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オードリー・ヘプバーン ヘプバーンのサイン オードリー・ヘプバーン: Audrey Hepburn * [† 1]1929 5 4 - 1993 1 20 )は、 イギリ ス⼈ で、 アメリカ合衆国 ⼥優。⽇本ではヘップ バーンと表記されることも多い * [† 2] * [† 3]。ハリ ウッド⻩⾦時代に活躍した⼥優で、映画界ならび にファッション界のアイコン として知られる。国映画協会 (AFI) の「最も偉⼤な⼥優 50 」では 3 位にランクインしており、インターナショナ ル・ベスト・ドレッサーにも殿堂⼊りしている。 ヘプバーンはブリュッセル イクセル で⽣まれ、 幼少期をベルギーイングランド で過ごした。ランダ にも在住した経験があり、第⼆次世界⼤ 戦中にはナチス・ドイツが占領していたオランダ アーネム に住んでいたこともあった。各種資料 の⼀部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」 とするものがある。これは、戦時中にナチス・ドイ 占領下にあったオランダ で、「オードリー」と いう名があまりにイギリス⾵であることを⼼配し た⺟エラが、⾃らの名前をもじって(EllaEddaした)⼀時的に変えたものである * [1]5 歳ごろ からバレエ を初め、アムステルダム ではソニア・ ガスケル (en:Sonia Gaskell) のもとでバレエを習い、 1948 年にはマリー・ランバート にバレエを学ぶた めにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞 台に⽴った経験がある。 イギリスで数本の映画に出演した後に、1951 のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi (1951 play)) で主役を演じ、1953 年には『ローマの休 』でアカデミー主演⼥優賞 を獲得した。そ の後も『麗しのサブリナ』(1954 年)、『尼僧物 』(1959 年)、『ティファニーで朝⾷を』(1961 年)、『シャレード』(1963 年)、『マイ・フェア・レ ディ』(1964 年)、『暗くなるまで待って』(1967 年)などの⼈気作、話題作に出演している。⼥ 優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデ ミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞英国ア カデミー賞 を受賞し、舞台作品では 1954 年の ブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』 (en:Ondine (play)) トニー賞 を受賞している。さ らにヘプバーンは死後にグラミー賞 エミー賞 も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラ ミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない⼈物 の⼀⼈となっている。 ヘプバーンの⼥優業は年齢と共に減っていき、後 半⽣のほとんどを国際連合児童基⾦(ユニセフ) での仕事に捧げた。ヘプバーンがユニセフへの貢 献を始めたのは 1954 年からで、1988 年から 1992 年にはアフリカ、南⽶、アジアの恵まれない⼈々 への援助活動に献⾝している。1992 年終わりに は、ユニセフ親善⼤使 としての活動に対してアメ リカ合衆国 における⽂⺠への最⾼勲章である統領⾃由勲章 を授与された。この⼤統領⾃由勲章 受勲⼀カ⽉後の 1993 年に、ヘプバーンはスイス の⾃宅で⾍垂癌 のために 63 歳で死去した * [2] * [3] * [4]1 前半生 ヘプバーンは、1929 5 4 ⽇にベルギーの⾸ ブリュッセル イクセル に⽣まれ、オードリー・ キャスリーン・ラストンと名付けられた * [5]。⽗親 オーストリア・ハンガリー帝国ボヘミア のウジ ツェ出⾝のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラ ストン(1889 - 1980 年)である * [† 4]。ジョゼフ の⺟親はオーストリア系のアンナ・ユリアナ・フ ランツィスカ・カロリーナ・ラストンで * [6]、⽗ 親はイギリス、オーストリア系のヴィクター・ジョ ン・ジョージ・ラストンだった * [7]。ジョゼフはヘ プバーンの⺟エラと再婚する以前に、オランダ領 東インド で知り合ったオランダ⼈⼥性コルネリ ア・ビショップと結婚していたことがある * [8]。後 にジョゼフはラストンという姓を、より「貴族的 な」⼆重姓であるヘプバーン=ラストンへと改名 した。ジョゼフは⾃⾝のことを、スコットランド ⼥王メアリ の三番⽬の夫である第 4 代ボスウェ ル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔であると信じ 込んでいたことによるが * [8]、ジョゼフがジェーム ズ・ヘプバーンの⾎をひいていたという事実はな * [7]ヘプバーンの⺟エラ・ファン・ヘームストラ(1900 - 1984 年)はフリース⼈ の⾎を引く、バロネ の称号を持つオランダ貴族だった。エラの⽗ 親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ (en:Aarnoud van Heemstra) で、1910 年から 1920 にかけてアーネム 市⻑を、1921 年から 1928 年に かけてスリナム 総督を務めた政治家である。エラ の⺟親のエルブリフ・ヘンリエッテもオランダ貴 族の出⾝だった。エラは 19 歳のときに、ナイト 爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・ クオールズ・ファン・ユフォルトと結婚したが、 1925 年に離婚している。エラとヘンドリクの間に 1

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Page 1: オードリー・ヘプバーンsosin108.com/pdf/Audrey Hepburn.pdfオードリー・ヘプバーン ヘプバーンのサイン オードリー・ヘプバーン(英: AudreyHepburn*[†

オードリー・ヘプバーン

ヘプバーンのサイン

オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn*[†1]、1929年5⽉ 4⽇ - 1993年1⽉ 20⽇)は、イギリス⼈で、アメリカ合衆国の⼥優。⽇本ではヘップバーンと表記されることも多い*[† 2]*[† 3]。ハリウッド⻩⾦時代に活躍した⼥優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。⽶国映画協会 (AFI) の「最も偉⼤な⼥優 50 選」では第 3 位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂⼊りしている。

ヘプバーンはブリュッセル のイクセル で⽣まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダ にも在住した経験があり、第⼆次世界⼤戦中にはナチス・ドイツが占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。各種資料の⼀部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にナチス・ドイツ占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス⾵であることを⼼配した⺟エラが、⾃らの名前をもじって(EllaをEddaとした)⼀時的に変えたものである*[1]。5 歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル (en:Sonia Gaskell) のもとでバレエを習い、1948 年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に⽴った経験がある。

イギリスで数本の映画に出演した後に、1951 年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi (1951play)) で主役を演じ、1953 年には『ローマの休⽇』でアカデミー主演⼥優賞 を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954 年)、『尼僧物語』(1959 年)、『ティファニーで朝⾷を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964 年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの⼈気作、話題作に出演している。⼥優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞 を受賞し、舞台作品では 1954 年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞 とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない⼈物の⼀⼈となっている。

ヘプバーンの⼥優業は年齢と共に減っていき、後半⽣のほとんどを国際連合児童基⾦(ユニセフ)での仕事に捧げた。ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは 1954 年からで、1988 年から 1992年にはアフリカ、南⽶、アジアの恵まれない⼈々への援助活動に献⾝している。1992 年終わりには、ユニセフ親善⼤使としての活動に対してアメリカ合衆国 における⽂⺠への最⾼勲章である⼤統領⾃由勲章を授与された。この⼤統領⾃由勲章受勲⼀カ⽉後の 1993 年に、ヘプバーンはスイスの⾃宅で⾍垂癌のために 63 歳で死去した*[2] *[3]*[4]。

1 前半生

ヘプバーンは、1929 年 5 ⽉ 4 ⽇にベルギーの⾸都ブリュッセルのイクセルに⽣まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた*[5]。⽗親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出⾝のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である*[† 4]。ジョゼフの⺟親はオーストリア系のアンナ・ユリアナ・フランツィスカ・カロリーナ・ラストンで*[6]、⽗親はイギリス、オーストリア系のヴィクター・ジョン・ジョージ・ラストンだった*[7]。ジョゼフはヘプバーンの⺟エラと再婚する以前に、オランダ領東インド で知り合ったオランダ⼈⼥性コルネリア・ビショップと結婚していたことがある*[8]。後にジョゼフはラストンという姓を、より「貴族的な」⼆重姓であるヘプバーン=ラストンへと改名した。ジョゼフは⾃⾝のことを、スコットランド⼥王メアリ の三番⽬の夫である第 4 代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔であると信じ込んでいたことによるが*[8]、ジョゼフがジェームズ・ヘプバーンの⾎をひいていたという事実はない*[7]。ヘプバーンの⺟エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984 年)はフリース⼈ の⾎を引く、バロネス の称号を持つオランダ貴族だった。エラの⽗親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ(en:Aarnoud van Heemstra) で、1910 年から 1920 年にかけてアーネム市⻑を、1921 年から 1928 年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。エラの⺟親のエルブリフ・ヘンリエッテもオランダ貴族の出⾝だった。エラは 19 歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クオールズ・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925 年に離婚している。エラとヘンドリクの間に

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Page 2: オードリー・ヘプバーンsosin108.com/pdf/Audrey Hepburn.pdfオードリー・ヘプバーン ヘプバーンのサイン オードリー・ヘプバーン(英: AudreyHepburn*[†

