the problem of evil in st. augustine : fall from imago dei

18
九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository The problem of "evil" in St. Augustine : fall from "imago Dei" 高岸, 明日香 九州大学大学院 : 博士課程 : 哲学 https://doi.org/10.15017/1430876 出版情報:哲学論文集. 37, pp.69-85, 2001-09-25. The Kyushu-daigaku Tetsugakukai バージョン: 権利関係:

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Page 1: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

The problem of "evil" in St. Augustine : fallfrom "imago Dei"

高岸, 明日香九州大学大学院 : 博士課程 : 哲学

https://doi.org/10.15017/1430876

出版情報:哲学論文集. 37, pp.69-85, 2001-09-25. The Kyushu-daigaku Tetsugakukaiバージョン:権利関係:

Page 2: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

 ユ

 

アウグ

ステ

ィヌ

スは真

に探求

の人

であ

り、

の生涯

全体

は、

「神

と魂

を知

とす

るこ

」に捧げ

れた

いえる。

しか

のこ

とは、

「神」

「魂

」と

いう別

々の対象

別個

に問

い求

たと

いう

つの志向

を示

いる

ではな

い。

「私

知り

たも

う者

よ、

御身

を知

しめ

たま

え。私

が御

に知

られ

いるよ

に、御身

に知ら

めた

まえ。

が魂

   

よ、魂

のう

に入

れ。

の魂

を御

にふ

さわ

しき

のとな

し、御

それを

れなく激

く保

ちう

よう

にせ

。」

と、

『告白

』10巻冒

で述

べら

いるよう

に、

「神」 

「魂

」 

は全

く異

る対象

ではな

く、

むし

ろ、魂

(もし

は精神

)

は、

(11存

のも

のの名

)が何

か宿

り顕

現し

てく

る場

であ

ると

考え

れ、

それ

ゆえ自

己探

は即

ち神探

つなが

のであ

り、

ウグ

ステ

ィヌ

の生

は、

ただ

一つの方向

へとだ

け向

けら

いたと

いえ

であ

ろう

つま

り、

ウグ

ステ

ィヌ

スは、神

・真

理を

て、

徹底

に自

己を

つめ続

けた

であ

った。

こうし

て生

涯を

て神

を求

め続

たア

ウグ

ティ

スにと

って、

っとも

きな問

とし

て突

つけら

れた

のが

「悪」

の問

であり

、悪

を為

す作

用因

とな

りう

「意志

の問題

であ

った。

アウグ

ステ

ィヌスにおけ

る悪

の問題

i

m

ag

o

D

ei

から

の頽落

明日香

Page 3: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

一、

I

c

r

e

a

t

io

i

m

a

9o

D

e

i

聖書

の中

は、人間

の創

q

$

口oに

ついて

「神

は言

われ

た。

われ

のかた

ち・似像 

と類

似性 

によ

って人間

を創

しよ

う.

……

はそ

の似像

て人間

を創

り、

と女

に創

った。」

と、記

され

いる。

のこと

は勿論

、単

に字

義的

に神

とし

て語

られ

るよ

うな

人間創

を意味

いる

と解釈

べき

では

なく、人

いう存

の在

り方

ついてを象

徴的

な仕

で示

いると考

えら

れよ

う。す

なわ

ち、人間

は神

の似

像 

へぶり

とし

て、少

なく

もそ

に向

って存

いる

かし、

なる神

に似

て創

られ

た人間

は、

にも関

らず悪

を為

ことが

る。

のこと

いて、

ウグ

ステ

スも

濠た

「我

々は、存

する

べて

のも

のは唯

一の神

によ

って存

し、

そし

て神

は罪

の創造

では

いこと

を信

じる。

かし

、罪

は神

によ

って創

れた魂

から生

じ、

の魂

は神

によ

って存

する

のだ

とす

ると、

うし

て罪

は直

に神

にさ

かのぼ

らな

いの

(羅。

・カ

と、

いを提

示し

いる。

そし

て様

々な論

の後

に、

く悪)の起

は神

に帰

せら

れる

こと

はなく

「我

惣は意

の自

な決

 う 

によ

って悪

を為

のだ」と、

一つの結論

に達

いる

つまり、

まれ

なが

にし

て自

な意志

を持

った存

であ

る人間

は、

門悪

を為

す可能

Lに常

に晒

れて

いる

いえる

であ

る。

れゆ

え、人

が存在

のも

の名

であ

る神

に背を向

、神

から離

いく

こと

は、

「罪ー存

の欠如

」とな

のであ

る。

また

のこ

とは同時

に、人

間が自

な意

の正

い働

によ

「善しを欲

「善

しを

為す

すな

わち

より

一層善

き存

へと変

って

いく

であ

ろう

こと

(回心 

、神

への還帰

、神

Page 4: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

の似像

への再形

)を

も示

いる

いえ

のではあ

るま

いか。

「神

への背

反」・「意

の転

は、

「意

の分裂

「精神

の病

とし

て自己

の内

に見

るも

のであ

る。

ウグ

ステ

スは

これを

「アダ

の罪

の罰

」と

て語

って

いる

が、

それ

は過去

「アダ

の罪

」と

にあ

「自

の意

の分裂

が通

の因果関

をな

いると

いうよ

は、神

話的

表象

いう語

口を

とり

つ、

ちら

も同

じく

「悪

しく意

ると

いう働

き」

11

「自己

の意

の転

」を

し示

いる

であ

とと

らえ

べき

であろ

う。

すな

ち、

アダ

(と

エヴ

ァ)

