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フィデル・カストロ フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスFidel Alejandro Castro Ruz ( audio), 1926 8 13 - 2016 11 25 * [1])は、 キューバ 政治家⾰命 軍⼈弁護⼠社会主義者 で、 1959 キュー バ⾰命 アメリカ合衆国 の事実上の傀儡政権 あったフルヘンシオ・バティスタ 政権を武⼒で倒 し、キューバを社会主義国家 に変えた。⾰命によっ て同国の最⾼指導者となり、⾸相 に就任。1965 から2011 までキューバ共産党中央委員会第 ⼀書記 を、1976 より2008 まで国家評議会議 国家元⾸)兼閣僚評議会議⻑(⾸相)を務め た。 国家元⾸として在職中、⽇本国内においては「ストロ議長」と呼称されることが多かった * [2]。な お、本項では本⼈を指す場合は原則として「フィ デル」の表記を⽤いる。これは、彼の弟にして後 継者であるラウル・カストロ の存在があるため で、ラウルについても本項では原則として「ラウ ル」の表記を⽤いる。 1 経歴 1.1 大学卒業まで 1926 、マヤリ近郊のビラン にて、 スペイン リシア⼈ 移⺠で裕福な農場主アンヘル・カスト ロ・イ・アルヒスの息⼦として⽣まれる。当初は マルカネにある公⽴のグラマースクールに⼊った が、 ハバナ の私⽴⼩学校 コレヒオ・ベレンを始め とするイエズス会 の学校で教育を受け、野球 熱中した。 1944 には最優秀⾼校スポーツ選⼿に 選ばれ、1945 にはハバナ⼤学 に⼊学して法律 を学んだ。 ⼤学では政治活動に参加、⾰命反乱同盟 (UTR) 加⼊する。 1948 にラテンアメリカの学⽣運動の 連合を図り、コロンビアを訪れたが、次期⼤統領 候補だった⾃由党 の指導者ホルヘ・エリエセル・ ガイタン との会談を予定していたその⽇にガイ タンが暗殺され、コロンビアはボゴタソ(ボゴタ 暴動)に突⼊した。フィデルもボゴタソに参加し、 政府軍 との衝突に加わった * [3]1950 に⼤学を 卒業した。 1.2 弁護士時代 卒業後、1950 年から1952 の間に弁護⼠として 貧困者のために活動。その後フィデルはオルトド クソ(保守)党から 1952 年の議会選挙に⽴候補し たが、将軍フルヘンシオ・バティスタ 率いるクー デター によってカルロス・プリオ・ソカラス の政 府が倒され、選挙の結果は無効となった。その後、 フィデルは憲法裁判所 にバティスタを告発した。 請願は拒絶され、フィデルは裁判所を糾弾した。 1.3 武装闘争 1.3.1 モンカダ襲撃 7 26 ⽇運動(M-26-J)のՌ フィデル(左ઐ)とゲバラ(右ઐ) その後フィデルは武装勢⼒を組織し、1953 7 26 に、130 名の仲間とともにモンカダ兵営ンティアーゴ・デ・クーバ)に対する攻撃を⾏っ た。攻撃者の 80 ⼈以上が死に、フィデルは逮捕 された。裁判ではカトリック 司教の仲裁で死刑は 免れたが、懲役 15 年が宣告され、投獄される。獄 中ではホセ・マルティ などを愛読、「歴史は私に 1

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Page 1: フィデル・カストロsosin108.com/pdf/Fidel Castro.pdfフィデル・カストロ フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel AlejandroCastroRuz( audio),1926年8

フィデル・カストロ

フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(FidelAlejandro Castro Ruz ( audio), 1926年8⽉ 13⽇ -2016年11⽉ 25⽇*[1])は、キューバの政治家、⾰命家、軍⼈、弁護⼠。社会主義者で、1959年のキューバ⾰命でアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武⼒で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。⾰命によって同国の最⾼指導者となり、⾸相 に就任。1965年 から2011 年 までキューバ共産党中央委員会第⼀書記を、1976年より2008年まで国家評議会議⻑(国家元⾸)兼閣僚評議会議⻑(⾸相)を務めた。

国家元⾸として在職中、⽇本国内においては「カストロ議長」と呼称されることが多かった*[2]。なお、本項では本⼈を指す場合は原則として「フィデル」の表記を⽤いる。これは、彼の弟にして後継者であるラウル・カストロ の存在があるためで、ラウルについても本項では原則として「ラウル」の表記を⽤いる。

1 経歴

1.1 大学卒業まで

1926年、マヤリ近郊のビランにて、スペインのガリシア⼈ 移⺠で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルヒスの息⼦として⽣まれる。当初はマルカネにある公⽴のグラマースクールに⼊ったが、ハバナの私⽴⼩学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944年には最優秀⾼校スポーツ選⼿に選ばれ、1945年にはハバナ⼤学に⼊学して法律を学んだ。

⼤学では政治活動に参加、⾰命反乱同盟 (UTR)に加⼊する。1948年にラテンアメリカの学⽣運動の連合を図り、コロンビアを訪れたが、次期⼤統領候補だった⾃由党の指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタン との会談を予定していたその⽇にガイタンが暗殺され、コロンビアはボゴタソ(ボゴタ暴動)に突⼊した。フィデルもボゴタソに参加し、政府軍との衝突に加わった*[3]。1950年に⼤学を卒業した。

1.2 弁護士時代

卒業後、1950年から1952年の間に弁護⼠として貧困者のために活動。その後フィデルはオルトド

クソ(保守)党から 1952年の議会選挙に⽴候補したが、将軍フルヘンシオ・バティスタ率いるクーデターによってカルロス・プリオ・ソカラスの政府が倒され、選挙の結果は無効となった。その後、フィデルは憲法裁判所にバティスタを告発した。請願は拒絶され、フィデルは裁判所を糾弾した。

1.3 武装闘争

1.3.1 モンカダ襲撃

7⽉ 26⽇運動(M-26-J)の

フィデル(左 )とゲバラ(右 )

その後フィデルは武装勢⼒を組織し、1953年7⽉26⽇に、130名の仲間とともにモンカダ兵営(サンティアーゴ・デ・クーバ)に対する攻撃を⾏った。攻撃者の 80⼈以上が死に、フィデルは逮捕された。裁判ではカトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役 15年が宣告され、投獄される。獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に

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2 1 経歴

無罪を宣告するだろう」を発刊する。1955年5⽉に恩赦によって釈放され、2カ⽉後にメキシコに亡命、後にアメリカに移住して活動を続けた。メキシコ亡命時代にはバティスタの意向を受けたメキシコ警察によって逮捕されたが、フィデルを⾒込んだメキシコ⾰命 の⼤成者だった元⼤統領ラサロ・カルデナスの歎願によって釈放された*[4]。

1.3.2 「グランマ号」

1956年12⽉ 2⽇、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でトゥスパン(ベラクルス州,メキシコ)から他の「7⽉ 26⽇運動」のメンバー、総勢82 名とともに、マンサニヨ(グランマ州, キューバ)へ上陸。その時点ではフィデルはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。キューバ革命後の1959年後半にフィデルはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。フィデルが明確にソビエト連邦を中⼼とする東側諸国への接近を企図するのは、1961年4⽉のピッグス湾事件の後である。しかし⽇中の上陸であったためにキューバ空軍により攻撃され、激しい戦闘で当初の 82⼈のうちの18⼈だけが⽣き残りマエストラ⼭脈へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。⽣存者の中には⾰命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。フィデルの運動は⺠衆の⽀援を獲得し、800⼈以上の勢⼒に成⻑した。

