼はシフォン生地でできた精巧な網目模様を飾り、その後ろでは音楽がこの世のものとは思えない美しさで漂っていた。ごく一部の踊り手たちは首尾よく訓練を受けており、強すぎる照明の中に現れた。およそ 125人の踊り手たちが共同体としての表現の精神によってインスピレーションを

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得た「イーゴリ公」のバレエを踊ったが、この類のバレエは、偉大なヨーロッパの舞踊によってしばしばなされたものであり、相対的にアマチュアの踊り手たちの努力により同じ役柄が演じられた。効果的で珍しい色合い、衣裳の独創的なアイディア、そして広範にわたる趣きがこの作品を面白いものにしていた。技巧的な表現をする踊りにとってボロディンの曲は不適切であった。68

しかし、どうして踊り手の技量にばらつきがあったのであろうか。その理由として、道郎は公演の前に行った夏期講習に参加していた生徒や講師を務めていた別の学校の生徒の中から選抜して出演させるとしており、全員が長期間同時にトレーニングを受けていなかったことが考えられる。つまり、道郎は20000人の観客を前にする作品の場合、舞踊家の技量よりも舞踊家の人数、さらには舞台から遠くに座っている観客にも伝わるほどの豪華さ、壮大さの方を重視していたのではないかと推測される。

1930年のハリウッドボウル公演後の活動

 ハリウッドボウルでの公演が終了すると、その後はロサンゼルスだけではなく、カリフォルニア各地を巡演した。1931年 1月は「シンフォニック・ダンス・プログラム」と題した公演をサンディエゴのルス・オーディオトリウムで行い、そこで「トーン・ポエム」、「タンゴ」、「ピチカート」を踊った69。3月にはサンタバーバラに移動し、669席収容のロベロ・シアターで「シンフォニック・ダンス・ポエムとディヴェルティスマン」と題した公演を行っている70。 翌年 1932年には、自身のスタジオで指導にあたる一方、エディス・ジェーンの舞踊学校でも特別講師を務め、エディス・ジェーンの学校の生徒たちもハリウッドボウルの公演に出演させた71。また 8月にはロサンゼルスオリンピックの一環として「日本の春の踊り」を披露している72。 1933年 5月にハリウッド・アート・センター73

で初めてダンスに関するシンポジウムが開催された。そこで道郎は最初の講演者として、日本にはダンスが存在しないことや自らが考えるダンス・センターの企画について詳細な説明を行っている74。道郎はこのダンス・センターを国際的な学校にして永

久的なモニュメントとしての機能も果たすこと、また舞踊に関連した諸芸術も同時に発展させることを夢見ていた。この計画に感心した銀行家のフランク・ヴァンダーリップは、パロス・ヴェルデス・ヒルズにある彼の 50エーカーの土地を提供しようとしたが75、当時は大恐慌の最中、学校創設のための莫大な費用が揃うことはなく、その後は第二次世界大戦勃発により、彼の壮大な計画は実現されることなく終わってしまった。 8月のロサンゼルス・タイムズ紙には、グリフィス・パークにあるグリーク・シアターで公演することが76、さらに翌シーズンにはパリのオペラ・コミック座で公演を行うことが報じられている77。また同年夏には、ハリウッド・ウーマンズ・クラブでの公演を秋シーズンの最初にあたる 10月 2日に行う予定であること78、9月 3日付の同紙では約 2年ほど踊っていなかった道郎がグレンダウワ・ハリウッド・コンサート・シリーズの最初の公演(10月 2日)で踊ると報じられ、日本、中国、カンボジアの踊り、さらに人気のあるアルベニスの「タンゴ」も踊るであろうことが伝えられている79。また1934年 8月の新聞では、道郎はメキシコ・シティで 19回の公演80を行った後にロサンゼルスに戻り、9月 20日にハリウッド・コンサートホールで公演を行う予定であると報じられた81。これらのことから、ハリウッドボウルでの公演後も精力的に活動していることが分かる。

