サイバネティック・セレンディピティ~システムの時代と芸術の未来 cybernetic...
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サイバネティック・セレンディピティ~システムの時代と芸術の未来
Cybernetic Serendipity: An Era of System and Future of Art
森 岡 祥 倫
MORIOKA Yoshitomo
■1960 年代の咆哮から
フランス全土でのゼネストを火種に、パリからボン、フィレンツェ、そしてローマへと飛び火したいわゆる五
月革命が、その余熱をまだヨーロッパの各地に放っていた 1968 年の 8 月 2 日、ロンドンの ICA(Institute of
Contemporary Arts 現代芸術研究所)、通称ナッシュ・ハウスでは、美術展とも産業見本市とも区別のつかない
風変わりな展覧会が口火を切ろうとしていた。展覧会の名前は〈サイバネティック・セレンディピティ Cybernetic
Serendipity〉。日本では 40 年近くのあいだ訳語をあてて紹介された形跡がない。あえて直訳すれば「自動制御
学的偶察力」。むろん、イギリス人にさえ主題だけでは何のことだかわからない。これには「アートとコンピュー
タ」いう副題が添えられている。企画者は、当時 ICA でアシスタント・ディレクターの職にあったヤシャ・ライ
ハートという女性で、日本の近・現代美術にも造詣が深く、同年 12 月から翌年 1 月にかけて、〈現代日本美術展
~蛍光の菊 Fluorescent Chrysanthemums〉展を ICA で開いた。河口龍夫、岡崎和郎、矢崎勝美など多くのア
ーティストとデザイナーが出品し、グラフィック・デザイナーの杉浦康平が会場構成を担当。日本の美術、デザ
イン、映像、音楽の状況を、戦後のヨーロッパにはじめて披露する機会となった大規模なアート・イベントであ
る。
ライハートは、ICA の刊行物や自身の著作[★1]をはじめ、今日にいたるまで各所で<サイバネティック・セレ
ンディピティ>の解題となる文章を書き、その意義を述懐する講演もたびたび行ったが、この独創的な展覧会に
よって彼女が示したかった芸術の未来とは、つまるところ次のように要約できるだろう。
芸術表現という観念に久しくつきまとってきた作者個人の感情や経験則を拠りどころとせず、コンピュータの
ような外在的装置ないしは機械システムに創造過程を委ねること…そして、表現者とってのこうした新しい役割
を、世界的な潮流として立ち現れつつあったコンピュータ・アートの啓蒙として描きだす、それが<サイバネテ
ィック・セレンディピティ>の第一義的な目的であった。芸術表現の起点を、個人の精神世界の内奥から、他者
との関係性や社会環境といった外部へシフトさせることは、戦後に台頭する様々な前衛芸術運動に共通して見出
される特徴のひとつである。しかし、〈サイバネティック・セレンディピティ〉は、そうした価値観の変化や拡張
にまつわる観念を、同時代の芸術に関わる人々だけが理解できるテーマとして扱うのではなく、サイバーネーシ
ョンの時代、つまり社会の隅々に各種の情報機械が配置され、人間の意志や判断を代理する時代に生きることの
意味としても問おうとした。また、それらの機械が、18 世紀以来の内燃機関(エンジン)に象徴されるような、
物質からエネルギーへの変換とはまったく異なる機能と原理を備えることをも示そうとする。この展覧会を特徴
1
づける第 2 の要因である。
ヤシャ・ライハートと〈サイバネティック・セレンディピティ〉図録
アメリカの工学研究者ノーバート・ウィーナーが 1950 年代に提唱したサイバネティックスは、生物・非生物
を問わず、自身を取り巻く環境からの情報と過去のデータをもとに、統計学的な計算手法によって未来の状態を
予測するという、現代の情報学やコンピュータ・サイエンスの礎のひとつを成す工学理論であり、60 年代には、
機械工学への応用のみならず人間の感覚や行動、そして社会と文化のあるべき姿を探求する他の分野の研究者に
も受け入れられ、心理学、生物学、気象学、経済学、社会学、都市工学等々、多くの学問領域で旧来の知識体系
