中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラ...

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インドネシアにおける国民文化の創成 中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 163 インドネシアにおける国民文化の創成: 中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 小池 まり子 Creation of lndonesia皿National Cultu Modern Theatre Sendratari Ramayαnα in Ja Mariko Koike Abstract Indonesian national culture has two dimensions:one is so ca national culture,”assumed to be the common culture with the use of The other is the regional culture, caUed the “peak of region appropriated to national culture. In this paper,1 reveal how Sendγαt by Balinese people and how it became to be the“ 垂?≠求@of regional culture.” 8θγz(Zrαtαr乞Rαmαyαnα, origmally created in the 1960’s to attract fore visiting Central Java, was known for its unique performance pl and pantomime without spoken language. Sen(lrαtαγi spread to Bali in has been adapted and arranged with local Gamelan music and dan In Bali, the National Performing Arts High School was established in institution created two versions of Sendratari:one is based on B the other is on Rαmαyαnα, and performed both in villages in Bali and Indonesia. At first, the former was criticized by BaHnese audience fo expression, cornrnonly used in traditional Balinese play. Sendra also criticized for having Javanese expression. As a response to audience, Balinese artists included storyteler in the performance incorporate and express Balineseness. Sendrαtαr乞eventually b people created their versions in villages. Sen(Zrαtαri Rαmαyαnα, evol 1960’s,was chosen by the Indonesian government to be performe Festival in l970. This paper analyzes preliminary researches, governrnent newspapers, and Balinese artists’ 垂?窒唐盾獅≠戟@narratives recorded and transcribed fro interviews. By reveahng how Sθn(〕rαtαr乞was transformed and w

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インドネシアにおける国民文化の創成 中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 163

                  インドネシアにおける国民文化の創成:

中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として

小池 まり子

   Creation of lndonesia皿National Culture:ACase of

Modern Theatre Sendratari Ramayαnα in Java and Bali.

Mariko Koike

Abstract

  Indonesian national culture has two dimensions:one is so caled“Pan-Indonesian

national culture,”assumed to be the common culture with the use of official language.

The other is the regional culture, caUed the “peak of regional culture” and

appropriated to national culture. In this paper,1 reveal how Sendγαtctγi was accepted

by Balinese people and how it became to be the“ 垂?≠求@of regional culture.”

  8θγz(Zrαtαr乞Rαmαyαnα, origmally created in the 1960’s to attract foreign tourists

visiting Central Java, was known for its unique performance played through gesture

and pantomime without spoken language. Sen(lrαtαγi spread to Bali in the 1960’s, and

has been adapted and arranged with local Gamelan music and dance.

  In Bali, the National Performing Arts High School was established in the 1960’s. This

institution created two versions of Sendratari:one is based on Bahnese folklore and

the other is on Rαmαyαnα, and performed both in villages in Bali and other parts of

Indonesia. At first, the former was criticized by BaHnese audience for not having verbal

expression, cornrnonly used in traditional Balinese play. SendratαrZ Ra7nayαnα was

also criticized for having Javanese expression. As a response to the demands of the

audience, Balinese artists included storyteler in the performance and began to further

incorporate and express Balineseness. Sendrαtαr乞eventually became popular, and

people created their versions in villages. Sen(Zrαtαri Rαmαyαnα, evolved through the

1960’s,was chosen by the Indonesian government to be performed at the National

Festival in l970.

This paper analyzes preliminary researches, governrnental documents,10cal

newspapers, and Balinese artists’ 垂?窒唐盾獅≠戟@narratives recorded and transcribed from

interviews. By reveahng how Sθn(〕rαtαr乞was transformed and was accepted by

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164 小池 まり子

Bahnese people, and became legitimate national culture at 1970 National Festival, I

argue that localization of Sendrαtαγi occurred simultaneously to the nationalization of

it by the lndonesian government.

1. はじめに

2. 中部ジャワにおけるスンドラタリ・ラマヤナ

  の誕生

 2-1 ラマヤナ・バレエの初演

 2-2 ラマヤナ・バレエの創作

 2-3 中部ジャワのスンドラタリ・ラマヤナの

   特徴

 2-4 「インドネシア化」を目指す動き

3.バリにおけるスンドラタリの「ローカル化」

 3-1 国立伝統音楽高等学校デンパサール校の

   設立

 3-2バリにおけるスンドラタリの伝播

 3-3バリのスンドラタリ・ラマヤナの創作

 3-4 村落に定着した「アカデミック」な芸能

4.フェスティバルにおけるバリ様式のスンドラ

  タリ・ラマヤナ

 4-1比較される地域の様式

 4-2バリ様式のスンドラタリ・ラマヤナの変容

5.インドネシアの国民文化としてのスンドラタ

  リ・ラマヤナ

 5-1スカルノ政権下における国民文化の形成

 5-2 スハルト政権下における文化政策

6.おわりに

1. はじめに

 本稿は、中部ジャワとバリで創作された舞踊劇

スンドラタリ・ラマヤナ(Sendratari Ramayana)

を事例に、インドネシアにおける国民文化の創成

について再考するものである。

 「インドネシア」という概念を考えるにあたり、

その一つの節目となるのが「青年の誓い(Sumpah Pemuda)」である。1928年に行われた

第二回インドネシア青年会議において、青年たち

は、唯一の祖国、民族、言語をインドネシアとす

ることを誓い、独立国家を目指して各地で民族主

義運動を展開した[永積1980:254-261]。そし

て1930年代は、ナショナリストや文芸人たちによ

って、インドネシア像が模索された時期であった

[土屋1994:100-107]。特に、文芸人たちの間で

は、1930年代後半に「文化論争」(Polemik

Kebudayaan)が行われ、新しいインドネシアの

文化に関する議論が展開された1。この論争では、

植民地支配によってもたらされた西欧近代とどう

対峙するのかという問題をめぐって、大きく分け

て二つの立場がうまれた。それらは、地方間の対

立を引き起こす19世紀以前の「前インドネシア」

文化とは決別し、西洋精神・西洋技術を身につけ

た新しいインドネシア文化を創造しようと説くア

リシャバナ(Sutan Takdir Alisjahbana)[山本

1980]と、「西洋の近代思想に見られる物質主義

を批判して、民族の伝統に根差した文化をつくり

だしていかねばならない」[鏡味2000:82-83]

と説くキ・ハジャル・デワントロ(Ki Hadjar

Dewantra)の立場である。1945年に制定された

共和国憲法(以下、1945年憲法)の国民文化の条

文および説明文は、以下のように「文化論争の双

方の主張をともに取り込んだようなものになって

いる」[鏡味2000:84]。

第32条「政府はインドネシアの国民文化を推

進する」2

説明文「民族文化(国民文化)3は、インドネ

シア国民の文化活動の成果として生じる文化

である。インドネシア全土の地域文化の頂点

として存在する古くから伝わる土着文化は、

民族文化としてみなされる。文化活動は、品

格、思想、統一を目指さなければならない。

また、インドネシア民族の人間性を高めると

ともに、民族文化それ自体をより豊かにし、

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インドネシアにおける国民文化の創成:中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 165

発展させる外国文化の新しい要素を拒否して

はならない」4。

 すなわち、国民文化は「インドネシア全土の地

方文化の頂点として古くから伝わる土着文化」で

あるという説明にはデワントロの立場が反映され

ており、一方「国民文化をより豊かにし、発展さ

せる外国文化の新しい要素」を含めた文化もまた

国民文化であるという説明には、アリシャバナの

立場が反映されていると解釈できるのである。

 これまでの国民文化に関する研究において、イ

ンドネシア語が人々に「国民」であることを想像

させるために非常に重要な役割を果たしたことは、

ほぼ共通認識となっている。例えば、土屋

[1987]は、文化現象が植民地都市をつなぐ交

通・通信ネットワークの空間に流通していく様を

描写し、インドネシア語が目に見えないレベルで

国民統合の役割を果たしたことを明らかにしてい

る。土屋が事例としてあげたのは、「インドネシ

アで代表的な(唯一の)国民音楽としてあまねく

ゆきわたっているクロンチョン(keroncong)」

[土屋1987:89]である。土屋は、クロンチョン

がもともとバタヴィァのトゥグ地方に住むポルト

ガル系住民の音楽であったにもかかわらず、広く

インドネシアの人々に受入れられるようになった

理由として、その旋律がどこにも所属しないとい

う無所属性を持っていたこと、そして1925年に始

まったラジオ放送を通して広く普及し、その過程

でクロンチョンがインドネシア人によって担われ

るようになっていったことをあげている[土屋

1986:270-271]。1945年憲法の説明文の文脈でク

ロンチョンを解釈すると、クロンチョンは、ポル

トガル系住民の音楽に由来する「外国文化の新し

い要素」を含んだものであり、19世紀から独立闘

争期にかけてインドネシアの各地に広がったこと

によって国民文化になったと解釈することができ

るだろう。したがって、土屋はクロンチョンを事

例に「外国文化の新しい要素」を含めた文化もま

た国民文化であるという側面を明らかにしたと言

える。しかし、本稿ではもう一つの側面、すなわ

ち「インドネシア全土の地方文化の頂点として古

くから伝わる土着文化」もまた国民文化とみなさ

れる点に注目し、舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナ

を事例として、インドネシアにおける国民文化の

創成を再考してみたい。

 スンドラタリは、「インドネシア舞踊劇(Indonesia Seni Drama Tari)」の短縮語5であり、

芸能ジャンルの一つである。この芸能は、ガムラ

ン(gamelan)と詠唱を伴奏とし、踊り手が台詞、

歌詞といった言葉を媒介とせずに、古典舞踊を基

礎とする舞踊の振りによって物語を表現する形態

をとる。したがって、スンドラタリ・ラマヤナと

は、ラマヤナ6を上演演目にした舞踊劇である。

これは、インドネシア政府による中部ジャワの観

光開発の一一一ecで外国人観光客向けに創作されたも

のであり、1961年の初演から今日までプランバナ

ン寺院(Candi Prambanan)で行われる上演は、

ラマヤナ・バレエ(Ballet Ramayana)という演

目名で観光客に親しまれている。本稿では、スン

ドラタリ・ラマヤナとラマヤナ・バレエを同一・の

ものとして扱う。

 中部ジャワのスンドラタリ・ラマヤナは、初演

後に国立伝統音楽高等学校(KonservatoriKarawitan Indonesia)7を媒介としてバリへ伝播し、

創作が行われるようになった。そして、1970年に

教育文化省文化総局(Departemen Pendidikan

dan Kebudayaan Direktur Jenderal Kebudayaan)

