音楽取調掛の俗楽観...報告である『音樂取調成績申報書』(以下,『申報...

10
27 平田公子 : 音楽取調掛の俗楽観 音楽取調掛の俗楽観 平 田 公 子 I はじめに 音楽取調掛(以下,取調掛)は文部省の一機関 として,明治 12 年(1879)に創置された。取調 御用掛に命じられた伊澤修二(1851 - 1917)は, 明治 12 10 30 日付で文部卿に「音樂取調ニ 付見込書」を提出した。そこでは,音楽について の三つの説を示し,東西二洋の音楽を折衷して, 今日の我国に適する音楽を制定するよう努めるべ きとする丙説が当を得たものとし,そのために着 手すべき要務として,将来国楽を興すために東西 二洋の音楽を折衷して新作をつくる事,将来国楽 を興すべき人物を養成する事,諸学校に音楽を実 施する事の三項目をあげている 1。そして,明治 17 年(1884)には,取調掛の調査研究成果等の 報告である『音樂取調成績申報書』(以下,『申報 書』) 2が文部卿に提出された。 東西二洋の音楽を折衷して将来国楽を興すこと を目指した取調掛の成果である『申報書』におい て,日本音楽,中でも俗楽は一体どのようなもの とみなされているのだろうか。『申報書』のなか では,俗楽に関わる箇所としては何よりも「俗曲 改良ノ事」 3があげられよう。そこで,取調掛の 俗楽観を明らかにするために,本論文では先ず俗 曲改良としてどのようなことが行われたかについ て考察したい。次に,俗曲改良の背後にある取調 掛の俗楽観について,『申報書』を中心に明らか にしていく。その際,当時の歌舞音曲をめぐる状 況についても触れたい。 本論文の先行研究としては,先ず,取調掛の俗 曲改良についての研究である東京芸術大学音楽取 調掛研究班編『音楽教育成立への軌跡』の第三章 「俗曲改良と『箏曲集』」(蒲生郷昭執筆) 4と, 蒲生郷昭の「音楽取調掛における長唄詞章の改良 について」 5があげられる。「俗曲改良と『箏曲集』」 は詳細な資料研究に基づいて,主として取調掛の 箏曲の改良について明らかにしている。また,「音 楽取調掛における長唄詞章の改良について」は, 前者の研究後新たに発見した資料に基づいて,公 にされることはなかったが,長唄の詞章改良も進 んでいたことを報告している。 次に,取調掛の音楽観についての先行研究とし ては,庄野進の「洋楽移入期の音楽教育―その理 念と思想的背景をめぐって―」 6があげられる。 この論文は,『申報書』には西洋音楽を日本の音 楽教育に導入しようとする強い意志が見られる が,その思想的背後には礼楽思想的な側面が根強 く残っていることを明らかにしている。 また,俗曲改良の背後にある,当時の歌舞音曲 をめぐる状況についての主な先行研究としては, 橋本今祐の『明治国家の芸能政策と地域社会』 7があげられる。この著書は,明治国家の芸能政策 が地域,特に福島県の芸能政策にどのような影響 を与えたかについて明らかにしている。 本論文の先行研究としてはこれらの研究があげ られるが,これらのいずれもが,本論文の研究テー マである取調掛の俗楽観を中心テーマとして研究 したものではない。従って,本論文の「II 俗曲 改良」では特に蒲生の「俗曲改良と『箏曲集』」 から,「III 歌舞音曲をめぐる当時の状況」は橋 本の著書から,「IV 俗楽観」は庄野の論文から 多くを学びながら,取調掛の俗楽観を明らかにし ていきたい。 II 俗曲改良 1) 俗曲改良 『申報書』においては,俗曲は無学の輩の手に

Upload: others

Post on 05-Mar-2020

5 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 27平田公子 : 音楽取調掛の俗楽観

    音楽取調掛の俗楽観

    平 田 公 子

    I は じ め に

     音楽取調掛(以下,取調掛)は文部省の一機関として,明治 12年(1879)に創置された。取調御用掛に命じられた伊澤修二(1851-1917)は,明治 12年 10月 30日付で文部卿に「音樂取調ニ付見込書」を提出した。そこでは,音楽についての三つの説を示し,東西二洋の音楽を折衷して,今日の我国に適する音楽を制定するよう努めるべきとする丙説が当を得たものとし,そのために着手すべき要務として,将来国楽を興すために東西二洋の音楽を折衷して新作をつくる事,将来国楽を興すべき人物を養成する事,諸学校に音楽を実施する事の三項目をあげている(1)。そして,明治17年(1884)には,取調掛の調査研究成果等の報告である『音樂取調成績申報書』(以下,『申報書』)(2)が文部卿に提出された。 東西二洋の音楽を折衷して将来国楽を興すことを目指した取調掛の成果である『申報書』において,日本音楽,中でも俗楽は一体どのようなものとみなされているのだろうか。『申報書』のなかでは,俗楽に関わる箇所としては何よりも「俗曲改良ノ事」(3)があげられよう。そこで,取調掛の俗楽観を明らかにするために,本論文では先ず俗曲改良としてどのようなことが行われたかについて考察したい。次に,俗曲改良の背後にある取調掛の俗楽観について,『申報書』を中心に明らかにしていく。その際,当時の歌舞音曲をめぐる状況についても触れたい。 本論文の先行研究としては,先ず,取調掛の俗曲改良についての研究である東京芸術大学音楽取調掛研究班編『音楽教育成立への軌跡』の第三章「俗曲改良と『箏曲集』」(蒲生郷昭執筆)(4)と,蒲生郷昭の「音楽取調掛における長唄詞章の改良