を情報理論の観点から再解釈する試みが登場する。〈サイバネティック・セレンディピティ〉もまた、その機運に
芸術の側から乗じる試みであったとみることはできる。
生活世界に潜むなんらかの真実にたいして、サイバネティックな手続きをもって触知可能な姿を与えること、
それこそが情報化社会に生きる人間、すなわち芸術家の基本的な使命となる…情報化社会の芸術を再定義しよう
とするこのような見解は、1960 年代後半の現代美術に関わる人々にとって、実はさほど特異な考え方ではなか
った。たとえば、アメリカの美術評論家ジャック・バーンハムは、1967 年、『近代彫刻を越えて: 今世紀の彫
刻における科学とテクノロジーの効果』[★2]と題する現代彫刻論を発表し、ボッチョーニやブランクーシなど世
紀前半のモダニスト・アートの造形原理にはじまり、1960 年代のキネティック・アートにいたる 20 世紀彫刻の
歴史を、科学技術の様々な傾向、とりわけ「システム」という視点から検証している。
ノーバート・ウィーナー ジャック・バーンハム
では、そもそも 20 世紀後半の世界にとってシステムとはいったい何だったのか、史実をいくつか再確認して
みよう。とりわけ、日本で大阪万国博覧会があった 1970 年前後は、世界経済が本格的なグローバル化時代へ突
2
入する直前にあり、公害問題の拡大やオイル・ショックなど、それまでの近代産業社会が経験したことのない出
来事が次々と起きている。なかでも、経済・金融情報のグローバル化の契機という意味では、1971 年8月のニ
クソン・ショック(金ドル兌換停止)がもたらした効果は大きい。世界の基軸通貨として固定レートを維持して
いたドルが、変動相場制に移行する。つまり、第一次世界大戦で通貨システムの危機を経験したヨーロッパの諸
国がとうの昔に放棄した金本位制(金の国家保有が貨幣の交換価値を保障)を、ようやくアメリカも実質的に見
限ったのである。これによって、金という物質が、高価で化学的安定性の高い希少金属以上の価値を持たなくな
ったばかりでなく、為替レートの変動が新たな価値を生む、つまりは世界経済の変化を大前提とする「情報商品」
が創出された。
となれば次に必要なのは、大飢饉であれ地域紛争であれ、ときには無差別テロであれ、為替相場の変動を含む
世界経済のダイナミズムに関与する要因について、その情報をいち早く手に入れるための手段である。まさにこ
のころ、国防用情報回線の強化を目的に、全米各地の軍事基地や軍事研究機関を結ぶ世界初のコンピュータ・ネ
ットワーク ARPA-NET(アーパネット)が完成する。インターネットの直系の先祖ではないが、そこで
培われたデータ通信の交換規約(プロトコール)を基盤技術として、今日、クレジットカードの決済やネット・
バンキング、国際ディーリングなどが行われているのである。情報システムの利用者しか知りえない、事物とし
ての商品の存在ではなく、特定の価値(通貨や株価)どうしの差異によってのみ成り立つ、もうひとつの世界経
済がこの時代に生まれた。
バーンハムは先の著作のなかで、そうした社会に生きることの意味を、より身近な例で説明している。自動車
という工業製品は、ほぼ半世紀ちかく、人々が社会的ステータスを獲得するための特別な財として機能してきた。
けれども、高度に成長した消費社会において自動車を買うという行動は、もはや財としての工業製品=物の所有
を意味するだけでなく、道路網や各種の保険、車に関わる無数のサービスなどを含む公的な交通システムの利用
許可を、対価を支払って手に入れることに他ならない。バーンハムによれば、ここでの物とは、交換や蓄積が可
能な資産としての物品を指すと同時に、「連接的な生産システムのなかで代替可能なひとつのコンポーネント」[★
3]である。だから物の所有者は、生産と消費のネットワークの内部で、次々と布置を変える情報生成の特異点と
化すのである。日本の現代社会でいえば、携帯電話がそれにあたるかもしれない。例えば、この小さな情報ツー
ルを紛失したときに感じるのは、かけがえのないモノが消えた遺失感ではなく、システムやコミュニティとの切
断による孤立感なのではないか。まさにその感覚こそが、サイバネティックな世界をセレンディピティによって