1.3.3 勝利

1958 年5 ⽉ 24 ⽇、バティスタはフィデルの軍に対して 17の⼤隊を送り出した。数字上では圧倒されていたにもかかわらず、フィデルの軍隊は政府軍兵⼠の多くの軍務放棄によって、⼀連の勝利を成し遂げた。1959年1⽉ 1⽇、フィデルの軍隊は⾸都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期⼤統領カルロス・リベロ・アグエロ は国外に亡命 した。フィデルの軍はハバナを⽀配下に置き、キューバ⾰命が成就した。

1.4 最高指導者として

⾰命後、⾸相に就任したフィデルは、キューバ共産党による⼀党独裁体制を敷いた。共産党の党⾸である第⼀書記の地位にあったフィデルは、国家の最⾼指導者として君臨した。1976年からは国家評議会議⻑として正式に国家元⾸の地位に就いた。しかし他の社会主義政権の最⾼指導者に⾒られるような、⾃⾝の巨⼤な肖像写真や銅像を⼀切作らせていない。これは前政権の独裁者バティスタと同⼀視されるのを忌避するためと⾔われている。

1.4.1 経済政策

⾰命直後はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努⼒したが、フィデルを「容共的」と忌避したアメリカとの関係を⾒限ってソビエト と接近し、同時にユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの⼤企業の農園やハバナに⽴ち並ぶカジノホテル(その多くがアメリカ政府と密接な関係を持つマフィア の持ち物であった)などのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推し進めたために、アメリカはキューバとの断交と禁輸措置を発動し、それに対抗するようにソビエトはサトウキビと⽯油のバーター貿易(事実上の経済⽀援)などを通じてキューバ⽀援を⾏った。

その関係は1991年のソビエト崩壊まで続いたものの、ソビエト崩壊によって冷戦が終結したことでバーター貿易も経済⽀援もストップしたため近年は深刻な経済状態が続いており、その為にいかだ等を使⽤して経済亡命する事件が後を絶たず、カストロ兄弟のみならず国家全体の悩みの種となっている。この様な経済⾯での失政から、「⾰命家は年⾦をもらってまで⽣きるようなことはしない。私はマルクスやエンゲルスやレーニンと⼀緒に地獄に落ちるだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に較べれば何でもない」と語ったこともある*[5]。なお、⾰命後に⼟地の国有化を推進し、その⼀環として実家の農園をも例外とせずに取り上げたために実⺟から絶縁された。娘を含めてカストロ体制を嫌うキューバ⼈の多くが亡命し、反カストロ派の海外における⼀⼤拠点となっているアメリカのマイアミに亡命している。

1.4.2 亡命者問題

1980年3⽉ 28⽇に、カストロ体制を嫌う亡命希望者を乗せたバスがハバナのペルー⼤使館 の⾨を突破した。続く 48時間に 10,000⼈以上のキューバ⼈が⼤使館に逃げ込んだ。フィデルは4⽉ 20⽇にマリエルの港からボートで出国できることを発表する。亡命希望者たちはマリエルからボートで出国を始め、彼らは「⾃由⼩艦隊 freedom flotilla」として知られるようになる。アメリカ沿岸警備隊によると、9⽉ 26⽇にマリエルが閉鎖されるまで、124,776⼈のキューバ⼈が出国したとされる。

1.4.3 宗教政策

キューバはスペイン の植⺠地だったこともあり、国⺠の⼤半はもともとキリスト教徒(カトリック)であったが、社会主義⾰命を標榜するフィデルは頑なな無神論者であり、キリスト教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに⼊れるなどの宗教弾圧政策を実施した。ローマ教皇ヨハネ 23世は1962年1⽉3⽇にフィデルを破⾨した。これは1949年にピウス 12世が発した法令によるものであったが、カ

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1.4 最⾼指導者として 3

トリック信徒たりつづけることを以前から放棄していたフィデルにとってこの破⾨は重要な出来事ではなく、カトリック教徒によるフィデルへの⽀援を妨害するために⾏われたと予想されたが、そうであったとする証拠はほとんど無い。

ただし、ヨハネ・パウロ 2世とフィデルの関係は以前の教皇に⽐べれば若⼲良好であった。1992年にフィデルはキリスト教徒に対する融和策を導⼊している。ヨハネ・パウロ 2世はアメリカによるキューバへの通商停⽌に対して「不正で、倫理的に承諾しがたい」と⾮難を⾏い、その後バチカンとフィデルの関係は改善する。フィデルは1996年11⽉にはバチカンを表敬訪問し、ヨハネ・パウロ 2世に謁⾒。宗教弾圧政策を事実上放棄した。

1998年、ヨハネ・パウロ 2世はキューバを訪問する。これはローマ教皇による初めてのキューバ訪問であった。教皇は訪問がキューバにおけるカトリック教会の建設促進が⽬的であったと強調し、政治的問題への関係を避けたが、カトリック学校の開設許可のために政府による教育規制の撤廃と、キューバ国内の病院で⾏われている妊娠中絶を批判した*[6]。教皇の訪問後、キューバ政府はクリスマスを再び休⽇とし、宗教的⾏事の公然実施を認めた。

2005年4⽉のヨハネ・パウロ 2世の死去の際には、フィデルはハバナ⼤聖堂でのミサに参列した。それは 1959年に妹の結婚式に出席して以来 46年ぶりのことであった。ミサを司式した枢機卿 ハイメ・オルテガはダーク・スーツを着たフィデルを歓迎し、「私たちの教皇ヨハネ・パウロ 2世の死がキューバで⼼より悼まれた」ことに対して謝意を表した*[7]。

1.4.4 外交政策

アメリカとの対立・ソビエトとの友好 1959年 1⽉の⾰命によってフィデルが全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認した。しかし、新政府がアメリカ企業の資産没収と国有化を実施すると、アメリカとの関係は⽇増しに悪化する。フィデルは 4 ⽉にホワイトハウス を訪れ、副⼤統領のリチャード・ニクソンと会談する。⼤統領のドワイト・D・アイゼンハワーは「ゴルフ中」で会えないという弁解を⾏ったことからも、当時アメリカがフィデルを軽視していたことが窺える。

同年 12⽉、アメリカ国家安全保障会議は「容共的かつアメリカにとって不利益をもたらす」としてカストロ政権転覆を決定した。この計画は古代ローマの独裁者ユリウス・カエサルの暗殺に因んで「ブルータス 作戦」と呼ばれた。いわゆる「ピッグス湾事件」もこれに含まれる。その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が⽴案されるが、全て失敗に終わった。1961年4⽉のピッグス湾事件がアメリカの中央情報局 (CIA)によって訓練された侵攻軍の敗退に終わると、同年5⽉ 1⽇にフィデルはキューバ⾰命

1959年のアメリカ訪問時のフィデル

ニキータ・フルシチョフと(1961年)

2000年12⽉、ウラジーミル・プーチン(左)と

が社会主義⾰命であることを宣⾔した。

キューバ国内のアメリカ系⽯油精製所が⽯油の供給を拒否し、キューバは1960年2⽉にソビエトから⽯油を購⼊する協定に署名した。アメリカは

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4 1 経歴

キューバとの国交を断絶し、アイゼンハワー政権の間にキューバはソビエトとの関係を深める。フィデルとソビエト共産党第⼀書記ニキータ・フルシチョフとの間で様々な協定が調印され、キューバはソビエトから⼤量の経済・軍事援助を受け取り始めた。