ハリウッドボウルでの1937年の公演

 ハリウッドボウルでの初公演から 7年後の 1937年 8月 19日、道郎は再びハリウッドボウルで公演する機会を得た(図 11、12)。この公演では日本をテーマにした「越天楽」(図 13)とシュトラウスの「美しく青きドナウ」(図 14)の 2作品を披露している。公演前の 7月 4日付のロサンゼルス・タイムズ紙では、道郎から指導を受けた 24人の日本人舞踊家がダンスとパントマイムを披露すると報じている。一方「美しく青きドナウ」では青色の影をともなった衣装や照明が続くであろうことが報じられ、どちらの作品も素晴らしい視覚効果をもたらす舞台になるであろうと期待されている。 この時の指揮者は、時の内閣総理大臣近衛文麿の異母弟の近衛秀麿であった。秀麿はすでに指揮者としてヨーロッパで公演を行っていたが、アメリカで

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はまだ知られておらずハリウッドボウルで指揮する初めての日本人となった。道郎から 8世紀の日本の宮廷で奏でられていた雅楽「越天楽」の編曲を頼まれた秀麿は、公演当日、「越天楽」と「美しく青きドナウ」の双方を指揮した。「越天楽」では長さ150フィートで高さ 14フィートの金色のスクリーンがオーケストラの前に置かれ、このスクリーンに反射する光が踊りに素晴らしくまた優美な効果をもたらした82。 翌日の新聞記事によれば、最も人気を博したのは「美しく青きドナウ」であり、音楽の優美な流れは白と青の衣装を身に着けワルツを踊るダンサーたちに喜びを与えていたと好評であった83。一方、絵画のようではあったが、本来の良さが理解されなかったのは「越天楽」の方であった。道郎は伝統的な日本の踊りに少し修正を加えて、日本古来の音楽に合わせて踊ることを通し日本らしい作品を披露したはずであった。伝統的な日本の衣装を身に纏った踊り手がフルート、ドラム、琴などに合わせて、回転し

たり、揺れる動きは古風で趣があり、振り付けは喜ばしいものであったが、日本古来の音楽はこの当時の西洋人には殆ど理解できなかったようである。しかし観客から最も斬新的と思われたのは、主にダンサーたちの出入りやオーケストラを隠すために使用された高貴な日本の金屏風であった84。道郎はこの公演でアメリカらしい作品を披露したのではなく、ヨーロッパと日本をテーマにした作品を披露したが、結果的に日本をテーマにした作品「越天楽」の日本古来の音楽が西洋人の耳には馴染めなかった。つまり、当時のカリフォルニアではまだ雅楽が理解される素養がなかったのである。しかし、日本古来の作品をアメリカで披露したということは、道郎が日米間の友好的な関係を一層深めたいと考えていた姿勢の表れと考えることができる。 この公演からおよそ 1か月後の 9月 24日、道郎はハリウッドボウルで開催された「カリフォルニアの夜の音楽祭」で新作のモーツァルトの「2つのメヌエット」とシュトラウスの「美しく青きドナウ」

図 13:「越天楽」

図 11:ハリウッドボウル内の公演告知の看板(右端の人物は道郎を数多く撮影した東洋宮武)

©Michio Ito Foundation

図 14:「美しく青きドナウ」©Toyo Miyatake Studio

図 12:ハリウッドボウルのプログラム©LA Philharmonic Archives

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を披露した85。「美しく青きドナウ」は初演時に観客を沸かせ、大好評であったため、再上演することになったと推測される。

