『ブッダパーリタ註』(『仏護中論根本註』)目次 - 14th...

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1 『ブッダパーリタ註』(『仏護中論根本註』)目次 第1章 縁の考察 第2章 すでに行ったところ、まだ行っていないところ、今歩いているところの考察 第3章 〔十二〕処の考察 第4章 〔五〕 蘊の考察 第5章 〔十八〕界の考察 第6章 貪りと貪る者の考察 第7章 生成・存続・消滅の考察 第8章 行為者と行為(業)の考察 第9章 取る者と取られるものの考察 第 10 章 火と薪の考察 第 11 章 輪廻の考察 第 12 章 自作と他作の考察 第 13 章 真如の考察 第 14 章 出会いの考察 第 15 章 自性の考察 第 16 章 束縛と解脱の考察 第 17 章 行為と結果の考察 第 18 章 自我と現象の考察 第 19 章 時の考察 第 20 章 因と結果の考察 第 21 章 生成と消滅の考察 第 22 章 如来の考察 第 23 章 顚倒の考察(間違った見解) 第 24 章 〔四〕聖諦の考察 第 25 章 涅槃の考察 第 26 章 輪廻をもたらす十二支の考察 第 27 章 見解の考察 このテキストは、ダライ・ラマ法王による『ブッダパーリタ註』法話会参加者のための暫定的な試 訳である。 凡例 各偈(四行詩)の1行目、2行目、3行目、4行目はそれぞれ、a, b, c, d, で記した 〕は加筆部分、( )は説明を表す 斜体は根本偈および引用の偈を示す

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Page 1: 『ブッダパーリタ註』(『仏護中論根本註』)目次 - 14th ...media.dalailama.com/Japanese/texts/Buddhapalita...4 生成・存続・消滅は、それぞれ個別には有為法の特徴として作用することはできない。2行目の

1

『ブッダパーリタ註』(『仏護中論根本註』)目次

第 1 章 縁の考察

第 2 章 すでに行ったところ、まだ行っていないところ、今歩いているところの考察

第 3 章 〔十二〕処の考察

第 4 章 〔五〕蘊の考察

第 5 章 〔十八〕界の考察

第 6 章 貪りと貪る者の考察

第 7 章 生成・存続・消滅の考察

第 8 章 行為者と行為(業)の考察

第 9 章 取る者と取られるものの考察

第 10 章 火と薪の考察

第 11 章 輪廻の考察

第 12 章 自作と他作の考察

第 13 章 真如の考察

第 14 章 出会いの考察

第 15 章 自性の考察

第 16 章 束縛と解脱の考察

第 17 章 行為と結果の考察

第 18 章 自我と現象の考察

第 19 章 時の考察

第 20 章 因と結果の考察

第 21 章 生成と消滅の考察

第 22 章 如来の考察

第 23 章 顚倒の考察(間違った見解)

第 24 章 〔四〕聖諦の考察

第 25 章 涅槃の考察

第 26 章 輪廻をもたらす十二支の考察

第 27 章 見解の考察

このテキストは、ダライ・ラマ法王による『ブッダパーリタ註』法話会参加者のための暫定的な試

訳である。

凡例

・各偈(四行詩)の1行目、2行目、3行目、4行目はそれぞれ、a,b,c,d,で記した・〔 〕は加筆部分、( )は説明を表す・斜体は根本偈および引用の偈を示す

Page 2: 『ブッダパーリタ註』(『仏護中論根本註』)目次 - 14th ...media.dalailama.com/Japanese/texts/Buddhapalita...4 生成・存続・消滅は、それぞれ個別には有為法の特徴として作用することはできない。2行目の

2

第 7 章 生起・存続・消滅の考察

A反論者の主張

あなたが貪りと貪る者についての考察を示し、私の心に空についての教えを聞きたいという喜び

を起こさせたので、ここで有為法の相(特徴)について考察するのが適切である。

B答えて言う

そのようにしよう。

A反論者の主張

ここで、生成(生)・存続(住)・消滅(滅)が有為法の一般的な特徴(相)として示されてい

る。しかし、存在しないものの相を示すことは論理的に成り立たないため、その特徴(相)が存

在する有為法は存在しなければならない。

B答えて言う

有為法の特徴(相)は成立していないのだから、有為法の特徴が存在するからといって

有為法が存在することなどどうしてあろうか。どのように存在するかというならば、以前に〔論

師は〕、

相(特徴)は、〔相を〕持たないものにも、

相を持つものにも適用されることはない (5 章 3 偈)

とこのようにすでに否定されている。さらに、

1

もし、生成が有為法であるならば

それ(生成)は三つの相(特徴)を持つことになる

もし、生成が無為法であるならば

それ(生成)がなぜ有為法の特徴になるというのか

と言われているこの4行目は、

a もし、生成が有為法であるならば

bそれ(生成)がなぜ有為法の特徴になるというのか

というように、1行目にも適用されるべきである。

有為法の相(特徴)である生成は、有為法か無為法かのどちらかである。そこで、まず有為法に

ついて分析してみると、生成それ自体もまた、生成・存続・消滅という三つの相(特徴)を持っ

ている。それは有為法だからである。この三相を持つものには、三つの特徴の全てが共に生じる

ことになる。

A反論者の主張

それ(生成)もまた、三つの相(特徴)を持つものである。

〔B答えて言う〕

それ(生成)がなぜ有為法の特徴になるというのか (7 章1偈4行目)

Page 3: 『ブッダパーリタ註』(『仏護中論根本註』)目次 - 14th ...media.dalailama.com/Japanese/texts/Buddhapalita...4 生成・存続・消滅は、それぞれ個別には有為法の特徴として作用することはできない。2行目の

3

もし生成もまた、生成・存続・消滅の特徴を持つものならば、そして存続もまた、生成・存続・

消滅の特徴を持ち、消滅もまた、生成・存続・消滅の特徴を持つならば、その特徴が異なること

はなく、同じものとなってしまう。

もしこれらの相(特徴)に違いがなければ、「これが生じる」「これが存続する」「これが消滅

する」と述べることがどうしてできようか。

A反論者の主張

それは過失にはならない。これらは一般的な有為法の特徴として認められているからである。特

別な相(特徴)に依存して、「これは水瓶である」「これは毛織物である」と述べることができ

るのと同じように、ここでも、特別な特徴に依存して、生成・存続・消滅が成立する。

どのように違うかというと、生成をもたらすもの、存続をもたらすもの、消滅をもたらすもの、

という違いである。

B答えて言う

それは成立しない。なぜなら、水瓶を生じさせるものと、実際に成立させるものは、他の何かを

生じさせることはないからである。そして水瓶を存続させるものもまた、他の何かを存続させる

ことはないからである。

A反論者の主張

これらのものが、水瓶の生成、存続、消滅をもたらすのだから、それに過失はない。

B答えて言う

それらのものは水瓶の特徴ではない。なぜならば、それらは水瓶の作者だからである。

たとえば、息子を生み出した父親は、その息子の特徴ではない。〔水瓶を支える〕水瓶の土台の

部分と〔水瓶を消滅させる〕金槌は、水瓶の特徴ではない。

もし、生成などが有為法ならば、それらは有為法の特徴として成立していない。

しかし、もしあなたが生成は無為法だと考えるならば、それについて説明するべきである。

それ(生成)がどうして有為法の特徴になるというのか (7 章1d)

と述べられているのだから。もし何かが無為法であるならば、それは有為法の特徴となることは

ない。もし、それが何かを特徴づけているため、それが特徴となるならば、それには生成・存

続・消滅が欠けているので、それ自体を特徴づけることもできない。

それ自体を特徴付けることすらできないものが、何か他のものを特徴付けることがどうしてでき

ようか。しかし、もしそれができるなら、涅槃のような無為法であっても、有為法の特徴になる

ことができる。しかし、それは受け入れられない。

そうであるならば、生成・存続・消滅が無為法であったとしても、それらは無為法の相(特徴)

としては成立していない。そこでその特徴を分析してみると、生成・存続・消滅は、それぞれ別

に、あるいは集合的に、有為法の特徴でなければならない。

それについて、〔論師ブッダパーリタは次のように述べられているが、『根本中論頌』の著者ナ

ーガールジュナが述べられたものではなく、ブッダパーリタが加えた註である。〕

2

生成などの三つは

個別に有為法の相(特徴)として作用する能力はない

〔たとえそれらが〕ひとつに集まったとしても

同時にひとつのものとして存在することなどどうしてできようか

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4

生成・存続・消滅は、それぞれ個別には有為法の特徴として作用することはできない。2行目の

「能力はない」という言葉は、究極的には「不適格な、不適当な」あるいは、「不十分な」こと

を意味している。どのように不適当かというと、まず、生成・存続・消滅は、作用する能力を持

たないものには成立しておらず、存在していないからである。ゆえに、生成・存続・消滅は事物

に依存しており、水瓶の生成、水瓶の存続、水瓶の消滅は実際には水瓶を成立させていない。で

は、生成・存続・消滅はいったい何の特徴なのか?

消滅とは、壊れてなくなっていくことである。なぜならば、その特徴を持つものが存在しなくな

るからである。もしそれが存在しないなら、生成・存続・消滅はいったい何の特徴なのか? そ

の場合、生成・存続・消滅はそれぞれ別個に、あるいは集合的に成立しておらず、それらは消滅

したものの特徴ではない。

しかし、もしあなたが、それらは実際に成立していて、消滅していないものの特徴だと考えるな

らば、それもまた成立しない。なぜかというと、この場合「水瓶」と呼ばれて存在しているもの

に生成は存在せず、それはすでに存在しているものなので、生成する作用は存在していないから

である。しかし、すでに存在していても、さらに生成するというならば、これは受け入れられな

い。ゆえに、生成は、すでに存在しているものには存在していない。したがって、存在していな

いものが、特徴となることなどどうしてあろうか?

A反論者の主張

しかし、存続は存在する。

B答えて言う

存続も成立していない。なぜならば、存続は消滅に結び付けられているからである。このように

有為法が無常と永久に結びついているならば、存続と消滅は矛盾関係にあるのだから、どうやっ

てそれらが存続できると言うのか? このように以下のごとく述べられている。

今消滅しつつある事物が

存続するということは成立しない

今消滅しようとしていないものは

事物として成立していない (7 章 23 偈)

アーリヤデーヴァ(聖提婆)も『四百論』の中で次のように述べられている。

存続しない事物がどこにあるというのか

無常であるならば、どこに存続するというのか

もし、最初に存続するならば

最後に古くなることもない (11 章 17 偈)

もし、永遠なるものが無常であるならば

永遠なるものが存続することはない

あるいは、〔以前〕永遠であったものが

のちに無常なるものにもなる〔と言うのか〕(11 章 23 偈)

もし、事物が無常であり

同時に、存続するならば

無常であることが誤りなのか

存続することが偽りなのか (11 章 24 偈)

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5

もしそうならば、存続も存在しない。存続が存在しないなら、存続が有為法の特徴であることな

どどうしてありえようか。

A反論者の主張

では、消滅は存在する。

B答えて言う

存続が存在しないなら、どうやって消滅が存在するというのか。

このように事物の存続が存在するならば、消滅するものの存続は存在しない。消滅がいったいど

こに存在するというのか。

ここで、消滅と言われるものは壊れてなくなることであり、それがどこにあるかというと、どこ

にも存在しないのである。そのような特徴を持つものは存在しない。

生成・存続・消滅は一体何の特徴なのかということはすでに示し終えている。ゆえに、消滅もま

た、有為法の特徴としては成立していないのである。

そこで、生成・存続・消滅が個別に有為法の特徴であるということは成立しない。なぜならば、

同時に生じている、と述べられているからであり、諸法のありようをよく知っている人々が、生

成・存続・消滅は同時に生じていると述べているからである。ゆえに、この三つが別個の特徴で

あるということは成立していない。

A反論者の主張

集合的には、〔この三つは〕特徴である。

B答えて言う

〔2偈後半で言われているように〕

〔たとえそれらが〕ひとつに集まったとしても

同時にひとつのものとして存在することなどどうしてできようか

三つのそれぞれのものは特徴ではない。集合的には互いに矛盾しているものが、一つの有為法と

して同時に存在することなど、どうしてありえようか。もしそうならば、何かが生成するときに

は、存続も消滅も存在していない。また、何かが存続しているときは、生成と消滅は存在してい

ない。そして、何かが消滅しているときは、生成も存続も存在していないので、生成・存続・消

滅はそれぞれ別個にも、集合的にも、有為法の特徴として存在するということは成立していない。

なぜならば、特徴が成立していないので、有為法は存在していない。

A反論者の主張

あなたはどうしてそのような偽りの議論をするのか? 存在する事物の生成・存続・消滅は、有

為法である。

B答えて言う

それは誤った議論であり、私はそれを〔正しい根拠として〕認めない。私はあなたの〔誤りの本

質をただし〕真如を知らしめるためにのみ述べている。生成とは何なのかを述べてみよ。

A反論者の主張

水瓶は生じる。

B答えて言う

まず、いつどこに水瓶と言われるものが存在するようになるのか、よく考えて答えなさい。

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〔A反論者の主張〕

まだ生じていない時にそれを水瓶と呼ぶのは正しくない。水瓶が生じてからそれが水瓶と言われ

るものになる。水瓶もまた有為法であるから。水瓶は三つの特徴を持つものであり、その生成は

水瓶の特徴である。

B答えて言う

それがどうして成立すると言うのか? すでに存在しているものが再び生成すると言うことにど

んな意味があると言うのか? すでに特徴を持っているものが再び特徴を持つことにいったい何

の意味があるのか?

もしあなたが、水瓶でないものが生成し、生成し終えてから水瓶になるのだと考えているならば、

これもまた正しくない。「水瓶でないものが生成し」と言われているのは、水瓶でないものがゴ

ザや毛織物などとして生成することを言っているのか? あるいは、水瓶でないものとは、何も

ないことなのか、あるいは何か別のものがあることなのか?

ここで、もしゴザ、あるいは毛織物が生成し、生成し終わってからどうやって水瓶に変わるのか。

もし「水瓶でないもの」と言われるものが、何もないことであるならば、何もないものがどうや

って生成するのか。もし生成したと言うのなら、ウサギの角もまた、どうして生じないのか。

ゆえに、生成と言われているものは成立していない。生成と言われるものが存在しないなら、何

が生じたとしてもそれは有為法である、と言われていることがどうして成立するのか。生成が存

在しないなら、どうやって存続し、消滅するのか。

ゆえに、生成、存続、消滅と言われるものは、世間の言説ばかりのものに他ならない。

もし、いわゆる「生成」と言われるものが存在しないなら、「なんでも生成するものは有為法で

ある」と述べることがどうして成立するのか。生成、存続、消滅のない何かがどうやって存在す

るのか? 生成、存続、消滅などは、単なる名前を与えられただけの世俗の存在に過ぎない。

さらに、

3

生成・存続・消滅に

他の有為法の相(特徴)が存在するならば

無限に〔遡ることが〕できることになってしまう

もし〔他の有為法の相が〕存在しないならば、それらは有為法ではない

生成・存続・消滅は有為法であると言われているが、それらは有為法の他の特徴も持っているの

か? いないのか? まず、それらが他の有為法の特徴も持っているならば、無限遡求になって

しまう。生成には生成の特徴とそれ以外の他の特徴があり、それにもまた他の特徴があることに

なってしまうからである。このように無限遡求となってしまうため、これを受け入れることはで

きない。

しかし、もしあなたがそのような無限遡求はありえないと考えるならば、それらは他の有為法の

相(特徴)を持たないことになり、それらは有為法ではなくなってしまう。もし、それらが有為

法でないならば、どうして有為法の特徴が生成するのか? とあなたが言うならば、この否定は

すでに説明されている。

〔ここより〕『ブッダパーリタ註』のバムポと呼ばれる第3セクションが始まる。

A反論者の主張

生成・存続・消滅はみな有為法であるが、無限遡求にはならない。それはどうしてかと言うと、

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7

4

「生成の生成」(生成が生じること)は

「根本の生成」のみを生じる

「根本の生成」もまた

「生成の生成」を生み出す

これについて、意識などの諸法から何かが生じるならば、それは、その現象それ自体とそれに付

随する 14 の現象、合わせて 15 の現象が生成する。

1)その現象それ自体、2)その現象の生成、3)その現象の存続、4)その現象の消滅、5)

その現象が所有するもの、6)その現象の老化、ここでもし、7)その現象が白い(清浄なもの)

ならば、その現象は正しい解脱(解脱)であり、あるいは、もしその現象が黒い(汚れた)もの

ならば、その現象は誤った解脱(邪解脱)である。それと同様に、8)もしその現象が出離(の

本質を持つもの)であれば、その現象の出離(が生み出される。)しかし、もしその現象が出離

(の本質を持たなければ、)その現象の出離でない本質(非出離性)が生み出される。これらは、

「付随する現象」と呼ばれる。

次に、9)生成の生成(生成が生み出されること)、10)存続の存続、11)消滅の消滅、12)所

有の所有、13)老化の老化、14)解脱の解脱、あるいは解脱でないものの解脱でないもの(非解

脱)、15)出離の出離、あるいは、その現象が出離(の本質)でなければ、出離でない本質のも

の(非出離性)が生み出される。これらは「付随する現象に付随する現象」と呼ばれる。

このような諸々の現象の生成と、その土台となる現象自体を合わせて、15 の現象が生成する。

第1の根本的な生成が、土台となるそれ自体の現象以外の 14 の生成を生み出す。生成の生成は、

根本的な生成のみを生み出す。このようにして、一つの現象が他の一つの現象の生成を生み出す

ため、無限遡求は生じない。

これと同様に、根本的な存続が、存続の存続を存続させる。そして、存続の存続もまた、根本的

な存続を存続させる。根本的な消滅もまた、消滅の消滅を消滅させる。消滅の消滅もまた、根本

的な消滅を消滅させる。したがって、このように、無限遡求という結果が生じることはない。

B答えて言う

5

もし、あなた〔の説〕により、〕

「生成の生成」が「根本の生成」を生み出すならば

あなたの言う〔「根本の生成」〕によって、まだ生じていない「生成の生成」が

どうやって〔「根本の生成」を〕生じると言うのか

もしあなたの言う「生成の生成」により、根本の生成が生み出されるならば、あなたの言う「根

本の生成」によってまだ生じていない生成が根本の生成をどうやって生み出すというのか。なぜ

なら、それ自体がまだ生じていないからである。

A反論者の主張

根本的な生成によって根本のみの生成が生成して、根本的な生成を生成させるが、まだ生じてい

ないので生じさせることはない。

B答えて言う

6

もし、あなた〔の説〕により、「根本の生成」によって

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8

〔すでに〕生成された「生成の生成」が「根本の生成」を生成すると言うならば

それ(「生成の生成」)によってまだ生成していない「根本の生成」が

それ(「生成の生成」)をどうやって生成すると言うのか

もし、あなたが主張するように、根本の生成が、生成の生成によって根本の生成を生み出すのな

ら、生成の生成が、まだ生じていない根本の生成を生み出すことなどどうしてありえようか?