主催のフェスティバル・ラマヤナ・ナショナル

(Festival Ramayana Nasiona11970、以下、国内フ

ェスティバル)のセミナー8(Seminar Sendra

Tari Nasiona1 Tahun 1970)において、ジャワとバ

リのスンドラタリ・ラマヤナは、その様式(gaya)が「目録化(inventarisasi)」及び「登録

(registrasi)」され、翌1971年の国際ラマヤナ・フ

ェスティバル(The First International Ramayana

Festival9、以下、国際フェスティバル)において

国内外の観客の前で上演されたことによって、イ

ンドネシアの国民文化としての正統性を付与され

たのであった。

 これまでの先行研究において、スンドラタリ・

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166 小池 まり子

ラマヤナは観光芸能の文脈で取り上げられること

が主であった1°。しかし、ピカール(Picard)は、

「スンドラタリ・ラマヤナは観光芸能というより

もむしろ、インドネシア島喚地域の多様な民族集

団の間でのコミュニケーションを可能にするため

の手段として創られたという点で、汎インドネシ

ア的な役割を果たす混成ジャンルである」

[Picard 1995:170]という。スンドラタリ・ラマ

ヤナがインドネシアの多民族に対して、いわば

「想像の共同体(Imagined Communities)」[アン

ダーソン1997]を喚起させるような芸能ジャン

ルであるという指摘については興味深い。しかし、

スンドラタリ・ラマヤナが民族を越えてインドネ

シア人の間で受容されることが可能となったのは、

この舞踊劇の「汎インドネシア的な役割を果たす

混成ジャンル」[Picard 1995:170]だからではな

く、むしろラマヤナという上演演目自体の性格に

よるところが大きい。例えば青山は、古典的ラー

マ物語がジャワ人以外のインドネシア人をも統合

した国民文化の要素のひとつになりつつある一方

で、外国人観光客に広く受入れられているラマヤ

ナ・バレエのように国民文化を国外に向けても代

表していると述べている[青山1998:156]。つ

まり、ラマヤナは、世界的に有名な物語であるた

め、インドネシア国内のみならず国外の人々の間

にも広く知られており、この点においてインドネ

シアを代表する舞踊劇の演目として相応しいもの

となったのである。したがって、本稿では、スン

ドラタリの演目の中でもスンドラタリ・ラマヤナ

に焦点をあてて検討することにしたい。

 また、スンドラタリ・ラマヤナの創作に関する

先行研究においては、ジャワとバリの創作を総括

するようなものはなく、各地域の芸能に精通する

研究者によってまとめられているものがほとんど

である11。まず、中部ジャワの創作に関する研究

では、スハルソの論文があり、「スンドラタリ・

ラマヤナからインドネシア化(Indonesianisasi)

を行うことを創作者によって提案されたことがあ

った」[Soeharso 1970:25]という。また、この

論文にはそのインドネシア化を提唱した創作者に

よる文書が添付されており、本稿ではこれらを資

料として創作者が提唱した「インドネシア化」の

具体的な内容を考察する。

 一方、バリの創作に関する研究では、デボール

(deBoer)の論文があり、中部ジャワから伝播し

たスンドラタリがバリにおいてどのように変容し、

1979年から始まるバリ芸術祭(Pesta Kesenian

Bali)で人々からどのように人気を得るようにな

ったかについて論じている[deBoer 1989]。デポ

ールは、スンドラタリにおける語り手の語りの拡

大に着目し、それをほとんど理解できない観光客

がいる一方で、バリ人の観客はその拡大される語

りに熱狂していると指摘している。また、デボー

ルは1960年代からバリ芸術祭までのスンドラタリ

の創作を振り返り、「スンドラタリはバリの人々

の要望に応じることで変容してきた。その初期に

おいてジャワからの創作物はローカル化の影響を

うけた」[deBoer 1989:184]と述べている。本稿

の目的は、デボールのいうバリにおけるスンドラ

タリの「ローカル化」の議論をふまえつつ、中部

ジャワとバリにおけるスンドラタリ・ラマヤナを

事例として、「ローカル化」によって生み出され

たバリ様式が、1970年のセミナーにおいて他地域

の様式と比較されることで、バリ固有の民族性と

結びついた様式からインドネシア国家を構成する

地域の様式へと再統合されていったことについて

論じることである。

 本稿で扱う資料は、行政資料のほか、現地新聞

記事、インタヴュー調査で収集したバリの創作者

の語りである。

 本稿は、以下のような章構成となっている。第

二章では、中部ジャワにおけるスンドラタリ・ラ

マヤナの創作背景とその上演の特徴を明らかにし、

創作者たちが提唱した「インドネシア化」につい

て論じる。第三章では、中部ジャワからバリへ伝

播したスンドラタリの「ローカル化」を、二つの

スンドラタリの事例から明らかにする。第四章で

は、1970年のセミナーに注目し、他地域の様式と

比較されたバリ様式のスンドラタリ・ラマヤナが、

バリ固有の民族性と結びついた様式からインドネ

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インドネシアにおける国民文化の創成:中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 167

シア国家を構成する地域の様式へと再統合されて

いったことについて論じる。そして、1970、71年

の二つのフェスティバルにおいて、スンドラタ

リ・ラマヤナの各地域の様式が国内外の観客の前

で上演されたことによって、国民文化としての正

統性を付与されたことを明らかにする。第五章で

は、国民文化の形成に関する歴史的な流れをふま

えた上で、スハルト政権の文化政策との関係で国

民文化の創成について再考する。

2. 中部ジャワにおけるスンドラタ

  リ・ラマヤナの誕生

2-1ラマヤナ・バレエの初演

 ラマヤナ・バレエは、1961年7月26日に中部ジ

ャワのプランバナン寺院の野外劇場12で初めて上

演された[Soedarsono 1999:146]。上演は、1961

年7月26日から10月26日までの満月の夜に行わ

れ13、スカルノ大統領を初めとする政府関係者、

外国大使、国内外の芸術家が来賓として招待され

た14。また先行研究でも言及されているように、

この上演はインドネシア政府の運輸郵政通信観光

省のジャティクスモ大臣15(Menteri Mayor

Jendra1 TNI G.P.H. Djatikoesoemo)が、カンボジ

アのアンコールワットで舞踊を鑑賞した際に得た

思いつきから始められた16。そしてこの大臣は、

プランバナン寺院の浮彫に描かれたラマヤナをバ

レエの形態で表現するという観光上演の構想を、

政府による中部ジャワの観光開発17の一環として

具現化したのであった[Soeharso 1970:2-3]。

2-2 ラマヤナ・バレエの創作

 ラマヤナ・バレエの創作は、バク・ブウォノ10

世の王子であるスルヨハミジョヨ(GPH Soerio

Hami dj oj o)を長とするラマヤナ・バレエ実行委

員会(Badan Penyelenggara Ballet Ramayana)に

よって行われ、総合振付と音楽制作においてスラ

カルタとジョグジャカルタの宮廷芸術家が中心的

な役割を果した[冨岡2004:20]。この実行委員

長であるスルヨハミジョヨ、総合振付担当のクス

モケソウォ(K.R.T. Koesoemokesowo)、そして

詠唱ゲロン(gerong)の制作担当のマルトパング

ラウィット (P.L. Martopangrawit)は、スラカル

タ宮廷の関係者であり、また1950年に設立された

国立伝統音楽高等学校スラカルタ校(以下、スラ

カルタ校)の教員でもあった[冨岡2004:

