民俗芸能の実践と文化財保護政策─備中神楽の事例から─ [effects of...

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民俗芸能の実践と文化財保護政策

||備中神楽の事例から||

一、はじめに

(一)文化財保護法と「おまつり法」

民俗芸能研究の分野において行政の問題がかつてないほど

注目を集めたのは、平成四年に施行された「地域伝統芸能等

を活用した行事の実施による観光及、ひ特定地域商工業の振興

に関する法律」、通称「おまつり法」の是非をめぐる議論に

おいてであった。「おまつり法」自体についての是非は様々

であろう。民俗芸能学会でも、平成四年度大会でシンポジウ

ムが聞かれ、その後、『民俗芸能研究』第一七号(民俗芸能学

会、一九九一二)でそのシンポジウムでの議論が紹介されたが、

そこでは学会全体のコンセンサスがとれたとも思われず、し

かもそれ以降は大きく問題としてとりあげられることもなく、

法律施行後、具体的に各民俗芸能がこの法律にどのように対

'悟

処しているかという紹介もされないまま、という状態が続い

ている。筆者自身に関していえば、「おまつり法」が結果と

してどのような影響をもたらしたかを判断するには、まだ日

が浅すぎると思うが、この法律に基づいて行われている「地

域伝統芸能全国フェスティバル」の報告や、島根県松江市お

よび大社町にて実見した第五回同フェスティバルの様子から、

現地での評判はそう悪くはないという印象を持っている。

むしろ筆者が興味を持ったのは、この「おまつり法」をめ

ぐる議論の中で見えてきた、民俗芸能研究者の「文化財保

護」に対する態度である。「おまつり法」成立以前、および

成立直後の研究者の態度は、この法律に対しておおむね否定

的であった。たとえば、一線の研究者としてはもっとも早く

立場表明をした茂木栄(一九九二)は、「日本に独特の宗教文

化である民俗芸能を、イベントの人あつめの目玉として、村

- 42 ー

おこし、町おこしの名に隠れた金儲けの道具にさせてよいも

のか」と述。でまた、「おまつり法」反対の先鋒となった小島

美子(一九九二)は、「民俗芸能が観光の材料にされるH

」と

いう刺激的な表題を掲げ、「民俗芸能や民謡や民踊が、観光

の材料にされて、村人の生活と切り離されて、神楽ショl

民謡ショーなどの形になったとき、民俗芸能はほとんど堕落

してしまう」と書いている。そして両者とも、「民俗文化財

としての保護を手厚くしようというのなら理解できるが」

(茂木)、「何より問題なのは、文化庁の方々などのご努カに

もかかわらず、こういう文化の問題を、国が文化の問題とし

てとり上げているよりはるかに大きな規模の予算で、観光事

業の一環に組み入れられてしまうということである」(小

島)として、「おまつり法」を「文化財保護法」に対立した

ものと捉えていることである。こうした立場を最も理論的に

まとめたのが植木行宜(一九九四)であり、そこでは、民俗

芸能の本質は「芸能からくるものではなく、民俗という存在

形態に基づくものとなりましょう。民俗芸能の特質とは民俗

としての特質にほかならないということです」(一一頁)とさ

れ、「おまつり法」にともなう民俗芸能のステージ化はもと

より、文化財保護法において定められている文化財の「活

用」の多くでさえも、そうした「民俗的本質」を変えてしま

うものとして批判されることになる。

こうした立場と比較して、より柔軟に民俗芸能を捉えてい

ると思われるのが、さきに挙げた民俗芸能学会のシンポジウ

ムにおける山路興造の発言である。山路は、そもそも民俗芸

能研究とは、戦前の運輸省および鉄道省に主導された観光資

源の発見という文脈から始まったものであると指摘し、した

がって民俗芸能には本来、観光化され、変化していくという

面があることを認めている。しかし山路はそれに続けて、文

化庁の仕事として「文化財」を保護するためには「何が大

切」で、「どこを変えちゃいけない」のかということを明確

にする必要があり、「そこに我々(民俗芸能研究者||引用

者注)の仕事があるのだと思います」(九四頁)と述ベて、民

俗芸能研究者の仕事を、文化財保護に資するものに一元化す

る。とにかく「観光化

H

商品化」を民俗芸能の性質として認

めるか、認めないかに関わらず、この二つの立場は、以下の

点において共通している。

①「民俗芸能」には、何らかの「本質」が存在する。

②その「本質」は、歴史的に不変のものであり、今後も変え

てはならない。

③そうした「不変の本質」を見極めることは、民俗芸能研究

者、あるいは文化財保護に関わる行政官の仕事である。

- 43

(二)民俗芸能の本質主義的理解の落とし穴

こうした本質主義

(mggE-2B)は、確かに二定の説得

力をもつが、現代における文化現象を考える場合、大きな制

約をともなうことを考慮にいれなければならない。前節で上

げた二つの立場が、ともに本質主義的な理解にたって、不変

の要素の存在を強調していることを考えれば、この制約が見

えてくる。つまり本質主義的理解は、特定の文化現象を静態

的なモデルに当てはめて固定化し、物象化してしまうという

面がある。人・モノ・情報の流動化が世界規模で拡大し続け

る現代社会においては、ダイナミクスこそが社会や文化を読

み解く鍵となるはずだが、本質主義に依拠する限り、そうし

た影響によって変化する部分は、非本質的・周辺的であると

して考慮の外に押しやられる。社会変化という変数は、せい

ぜい特定の民俗的テクストに付けられた注釈のように扱われ、

それがあろうとなかろうと、本来のテクストの意味は変わら

内凶

ないというわけである。さらにこうした理解は、近代以降の

世界的な資本主義化、文化のグロl

パライゼl

シヨンによっ

て、地域的・伝統的な民俗文化(民俗学がしばしば「伝承」

と呼んできたもの)が変質する、あるいは消滅するという理

解を産むことになる。こうした「失われゆくもの」という認

識こそが「文化財保護」という思想の根幹にあるものであろ

うが、川田順造(一九九三)の言葉を借りれば、「伝承が『減