あなたにとっては、一つが他の一つに依存しているが、この文脈においては、一つが他の一つに

依存しているというのはどんな時でも正しくない。

A反論者の主張

生成自体がすでに生成しているので、生成の生成が生み出されるというのは、まだ生じていない

のだからそのようなことはありえない。

B答えて言う

7

あなた〔の説〕により、今生じつつあり、まだ生じていない〔「根本の生成」〕が

「生成の生成」を生じさせることができると言うならば

今生じつつあり、〔まだ生じていない〕「根本の生成」が

あなたの主張通り「生成の生成」を生じさせることを受け入れなければならない

あなたにとって、今生じつつあり、まだ生じていない「根本の生成」が、別の「生成の生成」を

生み出すと言うならば、あなたはそれ(今生じつつありまだ生じていない根本の生成)が「生成

の生成」を生み出すと言うことを受け入れなければならない。

さらに、あなたにとって、今生じつつありまだ生じていない「生成の生成」が、別の「根本の生

成」を生み出すというならば、あなたはそれ(今生じつつありまだ生じていない生成の生成)が

「根本の生成」を生み出すことを受け入れなければならない。もしそうならば、まだ生じておら

ず、存在していないものが別の何かを生み出すことがどうしてあり得るのか? ゆえに、これは

単なる妄分別に過ぎない。

A反論者の主張

生成は、他の生成によって生じるのではないが、生成それ自体によってそれ自体と他のものを生

み出す。どのようにかと言うならば、

灯明はそれ自体と他のものを

照らし出すのと同様に

「生成の生成」もまた

それ自体と他の事物をともに生み出すのである

灯明はどのようにしてそれ自体を照らし出すのか。水瓶や毛織物など他の事物も照らし出すのと

同様に、生成もまた、それ自体を生み出すのであり、水瓶や毛織物など他の事物も生み出すので

ある。

B答えて言う

もし灯明が、それ自体と他の事物を照らし出すならば、水瓶や毛織物など他の事物も照らし出す

のと同様に、生成もまた、それ自体を生み出すのであり、水瓶や毛織物など他の事物も生み出す

ことになる。しかし灯明は、それ自体と他の事物を照らし出すことはない。なぜかと言うならば、

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9

9

a灯明と、灯明の光が存在するどんなところにも

b暗闇は存在していない

暗闇によって覆い隠されていたものを灯明の光によって照らし出すことができる。暗闇によって

覆い隠されていたため見えなかったのなら、灯明の光のもとでは、照らし出されないものはない。

また、「それ(灯明)は他のものを照らし出す」と述べることは論理的に正しくない。なぜなら

ば、灯明の光が存在する他の場所には暗闇は存在しないからである。そこには暗闇が存在しない

ので、照らし出すという働きはそこに存在しないからである。しかし、もし灯明が、それ自身、

あるいは他のものを照らし出さないというならば、

cその時、灯明は何を照らし出すのか

それについて述べてみよ。

A反論者の主張

d暗闇を晴らすことにより、〔それ自体と他のものを〕照らし出すのである

ここで、今生じつつある灯明が暗闇を晴らして、自らと他のものを照らし出すのである。暗闇を

晴らすものは何であれ、灯明それ自体と他のものを照らし出すと言われている。ゆえに、9偈で、

灯明と、灯明の光が存在するどんなところにも

暗闇は存在していない

と述べられているのであり、今生じつつある灯明が暗闇を晴らすため、灯明それ自体と他のもの

に暗闇は存在しない。暗闇が晴らされたので、その二つを照らし出すのである。

B答えて言う

どのようにして、今生じつつある灯明が暗闇を晴らすのかを述べてみよ。

10

その時生じつつある灯明は

暗闇と出会うことはないのに

今、生じつつある灯明が

いったいどうやって暗闇を晴らすと言うのか

灯明と暗闇は同時に存在することはないので、今生じつつある灯明が暗闇と出会うことはない。

暗闇と出会うことのない灯明がいったいどうやって暗闇を晴らすと言うのか。

11

灯明と〔暗闇が〕出会うことはなくても

暗闇を晴らすことができるなら

すべての世間に存在する暗闇を

ここにある灯明が晴らすだろう

12

灯明がそれ自体と他の事物を

照らし出すならば

暗闇もまた、それ自体と他の事物を

覆い隠してしまうことに疑いはない

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10

灯明は暗闇を晴らす対策となるものなので、灯明がそれ自体と他の事物を照らし出す、と反論者

が言うならば、暗闇もまた疑いなくそれ自体と他の事物をどちらも覆い隠すことになるだろう。

13

aこの生成はまだ生じていないので

bそれ自体をどうやって生じさせると言うのか

この生成はまだ生じていないのだから、存在しておらず、それ自体をどうやって生じさせると言

うのか。さらに、まだ生じておらず、存在していないものを、いったい何が生じさせると言うの

か。もし、存在しないものがそれ自体を生み出すと言うならば、ウサギの角もまたそれ自体を生

み出すことになってしまうのでそれはありえない。ゆえに、生成はまだ生じていないので、それ

自体を生み出すことはない。

しかしここであなたが、生成が生じたことによってそれ自体が生み出されると考えるならば、そ

れについて〔論師は〕このように述べられている。

cもし、すでに生じたものが〔それ自体を〕生じさせるなら

dすでに生じているのに、いったい何が生じると言うのか

すでに生じたものが再び生じることはない。

〔反論者が、〕生じることによって他のものを生じさせるのである、と言うならば、これもまた

成立しない。すでに生じた何かが、なぜさらに生じるというのか。

14

a すでに生じたもの、まだ生じていないもの、今生じつつあるものは

bどのようなものとしても生じることはない

どうしてかと言うならば、

B答えて言う

cそれは、すでに行ったところ、まだ行っていないところ、今歩いているところによって

dすでに説明されている

すでに生じたもの(生じるという作用が滅したもの)、未だ生じていないもの(生じる作用が始

まっていないもの)、今生じつつあるものというこの三つは、どのようなものとしても生じるこ

とはない。第 2 章で、すでに行ったところ、まだ行っていないところ、今行きつつあるところに

おいて、実体を持って行くということが否定されたことで説明されているからである。

すでに行ったところには行く作用は存在せず、まだ行っていないところには行く作用はまだ始ま

っていない。今行きつつあるところにも行く作用は存在せず、すでに行ったところとまだ行って

いないところ以外に、今行きつつあるところは存在しないからである。

14 偈については、ナーガールジュナもブッダパーリタも、生成がそれ自体より他のものを生み出

すことを否定している。

A反論者の主張

水瓶などを対象として、私たちは事物が生じるのを見ている。水瓶などは様々な目的に使われて

存在しているため、もし生成が存在するのなら、生成に依存して今生じつつあるものが生じる、

ということができる。

B答えて言う

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11

15

生成が存在する時

今生じつつあるものが生じる

しかし〔生成が〕存在しない時、生成に依存して

生じつつあるもの〔が生み出されると〕述べることなどどうしてできようか

A反論者の主張

どうしてそう述べることができないのか?

B答えて言う

今生じつつある毛織物は、今はまだ存在しないのだから、生み出す作用も存在しない。その際ど

うやって生み出す作用に依存して、今生じつつある毛織物が生み出されると言うのか。

A反論者の主張

毛織物それ自体が今生じつつあるからである。

B答えて言う

もし、今生じつつある毛織物が毛織物であるならば、「今生じつつあるものは、それが生じつつ

あることに依存して生み出される」と述べることに何の意味があるのか? その論理は成立しな

い。すでに生じたものと、今生じつつあるものの間には何も違いがないことになってしまうから

である。ゆえに、今生じつつあるものは毛織物ではない。

A反論者の主張

いったん生み出されたものは毛織物である。それが分析されない限り、すでに生じたものに依存

して今生じつつあるものが生み出されている。

B答えて言う

それは正しい。しかし、今生み出されつつあるものは毛織物ではないのだから、それが生み出さ

れた時どうやって毛織物になると言うのか。このように、もしそれが他のものを生み出すならば、

それは他のものにはならない。しかし、もしそうならば、今藁のゴザを生み出し、そしてそれが

毛織物になるだろうがそうはならない。ゆえに、今生み出されつつあるものは毛織物ではない。

もしその毛織物が存在しないなら、何の生成に依存して何が生じつつあると言うのか。

A反論者の主張

では、あなたは武器の使用に秀でていると言って、あなたの母親を殴るというのか?

それともあなたは、論議がしたいからと言って縁起の論理を批判するのか?

B答えて言う

それは縁起の論理ではない。縁起を説く者には、今生じつつある事物さえ〔実体を持って〕存在

しているわけではないのだから、今生じつつある事物の生成も〔実体を持って〕存在しているの

ではない。縁起の意味とはこのようなものである。なぜならば、

16

他に依存して生じるものは何であれ

その自性による成立は寂滅している

ゆえに、今生じつつあるものも

生成もまた、寂滅そのものである

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12

他に依存しているもの(テン)、生じたもの(チュン)、このどちらも自性による成立はなく、

その自性は空である。それならば、今生じつつあるものと生成それ自体の二つがどちらも固有の

実体がない空の本質を持つものであるならば、生成それ自体に依存して今生じつつあるものが生

み出されるなどと、どうして言えるだろうか。

A反論者の主張

原因と条件に依存して事物が生じ、行為が始まる。なぜならば、事物が生じるまでは行為を始め

ることはないから。事物の生成のみに依存して行為が始まるのではなく、土台がなければ行為を

始めることもないので、行為を具えた原因と条件に依存して事物が生じ、その生成に依存して行

為が生じるのである。

B答えて言う

何の原因と条件に依存して行為が始まるのか?

A反論者の主張

毛織物である。

B答えて言う

あなたは虚空の華を集められるのか? それとも、あなたは存在していない毛織物の原因と条件

に依存して行為を始めるのか?

17

もし、まだ生成していない事物が

どこかに存在するならば

それは生じることになるだろう

しかし、その事物が存在しなければ、どうして生じることになどなるだろうか

18

もし、この生成が

今、生じつつあるものを生じさせるならば

この生成を、〔さらに〕生じさせる生成とは

いったいどのようなものなのか

もしこの生成が、今生じつつある他のものを生じさせるなら、どんな生成がその生成を生み出す

というのか。しかしもしあなたが、他の生成によって生み出されると考えるならば、〔論師は〕

このように述べている。

19

aもし、他の生成がそれを生じさせるならば

b無限遡求になってしまう

もし、他の生成が今生じつつある他の生成(A)を生じさせるなら、無限遡求になってしまい、そ

れ(A)もまた他のもの(B)を生み出すので、どこまで遡ってもそれには終わりがなくなってし

まうため、これを受け入れることはできない。しかし、もしあなたが、他の生成がなくても生じ

ると考えるならば、

cもし、〔他の〕生成がなくても生じるならば

d一切がこのように生じることになる

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13

さらに、もし事物が生じるならば、それらは存在するものとして生じるのか、存在しないものと

して生じるのか? そこで〔論師〕は次のように言われている。

20

aまず、存在しているものも、存在していないものも

b生じるということは不合理である

すでに存在しているものが生じるというのは論理的に正しくない。それが生じると考えることに

意味がないからである。すでに存在しているものが再び生じることにどんな意味があるのか。ま

た、存在していないものが生じると言うのも論理的に正しくない。なぜかと言えば、それは存在

していないからである。しかし、もし存在しないものが生じると言うならば、ウサギの角も生じ

ることになる。ゆえにこれは受け入れられない。そこで存在しないものが生じるというのは成立

しない。しかしあなたが、存在し、かつ存在しないものが生じると考えるならば、

cさらに、存在し、かつ存在していないものも

d〔生じるということは〕論理的に正しくない

これはすでに〔前半の偈で〕示した通りである。

諸法(事物)は有としても、無としても

有かつ無としても、成立していない

〔その時、〕どのように諸法を成立させる因が存在するというのか

もし〔存在すると言う〕ならば、それは論理的に正しくない (1章7偈)

21

a今滅しつつある事物が

b生じるということは論理的に成立しない

あなたは今ここで、「生じつつある事物が生み出される」と述べているので、生じつつある事物

には消滅もあることになる。なぜなら、事物は消滅する特徴を持つものだからである。今消滅し

つつある事物には、生成は成立しない。なぜなら、今生じつつあるものは実際に生成の過程を進

みつつあるので生成であるが、一方で消滅しつつあるものは生成することはなく、なぜならば、

滅しつつあるため消滅に至るからである。しかし、もしあなたが、何かが生じつつある時、それ

が消滅することはないと考えるならば、それにはこう答えよう。

c今滅しようとしていないもの

dそれは事物として成立していない

今生じつつある事物が消滅しないなら、今生じつつあるものは事物ではない。なぜかというと、

事物としての相(特徴)を持たないからである。ゆえに、消滅は事物の相(特徴)であると述べ

られている。もし消滅が存在しなければ、どうやって事物が存在できるというのか。もしそうな

らば、「今生じつつある事物の生成を生み出す」と言うことはできず、今生じつつある事物でな

いものの生成を生み出すことになってしまう。しかし、それ自体の生成を生み出さないものが、

他のものの生成を生み出すことなどどうしてあろうか。

A反論者の主張

存続は存在する。まだ生じていない事物には成立しないが、生じているものには完全に成立する。

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14

B答えて言う

もし何らかの事物が存続しているならば、その存続しているものが存続するのか、まだ存続して

いないものが存続するのか、今存続しつつあるものが存続するのか?というならば、

22

aすでに存続している事物が存続することはない

bまだ存続していないものも存続することはない

c今存続しつつあるものも存続することはない

すでに存続している事物がさらに存続することはない。すでに存続しているものを存続させるこ

とに意味はないからである。そうでないと、存続には「存続する作用を持つため、そこが今存続

することになるという第 1 の存続する作用と、今存続しているところを存続させるという第 2 の

存続する作用があることになり、存続する作用が2つあることになってしまうため、これは論理

的に成立しない。

また、まだ存続していない事物も存続することはない。なぜなら、存続するものと存続しないも

のは矛盾関係にあるからである。

また、今存続しつつある事物も存続することはない。なぜなら、存続と存続しないものを離れて

今存続しつつあるものは存在しないからである。さらに、存続も2つあることになり、存続させ

るものもまた2つあることになってしまう。

そこで、すでに述べられた理由により、次のように述べられている。

dまだ生じていない〔事物〕が、どうして存続することになどなるだろうか

23

a今消滅しつつある事物が

b存続するということは論理的に成立しない

なぜかというと、存続と消滅は矛盾するからである。しかし、存続が存続するならば、それは消

滅しないので、これを説明しなければならない。

c今滅しようとしていないもの

dそれは事物として成立していない

存続が存続している時、それは消滅しないので、存続しているものは事物ではない。なぜなら、

事物としての相を持っていないからである。同様に、消滅は事物の相であると説かれているので、

もし消滅がないならば、どうしてそれが事物でありえよう。もし、事物が存在しないなら、どう

やってそれらが存続するというのか? ゆえに、事物の存続は成立せず、事物は今消滅しつつあ

るからである。

24

一切の事物が

常に老化と死の本質を持つならば

老化と死の本質を持たずに存続する

どんな事物があるというのか

すべての事物が無常であり、無常であるがゆえに老化と死の本質を持つことが認められている時、

いったい何に依存して存続が存在するというのか。老化と死の本質を持たずに存続する事物とは

いったい何なのか? ゆえに、存続もまた成立していない。

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15

そこで、「存続の存続」といわれるものは何なのかを説明しよう。

25

存続が、他の存続やそれ自体によって

存続するというのは不合理である

あたかも生成が、それ自身によっても

他のものによっても、生じることがないのと同様である

これはすでに説明済みである。

7 章 13 偈に結びつけて、次のように理解するべきである。

この存続はまだ存続していないので

それ自体をどうやって存続させると言うのか

もし、すでに存続しているものが〔それ自体を〕存続させるなら

すでに存続しているのに、いったい何が存続するというのか

そこで、存続とはこの 2 つのいずれかである

1)まだ存続していないものはそれ自体の存続手段によって存続されることはない

2)すでに存続しているものはそれ自体の存続手段によって存続しているのではない

これについて、まだ存続していないものはそれ自体の存続手段によって存続されることはない。

なぜかと言うならば、それはまだ存在していないからであり、まだ存続していないものが存続す

ることはありえないからである。もしそれが存続を生み出すと言うならば、全く存在しないウサ

ギの角でさえ存続を生み出すことになり、そのようなことを受け入れることはできない。

次に、すでに存続しているものはそれ自体の存続手段によって存続しているのではない。なぜな

らば、それ自体すでに存続しているからである。すでに存続しているものをさらに存続させるこ

とには何の意味もないからである。ゆえに、すでに存続しているものをさらに存続させるために、

それ自体の存続手段に依存する必要はないのである。

そこで、7 章 19 偈でこのように言われている。

もし、他の生成がそれを生じさせるならば

無限遡求になってしまう

もし、〔他の〕生成がなくても生じるならば

一切がこのように生じることになる

そこで存続は、この2つのどちらかでなければならない。

1)他の存続手段による存続

2)他の存続手段によらず、それ自体の存続手段による存続

まず、存続は他の存続手段によって生じるのではない。もし、存続が他の存続手段によって生じ

るのなら無限遡求になってしまうから。さらに、それが他の存続手段によって生じるのなら、そ

れもまた他の存続手段によって生み出されることになり、無限訴求になってしまうのでこれを受

け入れることはできない。ゆえに、存続が他の存続手段によって生じるというのは不合理である。

A反論者の主張

消滅は存在する。生成と存続も完全に存在しており、事物が生じず、存続しないということは成

立しないからである。

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16

B答えて言う

もし、今消滅しつつある事物が存在するならば、それはすでに消滅したものか、まだ消滅してい

ないものか、今消滅しつつあるものなのか。しかしこれはどれも成立しない。なぜならば、

26

aすでに消滅したものが消滅することはない

bまだ消滅していないものもまた消滅することはない

c今消滅しようとしているものも〔消滅〕することはない

a について何故かというと、消滅したものは存在しないからである。

b について何故かというと、消滅したもの(存在しないもの)と消滅していないものは矛盾関係に

あるからである。

c も同様に、消滅することはない。「今生じようとしているものが生成することはない」と言われ

ているからであり、すでに消滅したものとまだ消滅していないものを離れては、今消滅しようと

しているものは存在しないからである。

さらに、2 つの消滅する作用があることになる。今消滅しつつあるもの(主語)を消滅させる作用)

と今消滅しつつあるものが消滅する作用(述語)である。

また、今消滅しつつあるものは、一部分はすでに消滅し、他の部分はまだ消滅していない。そし

て、すでに消滅した場所とまだ消滅していない場所が異なっている。一部が消滅したものと一部

がまだ消滅していないものが消滅のために停止するならば、一部はまだ停止しておらず、なぜな

らばそれは消滅しつつあるからである。

さらに、すでに消滅した部分は消滅したものの消滅を引き起こすことはない。なぜなら、それは

すでに消滅しているから。ゆえに、まだ消滅していない残りの部分が今消滅しつつあるものの消

滅を引き起こすというあなたの主張は正しくない。

しかし、すでに消滅した部分が消滅を引き起こすというならば、二つの消滅を持つことになり、

すでに消滅したものが何かを再び消滅させるための行為をすることはない。したがって、それは

何かを再び消滅させることはない。もしそうならば、「それは今消滅しつつあるものの消滅を引

き起こす」と述べることは無意味である。さらに、

26dまだ生じていないものが、どうやって消滅するというのか

この時、ほんの一部すら生成は存在していない、と述べられていることは、すでに以前述べたと

おりである。ゆえに、まだ生じていない他のものがどうやって消滅をもたらすと言うのか? も

しそうならば、消滅も存在していない。さらにまた、消滅が存続しているかどうかを考察するな

らば、これについてはそのどちらも成立していない。

27

a まず、存続している事物が

b消滅するということは論理的に成立しない

すでに生じた存続という行為が消滅するというのは、存続と矛盾するため論理的に成立しない。

これはよく知られた事実である。

A反論者の主張

存続しないものが消滅するということに過失はない。

B答えて言う

c存続していない事物が

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17

d消滅することも論理的に成立しない

なぜなら存続していないからである。例えば、すでに消滅したもののように。

A反論者の主張

直接知覚(現量)に根拠となる言葉の意味がないことは、世間に広く知られていることである。

このように、事物が消滅することなく存続し、様々な理由によって消滅することは、若者から年

寄りに至るまでの直接知覚によって理解できることなので、消滅は確かに存在する。

B答えて言う

もしそうならば、それはあなたの直接知覚の対象として適切である。

28

ある状態は、それと同じ状態によって

消滅することはない

〔元の状態と異なる〕他の状態が

それと異なる状態によって消滅することもない

ミルク〔の状態の存続〕が、ミルク〔自体〕を消滅させることはない。なぜなら、ミルク〔の状

態〕が存続して存在しているからである。ある状態にあるものが、他の状態にあるものによって

消滅することはない。なぜなら、他の状態にあるものによって存在しているのではないからであ

る。ミルク〔である状態〕は、ヨーグルトの状態にある時に存在することはなく、ヨーグルトの

状態にある時は、ミルク〔の状態〕は存在しないからである。しかし、もしその時ミルクが存在

するならば、ミルクとヨーグルトは同時に存在することになり、ヨーグルトは原因無くして生じ

ることになってしまうので、これを受け入れることはできない。もしそうならば、〔ミルクの〕

消滅は成立しない。なぜなら、それは心が直接知覚できるからであり、消滅は全く存在しないと

理解するべきである。

A反論者の主張

消滅は確実に存在する。なぜなら、あなたは以前「今消滅しつつある事物が生成するということ

は成立しない」と述べて受け入れているのだから、消滅は存在する。その原因から生じた生成を

否定しているからである。どんな原因から生じた生成も消滅するからであり、存在しないものが

原因であるということは成立しない。

B答えて言う

あなたは絵に描かれた火を消そうとしているのか? あなたは存在しない生成を否定しようとし

ている。

29

どんな時でも

一切諸法の生成を受け入れることはできない

その時

一切諸法の消滅を受け入れることはできない

私が一切諸法の〔自性による〕生成は成立しないと述べた時、一切諸法の消滅もまた成立しない

と述べたではないか。このように、事物として生じ、今は存在しないものが消滅するなどどうし

てありえよう。もしそうならば、生成を否定するだけの消滅は成立していない。さらに、その時

消滅が存在するならば、それは事物なのか、それとも事物ではないのか?

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18

30

aまず、すでに存在している事物の消滅は

b成立していない

まず、存在する事物の存続に消滅は成立していない。なぜならば、

c事物と事物でないものは

d成立していないことに関して同じだからである

すでに存在している事物の存在は、事物の存在である。

消滅した事物が存在しないことは、事物が存在しないことである。

事物と事物でないものは矛盾関係にあるので、同じではあり得ない。

従って、存在している事物が消滅することは成立していない。

31

存在していない事物についても

消滅は成立していない

あたかも第二の頭を切断することが

存在しないようなものである

存在しないものが消滅することなどどうしてありえよう。第二の頭は存在しないので、それを切

り落とすことはできないのと同様である。

32

a消滅の消滅が、他のものによって

bあるいはそれ自身によって消滅するというのは不合理である

もし、消滅に消滅が存在するならば、他のものによって、あるいはそれ自身によって消滅する、

というのはどちらの場合も正しくない。どうしてかと言うと、

cあたかもそれ自体によって、あるいは他のものによって

d生成が生じることがないのと同様である

この生成はまだ生じていないので

それ自体をどうやって生じさせると言うのか

もし、すでに生じたものが〔それ自体を〕生じさせるなら

すでに生じているのに、いったい何が生じるというのか(7 章 13 偈)

と言われているのと同様に、消滅もまだ消滅していないので、1)それ自体による消滅、あるい

は、それはすでに消滅しているので、2)他のものによる消滅、の二つ以外にはあり得ない。

もしあなたが、消滅はまだ滅していないので、それ自体によって消滅されると考えるなら、それ

自体が消滅していないのだから、それ自体の消滅は存在しておらず、存在していないものが消滅

をもたらすことなどどうしてありえるだろうか。なぜならそれは存在していないのだから。

しかし、もしあなたが、消滅はすでに滅したので、それ自体も消滅すると考えるなら、そのよう

なことは成立しない。すでに消滅したものがさらに消滅する時、それは少なくとも存在していな

い。ゆえに、消滅はそれ自体によってもたらされるということを認めることはできず、なぜなら

ば、それはすでに消滅しているからである。

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19

さらに、他のものによって消滅されたのなら、これもまた認めることはできない。なぜならば、

すでに 7 章 19 偈で次のように述べられているからである。

もし、他の生成がそれを生じさせるならば

無限遡求になってしまう

もし、〔他の〕生成がなくても生じるならば

一切がこのように生じることになる

この偈で生成について述べられているように、消滅に関してもこれと全く同様である。

1)消滅を他の消滅〔手段〕が消滅させる

2)消滅を、それ自体〔の消滅手段〕によって消滅させる

もし消滅が、他の消滅によることなく、それ自体で消滅するとあなたが考えているならば、無限

遡求になってしまう。さらに、他のものの消滅によって消滅し、またそれが他のものの消滅によ

って消滅するので、無限遡求になってしまうため、これを受け入れることはできない。ゆえに、

消滅の消滅を認めることはできない。もし、消滅が他のものの消滅によることなく、それ自体で

消滅するとあなたが考えているならば、これを説明するべきである。

〔7 章 19 偈の「生成」を「消滅」に置き換えて、〕

もし、他の消滅〔手段〕が消滅を消滅させるならば

無限遡求になってしまう

もし、〔他の〕消滅〔手段〕がなくても消滅が消滅するならば

一切がこのように消滅することになる

しかし、何かが他の消滅手段なしに消滅するならば、すべてのものが他の消滅手段なしに消滅す

ることになってしまう。「消滅は他の消滅手段によって消滅する」という論議に意味がなくなっ

てしまうからである。

さらに、「消滅は他の消滅手段なしに消滅する。しかし他のものは他の消滅手段なしに消滅する

ことはない」というようなより詳しい根拠を述べることが必要だとあなたは考えるかもしれない。

しかし、これもまた不要である。なぜならば、消滅は他のものの消滅によってもたらされるとい

うことは認められないからである。このように分析してみると、生・住・滅はどのような場合に

も成立していない。これらが成立しないなら、これらが有為法の特徴であるなどどうしてありえ

よう。ゆえに、生・住・滅は有為法の特徴であると述べることは単なる妄想に過ぎない。

A反論者の主張

有為法の一般的な相(特徴)が成立しないことがわかっていても、個別な有為法に特定の特徴は

確かに存在する。例えば、雄牛の特徴は、喉袋、尻尾、こぶ、ひづめ、角などであるように。

B答えて言う

あなたに誤った見解が生じなくてよかったとどうして私が言えようか? それともあなたは生・

住・滅なしに有為法の特徴を示すことができるのと言うのか?