    について」(5)があげられる。「俗曲改良と『箏曲集』」は詳細な資料研究に基づいて,主として取調掛の箏曲の改良について明らかにしている。また,「音楽取調掛における長唄詞章の改良について」は,前者の研究後新たに発見した資料に基づいて,公にされることはなかったが,長唄の詞章改良も進んでいたことを報告している。 次に,取調掛の音楽観についての先行研究としては,庄野進の「洋楽移入期の音楽教育―その理念と思想的背景をめぐって―」(6)があげられる。この論文は,『申報書』には西洋音楽を日本の音楽教育に導入しようとする強い意志が見られるが,その思想的背後には礼楽思想的な側面が根強く残っていることを明らかにしている。 また,俗曲改良の背後にある,当時の歌舞音曲をめぐる状況についての主な先行研究としては,橋本今祐の『明治国家の芸能政策と地域社会』(7)

    があげられる。この著書は,明治国家の芸能政策が地域,特に福島県の芸能政策にどのような影響を与えたかについて明らかにしている。 本論文の先行研究としてはこれらの研究があげられるが,これらのいずれもが,本論文の研究テーマである取調掛の俗楽観を中心テーマとして研究したものではない。従って,本論文の「II 俗曲改良」では特に蒲生の「俗曲改良と『箏曲集』」から,「III 歌舞音曲をめぐる当時の状況」は橋本の著書から,「IV 俗楽観」は庄野の論文から多くを学びながら,取調掛の俗楽観を明らかにしていきたい。

    II 俗 曲 改 良

    (1) 俗曲改良 『申報書』においては,俗曲は無学の輩の手に

  • 人間発達文化学類論集 第 15号 2012年 6月28

    委せられ,野卑に流れ最も下流の極みに達し弊害が勝っているとされている。その弊害としては,俗曲の旋律の淫奔猥褻さが風教を酖毒する,俗曲の旋律の淫風さが士人の趣味を淫俟に導き雅正善良なる音楽の振興を妨げる,俗曲の淫邪さが徳教の涵養を妨げる,外交日新の今日にあって国家の体面を毀損する等があげられている。  本邦俗曲ハ古来識者ノ為ニ放擲セラレ擧ケテ之ヲ無学ノ輩ノ手ニ委スルヨリ音樂ノ本旨ニ悖リ人事至底ノ用途ニ歸シ随テ野卑ニ流レ其歌曲ノ成立ハ今日最モ下流ノ極ニ達セリ是ヲ以テ其弊害勝テ言フベカラザルモノアリ試ニ其一二ヲ述ベンニ俗曲ノ淫奔猥褻ナルハ風教ノ酖毒ヲ為ス是其一也,俗曲ノ旋律淫風ヲ極ムルハ士人ノ趣味ヲ淫俟ニ導キ爲メニ雅正善良ナル音樂ノ振興ヲ妨害スル是其二也,俗曲ノ淫邪ナルハ誘惑ノ途ヲ開キ徳教ノ涵養ヲ妨害スル是其三也,外交日新ニ際シ彼此ノ文物相融通スルノ今日ニ在テナホ此ノ如キ音曲ノ盛ニ行ハルヽハ國家ノ体面ヲ毀損スル是其四也(8)

     我国の音楽には雅俗の別があり,俗楽が甚だ卑しいことは以前から言われていた。明治 9年(1876)9月 7日以降の目賀田種太郎メモ(9)にも,明治 11年(1878)4月 8日付けで文部大輔に提出された「學校唱歌ニ用フベキ音樂取調ノ事業ニ着手スベキ,在米國目賀田種太郎,伊澤修二ノ見込書」(10)にも,明治 11年(1878)4月 20日付けで目賀田種太郎名で同じ文部大輔に提出された「我公學ニ唱歌ノ課ヲ興スベキ仕方ニ付私ノ見込」(11)

    にも,雅と称するものは高く大方の耳に遠く,俗と称するものは卑しく却って害が大きいことが記されている。 このように我国の音楽には雅俗の別があり,俗楽は野卑で弊害が大きいが,当時の人々の間には非常に流行していた。そこで『申報書』では,弊害が大きいことについて,「然ルニ俗曲ハ今日民間流行ノ甚タシキモノニシテ下民ノ風俗ハ殆ト茲ニ根據スルノ勢アリ故ニ人民ヲ猥褻淫行ニ誘致ス

    ルハ職トシテ此俗曲ノ然ラシムルトコロトスルモ敢チ過言ニアラザルベシ」(12)と述べられている。 弊害が大きいから俗曲には改良の必要があり,弊害の最も少ない箏曲から改良に着手し,次いで,世の中で盛んに行われていて多少弊害はあるものの,採るべきところのある長唄の改良が行われたとされている(13)。俗曲のなかでは箏曲の歌詞が最も上品で改良がしやすいことから先ず箏曲,次いで長唄を改良しようという考えは,取調掛開設前からすでに固まっていたらしい(14)。 そして,箏曲の改良にかかわった人々は,歌詞の選定の掛員里見義,加部巖夫,曲調の査定の山勢松韻,山登萬和,山登松齢,山多喜松調,荒木古童,奥山朝恭等,統理査定掛長伊澤修二とされている(15)。 改良の順序としては,先ず佳良で改良の材料となる曲を選び評議し,歌詞の工夫や文意,曲調の善悪,旋律の邪正等について検討し,その後,箏胡弓三味線尺八等で実際に演奏して,さらに反復して歌詞や曲を検討したとされている。  無数ノ箏曲中ニ就キ曲品良佳ニシテ改良ノ材料トナルベキモノヲ検出選抜セシメ其報告スルトコロヲ以テ之ヲ定日掛員ノ評議ニ付シ其歌詞ノ意匠文義ノ處在曲調ノ善悪旋律ノ邪正等ヲ審議討究シ然後之ヲ箏胡弓三味線尺八等ニ合セ實地ノ演奏ヲ以テ更ニ反覆討究シ其成歌成曲ノ如何ヲ實際シ(16)