おわりに

 1941年になると、日米関係がさらに悪化し真珠湾攻撃が勃発するや否や、道郎は逮捕され、捕虜として収容所に拘留された。2年後の 1943年に日本に帰国した道郎は、戦時下で苦しんでいる人々に希望を与えるため、さっそく東京に舞台研究所と舞踊研究所を開設し講習会を行った。その後 GHQからアーニーパイル劇場の総監督を依頼され、そこで今までの経験を活かし自らの作品を上演し成功を収めた。その他にもモデルや俳優の養成をはじめ日本の女性たちが美に目覚めるよう手助けを行うなど多種多様な仕事にも取り組んでいる。 生前、道郎が取り組んだ様々な新しい試み、特に舞踊学校での教育活動、さらに大学やシンポジウムでの講演等は自らの舞踊藝術に対する考えや体験を後年書籍として出版する基になった。舞踊公演に関しては、ロサンゼルスでの 300人ほどを前にしたアーガスボウルでの公演、5000人を前にしたローズボウルでの光のページェント、そして 20000人もの観衆を感動の渦に巻き込んだハリウッドボウルでの公演など、より大規模な会場で創作作品の上演を行うことになり、多くの観衆を感動させた。大規模でスペクタクルな作品を創作する上で、道郎がロサンゼルス滞在時に体験した野外公演は極めて重要であり意義があったと思われる。このことは日本のアーニーパイル劇場での公演、さらには東京オリンピックの演出を構想する際の基盤になっていたに違いない。多くの弟子に舞踊を指導した道郎は、晩年は 1964年開催予定の東京オリンピックの開会式と閉会式の総合演出を依頼された。しかし、自身の最後の仕事として精力的に取り組み描いていたオリンピックの構想は 1961年の道郎の急逝により、残念ながら日の目を見ることはなかった。 道郎は、自著『美しくなる教室』の中で文明について興味深い記述を残している。それによれば、エジプト文明は一つは西洋に、他の一つは東洋へと東西に別れアテネとインドにギリシア芸術、仏教文化として現れた。一つは西に咲く「物と科学」の文明として、他の一つは東に咲く「情と美」の文明として。そしてこの二つが渾然として融合し、バランス

とハーモニーが充分とれた時、初めて人間として理想的な姿が燦然として輝くのであることを信じて疑わないと86。もし道郎が生きていたら、この壮大な概念は東京オリンピックで間違いなく活かされたであろう。

謝辞本研究は JSPS科研費 JP15H06676の助成を受けたものです。また研究を進めるにあたり、とりわけ個人的に多大なご協力を賜りました伊藤道郎の末裔でありMichio Ito Foundationの主宰者ミッシェル・イトウさん、Toyo Miyatake Studioのアラン・ミヤタケさん、LA Philharmonic Archivesのスティーヴ・ラコストさんに心からの感謝の意を表します。

図版出典一覧図 1:Caldwell, Helen. Michio Ito: The Dancer and His

Dances. University of California Press, 1977, p.58.図 2:Turner Michelle L. and Pasadena Museum of History.

Images of America The Rose Bowl. Arcadia Publishing, 2010, p.17.

図 3:ミッシェル・イトウ所蔵(伊藤道郎の孫ミッシェル・イトウの許可を得て掲載)

図 4:Caldwell, p.94.図 5:LA Philharmonic Archives所蔵(LA Philharmonic Archivesの許可を得て掲載)

図 6:同上図 7:同上図 8:同上図 9:同上図 10:同上図 11:ミッシェル・イトウ所蔵(伊藤道郎の孫ミッシェル・イトウの許可を得て掲載)

図 12:LA Philharmonic Archives所 蔵(LA Philharmonic Archivesの許可を得て掲載)図 13:Caldwell, p.100.図 14:Toyo Miyatake Studio所蔵(アラン・ミヤタケの許可を得て掲載)

注⑴ 千田是也「あとがき─夢と現実」『伊藤道郎』145頁。誕生年については 1892年という説もあるが、弟の千田是也は戸籍やパスポートに記されている年は 1893年であると記述している。

⑵ 道郎の弟、千田是也は道郎を次男と記述している。道郎の前に長男がいたが、生後すぐに死亡したため、道郎は長男として育てられる。

⑶ Prevots, Naima. Dancing in the Sun: Hollywood Choreog-raphers 1915-1937.UMI Research Press, 1987, p.179.