1960年 9⽉、ニューヨークでの国連総会で約 4時間半に及ぶ初演説を⾏った。この訪⽶時にアメリカの圧⼒を受けたことと、それに対するキューバ側のあてつけが⾏われ、キューバ代表団が国連本部の芝⽣にテントを張ったり、治安が不安定だったハーレムのホテルに泊まったりした上に、キューバ航空機が差し押さえられるなどの冷遇を受けた。

キューバ危機以降の対米・対ソ関係 フルシチョフの回想録によると、1962 年 の春にクリミア半島で休暇を過ごしている間に、アメリカの攻撃に対する抑⽌⼒としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。フルシチョフはラウル率いるキューバの代表団と会談してこの考えを提案した。その結果、ソビエト製の核ミサイルがキューバに配備された。

1962年10⽉ 15⽇、アメリカのU-2偵察機がミサイル発射装置の建設を発⾒した。ジョン・F・ケネディ⼤統領率いるアメリカ政府は10⽉ 22⽇にその事実を公表し、キューバに向かう船舶の臨検を⾏い、海上封鎖を実⾏した。

⽶ソ間の緊張が⾼まり、核戦争の危機が現実味を帯びると、ケネディとフルシチョフは、アメリカがトルコ からジュピターミサイル を撤去するのと引き替えに、ソビエトがキューバからミサイルを撤去することで合意した。しかし緊張が緩和された後も、キューバとアメリカの対⽴は決定的なものとなった。

フィデルはアメリカを敵視する⼀⽅で、アメリカと妥協したソビエトに対しても不信感を募らせた。だが、ソビエトとの友好関係はキューバの重要な政策であり、フィデルはソビエトとの関係維持に努めた。フルシチョフ失脚後、ソビエトに対する不信感を解消したフィデルは、1968年の「プラハの春」においてソビエト軍によるチェコスロバキア侵攻に理解を⽰した。しかし、このようなソビエトへの態度が、チェ・ゲバラとの決別の⼤きな要因になった。

1989年に冷戦が終結し、1991年にはソビエトが崩壊した。ソビエトの後継国家であるロシア連邦との関係は、ソビエト時代に⽐べて薄れた。また、アメリカとの関係についてはキューバ側が積極的に関係改善を⽬指しているが、フロリダ州などを中⼼に⼤きな影響⼒を持っているキューバ系アメリカ⼈財団など、反カストロ派ロビイストの影響を受けているアメリカの保守派は禁輸措置の解除に反対している。

1990 年代 はキューバと疎遠になっていたロシア

連邦 は、2000 年代 に⼊ってウラジミール・プーチン 政権になると、アメリカを牽制する意味から、キューバとの関係を再び強化しており、元⾸同⼠の訪問や海軍艦隊の寄港を⽴て続けに⾏っている。

現在でもキューバはアメリカから禁輸措置を受けている。なお、アメリカはキューバのハリケーンなどの被害に対する⼈道的⽀援は例外的に⾏う姿勢を⾒せているが、フィデルはアメリカの申し出に感謝を表しながらも、「もし真の協⼒の意志があるならキューバに不可⽋の輸出を許可し、アメリカ企業による信⽤供与を妨害すべきではない」として⽀援を拒否している。

ラテンアメリカ諸国 冷戦時代、アメリカの後押しを受けている反共的軍事独裁政権が多かったラテンアメリカ諸国とは、メキシコなど⼀部の国としか交流がなく、関係は悪かった。

1971年には⽶州機構の慣例にも関わらず、社会主義者のサルバドール・アジェンデが⼤統領となったチリがキューバと外交関係を再確⽴する。フィデルは 1カ⽉にわたってチリを訪問した。訪問中にアジェンデとの信頼関係を築き、公的な助⾔を与えた。このため、⻄側諸国からは「チリの社会主義化への道」と⾒なされた。1972年 7⽉にはチリに続き、「軍部⾰命政権」を標榜していたペルーの軍事政権フアン・ベラスコ・アルバラードが、キューバとの国交を回復した*[8]。しかしその後アジェンデは、1973年にチリ軍部と野党が計画し、CIAが⽀援したアウグスト・ピノチェトのクーデターにより失脚、殺害された(チリ・クーデター)。

1983年10⽉にグレナダでクーデターが起こり、ハドソン・オースティンを⾸班とする⾰命軍事評議会が設⽴されると、フィデルは同政権を⽀援した。これに対しアメリカがグレナダ侵攻を⾏うと、同国内においてアメリカ軍とキューバ軍が交戦した。

冷戦末期の1987 年1 ⽉には、ブラジル 政府との間でホットラインを開設し、国交回復へ向けて両国関係は急展開する。以降、フィデルは中南⽶外交シフトを⽰し、冷戦終結後、ラテンアメリカ諸国で反共的軍事独裁政権が崩壊すると、キューバはブラジル、ベネズエラなど多くの国と国交を回復した。特に近年は、反⽶的政策を取るベネズエラのウゴ・チャベスやボリビアのエボ・モラレスと親しい関係を築き、南アメリカにおける「反⽶同盟」の盟主的な存在となった。

また、ラテンアメリカ諸国に対し、まるで宗主国さながらに振る舞い続けるアメリカの外交政策と、冷戦下のアメリカによる軍事独裁政権へのあからさまな後援を嫌うラテンアメリカの多くの国⺠からは、フィデルのアメリカに頑なに対抗する姿が、容共、保守の別を問わず、内外で⾼い共感を得ているといわれている。

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1.5 引退と晩年 5

中華人民共和国 ⾰命直後は、同じ社会主義政権の⼀党独裁国家である中華⼈⺠共和国 との友好を図る。ゲバラらが中国を訪問して⽑沢東らと会⾒しているが、中ソ論争が激しくなると中国との関係は悪化した。さらに中国は貿易問題と政治問題を結びつけてきたため、フィデルは中国政府を「強盗」と批判し、以後は対⽴関係にあった。

1970 年代 に起きたアンゴラ内戦 ではキューバとソビエトが政府側(MPLA)を⽀援して多数の軍隊を派兵したのに対し、中国は関係を回復しつつあったアメリカ合衆国、及びアパルトヘイト を敷いていた南アフリカ共和国 と共同で反政府側(UNITA、FNLA)を⽀援した。しかし現在、キューバと中国との関係は親密であり、中国はキューバにとって軍事⾯・資⾦⾯において有⼒な援助国となっている。中国はキューバにとって第 2の貿易相⼿国*[9]であり、アメリカの対キューバ禁輸措置が続く中で、キューバにとって中国は⾷料・経済⽀援などを頼れる⽋かせない国である*[10]。フィデルは中国からの援助を評して「今、新しい動⼒が現われた。それは中国とベネズエラだ」と述べ、中国、ベネズエラとの通商関係に謝意を表した。⼀⽅、四川⼤地震で中国が甚⼤な被害を受けた際、キューバの医療チームの活動に対して国家主席の胡錦濤は「中国の党、政府、⼈⺠は永遠にこれ(医療チームの活動)を⼼に刻む」と感謝の意を表した*[11]。2008 年 に起きたハリケーンの際には、キューバ政府はアメリカからの⼈道⽀援は断っているが、中国政府代表団はキューバに対する貿易債務繰り延べに加えて、港湾・病院などの近代化⽀援やハリケーン被害の復興⽀援などに総額 7000万ドルの⽀援を⾏うと約束した。このように、冷戦終結後のキューバは中国との関係を良好にしている。