2 2 ⼥優業

は、アールノート・ロベルト・アレクサンデル・クオールズ・ファン・ユフォルト(1920 年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クオールズ・ファン・ユフォルト(1924 年 - 2010 年)の⼆⼈の男⼦が⽣まれている*[8]*[9]。ジョゼフとエラは、1926 年 9 ⽉にジャカルタで結婚式を挙げた。その後⼆⼈はベルギーのイクセルへ戻り、1929 年にオードリー・ヘプバーンが⽣まれた。さらに⼀家は 1932 年 1 ⽉にリンケビーク(en:Linkebeek)へと移住している*[10]。ヘプバーンはベルギーで⽣まれたが、⽗ジョゼフの家系を通じてイギリスの市⺠権も持っていた*[5]。⺟の実家がオランダだったことと、⽗親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって*[† 5]、⼀家はこの三カ国を頻繁に⾏き来していた。このような⽣い⽴ちもあって、ヘプバーンは英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を⾝につけるようになった。

1.1 幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代

ヘプバーンの両親は 1930 年代にイギリスファシスト連合に参加し*[11]、とくに⽗ジョゼフはナチズムの信奉者となっていった*[12]。また、ジョゼフは⼦供たちの⼦守と性的関係を持っており、エラがこのことを知ると、ジョゼフは家庭を捨てて出て⾏った*[13]。その後 1960 年代になってから、ヘプバーンは⾚⼗字社 の活動を通じて⽗ジョゼフとダブリン で再会している。ジョゼフはヘプバーンに対して⾁親の情を既に失っていたが、ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けた*[14]。ジョゼフが家庭を捨てた後、1935 年にエラは⼦供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエラの最初の夫ヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クオールズ・ファン・ユフォルトとの間の息⼦たちは、⽗親と共にデン・ハーグに住んでいた。1937年にエラと幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。ヘプバーンはエラム (en:Elham) という村の⼩さな私⽴⼥学校に⼊学し、14 ⼈の少⼥たちのまとめ役となった *[15] *[16]。第⼆次世界⼤戦が勃発する直前の 1939 年に、⺟エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは第⼀次世界⼤戦 では中⽴国であり、再び起ころうとしていた世界⼤戦でも中⽴を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。1939 年から 1945 年にわたってヘプバーンはアーネム⾳楽院に通い、通常の学科に加えてウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス⾵の響きを持つ」名前は危険だとして、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942 年に、⺟エラの姉ミーシェと結婚していた貴族の伯⽗オットー・ファン・リ

ンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異⽗兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう⼀⼈の異⽗兄アールノートも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に⾝を隠している*[17]。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン⺟娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖⽗アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ (en:Velp, Gelderland) 近郊へと⾝を寄せた。⼤戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、重度の貧⾎と呼吸器障害、浮腫 に悩まされた*[18]。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨⾞に詰め込まれて輸送されるユダヤ⼈たちを何度も⽬にしました。とくにはっきりと覚えているのが⼀⼈の少年です。⻘⽩い顔⾊と透き通るような⾦髪で、両親と共に駅のプラットフォームに⽴ち尽くしていました。そして、⾝の丈にあわない⼤きすぎるコートを⾝につけたその少年は列⾞の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を⾒届けることしか出来ない無⼒な⼦供だったのです」と語っている*[19]。1944 年ごろには、ヘプバーンはひとかどのバレリーナ となっていた。そしてオランダの反ドイツレジスタンス (en:Dutch resistance) のために、秘密裏に公演を⾏って資⾦稼ぎに協⼒していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物⾳ひとつ⽴てることのない最⾼の観客でした」と振り返っている*[20]。連合国軍がノルマンディーに上陸しても⼀家の⽣活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦 の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの⾷料、燃料不⾜は深刻なものとなっていた。1944 年にオランダ⼤飢饉が発⽣したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害⼯作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根の粉を原料に焼き菓⼦を作って飢えをしのぐ有様だった*[12] *[21]。当時のヘプバーンは何もすることがなかったときには絵を描いていたことがあり、少⼥時代のヘプバーンの絵が今も残されている*[22]。戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、連合国救済復興機関 から物資を満載したトラックが到着した*[23]。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を⼊れすぎたオートミールとコンデンスミルクを⼀度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている*[24]。そして、ヘプバーンが少⼥時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献⾝につながったといえる*[12]*[21]。

2 女優業

Page 3: オードリー・ヘプバーンsosin108.com/pdf/Audrey Hepburn.pdfオードリー・ヘプバーン ヘプバーンのサイン オードリー・ヘプバーン(英: AudreyHepburn*[†

2.2 『ローマの休⽇』と⾼まる⼈気 3

2.1 キャリア初期

1945 年の第⼆次世界⼤戦終結後に、⺟エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。アムステルダムでヘプバーンは 3 年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった*[25]。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。カルル・ファン・デル・リンデンとヘンリー・ジョセフソンが製作した教育⽤の旅⾏フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった*[26]。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948 年にヘプバーンは⺟親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド⼈の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団 (en:Rambert Dance Company) で学んだ。ヘプバーンが⾃⾝の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンがこのままバレエの世界で成功するだろうと請け合った。ただしヘプバーンの 170cmという⾝⻑と*[27]、第⼆次世界⼤戦下の成⻑期に⼗分な栄養が摂れなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいかもしれないという懸念も⼝にしている。いずれにせよ、ヘプバーンはこのランバートの⾔葉を信じて演劇の世界で⽣きていくことを決⼼した*[28]。ヘプバーンが映画スターになった後に、ランバートは「彼⼥(ヘプバーン)は⼤変な努⼒家でした。もし彼⼥がバレエを続けていたとしても、素晴らしいバレリーナとなったことでしょう」と語っている*[29]。当時ヘプバーンの⺟エラは下働きの仕事で家計を⽀えていたが、ヘプバーン⾃⾝も⾦銭を稼ぐ必要に迫られていた。ヘプバーンは⾃⾝がバレエで研鑽を積んでいることから、舞台作品のコーラスガールがいいのではないかと考えた。後にヘプバーンは「私にはお⾦が必要でした。舞台の仕事はバレエの仕事よりも 3 ポンド以上⾼給だったのです」と語っている*[30]。ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのヒッポドローム劇場(en:Hippodrome, London) で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948 年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアター(en:Cambridge Theatre) で上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に⽴つようになってから、ヘプバーンは⾃⾝の声質が舞台⼥優としては弱いことに気付き、⾼名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある*[31]。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーション (en:Associated British PictureCorporation) の配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの⼥優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも⽴っていた*[4]。ヘプバーンは1951 年に『若気のいたり』(en:One Wild Oat)、『素晴らしき遺産』(en:Laughter in Paradise)、『若妻物

語』(en:Young Wives' Tale)、『ラベンダー・ヒル・モブ』(en:The Lavender Hill Mob)といった映画に端役で出演し、1952 年にはソロルド・ディキンスン(en:Thorold Dickinson)の監督作品『初恋』に、主⼈公の妹役で出演した。ヘプバーンはこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を⾒ることができる*[4]。1951 年にヘプバーンはアメリカとフランスで公開される『モンテカルロへ⾏こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラ での撮影ロケに参加した。この現場に、当時⾃⾝が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ (en:Gigi (1951 play))』の主役・ジジを演じる⼥優を探していたフランス⼈⼥流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを⼀⽬⾒るなり「私のジジを⾒つけたわ!」とつぶやいたという有名なエピソードがある*[29] *[32] *[33]。『ジジ』は 1951年 11 ⽉ 24 ⽇にブロードウェイのフルトン・シアター(en:Fulton Theatre) で初演を迎え、劇場⼊り⼝に張出された公演タイトルの上にヘプバーンの名前が掲げられた。『ジジ』の総公演回数は 219 回を数え、1952年 5⽉ 31⽇に千秋楽を迎えた*[34]。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード(en:Theatre World Award)を受賞している*[34]。『ジジ』はブロードウェイでの公演終了後、1952年 10⽉ 13 ⽇のピッツバーグ公園を⽪切りにアメリカ各地を巡業し、1953 年 5 ⽉ 16 ⽇のロサンゼルス公演を最後に、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントンで上演された*[4]。

2.2 『ローマの休日』と高まる人気

1953 年に公開されたアメリカ映画『ローマの休⽇』で、ヘプバーンは初の主役を射⽌めた。『ローマの休⽇』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ⼈新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王⼥アンを演じた。『ローマの休⽇』の製作者は、当初アン王⼥役にエリザベス・テイラーを望んでいたが、監督ウィリアム・ワイラーがスクリーン・テストを受けに来たヘプバーンをアン王⼥役に抜擢した。後にワイラーは「彼⼥(ヘプバーン)は私がアン王⼥役に求めていた魅⼒、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼⼥にはユーモアがあった。すっかり彼⼥に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ」と振り返っている*[35]。製作当初のフィルムでは、主演男優グレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの上に表⽰され、ヘプバーンの名前はより⼩さなフォントで、ペックの名前の下に置かれていた。しかしながらペックがワイラーに「変えるべきだ。彼⼥は僕とは⽐べ物にならないような⼤スターになる」として、ヘプバーンの名前を、作品タイトルが表⽰される前

Page 4: オードリー・ヘプバーンsosin108.com/pdf/Audrey Hepburn.pdfオードリー・ヘプバーン ヘプバーンのサイン オードリー・ヘプバーン(英: AudreyHepburn*[†

4 2 ⼥優業

『ローマの休⽇』のスクリーンテスト時のヘプバーン(1953年)。この写真は映画の宣伝素材としても使⽤された。

に、ペックの名前と同じ⼤きな⽂字で表⽰することを提案した*[36]。『ローマの休⽇』のヘプバーンは評論家からも⼤衆からも絶賛され、思いも寄らなかったアカデミー主演⼥優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国⼥優賞、ゴールデングローブ主演⼥優賞をヘプバーンにもたらした。A. H. ワイラーは『ニューヨークタイムズ』に、以下のような劇評を残している。