捉えるということの内実である。
■〈サイバネティック・セレンディピティ〉の概要
出品者と協力者を含む 325 名の人間がかかわり、6500 平方フィートに及ぶ ICA のナッシュ・ハウスに延べ 6
万人の観客を動員した〈サイバネティック・セレンディピティ〉、そこでは実に多彩なジャンルの作品や製品が展
示された。グラフィック、彫刻、音楽、詩、映画など、何らかのかたちでコンピュータやエレクトロニクス技術
を使った作品が、世界各地から集められた他、IBM 社などの情報産業界も、コンピュータの可能性を PR する映
画やハードウェアを出品している。以下、展覧会の概要をいくつかのカテゴリーにわけて紹介する。
3
会場風景、右端の台座上の作品はティンゲリーの《絵画機械--メタマティック》
1.マシナリー・ペインティング
同展に出品された《絵画機械--メタマティック》シリーズ(1959~)は、比較的小振りながらジャン・ティン
ゲリーの思想を凝縮した作品である。マシナリー・ペインティング(機械に絵を描かせること)への憧憬は、画
布と絵筆という特権化された道具と、絵画芸術の伝統そのものに対するアレゴリーとなって、世紀初頭のモダニ
ストはもちろん、数多くの芸術家の発想に影響を与えてきた。
イワン・モスコヴィッチの《ペンジュラム・ハーモノグラフ》(1951~)は、二つのペンジュラム(多分岐振
り子による描画装置)の運動を結合し、振動合成から生じるリサジュー波形を、片方の振動肢の途中に設置され
たパネル上に描きとる装置である。各振動肢の長さ、支点相互の距離、振幅と周期などの調整によって、通常の
振り子では描きえない複雑な図形を生むことができる。モスコヴィッチはテル・アヴィヴ科学技術博物館のディ
レクターを務め、ハーモノグラフは同館に現在でも展示されている。
マンチェスター大学の D・P・ヘンリーによる《ヘンリー・ドローイング・コンピュータ》は、機械式のアナロ
グ・コンピュータ。直交 2 軸のサーボ・モーターを動力として、ペンを保持するアームが焦点座標の変化する楕
円を描き、描画用の紙を置いたテーブルの動きにつれてこの楕円がしだいにシフトし変形する。ちなみに、生成
するイメージは、カオスのシミュレーションにみられるストレンジ・アトラクターの図形に似ているが、両者の
あいだに数学的な直接の関連性はない。
2.コンピュータ・ポエトリー
現代の人工知能モデルにみられるような意味論レベルのアルゴリズムではないが、初歩的な生成文法理論やラ
ンダム・サンプリング、あるいは統計/確率論の手法を用いた、コンピュータによる詩作、テキスト生成の試み
4
が数多く示された。
ウィーン高等研究所のマルク・エイドリンによるタイポグラフィックな具体詩、ケンブリッジ大学のマーガレ
ット・マスターマンとロビン・マッキンノン・ウッドによるコンピュータ俳句、そしてナンニ・バレストリーニ
は、たがいに関係のない三つの文学作品の引用から、第 4 の文脈上にまったく新しい文章を生成させる自動書記
のプログラムを実演公開した。モントリオール大学計算センターのジャン・ボードは、数千語の辞書とフランス
語の基本的な文法をコンピュータに入力し、毎秒 200 のナンセンスな文章を高速で出力させ、グラスゴー大学の
エドウィン・モーガンは、コンピュータ・プログラムのダンプ・リストにおけるデータとパリティ・チェックの
関係を模したアナグラム的な構成詩を発表している。
マルク・アドリアン《CT 2》1966
偶然性や逆に任意の規則性の外挿によって自然言語の文法を破綻させ、テキストの表面に思いがけない文字の
戯れが生じるさまを楽しむという趣向は、マラルメの『骰子一擲』(1897 年)やアポリネールの一連の詩作によ
って、19 世紀末から広く知られた近代文学のマナーである。また、シュルレアリストやダダイストは、そうした
無意識の言語編集という詩的言語の革命を、20 世紀の前半に美術の世界へと導いた。したがって、以上のような
テキスト自動生成の試みは、コンピュータのレジスターやメモリーというディジットな言語空間で、かれらの行
った実験の有効性を追試する作業とみることができる。もっとも、分析哲学や情報理論の導入によってコンピュ
