「主体性という理念とその限界」 - takasaki city university of … · 2012. 12....
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高崎経済大学論集 第48巻 第3号 2006 203頁~211頁
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〈研究ノート〉
「主体性という理念とその限界」
藤 野 寛
Die Idee des Subjekts und ihre Grenzen
Hirosi FUJINO
0 主体
人生において、人生に対して、主体でありたい、というのは、人間の根源的な欲求だ。哲学もま
た、この欲求の表現以外のものではない。
主体であるとは、一体どういうことか。主体性とは、どんなあり方か。
主体性とは、主導権を握ってコントロールする立場、動かす立場に立っている、というあり方を
意味する。だから、動かされるもの――客体、と呼ばれる(1) ―― との関係の内にあることにな
る。客体に対して主体であるという関係。つまり、主体性の理念とは、人生において、自らはもっ
ぱらものや人を動かす側に立ち、何かによって動かされるということはないような仕方で主導権を
確保したいという欲求に発する理念だ、と言うことができるだろう。自分以外のものは客体の位置
に追いやってしまおうとする欲求だ、と言い換えてもよい。(2)
ここで確認しておくべき要点は、主体-客体というのは、実体ではなく、関係を表わす概念だ、
という点にある。それぞれの中味については、具体的にはまだ何も言われていない。主体になるの
は何か。客体になるのは何か。
上にすでに「人間の欲求」と語っているのだから、「人間」が主体で、人間以外のものが客体な
のではないか――そう反問されそうだ。しかし、話はそれほど単純ではない。「人間」は自分自身
をコントロールしながら(それに失敗しながら)生きている存在でもあるからだ。自分自身をコン
トロールするということ。その場合、コントロールする自分は何で、コントロールされる自分は何
か、と問わずにすますことはできなくなる。「私には自分のしていることがわからない」とか「私
は本当のところ自分が何を欲しているのかわからない」という、様々にあげられてきた悲鳴は、こ
の問題点を印象深く証言するものである。(3)
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以下においては、まず、主体であることは何との関係において問題となるのか、それはどのよう
な関係か、そもそも主体であろうとしているのは何か、と問うことから考察を始めたい(1節)。
その上で、どうすれば人は主体でありうるのかという観点から、そのために必要な(能)力として
どのようなものが候補に挙がりうるかを検討し(2節)、最後に、限界の確認された主体性につい
てさらにどう考えていくべきかの見通しを簡単に示唆しておきたい(3節)。
1-1 自然(外部の自然)
主体/客体、という場合、まっ先に思い浮かぶのは、人間と外部の自然界との関係だ。かつて人
間は、自然にとっての客体だった。雨が降っても、雷が鳴っても、地震が起こっても、ただ右往左
往するしかなかった。自然の変化に対して、受動的に反応することができるにすぎなかった。
そういう無力な境遇から出発して、人間は、自然の世界を自らのコントロール下に置こうとする
努力を続けてきた。自然に支配されるのではなく、自然を支配下に置こうと試みてきたのだ。自然
を加工しそこから富を引き出そうとする営為、すなわち労働も、そこに含まれる。自然の暴威に翻
弄される時、自然の側が主導権を握っていて、人間は自然にとっての客体であるわけだが、農業を
する人間は、すでに、客体としての自然に主体として立ち向かっている。
人間が主体となり客体としての外的自然を操作する、というあり方が、輝かしい成果を誇ってい
るのが、近代の自然科学、およびそれと一体となった技術である。科学技術は、人間を、自然に対
する主体の地位に持ち上げた、と言ってもよい。地震や津波といった自然災害が例外的な事態とし
て受け止められていることは、今日われわれが、自然の世界を制圧することにほぼ成功し、それに