厳密に⾔えばオードリー・ヘプバーンは新⼈映画⼥優というわけではない。このイギリス⼈⼥優が演じたアン王⼥はほっそりして茶⽬っ気にあふれ、そしてどこか愁いを帯びた美しさをもっている。豊かな感情表現には⼤⼈びた雰囲気と⼦供っぽさが同居し、新たに⾒つけた喜びと愛情に満ちている。王⼥はこの恋が悲しい結末に終わることを知っているが、気丈にも微笑を浮かべている。これからの彼⼥を待ち受けているのは、息が詰まるような哀れで淋しい未来なのである*[37]。

ヘプバーンは 7 本の映画に出演するという契約をパラマウント映画社から提⽰され、映画撮影の合間には合計 12 カ⽉間の舞台出演を認めるという条件でこの契約にサインした*[38]。ヘプバーンの⼈気は⾼まり、1953 年 4 ⽉に発⾏された『タイ

ム』誌の表紙にはヘプバーンのイラストが使⽤されている*[39]。

ウィリアム・ホールデン と共演した『麗しのサブリナ』(1954年公開)。

『ローマの休⽇』で⼤成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1954年に公開されたこの作品は、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟が、お抱え運転⼿の娘で美しく成⻑したヘプバーンが演じるサブリナを巡って張り合うという物語である。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演⼥優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国⼥優賞を受賞した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で次のように評している。

これはヘプバーンの映画だと思う⼈は多いだろう。彼⼥の名前はタイトルロールに記されているし、前年に『ローマの休⽇』で⼤成功を収めたばかりなのだから。事実、この作品における彼⼥は素晴らしい。折れそうなほどに細い⾝体に、驚くほど多彩で繊細な感覚と揺れ動く感情が詰め込まれている。彼⼥が演じた運転⼿の娘は、前年に演じた王⼥よりもさらに輝いて⾒える。これ以上はもう何も付け加えることはない*[40]。

『麗しのサブリナ』が公開された 1954 年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』(en:Ondine(play)) でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩⾝を活かして⽔の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる⼈間の騎⼠ハン

Page 5: オードリー・ヘプバーンsosin108.com/pdf/Audrey Hepburn.pdfオードリー・ヘプバーン ヘプバーンのサイン オードリー・ヘプバーン(英: AudreyHepburn*[†

2.3 『ティファニーで朝⾷を』 5

スとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨークタイムズ』は次のような劇評を書いている。

ヘプバーンは⽔の精というあいまいな存在を、⾒事に舞台上に実体化してみせた。何のわざとらしさも不⾃然さもなかった。⽣来の才能に裏打ちされた迫真かつ情感あふれるその演技は、ただただ美しく魔法のようだった。

ヘプバーンは『オンディーヌ』で 1954 年のトニー賞主演舞台⼥優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休⽇』でアカデミー主演⼥優賞を獲得しており、ヘプバーンはトニー賞とアカデミー賞を同年に受賞した三名のひとりとなった(2013年現在。その他の⼆⼈はシャーリー・ブースとエレン・バースティンである)*[41]。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954 年 9 ⽉ 25⽇にスイスで結婚式を挙げ、ときに波乱万丈だった⼆⼈の結婚⽣活は 15 年間続いた。ヘプバーンは 1955 年にゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた⼥優賞」を受賞し*[42]、ファッション界にも⼤きな影響⼒を持つようになった。また、この頃ヘプバーンは、アンネ・フランクの『アンネの⽇記』を題材とした舞台作品(en:The Diary of Anne Frank (play)) と映画作品の両⽅への出演依頼を受けた。しかしながら、アンネと同年の⽣まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「感情的に不可能」であり、⾃⾝の年齢が 30 歳に近く、年をとりすぎていることを理由に断っている*[43]。最終的に舞台のアンネ役はスーザン・ストラスバーグが、映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた。

『戦争と平和』のヘプバーン。1956年。

ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客⼒のある⼥優のひとりとなり、10 年間にわたって話題作、⼈気作に出演するスター⼥優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの⽂豪レフ・トルストイの作品を原作とした 1956 年の『戦争と平和』のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ

賞にノミネートされている。1957 年にはバレエで鍛えた踊りの能⼒を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋⼈』に出演した。ヘプバーンはパリ旅⾏に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに⾒出されて美しいモデルになっていくという物語である。この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲイリー・クーパーやモーリス・シュヴァリエと共演した。

ピーター・フィンチと共演した 1959 年の『尼僧物語』では、⼼の葛藤に悩む修道⼥ルークを演じた。このルーク役で 3 度⽬となるアカデミー主演⼥優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国⼥優賞を獲得した。『バラエティ』誌は「これまでにないほどに多くを求められる役を⾒事にこなした」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「これまで上映された映画の中でも、もっとも素晴らしいもののひとつである」と評した*[44]。ヘプバーンは⾃⾝の演技に真実味を増すために、実際に修道僧たちと何時間も修道院で過ごしたといわれている。ヘプバーンは「これまでのどの映画作品よりも、時間と努⼒と思考を費やした作品でした」と語っている*[45]。

『緑の館』のヘプバーンとアンソニー・パーキンス。1959年。

ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて『緑の館』(1959年)に出演した。この作品でヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるヴェネズエラ⼈アベルと恋に落ちる、密林で暮らす「美しく誇り⾼い」「幻想的」な少⼥リーマを演じた*[46]。1960 年にはヘプバーンが出演した唯⼀の⻄部劇『許されざる者』でレイチェル役を演じた。レイチェルはバート・ランカスターやリリアン・ギッシュが演じる「粗野で頑固な役とは異なり、やや洗練されすぎた、線が細く教養ある」インディアン差別に反対する⼥性という役どころだった*[47]。

2.3 『ティファニーで朝食を』

ファーラーとの間の⻑男ショーンが⽣まれた三カ⽉後の 1960 年に、ヘプバーンはブレイク・エド

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6 2 ⼥優業

『ティファニーで朝⾷を』のオープニング・シーン。ヘプバーンが着⽤している⿊のドレスはユベール・ド・ジバンシィがデザインしたものである。

ワーズ の監督作品『ティファニーで朝⾷を』に出演した。この映画はアメリカ⼈⼩説家トルーマン・カポーティ の同名の⼩説を原作としているが、原作からは⼤きく内容が変更されて映画化されている。原作者のカポーティは⼤幅に⼩説版から離れた脚本に失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公⾔した*[48]。これは、カポーティが主役のホリー役には友⼈であったマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった*[49]。また、映画脚本のホリー役も原作からはかけ離れた演出がなされており、ヘプバーン⾃⾝も「娼婦の演技はできない」ことを製作者のマーティン・ジュロウにもらしていた*[49]。原作のホリーの魅⼒でもあった性的⾵刺に満ちた⾔動は皆無だったが*[49]、ヘプバーンは 1961 年度のアカデミー主演⼥優賞にノミネートされ、ヘプバーンが演じたホリーはアメリカ映画を代表するキャラクターになった。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役といわれることも多く*[50]、映画版『ティファニーで朝⾷を』でのホリーのファッションスタイルと洗練された物腰が実際のヘプバーンと同⼀視されるようになっていった。しかしながらヘプバーンはこの役を「⼈⽣最⼤の派⼿派⼿しい役」と呼び*[51]「実際の私は内気な性格なのです。このような外向的な⼥性を演じることはかつてない苦痛でした」と語っている*[52]。『ティファニーで朝⾷を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが⾝にまとっているジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレス(シンプルな⿊のカクテルドレス (en:Little black Givenchydress of Audrey Hepburn))は、20 世紀のファッション史を代表するリトル・ブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだといわれている*[53] *[54] *[55] *[56]。ヘプバーンは 1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の⼆⼈』で、シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の⼆⼈』はレズビアン をテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる⼥教師が、学校の⽣徒に⼆⼈がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語だった。レズビアン

『噂の⼆⼈』(1961年)の予告編のシャーリー・マクレーンとヘプバーン。

を取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画のひとつだといわれている*[50]。当時の保守的な社会的背景のためか、作品⾃体もヘプバーンの演技も、批評家や⼤衆からあまり注⽬されなかった。『ニューヨークタイムズ』のボズリー・クロウザーは「よくできた作品とはいえない」としながらも、ヘプバーンの演技については「微妙な題材」のなかで「繊細かつ無垢な印象を与える」と評価している*[57]。『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い⼼理描写と控えめな感情表現が⾒られる」と⾼く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き⽴てあう素晴らしい相⼿役」だと賞賛した*[58]。

ケーリー・グラントと共演した『シャレード』(1963年)。

ヘプバーンは 1963年の『シャレード』でケーリー・グラントと共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる⾦塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡⼈レジーナ・ランパートを演じている。そしてヘプバーンはこの役で、三回⽬にして最後となる英国アカデミー最優秀主演英国⼥優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。しかしながら、映画評論家ボズリー・クロウザーは「疑⼼暗⻤に陥っている役どころのはずなのに、⼀⽬で⾼級品と分かるジバンシィの⾐装に⾝につけたヘプバーンは楽しそうだ」と⾟⼝の評価を下している*[59]。かつてヘプバーンが主演した『ローマの休⽇』と『麗しのサブリナ』の相⼿