17-24]。スラカルタ校校長であったスルヨハミジ

ョヨは、上演における演奏者をスラカルタ校の学

生から集めた[冨岡2004:24]。冨岡は、「スラ

カルタのコンセルバトリ18を中心とした約10年間

の芸術の高まりがピークを迎えたのが1961年に始

まるプランバナン寺院のラーマーヤナ・バレエ

だ」と指摘している[冨岡2004:24]。第三章で

詳しく述べるように、バリにおけるスンドラタ

リ・ラマヤナの創作は、スラカルタと同様に国立

伝統音楽高等学校で行われることになった。スラ

カルタ校は、スラカルタ宮廷音楽と舞踊を教える

ことに重きを置きつつも、その一方で他地域から

教師を招いて音楽・舞踊の授業を行っており

[Sutton 1991:176、冨岡2002:23]、バリの教師

も1950年にスラカルタ校の教師として採用され、

バリの音楽や舞踊を学生に教えていた19。したが

って、1950年代のスラカルタ校は、ジャワ、バリ

出身教師の交流の場であったと言えるだろう。そ

して、この教師間の交流が、バリヘスンドラタ

リ・ラマヤナが普及していく上で不可欠であった

のである。

2-3 中部ジャワのスンドラタリ・ラマヤ

   ナの特徴

 では、中部ジャワのスンドラタリ・ラマヤナは、

どのような上演であったのだろうか。その上演は、

舞踊劇ワヤン・オラン (wayang orang)を踏襲し

た衣装を身につけた踊り手が、ジャワガムラン音

楽と詠唱ゲロンを伴奏に、ジョグジャカルタ様式

とスラカルタ様式の古典舞踊を基礎とする振りに

よって、ラマヤナを表現するものであった[Soeharso 1970]。

 この上演は、外国人観光客向けであったため、

ジャワ語を理解できない外国人観光客が簡潔にま

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168 小池 まり子

とめられたプログラムを読むだけで物語について

いけるように工夫された[Soeharso 1970:5]。そ

の結果として、地方語の台詞や歌詞による演出は

排除された。これは、第三章で述べるバリのスン

ドラタリと異なる点である。したがって中部ジャ

ワのスンドラタリの特徴は、踊り手が台詞や歌詞

といった言葉を用いずに、古典舞踊を基礎とする

振りによって感情、雰囲気、場面の状況を表現す

る形態をとる点にある。

 またこの上演の特徴として、大人数の踊り手に

よる大規模な舞踊がある。1961年の上演出演者の

資料によると、ラクササ(raksasa)の踊りが113

人によって演じられており、これがこの舞踊の最

大人数の踊り手による上演であった[Soeharso

1970:59-69]。また、ラクササの踊り手であった

ハルヨノ(Harjono)によると、この上演にはプ

ランバナン出身の踊り手が集められており、スン

ドラタリ・ラマヤナ自体が、独立闘争期にインド

ネシア国軍を忠実に助けたプランバナンの人々に

対して感謝をのべる上演であるという2°。また、

ヌライニ(Nuraini)21も同様のことを述べており、

この考えはジャティクスモ大臣によるものである

と指摘している[Nuraini 2003:50]。したがって、

中部ジャワのスンドラタリ・ラマヤナを観光上演

として捉えることがこれまでの研究で一般的であ

ったが、政府からプランバナンの人々に対して独

立闘争期の感謝が社会的・経済的な利益として還

元される上演であった点にも目を向け、この上演

が地域社会に与えた影響についても今後見る必要

があるだろう。

2-4 「インドネシア化」を目指す動き

 初演後の新聞記事では、スンドラタリ・ラマヤ

ナの上演が、中部ジャワの観光発展を促進するも

のであると報道される一方で、国民性(kepriba-

dian nasional)の枠組みと切り離すことができる

ものではなく、その上演の役割は西洋様式のバレ

エをモデルとするようなものではないと報じられ

ている[keelαZLItαn rαkyαt,1961-8-5]。この記

事は、スンドラタリ・ラマヤナはインドネシアの

国民性を表現する上演となり、それはバレエを目

指すような西洋化の方向には進まないということ

を示している。このように、初演からまもない時

期に国民性の表現について報道されていたことは

注目に値するだろう。

 また、スハルソは中部ジャワの創作者がスンド

ラタリ・ラマヤナの「インドネシア化」を提言し

たことを指摘している[Soeharso 1970:25]。中

部ジャワの創作者たちによるスンドラタリ・ラマ

ヤナの「インドネシア化」に関する見解は、スハ

ルソの論文に添付されたジャティクスモ大臣とラ

マヤナ・バレエ実行委員会宛の書面[Soeharso

1970:52-56]に具体的に記されている。本節で

は、スハルソの論文に添付された書面をもとに、

中部ジャワの創作者たちが「インドネシア化」を

どのように考えていたかを考察する。まず、「イ

ンドネシア化」を題目とするアブドゥイ・イサタ

ラ(Abduwi lsatara)の書面からみてみたい。イ

サタラは、ジャティクスモ大臣宛の書面を1962年

3月22日付で作成している。

 これまでスンドラタリ・ラマヤナの「表現

形式」、すなわち様式、スタイル、リズムは、

ジャワであったが、その「表現形式」を他民

族[の要素]を用いてより豊かにする目的が

含まれるようになった。骨組みはジャワであ

りながらも、偉大なるインドネシア文化から

要素をとることができる。こういった作業が

より簡単に行われるために、スンドラタリ・

ラマヤナの特定の舞踊は各地域に委ねられる。

[中略]それらは、ガムランを伴奏とする。

[中略]スンドラタリ・ラマヤナは、インド

ネシアの古典舞踊、ガムラン、歌唱を発展さ

せるための重要な器かつ源である。[中略]

明記する必要があるのは、その形態や集合体

が完全ではないとはいえ、全国土でガムラン

がみられることである。ガムラン楽器は、イ

ンドネシアの所有物である。もしガムランが

発展しなかったら、西洋の楽器が押し付けら

れてしまうだろう。ガムラン音楽は、本質的

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インドネシアにおける国民文化の創成:中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 169

に私たちの文化の一部である以上に、私たち

の個性であり、存在でもある1インドネシァ

はガムランを受けるべきであり、ガムランは

インドネシア化されなければならない[Soeharso 1970:52-54]。

 この書面によると、特にイサタラが「インドネ

シア化」させたかったのは、ガムランであった。

彼は、西洋楽器が及ぼす影響を危惧しており、地

方に伝わるガムランが「インドネシア化」される

ことによって、インドネシア音楽の西洋化を回避

することができると考えていた。イサタラがなぜ

ガムランの「インドネシア化」を唱えたかについ

ては、その時代背景の文脈でとらえる必要がある

だろう。これについては第五章で再考したい。ま

た、彼は舞踊の表現について、表現形態の中心軸

をジャワとしながら他民族の要素を取り入れるこ

とを述べ、さらに他地域における創作では特定の

舞踊は当該地域に委ねることを提案している。し

たがって、この書面からイサタラが提言した「イ

ンドネシア化」は三点あると指摘できる。まず一

つ目はガムラン、二つ目は他民族の舞踊の要素を

取り入れた創作、そして他地域におけるスンドラ

タリ・ラマヤナの創作であり、彼は他地域の人と

スンドラタリ・ラマヤナをその創作物自体におい

て、あるいは芸能ジャンルの一つとして共有する

ことを考えていたと言えるだろう。

 次に、ラマヤナ・バレエ実行委員会の顧問であ

るスハルソ自身が、ジャティクスモ大臣とスルヨ

ハミジョヨ宛に1962年4月12日付で作成した書面

において記した「インドネシア化」についてみて

みたい。

 私たちは、ラマヤナ・バレエのなかに他民

族の芸能の要素を入れることで、ラマヤナ・

バレエ自体がジャワの民族性から国民性の方

向へ一歩一歩広がっている点に非常に興味を

引かれている。私たちはラマヤナの美しさ、

その広さが、インドネシアにある民族の芸能

の要素を入れることができると考えている。

だが、ラマヤナ・バレエのインドネシア化は

短期間で強要されるのではなく、特定の計画

に基づいて長い時間をかけることが必要であ

る[Soeharso 1970:55-56]。

 彼のいう「インドネシア化」は、イサタラと同

様に他民族の芸能の特徴を取り入れることである

が、その題材がラマヤナだからこそ国民性の表現

の試みが可能になったと指摘している。スンドラ

タリが、言葉を媒介とせずに舞踊の振りだけで物

語を表現する形態であることを思い起こせば、特

定の民族でのみ理解可能な民話や王朝史などを題

材にする上演では、その固有の民族性が足かせと

なって国民性を表現する試みは難しい。したがっ

て、ここで強調すべきはラマヤナ以外のスンドラ

タリの上演演目では、国民性を表現することは難

しいということである。

 スハルソ、イサタラがいう他民族の要素を取り

入れる作業は、新しい舞踊の創作過程(1961年

~1964年)で行われた[Soeharso 1970:20]。そ

の例として、鹿の踊り(Tari Kijang)、ブギスの

要素を用いた魚の踊り(Tari Mina)、バリのケチ

ャ(kecak)の振りを含む火の踊り(Tari Api)、

西ジャワの要素を用いた蝶の踊り(TariKupu-kupu)があり、さらにアチェの要素を用

いた踊りもあったようである[Soeharso 1970:

