社会文化領域第2回研究会「アジアにおける社会・文化の伝播」 … · 栗田...

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1 社会文化領域第 2 回研究会「アジアにおける社会・文化の伝播」 日時 2010 年 2 月 20 日(土)10:30~17:50 場所 早稲田大学 19 号館 司会 森川 裕二(早稲田大学アジア研究機構 客員研究員) 研究会趣旨説明 栗田 匡相(早稲田大学国際学術院 助教) 報告Ⅰ「東アジアの「食文化」」 報告者 砂井 紫里(早稲田大学アジア研究機構 研究助手) 私は中国の南方でフィールドワークをしているのですが、に食事とコミュニケーション、社会関係というこ とで、調査をめています。今日の報告では、東アジアにおける食事文化の徴を概観した上で、中国と日本の ローカルな事例から、食事文化の広がりと創性について考えてみたいと思います。 1.食事と食事文化 まず、文化科の食事研究の中では、食事という日常的出来事を社会的出来事としてとらえます。そして、その 食事の内容には、食べる、それにかかわる行為・行動、食べることをめぐる観念を広く含んでいます。また、 食、食事文化、食文化、食べといった言葉の使い分けは、包括的には「食」と使いますが、に「食事文化」 と言う場合には、食べる食事行動と、それをめぐる人々の行為や考え方に重点を置きます。「食文化」も包括的に 用いられますが、食べそのものや技術に焦点を当てることが多いです。「食べ」はを中心に述べるときに用 います。私の場合は食事と社会関係に関心を持っておりますので、主に「食事文化」という言葉を使ってめて いきたいと思います。 食事文化をめぐるプロセスは、生産から準備、そして実際に食べる消費ということになりますが、私たち人間 の側からとらえると、食べを得し、保存して、調理を含む変形をして、食事をして、それを出すという一 のプロセスになっております。そのうち食事文化では、食べるところまでを対象とすることが多いです。また、 それぞれのプロセス、程によって、例えば具体的に食べの名前も変わります。例えば日本語の「ご飯」をめ ぐる言葉としては、稲から収穫して加工して米になり、調理をすることによってご飯やライスといった呼び方に なり、実際に食事をとることを、私たちは「ご飯を食べる」と言ったり、「ご飯」そのものと呼んだりします。そ して食べ終わった後、それを保存しておいて、また加工して使うこともありますし、あるいはその程をぎて しまえば、ゴミとなってしまうこともあります。 本日の報告では、まず食文化研究において東アジアがどのようにとらえられているか、先行研究の蓄積から、 その概要を提示したいと思います。前半分ではマクロな視点から、食べの地理的な広がりを食文化地図から 見たいと思います。2 番目に、その食べから食事行動ということで、食事の様式の比較によって、東アジアの

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社会文化領域第2回研究会「アジアにおける社会・文化の伝播」

日時 2010年2月20日(土)10:30~17:50

場所 早稲田大学19号館

司会 森川 裕二(早稲田大学アジア研究機構 客員研究員)

研究会趣旨説明

栗田 匡相(早稲田大学国際学術院 助教)

報告Ⅰ「東アジアの「食文化」」

報告者 砂井 紫里(早稲田大学アジア研究機構 研究助手)

私は中国の南方でフィールドワークをしているのですが、特に食事とコミュニケーション、社会関係というこ

とで、調査を進めています。今日の報告では、東アジアにおける食事文化の特徴を概観した上で、中国と日本の

ローカルな事例から、食事文化の広がりと創造性について考えてみたいと思います。

1.食事と食事文化

まず、文化科の食事研究の中では、食事という日常的出来事を社会的出来事としてとらえます。そして、その

食事の内容には、食べる物、それにかかわる行為・行動、食べることをめぐる観念を広く含んでいます。また、

食、食事文化、食文化、食べ物といった言葉の使い分けは、包括的には「食」と使いますが、特に「食事文化」

と言う場合には、食べる食事行動と、それをめぐる人々の行為や考え方に重点を置きます。「食文化」も包括的に

用いられますが、食べ物そのものや技術に焦点を当てることが多いです。「食べ物」は物を中心に述べるときに用

います。私の場合は食事と社会関係に関心を持っておりますので、主に「食事文化」という言葉を使って進めて

いきたいと思います。

食事文化をめぐるプロセスは、生産から準備、そして実際に食べる消費ということになりますが、私たち人間

の側からとらえると、食べ物を獲得し、保存して、調理を含む変形をして、食事をして、それを出すという一連

のプロセスになっております。そのうち食事文化では、食べるところまでを対象とすることが多いです。また、

それぞれのプロセス、過程によって、例えば具体的に食べ物の名前も変わります。例えば日本語の「ご飯」をめ

ぐる言葉としては、稲から収穫して加工して米になり、調理をすることによってご飯やライスといった呼び方に

なり、実際に食事をとることを、私たちは「ご飯を食べる」と言ったり、「ご飯」そのものと呼んだりします。そ

して食べ終わった後、それを保存しておいて、また加工して使うこともありますし、あるいはその過程を過ぎて

しまえば、ゴミとなってしまうこともあります。

本日の報告では、まず食文化研究において東アジアがどのようにとらえられているか、先行研究の蓄積から、

その概要を提示したいと思います。前半部分ではマクロな視点から、食べ物の地理的な広がりを食文化地図から

見たいと思います。2番目に、その食べ物から食事行動ということで、食事の様式の比較によって、東アジアの特

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殊性を描いていきます。後半には小さな伝播と創造性についての事例を取り上げて、私が主にフィールドワーク

をしてきた福建で見られた他地域の食べ物の取り入れ方を挙げ、また対照事例として日本での例を挙げて、検討

したいと思います。最後には文化の創造性という視点から、同時代において料理を取り入れる、その受け入れ方

について検討したいと思います。

2.「世界の食文化地図」から見た東アジア

「世界の食文化地図」というのは、これまで吉田集而先生たちが、「週間朝日百科、世界の食文化」などでいろ

いろな地図を描いているのですが、その中から、特に地域の特性を出すために、新大陸発見、西洋との出会い以

前、約 15 世紀ごろをめどに、各食事にかかわる項目ごとに整理したものです。まず主要穀物ですが(#5)、日本

や韓国南端はイネの地域、中国の北部では小麦・アワ・キビ、東北部ではアワ・キビで、それぞれ穀物の種類に

よって、粒のまま食べるか、粉にして食べるかという広がりがあり、これがそれぞれの地域で主食になっていま

す。

次に動物の利用ですが(#6)、世界地図の場合には、ニワトリなどの家禽類の利用は普遍的にあるので、地図で

は省略されています。今、話題としている東アジア地域は、豚を中心とした道具的利用が見られますが、乳の利

用は中国の西北内陸部も、羊や牛に限られます。また油の利用を考えますと、日本列島や韓国、朝鮮半島の場合

には植物性のゴマで、中国大陸部ではラード(豚脂)で、西北地方に行くとバターや豚以外の獣脂という形にな

ります。

食用豆の起源地をマッピングしたものでは(#7)、赤で示している所が小豆や大豆の起源となった分布地で、こ

の地域の伝統的な調味料である豆を発酵させた醤油の分布と直結しています。特に東アジア、東南アジアは食文

化の上でも連続性が強いとされますが、特にこの豆の醤油を使うということが、相違点とされています。

参考までに嗜好品についてですが、中枢神経に作用する植物の一種でナルコティックスと言われるものは、東

アジアの場合は台湾以南のみに分布しており、それは東南アジアとの連続性の一つとも言えます。お茶ですが、

健康茶は東アジア全域に分布しており、中国大陸西方ではバター茶が飲まれるという形になっています。

「世界の食文化地図」において、東アジアには共通性があるということを、ざっと地図の感じでも見ていただ

けたのではないかと思います。それをブロックに分けると、日本列島、朝鮮半島南端、朝鮮半島、大陸の東北部

と北方と南方、あるいは大陸部の西北の内陸部、東南の沿海部というふうになります(#8)。特に大陸の内陸西方

に関しては、先ほどの主要穀物や肉の利用でも見ていただいたように、内陸アジア、中東への連続性の中で考え

た方がよいということが分かります。

こうした食べ物の素材の広がりを踏まえた上で、これまでに明らかにされている東アジアの食文化事情として

は、まず 1 回の食事が主食(ご飯)と汁とおかずによって成り立っていること、食事行動が中国の儒教の影響の

下にありましたので、作法において男女の別や長幼の別などで秩序付けられています。また、豆の醤油を使用す

るということ、それから食具としては箸とお椀のセットが見られます。なお、調理の上でまな板を使うというの

も東アジアの特性であり、箸の利用はそれと結び付いています。例えばラオスでは、まな板を使用せずに、手に

持って叩いたりそぎ落とすというやり方です。世界的な調理方法について地図からその広がりを見てみると、実

は包丁をまな板と組み合わせず、物を手に持って使う所の方が多いことが分かります。

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3.東アジアの食事様式

次は、食事行動の全体像を見てみたいと思います。食事行動の全体的な枠組みについては、石毛直道先生によ

り、食具と配膳法による類型化が行われています。まず分配の方法で、個人個人に盛るか、皆で同じ物をつつく

かということと、その料理の配置で、一遍に出すか、一つあるいは幾つかずつ順番に出すかというパターンの二

つの組み合わせがあり、それによって四つに分けることができます。韓国では、ご飯を主食とする日常の配膳で

は、汁と漬け物を除いたおかずの数で三楪飯床(サムチョプパンサン)です。日本で言うならば一汁三菜ですが、

日本の場合は漬け物も数えますので一汁四菜に当たります。これが中国ならば一湯三菜(イータンサンツァイ)、

スープ1個とおかず3品という形です。

もう一つの類型化の一案としては、食べるときの姿勢、床に座るか・いすに座るかということと、口に運ぶ方

法、手食をするか、箸・さじを使うか、ナイフ・フォーク・スプーンを使うかことによって六つのパターンに分

かれます。中国南部における日常の家庭の食事では、いすに座って直箸で、箸は 1 人 1 本ずつ持ちますが、さじ

は人数分なくて、皆で共有して使うという形になります。

この分配方法、配置方法、姿勢、口に運ぶ方法をそれぞれ図式化しますと、ここが先ほど修正していただいた

ところなのですが、食事様式について図式的にその分布関係を見ることができます(#12)。この表では、水色が

日本、紫色が韓国、グレーが中国で、比較のために緑が東南アジア・イスラム世界、オレンジ色がヨーロッパで

の食事になります。こうして分布を示すことによって、例えば食事様式の歴史的変遷、食事の特別食と日常食(家

食)の違い、あるいは地域差を示すことができます。

今日の話は中国と日本が中心となりますので、まず中国の変遷を述べます。中国では戦国時代には箸を使って

座って皆でつつく形で、ご飯は全部並べるという方法が確立されました。魏晋南北朝時代に西方から机が入るこ

とによって、座式だったものが腰掛けて食べるようになって、その形式は今に至っています。それが C2 から D2

への移行になります。一方、この図では地域差というのも描くことができて、中国東北部の方ではオンドルが入

ることによって、座式(座って食べる方法)が続いていることになります。また、食事の儀礼性も、特別なとき

の会食や祝祭日やレストランで食べる場合には、同じように箸を使っていすに座って食べますが、料理の出し方

に順番が生じることになっていますし、また日常の家のご飯では、普段と同じように、順番なしに座って食べま

すが、よりくだけた場では、立ったまま、あるいは外に出てしゃがんで食べたりもします。このように見ると、

イスラーム世界やヨーロッパのものは離れているのに対して、日本、中国、韓国の食事様式は、ややずれながら

まとまりを見せていることが分かります。

何を使ってどのような姿勢で食べるかといった食事の様式は、作法にも直結しています。例えば地図や様式で

見てきたような、ある種の共通性や基盤がありますが、例えば同じように床に座って食べるにしても、正座をす

るのか、あぐらをかくのか、片膝を立てるのか。食器とお椀を用いるにしても、持ち上げて口を食器に付けてよ

いのか、持ち上げないのか。ご飯を食べるときに、ごはんの上におかずを載せるか載せないか、あるいは食べ終

わった後に、骨付き肉などの骨を人に見えないように隠して処理するのか、隠さないで皿の上に置くのか、ある

いは床に捨てるのかといった違いがあります。こうした小さな違いが、共通性ゆえに大きく印象付けられること

があります。そうした習慣は、所変われば不作法な行いになってしまい、ややもすれば品がないなどと否定的な

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価値判断が加えられて、語られることもあります。

以上、ざっとですが、食文化研究の中からの東アジアの食事の大枠について、述べさせていただきました。

4.伝播と創造性

4-1.文化の伝播

続いて、具体的な事例を取り上げてみたいと思います。本来、東アジアの食文化については、言うまでもなく、

豆腐や蕎麦や麺類など、あらゆるものが伝播しており、歴史的な考察が既になされています。私は同時代の取り

入れ方ということで、福建における二つの串物に注目して考えてみたいと思います。まず、東アジアというマク

ロの視点からですと、食事の中にある地域性や民族性、階層性、時代性、ジェンダーといった比較の枠組みは、

バリエーションとしてなるべく縮小化して考えておりますので、同時代の取り入れ方という意味では、ミクロな、

ローカルな視点から、特に人々がどのように取り入れているのかに焦点を当てたいと思います。

ここで串物を取り上げている理由は二つあります。一つは外来の物を取り入れる場合には、まず外食として取

り入れる、あるいは社会階層の上の人たちが取り入れて、それがだんだん大衆化して家庭に普及します。また、

食べ物には制度化された食事と制度化されていない食事という考え方があります。制度化された食事とは、いつ、

どのように食べるかが決まっている、例えば私たちの「三度の飯」というときの食べ方です。朝ご飯、昼ご飯、

夕ご飯と時間が決められ、ご飯とおかずがないとご飯とは言わないといったような、制度化された食事がありま

す。一方で、そうした「三度の飯」に入らない間食があり、外来の食べ物はしばしば、外で食べたり買って食べ

るという外食の形で最初に入ってくることがあります。その制度化されていない食事の事例として、串物二つを

挙げたいと思います。

ここで串物と言っているのは、福建で調査をする中で観察された串物料理二つです。羊肉串は串なのですが、

重慶火鍋は鍋物ではないかと思われるかもしれませんが、串形式のものとして、福建に入っています。

4-2.羊肉串

まず羊肉串ですが、これはウイグルのカワーブや、中東地域のシーシュ・ケバーブと同じ系統で、金串あるい

は竹串に小口にした羊の肉を刺して、そこにクミンと唐辛子、塩などを振って炙り焼きにしたもので、広く中国

全土に広がっており、レストランや街角の軽食として食べられています。右下の写真の男性は、天津で自分のお

店で羊肉串を作っています(#16)。右上は上海で、子供がおやつとして路上で売っている羊肉串を買って、その

場で食べています。左上は北京なのですが、サラール族の少年が羊肉串を売っているシーンです。

この羊肉串の特徴は、まず外で買って、その場で食べるもので、1日三度の飯には入らない、間食として食べる

ものです。料理屋で食べる場合もあります。料理屋の場合には金串を使うことが多いのですが、料理屋の場合に

は、お店の名前に民族風味、あるいは新疆○○という形で、地方名を冠してそのお店で売られております。作り

手としてはウイグルや回族、サラールなど、イスラーム系の少数民族が作っていることが多いです。

福建省の場合には、フィールドにした近郊の地方都市で、2003 年以降になって路上で売る羊肉串のお店が出て

きましたが、これは夜間の間食として出ているのです。この羊肉串の特徴の一つは、クミンと唐辛子の辛さとス

パイス、あと炙り焼きの香ばしさにありますが、福建で売られている羊肉串の場合は、あまり辛みを使わない料

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理の地域ですので、あまり唐辛子を加えない傾向があり、売っている方も唐辛子をかけるかかけないかを必ず確

認するような売られ方になっています。

これは間食としての事例なのですが、売っているものを買って、その場で食べるのではなくて、自分たちで作

るという形で取り入れているのが福建省の事例があります。それは福建にある清真寺、イスラームのモスクでの

事例です。このモスクには、地元の回族ムスリムや、近郊の工場や貿易会社などに働きにきている内陸出身の回

族ムスリムや、中東からのビジネスマンなどのムスリムが集まっています。そこでは羊肉串を焼くということに

ついて、「カオルー(焼き肉やるよ)」と言って人を集めて、モスクでの活動の中に取り入れています。モスクで

は串を常備して、建物の外側の階段に煉瓦の囲いを付けて自製の炉を造り、そこで自分たちで肉を切って串に刺

し、炙り焼きながら食べるということが行われています。また、素材としては羊だけではなく、牛肉やエビなど

の海鮮など、ローカルな素材も取り入れて、1本の串には1種類の物しか刺しません。こうした羊肉串、焼き肉の

活動については、地元の回族ムスリムは、こういう皆で食べる機会を作って、地元のムスリムと内陸のムスリム、

あるいは外国のムスリムがお互いに交流する場にしたいと述べており、積極的にこうした機会を作っています。

4-3.重慶火鍋

次に重慶火鍋の事例を挙げます。これはもともと四川料理ですが、広く中国全土にも広まっており、鍋が二つ

に仕切られたおしどり鍋や、通常小皿に盛られている具材を串に刺した串串香といった形で出されます。これは

もともと四川の重慶市の毛肚火鍋から展開したものと言われており、生姜や豆鼓(トウチ)、牛脂、山椒、唐辛子

などで味付けした濃いスープに、小皿に盛られた牛の肉や臓物、野菜を入れて食べる鍋となっています。これは

熱いものを食べて暑さを制すという考え方から食べられています。伝統的な鍋の形は井の字型に区切られたもの

ですが、このほか、二つに仕切ったもので、片方には辛いスープを、片方には辛くないスープを入れた例が非常

に多いです。

福建では、屋台料理として、あるいは料理屋の料理として、取り入れられています。串に刺して食べるのは屋

台料理としてなのですが、基本的にはやはり外食で食べるもので、間食として食べられています。肉や臓物、野

菜のほかに、エビなどの海鮮やアヒルの血でもち米を固めたもの、あとは団子など、地元の素材を多く取り入れ

ています。屋台の串串香という形式では、福建省の特産である魚丸という魚で作った団子を使用しているものも

あります。また、プラスチックの箱の中に、串に刺した素材を並べて、食べたいものを選んで、辛くない汁でさ

っと湯通しをしたものに、辛いタレを付けて食べるという形になっています。また、皿に載せて食べる場合には、

串から外して箸で食べることになります。

4-4.日本に渡った羊肉串と重慶火鍋

その対照事例として、少し台湾も含めますが、日本のことを見てみたいと思います。まず羊肉串ですが、金串

の場合はトルコ料理やウイグル料理として、かなり大振りの肉を付けた形で日本に入っていますが、この場合に

はウイグル料理でもあまり羊肉串という呼ばれ方はされていません。現在、羊肉串を扱うお店が増えてきており、

これは竹串と金串の両方を使ったものもありますが、主に東北料理、宴席料理として日本に入ってきています。

羊肉串を店舗のホームページのトップページに載せて、羊肉串を売りにしているお店があり、ここの売り出しの

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文句としては、「焼き鳥感覚」「スパイスが効いた」「羊肉はダイエットにも効果的」「テーブルで焼く串焼き」と

いう紹介されていました。また、写真を見る限り、トルコ料理、ウイグル料理よりも中国東北料理として入って

きている例が多いようです。

重慶火鍋の方は、専門店が出店されるほどに広がっています。台湾では、小中学生向けの学習雑誌のカラー特

集で鍋が取り上げられていて、火鍋の歴史が伝統的な食べ方とともに載せられていました。さらに、重慶火鍋系

統のものを売りしているお店を見てみると、日本の場合に特徴的なのは、単に火鍋と呼ぶものから、薬膳鍋、麻

辣鍋、自然鍋、鷲窵火鍋、究極鍋、モンゴル火鍋などと、他地域の名前を冠したものもあります。しかし、実際

に鍋の写真を見てみますと、区画のある鍋を使って、辛い汁と普通の汁を合わせて食べる組み合わせのものが多

く、同じ系統だと考えられます。

特に日本のこうしたお店では、中華料理屋だけではなく、中華居酒屋や専門店のチェーン店なども出てきてい

ます。その売り出し文句としては、「激辛、コク旨」「濃厚」といった系統と、「薬膳」「美肌」「美容と健康」「コ

ラーゲンたっぷり」という売り出し方、あるいは「本場四川」「本場台湾」「本場モンゴルの味」という形で、地

域名を付ける場合があります。

ざっと羊肉串と重慶火鍋、福建、日本の例をお話ししましたが、基本的には間食として食べられており、福建

の場合には作りながら食べる、そして楽しみと交流の場としているということが挙げられます。また、食べ物を

取り入れる際に、その食べ物の由来や地名の物語性を付けたり、あるいは美容と健康にいいのだという形で売り

出す、その際には地元の素材や道具と合わせて取り入れられていることが分かります。

4-5.文化の創造性

ここでいったん文化の創造性という面から、この羊肉串と鍋の取り入れ方を考えてみたいと思います。自分た

ちの文化を考えたときに、どんな土地、どんな時代でも、自分たちの食べ物の一つ一つに、うまいとかまずいと

かといったこととは別に、素晴らしいもの、大したことのないもの、くだらないものという序列を付けています。

例えば、高級料亭の料理と毎日食べるご飯を比べると、毎日食べるご飯は普通の食べ物だという序列化を行って

いるわけです。こうした序列化は固定的なものではなくて、ある操作をすることで、大したことのなかったもの

がすごく素晴らしいものに持ち上げられるなど、それによって食べ物のバリエーションが増えていったりするな

ど、クリエイティブさが見られます。

言語学の西江雅之先生が描き出した文化の創造性を表す三角形を食べ物に当てはめてみると、文化の創造性の

操作には、三つの形があることが分かります(#22)。その一つは同一文化内で「持ち上げる」ことで、例えばご

飯をライスとカタカナ化して呼ぶことです。また、先ほどの台湾の雑誌にあったように起源の物語を付けて良い

ものにする、あるいは有名人が愛用しているといった形で、物語を付けてありがたい意味付けを行うという方法

です。二つ目は「導き入れ」というもので、これには、自文化内の導き入れと異文化内への導き入れがあります。

異文化のものは、まさに食べ物の広がりにもつながることですが、ほかの文化から自分の文化に取り入れること、

あるいは、昔あったものを現在によみがえらせることで価値付けを行うというものです。三つ目は「発明と発見」

で、もともとあったものを組み合わせて今までなかったいいものを作る、あるいは、あったけれども気が付いて

いないことを改めて発見することです。例えば先ほどの、火鍋に関して美容と健康がどうのこうのというのも、

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この発見と発明の組み合わせに近いものだと思います。

羊肉串と火鍋の例を考えてみますと、福建から日本への受容では、一つには食事行動として間食として受け入

れていますし、それを自分たちで作ったりして、皆で一緒に食べる共食の機会も増えています。2番目として、食

べ慣れたものを素材に組み込むことが行われています。3番目として、地域名や体に良いなどの物語を付与し、工

夫してお金を払って食べる価値のあるものとしているということが考えられます。すなわち、この「導き入れ」

と「持ち上げ」による工夫に、食べ物を取り入れるときの創造性が考えられます。

5.おわりに

以上、食文化から見た東アジアの概要、そして食べ物の広がりの事例として、同時代の羊肉串と火鍋について

検討してきました。この同時代の受け入れの現状を、今日は少ない事例ですが、紹介することができたと思いま

す。今後の課題としては、さらに具体的に、いつごろから誰がどういった形でこれを持ち込んできたかという過

程を探ってみたいと考えています。特に日本の火鍋に関しては、香港、台湾経由でワンクッションを置いて入っ

てきているような感じもしているので、少し調べてみたいと思っています。

最後に、食べ物の違いというのは、エスニックな違いというよりもゆるやかで包括的なものなので、それによ

って示される他者性がそんなに先鋭化しないのですが、羊肉串と火鍋の現段階での取り入れ方を考えますと、逆

に料理の他者性を維持したまま、あるいはそれを物語として強調することで導入をしている、あるいはそれを楽

しむに足るものとしていることが特徴的だと思います。また、日本だけでなく全世界に「体に良い」「ヘルシー」

というような言説によって、また料理の価値付けを行っているという傾向が見られるのではないかと考えていま

す。

討論

羅 京洙(元アジア研究機構研究員)

砂井さんは社会科学をご専門としているそうですが、私にとって食文化とはなかなか接する機会の少ない分野

で、そういう意味で非常に新鮮なご報告でした。特に面白かったのは、東アジアにおける食文化をマトリクスと

いう方法を用いて、そこからその創造性や広がり、伝播というものをある程度類型化し、一般化しようという試

みです。私は食文化についてはあまり知りませんが、コリアンの国際性という問題を研究しておりますので、韓

国の話を最初に少しご紹介したいと思います。

1.ローカルの視点と文化の広がり

これは「芋けんぴ」という私の大変大好きな食べ物です。初めは、スーパーに行くとたまたまこれが置いてあ

ったので、少し食べてみると非常においしくて、しかも、日本の私の知り合いから芋けんぴの名前の由来を聞い

て、びっくりしました。これはいろいろな説があるのですが、知人によると、芋けんぴの「けん」というのは犬、

「ぴ」というのは皮で、犬の皮という説があるのだそうです。李氏朝鮮時代に通信使として日本に来た朝鮮の人々

が大坂城に招待された際に出されたメニューに、この芋けんぴがあった。もちろんこれは犬の皮を用いた料理で

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はなかったのですが、サツマイモを焼いて、それを出したということです。それはやはり日本側からの朝鮮の人々

への配慮で、朝鮮半島では犬を食べる文化が現在も残っています。

砂井さんのご報告が非常に印象深かったのは、非常に地域密着型の現地調査を行って、ローカルの視点を取り

入れているというところが良いと思うのです。例えば芋けんぴの話を、これは韓国の文化なのだと強く主張して

しまえば、それは食をめぐるナショナリズムということになってしまいます。芋けんぴだけではなくて、例えば

キムチの話もそうですが、何年前かにキムチをめぐる非常にナショナルな対立というか、キムチの由来、起源を

めぐる日韓の論争があったと思います。砂井さんの視点はナショナリズムといった観点ではなく、ローカルに絞

った話をするという話しぶりが面白かったです。

そういったローカルな観点は非常に分かりやすくて、ローカルな中で羊の肉などの話が出ているのですが、ロ

ーカルな話だと、最初のテーマとして取り上げておられる東アジアの食文化という全体図を、どのようにとらえ

ればいいかという疑問が出てきます。つまり、ローカルな中でもいろいろと創造が行われると思うのですが、や

はり広がりということを考えると、ローカルからほかのローカル、ローカルからまたほかの国や地域に移るとき

の伝播、広がりの方があまり見えてこないのではないかというところです。

また、その伝播のことを考えると、それを誰が運ぶのかという、広げる主体(アクター)があまり見えてこな

い。既にその食文化がある地域で人々が食べて楽しんでいるということは伝わってくるのですが、そういった文

化がどのように誰によって広がっていくかという食文化の移動性と、移動させるその主体をどういうふうに考え

られているのかお聞きしたいと思いました。

それから、先ほどマトリクスという方法論を面白いと思ったのですが、丁寧に定義などを見ますと、砂井さん

のユニークなご意見というよりは、もともとあるマトリクスを用いてそこから何かを生み出そうということだと

思うのです。もう少し、砂井さんのご自分のマトリクスを描いて、そこから新しいものを出せばいいかなと思う

のです。最後の参考文献やマトリクスとして用いられているものは、非常に著名な先生方のものだと思うのです

が、1998年とか1999年とか、現在のことを考えると、少し時間的なギャップがあります。当時における食文化の

広がりなどを考えると、こういった記述は今も有効であるのかどうかも少し気になるところです。

2.日韓の食文化の相違点

食文化というものは、文化の中の文化と言うか、文化中の文化といったような、非常に基本的な大事な文化で、

私のような普通の人間には、これに面白い話があるということにあまり気付かなくて、ただ楽しんでいればいい

という話なのですが、例えば日韓を比較してみると、韓国の方の作法(マナー)が日本と少し違っていることを

日本に来て感じました。例えばレストランに行くと味噌汁が出るのですが、韓国ではしつけとして、それを必ず

ご飯の右側に置くことになっており、私はそれにずっと慣れてきたのですが、店員さんによっては、ご飯の左側

に置いたりするので、私は少し引いてしまうわけです。それを言うとまた失礼かなと思い、半分日本人になって

しまって、そういうこともありました。

それから、韓国ではご飯を食べるとき、飲食、料理を食べるときは絶対音をたてないようにと言われるのです

が、日本ではおそばや麺類を食べるときに音をたてるという文化も、最初は違和感を覚えつつも、やはり面白い

なと違いが分かってくるのです。それからご飯を食べ終わった後、椀の上に箸とスプーンを置いたり、目上の方

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がスプーンを取る前に下の人間は絶対に取らないなど、韓国には儒教的ないろいろなマナーがあるのですが、そ