しかしその⼀⽅で、中国が対⽴し領有権を主張する台湾(中華⺠国)についても、同じ⼩国として連帯感を強く持っており、2003年8⽉ 15⽇、台湾副総統呂秀蓮とパラグアイで会った際、台湾の境遇に強い関⼼を⽰したり*[12]、2010年7⽉ 12⽇、キューバ国営テレビのインタビューで「台湾は国連に加盟する権利がある」と明らかにしている*[13]。

ヨーロッパ諸国・カナダ キューバ⾰命に成功した当時、キューバの旧宗主国であり、伝統的に⾮常に絆が強いスペインはフランシスコ・フランコによるファシスト政権であったが、左右正反対であるキューバとは国交を維持した(なお、スペイン内戦 で共和国側を⽀持したメキシコとの間では、スペインは国交断絶状態を続けた)。この背景には、スペインにとってキューバは⽶国に奪われた⼟地という歴史的事情があり、その⽶国の⽀配からキューバを解放したフィデルに対する敬意があったと⾔える。

1976年に、当時のカナダ⾸相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず⻄側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を

⾏い、フィデルと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの⽀援として 400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を⾏った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議⻑の⻑命と、キューバ、カナダ両国⺠の友情を祈る」と話した。

トルドーとフィデルの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から 1990年代にかけてキューバを数度訪れている。フィデルは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。

1.5 引退と晩年

2000年代に⼊り⾼齢になり体⼒が衰え、⻑時間の演説が徐々に短くなり、倒れこむ場⾯も⾒られるようになった。

2006年7⽉ 31⽇、フィデルは「腸に急性の問題が発⽣し、出⾎が続いているため外科⼿術を受けた」ことを明らかにし、そして「数週間程度、ラウルに権限を暫定移譲する」との声明を発表した。しかし、その後回復が思わしくなく、暫定移譲期間は⻑期化していった。2008年2⽉ 19⽇、フィデルは共産党の機関紙グランマにおいて、国家評議会議⻑と軍最⾼司令官を引退する意向を⽰した。2⽉ 24⽇、ハバナの国際会議場で開催された⼈⺠権⼒全国会議においてフィデルは国家評議会議⻑兼閣僚評議会議⻑を退任し、後継にはラウルが就任した。

国家元⾸引退後は論評を執筆して党の機関紙に投稿する⽣活を送っている。後継のラウルが「重要事項はフィデルへ助⾔を求める」と表明していることから、時々ラウルからの求めに応じて助⾔もしているようである。その後、2008年12⽉ 16⽇を最後に翌年1 ⽉ 18 ⽇ までの 1ヶ⽉論評が掲載されなかったことからフィデルの病状悪化説が浮上。これに対してベネズエラのチャベス⼤統領は健康悪化説を否定した。2009年2⽉ 19⽇、フィデルがハバナでチリの⼤統領ミシェル・バチェレと会⾒した際の写真をチリ政府が発表し、AP通信経由で公開されている*[14]。同年8⽉ 24⽇の BBCワールドニュースで、1年振りに地元テレビにフィデルの映像が流れたことを報じた*[15]。2010 年7 ⽉ 7 ⽇、国⽴の科学研究施設を訪問し、引退後初めて公の場に姿を表した。キューバのブログ「⾰命」には、施設訪問したフィデルについて「痩せていたが健康そうだった」と記されていた。8⽉ 7⽇には議会で演説を⾏ない、健康状態がかなり良くなっているとの推測もあった*[16]。2011 年4 ⽉ 19 ⽇、第 6 回キューバ共産党⼤会において、フィデルは党第⼀書記を正式に辞任した*[17]。後任には 2006年より代⾏を務めていたラウルが選出された。第⼀書記辞任により、キューバ⾰命以来、およそ 50年にわたり務めた全公職から退き、政界から引退することとなった*[18]。2013年2⽉ 3⽇に⾏われた⼈⺠権⼒全国会議の

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6 2 ⼀般的なイメージとエピソード

選挙に際してフィデルはハバナ市内の投票所で投票し、「久しぶりに公の場に姿を⾒せた」と報じられた*[19]。なお、この選挙でもフィデルは候補者となっている。

2016年4⽉ 19⽇、第 7回キューバ共産党⼤会の閉会式にジャージ姿で出席して 10分間演説し、「私がここで話すのはおそらく最後だ」と述べるとともに⾷糧や⽔の問題などを「次世代が解決すべき課題」として挙げた*[20]。演説の最後には「まもなく、私もほかの⼈と同じように、その時が来るだろう」と述べていた*[20]。2016年 8⽉ 13⽇、満 90歳の誕⽣⽇を迎え、ハバナ市内の劇場でおこなわれた記念イベントに出席した*[21]。同⽇付で党機関誌「グランマ」に寄稿した⽂章では、5⽉のバラク・オバマの広島訪問について、原爆投下への謝罪がなかったことを批判した*[21]。2016年 9⽉ 22⽇、フィデルは⾃らの私邸に於いてキューバを公式訪問した⽇本の安倍晋三⾸相と会談し、⽇本・キューバの⼆国間関係発展など幅広い議論を取り交わした*[22]。これがフィデルにとって G7⾸脳との最後の会⾒となった。なお外国⾸脳との最後の会⾒は11⽉ 15⽇に⾏われたベトナム国家主席のチャン・ダイ・クアンとの会⾒が最後となった*[23]。

1.6 死と葬儀

2016年11⽉ 25⽇、弟のラウル・カストロが国営テレビを通じて「キューバ⾰命の最⾼司令官が今夜(25⽇夜)午後 10時 29分(⽇本時間 26⽇午後 12時 29分)に死去した」と発表した*[1]。90歳没。遺⾔に基づいて遺体は⽕葬され、12⽉ 4⽇に⾰命発祥の地サンティアーゴ・デ・クーバで国葬が⾏われた後、同地の墓地(サンタ・エフィヘニア墓地)に埋葬されると発表された*[24]。社会主義国家の指導者の遺体が永久保存 の上で展⽰される例が複数存在する中、このような措置は珍しいことである*[25]。遺⾔について「⾃⾝の死後、さまざまな機関や広場、公園、道路などの公共施設に⾃分の名前や肖像は使⽤されたくないと主張し、その態度は⼈⽣最期のときまで⼀貫していた」、また「記念碑や像といった同様の形態のもの」もあってはならないと述べていた*[26]。2016年 12⽉ 4⽇、フィデルの遺⾔通り、午前中に遺⾻がサンタ・エフィヘニア墓地の墓に埋葬された。⾃ら墓に兄の遺⾻を納めたラウルは「フィデルの銅像や肖像画を公共の場に飾るのを禁⽌する法案を次回の国会で提案する」と述べ*[27]、27⽇に開催された国会で上程・可決された*[28]。ただしフィデルを題材にした映画や著作や⾳楽などの芸術作品の制作や、各地の施設等に既に飾られている写真については規制対象とはしなかった*[28]。

2 一般的なイメージとエピソード

⻑年の間事実上の独裁体制を敷いてきていた上、経済政策⾯などでは決して評価が⾼いとは⾔えない⾯はあるが、個⼈崇拝を嫌い、私利私欲に安易に振り回されない強固な信念の持ち主として、今なお賛否両論が分かれる⼈物である。