ータ・ポエムへのストレートな導線を引いたのは、スイスのオイゲン・ゴムリンガーとブラジルのノイガンドレ
ス派の詩人たちが 1950 年代中頃にはじめた具体詩(コンクリート・ポエトリー)の国際運動である。評論家清
水俊彦の説明[★4]によれば、人間の言語活動を意味/音声/視覚の三位一体と捉え、マックス・ビルの造形作品
やアーノルド・シェーンベルクの十二音技法の音楽などとの関連を強調する、ノイガンドレス派の 1958 年の宣
言書『コンクリート・ポエトリー試案』には、次のような一節がある。
「言葉によらないコミュニケーションの助けを借りる。コンクリート・ポエムはそれ自体
の構造を伝達する。構造=内容である。コンクリート・ポエムはそれ自体がそれ自体に
よるオブジェであり、外部のオブジェや多少とも主観的な感情の翻訳者ではない」。[★5]
ここでの「構造=内容」とは、言いかえれば、詩というメディアには、自らが自らの新しい形を生むオート・
5
ポイエーシスの原理が、本質的にジャンルを超えて備わるということであり、この観点こそが、コンピュータ・
ポエトリーの実験を支えるコモンセンスとなっている。具体詩の試みが、美術の文脈で言われるパピエ・コレや
アッサンブラージュに似た視覚詩(ビジュアル・ポエトリー)を伴って世界各地に展開したのとおなじで、コン
ピュータ・ポエムはそのままコンピュータ・グラフィックであり、コンピュータ・ミュージックともなる。
3.オプト=キネティスム
〈サイバネティック・セレンディピティ〉では、狭義のライト・アートやキネティック・アートの出品は意外
に少ない。しかしロボティクスという視点では、ナムジュン・パイクの《ロボット K-456》やブルース・レイシ
ーの《ROSA の胸中》(1965)(元々はパフォーマーと競演するインタラクティヴな反応ロボットとして制作され
た)などがあり、マイクロフォンや光センサーを通じて周囲の環境からの情報を収集し、自立的に運動や形態を
変化させる屋外彫刻、ニコラス・シェフェールの《CYSP 1》(1966)も模型が紹介されている。
ナムジュン・パイク《ロボット K-456》 ニコラ・シェフェール《CYSP 1》
フランク・マリナは、この展覧会のあった 1968 年にアメリカで創刊されるアート&テクノロジーの専門雑誌
『レオナルド』の主宰者のひとりだが、1955 年頃から一連のオプト=キネティックな作品の制作に手を染め、同
時に、実作者の立場からキネティスムの理論的な研究を展開した。出品された《アントルシャ II》(1966)は、
鏡や金属をはじめとする各種のリフレクターを回転させ、ランプからの光の反映を変幻万化に変容させる単純な
仕掛である。マリナがこのライト・アートのシリーズを制作しはじめた 1950 年代の後半には、デュッセルドル
フではオットー・ピーネとハインツ・マックがグループ・ゼロを結成し、例えば 1959 年に彼らが開いた展覧会
〈古代の光のバレエ〉では、会場の壁面や天井に色光を投影するだけというように、純粋素材としての光や色彩
を強調する作品を次々と発表している。この頃ヨーロッパ各地に現われた新傾向派に共通する主張、つまり、芸
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術表現の素材そのものの存在感を希薄にすること、あるいはその究極の地点では無化することによって、環境に
向けて解放された芸術の新しいポジションを創造しうるのだという思想が、マリナやグループ・ゼロの作品にき
わめてミニマルな外見をまとわせたのである。
4.プログラムによるコレオグラフィー
日本では、過去にも現在にもそうした手法を選ぶ芸術家はきわめて少ないのだが、ヨーロッパやアメリカのコ
レオグラファー(振付家)の中には、コンピュータの指示に従ってダンサーの動作やフィギュールを決定すると
いう、特異なダンス/パフォーマンス作品を制作する人たちが何人か存在する。ただし、とくに戦後のモダンダ
ンス・シーンに特徴的な方法論であるわけではなく、ダンサーの身体を自己表現への強固な意志や訓練の時間か
ら引き離し、むしろ機械の動作のように外的に操作するという考え方は、表現主義演劇やバウハウスのオスカー・