⑷ 伊藤道郎『美しくなる教室』宝文館、1956年、8頁。⑸ 三浦環は当時音楽学校を辞め、帝劇の歌劇部で指導にあたっていた。

⑹ ヘレン・コードウェル著、中川鋭之助訳『伊藤道郎』早川書房、1985年、159頁。

⑺ 千田是也「あとがき─夢と現実」『伊藤道郎』164頁。⑻ 伊藤道郎『アメリカと日本』八雲書店、1946年、144頁。

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⑼ 第一次世界大戦が勃発したため、道郎はダルクローズの学校で学んだのは 1年ほどであったが、ここで自身の舞踊の基盤となるものを身につけた。⑽ この後、道郎は衣装を借りたことに対するお礼の手紙を執筆している。(筆者は道郎の末裔ミッシェル・イトウを訪れ、道郎直筆の手紙を閲覧している)⑾ 当時道郎は英語が話せなかったため、ドイツ語で 2時間ほど話した。この時点で道郎は話し相手が首相であるということは知らず、後日知ることになる。⑿ オットラインの回想;Caldwell, p.41.⒀ 道郎は「ニューヨークでの私の周囲には、舞台はいくつもあったが、芸術はなかった」と記している。伊藤『アメリカと日本』164頁。当時のアメリカでは踊りは芸術というよりも娯楽の一部として見做されている傾向にあった。⒁ 道郎は自らの手稿に「私の舞踊学校には、日本の文化的遺産が終始、流れていて」と記述している。早稲田大学演劇博物館所蔵の史料 J12伊藤道郎自伝 (2)より。⒂ レスター・ホートン、新村英一、ポーリーン・コーナー、アーングナー・エンターズなど。⒃ “Ito’s Art Entrances Watchers” Los Angeles Times (以下

LATと表記する ) 29 Apr. 1929. ⒄ 世界大恐慌の兆しがあったことも要因の一つと考えられる。⒅ Shippey, Lee. “Lee Side o’ LA.” LAT n.d.⒆ UCSB Special Collection所蔵の史料より⒇ “Ito’s Art Entrances Watchers.” LAT 29 Apr. 1929.21 “Ito to Dance.” LAT 9 Jun.1929. ミッシェル・イトウ所蔵の史料には 7月 7日にカリフォルニア・アート・クラブでの公演を告知するものもあった。22 Caldwell, p.85.23 Turner, Michelle L. and Pasadena Museum of History.

Images of America: The Rose Bowl, Arcadia Publishing, 2010.24 “All Set For Spectacle.” Times 20 Sep.1929. 25 UCSB Special Collection所蔵の史料より26 Tournament of Rose Association in Pasadena Star News 5

Sep. 1929; Caldwell, p.88.27 Tournament of Roses Association in Pasadena Star News

21 Sept. 1929; Caldwell, pp.88-91.28 現在のザ・エベル・オブ・ロサンゼルス。劇場は 1200人を収容できる。29 “Notable Events on Ebell’s List.” Sep. 27, 1929;“Michio

Ito Wins Audience by His Artistic Dances.” n.d. 30 1930年 12月のタイムズ紙に掲載されたMichio Ito Stu-

diosの広告には、所定のステップ、ゆっくり動く技法、創作、リズム、キャラクターの構成、ダルクローズ・ユーリトミックス、ジムナスティック、パントマイムがプログラムの内容にあったことが分かる。また生徒のために午後と土曜の午前中に特別クラスを開催していたことも掲載されている。UCSB Special Collection所蔵。31 Michio Itow’s School Season 1920 (ミッシェル・イトウ所蔵 )、1919年に開校していた学校のプログラムMichio Itow’s School Season 1919(ミッシェル・イトウ所蔵 )では、リズムの訓練はプログラムの中に入っていなかった。32 “Scholarships to be Offered.” n.d. 特別奨学生のためのクラスが道郎の帰国までに進められているとの記述が

