4 熱浴と接した系 - 京都大学...letter z stands for the german word zustandssumme, \sum...

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 28 4 熱浴と接した系 前章では,2つの系が接触してエネルギー交換が可能であるときに,どのような状態が観 測されるかという問題を考えた.「系全体の多重度が最大になる」という条件から,熱力学 と整合する関係式を探した結果,多重度密度とエントロピーの関係(ボルツマンの関係式k B log g(E)= S(E) k B : Boltzmann 定数 が見出された.これより,温度 T 統計力学的1 T = ∂S ∂E = k B g ∂g ∂E と定義できることになった. この章では,同じくエネルギー交換ができる2つの系について,片方の系が非常に大き い場合を考えよう.これにより,熱浴 heat bath, thermal reservoir という重要な考え方に たどり着く. 4.1 問題設定 前章と同様に2つの系 I II が接触しており,互いにエネルギーの交換が可能であると ... System I System II 大きな「熱浴 II」と接触した 系 I する.片方の系 II が非常に大きくて多くの自由度(粒子数,体積など)を持つ場合に,ど のような状態が実現するかを,I の状態に注目して考える. 前章の場合と同様に,全体の多重度が各々のエネルギーの関数として与えられていると 想定する.全体のエネルギーを E 0 ,個々の系のエネルギーを E 1 E 2 とし, E 1 + E 2 = E 0 = const. (4–85) という条件の下で,E 1 がどのような値をとるかをもう一度考察しよう. 前章と同様に,多重度を g(E 0 )= g 1 (E 1 )g 2 (E 2 )= g 1 (E 1 )g 2 (E 0 - E 1 ) (4–86) と表す.前章では多重度最大の条件, ∂E 1 g 1 (E 1 )g 2 (E 0 - E 1 )=0 (4–87) から,熱平衡条件 log g 1 ∂E 1 E1=E eq 1 = log g 2 ∂E 2 E2=E0-E eq 1 = 1 k B T (4–88) が得られた.本章ではさらに,この熱平衡条件の近くでのエネルギーの揺らぎ について考 察していこう.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 28

4 熱浴と接した系

 前章では,2つの系が接触してエネルギー交換が可能であるときに,どのような状態が観

測されるかという問題を考えた.「系全体の多重度が最大になる」という条件から,熱力学

と整合する関係式を探した結果,多重度密度とエントロピーの関係(ボルツマンの関係式)

kB log g(E) = S(E) kB : Boltzmann定数

が見出された.これより,温度 T が統計力学的に

1

T=

∂S

∂E=

kBg

∂g

∂E

と定義できることになった.

 この章では,同じくエネルギー交換ができる2つの系について,片方の系が非常に大き

い場合を考えよう.これにより,熱浴 heat bath, thermal reservoir という重要な考え方に

たどり着く.

4.1 問題設定

 前章と同様に2つの系 Iと IIが接触しており,互いにエネルギーの交換が可能であると

...

System I System II

大きな「熱浴 II」と接触した 系 I

する.片方の系 IIが非常に大きくて多くの自由度(粒子数,体積など)を持つ場合に,ど

のような状態が実現するかを,系 Iの状態に注目して考える.

 前章の場合と同様に,全体の多重度が各々のエネルギーの関数として与えられていると

想定する.全体のエネルギーを E0,個々の系のエネルギーを E1,E2 とし,

E1 + E2 = E0 = const. (4–85)

という条件の下で,E1 がどのような値をとるかをもう一度考察しよう.

 前章と同様に,多重度を

g(E0) = g1(E1)g2(E2) = g1(E1)g2(E0 − E1) (4–86)

と表す.前章では多重度最大の条件,

∂E1g1(E1)g2(E0 − E1) = 0 (4–87)

から,熱平衡条件

∂ log g1∂E1

∣∣∣∣E1=Eeq

1

=∂ log g2∂E2

∣∣∣∣E2=E0−Eeq

1

=1

kBT(4–88)

が得られた.本章ではさらに,この熱平衡条件の近くでのエネルギーの揺らぎ について考

察していこう.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 29

4.2 Boltzmann分布

 前章で既に述べたように,統計力学では,系 IがエネルギーE1の状態にある確率 P (E1)

は,全体の多重度に比例すると考える: これを等重率の原理 principle of equalprobability とよぶことがある.

