ベーム-バウェルクによるマルクスの...

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〈論 説〉 ベーム-バウェルクによるマルクスの 価値論批判 比喩を用いた例証の空疎 A Criticism on Marxʼs Value-Theory by Böhm-Bawerk Emptiness of the Figurative Illustrations はじめに 1 .交換価値と「化学親和力の比喩」 ( 1 )労働による価値規定と「商品」経験 ( 2 )交換価値の同等性について (3)「化学親和力の比喩」と同等性=均衡の否定 2 .価値実体の抽象と「蒸留法」なる比喩 ( 1 )労働生産物の属性と「篩(ふるい)かけの比喩」 (2)「透明な諸物体の比喩」について ( 3 )分析対象としての商品と財=使用価値 3.「オペラ歌手の比喩」の錯乱 (1)「オペラ歌手の比喩」と使用価値一般の捨象 1

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Page 1: ベーム-バウェルクによるマルクスの 価値論批判repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/29154/jkz062...(2)労働生産物以外の要因を捨象する第2の「環」

〈論 説〉

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判

比喩を用いた例証の空疎

大 石 雄 爾

A Criticism on Marxʼs Value-Theoryby Böhm-Bawerk

Emptiness of the Figurative Illustrations

目 次

はじめに

1.交換価値と「化学親和力の比喩」

( 1)労働による価値規定と「商品」経験

( 2)交換価値の同等性について

( 3)「化学親和力の比喩」と同等性=均衡の否定

2.価値実体の抽象と「蒸留法」なる比喩

( 1)労働生産物の属性と「篩(ふるい)かけの比喩」

( 2)「透明な諸物体の比喩」について

( 3)分析対象としての商品と財=使用価値

3.「オペラ歌手の比喩」の錯乱

( 1)「オペラ歌手の比喩」と使用価値一般の捨象

1

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( 2)労働生産物以外の要因を捨象する第 2の「環」

( 3)ベーム-バヴェルクのさらなる錯綜

4.マルクスの確信の根拠 古典派経済学からの印象か?

むすび

はじめに

マルクスの価値論に関して,最も包括的で詳細にわたる批判を展開したの

はベーム-バウェルクであった。20世紀の後半にはまともに取り上げられる

機会は少なくなったが,近年,彼のマルクスに対する批判そのものを再検討

する試みが開始されている。それは長い論争過程においてベーム-バヴェル

クのマルクス批判論稿がその叙述に即しては検討されず,その結果,依然と

して彼に対する反批判が不徹底に終わっている,という事情による。そし

て,労働価値論という最も基礎的な研究に関しては,三野村暢�氏が「ベー

ム-バウェルクによるマルクス価値論証の批判」(1)において,ベーム-バヴェ

ルクの批判方法および内容の問題点を余すところなく解明している。氏はこ

の著作において,ベーム-バヴェルクによるマルクス批判の主要な方法を明

らかにし,その批判が論理的に展開されていない点を具体的に突き止め,ベ

ーム-バヴェルクのマルクス批判に一片の妥当性もないことを簡潔な表現の

うちに示された。その意味で,マルクス経済学の方法に基づくベーム-バヴ

ェルクへの理論的な反批判の作業はすでに大きな峠を越えているということ

ができる(2)。

では,さらにマルクス価値論に対するベーム-バヴェルクの批判を取り上

げ,それを詮索する意義はどこにあるか。

ベーム-バヴェルクは,マルクスの理論を効果的に批判し読者の共感を引

こうとして比喩的例証という方法を多用している。通常,それは単に例証と

して用いられるものであるが,彼の場合には,比喩をそのままマルクス批判

の根拠として用いてもいる。それだけに,比喩の元になっているマルクスの

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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論理は何か,それはマルクスの論理の骨格を適正に反映しているか,などの

点が問題となる。三野村氏の論稿では,主要な論旨の批判に目的が限定さ

れ,個々の比喩的例証についての立ち入った検討はなされていない。

本稿では,マルクスの労働価値論を批判するためにベーム-バヴェルクが

用いた比喩および比喩的例証を取り上げ,それらがマルクスの論理を正確に

反映するものとして設定されているか,という点を中心に検討する。その例

証を吟味するさいには,マルクスの提示した概念が何に喩えられているか,

といった細かな点の詮索が必要となる。この作業を通して,ベーム-バヴェ

ルクの設定した比喩がマルクスの論理展開を反映するものでなく,設例への

批判はマルクスに対する批判として有効とはなりえないこと,その結果,彼

のマルクス批判の営みは全く空疎な作業に終っているという点を示してみよ

うと考えている。その過程において,マルクスの価値論展開の方法に見られ

る科学的一貫性とその優位性が一段と明確になるはずである。

1 .交換価値と「化学親和力の比喩」

( 1)労働による価値規定と「商品」経験

私たちはまず,ベーム-バヴェルクによるマルクス価値論批判の枠組みを

概観することから始めよう。

ベーム-バヴェルクによると,マルクス労働価値論の根本命題は「すべて

の価値はただもっぱら体化されている労働量にだけ基づいている」(3)という

ものであるが,これは自明な命題ではない。なぜなら,価値と労苦との間に

は,労苦が価値の根拠だといえるほどの強い相関性はないからだ,という。

彼はこれを次のように説明する。

「かつて,わたしが他のところで,すでに詳しくのべたように,価値と

労苦とは,労苦が価値の根拠だという見解にすぐ囚われなければならない

ほどの,相関性をもつ 2 つの概念では,けっしてないのである。『私があ

る物のために労苦をしたという事実と,その物がじっさいこの労苦にあた

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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いするという事実とは,べつべつの相異なっている事実である。そして,

この両方の事実がかならずしも手に手をとって行く〔相ともなう〕とはか

ぎらないことは,あまりにも確実に経験によって裏づけされているので,

そのことについて,なんらの疑問の余地もありえないであろう。みのりの

ない無数の労苦のどれもが,そのことを証明している。……』」(4)。

ここでは,経験的に確かめうる具体例が示されていないので,ベーム-バ

ヴェルクがいかなる商品について述べているのかは明確でない。が,彼によ

れば,価値と労苦との相関性が極めて低いことは経験によって裏付けられ,

価値の根拠を労働に求めるのはもともと不適切だ,ということである。はた

してそうであろうか?

私たちの経験によれば,一般に多くの労働を必要とするものはその価値も

大きく,高い価格で売買されている。むろん,これに反する商品が存在する

ことも事実である。とはいえ,現実に流通する商品を大量的に観察した場

合,圧倒的多数の商品に関しては,価値と労苦とが相当高い相関性を持って

運動しているように私たちの目には映る。経験的な世界の事実に関して,価

値の数量的に厳密な計量やその検証を行なうことは容易ではないにしても,

日常経験的に,商品世界を大まかに眺めてみる限り,例えばダイヤモンドの

指輪とリンゴ 1個の価格の対応関係,山の中の沢を流れる清水と富士山頂で

売られるボトル 1本の水の価格関係など,商品の価格はそれを得るのに必要

な労働に対応しているといえるのである。

では,ベーム-バヴェルク自身が,商品世界における経験的な諸事実とし

て捉えるのはどんな現象であろうか。彼は次のように指摘する。

「諸商品の価格が,体化されている労働量に比例して決定されないで,

なお他の諸要素をも含んでいる生産費ぜんたいに比例して決定される,と

いうことを,かれ(マルクス 大石注)は知っている」(5),

と。

ここから,ベーム-バヴェルクの基本的な考え方が明らかになる。すなわ

ち,商品世界における経験的事実として捉えられる商品の価格は生産価格で

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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あり,マルクスもこの点についてはよく知っているということ。しかし,価

値と労働との相関関係は見られないにもかかわらず,マルクスは生産価格で

はなく労働による価値規定を与えており,それは誤りであるとする。マルク

スは,経験的に捉えられない労働価値を証明する結果,事・

実・

に・

基・

づ・

く・

論・

証・

いう方法を回避してしまい,必然的に不適切な方法を用いたことになる,と

いうのである。

では,商品の価値を扱う適切な方法とはどのようなものだろうか。その 1

つは,上に挙げられた「事実に基づく論証」という方法である。ベーム-バ

ヴェルクは,マルクスがこれを採用するのを回避していると解釈した。そこ

で,ベーム-バヴェルクは,彼が正しいと考える第 2 の方法,すなわち「心

理学的方法」について言及する。

「ところで,このほかにも,そのような命題にたいして同様にまったく

自然な〔当然の〕もう 1 つの〔第 2 の〕,証明と説得とのやりかた,すな

わち,心・

理・

学・

的・

な・

やりかたが,存在する。くわしくいえば, われわれ

の科学〔経済学〕においてひじょうに慣用される帰納と演繹との混和〔合

成〕をもちいて ,一方においては交換業務の遂行と交換価格の確定と

にさいして,他方においては生産への人びとの協力にさいして,かれらを

みちびく動機が,探求されることができるし,この動機の状態から人びと

の典型的な〔類型的な〕行動様式が推論されることができる。ここにおい

て,とりわけ,規則的に請求〔要求〕されて同意された価格と商品の生産

に必要な労働量とのつながりも,あきらかになることができるであろう

と,かんがえられうる。この方法は,まさしく,おなじような問題に,し

ばしば,しかも,もっとも良い効果をともなって,適用されてきたのであ

る」(6)。

このような方法は,需要供給による価格決定理論の一種ということができ

る。価値論としては,限界効用価値説が採用されるのであり,効用という観

念的要因を基礎とするため,彼はこれを「心理学的なやり方」と呼んだので

あろう。ベーム-バヴェルクは,この方法が「もっとも良い効果をともなっ

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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て,適用されてきた」というものの,具体的にどのような効果があったのか

を説明してはいない。したがって,この方法が「もっとも良い効果」を生み

出すという点は少しも明らかにされていない。

もっとも彼は,マルクスがこの方法で生産価格を論証しうると知っていな

がら,この方法を避けていると解釈する。この点では,マルクスの方法をほ

ぼ正確に理解しているといえる。というのは,彼は,「マルクスによれば,

有名な平均利潤率の形成と,純粋な労働価値から偏差をもち〔背離し〕平均

利潤の分けまえをふくんでいる『生産価格』への,純粋な労働価値の『転

化』とを,ひきおこすものは,まさに『競争』なのである」(7),と述べてい

るからである。

生産価格を導くための方法によって,価値の実体が労働(抽象的人間労働)

であるという点を導き出せないのは明らかである。そこで,この点を論証す

るために,マルクスが第 3の「弁証法的な演繹という方法」を用いたとの理

解に立って,ベーム-バヴェルクは次のようにいう。

「マルクスは,かれの命題を経験やその作用する動機から経験的にまた

は心理学的に〔心理的に〕根拠づけるかわりに,そのような題材にたいし

ては確かに少し奇妙な第 3の論証のやり方をとって進むことを,えらんで

いる。このやり方とは,交換の本質から純粋に論理的な証明をする 弁

証法的な演繹をする やり方である」(8),

と。

ここで,ベーム-バヴェルクが理解していないのは,マルクスがいかに経

験の世界に現われた事実を表象のうちに捉え,そこから商品の一般的性質の

認識に取りかかったか,という点である。商品価値が何によって規定されて

いるのかを検討する前に,マルクスは商品の主要な性質を,使用価値と交換

価値の 2要因として把握している。交換価値は,経験的に捉えられる現象の

世界では日々変動する市場価格として登場する。ベーム-バヴェルクは,私

たちが経験的に捉えるのは生産価格だと述べているが,生産価格といえど

も,人間の感覚で直接に捉えることのできる価格ではない。それは資本の競

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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争の中で,資本家や研究者の意識に媒介されて把握されうるものであり,競

争の分析を通して把握されることになる。

しかし,マルクスは,この経験的に捉えられる商品から理論的な認識のた

めの表象を得るのであって,そこであらゆる商品を観察し,およそ商品であ

れば備わっている一般的特徴,すなわち使用価値と交換価値を取り出し,そ

の 1つひとつについて分析を加え,一般的な規定を明らかにする。マルクス

は,『資本論』第 1巻第 1章の商品論の中で(9),資本主義社会では富が商品

大量として現われる点を指摘した上で,まず,使用価値の規定を与え,次に

ある使用価値と他の使用価値との交換比率として現われる交換価値を規定す

る。そして,交換価値を成立させている異なった使用価値の背後にある,そ

の両者に共通な,量的にも等しい実体の分析へと進んでいる。

ここでは,商品の価格あるいは価値が,交換価値として明確に把握されて

いる点が重要である。というのは,変動きわまりない市場価格であれ,一定

の法則的な価格として捉えられている生産価格であれ,ある価格でもって売

買される商品は,そこから貨幣による表現という点を捨象すれば,全ての商

品の価値があ・

る・

商・

品・

と・

他・

の・

商・

品・

と・

の・

使・

用・

価・

値・

量・

の・

交・

換・

比・

率・

,またはその比率

の連鎖として表わされるからである。価格が商品の不可欠の 1要因であるこ

とは,ベーム-バヴェルクも否定しえないであろう。このように,まず経験

的な事実として,商品は必ず交換価値という性質を持つと見なされるため,

それは商品を規定するのに不可欠な一般的要因として捉えられることにな

る。価格の交換価値としての把握は,誰もが確実に捉えうる経験的な事実を

基礎にして行なわれる,ということが分かる。ベーム-バヴェルクがもし,

商品の価値規定を,客観的事実を基礎に適切な方法を用いて行なおうとする

ならば,彼はまず,商品の持つ交換価値という特徴を捉え,その上で交換価

値の実体としての価値の分析に取りかかるべきなのである。

ところが,ベーム-バヴェルクは,マルクスが経験的事実を基に分析を行

なっている点を理解しないばかりではない。交換価値に見られる論理的な矛

盾と,それを分析するための適切な方法を把握しようとはしない。

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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ここで交換価値を,ある 1つの使用価値と他の 1つの使用価値との交換価