の原

罪物

は、過

の個人

的出

来事

て聖

の中

に記

され

いると

いえ、

にと

まるも

のとは考

えら

いのであ

る。

ろ、

アダ

エヴ

ァの罪

の成立

を語

いう仕方

で人間

の持

つ自

由な

意志

ついて、

いては人

いう

存在

ついて語

いると

いえる

ではな

いだ

ろう

か。

ウグ

ステ

ィヌ

スによ

ると

アダ

ムは

「永遠

るも

に関

しう

る精神

・理

のな

にも

のか」

を、

エヴ

ァは

「時

間的

・感

   

的な

のを管

理す

べく

下方

に向

けら

た理性

の部

分」

それ

ぞれ象

いる

いう

この意味

にお

いて、両

は男性

.

いう

独立

した

別個

の人

とし

てで

はな

く、

一人

の人間

一つの魂

・精神

に属

るも

のと

して捉

られ

いる

のであ

る。

それ

ゆえ、

聖書

の中

のアダ

ムと

エヴ

の行

は、

ただ単

一つの個

人的

な行為

てで

はなく、

に在

る我

々人

の行

ってく

いえ

であ

ろう。

た、

アウグ

ステ

ィヌ

スは「意

の分裂

(特

に神

を意

しな

がら

もそ

から離

いく

への背

反)

「アダ

の罪

の罰」

と位

置づ

いるが、

し彼

が特定

の個人

であ

って、現

に在

る我

と何

の関

もな

い過

の人

であ

った

ならば

、彼

の犯

た罪

が我

の罪と

て今

お我

に帰

られ

のはお

かしな

であ

る。

かし、

々人

アダ

・エヴ

ァの複

合体

である

とす

るな

らば、

を犯

した

アダ

の本性

むし

ろアダ

・エヴ

ァの本性

は同

に我

であ

り、彼

は個

とし

て罪を

した

ではな

く、人間

本性 

。と

て行

した

いう

べき

であり

、彼

の罪

が我

に帰

られ

のはも

っと

もな

ととな

りう

であ

ろう。

  

 

『創

世記

のアダ

ムと

エヴ

ァの原罪

にお

いて、主

な契

を為

いる

のは、

Page 5: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

から食

べる

こと

を禁

じら

いた

「善

悪を知

る木

の実

いて、

まず

1

)蛇

エヴ

ァを

のかし、

H)

エヴ

ァがそ

れを食

べ、

m

)

エヴ

ァがそ

れを

アダ

に与

W)そ

れを

アダ

が食

べた、

いう

こと

であ

った。

のこ

とは、

つま

り、有

で感覚

なも

によ

って誘惑

れ、

の誘惑

に自

己が

ら同意

を与

てそ

れを欲

し、

の欲

るこ

とを欲

るまま

に行為

いう

とであ

る。

い換え

れば

、時

間的

な善

いも

のの快楽

が下

に引

き留

め、

こに自

の意志

で留

ってし

い、神

に背

を向

てしま

った

であ

る。「神

の似像 

)虫

に即

て、ま

たそ

に向

て創

られ

  

 

間」

が、

の存

の根拠

る神

に背

を向

ると

いう

こと

は、単

「意

の転倒

」を

示すだ

でな

く、自

の存在

を非

存在

へと晒

こと

に他

らな

いと

いえ

であ

ろう。

なわ

ち、

アダ

・エヴ

の行

は、

悪し

く意志

ことを

示し、

の原

はま

さしく自

のも

に在

ことを

して

いる

であ

る。

「悪

の原

は自

の内

にあ

こと

を知

るこ

と」から、我

々はそ

して人

「死

の性 

を持

され

いるこ

とを知

であ

る。

そし

のこと

によ

って

「存在

の問題

へと駆

り立

てら

れる

であ

る。

聖書

には、最初

の罪

ち神

の命令

に反し

て禁

じら

いた実

を食

べた後

こと

ついて、「二人

の目

は開

れて、裸

であ

こと

を知

った。

で二人

はイ

チジ

の葉

を取

って覆

とし

た」、

「神

が楽

の中

を歩

く音

いた

とき、

二人

は神

の顔

から逃

れよ

うと

て楽

の茂

の中

に身

を隠

た」

と書

かれ

いる。

こで

「目が開

かれ

て」

とあ

のは、実

に目

が見

える

よう

にな

って自

たち

が裸

であ

こと

に気

いた

ではな

く、精

の目

でも

いうよ

うな

のが開

「彼等

が失

った善

と彼

  

 