少』したり『消滅』したりするというとき、そこで問題にな

るのは、『民俗学者が採集しようとしていた伝承』、それこそ

『伝統的な』民俗学者の思いこみの対象としての『伝承』で

あることを忘れてはならない」(一六頁)ということである。

より民俗学者にとって身近なレベルで考えてみよう。こう

した本質主義的理解は何よりも、現代に生きる担い手たちの

多様な実践を見えなくしてしまう。本質主義にともなう物象

化は、「民俗芸能」という無形の身体表現を、超世代的に受

け継がれてきた「もの」のように扱ってしまい、「民俗芸

能」を伝承することにともなう困難・葛藤・試行錯誤・新た

な意味の発見といったものは覆い隠される。伝承者たちは、

「伝統的」な民俗芸能を昔ながらの「かたち」と「こころ」

で整然と伝える、俗世とは離れた聖人君子のような存在とし

て語られてしまう。しかし、今や日本中どこを探しても、テ

レビや、ビデオ、自家用車がないところはないであろう。村に

住む人閣のかなりの部分が、都市の企業や学校に通っている。

こうした意味で、民俗芸能の伝承者も、我々となんら変わる

ところのない、現代に生きる人間である。しかし、本質主義

的な理解は、民俗芸能の伝承者は、現代人が失ってしまった、

あるいは失いつつある「何か」を受け継ぐ特別な人々として

称揚することによって、結果的に彼我の差異を強調してしま

うのである。しかし、箭内匡(一九九四)のいうように、あ

る人々が日増しに我々に「似た」存在になってきているにも

- 44 ー

関わらず、「彼ら」を我々とは違う「他者」として語ること

は、抑圧的な政治的行為であり、民族誌家(民俗誌家)に

とっての倫理的問題でもある。「彼ら」は、いつまでも純

粋・素朴に昔ながらの民俗芸能を行っているのではないこと

は、多くの研究者が気がついているはずである。

(三)コミュニケーション・プロセスとしての民俗

こうした民俗芸能に対する錯綜するまなざしを視野に入れ、

本質主義的理解を乗り越えるために、私はここで、民俗を複

数の主体がお互いに交渉するプロセスによって構築されると

捉える「コミュニケーションとしての民俗」の枠組みを導入

したいと思う。「コミュニケーションとしての民俗」という

考え方は、アメリカの民俗学においてはすでに一般的になっ

ており、現在では、各種のフェスティバルやフェアといった

広範な社会的コミュニケーションや、様々な近代的メディア

によって媒介された民俗の分析に有効な枠組みと考えられて

いる(パウマン、一九九六三

何より「コミュニケーションとしての民俗」という理解の

仕方にとって、「民俗芸能」という対象はきわめて示唆的で

ある。前出の植木(一九九四)は、民俗芸能の本質の一つと

して「その基本は行うことにあり、鑑賞はあくまで結果で

す」(一一頁)と述ベているが、これでは、たとえばそれが同

じく形式的行動である「儀礼」とどこが違うのか、なぜそれ

が「民俗芸能」と呼ばれるのかがわからなくなってしまか。

やはり「芸能」と名付けられる以上、そこには常に審美的な

視点が必要条件としでなければならないはずである。すなわ

ち、「民俗芸能」の存在基盤には、必ず「見る/見られる」

という関係性が備わっているのである。この関係性は、そこ

から意味や価値が構築されるという意味で、社会的コミュニ

ケーションの様態を示しているといえる。さらにいえば、こ

の「見る/見られる」という関係性は、決して閉じた体系を

なしているわけではない。折口信夫(一九九一)がいみじく

も「招かれざる客」と名付けたように、基本的に「見る」も

のは、共同体外のものである。このことによって、民俗学者

にとってはまさに「招かれざる客」であるところの観光客ま

でをも合めた、広範で、かつ動態的な視点が獲得できるので

ある。

- 45-

ここで注意しなければならないのは、我々が「コミュニ

ケーション」という場合、しばしばその過程はメッセージの

送り手から受け手へと一吉宮ノ一方向の過程としてしまう傾向が

あることである。メッセージの送り手が伝えようとしている

内容、即ち「コミュニケーション意図」が受け手に正しく伝

わらない場合、そのコミュニケーションは「失敗」あるいは

「不完全」と捉えられてしまう。とくに民俗学が対象として

きたような「ムラ」という小規模で密度の濃い集団では、

メッセージを解読するためのコl

ドは全ての成員に共有され

ている「はず」であるから、こうした誤解は起こり得ないと

考えられているかのようである。しかし、流動化の激しい現

代社会においては、コミュニケートする複数の主体が常に同

一の価値観をもっているとは考えられない。むしろ我々は、

誤解や曲解を合みつつも、時にはそれらを上手く調整しなが

ら、時には誤解を誤解として残しながら進行するコミュニ

ケーションを想定しなければならない。コミュニケーション

における意味の構築とは、メッセージの送り手であろうと受

け手であろうと、一つの主体に帰されるものではなく、ダイ

ナミックな相互行為という関係性の次元に属すものであると

いう事を認識する必要がある。この意味で、先述した「見る

/見られる」という関係性の設定で言えば、これは容易に逆

転することが可能であり、さらには双方向の「見る/見られ

る」関係が、同時に成立することも十分可能である。「見ら

れる」ものは同時に「見せる」ものであり、また、「見る」

ものは同時に「見せられる」ものでもあるのである。

(四)本論文の視座

本論文は、こうした「コミュニケーションとしての民俗」

という枠組みに依拠しながら、「文化財」に対する研究者の

本質論的理解を相対化し、「文化財保護」という政策が生み

出す新たな実践を主題化しようとするものである。事例とし

ては、岡山県西部に伝承される備中神楽をとり上げる。備中

神楽は、民俗芸能の研究史のなかでは、きわめて微妙な存在

として扱われてきた。まず、研究者が備中神楽をどのように

「見て」きたかを整理した上で、現在行われている備中神楽

の新しい実践について紹介する。備中神楽の太夫たちは、非

常にヴィヴィッドな「伝承」意識や「文化財」の担い手であ