P (E1) ∝ g1(E1)g2(E0 − E1) (4–89)

ここで,E1 が熱平衡条件 (4–88)式を満たす値 Eeq1 から少しずれたときの確率を考えて

みよう.系 IIは非常に大きいと仮定しているので,E0 ≫ E1 であるから,熱浴の多重度

g2(E0 −E1) を E0 −Eeq1 の周りで Taylor展開することを考える.以下では,表記を簡単

にするため,このエネルギーのずれを

∆E ≡ E1 − Eeq1 (4–90)

と表記する.

 次の2通りの展開方法を思いつく:

(1)g2 を直接に展開する考え方

解析学(微積分学)で習った人もいると思うが,o(xn)や O(xn)はランダウ Landau の記号 と呼ばれ,展開の高次項を表すのに便利な記号(表記法) である.小文字 o(xn) はn次の微小量 xn よりも小さいことを示し,大文字 O(xn)は xn と同程度またはそれ以下であることを意味する. 例えば,関数 f(x)のマクローリン Maclaurin 展開は

f(x) = f(0) + f ′(0)x

+1

2f ′′(0)x2 + o

(x2)

あるいは

f(x) = f(0) + f ′(0)x

+1

2f ′′(0)x2 +O

(x3)

と書ける.

P (E1) ∝ g1(E1)

[g2(E0 − Eeq

1 )− ∂g2∂E2

∣∣∣∣E0−Eeq

1

×∆E1 + o(∆E1)

]

∼ g1(E1)g2(E0 − Eeq1 )

[1− ∆E1

kBT

]∵式 (4–88)から (4–91)

(2)log g2 を展開する考え方

P (E1) ∝ g1(E1) exp [log g2(E0 − E1)]

= g1(E1) exp

[log g2(E0 − Eeq

1 )− ∂ log g2∂E2

∣∣∣∣E0−Eeq

1

×∆E1 + o(∆E1)

]

∼ g1(E1) exp

[log g2(E0 − Eeq

1 )− ∆E1

kBT

]∵式 (4–88)から

= g1(E1)g2(E0 − Eeq1 ) exp

[−∆E1

kBT

](4–92)

 当然ながら,∆E1が小さいときに,両式 (4–91)と (4–92)が一致するのは明らかである.

しかし,「どちらの展開方法が物理的に,より妥当か」を考えると違いが出てくる.(4–92)

は系 Iを仮想的に2つに分割したときに,状態の数が各々の積になる

Kittelの教科書では(1)は「収束の困難を引き起こす(Kittel, p.49の脚注)」として,(2)の方法を採用している.確かに,状態数 g2 は一般に途方もなく大きな数なので,実際に展開することは不可能に近い.しかし(2)を選択する理由として,私はむしろ,ここに記したように系の示量性に関する考察を重視したい.その他にも,(2)は確率が非負であることが保証されるという優れた点がある.

exp

[−Ei + Eii

kBT

]= exp

[− Ei

kBT

]exp

[− Eii

kBT

](4–93)

のに対し,式 (4–91)はそのような表現になっていないことから,式 (4–92)を使うべきで

あると判断できる.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 30

 以上の考察の結果,次のことが言える:

非常に大きな系 [これを,熱浴 heat bath あるいは thermal reservoir という] と熱平衡に

ある系がエネルギー E をとる確率は

P (E) ∝ g(E) exp

[− E

kBT

](4–94)

である.g(E)は注目している系の多重度,T は 熱浴の温度 である.

reservoir (レザヴォワ): 貯水池,貯蔵庫.もとはフランス語 (英語なら reserver とでもなるはず) なので,reservoir と最初にアクセントをつけることが多い.

式 (4–92)の∆E が式 (4–94)では単なる E になっていることが気になるだろうか? 詳しく書くと

exp

[−

∆E

kBT

]= exp

[−E − Eeq

kBT

]= exp

[−

E

kBT

]exp

[Eeq

kBT

]であり,因子 exp

[Eeq

kBT

]はEに依

らない定数であるから,式 (4–94)となる.