自在に手を加えているという現状を裏側から映し出していると言えるのではないか。(4)
しかし、近代の自然科学の輝かしい成功は、この人間/外的自然の関係に典型的に現われるよう
な主体/客体関係をモデルにして、人間の経験すべてを捉えようとする(極端で一面的で誤った)
傾向を生み出している。人間の経験には、この主/客モデルに押し込めたのでは適切に理解できな
いような側面がいくつも存在するにもかかわらず、である。
具体的には、どういうことか。
最もわかりやすいのが、他の人間、他者との関係だろう。次いで、(私の)身体。その際、身体
についてそれをコントロールするというような形で考えることは、では、その「コントロールする
主体としての私」とは一体何ものなのか、という問いを誘発せずにはすまない。意識=コギト、の
問題である。
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1-2 他者
他の人間との関係において、主体/客体モデルは有効だろうか。私はもっぱら動かす立場に立ち、
相手はもっぱら動かされる立場に立つ、というようなあり方は、人間関係において ―― 実現可能
か、ということとは別に――そもそも望ましいものか。
もちろん、現実の人間関係においてそういうポジションが追求されることに、疑問の余地はない。
出世したいという欲求は、昇給への欲求であるのみならず、上司に動かされるのではなく自ら動か
す側のポジションに就くことへの欲求でもあるだろう。他者を意のままに動かすこと、それによっ
て、誰にも妨げられることなく自らの考えを実現に移せるポジションを手に入れること。独裁者と
は、このポジションを他のあらゆる人間に対して確保している人、をいうのだろう。政治の世界で
追求されている権力とは、結局のところ、人を動かすこの(権)力に他ならない。人と人との関係
が、力を焦点とする「闘い」で(も)あること――その点を否定することはできない。(5)
しかし、人間関係が「闘い」に終始するものではないことも、また、直観的に明らかだろう。例
えば、恋愛を考えてみよう。われわれは、主導権を握って相手を動かしたいのか。もちろん、相手
にこちらを向いてほしいのではあるが、ただ相手を意のままに動かしたい、ということではあるま
い。(そうしようとしている人は、恋愛しているのではない。)恋愛から受動性は切り離せない。す
でに、好きになることが、動かすことではなく動かされることだ。「魅かれる」と言うではないか。
しかもそれが、苦しみであるだけでなく、喜びでもある、という。例えば、「恋の奴隷」状態にあ
る人は、完全に相手の支配下にあるにもかかわらず幸福なのではないか。
また例えば、親子関係を考えてみる。親は子を意のままに動かしたいのか。一人立ち、自立に向
けて子が自ら育っていくのをアシストすること ―― 子育てとは普通、そういうものなのではない
か。子供の成長なんて、予想外の展開に驚かされることの連続であって、しかも、それが喜びでな
ければやっていられないことなのではないか。
他の人間との関係においては、主体/客体モデルだけでは、話は片づかない。そもそも動かそう
などとはしないという側面があり、動かされることがむしろ喜びであるような側面もある。主体/
客体モデルではなく、主体/主体モデル、あるいは間主体性のモデルで考える必要がある、という
ような主張がなされるのも、いかにももっともなことだ。
1-3 身体(内的自然)
ところで、私が何かを意のままに動かす、という場合、私の眼前に広がる荒れ地や大河、そして
他者以外に、もっと身近かなところに極めて頻繁に「私の意図」に対して障害として立ちふさがっ
てくるものがある。私の身体だ。通常――健康な時、という意味であるわけだが――私の身体は、
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むしろ、動かす側の一員である。私(の意思)と一体となって、岩を動かし、相手を動かす。とこ
ろが、私の身体は、往々にして、苦労して動かさなければならないもの(客体)としても現れ出て
くることがある。眠い時、二日酔いの時、何かに中毒の時、あるいは病気の時だ。身体が動かされ
る(べき)ものとして、客体として現れてくる局面だ。