値という最も単純な形態で示すと,次のようになる(10)。

x量の商品A=y量の商品B

この式では,左辺と右辺で商品の種類が違い,その使用価値が異なってお

り,その質の違いがA,Bという異なった記号で表現される。ところが,量

的な観点から見ると,両辺はイコールで結ばれており, 2つの商品の価値は

量的に等しいとされている。ここから,この式には 1・

つ・

の・

矛・

盾・

が潜んでいる

ことが明らかになる。すなわち,両辺の価値量は等しいが,量的に等しいも

のは同質でなくてはならないから,量的に比較され,同じ量として表現され

ているのは両・

商・

品・

の・

使・

用・

価・

値・

で・

は・

な・

い・

,という点である。むろん,それは使

用価値が生み出す満足感という心理的効果=効用でもありえない。

したがってここに,両辺の商品が共通して含み,質的に同等で,その同じ

質で計った場合に同量だけ含まれているものは何か,という問題が改めて提

起されてくるのである。

( 2)交換価値の同等性について

さてマルクスは,アリストテレスが 2つの種類の異なる商品による価値表

現の形式を,しかも形態のみを示していた事実に言及した(11)。ベームは,

この点を捉えて,次のように問題を提示する。すなわち,

「マルクスは,すでに,むかしのアリストテレースにおいて,『交換は

同等性なしにはありえないが,また,同等性は通約性なしにはありえな

い』という考えを,見いだした。マルクスは,この考えを話の糸口にして

いる」(12)。

確かに,「交換は同等性なしにはありえないが,……」という考えがアリ

ストテレスに見られるのは事実である。しかし,マルクスはそれを,アリス

トテレスから初めて学んだわけではなく,またアリストテレスが述べている

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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ことを根拠に価値の分析を進めているのでもない。比較されるものの質的同

等性を確保すること,このことは量的なものを比較し,その大小や相等性を

分析する上で確保されるべき論理学上の前提なのである。この点を踏まえ

て,マルクスはそこで,質的に同等なものを徹底して追究したのである。

では,ベーム-バヴェルクは,なぜこのような,論理的に当然の手続きを

問題視したのだろうか。彼はマルクスの方法を次のように批評する。

「第 1の前提 これにしたがえば 2 つの物のたがいの交換においてこ

れらの物の『同等性』が明示されるべきはずである が,もうすでに,

わたしには,ひじょうに古くさく(もちろん,古くさいというようなことは,

けっきょく大して重要なことではないであろうが),また,ひじょう非現実的

に, これを簡明に〔わかりやすく〕いえば, まちがって,かんが

えられているように見える」(13)。

それが古い考えであるという点は問題にはなりえない。そこで彼は,それ

は誤りだともいい,その理由を述べている。すなわち,

「同等性と精確な均衡とが支配しているところでは,いままでの安定状

態の(に 大石注)何の変化も入りこむ余地のないのが,つねである。

したがって,交換のばあいに諸商品がそれらの所有者を代えることで事態

がおわるならば,このことは,はるかによく,つぎのことを示している。

すなわち,このことは,なにかある不同等性や一方がより重いための不均

衡がはたらいていたのであって,この偏倚によって変化を余儀なくされた

のである,ということの,しるしである」(14)。

ここから,ベーム-バヴェルクが,商品交換の目的,すなわち商品は何の

ために交換されるのかを全く把握していないことが分かる。彼は,交換によ

って所有者が変わるのは両者の間に不・

同・

等・

性・

や不・

均・

衡・

があることによると理

解する。均衡状態が支配しているならば,そこには何の変化も生じる余地は

ないという。すなわち,交換される商品の価値が均衡しており,交換ののち

に価値が増えないとすれば,商品所有者はそれらの商品を交換しないのであ

り,もし交換が行なわれるとすれば,そこには不均衡があって,その偏倚の

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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ために所有者の変更が余儀なくされる,というのである。この認識はそれ自

体が不適切であるばかりでなく,ベーム-バヴェルクが,ここで取り組んで

いる課題を忘れたところから生じているという点で,もともと問題にもなり

えない類のものなのである。

いま彼が論じているのは,交換価値についてであり,ある商品の一定量と

他の商品の一定量が等・

置・

さ・

れ・

て・

い・

る・

式に関してである。ここでは,商品のも

う 1つの要因である使用価値の分析とその規定がすでに前提されている。商

品の交換を行なう者は,交換する相手の商品の使用価値を手に入れることを

目的として交換する。商品の使用価値とはその商品の使用によって,それを

使用する人の欲望を満たすという性質だからである。商品の交換は,異なっ

た使用価値の間でのみ行なわれることになるが,それは商品の使用価値が

「他人のための使用価値」という特徴を持つからだ,という点が理解されな

くてはならない。

『資本論』では,このような使用価値の規定の上に立って,次に,商品の

もう 1つの本質的な要因である価値の分析とその規定がなされる。すでに規

定された使用価値を前提にして,価値はある使用価値と他の使用価値との交

換比率として,すなわち交換価値として一般的に表現される。交換価値とい

う名の通り,これは商品相互の交換比率を表わすものである。このような比

率での交換が成立することが前提されるのであって,その前提の上に,この

同・

等・

関・

係・

を成立させる実体は何かが分析される。これは,商品価値における

均衡関係の成立を示すものである。それゆえ,均衡関係のもとでは交換が行

なわれないという主張は,この交換価値の分析に関する限りでは分析の前提

を欠くことになり,全く不適切なものであるといわなくてはならない。

仮に,ここで交換されるべき諸商品の価値が均衡状態になく,一方の価値

が他方の商品価値より偏倚していると想定してみよう。例えば,

「商品所有者A:商品A(100)<商品B(120):商品所有者B」

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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と仮定してみるのである。この場合に,交換が必然的に行なわれるといえる

であろうか。

交換を行なおうとする商品所有者にとって,商品A,商品Bがそれぞれ異

なる使用価値であるならば,この交換によって,それぞれの商品所有者が自

分にとっての使用価値を手に入れるという目的は果たされるであろう。その

場合,上の例のように相互に交換される商品の価値量が異なるとすれば,は

たして 2人の商品所有者は交換を行なうであろうか。商品所有者Aは100の

価値を持つ商品Aで120の価値を持つ商品Bを手に入れ,交換の結果20だけよ

り多くの価値を得ることができるため,喜んでこの交換を遂行しようとす

る。それに対して,商品所有者Bは120の価値を持つ商品Bを100の価値を有

する商品Aと交換するため,交換の結果20の価値を失ってしまう。したがっ

て,一般的には,商品所有者Bが交換を行なうことはないであろう。交換は

一方だけが行なおうとしても成り立つものではない。したがって,一般には

この交換が実際に行なわれることはない,と考えなくてはならない。交換

は,相互の商品が交換相手にとって使用価値であることを前提とし,相互の

価値が等しいことを基礎にして可能となるものである。そして,異なった使

用価値の間の交換比率として表わされる交換価値において,その同等性の基

礎をなしているものが何であるかを分析することが,ここでの課題として提

起されることになる。

( 3)「化学親和力の比喩」と同等性=均衡の否定

ところが,ベーム-バヴェルクはここで,彼のマルクス批判の論拠を強化

するために 1つの比喩を提示する。彼の主張自体が不適切であるため,その

比喩がマルクスを批判するのに役立たないことは明らかではある。しかし,

それがベーム-バヴェルクの主張自体の有効な比喩となりえているか否か,

ひとまず検討されることは必要であろう。彼は次のようにいう。

「このことは,ちょうど,つぎの例と同じようなことである。すなわ

ち,たがいに近づけられた化合物の諸成分のあいだに,あたらしい化学化

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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合物がつくられるのは,ちかよせられた他の物体の諸成分にたいする『化

学親和力』が,これまでの化合物の諸成分にたいするのと,ちょうど同じ

強さのばあいではけっしてなくて,ちかよせられた他の物体の諸成分にた

いする『化学親和力』がこれまでの化合物の諸成分にたいするよりも一そ

う強いばあいである。じっさいに,まさに近代の〔国民〕経済学も,交換

されるべき諸価値〔諸価値物〕の『等価』という古いスコラ神学的な観念

がまちがっていることについては,〔意見が〕一致しているのである」(15)。

ベーム-バヴェルクは,交換される諸商品を,その化合によって新しい化

学化合物をつくるための諸成分に喩えている。交換される諸商品の間に不均

衡=偏倚が存在する場合に交換が行なわれる,ということを示したいからで

ある。ここでは交換される 2つの商品は,化合へと向かう 2つの化学成分に

よって表現されている。むろん,比喩によってその主張を補強しようとする

場合,基本的な論理の関係さえ対応していれば,全ての要因やその運動が厳

密に一致している必要はない。むしろ,比喩においては,元になる主張に比

べて主要な論理のみが単純かつ骨太に示されている方が,主張や見解の補強

に効果を発揮するのであり,些細な点に拘泥する必要はないともいえる。と

はいえ,基本的な論理の骨組み自体が異なってしまうと,そもそも比喩とし

ての役割が意味を持たなくなる。そのため,この点には細心の注意が必要と

されるのである。

この点からいえば,ベーム-バヴェルクが示した例は,比喩として重大な

問題を孕むものといわなくてはならない。まず第 1 に,ベーム-バヴェルク

が明らかにするのは交換が起こるか否かという点であるが,化学化合物の比

喩では,変化が起こるか否かの点で同じ設定がなされたものの,そこに生ず

るとされる変化は交・

換・

ではなく,新・

し・

い・

化・

合・

物・

が・

生・

ま・

れ・

る・

か・

否・

か・

なのであ

る。経済学的に見れば,交換は流・

通・

過・

程・

に属することで商品を生産しないの

に対して,新しい化合物の形成は生・

産・

過・

程・

に属する事柄である。交換とは商

品の所有者の変更である。それが行なわれるか否か比喩を用いて簡潔に示す

には,交換される両方の商品はすでに生産されており,その使用価値には変

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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化の生じないことが前提されていなくてはならない。この点で,ベーム-バ

ヴェルクの設定した比喩は,交換が行なわれるか否かについて意味のある結

論を得るのに不適切なものとなっている。

第 2には,均衡ないし不均衡が,交換価値におけるように両方の要因の間

に存在するものか否か,という点である。交換における均衡関係は,すでに

数値例に見られたように,交換されるべき商品の間には前提されている。そ

れに対して,この比喩の中で量的に問題とされるのは,ある化合成分の他の

化合成分に対する親和力という力・

であって,両成分のそれぞれが共通に持つ

量的な要素ではなくなっている。

第 3に,そのような親和力の相違がある場合に,一方においては新しい化

合物が形成され,他方においてはそれが形成されないことがいかにして明ら

かになるのか。比喩においては,両方の成分が「化学親和力」を持ち,その

強さによって新しい化合物が形成されることになっている。しかも,新しい

化合物が形成されるのは,近寄せられた化合物成分に対する化学親和力が,

これまでの化合物の成分に対するのと同じではなく,いっそう強い場合だと

される。

これはいかにも奇妙なことである。というのは,この説明によれば,これ

までの化合物に対してもこの成分は化学親和力を持っていたはずであり,化

学親和力を持つ以上,それらの成分は化合して新しい化合物を形成したはず

なのである。したがって「あたらしい化学化合物がつくられるのは,……,

これまでの化合物の諸成分にたいするのと,ちょうど同じ強さのばあいでは

けっしてなくて,……」との説明は成り立たない。ここでは,親和力がこれ

までと同じでは新しい化合物は生まれず,それよりいっそう強い場合に化合

物が生じる,とベーム-バヴェルクが仮定しているにすぎない。このことは

また,新しい化合物の形成という変化をもたらす根拠が,不均衡な状態とか

偏倚といった要因ではないということを意味している。こうして,自説を補

強するために彼が提示した比喩は,比喩としての要件を全く欠いた空疎なも

のであることが判明する。

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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なお,ベーム-バヴェルクは,化学親和力の比喩を示したあとで,それに