こに陥

った悪

を識別

るた

であ

った

いえ

よう

つま

り、自

が悲惨

な状

(存

の根拠

であ

る神

を失

い、

の性

を持

たさ

れた状

)に陥

った

ことを知

った

のであ

る。

そし

てさ

にそ

のこ

とを恐

て神

から身

を隠

そう

した

のであ

る。

の時

こに、初

て罪

が成

立す

のであ

る。

の時神

は、身

を隠

いる人

に向

って

「アダ

ムよ、

はど

いる

か」

と問

いかけ

いる。

の言葉

は勿論

Page 6: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

ムの居場

を尋

て問う

た言

ではな

い。

アダ

に対

して、

「アダ

のいる

とこ

に神

いな

い」ことを気

かせ

るた

言葉

であ

る。

の問

いか

けこそ

が、

自己

の悲

な状態

を知

り、

こと

によ

ってそ

から至福

であ

る神

のも

へと

ち返

よう

にと促

の側

から

の呼び

けな

であ

る。し

かし

っかく

この呼び

に対

二人

は、「蛇

がだ

まし

ので

それ

べた

のだ」

「女

これを木

から取

ってくれ

ので食

べた

のだ

」と

いいわけ

をす

るだ

であ

る。

つま

り、自

の行為

のも

は認

つつも、

の原

が自己

の内

に在

ること

は認

めず

、神

に向

って赦

しや

れみを

める代

に、

の原因

を他

に帰

うと

した

であ

る。

れは、

つ服従

べき永

不可変

る神

はなく

、有

で可変

的な

への愛着

であ

り、

から

の照

らし

にさ

に背

を向

る行

に他

らな

い。

つまり、自

の存

在を

に小

く惨

めな

のとす

る行為

であ

る。

こうし

て、

人間

は神

から

の呼び

かけ

(回心

の促

し)

に従

ので

はなく

、自

の意志

に従

こと

によ

って神

から離

れ悲惨

におか

れた

のであ

る。

このよう

にアダ

・エヴ

の原

罪物

は、単

に過

の個人

的物

とし

ではな

く、我

々人間行

の在

り方

、そ

の結

とし

の罪

さら

に人間存

の在

り方-

の似

から

の頽落

それ

への還

の促

(神

の似

の再

形成

)1

をも

って

いる

える

であ

ろう。

て、

「汝

はど

こに

いる

のか」

いう

呼び

けは我

の内

にお

いて

「神

よ、あ

たは

にま

しま

のか」

いう

いと

なり、

へ立

ち返

るた

に、自

己探求

へと我

々を駆

てる

のであ

る。

一一、

前節

にお

いて、

『創

世記

』の原

罪物

を通

て、人

間が自

の意

によ

って神

に背

を向

け神

の似

像 

る存

から

頽落

し、

べき

性を持

った存

とな

った

ことを

した。

かし、

ことは

ただ

に悲

な状態

にお

かれ

てし

った

ではなく

、神

の呼

かけ

に耳

を傾

け、神

に従

こと

によ

って再

より善

存在

へと変

しう

ことも

され

いた

Page 7: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

である。

生涯

かけ

て神を

め続

けた

アウグ

ステ

ィヌ

スにと

って、

「私

もあ

に完

に仕

える機会

渇望

いたが、

られ

いた。

れも他

からう

けた

鉄鎖

はなく

、自

分自身

の鉄

   

の意

によ

って

。」

いう言葉

で示

され

る様

に、

「意

志」

は、

きな問

とし

て突

つけら

いた。

は、

に以

に示さ

れる

よう

な、

「神を

める」と

いう

意志

にお

いて、

現在自

が如何

る者

であ

かを見

つめる時

であ

る。

『告白

』8巻

の叙

によ

れば

、回

の直

前、

アウグ

ステ

ィヌ

スは激

い心的

葛藤

の中

「心

を打

ち砕

かれ

ひど

く苦

い悔

の涙

にく

いた

」と

いう。

れは単

に宗

教的

の意

いうだ

ではな

く、自

を深

く省

みる

とき、

 ロ 

なら

ぬ自分

の意

・欲

によ

って悲

な状況

におか

いるこ

に気付

かせら

れた

から

であ

この時

でに

アウグ

ィヌ

スは、

「あ

(神

)

に完

に仕え

る機会

渇望

し」

なが

も、自

のう

に久

しく

み着

いた悪

いも

の・習慣

ゆえ

 ロ 

にそ

れを完

には欲

し得ず

また為

し得

ず、先

へも進

めず、後

りも

でき

いと

いう

いわば宙

ぶら

りん

の状態

にな

って

いる

いう自己

(の弱さ

・醜

さ)

を見

つめ、自

ており、

の相反

る意志

の働

によ

って魂

き裂

かれ

るよう

な思

いを

いた

のであ

る。

の内

にあ

って自

の精

の働

きであ

はず

の意志

が全

く別

の方

を向

いて

いると

いう

のは、

った

いど

のよう

な状

であ

るのだ

ろう

か。

 け 

「同

一の魂

のう

にあ

りな

ら、

いろ

いろ

と異な

る重

の愛 

が分裂

のはどう

てだ

ろう

。」

アウグ

ステ

ィヌ

スは、

のような言

で自

の内

にあ

る様

々な

・意志

の分

ついて語

って

いる。真

に神

・真

を求

いたア

ウグ

ステ

ィヌ

にと

っては、

に従

おう

とす

る自

己と、

れを先

延ば

にし

て従

おう

しな

い自

の分

Page 8: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

ロレ 

は、

「自

分自

が、自

にと

って大

な謎

とな

ってしま

った

」とま

で言

わし

めた大

な問題

であ

った。

(こ

の言

は、

の死

に直

面し

とき、

「心

はす

っかり暗

くな

り、

に付

のは全

であ

った」と

いう

悲痛

な体

から発

られた

ので

あり

、当時

の信

いた

ニ教

の神

によ

って

は閉ざ

いた謎

・闇

であ

る。)