ることの自覚を持っており、それに基づいて様々な実践形態

を生み出しているわけだが、結果としてそれは研究者にとっ

ての「正しい」民俗芸能のあり方や、文化財保護政策が期待

する民俗芸能の姿とはかけ離れていく。この栽離を、研究者

や行政官と、担い手たちの「民俗文化財」というものに対す

る理解のずれとして抽出する。はじめに断っておくと、本稿

では、「おまつり法」はもちろん、「文化財保護法」やそれに

基づく政策についても批判するつもりはない。実際、ここで

主題化しようとする備中神楽の新たな実践については、「文

化財保護」という政策があればこそ生まれてきたものである

とも言えるのだから。また、こうした事例を過度に一般化し

て、全ての民俗芸能が同じ道をたどるものだと主張するつも

りもない。実際に、「文化財」的なあり方と他者の視線にさ

らされる場で演じられるものとを厳密に区別するような例も

- 46-

存在するであろうし(橋本、一九九六)、「見られる」ことを

ほとんど拒否している例もあるだろう。ただし、「文化財」

的なあり方こそが唯一正しい民俗芸能のあり方であるとして、

そこから外れるものを不当に扱うような態度があるとすれば、

それは批判する必要があると考えている。

二、備中神楽について

本稿の目的は、現在の備中神楽の多様な実践と、文化財保

護政策の関係を考察することであるので、ここで備中神楽の

概要について説明することはしない。従って、備中神楽の演

目、芸態等については、石塚尊俊(一九六二、山根堅一(一

九六五)、神崎宣武(一九八三、一九八四)といった先行研究を

適宜参照していただきたい。

(ご備中神楽に向けられたまなざし

備中神楽は、民俗芸能研究史のなかでは、とても微妙な位

置を占めているように思われる。備中神楽はよく「民俗芸能

としては特殊である」あるいは「もはや民俗芸能とは言えな

い」というように言われることがある。近年で言えば、現役

の太夫も参加して、備中神楽をシンセサイザーやライティン

グで現代風に演出した「音劇座」の活動が注目を浴びたこと

がある(高橋、一九九二)。しかしこうした事例は、研究者た

ちに真剣に受けとめられた形跡はない。さらにいえば、「備

中神楽」という対象自体が、民俗芸能としてこれだけの知名

度を持っているにも関わらず、地元出身者以外には集中的に

調査・研究されてこなかったという事実がある。では、学の

対象としての備中神楽は、研究者たちにどのように「見られ

て」きたのか。ここに興味深い文章があるのでいくつか紹介

しよう。これは、民俗芸能研究の繁明期である開和初期に、

東京の飛行会館演芸場で演じられた備中神楽を見て、雑誌

『民俗葱術』に掲載された「民俗萎術の曾」会員の感想であ

る。全て出典は民俗塾術の曾(一九三一)である。ただし旧

漢字の一部を常用漢字に改めてい&。

- 47-

備中の神代神楽を見て感じた事は、今まで度々見た此種

のものは、何れも神様に奉納する、神様を慰めるといふ事

が主となって居て、それが人聞の見物にどう云ふ風に見せ

るかといふ事は鈴り考へられて居ないやうに見えるが、此

岡山のは、それが非常に観客本位?であることだ。(何

英吉)

何故と申して今度の神楽の備中小田郡の川上村と云ふ所

は、趨部な所か賑かな街道筋か、どちらかは存じませんが、

寅に崩れに崩れて居ります。尤も此の場合は崩れると申し

ては妥嘗ではございません。意識的に今様に、嘗世風に改

めたと見るべき方でございますから。明治になって大正に

なって、いえ昭和になってさで直しに直して来た神楽と

思はれます。信伸、神事の観念を徹底的に脱け出して、農

民の娯楽になってしまった、さうしたものと見られます。

(浅井薫)

さて、以上述べた所から見ると、この神楽は最早神霊へ

の奉仕からはずっと遠ざかって、今は全く民衆を封照とし

て演ぜられるようになってしまったのです。それはこの神

築が演ぜらるべき神社の名を、一つも拳げてない所から見

て、岡山の各地を祭から祭へと辿って歩くもので神祭師は

既に旅義人の如きものとなり、従って民衆に阿る必要から

かく悪く現代化してしまったのではないでせうか。(大亦

詮一郎)

また、昭和九年に発行された備中神楽のもっとも初期の研

究書と考えられる山木機翠の『備中神楽の研究』(一九三四)

の序で、小寺融吉は次のように述ベている。

備中神楽は(中略)誠に風愛りの神楽である。例へば大

蛇退治だけを見ても(中略)寅に思ひ切って自由奔放なも

ので、嘗て一人の人が考へでまとめ上げたものを幾年かの

聞に幾人かの人が、勝手気ま』に原形を崩し、新らしい附

け加へをしたと見るよりほかはない。一方から云へばヨタ

もまた甚しであるが、一方から云へばよくこ』まで民衆本

位、娯楽本位にしてしまった、それでこそ生きた農村郷土

の襲術だと賛成も出来る。神楽は荘重厳粛なるものなりと

ばかりきめてゐる神職達は顔を背けようが、現在の各地の

神楽が、次第に人望を失ひっ\あるのを憂慮する人達は、

備中神楽から何物かの暗示を得ることだらう。

これらに共通するのは、備中神楽が鑑賞本位であるという

特徴をもつこと、そしてそれは「変化」した結果であり、本

来はそうではなかったはずである、という認識である。しか

し、ここで長く引用を並ベたのは、単に備中神楽が早くから

鑑賞指向であったことを研究者の言説から裏付けたかったか

らではない。こうした認識が、現在でも備中神楽が語られる

ときに支配的であることを示し、それが現在の備中神楽の実

践にどのように反映されているのかを探るためである。たと

えば、先に民俗芸能学会でのおまつり法についてのシンポジ

ウムでの山路興造の発言をとり上げたのは、そこで備中神楽

が「観光化」した民俗芸能の例として挙げられていたからで

ある。

48 -

昨日の備中神楽を観ていますと、あれは国の文化財に

なっていますが実はどの部分が国が指定したものなのか、

どの部分は変えちゃいけないのか、どの部分は変えていい

のか、はっきりわかりません。だからむこうとしてはどん

どん観光化していってああいうものにしています。(民俗

芸能学会、一九九三、九四頁)