対する近代の経済学の扱いについて触れる。ここでいう近代の経済学が何を

指すか,またその「等価」という観念に関するそれらの主張が明示されてい

ないため,彼の意図を正確に読み取ることはできない。しかし,すでに先に

確認したように,全ての商品は一定の価格で売買されるから,交換価値はい

つでも必ず「等価」という形式で表現されなくてはならないのである。彼は

「等価」という観念が誤りであると主張しながら,「私は,この点を,さらに

立ち入って問題としよう〔それ以上に重要視しよう〕とは,おもわないので

あって,……」(16)というだけでその具体例も根拠も示さず,いわゆる「蒸留

法」と呼ばれる価値抽象方法の批判的検討へと向かっていく。

2 .価値実体の抽象と「蒸留法」なる比喩

( 1)労働生産物の属性と「篩(ふるい)かけの比喩」

ベーム-バヴェルクは,マルクスの価値論の核心部分に対する批判に取り

かかる。「……,〔ここでは〕わたしは,もとめられた『共通なもの』として

労働をマルクスが蒸留して取り出す論理的な方法的な操作の批判的な研究に

向かう」(17),と。彼によれば,「この操作は,わたしにはマルクスの理論の

最大の弱点をつくっているように見えるといったあの操作のことである。こ

の操作は,思考の環〔項〕数とほとんど同じ数の,科学上の重大なあやまり

を,しめしている」(18)という。はたして,ベーム-バヴェルク自身,そのよ

うな誤りを論理的・科学的な方法で解明しているといえるだろうか。

彼はまず,マルクスが交換価値を分析した手続きを次のように要約する。

「かれは,交換において等置される物〔諸客体〕が,いっぱんに持って

いるいろいろの属性に,目をとおし調べて,それから,除外の方法によっ

て,検査に不合格な諸属性をすべて除去していく。こうして,ついには,

ただ 1 つの属性だけしか,もはや残っていないようになる。このばあい

に,この〔のこっている唯一の〕属性 これは労働生産物だという属性

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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である は,もとめられた共通の属性でなければならない」(19)。

これについて,彼は,「この手順は,すこし奇異ではあるが,しかし,そ

れじしんは排斥されるべきものではない」(20)と述べ,ひとまずこの手続きを

認める。この要約において,論理的な手続きとして明確に表現されていない

恨みはあるが,マルクスの抽象の手続きと異なったものが取り上げられてい

るわけではない。この点の確認は重要である。というのは,「共通のもの」

を取り出すのにこの手続きを取ることは,交換価値式「x量の商品A=y量の

商品B」の両辺に含まれ,量的に等しく,質的に同じものを分析することを

意味しているからである。ここでは商品Aと商品Bの価値の「等置」が前提

とされるから,ベーム-バヴェルクは,古くさいとか誤りであると彼が先に

批判した「等置」を事実上ここで認めてしまったといえる。彼の言葉でいえ

ば「均衡関係」の成立である。ここで彼は,交換価値「x量の商品A=y量の

商品B」を分析の対象に設定し,これから両辺の商品に「共通なもの」を析

出するというマルクスと同じ位置に立ったことになる。

さらに,この方法が適切に用いられるならば,望み通りの結果さえ得られ

る可能性があるという。すなわち,

「それでも,この方法が,つぎのように必要な注意と完璧さをもって用

いられるばあいには,の・

ぞ・

み・

ど・

お・

り・

の・

目・

標・

に・

い・

た・

る・

こ・

と・

は・

で・

き・

る・

。すなわ

ち,ふくまれているあらゆるものをば論理の篩〔ふるい〕のなかに,じっ

さいにも入れてみるように,めんみつすぎるくらいの細心さで注意がはら

われ,それから,ふるいにかけて除去される部分〔環,項〕のただ 1つに

でも見あやまりが犯されないように,めんみつすぎるくらいの入念さで注

意がなされる,というばあいである」(付点は大石)(21)。

これから,ベーム-バヴェルクがマルクスの分析を吟味する場合に,これ

がその適否を判断する基準となる。ここでは,完璧さ,綿密さ,ただ 1つの

見誤りも犯さない,という点が強調されている。一般的にいえば,これらの

点を重視することは科学的な作業にとって重要なことである。特に自然科学

では,量的な側面の取り扱いにおける厳密さが要求されている。

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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むろん,社会科学においても分析それ自体は厳密に進められる必要があ

る。しかし,交換価値の両辺を分析して「共通なもの」を抽出するという作

業においては,現実のあらゆる商品を対象として分析し,ほとんどの商品

に,大量支配的に内在しているものが把握されるならば分析の目標は達せら

れることになる。社会法則が傾向的法則として把握される所以である。

それでは,ベーム-バヴェルクはマルクスによる価値実体の抽象手続きを

どのように批判するか,議論の核心部分を見てみよう。彼はまず,労働の抽

象という手続きを批判するために「篩かけの比喩」を持ち出す。彼はいう。

「かれ(マルクス 大石注)は,はじめから,ただ,彼が篩にかけて最

後に『共通の』ものとして取り出したい属性をもっている交換されるねう

ちのある物だけを,ふるいのなかに入れておいて,そして,ほかの種類の

物をすべて外へすてる。つぼから白球が出てくるであろうことを切望し

て,つぼのなかへ白球ではない球を入れないことによって,この結果〔白

球が出てくること〕を用心ぶかく確保する,というような人のするとおり

に,マルクスは,しているのである。というのは,マルクスは,かれが交

換価値の実体を探求する範囲を,はじめから『商品』に限定しておいて,

そのさいに,この概念〔『商品』〕を,きっちり正確入念に定義することな

く,とにかく『財』の概念よりも狭くとらえ,自然の賜物〔天然物〕に対

立する労働生産物というわくのなかに制限している,のだからであ

る」(22)。

この比喩自体は,誤解の余地の無いほど分かりやすいものである。しか

し,それだけに,この比喩ではマルクスの分析方法が意図的にねじ曲げられ

ていることが,一読して明らかである。ここでは,白球を取り出すために白

球のみを篩の中にいれたといわれるが,マルクスはそのようなことはしてい

ない。この点について確認してみよう。

分析の対象は交換価値であり,それを式で表わしたものは次のようになっ

ていた。

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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x量の商品A=y量の商品B

商品として交換されるもの,交換のために生産されたものはどんなもので

も,商品A,商品Bの位置に立つことができる。それゆえ,マルクスは価値

実体の分析に当たって,全・

て・

の・

商・

品・

を篩の中に入れているということができ

る。ベーム-バヴェルクは,マルクスが分析の結果として労働生産物を抽出

した点から考えて,逆に,最初から労働生産物のみがはいっているに等しい

と見なしたが,これは交換価値に関する無理解に由来する単なる邪推である

といってよい。

ベーム-バヴェルクは,このような比喩を提示する根拠として,マルクス

の商品概念の問題点なるものを挙げる。先の引用で彼は述べている。

「マルクスは,かれが交換価値の実体を探求する範囲を,初めから『商

品』に限定しておいて,そのさいに,この概念〔『商品』〕を,きっちり正

確入念に定義することなく,とにかく『財』の概念よりも狭くとらえ,自

然の賜物〔天然物〕に対立する労働生産物というわくのなかに制限してい

る」(23),

と。

彼は,マルクスが分析対象を初めに「商品」に限定したことが,白球のみ

を篩に入れておくことに匹敵すると考えている。そして,商品の概念が正確

に定義されていないものと理解した。ここに実は,ベーム-バヴェルクがマ

ルクスの価値論を正確に理解しえない原因が潜んでいる。マルクスによって

初めて明確にされた商品と財(使用価値)との相違と商品の厳密で科学的な

規定を,ベーム-バヴェルクは正確に理解しようとしないのである。彼は,

マルクスが「交換価値の実体を探求する範囲を,はじめから『商品』に限定

し」たことで,自然の賜物が分析の対象から排除された,とマルクスを非難

する。しかし,マルクスは商品の一般的概念規定を試みているのである。商

品の規定にさいしては,ここで分析の対象が商品に限られるべきなのは当然

のことであろう。

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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ベーム-バヴェルクは,交換価値の実体を明らかにするために,商品より

も広い概念である財(使用価値)を分析の対象とすべきであると主張する。

これに対して,マルクスは,商品はまず使用価値を持った物,すなわち財で

ある点を明らかにする。使用価値は,そのものの有用な性質であり,およそ

何らかの有用性を持たない物,すなわち財でない物は商品となりうる資格を

欠いている。そのため,マルクスは商品の第 1の要因として使用価値を提示

し,それについて明確な規定を与えたのである。

しかし,あるものが財(使用価値)であるというだけでは,商品とは見な

されない。商品は貨幣ないし他の商品と交換される物であって,ある財(使

用価値)は交・

換・

価・

値・

を・

持・

つ・

こ・

と・

に・

よ・

っ・

て・

商品としての資格を有することにな

る。こうして,商品とは財(使用価値)であるとともに交換価値を持ち,交

換の過程にはいっていく物であることが明らかにされる。

ここから見えてくるのは,次の点である。マルクスは分析の範囲を商品に

限定しているといってベーム-バヴェルクが激しい批判を展開すればそれだ

け,その分析におけるマルクスの論理的な正しさが証明される,ということ

である。

マルクスは,一定の歴史的な過程に現われ資本主義社会では富の基本形態

となっている「商品」を取り上げ,それに一般的な概念規定を与えようとし

た。財(使用価値)はといえば,人間が生活する社会ではどんな時代,どん

な社会にもなくてはならない歴史貫通的なもの,といってよい。ベーム-バ

ヴェルクには,このような経済学上の概念の歴史性も,その背後にあってそ

れを成り立たせている経済的な関係についての認識も存在しない。マルクス

の意図したように,商品の概念を明確に規定するためには,資本主義社会で

富の基本形態として現われている商品をきっちりと探求の範囲に入れるべき

なのである。財(使用価値)のようなより広い概念に対応するものまで対象

に加える場合には,その結果得られる商品の規定は,よりあいまいで不十分

なものとならざるをえない。

では,ベーム-バヴェルクは,「共通なもの」を明らかにするために,労働

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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生産物以外に何を探求の範囲に含めるべきだというのか。彼は詳しく説明す

る。

「ほんとうに交換が,『ひとしい大きさをもつ共通なもの』の現存を前

提する等置を,意味するならば,この共通なものは,やはり,交換に入る

あらゆる種類の財において,もとめられ見いだされなければならない。

〔くわしくいえば〕この共通なものは,たんに労働生産物においてだけで

はなくて,また,土地,立ち木,水力,炭層,石切り場,石油層,鉱泉,

金鉱,などのような,自然の賜物においても,もとめられ見いだされなけ

ればならないのである。交換価値のきそになっている共通なものを探求す

るさいに,労働生産物でない交換されるねうちのある財を除外する,とい

うことは,この事情のもとにおいては,方法上のゆるすべからざる死罪で

ある」(24)。

むろん,最初は自然の賜物として自然の一部に眠っていたものであって

も,それが交換のために市場にもたらされる場合には,その過程で交換価値

も与えられ,商品の形態をとって登場する。上の引用部分を注意深く読む

と,ベーム自身も,この違いに気付いているのではないかと窺わせる表現が

見られる。それは,探求の対象に加えられるべき財について,最初は,「交

換に入るあらゆる種類の財」と呼び,次にそれを「労働生産物でない交・

換・

さ・

れ・

る・

ね・

う・

ち・

の・

あ・

る・

財」と言い換えているところである。この後者は商品では

なく,単なる自然の賜物をも含む財(使用価値)一般を指す言葉として用い

られている。そして,これらの財を探求の範囲から除外するのは,「方法上

のゆるすべからざる死罪」だとまで言い切っている。死罪とはいわないまで

も,基礎的な概念についての不正確な理解と致命的な方法上の欠陥がベーム

の側にあることは明らかである。

ここでは,ベーム-バヴェルクの方法上の理解におけるもう 1 つの問題点

を指摘しておきたい。それは,分析の対象に何を含めるかということと,そ

の分析によって何を「共通なもの」として抽象するかとは別のことだという

こと,にもかかわらず,ベーム-バヴェルクはこれら 2 つの事柄を混同して

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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いるという点である。まずマルクスは,探求の対象の範囲に,商品としての

2要因を持つありとあらゆる商品を含めていると考えてよい。そこでは,自

然の中から取り出されたものでも,それが商品の 2要因,とりわけ交換価値

を備えている限りは商品として扱われ,交換価値の実体を分析する対象に加

えられている。

そこから出発しつつ,マルクスは,量的に等しく質的に同じ「共通なも

の」を探求し,その結果 1つの「共通なもの」を突き止めていく。それが労

働生産物だということであり,この段階では,「共通なもの」はその商品に

投下される労働として把握されるのである。ここでは,労働生産物という性

質は現実の商品を分析した結果として得られたものだという点が重要であ

る。これは最初から労働生産物だけを探求の対象に入れておいた結果ではな

い。にもかかわらず,ベーム-バヴェルクは,この分析の結果労働生産物が

得られたというところから,マルクスが実際に採用している手続きを無視

し,分析の結果得られるもののみを分析の対象に入れた,といって論難して

いるのである。

(2)「透明な諸物体の比喩」について

さて,以上のマルクスの方法について,ベーム-バヴェルクは 1 つの比喩

で批判を補強しようとする。彼は,マルクスの方法を「ゆるすべからざる死

罪である」と宣告し,次のように述べる。すなわち,

「これは,あたかも,物理学者が,ある個別の群の諸物体 たとえば

透明な諸物体 の諸属性をふるいにかけることで,すべての物体に共通

な属性 たとえば重さ の根拠を探し求めたくおもい, 透明な諸

物体に共通なあらゆる属性を検査することによって ,これら透明物の

このほかの〔共通ではない〕すべての属性が重さの根拠ではありえないと

証明し,このことに基づいて,さいごに,〔重さのほかには透明性だけが

透明の諸物体に共通な属性として残るから〕透明性が重さの原因でなけれ

ばならないと宣言する,というようなばあいと,かわるところはないので

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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ある!」(25)。