シュレンマーが演出したバレエ、さらにはバスター・キートンの映画演出など、パフォーミング・アートの様々
な領域に拾うことができる。
ジャンヌ・ビアマンは、ピッツバーグ大学コンピュータ/データ処理センターの協力を得て、1964 年からコ
ンピュータ・ダンスの研究と上演を行なってきた。初期の作品は、コンピュータがテンポ、動き、方向の三つの
指示をランダムにダンサーへ与えるという素朴なシステムであったが、1966 年頃からはデュエット以上の人数
にも対応し、各ダンサーの位置決めや、より細かな動作指示---例えば、ステージ中心で群をなせ、時計回りの回
転運動をせよ、等々---をも決定できるようになった。他にも、イギリスのアン・ハッチンソンをはじめ、同時期
にコンピュータ・コレオグラフィーの実験に着手した芸術家は多い。
もっとも、近年ではこうした人間機械論的な発想にもとづいて、しかも表現内容への直接的な関与を目的とす
るコンピュータ演出の方法論は、世界的にみてもその役目を終えた感がある。しかし、例えばドイツの演出家ウ
ィリアム・フォーサイスは、相互に関連づけられた膨大な量のマルチメディア・データとして自身の過去の演出
記録(ビデオ)を整理し、それを参照することによってダンサーやコレオグラファーが新しい運動のフォルムを
着想する、いわばコレオグラフ・データベースをドイツ、カールスルーエの ZKM(芸術メディア・テクノロジー
のセンター)と共同で制作したことがある。これは、記憶の鏡としてコンピュータ技術やマルチメディアを利用
する試みであり、先の 1960 年代的な発想に比べるとより親和的で洗練されたコンピュータ支援のあり方を提案
していると言えよう。
5.エレクトロニクス時代のヒエログリフ
1990 年、ニューヨーク近代美術館で開かれた〈インフォメーション・アート〉展[★6]は、集積回路チップに
刻まれたミクロの電子回路パターンを、モンドリアンのコンポジションよろしくそのまま大型のタブローとして
即物的に再現提示する風変わりな展覧会であった。普段は人の目に触れることのないままに、しかし情報化社会
を潜勢して支配するエレクトロニック・ヒエログリフ。この読解不能のテキストを、絵画作品として人の視線の
前にさらけ出し、技術文明の表象に正対しようとする新しい絵画の意志は、すでに〈サイバネティック・セレン
ディピティ〉でも見ることができた。IBM のマシンの無機的で静謐な形態を、油彩の技法で忠実に再現するロー
ウェル・ネスビット、トランジスタ式計算機や集積回路パターンの見せる構成主義的な表情を、アクリル絵具の
鮮やかな色彩で写し取るスウェーデンの画家ウーラ・ウィッゲン、これらのアーティストの仕事は、高度化した
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情報産業社会への醒めた冷徹な視点を、ポップ・アートの支脈に加えることになった。
ローウェル・ネスビット《IBM1440》1965
6.電子音楽
コンピュータによる電子音楽の最新動向を紹介する展示としては、エンジニアで作曲家のペーター・ジノヴィ
エフのスタジオから機材が会場に持ち込まれ実演が行なわれている。ジノヴィエフは、伝統的なアコースティッ
ク楽器はもちろんのこと、録音テープを用いるミュージック・コンクレートやアナログ・シンセサイザーを用い
た電子音楽とも決別し、デジタル・コンピュータによる作曲/演奏プロセスの徹底した自動化を目指していた。
コンピュータ・ミュージックの歴史は、1955 年にアイザックソンとヒラーがイリノイ大学の大型コンピュータ
ILLIAC 上で、モンテカルロ法やマルコフ連鎖といった確率論のアルゴリズムを用いて行なった作曲理論研究に始
まるとされるが、ジノヴィエフは、そうした数理学的なアプローチとは別の方法をとっている。つまり一種の図
形楽譜ともみなせる独自のヴィジュアル・スコアから、音色、波形、音量などのデータを直接デジタル・コンピ
ュータへ読み取る実験を行なっていたのである。こうしたパラメトリックなデータ入力装置のアーキテクチャー
は、現代の一般的な音源モジュールの波形編集のプロセスやミュージック・シーケンサーの祖形とも呼べるもの
である。
ペーター・ジノヴィエフのスコア
7.コンピュータ・グラフィックスとその産業利用