れも日本の食文化とかなり違うところです。

食文化と言っても、非常に幅が広いと私は思うのです。文化の中でも食文化というと絞られる感じがしますし、

食文化と言っても本当に一から十までいろいろあると思います。なぜ砂井さんはこの羊の事例と火鍋を取り上げ

て、東アジアの食事文化の広がりと創造性を考えるようにされたのか、少し聞きたいと思います。

(砂井) ありがとうございました。最初の方でおっしゃっていた芋けんぴの事例で、いい話として持ち上げす

ぎると、ナショナリズムとのかかわりで、食べ物をめぐって政治的な議論などが起こり得るというお話がありま

したが、全くそのとおりで、食文化について語る場合に、基本的に二つの立場があります。自文化を上に見る、

あるいは自文化を基準として見るエスノセントリックな見方と、文化として価値判断を加えない形でとらえてい

こうという立場です。

エスノセントリックな食をめぐる言説は、まさに食べ物の社会性や政治性を見る面においては、むしろその見

方そのものを研究対象とすべきものです。終わりの部分で触れた、料理の他者性(Culinary Other)という言葉

を述べた Appadurai の論文は、ある特定の地域である時点において、ナショナリズムの高揚とともに、ローカル

な料理ではなくて、その国のテキストブックとして料理本が作られるという過程を描いた論文です。まさに私た

ちが普段食べているものではなくて、日本料理や中華料理といった国の名前を冠した料理などを考えるとき、あ

るいは米は日本人のアイデンティティだといった語り口で語られる食文化を考えるときに、事例としてすごく有

効な検討すべき項目である、ただの日常的な食べ物ではなく、政治性も見なくてはいけないと思っているところ

です。

次に羊肉串、火鍋の事例というローカルな事例と東アジアの食文化の広がりの接点について、ローカルからロ

ーカルへ、ローカルから他地域へという広がりが見にくいということと、行為者であるアクターの過程が見えな

いというご指摘をいただきました。最初のローカルからローカルへ、ローカルから他地域へという広がりについ

ては、その過程を見ていかなければいけないと思います。今日の発表では、完全なる転移、新疆から福建あるい

は四川から福建での取り入れ方と、今度は大陸を越えて海を渡って台湾や日本に来たという一つの現象面だけに

ついてご紹介しました。もっと全般的な広がりを見ていかなくてはいけないと思うのですが、今回は触れること

ができませんでした。アクターが見えないというのはそのとおりで、今回の報告では同時代の取り入れる側、消

費セクターの方に焦点を当てたのでこのような形になりましたが、今後の進め方としては、誰がどのようにいつ

ごろどのような過程でというところにも注目していきたいと思います。また、東アジアの食文化全体での位置付

けという面については、今回前半では概要として述べた部分で、個別の事例という形で触れさせていただきまし

た。

次に、既存の食べ物に関するマトリクスを利用した類型化について、ご指摘のとおり、時間の関係から歴史的

変遷をカットしてしまったのですが、以前、この分類系法では、日本の食事に時系列のものも入っているという

形で述べられたりもしていたのですが、現状ではやはりそうはなっていない。それはむしろ食べる場、家で食べ

るかレストランで食べるかといった形のバリエーションであって、そういった方向性には行っていないなと、こ

の発表の前に昔の文献を見直して思っています。また、今回の発表では触れなかったのですが、この類型化のほ

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かに、ご飯の盛り方について、共同で食べるか個別にするかというだけではなく、主食と副食の関係において一

碗完結型という、日本で言えば丼物やラーメンがあって、それを基に少し考えているところがあるのですが、今

回は触れませんでした。

それから、なぜあえて羊肉串と火鍋を取り上げたかという点なのですが、何を例にして挙げようかと考えて、

素材の問題と食べる様式の問題で、フィールドノートを見直した中でこの二つが取り上げやすかったのと、今、

日本でかなりこの二つが広がっている、現在進行形で起きているということがあって、中国だけの事例ではなく

て、日本との比較もあって、この事例を取り上げてみました。以上です。

意見交換

(白石) 伺っていて引っ掛かったところがあるので、それを言わせていただきたいと思います。特に羅さんの

とても面白いコメントも出ましたし、研究自体がかなり多彩な面白いものだったので、それで引っ掛かった部分

が出てきたのです。

私は文化人類学者で、東南アジア、中心的にはインドネシアの家族に居候させてもらって一緒に生活するので、

70~80 年代から食事文化の変化を体験してきています。その意味で、食事文化というのは非常に大切で、いろい

ろなものがそこから見えてくる切り口だと思うのです。グローバル化という観点から言うと、もっと新しい状況、

伝播、移動していくときのアクターのことを考えたらいいということには本当に賛成です。しかし、人類学の人

たちの間では多分もうかなり定着しているのですが、家族の形態自体が近代になって根本的に変わってきたとい

うことを考えると、食事と家族のライフスタイルが実はセットになって変化してきているのではないか。そのと

きに、家族での食事と、レストランでの食事、制度化された食事、砂井さんが間食とおっしゃっていたものとが、

実はもう少し複雑なのではないか、もう少し重要なのではないかと考えました。

つまり、欧米から始まった近代的な家族というもの中で、家族がそろって一緒に夕ご飯を食べる、このことは

近代家族の制度が入ってきてから始まったことで、それ以前は、例えばジャカルタにおいても、そういう食事形

態ではありませんでした。むしろ羊の肉や火鍋料理など、夕方になるとあちこちに屋台が出てきて、それをバナ

ナの葉や竹の皮などにごちゃごちゃと入れてもらって、それを適当に食べる。別に家族がそろって食べるわけで

はありません。だから、間食というのは必ずしも間食ではなくて、それが日常食であるという時代がかなりあっ

たのです。

それから考えると、買って食べる、従ってそれが間食であるという位置付けをもう少し考えてほしいのです。

また、座って食べるとか皆で食べるとか、その皆というのは家族なのか、近隣社会なのか、それともモスクに集

う人といった、一定の違う種類の団体の皆なのか。そういうことがもう少し区別されてくると、食事文化の変遷、

宗教と文化と歴史を超えた変化が、もう少し正確にとらえられてくるのではないかと考えました。

その感覚から言うと、この羊と火鍋を砂井さんが取り上げられたというのも、恐らく砂井さんのフィールドワ

ークの体験の中で、ほかの日常的な食事と一種違うものとしてとらえられていたのではないかと思ったのです。

ですから、先ほどのアクター、どういう経路で誰が持ってきたのかを考えるときに、後で中近東の専門の方が話

されるので、多分また中近東は違う状況が出てくるかもしれませんが、イスラームを通して東南アジアから、そ

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して東アジアに来たような料理であったとすると、私が経験したような、東南アジアの近代家族ではない食事の

形態が、もしかしたらそこには付随しているかもしれません。そういうセットとしての見方について少し引っ掛

かりながら、聞いておりました。

制度としての食事については、欧米に始まった近代的な家族制度における制度化、中国の儒教に基づく制度化、

日本なら日本の、江戸文化からの制度化など、いろいろな制度化がありますので、そのどれにも入らない形なの

か、そのどこかで変化をしていったものなのかという見方が出てくるかと思いました。

入れ物にしても、竹の皮やバナナの葉というのがありますし、それからマトリクスによる形態は恐らく時代的

に言って、クロード・レヴィ=ストロースの影響を受けたものかと思いますが、今のグローバル化を論じる時代

になってみると、もう一つ大きく、その近代性というものを、近代的ないろいろな制度との関連で見る必要があ

るのではないか。これは先ほどから言っていることの繰り返しなのですが、大雑把に近代性というものがどうや

って入ってきて、どうやってミックスして、どうやってローカライズして、どこに以前からのものが残っていて、

どこが近代家族の中で採用されていったのか。また、どうやって近代家族のライフスタイルが出来上がっていっ

たのかというストーリーの中に置いてみると、一つまた違うストーリーが出てくると思います。

(栗田) 僕もあまり文化を意識せず、食べることだけに楽しみを覚える人間で、非常に幅広いご報告に「なる

ほど」と思いながらずっと聞いていました。私は専門が経済学なもので、特に最初の方の食、食事文化、食文化、

食べ物と。つまり、獲得から保存、加工、変形、食事、排泄というふうに過程を書かれているわけですが、今の

白石先生のお話にもあったように、近代化が始まったときに、恐らく食事を食べることや排泄することは人間で

すから基本的にはほとんど変わらないと思うのですが、その前の変形や生産のプロセスは、近代化が始まってか

ら相当大きく変容しているのではないかと思っているわけです。つまり、同じご飯とお味噌汁が出てきて、お味

噌汁は右側に置かなければいけないとか、そういうしつけなり文化に関しての変化ももちろんある一方で、同じ

お米のご飯が出てくる、その裏にある生産工程の違いが恐らくあると思うのです。その生産工程と、そういった

食文化の関連性のようなものの研究などがあれば、僕としては非常に興味があるので、ぜひとも教えていただき

たいというのが1点です。

もう 1 点は、創造性という言葉を使われていますが、その創造性というのは、恐らく、それこそ近代以前での

創造性と、近代化が始まって以降の創造性では、恐らく外部との接触があってこその創造性というのが多分その

近代以降のお話だと思うのです。そうすると、やはりそのアクターや受容のプロセスが非常に重要ではないかと

思いました。では、その外部の接触をどう考えるのかといったときに非常に困ってしまって、先ほど白石先生も

羅さんもローカライズという言葉を使われましたが、そのローカライズそのものの意味もかなり変容してきてい

るのではないか。

一時期、マクドナルドが中国に進出してどうなるとか、グローバリゼーションと文化に関する議論が沸騰した

こともあったかと思いますが、グローバリゼーションが文化を駆逐するという意見がある一方で、マクドナルド

が進出しても使っている肉は中国の肉だし、日本の焼き肉バーガーやテリヤキバーガーのような文化の受容があ

るだろうという意見もありました。ただ、その意味でのローカリゼーションと、近代以前に短期間では変化がな

い中で、ローカルなところで創造されていく何かとの違いもあると思いました。そうした違いをもちろん意識せ

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ざるを得ないと思うのですが、僕のような外部の人間からすると、特に最近のローカル、ローカライズというよ

うな現象を、どのようにとらえたらいいのか。単純にアクターうんぬんだけの問題ではないのではないかと思い、

この辺に何かご意見等があれば、教えていただければと思いました。

(フロア1) 今のご議論からも本当に面白いポイントが出てきて、興味深いと思いました。私は、食事文化の共

通性と多様性、それからAppaduraiのキュリナリー・アザーというものが重要ではないかと思うのです。

最初に気になったことは、全体のプロジェクトとの関係で言うと、東アジアの食事文化からとらえられる社会

文化ということだと思うのです。今日のご報告では、最初に「世界の食文化地図から見た東アジア」というとら

え方をしていますが、これはひょっとしたら逆ではないかと思うのです。つまり、食文化と東アジアとの関係を

どう位置付けるかというときに、演繹的にとらえるか帰納的にとらえるかという違いがあって、東アジアという

ものが先にあって、そこでどんな食文化があるかというご報告だったと思うのですが、逆に、食文化の方から東

アジアはここからここまでだというふうに、もっと実証的・帰納的にとらえることがあった方がいいのかと思う

のです。RUNASIAという全体のプロジェクトに沿うためには、帰納法的に、食事文化から東アジアを見るという色

彩が強くなった方がいいのではないかと思うのです。

それが少し私のこれからのコメントの入口にもなるのですが、その東アジアだなと思うところに食事文化の共

通性があると同時に、非常に多様性もあります。それにもかかわらず、要するに東アジア出身だなと思う親しみ

深さが、やはり食事にもお互いに感じ合えるのではないかと思うので、そういう点で、食事文化の方から東アジ

アを考えるということをもう少し強く出された方がいいと思います。それはまさに、共通性と多様性があるから

です。

しかし、もう一つ踏み込むと、国際関係から今言ったことを考えた場合に、食事様式や具体的な食事メニュー、

あるいは食材が東アジアの中を移動しているという、言ってみれば食の移動と、もう一つは人の移動というのが

あるわけです。出掛けていって食事文化に触れると思うのは、面白くて違うけれども親しみが感じられるなとい

うのと、おいしいけれども窮屈だなと感じる、その違いがどうもその地域の境界を作っているのではないかとい

うことです。ですから、食の移動と人の移動を組み合わせるということが、先ほどからの議論になっているグロ

ーバリゼーション以来の、こういう問題の一つの基礎になるのではないかと思いました。

そこからもう少し一般化すると、文化には一方で固定性があるのですが、他方で、接触して変容するという移

動性があるということで、その組み合わせでもあると思うのです。やはりグローバリゼーションの問題では、移

動による交流と変容というところがポイントではないかと思っています。栗田さんが言われた、外部との接触に

よって食事の創造が少し変わってくるのではないかということも、今のような枠組みの中で考えることができる

のではないかと思っています。

最後ですが、そういう移動性、その文化の固定性と変容性の組み合わせからいって、Appaduraiが言ったという

Culinary Other という、ローカルな部分での他者性が、東アジアの場合には、楽しめるというような効果も持つ

ことがある。しかし、その外側にナショナルなレベルを超えて、リージョナルなところでの共通性がある。東ア

ジアの外から見ればそれはCulinary Otherだけれど、中側からすれば多様性を楽しめる共通性であるという重層

的な構造があると言えるので、このCulinary Otherという概念は面白いと思います。それについても、一つに決

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めないで見た方がいいのではないかという感想を持ちました。

(砂井) 勉強になりました。1点、制度化された食事という部分で、白石先生にご指摘いただいた間食に関する

定義なのですが、私の今日の発表での伝え方がうまくいかなくて、ここで言う制度というのは、例えば儒教など

の制度のことではなくて、私たちが食べる行為が1日の中で繰り返されている、1週間の中で繰り返されている、

1月の中で、1年の中でという、サイクルの決まっているもののことです。例えばお昼を食べても、今ひとつ1回

のご飯には物足りない。量的に物足りないのではなくて、心が満足しない物足りなさなのですが、そういうもの

と、「朝ご飯、昼ご飯を食ったぜ」というのとが違う、「食ったぜ」となるのが制度で、サイクルの中に組み込ま

れたという意味での制度化された食事という形で使っていたのです。買って食べるから間食という定義している

わけではありません。

(白石) 近代家族という家庭の中に庇護される子供と、子供の面倒を見てやはり同じように家庭の中に隔離さ

れてしまった主婦というもの、これ自体が、東南アジアには少なくとも欧米から入ってくるまではなかったので

す。子供たちはその辺りで社会化していたし、母親も一緒に仕事していたわけです。その意味で、少なくとも私

が経験した1980年代までのインドネシアは、食事というのは1人1人が勝手に、お腹が空いたときに行うもので、

それこそ朝昼晩という時間的なサイクルでもありませんでした。それは、日本なら日本の、いろいろな政治的、

社会的制度、それから近代家族なら近代家族という制度が入ってきたときに生まれてきたのではないか。ただ外

で買って食べるからだというだけではなしに、時間も、誰と誰が食べるのかということも、どこで食べるのか、

どういう器を使って食べるのかということさえも、一見ばらばらに見えるのです。制度と言うとするとそれが制

度であるという、そういう食生活があったし、今でもシンガポールやマレーシアやタイなどの庶民の生活ではか

なりそれが残っているという指摘でした。

報告Ⅱ「中東における日本のアニメの伝播とその展開

―シリアのアニメ産業を中心として―」

貫井 万里(早稲田大学イスラーム地域研究機構 研究助手)

私のもともとの専門はイランの近現代史、1950年代のナショナリズム運動ですが、2007年~2009年に在シリア

日本大使館の専門調査員として勤務していたときに、2005 年ごろから当時の麻生外務大臣が突然、マンガ外交と

いうことを言い始めたのです。それに関連して文化担当官として、現地のアニメ事情を何度かにわたって調べて

本省に報告しなくてはいけないという機会があったことから、興味を持って調べ始めました。専門ではないので

少し自信がないところもありますが、発表させていただきます。

1.研究の背景

日本のアニメが世界各国でブームになっているということは、新聞やテレビを通じて既にご存じの方も多いか

と思うのですが、そうしたメディアでの情報だけではなく、1990 年代以降にはそれに関するアカデミックな研究

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も次第に蓄積されるようになってきました。アメリカやヨーロッパ、アジアにおける日本アニメやマンガの伝播

に関しては、かなり多面的な研究がなされつつあるのですが、中東に関しては今のところ、私が見た限りは、保

坂先生が 2007 年にまとめられたもののみという状況です。先生のご研究は、中東でどのようにアニメが伝播し、

サウジやエジプトにおけるアニメファンはどういった実態であるか、特にブログなどでのファンたちのやり取り

などを分析したものです。

私の研究は、さらに伝播して受容され、その後現地でどのような独自の展開があったかに注目し、保坂研究を

引き継いでまとめてみたものです。1980 年代以降に日本のテレビ番組が中東でいろいろ放送されるようになりま

したが、1990 年代に『キャプテン翼』が『キャプテン・マージド』という名前で放送され、それが爆発的な人気

になったということは、ある程度日本のメディアでも紹介しているのですが、その紹介した会社が実はシリアの

企業であったということは、なかなか知られていない事実ではないかと思います。

もう一つ、この検証の重要な点は、先ほども言いましたように、当時の麻生外務大臣がソフトパワーとしての

日本アニメを外交に活用していきたいとおっしゃったように、ソフトパワーとしての日本アニメ、またはコンテ

ンツをどのように世界に売り込んでいくかということで、さらなる注目が高まっている状況です。こうした流れ

も踏まえつつ、日本の対中東政策における日本のアニメを再考することによって、外交戦略の一つとなり得るの

ではないかと考えています。中東の各国では、いろいろなところに日本語学科やJICA支援の日本語センターで日

本語を学習している現地の学生さんたちがいるのですが、大体そこに集まるのはアニメオタクが多いというよう

な事実もあって、驚くほどの真剣さで日本語を勉強し、そして皆でアニメの鑑賞会をするという事実がたくさん

見られます。そのような潜在的な日本語学習者にさらなる働き掛けをする活動が親日活動の重要な一端を占めて

いること、また1980年代に日本のアニメを見て育った層が、現在中東、シリアにおけるアニメ産業を担うクリエ

ーターとして次第に育成されていると言えます。

2.シリアの中東における位置付け

シリアの人口は約2000万人で、エジプトやイラン、トルコが7000万前後であり、サウジアラビアは2000万人

程度、ヨルダンは 500 万人、レバノンも 300 万人程度なので、中東の中では人口的には中堅国に当たるかと思い

ます。シリアを特徴付けているのは、多民族・多宗教の国家であるということです。アラブ人、アルメニア人な

ど多数の民族がいますが、基本的にアラビア語が公用語となっています。特に習慣に関してシリアは大きな特徴

があって、中東のほかの国々では大体97~98%がムスリムで、クリスチャンなどのほかの宗派は1~2%程度なの

ですが、シリアにおいてはキリスト教徒が 10%と中東においては比較的高い確率で在住していて、ムスリムとキ

リスト教徒、さらにはシーア派の異端と呼ばれているようなアラウィーやイスマーイール派の人々も、比較的仲

良く共存してきたという多宗教共存の歴史を持っています。

現在では、皆さんも『アラビアのロレンス』などを観たことのある方がいらっしゃるかと思います。第一次世

界大戦の時にオスマン帝国からの独立を求めてアラブの人たちが蜂起し、首都をシリアのダマスカスにしたいと

サウジアラビアからダマスカスを目指すのですが、結局、第一次世界大戦後の列強の取り決めによって、シリア、

レバノンはフランスの委任統治下に置かれます。その後の反仏闘争を経て独立し、1963 年のクーデターを経て、

社会主義とアラブナショナリズムを奉ずるバアス党の一党独裁体制が続いています。その中でも1970年にアラウ

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ィー派というシーア派の中でも少数派の宗派出身のハーフェズ・アサド大統領とその息子のバッシャール・アサ

ド大統領が独裁体制を取るという形態が続いております。

主要産業としては、社会主義国なので国民の多くが政府雇用の官僚であり、国家公務員が多く、石油は採れま

すが湾岸の国々から比べると微々たる量なので、イランから多く石油燃料を輸入しています。また、国土には農

業地帯が広がるというような状況です。経済の面から見てみると、GDPは中東主要国の中で12位と、かなり貧し

い国です。そのために若い人を含む多くの人が国内で仕事が見つけられず、湾岸諸国に出稼ぎをする人も多いと

いう状況です。国内の失業率は10~20%です。

まとめてみますと、アラウィー派というシーア派の少数派が多数派のスンニ派を支配する世俗的な国家ですが、

資源がないために、もともとアラブの文化の中心、7世紀にはウマイヤ朝の首都が置かれて、中東一帯とスペイン

まで支配をした中心地であったという自負があるにもかかわらず、現在では経済的には湾岸諸国にはるかに遅れ

を取っており、そうした文化的な誇りが経済的なものには満たされていないという状況にあります。

2.シリアにおける日本アニメのプレゼンス

こうした中で、2000 年以降、急速に発展してきたアニメ産業の雇用が若者の間で産まれています。特に芸術や

グラフィック、コンピューターを専攻した若者にとっては非常に魅力のある雇用先として注目されるようになっ

てきています。日本ではアニメーターの待遇があまり良くなく、なり手が最近いないという話も聞くのですが、

シリアにおいてはむしろあこがれの職業というか、アニメ産業に対しては非常に良いイメージがあります。

中東におけるアニメ放映が1980年代に急速に進められていった背景には、アラブ諸国のテレビ局で番組のコン

テンツが不足して、ちょうど日本のアニメは放映権のライセンス料が安く、さらに欧米の番組に比べて無難な内

容と認識されたという理由があります。つまり、独裁政権にとって、著しく民主的なアメリカの番組と違って民

主主義を宣伝するという政治色があまりなく、宗教的な指導者にとっても西洋の番組に比べて宗教色も強くない

ということで、比較的無害な存在として子供に見せておけばいいという形で、あまり批判されることなく、どん

どん輸入される状況になったわけです。そのときに放映されたシリアのアニメ番組の例が、資料1にあります。

一方で、日本のアニメがアラブの子供たちの間で人気を博した理由としては、一つには『グレンダイザー』が

アニメ人気の端緒となったと言われています。これは永井豪原作で1973年に日本で放映されて、シリアでは1986

年ごろに放映されたと言われます。その『グレンダイザー』が火を付けた理由は、それまでアメリカの『トム&

ジェリー』などディズニーものが多かったのですが、『グレンダイザー』で初めて巨大ロボものというか、シリア

スなアニメを見て感動したというのが、ファンサイトに幾つか書かれていたように、非常に目新しかったという

ことが理由に挙げられます。ほかに人気があった『未来少年コナン』は『アドナンとリナ』という違う名前で放

映されています。

もう一つの人気の背景としては、アラビア語はもともと書き言葉と話し言葉がかなり違っていて、話し言葉は

エジプト、シリア、レバノンにそれぞれ方言があって、かなりエジプトとシリアなどは差が激しいのですが、書

き言葉の方はコーランに従った文法を残すということで共通しています。子供には教育的配慮からアニメの吹き

替えはすべてフスハーと呼ばれる書き言葉で行われています。このフスハーのアラビア語の吹き替えが初期にお

いて非常に質が高かったと言われています。例えばレバノンの会社が『グレンダイザー』の吹き替えをしたとき

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には、人気の俳優やアイドルを起用して、非常によくできていたと言われているのです。

こうしたアラビア語の吹き替えは、1980 年代はレバノンやクェートが中心になって行われました。例えばクェ

ートでは湾岸諸国共同制作事業という、クェートだけではなくて湾岸諸国が一体となった事業体が日本から放映

権を購入し、そしてクェートのテレビ局で『未来少年コナン』や『ベルサイユのばら』がアラビア語に吹き替え

られ、その放映権がアラブ諸国のテレビ放送局に売られて放送されるという状況がありました。

3.中東のディズニー「スペーストゥーン・メディア・グループ」の出現

しかし1991年の湾岸戦争、レバノンの内戦の激化により、クェート、レバノンの吹き替え産業が次第に衰退し

ていきます。このときに登場したのがシリアのヴィーナス・スタジオと呼ばれる吹き替え会社です。このヴィー

ナス・スタジオは、もともとウェイス商会という食品業を営んでいた会社で、この会社はアメリカのワーナーブ

ラザーズの版権を買って、文房具や『トム&ジェリー』のキャラクターの付いた食品を売り出していたのですが、

その中でキャラクタービジネスに注目をするようになりました。1980 年代にバンダイの中東での販売の代理業者

になったり、講談社や集英社の販売代理権を獲得したりして、マンガ雑誌を食品と一緒に売り出していました。

ウェイス商会がさらにマンガ・アニメ事業に深くかかわっていくきっかけとなったのが、このウェイス商会を

始めたファーイェズ・サッバーグという人が、バンダイと東映の招きで日本に 1 年間滞在したことでした。その

ときにアニメ業界と様々な人間関係を構築し、さらに香港に拠点を置くアニメーション・インターナショナルと

いう会社と非常に近しい関係になって、そこから日本のアニメやマンガのライセンスを獲得して、中東を中心に

配給をするという関係を構築していきます。

ウェイス商会が『キャプテン翼』の第 1 シーズンの放映権を獲得したときには、ヨルダンの会社で吹き替えを

行っていたのですが、外の会社に出すのではなく、自分たちでスタジオを作ろうということで、その当時にシリ

アテレビで働いていたマンナー・ヒジャーズィーと一緒に、ヴィーナス・スタジオを設立しました。ヴィーナス・

スタジオの設立についてはシリア政府による支援もあったと言われ、この会社はシリアの世俗的な政権による支

援も仰ぎつつ、事業を進めていったと言えます。そして『キャプテン翼』の放映の大成功をきっかけに、その後

『ドラゴンボール』『スラムダンク』『NARUTO』など、様々な日本のアニメをアラビア語に吹き替えていきます。

ある程度吹き替え事業が成功したところで、1999 年にマンナー・ヒジャーズィーがタイガープロダクションと

いう、自らアニメを制作する会社を興していきます。写真の左側の人がマンナー・ヒジャーズィーとその妹さん

で、シリアの 2 本目の長編アニメ映画と呼ばれる『人生の糸』を作った監督です。こちらはスター・アニメーシ

ョンという、後ほど説明するアニメ制作会社の人たちで、右側の 2 人は非常に敬虔なムスリムで、きっちりとス

カーフをかぶって、イスラーム的な雰囲気が会社内にも醸し出されています。マンナー・ヒジャーズィーはアニ

メ制作会社を設立したのですが、日本やほかの国に比べると、高度なアニメ技術を持ったクリエーターがいない

ため、なかなか採算が取れず赤字経営で大変だということを話していました。

そうこうしているうちに、1990 年代に中東各地で衛星放送が開始します。そこでサウジアラビアの MBC、アル

ジャジーラなどが1996年に放送を開始して、そうした人気の後を追うようにして、ウェイス商会の方でも、スペ

ーストゥーン・メディア・グループという会社を設立して、2000 年からアラブ全域に向けて日本のアニメを使っ

て子供向けの放送を開始します。会社のホームページでは 22 カ国 1億 3000 万人の視聴者がいると言っています

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が、これは少し誇張なのではないかと私は思っています。スペーストゥーン・メディア・グループには三つの部