興味深いことに、そのように、身体との関係にも主体/客体の図式を適用しようとすると、では
その時、動かす側とは一体何であるのか、という問いが浮上してこずにはすまない。私が、(私の)
身体を動かそうとする、という場合の「私」とは何か。さしあたり、それは私の「心」だ、「意識」
だ、という答えが浮かぶ。いや、より正確には「私という意識」だろう。
「主体/客体」のモデルを「私」自身に当てはめ、「私=意識」=主体/身体=客体という風に
捉えないわけにはいかないような経験が確かにある。デカルトに帰せられる考え方で、物心二元論
と呼ばれたりする。この捉え方は、われわれの常識的な感覚になじみやすい面ももつ。病気にかか
っていなくても、例えば、スポーツのトレーニングなどしている時、私は思うように動いてくれな
い身体をなんとか無理やりにも動かそうと頑張る。その時、動かそうと頑張っているのは、私の
「心」あるいは「意識」だ、とついつい考えてしまう。(頑張る心は、「根性」と呼ばれたりもし
た。)
しかし、心と体の実情に即して考えれば、望ましいあり方とは、「心が体を意のままに動かせて
いる」という風に描き出される状態ではなく、むしろ、「心と体」という二つのものがあるという
風には感じられない状態こそそれなのではないか。「心」なんてなくて、「体」が勝手に動いてしま
っているような状態だ。つまり、心身関係にあっては、「主客」というような関係にないことこそ
が、実は、理想である、という事情にあるのではないか。
デカルト以降の近代の哲学は、この「主体としてのコギト(自己意識)」という理念との関係の
中で展開されてきた、と言えるだろう。どの程度までコギトが主体でありうると考えられたか、と
いう点では、見解は様々に分かれるだろう。しかし、この理念を軸にして思考が展開された、と言
うことは少なくともできるのではないか。
ところが、意識が主体であることの不可能性を端的に突きつける二つの声が、哲学の外部から発
せられることになった。一つは、無意識に関する精神分析学(フロイト)の見解であり、いま一つ
は、言語をめぐる言語学(ソシュール)の見解である。(6)
1-4 無意識
精神分析とは、つまりは、心をさらに分析する、ということだ。フロイトは、心を「自我
(私)・エス・超自我」の三つのものに分析した。ということは、「心=意識(としての私)」とい
う等式は成り立たない、ということである。心は、無意識的なエスや超自我までさらに含み込んで、
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(私という)意識よりも大きい。逆に言うと、意識としての私は、体はおろか、自分自身の心をす
ら十全には掌握しえていない、ということになる。私として意識されているものとは、「心」なる
ものの、言わば「氷山の一角」のごときもの、ほんの一部分にすぎないのだ。
フロイトの理論においては、「抑圧」という心の働きがきわめて重要な役割を演じており、身体
にもつながっている欲望、とりわけ性欲が抑圧されて無意識の領域に押し込められ、そこから
「私=自我」には意識されないままに、「私=自我」に対して影響を行使している、という話になる。
「私の意識」は、すべてのものを動かす主体でなどあるどころか(7)、実は、当の本人もそれと知
らずに動かされているばかりの、弱々しくも不安定な何ものかだ、と言わざるをえなくなる。
1-5 言語
私の意識が私の心の主体ですらない、私の心を掌握しているどころの話ではない、というこの事
態が、よりありありと実感されるのは、言葉について考える時である。
一体、私はどれだけの言葉を知っているだろうか。謙遜でなく、なかなかの数の日本語の単語を
知っているはずで、しかも結構使いこなせている。使いこなせるのではあるが、その言葉たちを私
の「意識」が使いこなしている、という事情にあるようには感じられない。大体、知っている言葉
の何%をわれわれはいつも意識しながら生活しているだろう。私の中には、思いの外、多くの言葉
がしまい込まれているはずだが、私の意識は、それらをいつも掌握した上で操っているわけではな
い。耳に入ってきた言葉を、それと気づかぬままに理解して、一瞬の後にはもう忘れてしまってい
る、ということが頻繁に起こっているはずだ。喋っていても、次にどの言葉を口にするかは、私