48,54]。このように、創作者は、舞踊に他民族

の要素を取り込み、舞踊を通して文化的統合を目

指そうとしたが、果たして一般的観客にとって他

民族の要素を見分けることは可能であっただろう

か。おそらく、舞踊に含まれる他民族の要素を峻

別できるのは、創作者や舞踊専門家、あるいは少

なからず特定の舞踊の基礎を熟知している踊り手

であり、一般観客にはその峻別は困難であったと

思われる22。したがって、創作者が考えた「イン

ドネシア化」による国民性の表現とは、特定の舞

踊に含まれる他民族の要素を峻別できる者のレベ

ルで共有されるものであり、また舞踊にみられる

他民族の要素は限られていたことから、インドネ

シアの民族をくまなく表現できるような創作では

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170 小池 まり子

なかったのである。

3.バリにおけるスンドラタリの「ロ

  ーカル化」

 バリにおけるスンドラタリの創作を中心的に担

ったのは、2-2で既述したスラカルタ校と同様に

1960年に設立された国立伝統音楽高等学校デンパ

サール校(以下、デンパサール校)であった。本

章では、デボールのいうバリにおけるスンドラタ

リの「ローカル化」[deBoer 1989:184]について、

二つのスンドラタリを事例に、当時創作に関わっ

た者の語りを用いて具体的な記述を試みる。また、

創作に関わった人物の語りとして用いるのは、デ

ンパサール校一期生のこ・クトット・アリニ(Ni

Ketut Arini)、二期生のイ・ニョマン・スマンデ

ィ(INyoman Sumandhi)とイ・マデ・バンデム

(IMade Bandem)に行ったインタヴュー調査の

記録である。

3-1国立伝統音楽高等学校デンパサール   校の設立

 まず、デンパサール校の設立経緯からみていき

たい。アリニによると、スラカルタ校で教えてい

たバリ出身の教員がデンパサール校の設立に関わ

り話合いを行ったようだが23、ガムラン音楽の学

習の場はバンジャル(banjar)にあるという考え

から、多くの者がその設立に賛成しなかったとい

う[Arini 2005]。つまり、デンパサール校設立以

前のバリにおいて、バンジャルがバリ芸能伝承の

中心的な役割を果たしていたため、国立芸術高等

教育機関がその役割を担うとは考えられなかった

のである。しかし、話合いのなかで公式な教育が

良いものであると考えられるようになり、バリ州

政府から設立案の合意を得て24、デンパサール校

は1960年9月30日に開校されることになった[Sumandhi 2004]。

 開校当時のデンパサール校には、男子学生23人、

女子学生12人が集まった25。学生はみな同じ授業

を受けるという方針がとられ、現在のように専攻

が分けられることがなかった[Sumandhi 2004]。

しかし、開校当時は校舎とガムランを所有してい

なかったため、理論の授業は近くの大学で、実技

の授業は州政府から借りたガムランを使ってバン

ジャルの集会場で行われた[Sumandhi 2004]。

ここで注目したいのは、実技の授業が行われた場

所がバンジャルの集会場であったことである。つ

まり、授業をバンジャルの集会場で行うことで、

校名やその存在そのものに違和感を持つ人々に従

来の芸能の伝承方法を逸脱していないことを示し

たと考えられる。したがって、開校当時のデンパ

サール校は、国立芸術高等教育機関としての役割

を担いながらも、従来のバリの芸能伝承の拠点で

あったバンジャルの延長線上に位置していたと言

えるだろう。ただ、バンジャルにおける芸能伝承

の方法と決定的に違うのは、バリ島内から得意な

芸能の分野を持つ者から教員が選ばれ、学生たち

に様々な地域の様式を専攻分野関係なく教えた点

である[Panji 2005]。こうして、学生たちは異な

る出身地の教員から教わることで、バリ島内に広

がる多様な地域の様式を学ぶことができたのであ

った。

3-2バリにおけるスンドラタリの伝播

 デンパサール校は、それまでのバリにはない新

しい芸能ジャンルであるスンドラタリを、教育を

通じてバリの人々にもたらした。バリにおけるス

ンドラタリの初演は、デンパサール校の第一回目

の創立記念祭であり、最初に創られたスンドラタ

リの演目は、ラマヤナではなく北部バリの民話ジ

ャヤプラナ(Jayaprana)であった26。創立記念祭

の式典には教育文化省のプリヨノ(Periyono)大

臣も出席し、デンパサール校の教員イ・ワヤン・

ブラタ (IWayan Beratha)が創作したスンドラ

タリ・ジャヤプラナ(Sendratari Jayaprana)が

披露された27。本節では、スンドラタリ・ジャヤ

プラナを事例として、バリにおけるスンドラタリ

の「ローカル化」の過程について考察してみたい。

 この創作は、ゴン・クビャール(GongKebyar)といわれるガムランと複数の女性によ

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インドネシアにおける国民文化の創成:中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 171

る詠唱ゲロンを伴奏音楽として、踊り手がバリ舞

踊をもとにしたパントマイムの動きによって、言

葉を媒介にせずに物語を表現したものであった

[Bandem 2005]。アリニが「当時の印象は、バリ

らしさが表れていて、衣装もバリのものだった」

[Arini 2005]と語るように、中部ジャワのスンド

ラタリの形態をとりつつも、そのなかに含まれる

要素はバリに由来するものであった。

 デンパサール校は、その初演から1964年にかけ

て巡業公演を行い、スンドラタリ・ジャヤプラナ

をこの高等学校の創作物として、バリ人や他地域

のインドネシア人に対して精力的に広めた[deBoer 1989:181]。しかし、バリのスンドラタ

リには、この巡業公演中に中部ジャワのスンドラ

タリにはない新しい要素を付け加えられることに

なった[deBoer 1989:181]。それは、ジュル・タ

ンダッiluru tandak)というガムラン編成のなか

に座って適切な文学の引用文や説話を発声する歌

手であり、その歌手に選ばれたのはスマンディで

あった[deBoer 1989:181]。スマンディによると、

スンドラタリを初めて目にしたバリの人々は、こ

の芸能を賞賛するどころか「ものを言わない舞踊

(tarian kolok)」と嘲笑したという[Sumandhi

2004]。そして、ある村落の上演依頼者からこの

新しい芸能形態を人々は理解できないので、この

言葉のない芸能に言葉を入れてみてはどうかとい

う提案を受けたことにより、この歌手が付け加え

られることになった[Sumandhi 2004]。バリの

舞踊劇は、一般的に踊り手が直接台詞を述べ、歌

唱を行う形態がとられる28。そのため、語りのあ

る形態を見慣れているバリの人々には、踊り手が

舞踊の振りのみで物語を表現するという中部ジャ

ワのスンドラタリの特徴は受け入れられなかった

のである。また、スマンディは、当時行われた改

作の様子を次のように振り返る。

 当時の学長[パンジ]に、少しずつ声の表

現を入れてくれないかとお願いされた。民衆

とジャヤプラナが出てくる場面だったが、歌

や台詞で表現することはまだできなかった。

台詞も少ししかなかった。しかも、私はスン

ドラタリをみたこともなかった。どうしたら

いいのだろうか。学長を待たせ続けた。[そ

して]私が黙ってしまう度に「さあ、声をい

れて」と言われ、私は無理やり言葉を発した。

その後何回か上演で言葉を入れるよう試すに

つれて、バリの人々に好まれるようになって

いった[Sumandhi 2004]。

 このように、スンドラタリを見たこともない学

生が、ジュル・タンダッとしての役目を担うこと

になり、試行錯誤を重ねながらバリの一般的な舞

踊劇の形態に近づけていく改作が行われたのであ

った。また、ジュル・タンダッの言葉が多くの観

客が理解できるバリ語であったことから[Sumandhi 2004]、人々にスンドラタリが受容さ

れた要因として地域語が重要な役割を果たし、バ

リの要素を付加する作業が不可欠であったといえ

るだろう。この点が、中部ジャワのスンドラタリ

と明らかに異なっている。デボールは、「その初

期においてジャワからの創作物はローカル化の影

響をうけた」[deBoer 1989:184]と述べているが、

筆者はその「ローカル化」には段階があったと考

える。したがって、地域語を語るジュル・タンダ

ッの追加は、「ローカル化」の第一段階であった

のである。

3-3 バリのスンドラタリ・ラマヤナの創

   作

 バリのスンドラタリ・ラマヤナの創作は、中部

ジャワのスンドラタリ・ラマヤナが導入されたこ

とから始められ、その指導は、国立伝統音楽高等

学校スラカルタ校を1963年に卒業したプディヨノ

(Poediyono)によってなされた[deBoer 1989:

184]。

 プディヨノは、1963年にスラカルタ校卒業後に、

デンパサール校学長によって選ばれ、バリへ赴任

した[Dewi online:poed恥no-honored-doing-

what-he-loves.html]。彼は、中部ジャワのガム

ラン音楽、舞踊、影絵芝居、詠唱をバリの学生た

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172 小池 まり子

ちに教え29、スラカルタ様式のスンドラタリ・ラ

マヤナの指導を行った[Sumandhi 2006]。プデ

ィヨノの指導を通じて、バリにはジャワに由来す

る化粧、衣装、鹿と白猿ハノマンの舞踊の振り、

ガムランの側に座って行われる詠唱ゲロンがもた

らされた[deBoer 1989:191]。この創作は、1964

年の創立記念祭で上演され、前作と同様に巡業公

演で人々に紹介されたのだった[deBoer 1989:

191]。

 このように、スラカルタ様式のスンドラタリ・

ラマヤナが導入された後、ブラタによってバリ様

式の創作が行われ、それは1965年の創立記念祭3°

で上演された。ブラタは、スカルノ大統領の芸術

使節団(Misi Kesenian)31に参加し、中部ジャワの

スンドラタリ・ラマヤナを見ては、いつかバリ様

式を創作したいという思いをバンデムに語ってい

た[Bandem 2005]。そして、その思いは1965年

に具現化されたのであった。筆者は、この1965年

の創作から「ローカル化」の第二段階が始まって

いったと考える。この上演は、ラマヤナの短編上

演であり32、ジュル・タンダッに代わって、影絵

芝居師ダラン(dalang)が古代ジャワ語であるカ

ウィ(kawi)で物語を表現するというものであっ

た。1966年になると、デンパサール校は、教師ブ

ラタが所属するバンジャル・ブラルアン(banjar

Belaluan)のガムラン演奏集団とともに合同で創

作を行うようになり、長編上演に向けて新たな上

演場面が追加されることになった[Bandem2005]。

 では、新たに追加された白猿ハノマン(Hanoman)の場面に注目し、1964年の上演でス

ラカルタ様式の白猿ハノマンを演じたバンデムの

語りから、1965年の初演以降に行われたバリ様式

の創作についてみてみたい。この語りは、バンデ

ムがブラタからハノマンの舞踊の創作を依頼され、

ブラタが歌ったハノマンの曲を聴いた夜から始ま

る。

 私はそれを聴いてとても魅かれた。その夜、

私は家に帰って横になったが、寝ることがで

きなかった。それはバリ様式のハノマンの踊

りを創りたいという衝動に駆られたからだっ

た。翌朝、私はよく眠れなかったので学校に

行かなかった。[中略]だが、私は下宿でじ

っとしていられなかった。[中略]私はジャ

ワのハノマンとは違うバリ様式の振りができ

なかったので、シンガパドゥ(Singapadu)