     歌作については嫺雅優美の徳性を涵養することを主意とし,曲調は卑猥の旋法を禁じ清純雅正を主とした。

     總シテ歌作ハ嫺雅優美ノ徳性ヲ涵養スルノ主意ヲ基ト爲シ併セテ風韻ノ高致ニ務メ曲調ハ卑猥乱野ノ旋法ヲ禁シ清純雅正ナルヲ主トセリ(17)

     同じ曲の改良前の歌詞と改良後の歌詞の例をあげたい。   

  • 29平田公子 : 音楽取調掛の俗楽観

     <言 葉 ぢ ち>(江戸紫)(旧)江戸紫の小紫,かはいさめぐる盃の,わかわかしくもはがくれに,心もそゝぐふろゆかた,さんにくずしの羽織をも,露にねれなすかくしきぬ,八ッの大鼓の八ッの大鼓の言葉ぢゝ

         (『山田流箏歌八葉集』より)(18)

     < 落  梅 >(改良)  年たちかへる。春の空。垣根の草は。いろづきて。柳の絲も。うちけぶり。薫もゆかし。梅の花。をりもをりとて。笛の音の。雲にひゞける。ここちして。花も散るなり。はなもちるなり。笛のねに。

    (『箏曲集』より)(19)

     旧作は恋の歌であるが,改良歌は自然を歌った歌詞になっている。この曲以外の歌詞も同様に花鳥風月等に改良されているケースが多い。 歌詞については資料が残されているので,どのように改良されたかが明らかである。しかし,曲調や旋律については「曲調ノ善悪旋律ノ邪正等ヲ審議討究シ」(20)と述べられているが,実際にどのように改良されたのかについての手がかりとなる記載は見当たらない。従って,取調掛の曲調や旋律の改良については不明のままである。 改良された曲は,明治 15年以降,取調掛の成績報告等の際に公の演奏会で演奏された。明治15年(1882)1月 30・31日に昌平館で行われた報告会の際には,唱歌と並んで改良された長唄 <村雲>が, 明治 16年(1883)7月 11日の期末演奏会では,唱歌,洋琴と並んで長唄<高砂>,箏曲<関の清水>,<紅葉の賀>が,明治 17年(1884)1月 23日の大木文部卿巡視の際には,箏曲<三の船>長唄<寄月祝>が演奏された(21)。 また,改良された曲は普通の楽譜(五線譜)に採譜し,目に見えるところと耳で聴くことのできることを一致させ,教授する者と学習する者の利便さを謀り,迅速に学習できるようにもしたとされている。 

     改良ノ俗曲ハ呂律ノ旋法ヲ解剖シテ之ヲ樂譜ニ製シ紙上ニ寫シテ目ニ視ルトコロト音聲ニ發シテ耳ニ聞クトコロト彼此一致ニ歸スル所以ノ方法ヲ設ケ以テ之ヲ教授スル者ノ便ト之ヲ學習スル者ノ利トヲ謀リ天下普通ノ樂譜法ニ由テ迅速習得ノ簡法ヲ立テタリ(22)

     西洋音楽の記譜のための楽譜である五線譜を普通の楽譜とみなし,箏曲を五線譜に採譜することが教授する者や学習する者にとって利点になるとすることから,西洋音楽を基準とし,箏曲を西洋音楽に近づけようとしていたことが窺える。 さて,実際の採譜はどのように行われているのだろうか。二つの例を示したい。 

    (『箏曲集』より)(23)

     採譜は二通りの方法で行われているが,細かい

  • 人間発達文化学類論集 第 15号 2012年 6月30

    点まで採譜していることが見てとれる。採譜の前者の方法は,現在でも一般に採譜もしくは訳譜される際に行われる方法であり,後者の方法は一般的にあまり見かけない方法である。何故このように二通りの方法で採譜されたのかについては明確に記されていない。 このように進められた俗曲改良であったが,明治 18年(1885)末頃から,経費の点並びに伊澤の文部省編集局次長から局長への就任,山勢の異動等によって俗曲改良は縮小されていった(24)。

    (2) 『箏曲集』 箏曲の改良成果は,取調掛が東京音楽学校へと発展的に解消された後の明治 21年(1888)に,『箏曲集』として出版された。出版時期は改良が出来上がった時期よりかなり後であるが,これは最終的な刊行を願い出た際,経済的理由により認められず,この時期になったことによると思われる(25)。 『箏曲集』の所収曲は以下の通りである(26)。 ① <姫松>,<若竹>(流行歌の替え歌) ② <櫻>(旧<咲いた桜>) ③ <花競>(旧<梅と桜>) ④ <螢>(新作) ⑤ <歌の道>(新作) ⑥ <落梅>(旧<江戸紫>) ⑦ <弓八幡>(旧作) ⑧ <手習>(新作) ⑨ <小野の山>(旧<喜撰>) ⑩ <秋の七草>(新作) ⑪ <富貴曲>(表組<富貴>の第一歌の改良