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2.3 『ティファニーで朝⾷を』 7

役にも⽬されていたグラントは当時 59 歳で、年齢差がある当時 34 歳のヘプバーンを相⼿に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの⽅からグラントに⼼惹かれていくという脚本に変更している*[60]。ただしグラントはヘプバーン個⼈に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語ったこともある*[61]。ヘプバーンは 1964 年の『パリで⼀緒に』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、ほぼ 10年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこのスクリューボール・コメディは、「マシュマロみたいに中⾝のない空想譚 (marshmallow-weight hokum)」とも呼ばれ*[62]、「⼀様に酷評された」*[63]。ただし、作品⾃体に低評価を下した批評家たちも、ヘプバーンの役作りには好意的だった。ヘプバーンが演じたガブリエル・シンプソンは、ホールデンが演じるスランプに陥った脚本家リチャード・ベンソンの⼿助けをする⼥性という役割だった。ヘプバーンの演技は「⼤げさに誇張された⾺⿅話のなかで、⼀服の清涼剤だった」といわれている*[62]。『パリで⼀緒に』に対する批評家たちからの悪評には、作品そのものだけでなく背景に使⽤されたセットの出来栄えの悪さも影響していた。さらに、『麗しのサブリナ』の撮影中にヘプバーンと恋愛関係にあったといわれるホールデンが*[†6]、既に⼈妻であるヘプバーンを⼝説こうとしたことや、ホールデンがアルコール使⽤障害になっていたことなども、撮影現場の雰囲気や状況を悪化させた。主なシーンの撮影を終えて編集前のフィルムを⽬にしたヘプバーンが、あまりの出来の悪さに撮影カメラマンのクロード・ルノワール(en:Claude Renoir) の解雇を要求するという事態にまで発展した*[63]。また、ヘプバーンは縁起を担いで⾃⾝のラッキーナンバーである「55」番の楽屋を求めた。ヘプバーンは 55番の楽屋を『ローマの休⽇』と『ティファニーで朝⾷を』でも使⽤していたことがあった。さらに、⻑きに渡ってヘプバーンの服飾を担当するジバンシィの名前を、⾹⽔担当としてクレジット表記することも要求している*[63]。1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』は、ジーン・リングゴールドが「『⾵と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と 1964年の『サウンドステージ』誌 (en:Soundstage)で絶賛した*[41]。しかしながら、ヘプバーンが演じた下町訛りの花売り娘イライザ・ドゥーリトルの配役決定の経緯は⼤きな論争を巻き起こした。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、アンドリュースには映画出演の話は来なかった。これは製作のジャック・ワーナー(en:Jack Warner) が、ヘプバーンかエリザベス・テイラーをイライザ役に据えたほうが

『マイ・フェア・レディ』(1964年)の撮影現場。 は撮影監督のハリー・ストラドリング。

興⾏的に「儲かる」と考えたためだった*[64]。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、⾃分よりもアンドリュースのほうがイライザに相応しいとしていったん断ったが、最終的にはヘプバーンがイライザ役に決まった*[64]。ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋⼈』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて⻑期間の発声練習をこなしていたが*[64]、映画の中でヘプバーンが歌う場⾯はマーニ・ニクソンによって歌が吹き換えられた*[65] *[66]。ニクソンが吹き替えに使われたのは、劇中のイライザの歌のキーが⾼く、ヘプバーンの声域である低めのメゾ・ソプラノまでキーを落とすことが困難だったためである*[64]。理由はどうであれ、歌を吹き替えることを知らされたヘプバーンは、激怒してその場から⽴ち去った。しかし翌⽇になってヘプバーンは戻ってきて、「ひどい態度だった」とその場の全員に謝罪している*[64]。劇中でヘプバーンが歌う場⾯では、前もって録⾳しておいた⾃⾝の歌にあわせてリップシンクしているが、ニクソンがさらにその上から吹き替えたために、ヘプバーンの⼝の動きとニクソンの歌声とは完全には⼀致していない*[64]。吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的には歌のおよそ 90 パーセントがニクソンによって吹き替えられた*[64]。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の⼀節、「今に⾒てろ」の序奏部、「スペインの⾬」での台詞と歌の掛け合い部分だけである*[64]。歌唱部分が全く別の声質を持つ他の⼥優に吹き替えられたことについて

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8 2 ⼥優業

質問されたヘプバーンは、不快感を露にして「よくもそんなことを訊けるものですね。確かにレックス は演技をしながら、同時に歌の録⾳もこなしていましたが・・・・・・次の機会には」と応え、唇をかみ締めてそれ以上は何も⼝にすることはなかった*[52]。後にヘプバーンは、もし歌のほとんど全てを吹き替えられることが分かっていれば、あの役を引き受けることは決してなかったと語っている*[64]。ヘプバーンのイライザ役を巡る騒動は、第 37 回アカデミー賞授賞式で最⾼潮に達した。『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に 12 部⾨でノミネートされ、そのうち 8 部⾨を受賞するという⾼い成績を残したが、ヘプバーンは主演⼥優賞にノミネートすらされなかった。そしてその年の主演⼥優賞を獲得したのは舞台版でイライザを演じたジュリー・アンドリュースで、『マイ・フェア・レディ』と同じミュージカル作品『メリー・ポピンズ』での受賞だったのである。マスコミはヘプバーンとアンドリュースが対⽴していると報道し、煽り⽴てようとしたが、ヘプバーンもアンドリュースも、両者の間には悪い感情はなく、仲のいい友⼈であるとこれらの報道を否定した。このような騒動はあったものの、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最⾼」だと賞賛した*[66]。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン⾃⾝が最⾼のかたちで証明して⾒せたことだ」と評した*[65]。舞台版『マイ・フェア・レディ』でイライザの相⼿役のヒギンズ教授役を演じ、映画版でも引き続きヒギンズ教授役を務めたレックス・ハリスンはヘプバーンのことをお気に⼊りの⼀流の⼥優だと呼び、『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼⼥こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意⾒に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている*[41]。ヘプバーンは 1966年のコメディ映画『おしゃれ泥棒』で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、⽗親の悪事が露⾒することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵シモン・デルモットに、相⼿が⽗親のことを調べている探偵だとは知らずに⽗親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。1967 年には 2 本の映画に出演した。『いつも 2⼈で』は、⼀組のカップルの波乱に満ちた結婚⽣活を、⼀本の道を舞台に描き出すという実験的なイギリス映画である。監督のスタンリー・ドーネンは、撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに⾒えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったとしている*[67]。

1967 年にヘプバーンが出演したもう 1 本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』だった。ヘプバーンは脅迫を受ける盲⽬の⼥性を演じ、その演技の幅の広さを⾒せ付けた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの離婚直前に撮影された映画だった。この作品にはファーラーが製作者として参加していたために、ヘプバーンの体重はストレスで 7kg近く落ちてしまったが、共演者のリチャード・クレンナと監督のテレンス・ヤングに安らぎを⾒出したヘプバーンは、何とか撮影を乗り切ることができた。ヘプバーンはこの『暗くなるまで待って』のスージー役で 5 回⽬のアカデミー主演⼥優賞にノミネートされている。ボズリー・クロウザーは「ヘプバーンは哀切な役を演じた。彼⼥が⾒せる激しい動揺や恐怖⼼は我々の同情⼼や不安を掻きたててやまず、最後の場⾯では⼼から無事でいてくれと願ってしまう」と評した*[68]。

2.4 最後の映画作品

1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける 15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは 1976 年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』への出演だった。1979 年にはサスペンス映画『華麗なる相続⼈』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品の監督は 1967年の『暗くなるまで待って』と同じくテレンス・ヤングで、共演はベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダーらだった。『華麗なる相続⼈』の原作はシドニー・シェルダンの⼩説『⾎族』(Bloodline) で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを年⻑の⼥性に書き直している。⼤富豪の⼀族を巡る国際的な陰謀や⼈間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興⾏的にも失敗して製作会社は⼤損害を被った。

ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、ピーター・ボグダノヴィッチが監督した 1981 年のコメディ映画『ニューヨークの恋⼈たち』(en:TheyAll Laughed)である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相⼿でこの作品にも出演していたドロシー・ストラットンが、離婚⼨前だった夫に 1980年に殺害され、この作品の公開が危ぶまれた。最終的には公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。テレビ映画では 1987 年に『おしゃれ泥棒 2』(en:Love AmongThieves)で、ロバート・ワグナーと共演した。『おしゃれ泥棒 2』には、ヘプバーンが主演した『シャレード』や『おしゃれ泥棒』などの映画から多くの要素が取り⼊れられている。

ヘプバーンの最後の出演映画となったのが 1989年のスティーヴン・スピルバーグ監督作品『オールウェイズ』で、天使の役でのカメオ出演 だった。この映画以降、ヘプバーンが携わった娯楽関

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連の作品は 2 本しかないが、どちらも⾮常に⾼く評価されヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞している。1 本がPBS のテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀⾏』(en:Gardens of the World with Audrey Hepburn)で、1990 年の春から夏にかけて撮影された、世界 7 カ国の美しい庭園を紹介するという紀⾏番組だった。本放送に先⽴って 1991年 3⽉に 1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した 1993 年1⽉ 21⽇の翌⽇からだった*[69]。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に 1993年のエミー賞の情報番組個⼈業績賞 (Outstanding Individual Achievement– Informational Programming)を受賞した*[70]。もう1 本の 1992 年に発売された⼦供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン魅惑の物語』(en:Audrey Hepburn's Enchanted Tales) では、グラミー賞の「最優秀⼦供向けスポークン・ワード・アルバム賞」を受賞した。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない⼈物の⼀⼈となっている。