(の意識)が決めているというよりは、むしろ、今口にしている言葉が次の言葉を引き連れてくる、
という方が実情に近いように感じられる。
言葉を使いこなしているのは私の「意識」でない。むしろ、私の思考は、言葉によって支えられ
動かされているのではないか。より正確には、私の「心」は、言葉のネットワークの上に乗っかっ
ていて、それに支えられつつ微動ぐらいはしている、というのが実情なのではないか。
2-1 理性
この人生を主体として生きる、他者や外部によって動かされるのではなく動かす側に回って生き
ることを理想とするという時、そのための力というものが、どうしても必要になる。能力だ。主体
的に生きるために必要な能力とは何だろうか。
体力が、それに含まれることは確かだろう。(暴力にものを言わそうとする人たちがいるのは困
ったものだが。)理性というのも、そういう能力の一つ、特に重要視されてきた能力だ。知的能力
(知性)と意志の力との二つのものが、理性の語のもとに理解されてきた――おおよそ、そう言っ
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て間違いないだろう。ただし、そこからさらに「知的能力」とはどんな能力か、という話になると、
答えはそれほど容易ではない。
哲学の代表選手のような存在であるカントがなしたのは「理性批判」という仕事だった、と言わ
れる。その際、「批判」とは、理性には何ができ何ができないか、その「権能と限界」を見定める
作業だった。「能力論」というと下品な響きがするが、カントの哲学も一種の「能力論」であった
と言って間違いではないだろう。
2-2 感性
そこに、「感性」という能力が加わる。この感性にも微妙な(両義的な)問題がつきまとってい
る。感性は「感受性」と言い換え可能な言葉だが、ここに「受」の字が入っていることに見て取れ
るように、これは、さしあたり、受動的な能力だ。感性が鋭ければ鋭いほど、摂取される情報は多
くなり細やかになるだろう。しかし、それは、動かす能力の高まり、というよりは、動かされる可
能性の増大をこそ意味するのではないか。つまり、感じやすいということは、動かされやすいとい
うことにつながりやすく、それは、主体性と衝突しかねない事態なのだ。感受性が鋭いことは、あ
る見方に立てば、弱さを意味しかねない。(逆に、往々にして、鈍感さが強さとしてイメージされ
るのも理屈に合わないことではない。)情報摂取の能力としての感性が、主体性にとって不可欠な
能力であることに異論の余地はないとしても、ただし、摂取はしてもそれによって動かされること
はない、という風なアクロバットが求められてしまうのだ。(8)
2-3 感情
「感情」についてはどうか。(感情を能力と見ることには、異論もあるだろうが。)
ここまでの考察からも、感情が、主体性にとってプラスに働きにくいものであることは、容易に
見て取れるだろう。感情とは、むしろ、操作の対象となりやすい何ものかだ。ポーカーフェイスと
は、人からつけ込まれないために、感情を押し隠した顔だ。
しかし、だからといって、感情を抑えつけて(押し殺して)心を平静にして生きる(理性的に生
きる)という方向ばかりが、もっぱら望ましいとも言えないだろう。感情を目の敵にする人生なん
て、味気ないことこの上ない。問題は、感情とは、それこそ人生において最強度のリアリティであ
るにもかかわらず、これほどにもコントロールの難しいものはない、という点にこそある。ここに
も、主体性理念の限界は顔を覗かせている。
例えば、死に対する態度。理性は、それを必然的な事態として受け止めようとするだろう。(9)
では、その努力の結果、われわれは自らの死に対しても主体となりうるのか。むやみやたらと怖が
る、というあり方から少し離れることはできるかもしれない。しかし、それで不安を消し去ること
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まではできまい。加えて、そもそも不安を感じることは、例えば「弱さ」として、否定されるべき
事態なのか。何も感じないのではなく不安を感じる、ということは、それもまた生きる上で不可欠
の能力とみなしうるものなのではないか。(10)
3-1 経験