門があり、テレビ・ラジオを放送するメディア部門、玩具販売や食品事業である商業部門、その他のライセンス

と出版関係を扱う三つの部門に分かれています。このスペーストゥーンの番組の 8 割は日本のアニメを取り扱っ

ていて、この会社の責任者は、自分たちは単にエンターテインメントの放送をしているのではなくて、子供たち

のために教育と娯楽を一体化させた「エデュテイメント」を放送して、社会的に意義ある活動をしているのだと

いうことを強調していました。さらに、日本のアニメは非常に質が高くて教育的な内容も多く含まれているが、

アラブ・イスラーム文化に適合しない部分に関しては、現地化(アダプテーション)をする必要があるというこ

とを言っていたのが印象的でした。このアダプテーションについては、後でもう一度ご説明したいと思います。

スペーストゥーン・メディア・グループの中で最も成功しているのが商業部門で、特におもちゃの販売や食品

事業が売上の多くを占めていると言われています。ダマスカス郊外のシーア派地区では、ヒズボラのリーダーの

ナスラッラーを描いたマグカップがあるすぐ脇に、日本の『NARUTO』やピカチュウといったキャラクターの付い

たお菓子がたくさん売られていました。スペーストゥーンのおもちゃについては、日本から直輸入のものやアラ

ブ仕様にしたものがたくさん販売されています。

4.イスラームとアニメ―日本アニメの伝播に対する三つの反応

4-1.受容:子どもたちの間での圧倒的な人気

スペーストゥーンを主な媒体として、最初はテレビの国営放送から、次第に衛星放送を使って、アラブ全域に

日本のアニメが伝播する状況になったのですが、これに対して、受け手の側、主に視聴している子供たちとそれ

を取り巻く社会がどのような反応を示したのかについてご説明していきたいと思います。

1980 年代はまだ衛星放送も開始されておらず、子供にとって娯楽といえばテレビで、その中で放送されている

のが日本のアニメぐらいしかなかったので、1980 年代に小中学校時代を過ごした人たちは皆、日本のアニメを見

ていたというような状態で、広く普及していました。しかし1990年代に湾岸戦争の影響でクェートやレバノンの

アニメスタジオが閉鎖されるようになると、今度はヴィーナス・スタジオによってアラビア語吹き替えされたア

ニメが放送開始されるようになります。

先ほど申し上げた、スペーストゥーンが現地の文化に適合した、現地化したプログラムを放送することを売り

にしていたというのは、つまりイスラーム的に、例えば女の子のスカートが短すぎたり、お風呂のシーンがあっ

たりすると、そこはカットしてしまうというやり方をしていたということです。それによって、『ドラゴンボール』

は七つのドラゴンボールを集めて、神龍に不老不死をお願いするという内容でしたが、神が龍の形をしていると

いうのはけしからん、しかもその不老不死などという個人的な願いはいけないという理由で、七つのボールを集

めて子供たちのために学校を作るという全く違う話に改変されてしまいました。そうなると、もともとの日本ア

ニメが好きだった人たちにとっては冒涜だということで、コアな日本アニメファンはより真正な日本アニメを入

手するためにあらゆる努力をし始めるという状況になり、ファン層の分離が1990年代以降、開始されます。

2000 年以降になるとインターネットが中東でも普及してくるので、インターネット映像放送が普及し、一部の

コアなアニメファンはインターネットでダウンロードしたり、あるいは DVD ショップで入手した日本のアニメを

視聴したりする一方で、スペーストゥーンのアニメ放送を見て育つ一般的な世代がどんどん増えているという状

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況です。

この人はすごくアニメが好きで、医学部を中退して、アニメのクリエーターになった人です。この方は日本の

影響を受けているので一部その感じを取り入れたり、ガンダムがすごく好きだというので、ガンダム系のものを

作ったりしています。また、新海誠監督という日本のアニメ監督がシリアに来たときに上映会をしたところ、か

なりたくさんの人が集まって、すごい熱気でした。ダマスカスは WTO に加盟していないことから、違法の DVD シ

ョップがあちこちにあって、ある店のオーナーは、よく来るのは女の子たちが多く、『NANA』や『花より団子』が

売れ筋だと言っていました。スペーストゥーンのアニメは少年向けのアニメが多いので、女の子にとってはこう

いうDVDショップの方が、少女向けのものを見つけやすいというのがその理由ではないかということです。

4-2.反発:イスラーム的価値観の擁護

このように子供たちの間では受容されたのですが、あまりにも受容され過ぎて、イスラーム的な価値が危険に

さらされているのではないかといった側面から、やがて二つの反発が、シリアだけではなく中東全域で起こって

きます。シリアでの反発の一つの例としては、スター・アニメーションという会社が、アメリカや日本のアニメ

の影響ばかり受けていると、アラブ・ムスリムとしてのアイデンティティが確立できなくなるという危機感から、

アニメ制作会社を設立します。この会社はコーランやハディースを子供向けに分かりやすくアニメで解説した番

組などを制作して、アルジャジーラや、欧米に住む子供たち向けのロンドンを拠点とする衛星放送のために、北

米・イギリスに子会社を作って、ムスリムを対象としたビジネスを行っています。このようにして、イスラーム

文化が危機にさらされているという危機感を基にしたアイデンティティ・ビジネスと言われるようなものが、こ

こで展開されていると言えます。

「ニールーファル」という雑誌も同様な理由で設立された子供雑誌なのですが、この雑誌の中に一部、日本の

アニメのコーナーがあります。この会社の言っていたことで興味深かったこととして、今のシリアのアサド政権

は世俗政権なので、あまりにもイスラーム的な内容が濃すぎたりそれを強調しすぎたりすると、今度は政府によ

って弾圧されるため、イスラーム的すぎないようにしながら子供たちにイスラームを伝えるという微妙な路線で、

価値観をどう伝えるかということで悩みつつ雑誌を作っていると言っていました。

もう一つ大きな社会現象となったのがポケモン事件です。これは、中東の子供たちの間で「ポケモン」があま

りにもブームになったので、サウジアラビアの宗教指導者が「ポケモン」に対して禁止令を出したという事件で

す。この背景には実はビジネスが絡んでいて、「ポケモン」のライセンスを取った会社に対抗するために、別の会

社がそうしたことを宗教指導者に働き掛けて、禁止令を出させたのではないかといううわさも流れているのです。

その背景には宗教的だけではない理由があるとも思われますが、この事件によって、日本のアニメに大幅な修正

やカットを施すということが加速化していくようになります。日本のアニメやマンガは大体日本の市場向けに作

られていて、中東ではどう考えられているかはあまり意識せずに作られていると思いますが、これ以後、実は世

界的に非常に大きな影響を与えているということがこの事件によって認識されていきます。さらに2008年5月に

も『ジョジョの奇妙な冒険』の悪役がコーランを読みながら主人公の殺害を命じる場面があるということで、一

部DVDが出荷停止になるという反発を招いたりしています。

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4-3.適合:日本のアニメの現地化

スペーストゥーンの姿勢としては、中東、イスラーム文化に沿ったものを自分たちが提供するということです。

しかしその背景には、サウジアラビアや湾岸諸国でビジネスとして成功するためには、そうしたサウジの人たち

に配慮したものでないと売れないという、したたかなビジネス戦略として、中東イスラームの文化に沿った現地

化を掲げているという側面があると思いました。もう一つは、スター・アニメーションや「ニールーファル」の

ようなものは、イスラームの価値観をどのように子供たちに伝えるかという面で、両方ともイスラームを掲げて

いるのですが、方向性が若干違う会社が二つシリアに勃興していったと言えると思います。もう一つは、コアな

アニメファンによって、このスペーストゥーンのカット・修正は強く批判されているのですが、やはりビジネス

を成功させるためにはそのままで放映できにくい面があるという、なかなか難しいテーマが日本アニメの伝播の

上であるのではないかと考えられます。

5.シリアのアニメ産業の抱える課題

このように日本のアニメに触発される形でシリアでアニメ産業が次第に勃興してきたのですが、アニメを放映

するスペーストゥーンは大成功を収めているものの、アニメ制作会社の方はその技術力がなかなか日本に及ばな

い、かなりの制作費を使って作ったとしても、コンテンツは日本の方が面白くてなかなか売れないという壁に直

面しています。

もう一つは、中東各国では検閲が厳しく、政治的な検閲の上にイスラームの教えの範囲内でどこまで放送でき

るかということがあるので、その内容がかなり制限される面があります。そのために自由に作品が作れないとい

うことで、若いクリエーターたちは日本や欧米に行きたいという感じで、人材流出の問題点もあります。会社の

側でも、シリアよりも人件費が安い中国やインドで下請けさせ、アニメの加工をしたいというような動きがあっ

たりして、人材流出が起こっています。従って、産業として若手を雇用する一つの産業になり得るかどうかとい

う、一つの問題点がここで生まれているということです。

さらに、せっかく勃興してきたアニメ産業をもう少し政府が保護してほしいという意見もあります。日本政府

はマンガ外交という旗印を掲げてはいるのですが、例えば奨学金で留学したいといっても、例えばアニメ専門学

校に受け入れるような奨学金はあまりありませんし、政府の奨学制度があったしても、大学でアニメを教えてい

るところはあまりないという状況です。それから、マルチクールのビザを発行して、もっと行き来をしたり、雇

用をしたりしてほしいと言われているのですが、これもなかなかうまくいっていない状況です。日本もソフトパ

ワーなどと言っている割には、あちらの要望と、こちらから出せるものがかみ合っていないと感じました。

討論

白石 さや(東京大学大学院教育学研究科・教育学部 教授)

1.世界における日本の漫画・アニメの状況調査の現状

私自身が1989年のインドネシアから始まり世界各国のマンガ、アニメのグローバル化の調査をリアルタイムで

してきており、その意味では私のやっていることに近いので、少々きつい顔をしていますが、そこは差し引いて

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聞いてください。ちょうどこの草稿を頂いた同じ時期に「ポーランドにおけるマンガ・アニメ」という論文も送

られてきたりして、韓国、タイ、スペインなどの状況に関する最新の論文をいつも読ませていただいています。

まず全体から言って、ポピュラーカルチャー研究と、さらにそれがグローバル化していくという二段階の研究が

まだ未成熟・未成立であると言えると思います。すなわち、共有知識や枠組みがまだできていないということで

す。

それから、いろいろな人がいろいろな状況で研究を始めています。今もたまたまシリアに滞在したというきっ

かけで調査をしたということでしたが、韓国やポーランドの調査をしている人も、たまたま調査をしたら面白く

てやりましたということで、スペインやタイでの調査が相互に共有されていません。その結果、今までの研究、

調査が積み重なっていないし、進化していないがために、実はどれを読んでも固有名詞が違うだけで、ほとんど

同じことが書かれているという状況もあります。例えば配給会社がシリアの会社だといいますが、これはほとん

ど世界中がそうです。日本の会社はかなりレイジーでだらしなくて、大体向こう側の会社、または向こうの強烈

なファンが自分で起業してやっているという形で、これも世界共通です。ですから、今日のコメントは共有基盤

をどういう格好で作れるかという提案として、聞いていただきたいと思います。

2.日本のアニメと家族生活との関連

まずお聞きしたいのは家族生活との関連です。日本のアニメ・マンガはやはり基本的には子供と若者を対象に

したものであり、この場合は特にテレビアニメですので、家にテレビがある家族がなければ話が始まりません。

そういうことで、東アジア、東南アジアの場合には、ちょうど世界銀行の統計資料があるのですが、大体人口1000

人当たり100台以上はテレビがないと何も始まらないという感じがします。1998年の段階で、例えば韓国・日本

は人口 1000 人につき 800~900 台、台湾の場合は 900 台以上テレビがあります。そのころ盛んにマンガやアニメ

が入っていると新聞で報道されていたマレーシア、シンガポール、インドネシアで大体120~130台という形でし

た。

ここではアニメだけなのでマンガが出てきませんが、基本的にアニメを観た子供たちがマンガに手を出すとい

う形です。アニメの方が受容が簡単なのです。マンガを一心に読むということは少し骨の折れることで、100人ア

ニメファンがいるとしたら、マンガファンはそのうちの10人ぐらいという、アメリカの場合だとそういう感じで

す。ですから、まずテレビがないことにはアニメが始まらないし、アニメが始まらないとなかなかマンガが始ま

らない。ただ、テレビがあるとキャラクター商品もコマーシャルができますし、スポンサーがつくので、マンガ、

アニメ、キャラクター商品のセットで、少し余裕ができた中間層の家族生活の中に入っていくという形があるよ

うです。

この場合、中間層というのは近代的家族で、子供の幸せが家族の幸せという意味で、ちょうど近代化が進行し

て近代家族が成立している。そこにもう一つ先ほどのグローバルなメディアであるマンガやアニメが入ってきて

いるということで、少しずれがあります。すなわち、この段階ではそういう受け手の側に、テレビを持っている

家族が一定以上出てくるという状況が必要であるということです。ただ、言語の問題があって、シリアの場合、

先ほどお話があったように、シリアだけがマーケットではなく、1回そこでアラビア語に翻訳されると、アラビア

語を使うというマーケットがシリアの外にも広がっています。これはラテンアメリカも同じで、例えばスペイン

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語、ポルトガル語に 1 回翻訳されますと、ラテンアメリカの各国にマーケットが広がります。その意味で、必ず

しもネーションステートだけがマーケットではなく、マーケットはもうグローバル化が始まっているという状況

があります。だから、文化的生産物として、家族生活そのもの、ライフスタイルとのセットで入っていくという

ことを、一つ指摘したいと思います。

2.大衆文化への学術的アプローチの方法

大衆文化への学術的アプローチとして、先ほどポピュラーカルチャー研究とグローバル化研究、二段階で考え

たいと申しました。最初のポピュラーカルチャー研究ですが、アメリカ、イギリスを中心に1990年代から進んで

きた文化研究のいろいろな研究書を大雑把まとめると、マスカルチャー研究というアプローチとポピュラーカル

チャー研究というアプローチに分けられます。先ほどのシリアのアニメ産業に関する報告を少し整理する意味で、

このマスカルチャー研究のアプローチとポピュラーカルチャー研究のアプローチを、少し説明させていただきた

いと思います。

対象物は同じく研究者の研究姿勢の問題なのですが、マスカルチャー研究では、マスメディアの膨張として起

こってきたことだととらえます。つまり、アニメのプロダクション、小学館のようなマンガの出版社という比較

的少数者が生産した文化的生産物が、マスメディアおよび流通経路によって視聴者という大衆に到達して、彼ら

に一定の影響を与え、その結果として文化を均質化させてしまうという見方で研究調査をします。ですから、こ

の場合の主要な調査研究対象は、主体的にそれを行っている出版社、テレビ局、プロダクションという文化産業

となります。先ほど、その意味で、いろいろなテレビ局、タイガープロダクション、ヴィーナス・スタジオなど

の話が出てきました。これはマスカルチャー研究のアプローチであると考えることができます。

ただ、その場合の問題点は子供や若者などの視聴者が受け身的存在であると研究者はうっかり考えてしまうと

いうことです。事例として、1990 年代にシリア系企業によって『キャプテン翼』が紹介され、爆発的な人気を得

たと、紹介されたということと人気が出たということが、ほとんど所与のこととして論じられてしまっています。

後の方ではそうではなかったのですけれども。

一方で、ポピュラーカルチャー研究は、なぜ人気が出るのかというポピュラリティに注目をしようという研究

です。ですから、文化産業研究が言わば川の上流の研究であるとするならば、ポピュラーカルチャーとしての研

究は、下流の受け手の側とその文化的生産物がどういう出会いをしているかという研究になります。どうしてこ

れに人気が出たのかという研究になるわけですが、視聴者が主体的にそこに価値を見いだすということで、多数

の選択肢の中から特定のものを選択するのだと研究者は考えます。従って、消費者が商品に対してどのような価

値を見いだしたのか、どうしてインドネシアの子供たちがドラえもんを面白いと思ったのかということです。ま

た、その両者の出合いにおいてどのような新たな価値がそこで創出されたのかという出会いと消費の現場がこの

ポピュラーカルチャー研究の調査研究の主要な対象となります。

しかし、このアプローチにおいては、文化産業における生産供給サイドと、それを受け入れる消費サイドの間

の圧倒的な不平等性、政治性が看過されやすいのです。すなわち、消費者の方は選ぶといっても、与えられたも

のの中から選ぶしかないという力関係を忘れてしまいがちになります。つまり、「ドラえもんはこんなに面白いか

ら受けたのだ」という見方になってしまうのです。そこではマーケット民主主義を無批判に賛美して、そして大

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量消費が行われているという事態そのものを、そこで文化的価値や意義が創出されているのかというところをク

エスチョンすることを忘れてしまいます。すなわち、マスカルチャー研究者が抱いていた、皆が同じものを消費

したら困るのではないかという問題意識が、ポピュラーカルチャー研究からは抜けてしまうことがあるのです。

そういう意味で、この両方を意識しながら使い分ける、または組み立てていく研究が必要であろうと考えます。

3.国際化とグローバル化のアクターの違い

その感覚で見ていきますと、これは今日の後の討論で使う資料ですが、下半分にグローバル化研究の枠組みと

して、国際化、ネーションステートとグローバル化におけるアクターとの関係があります。実はアニメ研究にも

それが入ってくるわけで、国民国家という主体と、個々の企業、翻訳出版をするような人たち、子供たちがどう

いう関係にあるのかということが、グローバル化の研究では必要になります。つまり、どういう学習過程を経て

この新しい文化を受容していくのかというその学習過程になりますが、その話は一応、今回は置いておきます。

ここでは国家と文化的産業との関係をどう考えるかというデータを幾つか提示してくださっています。シリア

政府のかかわり方、日本の政府もソフトパワーを言っている割には不十分な点があるという話がありましたが、

後で出てきますように、国際化とはネーションステート(国民国家)がアクターになって起こす行動であり、NGO、

博物館、大学、企業、個々人などの国民国家ではないアクターの活動する場のことをグローバル化であると仮に

定義すると、いろいろな読者たちが、またこのシリアの出版社やテレビ局などが勝手に行った文化産業のグロー

バル化に対して、国民国家が「これは日本のものだ」とわざわざ名前札を貼りにいくような行為がソフトパワー

という政策かと思われます。

この場合、特に日本のソフトパワー政策はまだ限られています。私も外務省審議会にいて少し責任があるので

すが、日本のアニメ、マンガ、キャラクター商品を売り出そうという魂胆ありありのソフトパワー政策で、先ほ

ど指摘があったように、シリアにアニメーターを育てる、シリアに日本の形でマンガを制作できるようなマンガ

家を育てるという、向こうの人材を育てるというところにまだあまり目がいっていないという限界があるかと思

います。また、先ほどのシリア政府のかかわり方ですが、要するに政府の役人、官僚であったマンナー・ヒジャ

ーズィーはその後、自ら会社を興しております。これは腰の入ったシリア政府、ネーションステートとしてのか

かわり合い方なのか、国民国家を私物化したマンナー・ヒジャーズィーという人のかかわりなのか、こういうと

ころも、各国それぞれ事情がかなり違いますので、やはり次に検討していく項目であろうと思います。アクター

が誰であるのかと先ほど羅さんが食事文化でおっしゃったことに共通することですが、やはりグローバル化を考

えるときも、アクターは誰なのか、それはどういう関係にあるのかということにつながってくるかと思います。

また、WTOに未加入であるということは、つまりDVDにしろマンガにしろ、コピーしてもまだその国では違法で

はないということです。WTOに加入してしまうと、契約をしていないもののコピーを生産することは違法になりま

すから、何が海賊版か海賊版でないかという間のすり合わせが少し複雑になります。アジアの場合には、まずオ

ーバーシーズ・チャイニーズ・ネットワークを通して出ていきました。日本側の企業や出版社というアクターは

ほとんど何もしておらず、海外に出ていくときには、華僑の文化産業ネットワークを使って出ていったのです。

ですから、初期のマーケットを作るというコストとリスクは、オーバーシーズ・チャイニーズ・ネットワークが

背負ってくれたわけです。そのマーケットができた後で、日本側が彼らは海賊版でけしからんと言っているので

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すが、これは多分日本側がけしからんのだろうと思います。

従って、アイデンティティの問題は、国民国家がどのくらい出てくるのか、宗教がどれだけ出てくるのかにか

かわりますが、これは今日は時間がないので端折ります。しかし、文化として考えるときには、これが基本的に

大切な問題になるのは確かだと思います。

(貫井) どうもありがとうございました。アプローチでどういうふうにすればいいのか分からなかった面もあ

ったので、非常に参考になりました。

意見交換

(フロア 1) 専門外なので質問したいのです。先ほど先生が言われたグローバル化と関係すると思うのですが、

アラビア語の吹き替えは書き言葉で吹き替えをしているという話があったと思います。これは要するに、市場が

アラビア人全部に広がるというか。どの辺までそれが共通の基盤として広がりがあるのですか。イランなどは少

し違うような気がするのですが、言語的にはアラビア人に全部をカバーすると考えていいのですか。

(貫井) アラビア語を話しているのは、西のモロッコから東はイラクまで、一番南はスーダン、あとモーリタ

ニアかどこかで話されていると思うのですが、恐らく「アラブ22カ国」と言っているのがアラビア語圏なのでは

ないかと思います。

(フロア1) それで全体の人口は何人ぐらいになるのですか。

(貫井) すぐには出てきませんが、3億~4億だと思います。

(*イワマ*) *イワマ*と申します。今、白石先生が学問的な面からいろいろ言われましたが、私は民間企

業にいましたので、少し民間企業的な立場から言います。シリアのアニメ産業は非常に面白かったのですが、2008

年の10月からUAEでアニメのキャラクター展を開催していて、去年2回目をやっています。それはUAEの王族の

5番目の息子が中心になってまとめたキャラクター展だったと思います。質問の一つは、ほかに中近東でそういう

ような動きがあるのかどうかです。もう一つは、先生がおっしゃった華人ネットワークを通したものですが、恐

らく香港が主流になって広げていったのではないかと思うのですが、違いますか。台湾ですか。2~3年くらい前、

三井物産が香港の会社に大投資してやろうかという。

(白石) アニメインターナショナルは、日本人のサラリーマンが脱サラして、香港で興したのです。

(*イワマ*) そうですか。その流れで今、広州や深センなどで非常にアニメ産業が発達してきている。ただ、

クリエーターはいるのですが、ストーリーを考える人、コンテンツそのものを考える人が少ないので、そこに日

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本の知恵を貸してくれないかという要望が来ているのです。今、具体的に話があって、NHKエンタープライズなど

につないでいることはつないでいるのですが、今度は日本の供給側の問題がありまして、NHKエンタープライズな

どは、ドキュメンタリー番組はいいけれど、やはりアニメはああいう所でやったことがないのです。結局は、先

ほど出てきた東映アニメや角川などに持っていきます。

そうすると、映画とテレビ番組のアニメのどちらが先になるかというのはあるのですが、それからキャラクタ

ーグッズ、DVDで売り出すということが全部セットになって、利益が出ないとやはり出したくないというところが

あるのです。そうなると、日本のアニメを世界に向けて売り出すときに、政府の援助が必要になるのか、あるい

は民間の場合なら、そういうところできちんと利益を確保していくような手段が取られないと、なかなか出して

いけません。また、マスコミ関係が今まであまりグローバル進出していなかったために、どうしても商社などと

タイアップする。そうすると消費者側からするともっと利益主義になってしまいますので、その辺に問題が少し

あるのではないかと思っているところです。

(貫井) コメントをどうもありがとうございます。ドバイでのアニメキャラクター展示に関しては、恐らくア

ニメ産業がビジネスになることに気付いた UAE が後発的に行ったことではないかと思っています。そういう大き

な規模のものをしなくても、その必要に駆られて、スペーストゥーンのスタジオなどではキャラクターを作った

りすることは1990年代から日常的に行われていると思います。恐らく新しい動きだと思うのは、最近、アニメ学

校のようなものがヨルダンで一つできたという話で、スペーストゥーンがドバイで作ろうとしていたり、サウジ

の会社が、リアの小さい制作会社に出資したりという形で、サウジやドバイの方がアニメ産業に食い込もうとし

ている動きが見られます。

(白石) おっしゃったとおり、アニメ、マンガ、キャラクターグッズというのが込みで利益がないとなかなか

日本側は動かないので、その間にいろいろな個別の零細の海賊版があちこちで出回っています。キャラクターグ

ッズも海賊版が出ていますし、マンガもアニメも出ているという状況です。

また、マンガ、アニメの現地生産の話ですが、マンガにしろアニメにしろ、先ほど見せていただいたアニメも

かなりアメリカの影響が見られます。日本のマンガ家の方々に話を聞くと、やはり顔がアメリカのマンガやアニ

メに似ていて、スーパーマンなどの系統の顔だったりします。

アニメと言ってもマンガと言っても、世界にはいろいろ違うスタイルのものがあります。今ここで話をしてい

るのは、日本のマンガやアニメのスタイルですが、それは多くの場合マンガを基本にして、テレビの連載アニメ

になるというのが商業の中心にあります。劇場用のアニメの方が人目を引きますが、実はアニメ産業として眺め

る場合、連載テレビアニメの方がいろいろな意味で面白いのです。つまり、キャラクター商品を売るためには 1

年間連載しなければいけない。1年間連載すると、子供の誰かの誕生日が来るから、親が子供のためにペンシルケ

ースを買ったり、T シャツを買ったりします。1 年間続かないと、そういう子供のための購入に結び付きません。

ところが、1回30分の間に山があって、その続きを見たいとなって来週に続くという形で、50週ずっと続けてい

くということは、これはかなり高度な文化的技術です。よく日本のテレビアニメのことを低い予算で安易に作っ

てあるという批判がありますが、その低い予算で、ここを押したら視聴者が泣く、ここを押したら笑うというボ

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タンがあって、その泣きボタンや笑いボタンに従って作ると大量生産が可能なそうですが、これはものすごい文

化的財産だと私は思っています。

その面から眺めますと、アジア諸国やこういう新しい国々が作り始めたアニメというのは、特にアメリカや欧

米は劇場用のすごく芸術的なアニメは作れるのですが、大量生産で毎週少なくとも50週間続ける、場合によって

はそれ以上続けていくという、テレビ連載アニメを作るというのは、ほとんど日本の独壇場だろうと思います。

向こうの方からストーリーを描く人が欲しいという要望があるとのことでしたが、絵を描くのがうまい人はどこ

でもたくさんいるのです。ただ、絵を動かすことで物語を作っていく、30 分で山があって、来週も続きを見たい

と思わせるように続けていくストーリー展開ができる人材が育つまでには、なかなか時間がかかるだろうと思い

ます。

報告Ⅲ「NGOのネットワークを支える戦略と原理の考察」

報告者 高橋 華生子(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 助手)

私の発表では、NGOのネットワーク化について考察していきたいと思います。私の専門は東南アジア諸国、特に

フィリピンをフィールドとして、貧困層の住環境開発(スラム開発)における NGO の役割を分析しております。

本日は文化人類学を専門にしていらっしゃる先生方や研究者の方が多いと思うのですが、私は都市計画を専門と

しており、文化人類学のように深くいく学問ではなく浅い学問なので、その点もなにとぞご理解いただければ幸

いです。本日の発表では、主に私のフィールドであるフィリピンの例を用いながら、東南アジアの諸国で行いま

したフィールド調査の内容を取り込んで、NGOのネットワーク化の戦略と原理を検討して、その実態を見ていきた

いと思います。

私が常日ごろ抱いている NGO に関する問題関心は、現代の NGO が持つ社会運動体としての側面と企業組織とし

ての側面、これをどうとらえていけるのかという点です。かつての NGO は、ボランティア精神に基づくいわゆる

フィランソロピー的な団体として位置付けられておりますが、私はその活動の実態に重点を置いてみました。し

かし現在、組織としていかに存続していけるのかという、この点が大変論じられてきております。純粋な企業の

場合は、利潤を利益の拡大に充てるという原則があります。この原則に基づくと、NGOは確かに企業には当てはま

らないのですが、利潤を増やし、それをNGO活動の範囲の拡大に充当すると考えますと、NGOも企業としての側面

を持ち得ているととらえることができると思います。本日はそういった問題関心を踏まえながら発表をしていき

たいと思います。

1.NGOネットワークの促進背景

最初に、NGOのネットワーク化、つまり連帯というものが、どのような背景を持って促されてきたのか、これを

主にフィリピンの例に沿いながら簡単に説明したいと思います。背景の 1 点目としては、市民セクターの総動員

体制、民主化運動の高揚が挙げられます。皆さんもご存じのとおり、フィリピンは1960年代後半から、マルコス

による独裁体制を敷いておりまして、その体制下においては NGO の活動は抑圧の対象であり、その時期の NGO の

活動は大変分野が限定されていました。つまり、個々の NGO が規制を受けながら単体として活動を行っていたた

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め、ネットワーク化には至っておらず、いわゆる大衆運動を引き起こす力を持ち得ていませんでした。それが1980