村の実家へ戻った。そして、[踊り手である]

父のイ・マデ・クレデック(IMade Kredek)

に、バリのハノマンの人物像を語ってもらっ

た。父は、すぐにカカウィン・ラマヤナをと

って、白猿はバユ(Bayu)の子供で飛ぶこ

とができないが、すごい奴だと語ってくれた。

父はカカウィンを通して説明してくれたが、

私は満足できなかった。[中略]また、父は

いくつかの舞踊を演じてくれた。マス

(Mas)村で舞踊劇ワヤン・ウォン(wayang

wong)のハノマンを習っていたので、それ

を演じてくれた。[中略]その父も次第に満

足できなくなり、私をスカワティ(Sukawati)村のダランの家まで連れて行っ

てくれた。そのダランは、ワヤン・ラマヤナ

(wayang Ramayana)のダランで、イ・ニョ

マン・グラニャム(INyoman Geranyam)と

いった。その人は私の父と親友だった。父は、

グラニャムにいくつかの猿の踊りを演じてく

れるよう頼んだ。[中略]どのように動きが

違うのか、私はグラニャムを見た。そこから

私は、今日あるバリ様式のハノマンの動きを

どのように創るかのインスピレーションを受

けたのだった[Bandem 2005]。

 この語りから、バンデムは、バリのカカウィ

ン・ラマヤナ、舞踊劇ワヤン・ウォン、影絵芝居

ワヤン・ラマヤナで描かれるハノマン像を模索し、

思いつきを得てバリ様式のハノマンの踊りを創っ

たことがわかる。また、その過程では、バンデム

がバリの芸能の担い手を巻き込んで対話を展開し、

その話に出てきたいくつかの村で描かれるハノマ

ン像を再構築するものであったと言えるだろう。

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インドネシアにおける国民文化の創成:中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 173

 しかし、スマンディによると、ハノマンの踊り

手は、その初期の上演においてスラカルタ様式の

仮面を使っており、バリの人々からは「ジャワ的

すぎる(terlalu kejawen)」と評価されていたと

いい、その後にバリ様式のハノマンの仮面33が新

たに作られることになった[Sumandhi 2004]。

 このように、バリ様式のスンドラタリ・ラマヤ

ナは、観客から「ジャワ的すぎる」と評されたが、

その創作者たちにとって、プディヨノがもたらし

た影響はバリ様式を確立していく上で不可欠なも

のであった。以下は、スマンディが語るプディヨ

ノの影響である。

 この時[バリの]芸術家は、ジャワの芸術

家と互いに影響を及ぼし合っていることを認

めなければならないと思い始めていた。[ジ

ャワの影響を]切り離すことはできない。こ

れはバリによる作品であると認められてはな

らない。私だったら、そんなことはできない。

[バリのスンドラタリは]中部ジャワのスン

ドラタリの影響を受けて互いに[影響を]及

ぼし合ったのだ[Sumandhi 2004]。

 この語りから、プディヨノとともに創ったスン

ドラタリ・ラマヤナ自体がバリの芸能の中にジャ

ワの要素が入ってきたことを示す重要な歴史の痕

跡であった、と創作者たちが考えていたと言える

だろう。デボールのいう「ローカル化」は、創作

者がバリ芸能のなかから自己同定できる要素を探

し出し、それをスンドラタリの創作に取り入れる

過程であった。しかし、その結果として生まれた

バリ様式は、その全てがバリの要素で構成された

いわば「純粋な」ものではなかった。それは、表

現においてプディヨノから教わったスラカルタ様

式の要素が弱められ、バリの要素をより強調した

様式であり、スラカルタとバリの要素が混在した

ものであったのである。

3-4村落に定着した「アカデミック」な   芸能

 デンパサール校によるスンドラタリ・ラマヤナ

は、バリ島以外の他地域からも依頼されるように

なり、インドネシアにおいて広く巡業公演される

ことになった34。さらに、村落からは、巡業公演

だけでなく創作指導の依頼をされるようになり、

デンパサール校の教員となったスマンディとバン

デムは村落において指導を行い、その創作は寺院

の創立記念祭などで興じられた35。このような村

落からの反響は、スンドラタリ・ラマヤナがいか

にバリの人々の間で人気があったかを示している

だろう。

 開校当時のデンパサー一・・一ル校は、バリの人々に全

く知られておらず、コカール(KOKAR)やコン

セルファトリ(Koncelvatori)という略称は人々

とって奇妙な響きであり、名前を聞くだけでも好

ましく思わなかった者もいたというが[Sumandhi 2004]、1960年代のスンドラタリの巡

業公演を通してバリ社会における認知度を高めて

いき、村落からデンパサール校に直接指導を依頼

するほどの信頼を得るようになった。バリにおけ

るスンドラタリの人気は、デンパサール校の社会

的認知度の高まりと比例するものであったといえ

るだろう。こうして、中部ジャワから1960年代初

めに伝わったスンドラタリという新しい芸能ジャ

ンルはデンパサール校の「アカデミック」な芸能

としてバリ島内に普及し、村落の人々が担えるも

のとして地域に定着していったのであった。

4. フェスティバルにおけるバリ様式

  のスンドラタリ・ラマヤナ

4-1比較される地域の様式

 インドネシアでは、1971年にユネスコ(UNESCO)との共同主催で国際ラマヤナ・フェ

スティバルが開催されることになり、その準備段

階として、1970年に国内フェスティバルが教育文

化省文化総局によって行われた[Laporan 1970:

42]。このフェスティバルでは、ジャワとバリに

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174 小池 まり子

おけるスンドラタリ・ラマヤナの上演とセミナー

が開催され、そのセミナーでは三日間にわたって

各地域の代表による様式についての報告と質疑応

答が行われた。また、セミナーの参加者は教育文

化省の関係者の他に、ジャティクスモ大臣、また

バンドゥン、ジョグジャカルタ、スラカルタ、デ

ンパサールの国立芸術高等教育機関の関係者であ

り、その他舞踊専門家や踊り手であった[Laporan 1970:prakata,318]。このセミナーの目

的は「スラカルタ、ジョグジャカルタ、スンダ、

バリの四様式のスンドラタリ・ラマヤナの目録化

および登録を行うこと」[Laporan lg70:317]で

あった。したがって、このセミナーの目的を、四

地域に設立された国立芸術高等教育機関の教員が

中心的な役割を果たして創作したスンドラタリ・

ラマヤナの「目録化」及び「登録」を行うことで

あったと解釈することもできるだろう。

 では、バリ様式のスンドラタリ・ラマヤナは、

他地域の参加者の目にどのように映ったのだろう

か。ここにセミナーの質疑応答記録がある。質問

を行ったのは、スジャディ・ハディスワント

(Sujadi Hadisuwanto)で、返答したのはバリ様

式について報告したデンパサール校校長パンジで

ある。

質問:私たちから見ると、バリ様式のスンド

ラタリ・ラマヤナの舞踊の多くが、ソロ[ス

ラカルタ]の振りと似ている。これは偶然な

のか、それとも、もとからあるバリ様式のモ

チーフを基礎としているのか。

返答:私たちの芸術に関する考えからすれば、

もとからあるものとは言うことはできない。

なぜなら、今はもう現代なので固有のものな

どないからである。もし類似性があるとした

ら、それは私たちが良いと思った他地域を真

似たものである。私たちは、もしそれが良い

ものであれば、真似ることを恥ずかしいとは

思わない。(出席者拍手)それゆえ、おそら

くソロの様式と似たダイナミックな動きがあ

るかもしれない。ソロの様式や他地域の様式

と似ていたとしても、それら全ては私たち芸

術家による創作なのである[Laporan l970:

282]。

 このように、ハディスワントは、バリ様式はス

ラカルタの様式と似ていると評価した。つまり、

1970年のバリ様式は、プディヨノがもらしたスラ

カルタの要素とバリの要素が混在した様式であっ

たことを示している。

 ここでバリのスンドラタリ・ラマヤナの「ロー

カル化」を、第二章で述べた中部ジャワの創作者

たちが目指した「インドネシア化」と対比させて

再考したい。中部ジャワにおける「インドネシア

化」は、すでに表現形態の軸としてあった中部ジ

ャワの要素に他民族の要素を取り込んでいくとい

う作業であった。その一方で、バリの「ローカル

化」はその創作軸をスラカルタの要素からバリの

要素に逆転させ、バリの要素を強調していく作業

であった。バリの「ローカル化」と中部ジャワの

「インドネシア化」のベクトルは異なる方向を指

していたとはいえ、この二つの方向性は、結果と

して他民族の要素が混在した創作物を同様に生み

出したのであった。

 そして、セミナーの議論からわかるように、

「ローカル化」によって生まれたバリ様式は、他

地域の者にスラカルタ風の様式のように映り、類

似性を意識させた。さらに、バリの創作者自身も

また、スラカルタの要素が混在し、もはや「純粋

な」バリの要素から成り立つことができない様式

に対して、自らのものであると認識している。つ

まり、バリ様式は、その様式がもつ混清性によっ

て他地域の者に対して類似性や親近性を意識させ、

またバリ人に対してもその混清性にかかわらず自

らのものであると認識させた時点で、バリ固有の

民族性と結びついた様式から離脱し、インドネシ

ア国家における一地域の様式へと再統合されたと

言えるだろう。

 次に取り上げる議論では、先に見たバリ様式が

一地域の様式へと移行した過程が、まさにバリが

インドネシアの一地域として国家に統合されてい

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インドネシアにおける国民文化の創成:中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 175