そもそも「経験」とは、単に「白紙としての心に受動的に情報が書き込まれる」だけ、というよ
うな ―― 主体性のかけらもない ―― 出来事なのではない。それだと、経験することとは、単に、
外部や他者によって翻弄されるだけの極めて危うい出来事でしかないことになり、そこから、未来
に対する備えとなってくれるような信頼できる知識がどのようにして獲得できるのか、全く説明が
つかなくなってしまう。
われわれは、成人する(二十歳になる)までは、もっぱら受動的に経験して知識を蓄えることに
終始し、成人後にようやく初めて、主体として人や物を動かす立場になっていく、という風な図式
的な話なのではない。すでに幼少時の経験からして、経験とは、受動的に何かを受け止めつつ、し
かし、主体性を確保・確立しようともする危うい努力でもある。
だから、「主体性という理念」の追求がそもそも誤っている、と考えることはできない。大人に
なるとは、主体になることでもある。この側面を否定することはできない。
しかし、主体性という理念は限界を伴う。大人になりさえすれば良い、というものでもない。何
かに動かされ、場合によっては右往左往することにも、人生の実質(醍醐味)はありうるのであっ
て、何かを経験し続けることができる、というのは、つまりはそういうことだろう。森口美都男も
言うように、経験するとは、自らが「動かされ、揺がされ、つくり変えられる」(11)という ―― 受
身の助動詞「れる/られる」によらずしては記述不可能な――出来事なのだ。
3-2 限界の先に見えるもの
この考察では、主体性に関してその限界を浮き彫りにすることに意を用いてきた。その面のみを
強調すれば「(人間的)主体の危機」というようなキャッチフレーズにも行き着きうる。そして、
「主体」などという理念とは――ということはつまり「主体-客体」の図式で考えること自体とも
――訣別すべきだ、という主張が可能ともなる。
しかし、それは唯一にして必然的な帰結なのではない。その「限界」を踏まえた上で、「主体」
の理念を改修し、言うなればその「弱い」バージョンを手に入れようと試みる可能性も考えられる。
(アクセル・ホネットが「脱中心化された自律」で試みていることだ。)
それだけではない。「主体の危機」「主体の終焉」の宣告と並んで、全く逆に、「多重の主体」(12)
の可能性を謳い上げる議論が繰り広げられてもいるのが、昨今の思想界の状況である。
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本稿の考察は、アクセル・ホネットの最近の仕事から強い示唆を受けてすすめられたものだが、
間主体(観)的な主体(観)概念の獲得をめざすことで、この錯綜した状況から一歩を踏み出そう
とする彼の試みがきわめて好感の持てるものだということを確認し、そこに私自身の課題も見定め
たところで、この稿は一旦締めくくらざるをえない。
(ふじの ひろし・本学経済学部教授)
(1)動かす/動かされるという次元で考える時には、主体/客体という日本語が用いられるが、見る/見られるの次元で考える場合、主観/客観という言葉使いになる。同じ西洋語(Subjekt, subject, sujet)の翻訳でありながら、「主観」と訳すと、主観性には「公平さを
欠いた」という否定的な語感が付着するのに対して、「主体」と訳すと、主体性には「他に左右されることなく内発的な」という肯定的な語感を伴う、という「ねじれ」が生じる。このねじれは、本稿が論じる「理念とその限界」というテーマそのものに関わる事態である。そもそも「主体(観)性」とは両価的なものであって、「主観」「主体」への翻訳は、その両価性をすっきり切り離しうるかのような誤魔化しに心ならずも加担する結果になっている。「主観」とは、それなくしては、自分の目で見、頭で考えるという行為がそもそも発動しない何ものかであり、認識行為の起点にして地盤をなすもの、その意味でそれを消去することが目標にされることなどあり得ないものである。他方、「主体」とは、他者によって動かされることを潔しとしないものなのだが、それはつまりは孤立の表現以外の何ものでもあるまい。アリストテレスは「他を動かすが、それ自身は動かされないもの」すなわち「不動の動者」として神を捉えたわけだが、一神教の神のように孤独な存在が人間の理想とされてよかろうはずがないのではないか。