33

a 生成・存続・消滅が成立しないのだから

b有為法は存在しない

A反論者の主張

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20

事物はその自性のみによって成立しているのではない。事物はその対治からも成立しているため、

有為法の対治である無為法が存在し、有為法もまた成立する。

B答えて言う

あなたは灯明で太陽を探すというのか。有為法は無為法によって成立しているとあなたは主張し

ている。

c有為法は成立しないのだから

d無為法がどうやって成立すると言うのか

34

夢のごとく、幻のごとく

ガンダルヴァ(食香)の都市のごとく

そのように生成〔が説かれ、〕そのように存続が説かれ

そのように消滅が説かれた

以上が、「生成・存続・消滅の考察」と言われる第7章である。

第 8 章 行為者と行為の考察

A反論者の主張

あなたが生成・存続・消滅についての考察をしたため、私の心に空性について聞こうという気持

ちが起きたので、今、行為者と行為の考察をするべきである。

B答えて言う

あなたの願い通りにしよう。

A反論者の主張

ここでは、徳と不徳の行いについて説かれている。その結果が快いもの、不快なものについても

説かれている。同様に、徳ある行いと不徳の行いの行為者についても説かれており、それが結果

を体験する者として詳しく示されている。しかし、行為者が存在しなければ行為は成立せず、行

為が存在しなければ結果も成立しない。このように、行為者と行為が存在するため、これらのす

べてが存在するのであり、一切の事物もまた成立している。

B答えて言う

もし、ある行為者が行為をなそうとする時、その人は行為者になるか、ならないかのどちらかで

あり、その人の行為は、行為か、行為でないかのどちらかとなる。これをブッダパーリタは次の

ように述べている。

1

〔すでに〕行為者となった人は

〔すでになした〕行為をなすことはない

〔まだ〕行為者になっていない人も

〔まだなしていない〕行為をなすことはない

なぜかと言うと、

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21

2

a〔すでに行為者に〕なった人に作用は存在せず

b行為もまた、行為者のないものになるだろう

c〔すでになされた行為に〕作用は存在せず

d行為者もまた、行為を持たないものになるだろう

2aここで、行為をする作用を持つ人だけが行為者となる。なぜならば、行為をなす者だけが行

為者になるのであり、行為をなさない人は行為者ではないからである。ゆえに、作用をもつ行為

者だけが行為者となる、と言われており、「すでに行為者となった人」はすでに何らかの行為を

なしたため、それ以外の他の作用は存在しない。もし、それ以外の作用が存在するならば、作用

が 2 つあることになり、一人の行為者が 2 つの作用を持つことはありえない。そこで、次のよう

に述べられている。

2b行為もまた、行為者が存在しないものになるだろう

他のいかなる行為もなさない行為者に存在するとみなされる行為には、行為者は存在していない。

なぜかというと、1人の行為者が行為をなしたなら、その人はその行為の行為者になるからであ

る。また、その行為をなす行為者に作用が存在しなければ、行為者はその行為をすることはない

からである。そうであれば、その行為には行為者が存在しないことになるだろう。

これと同様に、

2c〔すでになされた行為に〕作用は存在しない

ゆえに、作用を持つ行為者のみが行為者となる。なぜならば、作用のみが行為となり、作用が存

在しなければ行為にはならないからである。ゆえに、作用を持つどんな行為も「すでになされた

行為」と言われ、すでになされたその行為に作用はもう存在していない。しかし、もし、他の作

用が存在するならば、2 つの作用があることになるが、1 つの行為が2つの作用を持つことはない。

そこで、次のように述べられている。

2d行為者もまた、行為を持たないものになるだろう

作用を持たない行為に存在するとみなされる行為者にも、行為は存在していない。なぜかという

と、行為者の作用はその行為者の行為であり、もしその行為者が、その行為の作用となる行為を

なしたなら、その行為はその行為者の作用ではない。ゆえに、その行為者には行為が存在しない

ことになるだろう。

従って、行為者が作用を持たないため、その行為もまた行為者を持たないことになる。その行為

者は行為を持たないので、すでに行為者となった人はすでになされた行為をなすことはない。ま

た、まだ行為者になっていない人はまだなされていない行為をなすことはない。どのようにかと

言うと、

3

もし、〔まだ〕存在していない行為者が

〔まだ〕存在していない行為をしたならば

行為には因が存在しないことになり

行為者も因を持たないことになるだろう

まだ存在していない行為者が、まだ存在していない行為をしたならば、因が存在しないことにな

ってしまう。なぜならば、まだ存在していない行為は作用を持たないからであり、行為者も行為

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22

も因を持たないことになるからである。しかし、そうならば、「これは行為者である。これは行

為である」と述べることはできなくなってしまう。「これは功徳を生む」「これは功徳を生まな

い」「これは不徳を積む」「これは不徳を積まない」などと述べることも成立しなくなる。もし

これらの言説が成立しないなら、功徳を積むために努力することは無意味になってしまう。ゆえ

に、まだ存在していない行為者がまだ存在していない行為をなすことはない。さらに、

4

a因が存在しなければ、〔行為の〕結果と

b〔行為の〕因もまったく成立しなくなるだろう

因が存在しなければ、結果〔として生じる水瓶など〕も成立することはない。もし因が成立する

ならば、突然一切が生じることになり、〔ロクロや粘土などの〕条件や因も成立しないことにな

ってしまう。因や条件が役立つことがなければ、それらが存在せず生じない場合、因や条件は何

の役に立つと言うのか? 何の役にも立たなければ、それらがどうして因や条件となりうるの

か? ゆえに、もし因が存在しなければ結果も成立せず、因も成立することはない。

cそれ(因と果)が存在しなければ

d作用と行為者と条件も論理的に成立しない

切る対象物が切られる時、切る人が切る作用をし、そこに切る作用の結果が存在するならば、切

る作用は存在し、切る作用をする切る人も存在する。切る人もまた、切る条件となる〔ハサミな

ど〕によって切るのであり、切る作用による結果が存在しなければ、土台がなくなってしまい、

切る作用がどのように存在すると言うのか。切る作用がなければ、切る行為をする行為者、つま

り切る人が存在するなどどうしてあり得よう。切る人がいなければ、切る道具もどこにあると言

うのか。

5

a作用などが成立しなければ

b法〔にかなった行い〕と非法〔となる不徳の行い〕は存在しない

作用・行為・行為者が成立しなければ、法にかなった行いと不徳の行いの結果も存在しないこと

になる。なぜならば、身・口・意による法にかなった行いと不徳の行いは、行為者と作用に依存

していると主張されているため、作用・行為者・行為が成立しなければ、それらに依存して生じ

る法にかなった行いと非法となる不徳の行いもまた存在しないからである。

c法〔にかなった行い〕と非法〔となる不徳の行い〕が存在しなければ

dそれから生じる結果は存在しない

このように、法にかなった徳ある行いと非法となる不徳の行いが存在しなければ、法にかなった

徳ある行いと非法となる不徳の行いの結果も存在することはない。なぜならば、穀類がその種な

どから育つのと同じように、法にかなった行いと非法となる行いから生じる結果も存在しないか

らである。行為などが成立しなければ、徳ある行いと不徳の行いも存在しないため、それらから

生じた結果が存在することなどどうしてあるだろうか。

6

a結果が存在しなければ

b解脱と善趣に至る道も成立することはない

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23

結果が存在しなければ、解脱と善趣に至る道も成立しない。なぜならば、善趣に至る道も清らか

な解脱に至る道も、法にかなった行いの結果として達成できるものなので、それを得るための方

法は修行道の実践であり、善趣と解脱と呼ばれる結果が存在しなければ、いったい誰が修行道を

実践し、その結果を得ると言うのか。

c一切の作用もまた

d意味のないものになってしまう

結果が存在しなければ、解脱と善趣に至る道もまったく成立していない。世間的なレベルでも、

農作業などが結果を生まなければ何も意味がなくなってしまう。ゆえに、因と結果が存在しなけ

れば多くの大きな過失が生じ、行為者が存在しなければ行為も存在しないことになる。世間で結

果を生むためになされている農業などの行いは、ただ疲れるだけであり、成立せず、存在しない

ことになってしまう。しかし反論者たちが、すでに行為者となった人と、まだ行為者になってい

ない人の両者がすでになした行為とまだなしていない行為をなすと考えるなら、論師ブッダパー

リタは次のように返答されている。

7

a〔すでに行為者と〕なり、〔かつ、まだ行為者に〕なっていない人が

b〔すでに〕なした〔行為〕と〔まだ〕なしていない〔行為〕をともになすことはない

すでに行為者になり、かつ、まだ行為者になっていない人は作用を持ち、かつ、作用を持たない。

すでになした行為で、かつ、まだなしていない行為も、作用を持ち、かつ、作用を持たない。

すでに行為者になり、かつ、まだ行為者になっていない人は、すでになした行為、かつ、まだな

していない行為をなすことはない。

なぜならば、

c〔すでに行為者と〕なり、〔かつ、まだ行為者に〕なっていない人は互いに矛盾関係にあるの

だから

dどうして同一であることなどあろうか

もし、行為者と行為などが存在しうるなら、ある行為者がその行為をなすことになる、と言うな

らば、それは成立せず、すでに述べた2つの過失が生じることになる。すでに存在するものと、

まだ存在していないものは互いに矛盾関係になるのだから、どうしてどういつであることなどあ

りえよう。ゆえに、そのようなことはありえず、両方の過失がそのように示されているので、す

でに行為者になった人と、まだ行為者になっていない人が行為をなすことはない。

このように、まず三つの同じ論理によって、行為者と行為が成立することはない。

1)すでに行為者となった人がすでになした行為をなすことはない。

2)まだ行為者になっていない人が、まだしていない行為をなすことはない。

3)すでに行為をなし、かつまだ行為をしていない行為者が、すでになした行為をなし、かつま

だしていない行為をなすことはない。

矛盾関係にある行為も成立しないので、このように〔述べられている。〕

8

a行為者と行為について〔分析してみると〕

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24

b〔すでに〕行為者となった人は、〔まだ〕していない行為をなすことはなく

c〔まだ〕行為者になっていない人が〔すでに〕なした行為をなすことはない

まず、すでに行為者となった人が、まだしていない行為をなすことはなく、まだ行為者になって

いない人がすでになした行為をなすことはない。なぜかと言うと、

dここでも〔以前に示した〕過失が成立するからである

行為者と行為についてこのようによく分析してみるならば、ここでも以前に示した過失が生じる。

すでに行為者となった人がまだしていない行為をすることはなく、行為も行為者を持たず、すで

になした行為は作用を持たない。行為者と行為は存在せず、まだ存在していない行為者と行為は

因を持たない。

ゆえに、すでに行為者となった人がまだなしていない行為をなすことはなく、まだ行為者になっ

ていない人はすでになした行為をなすことはない。

9

a行為者と行為について〔分析してみると〕

b〔すでに〕行為者となった人は、〔まだ〕していない行為をなすことはなく

c〔すでに〕なした行為で、かつ、〔まだ〕していない行為をなすこともない

すでに行為者となった人は、まだしていない行為をなすことはなく、すでになした行為で、かつ、

まだしていない行為もすることはない。

dなぜならば、根拠はすでに示されているからである。

すでに行為者となった人に行為は存在せず、まだしていない行為は因を持たない。すでになした

行為で、かつ、まだしていない行為は互いに矛盾する関係を持つため、どうやって同一の働きを

持つと示すことができると言うのか。7 偈 4 行目で、こう言われているからである。

どうして同一であることなどあろうか

10

a行為者と行為について〔分析してみると〕

b〔まだ〕行為者になっていない人が〔すでに〕した行為をなすことはなく

c〔すでに〕なした行為で、かつ、〔まだ〕していない行為をなすこともない

まだ行為者になっていない人は、すでになした行為も、すでになした行為で、かつ、まだなして

いない行為もなすことはない。

dなぜならば、根拠はすでに示されているからである

まだ行為者になっていない人は因を持たず、まだなされていない行為は作用を持たない。ゆえに、

7 偈の後半で次のように述べられている。

〔すでに行為者と〕なり、〔かつ、まだ行為者に〕なっていない人は矛盾関係にあるのだから

どうして同一であることなどあろうか

11

a〔すでに〕行為者となり、かつ、〔まだ〕行為者となっていない人は

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25

b〔すでに〕行為をなし、かつ、〔まだ〕なしていない行為をなすことはない

すでに行為者となり、かつ、まだ行為者となっていない人は、すでに行為をなし、かつ、まだな

していない行為をなすことはない。なぜならば、

cここでもその根拠は

d以前に示した通り理解するべきである

7 偈後半で次のように述べられている通りである。

〔すでに行為者と〕なり、〔かつ、まだ行為者に〕なっていない人は矛盾関係にあるのだから

どうして同一であることなどあろうか

すでに行為者となった人と、まだ行為者になっていない人は、互いに矛盾関係にあるため、同一

の作用をすることはなく、すでに行為となったものに作用は存在せず、まだ行為になっていない

ものには因が存在することはない、と説かれていることにより理解するべきである。

このように、行為については、「すでになされた行為に作用は存在せず、まだなしていない行為

には因が存在しない」と言われている。

ゆえに、以下の6つの論理によって、行為者と行為は成立していない。

1)すでに行為者となった人は、まだされていない行為をなすことはない。

2)まだ行為者となっていない人は、すでになされた行為をなすことはない。

3)すでに行為者となった人は、すでにされた行為とまだされていない行為をなすことはない。

4)まだ行為者となっていない人はすでにされた行為とまだされていない行為をなすことはない。

5)すでに行為者となった人とまだ行為者になっていない人は、すでになされた行為をなすこと

はない。

6)すでに行為者となった人とまだ行為者になっていない人は、まだなされていない行為をする

ことはない。

このようであるならば、「この行為者がこの行為をなした」あるいは、「この行為者がこの行為

をなさなかった」と言うことは全く成立していない。

A反論者の主張

「この行為者がこの行為をなす」あるいは、「なさない」と私が述べることにいったいどんな意

味があるというのか? 行為者が存在する時、行為者と行為は存在する。

B答えて言う

あなたは胡麻油を求めているのに、なぜ静謐の森で胡麻(ティラカ)の木を探しているのか。あ

なたは「行為者」「行為」という名前のみに惑わされて、行為をなす行為者が存在すると主張し、

行為をしないことが行為であると主張している。しかし、行為者、あるいは行為が他の行為や作

用を具えていることを認めることはできないので、それらが存在すると考えることに意味はない。

そのような固有の実体を持つものは行為者ではなく、そのような固有の実体もまた、行為ではな

い。ゆえに、ここで真実となるものをみな維持することが正しいと考える。

A反論者の主張

もし、そのように行為者が存在しないなら、行為も存在せず、「あなたには因が存在しないとい

う過失が生じることになる」という言述は、あなたの方に当てはまるのではないか?

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26

B答えて言う

そうはならない。私たちは行為者と行為は存在しない、と言っているのではない。私たちは、そ

れらが存在しているのか存在していないのかについてのあなた方の主張を否定しているのである。

私たちは、行為者と行為は相互依存の関係に基づいて単なる名前を与えただけのものである、と

主張している。では、どのように相互依存の関係があるかと言うならば、

12

行為者は行為に依存して〔生じ〕

行為も行為者に依存して生じる

縁起というそれ以外に

〔事物の〕成立の因を見たことはない

行為者は行為に依存し、行為にとどまっている。行為に依存して行為者と名付けられ、そう呼ば

れている。その行為もまた、行為者それ自体に依存して生じ、その行為と呼ばれている。

ゆえに、この二つは互いに依存することによって名付けられただけのものであり、固有の実体に

よって成立しているのでもなく、成立していないのでもない。そこで、このようにこの二つの極

端論を受け入れないことにより、「中の道」と名付けたのである。単なる名前を与えただけの存

在として成立するための原因を、これ以外に他に見たことはない。

13

a このように、受け取られるものを〔動詞として〕知るべきである

受け取られるもの(ニェレン)は、動詞として見るべきである。動詞、あるいは行動を示す用語

が存在するところでは、複数の行為者が存在する。ここでも「受け取られるもの」(ニェワル・

ランワ)と「受け取る人」(ニェワル・レンパポ)のことを示していると理解するべきである。

このように、行為者が行為に依存して存在しているだけなのと同様に、受け取る人も受け取られ

るものに依存して存在しているに過ぎない。

ちょうど行為が行為者に依存して行為と名付けられているのと同様に、受け取られるものも受け

取る人に依存して、受け取られるものという名前をつけられているに過ぎない。それ以外に、こ

れら2つのものを特徴付けているものを他に見ることはない。なぜかと言うと、

b行為と行為者〔の実体〕を晴らしたからである

「晴らした」とは、「否定した」という意味である。「・・したからである」という言葉は理由

と根拠を示している。すでに様々な方法によって、行為者と行為について明らかにされたので、

それらが否定されたことにより、「受け取る人」と「受け取られるもの」が成立するいかなる他

の特徴もすべて否定されたと知るべきである。

これについては、

1)すでに行為者となった人は、すでにされた行為をすることはない。

2)まだ行為者となっていない人は、まだされていない行為をすることはない。

3)すでに行為者となり、まだ行為者となっていない人は、すでにされた行為とまだされていな

い行為をすることはない。なぜならば、多くの過失が生じるからである。

そこで、これは矛盾する理論に対して同様に適用されるべきである。

1)すでに受け取る者となった人は、すでに受け取られた対象を受け取ることはない。

2)まだ受け取る者になっていない人は、まだ受け取っていない対象を受け取ることはない。

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27

3)すでに受け取る者となり、まだ受け取る者になっていない人は、すでに受け取られた対象と

まだ受け取られていない対象を受け取ることはない。なぜならば、多くの過失が生じるからであ

る。

c行為者と行為〔の考察〕により

d残りのすべての事物も同様に知るべきである

行為者、行為、そしてすべての残りの事物についても同様に理解するべきである。

受け取る人については別に解説されている。なぜならば、これは重要なトピックであり、それに

続く章の主題となっているからである。このように、すべての残りの事物については、因果の法、

部分と全体、火と薪、功徳と功徳を持つ人たち、特徴と特徴づけられる土台に基づいて理解する

べきである。

因果の法

1) すでに存在している原因は、すでに存在している結果を生むことはない2) まだ存在していない原因は、まだ存在していない結果を生むことはない。3) すでに存在しまだ存在していない原因は、すでに存在しまだ存在していない結果を生むことはない。

これもまた、すべての理論に同様に適用されるべきであり、生じるすべての過失は明らかにされ

るべきである。

もし、原因が結果を生むと、それは「すでに存在しているもの」と呼ばれ、その逆の場合は「ま

だ存在していないもの」と呼ばれる。もし、結果が生み出されると、それは「すでに存在してい

るもの」と呼ばれ、その逆の場合は「まだ存在していないもの」と呼ばれる。

部分と全体

1)すでに存在している部分は、すでに存在している全体に含まれることはない。

2)まだ存在していない部分は、まだ存在していない全体に含まれることはない。

3)すでに存在している部分とまだ存在していない部分は、すでに存在しておりまだ存在してい

ない全体に含まれることはない。

火と薪

1)すでに存在している火は、すでに存在している薪を燃やすことはない。

2)まだ存在していない火は、まだ存在していない薪を燃やすことはない。

3)すでに存在しまだ存在していない火は、すでに存在しまだ存在していない薪を燃やすことは

ない。

功徳と功徳を持つ人

1)すでに存在している功徳は、すでに存在している功徳を持つ人のものではない。

2)まだ存在していない功徳は、まだ存在していない功徳を持つ人のものではない。

3)すでに存在しまだ存在していない功徳は、すでに存在しまだ存在していない功徳を持つ人の

ものではない。

特徴と特徴付けられる土台

1)すでに存在している特徴は、すでに存在している特徴付けられる土台を表すものではない。

2)まだ存在していない特徴は、まだ存在していない特徴付けられる土台を表すものではない。

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28

3)すでに存在しまだ存在していない特徴は、すでに存在しまだ存在していない特徴付けられる

土台を表すものではない。

あたかも行為者が、行為に依存して行為者と名付けられているように、行為もまた、行為者に依

存して行為と名付けられている。

原因もまた、結果に依存して原因と名付けられているように、結果もまた、原因に依存して結果

と名付けられている。全体は部分に依存して全体と名付けられているように、部分は全体に依存

して部分と名付けられている。

火は薪に依存して火と名付けられているように、薪もまた火に依存して薪と名付けられている。

功徳を持つ人は、功徳に依存して功徳を持つ人と呼ばれているように、功徳もまた、功徳を持つ

人に依存して功徳と呼ばれている。

特徴付けられる土台もまた、特徴に依存して名付けられており、特徴もまた、特徴づけられる土

台に依存して特徴と呼ばれている。

このように、これらのものは他のものに依存して成立しているだけであり、それ以外の方法で成

立しているのではない。

以上が「行為と行為者の考察」と言われる第 8 章である。

第 9 章 受け取る人と受け取られるものの考察

『根本中論頌』の註釈書『ブッダパーリタ註』のバムポと呼ばれる第4のセクション〔がここか

ら始まる。〕

A反論者の主張

〔8 章 13 偈1行目で、〕

このように、受け取られるものを〔動詞として〕知るべきである

と言われているのでそれについて述べる。

1

見る働き(視覚)、聞く働き(聴覚)、

感受作用(受)などを持つ人は

それらに先行して存在していると

ある人々は主張する

見る働き(視覚)、聞く働き(聴覚)、感受作用(受)などは、誰かが受け取るものであり、見

る働き、聞く働き、感受作用などに先行してそれらを持つ人が存在する、と主張する人々がいる。

なぜかというと、

2

もし、その人が存在しなければ

見る〔働き〕などがどうやって生じるというのか

ゆえに、それら(見る働きなど)に先行して

その人の存続が存在する

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29

見る働きなどがどうやって先行すると言うのか。それは成立せず、見る働きなどに先行して、見

る働きなどを受け取る人が存続し、存在する。先行するものが存在すれば、それを受け取る人も

それに依存して存在する。

もし、その人が存在しなければ、見る働きなど、受け取られるものがどうやって生じるというの

か。ゆえに、それを受け入れることはできないので、見る働きなどに先行して、見る働きなどを

受け取る人が存在する。もし、見る働きなどを受け取る人が存在するならば、それに依存して、

受け取られるものも、仮に設けた単なる名前のみのものとして存在する。これに対してあなた方

は何を言うのか?