アウグ

スティ

スは、愛

一種

(心

の)

「重

Ooa

ロω」

であ

ると語

って

いる。

そし

の重

によ

って目

指す

方向

と引

き寄

せら

いく

即ち、

の愛

「何

を」

する

によ

って、自

のも

のも

また

へと向

かう

のであ

る。自

の内

にいろ

いろ異

る重

の愛

があ

れば

、愛

の対

の異

なり

によ

って分裂

し、魂

た引

き裂

かれ

るよう

な思

いをす

のであ

る。

「驚

いたこと

に、私

はす

にあ

たを

、そ

の幻影

ではな

く真実

のあな

たを

しは

じめ

いた。

しか

し、私

の神

いつま

も味

って

いる

ことが

きず、

の美

さによ

ってあな

のほう

へ引

き寄

せら

るや

いな

や、自

分自

の重

によ

って突

 め 

き放

れ、う

き声を

あげ

がら下

に転落

った。

の重

とは肉

の習

こと

であ

。」

とア

ウグ

ステ

ィヌ

ス自身

が語

よう

に、神

を求

いなが

らも、

は有

な肉

を身

にま

って

いるが

ゆえ

に、肉

の欲

(物

や名

誉を

する

こと

など)

に引

きず

て自

の外

へと出

いき、

から

れる結

とな

のであ

る。

かしだ

から

って、

決し

て完

には神

から

れ去

って

いるわけ

では

い。

アウグ

スティ

スは、

「し

しあな

の思

い出

は自分

のう

に留

った。私

りすが

べき方

は存

する、

が自分

の方

により

すが

の者

にな

って

いな

い、

ちる

べき身

が魂

の上

に重

のし

かか

り、心

は地

の住処

に押

えら

て様

々の

ことを

   

わず

って

いる

のだ

から、

いう

こと

を決

て疑

わな

った

。」

こう

つ、更

る自

己探求

を進

のであ

る。

「何

を」求

べき

か、

める

のも

のを完全

には知

ことが

でき

にし

ろ、自

分が

「何

かを」

ろう

とす

こと

によ

って、着

にそ

の歩

みを

いく

であ

る。

Page 9: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

に仕

ことを欲

いた

アウグ

ティ

スにお

いて、

れを妨

いた

のも

、彼

自身

の意

によ

ってであ

った。

こと

ついて

アウグ

ティ

スは次

のよう

に真

に自

を見

つめ

いた。

讐私

は、内

る人

によ

ってはあ

なた

の法

を心

から喜

んで

いたが

やは

り駄目

った。

肢体

のうち

にあ

るも

一つの法

が精

の法

に逆ら

って、肢体

のう

にあ

る罪

の法

のう

に私

を虜

にし

てし

った。罪

の法

とは習慣

のもた

らす

暴力

であ

り、

の力

によ

って心

は、

いや

いやな

らひ

きず

られ抑

られ

るが、

これは当

であ

る。何

なら

、心

は自

の意

で習慣

に陥

 レ 

のであ

から

。L

のよう

な激

い心的葛

は、

「心

いう密室

の中

で、

の魂

に対

して激

しく

き起

こさ

れた大

乱闘

し即

ち、

意志

の内

る意志

自身

の戦

いとし

てあ

らわ

にさ

れて

ゆく

である。

て身

ならば

、魂

・意

が欲

れば、例

ば手

の運動

のよう

にす

にそれ

に従

のに、自

の意志

が欲

いる

こと

ついては、

るや

いなや

、そ

讐欲す

いう

こと」

は出来

はず

のに

(即ち

「意志

る」

いう

ことだ

け見

れば

、意志

ときす

に、意

志す

いう

作用

は実

いる

に)