年代以降の民主化運動を契機として、いわゆる分散していた NGO が集合して活動を展開する基盤が作られたので

す。

2点目には、民主化が進展する中で、NGOの活動が法制度上で容認・推進されるようになったことです。民主主

義体制への転換する中で、NGOは公的な開発パートナーとして位置付けられるようになりました。この法制度の変

化により、NGOが介入・関与できる開発の場面が大変広がったのです。以前は、先ほど申し上げましたとおり、NGO

の活動は農村開発や農地改革といった分野に特化していたのですが、法制度上の地位が向上・確立したことによ

って、NGOが介入・参加できる分野、領域がどんどん多元化していきました。その多元化する中で、個々の領域間

におけるNGOの共同作業が可能になっていきました。

3 点目は、国際的な要因にもなるのですが、アジア開発銀行(ADB)や世界銀行といった国際援助機関が、世界

的な民主化の流れを受けて、NGOのネットワーク化(連帯)を推奨し、より大規模で安定したNGOとのネットワー

ク、パートナーシップ、連帯、これを掲げたプロジェクトを次々と立ち上げていったことです。

4点目として、知識と情報のグローバル化を挙げたいと思います。現代のNGOはいわゆるインターネットといっ

た媒体を通じて、グローバルな規模での情報交換や知識の共有、リソースの共有を行っています。それが促され

た結果、今までは点として、個々の NGO が活動を展開していたものが、線で結び付くようになりました。これに

関しては、NGOの運動のネットワーク化が、必ずしも物理的な場所での実働を伴わないということも示唆している

と言えます。

2.相互補完型ネットワーク

次に具体的なネットワーク化の戦略と原理について見ていきたいと思います。第 1 に挙げるものは、相互の関

連戦略、原理です。これは何を意味しているかというと、異なる専門性を持つ NGO が結び付くことで、特定の問

題に対する具体的な取り組みを提示していく試みです。この相互補完型のネットワークをより具体的に見ていく

ために、フィリピンのNGOネットワークであるTRICORについて説明したいと思います。

TRICORはイスラーム地区にある貧困コミュニティの住宅問題の改善を掲げるNGOのネットワークで、その中心

には三つのNGOが存在しています。一つ目がCOPE、二つ目がUPA、三つ目がCOMです。以上の3団体はそれぞれ

に異なった専門性を持っています。まずCOPEですが、COPEはニーズの組織化を進める人材の育成支援に特化して

います。UPAの専門性は法的サポートの提供にありまして、例えば強制立ち退きやスラム一掃運動に対する反対運

動の支援を行っております。COMは、住民による能動的な開発の支援を行っております。以上の3団体が合同して

ミーティングを行ったり、スタッフの開発も行ったりしています。情報やリソースの共有も行い、スラムコミュ

ニティに対する単なる物質的な援助だけではなく、コミュニティの自立化や居住権の獲得、住民らによる開発活

動の支援といった運動を展開しています。

TRICORの組織を概略図で表すと、真ん中に核となる3団体(COPE、UPA、COM)があります。この3団体がさら

にほかの NGO と連携することにより、3 団体以外の専門性を持つ NGO とのネットワークを広げています。例えば

UPAは法的サポートを提供している団体なのですが、UPAはスラムの劣悪な住環境を改善する技術的なサポートを

提供できないため、若手建築家から成る TAO-PILIPINAS という NGO とのネットワークを築いて、いわゆる法的サ

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ポートと技術的なサポート、両方の面から、スラムの改善を試みています。スラムの住民は、COPE、UPA、COM の

いずれかの団体にアプローチすることによって、このTRICOR内のネットワークにあるNGOとの関係性を築くこと

ができます。逆説的に申し上げますと、この3団体とコンタクトが取れない限りは、TRICOR内のネットワークの

NGOとは関係性が築けないという問題点があります。

TRICOR が実際の現場でどのように機能しているのか、少し具体的な事例から見ていきたいと思います。私が実

際に調査を行った 787 ケソン・コミュニティは、マニラ市中を横断して流れるパシッグ川の支流の土手に位置し

ており、約80世帯が住んでおります。現在、そのマニラを横断して流れているパシッグ川は、政府とアジア開発

銀行による都市再開発プログラムが進められており、本流と支流の部分を含めた川岸や土手に位置するスラムコ

ミュニティを一掃し、その上で公園や遊歩道を建設しようというプログラムを行っています。このプログラムに

よって被害を受けるスラムコミュニティは 1 万世帯と言われています。この 787 ケソン・コミュニティもその対

象地域に指定されています。

強制撤去の問題と物理的な住宅の改善を進めるために、TRICORが 787ケソン・コミュニティにかかわって何を

しているのかというと、まず法的サポートを果たす UPA はパシッグ川の再開発プログラムに反対する住民運動の

グループの組織化を支援しています。実際に作られたグループの中には、4月29日運動グループというものがあ

り、これは 787 ケソン・コミュニティだけではなくて、パシッグ川の開発プログラムの影響を受けた様々なコミ

ュニティが結託して運動を展開しているグループです。また、COMは他のNGOと連携を取りながら、住民らによる

洪水対策、治水開発のプランニングの作成を行っています。このコミュニティは全く洪水対策が取られていない

ため、雨が降ると住居が完全に浸水するという形になっています。ですから、政府にある意味、ここの場所に居

ても安全なのだということをアピールすることにも、住民が自ら能動的に洪水対策を打っていく必要があります。

これをCOMが支援しています。COPEは政府やアジア開発銀行との交渉を行うコミュニティリーダーの育成に取り

組んでいます。相互補完型のネットワークは、このTRICORの例が示しますように、実働型のNGOの活動域を広げ

る試みであると言えると思います。

このように各NGOの専門性や機能を現場で生かしながら、相互補完的に形成されるTRICORのようなネットワー

クがあれば、まず理念を共有した上でネットワークを築いて、そこからプログラムを立ち上げて活動を展開する

NGOのネットワークもあります。つまり、まず問題ありきで、その問題に対する解決法としてネットワークを築く

というものではなくて、まず広域なネットワークの形成があって、そのネットワークが実施し得る開発プログラ

ムを提示していくというものになります。少し類型的な名前の付け方に悩んだのですが、この理念共有型とでも

言うべきネットワークは、問題の提起に重点を置いて、意思決定ヒエラルキーや権力構造、各国政府、国際社会

にインパクトを与えようとする点が特徴的であると言えます。

3.理念共有型ネットワーク

次に、理念共有型のネットワークを、国内レベルと国際レベルの両方から紹介してみたいと思います。まず国

内レベルのものとしては、フィリピンの全国規模の NGO ネットワークである PHILSSA という団体があります。

PHILSSAは開発の諸問題に取り組む57のNGOが参加しているネットワークです。加盟しているNGOの専門性は実

に多彩で、教育問題や女性問題、農村問題、労働者問題、都市貧困層問題などを取り扱う NGO だけではなくて、

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教会組織や大学の研究機関もPHILSSAのメンバーとして参加しています。PHILSSA自体は加盟NGOの大きな傘のよ

うな存在で、加盟 NGO からのリソースを取りまとめ、加盟 NGO 間の交流や情報交換を促す拠点として、また政府

や国際援助機関の窓口として機能しています。

PHILSSAの活動の一例として、PHILSSAと世界銀行が共同して行ったUpscaling Urban Poor Community Renewal

Schemeについて少し触れたいと思います。このプログラムは全国5カ所で行われた、コミュニティベースのスラ

ム開発プログラムです。PHILSSAがこの部分で担当したことは、まず加盟NGOから出された開発案をまとめて、そ

れをベースにプロポーザルを作成して世界銀行に提出し、世界銀行からの融資を取り付けることです。その後の

いわゆる実質的なプログラムの施行は、PHILSSAの加盟NGOとその関連のNGOによって行われました。

PHILSSAのようなネットワークが形成される背景には、まず個別のNGO単体では政府や国際援助機関の支援を得

ることが大変難しい状況があります。いくらNGOの活動が法制度的には確立されたとしても、また、NGOとのパー

トナーシップを世界銀行や ADB は強調していますが、そうだとしても、関係の NGO が開発プログラムの策定や実

施プロセスに直接かかわることは難しい現状があります。PHILSSAのような広域なNGOのネットワーク化は、そう

いった厳しい現状を打破する試みであると言えます。

国際レベルの例については、簡単にACHRの活動について、紹介したいと思います。ACHR(Asian Coalition for

Housing Rights)とは、アジア地域における貧困層の住宅問題に対するアドボカシー活動を展開するネットワー

クで、アジア各国のNGO、その関係者、研究者も参加しています。先ほど申し上げましたTRICORの主要NGOであ

るUPA、その関連のNGOであるHomeless Federation、また、PHILSSAに加盟しているNGOの一部もACHRに参加し

ています。実際に私が ACHR の理事であるタイ人の*ドイ・アバンチェ*さんにインタビューしたところ、ACHR

の特徴とは、具体的な開発活動を行うというよりも、コミュニティ開発や NGO の支援の在り方に関する理論を提

示していく、いわゆるフォーラム的な要素が大変強いネットワークであるということでした。ACHR の目的は、い

わゆる各国の状況や NGO の活動を世界に向けて発信することによって、アジア地域の貧困層が抱える住宅問題を

訴えていくことにあると言えます。

こうした国際的な NGO のネットワークは、いわゆる欧米諸国の NGO や研究者によって立ち上げられて、その後

で途上国の NGO を巻き込んでいくという形のものが大変多いのですが、ACHR の最大の特徴は、アジアの NGO、ア

ジアの NGO 関係者によって作り上げられたネットワークである点です。*ドイ・アバンチェ*さんも強調してい

ましたが、このACHRの試みは、アジアのNGOがリージョナブルなレベルを超えて連携をして国際社会にアピール

しながら、その上で各国政府の政策決定に影響を及ぼしていこうとする点です。これはグローバル化時代におけ

る新しいアドボカシーチャンネルの開拓であると言えます。

4.ネットワーク化の戦略・原理

ここで、今までご紹介したネットワーク化の事例から指摘できることを2点、挙げたいと思います。1点目は、

相互補完型であれ理念共有型であれ、NGOのネットワークというものは、社会運動体としてのNGOの強化につなが

っているということです。すなわち、現場における実働能力の向上、アドボカシー能力の向上、市民活動の動員

の強化、こういった点が、NGOが政府や市場に対するカウンターパワーとしていかに成長していけるのか、この点

を強調していると言えます。

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2点目は、ACHRの例でも申し上げましたが、アドボカシー活動の新しいチャンネルが開発されていることです。

現在の NGO は、国内レベルにおいても国際レベルにおいても、政府に直接アプローチするのではなくて、国際社

会や国際機関などを介して政府の制作に関与して影響を与えようとしています。これは、ACHR のような国際レベ

ルのネットワークだけではなく、TRICORのような国内レベルの活動にも当てはまります。

具体的な例を申し上げますと、これはフィールド調査で分かったことですが、先ほど説明したパシッグ川の再

開発プログラムにかかわるスラムの強制撤去が政府機関によって行われる際に、住民側と衝突して住民の 1 人が

死亡するという事件が起きました。その後、TRICOR はこの事件を引き合いに出して、直接アジア開発銀行に交渉

を行って、アジア開発銀行が政府に非人道的な取り壊し、強制撤去の一切を行わないように勧告を発したという

ケースがあります。これらの点から分かることは、NGOはネットワーク化によって自らのエンパワーメントを図っ

ているだけではなく、国際社会や国際機関の力を利用する術も身に付けてきているということです。

ネットワーク化でNGOの社会運動体としての力を強化させる一方で、NGOの組織力を高めようとする動きもあり

ます。その動きとは、活動の効率化・合理化を行って、規模の拡大を図るものになります。この効率化・合理化

の背景には、日々激化するNGO間の生存競争、一言で言いますと、ドナーの獲得競争があります。NGOが持続的な

活動を行って組織を安定させるためには、活動資金の調達が不可欠です。故に、より多くのドナーをどれだけ獲

得できるかということが大変重要な課題として立ち現れています。このドナー獲得をめぐる競争は、昨今、熾烈

極まりない状況です。

例えば日本の例で申し上げますと、国際協力NGOセンター(JANIC)の統計によれば、非政府非営利団体への寄

付のうちの50%が赤十字に流れており、25%がユニセフです。その残りの25%をめぐって、本当に有象無象のNGO

がドナーの獲得競争を繰り広げているというのが現状です。より多くのドナーを獲得するには、ブランドバリュ

ーを上げて認知度を高めることが必要です。認知度を上げるには、規模を拡大させて、成果や業績を上げること

が求められます。こうした背景の中で今、NGO が効率的で合理的な運営を行う重要性が大変高まってきています。

つまり、かつては地元住民や地元の組織をエンパワーするという理念を掲げていたのですが、これが、エンパワ

ーされる住民をどうやって増やしていくのかという方向転換が起きていることを指摘できると思います。

5.NGOネットワークの変化

このような展開の中で NGO のネットワーク化がどのように変化しているのか。これを国際 NGO である Habitat

for Humanity International のアジア地域での展開を例に用いて、ひも解いていきたいと思います。この発表で

は、Habitat for Humanity Internationalを HABITATと略します。ただし、通常HABITATというと国連の機関で

あるUNHCRを指しますので、その点だけはご注意ください。

HABITATは全米最大級のNGOで、現在100カ国以上で活動を展開しています。その国際的なネットワークは現在

も拡大の一途にあります。HABITATは従来、途上国のNGOとネットワークを築きながら、その活動領域を広げてき

ました。この理由としては、現地のニーズに合った形での開発をすること、そして地元の NGO や住民のエンパワ

ーメントを進めることという目標を達成するために、実質的なプログラムの管理や施行は、メンバーである地元

の NGO に一任されていました。地元の NGO は基本的に独立した組織で、独自の理事会と意思決定権を持っていま

す。つまり、従来の HABITAT のネットワーク化は一見縦関係に見えるのですが、ある種のフランチャイズ制を取

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って、水平的な関係を築こうとしていたことが特徴的と言えます。

しかし、その地元のNGOによる開発が伸び悩み、また、その透明性が問われる中で、HABITATは 2000年以降、

規模の拡大に基づくネットワークの形へと変化させています。この裏には新たな国へのネットワークを広げてい

くために、既存の体制を効率化、合理化させていく点が追求されていることを指摘できると思います。現在、

HABITATのネットワークは、従来は地元のNGOと直接的なパートナーシップを持って結び付いていたのですが、現

在は本部の指揮下にあるナショナルオフィスの中に地元の NGO を組み込む形へと変化しています。これは、ナシ

ョナルオフィスが全国的にプログラムを実施・管理することによって、今までの地元の NGO が露呈してきた非効

率性を是正しようとしているわけです。つまり、地元の NGO は、ナショナルオフィスに従属する組織へと位置付

けが変化しており、独立した組織からナショナルオフィスの一部へと変化しています。この変化から指摘できる

ことは、効率化と合理化が進められる中で、途上国NGOとのネットワークが縦の関係へと変わっており、NGOのネ

ットワーク内での階層化が起きている点です。

6.ネットワーク化の争点・課題

さて、この階層化の問題で、この言い方が正しいかどうか賛否両論あると思いますが、いわゆる先進国の北の

NGOと、途上国の南のNGO、この両者のいわゆる従属的な関係性は何も新しい問題ではありません。たとえHABITAT

の従来のネットワークの形であったパートナーシップのように、形式上は水平的な横の関係性であったとしても、

豊富なリソースを持つ北のNGOが南のNGOをコントロールすること、また南のNGOが北のNGOのリソースを求め

て依存していくという点は、これまでも問題としてずっと論じられてきました。ではなぜここで階層化の問題を

再び論じる必要があるのか。この点について2点、言及したいと思います。

第1に、HABITATの例が示しているように、巨大NGOが効率化・合理化を図る中で、そのネットワーク内にあっ

た NGO が淘汰され、それが途上国の NGO 間の階層化を促している。この点が示唆していることは、組織をどうや

って存続させるか、拡大させるかという理念が、NGO の社会運動体としての理念を上回るものなのかという、NGO

の立ち位置自体を問う問題になっているということです。

第2に、1点目にかかわっていることですが、ネットワーク化の進展が、NGO内での排除と包摂の抗争を生み出

していることです。今回の発表で紹介した TRICOR、PHILSSA、ACHR などすべての団体のネットワークは、そのメ

ンバーとなるには一定の条件を満たして、審査にパスする必要があります。つまり、すべての NGO が無条件にメ

ンバーになれるわけではないわけです。いわゆるネットワークに参加できる NGO と、参加できない NGO というふ

うに、途上国のNGO間においても、ある種、意図的に階層化が進められているという点を指摘できると思います。

NGOのネットワーク化というものは、NGO全体の政治的なスペースと経済的なスペースを拡大させていくことが

基本の原則です。しかしそれが、ネットワークから排除された NGO のディスエンパワーメントにつながる危険性

をはらんでいる点を注意しなければいけないと思います。本当はこういったネットワーク化が持つ排他性の問題

を注意して検討していく必要があると思います。

最後の問題意識として挙げたいのが、ネットワーク化が果たして全体の強化であるのか、それとも集団の寄り

集まりであるべきなのかという点です。これは、ネットワーク化自体の定義に関する問題であるとも言えます。

今回の発表では、ネットワーク化というものをメンバーシップの取得といった、ある種の契約関係に基づくもの

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としてとらえてきました。しかし、持続的で強固なネットワークを追求すれば追求するほど、そのネットワーク

自体が閉鎖的になってしまうという矛盾が生じてきます。このような中で、NGOはネットワーク化とメンバーシッ

プの問題にどうやって取り組んでいくのか、これも今後考えていくべき課題であると思います。

討論

吉川 健治(東洋英和女学院大学大学院国際協力研究科 准教授)

(吉川) 私も NGO には長く携わっており、研究テーマでもあります。地域的には東南アジアを専門にしていま

すので、その意味でも大変興味深い、示唆に富む発表内容だったと思います。ただ、私の勉強不足のところもあ

って、分かりにくいところが幾つかあったので、教えていただきたいと思います。ネットワークの発生の仕方な

のですが、これは何かのきっかけがあってネットワークを作る必要があったのか、あるいは何かネットワークを

構築した方がより解決しやすい争点が何かあったのでしょうか。

(高橋) 恐らく私の説明が下手だったのだと思いますが、一番初めにご紹介させていただいた相互補完型ネッ

トワークは、まず問題があって、それに対してネットワークを築いた方が解決しやすい、そのためにネットワー

クというものの必然性が生まれてきたというものです。それに対して後者は、取りあえず先にネットワークを築

いてしまって、その後からそのネットワークが解決できる問題を提示していくものです。今回の発表では、この

二つの原理に基づいて、ネットワーク化のきっかけについてお話ししたつもりです。

1.NGOのネットワーク化と排除性のきざし

(吉川) ありがとうございます。では、私なりに NGO に関する理解というか、流れという問題、ネットワーク

化に至る背景について少し考えてみたいと思います。まず、1970年代から1980年代の前半までのNGOは、割と政

府のカウンターバランスとして機能していた存在でした。つまり、対立組織としてのNGOです。それが1980年代

以降、グローバリゼーションあるいは東西冷戦の終結という節目の中で、協調関係になるのです。必然性を持っ

た団体であるととらえられてきて、そうすると非常にネットワーク化も進むし、政府からの援助も取りやすくな

るのですが、このような政府や公的機関との協調関係の一つの結果として、例えばMDGsやEducation For Allの

ように皆で取り組んでいこうという機運ができてきました。そこまでは非常に良かったと思うのですが、その後

21世紀に入って様々な問題が起こり国際問題も変化していく中にあって、まさにご指摘のようなNGOに対するい

ろいろな問題が出てきたわけです。

一つは、1990年代には非常に注目されたNGOが、21世紀に入るとあまり社会的なインパクトを持てなくなって

きたという側面があります。それが政府あるいは公的機関との関係性の中から出てくる悪い面なのです。つまり、

援助をもらってしまうと、なかなか相手に対してものを言えなくなってくると思うのです。そうなってくると政

府でも国連でもない市民の組織であるNGOの良さはどこにあるのかというところが問われているわけです。

しかし、NGOの立場になってみると、実際にプロジェクトを動かして実施している中にあって、大きなNGOなら

大きな NGO なりに、組織は維持していかなくてはいけないと考える場合に、先ほど言った排除性のようなものが

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出てきます。実際問題として、それはカンボジアでもラオスでもそうなのですが、特に大きな NGO は経験もあり

ますから、政府との契約が非常にスムーズにいくわけです。そうすると、新規の団体がそこに入ろうとしていっ

たときに、既にやっている団体があるので、そちらと連絡を取ったらどうかという話に当然なってきます。その

ときに、その古参の NGO はもちろん手伝いはするけれど、全体の予算のうち手数料は何%と決まっていて、ある

意味コンサルタントのような存在になってしまっています。これは地元の NGO もそうやっているところがありま

す。

その問題点は、カンボジアにおいてどんな開発をするのか、あるいは参加型の開発、NGOらしい開発をしていこ

うかと話し合う以前に、話し合うのであればまず手数料を払ってくれというような話になってしまう。実際にそ

ういう例が今、幾つかあります。そうなると政府でもない、企業でもない、利益を追求するものでもない、市民

の公益を求めるいわゆる公共財としての NGO という立場が問われてくると思います。公共財ですから、そこには

非競合性と非排除性がなければいけないのですが、明らかに排除性がそこに生じているということは言えます。

2.NGOネットワークの階層化

階層化については非常に面白いご指摘だと思いました。この階層化というのは、やはりお金を出す人ともらう

人との関係性と分かりやすく整理した方がいいと思います。実際に幾つかの NGO の実施例を調べてみると、ロー

カルNGOと連携事業を行っていく場合に、3年なり5年契約を結んで、それで3年目にいったんその評価をして、

4年、5年と続けていく際の評価資料などを見ますと、基本的なその価値観というか、ある程度、日本人なら持っ

て当然という価値観を、例えばネパールの人は持たない。それによって、参加している人が少ないからとか、あ

るいは子供がいると口調が厳しすぎるとか、そういう理由で援助を辞めてしまったりすることがあります。援助

を打ち切られた NGO は、日常の業務ができなくなるので、大問題です。しかし、それはある意味文化などの違い

で出てくることです。

そうなってくると、なるべく日本のドナーが満足するような仕事をしていこうということになり、本当のロー

カルの人が持つリソースで開発していこうということから離れていく。そういうことを考えると、むしろ現在の

NGO では、2010 年代に入って、むしろ今おっしゃったような問題がいろいろ検討されてきているのです。今まで

は●(02:03:40)だという前提があるのです。実際にそういう部分もありますが、今後はきっと批判もされてい

くだろうし、それにどう耐えていけるのかというところで、ここで提示された問題は重要だと思います。

3.NGOの集合行為と差異化の動き

さらに、グローバルな視点でのネットワーク化ということについて、少しお聞きしたいのですが、集合行為だ

ととらえておられましたね。集合行為となると、ある特定の問題について、人が皆で参加して何とかしようとし

た場合に、その問題がある程度完成されると、あとは差異化現象が起きて、いろいろコミットする問題が細分化

されていく。これは、1970 年代のフェミニズム運動がそうでした。フェミニズムということで皆で盛り上がった

けれども、その後は皆、いろいろな問題に細分化されて活躍している。しかし、その人たちは全部分散されて、

そのフェミニズム運動が総体としてなくなったわけではなくて、もし今後、男女平等はよくないというような活

動の根幹にかかわることが起これば、その人たちはまた集合して反対に回る。だから、こういった社会活動とい

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うのは差異化されていくというのが一つの流れであって、公的なネットワーク化が必要なのかどうかという疑問

を持ちました。

最後に、ネットワーク化で一番重要なのは、現場の立場から言うと、いわゆるスラムならスラムの人たちにど

ういうインパクトがあって、どちらがいいのかという問題がある。だから、個々にやってもらった方がいいのか、

ネットワークでやってもらった方がいいのか、それは現場の受益者からの求めに従うという視点も必要ではない

かと思いました。

(高橋) 先生からいただいた点で、特に私も考えていた点が3点あります。まず、NGOが*争議性(02:06:46)

*を失っているのではないかという点を指摘されていたと思うのですが、いわゆる法制度化されて、法人格の取

得やパートナーシップを作ることによって、NGO自体が、例えば政府なり国際機関に対して全くものが言えない状

態になってきて、従属的な関係になってしまう。これまた違った意味での階層化であると言えますので、その点

に関しては先生のご指摘のとおり、NGOが果たして公共財であるのかという、大変重要な点を示唆していると思い

ます。

次の点は、日本とネパールの例を使ってご説明いただいたのですが、結局その NGO が掲げるスタンダードとは

一体何なのか。では、その開発のスタンダードが誰によって規定されていて、誰のためのものなのか。日本の例

で言いますと、例えばJICAが常に日本の方を向いていて現場を向いていないという批判を受けるのは、結局その

ドナーであり、先進国の利益に基づいたスタンダードセッティングだからです。この辺については大変検討すべ

き意見だと思います。

最後の点は、ネットワーク化が果たして必要なのかどうか。これは私も考えていることです。その関係で最後

の課題というか問題意識として、ネットワークが強固なネットワークであるべきなのか、それとも緩い集合体の

ようなものだけを保持して、門戸の広い、ネットワークというより、どちらかというと集合体であるべきなのか。

これは今後、NGOが展開していく中で、現場で考えていかなければいけない問題であると考えます。ありがとうご

ざいました。

意見交換

(森川) 先ほどの白石先生からのペーパーで、グローバル化研究の枠組みについて、国際化とグローバル化が

あって、国際化というのはネーションステートの領域性の運動であり、それに対してグローバル化とは非領域的

なグローバル・プロセスであると書いてあります。私自身の理解だと、国際 NGO というのは、非領域的な主体の

積極的代表選手です。ところが、今日報告した最後のハンドアウトを見ますと、階層化、排除と包摂、メンバー

シップ、そして公共財というのは、いずれも領域性を前提としている概念だと思います。すなわち、今までのNGO

という存在を非領域的なものと見なすことに対するアンチテーゼのようなものが実証的に示されているのではな

いかというのが第1の感想です。

第 2 点は、ネットワークだと思うのです。ネットワークは使う人によっていろいろな使い方があると思うので

すが、平野先生や白石先生も参加された COE で「東アジアのネットワーク構築」というものがありました。私が

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担当したところで最後まではっきりすることができなかったのは、ネットワークは地域とどういう関係があるの