B答えて言う

3

見る働き(視覚)、聞く働き(聴覚)などと

感受作用(受)などに先行して

存続するその人は

いったい何によって仮設されるのか

もしその人が、見る働き、聴く働きなどを持つことにより、見る人、聴く人、感受する人などと

いう名前で仮設されるならば、見る働きなどを受け取る人は、見る働きなどのすべてに先行して

存在しなければならない。しかし、もし、その人がこのように存続しているならば、その人はい

ったい何によって存在するとあなたは言うのか?

A反論者の主張

その人に見る働きなどが存在しなくても、その人はそれ自体によって独立して成立している。

B答えて言う

4

見る働きなどが存在しなくても

もし、その人が〔それ自体によって〕存続しているならば

その人が存在していなくても

〔見る働きなどがそれ自体によって〕存在していることに疑いはない

見る働きなどが存在しなくても、もしその人がそれ自身によって成立し、存続しているというな

らば、その人が存在しなくても、見る働きなどがそれ自体によって成立し、存続が存在している

ことに疑いはない。

A反論者の主張

しかし、まだ見る働きなどが存在していなくても、もしその人が存在しているならば、そこにど

んな過失があるというのか?

B答えて言う

あなたが主張するすべてが過失となるだろう。なぜならば、見る働きなどを持たない人が現れず、

存続することもなく、その人が存在しないなら、見る働きなども現れず、それらが存続すること

もない。ゆえに、それに関して次のように述べられている。

5

a何かによって誰かが現れ

b誰かによって何かが現れる

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30

見る働きなどによって、見る人、聴く人、感受する人などが明らかに示される。「明らかに示さ

れる」という言葉は、顕らかに示し現わすという意味であり、維持させ、知らしめることである。

見る働きなどもまた、「私はこれを見る」「私はこれを聞く」「私はこれを感じる」などの行為

によって明らかにされる。このように、その人は見る働きなどによって明らかに示され、見る働

きなどもその人によって明らかに示される。ゆえに、

c何かが存在しなければ、誰かがどうやって存在すると言うのか

d誰かが存在しなければ、何かがどうやって存在すると言うのか

見る働きなどの何かが存在しなければ、まだ存在していない誰かが存続するものとして、どうや

って存在するというのか? また、もし誰かが存在しなければ、まだ存在していない見る働きな

どが、どうやって存在するというのか? その時、見る働きなどに先行して人が存続し成立する

ことはない。

A反論者の主張

6

a見る働きなどのすべてに先行して

b誰かが存在することはない

見る働きなどのすべての感覚器官に先行して、その人が存在すると言っているのではない。そう

ではなく、見る働きなどのそれぞれの感覚器官に先行して、その人は存在する〔と言っているの

である。〕ゆえに、

c見る働きなどは他のものによって

d様々な時に明らかに示されている

人は、見る働きなどのすべての感覚器官に先行して存在しているのではなく、人は見る働きなど、

それぞれの感覚器官に先行して存在している。ゆえに、見る人、聴く人、感受する人は、様々な

時に見る働きなどのそれぞれの感覚器官によって明らかに示されている。したがって、人は見る

働きなどに先行して存在し、人はそれらの感覚器官によって明らかに示されている。

B答えて言う

これはあなた自身の知性が劣っていることを示しているだけであり、あなたの言っていることに

は意味がない。

7

もし、見る働きなどの一切に先行して

人が存在していないなら

見る働きなどのそれぞれに先行する〔人が〕

どうやって存在するというのか

1)もし見る働きなどのすべての感覚器官に先行してその人が存在しないなら、見る働きなどそ

れぞれ別個の感覚器官に先行してその人が存在しないのは確かである。

2)しかし、もしその人が、それぞれ別個の感覚器官に先行して存在するならば、その人もまた

すべての感覚器官に先行して存在することは明らかである。

3)しかし、その人が見る働きに先行して存在する時、その人は聞く働きなどに先行して存在す

ることはない。

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31

4)しかし、その人が聞く働きに先行してまだ存在していない時、その人が見る働きを放棄して、

聞く働きに先行して存在しないことがどうしてありえよう?

なぜならば、その人は、今見ているものに先行して存在するのと同じように、今聞いているもの

に先行して存在するからである。ゆえに、その人はそれぞれ別個の感覚器官に先行して存在する

が、すべての感覚器官に先行して存在することはない、と主張することに意味はない。さらに、

8

もし、〔その人が見る働きなどの〕それぞれに先行するならば

〔その人は〕見る者、聞く者、

感じる者となるが

そのようなことは不合理である

もし、その人が見る働きなどのそれぞれに先行して存在するならば、その人もまた見る者その人

となり、感じる者もまたその人となる。しかしそれは不合理である。なぜならば、見る働きを持

たない聞く者も見る者になり、聞く働きを持たない見る者も聞く者になってしまうからである。

自我は異なる知覚能力のある場所に行き、人が様々な窓のある場所に行くようなものだからであ

る。しかし、自我が様々な知覚能力のある場所に行くということを受け入れることはできない。

もし自我が様々な知覚能力のあるところに行くならば、それは不合理である。見る者も別の者と

なり、聞くも者も別の者となり、感受する者もまた別の者となるならば、それについて説明する

べきである。

もし、見る者が別の者であり

聞く者が別の者であり、感じる者が別の者ならば

見る者が〔存在する〕時、〔それとは別の〕聞く者が存在し

自我がたくさんあることになってしまう

もし、見る者がひとりで、聞く者が他の人であり、感受する者がさらに別の人ならば、見る者が

存在する時、聞く者や感受する者も存在することになってしまう。どうしてかと言うならば、あ

なたは見る者、聞く者、感受する者が今見ているものなどそれぞれの知覚能力に先行して存在す

ると主張しているからである。あなた方は、「見る者は一人の人であり、聞く者は別の人であり、

感受する者もさらに別の人である」と述べているので、たくさんの自我が存在することになって

しまう。

もし、見る者や聞く者が異なっているならば、見る者が存在する時、聞く者と感受する者は存在

せず、自我は無常なので、自我がたくさんあることになってしまうため、それを受け入れること

はできない。そこで、「見る働きなどそれぞれ六つの感覚の領域(六処)に先行してその人は存

在する」「見る働きなどはそれぞれ別の知覚能力によって明らかにされる」と述べることは不合

理なことである。

A反論者の主張

見る働きなどに先行して、自我は存在する。なぜならば、4)名色(名称と形態)という条件に

よって5)六処(六つの感覚の領域)が生じると言われているからである。形態と言われるもの

は四大(四つの構成要素)のことなので、四大という条件によって六処が生じる。四大もまた自

我の実質因である。ゆえに、四大を受け取る人が生じることで明らかにされる自我の存続が存在

し、それによって六処が生じ、順次、7)感受なども生じて、見る働きなどに先行して人の存続

が成立する。

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32

縁起の十二支:1)無明(根源的無知)、2)行為(行)、3)意識(識)、4)名称と形態

(名色)、5)六つの感覚の領域(六処)、6)接触(触)、7)感受作用(受)、8)欲求

(愛)、9)執着(取)、10)生存(有)、11)誕生(生)、12)老化と死(老死)

B答えて言う

10

見る働き、聞く働き、

感受作用などにも

それらが生み出す四大(地・水・火・風)にも

自我は存在していない

見る働き、聞く働き、感受作用などを順次生み出す四大のそれぞれにも、あなたが仮設した自我

は存在していない。なぜなら、それは四大を受け取る者であり、四大に先行して、四大を受け取

る者は成立していない。なぜならそれら四大がその人を明らかにするからである。

四大に先行して存在していないものが、どうやって四大を受け取る者になれると言うのか? ゆ

えに、その人が四大の中に存在していなければ、見る働きなどに先行して存在することなどどう

してありえよう?

A反論者の主張

見る働きなどに先行して自我が存在しても、しなくてもよく、もし見る働きに先行して自我が存

在するならば、その時見る働きなどは存在する。あなた方は以前に5偈で、

5c何かが存在しなければ、誰かがどうやって存在すると言うのか

d誰かが存在しなければ、何かがどうやって存在すると言うのか

と述べている。ゆえに、見る働きなどの何かは存在する。誰かが存在しなければ、何かも存在し

ない。ゆえに、見る働きなどの何かを持つ人もまた存在する。

B答えて言う

5 偈4行目で、「誰かが存在しなければ、何かがどうやって存在すると言うのか」と言われている

ことにより、すでにその返答はし終えている。どのようにかと言うと、

11

見る働き、聞く働き、

感受作用などを持つ

誰かが存在しなければ

〔見る働きなど〕も存在していない

見る働きなどの何かに先行して、見る働きなどを持つ誰かが存在することはない、ということは

すでに以前述べられている。そして、「何かが存在しなければ、誰かがどうやって存在するとい

うのか」ということもまた、5偈3行目ですでに述べられている。

ゆえに、もし、見る働きなどの何かが成立し、存在しない誰かが見る働きや聞く働きなどの何か

を持つと言うならば、見る働きなどが成立することなどどうしてありえよう? それは誰の見る

働きだと言うのか? したがって、そのような人と言われる誰かは存在せず、何か見る働きなど

もまた存在していない。もし、見る働きなどの何かが存在しないなら、あなたの言う誰かがどう

やって存在すると言うのか?

A反論者の主張

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33

あなたが言うこのような誰かは存在しないということに完全な確信があるのか?

B答えて言う

12

誰かが、見る働きなどより以前にも、

現在にも、のちにも存在しなければ

存在する、存在しないという妄分別は

遮断されることになる

すべての時において考えうる可能性について探求してみると、誰かが、見る働きや聞く働きなど

に先行して、見る働きなどとして存在することはない。

次に、誰かが現在、同時に、見る働きなどとして存在することもない。

さらに、見る働きなどが停止した後も、誰かが見る働きとして存在し、それ自体によって成立し

ているということはありえない。ゆえに、見る働きなどが存在する、存在しないなどという妄分

別は、すべて遮断されることになる。

まず、それ自体によって成立していないのだから、「それは存在する」と述べることなどどうし

てできようか。見る働きなどによってそれが明らかにされたのだから、「それは存在しない」と

述べることもできない。ゆえに、それは存在する、存在しないという妄分別は成立しない。した

がって、行為者と行為についての考察と同様に、受け取る人もまた、単なる名前を与えられただ

けのものなので、それ以外の他のものによる成立を認めることはできない。

以上が「受け取る人と受け取られるものの考察」と言われる第 9 章である。

第 10 章 火と薪の考察

A反論者の主張

火と薪のように、受け取る人と受け取られるものは確かに成立しており、行為者と行為のように

成立していないのではない。

B答えて言う

もし、火と薪が成立しているならば、受け取る人と受け取られるものもまた成立することになる。

しかし、行為者と行為のように、もし火と薪が成立していないなら、受け取る人と受け取られる

ものがどのように成立するというのか。もし、火と薪が自性によって成立しているならば、ひと

つのものとして、あるいは別異のものとして成立することになるが、それはどちらも成立するこ

とはない。なぜかと言うと、

aもし、薪が火であるならば

b行為者と行為は同一であることになってしまう

もし、薪それ自体が火であると考えるなら、行為者と行為は同一であるという過失が生じること

になる。もしそうならば、「火とは燃えるものである」という火の定義は成り立たないことにな

ってしまう。しかし、もしそう言うことが可能なら、たとえそれらが同一であったとしても、

「火は燃えるものであり、薪は燃やされるものである」と言うことができる。しかし、それはあ

りえないので、この二つが同一であることは成立しない。それでもあなたが「火は薪とは別異の

ものである」と考えるならば、私たちはこう主張する。

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34

cもし、火が薪と別異のものならば

d薪が存在しなくても〔火が〕生じることになる

もし、火が薪と別異のものならば、薪が存在しなくても火が生じることになり、火は薪と完全に

別異のものになってしまう。しかし、火は薪がなければ生じないので、それらがまったく別異の

ものであるということは成立しない。さらに、

2

〔火が薪と別異のものならば、火は〕常に燃える本質のものとなり

燃える因を持たないものになる

〔火を〕つけることに意味はなくなり

そうであれば、〔火をつける〕行為も存在しない

もし、火が薪と完全に別異のものならば、火は永遠に燃え続けることになる。なぜならば、点火

するという因なしに火が生じることになってしまうからである。火をつけることにも意味がなく

なってしまう。そうであるならば、行為なくして火が生じることになり、「火というものは燃や

すものである」と定義されているような行為が存在しないことになってしまう。

A反論者の主張

あなた方は、点火するという因がなくても火が生じるなどとどうして言うことができるのか?

B答えて言う

3

a〔火は〕他のものに依存していないので

b点火するという因がなくても生じることになる

なぜならば、火と薪がまったく別異のものならば、薪がなくても火が生じるということになって

しまい、火は他のものに依存しないことになってしまう。もし、火が薪に依存しているならば、

他のものに依存していることになるが、薪は存在していないので、火は他のものに依存していな

いことになる。火が他のものに依存していなければ、火をつけるという因がなくても火が生じる

ことになり、火は常に燃えていることになってしまう。このように、火は点火するものに依存し

ており、点火するものが存在しなければ火はつかない。しかし、点火するものも存在しないので、

火は常に燃え続けるものになってしまうという過失が生じるのである。

c〔火が〕常に燃え続ける本質のものならば

d火をつける〔という行為〕は意味を持たなくなってしまう

もし、火が永遠に燃え続ける本質のものならば、薪を集めて点火するなどの行為に意味はなくな

ってしまう。その場合、火は行為をもたないことになるが、そのようなことは成立しないので、

火は存在しないという過失も生じてしまう。

4

aそれについて、もし、誰かがこのように考えて

b「燃えつつあるものは薪である」と言うならば

もしある人が、「火と薪は別のものである。なぜならば、火はすべてに行き渡っており、火によ

って燃やされるものが薪である」と考えているならば、結果として次のような過失が生じる。

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35

「火の中に薪は存在しない」と言うことはできず、火の中に薪が存在しないのではなく、火は薪

とともに存在する。これについて述べると、

cそれはただ〔燃えつつあるという〕だけの薪であり

dいったい何がこの薪を燃やしているというのか

その時燃えつつあるのは薪であり、薪としてそれを所有する別の火によって燃えているのではな

い。もしそうならば、それに先行する他の火によって薪となり、それが行き渡り燃えることで薪

になると言うのか? まさに薪が燃やされるその時、薪それ自体が火だというのか? それとも、

火はひとつの事物であり、薪は他の事物だとあなたが考えるなら、火によって燃やされている時

だけ薪が燃やされると言うのか?

しかし、それが正しいとなぜ言えるのか? 火が薪に行き渡り燃やす時、火に薪が存在しないの

ではない。ゆえに、もし火と薪が別で異なるものならば、これらの過失が生じることになる。さ

らに、

5

〔火が薪とは〕別異のものであるならば、〔火が薪と〕出会うことはない

〔火が薪と〕出会わなければ、〔火が〕燃えることはない

〔火が〕燃えることがなければ、消えることもない

〔火が〕消えることがなければ、自らの相とともに存続することになるだろう

もし、火が薪とまったく別の異なるものであるならば、火が薪と出会うことはない。もし火が薪

と出会わなければ、火が薪を燃やすことはない。しかし、火が薪に出会わなくても火が燃えるな

ら、火はただ一箇所に存在しているだけですべての生き物を燃やすことになるだろう。ゆえに、

「火と薪は別異のものであるが、それ(火)が燃えている時、それ(火)は薪である」と述べる

ことは成立しない。なぜならば、火が薪と出会うことは認められないからであり、出会い自体が

成立しないからである。

もし、火が燃えなければ、消えることもない。なぜなら、もし火が薪を燃やすなら、薪も消えて

いき、薪が消滅していくからである。もし火が消えなければ、それは永遠に燃え続けることにな

り、それは他の事物に依存することがないので、因なくして生じ、燃え続けることになる。それ

は、それ自体の自性によって存続し、永遠に存在するものとなるだろう。あるいは、火は薪と別

異のものではない。

A反論者の主張

「火が薪と別異のものならば、薪と出会うことはない」と述べられていることに反論しよう。

6

a もし、火が薪と別異のものであっても

b薪と出会うということは道理にあっている

どのようにかと言うと、

cあたかも女性が男性と出会い

d男性も女性に出会うようなものである

B答えて言う

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36

7

もし、火と薪が

互いを排除し合うならば

火が薪とは別異のものであったとしても

望み通りに薪と出会うことになるだろう

男性と女性が互いに相手を排除しようとするように、火と薪が互いに排除しあうなら、火と薪が

別異のものであったとしても、望み通りに女性は男性に会い、男性は女性に会うのと同様に、火

が薪に出会うことも望み通りにできると言うならば、薪が燃えつつある時に、このような思いが

生じた時、火と薪が出会うことなどどうしてありえよう?

A反論者の主張

ここで、この二つは同一のものではなく、別異のものでもない。それを論理的な考え方に基づい

て考えるなら、その二つは同じでもなく、異なっているのでもないと容易に理解できるので、ま

ず、火と薪なども確かに成立している。

B答えて言う

その〔主張〕はまったくのお笑い種である。なぜならば、2 章 21 偈で次のように述べられている

からである。

〔行為者と行為の二つが〕同一の事物や

別異の事物として

成立していないなら

この二つが成立することなどどうしてありえようか

もし、「行為者」と「行為」の二つが同一、あるいは別異のものとして成立していないなら、こ

の二つ以外のどのようなものによって成立するのかを述べるべきである。ゆえに、それは単に名

前を与えられただけの〔自性のない〕ものに過ぎない。

A反論者の主張

互いに依存していることにより、薪に依存して火があり、火に依存して薪があるのである。

B答えて言う

8

もし、薪に依存して火があり

もし、火に依存して薪があるならば

何に依存して火や薪になるのか

先に成立するのは何なのか

もし、薪に依存して火があり、火に依存して薪があるならば、このどちらが先に成立するのか?

どちらに依存して火になり、薪になるのか。この二つの中から最初に成立するのはどちらなの

か? これについて、薪が最初に成立し、それに依存して火が成立すると考えるなら、これにつ

いて説明すると、

9

aもし、薪に依存して火が〔成立する〕ならば

b〔すでに〕成立している火を〔さらに〕成立させることになる

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37

もし、薪が先に成立し、それに依存して火が成立するならば、すでに成立している火をさらに成

立させることになってしまう。なぜかと言うと、このように火が成立するならば、薪に依存して

成立することになり、火がまだ成立しておらず、存在しなければ、どうやって薪に依存すると言

うのか。ゆえに、薪がまだ存在していなくても、火がそれ自体によって成立し、薪に依存して再

び成立させるだけだと考えるなら、あなたにとってそれは無意味ではないのか? さらに、

c薪として作用する木も

d火が存在しなくても成立することになる

このように、火が存在しなくても薪が生じることになってしまう。薪が成立するならば、薪は火

に依存することになり、もし薪が成立せず、存在しないなら、薪はどうやって火に依存すると言

うのか? ゆえに、薪それ自体にも火は存在せず、火はそれ自体で自ら成立していることになる

が、あなたもまた、火に依存して薪が成立するということには意味がないと考えているのではな

いか? もしそうならば、この二つは互いに依存して成立しているのではない。また同様に、以

前成立していた火に依存して、薪が成立すると考えることにも過失が生じることになるだろう。

実際には、どちらかが他方に依存して成立するということも認めることはできない。同様に、薪

が火に依存して成立するということはすでに認められているが、その場合同じ過失がここでも生

じることになるだろう。

A反論者の主張

あなたは、私が述べていないことに対してこのような過失があると指摘するのか。私たちが、こ

れらは互いに依存して成立していると述べた時、それに対して、どちらが先に成立するのか、も

しそれらのうち、どちらかが先に成立しているならば、相互依存の関係は成立しない、と述べた

のは何に対する答えなのか?