“Expert Staff Resumes Work of Japanese.” n.d.にはあるため、道郎がロサンゼルスにいない間に奨学生のクラスが行われていた可能性もある。

33 “Holiday Class of Interest to Instructors.” n.d.34 道郎のハリウッドボウルでの 1930年公演で「イーゴリ公」に出演したラルフ・B・ファルクナーと結婚する。35 “Michio Ito to Conduct Course.” LAT 6 Jul.1930. 36 “Work to be Resumed by Michio Ito.” LAT 11 May1930.37 “Expert Staff Resumes Work of Japanese.” n.d.38 “Ito Studio Reorganized.”n.d.1931; “Jessimin Howarth

Will Supervise Ito Classes.”n.d. 39 “Ito Given Gay Reception on Japan Arrival.” n.d. 1931.40 その当時のポスターとプログラムの表紙が UCSB Spe-

cial Collectionに現存していた。41  UCSB Special Collection所蔵の史料より42 “ Michio Ito, Dancer, Returns to Southlan.” 6 Jun. 1931.43 “Ito Returning from Orient.” 31 May 1931.44 Shippey, Lee. “Lee Side o’ LA.” LAT n.d.では南カリフォルニア大学はメソジストの学校のため、踊ることを推進するような場所ではないと記述している。“Michio Ito to Join Summer Dance Faculty.” 15 Feb.1931; “Ito Given Gay Reception on Japan Arrival.” n.d., 1931.45 “University Dancers in Production.” n.d.46 “Michio Ito to Join Summer Dance Faculty.” 15 Feb.1931.47 “Ito Given Gay Reception on Japan Arrival.” n.d.1931.48 Northcutt, John Orland. Hollywood Bowl Story. Hollywood

Bowl Association, 1962, p.4.49 F・W・ブランチャードがコミュニティ・パーク・アンド・アート・アソシエーションの会長の時にハリウッドボウルは正式に開幕する。

50 Buckland, Michael and John Henken, eds. The Hollywood Bowl. Balcony Press, 1996, p.48.51 Buckland, Michael and John Henken, eds., p.51. 1931年にはアドルフ・ボルムがハリウッドボウルで公演しているが、これは前年に公演していた道郎の推薦とも考えられる。道郎はかつてアドルフ・ボルムのカンパニーに属していたことがあった。

52 “Ito Spiritually Inspired.” LAT 2 Jun.1929.53 “Bowl Mixes Temperaments.” LAT 3 Aug.1930; “Michio

Ito Will Direct Dance Program at Bowl.” Hollywood Calif News 14 Aug.1930でも父親が訪問していることが記述されている。

54 イーゴリ公は 1870年にロシアの国家的な詩「The Epic of the Army of Prince Igor」に始まり 11年間かけてボロディンがオペラのために作曲していたものである。しかし、ボロディンは完成させる前に亡くなってしまったため、リムルキー・コルサコフとグラズノフが完成させた。

55 “Dancers to Recall Arabian Nights.” LAT 10 Aug.1930.56 “Dancers to Appear at Hollywood Bowl.” Hollywood News

13 Aug.1930. 公演後の新聞 “20,000 Laud Ito Ballet at Bowl.” Herald 16 Aug. 1930には「リムルキー・コルサコフの「シェエラザード」が伊藤の演出によってなされなかったのは非常に残念なことであったが、これを行うにはより多くの準備を必要としたのかもしれない。」と記述されている。

57 ラルフ・B・ファルクナー (1891-1987)はフェンシングの選手で映画俳優。ロサンゼルスで舞踊学校を開いてい

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たエディス・ジェーンと結婚する。58 Express 14 Aug.1930; “Molinari Ends Engagement Tomor-

row.” Herald 15 Aug. 1930.59 “Michio Ito Ballet Ready to Appear as Feature in Bowl.”

Citizen 14 Aug.1930.60 “Michio Ito Will Direct Dance Program at Bowl.”