そしてこの後に、先述した「変えてはいけない部分」を見

極めることが研究者や行政官の仕事であるという議論が続い

ているのである。こうした文脈から判断できることは、山路

が備中神楽を彼の「文化財」についての理解から外れたもの

と捉えているらしいことである。中園地方の神楽について多

くの業績を持つ山路のこうした発言は、その場に居合わせた

研究者たちに説得力をもって受け入れられたことは想像に難

くない。

これらの言説には七O年近い隔たりがあり、しかもその聞

には、太平洋戦争と高度経済成長というこつの大きな「民俗

芸能の危機」があった。にもかかわらず、その骨子は変わら

ない。すなわち、「備中神楽は鑑賞本位である」そして「備

中神楽は変わってしまった(変わり続けているごというこ

とである。これらはともに、民俗芸能の文化財的理解

(H本

質主義的理解)からは外れている。しかし、民俗芸能研究の

ごく初期から現在まで変わらずに(!)「変わり続けてい

る」と言われていることの意味は、もっと真剣に考えられて

よいはずである。

(二)戦後の変遷と、文化財指定への経緯

では、現実に備中神楽はどのような変遷をたどってきたの

かを見ていくこととする。ただしここでは筆者の能力と本稿

の目的から、時代を戦後に限るものとする。また、以前の芸

態を文献資料からうかがい知ることは困難であるので、ここ

では備中神楽を取り巻く外在的要因との関係に焦点を当てる

ことになる。

戦中、備中神楽がどのような状態にあったのか、筆者の持

ち合わせる資料では詳しくは知り得ない。しかし、全くの断

絶ということはなかったようである。芸歴五

O年以上を誇る

現役のベテラン太夫たちの多くは、昭和二

0年代の前半にそ

のキャリアをスタートさせているのであるが、すでにその頃、

神楽を演じる環境は整っていたと語っているからである。そ

して昭和二0年代の後半になると、ある種の隆盛が見られる

ようになる。聞和二五年に、備中神楽保存会の前身である備

中神楽後援会が結成さ刷、昭和二八年には、神能三曲の創作

者とされる西林国橋の顕彰碑を兼ねた「備中神代神楽碑」が

成羽公民館内に建てられた。ただしこうした活動からうかが

- 49

われるのは、戦後の復興と郷土意識の回復のためという、多

分に政治的な意図である。この時期で注目するべきは、開和

二七年の段階で、川上郡平川村(現川上郡備中町)の神殿神

楽が、「助成すべき無形文化財」として、国の選定を受けて

いることである。しかし、当時は文化財保護法内での民俗芸

能の位置づけが明確でなく、この選定も、具体的な助成等は

何もないまま、昭和二九年の文化財保護法改正にともなって

消滅していふ。しかし、法改正後の岡和三一年には早速、岡

山県の重要無形文化財第二号として指定を受けている。こう

して備中神楽の価値は社会的に認められていくのだが、まだ

この時期では、そうした意味付けは伝承地域内部の人々に向

けられたものだったと考えられる。

備中神楽の伝承に対する危機意識は、むしろ昭和三

0年代

から昭和四0年代半ばに顕著に見られる。昭和三

0年代はも

ちろん高度経済成長期にあたり、日本中で産業構造の変化が

進んだ時代であるが、備中神楽の伝承地域ではとくにこの影

響が強かったと考えられる。この高度経済成長期において岡

山県は、昭和二六年に就任した三木行治県知事のもと、日本

でも有数の大規模産業基盤整備を行っている。三木知事は、

「産業と教育と衛生の岡山県」のスローガンのもと、県の総

合開発に着手する。その目玉となったのが、水島臨海工業地

域の造成で、三菱石油や川崎製鉄といった大企業を誘致し、

やがて日本を代表する石油コンビナートを備えた重化学工業

地帯となるのである。一方、備中神楽伝承の中心地である備

北地区は、これらの工業地帯や、それによって人口の大幅な

増加を見せた両備地区への電源供給地帯として整備され、昭

和四三年には、中園地方第二の規模といわれる新成羽川ダム

が建設されたが、これによって神楽伝承地域の集落のいくつ

かは消滅した。同時に、水島工業地帯の発展期には人材供給

地でもあり、もともと高原上で地味も余り良いとはいえない

土地での農業を捨て、町に働きに出るものが激増したことは

想像に難くない。たとえば備中神楽発祥の地とされる川上郡

成羽町では、昭和三五年から四五年の人口増加率はマイナス

二O%を越えているのである。当然神楽の伝承にも危機が訪

れたはずである。この危機意識が反映されていると思われる

のが、この時期に代表的な備中神楽の研究が相次いで発表さ

れていることである。また、先述した岡山県の重要無形文化

財の指定を受けた直後には、固に対して重要無形文化財の指

定申請書が提出されている。

これが昭和四0年代後半になると、こうした経済成長にも

落ちつきが見え始め、むしろ過度の工業化が否定的に捉えら

れ始める。そうしたなか、国鉄のコアイスカパ

l

・ジャパ

ン」キャンペーンなどによってノスタルジックな日本のイ

メージが浸透すると、地方は観光に自らの活路を見出すよう

- 50-

になる。備中神楽もおそらく、昭和四五年の大阪万博への出ω

演などで、観光資源としての神楽の価値を認識したであろう。

一方、昭和四0年代には、国道コ二三号線の整備、昭和四七

年には新幹線が岡山まで開通、昭和四八年には国鉄伯備線の

倉敷|備中高梁聞が複線化と、交通網が大幅に整備されてい

る。こうして備中神楽とその伝承地は、社会基盤の面でも、

住民の流動化という面でも、そして何より人々の意識の面で

も、外部社会に聞かれていった。こうした背景の中、昭和四

六年には「備中神楽」として、国の記録作成等の措置を講ず

べき無形文化財の選択を受けた。この選択は、昭和二七年の

選定とは違った意味を持つはずであったろうが、実際にはこ

れも具体的な施策はほとんどとられないままであった。

文化財保護法は悶和五

O年に二度目の大改正を行い、この

改正によって「民俗文化財」という範鴎が独立し、無形の民

俗文化財も指定の対象となった。備中神楽は昭和五四年に、

重要無形民俗文化財の指定を受けた。これは、もちろん伝承

者たちにとっては念願かなったというべきだが、それ以上に

観光神楽にとって都合が良かったように思われる。実際、こ

の文化財指定以降、一九八0年代は観光神楽がもっとも盛ん

になった時期であった。現在でも、神殿を飾る幕には「備中

神楽」という文字に劣らない大きさで「国指定重要無形民俗

ω

文化財」という文字が躍っているし、備中神楽が観光用パン

フレットなどで紹介されるときにも、常に「国指定重要無形

民俗文化財」の文字が傍らに添えられている。「文化財保護

法」に込められた研究者の期待とは離れて、「民俗文化財」

は観光資源としての備中神楽の価値を保証するためのある種

の商標として働いたとも言えるのである。観光客は、決して

在り来たりのイメージを求めていたのではなく、彼らなりに

「本物」に近づこうとしていた。その意味では観光客と研究

者の聞に差はない。そして「重要無形民俗文化財」という商

標は、観光客のこうした「本物」指向を満足させるために一

定の役割を果たしていたといえるのである。

三、新たなイベントの発生

- 51-

ところが最近になって、こうした観光神楽は内部から批判

されることになった。それらは当事者達からも「偽物」と見

られるようになったのである。

現在では、多くの太夫が観光神楽を「必要悪」と捉えてい

るようである。それは、確かに経済的な利益が大きく、上演

する機会が減っている現在では貴重な場である。しかしそこ

で演じられる神楽は「本物ではない」のである。彼らがその

ように考える理由は、おおよそ以下のようにまとめられる。

①時聞の制約||観光イベントなどの余興の場合、当然、備

中神楽の全編を演じることは望むべくもない。必然的に三

O分ほどに短縮したダイジェスト・バージョンを要求され

る。

②演目の制約||上記の時閣の制約とも関連するが、短い時

間で観客にアピールしなければならないとなれば、当然、

派手で見栄えのする演目やその部分だけを取り出して演じ

ることになる。観光イベントの神楽では「神になりきれな

い」という表現をした太夫があったが、彼のいう意図は、

神楽には一連の演目の流れがあり、「榊舞」や「導きの

舞」といった基本的な演目から、徐々に複雑な演目へ移行

するという構成がとられていて、そのプロセスの中で自ら

の演じる役所に没入していくというメカニズムがあると思

われる。そうしたプロセスを経ずにいきなりクライマック

スを演じることは、「気持ち」と「からだ」の準備が出来

ないまま演技を形どおりに遂行することになる。こうした

演技は、演じ手である太夫たちにとって十分な満足感を得

られるものではない。

③演者の問題||この問題は観光神楽だけに限らない。先述

したとおり、備中地域では昭和三

0年代に大きな産業構造

の変化があり、備中神楽の後継者不足も深刻であると多く

の太夫は口をそろえる。ところが現実には、岡山県神社庁