B答えて言う

もしあなたが、火と薪が互いに依存して成立していると考えるなら、どちらかが先に成立すると

いうことを受け入れられないのはすでに説明した。しかし、そうであれば、相互依存の関係が成

立することを認めることはできない。なぜかと言うならば、

10

もし、ある事物〔A〕が〔B〕に依存して成立し

〔A〕に依存して〔B〕が成立している場合

もし、依存されるものが先に成立するならば

〔A と Bの〕どちらがどちらに依存して成立するのだろうか

夢の中で賢い人が述べたこれらの言葉は、あなたの耳にはまったく届かなかったようだ。それら

は互いに依存しているが、互いに依存するものとして成立しているのではない。

たとえば、ひとつの船が流れないようにするために他の船に繋いでも、それらは一緒に流れてし

まうので、どちらも他の船を守ることができないのと同じである。そこで、もしそうならば、あ

なたは恥を捨てて、それらは互いに依存して成立しているという秘密を称賛するか、まず禅定に

とどまってよく熟考してから述べるべきである。

11

a何であれ〔他のものに〕依存して成立する事物が

bまだ成立していないなら、どのように〔他のものに〕依存すると言うのか

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38

「事物は他のものに依存して成立する」と述べられている事物がまだ成立しておらず、存在して

いないなら、それはどのように他のものに依存すると言うのか?まだ成立しておらず、存在しな

いものがどうやって依存するというのか?

cもし〔あなたが、「すでに成立しているものが〔他のものに〕依存する」と言うならば

もしあなたが、すでに成立しているものだけが他のものに依存すると考えるなら、それが成立し

ていなければ依存するものは存在せず、もしそれが成立しているならば、依存されるものが何の

役に立つというのか? そこで私たちはこのように述べよう。

dそれが〔再び他のものに〕依存するというのは不合理である

すでに成立している事物を再び成立させるというのは不合理である。なぜならば、すでに成立し

ているものが他のものに依存するということに意味はないからである。なぜ、すでに成立し、存

在するものが他のものに依存すると言うのか? すでに成立し存在するものがどのように他のも

のに依存すると言うのか?

ゆえに、すでに成立しているもの、まだ成立していないものが他のものに依存するということを

認めることはできず、火と薪が互いに依存するものとして成立するということを認めることはで

きない。火と薪に関する章の中で「事物」という言葉を使ったのは、火と薪が事物だからである。

さらに、10 章 15 偈ではこのように述べられている。

水瓶や毛織り物などとともに、〔余すところなく解明された〕

これらはすべての事物について考察するものなので、「事物」という言葉が使われている。

12

火は薪に依存して存在するのではない

火は薪に依存せずに存在するのでもない

薪は火に依存して存在するのではない

薪は火に依存せずに存在するのでもない

このように、もしあなたが論理と根拠に従って現実のありようを分析するならば、

①火は薪に依存して存在するのではない。なぜならば、火と薪が成立しても、しなくても、いず

れにしても依存することはないからである。

②火は薪に依存せずに存在するのでもない。なぜならば、火は薪など他のものに依存することが

ないからであり、点火するという因なくして火が生じることになってしまい、火は永遠に燃える

ことになってしまうからである。

③薪は火に依存して存在するのではない。火と薪が成立しても、しなくても、薪は火に依存する

ことがないからである。

④薪は火に依存せずに存在するのでもない。なぜならば、火がまだ存在しておらず、燃えつつあ

るのでもないならば、どうやって薪が生じると言うのか。しかし、もし薪が生じると言うならば、

すべてのものが薪になることになってしまう。これを認めることはできないので、火に依存しな

い薪も存在していない。

13

a火は他のものから来るのではなく

b火は薪〔の中〕に存在しているのでもない

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39

火は他のいかなるものからも来るのではない。なぜならば、あなたが他のものから来ると思って

いる火は、薪とともにあるか、あるいは薪と無関係かのどちらかだからである。しかし、もしあ

なたが、火が他のものから来ると考えているならば、結果として以前と同じ過失が生じるため、

そう考えることは無意味になってしまう。

また、火は薪の中に存在しているのでもない。なぜならば、火は薪の中に見られることはなく、

もし見られたとしても、火をつけることに意味がなくなってしまうからである。火が現れて消え

ることは、薪の中に前もって存在するのではないため、その結果は薪の中に前もって存在してい

ないからである。

しかし、あなたが、それはゴマとゴマ油のようなものだと言うならば、それは道理に合わない。

なぜならば、ゴマは平べったく粘性があるが、ゴマ油はそれとは違うものに見えるからである。

c同様に、薪に関する残りのことは〔第 2 章において〕

dすでに行ったところ、まだ行っていないところ、今歩いているところの考察により〔以前すで

に〕示されている

薪についての残りの説明も、それと同じ方法で理解するべきである。どういう方法で理解すべき

かと言うと、すでに行ったところ、まだ行っていないところ、今行きつつあるところの考察によ

ってである。すでに行ったところ、まだ行っていないところ、今行きつつあるところに「行く作

用」は存在していないのと同様に、すでに燃えたもの、まだ燃えていないもの、今燃えつつある

ものにも「燃える作用」は存在していない。

すでに行ったところに行き始めることに意味はなく、まだ行っていないところ、今行きつつある

ところに行き始めることにも意味がないのと同様に、すでに燃えたものが燃え始めることはなく、

まだ燃えていないものが燃え始めることもなく、今燃えつつあるものが燃え始めることもない。

このように、すでに行った者が行くことはなく、まだ行っていない者が行くこともなく、今行き

つつある者が行くこともない。それらは存在しないからであり、それと同様に、火もまた、すで

に燃えたものが燃えることはなく、まだ燃えていないものが燃えることもなく、今燃えつつある

ものも燃えることはない。なぜならば、それらは存在しないからである。残りの説明もこれと同

様に理解するべきである。

14

薪自体は火ではない

薪とは別異の火も存在していない

火は薪を所有しているのでもない

火〔の中〕に薪は存在せず、それら(薪)の中にそれ(火)が存在するのでもない

まず、薪自体は火ではない。なぜならば、行為者(自我)と行為が同一のものになってしまうか

らである。さらに、薪とは別異のものとして火が存在するのではない。なぜならば、火は他のも

のに依存しないという過失が生じてしまうからである。

また、火が薪を所有するのではない(火の中に薪があるのではない。)なぜならば、「所有す

る・持つ」という言葉は、火と薪が同一か別異のものかに関わらず、火と薪に対して使われてい

るが、どちらの可能性もすでに述べられた理由によって否定されているからである。

A反論者の主張

それは正しくない。なぜならば、世間においてそのような説明がされているからであり、「この

火は薪を所有している(この火の中に薪がある)」「この火は薪を所有していない(この火の中

には薪がない)」などという会話がされているからである。

B答えて言う

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40

今、ここでは真如について考察しているのであり、普通の会話の中で、誰かが「この人には自我

がある」と述べたとして、それにどんな意味があると言うのか?

さらに、薪は火の中に存在しているのではない。それはちょうど、銅製のポットの中に入れたナ

ツメのように、あるいは、水の中に咲いた蓮華のように、〔まったく別異のものとして存在する

必要があるが、それも否定されているので〕火は薪の中に〔自性を持って〕存在しているのでも

ない。なぜ火と薪がそのように存在していないかと言うと、その二つがまったく異なるものであ

るという過失が生じるからである。

15

火と薪に〔ついての考察に〕よって

自我と取られるものについての一切の次第が

水瓶、毛織物などとともに

余すところなく解明された

1)あなた方は、火と薪の考察によって、取る人と取られるものが同一のものなのか、別異のもの

なのか、自我(取る人)と受け取られるものの相互依存の関係はどういうものなのか、そのすべ

ての過程が成立しないということを理解するべきである。これについては、水瓶や毛織物などと

ともに、火と薪について余すところなく完全に説明されている。

2)火と薪が同一ではないように、それらが別異のものであるということも成立せず、相互依存

の関係によって存在しているということも成立しない。同様に、自我(受け取る人)と受け取ら

れるものも同一ではなく、それらが別異のものであるということも、それらが相互依存の関係に

よって存在しているということも成立していない。

3)火は他のものから来るのではなく、火は薪の中に存在するのではないのと同様に、自我は他

のものから来るのではなく、受け取られるものの中に存在するということもない。

4)薪それ自体が火なのではなく、火もまた薪と別のものとして存在しているのではなく、火が

薪を所有しているのでもなく、薪も火の中に存在しているのではなく、火も薪の中に存在してい

るのではない。同様に、受け取られるものもまた自我ではなく、自我もまた受け取られるものと

別異のものとして存在しているのではなく、自我は受け取られるものを所有するのではなく、受

け取られるものも自我の中に存在しているのではなく、自我もまた受け取られるものの中に存在

しているのではない。

5)火はすでに燃えた薪を燃やすことがないように、火はまだ燃えていない薪を燃やすこともな

く、今燃えつつある薪を燃やすこともない。

6)火はすでに燃えた薪を燃やし始めることはなく、まだ燃えていない薪を燃やし始めることも

なく、今燃えている薪を燃やし始めることもない。

7)火はすでに燃えたものを燃やす原因となることはなく、まだ燃えていないものを燃やす原因

となることもなく、今燃えつつあるものを燃やす原因となることもない。なぜならば、それらは

存在していないからである。

8)これと同様に、自我はまだ受け取られていないものを受け取ることはなく、まだ受け取って

いないものを受け取ることもなく、今受け取りつつあるものを受け取ることもない。

9)さらに、自我はすでに受け取られたものを受け取り始めることはなく、まだ受け取っていな

いものを受け取り始めることもなく、今受け取りつつあるものを受け取り始めることもない。

10)また、自我はすでに受け取ったものを受け取る原因となることはなく、まだ受け取ってい

ないものを受け取る原因となることもなく、今受け取りつつあるものを受け取る原因になること

もない。なぜならば、これらは存在しないからであり、15 偈3行目に、このように述べられてい

る通りである。

水瓶、毛織物などとともに、〔余すところなく解明された〕

11)火と薪は、自我と受け取るものについてその因の段階を説明するものであり、それと同時に、

水瓶、毛織物などについても説明している。これは究極的に、自我と受け取るもの、水瓶、毛織

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41

物などのすべての過程について余すことなく説明している。

12)水瓶や毛織物などは、原因と結果、部分と部分を持つもの、功徳と功徳を持つ者、特徴と特

徴の土台を示すものであるということを知るべきである。

13)つまり、粘土自体は水瓶ではなく、粘土が結果として生じる水瓶を作るわけではないからで

ある。水瓶は粘土と別異のものではなく、なぜならば、もし粘土が他のものに依存していなけれ

ば、永遠に変わらないものとなってしまうからである。また、粘土と水瓶は、互いに依存するも

のとして成立しているのではない。なぜなら、成立していないものに依存して何かが成立するこ

とを認めることはできないからである。

14)葉は木ではない。なぜなら、葉が枯れたら木は破壊されてしまうことになるからである。木

は葉と別異のものではなく、もし木と葉が互いに依存していなければ、永遠に変わらないものと

なってしまうからである。木と葉は互いに依存しているものとして成立しているのではなく、な

ぜなら、成立していないものに依存してそれらが成立しているということを認めることはできな

いからである。

15)青い色は葉っぱではない。なぜなら、青い色が色褪せると葉っぱではなくなってしまうから

である。葉は青い色と別異のものではなく、葉が枯れても青い色は存続するからである。葉と木

は互いに依存するものとして成立しておらず、成立していないものに依存して何かが成立すると

いうことを認めることはできないからである。

16)特徴は特徴の土台(特徴を持つもの)ではなく、なぜならば、成立と成立させるものは別異

のものであり、それらは数の上で異なっている。特徴の土台は特徴と別異のものではなく、特徴

づけられる対象にならない事物は成立していないからである。またそれらは、互いに依存しあう

ものとして成立しておらず、成立していないものに依存して何かが成立するということを認める

ことはできないからである。

17)火は他のものから来るのではないということが示されたので、火は薪の中に存在しているの

ではなく、薪自体が火なのではない。火は薪と別異のものとして存在しているのではなく、火が

薪を所有しているのでもない。薪は火の中に存在せず、火も薪の中に存在しているのではない。

18)結果も他のものから来るのではなく、因の中に結果が存在しているのではない。因自体も結

果ではなく、因以外の他のものに結果が存在しているのではない。結果が因を所有するのでもな

く、結果の中に因があるのでもなく、因の中に結果があるのでもない。これと同様に、一切のも

のについても、同様に結びつけて考えるべきである。

19)ゆえに、もし、自我と事物が様々な様相において自性によって成立していないならば、妄

分別の自性を持たない賢者たちは自信に満ちている。

16

自我と同一である、別異のものである、

事物と同一である、別異のものであると説く人々が

教えの意味に精通していると

〔私は〕思わない

1)自我と同一である、別異のものである、事物と同一である、別異のものであると説く人々を

私たちは教義に精通した賢者だとは思わない。

2)「同一である」という意味は、「それと同一である」ということである。「それと同一であ

る事物」とは、それ自体と同一であるということである。つまり、「自我と同一である事物」と

は「自我それ自体と同一である」ということである。「事物と同一である事物」とは、「それら

の事物と同一である」ということである。

3)これは究極的に、自我や事物に対して単なる名前を付けただけのものが自我、あるいは事物

であり、それらは別異のものではないことを意味している。

4)ゆえに、受け取られるものであるため自我と名付けられたもの(ただ受け取られるものと同

一であるもの)は、自我であると彼らは説いている。

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5)しかし、それだけが彼らの教えのすべてではなく、彼らは、事物は受け取られるものと同一

であり、自我と同一であると説いている。

6)彼らは、自我とは別異のものとして存在する見る働きなどに先行して、様々な事物が存在す

ると説いている。

7)それと同様に、事物について、薪それ自体と同一であり、薪であるため火と名付けられたも

のは火であると説いている。しかし、それが彼らの説いているすべてではなく、薪と同一である

事物は火と同一であると述べている。

8)同様に、もし葉などの資質を持つものが、青い色などの資質と同一であれば、それは葉であ

ると彼らは説いている。しかし、それが彼らの説くすべての教えではない。

9)同様に、もし結果としての毛織物が因である糸と同一であるならば、それは結果である。し

かし、それが彼らの説く教えのすべてではない。

10)同様に、もし部分を持つ体が、体の一部である手と同一であるならば、それは部分を持つ

ことになる。しかし、それが彼らのすべての教えではない。

11)同様に、もし、牛などの特徴の土台が、角などの特徴の土台と同一であるならば、それは

特徴の土台である。しかし、それが彼らの教えのすべてではない。

12)彼らは、事物は別異のものであると説いている。火と薪は互いに別異のものであり、資質

を持つ葉と、資質である青い色は互いに別異のものであり、結果としての毛織物と因としての糸

は互いに別異のものであり、部分を持つ体とその一部である手は互いに別異のものであり、特徴

を持つ牛と角などの特徴は互いに別異のものである。

13)しかし私たちは、これらのことを説く人々を賢者とはみなさない。なぜならば、何かと同

一である事物は、「何かと同一なもの」と呼ばれるが、それはまったく同じものなのか、あるい

は別異のものなのか?

14)それはどちらも成立しない。なぜならば、これはすでに以前の偈で説かれているからであ

る。第9章の「受け取る人と受け取られるものの考察」において広大に説明されており、第6章 4

偈では、次のように述べられている。

同一〔のもの〕でも同時〔に生じたもの〕でもなく

それ自体は、それと同時〔に存在している〕のではない

もし、別異〔のもの〕であるならば

同時〔に存在する〕ことになどどうしてなるだろうか

ゆえに、それは同時に存在することを否定している。

以上が「火と薪の考察」と言われる第 10 章である。

第 11 章 輪廻の考察

A反論者の主張

自我は〔自性によって〕存在する。なぜならば、輪廻が存在するからである。釈尊は、

正法を知らない凡夫には

輪廻は長い

と述べられており、次のように助言されている。

比丘たちよ、あなた方は、輪廻を断滅するための努力をしてそのように実践するべきである。

ゆえに、世尊は、輪廻は長く存続するものなので、輪廻を断滅するために努力するべきである、

と説かれており、もし輪廻が存在しなければ、なぜ世尊は、輪廻は長く存続し、断滅するべきで

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43

あると説かれたのか? それは、輪廻が長く存続するものであり、断滅するべきものであるため、

輪廻は存在すると示されたのである。輪廻が存在するならば、輪廻の有情も存在する。なぜなら

ば、来ては繰り返しやって来て、何度も繰り返しそこへ行くので「輪廻」(廻る存在)と呼ばれ

ているのであり、繰り返しやってきて行く者が自我である。ゆえに、自我は確実に存在する。

B答えて言う

あなたには、蜂蜜は見えるが崖は見えないのか? あなたは、輪廻は長く、断滅するべきもので

あると説かれたことは見て、釈尊が説かれた、他のこの教えをなぜ見なかったのか?

1

〔外道の諸師が、輪廻の〕始まりを知ることはできるのかとお尋ねした時

偉大な牟尼(仏陀)は、〔知ることは〕できないと述べられた

輪廻には始まりも終わりもなく

それ(輪廻)には最初も最後もないからである

一切智者であり、一切をご覧になった偉大な牟尼(世尊)は、このように説かれた。

比丘たちよ、輪廻には始まりも終わりもない。最初の始まりを見ることもない

世尊がこのように説かれたので、輪廻には始まりも終わりもない。世尊はまた、輪廻は自性のな

い空の本質を持つものであると示されたのである。このように、もし、輪廻と呼ばれる事物が

〔自性によって〕存在するならば、始まりと終わりがあることに疑いはない。事物が〔自性によ

って〕存在するならば、始まりも終わりもないということなどどうしてありえよう? ゆえに、

世俗の慣習に従って、輪廻は長く、断滅するべきものであると述べられた世尊のお言葉は、究極

の真理も示しているのであり、始まりも終わりもないと述べられたのである。

1dそれ(輪廻)には最初も最後もないからである

そこで、始まりも終わりもないと説かれたことにより、輪廻と呼ばれる事物はまったく成立して

いない。輪廻が存在しなければ、輪廻をめぐる者たちがどうして成立するというのか?

A反論者の主張

輪廻の最初と最後については否定されたが、輪廻は確実に存在している。輪廻の中間の存在は否

定されていないのだから、輪廻の中間は存在するのであり、それについては否定されていない。

ゆえに、輪廻の中間が存在するため、輪廻は確実に存在する。そして輪廻が存在するため、輪廻

の有情もまた存在する。

B答えて言う

もし、輪廻に始めと終わりの中間が存在するならば、中間が存在するのだから輪廻は存在する。

しかし、輪廻の中間は成立していないのだから、輪廻の中間が存在するからといって、どうして

輪廻が存在することになるのか?

2

a始まりがなく、終わりもないものに

b中間が存在することなどどうしてあろうか

始まりがなく、終わりもないものに、中間が存在することなどどうしてありえよう? もし、始

まりも終わりもないのに、中間が始まりと終わりに依存して成立すると言うならば、始まりと終

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44

わりが存在しない時、どうやってその中間が存在すると言うのか? これについてアーリヤデー

ヴァ(聖提婆)は次のように述べられている。

始め、中間、終わり(生成・存続・消滅)が

生成に先行することはありえない

他の二つ(始めと終わり)が存在しないのに

それぞれが始まることなどどうしてありえよう (『四百論15章5偈)

〔そこで論師は、次のように説かれている。〕

cゆえに、それ(輪廻)には

d過去、未来、〔現在と〕同時という段階は成立していない

ゆえに、輪廻には過去、未来、〔現在と〕同時、という段階は成立していない。輪廻には始め、

中間、終わりが存在しないので、この世の輪廻の有情たちの生(誕生)、老死(老化と死)にも、

前、後、現在と同時という段階は存在していない。どのようにかと言うと、

3

もし、生(誕生)が先に生じ

老死(老化と死)が後〔に生じる〕ならば

生(誕生)に老死(老化と死)は存在せず

死んでいないのに生まれることになってしまうだろう

もし生(誕生)が先に生じ、そのあとで老死(老化と死)が生じるならば、生(誕生)は老死

(老化と死)が存在しなくても生じることになる。もし生が老死なくして生じるならば、のちに、

老死(老化と死)は何から生じるというのか? それでも生(誕生)が生じると言うならば、老

死(老化と死)には土台がないことになってしまう。たとえ老死(老化と死)が生(誕生)と出

会ったとしても、老死が生に変容することはなく、老死は自性(固有の実体)によって成立して

いるため、老死は存在しないからである。さらに、まだ死んでいなくても生まれることになり、その場合、以前に生じた生(誕生)を分析

してみるならば、他のどこにおいても死んでいない人が、ここに生まれることになる。その場合、

輪廻は始まりを持つことになってしまう。しかしそれを認めることはできないので、前に生じた

生(誕生)と、のちに生じる老死(老化と死)は成立していない。しかし、もしあなたが、この

ような過失が生じるというのは信じがたく、老死(老化と死)が先に生じ、生(誕生)が後で生

じると言うならば、私たちはそれに対してこのように答えよう。

4

もし、生(誕生)が後に生じ

老死(老化と死)が先〔に生じる〕ならば

生(誕生)を持たない老死(老化と死)が

因なくしてどのように存在するというのか

もし、ある人の老死(老化と死)が先に生じ、生(誕生)が後で生じるならば、老死(老化と死)

は土台を持たないことになり、因のないものになってしまうため、それを受け入れることはでき

ない。そのような老死(老化と死)は生(誕生)を持っておらず、生(誕生)のないものである

ならば、どうやって因と土台のない老死(老化と死)が生じると言うのか? 誕生し、存在する

誰かは、年を取って死ぬ人であると述べることができるのであり、生(誕生)が先に生じ、老死

(老化と死)が後で生じるということは成立していない。

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45

A反論者の主張

それら(生と老死)に前と後は存在せず、生(誕生)は老死(老化と死)と同時に生じる。

B答えて言う

5

a生(誕生)と老死(老化と死)が

b同時に存在することはありえない

なぜならば、

c〔もしあるとしたら、〕今生まれつつある者が死ぬことになり

d〔生と老死は〕どちらも因を持たないものになってしまう〔からである〕

もし、生(誕生)と老死(老化と死)が同時に生じるならば、今生まれつつある者が死ぬことに

なってしまうので、それを受け入れることはできない。「生じること」と「消滅すること」とい

う二つの矛盾するものがひとつのものとして同時に成立することはないからである。

さらに、その両方が因を持たないことになり、もし、生(誕生)と老死(老化と死)が同時に生

じるならば、誰かの生(誕生)がその人の死より前に起こることはなく、その人の死は、その人

の生(誕生)より先に起こることになる。しかし、もし、死が先に起きるなら、死は因を持たな

いものになってしまう。そこで、アーリヤ・バーヤ(ロベン・パクパ・ジグメ)は次のように述

べている。

もし、行為からからだが生じ

からだ以外のものに行為が存在していないなら

以前のからだから行為が生じることはなく

いったいどういう因によって生じるというのか

このように、もし生(誕生)と老死(老化と死)が同時に生じるならば、生(誕生)はその人の

老死(老化と死)に依存することはなく、それ自体によって成立し、老死(老化と死)の土台は

存在せず、それらは因を持たないものになってしまうので、それを受け入れることはできない。

なぜならば、すでに述べたように多くの過失が生じるからである。したがって、生(誕生)と老

死(老化と死)が同時に起きるということは成立していない。

ここで、あなたが考えている輪廻には、生(誕生)と老死(老化と死)の、前、後、同時という

順序が存している。もし、これらの順序が存在しないなら、生(誕生)と老死(老化と死)を持

たないどんな自我が輪廻をまわると言うのか?