ハが 

なか

った、

つ濠り、

精神

は意

する

よう

に命

いる

にそれ

が生

じな

ったと

いう

奇怪

ことを

生じ

せる

のであ

「こ

の場

合、

精神

は意

する

よう

にと命

いるが

、も

し精神

れを意

志し

いな

らば

じる

はず

もな

い。

それ

に精

神が

じる

こと

は行

われ

いのだ。臨

と、

再び

「自己

自身

が自

にと

って大

な謎

とな

る」か

のよう

な分

裂を

の前

にす

るが、

の時

アウグ

ステ

ィヌ

スは、

「何

んな

ことが起

こる

のか、あ

われ

の光

かせ、光

の巾

で尋

させ

てさ

せてく

い臨と祈

っており

、そ

こに、

つて謎

とし

て閉ざ

され

いた

ことが

、自

己を真

に問

ぬく

愛智

の営

を促

す契…機とな

りう

こと

を見

いる

のであ

いえ

ろう。

そし

て、

の奇

こと

ついて

「実際

、精神

は意

る度

いに応

て命

るが、

意志

い度

いに応

て命

るこ

とは実

現し

い。

いう

のは、意

を起

こす

よう

に命

のは意

だが

、起

るよう

命ぜ

れて

いる意

は、命

いる意志

に他

らな

い。し

Page 10: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

「こ

の場合

、意

は全

心をあ

て意

志し

ては

いな

いし

口8

Φ×88

〈巳け、

たが

ってま

た、全

心を

あげ

て命令

ので

い」

「そ

れゆ

え、半ば

意志

なが

ら半ば

志し

いと

いう

こと

は、奇

こと

でも何

でも

なく

、実

は精

の病

p。Φひq『一εao鋤三邑

に他

なら

い。

なわ

ち精神

、真

によ

って上

に引

き起

こさ

れなが

も、習

に押

さえ

つけ

られ

いるた

に、

 ね 

に起

き上

るこ

とが

できな

いのであ

。」

と、

意味

いる。

このこ

から、

「意志

の分

裂」は、意

のも

のが分

裂し、

か異

る本性

を有

る別個

のも

(魂

)とし

てあ

ので

はなく

、一つの意

おけ

る意

る作

の分

(』

が有

るも

のを他

は欠

いて

いる

いう

状態

L)

であ

ると結

論づ

いる。

それ

ゆえ彼

は、

「私

は自

分自

と争

って、自

分自身

から引

き離

れた

のであ

るが

の分

のも

のは、意

に反し

て起

った

のだ。

の分裂

は、自

のう

に本性

を異

にする別

の精

が存在

ことを示

ではな

く、

むし

(アダ

の子

であ

る)私

   

の精

こう

って

いた罰

℃oΦ昌鋤を

示す

のだ

った

。」

と述

べた

のであ

り、

また

「現在

の自

の意志

の分

」を

通し

「アダ

の罪」

を見

、自

の意志

の悪

き働

によ

って罪

状態

へと引

き裂

かれ

いる自己

自身

の姿

が重

つつ見

てく

るこ

(自

己探

の還帰

的構

造)

も暗

に示

いるのだ

いえる

であ

ろう。

ウグ

ステ

ィヌ

にと

って

「意

志」

が問

とな

のは、先

の様

に神

を求

ると

きであ

る。

は、我

が通常

「意

志」

いう

き、

一体

のよう

ことを考

いる

であ

ろう

か。

おそら

く、

進学

・就

・結婚

これか

の人

を左右

Page 11: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

ような何

か重大

な選択

ると

に、

自分

の為

に自

の意

で決

しな

ければ

らな

いよ

うな

局面

を考

のではな

いだ

ろう

か。

にそ

(一般的

に言

って)問

であ

ろう

が、

れだけ

はなく

日常

の些

細な

行為

であ

ったとし

ても

、そ

は例

えば

空腹

を満

した

いと

いう

よう

な単純

な欲

求、

に言

ならば

(意

すら

れて

いな

いであ

ろう

)生

いと

いう

意志

があ

であ

り、そ

のよう

な意

いて、わ

れわ

れは常

に何

かを意

志し、そ

のう

で行

いる

であ

る。

つまり

々人間

は生

れな

がら

にし

て、意

を持

った存

のであ

る。勿

、今

こで問

にし

よう

とし

いる

のは、

そう

した意

され

い様

な意

の働

ではな

い。自

いては

っきり

と意識

され何

かを意

いると

ころ

の、自

に基

いて意志

し欲

いると

ころ

のま

にそ

の意

いて、

ち自由

な意

の働

ついてな

のであ

る。

々が

この自由

な意

を行使

ると

き、

「…

…す

に知

れた

の 

なけ

れば

、意志

を行

へと引

き寄

ことは

でき

い。

しか

し、人

は、あ

るも

のを受

け入

れた

り退

けた

りす

る権限 

を自

ら持

つとし

ても、意

志が

へと動

かさ

れる対

象を

決定

る力を

って

いる

では

い。それ

ゆえ、こう

いう

べき

であ

る。精

神 

は自

より優

たも

にせよ

るも

にせよ、見

られ

た対象

によ

って動

かされ

るが、

理性

的存

在者

であれば

ちら

にせよ自

の欲

るも

のを受

け取

であ

って、

の受

け取

った

こと

 の 

の報

いと

て悲

また

は幸福

が結

るの

であ

。」

と語

いるよう

に、我

々は少

なく

とも

の何

ついて

「欲求

れる

べき

(11

きも

の)」とし

て措定

し、

へと

の意

を向

いるの

であ

ると

いえ

るであ

ろう

。欲

され

たも

の個

別的

な内

には関

らず、

かくも

る方

と向

られ

いる

のであ

る。

(そ

て、

れは何

かしら

「知

られ

たも

の 

」であ

る、

いう

こと

に注

目し

なけ

れば

なら

い。)