登録の神楽太夫の数は年々増加しており、また、登録を受

けていないいわゆる「同好会」の数も同様に増加している。

これは、岡和三0年代以降、太夫の中にも、また現地の住

人たちにも、いわゆる「勤め人」が多くなり、祭であろう

と観光イベントであろうと、週末以外には神楽を催すこと

が難しくなったということがある。必然的に各地の神楽の

日取りが重なり、演じる太夫が足りなくなる。そこで比較

的経験の浅い太夫や、太夫としての資格を持たないが神楽

を舞うことならなんとか出来るという同好会などが舞台に

立つことが多くなる。このような、未熟な太夫が大きな舞

台に立ってしまうという事態は、とくにベテランの太夫た

ちに、神楽の「芸」の質の低下につながると考えられた。

④観客の問題||観光イベントで神楽が演じられる場合、そ

こに集まる観客は、必ずしも「備中神楽」を見ることが主

目的なわけではない。こうした「審美眼」を持たない観客

から漫然と拍手を受けることは、強い芸人意識を持つ太夫

にとっては快いものではないし、未熟な芸を認めてしまう

ものと考えられた。

おそらくこうして内部から起こった批判から、備中神楽が

かつであったはずの「民俗的」なコンテクストに回帰したの

であれば、研究者や行政官の期待にもかなっていたのであろ

う。しかし実際には、必ずしもそうはならなかった。太夫た

ちは、彼らが考える「正統な」「本物の」神楽を見せるため

の新たなイベントを、太夫たち自身で組織し始めたのである。

52 -

備中神楽もっと知ってー-"目且""""寓11-一

保存銀興会が初の鑑賞会

「備中神楽鑑賞会」について

伝える地元の新聞記事

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たとえば、平成七年から毎年岡山県立美術館で行われている

「備中神楽鑑賞会」や、これも平成七年から、小田郡美星町

の観光施設である「中世夢が原」で行われている「星の郷大

神楽」は、こうした事例の代表である。ここでは、こうした

イベントの先駆けとなった「備中神楽鑑賞会」の事例を紹介

する。「

備中神楽鑑賞会」は、平成七年から、毎年五月に岡山市

の岡山県立美術館のホl

ルで開催されている。主催は岡山県

郷土文化財団、岡山県立美術館、無形文化財備中神楽保存振

興会の三団体であるが、このうち、最後の団体が発案・企画

したもので、この団体には現役の太夫たちが多く参加してい

る。その目的は、「本物」の神楽を、備中地域に限らず広く

岡山県全体に、ひいては全国にアピールし、備中神楽の掠興

をはかるというもので、観客の多くは日頃備中神楽を見る機

会があまりない岡山市周辺の人々であった。

この事例では、前に挙げた観光神楽に対する太夫たちの不

満はほぼ解消されている。備中神楽のみが演じられるイベン

トで五時間以上という、十分とは言えないまでも満足できる

時聞が確保され、演目的にも、神能部分はほぼ完全に、その

他神事的な演目も、荒神神楽でしか見られないような特殊な

ものも合わせてある程度は再現できる。観客もこうしたイベ

ントに足を運ぶくらいであるから、備中神楽に少なからず輿 - 53

味を寄せている人たちに違いない。そして演者としては、通

常の活動単位である神楽社を越えて、備中各地から評判の良

い太夫たちを集めて演じてもらっている。とくに「備中神楽

鑑賞会」の主要な演目では、「五十鈴会」と呼ばれる芸歴五

O年を越えるベテラン太夫の組織がすべての役を担当した。

さらには、単に神楽を見て楽しんでもらうだけではなく、著

名な民俗学者を招いての解説が付けられたり、神楽について

考えるシンポジウムなどを開いて、太夫・観客ともども備中

神楽に関しての理解を深めるという試みがある。同様の事例

は、今年から倉敷市などでも行われることが決まっており、

すでに一定の認知を受けているようである。

しかし研究者による「民俗文化財」の本質的理解からする

と、受け入れられないであろう点も多くある。こうしたイベ

ントが行われるのは、ほとんどが春から夏にかけてと、祭り

の神楽が行われる時期からは外れている。美術館のホ

l

ルや

観光施設内で行われるというのも奇妙な感じを与えるであろ

う。前に述べた太夫の構成も、通常は神楽社単位で活動して

いることを考えればおかしいと一吉守えるかもしれない。荒神の

式年祭でないにも関わらず、「荒神を迎える」儀礼であるは

ずの白蓋行事が行われていることは、象徴的にどのような意

味があるといえるのだろうか。さらに細かな改良点もある。

幕や衣装は通常のものは「派手すぎる」という理由で新しい

ものが用意されていたし、祭の神楽では使われない尺八の演

奏が加えられていた。演者の声はマイクで拡声されているし、

観客たちは入場料を支払い、椅子に座って鑑賞している。も

ちろん酒など飲むものはいない。

興味深いのは、こうした演出は、太夫たちの「文化財にふ

さわしいように」との意図からなされたものであるというこ

とである。これ以外にもこの鑑賞会では、通常の祭りのとき

以上に、出畑中神楽が国の指定を受けた文化財であることが強

調されている。この会の主催団体の一つである太夫たちの組

織は「無形文化財備中神楽保存振興会」という名称であった

し、解説者として招かれた民俗学者が、備中神楽がいかに貴

重な「文化財」であるかを熱心に語っている。この事例は、

太夫たちの「文化財」イメージのあらわれなのである。

はじめに紹介した植木(一九九四)は、「民俗文化財」とし

ての民俗芸能の本質として次の四点を挙げている。

①その担い手、演者その他がノンプロだということ。

②時と場所の限定性を持っているということ。

③目的は除禍招福にある。その基本は行うことにあり、鑑賞

はあくまで結果であるということ。

④連帯の育成強化の機能を持つこと。

この基準でいくと、いま紹介した「備中神楽鑑賞会」の事

例はほとんどこれにあてはまらないようだ。確かに備中神楽

54

の太夫はプロではないが、彼らは数十年間もこの道を歩んで

きた「玄人」である。少なくとも備中神楽に関する限り「素

人芸」など以ての外である。時と場所も、祭で見られる神楽

を正しいものとするならば外れている。この事例の目的は

「備中神楽鑑賞会」という名称を見てもわかるように鑑賞で

ある。この事例に全く「信仰」的要素がないとは言えないが、

極端にいえば、もし観客が一人もいなかったら、この公演は

中止になっただろう。

おそらく、植木は備中神楽とはかなり異なった形態の民俗

芸能を想定して、こうした基準を設けたのだろう。筆者もこ

うした基準にかなりよくあてはまる民俗芸能が現在も存在し

ていることは知っているし、備中神楽にしてもそれぞれの基

準を満たすような側面があることも知っている。したがって

こうした民俗芸能の理解の仕方が「間違った」ものであると

言うつもりは全くない。ただし、これらこそが民俗芸能の

「本質」であり、文化財保護法はこうした「本質」を変えな

いためのものであると考え、そこから外れるような実践を否

定するという態度は、あまりに狭量であると考えるのである。

「民俗文化財」をめぐるミスコミュニケl

ション

こうした研究者と実践者の意識のずれは、どうして生じた

のか。私はこれらを、「民俗文化財」の理念に対するそれぞ

れの理解の仕方に起因するものと考える。それは、「民俗文

化財」という表象を媒介として、研究者や行政が備中神楽を

どのように「見ようとしていた」のかと、備中神楽の実践者

たちがどのように自分たちを「見せようとしていた」のかと

いうコミュニケーションのすれ違いと捉えられる。「民俗文

化財」というコミュニケーションの「場」は共有されていた

にも関わらず、両者がそこに見出した意味は違っていたとい

うわけである。そしてそれは、「民俗文化財」という言葉そ

のものの理解のずれに端的に現れていると思われる。民俗芸

能研究者の多くが「民俗文化財」をどのように理解している

かについてはすでに検討した。ここでは、まず文化財保護法

の中での「民俗文化財」の意味を再検討した上で、備中神楽

の実践者たちが「民俗文化財」をどのように理解し、彼らの

実践に反映させていったのかを見ることにする。

- 55

(こ文化財保護法における

「無形文化財」の定義

現行の文化財保護法の条文には、「無形民俗文化財」の定

義は見あたらない門。しかしその上位範鴎である「民俗文化

財」については、はっきりと定義付けがなされているので、

それを検討することにする。「民俗文化財」の定義は以下の

「(無形)民俗文化財」と

通りである。

第二条コ一

衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民

俗芸能及びこれらに用いられる衣服、器具、家屋その他の

物件で我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのでき

ないもの(以下「民俗文化財」という。)