2.1 暗殺計画

2006 年に国家評議会議⻑兼閣僚評議会議⻑の権限を暫定的にラウルに移譲するまでに暗殺を 638回計画されたといわれ、命を狙われた回数が最も多い⼈物としてギネスブックへの掲載が決まっている*[29]*[30]。そのうち⼤半はCIAなどによるフィデル暗殺計画で、147回計画されたといわれる。⾰命後にアメリカのマフィアが経営していたカジノを追放したことにより、マイヤー・ランスキーなどのマフィアからも暗殺の標的となる。また 1960年に CIAがマフィアに 15万ドルでカストロの暗殺を依頼していたことが 2007年の⽂書公開で判った*[31]*[32]。1979 年 10 ⽉にニューヨークで⾏われる国連総会に向かう航空機内にて、アメリカ⼈ジャーナリストのジョン・アルパートの「ニューヨークにはあなたを殺したいと思っている⼈がたくさんいますが?」という問いかけにフィデルは「⼈は死ぬときは死ぬんだよ。それが運命だ」と答え、「あなたはいつも防弾チョッキを着ていると聞いていますが」という問いかけには、フィデルはシャツのボタンを外し、肌を露出させ防弾チョッキを着ていないことを⾒せて「着ていないよ。モラルってチョッキは着てるけどね。これがあれば強い」と答えている*[33]。

2.2 共産主義指導者としての批評

2006 年、アメリカのワシントン・ポスト 紙の付録誌「パレード」の『世界最悪の独裁者』という特集記事で、第 15位に選出されるなど、アメリカやラテンアメリカ諸国においては「社会主義かぶれの独裁者」として批判を受けることも多いものの、「ラテンアメリカを植⺠地のように扱うアメリカにかたくなに抵抗し続けるヒーロー的な存在」として、容共的な⼈々のみならず反共産主義者の間においても⼼理的な⽀持者が多いと⾔われている。

特にベネズエラのウゴ・チャベスは、フィデルを師匠のように敬愛していた他、ボリビアのエボ・モラレス⼤統領とも友好関係にある。政治家以外ではサッカー選⼿のディエゴ・マラドーナと親交があった。同じアルゼンチン出⾝のチェ・ゲバラとともに彼の左派発⾔の⼟台を作ったとされている。国内においても、独裁者として君臨している

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2.3 葉巻 7

⾰命広場(ハバナ)にあるホセ・マルティ記念碑の前で演説するフィデル

ブラジリアを訪れ歓迎を受けるフィデル

にもかかわらず同様な理由からカリスマ 的な⼈気が根強くある。なお、フィデルは⽑沢東を「クソ野郎」と呼び、キューバ危機の際に⾃分にまったく相談せずにミサイル撤去に応じたニキータ・フルシチョフが失脚したのを聞き、鏡を叩き割って罵ったと⾔われているが、実際にはキューバ危機後にフィデルはソビエトのフルシチョフのもとへ 2回訪問し、2⼈で事件を冷静に振り返ったうえで、⾃⼰批判までしている*[34]。独裁ゆえに権⼒維持に執着してしまいがちな他の独裁国家の指導者と違い、⾎族へのものとはいえ、⾃らの政治指導が困難とみなすと潔く権⼒の移譲を表明する柔軟さを、⾼く評価されることもある(⾎族で唯⼀政治家であるラウルはモンカダ兵営襲撃事件からの仲間であり、フィデルの主義からして⾎族という観点からの評価でラウルに移譲し

たとは考えにくい)。事実、彼は⾮常に⾃分が美化されることに神経質で独裁国家によくある公共の場における指導者賛美のプロパガンダが⼀切存在せず、むしろ⾃分が Tシャツのプリントや絵画に描かれることを嫌っている。また、キューバでは特定の政治指導者が偶像 化するのを避けるため、存命中の⼈物のモニュメントを公共の場所に飾ることを法律で禁じている。よって、既に死亡したゲバラを讃えるモニュメントはあっても、⽣前のフィデル⾃⾝も含め、存命中の⼈物のモニュメントは存在しない*[35]。共産主義に対して極めて真摯な考えを持ち、⾃⾝がアメリカのフォーブス の世界⻑者番付、君主・独裁者部⾨に 9 億ドルの財産を持つとして 7 位にランクインされたことに激怒し、「気分が悪くなる報道だ。なぜ、こんなバカバカしい記事に対して、⾃分を弁護しなければならないのか」「もし誰かが、私の⼝座が国外にあって 1ドルでも預けてあると証明するなら、私は議⻑を辞める」と発⾔した。アメリカのメディアはほぼすべてが反(フィデル・)カストロであるためたびたび⼤病を患った、⼤怪我をしたなどと書かれていた。

2.3 葉巻

キューバの最⼤の特産物で、⾃らの好物でもある⾼級葉巻 を⾰命闘争時代から常に⽋かさなかったことから、葉巻愛好家の間では象徴的な存在であった。葉巻はゲリラ戦時に寄ってくるハエやアブなどから顔を守る為に始めた。⼜、⾰命の主役である者たちのトレードマークである髭も同様の理由からである。しかし、⾃⾝の健康と、国⺠に禁煙の重要さを説くため、1986年に禁煙宣⾔を出し、⾃ら禁煙している。

2.4 長時間の演説

フィデルは⻑時間の演説を⾏うことでも有名で、数時間に及ぶスピーチも⼀般的だという。かつて党⼤会で 10時間以上に及ぶ政治報告を⾏ったこともある。本⼈も⾃分の演説が⻑いことを⾃覚している模様で、とあるパーティでスピーチに⽴った際、冒頭で「⼤丈夫、今⽇は早く終わらせるから」とジョークを⾔い、出席者を笑わせたことがある。

2.5 親日家・野球人として

フィデルは親⽇家 として知られている。2003 年に来⽇した際には、外国の要⼈としては珍しく原爆ドームを視察、慰霊碑に献花・黙祷して「⼈類の⼀⼈としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」とのコメントを残している。ちなみに、チェ・ゲバラも 1959年に広島を訪れている。1989年の昭和天皇崩御の際には喪に服した。

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8 3 家族

1996 年 にキューバを訪問した創価学会 の池⽥⼤作名誉会⻑・SGI(創価学会インタナショナル)会⻑との⾯会ではおよそ 1時間にわたって会談し、⾰命以来初めてスーツ姿で公式⾏事に望んだ。その後、フィデルは病気療養中の2007年にSGI(創価学会インタナショナル)のキューバ国内での活動を公認している。

最晩年の 2015年 3⽉には⾃宅に⽇本庭園を造営している。キューバ野球連盟の幹部を務める 4男のアントニオが 2009年に⽇本を訪れた際、熱海観光で⽇本庭園の業者の研修所を利⽤したことがきっかけで、2014年に業者の社⻑が訪れた際にフィデルに提案し、実現したものである*[36]*[37]。しかもその業者は、2016年の安倍晋三⾸相のキューバ訪問の際、安倍の⾃宅の庭園の造営も⼿がけていたことが判明し、両者は「このようなことによって両国間の⽂化交流が深まれば良い」と意気投合したという*[38]。また、野球⼈として⽇本の野球に対して敬意を表している。2006年3⽉のワールド・ベースボール・クラシック(WBC) の決勝戦、⽇本と戦うことになったキューバだが、フィデルは試合前、キューバ選⼿団に「試合に“勝て”とは⾔っていない。“ベストを尽くせ”と⾔っている」という名⾔を残す。そして試合当⽇、キューバは善戦したが、結局は⽇本に敗れ、⽇本が優勝、キューバは準優勝という結果に終わったが、フィデルはキューバ選⼿団を空港まで出迎え、その後に⾸都ハバナで開かれた政府主催の式典で「⾦でも銀でもいいじゃないか!決勝に⾏けたことが素晴らしいんだ!」と⾃国選⼿を称えたうえで、「藤⽥宗⼀選⼿からホームランを打ったことは、素晴らしかった(要約)」「⽇本⼈選⼿の名前の読み⽅がよく分からない。マスコミに聞いてくれ(要約)」と積極的に⽇本⼈選⼿について発⾔している。