か、あるいはネットワークと社会はどういう関係にあるのかという点です。ただ、社会学者たちは、目に見えな

い社会や空間の存在を前提にして、主体と主体が存在する。主体と主体との関係が存在すればそこにフィールド

があって、フィールドがあれば空間があって社会があるという前提で、ネットワークを論議しています。今回も

この NGO のネットワークについて、理念共有型ネットワーク化の戦略と課題と示されて、組織図などを描かれて

いますが、では、このエリアの地域社会やコミュニティなどとどういうかかわるのか。ネットワークそのものが

コミュニティ化していくのか。そこに問題があると思うのです。ネットワークが閉じている、閉じていないとい

うことは、あまり僕は関係ないのではないかと思います。

(栗田) 今の問いの中で素朴な疑問なのですが、NGOがかかわったいろいろなプロジェクトや地域などがあるわ

けです。その後に、例えばそこの地域の若者が NGO に入りたいから入って、そこに何かかかわっていくというよ

うな、割と顔が見えるネットワークというか、名前が出てくるネットワークのようなものが、その NGO 活動の後

に、継続的に続いている事例などはあるのか。NGOの活動というのは、確かに貧困の対策など、いろいろな社会的

な問題に対して非常に素晴らしい役割はあると思いますし、実際にフィリピンのある地域で何かをしたというこ

とはあるでしょうが、ではそこで A さんという人がその活動に感銘して、何かそれにかかわって、そこでまた何

か新しい運動の芽が出たというようなことは、どれぐらいの割合であるのか、あるいは全然ないのか、割とそう

いうことはよくある話なのか。そういうことが今、森川さんがおっしゃったような、その地域とのかかわりを考

える上では、一つポイントではないかと思いました。

(平野) 森川さんのご発言の中に、白石先生と並べて私の名前も出ました。そのポイントに関して言うと、森

川さんが先に第 4 巻を書かれて、ネットワーク理論をわれわれに教えてくださったので、白石先生も私も第 3 巻

でネットワークを議論したのであって、第3巻が先で第4巻が後ではないということを確認したいと思います。

その上で、似たような混乱が私の中にあるのですが、森川さんから教えていただいたネットワーク理論のネッ

トワークというのは、横なのです。今日の高橋さんのお話は、横の話もありましたが、ご自身もおっしゃったよ

うに、どちらかというと縦のネットワークなのです。階層化という言葉も使われました。しかし、ネットワーク

というのは、基本的にはやはり横なのではないか。それが一つ、少し混乱してしまっているところです。

そこで少し追加で考えると、国際関係をやっている人間からすると、今日の話に即して言えば、各国の地域社

会のレベル、そこが一つ、NGO の活動のフィールドになっています。それからネーションのレベルでやっている

NGOが幾つもあって、一つには国民政府には対抗できないから一緒にやろうよというのでネットワークを作る。そ

れから地域でも国際的な NGO を作って活動をする人たちもいるというので、三層の構造が基本的にあって、その

レベルごとに横のNGOのネットワークという話が基本なのではないか。そこを一つ飛び越して、最後のHabitat for

Humanity International の例などは、縦のネットワークというお話をされているので、少し混乱してしまったの

ではないかと思うのです。

それから、吉川さんにお伺いしたいのですが、確かにおっしゃるとおり、何かの問題について皆でやろうとい

う意味での集合行為があって、その後で、やはり分担してやろうという意味の差異化がある。差異化するともう

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一回ネットワークを作る必要があるので、横のネットワークができるということであって、ネットワークが恒久

的なものであると考える必要はないのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

もう一つ、戦略・原理という表現がキーワードになっていますが、これは戦略の原理ですか、それともネット

ワーク化の原理があって、その原理を実現するための戦略が考えられるという意味なのでしょうか。要旨の下か

ら8行目に、「組織体制の効率、合理化を行い、常にネットワーク内のNGOを統制できる状態を作っている」とい

う文章がありますが、この状態を作るというのは誰かが作るのですか。それが私は分からなかったのです。

(高橋) 平野先生からご提示いただいたコメントとご質問にお答えします。基本的に、ネットワークというも

のはやはり横で展開していくというのはまさにそのとおりで、今回紹介した事例は、三つとも横のネットワーク

の広がりから入っています。HABITAT に関しても、まずは横のネットワークの広がりを作っていました。それが、

効率化・合理化が進められる中で、ある種、縦の関係性に変化しているという点を発表させていただいたつもり

でした。

ただ、私はネットワーク自体が横であるということ自体に対する疑問があります。これはパートナーシップの

問題を考えたときに、一番初めに降ってきた疑問だったのですが、パートナーシップという概念は、基本的にそ

の対等な関係性を設定します。ネットワークも対等な関係性を設定するということが、多分、原則にあると思う

のですが、これは HABITAT の例でも申し上げましたが、これはアジア太平洋地域のみでしか行われていないモデ

ル展開です。それを具体的に申し上げますと、アジア太平洋地域においては、横のパートナーシップ、横のネッ

トワークが機能しなかったのです。そのために HABITAT は、コミュニティにとって一番何がいいのか、コミュニ

ティにとって一番エンパワーメントされる人数がどうやって増えていくのかを考えた上で、横から縦に変えよう

という転換を図っています。ですから、ネットワークが横でなければいけないという問題に対して、アジア地域

の戦略から縦のパートナーシップ、縦のネットワークものもあり得るのではないかということを提示したいとい

う意味を込めて、この発表をさせていただきました。

戦略・原理については、戦略的な原理、またはその原理に基づいた戦略というふうに、二つの意味合いを出せ

ばよかったのですが、それをまとめて「・」で簡略化してしまったので、その点に関しては今後改めていきたい

と思います。ありがとうございました。

(吉川) 確かに昔、NGOネットワークということで、NGOで仕事をするときにネットワークという言葉をよく使

われていたと思いますが、そのほかにフィッシュネットという言葉がありました。つまり漁網のようなもので、

点と点がしっかり結び付いて、何かしらを目的にして、どこが中心だということがないのだということをよく言

っていたということを今思い出しました。やはりネットワークというのは横かと思うのです。

恒久的でなくてもいいのではないかというご指摘についても、少し先ほども申し上げましたが、何らかの解決

されなければならない問題が共有化されて、それに向かっていくときに、皆が集合していくというところでネッ

トワークの横のつながりができてくるわけですが、それがある程度達成されれば、それは解消されてもいいわけ

です。ですから一種、フォーカスでやっていくという方が、人間の集合行為で物事を実現していくための最も有

効な一つの手なのではないかとは思います。

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(羅) 簡単な質問ですが、今おっしゃっているのは、ネットワークというのはヒエラルキーができているとい

う印象を受けました。

(高橋) 両方ですね。

(羅) 両方ですか。国際的な NGO のネットワークを作ることによって、それが必ずいい面だけではなく、幾つ

かマイナスの面も考えられると思うのです。1点目はやはり、それぞれの援助が最小の収支というか、そういうも

のがあると思うのです。それをどのようにして、また共同の意識に向かっていくのかということが気になるので

す。もともとのそれぞれの人間が持っている活動の目標があると思うのですが、それをやる前に、国際的なネッ

トワークに参加していくのか。あるいはそれをしばらく置いておいて、そういう国際的な NGO の活動に参加する

かということを決めなくてはならないということです。

また、お金の問題がやはり気になりました。場合によっては NGO が市民団体と訳されることもありますが、ど

ちらかというと非常に純粋で、ハングリー精神もあるというイメージがあるのです。しかし、活動するためには

やはり財政的なものがかかわってくるので、お金を獲得するという競争をする中で、やはり透明性がかなり問わ

れていくと思うのです。その関係はどうなっているのか。また、それだけではなくて財政の獲得問題や、NGO同士

がネットワーク化することによって、そこからまたNGOの政治化という現象が起こるのではないか。そうすると、

最初に思っていた純粋な意味のNGOというのが少し見えにくくなるのではないかと思います。

市民団体という観点からは、何か問題を感じている権力側と NGO が立ち向かうという姿勢が非常に必要かと思

うのですが、国際機関から財政をもらうことによって、物事をはっきり言えない立場になったりする。そういっ

たところが非常に問題になる可能性があると思います。

(高橋) まず、お金の問題に関して申し上げますと、発表でも若干触れさせていただきましたが、やはり透明

性が問われています。さらに重要なのは、NGOの等責性と言われるものです。基本的には、NGOは開発活動に対し

ても責任を負わなくていいのです。言い方がかなり悪いですが、やり逃げができる存在なのです。例えば政府が

同じことをやって、プロジェクトが失敗すれば、その国に対して補償を行わなければいけないわけです。ただNGO

に関しては、失敗してそのまま逃げてしまうことができる。この問題に対して、どうやってその NGO が私たちは

違うのだということを言えるかどうか。その等責性という問題が、その透明性とともに重要になっていまして、

この二つの向上がドナー獲得競争の中で一つのアピール材料として立ち現れているのが現状です。

効率化や合理化が進む中で、理念がどうなっているのかということなのですが、効率化・合理化が進むからと

いって、別にその NGO が理念的に縮小しているわけではない。それは国際 NGO の例でもそうですし、国内の同じ

ような例でもそうですが、一人一人の個人のモチベーションは大変高いのです。この裏には、NGOというものが一

つのキャリアジョブになっている。NGOで働くということは、国際機関で働いたりJICAで働いたりすることと同

じくらいのステータスに、特に発展途上国ではなっています。このような中で、個々の個人のモチベーションと

いうものはすごく高いです。ですから、理念はある。

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ただ、先生がご指摘されたように、様々な利害関係、例えば政府との関係や国際援助機関との関係の中で、そ

こをどうやって調整していくのかという政治に巻き込まれていくときに、その理念の問題をどうやって保持して

いくのか。その点に関しては、今後のNGOが確かに考えていく課題だと思われます。

(白石) 時間が来たので、問題を形だけ出して、あとは5時からのディスカッションで議論したいと思います。

まず NGO とネットワークの議論が交互にあまり区別しないで出てきたように思うのです。確かにネットワーク化

していない NGO もあります。ただ、ネットワーク化していない NGO は、今日の問題提起の列にあまり入らない、

あまり問題が起こらないと思うのです。今日はとても重要な問題を指摘されていて、それは5時10分からのディ

スカッションで、もっと討論したいと思うことなのです。

NGOというのは、ネットワークのうちの一つであると考えます。それから先ほど国際化とグローバル化があって、

国民国家ではないアクターが活躍するのがグローバル化だと言いましたが、このグローバル化の中で国民国家と

お互いに利用し合ったり、または国民国家の主権を脅かしたりする力を持つのは、今日指摘されたような、大き

なネットワークになったネットワークでしょう。このネットワークの中の NGO もあれば、例えば国境なき医師団

のようなものもある。それから私は、アルカイダも入ると思うのです。だから皆さんが NGO の人たちは真摯にや

っていると言われたように、アルカイダのメンバーたちもすごく真摯にやっている人たちだと思うのです。その

アルカイダも入れば、フィリピンのこういう住宅関係の NGO も入る、そういうものとしてネットワークをどう考

えていくかという問題だと思うのです。

そのときに、ネットワーク自身はまずクラスターとして集まりますし、それからクラスターとクラスターの間

が弱い絆で結ばれている。しかし、この弱い絆は非常に大切で、今まで A のクラスターが持っていた新しいアイ

デアを B のクラスターに移すという意味で、この弱いクラスターとクラスターを結ぶ絆はすごく大切なのです。

さらに、こういうものが集まるとハブができます。先ほど大変面白い例を出してくださったのですが、新しいNGO

が入ってこようとするときに、既存の NGO にコンタクトを取れとか、そこに入れとか言われてしまう。そういう

意味で、ネットワークに時間軸を持ってくると、それはどんどんハブ化が進むということになってきます。そう

すると、割と縦関係が出てくる可能性があって、その極端な例としては、Windowsというプログラムを持って独り

勝ちするという形も出てくる。

独り勝ちでなくとも、私たちが例えばインターネットに入ろうとするときに、ランダムにあちこちに入ってい

くことはまずやらないで、もう何百億というノードがあるわけですから、大体 Google に入るか Yahoo に入るか、

幾つか決まっているわけです。そこに入ると、そこがたくさんハブを集めているから、そこからどこにでも行け

る。集まれば集まるほど、もっと皆がそこに集まってくるという意味での巨大ハブがどんどん今できています。

そのネットワーク理論を使うと、NGOなどグローバル化の中のアクターが、良い意味でも悪い意味でも国民国家を

脅かすようなアクターに成長しつつあるのだろう。それを今日は報告してくださったのではないかと理解しまし

た。

報告Ⅳ「(仮)アジアにおける芸術交流」

報告者 五十嵐 理奈(福岡アジア美術館 学芸員)

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1.はじめに

今日は福岡から来ましたが、2日前にバングラデシュから帰ってきたところで、1カ月半ぐらいバングラデシュ

の現代美術の調査をしておりました。バングラデシュに現代美術があるのかと思われるかもしれませんが、まさ

にアジアに現代美術などあるわけがないと思われていたのが70年代終わりの日本の状況です。そういう時代の中

で、福岡市美術館が1979年にできていて、そのオープンしたときの記念の展覧会として、アジアの現代美術を紹

介しています。そのときから福岡ではアジア美術を取り上げて、日本の中で紹介していって、それからアジア美

術を通して「美術」というものの概念について、美術の考え方自体も西洋から入ってきたものですが、それをも

う一度アジア美術を見ることによって問い直していこうという理念を持って活動しています。

今日皆さんのお話をずっと聞いていて、皆さんが使われる「伝播」という言葉に私は何となく違和感があった

のです。それが何かと思っていたのですが、やはり皆さんは研究者として、NGOや組織文化を対象として見ている

のですが、私の場合は自分自身がまずアクターなのです。自分自身がやっていて、自分自身が美術館の一人のメ

ンバーとしてネットワークを作っている。美術館で展覧会をすることでネットワークができてくるのですが、そ

れを私がまた見なくてはいけません。すなわち、アクターであると同時に研究というか自分自身を客観的に見な

くてはいけないというところで、何となく違和感を覚えたのだろうと思いました。

私は福岡アジア美術館という所で 7 年間学芸員として仕事をしていますが、もともとは文化人類学を専門とし

て、バングラデシュでずっとフィールドワークをしていました。普通、美術館というのは美学や美術史などを勉

強した人が入ることが多いのですが、福岡アジア美術館の場合は、そのような西洋オリエンティックのようなも

のを勉強した人だけではなく、現地でフィールドワークができる人や、イメージのファインアートと言われる、

普通は美術の中に入らないような造形表現でアジア地域を見ることができる人が必要なのではないかと考えてい

たことから、私を雇っていただきました。そういう意味でも福岡アジア美術館は、ほかの日本の美術館とは少し

毛色の違う美術館ではないかと思います。

今日お話しすることは、去年福岡アジア美術館で開いた「第 4 回福岡アジア美術トリエンナーレ」についてで

す。トリエンナーレとはイタリア語で、3年に1度の国際的な現代美術の展覧会という意味です。アジア美術館で

は今回 4 回目になりますが、その大きい展覧会というのが、どのようにしてアジアの中での美術のネットワーク

によって支えられてできてきたかをまずお話ししたいと思います。次に、恐らく美術館で展覧会がどのようにで

きているのかというのは、皆さんお話を聞かれたことはあまりないのではないかと思うので、アジア美術館につ

いて簡単にお話をします。次に、世の中がアメリカの展覧会や印象派などの展覧会をオープニングの展覧会にす

ることが多かった時代、1979 年に福岡市美術館がなぜアジア美術展をオープニングの記念の展覧会としたかをひ

も解いていこうと思います。それが、福岡のアジア美術館がどのように美術のネットワークを作ってきたかとい

う証になっていくと思います。

2.現在の福岡アジア美術館を支えるもの―第4回福岡アジア美術トリエンナーレを事例に

最初に、去年行いました「福岡アジア美術トリエンナーレ」という展覧会についてです。2カ月ぐらい会期があ

りまして、参加した作家が43組で、21カ国地域から参加をいただいています。予算はいろいろな助成金などを含

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めて、1億円ぐらいの規模の展覧会になっています。資料に挙げられている国々に学芸員が直接調査に行って、ア

ーティストに会ったり、スタジオや美術館、ギャラリーに行ったりして、展覧会の準備をしました。

アジア美術トリエンナーレは1999年に始まったのですが、それからちょうど10年たって、今回は2009年とい

うことで、10周年記念展になっています。1999~2009年の10年間に、アジアの経済状況は非常に変わりました。

経済状況が変わるということは、もちろん美術のマーケットもできますし、アーティストたちも自分の国の中だ

けで作家活動をしているのではなく、様々な国でかなり破格の値段で作品を売ったりなど、いろいろな変化が生

じています。そのような激動の時代をどのように作品に反映させているかということも含めて、展覧会を今回行

ったわけです。

43 組の作家が参加する展覧会で、私たちが一番大切にしていることは、まず現地調査をするということです。

先ほど幾つか国名が出ていましたが、アジア各地での現地調査を 2 人ぐらいが組になって、作家に会って話を聞

いて、作品を見てインタビューをする、先ほどの21カ国地域で、行ける所はできるだけ行って話を聞くというこ

とをしています。また、どうしても予算的時間的に行けない場合は、現地のアジアの作家や研究者、学芸員、評

論家などに協力を得て、今どのような作家が元気がいいかを聞いて回るということをします。そのような方法を

取って調査をするというのが、最初に私たちが展覧会を作るときにすることです。

その上で、参加作家の選考を行います。一つの調査には1~2週間ぐらい行くのですが、そこで会う作家は100

人ぐらいいるのです。その作家の顔写真とともにその作品と経歴に関してスタッフに対してプレゼンをします。

それがスライドに示した「内部選考案の作成と議論」というところです。その中からふるいに掛けて、少し作家

の人数を減らしていきます。それから今度、これが本番ですが、出品作家選考協議会に外部の委員の先生を招き

ます。アーティストや日本の美術評論家の方ですが、そのうちの 2 名以上が日本以外の国の評論家や作家の人か

ら構成する委員会を作ります。2009 年のときは 2009 年 1 月ごろにこの委員会を開いているのですが、79 年から

の福岡市美術館とアジアとの様々なやり取りの中で、このような問題についてはこの人がよく分かるというネッ

トワークが築き上げられているので、そのようなネットワークをうまく使っていい人を連れてきて、委員会を開

くようにしています。今回は21カ国・地域の中から、一つの国に対して3~11作家ぐらいの候補を選び、それを

私たちが先生方に対してプレゼンをし、延べ129作家のプレゼンをした中から43作家を選んで展覧会を作るとい

う方法で作ってきました。

作家は選んだ次は、どのような作品を展示するかを決めなければなりません。それは、まずテーマを決めると

ころから始めます。今回は「共再生―明日をつくるために」というテーマを作りました。普通、このような国際

展というのは、まずテーマがあって、そのテーマに合う作家を選んでくるというやり方をすることが多いのです

が、アジア美術館では、まず調査をして、その調査の中から同時代のアジアの現代美術作家たちが表現している

ものの共通性を探していって、そこから一つのテーマを抽出し、そこからそのテーマに合うような作品を選んで

いきます。

そして 100 点程度選んで、作品には大きな彫刻や絵などいろいろなものがありますが、それをアジア各国、ア

ジアだけではなくて、例えばアメリカ在住のベトナム作家など、そのような人たちもたくさんいますので、その

ような国々から作品を輸送して保険を掛けて通関をするという業務をしていきます。例えば作品を輸送するにも

箱がきちっとできているかどうかとか、保険をきちっと掛けているかどうかというのも、1979~2009年の30年間

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に、そのような技術などもすごく変わっていますし、日本でそのようなパッキングをしているのを見たアジアの

学芸員の人がそれをまねてやってみたり、そのような意味での技術移転というか、盗み見て学んでいくというの

はお互いあることでした。その後、展覧会の会場の空間レイアウトを考えて、展示の作業をしていくというよう

になっていきます。

次に、今回の展覧会の会場風景をお見せしようと思います。これは 30m ぐらいある、木でできたニシキヘビの

インスタレーションです(#7)。あるいは、映像作品やインスタレーションなど、部屋自体を作って、作品をお見

せしています(#8)。また、アジア美術館の外、地上 10m ぐらいの所に、これはフィリピンの作家ですが、300kg

ぐらいあるFRPという樹脂でできた彫刻を上から吊すという展示をしています(#9)。

そのほかに、今は絵や彫刻などの展示をお見せしましたが、アジア美術館でやっているこの展覧会のときには、

ただ動かないものだけをアジアから持ってきて見せるというだけではなく、作家自身を呼んで何かするというこ

とをしています。いろいろな種類がありますが、一つ大きいのは長期滞在制作と言って、新作を例えば 3 カ月く

らいかけて福岡で作ってもらいます。半分現地で作っておいて、持ってきてフィニッシングを福岡でやるとか、

あとはワークショップと言って、福岡の市民と美術をとおした交流作品制作を行ったりします。それから普通に

講演会とか、あとは福岡の街をリサーチして、そのリサーチに基づいてプロジェクトを作るような作品もありま

す。これはイベントやパフォーマンスなど、非常に多岐にわたります。

この2~3カ月間の展覧会の会期中に、30人ぐらいの作家がひっきりなしに出たり入ったりしてきますので、そ

の人たちとご飯を食べにいくとか、そこでたまたま一緒になった、例えばバングラデシュとパキスタンの作家が、

もともと国同士はとても争っていたけれども、福岡という場所で出会って、帰ったら一緒に何かプロジェクトを

やろうというように、福岡という場所で、現地ではあまり出会わないような作家たちが出会うというような、場

を提供することにもなっています。

これはカンボジアの作家で、カンボジアの川の神様、マカラをボランティアさん 300 人ぐらいが一緒に 3 カ月

間をかけて、90mのヘビのようなものを作りました(#11)。そのようにして、市民の人と作家とが美術をとおして

交流するということを進めていて、アジア美術がなるべく福岡の人にスムーズに入っていくように、いろいろな

努力をしています。ですが、結構難しいものです。また、プロジェクトリサーチをして、作品を作っていくとい

う作家も呼びました(#12)。あるいは、市内の小学校や中学校に行ったり、小学校・中学校の人たちが美術館に

来て、国際交流プラス、美術をとおして自分を表現するということを学んで、すごくフリーになって帰っていく

子たちがいて、とてもほほえましいです(#13)。こういうワークショップをたくさんしています。

3.福岡アジア美術館の理念と使命

今お見せしたような規模を持ち、たくさんの人が出入りする展覧会が、どのようにして支えられているかとい

うことを次にお話ししていきたいと思います。

トリエンナーレやビエンナーレという国際的な展覧会は、その展覧会のためだけにスタッフの人が集められて

準備をして、展覧会が終わったら解散して終わりというのが普通です。しかし、私たちは、美術館が美術館の毎

日の仕事をしながら、このような国際展を開催しているのです。その展覧会のためだけに人が集まって解散して

しまうと、そこで知り合った人やネットワークはまた全部分かれてしまいますが、美術館でやっているというこ

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とは、美術館はずっと続いていくので、そこで出会ったネットワークがずっと蓄積されていきます。それで中の

スタッフが変わっても、連絡先などはもちろん残っているので、それがずっと積み重なっていって、ネットワー

クの層が厚くなっていくというのが、美術館が行っている国際的な展覧会の良いところではないかと思います。

福岡アジア美術館は、1999年、アジアの美術交流におけるハブ的な存在になることを目指して設立されました。

特徴としてはアジアの近代と19世紀以降、近代・現代の美術作品を系統的に収集・展示している世界で唯一の美

術館です。それから、先ほども申し上げたレジデンスプログラムと言って、作家や研究者を 3 カ月間滞在させて

作品制作をしてもらったり、レクチャーをしてもらったりということをしています。もう一つ大切なのが、私も

この間まで行っていたアジアの近現代美術に関する現地調査を継続的に続けています。このようなものに支えら

れて美術館運営がなされています。

私どもの美術館の理念と使命ですが、アジア美術とは何なのかということです。今日の趣旨のところでも「ア

ジアの社会文化の建設は可能なのか」ということが出ていましたが、それはアジア美術は可能なのかということ

にもかかわってきます。では、どのようなものがアジア美術なのかということで、西洋からの美術のシステム、

学校、あるいは美術大学が入ってきたり、展覧会というシステムが入ってきたり、その制度として美術というも

のが日本をはじめとしたアジア各国に入ってきました。最初は一生懸命それを学んでまねしていくのですが、だ

んだんそうではなく、日本と同様、アジアの人たちも自分たちの美術は何だろうということを探していくように

なります。そうして西洋美術の模倣でもなく、伝統の繰り返しでもないアジアの美術を探していくということを、

アジアのそれぞれの国の人たちもしていますし、私たちもしているのです。

そのような作品を紹介することで、私たちが「これは美術作品だ」と思っているものだけが本当に美術作品な

のだろうかという。私たちが持ってしまっている既存の枠組みそのものを、具体的に展覧会や作品などをとおし

て問い直してみようというのが私どもの美術館でやっていることです。口で言うのは簡単ですが、実際にこのよ

うな作品を探してきて、展覧会を作って人に伝えてとなると、具体的にやるのはなかなか難しいことですが、私

たちはこれが使命と思ってやっています。

このような使命に基づいて展覧会をし続けてきた結果、ネットワークが出来上がっていたと、はたと気付いた

という感じです。もちろんネットワークを作りたくて作ろうと思い始めたわけではなく、このような使命に基づ

いてやっている中で、ネットワークが作られてきたということです。そのネットワークの最初と位置付けられる

のが、福岡市美術館が 1979 年にできて、そこから 1999 年に福岡市美術館が持っていたアジアの作品だけを持っ

て、独立した福岡アジア美術館でした。その展開にこそ、アジアにおける福岡とアジア美術とのネットワークが

見えるのではないかと思います。

4.福岡市美術館の誕生と展開

4-1.黎明期

次に、福岡市美術館の誕生から振り返ってみます。黎明期、転換期、大躍進期と分けています。まず福岡市美

術館は、日本の中で1950年代ぐらいから、各県に一つの美術館という感じでどんどん美術館ができていく時代が

ありますが、その中で少し遅い時期ではありますが、第 1 次のピークを迎える最後ぐらいに、福岡市でもやはり

福岡市美術館を造ろうということで、話が動き始めました。その開館の記念としてどのようなテーマにしようか

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といったときに、福岡市美術館の準備委員会の学芸員たちは、アメリカの現代美術展をやろうということで、ア

メリカに調査にも行って準備していましたが、そこでトップダウン方式で全く違うアイデアが生まれて、学芸員

たちは無理やりに、アメリカをあきらめてアジアをやらざるを得なくなったわけです。

アジアの現代美術の展覧会をオープニングにしようということになった基本的な土壌として、まずは博多の歴

史的な背景があると思います。中世のころからアジアなどの貿易都市として栄えていて、日宋貿易や博多の商人

がいたり、禅寺の僧侶がいたり、あと、日本初のチャイナタウンは実は博多が最初だったという歴史があります。

そのようにメトロポリタン的なというか、いろいろなものが出入りする歴史的背景があったということを、福岡、

博多の人たちは非常に自負しているところがあります。

それがまず土壌としてある上に、IAA(国際美術家連盟)の決議があります。これは国際的な組織ですが、1973

年に第 7 回の総会があり、そのときに「世界の文化圏ごとに美術家は自国の伝統を見直し、時代の要求に応える

新しい美術を創造しよう」という決議が採択されたのです。それを聞いた日本委員会の人たちが、自分たちもそ

れをすべきだと考えて、アジア各国のそれぞれの所に行って美術状況を調べ、一方で日本国内において、アジア

現代美術展をやってもらえるような所はないかと、いろいろな美術館に働き掛けたらしいのです。それに応えた

のが福岡市だったのです。

福岡市がそれに応えたのには、いろいろな理由があります。一つ大きいのは「福岡市長と玄洋社」と書いてい

ますが、70 年代当時の福岡市長は進藤一馬という人だったのですが、彼のお父さんは玄洋社立ち上げのメンバー

だったのです。これは旧福岡藩士結成されたアジア主義を掲げる政治団体で、ボースをかくまうなど、いろいろ

なことをしています。その息子である進藤一馬自身も玄洋社のメンバーでした。そのようにアジアとの交流も非

常に強く求めていた市長だった時代に、IAAからアジアの現代美術展ができないかという話があり、福岡市に一つ

美術館が欲しいと市長が思っていたといういろいろなものが同時に合わさって、「福岡市美術館のオープニング記

念展は、アジア現代美術展でいこう」というように、学芸員たちのアメリカの展覧会をやりたいという気持ちと

はよそに、トップダウン方式で決まってしまったのが、もともとの始まりでした。

そのために、学芸員による調査に基づかない展覧会になってしまいました。それから、その IAA という組織の

作家の人たちとアジアの作家たちと相互交流をしようという国際交流的な含みが非常に強く、キュレーションさ

れた展覧会ではありませんでした。もちろん学芸員たちもアジアに行ったこともなければ、一体誰に言って大き

な絵などを通関して保険を掛けて、きちんとパッキングして壊れないように持ってくることができるかが分から

ないので、取りあえず各国の政府や文化庁などの偉い方々に頭を下げてお願いして、輸送作業などをしてもらい

ました。ということは、作家や作品選考を自分たちでしないので、例えば文化庁と懇意にしている非常に有名な

作家の作品がそのまま送られてくるというように、第1回はなってしまったのです。

展覧会の方式としてはそのようなものだったのですが、アジアの現代美術展をするということに決まった後の

各界の反応として、まず日本の美術界は「アジアに現代美術などあるのか」という非常に冷ややかな態度でした。

また、行政も美術のことなどは考えなくて、まず交流がしたいというのが最初にあったので、アジア美術に対す

る関心もほとんどなく、冷ややかでした。当時の学芸員だったスタッフに聞くと、いまだに「あれは本当につら

かった」と言います。実はこのような反応は、今も日本の美術界には少なからずあります。

では、アジアの美術界の反応はどうだったのか。第1回のアジア美術展は13カ国の作家、作品を集めたのです

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が、マネジメントするために一応調査には行ったわけです。そうしたところ、そこで出会った作家の人たちが、