重要なのは後半部分であろう。とくに「国民の生活の推移

の理解のため」とあるので、一部特定の人々のものではなく、

特殊なものでもない、一般的・日常的なものを指していると

考えられる。そして、ここでは「美しさ」や「巧みさ」と

いった審美的な側面については全く触れられていない。さら

にいえば、「民俗文化財」の価値は、指定された対象そのも

のに内在するものではなく、そこに反映されている生活の様

式という、外在的要因によって認められているのである。こ

うした定義の意味するところは、たとえば次の「無形文化

財」の定義と対比的に見るとよくわかる。

第二条二

演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が

国にとって歴史上又は芸術上価値の高いもの(以下「無形

文化財」という。)

こちらははっきりと「芸術上」の価値、つまり審美的な価

値の高さを謡っており、ゆえに日常的・一般的なもの「以

上」の何かが認められなければならないのである。こうした

ことから、「民俗文化財」よりも「無形文化財」の方が価値

が高いものと考えられでも不自然ではない。

合己「民俗」という言葉、「文化」という言葉、

では、実践者たちにとって「民俗文化財」はどのような意

味を持っていたのだろう。こうした行政側が「民俗文化財」

に込めた意味は、「正しく」彼らに伝わっているであろうか。

これについて考えるときに非常に興味深いと思われるのは、

彼らがしばしば「民俗」という語を付さずに「備中神楽は

『文化財』である」という言い方をする点である。あるいは

「備中神楽鑑賞会」の主催団体でもあった太夫たちの組織の

名称が「無形文化財備中神楽保存振興会」であったことを思

い出して欲しい。こうした彼らの「民俗」という言葉に対す

るある種の無関心は、研究者が民俗芸能や民俗文化財の「民

俗」的要素の重要性を強調するのとは皮肉な対照を示してい

る。もちろん彼らは意識的に「民俗」という一一言葉を排除して

いるわけではない。むしろ意識的でないからこそ、この言葉

- 56-

の用いられ方には大きな問題が合まれていると考えられるの

である。

端的に言えば、「民俗」という言葉は、一般的にはどのよ

うな意味内容を表す言葉であるのかが不明確で、日常語とし

て認められているとは考えられない。研究者が「民俗芸能」

や「民俗文化財」の「民俗」という言葉を重視して、その定

義や基準を盛んに議論したとしても、そうした理解がそのま

まその担い手たちに受け入れられてはいないということであ

る。むしろ備中神楽が「民俗文化財」とされたときに、担い

手たちはより一般的に浸透している「文化」という言葉に強

く反応したと考えられる。「文化」という言葉、これもまた、

民俗学者や人類学者の議論の的である。とくに民俗学の分野

で「文化」という言葉は、「民俗文化」というような言い方

が違和感なく用いられるように、「民俗」とほぼ同様の意味、

つまりごく日常的な生活の様式

gaoご一色の意味で使わ

れることが多い。しかし日常語としての「文化」は、それと

は若干異なる意味で使われている。

日本語の「文化」という言葉には、二つの系統の語源があ

るようである。一つは、明治期の「文明開化」の略語として

のもの、もうひとつは翻訳語としての「文化」である。とく

に翻訳語としては、ドイツ語の同EE

円の訳語として定着し

てきたという経緯がある。この二つの用例に共通した意味内

容は、

①、「国民」の教化・啓蒙のプロセス

②、①の結果生まれる洗練された・高級なもの

という二点である。この意味で言えば、我々が生活してい

く上で体現する様々な無意識的な行為やその所産、これは

「文化」ではない。「文化」とは、意識的に作り出された、日

常的な価値以上の「特別」な価値を持つもの、という意味が

強いのである。これは先述した「民俗文化財」と「無形文化

財」の定義の棺違にも明らかに反映されているし、開和五

O

年の文化財保護法の改正の際、それまで「民俗資料」と呼ば

れてきたものが「民俗文化財」と改められた理由が「他の文

化財に比し価値の低いものという誤った印象を与えるおそれ

がある」(児玉・仲野、一九七九、二一五頁)ためであったとい

う経緯にも表れている。

こうした点を考慮すれば、備中神楽の担い手たちは「民俗

文化財」の指定が意味するところを、「無形文化財」に近い

形で解釈していったと考えることができる。次のような太夫

の語りに耳を傾けてみよう。

- 57-

僕はもうそろそろ、神楽のランク付けをしなきゃいけん

のじゃなかろうかと思うんですよ、太夫のね。それで将来

は、言うなればこれを人間国宝までにね、上りつめにゃあ

ならんと、そういうひとつの希望を持ったことを、目標を

もってね、いかせることが、子供のためにならんかという

ことを、私たち考えておるんですよ。

これから神楽で飯を食おうとするなれば、やはり今まで

の神楽はね、備中神楽、備中神楽でやっておったんです、

どの地方でも、そうでしょう。歌舞伎も一緒で、昔歌舞伎

だけだった、それがずっと進化してきてね、歌舞伎の中村

勘三郎とか、歌舞伎の中村歌右衛門というふうな、今度は

人聞を見るようになってきましたね。神楽も僕はこれでな

けりゃならんと思うんですよね。備中神楽の何の誰兵衛が

今日来るんだと、それなら行って見ょうじゃあないかと。

この太夫が「無形民俗文化財」の範鴎では「人間国宝」と

して個人が指定されることがないことを知っていたのか否か

はここでは問題ではない。むしろ、「民俗文化財」としての

備中神楽の価値は、個々の太夫の「芸」の洗練の度合いに帰

されるものとして理解されているということが大事である。

これは、「民俗文化財」の価値を「信仰」や「伝統的な生

活」といった外在的な要因でしか説明しようとしなかった研

究者の見方や文化財保護法上の定義よりも、民俗芸能の内部

にいる太夫たちにとっては受け入れやすいはずである。文化

財として認められた備中神楽の伝統的価値は、まさに彼らが

自らの身体で体現している「芸」そのものに内在するといえ

るのだから。こうして彼らの「伝承」意識は、研究者や行政

側の意向とはずれた形で強化されていく。さらに言えば、こ

うした理解は必ずしも「信仰」といった外在的要因と矛盾す

るわけではない。そこに見られるのは、「多くの人が見て喜

ぶものは、神様も喜ぶはずだ」という単純にして明快な論理

である。

こうした担い手たちの理解を体現したものこそが「備中神

楽鑑賞会」のような事例であることは言うまでもない。高度

経済成長以降、新たな社会関係のなかに再文脈化された備中

神楽は、自らその意味を模索し、外部に対して表現していか

なければならなかった。もちろん、こうした再文脈化の必要

性は、備中神楽に限らず多くの民俗芸能にもあったはずであ

る。その際、ある種の民俗芸能は「信仰」の面を強調して、

民俗芸能研究者好みのものに自らを作り上げていったかもし

れない。それもまた、外部に自らの価値を認めさせる戦略と

言えないこともないだろう。しかし備中神楽は、それ自身の

性格として「見る/見られる」という関係性に強く規定され