2009年のWBCでは、3⽉ 12⽇放送のテレビ朝⽇系列『スーパーJチャンネル』にて、⽇本チームを批判する発⾔をしたとも報じられたが、これは番組側の誤訳であり、翌 13⽇の放送で謝罪している*[39]。⽇本が連覇を達成すると、監督の原⾠徳の投⼿起⽤法を⾼く評価し、決勝打を放ったイチローを「世界最⾼の打者」と述べるなど、その偉業を最⾼の賛辞で讃えた*[40]。また、元⽇本野球連盟会⻑の⼭本英⼀郎と⼤変親しく、常 「々彼は私の⼤切な親友だ」と公⾔していた。⼭本の死の際には、⾃ら弔電を打って哀悼の意を表した。

2.6 カストロ政権でのオリンピック選手団

フィデルが政権を握って以降、オリンピックキューバ選⼿団はかなり強豪であり、東側寄りである。

1976年のモントリオールオリンピックでは 8位に輝き、ソビエト軍のアフガン侵攻でアメリカや

⽇本など⻄側がボイコットした1980 年 のモスクワオリンピックでは 4位に輝いたが、1984年のロサンゼルスオリンピック ではソビエトと共に参加をボイコットしており、1988年のソウルオリンピックも不参加であった。冷戦後の1992年のバルセロナオリンピックでは 5位に、1996年のアトランタオリンピックは 8位に、2000年のシドニー・オリンピックでは 9位に輝いた。2008年の北京オリンピックでは関係修復した中国に対して「中国が並外れて素晴らしいオリンピックとパラリンピックの開催に成功した」と祝福した*[41]。

3 家族

弟のラウル・カストロ

3.1 兄弟

フィデルは 3⼈兄弟で、うち 1⼈に同じ軍⼈・⾰命家の弟で、⾃らの後継となった現国家評議会議⻑ラウル・カストロがいる。

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9

3.2 結婚歴

1948年に同窓のミルタ・ディアス・バラルトと結婚した。しかし、1950年代に⾼名な医師の妻のナタリア・リベルタと不倫したため、ミルタは 4男を出産した後に離婚届を役所に提出した。1980年には、トリニダード・トバゴ出⾝のダリア・ソト・デル・バジュと不倫の末に結婚した。

3.3 子女

フィデルはミルタ・ディアス・バラルトとの間に4男を儲けて、すべてがキューバに居住しているが、いずれも政治的には⾼い地位には就いていない。⻑男のディアスバラールト・フィデル・カストロ(フィデリト・カストロ)(1949年9⽉ 1⽇ -)は、原⼦⼒の専⾨家であり、キューバ政府最⾼科学顧問で、学位はモスクワ⼤学博⼠(原⼦⼒⼯学)*[42]。三男のアレックス・カストロは、写真家で親韓派でもある*[43]。その⼀⽅、娘と称したアリーナ・フェルナンデス・リベルタ(アリーナの⺟は上記のようにフィデルとの不倫関係は認めているが、アリーナの⽗親がフィデルであることを否定しており、アリーナの実⽗は不明である)は、アメリカに亡命して、アメリカの市⺠権を得ている。

4 その他

• 映画監督オリバー・ストーン のインタビューを受けた際、フィデルは⾃⾝が好きな男優はチャールズ・チャップリン、好きな⼥優はソフィア・ローレンとブリジット・バルドーだと答えている。反⽶主義者であるが、⾼等教育を受けたこともあり訛りが強いものの英語を話す若き⽇の姿が映像に残っている。

• 2001年にマニック・ストリート・プリーチャーズがキューバ史上初の⻄側ロックバンドによるライブを開催した際、⾯会したメンバーが「⼤⾳量のライブになる」と伝えたところ、フィデルは「戦争よりも⼤⾳量にはならないだろう」と答えた。これがきっかけで、ライブDVDのタイトルには「Louder Than War」が選ばれた。このライブにはフィデルも訪れており、ライブ映像に記録されている。

5 脚注

[1] フィデル・カストロ⽒死去= 90歳、キューバ⾰命の英雄時事ドットコム 11⽉ 26⽇付

[2] ⽇本のマスコミ、とくに新聞報道では、フィデルが元⾸に就任して以降も⻑年の慣例からか 1993 年あたりまで肩書を元⾸呼称である「カストロ議⻑」

ではなく「カストロ⾸相」と呼称していた。ただし、⾸相にあたる役職を兼務していたので、誤りではない。

[3] 後藤政⼦・樋⼝聡編著『キューバを知るための 52章』(明⽯書店、2002年 12⽉)、68 - 69ページ。

[4] 後藤政⼦・樋⼝聡編著『キューバを知るための 52章』(明⽯書店、2002年 12⽉)、70 - 71ページ。

[5] 宮本信⽣『カストロ⺠族主義と社会主義の狭間で』(中公新書、1996年)

[6] http://www.cnn.com/WORLD/9801/22/pope/

[7] http://www.caribbeannetnews.com/2005/04/05/mourns.shtml

[8] 増⽥義郎・柳⽥利夫『ペルー太平洋とアンデスの国近代史と⽇系社会』(中央公論新社、1999 年)、210ページ。

[9] 貿易総額 27億ドル・約 2600億円

[10] http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/081119-225309.html

[11] http://www.excite.co.jp/News/china/20081120/Searchina_20081120037.html

[12] 呂秀蓮邀卡斯楚訪台古巴總統多次重申反戰 2003年 08⽉ 16⽇、蘋果⽇報。

[13] 卡斯楚擴⼤反美挺台灣⼊聯 2010年 07⽉ 14⽇、蘋果⽇報*。

[14] http://www.google.com/hostednews/ap/slideshow/ALeqM5hTj2Yz6s6mAPhmPlTe1mflJhocEQD96AS4400?index=0&ned=uk Fidel Castro smiling in photos withChilean leader

[15] http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/8217422.stm

[16] “カストロ前議⻑、4年ぶり国会演説…弟けん制?”(⽇本語). 読 新聞. (2010年 6⽉ 1⽇) 2010年 6⽉1⽇閲覧。

[17] フィデル⾃⾝が 2011年 3⽉に発表した記事によると、2006年に体調が悪化した際に、党第⼀書記職を辞任していたという。“共産党トップ 5 年前に辞任カストロ前キューバ議⻑”. 東京新聞 (2011年3⽉ 23⽇). 2011年 4⽉ 17⽇閲覧。“カストロ前議⻑、共産党トップ 06年に辞任と公表”. 朝⽇新聞(2011年 3⽉ 23⽇). 2011年 4⽉ 17⽇閲覧。

[18]“カストロ前議⻑が政界から完全引退キューバ”.産経新聞 (2011年 4⽉ 20⽇). 2011年 4⽉ 23⽇閲覧。

[19] 86歳のカストロ前議⻑も投票キューバの国会議員選挙 - 47NEWS(共同通信)2013年 2⽉ 4⽇

[20] “カストロ前議⻑が「お別れ演説」キューバ共産党⼤会”. 朝⽇新聞. (2016年 4⽉ 20⽇) 2016年 7⽉25⽇閲覧。

[21] “カストロ前議⻑「広島で謝罪なかった」⽶⼤統領を批判”. 朝⽇新聞. (2016年 8⽉ 14⽇) 2016年12⽉ 14⽇閲覧。

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10 7 著書

[22] “安倍総理とフィデル・カストロ前国家評議会議⻑の会談” (⽇本語) (HTML) (プレスリリース),⽇本国外務省, (2016年 9⽉ 23⽇) 2016年 11⽉ 26⽇閲覧。