    なし) ⑫ <雪の朝>(表組<雪の朝>の一部を改良) ⑬ <志のの免>(表組<薄雪>の一部を改良) ⑭ <春の花>(七歌からなる表組第一曲<富

    貴>を改作して一曲にしている) ⑮ <六段の調>。 手習い曲 10曲,表組の組歌 4曲,<六段の調>の 15曲から成っている。 『箏曲集』の需要は高く,その後増版を重ねた(27)。また,取調掛は改良箏曲の後続を計画していたと

    いう資料も存在しているようである(28)。 それから,長唄については,多くの曲が改良されつつあったということは資料に残されているが,それらが公刊されることはなかった(29)。

    III 歌舞音曲をめぐる当時の状況

    (1) 明治政府の取締り 俗曲改良は取調掛だけのものではなく,歌舞音曲をめぐる当時の状況下で行われたものである。当時の文明開化のなか,明治政府は風教を乱す歌舞音曲を認めないことを取締り強化によって示した。 明治 4年(1871)4月 27日には,東京府が検校・勾当などの盲官廃止を太政官に上申した(30)。明治 5年(1872)4月 27日には,歌舞音曲の全てを御陵や社寺の管理を主な業務としてきた教部省の管理下に置いた。 

    音樂歌舞ノ類自今總テ教部省管轄被 仰出候事(31)

     5月 18日からは歌舞音曲の家元を順次召喚し,業態調査を行ったことが『東京日日新聞』(5月25日付)に掲載されている(32)。明治 5年(1872)8月 23日には「皇上奉戴」「勧善懲悪,淫風禁止」「役者自粛」を旨とした芸能取締り三か条が布達された(33)。 

    能狂言ヲ始メ音曲歌舞ノ類ハ人心風俗ニ關係スル所不少候ニ付左之通各管内營業之者共ヘ可相達事一能狂言以下演劇之類御歴代之 皇上ヲ模擬シ上ヲ褻涜シ奉リ候體ノ儀無之樣厚ク注意可致事一演劇之類専ラ勸善懲悪ヲ主トスヘシ淫風醜態ノ甚シキニ流レ風俗ヲ敗リ候樣ニテハ不相濟候間弊習ヲ洗除シ漸々風化ノ一助ニ相成候樣可心懸事一演劇其他右ニ類スル遊藝ヲ以テ渡世致シ候者ヲ制外者抔ト相唱ヘ候從來ノ弊風有之不可

  • 31平田公子 : 音楽取調掛の俗楽観

    然儀ニ候條自今ハ身分相應行儀相愼ミ營業可致事(34)

     このような明治政府の取締りに呼応するかたちで,地方でも様々な取締りが行われた。次に,地方の一例として,筆者が居住する福島県の状況について述べたい。

    (2) 福島の取締り 福島県いわき地方には,現在でも 90以上の団体によって伝承されている,じゃんがら念仏踊りという民俗芸能がある(35)。じゃんがら念仏踊りは,お盆の時期,新盆の家を回り数人で鉦や太鼓の伴奏で歌い踊って供養を行う,娯楽的要素の濃い宗教行事であり,いわきの風物詩となっているものである。昨年の東日本大震災においても,亡くなった人々の追悼式や鎮魂のため様々な場所で行われた。創始者ははっきりしないが,江戸時代から行われていたという資料が存在している。 そのじゃんがら念仏踊りの禁止令(磐前県)が,明治 6年(1873)1月に出されたのである。  磐城国ノ風俗,旧来念仏躍ト相唱ヘ,夏秋ノ際,仏名ヲ称ヘ,太鼓ヲ打,男女打群レ,夜ヲ侵シテ遊行シ,中ニハ如何ノ醜態有之哉ノ由,文明ノ今日有間敷,弊習ニ付,管内一般本年ヨリ,右念仏躍禁心申付候付候条,少年児女ニ至ル迄,兼テ相達置可申事(36)

     いわき生まれの歴史学者,教育者である大須賀筠軒が明治 25年(1892)に著した『歳時民俗記』には,江戸時代末期のじゃんがら念仏踊りの様子が報告されている(37)。それによると,じゃんがら念仏踊りは盂蘭盆あるいは各神社仏閣の宵祭り等の際に,鉦を叩き太鼓を打ち,男女が輪になって歌いながら踊る念仏踊りであるが,男が女装したり女が男装したり,裸体で犢鼻褌をしっぽのように垂らし,その端を後の者の犢鼻褌につないでいたり,またある者は菰や筵を鎧にし,蓮の葉を兜にするなど,その醜態は見るに忍びなく,その

    弊害によって禁じられた。しかし,今は少し復旧しつつあると報告されている。 その後,どのように復旧したかについての経緯は明確ではないが,民衆の根強い支持により,明治時代の中頃から再び盛んになったとされている(38)。ただ,大須賀の著した江戸時代末期とはかなり異なった,現在のようなじゃんがら念仏踊りになっての復旧であった。 その他にも,明治 6年(1873)4月 28日には芸能取締り令(旧福島県),明治 6年(1873)11月19日には興行免許地制限令(旧福島県),明治 11年(1878)2月 28日には門銭をもらう芸の禁止令(福島県),明治 11年(1878)8月には男女雑踏醜態を極める盆踊り禁止令(福島県),明治 20年(1887)6月 18日には芸人取締り規則,及び,演芸場及遊観場取締り令(福島県)と立て続けに取締まりが出されている(39)。 立て続けに出された禁止令や取締り令であるが,明治 38年(1905)8月の日露戦争の勝利が緩和への大きな転機となった(40)。