3 ユニセフ親善大使

ヘプバーンは 1989 年にユニセフ親善⼤使に任命されている*[71]。そして、1992 年にヘプバーンのユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国⼤統領ジョージ・H・W・ブッシュが、⽂⺠に与えられるアメリカ最⾼位の勲章である⼤統領⾃由勲章をヘプバーンに授与した。さらに映画芸術科学アカデミー が、⼈道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息⼦が代理として賞を受け取った。第⼆次世界⼤戦中にドイツ占領下のオランダで⾟い幼少期を送り、その後⼥優として⼤きな成功をおさめることができたという経験から、ヘプバーンは残りの⼈⽣を最貧困国の恵まれない⼦供たちへの⽀援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、⾔葉の⾯で苦労したことはほとんどなかった。ヘプバーンは⺟国語として英語とオランダ語を、さらにフランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語を流暢に操ることができたためである*[72]。ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、1988年のエチオピアへの訪問が最初だった。当時のエチオピアは軍事クーデターで⼤統領となった独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムと、反政府組織が内戦を繰り広げており、100 万⼈を超える難⺠で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが⾷糧⽀援を⾏餓死⼨前の⼦供たち 500 ⼈を収容していたメケレ (en:Mek'ele)の孤児院を慰問した。このエチオピア訪問でヘプバーンは「とても悲しく、絶望感すら覚えました。200 万以上の⼈々が餓死⼨前の危機にあり、その多くは⼦供たちなのです。エチオピアに⾷料がないわけではなく、分配できないだけです。エチオ

ピアでは内戦が続いており、⽀援活動を⾏っていた⾚⼗字とユニセフの職員は北部都市から避難するように勧告を受けました。私は反政府の地域へ赴き、そこで⾷料を求めて 10 ⽇もあるいは 3 週間も歩き続ける⺟⼦を⽬にしました。床が砂でむき出しとなっているその場しのぎの難⺠キャンプで、⼈々は死を待つしかないのです。恐ろしいことです。耐えられません。「第三世界」という⾔葉が私は嫌いです。我々はともに⼀つの世界に暮らしているのです。⼈道上、⾮常な苦難に直⾯している多くの⼈々がいるのだということを世界中が認識してほしいと願っています」と語った*[73]。ヘプバーンは 1988 年 8 ⽉に、予防接種のキャンペーンのためにトルコを訪れ、10⽉には南⽶諸国を訪れた。ヴェネズエラとエクアドルをめぐったヘプバーンは「⼩さな⼭村やスラム街、貧⺠街にも⽔道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで⾃分たちの学校を⽴てているのも⽬にしました」と振り返っている。1989 年 2 ⽉には中⽶を訪問し、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラでそれぞれの⼤統領と⾯会している。同年 4 ⽉にはロバート・ウォルダースとともに「オペレーション・ライフライン」計画の⼀環としてスーダンを訪れた。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの⾷糧⽀援が途絶えており、この計画はスーダン南部 へ⾷料を運びこもうとするものだった。さらに 10 ⽉にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュ へ赴いた。国連の報道写真家ジョン・アイザック (en:John Isaac (Photographer))は「⼆⼈におびえて逃げ出そうとする⼦供もいるが、そんなときに彼⼥(ヘプバーン)はそっと近づいて抱きしめる。⾒たことのない光景だった。ためらいを⾒せるような⼦供には⼿を握ってやる。そのうちに⼦供たちが集まってきて、彼⼥の⼿を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼⼥はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」とそのときの様⼦を振り返っている。1990 年 10 ⽉にヘプバーンはベトナムを訪れ、ユニセフが⽀援する予防接種の普及と⽔道設備設置に協⼒した。

死去する 4 カ⽉前の 1992 年 9 ⽉に、ヘプバーンはソマリア を訪問した。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが⼼を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは⼦供たちのことにはまったく無関⼼です。でもいずれの⽇にか⼈道⽀援 の政治問題化ではなく、政治が⼈道化する⽇がやってくるでしょう」「奇跡を信じない⼈は現実主義者とはいえません。私はユニセフがもたらした、⽔という奇跡を⽬にしてきたのです。何百年にもわたって、⽔を汲むために少⼥や⼥性たちが何マイルも歩く必要がありました。でもいまでは家のすぐそばに綺麗な⽔があるのです。⽔は⽣命です。綺麗な⽔はこの村の⼦供たちの健康と同義なのです」「貧しい場所に住む⼈々はオードリー・ヘプ

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10 4 私⽣活

バーンはご存知ないでしょうが、ユニセフという名前を覚えてくださいました。ユニセフという⽂字を⽬にしたときにそのような⼈々の顔が明るくなります。何かが起こるということが分かっているからです。例えばスーダンでは、⽔を汲み上げるポンプは「ユニセフ」と呼ばれているのです」

4 私生活

『戦争と平和』撮影中のヘプバーンとメル・ファーラー。1955年。

ヘプバーンは 1952年に、ロンドンで舞台に⽴っていたころに知り合った男爵ジェイムズ・ハンソン(en:James Hanson, Baron Hanson)と婚約した*[74]。ヘプバーン⾃⾝は「⼀⽬ぼれだった」と語っている。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、⽇程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は破談となった。⼆⼈の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚⽣活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった*[75]。当時のヘプバーンの⾔葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある*[76]。また、1950 年代初めには、その後ミュージカル作品『ヘアー』のプロデューサーをつとめるマイケル・バトラー(en:Michael Butler (producer))と交際していたこともある*[77]。ヘプバーンは、1953年の『ローマの休⽇』で共演したグレゴリー・ペックと噂になったことがあるが、両者共にこの噂を⼀蹴している。しかしながらヘプバーンは「多かれ少なかれ⼥優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある⼈には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、撮影が終わるとそのような感情はなくなってしまうものです」とも語っている*[78]。恋愛関係にあったかどうかはともかく、ヘプバーンとペックは終⽣の友⼈だった。1954年の『麗しのサブリナ』の撮影中に、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関

係にあったといわれている。ヘプバーンはホールデンとの結婚と⼦供を望んだが、ホールデンが精管の病気のため切除しており、⼦供ができないことを告げられる。これによりヘプバーンが別れを切り出したといわれている*[79]*[80] 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートとは不仲だったと広く信じられているが、「「気の強いもの同⼠」と⾔われたこともありますが、私と⼀緒のときのボギー(ボガートの愛称)はとても優しい⼈でした」とヘプバーンは語っている*[81]。

ヘプバーンとアンドレア・ドッティ

グレゴリー・ペックが開いたカクテルパーティーで、ヘプバーンはアメリカ⼈俳優メル・ファーラーと出会った*[41]。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼⼥は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリ』は 3回観たとも⾔っていた。別れ際に彼⼥は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと⾔ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている*[41]*[82]。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔⾛し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954 年 1 ⽉から舞台稽古が始まっている。出会い、共演し、そして愛し合うようになった⼆⼈は、1954 年 9 ⽉ 25 ⽇にスイスのバーゲンストックで結婚した*[83]。⼆⼈の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。

ファーラーとの間の唯⼀の⼦供が誕⽣する以前に、1955 年と 1959 年の⼆度にわたってヘプバーンは流産している*[84]。⼆度⽬の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落⾺事故によるもので、岩に投げ出されたヘプバーンは背中を痛め、病院へと搬送されたが流産してしまった。このことはヘプバーンにとって⼼⾝ともに⼤きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、⼦供を無事に出産するために⼀年間仕事を休んでいる。そして 1960 年 7 ⽉ 17 ⽇に⼆⼈の⻑男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが⽣まれた。

ヘプバーンとファーラーの結婚⽣活は⻑く続かないといわれていたが、ヘプバーンはファーラーが

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気難しいことは認めつつも、⼆⼈の仲はうまくいっていると主張していた*[85]。ファーラーがヘプバーンを⽀配下に置き、⼩説『トリルビー』の登場⼈物であるスヴェンガーリのようにヘプバーンを意のままにしているのではないかと噂されたことすらあるが、ヘプバーンはこの中傷を⼀笑に付している*[86]。ウィリアム・ホールデンは「オードリーがメルから影響されたがっているように⾒える」と語っている。その後もヘプバーンは妊娠したが、1965 年と 1967 年の⼆度にわたり流産を繰り返した*[87]。最終的に⼆⼈は 1968 年 12 ⽉ 5⽇に離婚し、⼆⼈の結婚⽣活は 14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは⻑寿を保ったが、2008年 6 ⽉に⼼不全のために 90 歳で死去している。