この喩えがマルクスの方法の比喩として適切なものか,その確認から始め

なくてはならない。ベーム-バヴェルクが示そうとするのは,「交換価値のき

そになっている共通なものを探求するさいに,労働生産物でない交換される

ねうちのある財を除外する」のは死罪に値する誤りだ,という点である。し

たがって,全・

て・

の・

財・

が「すべての諸物体」に,そのうち労・

働・

生・

産・

物・

は「透明

な諸物体」に,また探・

求・

さ・

れ・

る・

べ・

き・

共・

通・

な・

も・

の・

は「重さ」に,なぞらえられ

ていることになる。その上で,例示された物理学者の主張を要約すると,次

のようになる。

「全ての物体に共通な重さという属性の根拠を求めることが課題であ

る。そのために,透明な諸物体に共通な属性のみを検査することによっ

て,透明性のみが共通の属性であることを把握し,そのことから,透明性

が全てのものに備わる重さの根拠であることが証明されたのである」,

と。

問題は,全ての物体に共通な属性の根拠を明らかにするために透明物とい

う特・

殊・

な・

物・

体・

のみを探求の対象にする,という点にある。むろんマルクス

は,最初から商品の一般的な規定を与えようとして全・

て・

の・

商・

品・

を分析の対象

として取り上げている。交換価値の式において,その両辺の商品に共通なも

のが労働の生産物だという点は,全ての商品を分析した結果として得られた

認識である。したがって,「透明な諸物体に共通な属性のみを検査する」と

いう点は,マルクスの分析方法に関しては妥当しない。

さらに細かく見てみよう。「すべての物体に共通な重さという属性の根拠

を求める」というさいの「すべての物体」という点に問題がある。というの

は,ここでは交換価値を分析し,使用価値の異なった,交換される商品に共

通な属性を突き止めようとしているのだからである。すなわち,あらゆるも

のを包含する「すべての物体」という表現は,「すべての商品」を示す言葉

の言い換えとして適切ではない。「すべての物体」に相当するのは「すべて

の財」であり,商品はむしろ「透明な諸物体」に対応する。マルクスは,い

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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わばそれらに共通な透明性の根拠を探求するのに,全ての透明物を検査し

て,共通な透明性の根拠を突き止めようとした,ということになる。

では,どうしてこのようなズレが生じたのか。第 1 の原因は,ベーム-バ

ヴェルクが,科学的な認識の手続きを獲得するには至らず,マルクスの分析

方法を正確に理解しえていないところにある。労働生産物という共通の性質

は,交換価値を持つ全・

て・

の・

商・

品・

の分析結果として明らかになるが,ベーム-

バヴェルクは,検討の対象には最初から労働生産物しか含まれていない,と

考えてしまう。商品の認識を進めるには,全ての商品が検討の対象とされる

べきなのはいうまでもなく,マルクスはこうした科学的な手続きを踏まえて

いるのである。

第 2には,共通のものを探求するさいに,商品ではなく全・

て・

の・

財・

がその対

象とされねばならない,と考えた点が問題になる。ベーム-バヴェルクが,

「死罪に値する」と指摘したところを見てみよう。それは,「交換価値のきそ

になっている共通なものを探求するさいに,労働生産物でない交換されるね

うちのある財を除外する」,ということである。しかし,単に財(使用価値)

というだけでは商品としての十分な条件を欠いており,また全ての財が商品

であるわけでもない。財(使用価値)という性質は,本質的ではあるが商品

の 1要因にすぎず,商品の十全な規定のためには,もう 1つの要因である交

換価値が分析されなくてはならない。

ここでは,ベーム-バヴェルクはある重要な点でマルクスの方法とその結

論を正しいものと認めている。まず,彼は労働生産物に探求の範囲を限定す

ることに反対した。彼の理解では,商品は労働の生産物であって,商品に対

象を限定すれば,たとえ全ての商品を取り上げたとしても結局労働生産物に

限定されることになり,労働生産物という性質のみが共通のものとして捉え

られる,というのである。したがって,ベーム-バヴェルクは,全ての商品

が労働の生産物である点,それを分析すればまさしく労働の生産物という共

通の性質が抽出される点をはっきりと認めているのである。

さて次に,ベーム-バヴェルクは,自然の賜物のうち土地に限定して一定

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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の考察を行なう。なるほど,資本主義社会では土地も商品として売買される

から,これを取り上げるのは必要なことである。彼はいう。

「土地のように,財産と交易とのもっとも重要な目的物〔諸客体〕に属

する天然物〔自然の賜物〕が,すくなくないだけに,そしてまた,いくら

何でも交換価値が自然の賜物のばあいにはつねにただ全く偶然に勝手気ま

まに決められるというようなことは,まさか主張されえないだけに,自然

の賜物の除外を是認することは,なおさら一そう,できないのである。

(交換における等置という考えの生みの父であるアリストテレースは,自然の賜物

を除外することを,けっして思いもしなかったであろう。)一方において,偶然

的な価格は,労働生産物においても生じる。また他方において,自然の賜

物の価格は,しばしば,堅固な拠り所や決定根拠への,もっとも明白な連

関を,しめしている。たとえば,土地の買い入れ価格が,ひろく行われて

いる普通の利子率を標準とするその土地の地代の倍数である,ということ

は,よく知られている」(26)。

ここでは,すでに指摘されたベーム-バヴェルクの混同と曲解が再び現わ

れる。彼は天然物を「財産と交易とのもっとも重要な目的物」と捉えるが,

その可能性があるという点ではこの認識も誤りではない。しかし,それらは

財(使用価値)ではあっても,商品であるということはできない。ベーム-バ

ヴェルクはここで,土地の価格は労働によって規定されておらず,したがっ

て労働によるマルクスの価値規定が誤りであると主張する。

土地も,商品として交換を目的に市場に登場するときには,必ず何らかの

交換価値(価格)を持つ。その交換価値が,「ただまったく偶然に勝手に決

められるようなこと」はないのもその通りである。土地は,生活用品や機械

設備などの一般的な商品ではなく,それらと同じ意味で労働の生産物とはい

えない。したがって,それが商品となることがあるとしても,その交換価値

(価格)が一般の商品のようにそれを生産するのに必要な労働の量によって

規定されることはない。そのためマルクスも,『資本論』第 3 巻,第46章

「建築地地代,鉱山地代,土地価格」において示されているように,土地と

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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いう特殊な商品に関する特別の考察を加えている。

ベーム-バヴェルクは,ここで,一般的な「土地の買い入れ価格」につい

ての社会的な認識について述べている。「土地の買い入れ価格が,ひろく行

われている普通の利子率を標準とするその土地の地代の倍数である,という

ことは,よく知られている」(27),と。これは分かりにくい表現であるが,彼

がいおうとしたのは次のことである。すなわち,土地の価格は,普通の利子

率の成立を前提して,その土地の地代をその利子率で割ることにより,地代

をいわば資本還元した大きさになるということである。これは土地価格を仮

空資本(擬制資本)として捉えるものであるが,このような認識はマルクス

によって明快に示されている。それは,要約すれば次のようになる。

「土地の価格は,地代をそのときの一般的利子率によって資本化したも

のである。それは仮空資本である。だから,土地の価格は地代に正比例し

て変動し,利子率に反比例して変動する」(28)。

ベーム-バヴェルクが労働によっては規定されないと主張してやまない土

地の価格についても,マルクスははるかに論理的かつ厳密にその規定を与え

ていることが分かる。

なお,ベーム-バヴェルクが挙げた土地以外の天然物についていえば,そ

れらは自然のままの状態から,他人のための使用価値を持つ状態に整えら

れ,交換の場にもたらされるまでにそれ相応の労働が必要とされる。そし

て,商品の交換価値が分析される限り,その交換価値は他の商品と同じよう

に労働の生産物であるという結論が得られることになる。鉱物資源,立ち木

などは,そのままの状態では商品ではない。が,生産財としてであれ消費財

としてであれ,それらは幾多の労働を支出され他人のための使用価値と交換

価値を持った商品に仕上げられていく。こうして,商品として市場に現われ

るときには,それらもまた必然的に労働生産物という特性を帯びることにな

る。

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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( 3)分析対象としての商品と財=使用価値

私たちは,財(使用価値)と商品を区別し,マルクスが明らかにしようと

しているのは商品の規定である点を確認した。この点を理解しようとしない

ベーム-バヴェルクは,検討すべき対象についていっそう混乱した議論を提

示する。彼は,次のようにいう。

「マルクスは,また,かれが,交換されるねうちのある財のなかの一部

を,はじめから研究の外へしめ出した,ということと,なぜ,しめ出した

か,という理由について,はっきりしている説明をしないように用心して

いる。かれは,ひじょうにしばしばそうであるように,ここでもまた,か

れの推論のとりあつかいにくいところを,ぬらりくらりとして捕えどころ

のない弁証法的な器用さで,すべりこえてゆく術〔すべ〕を心得ている。

かれは,まず,かれの『商品』という概念が,交換されるねうちのある財

いっぱんの概念よりも,せまいのだ,ということを,かれの読者に気づか

せないようにしている。かれの著書のさいしょに,『資本制生産様式が支

配している諸社会の富は,とほうもなく大きい商・

品・

集・

積・

としてあらわれ

る,』という一見まったく悪意のない〔無害な〕ように見える一般的な文

章がおかれているが,かれは,この文章によって,あとになって商品に研

究を局限するための,わざとらしくない結びつきを,はなはだ巧みに用意

しているのである。商品という表現が,これにマルクスがあとになって付

加した意味 労働生産物という意味 において理解されるならば,こ

の命題〔いま引用されたマルクスの文章〕は,まったくまちがっている。

なぜなら,土地をふくめて自然の賜物は,国富のひじょうに重要な・どう

でもよいのでは決してない・構成部分を形成しているからである」(29)。

この部分から,ベーム-バヴェルクの理解に関する私たちの先の考察が正

しかったことが確認される。検討の対象として「社会の富」の全体を取り上

げ,商品の一般的規定を与えようとしたマルクスの方法と分析結果に対し

て,ベーム-バヴェルクは批判を浴びせている。彼によれば,マルクスは

「あとになって商品に研究を局限」しているとのことだが,マルクスは最初

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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から,商品を対象に取り上げ,商品の一般的な規定を科学的・論理的な方法

に基づいて与えている。ちなみに,『資本論』第 1 巻第 1 章のタイトルは

「商品」,その第 1節は「商品の 2 つの要因 使用価値と価値(価値実体 価

値量)」となっており(30),その中で価値の現象形態としての交換価値が分析

され,「共通なもの」すなわち価値の実体としての抽象的人間労働が明らか

にされている。このように,マルクスは,最初から商品を対象として研究を

進めたのであり,「あとになって商品に研究を局限」しているというベーム-

バヴェルクの論難は全く当たらない。

なお,この部分におけるベーム-バヴェルクの叙述から,彼が商品以外の

財をも探求の対象に加えるべきとした理由が明らかになる。それはマルクス

の『資本論』から引用した文章に関し,「土地を含めて自然の賜物は,国富

のひじょうに重要な・どうでもよいのでは決してない・構成部分を形成して

いる」から,商品が労働生産物という意味で用いられるならば間違いだ,と

述べたところに見られる。マルクスはそこで,資本主義社会における富の基

本形態である商・

品・

を分析すると説明している。ところが,ベーム-バヴェル

クは「国富とは何か」が検討課題とされていると曲解して,この国・

富・

に含ま

れる自然の賜物を検討の対象から排除するのは誤りだ,と主張した。こうし

て,ベーム-バヴェルクは,マルクスが商品とは別の対象(国富ないしそれを

構成する財)を選んで研究すべきと考え,その別の対象を研究する方法とし

てマルクスのそれは不適切だ,といっているのである。裏返せば,研究対象

を商品に限定した場合にはマルクスの方法が適切であることを事実上認めて

いることになる。

これまで,ベーム-バヴェルクの言説には,商品と財の概念の相異につい

て不見識とも思われる表現が見られたが,この点に関する彼の無理解は次の

ようにも表明される。すなわち,

マルクスは『資本論』の「第 1章のさいしょの諸パラグラーフにおい

て,いれかわり立ちかわり『物』とか『使用価値』とか『財』とか『商

品』とか,いわれているのであるが,この『商品』と,前三者〔『物』,

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

26

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『使用価値』,『財』〕とは,はっきり区別されていないようである」(31),