    (3) 改良運動 国家政策,それを受けた地方レベルでの禁止令や取締り令等が出されるなかで,歌舞音曲の様々な改良が唱えられた。明治 8年(1875)には長唄界で『露の転文』という替文句集が発表されたり,明治 11年(1878)と 13年(1880)には箏曲において,京都女学校編『唱歌 正編 二編』が出されている(41)。 明治 19年(1886)8月には伊藤博文の娘婿末松謙澄の主唱により,知識人や政財界人の支持を受けた「演劇改良会」が発足し,その趣意書が『東京日日新聞』(8月 6日付)等に掲載された。  第一 從來演劇ノ陋習ヲ改良シ好演劇ヲ實際ニ出サシムルコト 第二 演劇脚本ノ著作ヲシテ榮譽アル業タラシムルコト 第三 構造完全ニシテ演劇其他音樂會歌唱會等ノ用ニ供スベキ一演劇場ヲ構造スルコト(42)

  • 人間発達文化学類論集 第 15号 2012年 6月32

     また,『朝野新聞』(明治 19年 11月 9日付)には神楽改良の記事も掲載されている(43)。 このように,当時は様々な取締りや改良運動が行われている時代であり,取調掛の俗曲改良もこの時代の流れのなかに位置づけられるものであろう。 時代の流れのなかに位置づけられるとしても,俗曲改良に至った取調掛の俗楽観は一体どのようなものだったのだろうか。次に見ていきたい。

    III 俗 楽 観

     『申報書』のなかの「音樂ト教育トノ關係」(44)

    が取調掛の音楽観を示しているので,この論考から考察したい。 「音樂ト教育トノ關係」では,道徳上の関係について,音楽は人性の自然に基づき心情を激しく揺さぶるので,正雅の歌を歌う時は心も正し,和楽の音を聞く時は心も自らを和し,正しき時は邪悪の念が外から入ることはなのいで,心を正し身を修め俗を易うるのに最も適しているとされる。そしてこのことを述べる際,中国古代の儒教的音楽観を記している『樂記』から「君子曰く,禮樂は斯須も身を去る可からず」(45)が引用されている。

     音樂ハ人性ノ自然ニ基キ其心情ヲ感動激觸スルモノニシテ喜悦ノ歌曲ハ人心ヲ喜バシメ悲哀ノ歌曲ハ人心ヲ悲歎セシムル等ノ如ク一モ心情ノ感動ヲ生ゼザルモノナシ故ニ正雅ノ歌ヲ歌フトキハ心自ラ正シ和樂ノ音ヲ聞クトキハ心自ラ和ラク心和キ正シキトキハ邪悪ノ念外ヨリ入ル能ハズ(中略)心ヲ正シ身ヲ修メ俗ヲ易フルハ音樂ニ如クモノナシ古語ニ曰ク禮樂不可以斯須去身ト聖賢ノ禮樂ヲ重スル其レ斯ノ如シ(46)

     ここでは正しく和した音楽を表わす用語として「和楽」という用語が使用されているが,「俗曲改良ノ事」においては,対照的な音楽を表わす用語として「淫楽」という用語が使用されている。「淫楽」については俗曲の害について述べている箇所

    で,「靡然トシテ風ニ嚮ヒ却テ淫樂ノ勢炎ヲ加ヘントスルノ恐レアリ」(47)としている。この対照的な音楽を表わす「和楽」と「淫楽」という用語は,『樂記』において見られるものである。『樂記』では「およそ邪悪の音声がたまたま人を感動させると,これに応じて(人の内面に潜む)悪逆の気が発動し,その現実の作用として淫楽を形成する。これに反し,正善の音声が人を感動させると,これに応じて順正の気が発動し,現実の作用として和楽を形成する」(48)とされているのである。 では次に,『申報書』より後になるが,取調掛において伊澤の片腕として活躍した神津專三郎(1852-1897)が,明治 24年(1891)11月に公刊した『音樂利害』(49)の俗楽観について見てみたい。 『音樂利害』は上編,中編,下編に分けられ,和漢洋の書から抜き出された音楽の利と害にかかわる事例を示している。下編は「淫樂ノ弊害ヲ論ス」とされ,その「卷之二十 淫聲ノ害ニ關スル事,三〇一 三線ノ世ニ害ヲ爲シタル事」では,三味線や浄瑠璃の害が江戸中期の儒者太宰春臺(50)