ここに現れた,熱浴に由来する因子 exp

[− E

kBT

]は,Boltzmann因子 (Boltzmann factor)

と呼ばれる.

4.3 確率の規格化:分配関数

 式 (4–94)は,規格化 normalize されていないため,確率としてはまだ不十分である.規

格化するのは簡単で,単に,すべての状態についての和で割っておけばよい.

規格化された確率:

P (E) =

g(E) exp

[− E

kBT

]∑E

g(E) exp

[− E

kBT

] (4–95)

ここで,分母は,注目している系がとり得るすべての(微視的)エネルギーについての

和である.

この規格化因子(分母)を分配関数 partition function と呼び,通常,記号 Z で表す:

Z(T ) ≡∑E

g(E) exp

[− E

kBT

](4–96)

分配関数は,温度の関数である. もちろん,注目している系の体積や粒子数の関数でもあるが,多重度g(E) や,前章で定義したエントロピー S(E) ≡ kB log g と違い,エネルギーの関数ではないことに注意せよ.これは,もちろん E で総和をとっているからである.

分配関数の別の表現

 場合によっては和の代わりに積分 で表現することもある:

Z(T ) =

∫g(E) exp

[− E

kBT

]dE (4–97)

多重度密度 g(E)の定義[つまり,エネルギーがEとE+dEの間にある状態の数を g(E)dE

とする]から考えると,本来はこちらの方がより正当な表現であるが,式 (4–96)のように

表しても特に大きな混乱はないだろう.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 31

また,エネルギーの代わりに,微視的状態そのものに直接注目して考えることもできる.

すなわち

Z(T ) =∑

微視的状態

exp

[− E

kBT

](4–98)

もちろん,この時には 多重度密度 g(E)は現れない.

4.4 (参考) 分配関数のネーミングの由来

 「分配関数」とは日常耳慣れない言葉であろう,英語でも partition function は特殊な

専門用語である.「なぜ,partition = 分配 と名付けられたか」について述べてある教科 partition(vt)1. · · ·を · · ·に分割する,区画する.2. (部屋を) 仕切る書はあまり見かけないが,Wikipedia (本家版) に以下の記述があった:

. . . The partition function thus plays the role of a normalizing constant, ensuring that

the probabilities sum up to one:

1

Z

∑(状態)

e− E

kBT = 1

This is the reason for calling Z the ”partition function”: it encodes how the probabilities

are partitioned among the different microstates, based on their individual energies. The

letter Z stands for the German word Zustandssumme, “sum over states”.

(Wikipedia英語版より,記号を一部改変)

すなわち,巨視的な状態をそれぞれの微視的状態に exp[− E

kBT

]の重みで分配する とい

う意味らしい.ついでに,なぜ Z という記号が用いられるかという歴史的事情(ドイツ語

Zustandsummeの頭文字)も述べられている.

4.5 分配関数の性質

 分配関数は,いくつかの便利な性質を持っている.たとえば温度で微分すると

∂Z(T )

∂T=

∑E

E

kBT 2g(E) exp

[− E

kBT

](4–99)

となるから,

∂ logZ

∂T=

1

Z(T )

∂Z(T )

∂T

=

1

kBT 2

∑E

Eg(E) exp

[− E

kBT

]∑E

g(E) exp

[− E

kBT

]=

1

kBT 2

∑E

EP (E) (4–100)

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 32

ここで,∑E

EP (E)はエネルギーの平均値 ⟨E⟩を表すから第 1章で述べたように,変数 xに対する規格化された確率 P (x)が定義されているとき,一般に関数 A(x)の平均値 average を

⟨A⟩ ≡∑x

A(x)P (x)

と定義する.また,平均からのずれの2乗の平均が,分散 varianceである:⟨

(A− ⟨A⟩)2⟩=⟨A2

⟩− ⟨A⟩2

⟨E⟩ = kBT2 ∂ logZ

∂T(4–101)

すなわち,分配関数の対数を温度で微分すればエネルギーの平均値が求められる.