く過程と連動していることが明確に現れている。

次の議論の質問者はスパルマ(J.B.Suparma)で

あり、返答はパンジが行っている。

質問:プランバナン寺院で上演されたバリ様

式のスンドラタリ・ラマヤナは、国民的なス

ンドラタリ・ラマヤナと言えると思いますか。

返答:まだそうとは言えない。国民的なもの

を目指す過程には、まだ時間を要する。だが、

国家の意味が地域の集合体であるとすれば、

[国民的なスンドラタリ・ラマヤナと]認め

られる[Laporan 1970:304]。

 バリ様式が国民文化の文脈におかれることによ

って、創作者が自らの様式はインドネシア国家に

おける一地域の様式であることに自覚的になった

のは、1970年において、すでに国民国家の概念が

創作者自身の意識のなかに浸透し、バリもまたそ

の国民国家を構成する一地域にすぎないというこ

とが内面化されていたからだと言えるだろう。

 また、このセミナーにおいて「目録化」及び

「登録」された四地域の様式は、1971年の国際フ

ェスティバルにおいて国内外の観客の前でインド

ネシアを代表する上演として披露されることにな

った。したがって、四地域の様式のスンドラタ

リ・ラマヤナは、この二つのフェスティバルにお

いて、インドネシア政府からインドネシアを代表

とする舞踊劇という国民文化としての正統性を与

えられたと解釈することができ、それは同時に

1945年憲法の「インドネシア全土の地方文化の頂

点として古くから伝わる土着文化」もまた国民文

化である、という説明文を具体的に示しているの

である。

4-2バリ様式のスンドラタリ・ラマヤナ   の変容

 バリ様式のスンドラタリ・ラマヤナは、1979年

からバリ州政府主催のバリ芸術祭において大規模

な上演へと変容することになった。この芸術祭は、

当時のバリ州知事イダ・バグス・マントラ(Ida

Bagus Mantra)の先導のもと行われた。彼は1968

年から1978年まで教育文化省文化総局長を務め、

先の1970年、1971年のフェスティバルにも関わり、

さらには自身の私有地を提供して1974年からタマ

ン゜ブダヤ(Taman Budaya)の建設を行い、

6000人の観客を収容できる近代的な設備を整えた

野外劇場を建設した。したがって、マントラが文

化総局長時代に行った準備期間があったために、

バリ芸術祭においてバリ様式のスンドラタリ・ラ

マヤナは大規模な上演へと変容することが可能で

あったと言えるだろう。そして、マントラを長と

するスンドラタリ・ラマヤナ上演実行委員会(Panitia  Pelaksana  Pergelaran   Sendratari

Ramayana)が設置され、バリの国立芸術高等教

育機関の関係者たちが、野外劇場に相応しいスン

ドラタリ・ラマヤナの創作を行った。広い野外劇

場の舞台を活用する工夫としてそれまで少人数で

行われていた演出から、大人数による演出が行わ

れるようになった。例えば1979年の上演では、踊

り手が第一幕では52人、第二幕では66人、第三幕

では42人が出演したという[Team 1981]。特に

第二幕では、伴奏音楽や語り手を含め、総出演者

102人36による非常に大規模な上演であった

[Team 1981]。こうして、バリでは近代的な野外

劇場が完備され、中部ジャワのプランバナン寺院

のスンドラタリ・ラマヤナように大規模な上演が

1970年代後半から行えるようになり、それととも

にバリ様式も上演形態において変化したのであっ

た。

5. インドネシア国民文化としてのス

  ンドラタリ・ラマヤナ

 これまで、バリにおけるスンドラタリ・ラマヤ

ナの発展とその変容についてみてきた。本章では、

インドネシア国民文化の形成の歴史的な流れの中

にスンドラタリ・ラマヤナを位置づけ、スカルノ

政権およびスハルト政権下の文化政策との関連で

国民文化の創成について再考する。

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176 小池 まり子

5-1スカルノ政権下における国民文化の

  形成 インドネシアの国民文化に関する先行研究にお

いて、芸能分野の代表的な例としてクロンチョン

音楽が取り上げられることが一般的であった。本

稿でも舞踊劇が国民文化となる過程を扱っている

ことから、本節では序章であげたクロンチョンを

出発点とし、1940年代後半から1961年にかけての

国民文化形成の歴史的な流れのなかに、スンドラ

タリ・ラマヤナの創作を位置づけてみたい。

 クロンチョンは、1940年代から革命歌や愛国歌

として人々の間で爆発的に流布した[土屋

1987:89]。しかし、その実質的な人気は1950年

代中頃から次第に低下し、ムラユ音楽が人々の人

気を得るようになった[田子内1998:366]。ク

ロンチョンに次いで1950年代中頃から高まりをみ

せたムラユ音楽もまた、1960年代に入る前にその

人気が低下し、ロック音楽やラテン音楽がこれに

代わった[田子内1998:366]。

 スカルノ大統領は、1959年の「気違いじみた騒

音(ngak-ngik-ngok)」演説のなかで西洋音楽を

文化的帝国主義として批判し、この演説後にはラ

テン音楽とミナンカバウ音楽を融合させた音楽が、

民族文化振興策によってインドネシア音楽の模範

として推進されることになった[田子内1998:

370-371]。また1950年代後半には、政府の指示に

よってムラユ舞踊がインドネシア各地で教えられ

ていた。これは、「北スマトラのムラユ舞踊であ

るスランパン・ドゥアブラス(Serampang dua-

belas)を、若者の社会的な活動である西洋の社

交ダンスに代わる国民舞踊として、確立しようと

した試みであった」[Yampolosky 1996:706]。政

府がムラユ舞踊を推進した背景は、今のところ明

らかにされていないが、高まりつつある西洋音楽

の影響を背景として行われたと考えることもでき

るだろう。ここで明らかなのは、1950年代後半か

ら西洋文化の影響を懸念したスカルノ大統領によ

って民族文化が推進され始めたということであ

る37。

 本稿で事例としてとりあげた中部ジャワのスン

ドラタリ・ラマヤナの初演は1961年であり、スカ

ルノ大統領が西洋音楽の文化的帝国主義批判を行

い、民族音楽振興政策を打ち出した後にあたる。

2-4でみたイサタラの書面でも、西洋音楽がイン

ドネシア音楽に与える影響が懸念されていた。し

たがって、イサタラがガムランの「インドネシア

化」を提唱した背景には、このように拡大する西

洋音楽の影響があったことを指摘することができ、

イサタラはスカルノ大統領と同様に西洋音楽に対

して批判的であったこと解釈できるだろう。

5-2 ス八ルト政権下における文化政策

 本節では、1970年のセミナーの位置づけを1967

年に発足するスハルト政権下における文化政策と

の関連で考察したい。

 スハルト政権の文化政策に関する先行研究にお

いて、政府は1973年に定められた国策大綱で地域

文化をより意識するようになり、第二次五ヶ年開

発計画(1974/75~1978/79)から本格的に文化

政策を開始したといわれてきた38。例えば、この

第二次五ヶ年開発計画では地域文化の文化政策と

して「地域文化の調査と記録」が行われ、教育文

化省のもとで「目録作成ならびに記録化プロジェ

クト」が開始され、その成果が出版された[加藤

2003:385-386]。この「目録化(inventarisasi)」

や「記録(documentasi)」という言葉は、この

スハルト政権の文化政策の本質を的確に示してい

る。

 1970年の国内フェスティバルにおけるセミナー

について、セミナーの委員長を務めたスマルヨ

(Soemajo)は、このセミナーで得られる重要な

メリットとして「価値のあるインドネシアの音楽

と舞踊の記録の収集。これはインドネシアの音楽

と舞踊に関する初の公式文書を作成する努力であ

る」[Laporan 1970:VIII]と述べている。セミナ

ー後に作成されたスンドラタリ・ラマヤナに関す

る報告書は、インドネシアの舞踊と音楽に関する

初の公式文書であり、また1970年の国内セミナー

の目的でこの「目録化」という言葉はすでに使わ

れていたことから、スハルト政権下におけるイン

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インドネシアにおける国民文化の創成:中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 177