ていたという内在的な理由と、伝承地の社会変動がとくに急

激であったという外在的な理由の双方から、「芸」の巧拙と

いう、より他者の視線に聞かれた基準を採用し、洗練の度合

- 58-

いを増すことでその価値を社会的に承認してもらうという方

法をとった。備中神楽の太夫たちにとって、もっとも主要な

関心は彼らが自分自身の身体を使って具体的に演じるものと

しての「芸」である。したがって、たとえば「信仰」という

問題にしても、「信仰」によって神楽が説明されるのではな

く、神楽の具体的な「芸」の中で「信仰」が語られなければ

ならない。「民俗文化財」の指定も、研究者や行政の意向だ

けでなく、このように彼ら自身の実践の中で意味付けられて

いくものと考えられなければならないだろう。

玉、おわりに

民俗芸能を「伝承」するとは、どのようなことなのだろう

か。多くの研究者の言うように何か「本質的」な要素を見つ

けだし、それを次の世代に間違いなく引き渡すことなのだろ

うか。私は別の見解をとる。伝承とは、人々があるものを媒

介として、過去から現在、そして未来へという一連の時間の

流れの中に自らを位置づけるという全人格的なプロセスであ

る。人は自分のアイデンティティを確立するためにも、持っ

ている知識とアクセスできるリソースを最大限に利用して、

過去と未来との連続性を見出さなければならない。その際に

個人が動員する知識は、完全に社会的に規定されたものでは

ないであろうし、逆に完全に個人的に構築されたものでもな

いはずである。本稿で検討した事例に即して言えば、備中神

楽の太夫たちは、彼らの「伝承」意識を構築するために、

「民俗文化財」という枠組みは全面的に受け入れた。備中神

楽が「民俗文化財」であるという事実は、彼らの「伝承」意

識を強化するのに大いに役立っている。しかし、その「民俗

文化財」が意味する内容となると、むしろ自分たちの実践を

正当化するように大幅に解釈し直しているのである。つまり、

まず実践ありきで、それを後から説明するために「民俗文化

財」という与えられた権威を流用すると考えられるのである。

B

・ソl

ンベリl(吋ゴOBURM〉巴定)は、日本の文化財

保護法が民俗芸能に与えた影響を次のように述べている。

nwd

炉hυ

たとえ、かつて祭や芸能を生活の必要な部分としてあら

しめた信仰をもはや人々が抱いていないとしても、文化財

保護法は、芸能とは今やそれ自体で保護する価値のある伝

統であると見なされるように視点を変えることに成功して

きたように見える。ある意味で、伝統を守るということそ

れ自体が、文化財保護法によって支持された新たな信仰と

なったように思える。(一二七頁)

しかしこれはあまりに民俗芸能を担う主体を軽視している。

私の理解では、民俗芸能を行う動機は、「文化財保護」とい

う制度的なものに求められるものではない。「文化財保護」

という制度は、ある人々が自らの担うものの価値を説明し、

権威。つけるために用いられるリソースの一つにすぎないし、

だからこそ様々な解釈が成り立ちうる、そうしたものとして

存在すれば、それで十分な役割を果たしていると思うのであ

る。備中神楽の担い手は、「民俗文化財」という他者から与

えられた意味付けを、たとえ期待通りではないにしても受け

入れている。それに対して、彼らが彼ら自身の解釈に基づい

て提示した実践を、研究者や行政側が「間違ったもの」とし

て排除するなら、それはコミュニケーションの断絶(色∞nog-

5555

ロ)であり、そうした状況で「文化財保護」という

制度の意味や役割を考えることは無意味である。

現在、文化財保護政策は何度めかの転換期を迎えようとし

ているようである。一九九四年に出された文化財保護企画特

別委員会の審議経過報告「時代の変化に対応した文化財保護

施策の改善充実について」は、より広い観点からの民俗文化

財の位置づけがなされており、また近年では、これまでの文

化財の理念である「保存と活用」から、「継承と発展」とい

うよりダイナミクスを意識した理念への転換が図られている。

こうした傾向がどのような影響を及ぼすかは、まだ具体的な

活動としては見えてこないので何ともいえないが、「民俗文

化財」という制度を考える場合も、それを担う人々が、ある

ものを「伝承」しているという実感を獲得するのに、その制

度がいくらかでも寄与することがあり得るか、という点から

も見ていくことが必要であると私は思っている。人々は決し

て「文化財」を守るために、あるいは学者の研究材料として

民俗芸能を行うのではないのだから。

注山八木康幸(一九九五)はこうした数少ない成果の一つである。

間人類学者が「文化」を諮るときにこうした問題が存在したこ

とを、清水昭俊(一九九二)が指摘している。清水はそこで、

人類学者がこれまで対象としてきたのは、こうした「外的影

響」を捨象して策定した「民族誌的現在」であったと述べてい

る。八木康幸(一九九四)はこれをふまえて「民俗誌的現在」

もまた存在することを指摘している。

ω

ここで「変質」と「消滅」という一言葉を同列に並べたことに

ついて疑問を抱く向きもあろう。とくにこの「変質」という言

葉は、先述したおまつり法に関するシンポジウムでも大いに問

題にされたことであり、そこでは「変容」と「変質」という言

葉を使い分けて、司会の高橋秀雄が「芸能は必ず変容というも

のがあるわけですが、それはいい変容もあるし、悪い変容もあ

る。しかし、一番怖いのは変質ということである」(民俗芸能

学会、一九九三、八五頁)とし、以後、「変容はよいが変質は

いけない」という同意のもとで議論が進められている。しかし、

変容によい変容と悪い変容があるというならば、言葉の本来の

意味では変質にも同様なことが言えるはずであり、それにも関

わらず「変質はいけない」ということが素直に受け入れられて

- 60

しまっているところを見ると、この「変質」の「質」とは「本

質」の「質」であろう事が容易に恕像できる。つまり、本来恒

常的な性質である筈の「本質」が変化してしまうということ、

それはそのまま、「本質」が失われることと理解せざるを得な

・ν

凶かつての民俗芸能学代表理事の三隅治雄は、次のように書い

たことがある。

信仰を核とした伝承の地盤を戦後に失って足元を怪しくし

ていた各地の芸能は文化財保護という新たな地盤をえた上に、

研究者の強力な推挙の声をパックに、勇気を取り戻して足を

踏み直したのだが、ただ称揚の面がつよかったために、それ

を期に、これらの芸能は、何か取りすまして乱れない、行儀

正しい生きた歴史教科書といった感じのものに、みずからを

引き締めていった傾向が見える。芸能の伝承の側面には、狼

雑・街気・狂気・浮気・放持・煽・暴力・闘静・排他・差別

などの要素が混在し、それが芸能の興奮や緊張をたかめるカ

ともなっていたはずだが、それらが押さえられ、かつて土地

の酔狂者や暴れん坊が帽を利かした演じ手が、いまは文化財

保護の聖職者のような迎えられ方をするようになれば、これ

は芸能伝承の大きな変貌である。(三隅、一九九四、一

O

頁)