から、当時のアメリカ合衆国⼤統領ロナルド・レーガン、ヘプバーン、オランダ⼈俳優ロバート・ウォルダース。1981年。

ヘプバーンは 1965 年にスイス、レマン湖地⽅、モルジュ近郊のトロシュナ村に家を購⼊。息⼦、ショーンとの⽣活をはじめ、穏やかな⽣活を楽しみながら後半⽣を過ごした。その後、ヘプバーンは船旅でイタリア⼈精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅⾏中にドッティに惹かれていった。ヘプバーンはさらに⼦供を望んでおり、そのためには⼥優を辞めてもいいと思っていた。当時 40 歳のヘプバーンと 30歳のドッティは 1969 年 1 ⽉ 18 ⽇に結婚し、1970年 2 ⽉ 8 ⽇には帝王切開で男⼦ルカ・ドッティが⽣まれている。ルカを妊娠中のヘプバーンは⽇々の暮らしに⾮常に気を使い、数か⽉間にわたる休養⽣活を絵を描いて過ごしていた。1974 年にヘプバーンは再びドッティの⼦を⾝篭ったが流産している*[88]。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息⼦ショーンとの仲も良好だったが、若い⼥性と関係を持つようになっていった。そしてヘプバーンのほうも 1974 年の映画『華麗なる相続⼈』の撮影中に、共演したベン・ギャザラ と不倫の関係になっていた*[89]。ヘプバーンとドッティは 1982 年に離婚し、⼆⼈の結婚⽣活は 13 年で終わった。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息⼦ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った。ドッティは 2007 年 10 ⽉に消化器官の合併症で死去している。

ドッティとの結婚⽣活が続いていた 1980 年から死去するまでヘプバーンは、妻であるイギリス⼈⼥優マール・オベロン と死別したオランダ⼈俳優ロバート・ウォルダース (en:Robert Wolders) と恋愛関係にあった*[90]。⼆⼈が知り合ったのは友⼈を介してであり、ヘプバーンとドッティとの結婚⽣活が終わりを迎えようとしていた時期だった。ドッティとの離婚が成⽴すると、ヘプバーンとウォルダースは⼀緒に暮らし始めたが、正式に結婚することはなかった。1989 年のアメリカ⼈ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9 年間を⼈⽣で最良の⽇々と振り返っている。

5 死去

スイスのトロシュナ (en:Tolochenaz) にあるヘプバーンの墓。

1992 年 9 ⽉終わりに、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの⾃宅へ戻ったヘプバーンは、腹痛に悩まされるようになった。専⾨医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査を受けるために 10 ⽉にロサンゼルスへと渡った。11 ⽉ 1 ⽇にシダーズ=サイナイ医療センター(en:Cedars-Sinai Medical Center)で診察を受け、担当医が腹腔鏡検査でヘプバーンの腹部に悪性腫瘍を発⾒し、⾍垂にも転移していることが判明した。これは腹膜偽粘液腫 と呼ばれる極めて珍しいがんの⼀種だった*[91]。何年もかけて成⻑した悪性腫瘍が転移しており、⼩腸をも薄く覆い尽くして

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12 6 後世への影響や評価

いた。外科⼿術のあと、医者はヘプバーンに抗がん剤フルオロウラシルとフォリン酸の投与による化学療法を開始した*[92]。⼿術から数⽇後ヘプバーンは腸閉塞にかかり、薬物療法だけでは⾝体の痛みを和らげることができなくなった。12 ⽉ 1⽇に再⼿術が⾏われたが、すでに悪性腫瘍が⾝体各部に転移しており、外科⼿術による摘出は不可能であるという決断がなされた。

ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの最後になるであろうクリスマスを⾃宅で過ごさせるために、スイスの⾃宅へとヘプバーンを送り返すことを決めた。しかしながら術後のヘプバーンは回復しきってはおらず、通常の国際便での旅には耐えることができない状態だった。このことを知ったヘプバーンの⾐装デザイナーで⻑年にわたる友⼈だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために⼿配した。そして多くの花々で満たされたこのジェット機が、ヘプバーンをロサンゼルスからジェノヴァまで運んだ*[93]。1993年 1 ⽉ 20 ⽇の⼣⽅、ヘプバーンはスイスのトロシュナ (en:Tolochenaz) の⾃宅で、がんのために息を引き取った。ヘプバーンの死を知った旧友グレゴリー・ペックは、ヘプバーンが好きだったラビンドラナート・タゴールの詩を涙ながらに朗読している*[94]。ヘプバーンの葬儀は、1993 年 1 ⽉ 24 ⽇にトロシュナの教会で執り⾏われた。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960 年に⽣まれた⼆⼈の息⼦ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディガーがこの葬儀を取り仕切った。ユニセフからはサドルッディーン・アーガー・ハーン (en:Prince Sadruddin Aga Khan)が弔辞を寄せ、⾼官たちがこの葬儀に加わっている。家族や友⼈、知⼈としては、ヘプバーンの息⼦たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異⽗兄イアン・クオールズ・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、アラン・ドロン、ロジャー・ムーアらが参列した*[95]。また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた*[96]。葬儀の後、ヘプバーンはトロシュナを⼀望できる⼩⾼い丘の⼩さな墓地に埋葬された*[97]。

6 後世への影響や評価どのように⾔えばいいのでしょう。と

にかく私の⼈⽣はとても幸せでした。̶オードリー・ヘプバーン、*[98]

ヘプバーンの⼥優としての業績とその⼈間性は死後も⻑く伝えられている。⽶国映画協会が選定した「最も偉⼤な⼥優 50選」でヘプバーンは第 3位

になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991 年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993 年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。ヘプバーンの⽣涯は数多くの伝記となり、2000 年には『オードリー・ヘプバーン物語』としてテレビ映画化されている。このテレビ映画でヘプバーン役を演じたのはジェニファー・ラブ・ヒューイットで、少⼥時代のヘプバーンはエミー・ロッサムが演じた*[99]。ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使⽤されている。⽇本では本⼈が出演したテレビCM が1971 年(⽇本エクスラン⼯業のエクスラン・ヴァリーエ)・82 年(銀座リザ)に放送され、『ローマの休⽇』のモノクロフィルムを着⾊ してデジタル化された映像がキリン の午後の紅茶 のCM に採⽤されているほか、三井住友銀⾏が、インターネット を利⽤した銀⾏サービスや⼥性顧客向けの総合⼝座サービスの CM キャラクターにヘプバーンを起⽤している。この CM は、ヘプバーンが出演した映画から有名な場⾯を抜き出し、宣伝する商品に合うような⽇本語の台詞 を吹き込む形式を取っている。この吹替 を担当した声優 がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した池⽥昌⼦ だった。アメリカでは『パリの恋⼈』でヘプバーンが踊るシーンが、AC/DC の曲『バック・イン・ブラック』とともに⾐料メーカのGAPのCMに採⽤された。GAPはオードリー・ヘプバーン⼦供基⾦に多額の献⾦をしている*[100]。2013 年には、コンピュータ処理されたヘプバーンの画像がイギリス製チョコレートのギャラクシー(en:Galaxy (chocolate)) の広告に使⽤された*[101]。また⼀部では、ヘプバーンを同性愛者のアイコンにしようとする動きがある*[102] *[103] *[104]。

6.1 ファッション

ヘプバーンは 1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサー(en:International Best Dressed List)に選ばれて殿堂⼊りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売⼤⼿QVCによる「20世紀最⾼の美⼥」を決めるアンケート調査(⼥性 2000 ⼈を対象に実施)と、飲料⽔エビアンを発売するダノンによる「史上最⾼の美⼥」の調査アンケートで、ともに 1 位となった*[105] *[106] *[107] *[108] *[109]。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンロー、マルティーヌ・キャロル、キム・ノヴァク、ラナ・ターナーといった豊満な⼥優たちとは異なり、痩⾝のヘプバーンは優雅で⼤きな瞳と⻑い脚の⾮常に⼥性的な⼥優だった。当時の⼥性に対する典型的なイメージとは正反対の細いブラウンの眉を持つヘプバーンのことを、映画監督ビリー・ワイルダーは「忘れ難いファニーフェイス」と回想

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6.1 ファッション 13

している。ワイルダーは「この⼥性が⼤きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」とジョークを⾶ばしたこともあった*[110]。ヘプバーンのお茶⽬な妖精のような美貌と⼈形めいた痩⾝というイメージを決定付けたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。*[37]。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。ジバンシィは、「ヘプバーン」という⼥優の洋服を担当することになったと告げられたときのことを次のように回想している。ジバンシィは「ヘプバーン」という名前から、⾃⾝が担当する⼥優はキャサリン・ヘプバーン だと思い込んでいた。そのためオードリー・ヘプバーンと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、この依頼を断ろうとして空いている時間がほとんどないとヘプバーンに答えている。それでも⾃⾝を魅⼒的に⾒せてくれるであろう⾐装を正しく理解していたヘプバーンは、とにかくジバンシィがデザインした最新の洋服を⾒せてくれるように頼んだという*[36]。『麗しのサブリナ』から始まる⼆⼈の友情と協⼒関係はヘプバーンが死去するまで続いた。ヘプバーンはジバンシィがデザインした多くの洋服を⾒事に着こなし、そのファッションスタイルは世界的に⾼く評価されることになっていった。