A反論者の主張

生(誕生)と老死(老化と死)に、前、後、同時という順序が存在してもしなくてもよいが、も

し存在するならば、生(誕生)と老死(老化と死)は存在する。それらは土台がないのではなく、

それらは誰かのものであり、存在するその誰かが自我なので、自我は確かに存在する。

B答えて言う

6

前、後、同時という

これらの順序は成立していないのに

その生(誕生)とその老死(老化と死)について

どうして〔あなたは〕戯論(虚構の論議)を仕掛けているのか

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46

1)まず、論理に基づいて考察するならば、生(誕生)と老死(老化と死)に前、後、同時とい

う順序が成立せず、存在しない時、これについてあなたは、これが生(誕生)である、これが老

死(老化と死)であるなどと言って、なぜいたずらに戯論を仕掛けているのか?

2)もし、生(誕生)や老死(老化と死)が少しでも存在しているならば、それは前である、後

である、同時であると確かに言うことができるだろう。

3)しかし、その場合、あなたが「生(誕生)と老死(老化と死)は存在する」と述べている前、

後、同時という順序は存在していない。

4)したがって、いったい誰が「それらは自性によって存続している」と述べ、いったい誰がそ

の考えを維持するというのか? ゆえに、生(誕生)と老死(老化と死)の順序は成立していな

い。もしそれらが存在しないなら、自我が存在することなどどうしてありえよう? ゆえに、自

我が存在するという主張が論理と矛盾することをあなた方は知るべきである。

7

因と結果

特徴と特徴づけられる土台

感受作用と感受する者

〔対象が存在する〕どのようなものでもよい〔が、前、後、同時の順序はこれらのすべてにおい

て成立していない〕

1)このように分析してみると、前、後、同時という順序は生(誕生)と老死(老化と死)にお

いて成立していない。同様に、原因と結果、特徴と特徴を持つ土台、感受作用と感受する者、解

脱した者と涅槃、知識と知識の対象、量(正しい認識)と量の対象など、その他のどんな対象で

もよいが、前、後、同時などの順序は、これらのすべての対象物において成立していない。どの

ようにかと言うと、

2)まず、最初に結果が現れ、後に因が来る場合、結果は因を持たないことになる。もし、結果

がすでに存在する時は、その因を考察する意味がなくなってしまう。

3)もし因が先に現れ、結果が後に現れる場合は、因が結果を持たないことになってしまうので、

これもまた成立しない。このように、結果が存在しなければ、どうやって因となることができる

のか? しかし、もし、因となることができても、それは因ではない何ものにもなることはでき

ない。

4)もし、因と結果が同時に生じるならば、因と結果は両方とも因を持たないことになってしま

うという過失が生じる。因も結果も、何かに依存することなくそれ自体で成立することになって

しまうので、これもまた成立しない。

5)同様に、もし、特徴が先に生じ、特徴を持つ土台となる事物が後で生じるならば、〔特徴を

持つ土台となる〕事物がまだ生じていない時、それは何の特徴となるのか。もし、それらの特徴

が何かを特徴づけるために特徴と呼ばれているならば、それらの特徴を持つ事物はまだ生じてい

ないので、それらの特徴によって特徴付けられる事物もまた存在していない。もし、それらの事

物が存在しないなら、それらの特徴が事物を特徴付けることはない。では、それらの特徴はどう

やって特徴として生じることができるのか?

6)しかし、もし、〔特徴を持つ土台となる〕事物が先に生じ、特徴が後で生じるならば、それ

らの事物は特徴を持たないことになるのでそれは成立しない。特徴を持たない事物がどうやって

存在すると言うのか? しかし、もしそれが存在するならば、ウサギの角さえ存在することにな

るだろう。

7)また、特徴について分析することにも意味がなくなってしまう。なぜならば、特徴が事物を

成立させているのだから、それらの事物を成立させているのは特徴であり、たとえ特徴が存在し

ていなくても、〔特徴を持つ土台となる〕事物は成立するとあなた方が主張するならば、それら

の特徴はいったい何をすると言うのか?

8)また、もし、特徴と特徴を持つ土台(事物)が同時に生じるならば、その両方は因を持たな

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47

いことになるという過失が生じ、事物も特徴に依存しないものとなり、それ自体で成立すること

になってしまうので、これもまた成立しない。

9)また、感受する者が先に生じ、感受作用が後に生じるならば、感受作用がまだ存在せずまだ

生じていない場合、何を感受する者になると言うのか。もし、感受作用を持つ人が感受する者で

あり、そのような感受作用がまだ生じていなければ、いったい何を感受すると言うのか。もし、

その人が感受作用をまだ起こしていなければ、どうやって感受する者が生じるというのか。しか

し、もし感受する者が生じたならば、すべてが対象と接触することなくすべての幸せと苦しみを

感じる者になってしまうだろうが、これもまた成立しない。

10)しかし、感受作用が先に生じ、感受する者が後に生じるならば、感受する者がまだ感受作用

を持っていない時でも感受作用が生じることになり、これもまた成立しない。まだ感受作用を持

っていない人が感受する者になることなどどうしてありえよう? しかし、もし、感受する者が

生じたなら、その人はいつでもどこでも感受作用を離れることはできなくなってしまい、これも

また成立しない。

11)しかし、もし感受作用と感受する者が同時に生じるならば、その両方に因が存在しないこと

になるという過失が生じてしまう。そして、感受作用は感受する者に依存することは決してなく、

感受作用はそれ自体で成立することになってしまうので、これもまた成立しない。

12)また、もし、解脱した者より先に涅槃が生じるならば、完全に煩悩に汚された者たちも涅槃

に至ることになってしまう。もしそうなると、涅槃に至らない者は誰もいないことになるため、

これもまた成立しない。

13)しかし、解脱した者より後に涅槃が生じるならば、まだ涅槃に至っていない者たちもすべて

解脱することになり、解脱した者より後に涅槃に至っても意味のないことになってしまう。しか

し、もし「涅槃は不生である」と言うならば、前に生じていないものが後に生じることになり、

生(誕生)を持つものと同様の過失が生じるため、これを受け入れることはできない。

14)しかし、解脱した者と涅槃が同時に生じるならば、両者とも因を持たないことになり、解脱

した者は涅槃に依存することなく、それ自体で成立することになってしまい、涅槃もまた解脱し

た者に依存することなくそれ自体で成立することになってしまうので、これもまた成立しない。

15)同様に、知識と知るべき対象、正しい認識(量)と正しい認識対象などもまた、そのよう

にして理解するべきである。

8

輪廻においてのみ

始まりが存在しないだけでなく

一切の事物にも

始まりは存在していない

このように、もし、現実をあるがままに完全に分析して見るならば、一切の事物について、前、

後、同時という順序は成立していない。ゆえに、「輪廻においてのみ始まりが存在しないだけで

なく、一切の事物にも始まりは存在していない」と述べられているのである。したがって、事物

の現れは、幻、陽炎、ガンダルヴァ(食香)の都市、湖面に移った月の反映のようなものであり、

〔自性によって存在しているのではない。〕

以上が「輪廻の考察」と言われる第 11 章である。

第 12 章 自作と他作の考察

『根本中論頌』の註釈書『ブッダパーリタ註』のバムポと呼ばれる第 5 のセクション〔がここか

ら始まる。〕

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48

A反論者の主張

自我は〔自性によって〕確実に存在する。なぜならば、苦しみが存在するからである。からだと

五感の知覚能力(五根)が生じると、それが苦しみであると言われており、すべての人が知ると

ころのものである。世尊もまた、次のように述べられている。

要約すると、受け取られるものである五蘊は苦しみである

ゆえに、苦しみは存在する。しかし、土台なくして苦しみが生じるということは不合理なので、

苦しむ人もまた存在する。

B答えて言う

もし、苦しみが成立しているならば、自我もまた存在しており、苦しみが成立していないのに自

我が存在することなどどうしてあろうか。なぜならば、

1

ある人は、「苦しみは自力で作られたもの(自作)である」

〔ある人は〕「他力で作られたもの(他作)である」

〔ある人は〕「その両者によって作られたもの(共作)である」

〔ある人は〕「無因から生じたもの(無因作)である」と主張する

しかし、それ(苦しみ)が〔その自性によって〕作られたものであるということはありえない

苦しみが存在するということを主張する人々の中で、

①ある人々は、苦しみは自力で作られたもの(自作)であると主張する。

②ある人々は、苦しみは他力で作られたもの(他作)であると主張する。

③ある人々は、苦しみは自力と他力の両者によって作られたと主張する。

④ある人々は、苦しみは無因から突然生じたと主張する。

ゆえに苦しみは、自力で、他力で、その両者によって作られたと主張する者たちにとって、苦し

みは自力で、他力で、その両者によって作られたものとなる。すると、苦しみは自力で作られた

もの(自作)、他力で作られたもの(他作)、その両者によって作られたもの(共作)となるが、

苦しみは〔その自性によって〕作られたものではないので、苦しみがそれらによって作られたと

いうことは不合理である。

なぜならば、もし、すでに存在する苦しみが自力で作られたものならば、すでに存在している苦

しみをさらに作り出す必要はないので、それは不合理である。しかし、もし苦しみが作り出され

ると言うならば、(1)すでに存在する苦しみ、(2)まだ存在していない苦しみ、のどちらか

が生み出されることになる。もしあなたが、すでに存在している苦しみが自力で作られたと考え

ているならば、すでに存在している苦しみをさらに生み出す必要がいったいどこにあるのか?

しかし、もし苦しみが生み出されたと言うならば、それはまだ存在していない。すでに存在する

苦しみが自力で作られたのなら、それは無因から生じたのか? それとも、もし自力で作られた

のなら、無限遡求になってしまうので受け入れることはできない。

もし、まだ存在していない苦しみが自力で作られると考えるならば、存在しないものが自力で何

かを作るなどどうしてありえよう? もし作ると言うならば、ウサギの角も自力で作られること

になってしまう。ゆえに、苦しみは自力で作られるということは不合理である。

もし、苦しみがまだ作られず、存在していないなら、まだ存在していない苦しみを生み出す他の

何かがどうやって存在するというのか。苦しみを生み出す他の何かは存在しないので、苦しみが

他のものによって作られるというのは不合理である。そこで、自力で苦しみが作られる、あるい

は、他力で苦しみが作られるということは不合理である。

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49

2

もし、〔苦しみが〕自力で作られたものならば

〔苦しみは他に〕依存して生じることはない

これら(現在の構成要素)の集まり(五蘊)に依存して

それら(未来の構成要素)の集まり(五蘊)が生じる〔からである〕

もし、苦しみが自力で作られているならば、他のものに依存する必要はない。しかし、現在の五

蘊に依存して未来の五蘊が生じるため、苦しみは他のものに依存して生じることになる。世尊も

また、十二支縁起の第4の事象である名色(名前と形態)は、第3の事象である意識に依って生

じると述べられている。もし、苦しみが自力で作られているならば、因と条件の力によって生じ

ることはなく、苦しみが自力で作られるというのは不合理である。

A反論者の主張

このように、苦しみは自力で作られたものではなく、苦しみは他力で作られたものである。なぜ

ならば、現在の五蘊が変化することに依存して、未来の五蘊が生じるからである。

B答えて言う

苦しみは他力で作られたものではない。なぜならば、

3

もし、これら(現在の五蘊)がそれら(未来の五蘊)とは別異のものであり

もし、それら(未来の五蘊)がこれら(現在の五蘊)とは別異のものならば

それら(未来の五蘊)とは別のこれら(現在の五蘊)によって、それら(未来の五蘊)が作られ

ることになり

苦しみは他力で作られることになってしまう〔からである〕

もし、未来の五蘊が、現在の五蘊とは別異のものであり、現在の五蘊も未来の五蘊とは別異のも

のならば、未来の五蘊とは別異の現在の五蘊によって未来の五蘊が作られることになり、苦しみ

は他力で作られることになってしまう。

しかし、未来の五蘊は現在の五蘊と別異のものなのではなく、現在の五蘊も未来の五蘊と別異の

ものではない。しかし、もしあなたが、この二つは別異のものではないと考えるならば、苦しみ

が他力で作られるということがどうやって成立するというのか。(自性によって別異のものであ

るならば、因果関係は成立しないからである)

そこで、14 章5偈の後半にこのように述べられている。

何か(B)に依存しているもの(A)が

それ(B)と別異であるということは成立しない

ゆえに、苦しみが他力で作られるということは成立していない。

A反論者の主張

苦しみそれ自体が苦しみを作り出すのだから、苦しみは自力で作られると述べているのではない。

苦しみは因と条件から生じるのだから、苦しみは他力で生じると言っているのでもない。私たち

は、苦しみはその人自身によって作られるのだから、苦しみは自力で作られると述べているので

あり、苦しみは他の人によって作られるものなので、苦しみは他力で作られると述べているので

ある。

B答えて言う

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50

4

もし、補特伽羅(ふとがら)自身によって

苦しみが作られるならば

自力で苦しみを作り出すその補特伽羅に苦しみがなければ

それはいったい誰なのか?

補特伽羅(ふとがら):仏陀と有情の総称。心を持つ生き物のこと。

もしあなたが、補特伽羅自身によって苦しみの集まり(苦蘊)が作られると言うならば、苦しみ

の集まり(苦蘊)がない人とはいったい誰なのか? その人の五蘊に苦しみがなく、苦しみがそ

の人に現れないならば、いったい誰が自力で苦しみの集まり(苦蘊)を作るというのか?

そのように、苦しみの集まり(苦蘊)がなく、苦しみが現れない時、苦しむ人と呼ぶことができ

ないような、どんな特別な人が苦しみを作ると言うのか? ゆえに、苦しみは補特伽羅自身によ

って作られると言うことは正しくない。しかし、もしあなたが、苦しみは他の補特伽羅によって

作られると言うならば、私たちはこう答えよう。

5

もし、他の補特伽羅によって

苦しみが生じると言うならば

他力で苦しみが作られ、それが与えられた人に

苦しみが存在しないことなどどうしてありえよう

もし、他力で苦しみの集まり(苦蘊)が作られ、それが作られた後でその苦しみがこの人に与え

られたなら、他の人によって与えられた苦しみがこの人になく、苦しみから離れており、苦しみ

がまったく現れないなどと、あなたはどうして言えるのか?

このように、受け取られる苦しみの集まり(苦蘊)がまったく存在しないばかりか、それらに依

存して〔苦しむ人と〕名付けられた人もまた存在せず、その人に苦しみが現れることもないのに、

その人にその苦しみが存在すると言うならば、どうやって他の人によって作られた苦しみがこの

人に存在すると言うのか? しかしあなたは、苦しみは他の人によって作られると述べている。

さらに、もし、受け取られる苦しみの集まり(苦蘊)が存在せず、どのような場合においても存

在しないなら、他の人によって作られた苦しみが、それを与えた人に存在するということはあり

えない。しかし、「苦しみは他の人によって作られる」とあなたがまだ主張するならば、

6

a自力で作られた〔苦しみ〕は成立しないのだから

b他力で作られた〔苦しみ〕がどうして〔成立する〕と言うのか

もし、あなたが、「苦しみは自力で作られたものであり、それは成立する。ゆえに、苦しみは他

力で作られるということも成立する」と言うならば、まず、自力で作られた苦しみは成立してい

ない。自力で作られた苦しみが成立しないので、他力で作られた苦しみが成立することなどどう

してあろうか。そこで、

c他力で作られた苦しみは

d他の人が自力で作り出したものなのか?

と問うならば、もし、他力で作られた苦しみが、他の人が自力で作り出したものならば、それは

他力で作られた苦しみではない。しかし、もしその苦しみが、他の人が自力で作り出したもので

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51

ないならば、自分自身の苦しみが他力で作り出されることなどどうしてあろうか? ゆえに、自

力で作り出した苦しみは他の人のものである、〔という過失が生じる。〕

しかし、他力で作り出された苦しみは成立しないということがすでに示されており、自力で作ら

れた苦しみは成立していないので、自力で作られた苦しみが存在しないなら、他力で作られた苦

しみがどうして存在するだろうか。他の人によって作られた苦しみとは何なのか? このように

「苦しみは他の人によって作り出される」と述べることは正しくない。

A反論者の主張

あなたは、論師の意図を理解せず、自分の心で妄分別した意味に結びつけて、過失を私の言葉の

せいにするというのか? 私たちは、苦しみは自力で作り出される、他力で作り出される、と言

っているのではない。時々苦しみはその人自身によって作り出されているため、苦しみはその人

自身によって作られていると述べているのである。人は苦しみと別異なのではなく、苦しみが苦

しみを生み出すため、苦しみは自力で作り出されていると述べている。いかなる苦しみもその人

なのではなく、苦しみは他力で作られると述べている。

B答えて言う

あなたは根が腐った木に水をやると言うのか? 人は受け取られるもの(苦蘊)を持たず、固有

の実体として成立しているという主張はいついかなる場合でも認めることはできないのに、苦し

みは人が自ら作り出したと言うのか? もし人が、受け取られるもの(苦蘊)を持たず、独立し

た実体を持って成立しているならば、苦しみはその人自身によって作られると述べるのが論理に

あっている。しかし、人が苦蘊を持たず、固有の実体を持って存在しているという考えを受け入

れることはできない。そこで、次のように述べよう。

7

aまず、〔苦しみ〕は自力で作られたものではない

もし、補特伽羅が受け取られるもの(苦蘊)を持たず、固有の実体として成立する補特伽羅が存

在しないなら、苦しみは自力で作り出されたものではないので、苦しみはその人自身によって作

られたもの(自作)ではない。

しかし、もしあなたが、「その人は苦しみと別異ではなく、苦しみが苦しみを作り出すので、苦

しみは自力で作り出される」と言うならば、〔私はこのように答えよう。〕

bそれ(苦しみ)はそれ自身によって作られたものではない

苦しみは、苦しみが自力で作り出したもの(自作)ではない。なぜならば、人は体験する苦しみ

と別異のものではなく、受け取られるもの(苦蘊)と別異のものでもなく、苦蘊と別異でないも

のが苦しみを作り出すことはないが、苦しみそれ自体が苦蘊を作り出す、とあなたが述べている

からである。

「人は、作り出された苦しみと別異のものではない」とあなたは述べているので、苦蘊を持たな

い固有の実体を持つ人が苦しみを作り出すことはない。ゆえに、苦しみはただその苦しみ自体の

自作である、と述べることは不合理である。しかし、「苦しみは人ではないので、苦しみは他の

ものによって作り出される」とあなたが言うならば、私はこのように答えよう。

cもし、〔苦しみが〕他のものそれ自体によって作られたのでなければ

d他のものによって苦しみが作られることなどどうしてありえよう?

もし、苦しみが補特伽羅の自力で作り出されることがなく、自我が成立せず、苦しみがまったく

存在しなければ、それらの自我はまったく成立していない。それならば、他のものの自我も成立

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52

しないので、どうして苦しみが他力で作り出されることなどあろうか?

もし、苦しみの集まり(苦蘊)が生じず、存在しなければ、その人が何か別異のものになること

などどうしてありえよう? このように私たちはすべての質問にすでに答えたのに、あなたは別

の言葉を使って別の意味に理解して、これらのことを繰り返し述べている。

A反論者の主張

苦しみは、自力で作り出された、あるいは、他力で作り出された、と述べることが不合理である

ことはすでに受け入れたが、苦しみは自力と他力の両者が集まることによって作り出される。

B答えて言う

8

aもし、〔苦しみが自力と他力の〕それぞれによって作られるということがあるならば

b苦しみは〔自力と他力の〕両者によって作られることになる

もし、苦しみが、自力で、あるいは他力で作り出されるということが存在するならば、苦しみは

その両者によって作り出されるということも存在することになる。しかし、苦しみが自力と他力

のそれぞれによって作り出されるということが不合理であることはすでに示した。もし、ひとり

の人の苦しみが自力と他力のそれぞれによって作り出されるということがありえないなら、その

人の苦しみが自力と他力の両者によって作り出されるということがいったいどうしてありえよ

う? ゆえに、「苦しみは自力と他力の両者によって作り出される」ということは成立しない。

A反論者の主張

もし、苦しみが自力と他力のそれぞれによって作られず、また、その両者によって作り出される

ということも不合理であるならば、苦しみはそれ自体から、他のものから、あるいはその両者か

ら作り出されることはないので、苦しみは無因から生じることになってしまう。

B答えて言う

c他力によって作られず、自力によっても作られないならば

d苦しみは無因〔から生じることになり、そのようなことが〕どうしてありえよう?

「他力で作られたもの」とは「他のものの力によって作られたもの」のことであり、「他のもの

がそれ(苦)を作り出す」ことを意味する。

「他力で作られていないもの」とは「他のものの力で作られていないもの」のことである。

「自力で作られたもの」とは「それ自体の力によって作られたもの」のことであり、「それ自体

によって作られたもの」のことを意味する。

「自力で作られていないもの」とは、「それ自体によって作られていないもの」のことである。

「他力で作られていないもの」と「自力で作られていないもの」とは、「他のものの力によって

作られていないもの」と「それ自体の力によって作られていないもの」のことである。

このように、もし、苦しみがそれ自体で、あるいは他のものによって作られていないなら、苦し

みは因なしに突然生じることになってしまい、そのようなことがどうして成立するだろうか?

しかし、もし苦しみが突然生じると言うならば、常に一切が生じることになってしまう。もしそ

うならば、一切のものの始まりは意味を持たないことになり、大きな過失が生じるため、これを

受け入れることはできない。ゆえに、苦しみは無因から生じるということを認めることはできな

い。

A反論者の主張

このように、もし苦しみが存在しないなら、

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53

「マハーカシアパ(大迦葉)よ、苦しみは存在する。私は苦しみを知った。私は苦しみを見た」

と世尊はなぜ言われたのか?