は、

の意志

一体

へと向

って

いる

のであ

ろう

か。

おそら

く、古

代哲

以来

の基本

命題

て承認

され

てき

「全

の人

は至福

であ

るこ

とを欲

る」と

いう言

葉が

すよう

に、

「至福

の生 

へと向

られ

いると言

ってよ

Page 12: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

ではな

いだ

ろう

か。

っとも、

「至福

の生」と

いう言葉

を聞

いて思

い浮

べる内

は人

それぞ

であ

るこ

とは言

でも

い。

アウグ

ステ

ィヌ

スはそ

こと

ついて、全

ての人

は至福

であ

るこ

とを欲

るが、

れを得

ため

のし

かたが違

のは、

 れ 

を得

よう

とす

るし

かた

が違う

から

であ

り、し

かし、そ

の喜

ぶと

いう

こと

にお

いては皆

一致

いる

ことを確

いる

 ま

それ

ゆえ、

「こ

『喜

こそ

は、至福

の生

と呼ば

るも

のであ

る。 

と定義

いる

のであ

る。アウグ

ステ

ィヌ

スにと

っての至福

の生

は、「あ

たを

めざ

し、あ

なた

によ

って、あ

のゆえ

に喜

ぶこ

とで

ある」

から、全

ての喜び

が真

の至

であ

のでは

いが、

「別

のも

のを至福

の生

と思

って

いる人

々は別

のよ

こび

を追

し、真

のよ

こび

を追

しな

い。それ

にも

かわらず

   

彼等

の意

は、真

のよ

こび

一種

の似像

いう

べきも

から、完

にそ

むき

ったわ

でもな

い。」

つま

り、

たと

え偽り

のも

のを

至福

の生

て求

いた

とし

ても、

それ

がそ

の人

の意

によ

って求

めら

れた

のであ

れば

めら

れたも

のは何

か善

きも

のとし

て措定

いる

であ

るから、

のも

のでは

いにし

ろ、

それ

から完

には背

いて

 ハ 

しま

った

わけ

ではな

いの

であ

る。

それ

ゆえ、

「至福

の生

を欲

る」と

いう

ことは、特

の人

にの

み許

れた

こと

では

なく、全

の人

にお

いて求め

れる

こと

のであ

るが、

ただ

「唯

一の至

の生

にて

まし

ますあ

によ

って喜

ぽう

とし

い人

々は、

に至福

の生

を欲

いな

い」

けな

のであ

る。

こう

て我

の意

は常

「至福

の生」

を求

つつも、

かし、意

の自由

な決

を善

くも

悪し

くも

いる

ことが

でき

   

ゆえ

に、

「肉

いかに霊

に背

いて欲

し、霊

は肉

に背

いて欲求

」と聖書

に語

いる

よう

な状態

になり、魂

が引

き裂

かれ

るよう

な思

いを

るの

であ

る。

のよう

に我

の意

はあ

る方向

(善

いも

・至福

の生)

に向

られ

いる

のであ

るが、

同時

に、

意志

それ

に背を

から離

いく危

さも

また常

に我

々自

の内

にあ

のであ

る。つまり、「欲

する

のを

け取

った

こと

の報

いと

て悲

また

は幸福

が結

する」

と語

いる

よう

に、

欲す

いう

意志

の働

こそ

が行為

(とそ

の結果

)

の原因

であ

る。

Page 13: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

れゆえ

、悪

しき

意志

(転

倒し

た意

志)

の働

きが

の原因

であ

り、

の原因

まさ

しく自

己自

の内

にあ

のであ

る。

そし

て、

た、

「自分

が生

いるこ

とを知

と同様

に、意

を有

する

いう

ことを

も知

って

いると

いう

こと、こ

のこと

が私

をあ

なた

(神)

の光

のほ

へと引

き上げ

た。

かく

て、何

かを欲

した

り欲

しな

ったり

する場

合、

した

り欲

しな

ったり

るのが他

ハ  

ぬ自

であ

るこ

とは

きわ

て確

であ

り、

こに自分

の罪

の原

があ

こと

に徐

々に気付

いた

。㍊

こう語

こと

によ

って、

アウグ

ステ

ィヌ

スは、自

反省的

に自

を見

つめ

たと

に自

が自

己自身

を捉

いう仕

でそ

のこと

を知

のでは

なく、

(神

の)光

に何

か照ら

れる

いう

仕方

で知

(気

かさ

れる)と

いう

ことを、

全な

る園

にす

に予見

いた

であ

る。

の神

な光

に触

ると

いう

ことは

、「自

分が

き、意

いる

の自

己知

しを生

させ

るが、

はあく

でも神

の側

から

の照ら

であり

、自

己自

が光

なる

では決

して

い。こ

のこと

に注意

なけ

れば、

(ア

ウグ

ステ

ヌスが

一時期

せ、後

に厳し

く批判

こと

にな

った

マエ教徒

のよう

に、)

「主

にお

いて光

であ

るこ

とを望ま

、自

分自

にお

て光

であ

   