 また,定積熱容量 Cv は,エネルギー平均値の温度微分で定義される:

Cv ≡ ∂⟨E⟩∂T

(4–102)

式 (4–101)をさらに温度で微分することで,Cv に関していくつかの表式が導かれる:

Cv = kBT

[2∂ logZ

∂T+ T

∂2 logZ(T )

∂T 2

]= kBT

[2∂ logZ

∂T+ T

[−(

1

Z(T )

∂Z(T )

∂T

)2

+1

Z(T )

∂2Z(T )

∂T 2

]](4–103)

一方,式 (4–99)から

∂2Z(T )

∂T 2= − 2

T

∑E

E

kBT 2g(E) exp

[− E

kBT

]+∑E

(E

kBT 2

)2

g(E) exp

[− E

kBT

]

= − 2

T

∂Z(T )

∂T+∑E

(E

kBT 2

)2

g(E) exp

[− E

kBT

](4–104)

従って,

Cv =1

kBT 2

[⟨E2⟩ − ⟨E⟩2

]=

1

kBT 2

⟨(E − ⟨E⟩)2

⟩=

1

kBT 2

⟨∆E2

⟩(4–105)

すなわち,定積熱容量はエネルギーの分散に比例するという法則が得られた.

この関係式 (4–105)は,(4–95)から出発して,もっと簡単に導くことができる.すなわち,

⟨E⟩ =∑

Eg(E) exp[− E

kBT

]∑g(E) exp

[− E

kBT

]だから,T で微分すると

∂⟨E⟩∂T

=

1kBT2

∑E2g(E) exp

[− E

kBT

]∑g(E) exp

[− E

kBT

] − 1

kBT 2

[∑Eg(E) exp

[− E

kBT

]∑g(E) exp

[− E

kBT

] ]2

=1

kBT 2

[⟨E2⟩ − ⟨E⟩2

]

 分配関数についてのこれらの関係式は,g(E)の具体的な形によらないことから,古典

系・量子系を問わず,どんな系に対しても成り立つ一般的なものである.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 33

(補足) 流体は,その気液臨界点 critical point付近において比熱容量が著しく増大すること

が知られている.式 (4–105)から,この現象は,エネルギーが激しく揺らいでいることに対応

していることがわかる.一般に,臨界点近傍では,物質の構造の揺らぎが大きくなり,その結

果として,比熱容量が無限大に発散する.このような熱容量の発散は,多くの結晶相転移にも

見られる現象である.

(参考データ)二酸化炭素の低圧比熱容量.神鋼エアーテックの web ページより.http://shinko-airtech.com/supercritical/critical.html

4.6 例:自由電子気体

 分配関数を,多重度密度が既知の自由電子気体系について計算してみよう.式 (2–47)

から, 数学公式集より∫ ∞

0

√xe−axdx =

1

2a

√π

a

実は,ここで行った 和から積分への置き換え(式変形の ≃のところ)は厳密ではない.極低温において,ほとんどの電子が基底状態にある状況では,この近似が怪しくなることがある.あとの章においてもう少し詳しく扱う.

Z(T ) =∑E

g(E) exp

[− E

kBT

]

=25/2πm3/2V

h3

∑√E exp

[− E

kBT

]≃ 25/2πm3/2V

h3

∫ ∞

0

dE√E exp

[− E

kBT

]=

25/2πm3/2V

h3

√π

2(kBT )

3/2

=

(2πm

h2

)3/2

V (kBT )3/2 (4–106)

故に,

⟨E⟩ = kBT2 ∂ logZ

∂T= kBT

2 ∂32 log(kBT )

∂T=

3

2kBT (4–107)

我々は,Schrodinger方程式から出発して,完全に量子力学的に電子を取り扱ったにもか

かわらず,よく知られた古典理想気体の内部エネルギーの表式が得られるのはおもしろい.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 34

4.7 例:磁場中の孤立スピンの集団

 同様に,式 (2–52)から

Z(T ) =∑E

√2

πN2N exp

[− E2

2Nµ2B2

]exp

[− E

kBT

]

≃∫ +NµB

−NµB

dE

√2

πN2N exp

[− E2

2Nµ2B2

]exp

[− E

kBT

]=

√2

πN2N

∫ +NµB

−NµB

dE exp

[− E2

2Nµ2B2− E

kBT

](4–108)

残念ながら,この積分は厳密に(=解析的に)は計算できない.近似的に計算することも

考えられるが,幸いに,この場合は別の方法でもっと簡単に厳密解を求めることができる.