(2)動かす、といっても、必ずしも、暴力を行使することを意味することにはならない。相手(対象)のことを配慮して、良かれと思ってあれこれと(場合によっては「大きなお世話」を)することも含む。主人/客(人)の関係で考えてみるとよい。客はちやほやされる。ただ、場はあくまでも主人が仕切っている(コントロールしている)のであり、客は、提供されるサービスを受動的に享受することができるにすぎない。客は主体にはなりえないということだ。
(3)その代表的な例が、新約聖書「ローマの信徒への手紙」におけるパウロの悲鳴だろう(7.15)。(4)今日、環境問題に関連して、自然に対して主体の位置に立とうとするこの理念そのものが誤っているのではないか、それがそもそも環境破壊の原因なのではないか、と問う立場が存在するだろう。「自然との共生」と言われるわけだが、しかしそれは、自然を前にして右往左往する状態に逆戻りすることなく可能なあり方なのだろうか。
(5)それに対しては、コミュニケーションという観点から人間関係をみる捉え方がある。相手に対して支配の位置、「主体」の位置に立とうとするのではなく、対等の立場に立っての相手とのやりとりがあり、うまくいけば合意がめざされもする、という。人と人との関係が、「闘い」であるだけでなく、コミュニケーション、「交わり」といったものでもあること、この点にもまた誰も異論はあるまい。ただし、もし、コミュニケーションこそが「正しい」人間関係のあり方だと考え、人間関係をコミュニケーションという理念一本槍で解釈しようとし、人間関係の中に「闘い」の要素があることをそもそもあるべからざることとして否認してしまうとするならば、それはそれできれい事(ロマン主義)以外の何ものでもない、と言わざるをえまい。
(6)Axel Honneth: Dezentrierte Autonomie. Moralphilosophische Konsequenzen aus der modernenSubjektkritik. In: ders., Das Andere der Gerechtigkeit,Frankfurt am Main 2000, S. 237ff.(アクセル・ホネット「脱中心化された自律」、『正義の他者』(法政大学出版局、2005年)所収、261頁以下。)なお、マルクスによる経済学からの声(「存在が意識を決定する」)については、ここでは論じる余裕がない。
(7)フロイト自身は、人間の自尊心は、まず、コペルニクスによって宇宙の中心から追放されたことで傷つけられ、次いで、ダーウィンによって被造物中の特権的地位から追放されたことで傷つけられた後に、今や、自らの心の主人の座からも追放され、三度目の屈辱を経験する羽目になったのだ、と描き出している(フロイト『精神分析学入門』第十八講)。
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(8)カントにとって、「感性」とは多様(雑多)な情報をもっぱら受動的に受け入れる能力だった。そこに秩序をもたらす能力、主体的な能力としての理性がどうしても必要とされた所以である。
(9)トーマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』(昭和堂、1993年)、同『コウモリであるとはどういうことか』(剄草書房)所収の「死」をめぐる考察はその模範的な例だろう。
(10)「不安は自由のめまいである」と言い放ったのはキルケゴールだ(『不安の概念』第2章)。人間が自由な存在である、ということが正しいのなら、人間は不安を感じる存在である、ということにもならずにはすまない。
(11)森口美都男『世界の意味を索めて』、晃洋書房、一九七九年、390頁。(12)Axel Honneth: Objektbeziehungstheorie und postmoderne Identität. Über das vermeintliche Veralten
der Psychoanalyse, in: ders., Unsichtbarkeit. Stationen einer Theorie der Intersubjektivität, Frankfurtam Main 2003. S.139.