と。そして,彼がはっきり区別されていないと感じた部分が紹介される。し

かし,マルクスが商品を研究の対象に取り上げ,その 2要因として使用価値

(または財)および交換価値を突き止め,さらに交換価値の実体の分析に進ん

だという研究のプロセスを精確にたどれば,商品,使用価値,財という概念

の間の異同は誰の目にも明らかであろう。

ベーム-バヴェルクはまた,交換価値の研究で使用価値(財)が最初は問

題にされたのに,次には分析が商品だけを対象に行なわれているとして,次

のように指摘する。

「『交換価値は,……ある種類の使・

用・

価・

値・

が他の種類の使・

用・

価・

値・

と交換

される量的な関係〔比率〕……として,あらわれる。』注意せよ。ここで

は交換価値現象の主役として,そっちょくに,まだ,使用価値=財が表示

されている」(32)のであるが,

「マルクスは,つづく12ページにおいては,『共通なもの』の探求を,

ただ『諸・

商・

品・

の交換価値』だけにたいして遂行する。そして,このことに

よって,かれが探求範囲を,交換されるねうちのある物のうちの一部だ

けに,どうしても限定したことにしておきたいのだ,ということをば,か

いもく,ただの〔ほんの,かすかな〕言葉の端にも気づかせないのであ

る」(33),

と。

ここではまず,交換価値が商品の一般的性質の 1つとして取り上げられて

いる,という点が注意されなくてはならない。そして,その交換価値は,あ

る使用価値と他の使用価値との交換比率として現象するため,そのように表

現される。これを記号を用いて表わしたものが,

x量の商品A=y量の商品B

という簡単な式である。ベームは,これについて,「交換価値現象の主役と

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

27

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して,そっちょくに,まだ,使用価値=財が表示されている」(34)というが,

使用価値=財が現われるのは,それが主役であるからではなく,交換価値と

はそういうもの以外ではないからなのである。この交換価値を表わす式にお

いては,両辺の商品に等量含まれている「共通なもの」,すなわち価値の実

体が示されていない。AおよびBの記号は,交換に現われる商品の使用価値

を表わしているが,それらは種類が異なっており,したがって質的に異なる

ものであるため,この式のイコールで表わされている「共通なもの」ではあ

りえない。ここで,使用価値は「共通なもの」となりうる資格を失うことが

判明し,そ・

の・

結・

果・

と・

し・

て・

使・

用・

価・

値・

を・

全・

面・

的・

に・

捨・

象・

す・

る・

という手続きが必要と

なる。

「共通なもの」を突き止めるためには,現実に取り引きされている諸商品

を分析しなくてはならない。というのは,交換価値はもともと商品に不可欠

な 2 要因の 1 つをなしているからである。したがって,「共通なもの」の分

析のためにマルクスは「諸商品の交換価値」だけを分析している,というベ

ームの批判は全く的外れなものなのである。さらに正確にいえば,「共通の

もの」の分析に当たって,マルクスは,「諸商品の交換価値」だけを分析し

たのではなく,およそ商品の諸性質を探求範囲に加えて分析しているはずで

ある。しかし,分析を適切に進めるためには,全ての使用価値はすでに見た

理由により捨象されなければならず,その上でさらに「共通なもの」を求め

て研究した結果,労働生産物であるという共通の特質を突き止めるに至って

いる。このように,分析の適切な手続きについての理解が得られると,マル

クスの価値実体の追跡がいかに論理的かつ科学的になされているかが分かっ

てくる。マルクスが探求範囲を諸商品に限定したのは,「交換されるねうち

のある物のうちの一部だけに,どうしても限定したことにしておきたい」か

らではなく,もともと商品の 1要因としての交換価値の実体を解明するには

探求範囲を商品に限定することが不可欠だからなのである。

それでもベーム-バヴェルクは,このような手続きの論理性を理解しよう

とせず,マルクスによる探求対象の限定は手品であるとの非難を浴びせかけ

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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る。すなわち,

「ひとしく一範囲のなかへ本来〔天性から〕属しながら労働生産物では

ないあらゆる交換価値物〔交換されるねうちのある物〕を,ことさらにこ

の一範囲からあらかじめ除去しておいたのち,労働生産物だという属性

を,この一範囲の共通の属性として,つごうよく蒸留抽出する。この素朴

な〔幼稚な〕手品を,読者たちは,にやにやと,あざ笑ったにちがいない

であろう。この手品は,ただ,マルクスがしたように,とりあつかいにく

い点をすばやく軽妙にすべりこえてゆく弁証法をもって,ひそかに,なさ

れる,というようにしてのみ,なされることができたのである」(35)。

ここには,すでに指摘されたベーム-バヴェルクの無理解や混乱がいっそ

う露わに示されている。まず第 1に,マルクスは商品を最初から検討の対象

として,商品の一般的な規定を明らかにしようとしたのであって,その検討

の対象を労働生産物に限定したという理解は誤りである。労働生産物以外の

属性を探求範囲から除去することは,マルクスにとって必要ではなく,また

実際にもそんなことをしていない。第 2 に,ベーム-バヴェルクが「交換さ

れるねうちのある物」と呼ぶものは天然の賜物などを含む概念で,何らかの

有用性を備えた使用価値のことを指している。天然物は,それが自然のまま

で自然の中に存在するというだけでは商品ではなく,したがってまた交換価

値物ともいえない。

ベーム-バヴェルクはここで,労働生産物のみに対象を局限しておいてそ

の属性を「つごうよく蒸留抽出する」というマルクスの方法に関する彼の見

方を繰り返す。この蒸留抽出という表現から,労働価値論を批判する研究者

によってマルクスの分析方法が「蒸留法」と呼ばれるのが習わしになった。

しかし,「蒸留法」が,労働生産物だけを容器に入れてそこから労働生産物

を取り出すという,ベーム-バヴェルクによって設定されたやり方のことを

指すのであれば,それは抽象的人間労働を抽象したマルクスの方法とは全く

無縁のものといわなくてはならない。

ベーム-バヴェルクは,これまでにも同じことを繰り返し主張している。

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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ここでは,単に批判するだけでなく,さらに「〔幼稚な〕手品」であるとい

ってマルクスの方法を揶揄してもいる。ベーム-バヴェルクは,マルクスの

方法が信頼に足る方法に基づいたものではないという印象と,さらにはそう

した得心までをも読者に与えようとするのである。

マルクスの方法が,ベーム-バヴェルクのいう意味の手品でないことは明

らかであるが,彼はさらに,マルクスの認識方法において重要な役割を果た

している弁証法を論難する。そこでも,ベーム-バヴェルクがはたしてマル

クスの用いている弁証法を正確に取り出し,それが持つ問題点を的確に提示

しているか否かが問われなくてはならない。実際,彼がここで述べているの

は,「この手品は,ただ,マルクスがしたように,とりあつかいにくい点を

すばやく軽妙にすべりこえてゆく弁証法をもって,ひそかに,なされる,と

いうようにしてのみ,なされることができた」(36),というにすぎない。この

叙述では,マルクスの弁証法がどのように理解されているかは窺われず,た

だマルクスが,弁証法を用いることによって「とりあつかいにくい点をすば

やく軽妙にすべりこえて」いったかのような印象を広めようという意図が窺

われるにすぎない。

明らかなことは,交換価値の実体の分析ではベーム-バヴェルクのいうと

ころの弁証法によって分析が進められたのではないこと,また,「共通なも

の」の分析はマルクスにとって「とりあつかいにくい点」でも何でもなく,

表象においた商品を分析することによって交換価値の実体を突き止めた,と

いうことである。そこでは,ベーム-バヴェルクのいうような手品も用いら

れてはいない。むろん,「とりあつかいにくい点をすばやく軽妙にすべりこ

えてゆく弁証法」も全く必要とされていない。ベーム-バヴェルクは,マル

クスの方法的に一貫した論理的な分析手続きに対して,論理的に有効な批判

を展開することはむつかしいと直観したのであろう。彼は,弁証法を何かい

かがわしいものであるかのように描き,弁証法のゆえに彼のいう「手品」が

可能になったと根拠もなしに断定し,マルクスの方法を揶揄する形で批判す

るほかなかったということである。

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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むろん,ここでもベーム-バヴェルクの批判は成功していないばかりでは

ない。マルクスの分析およびその成果に関し,ベーム-バヴェルクはわずか

な理解の進展を示すこともないままに終わっているのである。

3 .「オペラ歌手の比喩」の錯乱

( 1)「オペラ歌手の比喩」と使用価値一般の捨象

ベーム-バヴェルクは,「蒸留法」についてさらに立ち入って言及する。彼

はまず,マルクスの分析の進捗状況を要約している。すなわち,

「範囲を人為的に局限することによって,労働は,とにかくやっと,こ

のせまい範囲にとっての『共通な』ひ・

と・

つ・

の・

属性にだけは,なったのであ

った。しかし,労働のほかにこれと並んで,もちろん,なお他の諸属性も

共通なものとして問題になることができたのである」(37)。

ベーム-バヴェルクにとって,探求の範囲を商品に限定することは分析対

象を労働生産物に限定することを意味し,共通の属性として労働が抽象され

れば大変都合の悪い結果になる。彼はそれを回避しようとして,このような

歪んだ理解に陥ってしまった。商品が対象とされている以上,まず探求の範

囲にはあ・

ら・

ゆ・

る・

商・

品・

が含まれるはずなのである。これに対し,ベーム-バヴ

ェルクは商品でないもの,例えば自然の賜物が含まれていないのは不十分で

あるとする。そして,労働生産物以外の属性はどのようにして捨象されるの

か,と問うのである。すなわち,

「ところで,これら他の競争者たち〔労働という属性とならび立って属

性の共通さを競争する他の諸属性〕は,どのようにして,とりのぞかれる

のか?」(38)。

彼は,その方法は 2つあって,いずれも重大な誤りを含んでいるという。

すなわち,

「このことは,思考の〔連鎖の〕さらにつづく 2 つの環〔項〕によっ

て,なされる。この 2つのどちらも,ただ数言しかないが,しかし,それ

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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らのなかに論証上きわめて重要なあやまりの 1つを,ふくんでいるのであ

る」(39)。

では,他の諸属性を取り除く第 1の環およびその誤りとは何であるか,見

てみよう。

「〔この 2つのうちの〕さいしょの環〔項〕において,マルクスは,『諸

商品の,幾何学な,物理的な,化学的な,また他の自然的な,諸属性』の

すべてを,しめ出している。なぜなら,『諸商品の物体的な諸属性が考察

されるのは,ただ,これらの属性が諸商品を有用にしそれゆえ諸商品を使

用価値にするかぎりにおいてのみだ』からである。『し・

か・

し・

他・

方・

に・

お・

い・

て・

諸・

商・

品・

の・

交・

換・

関・

係・

は・

,諸・

商・

品・

の・

使・

用・

価・

値・

の・

捨・

象・

に・

よ・

っ・

て・

,あ・

き・

ら・

か・

に・

特・

徴・

づ・

け・

ら・

れ・

て・

い・

る・

。』なぜなら,『その(交換関係の)内部においては,あ・

る・

使・

用・

価・

値・

は・

,こ・

れ・

が・

た・

だ・

適・

当・

な・

比・

率・

で・

現・

存・

し・

さ・

え・

す・

れ・

ば・

,ほ・

か・

の・

ど・

の・

使・

用・

価・

値・

と・

も・

,ち・

ょ・

う・

ど・

同・

じ・

だ・

け・

の・

も・

の・

と・

し・

て・

通・

用・

す・

る・

〔み・

な・

さ・

れ・

る・

〕からで

ある」(40)。

ここでは,ベーム-バヴェルクの意図に反して,マルクスが分析の過程で

使用価値(財)を捨象した正当な理由が示されている。交換関係は,交換価

値の式,すなわち「x量の商品A=y量の商品B」で明確に表わされるが,こ

の式では使用価値がA,Bの記号で表わされている。このようなある比率が

存在しさえすれば,商品として持っているそれらの価値が等しいものとして

通用することは明らかである。

そして,この両方の商品に等しく含まれた「共通のもの」を把握するに

は,各商品の使用価値(財)としての属性は捨象されなくてはならない。そ

れが科学的かつ論理的な手続きなのである。ベーム-バヴェルクは引用して

いないが,マルクスは,使用価値を捨象する理由をさらに明快に与えてい

る。すなわち,「使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,相異なる

質であるが,交換価値としては,相異なる量でしかありえず,したがって,

一原子の使用価値も含まない」(41),と。

では,ベーム-バヴェルクは,これに対する批判の根拠をどのような論理

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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に求めるのだろうか。彼はこれまで,マルクスの方法を自分の歪んだ理解に

基づいて要約し,それを批判するという作業を進めてきた。そのさいに,ベ

ーム-バヴェルクが不十分または誤りであると考えた点について,その理由

を精力的に探求し枚挙してきた。それに対して,ここでは,マルクスの説明

がそのまま引用されているから,本来ならマルクスの方法への批判をさらに

詳細かつ厳密に展開してみるべきであろう。しかし,ベーム-バヴェルクは,

この叙述について分析や批判をしようとはしない。

彼が,マルクスの分析方法を攻撃するために採った方法は,ベーム-バヴ

ェルク自身のかつての著作でそれに触れた部分を再録する(42),という素朴

なものである。しかも,それは理論的な把握とそれに基づく明確な分析では

なく,彼の好みに合う比喩を設定して,比喩的な形で設例に持ち込んだ論理

を論評し,それがマルクスの方法であるとして誤りの烙印を押す,という方

法である。

彼が設定した比喩そのものについて見てみよう。

「つぎのような論証〔が仮になされたとすれば,この論証〕にたいし

て,マルクスは,なんと言ったであろうか? あるオペラの劇場におい

て, 3人の卓抜した歌手 テノールとバスとバーリトン が,それぞ

れ 3人とも, 2万フロリーンの給与を受けとるとしよう。この 3人が給与

において相互に等置される理由である共通の事情は,なんであるか? と

問われて,わたしが,つぎのように答える,としよう。給与問題において

は,ある良い声は,とにかくただ適当な比率で現存しさえすれば,ほかの

どの良い声とも,ちょうど同じだけのものとして通用する〔みなされる〕。

〔たとえば〕良いテノールの声は,とにかくただ適当な比率で現存しさえ

すれば,良いバスの声や良いバーリトンの声と同じだけのものとして通用

する〔みなされる〕。したがって給与問題においては,良い声は,《あきら

かに》捨象されているのであり,それゆえに,良い声は高給の共通の原因

ではありえないのである,と」(43)。

まず,登場させられているものがマルクスの論理とどのように対応してい

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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るか,確認してみよう。マルクスは交換価値の分析を,明確に 2人の商品所