自分の国の近代美術史が抱える問題について、非常に情熱的に調査に行った学芸員の人たちに話をしました。そ

してその作家や学芸員たちが、同時代のアジア美術が一堂に会して見られるというチャンスを福岡が作ってくれ

ることがいかに重要なことなのかを、大変情熱的に語ったのだそうです。アメリカの現代美術展をやりたいと思

っていた学芸員の人たちは、それを聞いて「そうだったのか」と思い、だんだん学芸員自身が変わっていくので

す。そのような調査の中で、アジアの美術と向き合って、自分たち自身がそれぞれやはり欧米の美術を勉強して

きた人たちばかりですので、そのような美術館の在り方を問い直していくという変化が起こってきたのです。

4-2.転換期

第 1 回は先ほども申し上げたとおり、あまりキュレーションもされていない、とにかく作品を持ってきて並べ

たという展覧会でしたが、その後、転換期が訪れて、展覧会の内容が変化していきます。すなわち、アジア美術

をただ紹介するだけではなく、作品から美術という概念を問い直すような展覧会を作るようになっていきます。

アジア美術展は5年ごとに行われますが、第1回を1980年に行った後、85年、90年、95年と続いていくうち

に、その展覧会に付随させて特別部門が設けられることになっていきました。そこで取り上げられたものには、

バリの美術やリキシャ・ペインティングがあります。リキシャとはバングラデシュに走っている自転車で動く人

力車で、もちろん日本から輸出されていったものです。過度に装飾がされていて、ビニールもピラピラくっ付い

ていれば、後ろにはめられたブリキの板にもいろいろな絵が描いてあり、それが政治色を表していたり、あこが

れのものを描いてあったりいろいろです。

リキシャは、バングラデシュでは普通にタクシーとして使われていて、別に美術作品でも何でもありません。

それを、アジアの各国の中でこれこそがファインアートや美術であると。美術大学を出て、油彩画や遠近法、写

実的な描き方を学んで、「私は美術作家です」と言って美術の作品を描けるようになった人の作品だけを「美術」

として取り上げていていいのだろうかという疑問を福岡の方では持っていて、このような都市の中にある民族芸

術だったり、大衆表現だったり、様々な造形表現の中に美術を見ることができないだろうかということで、それ

を特別部門で見せていこうとしたのです。このように、西洋美術の枠組みに入れない美術の紹介に努めており、

その姿勢が99年に福岡アジア美術館ができるときの設立理念の伏線になっていきます。また、そのほかに福岡市

美術館の中では、アジアで非常に目覚ましい活動をしている現代作家の展覧会をするようになっていきます。

こうして回を重ねて第 4 回アジア美術展までやった後に、独自の展覧会方式が確立されていきました。また、

第 1 回のときは調査がよくできませんでしたが、次第に学芸員自身が調査をするようになっていきます。それか

ら最初は国レベルの機関とやり取りをするしかなかったところが、ギャラリーやそのほか、オルタナティブスペ

ースと言って作家たちが自分たちで自主的に作っているグループなどの助けを借りて関係を作ることができるよ

うになっていきます。そのようなところから作品を選んでもらったり、推薦してもらったりなどすると、国の政

府の人たちがいいと思う作品とはまた違う作品が選ばれたりして、非常に多様な選択肢が出てきたということが

あります。

その展覧会も、ただ22カ国地域の、バングラデシュはこの作品、インドはこの作品と、国ごとにこのような作

品があるという紹介の仕方ではなくて、同時代のアジアに共通するようなテーマ、例えば「太陽としてのリアリ

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ズム」や「日常の中の象徴性」などのテーマを設けて作家・作品を学芸員が選びます。つまり、キュレーション

がきちんとなされた、その展覧会をとおして何かを主張したいという展覧会になっていったのです。

90 年代に入ると、パフォーマンス、ワークショップ、インスタレーションという、絵を描くだけ、彫刻を展示

するだけというのとはまた違う、新しい表現手段を取るようになります。第 4 回展が 1994 年に行われましたが、

そのときに非常に全国のマスコミから注目を浴びまして、その結果、福岡アジア美術館が誕生したわけです。

5.福岡アジア美術館の誕生とそれからの10年

福岡アジア美術館は、福岡市のアジア戦略の中にも位置付いております。福岡市がアジア戦略を打ち出したの

が1989年ですが、それよりも前の79年、10年も前にアジアとのかかわりを作り出していたということで、非常

に福岡市の中から福岡市美術館が評価を得るというような逆の動きがありました。

では、アジア美術館なり福岡市美術館がやってきたことが、アジアの美術界においてどのような影響や評価が

あったのか。涙なしに聞けないのは、「アジア美術館なしに、アジアの美術は語れない」と言ってくれる作家の人

たちが何人もいたということです。70~80 年代当時、アジアの作家が国際的にデビューする場合、福岡でまずデ

ビューしてそこから広がっていくということが多くありました。また、展覧会をすることによってアジア美術界

から作品を購入していったのですが、それは値段を決めるということなので、それによって全然美術マーケット

がなかったアジアのある地域に、このサイズの油彩画が 100 万円で売れたということになれば、それはあっとい

う間にうわさとして広まるので、ある美術マーケットのベースのようなものを作ってしまったということです。

これには良いところと悪いところがあると思います。また、福岡で展覧会をすることで、アジアの各地では会わ

なかった作家たちが福岡という場所で会うことが起こってきました。そこで出会った作家たちが今度それぞれの

国に帰って新しく自分たちだけで違う展覧会をするというように、関係が展開していきました。

影響や評価はいろいろ変わっていくものですが、この10年間のアジア美術の大きな変化が二つあります。一つ

は、有名なヴェネチア・ビエンナーレのように、ヨーロッパで国際的な現代美術の展覧会をするだけではなく、

2000 年以降アジアにおいて国際的な現代美術展などがたくさん開かれるようになりました。それはアジアの作家

のチャンスが増えるということですが、それと影響し合って、オークションなど、アジアの美術市場が非常な活

気を呈するようになりました。例えばアジア美術館が 90 年代に購入した 200 万円の絵画作品が、3億~4億円と

いう金額で今取引されるというほど変わってしまった状況があります。今はまた経済不況で少し落ち着いている

のですが。

6.アジア美術/アジア美術館の矛盾

今回の趣旨として、「アジアの社会文化の建設は可能なのか」ということがありました。そこを考えたときに、

私はアジアの美術やアジア美術館は存在し得るのだろうかと思うのです。ただ、私は美術館という場所で実務を

していて、そこで何がしかの態度を取って、アジアの美術やアジア美術館に取り組まなければいけません。私が

一つ言えることは、何がアジアの美術なのかということは、現地での調査の中から見いだすことしかできないの

ではないかということです。もう一つは、私どもが「アジアの美術館」とわざわざ言わなくてはいけないのはア

ジアの美術が認知されていないからで、いつかこの名称はなくなっても構わないと思います。ただ今の時点では、

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アジア美術館という存在があることによって、「なぜアジア美術館とわざわざ言わなくてはいけないのか」という

ように、その存在自体が、社会に対して何か問いを投げ掛ける存在として機能し得るのではないかと思います。

このようにアジア美術館が様々な活動をして作ってきた美術のネットワークの問題点です。幾つもありますが、

一つはアジア美術館とアジアの間には、美術関係者のネットワークがいろいろできていますが、そのネットワー

クを日本の美術界に生かせていないということが、まず問題としてあります。それから日本だけではなく、福岡

のローカルなアートシーンを考えてみたときに、福岡のアジアの美術館はアジアを向いていたとしても、福岡の

地元のアーティストたちは、アジアを直接向いているわけではなくて、東京を見て、そこからイギリスやアメリ

カを見ているという傾向が強く、そこにアジア美術館が何らかの影響を与えるということが、まだあまりできて

いないのではないかと思います。

最後に福岡市のアジア戦略が、89 年の段階から今までに非常に変わってきております。当初はアジア全域をカ

バーしていましたが、最近はやはり釜山など、九州の北部沿岸地域と対岸の経済を柱とした交流ということを強

く出すようになってきています。アジア美術館はパキスタンの方まで全部アジアをカバーしているので、福岡市

の行政戦略におけるプレゼンスが少し弱くなってきていて、福岡市の行政自体も、アジア美術館が持っている様々

なポテンシャルを使い切れていないし、私たち自身も、このように使ってもらえるのだというのを打ち出せてい

ないのが残念だと思います。

討論

稲庭 彩和子(神奈川県立近代美術館 学芸員)

1.日本の美術館のガラパゴス化

私は先月、「国際化時代のミュージアム」ということで、文化庁が主催する博物館運営研究協議会に報告をして

きました。その会場で、横浜でトリエンナーレをしたときのダイレクターをやっていた当館の水沢副館長と話し

ていて、日本で今一番国際交流が盛んな館として一番に挙げられたのがアジア美術館でした。今、日本のミュー

ジアムの中で国際交流ということを考えたときに、今の時代はヨーロッパとの国際交流というよりも、アジアと

の国際交流というファクターは以前に比べて大変大きくなっていて、実際にアジア美術館がその分野では突出し

た活動をずっと続けてこられていることは、日本の美術界の中でも非常に認識されていることだと思います。

その研究協議会の席で、大阪にある国立国際美術館の館長である建畠さんが言っていたのは、日本のミュージ

アムの国際交流の現状はガラパゴス化しているのではないかということでした。それは、ある意味で鎖国的な状

況が生まれていて、一方ではガラパゴス諸島のように、内部で非常に細やかな研究が各地方で進められ成果も上

がっている。要は、いろいろなところで特徴のある文化が栄えてはいるが、外との交流という意味で栄えていっ

ているか、もしくは何か芽が出ていく方向性があるかというと、必ずしもそうではないという状況だということ

です。今、五十嵐さんがお話しされた、アジア美術館が積極的にアジアで調査研究を経た上で、アジア交流の拠

点として美術館活動をされていますが、お話の中で、一方でそれが日本の美術界で生かせていないとか、ローカ

ルシーンになかなか開いていかないという問題点も挙げられていました。やはりそこのところで、どこの美術館

も国際交流やアジア交流など、外と交流していくことが、自分たちの生活に根差したところで何か実りのあるも

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のとして、実感として、リアリティとして自分たちに返ってきているのかということが、いま一つ実感できない

ところがあります。

一方で予算は縮小するけれども事業は縮小しないということで、ものすごく業務量が増えて仕事が忙しくなっ

ていく中で、国際交流など考えている場合かと言いたくなるような状態も起こってきています。なので、そこが

なかなか突破できない壁なのではないでしょうか。そのような状況があるがために、鎖国化、ガラパゴス化と言

われるような現象が起きていると思います。

2.神奈川県立近代美術館

その前提としてのお話を少しします。1999 年にアジア美術館が誕生するちょうど半世紀前に、私が勤務する神

奈川県立近代美術館が鎌倉の八幡宮の境内に誕生しています。その時代は、1952 年に平和講和条約が結ばれたと

いうことで、日本はまだ GHQ の占領下にありましたが、その当時、神奈川県に世界でも 3 番目の近代美術館とし

て誕生しているのです。これもアジア美術館の例と非常に似ていて興味深いと思ったのですが、一番強力な推進

の力となったのは、当時の内山神奈川県知事で、外交官の経験があり、ヨーロッパの芸術の制度、文化行政にも

非常に明るい方でした。その知事が、ぜひ日本の神奈川県にそうした先進的な実験的な近代美術館という、日本

では一体何の活動をする場所なのか分からないような制度だったと思いますが、それをやってみようと考えられ

たことと、鎌倉にはたくさん文学者やアーティストがいる文化があったということとが重なって神奈川県立近代

美術館が生まれたのです。

そのときは世界的にもモダンアートミュージアムという近現代の美術を扱った美術館という制度に対する期待

がものすごく高かったのです。それは戦争への反省として、物を見ることを通して他者を多面的に検討していく、

それをある一人の個人が自分で判断して価値を決めていく、そこで他者との在り方を見ることで知性を付けてい

く、近代的な社会を作っていく、その拠点としての近代美術館にものすごく期待をされた中で、神奈川県立近代

美術館も始まったのです。そのときはナショナリズムを超えていくような個人一人一人がアクターとして、市民

社会を作っていくことを啓発していくような場として、美術館というのが、法的な、それこそ公共財のようなも

のとして生まれてきました。そのときの方が、国際交流という意味では美術館の機能が非常に期待されたと思い

ます。

その後、アジア美術館ができるまでの50年の間、今アジアがされているのと同じく、自分たちの美術とは一体

何だろうということをずっと近代美術から掘り起こしてきたのです。例えば「日本の近代美術 150 年」という展

覧会を行っています。皆さんは、近代というと明治維新以降のことを想像されると思いますが、150年というとも

う少しさかのぼって、江戸の終わりぐらいから考えるわけです。そこから近代の芽があるということで検討し直

して、日本の近現代美術史を作っていくような作業が 70~80 年代、日本の美術館でずっと行われていたのです。

それがだんだん醸成して、70年代ぐらいまでに、日本の近代美術が一応形づくられていくのです。

80 年代というのは大変なバブルの時代で、美術界でもどんどん大型の、ヨーロッパの美術を紹介するような展

覧会がたくさん行われていきました。その中で、最初の近代美術館に期待された国際交流の拠点や近代的な個人

を生み出す場としての希望のようなものが、見えにくくなっていったのだと思います。それにより、国際交流を

目指して外とつながっていくことで、自分をどのようなものとして他者とつながっていくかということに対する

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欲求が低くなっていくという現象が美術館の業界内にあったと思います。ですから、アジア美術館の場合はそれ

がまたアジアという新しい領域への研究や活動が広がっていったのだと思いますが、神奈川県立近代美術館がこ

れまでしてきたことは、やはり西洋現代美術の方を向いた活動だったと思います。日本自体がそのような時代だ

ったのです。

3.日本の美術界の問題点

アジア美術館がアジアに向かっていくときに、その間に落ちてしまっている日本国内の美術というか、近現代

美術でも日本美術が扱ってこなかった日本の美術をどうするか。そもそも日本の現代美術を教えている大学のコ

ースはほとんどないのです。それを研究している研究者も、美術館の現場にはいても、研究者としての層は決し

て厚くありません。その中で今アジア美術館の活動のように、例えば「西洋美術の模倣でもなく、伝統の繰り返

しでもないアジア美術」がどのように紹介されていたのかというと、結構悩ましい問題があります。多分その悩

ましい問題と、アジア美術館の活動が日本の美術館で生かされてこないこととは、非常にリンクしているのでは

ないかと思います。

80 年代とは、先ほどアニメの話でもあったように、海外から日本への関心がとても高くなっていった時期で、

日本の美術館の中でも海外にコレクションを貸して、海外で日本の近現代美術の展覧会を開く機会が増えていま

した。それで、50 年代以降、日本では食べていけないアーティストが海外に出ていって、海外でアーティストと

してずっと活躍している作家もいました。そのような人を今、日本で十分紹介できる場があるかというと、これ

もまた意外とないのです。当館でもそのような美術家を紹介していくような展覧会をやっていますが、まず人は

入らないですし、そのようなものに予算を付けていくのはものすごく大変です。

ですから、人材は流出したまま戻ってくる道もないのですが、その人たちはやはり日本人のアイデンティティ

を持ったアーティストとして活動されているので、やはり日本のアートがそこにもあると思うのですが、それも

今ひとつ検証されていない現状があるのではないかと思います。活動の場は違っても、抱えている問題はとても

つながるものがあるとあらためて感じました。

(五十嵐) アジア美術館にいると、やはりアジアとアジア美術館ということで、二人で向き合っていることが

すごく大きいのです。アジア美術館自体は日本の中にありますが、日本全体の中でとアジアとか、それ全体を包

んだ上でどこにポジショニングを取ってやっていくのかという視点が、まだ少し足りないと思います。アジア美

術館がやってきたことをアジアから見たときに、どのような評価があったか、どのようなところが良くなかった、

良かったのかということを今から調べていき、アジア美術館がどこにポジショニングできるのかをまず調査して

いく必要があると思っています。

また、今お話しいただいたように、アジア美術館がアジアの美術のネットワークを作る上で抱えていたことと、

日本の美術館が抱えている課題との共通性を考えていく。あるいは先ほどリキシャをお見せしましたが、バング

ラデシュという国で美術ができる過程で、これは美術ではないとして見落とされていたものの一つがこのリキシ

ャなのです。逆に、日本で美術の枠組みから落とされてしまったものに、例えば工芸やいろいろな彫り物があっ

たりするわけですが、そのようなものの共通性を見せるような展覧会をしたりして、もう少し美術の力を復活さ

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せたいと思いました。

意見交換

(平野) 私は福岡に第2回トリエンナーレを見にいきましたが、「現代アジア美術というジャンルを作った」と

いう評価どおりで、行ってみて大変感動しました。

今の稲庭さんが言われたことについて、その辺がジレンマなのではないかと思います。先ほど見せていただい

たものでいうと、「福岡アジア美術館の活動」というところで、矛盾が期せずして出ていると思うわけです。その

次は「アジア美術とのネットワーク形成」であって、アジア美術を要するに外側に置いてしまっているわけです。

今、最後に向き合っているとおっしゃいましたが。しかし、「アジアの美術交流」と言って、これでは「と」が取

れているのです。それから、「アジアの美術交流のハブ的存在となる」というのは、すごく実は不遜なことではな

いでしょうか。アジアを外にしてしまっている日本の美術館が、アジアの美術交流のハブになるということは。

ひどいことを言ってしまったと思いますが、先ほど見せていただいた第 4 回の出品作品の中には日本がきちん

と入っています。ですから、この矛盾を稲庭さんもサジェストされたと思いますが、日本美術をアジア美術の一

つとしてきちんと位置付けるということがわれわれ全体に必要だということではないでしょうか。

そのような矛盾を抱えながらもやってこられて、今回の FT4 開催までの準備の中で、テーマ選考では、学芸員

が現地で集められてきた作品の中から共通性を抽出してテーマを選んだと言われていました。これは、最初の食

事のときに私が砂井さんにお尋ねしたことと関連があるのですが、一種の機能主義で、アジア美術とは何かとい

うことをやり始めていらっしゃるということなのではないかと思います。そのような試みを重ねてこられて、今、

アジア美術とは結局何なのですか。アジア的特徴というようなものを美術の作品の面で挙げていただくと、何と

何と何になるのでしょうか。

(五十嵐) それはなかなか言えません。一つ言うと一つ違ってくるというか。また、そのように、アジアとし

てまとめてしまっていいのかどうかというのもやはりあります。何となく共通的な理解で、色がカラフルなもの

が多いということは印象としてはあります。しかし、本当にそうなのか。私たちが「これはアジアの美術だ」と

して見ているものは、その色鮮やかなものを見がちなのかもしれないので、こうだとはなかなか言えないと思い

ます。それを具体的に展覧会などを通して問い続けていくということしか美術館としてはできないというか、そ

れをしていくことが仕事なのではないかと思っています。

また、機能主義的にテーマを見つけていくということでしたが、ちなみに第1回トリエンナーレは1999年だっ

たのですが、そのときもやはり調査をして、その中からテーマを見つけていったのですが、そのときは「コミュ

ニケーション~希望への回路」というテーマでした。第 2 回目は「語る手 結ぶ手」というので、手作り的な、

工芸的なものを取り上げた展覧会でした。それで、第3回トリエンナーレが2005年ですが、そのときは「多重世

界(Parallel Realities)」ということで、日本でも、例えば昼間はきちんと仕事に行っていますが、夜は実はコ

スプレをしているお父さんとか、いろいろなことが起きています。同時代を生きているアジアの人たちでも、も

のすごく貧しくて乞食をしている人もいれば、ベンツなどに乗っている生活をしている同じ国の人たちが同じ時

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代を生きている。そのパラレルなものがずっと続いているのだというのが、その作家たちの表現の中から見えて

きたので、それをテーマにしていきました。

今回はいろいろ未来が見えない中で、どうしたら明日生きていけるかということをテーマに考えている作家が

多かったので、今まであったものを再生することによって明日を見いだしていくという共通テーマでくくれるの

ではないかということで、テーマを決めています。

(フロア3) それを伺ったからといって、アジアは多重的であるとかということは言えないのではないでしょう

か。

(五十嵐) その手掛かり、鍵はそういうことではないかということです。

(フロア4) 美術館などのソフトパワーの発揮ということに僕は興味を持っているのです。要するに結節点の創

成というか。福岡などはBEETLEですぐ行けるなどで今、韓国とすごくアクセスがありますよね。それで今回のも

ので、韓国の人たち、あるいは中国の人たちがどのぐらい来ているのかというのが一つ質問です。

それから、美術館の運営は非常に大変だと思います。要するに、見せたい側の論理と見たい側のギャップとい

うのが時々起きます。例えば横浜でいけば、美術館ではありませんが、去年のY150博のように、例えば500万人

集まると言ってやってみたら、124万人しか集まらなくて、二十数億の赤字を出したということがあります。今ま

でいろいろな経験で、そのようなことがあったのではないかと思います。その辺が起きたときに、運営費はどう

なるのですか。

(稲庭) Y150 は、公立美術館の運営予算の動き方と全然違うので、どちらかというと観光のようなセクション

にかかわっている部分ですが、そのような赤字が出ることはありません。ですが100万円、200万円単位の赤字と

いうのは十分あり得ます。もともと事業予算が、例えば 1 億円という予算があるとすれば、それは税金から来る

わけですが、何をもって赤と言うか。例えばそのうち入館者が入ってペイされるお金が1000万円などだと、9000

万円は赤字だとは考えないわけです。例えば神奈川県立近代美術館の場合は、学校教育と同じ教育委員会の中に

ある制度なので、学校教育が基本的に義務教育は無料で行われているのと同じように、生涯学習施設として運営

されています。ですからそれは全く赤字としてではなく運営されているということになるので、多分Y150の例と

一緒に考えると、非常に乱暴な議論になるかと思います。

(五十嵐) アジア美術館の場合も教育委員会の中にあります。世にある美術館の中には、例えばスポーツ振興

課やそのようなところに、もっとイベント的な存在として美術館が位置付けられている場合があります。アジア

美術館に来る韓国・中国のお客さんに、「韓国人ですか」といちいち聞いてチェックしていないので分かりません

が、近年、韓国・中国・香港・台湾のお客さんが多いのです。ただ、アジア美術館を非常に熱心に見にくる人は、

やはり欧米の方が多いのです。なぜかよく分かりませんが、ドイツ人のツアーがすごく多いのです。やはり、私

たちも韓国に遊びにいって、日本の美術などをそんなに見たいとは思わないのではないかと思います。自分のと

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ころで見ればいいわけですから。なので、欧米の方が多いです。

(フロア4) というのは、先ほど平野先生が質問したハブにしたいという意味が、僕はアジア近隣諸国の中でハ

ブにしたいという意味なのかなと取っていたのです。それが一つです。それから、アジアからデビューする作家

がいろいろあったと言われています。これとは逆に、今度は日本で美術をしている人が非常に食えない現状があ

ります。そのような人たちをアジアのいろいろな所に出すことによって食えるようにしてあげるとか、そのよう

な作用もあるのかと思っているのですが。

(五十嵐) 予算を付けて、例えば福岡の地元の作家をアジアに送るということまではしていません。ただ、ア

ジアの作家が福岡に来たときに、例えば地元の作家と一緒にワークショップをするなり、一緒に作品制作をする

なりというのはかなり声を掛けるのですが、反応が鈍いのです。あとはアジア各国がそれぞれの国でレジデンス

施設のようなものを持っていて、渡航費は自分持ちですが、滞在費や向こうでの絵を描く材料などを全部持つか

らいつでも来てくれていいと言って、福岡で誰か推薦してほしいとよく頼まれるのですが、それに行こうという

人が見つからないのです。東京や大阪なら状況は違うと思いますが。

(フロア5) 福岡に住んでいたことがあるので、非常になじみがあります。先ほどの平野先生が聞いたことと重

なるかと思いますが、やはりアジア美術とは何なのかということなのです。どこでそれをアイデンティティ化し

ていくかということは、やはり問題だと思います。作品を選ぶ際には地理的な、いわゆるアジアと呼ばれる所か

ら集めているというように見えるのです。

それで、アジアでも国によって違うという話がありましたが、岡倉天心に言わせれば、アジアは一つの共通性

を持っているとする話があるわけです。そのようなアジアとしての共通性のようなもの、アイデンティティのよ

うなものを求めてやっているのか、あるいはそのようなことを考えずに、ただアジア美術というのを集めて、そ

の中から何か共通性のようなものが見つけだそうとしておられるのか、アジア美術館というアイデンティティ自

体が少し矛盾だというような話がありましたが、そこがそういうこととも通ずると僕は思います。ですから、ア

ジア美術とは何かとか、アジアの共通性があるのかないのかというところを議論してやっているのかどうかを、

少しお伺いしたいのです。

(五十嵐) 議論はもちろんしています。例えば紀要や論文などに書くに当たって、そのようなディスカッショ

ンはよくされます。しかし、美術館という実務の運営体としては、アジアの共通性を見いだして「これこそアジ

アの美術です」というものを抽出しようと思って、美術館で展覧会をしているというわけではありません。ただ、

どのようなところが重なっていて、どのようなところが重なっていないのかについては、みんなで議論をするこ

とは当然あります。

(白石) 先ほど入場者が誰かという話もありましたが、大衆文化、マンガ・アニメなどとこのような美術館が

扱うアートとの違いの一つは、やはりお金の動きにしても、時間の流れにしても、価値が幾らかということを決

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めるにしても、ものすごくゆっくり進んでいくことだと思うのです。先ほど 100 万円で買ったものが 1 億円や 2