    の説を引用しつつ述べられている。そこでは,三味線は形状も卑しく,近来の三味線音楽は調子も高く手法も煩雑で,歌詞も野卑にして淫聲のはなはだしいものであることを,「太宰春臺曰ク,三線ハ其製琵琶ニ似テ琵琶ニ比スレバ形状殊ニ卑シク,是ヲ彈スル情モ亦極メテ醜ナリ,寛文延寳以前ハ,其曲調少シク筑紫箏ニ類シ,俗調トイヘ共ナホ取ルベキモノアリ,近來ハ調子高ク浮動シ,手法煩雜ヲ極メ,歌詞野卑ニシテ,節度迫急ナリ,淫聲ノ甚シキ者トイフベシ,此聲纔ニ發スレバ輒チ人ノ淫心ヲ喚起シ,放辟邪侈ナルニ至ラシム,其害勝テ道フベカラズ」(51)としている。また,今代は公侯紳士と言えども雅楽や筑紫箏を好まず,三味線,浄瑠璃を喜んでいる(52)とされている。 そして,このような巷で流行している三味線や浄瑠璃等の状況については,『樂記』の「鄭衛,桑間,濮上の淫声」に例えて,「樂記ニ鄭衛ノ音ハ亂世ノ音ナリ,桑間,濮上ノ音ハ亡國ノ音ナリトハ,淫聲ニ世ヲ亂シ,國ヲ亡スノ理アルヲイヘリ,今ノ妓樂,三線,浄瑠璃ハ,遙ニ古ヘノ鄭衛,

  • 33平田公子 : 音楽取調掛の俗楽観

    桑間,濮上ノ淫聲ニ過クベシ」(53)とされている。また,淫楽が急速に風俗を破壊することについては,『孝經』からの一文を引用して,「風ニ移シ俗ヲ易フルハ樂ヨリ善キハナシト,然レ共雅樂ヲ以テ風俗ヲ矯正スルハ其効ナホ遅シ,淫樂ヲ以テ風俗ヲ敗壞スルハ其効甚ダ迅ナリ,縱ヒ雅樂世ニ行ハルヽモ,淫樂ヲ禁セザレバ,雅樂廢レ易シ,所謂孔子ノ鄭聲ヲ放テトハ此故ナリ」(54)とされている。 以上のことから,音楽を正しく和した音楽である「和楽」と卑しい音楽である「淫楽」とに分けた音楽観,並びに,俗楽のなかで最も卑しい音楽とされた三味線や浄瑠璃等を「淫楽」とする俗楽観は,儒教的音楽観に基づいたものであることが明らかであろう。 ところで,『音樂利害』が公刊されるのは取調掛の時代よりかなり後であることから,このような神津の俗楽観が取調掛の俗楽観と言えるのかという疑問があろう。しかし,先ず,神津のこのような俗楽観が後の東京音楽学校存廃論争の際の音楽観の学問的拠り所となったということ(55),並びに,神津は儒学を修めその後に洋学を学んだという経歴を有しているので(56),西洋音楽を学ぶ以前に儒教的音楽観を習得していたということから,神津の俗楽観は取調掛においても学問的拠り所となっていたと考えられる。

    IV お わ り に

     以上,「俗曲改良」「歌舞音曲をめぐる当時の状況」「俗楽観」について考察することによって,取調掛の俗楽観について探ってきた。その結果,主として以下のことが明らかになった。 第一に,俗曲は無学の輩の手に委せられ,野卑に流れ,弊害が大きいことから改良が必要とみなされ,改良は弊害の最も少ない箏曲から着手された。 第二に,歌詞についてはどのような改良がなされたか明らかで,多くの場合,恋の歌等が花鳥風月等の歌詞に改良された。しかし,曲調についてはどのような改良がなされたのか不明である。

     第三に,改良された曲は学習の利便性等のため,普通の楽譜(五線譜)に採譜された。五線譜を普通の楽譜とみなし,箏曲を五線譜に採譜することが学習にとって利点とすることから,西洋音楽を基準とし,箏曲を西洋音楽に近づけようとしたことが窺える。 第四に,俗曲改良は取調掛だけのものではなく,文明開化のもと,当時の歌舞音曲をめぐる状況のなかで行われたものであった。 第五に,取調掛の音楽観では,音楽を正しく和した音楽である「和楽」と,弊害の多い「淫楽」とに分け,三味線や浄瑠璃等を俗楽のなかで最も卑しい音楽である「淫楽」とした。そのような俗楽観が,俗曲は無学の輩の手に委ねられ,野卑に流れ最も下流の極みに達し弊害が勝っているとし,そのなかで弊害の少ない箏曲の改良に取りかかった取調掛の俗楽観であった。 第六に ,そのよう俗楽観は儒教的音楽観に基づくものであった。 以上が明らかになった取調掛の俗楽観であるが,ここから見る限り,将来国楽を興すために東西二洋の音楽を折衷して新作をつくることを目指している取調掛であったが,俗楽に関しては改良に留まったと言わざるを得ないであろう。

               (2012年 4月 18日受理)

    【註】( 1 ) 「創置處務概畧」伊澤修二編著『音楽取調成績申報書』

    1884年(国会図書館近代デジタルライブラリー)。伊澤修二編著『音楽取調成績申報書』1884年(河口道朗監修『音楽教育史文献・資料叢書 第一巻』(大空社 1991年)として復刻),2-4頁。

    ( 2 ) 伊澤修二編著『音楽取調成績申報書』1884年(国会図書館近代デジタルライブラリー)。伊澤修二編著『音楽取調成績申報書』1884年(河口道朗監修『音楽教育史文献・資料叢書 第一巻』(大空社 1991年)として復刻)。

    ( 3 ) 「俗曲改良ノ事」伊澤修二編著『音楽取調成績申報書』1884年(国会図書館近代デジタルライブラリー)。伊澤修二編著『音楽取調成績申報書』1884年(河口道朗監修『音楽教育史文献・資料叢書 第一巻』(大