 そのためは,式 (2–52)の導出過程を振り返ってみる.即ち,N 個のスピンのうち,Nup

が上向き,残りが下向きであるときのエネルギーと場合の数を数えることによって,g(E)

を求めたのであった.そこで,エネルギーではなく,微視的状態すなわちNupそのものに

注目すると

各スピンが独立であるために,分配関数が単純な多重積の形に表せたのである.

Z(T ) =

N∑Nup=0

N !

Nup!(N −Nup)!exp

[−−µBNup + µB(N −Nup)

kBT

]=

[e−−µB

kBT + eµB

kBT

]·[e−−µB

kBT + eµB

kBT

]· · ·

[e−−µB

kBT + eµB

kBT

]=

[e−−µB

kBT + eµB

kBT

]N= 2N coshN

(µB

kBT

)(4–109)

このように,分配関数が厳密かつ簡単に求まる.エネルギーの平均値は

ここで,双曲線関数 hyperbolicfunctions を思い出しておこう.

2 sinh(x) = ex − e−x

2 cosh(x) = ex + ex

tanh(x) =sinh(x)

cosh(x)

また,その性質として

cosh2(x)− sinh2(x) = 1

d

dxsinh(x) = cosh(x)

d

dxcosh(x) = sinh(x)

d

dxtanh(x) =

1

cosh2(x)

⟨E⟩ = kBT2 ∂ logZ

∂T

= kBT2

(−NµB

kBT 2

)sinh µB

kBT

cosh µBkBT

= −NµB tanh

(µB

kBT

)(4–110)

さらに,熱容量は

Cv =∂⟨E⟩∂T

=N(µB)2

kBT 2 cosh2(

µBkBT

) (4–111)

と求められる.これらの熱力学量がいずれも,N に比例することに注意したい.これは,

エネルギーも熱容量も示量変数であることから当然である.図 4–7にこれらを温度の関数

としてプロットした.µB

kB単位で測った温度が約 0.8のところで,最大の熱容量を示すこ

Kittel p. 50– の議論と本質的に同じものであるが,エネルギーの単位が異なっている.ここで述べたスピン系は,エネルギーが±µB の値をとり得る2状態モデルである.

とがわかる.なお,熱容量が無限大に発散するわけではないので,これは相転移ではない. このような,2つのエネルギー状態をとることのできる系の示す熱容量曲線を Schottky型比熱あるいは Schottky異常とよぶことがある.半導体中の不純物の励起状態などにしばしば見られる現象である.

Walter Schottky (1886–1976) スイス生まれ,ドイツの固体物理学者.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 35

-1.0

-0.8

-0.6

-0.4

-0.2

0.0

0 1 2 3 4 5E

ne

rgy [E/NµB

]

Temperature [kBT/µB]

Independent Spins under Magnetic Field

0.0

0.2

0.4

0 1 2 3 4 5He

at C

ap

acity [Cv/NkB]

Temperature [kBT/µB]

Independent Spins under Magnetic Field

図 4–7: 磁場中の独立スピンの平均エネルギーと熱容量.

4.8 この章のまとめ

(1) 互いにエネルギーのやり取りがある2つの系について,一方の系が十分に大きい

場合(熱浴)には,他方の系のエネルギーが E となる確率は,Boltzmann 因子

exp[− E

kBT

]に比例する.

(2) もう少し丁寧に言うと,「温度 T の熱浴に接している系がエネルギー E をとる確率

は,g(E) exp[− E

kBT

]に比例する.」 ここで,g(E)は注目している系のエネルギー

多重度である.

(3) この確率の規格化因子として,分配関数 Z(T )が定義される:

Z(T ) =∑E

g(E) exp

[− E

kBT

]分配関数を温度で微分するとエネルギーの平均値が得られる.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 36

演習

量子力学で学んだように,固有振動数が ω の1次元調和振動子のエネルギー固有値は離散的かつ等間隔であり,

En =(n+

1

2

)h−ω   n = 0, 1, 2, . . .

となる.エネルギー多重度は1であるとして,温度 T での分配関数を求め,エネ

ルギー平均値と熱容量を求めよ.また, h−ωkBT

→ 0の極限(高温極限)で得られる表式が,古典力学での結果と一致することを確かめよ.