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産業利用の分野では、コンピュータ・グラッフィックスの語源ともなったボーイング社の CAD システムによる
画像が出品された。当時ボーイング社では、研究者のウィリアム・フェッターが管理する CG の専門部門に IBM
の最新鋭機 7094 を導入し、操縦室内の機器レイアウトに関する人間工学的な分析や、空港の設計、フライト・
シミュレーションなど種々の主題に基づいて実際的な研究が行なわれていた。つまり、これらのワイヤー・フレ
ーム(線描)画像は、コンピュータ・グラフィックスの可能性を探るといった類いのヴェンチャー的試行の副産
物などではなく、シアトルのタコマ空港の設計や 1968 年に就航した短距離ジェット旅客機 B737 の開発過程か
らの、直接の成果物なのである。展示ではプロッター画に加えて、映画フィルムによる動画も公開されている。
ボーイング社、フェッターらによるシミュレーション画像
産業応用の分野では他に、ペンシルヴェニア大学の放射線学部が開発した「サイダック Cydac」がある。これ
は顕微鏡カメラや写真プリントから画像をデジタイズし、最大 4 万画素のデータに対して各種の画像処理を施す
ことができる医療・医学研究用の画像処理システムで、展示されたのは、処理済みのデータを文字や記号の組み
合わせで濃度表現したハードコピーであった。また、IBM 社からは 6 台のコンピュータが提供され、サイバネテ
ィックスの歴史を視覚的に総覧する電子ガイダンス・ツールとして使われた。この種の情報システムの活用自体
が、展覧会の新しい運営技法として最先端の事例となった。これらの応用例からもわかるように、コンピュータ・
グラフィックスの産業利用についてのプロットは、1960 年代末にはほぼ完成していたのである。
以上に仕分けたカテゴリーは、あくまで便宜的なものすぎす、ギャラリーに入った観客は、一定の順序で作品
や展示品を継起的に鑑賞させられたりはしない。それどころか企画者たちも、魔法機械の迷宮にさまよい込んだ
子供のような高揚感を観客に与えたいと期待していた。共同企画者のひとり、エンジニアのマーク・ドーソンが
構成を担当した解説パネルには、どれが芸術家の作品でどれが企業の製品なのかを区別する指標のようなものは
ない。コンピュータ生成の実験的な具体詩と機械装置の解説テキストとのあいだにも、あえてデザイン的な差別
化は図られなかった。それは、次のような企画意図を証し立てている。
「サイバネティック・セレンディピティはいわゆる芸術作品の展覧会でも、テクノ遊園地でも、主義主張の宣
言でもない。基本的にそれは、サイバネティックスと創造過程を結びつけようとする現代の様々な思考、行為、
事物の自己表明であった」。[★7]
なお、実際の展示空間の構成デザインは、共同企画者のフランチスカ・テマーソンが行なった。
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■エクスプロラトリアムへ
〈サイバネティック・セレンディピティ〉がロンドンだけでなくアメリカの各地を巡回したことは、あまり知
られていないのではないだろうか…ワシントンとサンフランシスコの 2 箇所にすぎないが。とくにサンフランシ
スコの科学博物館エクスプロラトリアムでの展示は、同館にとっては無論のこと、アメリカにおけるアート&テ
クノロジーのシーンにも、大きな効果を与える結果となった。
1969 年、物理学者のフランク・オッペンハイマーによって開設されたエクスプロラトリアムは、現在では、
知的な好奇心を満たしてくれる観光スポットとして人気の施設となっている。そして、観光客にとっても科学博
物館の専門館にとっても、その独自性は、「知覚のミュージアム」と「アーティスティックな雰囲気」という 2
つの要素によって決定づけられるだろう。実は、この後者の方向に同館を向かわせたのは、ワシントンでの展示
を見て、その内容がエクスプロラトリアムのコンセプトにふさわしいと判断したスミソニアン研究所の職員であ
った。連絡を受けたオッペンハイマーは、自分の目で展覧会を確かめたうえで、アメリカ国内のツアーにエクス