  • 人間発達文化学類論集 第 15号 2012年 6月34

    空社 1991年)として復刻)。   「俗曲」という用語は 1870年代(明治初年)の新造

    語らしいが,その定義は時代と共に変化している。明治時代には雅楽などの宮中に関係のあるものに対して,三味線音楽や箏曲のように民衆が愛好した音楽の総称で,俗楽とほぼ同義語として用いられている。倉田喜弘「俗曲」『音楽大事典 3』平凡社,1982年,1380頁。塚原康子「俗楽」『日本音楽用語辞典』音楽之友社,2007年,12頁。

       本論文では,『申報書』において「俗曲」という用語が使用されている所では,そのまま「俗曲」という用語を使用している。

    ( 4 ) 東京芸術大学音楽取調掛研究班編『音楽教育成立への軌跡』音楽之友社,1976年。

    ( 5 ) 蒲生郷昭「音楽取調掛における長唄詞章の改良について」角倉一朗他編『音楽と音楽学 服部幸三先生還暦記念論文集』音楽之友社,1986年。

    ( 6 ) 庄野進「洋楽移入期の音楽教育―その理念と思想的背景をめぐって―」玉川学園学術研究所『共同研究報告 明治期の芸術教育』第 4号,1984年。

    ( 7 ) 橋本今祐『明治国家の芸能政策と地域社会』日本経済評論社,2011年。

    ( 8 ) 前掲書(3),317-318頁。( 9 ) 「雅俗ノ差アリテ其ノ雅ナルモノハ清ク其ノ俗ナル

    モノハ濁レリトセリ然シテ清クシテ雅ナルモノハ大方ノ耳ニ入ラス却テ濁レルモノハ善ク行ハルヽ其ノ相融絶スルノ距間又大ナリ」「目賀田種太郎メモ」『目賀田種太郎関係資料』(東京藝術大学附属図書館蔵)。

    (10) 「我國ノ音樂ニ雅俗ノ別アリ,其ノ雅ト称スルモノ調曲甚高クシテ大方ノ耳ニ遠ク,又其ノ俗ト称スルモノハ謳曲甚卑クシテ其ノ害却テ多シ」目賀太種太郎 伊澤修二「學校唱歌ニ用フベキ音樂取調ノ事業ニ着手スベキ,在米國目賀田種太郎,伊澤修二ノ見込書」『目賀田種太郎関係資料』。

    (11) 「我ガ雅樂ハ甚ダ高ク又普通ノ俗樂ハ甚卑ク」目賀田種太郎「我公學ニ唱歌ノ課ヲ興スベキ仕方ニ付私ノ見込」『目賀田種太郎関係資料』。

    (12) 前掲書(3),318頁。(13) 同上,322頁,324頁。(14) 前掲書(4),160頁。(15) 音楽取調掛編『箏曲集』1888年(国会図書館近代

    デジタルライブラリー)。(16) 前掲書(3),323頁。(17) 同上,324頁。(18) 中能島松仙他『山田流箏歌八葉集』箏曲八葉会 15

    版, 1970年。(19) 前掲書(15)。(20) 前掲書(3),323頁。(21) 東京芸術大学百年史編集委員会『東京芸術大学百年

    史 東京音楽学校篇第一巻』音楽之社,1987年,200頁,213-214頁。

    (22) 前掲書(3),327-328頁。(23) 前掲書(15)。(24) 前掲書(4),240頁。(25) 同上,204頁。(26) 前掲書(15),前掲書(4)並びに前掲書(21)を参

    照。(27) 前掲書(4),257頁。(28) 同上,243-244頁。(29) 前掲論文(5)(30) 倉田喜弘『芸能の文明開化 明治国家と芸能の近代

    化』平凡社,1999年,53頁。(31) 「太政官布告第百三十六號」内閣官報局『法令全書』

    (第五巻-1)(復刻版)原書房,1974年,94頁。(32) 『東京日日新聞』明治 5年(1872)5月 25日。(33) 前掲書(7),16頁。(34) 「教部省通達第十五號」内閣官報局『法令全書』(第

    五巻-2)(復刻版)原書房,1974年,1282-1283頁。(35) いわき市教育委員会<昭和 63年度文化財基礎調査>

    『いわきのじゃんがら念仏調査報告書』1989年。この報告書には伝承団体として 106団体が掲載されているが,廃絶又は中断されている団体がいくつかある。

    (36) 夏井芳徳『ぢゃんがらの夏』神谷漣文庫,1991年,30頁。

    (37) 大須賀筠軒著,夏井芳徳翻刻『磐城誌料 歳時民俗記』歴史春秋出版,2003年,87-88頁。

    (38) 『江戸時代 人づくり風土記 7 福島』農山漁村文化協会,1990年,237頁。

    (39) 「明治 6年,明治 9年村々達章」『福島県庁文書』F898(福島県文化センター蔵),並びに前掲書(7), 18-43頁。

    (40) 前掲書(7),49頁。(41) 前掲書(4),153頁。(42) 『東京日日新聞』明治 19年(1886)8月 6日。(43) 中山泰昌編著『新聞集成明治編年史 第六巻欧化政

    治期』明治編年史頒布会,1965年(再発行)。(44) 「音樂ト教育トノ關係」伊澤修二編著『音楽取調成

    績申報告書』1884年(国会図書館近代デジタルライブラリー)。伊澤修二編著『音楽取調成績申報告書』1884年(河口道朗監修『音楽教育史文献・資料叢書 第一巻』(大空社 1991年)として復刻)。