「ジバンシィは私(ヘプバーン)の外⾒に、さまざまなものを加えてくれました。彼はいつも素晴らしく、そして最⾼でい続けてくれました。彼と私の好みはずっと同じだったのです。特別な素材と途⽅もない才能で仕⽴てられた、シンプルな細⾝のドレスと⼀組のイアリング以上に美しい装いはないでしょう」とヘプバーンは語っている*[110]。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋⼈』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝⾷を』、『パリで⼀緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』など、さまざまな映画作品でヘプバーンの⾐装を担当した。また、ジバンシィはヘプバーンとの 35年にわたる交友で「彼⼥(ヘプバーン)の⾝体のサイズは、1インチとして変わらない」ことにいつも驚かされていた*[110]。ジバンシィはヘプバーンの⽣涯を通じての友⼈、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の⼥神ミューズだった。ヘプバーンは「私とユベールはよく似ています。好みが同じなのです」と語っている*[110]。ヘプバーンはジバンシィのファッションモデルになったこともある。1988 年にジバンシィがパリでサマー・コレクションを開催したときにヘプバーンは「私は世界のどこにいても、⾝近にユベールを感じています。彼は俗事に関⼼を向けるような⼈ではありません。⾃分の好きなことにしか興味がないのです」とコメントした*[110]。また、ジバンシィは「ランテルディ」という⾹⽔をヘプバーンのために調合している*[† 7]。ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンのリチャード・アヴェドンにとってもヘプバーンはミューズだった。アヴェドンが撮影したヘプ

バーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、⼝元が⾒事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「ヘプバーンを被写体にするという幸運に恵まれると、いまも、そしてこれから先もずっと私は⾃⾝の無⼒さを痛感することだろう。私には彼⼥の更なる魅⼒を引き出すことはできない。彼⼥はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい⼥性といえる。彼⼥の存在それ⾃⾝が完璧な肖像写真だ」と語っている*[111]。ヘプバーンと共演経験がある⼥優シャーリー・マクレーンは、1996 年の著書『マイ・ラッキー・スターズ―わがハリウッド⼈⽣の共演者たち』で「(ヘプバーンは)稀に⾒る⾼い審美眼を持った⼥性で、私は彼⼥のスタイルやセンスを羨望の眼差しで眺めていました。彼⼥の近くにいるときには、⾃分が不恰好で流⾏おくれだと感じたものです」と記している。現代でもヘプバーンのファッションスタイルは、⼥性たちからの⽀持を集め続けている*[112]。

『ティファニーで朝⾷を』(1961年)のサングラスをかけたヘプバーン。

イタリアの靴デザイナーであるサルヴァトーレ・フェラガモ は 1999 年に、「オードリー・ヘプバーンという⼥性、そのスタイル (Audrey Hepburn, awoman, the style)」と銘打った展⽰会で、ヘプバーンのためにデザインした靴を発表したことがある。また、『ティファニーで朝⾷を』でヘプバーンがサングラスをかけていたことで、当時の⼥性たちの間でもサングラスが流⾏した。この作品でヘプバーンがかけていたサングラスはレイバン のウェイファーラーモデル (en:Ray-Ban Wayfarer) だと間違えられることが多いが、オリヴァー・ゴールドスミスがデザインした「マンハッタン」と呼ばれるサングラスである*[113]。サングラスを着⽤したヘプバーンの写真は『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など、多くのファッション誌の表紙を飾った。ヘプバーンはその⽣涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている。ファッション評論家たちは、ヘプバーンがファッション界のアイコンとして⻑きに渡って親しまれているのは「すっきりとしたライン、シンプルだが⽬⽴つアクセサリー、単⾊でまとめた⾊使い」という、⾃分に似合うスタイルを貫き通したからだとしている*[114]。

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14 9 脚注

ヘプバーンはファッションを楽しんではいたが、普段の暮らしの中ではそれほど重要視していなかった。世間から思われているイメージとは違って、ヘプバーンが好んでいたのはカジュアルで気楽な⾐服だった*[115]。さらにヘプバーンは⾃⾝が魅⼒ある⼥性だとは思っていなかった。1959 年のインタビューで「私は定期的に⾃分のことが⼤嫌いになります。太りすぎ、背が⾼すぎ、もしかしたら単純に醜いだけなのではないかと。私が本来、⾃分に⾃信がなく劣等感を抱えた優柔不断な⼥性であることは間違いありません。無理⽮理にでも気⼒を振り絞らないと何もできないのです」と語っている*[116]。2006 年 12 ⽉ 5 ⽇に、『ティファニーで朝⾷を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスがクリスティーズのオークションにかけられた。落札予想額は 70,000 ポンドだったが、最終的にはその 7 倍近い 467,200 ポンド(約 92 万ドル)で落札された。映画由来の⾐装についた価格としては当時最⾼額だったが*[117]、マリリン・モンローが『七年⽬の浮気』で着⽤した、地下鉄の通気⼝からの⾵でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が 2011 年 6 ⽉に 460 万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している*[118]。このヘプバーンのドレスの収益⾦は、インドの恵まれない⼦供たちを救済するチャリティー基⾦に寄付された。基⾦の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも⾔える⼥優が着⽤した⾐装がレンガやセメントの購⼊資⾦となり、世界中の貧しい⼦供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた*[119]。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは、ヘプバーンが『ティファニーで朝⾷を』で着⽤したドレスではなかった*[120]。『ティファニーで朝⾷を』ではジバンシィがデザインした複数のドレスが⽤意されたが、実際にヘプバーンが映画で着⽤したドレスは 2 点だけだった。それら 2 点のドレスのうち 1 点はジバンシィが保存しており、もう 1 点はマドリードの⾐装博物館に展⽰されている*[119]。2009 年 12 ⽉にもロンドンでヘプバーンが映画で使⽤した⾐装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着⽤した⿊のカクテルガウンなど、総額 270,200 ポンド(437,000 ドル)で落札された。そしてオークションの収益⾦のうち半分が、オードリー・ヘプバーン⼦供基⾦とユニセフが共同で⾏っている学童⽀援活動に寄付された*[121]。

7 出演作品

8 受賞

9 脚注

9.1 注釈

[1] 英語発⾳: [ˈɔːdri ˈhɛpˌbɜːn(または ˈhɛpˌbɜrn)]オードリ・ヘッバーン

[2] ヘプバーンの表記に関する解説:安藤邦男「カタカナ英語と英語教育」

[3] ヘプバーン明記での刊⾏物:『アルバムオードリー・ヘプバーン』(ゼンバッハ・K・ユルゲン編、川原亜⽮⼦翻訳、ISBN 4062119145)など。

[4] ヘプバーンの出⽣証明書には、⽗ジョゼフはロンドン⽣まれだと記されている。しかしながらこの記録は 1952 年になって⽣⺟エラによって「(オーストリア領)ボヘミアのウジツェ出⾝」と改められた。ウジツェは現在ではチェコに属している。

[5] ジョゼフが勤めていた会社ははっきりとしていない。オランダの紳⼠録には「投資顧問」として記録されている。Walker (page 8).

[6] 複数の伝記作家がこの説を肯定している。ヘプバーンはホールデンと結婚を望み⼦供を欲しがったが、ホールデンが精管切除を受けており、⼦供ができないことを知ったヘプバーンが別れを切り出したといわれている (Phillips, Gene D.Some Like It Wilder: The Life and Controversial Filmsof Billy Wilder. Lexington, Kentucky: University Pressof Kentucky, p.160. ISBN 0-8131-2570-7.)。

[7]「ランテルディ(L'Interdit)」はフランス語で「禁⽌」という意味である。この⾹⽔を気に⼊ったヘプバーンが、冗談で⾃分以外は使⽤禁⽌と⾔ったことから「ランテルディ」と名付けられたという。

9.2 出典

[1] メル・ファーラー との間に⽣まれた息⼦ショーン・ヘプバーン・ファーラーの著書『AUDREYHEPBURN―⺟、オードリーのこと』(ISBN 4-8124-1668-X)による。

[2] de Givenchy, Hubert (2007). Audrey Hepburn. London:Pavilion. p. 19. ISBN 978-1-86205-775-3.

[3] Ferrer, Sean (2005). Audrey Hepburn, an Elegant Spirit.New York: Atria. p. 148. ISBN 978-0-671-02479-6.

[4] Paris, Barry (2001). Audrey Hepburn. City: BerkleyTrade. ISBN 978-0-425-18212-3.

[5] (Registered 18 July 1929) Audrey Hepburn's birthcertificate

[6] ⺟ ア ン ナ はス ロ ヴァ キ ア 出 ⾝ だっ た。[http://www.pitt.edu/~{}votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html

Page 15: オードリー・ヘプバーンsosin108.com/pdf/Audrey Hepburn.pdfオードリー・ヘプバーン ヘプバーンのサイン オードリー・ヘプバーン(英: AudreyHepburn*[†

9.2 出典 15

[7] Walker, page 6

[8] Spoto, Donald (19 November 2006). “1929–1939”.Enchantment: The Life of Audrey Hepburn. New York:Harmony. ISBN 0-307-23758-3.

[9]“Ian van Ufford Quarles Obituary”. The Times. 29–31May 2010 閲覧。

[10] vrijdag 6 mei 2011, 07u26. “De vijf hoeken van dewereld: Amerika in Elsene”. brusselnieuws.be. 2012年 3 ⽉ 14 ⽇閲覧。

[11] Charlotte Mosley, editor. (2007).“The Mitfords: LettersBetween Six Sisters”. London: Fourth Estate. pg 63, 65.

[12] Tichner, Martha (2006 年 11 ⽉ 26 ⽇). “AudreyHepburn”. CBS Sunday Morning

[13] Walker, page 14

[14] Klein, Edward. (5 March 1989). “You Can't LoveWithout the Fear of Losing”. Parade.