ろう

とし

て、ます

す深

い闇

にな

」であ

ろう。

の思

い上

こそ

は、

「全

の人

を照

す真

の光

であ

るあ

なた

から遠

く離

れる

ことし

門意

の背反

・転倒 

に他

なら

いの

であ

る。

ゆえ、

「照

らし

によ

って初

て、 私

ちが悪

を為

こと

の原

因が

他な

ぬ自

の意

にあ

る」

こと

を見

ことが

でき

るよ

になる

であ

る。

々が何

かを

める

とき、

れは何

しら知

れた

のであ

る。

それ

ゆえ、

・真

理を意

する

と言

うと

きもま

、我

は何

か神

・真

ついて知

って

いる

と言

ことが

でき

であ

う。

かし、

それ

はあ

までも神

.真

ついて

の何

であ

って、神

・真

理そ

のも

のを知

って

いるわ

ではな

い。何

なら、

限な

のは有

限な

のを、

不可変

のは可変

なも

をそ

の内

に完全

に含

こと

でき

るが、

の逆

の関

の場合

後者

が前

一部

をそ

の有

限性

可変

の限

にお

いて

のみし

か分有

ことが

でき

いから

であ

る。

つま

り、有

で可変

な自

の内

には、無

で不

可変

な神

・真

理を

完全

に宿

ツ偏と

Page 14: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

は決

てでき

いの

であ

る。

では、

こで、

のよう

にし

て神

・真

に触

ことが

きる

のであ

ろう

か。

「可変

的な

のに

ついて、

正し

い言

明や判

でき

るの

は、自

のう

に何

そな

って

いる

から

か。

このよう

判断

下す

場合、

にも

とつ

いてする

かと尋

てみ

て、可変

な自

の精

の上

に、

不可

で真実

で永

の真

理を見

いだし

   

のだ

。」

のこ

とは

つまり

、神

・真

は我

々の前

・我

々を越

とこ

にあ

り、我

々は、

己が

それ

(直

ること

できな

いの

で)垣

間見

こと

によ

って見

(知

る)こと

できた部

を、自

が知

りう

る限

にお

いて知

のであ

いえる

であ

ろう。

れは言

うな

れば

むし

ろ、神

・真

の側

から

の何

の働

かけ

とでも

いう

よう

のがな

ければ

われ

われ

はそ

れを真

意志

し得

いであ

ろう

とを意味

いる

のであ

る。

の働

きか

けが

「照

らし」

である。

言す

れば

、我

々が何

かを意

志す

のは

「自

己自

から

じた意

志」

いは

「神

・真

から生

た意志

のど

ちら

って

であ

り、そ

ぞれ

に応

じたも

のを

のであ

る。

そし

て、

の二

つの意志

のし

かた

こそが、

々人間

の存

のあ

たを

示し

いる

いえ

であ

ろう。

ち、自

己自

から生

た意志

に従

って生

きる者

は、

・真

に背を向

け自

の内

に留

   

りむな

い者

なり

、神

・真

から生

じた

意志

に従

って生

きる者

は、

に似

る者 

へとな

って

いく

であ

ろう

こと

が示

され

いる

のであ

る。

・真

理を求

て徹底

に自

己を

つめ続

たア

ウグ

ステ

ヌスは、

の探究

の歩

みを

「私

は段階的

に、諸

の物

から身

を通

て感覚

る魂

に、

こから身

の感覚

おし

て外

の情報

受け

る魂

の内

Page 15: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

なる能

にー

こま

では動物

でも

でき

るー

さら

にそ

れを越

て、身

の感覚

から得

れるも

のを

判断

る推理

能力

へと

上昇

った。

…反対

る様

々な

幻想

の群

から身

を遠ざ

、あ

る光

を注

れた

ことを悟

り、

・:そ

の光

によ

って

「不変

   

なも

の」自

を知

った

のだ。

して

ついに、

ののく

まなざ

「存

在す

の」

一瞥

する

いた

った

。L

と端

に語

り、

神を真

に求

める

(神

により

すが

る)こと

によ

って、

の側

から

の光

が注

れ、

のこと

によ

って初

て「神

りう

ことを示

のであ

る。

から

の呼び

に耳

を傾

こと、或

いは、神

の側

から

の光

(照ら

し)