[23]“Fraterno encuentro de Fidel con el Presidente deVietnam”(スペイン語). Cubadebate (2016 年 11 ⽉15⽇). 2016年 11⽉ 26⽇閲覧。

[24] “「反⽶の象徴」の死…悲しみ包まれるハバナ”.⽇本テレビ. (2016年 11⽉ 27⽇) 2016年 11⽉ 27⽇閲覧。

[25] 2016年時点で現存するものとしてウラジーミル・レーニン、⽑沢東、ホー・チ・ミン、⾦⽇成、⾦正⽇がある。過去にはヨシフ・スターリン、クレメント・ゴットワルド、ゲオルギ・ディミトロフ、ダムディン・スフバートル、ホルローギーン・チョイバルサンも該当者であった。なおホー・チ・ミンは遺⾔で⽕葬と遺⾻の分⾻を指⽰していたが、実⾏されなかった。

[26] “キューバ・カストロ前議⻑の遺⾔「記念碑は作るな」”. AFP通信. (2016年 12⽉ 4⽇) 2016年 12⽉4⽇閲覧。

[27] 平⼭亜理 (2016年 12⽉ 4⽇). “カストロ前議⻑を埋葬「偶像化禁⽌」次期国会提案へ”. 朝⽇新聞2016年 12⽉ 29⽇閲覧。

[28] Oddly Enough (2016年 12⽉ 28⽇).“キューバ、「フィデル・カストロ」の名前使⽤を禁じる法律制定”.ロイター 2016年 12⽉ 29⽇閲覧。

[29] “カストロ⽒、最も命狙われた⼈物前議⻑がギネス記録”. 共同通信. (2011年 12⽉ 16⽇) 2011年 12⽉ 17⽇閲覧。

[30] “「最も命を狙われた男」ギネス記録を持つのは…”. 読 新聞. (2011年 12⽉ 16⽇) 2011年 12⽉ 17⽇閲覧。

[31] CIA、カストロの暗殺に 15万ドルを提⽰⽂書公開で明らかに AFPBB 2007年 06⽉ 27⽇ 21:28

[32] CIA's“Family Jewels”- full report (PDF)

[33] Fidel's Moral Vest - Youtube(11/29/2016)

[34] ニキータ・フルシチョフ『フルシチョフ封印されていた証⾔』草思社 1991年

[35] ⼾井⼗⽉『カストロ銅像無き権⼒者』新潮社 2003年

[36]“カストロ⽒⾃宅に⽇本庭園造園の⽇本⼈3⽉訪問予定も…”. スポーツニッポン (2016年 11⽉ 27⽇). 2016年 11⽉ 28⽇閲覧。

[37]“「⾃宅の中は質素」⽇本庭園業者”. 毎⽇新聞 (2016年 11⽉ 27⽇). 2016年 11⽉ 28⽇閲覧。

[38]“カストロ前議⻑⾃宅⽇本庭園を安倍⾸相に披露”. 毎⽇新聞 (2016年 9⽉ 23⽇). 2016年 11⽉ 28⽇閲覧。

[39] この報道のもととなった政府系サイトとはCubaDebate のことである。原⽂はここ から参照できる(スペイン語)。英語翻訳版のReflectionsby Comrade Fidel: A FAIR AND CONSTRUCTIVECRITICISMもあわせて⽰す。

[40] Reflections by Comrade Fidel: EVERYTHING WASSAID(スペイン語原⽂)。

[41] “胡錦涛主席、キューバ共産党のカストロ第 1書記を⾒舞う”. ⼈⺠⽇報. (2008年 11⽉ 19⽇) 2015年4⽉ 22⽇閲覧。

[42] 2011年 10⽉ 27⽇、ドクター苫⽶地ブログ

[43] カストロの 3⼈⽬の息⼦アレックス「家族はみな韓国ドラマのファン」『中央⽇報』⽇本語版 2014年 11⽉ 05⽇付

6 参考文献

タッド・シュルツ著、新庄哲夫編訳『フィデル・カストロカリブ海のアンチヒーロー』⽂芸春秋、1998年

7 著書

•『わがキューバ⾰命』池上幹徳訳理論社 1961

•『カストロ演説集』⾼橋勝之訳新⽇本出版社1965

•『カストロ選集第 1巻 (祖国か死か)』⼑江書院編集部編訳⼑江書院 1966

•『カストロ選集第 2巻 (勝利への確信)』⼑江書院編集部編訳⼑江書院 1966

•『カストロの提⾔世界の経済的社会的危機』岡部広治訳ほるぷ出版 1983

•『フィデル・カストロ 20 世紀最後の提⾔グローバリゼーションと国際政治の現況』デイビッド・ドイッチマン編渡辺邦男訳 VIENT2005

•『少年フィデル』柳原孝敦 監訳トランスワールドジャパン 2007

•『思想は武器に勝るフィデル・カストロ⾃選最新演説集 2003〜 2006年』⽩野降⾬訳 VIENT2008

•『チェ・ゲバラの記憶』柳原孝敦監訳トランスワールドジャパン 2008

•『同志諸君! フィデル・カストロ反グローバリズム演説集』安濃⼀樹訳こぶし書房 2009

•『カストロは語る』越川芳明訳⻘⼟社 2010

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11

•『フィデル・カストロみずから語る⾰命家⼈⽣』イグナシオ・ラモネ著伊⾼浩昭訳岩波書店 2011

•『フィデル・カストロ⾃伝勝利のための戦略キューバ⾰命の闘い』⼭岡加奈⼦,⽥中⾼,⼯藤多⾹⼦,富⽥君⼦訳明⽯書店 2012

•『キューバ⾰命勝利への道フィデル・カストロ⾃伝』⼯藤多⾹⼦,⽥中⾼,富⽥君⼦訳明⽯書店 2014

8 関連映画

• オリバー・ストーン監督映画『コマンダンテ』、2003年、スペイン・アメリカ合作

• チェ・ゲバラ &カストロ -邦題にはゲバラの名があるが主⼈公はカストロである。

• ゴッドファーザーPARTII• ぜんぶ、フィデルのせい -タイトルはフィデル・カストロに由来しているが、直接的にカストロ役は登場しない。

• チェ28歳の⾰命 / 39歳別れの⼿紙

9 ビデオ・ゲーム

• THE GODFATHER2 -宮殿で主⼈公に暗殺されそうになったが命をとりとめた。

10 関連項目

• ホセ・マルティ

• カストロ主義(en:Castroism)• キューバ⾰命

• チェ・ゲバラ

• ジョン・F・ケネディ• 左翼ナショナリズム

• 社会主義

• コロンビア⾰命軍

• サンディニスタ⺠族解放戦線

• ファラブンド・マルティ⺠族解放戦線

• ダニエル・オルテガ

• ウーゴ・チャベス

• ⽶国の対キューバ禁輸措置

• キューバ計画

• フィデル・カストロ暗殺未遂事件

11 外部リンク

• Sovetika.ru - site about Soviet era

• Archive of Fidel Castro's speeches in 6 languages

• Fidel Castro History Archive at Marxists InternetArchive.