B答えて言う

私たちは「苦しみは存在しない」などと言っているのではないない。私たちは、

もし、〔苦しみが〕自力で作られたものならば

〔苦しみは他に〕依存して生じることはない

と 12 章 2 偈前半で述べられているように、「苦しみは他に依存して生じることはない」と述べて

いるのではなく、「苦しみは他〔のもの〕に依存して生じる」と述べているのである。自力で作

られる、他力で作られる、その両者から作られる、無因から作られるなどと述べているのではな

い。

9

ただ苦しみだけに

〔これらの〕四相が存在しないだけでなく

外界の一切の事物にも

〔これらの〕四相は存在していない

四相:自力で作られる、他力で作られる、その両者から作られる、無因から作られる、という

〔自作、他作、共作、無因作の〕四つの特徴のこと。

内なる世界にある苦しみの集まり(苦蘊)だけにこの四相が存在しないだけでなく、物質的存在

など外界の対象物にもこの四相は存在していない。なぜかと言うと、まず、物質的存在は自力で

作られたものではない。もし、物質的存在がそれ自体を作り出すならば、(1)存在するもの、

あるいは、(2)存在しないもののどちらかを作り出すことになる。

まず、物質的存在がすでに存在するならば、さらにそれを作り出すことにどんな意味があるの

か? しかし、もし物質的存在が存在しなければ、存在しないものがそれ自体を作り出すことな

どどうしてありえよう? それにも関わらず、もし、物質的存在がそれ自体を生み出すと言うな

らば、ガンダルヴァ(食香)の都市はそれ自体で都市の城壁を作り出すことになってしまう。も

し、物質的存在が自力で作られるなら、物質的存在は他のものに依存して生じると述べることは

できないので、これを受け入れることはできない。

しかし、もしあなたが、物質的存在は、物質的存在とは異なるその構成要素によって作られると

考えるならば、それはありえない。なぜならば、物質的存在は、物質的存在の因である構成要素

と別異のものではないからである。これについては、14 章 5 偈後半で次のように述べられている。

何か(B)に依存しているもの(A)が

それ(B)と別異であるということは成立しない

しかし、作られず、不生で、存在しないものである物質的存在から生じたものが、どうやって物

質的存在と別異のものになることがありえよう?物質的存在もまた、自力と他力の両者によって

作り出されることはなく、なぜならば、自力、他力のそれぞれによって作り出されるということ

が成立しないからである。

また、物質的存在は無因から作り出されたのでもない。他力で作られていないもの、あるいは、

自力で作られていないものが、因なくして生じることなどどうしてありえよう? もしそうなら

ば、結果として無数の過失が生じることになる。同様に、音など一切の事物に対しても四相は成

立しないので、どのように事物が存在しているかをよく観察してみるべきである。

以上が、「自作と他作の考察」と言われる第 12 章である。

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54

第 13 章 真如の考察

A反論者の主張

苦しみは存在し、外界の事物もまた存在する。それらは確かに存在しているが、〔それ自体から

生じる、他のものから生じる、自他の両方から生じる、そのどちらからでもない(無因から生じ

る)、という〕4種の存在のしかたで成立しているのではない。しかし、事物は確かに成立して

いる。

B答えて言う

あなたは幻の象が歩いていると主張するのか? あなたは、4種の存在のしかたによって作られ

たのではない事物はみな、〔固有の実体を持って〕成立しているという妄分別をしている。あな

たはここで、現実のありようを正しく分析する論理に基づいて考えるべきである。

A反論者の主張

ここで述べられている「現実のありよう」とは何なのか?

B答えて言う

1

「欺く〔性質を持つ諸〕法は虚妄である」と

釈尊はこのように説かれた

一切の作り出されたもの(行・形成力))は欺く〔性質を持つ〕法(現象)であり

ゆえに、それらは虚妄である

釈尊は他の経典で、「欺く〔性質を持つ〕諸法(一切の現象)は虚妄である。比丘たちよ、欺く

ことのない法(現象)である涅槃は最もすぐれた真理である」と説かれた。「このように、真理

は一つであり、第二の真理はない」という偈も説かれた。同様に、他の経典にも、「作り出され

たもの(行・形成力)は欺く性質を持つ法(現象)である。それは消滅する法(現象)でもある」

と、一切の作り出されたものは欺く性質を持つものであると説かれた。ゆえに、一切諸行(一切

の事物)は欺く性質を持つものであり、一切は虚妄そのものである。欺く性質を持つものがいっ

たいどのように成立するというのか。あなたは、一切の事物は〔それ自体で〕完全に成立してい

ると述べているが、それは欲望によって作り出された〔妄分別〕でしかない。

A反論者の主張

もし、一切の事物が虚妄であるならば、私たちが捉われているようには一切の事物は存在してい

ない、と述べることで混乱を招くことにはならないだろうか?

B答えて言う

そういうことにはならない。

2

もし、欺く性質を持つ法(事物)がみな虚妄であるならば

欺く法(事物)をいったいどうやって欺くというのか

釈尊はそのように説かれて

空性を完全に示されたのである

もし、欺く性質を持つ諸法(一切の現象)が虚妄であるならば、欺く性質を持つ諸法は〔自性に

よって〕存在しているのではないと述べられているのだから、それをどうやって欺くのかを述べ

てみよ。存在しないものをいったいどうやって欺くというのか? もしそれでも欺くというなら

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55

ば、盗人たちは〔存在しない〕富をも奪うであろうし、シヴァ神の信者たちや〔何も所有しな

い〕ジャイナ教(ニルグランタ学派。始祖マハーヴィーラ)の信者たちの財産を盗むことさえ可

能になるだろう。ゆえに世尊は、「〔諸法は〕欺く性質を持つものである」と述べることにより、

事物は存在しないと説かれたのではない。

世尊には一切の障りがなく、一切智と解脱を得ておられるのだから、真理をあるがままにご覧に

なっているのであり、「欺く性質を持つ法はすべて虚妄である」と述べることにより、すべての

事物の自性は空であるということを、非仏教徒たちは理解していないと示されたのであり、何も

存在しないという〔虚無論の〕過失から離れて、正しいもののありようを説かれたのである。

A反論者の主張

世尊が「諸法は欺く性質を持つものである」と言われたのは、一切の事物の自性は空であるとい

うことを説くためではなく、次のように示されるために述べられたのである。

3

a諸法(一切の事物)に自性(固有の実体)は存在していない

b他のものに変化するさまが見られるからである

世尊は、「諸法は偽りの性質を持つものである」と述べることにより、一切の事物には自性(固

有の実体)がないことを示されたのではない。なぜならば、事物には他のものに変化していく様

子が見られるからである。事物は〔一瞬たりとも〕とどまることのない本質のものとして現れる

ため、〔世尊は〕それを説かれたのである。どのように説かれたかというと、

c自性(固有の実体)がない事物は存在しない

dなぜならば、諸法は空の本質を持つからである

「自性(固有の実体)がない事物は存在しない」と述べることにより、事物の空性が示されてい

る。なぜならば、事物の自性(固有の実体)は確かに存続することがなく、それらが変化するさ

まが見られるからである。これを理解することが、「自性がない事物は存在しない」という言葉

の意味であり、これが、このことを理解するための唯一の方法である。そうでなければ、

4

a もし、自性(固有の実体)が存在しないなら

b他のものに変化するのは、いかなるものなのか

もし、すべての事物に自性(固有の実体)が存在しないなら、他のものに変化するのはいかなる

ものなのか。もし、他のものに変わるということが、自性(固有の実体)に反すると言うならば、

事物に自性(固有の実体)がない場合、他のものに変わることはなく、それについて疑いの余地

はない。しかし、他のものに変わることがあるのだから、自性(固有の実体)もまた存在する。

B答えて言う

cもし、自性が存在するならば

d他のものに変化するのは、いかなるものなのか

と述べられていることについて説明すると、4a は次のようになる。

aもし、自性が存在するならば

bどうやって〔自性が〕他のものに変化するというのか

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56

もし、すべての事物がそれ自体によって成立する自性(固有の実体)を持つならば、他のものに

依存することなく存在することになり、事物はそれ自体で成立し、永遠で、不変のものになって

しまう。そのような事物がどうやって変化するというのか? 他のものに変わるということは、

他のものに依存しているということなので、変化は他のものに依存して生じ、事物は変化するこ

とになるが、自性(固有の実体)によって成立する事物が他のものに変化することはない。

A反論者の主張

もし、自性(固有の実体)によって成立している事物が他のものに変わるということを認めるこ

とができないなら、自性を持たない他の事物がどうやって変化すると言うのか?

B答えて言う

5

a〔それ自体の〕本質が他のものに変わることはない

b他の〔もの自体の〕本質も〔他のものに変わることは〕ない

事物の本質をよく分析してみるならば、その本質が他のものに変わるということは成立していな

い。それ以外のどんなものも、〔その本質が〕他のものに変わるということは成立していない。

cなぜならば、若者が老いることはなく

d老人も老いることはないからである

それ自体の本質が他のものに変わるとは、老化のことである。老化についても、若者である時に

年をとるということはなく、若者以外のものである老人になった時も、老人が〔さらに〕年をと

るということはないからである。ゆえに、それ自体の本質が他のものに変わるということはなく、

他のものそれ自体の本質が、それ以外の他のものに変わるということもない。もし、若者が若者

である時に年をとるならば、老人と若者の二つが同時に存在することになってしまうからである。

しかし、これも成立しない。このように、矛盾する二つのものがどうやって同時に存在するとい

うのか。もし、老人が老人である時に年をとるならば、老人はその時どうなるかというと、この

時も若者についてと全く同じように考えるべきである。

(若者と老人の状態は矛盾関係にあり、一人の人に同時に存在することはない。ゆえに若者が老

いることが否定される。ある人の若者の状態が滅しつつあることと、老人の状態が生起しつつあ

る状態は同時である。しかしその2つの状態が同時に存在することはない。つまり、他のものに

変化するものが自性によって存在するならば、2 つの状態が同時に存在することになるという過失

が生じるため、自性による成立が否定されることになる)

A反論者の主張

それ自体〔の本質〕は他のものに変わるが、他のものが変化することはない。たとえば、ミルク

が他のものに変わった時、それはヨーグルトになるようなものである。

(老人になった人がさらに老いることはないが、若者自身が他のものである老人に変わるのだか

ら、他のものに変化するということは自性によって存在する。と言うならば、)

B答えて言う

6

aもし、〔それ自体の〕本質が他のものに変わるなら

bミルク〔自体の〕本質がヨーグルトに変わることになる

もしあなたが、それ自体の本質が他のものに変わると考えるなら、あなたはミルクの本質がヨー

グルトに変わると言っていることになる。しかし、ミルクの本質はそれ自体であって、他のもの

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57

ではなく、ヨーグルトはそれ自体ヨーグルトであって、他のものではない。しかしあなたは、ま

だミルクの状態にある時にヨーグルトの本質が生じると主張しているため、ミルク自体がヨーグ

ルトであると言っていることになる。

A反論者の主張

私たちは、ミルク自体の本質がヨーグルトなのだからミルクはヨーグルトであると言っているの

ではない。

B答えて言う

c〔では、〕ミルク以外のいかなるものが

dヨーグルトという事物になるというのか

もしあなたが、「ミルク自体の本質がヨーグルトなのだからミルクはヨーグルトである」と言っ

ているのではないと言うならば、ミルク以外のいかなるものがヨーグルトという事物になるとい

うのか? ヨーグルト自体の本質がヨーグルトになり、それがヨーグルトであるとあなたは言う

のか? それとも、水という事物がヨーグルトになり、水がヨーグルトだとあなたは言うのか?

ゆえに、事物それ自体、あるいは他のものが、変化して他のものになるということは成立しない。

なぜならば、事物それ自体、あるいは他のものが、変化して他のものになるということは成立し

ないため、他のものに変わるということ自体が存在しないからである。

ここで「偽り」という単語が使われているのは、事物の自性は空であるということを正しく完全

に示すためであり、自性という固有の実体が存続することはないということを示すためではない。

A反論者の主張

まず、空は存在する。その対治(対策)となるものが存在しないので、事物自体はほんの僅かも

存在していない。ゆえに、空が存在するため、空ではないものも存在することになる。

B答えて言う

あなたが、空の対治となる事物(空ではないもの)は確かに存在するのだから事物は完全に成立

すると主張しても、空は成立しない。なぜならば、空であるものは〔自性によって〕存在してい

ないからである。

7

もし、空でない何かが存在するならば

空であるものも何か存在することになる

空でないものがまったく存在しないなら

どうして空が存在することになるだろうか

もし、空でないものが僅かでも成立しているならば、その対治となる空もまた存在することにな

る。その際、すべてを完全に分析してみるならば、空でないものはまったく存在せず、その時、

空でないものの存在が否定されなければ、どうやって空が存在することになるだろうか? もし、

空が存在しなければ、どうやってその対治(空でないもの)を分析することができるというの

か?

A反論者の主張

私たちは、あなたが述べていることを受け入れることはできない。なぜなら、以前このように述

べられているからである。

もし、欺く性質を持つ法(事物)がみな虚妄であるならば

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58

欺く法(事物)をいったいどうやって欺くというのか

釈尊はそのように説かれて

空性を完全に示されたのである (13 章 2 偈)

あなたはこれに対して次のように述べている。

ではもし、空でないものが存在するならば

空であるものも何か存在することになる (13 章 7 偈前半)

B答えて言う

8

すべての勝利者(仏陀)たちは

「空性とはすべての〔誤った〕見解から出離することである」と説かれた

ゆえに、「空の見解〔に実体〕を見る者たちが

成就することはない」と説かれた

1)勝利者仏陀たちは現実のありようをあるがままにご覧になり、尊い慈悲の心で輪廻を巡る有

情たちを利益するため、「空性」を理解する空の見解により、怪魚のように恐ろしいすべての誤

った見解を完全に克服するようにと説かれたのである。仏陀たちは、怪魚のような誤った見解を

断滅するべきであり、誤った見解を断滅する空の見解が実体として成立しているのではないこと

を示された。

2)たとえば、心がかき乱された人々は、ガンダルヴァ(食香)の都市を実際に存在するものだ

と考えている。しかし、のちに無知から自由になった時、すべての事物を正しくあるがままに見

ることができるようになり、その時、そのような都市が〔実体を持って〕存在するという捉われ

は鎮められていく。しかし、「ガンダルヴァの都市という誤った思念」と言われているような実

体は、微塵も存在していない。存在しないものへの妄分別を離れると、完全にそのような捉われ

から自由になる。同様に、現実を完全に正しく見る人は、空が実体への捉われという誤った見解

を退けてくれると考えるが、「空」と呼ばれているものの実体もまた、微塵ほども存在していな

い。

3)つまり、空には実体があると見る人たちは、「空」と名付けて呼んでいるだけのものに対し

てその実体を見ているのであり、彼らは無知という大きな暗闇によって智慧の眼が覆われている

ため、事物が実体を持って成立しているのかどうかの区別がつかない。そこで、偉大な医者であ

る勝利者仏陀たちは、事物は実体を持って成立しているのではないと説かれたのである。そして、

すべての事物はそれ自体の固有の実体によって存在しているのではないということを認識できる

人々に対しては、空について説き、縁起の見解を説き、〔因と条件に依存してすべての事物は生

じるという〕因果の法に基づいてすべての事物を分析するようにと諭された。そして、「諸法

(一切の事物)はそれ自体の固有の実体(自性)によって成立しているのではない」と示され、

一切の現事物の自性を完全に明らかにされ、それによって実体への捉われを克服することができ

ると説かれたのである。

4)空には実体があると見る人にとって、固有の実体への捉われはどのような手段によっても食

い止めることはできない。たとえば、「何も存在しない」と主張する虚無論者たちに対しては、

「その何もないものを渡してみよ」と言うことができる。しかし、彼らは何も存在しないという

虚無論に固執しているので、彼らに空を正しく理解させることは難しい。

5)ゆえに、十力と大悲を具えた勝利者仏陀たちは、〔事物は実体を持って〕成立しているので

はない、と述べられたのである。そこで、空を正しく空と見て、真如を見た人には空の見解が確

立される。

十力:寿命、禅定、資源、行為(業)、再生、祈願、信解、神通力、智慧、仏法のこと。

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59

以上が、「真如の考察」と言われる第 13 章である。

第 14 章 出会いの考察

A反論者の主張

諸法(一切の事物)の自性(固有の実体)は空ではないが、諸法の自性は存在する。なぜならば、

それらの出会い(接触)が示されているからである。これについて世尊は、「色(物質的存在)、

意識、眼の三つが出会うことが接触である。音、意識、耳などもみな同様である」と述べられて

いる。このように、執着、怒り、無明という〔煩悩の〕束縛によって常に〔諸法に〕とらわれて

いることを述べられたのである。しかし、もし諸法に自性が存在しないなら、出会いは成立しな

いので、事物に自性が存在しなければどうやってこれらが出会うというのか。ゆえに、諸法の自

性は存在する。

B答えて言う

もし、諸法に出会いが成立するならば、諸法は自性(固有の実体)を持つことになる。しかし、

諸法の出会いは成立しないので、自性が存在することなどどうしてあろうか。なぜならば、

1

見られる対象(色境)、見る働き(視覚)、見る人(眼識)

これらの三つは二つずつ

あるいは〔三つ〕すべてが

互いに出会うことはない

見られる対象(色境:目を通して知覚される色や形・物質的存在)、見る働き(視覚・眼根)、

見る人(眼識)という三つのうちの二つずつ、あるいは三つすべてが、互いに出会うことはない。

つまり、見られる対象と見る働きが出会うことはなく、見られる対象と見る人も出会うことはな

く、見る働きと見る人も出会うことはなく、見られる対象と見る働きと眼識の三つが出会うこと

もないのである。

2

貪り、貪る人、貪られる対象、

残りの煩悩と

残りの六処についてもまた

同様に見るべきである

このように、見られる対象、見る働き、見る人が二つずつ同時に出会うことがないのと同様に、

貪られる対象と貪る働きが出会うこともなく、貪られる対象と貪る人も出会うことはなく、貪る

働きと貪る人も出会うことはなく、これらの3つが同時に出会うこともない。これと同様に、残

りの煩悩である怒りなどすべての煩悩や、聞かれる対象、聞く働き、聞く人など六処の残りもま

た、二つずつ、あるいは三つのすべてが同時に出会うことはない。

六処(六根):眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意

根(意識)

A反論者の主張

なぜ見られる対象などが互いに同時に出会うことはないのか?

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60

B答えて言う

3

ひとつのものが他のものと出会うなら

見られる対象など〔の三つが〕

〔互いに〕他のものとして存在することはないので

それらが出会うことはない

もし、出会うということ(接触)が〔自性によって〕存在するならば、確実にひとつのものと他

のものが同時に出会うことになる。その場合、見られる対象などが別異の本質のものとして存在

することはないので、それらの三つが互いに同時に出会い、接触することはない。

4

見られる対象などだけに

別異の本質が存在しないだけでなく

どのようなものであっても、どのようなものとも

同時に別異の本質が成立することはない

前半に述べられているように、見られる対象などそれぞれ別異の事物には、事物間の別異の本質

は〔自性によって〕成立していないだけでなく、あるものと他のものが同時に存在する時も、別

異の本質は〔自性によって〕成立していない。

A反論者の主張

事物の別異の本質を直接知覚によって見ることはない、と言うならばそれは正しくない。

B答えて言う

あなたは、すべての事物の別異の本質を直接知覚として見ることができるというだけの理由でそ

う述べているならば、それだけの理由で、あなたが事物間の別異の本質を見ていないことを私た

ちはよく理解した。もし、事物間の別異の本質が〔自性によって〕存在しないなら、そしてそれ

が、たとえ天眼通(すべてを見通す神通力)によっても見ることができないものならば、あなた

のような肉体の目によって見ることができないことを述べる必要がいったいどこにあるのか?

言うにも及ばないことである。なぜならば、

5

aA は、A と別異である B に依存して、〔B とは〕別異のものになる

bA は B がなければ、〔B と〕別異のものになることはない

別異のものは何であれ、それ自体(A)と別異のものである(B)に依存して、〔B とは〕別異のも

のになる。別異のもの(B)が存在しなければ、〔B と〕別異のもの(A)になることはない。それ

なのに、それを直接知覚で見たなどといったい誰が言うだろうか?

A反論者の主張

そうであっても「別異の本質」は存在しないのではなく、「別異の本質」は確かに成立している。

B答えて言う

賢者でない者にとってはそうなるが、賢者にとってはそうはならない。

c何か(B)に依存しているもの(A)が

dそれ(B)と別異であるということは成立しない

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61

このように、他のもの(B)に依存して生じたもの(A)が、それ(B)とは別異であると述べるこ

とは正しくない。なぜならば、

6

a もし、別異のもの(A)が、別異である他のもの(B)と別異であるならば

b別異のもの(B)が存在しなくても〔A は別異のもので〕あることになる

もし、何か(B)に依存して、(B)と別異のものになったもの(A)が、それ(B)とは別異であ

るならば、別異のもの(B)が存在しなくても(A)は〔B と〕別異のものになる。

その場合、毛織物(B)に依存していないというだけで、水瓶(A)が別異の本質のものになると

言うならば、毛織物(B)に依存せずに、水瓶(A)が別異のものになることもない。ゆえに、水

瓶(A)は毛織物(B)と別異のものではない。

A反論者の主張

水瓶は毛織物と別異のものになることはないと今あなたは述べたが、まず別異のものは存在する。

B答えて言う

なぜあなたは、あなたに反論する者に従うのか? それとも、あなたは別異の本質を否定する理

由によって、別異の本質を成立させようと考えているのか?〔6 偈前半の解説に〕「もし、何か

(B)に依存して(B)と別異のものになったもの(A)が、〔それ(B)とは別異のものであるな

らば〕・・」と述べられているが、もし(B)に依存して生じた(A)が(B)と別異のものでない

ならば、あなたはどうして自らの本質だけで別異のものになると考えるのか?

cしかし、別異のもの(A)はそれ(A)と別異である他のもの(B)が存在しなければ存在しない

dゆえに、〔別異である他のもの(B)が〕存在しなければ、別異のもの(A)も存在しない

ゆえに、何か別異のもの(A)と別異である他のもの(B)が存在しなければ、別異のもの(A)は

存在しないので、それ自体の本質が別異のものになることはないため、別異のものは存在しない

と知るべきである。

A反論者の主張

あなたは、5偈1行目で、「A は、A と別異である B に依存して、〔B とは〕別異のものになる」

とただ述べるだけで、別異のものは存在しないと述べているのか? あるいは、A が B に依存して

いても別異のものにならないならば、別異のものであるとどうしてそのように言えるのか?