プロラトリアムを入れるための交渉に入った。ワシントンでの総ての展示品がサンフランシスコに輸送され、
1969 年 10 月 2 日、エクスプロラトリアムは〈サイバネティック・セレンディピティ〉を同館の正式の開館記念
展覧会として迎え入れたのである。オッペンハイマーの目には、IBM 社などの協力を得てコンピュータやロボッ
トをはじめとする各種の情報工学関連の工業製品が展示され、種々の対話的機能が観客の前に披露され、そして
それらの装置を用いたアーティストたちの芸術作品が共存するこの展覧会は、彼の考えていたエクスプロラトリ
アムの理念をほぼ完璧に具現化したものとして映った。
当初の計画では 6 週間の会期を予定していたが、市民の評判があまりによかったため数回にわたって会期延長
を繰り返し、最後の展示品がイギリスに帰っていったのは 1971 年の 10 月であった。そればかりか、いくつか
の展示品はエクスプロラトリアムのパーマネント・コレクションとして購入または寄贈され、それらの一部は今
も観客への展示に供されている。また、あるものは将来の展示物設計のための参考としても使われた。例えば、
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もともと《ペンジュラム・ハーモノグラフ》と題する作品(イワン・モスコノヴィッチの制作による)は《ドロ
ーイング・ボード》と改名のうえ規模を縮小して再現され、現在もエクスプロラトリアムの代表的な展示物とし
て活躍している。このようなコンテクスト変形によって、〈サイバネティック・セレンディピティ〉の展示物の多
くが、エクスプロラトリアムを経由し、世界各地のミュージアムに伝播していった。
エクスプロラトリアムの歴史と特徴を研究したヒルデ・ハインは著作の中で、〈サイバネティック・セレンディ
ピティ〉に出品された“作品”の多くは、それらを産み出した「機械というものに対する姿勢が、芸術よりは伝統
的な科学の観点に近く、機械装置をたんなる道具、ないしは脅迫的な敵対者と見なすのではなく、むしろ協調的
な共作者として扱っている」[★8]と書いている。このような見解は、アート&テクノロジーという思潮をめぐる
当時の好意的な姿勢を代表するものでもあった。
エクスプロラトリアムにとってのアートとは、最初期の段階では展示品のデザイン的な側面を補う手段にすぎ
なかったが、〈サイバネティック・セレンディピティ〉の成功以来、いくつもの展示品が芸術家の主導的な役割に
もとづいて制作されたり(1974 年から滞在芸術家制度を制定)、テクノロジー・アートの作品がそのまま展示品
として公開されるケースも現われるようになった。例えば、《エイリアン・ヴォイス》をはじめとして、音楽の発
生の原点を垣間見させる数々のインタラクティヴ・サウンド・インスタレーションで有名なポール・デマリニス、
ビデオカメラが捉えた観客のイメージを、デジタル・コンピュータの画像処理で虹色のシルエット像に変換して
スクリーンに投影する《レインボー・エコー》の作者エド・タネンバウム、ともにエクスプロラトリアム客員芸
術家の経歴を持つサンフランシスコ在住のアーティストであり、両作品は現在も常設展示されている。
●評価と課題
この展覧会に対する社会的な評価はどうだったか。2 ヶ月半の会期中、イギリス国内のメディアはもとより、
ワシントン・ポストをはじめ世界各地の新聞や雑誌が好意的な記事を掲載した。ライターとしてスタートをきっ
たばかりのウンベルト・エーコも、イタリアの大衆誌に評論を寄せている。[★9]
その一方で、出品作家のひとりロバート・マラリーは、意外にも冷やかな批判を加えた。「電子工学とコンピュ
ータ・アートを宣言し、ドラマチックに演出するという点では非常な成功をおさめたものの、芸術とサイバネテ
ィックスとのあいだの真の連接関係を明瞭化するまでには及ばなかった」。[★10]指摘はたしかに的を得ている。
もっとも、ライハート自身、コンピュータを高度なレベルで芸術家が使いこなし、コンピュータ・アートの意味
と方法を理解するためには、次のような造形要素についての分析的姿勢が、芸術家に求められるべきだとしてい
る。[★11]
1. 外見的な諸要素とそれらの空間的限界との関係