• Collection of Castro's speeches

• Fidel Castro biography with pictures and sound clips

• Official Site for Fidel: The Untold Story(2001)

• “A Visit With Castro” Arthur Miller tells abouthis encounter with Castro(December 24, 2003)inThe Nation.

• Cuban exile Humberto Fontova about Castro andCuba

• Cuba: Socialism and Democracy by Peter Taaffe

• CIA Inspector General's Report on Plots toAssassinate Castro

• Cidob biography in Spanish

• PBS American Experience Interactive site on FidelCastro with a teacher's guide

• Prominent People - Fidel Castro

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12 文章および画像の出典、投稿者、ライセンス

12.1 文章• フィデル・カストロ 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD?oldid=62616763 投稿者: Suisui、Hermeneus、Kinori、0null0、Opponent、Johncapistrano、KAWASAKI Hiroyuki、Robbot、Mig~jawiki、NDR、⾼⽊あゆみ、Gbr3、STB-1、Waza fire、Paranoid android、Polyester、Gakuinryou、霧⽊諒⼆、SuisuiBot、⽵⻨⿂、T@ka、編集しても良いですか?、Unamu、Muyo、ブリキ、Toto-tarou、Jkr2255、Machine gun、Kumatora、Kanoe、NKEISK、Robsan、Ajtnk、YurikBot、RCBot~jawiki、H-shige、Marine-Blue、ImmanuelGiel、クロウ、経済準学⼠、Zwobot、KASAGI、はぜ、橄欖岩、Punipico、LeonardoRob0t、DCyokohama、松茸、Mithridates、Narucy、Tast、Eskimbot、FlaBot、O^tsuka、Bandalgom、MelancholieBot、Chlewbot、Kuro-hato、Calvero、Bearbook、RoadN、Championship2006、Libertas、Straysheep、Enthousiasme、悠卯⽃、くまたろう、コンスタンティノープルからの使者、Akino601、Okozuchi、20060410、Takeler、酒井貴広、⼀騎当千、Vina-iwbot~jawiki、Bcxfu75k、Escarbot、Sashimu、TuvicBot、BOT-Superzerocool、JAnDbot、Knua、−1g、MSS、Thijs!bot、Tiyoringo、SSPC、⿅両性証明、⽵太郎、Sgi1962、Hoteism2006、E'I1Lr3v、ぬまぶくろう、Floreal、CommonsDelinker、いろはにほへと、⾁欲獣、てきすい、John Q II、VolkovBot、TXiKiBoT、獰猛スイマー1000、AlleborgoBot、Nonnonba、ラッツ、SieBot、従軍医師団、WP、Louperibot、Ponta2、Loveless、Idioma-bot、Piece of Ashtray、LePied-bot~jawiki、Geogie、Hatabon、成明、しまあじ、Isebito、Reedo、Alexbot、ダブルで、DragonBot、花蝶⾵⽉雪⽉花警部、PixelBot、Fizzle2007、Tommy6-bot、R28Bot、クモハモハ⼤王、Alecs.bot、ベム・ウーゴ、Soichik、あるふぁるふぁ、Point136、Locust-of-abaddon、Luckas-bot、Nallimbot、Jotterbot、HerculeBot、けいとん、⼤久保友裕、ぎぶそん、Lucas、Xqbot、超プロ住⺠、Rasalghul、毒リンゴ、S-alfeyev、Katsuo0228、模様砂漠 2、RHDIA、TobeBot、JungleCrow、Stukn、泉州⼤夫惟宗朝⾂、TjBot、紅い利⽤者、Yhnfhd、Akkus、EmausBot、WCCbot、ZéroBot、半⽉熊、AmbassDeChon、森園千歳、Lubrican、WikitanvirBot、星海聖夜、Haveanicekavy、MerlIwBot、Halo1331、AvocatoBot、ProtoplasmaKid、Hruygo、上州⼒、Misjonarz、英丸、Dexbot、トマス秋茄⼦、ソヴェン、たいすけ 55、Addbot、アノニマシズ、Jacklamf1d14、1m064、Sinshimoda、K-iczn、Yqm、ねんねこ、ゆたかしげる、Inception2010、Sammy Of Blue、FIRMVILLE、NyokiBot、エリクセン、K r0722、Cewbot、Sinhako、焔夢様および匿名: 169

12.2 画像• ファイル:Castro-kruschev.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Castro-kruschev.jpg ライセンス:Public domain投稿者: ? 原著者: ?

• ファイル:Che-airport-14mar65.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/Che-airport-14mar65.jpg ライセンス: Public domain投稿者: Oficina de Asuntos Históricos de Cuba原著者: anonimous (la foto fue tomada en Cuba por agentes delservicio secreto cubano en 1964)

• ファイル:Commons-logo.svg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/Commons-logo.svg ライセンス: Publicdomain投稿者: This version created by Pumbaa, using a proper partial circle and SVG geometry features. (Former versions used to beslightly warped.) 原著者: SVG version was created by User:Grunt and cleaned up by 3247, based on the earlier PNG version, created byReidab.

• ファイル:Cuba.FidelCastro.02.jpg出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/15/Cuba.FidelCastro.02.jpgライセンス: CC BY 3.0 br投稿者: Photograph copied from the website of Agência Brasil. 原著者: Ricardo Stuckert/ABr.

• ファイル:FidelCastro840.jpg出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/FidelCastro840.jpgライセンス: CC BY3.0 br投稿者: ? 原著者: ?

• ファイル:Fidel_Castro5_cropped.JPG出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Fidel_Castro5_cropped.JPGライセンス: CC BY 3.0 br投稿者: Agência Brasil [1]原著者: Antônio Milena/ABr

• ファイル:Fidel_Castro_-_MATS_Terminal_Washington_1959.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Fidel_Castro_-_MATS_Terminal_Washington_1959.jpgライセンス: Public domain投稿者: ? 原著者: ?

• ファイル:Fidel_Castro_Signature.svg出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/99/Fidel_Castro_Signature.svgライセンス: Public domain投稿者: Traced in Adobe Illustrator from w:File:Signature of Fidel Castro.png原著者: Fidel Castro

• ファイル:Flag_of_Cuba.svg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bd/Flag_of_Cuba.svg ライセンス: Publicdomain投稿者: Drawn by User:Madden原著者: see below

• ファイル:M-26-7.svg出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/M-26-7.svgライセンス: Public domain投稿者:self drawn, based on information found at FOTW原著者: Oliver Wolters

• ファイル:Raúl_Castro.JPG出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fa/Ra%C3%BAl_Castro.JPGライセンス: CCBY 3.0 br投稿者: Agência Brasil [1]原著者: Valter Campanato

• ファイル:Speaker_Icon.svg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/Speaker_Icon.svg ライセンス: Publicdomain 投稿者: コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、投稿者⾃⾝による作品だと推定されます(著作権の主張に基づく)原著者: コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、Mobiusだと推定されます(著作権の主張に基づく)

• ファイル:Vladimir_Putin_in_Cuba_14-17_December_2000-5.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Vladimir_Putin_in_Cuba_14-17_December_2000-5.jpgライセンス: CC BY 4.0投稿者: http://www.kremlin.ru/events/photos/2000/12/137684.shtml原著者: Presidential Press and Information Office

• ファイル:Wikinews-logo.svg出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Wikinews-logo.svgライセンス: CC BY-SA 3.0投稿者: This is a cropped version of Image:Wikinews-logo-en.png. 原著者: Vectorized by Simon 01:05, 2 August 2006 (UTC)Updated by Time3000 17 April 2007 to use official Wikinews colours and appear correctly on dark backgrounds. Originally uploaded bySimon.

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