スピン自由度 (この章の末尾の付録を参照のこと)を考慮すると,外部磁場のない電子系の場合は,本当はすべてのエネルギー固有値は二重に縮退している.

(ヒント)分配関数の定義通りに,

Z(T ) =

+∞∑n=0

exp[− En

kBT

]= exp

[− h−ω

2kBT

] +∞∑n=0

exp

[−nh−ω

kBT

]この無限級数を求めるには等比級数の公式を思いだそう.すなわち |x| < 1のとき

∞∑n=0

xn =1

1− x

計算の結果は,

⟨E⟩ =h−ω

2

1

tanh(

h−ω2kBT

)となるはずである.右図のようなグラフが得られる.

0.0

0.5

1.0

1.5

2.0

2.5

0 1 2 3 4 5

En

erg

y [E/hω

]

He

at C

ap

acity [Cv/kB]

Temperature [2kBT/hω]

Quantum Harmonic Oscillator

<E>Cv

図:量子力学的な1次元調和振動子の平均エネルギーと熱容量.

 一方,古典力学的に考えると,1次元調和振動子の場合は,温度 T において,運動エネルギーに12kBT,ポテンシャルエネルギーにも 1

2kBT のエネルギーが分配されているので,⟨E⟩ = kBT とな

る.この量子力学的取扱いでは,高温 T → +∞で熱容量が古典極限 kB に近づくことがわかる.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 37

演習

 2原子分子(例えば O2 や N2)の回転運動のエネルギー準位は

Ej = j(j + 1)ϵ0 j = 0, 1, 2, . . . (4–112)

と離散的であり,各準位の多重度は

g(j) = 2j + 1 (4–113)

である.ここで,ϵ0 は準位の間隔を決めている定数である.

(1) 2原子分子の回転運動に関する分配関数の表式(級数)を示せ.

残念ながら,この分配関数の級数を厳密に計算することは困難である.そこで,まず高温極限について議論してみよう.

(2) kBT ≫ ϵ0 の条件では,準位の離散性は重要ではなく,級数を積分で近似してもよいだろう.この近似により,分配関数を計算せよ.

(3) この分配関数から,エネルギーの平均値と熱容量を求めよ.

次に,低温極限について考えよう.

(4) kBT ≪ ϵ0 の条件では,j = 0 と j = 1 のみを考える近似が成り立つだろう.(準位間隔は j が大きくなるとどんどん広がっていくことに注意.)この近似により,分配関数を計算せよ.

(5) 同じく,エネルギーの平均値と熱容量を求めよ.

せっかくだから,これらの結果を,数値計算と比較してみよう.2回生配当の計算機数学で Fortranあるいは C言語によるプログラミングを学んだはずである.数値計算により微分をもとめるのは厄介なので,ここでは,確率の定義に戻って,次の式からエネルギーの平均値と熱容量を求めることにしよう:

⟨E⟩ =

∑Ejg(j) exp

[− Ej

kBT

]Z(T )

(4–114)

Cv =⟨E2⟩ − ⟨E⟩2

kBT 2(4–115)

与えられた温度 T に対して,規格化前の確率 exp[− Ej

kBT

]がある値 δ より小さ

くなったところで和を打ち切ることにする.倍精度で計算すれば,δ として相当小さな値,例えば 10−12 を選んでも十分に計算できるはずである.

(6) リスト 4–8 は分配関数を計算するプログラムである.ここでは,温度はϵ0/kB を単位として測っている.これを参考にして,エネルギーの平均値と熱容量を計算するプログラムを作成せよ.

(7) これを実行して,エネルギーの平均値と熱容量を温度の関数として求め,プロットせよ.うまくいけば,右図のようなグラフが得られる.

0.0

0.5

1.0

1.5

0.1 1 10 100

He

at C

ap

acity [C

v/k

B]

Temperature [kBT / ε0]

Diatomic Rigid Rotor

図:数値計算により求めた2原子分子の熱容量への回転運動の寄与.