持者の関係,すなわち種類の異なる 2つの商品の交換関係として取り上げて

いる。ベーム-バヴェルクの例では, 3人の商品所持者と 3種類の商品が設

定されている。まず,対応関係を同じにするために,ここではテノールとバ

スの良い声を持つ 2人のオペラ歌手を想定することにしよう。

そうすると,交換されるべき 2つの商品は,テノールの良い声とバスの良

い声になぞらえられていることになる。それぞれの良い声は 2つの異なった

使用価値を指すものとされる。次に, 2万フロリーンの給与であるが,これ

は両歌手に同じ額だけ支払われるとされ,両方の商品に共通な価値の大きさ

を表示する,ということである。

このように設定した上で,ベーム-バヴェルクは,この 2人の給与が同額

である原因を問題にする。しかし,この設定には,マルクスの論理を示す比

喩として重大な欠陥がある点を見落としてはならない。というのは,テノー

ルとバスの声を 2つの商品と見立てることは許されるとしても,それらは相・

互・

に・

交・

換・

さ・

れ・

る・

た・

め・

の・

も・

の・

で・

は・

な・

い・

。そのため,それら両者の交換関係を交

換価値の式で表わすのは不適切なことになる。

商品として,それらはよい声で歌われる歌を聴く観客にとって使用価値を

持ち,したがって観客によって購入されるものとなる。ところが, 2万フロ

リーンは 2人のオペラ歌手が受け取る給与とされ,テノールとかバスという

商品の買い手は彼らの雇い主となっている。そのため,これは普通の商品間

の交換関係を表わす比喩には不向きなものとなる。その上で, 2人はテノー

ルとバスという質の異なる労働力を提供するにも関わらず, 2万フロリーン

という同じ給与を受け取る,ということなのである。

ベーム-バヴェルクは,この比喩の元になっているマルクスの分析につい

て,「寸分たがわず模写している原型であるマルクスの推論」(44)というが,

この模写はマルクスの推論と寸分たがわないどころではなく,およそ論理の

模写としての基本的要件を欠いているといわなくてはならない。したがっ

て,オペラ歌手の例は,マルクスが使用価値を捨象するさいに用いた手続き

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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の比喩となりうるものではない。

ところが,正確にマルクスの論理を模写していると考えたベーム-バヴェ

ルクは,そこから使用価値になぞらえたテノールとバスの良い声を捨象す

る。そして,マルクスは,その場合に良い声は 2万フロリーンという高給の

原因ではありえないと結論したことになるが,このような論証ははたして正

しいといえるのか,と問うのである。

いずれ詳しく見るように,ベーム-バヴェルクは,テノール,バスのいず

れについても,それらの声に対して 2万フロリーンが払われるのは,両方と

も同じように良い声だからであって,もし,その歌手の声が良くないとすれ

ばそのような高給は支払われないはずだ,と考えている。そのため,彼の理

解では,使用価値を捨象するということによって,使用価値としての共通な

性質まで「共通なもの」から排除してしまうのは大きな誤りだ,ということ

になる。

「オペラ歌手の比喩」に基づく説明は完全な誤りであるが,そこでベー

ム-バヴェルクが主張しようとした点は,その比喩に関する説明の中でより

明確に示されている。彼はいう。

「〔いま模写した論証も,その原型=マルクスの推論も,〕両方とも同じ

まちがいを犯している。この両方とも,あ・

る・

事・

情・

い・

っ・

ぱ・

ん・

の・

捨象と,この

事情があらわれる特・

殊・

な・

様・

相・

の捨象とを,混同しているのである。われわ

れの例において,給与問題にとってどうでもよいことは,あきらかに,た

だ,良い声が, あるいはテノールとして,あるいはバスとして,ある

いはバーリトンの声として あらわれる特殊な様相だけにすぎないので

あって,けっして,良い声いっぱんではないのである。そして,おなじよ

うに,諸商品の交換関係〔比率〕にとっても, 商品が食料としてか住

居のためか衣料としてかなどどれに役立つにせよ これらの商品の使用

価値がこのように現象するであろう特殊な様相は,なるほど捨象されるけ

れども,しかし,使用価値いっぱんは,けっして捨象されはしない」(45)。

見られる通り,要点は最後の部分に示されている。すなわち,使用価値を

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

35

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捨象する場合,その特殊な様相は捨象されるが使・

用・

価・

値・

一・

般・

はけっして捨象

されえないというのである。確かに,この点は結論の行方を左右する重要な

論点を構成する。しかし,これはオペラ歌手の例のような比喩を用いて証明

すべき事柄ではなく,交換価値の分析によってその論理をたどることが必要

となる。

ここで,私たちには,使用価値一般をあらゆる使用価値が持つ同質性とし

て捉えうるようにも見える。しかし,その量的比較について考えると,その

量を計る単位を見出すことは不可能であり,量的な同等性を確認することも

できない。このことは,結局,その同等性の基礎,すなわち使用価値一般が

同質的な存在である点は証明されえないことを意味している。ベーム-バヴ

ェルクの「使用価値いっぱんは,けっして捨象されはしない」という見解

は,何ら根拠のない彼の思い込みでしかないのである。

( 2)労働生産物以外の要因を捨象する第 2の「環」

次に,ベーム-バヴェルクは,労働生産物以外の要因を捨象する第 2 の環

=仕組みの検討にはいる。彼は次のように展開する。

「だが論証過程の次項〔つぎの環〕は,なお一そう悪い状態にある。

『諸商品体の使用価値が捨象されるならば,』 マルクスのことばどおり

につづけると ,『これらの商品体には,も・

は・

や・

た・

だ・

1・

つ・

の・

属・

性・

すなわ

ち労・

働・

生・

産・

物・

と・

い・

う・

属・

性・

し・

か・

,残っていな・

い・

。』ほんとうか? わたしは,

12年前に問うたように今また問う。もはやただ 1 つの属性しかないか?

交換されるねうちのある財にとっては,たとえばまた,これらの財が欲求

〔需要〕にくらべて希少であるという属性も,共通なものとして残ってい

ないのか? また,それらの財が需要と供給との対象であるとう属性は,

共通なものとして残っていないのか? また,それらの財が所有されてい

るという属性は,共通なものとして残っていないのか? あるいはまた,

それらの財が『自然生産物』であるという属性は,共通なものとして残っ

ていないのか? というのは,『商品体は自然素材と労働という 2 つの要

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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素の結合である』と,かつてマルクスがのべているところでは,交換され

るねうちのある財が労働生産物であると同じように自然生産物であるとい

うことを,ほかならぬマルクスじしんほど明白にいっている者はいないか

らである。あるいはまた,諸交換価値物がこれらの生産者たちに費用を負

担させるというこ・

の・

属性も, この属性はマルクスが第 3巻においてひ

じょうに精確に想起しているものであるが ,これらの交換価値物にと

って共通ではないのか?」(46)。

ベーム-バヴェルクはここで,さらに 5 点にわたって労働生産物以外の

「共通のもの」の候補を挙げている。それらを抜き出すと,以下のようにな

る。

①それらの財が欲求〔需要〕にくらべて希少であるという属性

②それらの財が需要と供給との対象であるという属性

③それらの財が所有されているという属性

④それらの財が「自然生産物」であるという属性

⑤諸交換価値物がこれらの生産者たちに費用を負担させるという属性

これから各項目について検討するが,ベーム-バヴェルクがこれらの点を

挙げたことは,彼は自分がいま分析活動のどの局面にいるのかということを

完全に失念していることを意味している。私たちは,現・

実・

の・

商・

品・

を表象にお

いて交換価値を分析し,商・

品・

に・

共・

通・

な・

価・

値・

の・

実・

体・

を突き止める過程にあるの

であって,ただ単に,商品の諸特徴をアットランダムに挙げる作業をしてい

るわけではない。明らかにしようとする属性は,交換価値の両辺にある商品

において,質的に同じで量的に等しいものに限定されている。

ベーム-バヴェルクの挙げた諸属性はそのような特質を持っているか,順

次取り上げてみよう。まずは最初の 2つである。

①それらの財が欲求〔需要〕にくらべて希少であるという属性

②それらの財が需要と供給との対象であるという属性

この①にいう希少性は,問題の商品(ベーム-バヴェルクにおいては「それら

の財」となっているが)が,需要と供給の対象となっていることを前提するも

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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のである。この点から考えれば,列挙する順序は,まず②の「需要と供給と

の対象であるという属性」,次に①の「欲求〔需要〕にくらべて希少である

という属性」の順となる方が自然である。

そこで,まず「②それらの財が需要と供給との対象であるという属性」に

ついて見ると,この性質は,ある物が商品として交換の対象になるとき,交

換する一方の当事者にとってそれは供給の対象となり,他方の当事者にとっ

ては需要の対象となることを意味する。したがって,この属性は商品一般の

属性であるとはいえる。しかし,この属性は,商品となる物と商品の両当事

者との関係を示すものであって,量的に計量することも不可能なものであ

る。そのため,この属性が交換価値の実体としての「共通なもの」を構成す

ることはありえない。

このことは,①の「欲求〔需要〕にくらべて希少であるという属性」にも

当てはまるが,需要に比べての希少性ということになるとさらに排除される

べき要因が付け加わる。希少性を需要供給関係の中で捉えると,ある時は需

要が供給を上回り他の時には逆に供給が需要を上回るというように希少性と

過剰性の双方が市場に現われるから,希少性を商品の一般的でいつでも商品

が備えている特徴とすることはできない。また,交換価値の実体となるもの

の候補としては,使用価値が異なるのに応じて希少性の度合いも異なるか

ら,希少性については量的な同等性という点においてもその要件を欠くこと

になる。

次に,「③それらの財が所有されているという属性」という点はどうか。

まず,所有というのは,ある対象物と人格との排他的な支配関係を表わす概

念であるから,量的に計量し,所有の度合いが等しいか否かの判断はなされ

ないし,なしえない。商品は交換されるものであり,ある物の所有者の変更

を伴うため,商品であれば,必ず誰かに所有されているということにはな

る。しかし,それが交換される商品に等しく含まれた「共通のもの」といえ

ないことは明らかであろう。

第 4番目は,「④それらの財が『自然生産物』であるという属性」である

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が,これについてはすでに明確になっている。自然の生産物は,自然にその

まま存在するというだけでは人間にとっての使用価値=財とはならず,商品

にもなりえない。それは使用価値を持つ物へと加工され調整されて初めて,

商品として交換の場に登場することができる。それはまた,価値の大きさを

測る尺度を持たないという点で,先に挙げられている属性と同じように交換

価値の実体としての要件を欠いているのである。

さて,第 5の,「⑤諸交換価値物がこれらの生産者たちに費用を負担させ

るという属性」についてはどうか。ここでは,費用はそれを生産するのに必

要とされる貨幣的なものと考えられている。なるほど,交換価値には生産者

が負担すべき費用も含まれるから,これは商品に一般的な性質であり,よく

検討されるべき要因の 1つではある。しかし,少し考えれば分かるように,

生産者が負担すべき費用は価格の中にその一部として含まれるのであり,交

換価値の一部ではあってもその全体ではない。したがって,交換される商品

について費用どうしの比較をしてみても,交換価値に同量だけ含まれるはず

の「共通なもの」とはなりえないことになる。

以上の検討から明らかなように,ベーム-バヴェルクが挙げた諸属性の中

には,「労働の生産物」であるという要因以上に交換価値の実体として適切

な要因は見あたらない。ベーム-バヴェルクは,分析作業の局面を無視し,

質的に同じで量的に同等だという交換価値の実体の要件には無頓着に,商品

の特徴と考えられそうな属性を手当たり次第列挙したにすぎない。このよう

な彼の作業の進め方には,論理的な分析を行なおうとする科学者としての精

神を欠落させていることが見てとれるだろう。

( 3)ベーム-バヴェルクのさらなる錯綜

科学者らしからぬベーム-バヴェルクは,続けて次のような問いを発する

に至る。すなわち,

「では,いったい,なぜ価値の原理が,労働生産物だという属性におい

て存立するかわりに,〔いま右のパラグラーフのなかでのべた〕これら共

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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通な諸属性のうちのどれかあるものにおいても,おなじようによく存立し