ドネシアの舞踊と音楽の「目録化」と「登録」の

作業は、1970年初めにすでに始まっていたといえ

るだろう。

 しかし、各様式を「目録化」し、「登録」する

作業は、1970年時点の各様式を一時的かつ固定し

たものとして初の公式文書の中に記したものであ

った。それは、バリ様式のスンドラタリ・ラマヤ

ナが、1979年から始まるバリ芸術祭において大規

模な上演へと変容したことから、いかに一時的か

つ固定的な作業であったかを示していると言えよ

う。つまり、このような文化政策には、芸能が時

代とともに動的に変化するという視点が欠けてい

るのである。

 スハルト政権下の文化政策を的確に示すものと

して、加藤による「多民族国家インドネシァ」を

めぐる了解の構造との関係でとられた方法があり、

それは「種族を“地方”で置き換えることによっ

て、種族意識を“地方”という水で薄めようとし

ただけでなく、『多様性のなかの統一』の基盤を、

共和国の行政機構そのものに位置づけたことであ

る」[加藤1993:32]。加藤のいう「種族を“地

方”で置き換える」プロセスは、本稿でとりあげ

たバリ様式のスンドラタリ・ラマヤナが、バリ固

有の民族性と結びついた様式からインドネシア国

家の地域の様式へと再統合されていく過程とほぼ

同じプロセスである。そして、固有の民族性を離

脱し、国家における地域の様式へと再統合される

様式の創作を担ったのは、まぎれもなく教育文化

省管轄の国立芸術高等教育機関の関係者であり、

それらの様式を「目録化」し「登録」するための

セミナーを開催したのは教育文化省文化総局であ

った。また、1970年のセミナーで「目録化」され、

「登録」された四様式、スンダ、ジョグジャカル

タ、スラカルタ、バリの様式は、同時に1950年か

ら1960年代にかけて教育文化省管轄の国立芸術高

等教育機関の所在地を示している。バリにスンド

ラタリ・ラマヤナが中部ジャワから伝播した背景

には、1950年代に設立されたスラカルタ校とバリ

出身の教員間で交流があったこと、そして1960年

代にスラカルタ校の教員が媒介となって伝播の役

割を果たしたことはすでに指摘した通りである。

さらに、本稿では詳しく取り上げることができな

かったが、西ジャワのスンドラタリ・ラマヤナの

創作には、国立舞踊アカデミー(Akademi Seni

Tari)のバンドゥン校の教員が関わっており39、

また国立舞踊アカデミーのジョグジャカルタ校学

長のスダルソノがセミナーにおいてジョグジャカ

ルタ様式について報告を行っていた[Laporan

1970]ことを合わせて考慮すると、1950年代か

ら1960年代にジャワとバリに設立された国立芸術

高等教育機関の教員が、1970年の国内フェスティ

バルにおける上演とセミナーにおいて中心的な役

割を果たしたと言えるだろう。このように国立芸

術高等教育機関が中心的な役割を果たして創作し

た四地域の様式は、「アカデミック」な様式とも

言い換えることができる。これらの様式は、一見

国立芸術高等教育機関の所在地である「地域」に

よって美しく切り取られて提示されているように

見えるが、これまで見たように「純粋な」民族固

有の要素から成り立つものではなく、その内部に

おいては他民族の要素が混清したものであった。

だが、それぞれの様式の境界が曖昧であるからこ

そ、ジャワとバリのスンドラタリ・ラマヤナの担

い手たちの間で他の様式を自らのものと思うよう

な親近感を育み、それによって主に国立芸術高等

教育機関を中心にスンドラタリ・ラマヤナの共有

圏が確立されたとも言えるだろう。そして、その

共有圏で「アカデミック」な様式が教員や学生の

間でゆるやかに共有され、またバリのように村落

での巡業上演を通じて国立芸術高等教育機関を代

表する「アカデミック」な芸能として地域社会へ

と普及、浸透していくことで、「地域文化の頂点」

としての国民文化が形成されたのであった。

6. おわりに

 本稿では、スンドラタリ・ラマヤナを事例に

「インドネシア全土の地方文化の頂点として古く

から伝わる土着文化」もまた国民文化になるとい

うことを示した。中部ジャワのスンドラタリ・ラ

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178 小池 まり子

マヤナは、国立芸術高等教育機関の教員間の交流

を背景としてバリへ伝播し「ローカル化」が行わ

れ、スラカルタとバリの要素が混清したバリ様式

が生まれた。1970年のセミナーで、バリ様式は、

他地域の者の視線にさらされることで、バリの民

族性から離脱し、インドネシア国家における地域

の様式となり、国立芸術高等教育機関を中心とす

る担い手の間でゆるやかに共有されるようになっ

た。こうして、地域の様式は、教育文化省文化総

局による公式文書に「目録化」及び「登録」され、

またフェスティバルにおいて国内外の観客の前で

上演されたことによって、国民文化としての正統

性が付与されたのであった。また、このセミナー

における「目録化」および「登録」の作業は、そ

の後本格的に始まっていくスハルト政権下の文化

政策のはじまりでもあったのである。

 だが、本稿ではジョグジャカルタ、西ジャワに

おける創作を扱うことができなかった。スンドラ

タリ・ラマヤナを事例に国民文化の創成について

再考する際にはこれらの地域における創作を合わ

せて議論することが望ましく、今後これら地域に

おけるスンドラタリ・ラマヤナの創作について明

らかにされる必要があるだろう。

 本稿の執筆の過程で、スラカルタとバリに設立

された国立芸術高等教育機関の所在地が、設立以

前から各地の芸能が伝承され、育成される中心的

な場所であったことが明らかになった。つまり、

国立芸術高等教育機関が、それ以前の芸能伝承の

拠点に設立されることで地域芸能の伝承体系を浸

食し、次第に近代教育機関としての性格や役割を

強めていったのではないかと思われる。例えば、

国立舞踊高等学校ジョグジャカルタ校は、クリ

ド・ブクソ・ウィロモ(Krida Beksa Wirama)と

いう舞踊学校の所在地に1961年に設立された

[Sutton 1991:176]。そして、この舞踊学校の歴

史を辿ると、舞踊学校との間にジャワ青年団ヨ

ン・ジヤワ(Yong Jawa)や、キ・ハジャル・デ

ワントロが指導したタマン・シスワとの繋がりが

みえるのである。また、デワントロは1945年の初

内閣において教育文化省大臣に就任し、その後は

インドネシアの教育政策に関わった[西村1996]。

1950年代に政府によって推進されたムラユ舞踊の

教育は、すでにタマン・シスワでも実践されてい

た4°ことから、デワントロによるインドネシア文

化の創成の思想が、民族主義運動時代にクリド・

ブクソ・ウイロモやタマン・シスワにおいて実践

され、独立後にその思想と実践が国立芸術高等教

育機関における教育方針に活用されたのではない

かと推測される。今後の研究では、デワントロに

よるインドネシア文化の創成の思想を中心に、国

立芸術高等教育機関の地域への参入を切り口にイ

ンドネシアの国民文化の形成について考えていき

たい。

1 文化論争については、山本[1981]、土屋[1994]に詳しい。

2 Pemerintah memajukan kebudayaan nasional lndonesia[Agustin 2002:29】.

3 鏡味は、説明文における「民族文化(kebudayaan bangsa)」と、第32条の条文にみられる「国民文化(kebu-

 dayaan nasional)」を同一のものとして解釈している[鏡味2002:83]。本稿では、鏡味の解釈に従い、説明文

 における「民族文化」を「国民文化」と同一のものとする。

4  1(ebudayaan bangsa ialah kebudayaan yang t㎞bul sebagai buah usaha budidaya rakyat Indonesia seluruhnya.

 Kebudayaan lama dan asli yang terdapat sebagai puncak-puncak kebudayaan di daerah-daerah di seluruh Indonesia,

 terhitung sebagai kebudayaan bangsa. Usaha kebudayaan harus menuju kearah kem〔加an adab, budaya, persatuan,

 dengan tidak menolak bahan-bahan baru dari kebudayaan asing yang dapat memperkembangkan atau memperkaya

 kebudayaan bangsa sendiri, serta mempeninggi deraj at kemanusiaan bangsa lndonesia[Agustin 2002:481.

5 インドネシア人芸術家のアンジャル・アスマラ(Andjar Asmara)が、「バレエ(Balet)」を「インドネシア舞踊

 劇」と翻訳したことによって、その短縮語であるスンドラタリが人々の間に定着していくことになった

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インドネシアにおける国民文化の創成:中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラマヤナを事例として 179

6

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OOO」

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[Soeharso 1970:3]。

インドネシアに伝承されたラーマ物語については、青山[1998]に詳しい。青山[1998:155]によると、物語

の構成によって「古典」的グループと「近世」的グループに分けることができ、スンドラタリのラーマ物語はほ

ぼ忠実に古典的ラーマ物語の筋をたどっているという。また、スンドラタリの上演で使われるラーマ物語は、ジ

ャワで『スラット・ラマ(Serat Rama)』が用いられ[Soedarsono 1999:146]、バリでは『ラマヤナ・カカウィ

ン(Ramayana Kakawin)』が用いられた[deBoer 1989:183]。本稿ではこれらを区別せずに、ラマヤナと統一す

る。

スラカルタ校が1950年に開校された後、バンドゥン校(1958年)、デンパサール校(1960年)、スラバヤ校(1973

年)が設立された[福岡2002:142、Sutton 1991:174,179]。ジョグジャカルタには、1961年に国立伝統舞踊高

等学校(Konservatori・Tari・lndonesia)が設立された[Sutton 1991:176-177]。

1970年9月16日から18日にジョグジャカルタで開催された。

1971年8月31日から17日にかけて中部ジャワのプランバナン寺院と東ジャワのパンダアン(Pandaan)で開催さ

れ、インド古代叙事詩ラーマーヤナを共有するアジア七力国(ビルマ、インド、カンボジア、マレーシア、タイ、

ネパール、インドネシア)による上演が行われた。また、このフェスティバルでは、東ジャワのスンドラタリ・

ラマヤナも上演されている。東ジャワの舞踊の創作を行ったのはスラカルタの国立芸術高等教育機関の教員であ

り、また東ジャワ州文化局長を務めたタスマン(Tasman)であった[Komραs,1971-10-1]。

スンドラタリ・ラマヤナを観光芸能の文脈で取り上げている先行研究として、山下[1999]、間苧谷[2000]が

ある。本稿では、芸能の担い手にとってのスンドラタリ・ラマヤナの創作について扱うため、観光芸能の文脈に

おけるスンドラタリ・ラマヤナについては論じない。

中部ジャワのスンドラタリ・ラマヤナの創作については、スハルソ[1970]、スダルソノ[1970、1974、1999]

の研究がある。また、バリのスンドラタリの創作については、パンジ[1970]、デボール[1989]、ピカール

[1995]、バンデム[1996]の研究がある。

野外劇場は、50m×20mの広さで、2000~3000人を収容できる観客席を備えたものであった[Soedarsono 1999:

145-146]。

上演は、1961年7月26日一31日、8月25日一30日、9月23日一28日、10月21日一26日である[Merdeka1961-7-12]。

スンドラタリ・ラマヤナの回想録(Kenang-kenangan Sendratari Ramayana)には、スカルノ大統領のコメント

がおさめられている。スカルノは、「ラマヤナ・バレエは、高尚なインドネシアの芸術上演をもたらした試みの

一つ(労作)である(BaUet Ramayana adalah satu pertj obaan〈good effort>untuk membawa seni-pentas