億円になったりするのも、それを目指して 100 万円で買ったわけではなくて、やはりだんだんマーケットができ

ていく過程の中で起こったことだろうと思うのです。

イラクをアメリカが爆撃したときに、イラクの美術館のものが多く盗まれたり破壊されたりしましたが、あの

場合には国家、この場合には福岡市、もっと前なら王様や女王様というスポンサーがいました。そのスポンサー

が、いわば自分の権力の一部としての美術、あるいは財産として購入していったもので、そのこと自身は、まだ

大きく変わらないのではないのではないか。そのことは一つ置いておいて、1990 年、私は日本のバブルの最中に

アメリカにいましたが、イギリスが大英帝国華やかりしころに大英博物館を造り、アメリカがスミソニアンを造

ったのと同様、そのときジャパン・アズ・ナンバーワンと言われていた日本が、そのような美術や世界の人類の

財産に関して一体何をしているのだと聞かれたことがありました。私はそのときに、「地方にたくさん美術館がで

きていて、そこでいろいろな高額の美術品などを買い入れています」くらいしか言えませんでした。あのときに

日本が国家単位で何かできなかったということは、ガラパゴス化は既に始まっていたのだろうと思います。です

から日本の国内で、例えばせっかくのアジア美術がなかなか認められないといったようなことも、国民国家のと

ころはある程度あきらめるしかないだろうという感じがしています。

では、どのようなところで可能性が広がるかという場合、アジアの美術とおっしゃるときにも、中華人民共和

国があって、韓国があって、北朝鮮ということで、国民国家の集まりとしては考えていないと思うのです。むし

ろそこにあるのは、アジアの都市です。福岡市が実際そうなわけです。ですから。これから先は、アジアの都市

でネットワークを結んでいけばいいのではないでしょうか。

何がアジア美術かという定義ですが、コロンビア大学から日本にマンガの調査に来て、少女マンガでPh.D.を書

いた人がいます。その人に少女のマンガの定義は何かと聞いたところ、「出版社がこれは少女漫画だと言えば、少

女漫画だ」と。内容の分析を始めると、実はどうしても定義ができないのです。その意味で「アジアの都市がア

ジアの美術だと言えば、それがアジアの美術だ」と開き直ってもいいのではないかという気がするのです。アジ

アの出身者であっても欧米で活躍している人もいるし、アジア圏内で制作されているものでも、例えば北欧から

来てバリで生産している人もいます。その人たちのことをどうするかというときに、規則をやたら決めていくよ

りは、美術館が「これがアジア美術です」「今日、現代を表すアジア美術です」と言えば、それでいいという形で

進んでもいいのではないかという気がしました。

そういう意味で国家であれ、都市であれ、かつての財閥が持っている個人的な財産による美術館であれ、何か

それを持っていること自身が富なのです。それが近くにあると私たちはラッキーだ、それが楽しめるなというそ

ういう形で、大英博物館もスミソニアンも目指さないが、近所に何かそういう趣味のいい美術館があればハッピ

ーだという、そういう美術館を今から考えていってもいいような気がします。ただ、今まで行っていらしたこと

は素晴らしいことだと思って、わくわくしながら聞いていました。

(平野) アジア美術館は、まさに今おっしゃったことを狙ってやってきています。これが現代アジア美術だと

言って、値段が付くようになったのです。その上で、でも「アジアって何?」ということを、やはり議論しなく

てはならないというところがあるのではないでしょうか。

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(白石) それでいくと、先ほど食事文化のときに平野先生がおっしゃったように、これがアジア美術だと決め

てしまったら、このあたりがアジアだと。

(平野) そのぐらいです。

(フロア6) 設立背景も分かって、非常に面白く聞いておりました。キーポイントは、やはりアジア美術という

のはどのようなものかということです。やはり美術館として、組織としての理念というか定義をやはりある程度

決めるのは非常に大事なことだと思います。そういった意味では、まだアジア美術というのははっきりとしてい

ないというところから、既にできているものという認識よりは、これから作っていくものとして理解をする必要

があるかなという印象を受けました。

その場合、どのようにアジア美術を定義するかという基準が必要だと思います。単純化してしまうかもしれま

せんが、キーポイントになっている基準として考えられるのは、人とテーマという 2 点です。少し疑問に思った

のが、例えば先ほどのドイツの話が非常に大事なヒントを与えてくれると思います。例えばアメリカのアーティ

ストがアジア的な何かを表現した場合、それはアジア美術とは言えないか、そのような場合はどういう判断をさ

れるかということです。逆にアジアの誰かアーティストが、人はアジア人ですが、ほかのところのアジアではな

いことを表現した場合、FT5に招待されることができるかという疑問が出ます。その場合やはり、基準として、テ

ーマとしてアジアを語るか、あるいはアーティストの出身がアジアであるということを基準にするか、あるいは

両方一緒に取るかという問題にかかわると思います。

(五十嵐) アジア美術館は作品を買って収集していくのですが、そのときにどういう作品をアジア美術として

購入するかという方針はあります。それは必ずしも、アジアの物理的な地域内に生まれ育って、そこで作られた

ものでなくてはいけないということではなく、先ほどおっしゃった、生まれ育ったのは北欧だがバリに行って、

バリで現地の人のようになって絵を描いていた人の作品もアジアの美術とするとか、日本の作家でも戦時中にイ

ンドネシアに行って作品を描いていた人のものを、アジアの作品として購入することもあります。あとは移民と

して今アメリカやイギリスにたくさんいますが、そのような作家のものも作品として取り入れるようにしていま

す。社会の変化に従って、人の動き方がどんどん変わっていくので、収集方針はまたどんどん膨らんでいくので

はないかと思います。

逆に、福岡アジア美術館という「アジア美術館」の中に自分の作品を入れられることが嫌だと言う作家もいま

す。別にアジアの作家と言っているわけではなく、私はThe Artistなのに、なぜアジアのアーティストと言われ

なくてはいけないのかという、逆の動きもあるのです。なので、そういう常に動き続けている中で、結末はいつ

も見えないまま、今はこう、今はこうというように提示していくという感じなので、常に矛盾の中でやっている

という感じです。

(貫井) 白石先生や平野先生、ほかの方々もおっしゃったように、アジア美術館としての還元性というか、収

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集やそういった形の中で、アジア美術について変化をしながらも定義付けてきたというお話ですが、例えば海外

の美術館がアジア美術館に対して、アジア美術を幾つか貸してくれと言って、アジア美術展として銘打って美術

展を行ったり、あるいはバングラデシュの作家が「自分は現代アジア美術の一人だ」というような、アジア美術

以外の人がアジア美術のメンバーであるというような、他者の方からの働き掛けで定義付けということがあるの

か。それから、福岡の市民の方が、この美術館をどのように評価しているのかということをお聞きしたいと思い

ます。

それから、稲庭さんのコメントが非常に興味深かったのです。シリアにいたときに、フランスセンターが現代

フランス美術ワークショップのようなものをして、そこで紹介された 1 人が日本人の方で、天江さんという写真

家でした。フランスというのは、かなり年を取ってからフランスに移住した人でも、これはフランス美術だと言

い切れる強さがあるように思います。もう一つ、フランスのいろいろな文化政策をシリアの場合で感じたのは、

日本では何か現地の人に支援をする場合、日本語を勉強する、特に日本研究をしているなど、やはり日本とかか

わっていないといけないのに対し、フランスの場合は「現地ではやっているものは、いいものなら何でもお金を

与えます。フランスと全く関係なくてもいいです」と言って、一番その国ではやっている生きのいいアーティス

トをフランスに連れてきて、「この人はフランスのアーティストです」という形にしてしまって、どんどんフラン

スに取り込もうとする、ある種の植民地主義的な何かがある。こう言ってしまっていいのかどうか分かりません

が、日本の文化政策とは何か違うそのような性質とストラテジーがあるという感じがしました。

(五十嵐) アジア美術とアジア美術館がごっちゃになってよく分からなかったのですが、海外からアジア美術

と言って貸し出しを希望されるのがあるかというのが一つと、例えばバングラデシュなどで、個人の人が自分の

ことを現代アジア美術の作家であると言うかどうかということですね。

一つ、貸し出しがあるかということについては、海外に貸し出しをする場合は、アジア美術というよりは、こ

の作家の作品を貸してくださいと言われて貸し出しをすることが近年非常に増えています。また、日本国内でア

ジアの美術を網羅的に全部見たいと言って、アジア美術館の作品を100~150点貸し出して、展覧会をするという

ことは、北海道や滋賀、高知など、いろいろな所でも行っています。一番最近では、釜山に貸し出しをしていま

す。それは100点という単位で、全体が分かるように貸し出すということがあります。

次に、アジアの作家で自分が「アジアの作家である」と言うのは、やはり話をしているときです。大体みんな、

自分は「バングラデシュのアーティストです」と言うのが普通ですが、もう少し歴史的なことを盛んに思ったり、

共通性が話の中で出てきたりすると、やはり同じアジアの作家だというようにぽろっと出たりすることはありま

す。ですが、「われこそはアジアの作家である」と思って作品を制作しているわけではないと思います。

もう一つ、福岡市民の評価はどうなのかということですが、これは福岡のローカルなアーティストの反応と同

じように、やはりアジアというのは別に物珍しいものでは福岡の人にとってはあまりなくて、それこそ釜山なん

て 3 時間で船ですっと行けます。アジア美術館の場所さえ知らない市民が多いのです。ですから大変皮肉なので

すが、地理的にアジア美術館から離れれば離れるほど、アジア美術館を愛してくれる人も確実に増えていきます。

それが今、アジア美術館の抱えている一番の問題で、どうすれば地元の人に通じるのだろうかということです。

そうすると、非常にテーマパーク的なというか、面白おかしく演出した展覧会をせざるを得ないというところが

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どうしてもある。お祭り好きな性質が福岡は少し強いので、なかなか難しいです。

(稲庭) フランスの例ですが、今ちょうど私が担当している展覧会は、パリに29歳の時に行って、73歳になる

までずっとパリでアーティスト活動をしている人の作品を扱っています。その人の話を聞くと、パリではやはり

どこの国のアーティストであっても、ものすごく安い値段で貸し出す政府運営のアトリエがあります。「アーティ

ストである」というある程度のデファランスを提出すればアーティストビザが取れて、アトリエを与えてもらえ

ます。アーティストのための国民年金のような制度もあって、それに入っていればそこで暮らしていくことがで

きるということです。今やっているのは松谷さんという方なのですが、松谷さん自身もアメリカやヨーロッパを

中心にしてずっと展覧会活動をしています。日本では 2000 年と今回の 2010 年に関西と鎌倉、東京圏の方で展覧

会を 2 回大きなものをしていますが、それ以外は欧米での展覧会がほとんどです。そのときにやはり多分、日本

人というアイデンティティはあるにしても、ほとんどフランスで作家活動をしている松谷さんにとっては、自分

はフランスのアーティストでもあるという認識がご本人にもあるし、フランス側にもそういう認識があると思い

ます。

翻って日本を見てみると、まずアーティストレジデンスをしている場所は非常に限られていますし、アーティ

ストの年金はもちろんありません。日本人のアーティストさえ食べていけないのに、海外のアーティストを支援

するという動きは全くありません。先ほど指摘されていたように、例えば日本に関心のある研究者やアーティス

トには奨学金が出たりしますが、美術業界で考えると日本のものを海外にというのも非常に弱いです。例えば今、

中国や韓国などは、2000 年以降やはりものすごく美術業界でも力を付けてきていて、世界各国から韓国美術や中

国美術に関心のある人や研究者を集めて一堂に会して、マーケットまで作れるように、旅費から食べ物まですべ

て工面して、接待するような機会を作っていると聞いています。それでアジア美術館館長会議というものも 2000

年以降生まれてきていて、北京が比較的主導的な立場を取って、アジアの美術館をネットワークしていこうとい

う動きがあります。それに対して、日本はそういう行政の面でも、日本博物館協会などが非常に弱くて、行政的

なプレゼンスというのも弱いのです。

先般の事業仕分けなどでも、日本から送り出すアーティストへの助成金のようなシステムがありますが、それ

もカットしようという話が出てきて、確か小澤征爾などの文化人が大変怒って直談判しに行ったという話がニュ

ースに載っていました。それぐらいの行政の感覚で、今後さらに減らされていくような現状にあります。

ディスカッション

コメント・問題提起 白石 さや(東京大学大学院教育学研究科・教育学部 教授)

パネリスト 砂井 紫里(早稲田大学アジア研究機構 研究助手)

貫井 万里(早稲田大学イスラーム地域研究機構 研究助手)

高橋 華生子(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 助手)

五十嵐 里奈(福岡アジア美術館 学芸員)

モデレーター 栗田 匡相(早稲田大学国際学院 助教)

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(栗田) 最初に、白石先生の方からご発話いただいて、その後、せっかく今日は長時間にわたっていろいろ議

論を聞いていただいている方が何人もいらっしゃいますので、せめて一度ぐらい、皆さんのご意見とご感想など

を伺っていければと思います。

(白石) 3点、準備してきたことがありますので、出させていただきたいと思います。

最初は、もう 1 年以上前になりますが、オバマ大統領の就任演説で、日本中の皆さんが、一生懸命お読みにな

ったと思います。私も読みましたし、ビデオを授業で使ったりもしました。あの中でオバマさんは「テロとの戦

い」などと一言も言っていないのですが、「ネットワークの戦い」という言葉を入れていました。私の資料の「グ

ローバル化研究の枠組み」という項をご覧いただくと、国際化とグローバル化という点、これは主にピーター・

カッツェンスタインという人の議論を平野先生のプロジェクトで読ませていただいたものを中心にして、ほかの

人の議論も少し入れて、私が勝手にまとめたものです。

まず一つは、インターナショナライゼーションと呼ばれる動きは、国境線を超えて行われる領域的活動である。

20 世紀的な国民国家システムの継続であって、それが国際化と言う場においては、国民国家(ネーションステー

ト)が基本的なアクターとなり、ある時はネーション、ある時はステートが基本的なアクターとなって、国民国

家間の関係性、国際的な関係というものが引き続き重要性を持っていく。そういう場が国際的な場であり、そこ

で国際化が進行するということは、量的な行き来が増えると理解できます。そこで国家主権が擁護されるという

ことは、いろいろな意味で国家主権が死に瀕している面もあるかと思います。

例えば税金一つとっても、多国籍企業などは、今までの自分が所属していた国家に必ずしも税金を納めないと

いう状況なども出てきているわけです。そういう国家主権が国際化の場においては擁護され、ナショナリズムが

主要な集団的アイデンティティとして存続している。国民国家相互間の様々な相違、韓国はこうだけど日本はこ

うだという相違というものは「継続されることが多い」。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』では、

「文化が違っても国民として想像すれば国民なのだ」というのが一番のテーマなのです。ただ、一回国民国家が

できてしまうと、国家によって教育、教科書、メディア、いろいろなものを通して、あるいはナショナルマーケ

ットというものを通して、均質化する方向にどうしても動いていく。そういう動きがあったわけで、普通、国民

国家ごとにいろいろな違いを言うという物語(ストーリーテリング)があったと思うのです。それは、ここの国

際化というこの場では、依然として継続されて語られることが多い。

それに対してグローバライゼーションという概念においては、これは時間と空間を問う。つまり、これは新し

いメディアを想定した、新しい情報技術を前提とした動きであって、非領域的なグローバルなプロセスである。

世界政治における新たな変革、つまり今まで国民国家をメンバーとしていた、そういう場においては、この新た

な変革をもたらす動きであって、グローバル化においては新たなアクターの登場が着目される。いろいろな国民

国家と違うアクターというのはもちろん大昔からあったわけですが、そういういろいろなアクターが様々な情報

技術などを手に入れて、発信する力を持ったり、コミュニケーションをしたり、ファンドレイジングを国境を越

えて行うことが可能になったので、そういう意味で新たなアクターの登場が着目されるようになっている。

そして、グローバルな変化に沿って国民国家間の相違が収斂し、「韓国はこうだよね」「日本はこうだよね」と

言っていた、その違い自身が収斂して、同じようなテレビドラマを楽しむという形になっていく。同時に、そう

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いうグローバルな変化に沿って、ローカルな、今度は国民国家内の多様性が広がっていく。福岡がこういうこと

をやっている、茨城がこういうことをやっているという中で、今までマイノリティで、あまり注目されなかった

人たちの活動がグローバルにつながっていくことで、着目されるに値する活動になっていくという意味で、いろ

いろな違いがある意味では際立ってきます。

グローバル化とは、企業や銀行、個々人、NGOなどの個々のアクターによる利益を求める活動としても、または

相互間の競争を衝動としても、それから人を助けたいということからも、いろいろなものをモチベーションとし

て進行していきます。このためにグローバル化というのは、実はマクロというよりはミクロな現象として把握さ

れる現象ではないかという問題提起をしてみました。これで今日の発表をどれだけ振り返ることができるかとい

う問題提起です。もちろん全く無視されても構いません。それは仕方がないことだと思います。

そういうカテゴリーを考えるときに、オバマ大統領の演説に戻りますと、彼はベネディクト・アンダーソンの

『想像の共同体』における最初の国民国家のモデルであるというアメリカ合衆国の大統領として、そして、いろ

いろな国民国家の中のリーダーとして、いわば国民国家システムの国際的な社会におけるリーダーとして世界を

見回したときに、国民国家システムの相手としてネットワークが現れたのではないか。その意味で、「ネットワー

クとの戦い」という言葉が出てきたのではないかと思っております。

もちろん最近の「核のない世界」というオバマさんの政策にしても、国民国家が核を持っていたときには、「あ

なたが核を私の国に撃ち込むのならば、あなたの残りの国土は全部、その10倍の核兵器でもってつぶしますよ」

という核抑止が効いたのだけれども、ネットワークがワシントンに核を撃ち込んできたとしたならば、どこにア

メリカから核を撃ち返したらいいのでしょう。その意味で、国民国家同士の核戦争や国民国家同士の核抑止が効

かなくなった世界においては、とにかく核の数を減らしていくことが今取り得る手段であろう。そういう世界の

中に今、私たちがいるのだろうと思います。オバマさんの政策を使って、この枠組みを説明させていただきまし

た。

もう一人、私が大好きなのがサイードなのです。サイードは『文化と帝国主義』という本の中で、「国民にして

も、植民地支配、帝国主義支配にしても、基本的にはこの土地を誰が支配するかという戦いであったわけだが、

それが実際どういう形で戦われたかというと、物語によって戦われたのではないか」と。この土地は、この人た

ちが、この Group of People が、昔からこういう歴史や神話、こういう関係性を持っていた、だからこの人たち

にこの土地に関する権利があるのだという物語と物語の戦いであったのだろうと。一方の帝国主義的支配の方は、

みんなを近代化して生活水準を上げる、そういう意味の啓蒙の物語を物語ったであろうし、ナショナリストたち

はそれとは違う解放と自分の自己アイデンティティの物語を作っていった。

そういう物語ができたところに初めて、そういう国民的な想像ができてきたと考えますと、先ほどのアジア美

術の場合にも、アジア美術という舞台で物語があるだろうか。私たちが想像しづらいのは、アジアを舞台にした

物語がまだまだ生まれていないのだろうと。例えば今日この場で、朝10時半から6時まで、もしかしたらそれを

オーバーするほどアジアについて語っているということは、既に私たちはアジアについての物語を創作するとい

う活動に実は携わっているのではないか。そういう物語を作る、例えば経済学でも、政治学でも、歴史学でも、

物語を作るということにかなり責任を持ってきたのは、実は私たち学者ではなかろうかと思います。先ほどの話

でも、アジア美術学というのがなかなかない、そういう学科がないから、できるかできないにしても、アジア美

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術について語る。アジア美術という物語性に満ちた本を出版する。そういう活動が行われていく中で、アジアに

ついての物語ができてきたときに、いろいろな意味でアジアというものができてくるのだろうと考えます。

以上、3点を最初に述べさせていただきました。どうぞ、今からは発言しなかった人たちの声を聞かせてくださ

い。

(栗田) 本当に深いお話をありがとうございました。今回の OAS-RUNASIA の記事の紹介を「ワセダアジアレビ

ュー」の方に僕も書いたのですが、アレントの「ただ世界が人間的になるのは、それは語り合いの対象となった

場合に限ります」という言葉を引いたのです。つまり、われわれがこういう場でアジアの話をするということが、

今、白石先生がおっしゃったように、物語を創造したり、作ったり、あるいは、そこに携わるということの第一

歩であったり、かかわりであるわけです。その意味では、やや強引ではありますが、皆さんにも語っていただき

たいというか、物語にかかわっていただきたいというようなことですので、ぜひともご発言していただきたいと

思います。

もちろん発言された方も発言の機会はありますので、取りあえず福味さんの方から、お願いできますか。福味

さんは東海大学の先生でいらして、インドの開発経済学を専攻とされています。

(福味) 東海大学の福味と申します。僕は経済が専門ですので、今日の話は非常に面白かったのですが、いろ

いろ慣れない言葉がたくさん出てきて難しいと思いました。僕は午後からしか出ていないので、午後の部だけの

全体的な印象としては、例えば日本のアニメが世界中で売られている、インドの農村などで子供がポケモンのリ

ュックなどを背負っているのを見ると、すごく面白いなと思うのです。そのようにグローバル化が進んでいる一

方で、美術の話で、ガラパゴス化が進んでいると言われましたが、そういう反対の動きも一緒にあるのではない

かという印象を受けました。

(*カン*) 早稲田大学の博士課程に所属しております*カン*と申します。今日は専門外のお話ばかりを聞

いていて、理解するのも大変でした。私は一応、日本を専門に研究しておりますので、やはりこの20年ぐらい国

民国家が非常に批判されるようになってきている。それはやはり、このグローバル化と並行した動きであったと

思うのです。私は話の主語を日本にすることが難しくてなかなかできないのですが、それ以上にアジアを主語と

してお話しすることにすごく戸惑いを感じてしまうのです。前提として「アジアというものは」というふうにす

ることは、やはりできない。今までの日本の歴史を考えると、どうしても罪悪感がわいてしまうということがあ

るのです。

サイードがオリエンタリズムを批判したように、それをあえて自分で言ってしまうのは、ある意味で良い面も

あれば、やはり悪い面もあると思うのです。グローバル化というのも、私たちはいろいろな世界が近くなってい

って、例えば外国で日本のアニメがすごく普及されている。私たちの価値観がもしつながっているようになった

としたら、それはやはり素晴らしいことだと思います。しかし、そうかといって、やはりそれは商業利益でやっ

ている面がすごく多いので、そうすると、また帝国主義のような形に考えることもできるので、一面的に喜ぶこ

ともできなければ、私としてはいつも批判的というか悲観的に見ることが多いので、もっと積極的な意味に変え

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ていくことが大切だと思うのです。

グローバル化のマイナス面が現れているのがナショナリズムという現象だと思うし、反グローバルリズムとい

う現象だと思うので、アジアがどのようにしてグローバリゼーションの良い面を促していけるのか。多分、アジ

アという概念は、グローバリゼーションと並行して出てきたはずだと思うので、そうした場合に、多分グローバ

リゼーションに対する対抗の意味と適応の意味と、二つの意味があると思うのです。それは多分、1930 年代あた

りもそうであったのではないかと思います。今日のお話を聞いていて、それをプラスの意味にしていけるような

事柄、そういう考え方を批判的に見つつ、しかもプラスの面を見ていけるということで非常に勉強になりました

ので、これからも勉強していきたいと思います。どうもありがとうございました。

(*ナンブ*) 社会科学部の*ナンブ*と申します。僕はまだ一介の学生という立場で、今日聞きにこられた

だけでも、すごくいい 1 日を過ごせたと思っています。こういう研究会は初めてで、こういう場で議論をされる

と、これだけ得るものがとても多いというか、自分が何も知らないということをここで知ることができたという

ことが、今日の一番得たことだと思います。今日は、聴講させていただいてありがとうございました。

(*サイトウ*) 同じく大学生の*サイトウ*です。ただの大学生なので、特に専門などもありません。今日

の話をいろいろ聞いていて、本当に皆さん意識が高いなと思っています。普段、普通の学生として、ここまでア

ジアというものをあまり意識していないのが現状ですので、やはり今日の話を聞いて、本当に知らないことをい

ろいろ学んだので、今後、自分でも考えてみたいと思っています。ネットワークの大切さ、今後のグローバリゼ

ーションなど、いろいろ勉強していきたいと思っています。ありがとうございました。

(*ヒラハラ*) アジア太平洋研究科修士課程 1 年の*ヒラハラ*です。高橋さんに NGO のことで質問をした

いのです。NGOがどんどん大きくなっていって、政府とすごく連携するようになってきていると思うのですが、そ

うすると、もはやNGOではなく「GO」になってしまいます。そうすることによって、NGOにとっていいこともある

と思うし、政府にとってもいいことはあるとは思うのですが、本当に NGO が始まったときに必要とされていたこ

とが失われていってしまうのではないかと思うのですが、そこはどうお考えですか。

(高橋) 多分、その点を吉川先生も私も指摘していたのではないかと思います。それが NGO の*争議性*が失

われているという点だと思うのです。だから、マイナスの面だけではもちろんなくて、政府と連携をすることに

よって、NGO自体がその社会でやっていることは評価しないといけないと思うのです。ただ、その側面をどうやっ

てバランスを取っていくのかということが今後の NGO の課題であると思います。これまでは理念で突き進んでき

た NGO が、政府や民間企業の支援などと連携を取ることによって、ある意味で弱化している。しかし、その弱化

の中で、NGOがどのような生き残り戦略を立てていくかということがすごく重要なことだと思うので、そこが課題

であり、今後の研究の分析点であるとも言えます。

一つあるのは、ご存じの方はいらっしゃるかもしれませんが、政府系の NGO というのもあります。例えばシン

ガポールなどは政府が NGO を作るという、GNGO、ガバメント NGO という、すごく矛盾した組織もあるので、一概

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に NGO が完全な非政府かと言われると、それも新しい提示として、私たちが再検討していかなければいけない点

だと思います。

(*チョウ*) 東京大学大学院教育学研究科博士課程の*チョウ・チカン*と申します。今日は午後から参加

させていただいたのですが、皆さまの非常に興味深い発表を聞かせていただいて、本当にありがとうございます。

素朴な感想なのですが、私自身は、グローバル化時代における人の移動と教育学、アイデンティティの変容など

について、今、研究していますが、今日の発表を聞いて、いろいろなヒントをいただいた気がします。特に私が

常に悩んでいる、人の移動においてどういうネットワークを構築しているのか、あるいは彼らのアイデンティテ

ィはどうなのかということで、今日、皆さまの発表からも、何か共通の悩みもあるのだなと思いまして、非常に

うれしく思っています。例えば美術館であったり、NGOであったり、マンガ類に関しても、いろいろなネットワー

クの構築がありますが、今日は具体的な事例が出て非常に勉強になりました。どういう文化がメディアステート

の枠組みを変えていくのかということで、今日はアジアカルチャーの研究とグローバル化に関する理解をもっと

深めるいいチャンスであったと思います。ありがとうございます。

(*タナカ*) 千葉大学教育学部の*タナカ*と申します。専門は経済学となっているのですが、もともと国

際関係論を勉強したくて、今日は久しぶりに楽しい報告、面白い報告をお聞かせいただきまして、ありがとうご

ざいました。私としては、4人の方の報告と同時に、平野先生と白石先生のコメントにも大いに啓発されたところ

がありました。一つずつ、絡めて申し上げたいと思います。

一つは、第 1 報告の砂井さんの報告に対する平野先生のコメントで、帰納的というご発言にあったと思うので

す。例えば世界の食文化で、地理的にこういう地域が一まとまりであるというサブリージョンをとらえるときに、

国家や民族ではなくて、こういった文化的な様態、様式から、実は一つのサブリージョンだとまとめる、あるい

は見ていくことができるのではないか。それが、今のアジア共同体とか、あるいはアジアネスという議論に何か

貢献できるところが恐らくあるのではないかという気がしました。

それを見るときの単位が、食文化なのか、あるいはエマニュエル・トッドが言うような家族類型構想のような

ものなのか、あるいは美術なのか、何か活字文化のようなものなのか、それはよく分からないのですが、何かそ

ういう切り口で意外なリージョナリティというか、アジアネスというもの見えてくるかもしれないし、もしそう

いうものが出てくれば、非常に面白いだろうという印象を受けました。それが一つです。

もう一つは、白石先生の「グローバル化と国際化」というレジュメで、第 2 報告のアニメの伝播のお話を伺っ

ていて、なるほどと思ったのは、アニメの伝播はある種のグローバル性の事例としてとらえられると思うのです

が、最初にグローバル性が民間主導で拡散していった後に、後からそれを国家が追い掛けていって取り込もうと

している。これはある意味でグローバル化の複雑性を示していると思います。つまり、グローバル化を国家が利

用している側面がやはりあると思うのです。そういう意味で、グローバリゼーション研究に示唆的なところがや

はりあると感じました。

それから、細かい質問になりますが、高橋さんのご報告で、メンバーシップの審査、取得というのは、どうい

うふうに行われているのか、お伺いしたいと思いました。

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(栗田) 幾つかご報告に対するご質問があったかと思いますが、回答は後でまとめてされるということです。