Hollywood Calif News 14 Aug. 1930.61 15日にも以下の数多くの新聞が道郎の作品について記述している。“Molinari Ends Engagement Tomorrow.” Her-ald 15 Aug.1930; “Ito Ballet to Feature Bowl Presentation.” Signal 15 Aug.1930; “Bowl to Show 125 Dancers.” Exam-iner 15 Aug. 1930; “Prince Igor’ to be Presented at Bowl Tonight.” Times 15 Aug. 1930; Outlook 15 Aug.1930; “Ballet will Dance at Bowl Tonight.” Examiner 15 Aug.1930; “Bowl to Show 125 Dancers.” Examiner 15 Aug.1930; “Final Bowl Ballet.” Express 15 Aug.1930; “Local dancing Teacher Will Perform at Bowl Tonight.” Enterprise15 Aug.1930; “Ravel’s ‘Bolero’ Gives Bowl Its Greatest Music Michio Ito Dancers in Final Ballet Tonight.” Illustrated Daily News 15 Aug. 1930.62 “Ballet is Bowl Feature Tonight.” Citizen 15 Aug.1930.63 Saturday Sunset 15 Aug. 1930.64 “Final Bowl Ballet.” Express 15 Aug. 1930.65 Saunders, Richard Drake. “Ito Ballet at Bowl Concert.”

Hollywood California News 16 Aug. 1930.66 Daggett, Charles. LA Record 16 Aug.1930.67 Greene, Patterson.“Ballet at Bowl Concert Thrills Great

Audiences.” LA Examiner 16 Aug. 1930.68 Jones, Isabel Morse. “Ballet Wins Bowl Honors.” LAT 16

Aug.1930.69 “Famous Dancer to Appear at Russ Soon.” Tribune 16 Jan.

1931.70 The Morning Press 7 Mar. 1931. 既にサンタバーバラでは公演を行っていたようで、2度目の公演にあたるようである。71 “Studio Begins Forth Season.” LAT 18 Sep.1932.72 Caldwell, p.139. この公演に関する新聞記事である

“Dance Festival Opens Tonight.”LAT 8 Aug. 1932には作品名などの記載はないが、道郎と妻ヘーゼルがフィルハーモニック・オーディトリウムで 1週間開催された催しにゲストアーティストとして呼ばれていたこと、さらにアメリカのオリンピック財政委員会の後援を受けていた公演であったことが記載されている。73 当時 1751 North La Brea Ave.に位置していた。74 “Dance Symposium to be Presented.” LAT 5 Mar. 1933.このシンポジウムでの他の講演者には、Benjamin Zemach, Muriel Stuart, Jose Torres y Fernandez, Ruth Price, Dorothy Lyndall, Lester Horton, George Sari, Norma Gouldがいた。75 “Kipling’s Famous Phrase Disproved by Michio Ito.” LAT

20 Aug. 1933; 伊藤『アメリカと日本』294-295頁参照。76 “Michio Ito to Present Ballet.” LAT 22 Aug.1933 金曜に公演を行う予定と記述されているので、1933年 8月 25日に公演を行ったと考えられる。77 “Kipling’s Famous Phrase Disproved by Michio Ito.” LAT

20 Aug. 1933.78 LAT 6 Aug.1933.79 “Michio Ito Will Star in Concert.” LAT 3 Sep.1933.

80 筆者はミッシェル・イトウのもとを訪れた際、1934年に行われたメキシコ公演の史料を閲覧しており、Teatro Hidalgoと Teatro Arbeuで公演を行っていたことを確認している。

81 “Michio Ito Signed for Dance Here.” LAT 19 Aug. 1934.82 “Reiner and Konoe Will Conduct at Bowl.” n.d. 83 “Traditional Blue Danube Presented by Konoye, Ito.” LA

Evening Herald and Expressm 20 Aug. 1937.84 “Traditional Blue Danube Presented by Konoye, Ito.” LA

Evening Herald and Expressm 20 Aug. 1937.85 UCSB Special Collection所蔵のプログラムより86 伊藤『美しくなる教室』77-81頁。