Indonesia yang lebih tinggi)」という感想を残している。

ジャティクスモ大臣は、スラカルタ校校長のスルヨハミジョヨともにバク・ブウォノ10世の王子である[冨岡

2002:24]o

新聞記事によると、ラマヤナ・バレエの構想は、スカルノ大統領とジャティクスモ大臣がバンコクで鑑賞した大

規模な踊りから思いつきを得たという[kedCtZLItαn TCtlcyαt,1961-8-5]。また、スハルソは、ジャティクスモ大

臣本人から構想の経緯を聞いている[Soeharso 1970:2-3]。

17M.P.RS.8tahun.開発計画B(sektor proyek-proyek B)である[Soeharso 1970:2]。

18 コンセルバトリは、国立伝統音楽高等学校の略称である。

191950年には、イ・グスティ・プトゥ・マデ・グリオ(IGusti PT. Made Geria)が、ガムラン音楽の教師に採用さ

  れた[Proyek 1982:36]。1952年にはイ・ニョマン・ルンバン(I Nyoman Rembang)と、イ・ニョマン・カレル

  (INyoman Kaler)が採用されたが、後に国立伝統音楽高等学校がバリに設立されると、ルンバンとカレルはデ

  ンパサール校の教師となった[Proyek l 981:32,1982:59]。

20 ティンブル・ハルヨノ(Timbul Haryono)は、ガジャマダ大学文化研究学部の教授であり、現在プランバナン寺

  院の野外劇場におけるスンドラタリ・ラマヤナの上演責任者でもある[Fakultas Ilmu Budaya UGM online:berita.

  php?id=16]。

21 インダ・ヌライニ(lndah・Nuraini)は、国立芸術大学ジョグジャカルタ校(Institut Seni Indonesia Yogyakarta)

  の舞踊専攻の教授であり、また、現在プランバナン寺院の野外劇場におけるスンドラタリ・ラマヤナの上演関係

  者である。

22近年の研究において、中部ジャワのスンドラタリ・ラマヤナで上演される新しく創られた舞踊をとりあげて、そ

  の舞踊に含まれる諸要素の分析を行った研究がある[Nurami 2003]。この分析によると、例えば鹿の踊りは、

  鹿の楽しそうな動きと軽快さを描くスンダ、スラカルタ、ジョグジャカルタの古典舞踊の動きを参照して新しい

  モチーフの創作がなされたという[Nuraini 2003:88-89]。

Page 18: 中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラ …repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/57693/2/lacs015010.pdf(Sumpah Pemuda)」である。1928年に行われた

180 小池 まり子

23ルンバンは、スラカルタ校の教師として働いていた頃に、なぜバリには国立伝統音楽高等学校がないのかと疑問

  に感じ、高等学校の設立を考えるようになったという[Padang 2005]。

24デンパサール校の設立は、1957年3月13日にバリ文化局(Jawatan Kebudayaan)を通して申請され、1960年4

  月25日に教育文化省から決済文書が下りた。決済文書は、SZbTat Kepzetzesαn mθntθri P elαn KNomor 341 53/UU,

  25.Apral 1960である[Tim 1998:192]。

25 学生数は、1960年10月10日当時の人数である[Ttm 1998:193]。

26当時デンパサール校の学長であったイ・グスティ・バグス・ニョマン・パンジ(1 Gusti Bagus Nyoman Pan(lji)

  が創立記念祭を提案した[Sumandhi 2004]。

27 アリニによると、この創作背景には、教育文化省のプリヨノ大臣からジャヤプラナ物語を使ったスンドラタリを

  創作できないかという提案があったという[Arini 2005]。

28例えば、歌謡劇アルジャ(Arja)、仮面舞踊劇プレンボン(Prembon)などである。

29杉山[2006]によると、1963年の校舎完成後におさめられた楽器になかに中部ジャワのガムランが含まれていた

  という。プディヨノはこの楽器を使用して授業を行ったと考えられる。

30 1965年9月30日の創立記念日には共産党事件(G30SPKI)が起きたため、創立記念祭は延期され、10月中旬頃に

  行われた[Susilawati 2005]。また、スンドラタリ・ラマヤナの創作背景には、当時のバリ州知事が、ブラタに

  バリ様式の創作を提案したという経緯があった[Arini 2005]。

31ブラタは、1963年にインドネシア共和国の芸術使節団のメンバーとしてタイとモスクワへ行った。また、同年に

  国立伝統音楽高等学校の全国会議(Konferensi KOKAR se-lndonesia)がスラカルタで開催され、バリの芸術使

  節団がこの会議に参加している[Senen 2002:50]。

321965年の上演では、第一幕のダンダカ(Dandaka)の森をラーマ(Rama)、シータ(Sita)、ラクスマナ

  (Laksmana)が歩く場面から、第三幕のシータがラワナ(Rawana)に連れ去られる場面までであった[Senen

  2002:66]0

33バリ様式の仮面は、ワヤン・ウォンの仮面のように顔をすべて覆ってしまう仮面ではなく、目の部分は白く化粧

  を施し、鼻から顎にかけて顔の下半分を覆うような仮面である。

34スマトラ島、ジャワ島、東ティモールに至るまで巡業公演を行ったという[Bandem 2005]。

35当時の校長パンジの命令を受けたスマンディとバンデムは、1965年、1966年とジュンブラナ(Jembrana)県の

  テガル・チャンクリン(Tegal Cangkring)とプルグン(Pergung)、そしてブレレン(Buleleng)県のブブナン

  (Bubunan)、ブンクラン(Bungkulan)、ムンドゥック(Munduk)の村落へ赴き、ジャヤプラナとラマヤナを演

  目とするスンドラタリを指導した[deBoer 1989:182]。

36内訳は、踊り手66人、ガムラン演奏者28人、ダランと詠唱ゲロンを合わせた8人である[Team 1981]。

37 政府は民族音楽振興政策を行ったが、西洋音楽の流れを止めることができず、1962年には西洋音楽の影響を受け

  たインドネシア・ポピュラー音楽が生まれた[田子内1998:372]。

38 スハルト政権下の文化政策に関する先行研究として、ヤンポロスキー(Yampolsky)[1995]、ヒュー(Hough)

  [1999]、加藤[2003]がある。

39新聞記事[P掘γαηγ碗畑,1971-8-23]には、舞踊の創作で国立舞踊アカデミー・バンドゥン校のヨセブ・テジ

  ャクスマ(Joesoep Tedjasoekmana)が関わったという報道がある。また、福岡は、1970年の国内フェスティバ

  ルについて言及しているが、特に興味深いのは1970年のフェスティバルで西ジャワ代表が取り上げたスランギッ

  ト様式のトペン・チルボンが国立芸術大学バンドゥン校の授業における教材になった点である[福岡2002:

  163]。これは政府によるフェスティバルが地域芸能に与えた影響を示しており、スンドラタリ・ラマヤナを構成

  する地域の要素が教育機関の教材として注目されることから、いかにスンドラタリ・ラマヤナが「アカデミッ

  ク」な様式であるかを示していると言えよう。

40 ジョグジャカルタのタマン・シスワでは、1938年にメダン出身の学生らによって持ち込まれたムラユ舞踊が教え

  られていた[Dewantara 1989:101]。

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〈インタヴュー>

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    (2005年9月28日、デンパサール市、アリニの家にて)

Bandem, I Made (イ・マデ・バンデム)(1945-)元国立芸術大学ジョグジャカルタ校学長。

    (2005年10月5日、ギアニャール県シンガパドゥ村、バンデムの家にて)

Padang, I Gusti Ngurah (イ・グステイ・ングラ・パダン)(1954-)現ギアニャール県伝統音楽高等学校教員。

    (2005年9月12日、ギアニャール県バトゥブラン村、パダンの家にて)

Panji, I Gusti Bagus Nyoman (イ・グステイ・バグス・ニョマン・パンジ)(1925-2006)元国立伝統音楽高等学校校

    長。

    (2005年9月9日、ブレレン県ブンクラン村、パンジの家にて)

Sumandhi, I Nyoman (イ・ニョマン・スマンディ)(1944-)元国立伝統音楽高等学校の校長。

    (2004年8月29日、タバナン県トゥンジュク村、スマンディの家にて.)

    (2006年1月15日、著者あてEメール文書)

Susilawati, I Gusti Agung (イ・グステイ・アグン・スシラワテイ)(1948-)元ギアニャール県伝統音楽高等学校教

    員。

    (2005年10月11日、デンパサール市、スシラワティの家にて)

Page 22: 中部ジャワとバリにおける舞踊劇スンドラタリ・ラ …repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/57693/2/lacs015010.pdf(Sumpah Pemuda)」である。1928年に行われた

184 小池 まり子

〈付記・謝辞〉

 本稿は、2004年に『ムーサ 沖縄県立芸術大学音楽学研究誌』へ投稿した初期的な研究と、2006年1月に沖縄県立

芸術大学大学院に提出した修士論文『インドネシアの国民文化の生成:バリにおける舞踊劇スンドラタリを事例にし

て』に、新たな資料や見解を加えて修正を行ったものである。現地調査は、①インドネシア政府奨学生(2003年8月

一2004年8月)として国立ウダヤナ大学に留学した期間、②インドネシア科学院の研究許可期間(2005年8月27日一

10月15日、研究許可番号:4863/SU/KS/2004)、③科学研究費補助金[基盤研究(B)(青山亨)]を受けた期間

(2007年8月30日一10月1日、2008年8月2日一9日)に行った。本稿を執筆するにあたり、インドネシアおよび日

本においてお世話になった数多くの方々に対し心より御礼を申し上げたい。