2. 形態の可変性
3. 形態のタイポロジーについての理論的かつ実践的研究
4. 形態の可変性との関連における色彩の可変性
5. 絵画的要素の対象化
6. 色彩、形態、図像的空間、それぞれのあいだの相互関係
11
7. 絵画的要素や図像的空間の次元の問題に対する調査
当然ながら、これらの要素はコンピュータ・アートやテクノロジー・アートに固有のテーマではなく、1950
~60 年代の諸芸術が、まずは内省のための材料として受けとめ、何らかの具体的な方法論の選択によって決着
をつけなければならない課題でもあった。だが、回答は 20 世紀芸術史上の記念碑的な展覧会によってさえも、
まだ明確なかたちでは得られなかったのである。コンピュータやインターネットなどの情報技術がますます日常
化し、家庭生活や学校、労働や余暇にとって必須の環境を構成する 21 世紀、ライハートが課したような自己規
定に関わる課題や目的意識にたいする自覚が、芸術家・表現者の内部で希薄なままに、多くのメディア・アート
作品が制作され、その社会化・産業化が目論まれている。この状況にあっては、芸術家が利用できる技術と情報
にはこと欠かないとしても、セレンディピティの力は衰弱するしかないのではないだろうか。〈サイバネティッ
ク・セレンディピティ〉は、確かに現代のメディア・アートにとって原点のひとつではあるが、かつてナッシュ・
ハウスの展示室に生じた活気ある混沌と、メディア・アートの醒めた無志向性との違いは、1970 年代以降今日
までの情報化社会の進化とメディア文化の諸問題を、きわめて皮肉な形で反映しているようにも思われる。
★1 ライハートの主な著作として、Cybernetics; Art and Ideas、The Computer in Art;Cybernetics がある。
いずれも Studio Vista 刊、 1971 年。
★2 Burnham, Jack. Beyond Modern Sculpture: The Effects of Science and Technology on the
Sculpture of This Century, New York: George Braziller, 1967; London: Allen Lane/Penguin Press, 1968
★3 Burnham, op. cit., p.11.
★4 清水俊彦「ヴィジュアル・ポエトリー」、『みづゑ』1975 年 6 月号、美術出版社、pp.37-45.
★5 同上、p.40
★6 キャラ マッカーティ『INFORMATION ART―写真集「集積回路の芸術」』アスキー、1993 年
★7 Reichardt, Jasia, Cybernetics, Art and Ideas, Studio Vista, 1971, p.14
12
★8 Hein, Hilde. The Exploratorium: The Museum as Laboratory, Smithsonian Institution Press, 1990, p.
35.
★9 Eco, Umberto. "I Giochi Del Futuro. " in L`Espresso, Numero 49, 8 Dicembre 1968.
★10 Mallary, Robert. "Computer Sculputure: Six Levels of Cybernetics." in Artforum, May 1969, p.33
★11 Reichardt, cit.,p.16
※このテキストは、季刊『インターコミュニケーション』(NTT 出版)のに掲載したモノグラフに大幅な修正と加筆を施し、東京都写真美術館の
〈ポスト・デジグラフィ〉展会場配布資料として再編集したものです。
・「アート&テクノロジーの歴史[2]システム、生気論、形態(前)」、通巻第 4 号、平成 5 年
・「アート&テクノロジーの歴史[3]システム、生気論、形態(後)」、通巻第 5 号、平成 5 年
・「アート&テクノロジーの歴史[11]体験する科学:フランク・ オッペンハイマーとエクスプロラトリウム(後)]、通巻第 13 号、平成 7 年