に気付

こと

、そ

てそ

によ

って神

に向

かう

こと

(神

を意

志す

こと)、

この

こと

こそが

回心 

であ

る。

の回心

いう出来

は個

々人

によ

ってそ

れぞ

れ異

たと

・状

で引

き起

こさ

れる

であ

ろう

が、

回心

のも

のは、神

から

の照ら

とし

て、皆

の上

に注

れて

いる

いえる

はな

いだ

ろう

か。

人祖

アダ

ムが神

に背を向

たと

からず

っと、そ

の光

は注

れて

いた

はず

であ

る。愛

の対

象が

のほ

いたと

に初

めて、

の光

に人は気

ことが

でき

のであ

る。

「意

の分

裂」

を自

の内

に見

つめ、

れが

「アダ

の罪

の罰」

して自

の内

にあ

こと

に気

き、

のこと

から自

に立

ち返

り、

神探

の道を

徹底

た自

探求

の道

して歩

み始

た後、

ウグ

ステ

ヌスは突

とし

て回

に導

かれる。

のことを

 だ 

「おお主

よ、

われ

は汝

のし

べ。

…汝

わが枷

を断

ち切

たま

えり

。」

と語

り、

さし

く神

の側

から

の働

きか

である

こと

を告白

のであ

る。

つて、自

を地

に引

めて

いたあ

の枷-

の重

さ、自

のう

に生

た自己

の意

を、神

が断

ち切

った

のだと

いう

であ

る。

のこと

は、回

心が

自ら

の意

によ

てで

はなく

、ま

に神

の側

から

の意

であ

ことを

示し

いる。

それ

ゆえ

さら

に、

「しかも

よ、あ

れみ深

く恵

にあ

ふれ

るあな

は、全能

の右

をも

って、私

の死

の深

みそな

わし、

の奥底

から

腐敗

の淵

をく

つくし

てく

った。

のた

め私

は、自

の欲

いた

ことをも

や欲

せず、

なた

の欲

した

もう

こと

Page 16: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

 ぶ 

する

よう

にな

った

。L

こう述

べる

こと

によ

って、も

や自分

が自

から生

た意志

ではな

く、神

から生

じた意

に従

って生

きて

いる

ことを

であ

る。

のこと

つまり、自

の意

の否定

・神

の側

から

の働

かけ

を示

こと

によ

って、自

が受

動的

な何

か器

のよう

なも

のと

て、

を宿

しう

る存在

であ

こと

をも

示し

いると

いえ

であろ

う。

かし、

一見

の自

己否

に見

える

の意

は、同

に自

の内

にあ

って永遠

可変

る神

志向

る最も能

な働

きも持

って

いる

のであ

る。

即ち、

の有

限的

可変

なも

のを意

ること

はな

くな

るが

むし

ろそ

れを捨

て去

って、自

の存

の根

へと開

れ、還

して

いく動

な自

・精

を意味

いる

のであ

る。

また

、永遠

可変

る神

への志

は、

の存在

の在

り方

、つま

り自

らが

の似像 

にふさ

わし

き者

であ

かと

いう

こと

への反

とし

て自己自

に突

され

いるも

のであ

る。

それ

ゆえ

回心

は、自

己存

ついての受

動的契

と能

動的

な問

いとし

て、自

の内

に現

てくる

のであ

ると

いう

ことが

い得

るであ

う。

ウグ

ステ

ィヌ

スは、

さまじ

いま

での厳

しさ

で自己

探求

を行

い、そ

によ

って、神

信じ神

に従

って生

こと

こそが

 た

る人間

の生

き方

であ

こと

を示

した。

この

こと

は信

を持

たな

い人

にと

っても、

少な

とも自

の内面

に目を

け、自

が如何

る存

であ

るか、

う生

きる

べき

かを

問う自

己探

の道

が必

であ

ろう

ことを

示唆

てく

いる

る。

の厳し

い自

己探

は、決

て過去

の人

アウグ

ティ

ヌスだ

けが

き受け

いる問

ではな

い。

物質

的豊

の中

にあり

がら

、精神

・魂

は何

か満

たさ

れな

いも

のを感

いる

こと

の多

い、

つまり

「有限

で可

変的

なも

のを求

いる」

状態

にいるー

れゆえ

の存在

は、

非存

へと晒

れ、虚

きも

のと

って

いる1今

きる我

々にも

また、

つけら

いる

のであ

る。

から

こそ、

「汝

はど

いる

のか」

いう

呼び

かけ

に耳

を澄

さねば

らな

いのだ。

Page 17: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

(5)

『自

志論

』、

『神

の国

』12巻

。悪

「善

の欠

であ

から

の原

って問

でき

い、

また

.聖

ウグ

ステ

ィヌ

の哲

・イ

シド

・シ

ュト

ルツ著

本雄

三訳

の第

五部

(7)

『創

3章

罪物

に関

る引

の章

り。

(8)

『出

エジ

3、

14、

「我

て在

るも

なり 

(11) 

「自分

の内

にあ

った全ての悲惨が引きず

り出され、心

の目の前

に積み上げられた…」自己

の悲惨な状況は自己

が自己

の意志

に従うと

いう結果生じてくる。反対

に至福

は自己

の意志を捨て去

り、神

の意志

に従うときに生じる。

Soliloquia, I . ii .7

Confessiones,

x .iv.6.

O'C

onnel, "ST

.AU

GU

STIN

E'S

EA

RY

T

HE

OR

Y

OF M

AN

" (H

arvard U

niversity Press

1968) , 6.FAL

L

OF T

HE

SO

UL

De L

ibero A

rbitrio, II.1.

De

Trinitate,

X

II. vi.

8 . :

X

II. vi.

12

Ego

sum,qui

sum.

De

civitate D

ei, X

III. x .27.

Confessiones,

VIII. v .10.

ibid, V

ID. x

ii .28.

Confessiones

VIII. x

i .25.

ibid, IV

. x iv.22.

ibid, IV

.iv.9.

ibid, V

II. x vii.23.

ibid,

ibid, V

ID. v .12.

ibid, V

lll.viii.

Page 18: The problem of evil in St. Augustine : fall from imago Dei

(本学大学院博士課程

・哲学)

(22)

『告白

』、

の名

16

、中

社、

珊~

糊頁参

(23) 

(24) 

(25)

「特

の人

」とは

、神

を信

に従

って生

る人

のこ

であ

が、

「至

の生

」を

のは

れら敬虔

な人

のみ許

され

こと

はな

、全

の人

れを

し得

であ

る。

、神

い人

、真

の喜

(神

いて喜

こと

)

を知

ので

「至

の生

いると

いえな

ので

る。

(26)

『ガ

ヤ人

への手

5章

17節