てはならないのか? というのは,労働生産物だという属性のための積極

的な根拠の痕跡すらをも,マルクスは提示しなかったからである。かれの

唯一の根拠は,運よく捨象し去った使用価値が交換価値の原理ではないと

いう消極的なものである。だが,この消極的な根拠は,〔労働生産物だと

いう属性の〕ほかの マルクスによって見おとされている 共通な諸

属性のすべてに,まったく同じように帰属しないのか?」(47),

と。なるほど,ベーム-バヴェルクのいうように,労働生産物という属性が

使用価値ではないという理由のみによって根拠付けられるならば,それは消

極的にしか根拠付けられていないことになる。また,ベーム-バヴェルクが

列挙した要因の中に妥当するものがあるかもしれない,という疑問の余地も

残る。しかし,商品から使用価値を捨象しても,それは自動的に抽象されて

くるものではない。マルクスが労働の生産物という属性をまず挙げたのは,

あらゆる商品が労働を通して生産されることは周知の事実であり,さらに分

析によって労働が 2面的な性格を持つものであって,その一面としての抽象

的人間労働は質的に同等な労働として把握されるからなのである。

実際,前節における分析で,ベーム-バヴェルクが挙げた 5つの属性は,

それらの全てが交換価値の実体とはなりえないことが示された。また,その

前にベーム-バヴェルクが提起した「使用価値いっぱん」についても価値実

体としての要件を欠いている点が確認される。こうして,ベーム-バヴェル

クが挙げた要因はいずれも,交換価値の実体をなす「共通なもの」である可

能性を持っていないことが判明している。

ところが彼は,次のような問題を執拗に提起し続ける。それはこういうこ

とである。ベーム-バヴェルクは,マルクスが労働生産物という属性を分析

し,そこから労働の感性的な諸性質,すなわち具体的有用労働という要因を

捨象する作業を行なった部分について次のようにいう。

「交換関係〔比率〕にとっては,たんに使用価値だけではなくて,ま

た,ある種類の労働や労働生産物も,『ただ適当な比率で現存しさえすれ

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ば,ほかのどの種類とも,ちょうど同じだけのものとして通用する〔みな

される〕』ということを, いいかえるならばマルクスが丁度いま使用

価値にたいする彼の排除の判定を述べた根拠になっているのと全く同じ事

態が労働についてもまた存立するということを ,〔いま右のパラグラ

ーフにおいてマルクスが,とくに強調の傍点が付されているところで,の

べているよりも〕いっそう,はっきりと明確に,いうことができる

か?」(48)。

これは,ベーム-バヴェルクがマルクスの論理を突き崩そうとして捻り出

した論点ではあるが,よく読めばそれが全く空振りに終わっていることが分

かる。ここではまず,ベーム-バヴェルクが使用価値の概念を的確に把握し

ていないという点が指摘される。商品は,それが商品であるためには,何ら

かの他人のための使用価値を持たなくてはならない。その使用価値(財)が

何であり,それがどのような物であるかは,直接感性的に把握できる事柄で

ある。交換価値は,異なった種類の使用価値どうしの交換比率として表わさ

れる。しかし使用価値が異なればそれは交換価値の実体をなす「共通なも

の」ではありえない,ということになる。その結果,交換価値の実体,その

基礎を明らかにするためには,使用価値の捨象という分析手続きが必要不可

欠となるのである。

このように,商品はある使用価値と他の使用価値との交換比率として現わ

れるが,ある労働と他の労働との交換比率として直接現われることはない。

もともと,労働は人間の活動であるから,商品が交換の過程にはいるとそれ

を生産する労働は基本的には行なわれない。それは使用価値や交換価値の形

で,商品の中にその痕跡をとどめている。それゆえ,労働は,使用価値のよ

うには交換価値を直接に表現するものではなく,したがって使用価値の場合

と同じ理由,同じ方法で捨象されうることにはならない。

マルクスは,交換価値を分析し,交換される両方の商品の使用価値を捨象

して,まず労働の生産物という属性を抽象する。しかし,ベーム-バヴェル

クも指摘するように,「使用価値が机や家や糸として質的にいろいろちがっ

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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ているのと同じように,また労働も指物師の労働や建築労働や紡績労働とし

て質的にいろいろちがっている」(49)ため,マルクスはそれぞれの労働の質的

に異なった側面を捨象する。そうしなくては,質的に同じで量的にも等しい

交換価値に「共通なもの」としての労働を突き止めることは不可能である。

このような分析をへて,マルクスは交換価値の根拠となり,その実体をなし

ているのが質的に同じものとしての労働,すなわち,抽象的人間労働である

ことを把握するに至ったのである。

ベーム-バヴェルクはここで,「いろいろの種類の労働がその労働の量によ

って比較されることができるのと,ちょうど同じように,いろいろの種類の

諸使用価値も使用価値の大きさ〔量〕によって比較されることができるので

ある」(50)と述べているが,ここには使用価値に関する彼の無理解が端的に示

されている。それは,種類の異なる使用価値が量的に比較されうるものと理

解されているからである。使用価値はそれぞれにおいて,使用価値の量を計

るそれぞれの単位を持ち,使用価値としての量を計ることは可能である。し

かし,ここで問題にされている量は,異・

な・

っ・

た・

使・

用・

価・

値・

の・

間・

に・

横・

た・

わ・

る・

共・

通・

の・

量・

なのであるから,それは共・

通・

の・

単・

位・

によって計量され表示されるもので

なくてはならない。ベーム-バヴェルクは,それぞれ異なった種類の使用価

値量を計る尺度を,諸使用価値の量を共通に計る尺度と見なす,という誤り

を犯している。

彼はまた,最初に使用価値を捨象し,次に労働を分析するという順序に不

満を感じ,次のような議論を突きつける。すなわち,

「もしマルクスが偶然に探求の順序をさかさまにしたと〔仮定〕すれ

ば,かれが使用価値を排除するのに用いたのと丁度おなじ推論の道具立て

〔装置〕をもって,かれは労働を排除することができたであろうし,そこ

でまた,かれが労働に栄冠を授けるのに用いたのと同じ推論の道具立て

〔装置〕をもって,かれは使用価値を唯一の残存のそれゆえ求められた共

通の属性として宣言することができたであろうし,そして価値を『使用価

値の凝固物』として説明することができたであろう」(51)。

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まず,すでに確認したように,交換価値の実体を解明するという目的を考

えれば,「マルクスが偶然に探求の順序をさかさまにした」りすることは起

こりえない。交換価値は,使用価値どうしの比率として表現されるから,そ

こで異なる労働の質を捨象すべき根拠はどこにも存在しない,という点が注

意されなくてはならない。

では,仮にこの順序を逆さまにしてみたらどうなるだろうか。すなわち,

ここで,交換価値が異なった種類の労働の比率として表現されている,と想

定するのである。この場合には,労働から種類の異なった労働,すなわち具

体的有用労働が捨象されて,あとには質的に一様な人間の生理的エネルギー

の支出としての労働が残る。これは,労働が種類によって質的に異なるとい

う側面と,あらゆる労働に共通する質としての人間労働という面の二面的性

格を持っている点に由来する。このような労働の二面性を明らかにすること

によって,マルクスは,古典派経済学の労働価値論の不徹底かつ不充分な点

を克服し,商品概念の科学的な規定に到達している。ベーム-バヴェルクム

は,このような科学的な方法も,またそれによって得られた労働価値論の内

容をも正確に理解しようとはしていない。

彼はマルクスの方法を「弁証法的な手品」として論評し,その点を拠り所

にしてマルクスの科学者としての姿勢まで批判しようとしている。研究の発

展のために検討されるべきものは感じられないが,ベーム-バヴェルクがマ

ルクスの方法を非難する方法の典型を示すものとして,次の部分を掲げてお

くことにしよう。

「マルクスが価値の唯一の基礎としての労働についての彼の根本命題を

その体系のなかへ持ちこむのに用いている論理と方法論は,いままで右に

のべてきたようなものである。この弁証法的な手品〔ごまかし〕がマルク

スじしんにとって確信の根拠と源泉だったというようなことは,まったく

ありえないことである,と,わたしはおもう。かれじしんの確信を初めて

つくり事物の事実上の連関をほんとうに初めて自由な公平な目で求めるこ

とが,かれにとって問題であったと〔仮定〕するばあいには,マルクス級

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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の思想家 わたしは彼を最高級の思考力の人とおもっているのである

が,このような曲げられた不自然なやり方で求める,ということは,

はじめから,まったく,できなかったであろう」(52)。

4 .マルクスの確信の根拠 古典派経済学からの印象か?

ベーム-バヴェルクは,マルクスの根本命題,すなわち「すべての価値は

ただもっぱら体化されている労働量にだけ基づいているという命題」(53)がマ

ルクスの交換価値の分析から導かれたのではないという。彼は,交換価値を

分析することによって労働を抽象する手続きを取り上げ,恣意的な理由に基

づいてマルクスの方法に対する中傷を浴びせている。ベーム-バヴェルクに

とって,マルクスのその方法は弁証法的な手品にしか思われないため,マル

クスがそこから根本命題を導いたり,その命題についての確信を獲得するこ

とはありえない,と思い込んでしまうのである。

では,マルクスの確信の源泉はどこに求められるというのであろうか。ベ

ーム-バヴェルクはまず,

「マルクスが彼の命題をほんとうに心から確信していたことを,わたし

は,すこしも疑わない。しかし,かれの確信の根拠は,かれがその体系の

なかへ書きこんだものとは,ちがっている。それは,およそ,根拠という

よりはむしろ印象〔感じ,感想〕というようなものだったであろう」(54),

と述べて,マルクスに命題への確信を抱かせたとされる古典派経済学につい

て言及する。ベーム-バヴェルクはいう。

「とりわけ,権威からの印象〔感想〕であった。スミスとリカードウと

いう偉大な権威たちは,まさに すくなくとも当時はこのように信じら

れていたのであるが おなじ命題を教えていたのであった。もちろん,

かれらもマルクスと同じように,その命題を根・

拠・

づ・

け・

た・

のではなくて,た

だ,ある一般的な漠然とした印象〔感想〕から要請したのにすぎなかっ

た。それどころか,かれらがよく注意して見ていた場所では,そして,も

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っとよく注意して見ることが避けられえなかった領域にたいしては,かれ

らのいうところは,あきらかに,その命題に矛盾していたのである」(55)。

価値論に関して,マルクスはスミス,リカードを始めとする古典派の理論

を徹底的に研究し,彼らの理論を引き継ぐとともに,労働価値論としてより

根拠付けられた理論に仕上げている。その飛躍の土台となったのは,労働の

二面性に関する発見であったが(56),それはまた,交換価値の分析の中で

「質的に同じで,量的に等しいもの」を析出するという理論的な要請から,

労働の抽象的側面としての抽象的人間労働を発見したことである。この点

は,マルクスが,スミスやリカードから受けた印象にそのまま依存したり,

その権威に頼るのではなく,むしろ彼らの理論的欠陥をマルクスの方法によ

り超克した結果として得られたものである。

したがって,マルクスが「この根拠づけにおいて手がるに古典学派をたよ

りにすることができなかったのは,自明である」(57)というベーム-バヴェル

クの指摘は,あながち的はずれなものではない。マルクスは,交換関係にあ

る商品において「共通なもの」を分析することにより,価値の実体をなすも

のが抽象的人間労働である点を突き止め,古典学派の頼りにならない部分の

1つを克服することに成功している。ところが,マルクスの方法を認めない

ベーム-バヴェルクは,この事情を次のように解釈する。すなわち,

「かれ(マルクス 大石注)が経験にうったえることもできなかった

し,また経済心理学的な根拠づけをこころみることもできなかった,とい

うことをも,われわれは知っている。なぜなら,これらのやり方は,あき

らかに,かれの論証の主題のちょうど正反対のものへ,かれをみちびいた

であろうからである。そこで,かれは,かれの精神の傾向にほんらい〔そ

うでなくてももともと〕適合している論理的弁証法的な思弁に,たよった

のである。そして,ここで肝心なのは,〔ほかにないのであるから〕役に

立ちうるものを役に立てろ! ということであった」(58)。

現象のレベルで捉えるということは,経験的な,直接的・感性的な形での

認識を意味している。マルクスは,商品現象を表象において分析を進めるこ

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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とによって,まず分析の対象を経験的な世界に求めたのである。商品の交換

価値を分析し,それによって交換価値を基礎づけているその実体を認識しよ

うとする場合,その根拠は経験的な世界における現実に求められなくてはな

らないのである。

マルクスは,単なる使用価値(財)ではなく,交換価値という要因を備え

た商品は労働の生産物であるという事実を,経験世界で流通している現実の

商品の中に捉えたはずである。マルクスはそこから,経験を絶えず表象に捉

えながら分析を進めていったのであり,その方法は,一貫して唯物論的な視

点に立ったものであったということができる。

したがって,観念的・恣意的な方法である経済心理学的方法は不適切なも

のであるばかりでなく,むしろマルクスには全く必要のない方法であったと

いってよい。それゆえ,ベーム-バヴェルクが挙げているそれを採用しない

理由,すなわち,「これらのやり方は,あきらかに,かれの論証の主題のち

ょうど正反対のものへ,かれをみちびいたであろうから」というのも,的は

ずれな憶測にすぎなかったことが明らかとなる。

むすび

私たちは,ベーム-バヴェルクが用いた比喩,例証を詳細に検討する作業

を終えた。そこで,以上の比喩や例証から読みとれる彼の方法と,そこに見

られるいくつかの問題点について振り返っておくことにしたい。

ベーム-バヴェルクが課題としたのは,「すべての価値はただもっぱら体化

されている労働量にだけ基づいている」(59)というマルクスの根本命題とされ

る規定がマルクスの弁証法によって論証されていない点を示すことであっ

た。この命題は経験的な世界の事実とは異なっており,マルクスは事実に基

づく論証を回避している,とベーム-バヴェルクは考えた。このほかに,心

理学的方法という「もっとも良い効果をもって適用されてきた方法」が存在

するが,マルクスが依っているのは弁証法という演繹的な方法だとされる。

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弁証法の適用にさいしては,厳密な手続きが取られなくてはならないが,は