B答えて言う

縁起とは、そのようなものである。なぜならば、別異のものに依存して別異のもの〔が生じる〕

と言われているからであり、世間の言説に従って「別異のもの」と述べたのである。ゆえに、

〔究極のありようを〕正しくあるがままに考察するならば、

7

a別異の本質は別異のものに存在しているのではない

b別異でないものに存在しているのでもない

毛織物に依存して水瓶が別異のものだと言われるのは、毛織物に依存しているからであり、それ

自体で成立していないため、水瓶には別異の本質は存在していない。

また、毛織物に依存せず、「水瓶は別異のものではない」とただ述べることに対しても、「別異

のものではない」ということと「別異の本質が存在しない」ということは相容れないものなので、

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62

究極の真理の観点から別異のものは存在しないと述べている。ゆえに、世尊は芭蕉樹の幹を示さ

れて、芭蕉樹の幹の中は空っぽであり、何も真髄がないので、「何も存在しない」と〔いう教

え〕も述べられたのである。

A反論者の主張

もし、水瓶が〔毛織物と〕別異のものでなければ、水瓶の本質も〔毛織物と〕別異のものではな

くなってしまう。別異のものは存在せず、別異でないものも存在しないが、別異のもの〔と呼ぶ

世間の言説〕は存在する。

B答えて言う

対治の点からも、別異の本質は成立していない。なぜならば、別異でないものが成立しないから

であり、このように、別異のものに依存して別異でないものになるならば、別異の本質を考察し

てみると、それは成立していない。

c別異のものの本質は存在していない

d別異のものも、その本質も、存在していない

別異のものが存在せず、その対治が別異でないものならば、別異の本質も存在しない。もし別異

でないものが存在しなければ、その対治となる別異のものも存在しない、とこのように示したで

はないか?

A反論者の主張

別異のものに依存して何かが別異のものになるのではなく、「別異の本質」と言われるものは一

般的な概念であり、それ(別異の本質)を持つことで別異のものとなるのである。

B答えて言う

もし、別異の本質を持つことで別異のものとなるならば、〔別異のものは〕それ自体で成立して

いないので、ただ別異の本質に依存することによって別異のものになるのである。

A反論者の主張

別異の本質は別異のものだけに確実にとどまるのだから、それに依存することがどうして必要な

のか?

B答えて言う

7a別異の本質は別異のものに存在しているのではない

「別異の本質は別異のものだけに確実にとどまるのだから」と言われているのは正しくない。な

ぜならば、別異の本質は別異のものに存在しているのではないからである。その理由は次のよう

に述べられている。

7b〔別異の本質は〕別異でないものに存在しているのでもない

1)ここで水瓶は、それ自体の本質と別異のものではないので、別異のものでないものに相対す

る(対治となる)別異のものが水瓶の中に存在するのではない。もし、別異の本質が別異のもの

に確実にとどまるならば、水瓶はそれ自体の本質とは別異のものになってしまい、別異のもので

ないものにはならない。ゆえに、水瓶がそれ自体の本質と別異のものになることを受け入れるこ

とはできない。

2)このように、水瓶はそれと別異でないものには存在しないので、水瓶と別異のものにも存在

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63

しない。もし別異のものが存在するならば、それはいついかなる時でも存在することになってし

まうだろう。

3)しかしあなたが、水瓶は毛織物に依存して別異のものであり、その時水瓶に別異の本質があ

ると考えるなら、別異の本質はとどまらないと示したばかりであり、事物は依存して存在するか

らである。

4)何かが成立し、探し出すことができるものとして別異のものが存在するという考えは成立し

ない。なぜならば、それはあなたの宗派と矛盾するからである。

5)さらに、事物が二つ存在する時、その二つは出会う(接触)かもしれないが、もし出会わな

ければ、それらが出会うことはない。ゆえに、もし水瓶がそれ自体の固有の実体によって別異の

ものになることがなければ、別異の本質を持つことでどうやって別異のものになると言うのか?

水が混ざったミルクはミルクではなく、ミルクが混ざった水もまた水ではないようなものである。

6)しかし、もし水瓶が、自性(固有の実体)によって別異のものとして成立しているならば、

別異のものには別異の本質が〔自性として〕あることになり、それを調べる必要などどこにあろ

うか? ゆえに、別異の本質を持つ水瓶が別異のものになると述べることや、別異の本質は別異

のものに確実にとどまると述べることには意味がない。

A反論者の主張

別異の本質が別異のものに確実にとどまっていてもそうでなくてもよいが、あなたが別異の本質

であると主張している別異のもの、それは存在する。

B答えて言う

なぜあなたは〔藁の馬に乗って〕世間を走ろうとするのか? あなたは別異のものが存在しない

ということによって、別異のものを成立させようとしている。

7c別異のものの本質は存在していない

d別異のものも、その本質も、存在していない

もし、別異の事物が別異の本質として存在しないなら、別異のものでもそれ自体でもないものは

存在しないということをあなたは示しているだけではないのか? しかし、存在しない別異の事

物が別異のものになると言うならば、愚かでない人さえ愚か者になることになる。しかし、もし

あなたがこれを受け入れないならば、別異の事物は存在しないので、別異のものになることはな

い。

ゆえに、このように考察するならば、一切の事物に別異の本質はまったく成立していない。別異

の本質が存在しなければ、見られる対象や執着などがいったいどうやって互いに同時に出会うと

言うのか? もし出会うこと(接触)がなければ、それらが出会うという理由によってあなたが

立証しようとしている事物の自性が成立することなどどうしてありえよう? しかし、もしあな

たが、事物は別異のものであり、事物の本質でもあると考えるなら、それらが出会うということ

も成立しない。なぜならば、

8

aそれ(A)がそれ自体(A)と出会うことはない

b別異のもの(B)と〔それとは別の〕別異のもの(C)が出会うこともない

まず、それ自体がそれと出会うことはない。なぜならば、それはそれ自体だからであり、それが

それ自体とともに存在することは成立しないからである。しかし、もし成立すると言うならば、

どのようなものとでも出会うことになってしまうので、それもまた受け入れることはできない。

ゆえに、それがそれ自体と出会うということは成立しない。

さらに、「これは別異のものである」「これもまた別異のものである」と述べることができる二

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64

つのものについても、出会いは成立しない。なぜならば、それらは確かに別異の本質のものだか

らである。しかし、もし別異のものが出会うと言うならば、どんなものとでも出会うことになっ

てしまうので、これもまた成立しない。ゆえに、別異の本質のものであっても、出会いは成立し

ない。

1A反論者の主張

別異のものである二つのものがひとつに溶け合うと言うならば、例えば、ミルクと水が出会うよ

うには、別異のものが他の別異のものと出会うことはない。

B答えて言う

また、それ自体の本質が存続しつつある時、もしミルクと水が別異のものならば、その時出会い

は存在しない。なぜなら、別異のものだからである。また、ひとつのものに〔溶け合う〕時も、

出会うことはない。なぜならば、ひとつの本質のものだからである。

2A反論者の主張

〔別異のものが〕ひとつの本質のものに溶け合うこと、それが出会うことである。

B答えて言う

もし、ひとつの本質として溶け合っているものが出会うと言うならば、それらは決して出会うこ

とはない、と私たちはすでに述べなかったか? ゆえにあなたの主張は正しくない。

3A反論者の主張

別異のものが今出会いつつあることが、出会い(接触)である。

B答えて言う

もし、事物として存続しつつある二つのものが、今出会いつつあり、ひとつに溶けつつあると言

うならば、それらは別異のものなので、(ひとつが他のものとは別異であるため)それらが出会

うということは成立しない。しかし、もし、今出会いつつある二つの事物がひとつの本質のもの

に溶け合うと言うならば、「その二つは出会いつつある」という言葉は成立しない。ひとつの本

質のものとして溶け合ったものが出会うということなど、どうして可能だと言えるのか?

4A反論者の主張

部分的に半分出会っている事物が今出会いつつある、ということが出会いである。

B答えて言う

これについても同様である。まず、もしそれらの事物が半分、あるいは部分的に出会うなら、そ

の事物の一部と出会ったのだからその事物すべてに出会うというあなたの考えを分析してみると、

それは成立しない。なぜならば、それらはひとつの本質のものとして溶け合っているからである。

もしその事物の一部と出会っても、その本質が別異のものならば、その事物は〔多くの他の部分

を持つため〕別異のものであり、別異のものが出会うことなどどうしてできようか?

しかし、もしそれらの事物の一部に出会い、他の部分には出会わなかったなら、その事物自体は

半分ずつ二つになってしまう。さらに、両方の各部分との出会いは同一ではないため、出会いは

存在しない。そして出会わなかった方の一部は他方とは別異のものなので、他方と出会うことは

ない。

5A反論者の主張

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65

今出会いつつあるものが存在しないということを確立するのは容易である。しかし、まず、出会

うものならどんなものでも存在する。出会いが存在するならば、出会いが存在するため、出会い

は確かに成立する。

B答えて言う

あぁ、あなたの期待は大きい! 今出会いつつあるものは成立せず、接触を始めつつあるものも

成立しない。このように、出会いは決して成立しないのである。

その際、「ひとつの本質のものとして溶け合う」と述べる時、もしひとつの本質のものならば、

出会いなどどうして成立すると言うのか? しかし、もし出会ってもひとつの本質のものでない

ならば、それらは別異のものなので、出会うことはない。

6A反論者の主張

それらが出会わないことを確立するのは簡単である。しかし、同じ本質のものとして溶け合う以

前から、別異のものである事物が何か存在するので、まず出会う事物は存在する。

B答えて言う

なぜあなたは両性具有に嫉妬しているのか? あなたは出会いが存在しないのに、出会う事物は

存在すると主張しているのか?

出会うことによって、接触という因から生じる誰かに出会うと言うならば、出会いはいついかな

る時も成立することはない。出会いが存在しなければ、出会う者が存在するなどどうしてありえ

よう? そこで、このように、まず以前のような論理を働かせて正しい究極の真理を考察するな

らば、

c今、出会いつつある対象、出会う働き、

d出会う者もまた、存在していない

これらのものが存在しなければ、あなたが出会いについて示した論議によって、事物の自性(固

有の実体)が成立することなどいったいどうしてあるだろうか。

以上が、「出会いの考察」と言われる第 14 章である。

第 15 章自性と無自性の考察

A反論者の主張

あなたは事物が存在することを見ていないので、事物の自性(固有の実体)は存在しないと考え

て、縁起の見解と呼ばれるものは存在しているが、すべての事物には自性がないと述べている。

しかし、もしそうならば、事物はどうやって生じると言うのか? 自性がないものにも自性があ

ることになり、生起する事物にも自性がないことになってしまう。もし、事物の自性が因と条件

だけから生じるのではないならば、事物はそれ以外の何から生じるというのか? もし、毛織物

の自性は因である毛糸だけから生じるのではないと言うならば、因である毛糸の自性だけから毛

織物がどうやって生じると言うのか? もし何も生じないのなら、「生じる」という言葉はどう

して述べられたのか?

B答えて言う

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66

あなたは馬に乗っていながら、その馬を見ることはないのか? あなたは、すべての事物は他の

ものに依存して生じていると述べているのに、それらに自性(固有の実体)がないことを見てい

ない。しかし、これは心が研磨されていない人たちでさえ、容易に理解できることである。

1

a自性は因と条件から生じる〔と述べる〕ことは

b論理的に正しくない

ここで自我の本質(svobhāva)とは「自性(svabhāva:固有の実体)」のことである。存在する

自性の実体が因と条件から生じるというのは正しくない。このように、〔実体を持って〕存在す

る自性に対して、どんな行為がなせると言うのか。行為がなせないなら、因と条件にはいったい

何ができると言うのか? もし、自性が因と条件から生じたと言うならば、

c因と条件から生じた自性は

d作り出されたもの(所作性)となる

しかしこれは成立しない。

A反論者の主張

自性とは、〔因と条件によって〕作り出されたもの(所作性)のことのみを意味する。なぜなら

ば、以前存在しなかった毛織物という事物は、のちに作り出されたからである。

B答えて言う

2

a自性は所作性(作り出されたもの)であると〔あなたは〕言うが

bどうしてそれが正しいなどと言えるのか

この場合、「自性(固有の実体)」と「所作性(作り出されたもの)」というこれら二つの意味

はまったく矛盾するものである。もし「自性」ならそれは「所作性」ではない。もし「所作性」

なら「作り出されたもの」ではない。ゆえに、自性であり、かつ所作性であると考える人がいっ

たいどこにいるであろうか?

A反論者の主張

では、自性の定義をあなたはどう考えているのか?

B答えて言う

c自性とは作り出されたもの(所作性)ではなく

d他のものに依存していない〔もののことである〕

行為をなすことができないもの、因と条件に依存せず、それ自体変化することがないものは、そ

の自性によって成立している。しかし、行為によって作り出され、成立するもの(所作性)は、

因と条件に依存しており、他のものに依存しているので、自性(それ自体の固有の実体)によっ

て成立しているのではない。ゆえに、自性と呼ばれるものがいったいどうやって成立するという

のか?

A反論者の主張

何かに依存して事物となる他の事物(他性:parabhāva)は存在する。他の事物(他性)が成立す

るならば、自性もまた成立する。

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67

B答えて言う

自性は対治(相対する事物)に依存しているので、自性は成立していない。なぜならば、他の事

物(他性)の自性は成立していないからである。

3

a 自性が存在しなければ

b他性(他の事物)が存在することなどどうしてありえよう?

もし、自性が成立するならば、その対治(相対するもの)となる他性(他の事物)もまた存在す

ることになる。自性が成立せず、存在しないなら、他性(他の事物)がどうして存在することな

どあろうか。同様に、他性(他の事物)が存在しないなら、その対治となる自性が成立すること

もない。さらに、「自性も別異のものであり、他性(他の事物)も別異のものである」というこ

とはない。なぜならば、

c他の事物の自性が

d他の事物であると述べられているからである

このように、他の事物の自性は、他の事物(他性)と呼ばれる。ゆえに、もし他の事物の自性が

存在しないばかりであるならば、いったい何によってそれが存在するというのか? ゆえに、

「自性も別異のものであり、他性(他の事物)も別異のものである」ということは成立しない。

もしそうであるならば、対治自体が存在せず、それらは同一のものだからである。もし対治が存

在しないなら、どうやって対治に依存して成立するというのか?

A反論者の主張

事物の自性は存在する、あるいは存在しない、と述べることにより、あなた方に何ができるとい

うのか。まず、事物は存在する。

B答えて言う

4

自性と他性を離れて

事物がどうやって存在できるというのか

自性と他性が存在するならば

事物は成立することになる

もし何らかの事物が存在するならば、自性と他性(他の事物)が存在することになり、自性と他

性が存在すれば、事物は成立することになる。しかし、自性も存在せず、他性も存在しないなら、

自性と他性を離れて事物がどうやって存在できると言うのか? そのようなものについて語るこ

とはできず、自性も他性も存在しないなら、自性と他性を離れて事物がどうやって存在できると

言うのか?

A反論者の主張

もしそうならば、一切の事物に無自性が存在する。無自性もまた他に依存していないので、無自

性となる事物もまた存在する。

B答えて言う

たとえそうであっても、事物が〔自性によって〕成立することにはならない。なぜならば、無自

性は成立しないからであり、それについては4偈前半ですでに次のように説明した。

自性と他性を離れて

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68

事物が存在することなどあろうか

ゆえに、

5

a もし事物が成立しなければ

b無自性が成立することはない

もし自性がまったく成立しなければ、無自性が成立することはないと述べたではないか。

なぜならば、

c他の事物に変化するものを

d無自性と人は呼んでいるからである

このように、「他の事物に変わるものは何でも無自性である」と人が述べるなら、事物もまた存

在しない。事物が存在しなければ、無自性とはいったい何なのか? 無自性なら、あなたが言う

無自性の対治である事物の自性が成立することなど、どうしてありえよう?

A反論者の主張

これについては、「真如を見れば解脱に至る」と言われており、真如と言われているものは、そ

の事物の真如であり、事物の自性と言われるものである。もし事物の自性が存在しなければ、あ

なたは真如を見ることはできない。真如を見ることがなければ、解脱に至ることなどどうして成

立するだろう。ゆえに、すべての事物には自性がないと言われている見解は、良い考えではない。

B答えて言う

誤った見解に捉われてはならない。

6

自性と他性

自性と無自性を見る人々は

仏陀が説かれた真如を

見ることはない

このように、自性と他性、自性と無自性〔に実体〕を見る者は、仏陀が説かれた最勝で深遠なる

真如を見ることはない。私たちは、縁起の見解という太陽が昇ることによって現れるすべての事

物の無自性を正しくあるがままに見ることにより、私たちには真如を見ることが存在し、私たち

だけに解脱が成立することになる。なぜならば、

7

世尊は自性と無自性を示されて

『カーティヤーヤナ教誨経』において

有と無を

ともに否定された

(経典より:「カーティヤーヤナよ、およそこの世間のほとんどが有であることと無であること

に捉われているため、生老病死、悲、不満、苦、悩み、煩悩から完全に解放されることはない。

死の恐怖の苦しみから完全に解放されることもない」と、有辺と無辺をともに否定された。)

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世尊は究極の真理である真如に秀でた方であり、自性(astitva)と無自性(nāstitva)を明らか

に示された。『カーティヤーヤナ教誨経』と呼ばれる経典において、世尊は有と無の二つ〔の極

端論〕を共に否定されたのである。

ゆえに、事物を有、あるいは無として見る者は真如を見ることがないので、その者たちに解脱は

成立しない。しかし、私たちは有と無に対する捉われがなく、ただ世間の言説に従って言葉を用

いているだけなので、私たちには解脱が成立する。

もし、自性と無自性を〔自性として〕見ることが真如を見ることだと言うならば、真如を〔自性

として〕見ない人は誰もいないので、それは真如ではない。ゆえに、すべての事物には自性がな

いということ(無自性)が真如なのであり、それを見るだけで解脱に至る。アーリヤデーヴァ

(聖提婆)も次のように述べている。

輪廻の種は意識であり

すべての対象は意識が享受するものである

対象に無我を見たならば

輪廻の種は滅される (『四百論』第 14 章 25 偈)

ゆえに、このように確信したことだけを知るべきである。さらに、

8

aもし〔諸法が〕自性によって存在しているならば

bそれ(諸法)は無であることにはならない

もし、すべての事物はその自性によって存在すると言うならば、有の自性によって存在するもの

がのちに無〔の自性〕になるということはない。なぜならば、

c自性(固有の実体)が他のものに変化するということは

dいかなる時も成立しない〔からである〕

〔有の自性によって存在するものがのちに無〔の自性〕になる〕という考えの対治は自性であり、

もし、自性は永遠不変であると理解するならば、すべての事物には他のものに変化するさまが見

られるため、諸法が自性として存在するということは成立しない。

A反論者の主張

事物は〔固有の実体として〕存在しているのではないと見ることにより、一切の事物の自性は存

在しないと理解するならば、一切の事物の自性は存在しないことになってしまう。

B答えて言う

9

aもし自性が存在しないなら

b他のものに変化するのはいったい何によるものなのか?

事物には、有の本質が自性によって存在しているのではないと述べる時、もし事物の有の本質が

自性によって存在しないなら、他のものに変わるという本質はいったい何によるものなのか?

A反論者の主張

もし、事物が無自性として現れ、その現れが自性によって存在していないなら、無自性は成立し

ないことになってしまうので、無自性となる事物の自性は疑いなく存在する。

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70

B答えて言う

cもし自性が存在するとしても

d他のものに変化することがどうして正しいと言えるのか?

これについては 8 偈の後半ですでに述べられている通りである。

自性が他のものに変化するということは

いかなる時も成立しない〔からである〕

このように、変化することの対治は自性なので、自性とは不変で常住のものであると理解したな

らば、一切の事物は他のものに変わるさまが見られるため、それらの事物が自性によって存在す

るということを受け入れることはできない。

10

有るということは常見に〔なり〕

無いということは断見に〔なる〕

ゆえに、賢者たちは

有辺と無辺にとどまってはならない

「事物は〔実体を持って〕存在する」と言うことは実在論であり、常見に陥ってしまう。「事物

は存在しない」と言うことは虚無論になり、断見に陥ってしまう。ゆえに、この二つの見解には

どちらも意味がなく、害を与えることになる。また、事物を有、あるいは無と見ることは実在論

と虚無論の見解に陥ってしまうため、これもまた意味がなく、害を与えることになる。ゆえに、

真如を理解したいと望む賢者たちや、輪廻の暗闇から解脱したいと望む者たちは、有辺と無辺に

とどまってはならない。

A反論者の主張

では、有辺と無辺に捉われてしまうと、どうして常見と断見の過失に陥るのか。

B答えて言う

11

「自性によって成立するものは存在しないのではない」〔と言うならば、〕

常見〔への捉われになる〕

「以前生じたものが今は存在しない」と言うことは

断見〔へのとらわれ〕になる

「何でも自性(固有の実体)によって成立しているものが、のちに存在しなくなる」ということ

は認められない。なぜならば、自性は不変であるため、有辺の見解によって常見に陥ることにな

る。「以前生じた事物が今は存在していない」と言うことは、事物に対する有身見(我見)であ

るため、断見に陥ることになる。このように、すべての事物に対して有と無を見ることは多くの

過失を引き起こすので、〔中の道を主張する中観派は〕「すべての事物には自性がない」と主張

しているのである。ゆえに、これこそが真如を見ることであり、中の道であるため、これのみで

勝義諦(究極の真理)として成立する。

以上が、「自性と無自性の考察」と言われる第 15 章である。

【日本語試訳:マリア・リンチェン/2018 年 9 月】