(*タカハシ*) 東海大学政治経済学部の*タカハシ*と申します。自分はベトナムの経済史を専攻しており

まして、その意味では専門外の観点からなのですが、いろいろと示唆を受ける点があったので、その点に関して、

簡単にお話しさせていただきたいと思います。

今日、最も啓発を受けましたのは、五十嵐さんからご報告をいただいたアジア美術館の話です。このアジア美

術館が設立された経緯や活動内容に関して、実は経済史がたどってきた流れと似ているという観点があります。

経済史も、もともとはヨーロッパに目を向けた経済発展モデルが最初にあって、その後、日本の中ではアジアに

目を向けるスタートが切られました。要するに産業革命から始まって、ヨーロッパだけが世界で最初に近代化を

達成したというのではなく、アジアにおいても経済発展はヨーロッパに負けないくらいしてきたのだということ

に目を向ける動きが日本の中で起こってきました。そうしたアジアの視点を除いた経済史の流れから、アジアに

目を向けた経済史になっていくという経済史の学会自体の流れが、ちょうどアジア美術館の動きと似通っている

ところがあり、非常に興味深いところがありました。美術学という学問があるかどうか分かりませんが、美術の

業界でも似たような動きがあったのだというのが、共感を覚えて、非常に面白かったと思っています。

(五十嵐) そういう動きが出たのはいつですか。

(*タカハシ*) 70 年代ぐらいからです。もともと大塚モデルなど、西洋系の話が全盛だった時代があったの

ですが、それからどんどん進んできました。かつて西洋では、どうしてもアジアなどが周辺として位置付けられ

て、欠落された扱いがされていたのですが、アジアを取り込んで考えていかないといけないという動きが出てき

ました。例えば近世においても日本は意外と経済が発展していたとか、そういった動きが見直されるようになっ

てきたというのがやはり経済史の中にもあります。そういったアジアを見直そうという動きが経済史の中にもあ

って、それで少し共感を覚えるところがあったので、非常に興味深く感じました。

もう 1 点は、今日のお話を聞いていて、アジアとは何なのかというのがずっと気になっているところがあった

のです。最近、アジアに向けた経済史を考えたときに、ケン・ポメランツが大分岐論争というのをしているので

す。彼は大分岐というものを提起して、近世の中国においては西洋に負けず劣らず市場経済が発展していたのだ

という論争をしています。もともとは近代以降にアジアと西洋との差がついていったという話だったのですが、

近世においても十分、アジアの市場経済は西洋に負けず劣らず発展していたのではないか、ヨーロッパとアジア

とは差がなかったのだという考え方が、最近起こっています。その場合、アジアといった場合に、やはり中国が

中心になっているのです。

アジアといった場合に、その他の、例えばベトナムなどの国はどうなっているのか、私はベトナムをやってい

る中でずっと思っているのです。そのように、アジアということを考えたときに、われわれの中で暗黙のうちに

大国を前提にしているところがあるのではないかというところが気になっています。その原因は何なのか、アジ

アとは何なのかという今日の話で改めて考えさせていただく契機になりそうなところがあって、その点、少し啓

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発を受けたところだと思います。

(*シマズ*) アジア太平洋研究科博士課程の*シマズ*と申します。何点か気になったことがあったので、

お聞きしたいと思います。

私も今日は午後から参加させていただいたのですが、特にシリアのアニメ産業の話と最後のアジア美術館の話

で、日本のソフトパワー政策の未熟さといいますか、人材育成に目が向けられていないのではないかというお話

が何回か出てきたと思います。その対象的対照的な例として、フランスの例や韓国・中国のお話が出ていたと思

うのです。韓国や中国を東アジアの日本の対照として見たときに、韓国や中国は積極的に自分たちの自文化を外

にアピールするような文化政策がすごく充実していると私は思っております。

例えば孔子学院や韓流ブームなど、政府が中心となって、世界の中で自分たちの異質性を主張するような政策

を行っているというのがあります。一方でまた、教育が専門なものですから特に教育の点で見てみると、例えば

韓国、中国の大学においては、英語プログラムが日本より大変発展していたり、英語の教育熱がすごく高まって

いて留学が進んでいたりなど、世界の動きに沿って世界のグローバル化にとにかく追いついていこうという動き

も日本よりも大変進んでいると感じています。

こういった、一見相反するような、自分たちとの世界との異質性を主張するような動きと、世界にキャッチア

ップしていこう、同質化していこうという動きが、実際には相反するものなのか、それとも、その二つの矛盾を

抱えながら、どちらの方向からもやっていっているものなのか。特に韓国、中国を見る限りでは、両方の動きが

例えばナショナリズムのようなフレームワークで説明できるような気も私はしているのですが、そういうことを

聞きながら思いました。

また、ほかの方もおっしゃっていたように、アジア人としての意識は、今、二つのいろいろな流れがあると思

うのです。そういう中でどういう流れから生まれてくるものなのかという疑問を持ちました。

(*カワグチ*) 早稲田の社会科学研究科博士課程 1 年の*カワグチ*と申します。本日はどうもありがとう

ございました。私はどちらかというと日本国内の一地域、地方自治体の中でも政治社会学という狭い領域が専門

なので、いつもアジアというものの大きさに戸惑うことがあるのです。今回、共通して言われていた部分は、一

つは、存在そのものという視点を持つということです。食事文化でも、アニメの伝播というテーマにしても、存

在というものと構造の両視点を持つことによって、その中でどういう反応が起きているのかというか、連鎖が起

きているのか。その両者を持つということが、すごく重要だと思いました。自治体をやっているという意味では、

現場でやられている美術ネットワークの形成ということで、そこではすごく実践的な場所でのインプリケーショ

ンとしての視点にすごく興味を持ったところでした。

最終的に、NGOのネットワーク化ということで、吉川先生のコメントの中にもあったとおり、現場では実際は専

門化されて、細分領域化されていて、課題にも対応していかなければならない。ただ、一方で、アジアでは有効

に機能しなかったものが、実際は縦という部分では求められているという整理の中で、例えば自治体にしても、

NGOにしても、ある一つの組織論と考えると、それは二項対立的な考え方ではなく、縦も横も必要なのだというこ

とで、そういった部分がすごく自分にとっては示唆的でした。自治体の国際政策という部分で、往々にそういう

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ことがあるのです。一つは、インタレストの部分でのかみ合わせがあるということです。以上、コメントです。

(峯田) 社会科学部助手の峯田と申します。私の関心は、平野先生、白石先生がおっしゃられたことに関連付

けて言えば、やはりアジアを帰納的に見るか、あるいは演繹的に見るかという見方です。私の研究の中では両方

から事例をとらえてしまって、混乱している部分があったのですが、本日のお話で、少し先が見えてきたかなと

思いました。例えば、帰納的に見るということは、先ほど*セオ*先生がおっしゃられたように、現在の関心は

メコン川上流域の地域形成について関心があるのですが、そこにおける少数民族が置かれているパワーの状況で

す。ハードもソフトも、どういうふうになっているか。最近、指導教授との関連で研究を始めたもので数回そこ

に行ったのですが、現場をどういうふうに見ればいいのか。やはりハードパワーという面では、国境ということ

は目に見えて分かるのですが、少数民族が置かれている実際の状況は目に見えない。例えばミャンマーに行った

ときに、中国の影響をどういうふうに見ればいいのか。それはやはり食文化を見たり、実際に人が背負ってきて

いるものを通じて見なければいけない。そのように、見たものをどのように抽象化、一般化していくのかという

意味では、本日はとても勉強になりました。

もう一つ、演繹の方です。これを演繹と言えるかどうか分からないのですが、私のもう一つの関心として、広

島市の国際活動ということがあるのです。先ほど白石先生から、ネーションステーツがネットワークから攻撃を

受けないようにしないといけないという話があったのですが、広島市というのは、逆に都市がネットワークを持

つことで、ネーションステーツからの攻撃を防がなければいけないということを考えているのです。それは先に

平和というキーワードがあるのです。それを基にネットワークをどんどん結んでいくという作業を続けていった

のですが、それが最初からアジアを向いていないのです。何度か広島市の方とお話をしたのですが、アジアにお

ける広島の役割はなかなか見えてこないのです。今度行く重慶というのは広島市と姉妹都市交流をしているので

すが、それは過去に重慶爆撃という爆撃を受けたから、双方が無差別爆撃を受けたからという理由で結んでいる

わけではなくて、経済的な理由が先にあるのです。

ですから、広島市にとって、平和というキーワードは、アジアではどういうふうに通用していくのか。もちろ

んグローバルな規範としては通用するかもしれないのですが、アジアはどうすればいいのかということが私の最

大の関心です。本当はここを研究しなければいけないのですが、ちょっと止まっている部分があるのです。そう

いう動きと双方から、そういうキーワードでまとめることができるのではないかと考えているところです。帰納

的という形で、私が調査をしたものをどう整理すればいいのかという面では、本日は大変勉強になりました。あ

りがとうございました。

(*ホリウチ*) 一つ、最初の砂井さんの報告について気になったことがありました。今日の研究会全体に言

えるのですが、私がやっているのは、基本的に国際政治学なのです。それで、非常に面白い話だったのが、文化

をネットワーク化する、文化が伝播していく、交流をするということを、国際政治という国際関係論の枠組みの

中でどうとらえればいいのかが、いまだに分からないところがあります。

先ほどの意見の中で、文化のグローバリゼーションというのが、グローバルの均質化の方に向かうということ

と同時に、やはり自分たちのアイデンティティのようなものやナショナリティのようなものを表現する手段にも

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なっているという話があったと思うのですが、アニメなどもそういうところがあると思うのです。アニメはもち

ろん日本から行くのですが、それをもって、やはりイスラームというアイデンティティを表現する手段にもなる

ことにもなっていると思います。砂井さんの報告の中で、取りあえず羊の肉の串が、もともとやはり中東という

か、ムスリムの方から来たものだと思うのですが、それが伝わってきて、定着したという話です。これがあくま

で間食としてとらえられているというのは、要するに、受け入れていながらも、やはり外部のものとして、自分

たちの文化と違うものとしてとらえられているのではないかという気がします。

これが中国に伝わっていったというのは、恐らく新疆など、そちらの方の文化が伝わっていったと思うのです

が、それを外食として楽しむということはしても、日常食の中には伝わっていかないというのは、恐らくそれは、

あくまでも他者として受け入れているだけだと思います。そう考えてこの間の新疆の暴動などを考えますと、や

はり中国人にとって、ムスリムの人たちは他者であるということを関係しているのではないかというかというイ

メージがあるのです。どうでしょうか。

(栗田) 技術的な問題のお話を、まずは高橋さんと砂井さんに簡単に答えていただいてから、今日のご報告者

の方々に、さらにリプライのような形でお話をいただけるかと思います。

(高橋) メンバーシップと支援者についてですが、今回取り上げたフィリピンの2団体は、AHCRで申し上げれ

ば、理事会でいわゆるアプリケーションというものを審査する。PHILSSAに関しましては、ウェブサイトでクライ

テリアを公開しております。ただ、そのクライテリア自体が大変基本的なものなのです。例えば、PHILSSAが掲げ

る開発の問題にかかわっている NGO であるか、PHILSSA に 50%の貢献があるかといった基本的なことなので、た

くさんの方にインタビューしたのですが、聞いているところによると、かなり政治的な関係からネットワークが

広がっているのは確かです。知り合いが NGO に入っているので、そこから入っていくとか。特にフィリピンの場

合は、やはりクライアントとパトロンのシフトがまだあると思いますので、縁故関係に基づくネットワーク化と

いう点が否めないと思います。

(栗田) それでは、砂井さんに、最後に*ホリウチ*さんからご質問したことを踏まえて、報告順でいいかと

思いますので、本日の全体の議論、今、いろいろなコメントがあったと思いますが、それらを踏まえて、報告者

の方々からいま一度、リプライをお願いできればと思います。

(砂井) 朝、食文化を題材にお話をさせていただきました砂井です。いろいろと深いコメント等をいただけて、

今日はとても勉強になりました。まず、簡単に先ほどいただいた羊肉串のあくまでも外食で受け入れつつもとい

う話ですが、違うものとして認識しているというのは全くそのとおりに思っています。この発表の際において、

料理における他者性というところで、あえて他者性を維持したままそれを利用するというような使い方というの

も、その操作の一つなのかなと思っています。

国際関係や国際政治の中で文化をどうとらえるのかというのはとても大きくて難しい問題なので、私には言え

ないのですが、実際に移動したり、交流したりしているのは人だというのは、今日のお話でも出てきていました

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が、その人たちが持っている文化を考えるまえに、そもそも文化とは何かということも、やはり考えなくてはい

けないと思うのです。食べ物という物質を頼りに考えたときに、それは考古学などとも同じだと思うのですが、

物を整理して、類型化して、比較して、それから考えるという作業がまず必要なので、国際政治までに至る過程

は、例えば食べ物や文化から考えるときには、長い工程が要るだろうと思っています。

本日、アジアをどう考えるか、アクターとしての人の存在、それから演繹と帰納の件でもすごく思ったのです

が、そもそも今日の発表のタイトルは、最初は「東アジアの食文化(仮)」だったものを、自分としては行為とし

ての食事を考えたいということで、「食事文化」には直したのですが、「東アジアの」というところは、最初その

文字を見て、「どうしよう。私、そんなに広がりのあることをやっていない」というところですごく迷いました。

実際に、普段のフィールドワークでは、中国の福建の田舎のイスラーム系の少数民族なのですが豚を食べる人た

ちの食事の在り方、敬虔なムスリムとの関係、外国人のムスリムとの出会いの中でどのように食事をしているか

ということをやっていて、広がり、伝播をどうしたらいいのかについてすごく迷っていました。

アジアとは何だろう、しかも東アジア、東部分とは何だろうと考えたときに、やはりアジアを何かに対するも

のとして考えるのか、それとも自らわき上がってくるものなのかというのは、すごく迷います。そういった面で、

平野先生におっしゃっていただいたように、食の分布の方からは、こういうふうに東アジアをとらえられるとい

う形で位置付けて始めるべきだったと、すごく今、後悔をしているところです。精進したいと思います。

それから、先ほど白石先生がおっしゃっていたグローバルの問題を考えるには、マクロよりもミクロの現象の

レベルで把握できるのではないかというご提言について、本当にすごくそう思っていて、日常性の中からそれに

挑戦できるような研究をできたらいいなと、決意を新たにする次第です。今日はどうもありがとうございました。

(貫井) 私は中東における日本のアニメについて発表させていただいたのですが、現象面が興味深くて、十分

に整理ができていなかったところを、白石先生に枠組みを改めて整理していただいて、新たにすごく触発を受け、

さらに今回、皆さんからいただいたコメントの中で、私の発表にもかかわり、なおすごく興味深かった点が二つ

あったので、それに対して私の考えを述べさせていただきたいと思います。

一つ目が、グローバリズムにおける負の側面ということで、テロリズムや反グローバリズムという動きも起こ

ってくるということで、確かに日本のアニメが普及することによって、今はそんなに大きなバッシングは受けて

いないのですが、ポケモン事件に象徴されるように、日本人が攻撃されたり、アニメ的なものが排外されたり、

ボイコット運動の対象になる可能性も無きにしもあらずなので、やはり負の影響にならないような不断な努力と

いうのが、確かに必要であると思うのです。それを、国民を守るという意味では国家がやはり担うものなのか、

それともアニメファンの個々の努力に従うべきなのかということについては示唆を受けました。

もう一つ、非常に自分では全く意識していなかったのですが、興味深いご意見がありました。グローバリズム

に伴って均質化していく動きがある一方で、中国や韓国の政策に見られるように、異質性をアピールしつつ英語

教育も盛んに行われるということで、一つ気付いた点は、日本のアニメ文明に対する反発を中東だけで考えたの

ですが、アジアにおいても中国、韓国からの反発があって、そうした日本ブームに対して、中国と韓国が余計に

全世界でアピールしていかなければいけないという動きをある意味、促進させた面があるのかなと思います。ま

た、韓国の場合は、韓流ブームが中東でも起きているのですが、その際に、9.11 以降、イラクに韓国軍が多数派

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遣されたときに、中東において韓国人が攻撃されたり、韓国のビジネスマンが攻撃の対象にならないように、イ

メージを良くするために、韓国の政府の外交政策として盛んに韓国ドラマを中東のテレビ局に提供して、それで

人気が中東でも出てきたという側面があることです。ほかにも、民間と政府が協力し合って韓国の文化をアピー

ルしたりしている面があるという事例を考えると、グローバル化の担い手は、もしかすると政府もある種かかわ

っている、政府と民間が手に手を取ってかかわっている場合もあるのではないかということを、ちょっと提言し

たいと思います。

(高橋) 簡単に 2 点だけ、言及したいと思います。まず 1 点目が、私の発表に関してなのですが、私が言いた

かったのは、ネットワークは横であるべきなのか、縦であるべきなのかということではなくて、ネットワーク自

体の在り方が多元化しているということを言いたかったのです。多元化しているからこそ、白石先生がおっしゃ

っているように、国民国家システムに対峙するような脅威として、立ち上がっていると言えると思っています。

これがまず第1点目です。

第 2 点目ですが、これも白石先生がご指摘されたことなのですが、例えば今日の集まりの場やトリエンナーレ

といった活動から語りというものが作られていって、その中からアジアのアイデンティティのようなものが浮き

上がってくる可能性があるのではないかということに大変共鳴するのです。そこで一つ考えていきたいのは、主

体は一体何なのかということです。結局、誰が誰のために語りを作っていって、その語りを広めていく必要があ

るのかということを私たち自身がやはり考えながら、語りの場をどんどん作っていくべきだと思います。

(五十嵐) お話を聞いていて思ったのですが、私は今までアジア美術館がネットワークに囲まれているという

ことをあまり意識せずに日々、当然のように仕事をしてきていたのです。日本に対してアジア美術館がしている

ことがなかなか伝わらないというのは、もしかしたら、逆にアジアにおけるたくさんのネットワークに囲まれて

いるからなのかなと思いました。そのネットワークが非常に流動的でとらえどころがない、そういうものに囲ま

れているアジア美術館は、そうでない人から見ると、大変とらえどころがなく分からなくて、分からないものは

何となく怖いというふうに、もしかしたら思われているのか、自分はもう中に入ってしまっているので何とも思

わないのではないかということを思いました。また、高橋さんがネットワークが人を排除する側面を持っている

ということをおっしゃっていましたが、もしかしたらこれはそのことなのではないかと思いました。

もう一つ、私はバングラデシュでNGOについて一時期やっていたことがあるのですが、高橋さんの発表の中で、

運動体としての NGO というのが出てくるのですが、アジア美術館もやはり一つの施設というよりは社会運動体だ

と思っているのです。しかし、それを担う者として、美術業界の中だけで話をしていると、その中でのことで窒

息してしまうので、こういういろいろな分野の方々がいろいろなところで、アジア美術館の成り立ちなどに共通

性を見いだしてくださったりしているので、もう少し広い中でのアジア美術館のポジションを見ていきたいと思

いました。ありがとうござました。

(栗田) 今日は本当にいろいろなテーマがたくさんあったと思います。単純に言ってしまえば、食があって、

アニメがあって、NGOがあって、美術があって。先ほど皆さん全員にお伺いしましたが、皆さんの対象としている

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地域も、ベトナムもあれば、インドもあれば、もちろん中東もあれば、いろいろな地域もある。アプローチも経

済学から、政治学から、社会学から、教育学まで、たくさん幅広いものがあったと思うのですが、このディスカ

ッションの冒頭にも言ったとおり、われわれとしては語り合う場のようなものを何とかこの RUNASIA のプロジェ

クトで、いろいろな政治、経済、社会の場で作っていければいいなということを考えておりました。そして、白

石先生から、先ほどいただいたコメントの中で、物語を作っていくことに責任を持つ主体としてかかわっていけ

るかどうか。高橋さんのコメントの中にもありましたが、多分そういうことだと思うのです。

もちろん、いろいろなミクロの話から何からということはあると思うのですが、最後に五十嵐さんが言われた

ように、不安なものであって何かよく分からないから、結局そこに近づけないでいるというようなことが、実は

白石先生がまとめていただいたグローバル化が起きているからこそ、そしてミクロの活動がよりクリアに見えて

きているからこそ、逆に飛び込んでいくことが難しくなってきているのではないかというような気がしました。

だからこそ、多分、政治学では民主主義の議論が出てくるとか、経済学の中でも、いろいろなサブリージョンの

区切りをどうするかとか、いろいろな学問の体系の中で、恐らくミクロとわれわれの主体の感覚ですね。多分、

自分が生存しているというところと、そこをどうつないでいくのかということの何か意識のようなものとを学問

をどうつないでいくのかということに、この先のステップのようなものが何かあるのではないかと、僕自身の勝

手な個人の感想では思いました。

ただ、皆さんのコメントの中にもあったと思うのですが、いろいろなことをやっている中で、多分、皆さんの

それぞれのテーマで何か感じるところ、共通だなと思うとか、これは役に立ったなと思うところがあったと思う

のです。そういうふうに皆さんが思ってもらえれば、主催者側としてよかったのではないかと思います。

これでディスカッションのセクションは終わりにしまして、最後に平野先生から総括のコメントをいただけれ

ばと思います。

総括

平野 健一郎(東京大学名誉教授・早稲田大学名誉教授)

(平野) 私は、早稲田を退職して 2 年になります。21 世紀 COE「現代アジア学の創生」のプロジェクトを一応

終えて、もう 3 年になります。そういう私がこういうところにお招きいただきました。清新はつらつ、最先端の

研究の集まりにお招きいただいて、とても名誉ですし、うれしく思います。ありがとうございました。

以下 3 点、感想を申し上げたいと思います。その感想は、白石さんが先ほど見事に国際化とグローバル化を対

比されたプレゼンテーションにすべて負って、その下で考えていることだと申し上げたいと思います。

RUNASIAの正式のプロジェクト名は「アジア地域のネットワーク解析研究拠点構築」というものでした。その3

分野のうち、今日は文化と社会の集まりであるということです。そのことから感想が出てきますが、以下の感想

は、栗田さん、峯田さん、森川さんへのお願いと、具体的には、研究をこれから進めていただく上でのお願いと

いう意味も持ちます。

第 1 点は、文化と社会の側面を扱う部分ということで、今日のご議論で、それが国民国家との対比、もう少し

言えば、相互関係というところで取り上げられているわけです。そのこともあって、文化・社会は反権力の現象

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など、そこまで言ってしまうと大変なのですが、少なくとも行政機関との対比で行われる人間の行為を扱う。あ

るいは、反公共機関というようなところが強調されることがあると思います。さらに、恐ろしいことを言えば、

アジアの文化・社会を扱うということは、反近代欧米であるということを言ってしまってもよさそうなご議論も

あったと思っています。

もう一つ言えば、文化の非領域性という側面に焦点が当たるというところであったと思うのです。しかし、文

化・社会は領域を超えると同時に、やはり領域性を持っているという両義的な面があるということがあると思い

ます。それで、その文化・社会面でアジア地域のネットワークを、これは実践的な関心ですが、作っていくとい

うことは、結局、アジアにパブリック・スペースを作り出していこうということだと思うのです。公共圏。だか

ら、公共機関、国民国家システムの中の行政機関や公共機関と拮抗し、タイアップしながら、それとは違うパブ

リック・スペースを作っていけないかという、そういう狙いを持つものではないかと思います。

砂井さんのご報告の中で、アニメに関連して、ソフトパワーやパブリック・ディプロマシーという関係がある

ということが指摘されました。それは当然なのですが、パブリック・ディプロマシーだけにアニメをとられてし

まうというのは、よろしくないと。アニメを通じて、パブリック・スペースを作ることができたらいいなと思っ

たことが第1です。

第 2 点は、ネットワークについてです。今日は、ネットワークについてのお話が続いたわけですが、今日、取

り上げられなかったネットワークもアジアの中にいっぱいあるということを改めて思い出しておくべきだと思い

ます。かなり歴史のあるネットワークもあるわけです。学者が作ってきたネットワークというのもありますし、

例えば、地図を作るために技術者が一生懸命作ってきたネットワークとか、気象予測のためのネットワークとか、

それこそたくさんあって、根本的には、やはり個人が作るネットワークがたくさんあって、発達してきていて、

個人のネットワークだけではなくて、様々なネットワークが重なっている地域として、アジアを考えるというこ

とが基本かなと思います。

その点で、五十嵐さんが書いてくださったご報告の用紙の最後に、「美術のネットワークや美術の交流は、まだ

まだアクターが動いて、まだまだネットワークができる」。要するに、人・物・金・情報のネットワークがすべて、

美術のネットワークにも見られると。多様なネットワークがあるということを書いていらっしゃるのが、今回の

報告の中では代表的なことだと思います。ということで、アジア地域のネットワーク解析を今後進めていただく

のに、様々なネットワークの重なりということ。それから、高橋さんのご報告で気が付かなかったような新しい

ネットワークの原理の動きもあるようですから、それも含めたネットワーク論の新しい展開をぜひ見せていただ

きたいと思います。

3 点目は、ややテクニカルですが、21 世紀 COE のときから、このネットワーク解析の特徴は、定量性というこ

とだと思います。栗田さんがアジアレビューに書かれた文章には、「量的側面と質的側面の両方から読み解く」と

書いておられます。その量的側面というのに期待をするということですが、同時に質的側面ということを言って

おられるということも重要だと思います。経済の面の研究は量的側面の研究が最も進んでいるわけですが、経済

学者が使っているデータは、専ら政府が作ったデータのように思います。これをもう少し社会単位や企業単位の

データにまで広げていただくというようなことも、量的側面の定量性の補強ということで、期待がかかるかと思

います。

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その量的側面、質的側面の両方から読み解くということで考えていらっしゃるのが、アジアビジョン・サーベ

イというもので、これは大いに期待がかかると思います。そして、先ほども栗田さんが言われましたが、共通の

土俵、共通の場を作っていくということが課題だと思います。例えば、アジアビジョン・サーベイを実行してい

く中でそれが行われていくのだと思いますが。研究者の間でこういう研究会のようなところで共通の場がますま

す作られるのはもちろん歓迎すべきことだと思いますし、やはりアジアの人々の間で共通の土俵が作られるとい

うことが、何よりも願わしいことではないかと思います。

(栗田) 今日の全体の議論だけではなくて、われわれのRUNASIAプロジェクトの今後にかかわる非常に重要で、

貴重なご意見を本当にありがとうございました。先ほどのところでも少しお話ししたのですが、その何か分から

ないところに飛び込んでいくというようなことは、恐らくどこでも必要だと思うのです。そのときに、僕が最近

好きな*アルコンソリンゲス*という人類学者がいるのです。分からないものに飛び込んでいくということが、

信頼ということの一番重要なところだと。不安なものに、それでもいいから飛び込んでいく、分からないけど飛

び込んでいくというようなときに、初めて信頼という概念がその人の中に生まれて、そのときにある意味での人

と人との本当の意味でのネットワークというものが生まれてくるのではないかと考えています。

実は、アジアビジョン・サーベイというのは、実は、既に1度目のサーベイを終了しており、日本の30~40ぐ

らいの大学に本当にメールを 1 通 1 通送って、それぞれの人のつてをたどって、研究者の方々、先生方、あるい

は学生さんにまでご協力をいただいて、なんと1800近いサンプルをたかだか数十万円の予算でやってしまったと

いうことがあります。実際、集まってきたデータも非常に面白い内容のことばかりで、それこそ本当に量的・質

的側面を分析できるような調査データを実はもう既に集めております。

その中で、改めて公共の場、人とのかかわり、ネットワークというものの積極的な意味を探っていこうと。も

ちろんそれがネガティブな意味に転換するということの危険性も、今日の議論の中ではたくさんあったと思いま

すが、そういうものを考えながら、この先のわれわれのプロジェクトも続いていければと思いますので、皆さん

も今後とも、ぜひともご協力をよろしくお願いします。