たしてマルクスは論理的に正当と認められる手続きを取っているか,とベー

ム-バヴェルクは問題提起を行なったのである。

では,様々な比喩を用いて行なわれた例証は,いかなる意味を持ったので

あろうか。彼はまず,交換における同等性すなわち均衡関係を前提するのは

誤りだ,と判断した。均衡でないから交換が行なわれるのであって,もし均

衡関係が成立していれば交換は行なわれないはずだと主張し,その例証とし

て「化学親和力の比喩」を提示したのである。

経験世界に実在する商品を観察すれば,商品が交換価値を持っていること

は容易に確認される。ある 1つの商品の交換価値は,他の 1つの商品の一定

量で表示されるから,それは同等性として,すなわち価値量の均衡関係とし

て表現される以外にはない。したがって,価値の実体の検討は均衡関係の存

在を前提して初めてその分析が可能となるものである。むしろ,そこでの課

題はその均衡関係を成立させている,両商品に共通の実体を突き止めること

にあるといったほうがよい。したがって,ベーム-バヴェルクが「化学親和

力の比喩」を持ち出したこと自体,彼がそこにおける分析の対象と課題を十

分に認識していない,ということを示すことになった。その比喩について

も,商品間の価値の不均衡に対応するものとしては設定されておらず,意味

のある結論を得ることはできないままに終わっている。

次に,交換される商品を分析して,「共通なもの」を抽象するマルクスの

手続きの批判に取りかかると,ベーム-バヴェルクは一転して均衡関係を前

提する。均衡関係を前提しなければ検討の対象を欠き,分析が不可能となる

からであるが,そこではその手続きについて「排斥されるべきものではな

い」と述べて容認してもいる。彼のこの見地は,「化学親和力の比喩」にお

いて彼が批判した,交換は同等性・均衡関係のもとでは成立しないという先

の主張との間に齟齬をきたしている。むろん彼は,そのことに気付くことも

なく,それについて言及すらしていないのである。

ベーム-バヴェルクは,マルクスが交換価値を分析して「共通なもの」と

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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して労働(正確には抽象的人間労働)を析出する手続きに関し, 3 つの比喩な

いし例証を用いて批判しようとした。まず 1 つ目に提示されたのは,「篩

(ふるい)かけの比喩」である。それは,マルクスが「共通なもの」として白

い玉を取り出す目的で,壺の中に先に白い玉のみを入れておき,壺の中を調

べたら白い玉が出てきたといっているのと同じだ,というものである。

ここから結論されることは,第 1 に,ベーム-バヴェルクが分析の対象と

されるものと検討の結果明らかにするものとが異なるという点を理解してい

ない,という点である。マルクスは,交換価値で示された価値の実体,すな

わち質的に同じで量的に等しい「共通なもの」を明らかにしようとして,交

換価値という特徴を持つ商品を対象に研究しているのであり,したがって,

全・

て・

の・

商・

品・

が検討の対象の範囲に組み込まれているといってよい。ベーム-

バヴェルクの比喩が示そうとしたのは,マルクスが最初から労働生産物のみ

を検討の対象にしておいて,検討の結果「共通なもの」として労働の生産物

を取り出したということであるが,労働生産物という共通の性質の抽象は,

全ての商品を研究対象にして分析した結果としてなされている,ということ

が分かる。

第 2には,ベーム-バヴェルクが,およそ商品を分析する限り,「共通のも

の」として必ず労働生産物という性質が析出される点を充分認識していたの

ではないか,という点である。しかし彼には,その「共通なもの」が労働生

産物であることは到底認められない,絶対に認めてはならないことである。

そこで彼は,マルクスは最初から労働生産物のみを分析していると読者に思

いこませ,その手続きの不当性を印象付けようと苦心しているのである。

「篩かけの比喩」がそのために用いられたものであることは,もはや説明す

る必要もないであろう。

このように,商品を分析する限り労働生産物が「共通のもの」として必ず

浮かび上がってきてしまう。そこで,ベーム-バヴェルクは,分析の対象は

商品のみでは不十分であり,「自然の賜物」をも含むあらゆる財が取り上げ

られなくてはならないと主張するに至る。彼は,「労働生産物でない交換さ

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れるねうちのある財」も探求の範囲に加えられるべきだというのである。

が,商品の 1要因としての交換価値を探求するのに,商品でない単・

な・

る・

財・

検討の対象に加えるのは適切なことではない。したがって,ベーム-バヴェ

ルクにあっては,比喩によって例証すべき見解そのものに重大な過誤があっ

ただけでなく,比喩の設定においてもマルクスの手続きを反映させるのに成

功しえてはいない。

さて,ベーム-バヴェルクが次に提示したのは「透明な諸物体の比喩」で

あった。この比喩も,基本的に「篩かけの比喩」と同じ論理構造を持ってい

る。全ての物体に備わる重さの根拠を解明しようとして,透明な諸物体のみ

を研究の対象とし,透明性が重力の根拠だとするようなものであるという。

ここからも,ベーム-バヴェルクが交換価値は商品の特徴である点,したが

って交換価値の性質を研究するには全ての商品を探求の対象とすべきだとい

う方法について把握していない,ということが判明する。財一般と商品との

相異点に関する無理解,この点にベーム-バヴェルクの空疎な批判の根源が

潜んでいるといってよい。

ベーム-バヴェルクが最後に示した例証,すなわち「オペラ歌手の比喩」

は,彼のマルクスへの批判を補強するどころか,それ自体彼の思考における

混乱の拡大を示す以外の何ものでもない。商品とその価格との関係が設定さ

れている点で,ここで前の 2つの比喩よりも具体的な設例がなされているこ

とにはなる。ところが,商品相互の間に成立する交換価値に擬するのに,労

働力と賃金との関係を取り上げて,テノールとバスの賃金が同じである根拠

をいずれも「良い声」であるという共通の使用価値に求めている。しかし,

この場合,テノールとバスの歌手の賃金が同じであっても「テノールの良い

声」と「バスの良い声」とが交換されるわけではなく,したがって,同額の

賃金は両商品に等しく含まれる交換価値を表示するものとはなりえない。そ

のためこの比喩は,交換価値を分析する手続きの例証として不適切なものと

なっているのである。ベーム-バヴェルクは,この比喩を用いて正しい分析

のあり方を示すことはできなかったのであり,マルクスの方法を批判する点

ベーム-バウェルクによるマルクスの価値論批判(大石)

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でも少しの成果も上げえないままに終わっている。

ベーム-バヴェルクは,この比喩で,交換価値が量的に等しいことの根拠

を共通の使用価値に求めようとした。確かに,「良いテノールの声」と「良

いバスの声」との間には共通の使用価値が認められてよいであろう。しか

し,交換される商品としてそれらを見れば,一般にそれらの商品の使用価値

が異なっているから交換されるのであり,交換価値の両方を構成する 2つの

商品たりうるのである。もし,「テノール」と「バス」が交換価値の両辺を

構成する商品であり,その交換比率が交換価値を構成するとするならば,そ

れらは使用価値のきわめて近い商品が選ばれている場合であって(例えば,

リンゴとミカンの場合がこれに当たる),それは商品の使用価値に関しては特殊

なケースであるといわなくてはならない。一般的に交換価値について分析す

る場合には,一般的なケースが分析対象として設定されるべきであり,した

がって使用価値に関しては明確に異なった商品によって構成される交換価値

が取り上げられるのが適切である。

「良い声」と賃金の関係ではなく,最初から相互に交換されうる商品を比

喩の中で用いたならば,このように共通の使用価値を持つ商品をその中で設

定するようなことにはならなかったはずである。その場合には,賃金が同額

である根拠を共通の使用価値に帰することも不可能となるのはいうまでもな

い。こうして,交換価値の両辺の商品に「共通なもの」として使用価値一般

を導き出そうというベーム-バヴェルクの企図は徒労に終っていることが判

明する。ベーム-バヴェルクはマルクスの方法の批判にさいして,交換価値

の分析が適切に行なわれるならば「のぞみどおりの目標にいたることはでき

る」(60)と分析手続の正当性を認めていた。そして,商品を対象に「共通のも

の」を分析する限り労働の生産物という性質が必然的に導き出されることも

認めざるをえなかった。そこで彼は,商品を規定することが課題であるにも

かかわらず,分析の対象に労働の生産物(商品)ではない財,特に自然の賜

物を加えるべきだと主張し,労働生産物以外の財(使用価値)を除外したと

してマルクスへの論難を繰り返したのである。

駒澤大学経済学部研究紀要 第 62号

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不適切なのはマルクスではなく,むしろベーム-バヴェルクの側であった

ことが今や一目瞭然であろう。彼のマルクスに対する批判は,逆に,マルク

スの方法が対象を認識するのに最適のものであって,最終的にマルクスが,

ベーム-バヴェルクのいう「のぞみどおりの目標」に着実に到達しているこ

とを示している。

( 1) 三野村暢�「ベーム-バウェルクによるマルクス価値論証の批判」,大石雄爾編

著『労働価値論の挑戦』大月書店,2000年。

( 2) マルクス『資本論』の第 1巻と第 3巻との矛盾の問題に関するベーム-バウェ

ルクによる批判に関しては,筆者が以下の論文で詳細な批判的検討を試みている。

「ベーム-バウェルクはマルクスをどう批判したか?」,駒澤大学『経済学部研究紀

要』第57号,2001年 3月。

( 3) ベーム-バウェルク『マルクス体系の終結』(木本幸造訳)未来社,1969年,

112頁。マルクスは価値量の規定に関して,社会的必要労働時間による価値規定を

与えているところからして,それを「体化されている労働量」と呼ぶのは不正確で

ある。また,価値量に関する規定のみを取り出して「かれの学説の理論上の根本命

題」と呼ぶのはマルクスの理論を極度に狭く限定した言い方であり,適切なものと

はいえない。

( 4) 同上。

( 5 ) 『同上書』,114頁。

( 6 ) 『同上書』,114〜115頁。

( 7 ) 『同上書』,116頁。

( 8) 同上。

( 9) マルクス『資本論』第 1巻,新日本新書版,第 1分冊,59頁。

(10) マルクス『同上書』,82頁。交換価値そのものに関する説明は,同書の61〜63

頁に見られる。

(11) 『同上書』,101〜103頁。

(12) ベーム-バヴェルク『前掲書』,117頁。

(13) 同上。

(14) 同上。

(15) 『同上書』,117〜118頁。

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(16) 『同上書』,118頁。

(17) 同上。

(18) 同上。

(19) 『同上書』,118〜119頁。

(20) 『同上書』,119頁。

(21) 同上。

(22) 『同上書』,119〜120頁。

(23) 同上。

(24) 『同上書』,120頁。

(25) 同上。

(26) 『同上書』,121頁。

(27) 同上。

(28) 宮川実『資本論講義 Ⅳ』青木書店,1968年,351頁。

(29) ベーム-バヴェルク『前掲書』,121〜122頁。

(30) マルクス『資本論』第 1巻,前掲版,第 1分冊,59頁。

(31) ベーム-バヴェルク『前掲書』,122頁。

(32) 『同上書』,123頁。

(33) 同上。

(34) 同上。

(35) 『同上書』,124頁。

(36) 同上。

(37) 『同上書』,125頁。

(38) 同上。

(39) 同上。

(40) 同上。

(41) マルクス『資本論』第 1巻,前掲版,第 1分冊,64頁。

(42) ベーム-バヴェルクは,このことを次のように述べている。「この論証を解明す

るために,わたしが12年まえに,わたしの『資本利子理論の,歴史と批判』のなか

で書きおろしたのと同じことばを〔ここで以下において〕利用して,さしつかえな

いであろう」(『前掲書』,125頁)。

(43) 『同上書』,126頁。

(44) 同上。

(45) 『同上書』,126〜127頁。

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(46) 『同上書』,128頁。

(47) 『同上書』,128〜129頁。

(48) 『同上書』,129〜130頁。

(49) 『同上書』,130頁。

(50) 同上。

(51) 同上。

(52) 『同上書』,131頁。

(53) 『同上書』,112頁。

(54) 『同上書』,132頁。

(55) 同上。

(56) マルクスはこの点について,次のように述べている。

「商品に含まれる労働のこの二面的性質は,私によってはじめて批判的に指摘され

たものである。この点は,経済学の理解にとって決定的な点であるから,ここで立

ち入って説明しておこう」(『資本論』第 1巻,前掲版,第 1分冊,71頁)。

(57) ベーム-バウェルク『前掲書』,134頁。

(58) 同上。

(59) 『同上書』,112頁。

(60) 『同上書』,119頁。

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