[15]“Famous and Notable People 'In and Around' the ElhamValley”. www.elham.co.uk. 2009 年 9 ⽉ 4 ⽇閲覧。

[16] Walker, pp. 17–19

[17] Cox, Alex (2011 年 1 ⽉ 20 ⽇). “Audrey Hepburn: aniconic problem”. The Guardian (UK)

[18] Garner, Lesley. Lesley Garner meets the legendary actressas she prepares for this week's Unicef gala performance,The Sunday Telegraph, 26 May 1991

[19]“Tribute to the Humanitarian Work of Audrey Hepburn |Articles”. Ahepburn.com (1991 年 5 ⽉ 26 ⽇). 2010年 3 ⽉ 10 ⽇閲覧。

[20] Audrey Hepburn, Coronet, January 1955

[21] James, Caryn (1993 年). “Audrey Hepburn, Actress, IsDead at 63”. New York Times. オリジナルの 2007 年1 ⽉ 18 ⽇時点によるアーカイブ。2006 年 11 ⽉ 26⽇閲覧。

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[23]“Tribute to the Humanitarian Work of Audrey Hepburn| Her Work – Getting Involved with UNICEF”.Ahepburn.com (1988 年 8 ⽉ 3 ⽇). 2010 年 3 ⽉ 10⽇閲覧。

[24] Seigel, Jessica. Interview with Audrey Hepburn, TheChicago Tribune, 20 January 1992

[25]“Welcome to Audrey Hepburn.com”.Audreyhepburn.com. 2010 年 3 ⽉ 23 ⽇ 時 点のオリジナルよりアーカイブ。2010 年 3 ⽉ 10 ⽇閲覧。

[26] Vermilye, Jerry (1995). The complete films of AudreyHepburn. New York: Citadel Press. p. 67. ISBN 0-8065-1598-8.

[27] Kilagallen, Dorothy. (27 September 1953). “H.R.H.Audrey Hepburn”. The American Weekly. p. 7.

[28]“Audrey Hepburn's Son Remembers Her Life”. LarryKing Live. CNN. 2003 年 12 ⽉ 24 ⽇放送. 写し.

[29] “Princess Apparent”. Time. (1953 年 9 ⽉ 7 ⽇)

[30] Nichols, Mark Audrey Hepburn Goes Back to the Bar,Coronet, November 1956

[31] Walker, Alexander (1994). Audrey, Her Real Story.London: Orion. p. 55. ISBN 1-85797-352-6.

[32] “Lighting Up Broadway”. Extra Magazine (People).(Winter 1993)

[33] バリー・パリス著『オードリー・ヘプバーン物語〈上〉』(ISBN 4-08-760390-3)。

[34] Gigi - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語)

[35]“Filmography: Roman Holiday”. audrey1.com. 2008年1 ⽉ 21 ⽇時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年 1 ⽉ 14 ⽇閲覧。

[36] Zekas, Rita (2004 年 1 ⽉ 2 ⽇). “Audrey Hepburn:A reluctant icon”. Toronto Star: pp. D05. ""The titlecredits were supposed to be Gregory Peck starring and'introducing' Audrey Hepburn. But he said, 'You've got tochange that because she'll be a big star and I'll look like abig jerk.'""

[37] Weiler, A. W. (1953 年 8 ⽉ 28 ⽇). “'Roman Holiday'at Music Hall Is Modern Fairy Tale Starring Peck andAudrey Hepburn”. The New York Times. オリジナルの 2008年 1⽉ 5⽇時点によるアーカイブ。2008年1 ⽉ 14 ⽇閲覧。

[38] Connolly, Mike. Who Needs Beauty!, Photoplay, January1954

[39] “Audrey Hepburn: Behind the sparkle of rhinestones, adiamond's glow”. TIME. (1953 年 9 ⽉ 7 ⽇). オリジナル の 2009 年 5 ⽉ 12 ⽇時点によるアーカイブ。2009 年 5 ⽉ 28 ⽇閲覧。

[40] Crowther, Bosley (1954 年 9 ⽉ 23 ⽇). “Screen:'Sabrina' Bows at Criterion; Billy Wilder Produces andDirects Comedy”. The New York Times

[41] Ringgold, Gene. My Fair Lady – the finest of them all!,Soundstage, December 1964

[42]“Hepburn's Golden Globe nominations and awards”.Goldenglobes.org (2010 年 1 ⽉ 14 ⽇). 2010 年 4 ⽉8 ⽇時点のオリジナルよりアーカイブ。2010 年 3⽉ 10 ⽇閲覧。

[43] Corr, John. (8 February 1990) Mindful of Her Past,Hepburn Travels the World for UNICEF, PhiladelphiaInquierer, p. F12

[44]“Filmography: The Nun's Story”. audrey1.com. 2006年2 ⽉ 14 ⽇時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年 1 ⽉ 14 ⽇閲覧。

[45] http://www.audreyhepburnlibrary.com/nunstory/images/nunsstory03.jpg

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16 9 脚注

[46] Crowther, Bosley (1959 年 4 ⽉ 20 ⽇). “DelicateEnchantment of 'Green Mansions'; Audrey Hepburn Starsin Role of Rima”. The New York Times

[47] Crowther, Bosley (1960 年 4 ⽉ 7 ⽇). “Screen: “TheUnforgiven':Huston Film Stars Miss Hepburn, Lancaster”. The New York Times

[48] E.A. Hanks. , Vanity Fair, 2010-6-22

[49] Honan, Corinna (2010 年 11 ⽉ 14 ⽇). “Tantrums atTiffany's: How a viper's nest of clashing egos nearly killedoff one of the best-loved films ever made”. Daily Mail(London)

[50] “Audrey Hepburn: Style icon”. BBC News. (2004年 5⽉ 4 ⽇)

[51] Kane, Chris. Breakfast at Tiffany's, Screen Stories,December 1961

[52] Archer, Eugene. With A Little Bit Of Luck And PlentyOf Talent, The New York Times, 1 November 1964

[53]“The Most Famous Dresses Ever”. Glamour.com (2007年 4 ⽉). 2011 年 5 ⽉ 16 ⽇閲覧。

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[55] “Audrey Hepburn's little black dress tops fashion list”.The Independent (UK). (2010-5-17 May 2010) 2011年 5⽉ 16 ⽇閲覧。

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9.3 参考文献

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• ヘプバーン・フェラー・ショーン『⺟、オードリーのこと』実川元⼦訳⽵書房、2004 年

• ボブ・ウィロビー写真『世にも素敵なオードリー王国ヘプバーン写真集』⼭本容⼦・⽂講談社+ α ⽂庫 2003 年

• 清藤秀⼈『オードリー・ヘプバーン 98の真実』近代映画社、2007 年

•『オードリー・ヘプバーン世界を魅了した 20作ヒロイン集』近代映画社、2004 年

•『オードリー・ヘプバーンスタイル』近代映画社 2003 年

• チャールズ・ハイアム『オードリー・ヘプバーン映画に燃えた華麗な⼈⽣』柴⽥京⼦訳、近代映画社 1986 年

Page 18: オードリー・ヘプバーンsosin108.com/pdf/Audrey Hepburn.pdfオードリー・ヘプバーン ヘプバーンのサイン オードリー・ヘプバーン(英: AudreyHepburn*[†

18 11 外部リンク

• バリー・パリス『オードリー・ヘップバーン』永井淳訳、集英社 1998 年(2001 年の⽂庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)

• パメラ.クラーク・キオ『オードリー・スタイル〜エレガントにシックにシンプルに』講談社、2000 年。ISBN 978-4062105323。

• Brizel, Scott (2009). Audrey Hepburn: InternationalCover Girl. Titan Books Ltd. ISBN 978-1-84856-611-8.

• Chesire, Ellen (2003). Audrey Hepburn. PocketEssentials. ISBN 978-1-903047-67-5.

• Harris, Warren G. (1994). Audrey Hepburn:A Biography. Simon & Schuster. ISBN9780671758004.

• Hepburn-Ferrer, Sean (2003). Audrey Hepburn, AnElegant Spirit: A Son Remembers. Atria. ISBN 0-671-02478-7.

• Keogh, Pamela Clarke (2009). Audrey Style.Aurum Press Ltd. ISBN 978-1-84513-490-7.

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• Paris, Barry (1997). Audrey Hepburn. Weidenfeld& Nicolson. ISBN 978-0-297-81728-4.

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• Walker, Alexander (1994). Audrey: Her Real Story.Weidenfeld & Nicholson. ISBN 978-1-85797-352-5.

• Woodward, Ian (1984). Audrey Hepburn. St.Martin's Press. ISBN 978-0-312-06074-9.

10 関連項目

• 池⽥昌⼦ - ⽇本語版の吹き替え声優、CM でも担当している。

11 外部リンク

• 公式ウェブサイト of Hepburn ( and the AudreyHepburn Children's Fund )

• スイス政府観光局:オードリー・ヘップバーンとモルジュ(⽇本語)

• オードリー・ヘプバーン - ニューヨーク・タイムズ

• 図書館にあるオードリー・ヘプバーンに関係する蔵書⼀覧 - WorldCat カタログ

• オードリー・ヘプバーン - インターネット・ムービー・データベース(英語)

• オードリー・ヘプバーン -インターネット・ブロードウェイ・データベース

• オードリー・ヘプバーン - TCM Movie Database(英語)

• オードリー・ヘプバーン - AllMovie(英語)