間以下の議論は、橋本裕之(一九九一二)および福島真人(一九

九五)に多くを負っている。

刷筆者はこうした観点から、「見る/見られる」という関係を、

「見る/見せる」という関係に置き換えようと意図したが、す

ると今度は、相互の主体的な側面ばかりが強調されているとい

う誤解を与える恐れがある。したがって本稿においては、比較

的一般的に使われている「見る/見られる」という関係性を、

ここに書いたような譲歩を持たせた上で使っている。

間この号の特集のテ

l

マは「民間特殊の演劇」(傍点筆者)で

ある。

剛ここでの、備中神楽の「どこ」が文化財として指定されたの

か暖昧であるとの指摘は全く正しい。筆者自身、同じ質問を文

化庁の文化財調査官にしたことがあるが、やはり暖妹な答えし

か返ってこなかった。ただし、この「唆昧さ」こそが、担い手

の自由な解釈により新たな実践を産む要因ともなっているので

ある。

川四本稿の文脈にあわせれば「『見る/見られる』という関係性

に規定されている」ということになる。

側これは全国的に見ても、きわめて早い例であったと思われる。

中村茂子(一九八九)参照。

ω

以下、備中神楽の文化財指定の経緯については山根堅一(一

九六五)を参照した。

ω

この大阪万博に出演したという話を太夫の一人から開いたが、

筆者が後に万博の「お祭りステージ」のプログラムを調べたと

ころでは、備中神楽の出演は確認できなかった。もちろん「お

祭りステージ」以外で演じたということは十分考えられる。筆

者には万博への出演が観光神楽の契機となったと断一吉一目する確信

はないが、観光神楽が見られるようになったのはこのころから

であるということでは多くの太夫の意見が一致している。

回筆者はこうした幕に「国指定重要無形文化財」と書かれてい

る例(「民俗」という言葉が抜けている)を一度ならず見たこ

61 -

とがある。こうした例は後の議論との関連からも興味深い。

凶「無形民俗文化財」の指定の基準については、文部省告示第

一五六号に明記されている。そのうち民俗芸能の指定基準につ

いては、ω芸能の発生または成立を示すもの、ω芸能の変遷の

過程を示すもの、ω地域的特色を示すもの、となっている。

回同様に担い手たちは備中神楽が「民俗芸能」であるという一百

い方もあまりしない。むしろ「郷土芸能」「伝統芸能」「地域芸

能」などという言葉を使うが、これらも意識的に使い分けられ

ているわけではない。

側以下、「文化」という語の日本での受容のされ方については、

西川長夫ご九九五)の議論を参考にした。

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SEJd巾のE-E同弘司可。宮門宕印刷》円

CZESEd匂

曲目ι官官8.回司O野県民。口百日間〉江田3b伺tfH器、qS目色、mMW忠弘巳何師、日

lN

付記本

論文は、民俗芸能学会平成八年度大会(於園事院大学たまプ

ラl

ザ校舎)および第三一回日本民族学会研究大会(於国立民族

学博物館)での口頭発表に基づいている。発表・論文作成にあ

たっては、千葉大学の中村光男先生にご指導いただいた。また、

国立歴史民俗博物館の橋本裕之氏には多くのご教示をいただいた。

発表の際には数々の示唆に富むコメントをいただいたが、ここで

その意をどれほど酌めたか、甚だ心許ない。最後に、調査にあっ

たってお世話になった全ての方々、とくに太夫の藤原国孝氏に感

謝する。

63 -

編集委員会

入江宣

上野

門屋

神田

後城酒鈴高武山茂松福中

路井山木井所藤木尾原村

子誠昭

より子淑子子山

田市

茂弘造

エルニl

ニヨの影響からか、暖冬が予想さ

れております。自然の影響は大きく、夏は暑

く冬は寒くないと企業活動に支障がでます。

金融機関の大型倒産が続き、日本経済は大恐

慌寸前とマスコミがはやし、小金を持った庶

民は不安にかられて預金を引出しに金融機関

に押しかけています。預金を全額保証すると

いう政府の発表を庶民は信じていないからで

しょう。消費税率を引き上げて以後、急速に

経済状態が悪化して、まさかこういう時代に

なろうとは、考えもしませんでした。

八十年代に大いにもてはやされた企業の文

化活動支援事業、メセナ‘などは、今日では死

語となってしまいました。

文化や学問研究は、経済的にも安定した時

代に花開くもので、今日の大不況が続く限り、

研究や学問には逆風が吹き続くでしょう・し

かし、逆境にあるからこそ、研究の新しい意

欲と芽が生まれてくるのではないでしょう

品H

残念ながら、本号は三ヶ月の遅れを出して

しまいました。こういう時代こそ学会紀要の

着実な刊行が求められているのですが、叶い

ませんでした。しかし、朗報もあります。徐々

にではありますが、お蔭様で研究論文を投稿

してくださる会員が増えてきました。学会の

光正正恵奥正恒敏茂

栄一男子

発援にとって有難いことです。ただ投稿され

た会員にとっては、内容傾向や文字分量、編

集委員会による査読結果によって、次号送り

や改稿などの措置をお願いせざるを得ない状

況があり、無理な負担や不快な思いを感じら

れることがあるかと想像します。しかし、編

集に限らず、委員一問、労カ・時間を割いて、

時には交通貨・通信費の自腹を切って、学会

を運営しております。

どうぞ裏方の普労をご賢察いただき、今日

のような研究環境の逆風下にあればこそ、学

会に対する会員各位の主体的かかわりをお願

い申しあげます。{茂木栄)

守指値んEき i茸民3 襲刷話交 行集

雲脚芸早 民 月一

i= 千l 里三 路山能 書白書1 ・キム 学ーピ一 興4123 一造会

ISSN 0911 ・ 4564

民俗云能研究第 25 号

論考

花祭りの信仰圏

一一小林の花祭り文書を史料として一一 ...・ H・..中村茂子( 1 )

シッキムクッの芸能性…H ・ H ・-…....・ H ・.....・ H・..野村伸一( 18 )

民俗芸能の実践と文化財保護政策

一一備中神楽の事例から一一...・H ・ H ・ H ・..………俵木 悟( 42 )

研究ノート

山形県温海町山五十川の山戸能と歌舞伎について

一一式三番を主として一一...・H ・.....・ H ・....・ H・-五十嵐文蔵( 64 )

書評

松戸市立博物館調査報告書 1

『千葉県松戸市の三匹獅子舞] ...・ H ・-… ....0 ・ H・..入江宣子( 83 )

三匹獅子舞主要研究文献目録.....・H ・ H ・ H ・.'..,・ H・-・大村達郎 C 9メ )

平成 9 年 9 月

民俗芸能学会