#include <stdio.h>#include <math.h>

#define delta 1e-12

double partition(double t){

double sum=0.0;double p;int j=0;

do {p=(2*j+1)*exp(-j*(j+1)/t);sum+=p;j++;

} while (p>delta);return sum;

}//-------------------------------------------int main( ){

double temperature;

scanf("%lf",&temperature);printf("%f\n",partition(temperature));return 0;

}

program main

double precision temperature

read(*,*) temperaturewrite(*,*) partition(temperature)

endc-------------------------------------------

double precision function partition(t)

parameter (delta=1e-12)double precision t,sum,pinteger j

sum=0.0j=0

1 continuep=(2*j+1)*exp(-j*(j+1)/t)sum=sum+pj=j+1

if (p.gt.delta) goto 1

partition=sum

end

図 4–8: 2原子分子の回転運動の分配関数を計算するプログラムの例:(左)C言語版,(右)Fortran版.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 38

4.9 (付録) 角運動量の量子化についてのまとめ

角運動量の量子化について簡単に紹介しておく.詳しくは量子力学の教科書などを参照すること.

 古典力学における角運動量はベクトル L = (Lx, Ly, Lz)であって,

Lx = ypz − zpy

Ly = zpx − xpz

Lz = xpy − ypx

と定義される.(p = (px, py, pz)は運動量.)量子力学では,周知のようにこれらの物理量は演算子と

して扱う.表式を簡単にするために,以下の角運動量は h− を単位として表すことにすると,座標表

示ではそれぞれ

Lx =1

i

(y∂

∂z− z

∂y

)Ly =

1

i

(z∂

∂x− x

∂z

)Lz =

1

i

(x∂

∂y− y

∂x

)となる.複素結合演算子を次のように定義する:

L± ≡ Lx ± iLy

簡単な計算により,次の関係(交換関係)が成り立つことがわかる:

L+L− − L−L+ = 2Lz

LzL+ − L+Lz = L+

LzL− − L−Lz = −L−

L2L±−L±L2 = 0

L2Lz − LzL2 = 0

最後の式は,L2 と Lz が可換な演算子であることを示しており,L2 と Lz は独立して固有値を持つ

ことが可能である(=不確定性がない)ことがわかる.後で使う次の式も容易に証明できる:

L2 = L−L+ + L2z + Lz (∗)

 回転運動は,球座標で表現する方が便利である.いつものように

x = r sin θ cosϕ

y = r sin θ sinϕ

z = r cos θ

と定義すると,特に

Lz =1

i

∂ϕ

となる.そこで,Lz の固有関数となる波動関数 Ψ(r, θ, ϕ)を考えてみると,

Ψ = f(r, θ) exp[ilzϕ]

の形をしていることがわかる.ここで,lz が Lz の固有値であるが,Ψが一価関数である(= ϕが

1周すると元に戻る)ためには

lz = m = 0,±1,±2, . . .

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 39

でなければならない.この波動関数を Ψm と書くことにする.

 次に,L2 の固有値 l2 について考える.上の交換関係から

LzL±Ψm = (L±Lz ± L±)Ψm

= (m± 1)L±Ψm

となるから,L±Ψm は Lz について固有値m± 1の固有関数になる.一方,物理的にm2 = l2z ≤ l2

だから,|m|には上限がある.それをM とすると

L+ΨM = 0

よって

L−L+ΨM = 0

式 (*)から, (L2 − L2

z − Lz

)ΨM = 0

すなわち

L2ΨM = M(M + 1)ΨM

となり,ΨM は L2 に対する,固有値M(M + 1)の固有関数でもあることがわかる.あとは,次々

と L− を作用させて得られる ΨM−1,ΨM−2, . . . ,Ψ−M+1,Ψ−M が,すべて L2 の同じ固有値の固有

関数であることは,L± と L2 が交換可能であることから容易にわかる.

 以上の結果をまとめると,M = 0, 1, 2, . . .として

(1) L2 の固有値はM(M + 1)の形のみが許される.

(2) この L2 の固有状態は,(2M + 1)重に縮退している.

(3) これらの縮退状態は,Lz を作用させることによって区別される.

 外場がなく,自由に回転している場合の回転運動エネルギーは,Lz の固有値にはよらない.この

とき,エネルギー準位はh−2M(M + 1)

2Iのように離散的であり,各々が (2M +1)重に縮退している

ことになる.ここで,I は慣性モーメントである.