       「音樂ト教育トノ關係」では,音楽が人心に多大なる影響を与えるということから,先ず二つの音階,長音階と短音階について述べられている。長音階の楽曲は勇壮活発であり,長音階の楽曲を演ずる者は心底より歓楽を覚え快活さを発するが,短音階の楽曲は柔弱憂鬱で哀情甚しいため,それを演ずる者は

  • 35平田公子 : 音楽取調掛の俗楽観

    悲嘆の感を表す。従って,幼時期には,勇壮活発の精神を発育させ,有徳健全な心身を育てることができる長音階によって教育すべきであるとされる。

       次に,歌を歌うことは体格を正し呼吸を適度に使うので,胸膈を開帳して肺臓を強健にすることから健康上にも有効であることも述べられている。その後,音楽の道徳上の関係について述べられる。

       ところで,「音樂ト教育トノ關係」の執筆は伊澤修二とされているが,吉田寛は少なくとも一部は神津專三郎が分担したとみてよいと報告している。

       吉田寛「神津仙三郎『音楽利害』(明治二四年)と明治前期の音楽思想 ―一九世紀音楽思想史再考のために―」『東洋音楽研究』第 66号,2001年,20頁。

    (45) 『樂記第十九』竹内照夫『新釈漢文大系 28 礼記 中』明治書院,1977年,598頁。

    (46) 前掲書(44),150頁。(47) 前掲書(3),321頁。(48) 前掲書(45),577頁。(49) 神津仙三郎(專三郎)『音樂利害―一名樂道修身論』

    明治 24年(1891)11月(江崎公子編集『音楽基礎研究文献集 第十一巻』(大空社 1991年)として復刻)。

    (50) 太宰春臺(1680-1747)は江戸中期の儒者で荻生徂徠の弟子。春臺は師を継承し,徳川政権の国家としての自立性を確立すること,そして,礼楽による国家の秩序・制度を作っていくことを説いた。特に,楽の問題に注意を払った人物であった。晩年に記された『獨語』では,和歌,茶道,俳諧,三味線・浄瑠璃,箏,猿楽,俳優,その他一般的風俗等について述べられている。調子も高く手法も煩雑になって

    いった三味線・浄瑠璃を嫌い,「淫楽」として風教上排撃したことが目を引く。

       田尻祐一郎・疋田啓佑『太宰春台・服部南郭』明徳出版,1995年,66-87頁。太宰春臺『獨語』『日本随筆大成第<一期>17』吉川弘文堂,1976年。

       神津の淫楽についての事例の多くが春臺の『獨語』に基づいているものである。

       拙稿「明治 20年代の日本音楽観―東京音楽学校存廃論争を通して―」『福島大学人間発達文化学類論集 第 8号(人文科学部門)』2008年 12月。

    (51) 前掲書(49)。(52) 同上。    「今代ニ至テハ公侯縉紳ト雖モ,雅樂ハ固ヨリ筑紫

    箏ヲモ好マズ,タヾ三線,淨瑠璃ヲ玩ビ,賤妓ヲ宮中ニ召シテ歌舞セシムルノミナラズ,ナホ女優ノ設アリ,夜トナク日トナク,淫戯ニ耽テ之ヲ樂トスル者多シ」

    (53) 同上。   『樂記第十九』には,「鄭衛の音は亂世の音なり,慢

    に比し。桑間濮上の音は亡國の音なり。其の政散じ其の民流る」と記されている。前掲書(45),559頁。

    (54) 同上。   『孝經』の「廣要道章第十五」には,「風を移し俗を

    易ふるは,樂より善きは莫し」と記されている。栗原圭介『新釈漢文大系 35 孝経』明治書院,1986年,276頁。

    (55) 拙稿,前掲論文(50)。 (56) 塚原康子「明治前期の日本音楽史研究―神津專三郎

    を中心に―」小島美子,藤井知昭編『日本の音の文化』第一書房,1994年,582頁。

  • 人間発達文化学類論集 第 15号 2012年 6月36

    The Views of Zokugaku of Ongaku Torishirabe Gakari

    HIRATA Kimiko

      Ongaku Torishirabe Gakari (Music Resarch Institute) was established in 1879. Isawa Shūji(1851-

    1917), the Director of Torishirabe Gakari, submitted ‘Ongaku Torishirabe Seisei Shinpōsho’(the Result of the Investigations concerning Music) to the Minister of Education in 1884.  The purpose of this paper is to study the views of zokugaku(popular music) of Torishirabe Gakari with special reference to ‘Shinpōsho’.   Isawa, Yamase Shōin and others considered zokkyoku(popular music) to be indecent music and im-proved them, especially sōkyoku(koto music). The improved sōkyoku was published as ‘Sōkyokushū’ (Collection of Japanese Koto Music) in 1888.  The zokkyoku improvement of Torishirabe Gakai was carried out in the then Westernization.  Isawa named good music “wagaku” and indecent music “ingaku” in ‘Shinpōsho’. His view was based on that of ‘Gakki’(ancient Chinese music theory). Kōzu Senzaburō(1852-1897), Isawa’s right-hand man named zokugaku, especially shamisen and jōruri “ingaku” and considerd them to be music that should be expelled. His view was based on that of a Confucian, Dazai Shundai(1680-1747) of the Edo middle.   The views of zokugaku of Torishirabe Gakari that improved zokkyoku were based on that of ancient Chinese music theory.