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協賛 進歩の優先順位 市民の声に耳を傾ける ザ・エコノミスト・インテリジェンス・ユニット報告書

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  • 協賛

    進歩の優先順位市民の声に耳を傾ける

    ザ・エコノミスト・インテリジェンス・ユニット報告書

  • 1© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    目次

    報告書について 2

    はじめに ー インクルーシブな社会の実現に向けて 4

    1 市民と社会の課題 11

    2 科学技術とコミュニケーションのかたち 15

    3 環境問題の重要性 22

    4 市民の声の高まり? ー 参加型予算・世論を反映する政策・参加民主主義 25

    おわりに 34

  • 2 © The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    報告書について

    本報告書の調査・作成にご協力をいただいた右記の専門家(姓のアルファベット順に記載)には、この場を借りて感謝の意を表したい。

    University of British Columbiaprofessor emeritus of economicsWorld Happiness Report editor John Helliwell

    University of Essex Department of Government professor Tobias Böhmelt

    Friends of the Earth CEOCraig Bennett

    Public Governance Reviewsdeputy headOECDOpen Government Unit  head Alessandro Bellantoni

    National Center on Education and the EconomypresidentMarc Tucker

    理想の社会像について語るとき、あるいは投票を行うとき、我々はリソースの限界がもたらす制約を忘れがちだ。教育・医療の無料化や治安向上、所得拡大、減税、環境の改善、手頃な価格の住宅などは、あらゆる市民が対応を求める課題だろう。しかしどの国にもリソースの限界はあり、こうした理想を全て実現することは不可能に近い。そうした背景を踏まえ、社会は政策課題における優先順位の明確化を求めており、そこで市民の視点がこれまで以上に重要となっている。

    社会の現状について、市民はどのように考えているのだろうか?市民の目から見た最優先課題とは何か。社会の理想像や進化の方向性が、文化・歴史・経済・技術・地理といった様々な要因によって異なることは言うまでもない。しかしこうした枠組みを超えた普遍的テーマが存在するのも確かだ。

    『進歩の優先順位―市民の声に耳を傾ける』は、日東電工による協賛の下、ザ・エコノミスト・インテリジェンス・ユニットが作成した報告書である。本報告書の作成にあたっては、世界50 カ国を対象としたアンケート調査と専門家の聞き取り調査を実施。理想的社会の実現に向けて、各国市民がどのような分野(ヘルスケア・教育・社会福祉・治安・研究開発・環境・運輸インフラなど)を優先課題と考えているのかといった問題を検証した。なお報告書の中で示される調査結果や見解は、必ずしも協賛企業の見方を反映するものではない。

  • 3© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    Open Society FoundationsFiscal Governance ProgramdirectorJulie McCarthy

    Erasmus UniversityRotterdam School of Managementprofessor of organisational behaviour and culture,Gabriele Jacobs

    Asia FoundationWomen’ s Empowerment ProgramdirectorJane Sloane

    Asia FoundationThailand country representativeThomas Parks

    Afrobarometerco-founderE Gyimah-Boadi

    本報告書の執筆は Adam Green、編集は近藤奈香(ザ・エコノミスト・インテリジェンス・ユニット エディター)が担当した。

    OECDMeasuring Regulatory Performance head of programmeChristiane Arndt-Bascle

    Science Countsexecutive directorEdward Volpe

    Nestaprincipal researcherinclusive innovationTom Saunders

    Henry J Kaiser Family Foundationsenior vice-president for executive operationsMollyann Brodie

    OECDdirector of public governance Marcos Bontur

    University of Yorkdepartment of health sciences professor of epidemiologyKate Pickett

    University of Yorkhonorary visiting professor Richard Wilkinson

  • 4 © The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    はじめにインクルーシブな社会の実現に向けて

    個人主義を制度として確立した。また科学革命にも、社会構造を支える理論的枠組みへの挑戦という側面が見られる。例えばコペルニクスやガリレオ、ダーウィンの理論は、既存の宗教概念に基づく宇宙観・自然観に挑まなければ成立しなかっただろう。そしてこうした研究は、科学という領域のみならず社会全体に大きな影響を及ぼし、宗教理論優先の世界観やそれに基づく社会ヒエラルキーを根底から覆すことになる。しかし 20 世紀に入り、科学に基づく近代思考をベースとする政治制度が誕生しても、社会組織のあり方や進化の方向性を巡る価値観の対立はなくならなかった。第二次世界大戦後に植民地支配から脱却した国々が思想的ベースを模索する中、共産主義国と資本主義国の間で繰り広げられた冷戦は世界全体に拡大していく。奴隷制廃止から植民地主義の終焉、女性参政権や公民権運動まで、近代史に見られる社会運動の多くは、社会のあるべき姿を巡る対立から生じたものだ。

    フランシス・フクヤマ氏は 1989 年に発表された著書『歴史の終わり』の中で、民主主義の勝利を宣言し、政治体制としての耐久性と弾力性を高く評価した。理想的社会と呼べるかはともかくとして、民主政治は不完全なシステムの中における最良の選択肢と言える。欧州連合(EU)

    これまでの長い歴史のなかで、人類の関心は常に食料・住居・自然災害など生死に直結する問題へ向けられてきた。しかし農業革命から産業革命を経て、ポスト産業革命の時代を迎え、社会と文明が進化を遂げるにつれ社会の理想像にまつわる問題―社会の組織化やウェルビーイング * 実現に向けた責任分担、富の分配のあり方など―が市民生活や経済・政治活動の中で重要な部分を占めるようになったのだ。社会の理想像という言葉には、町づくりや子供の教育、科学の進歩やグローバル組織構造といった様々なテーマが含まれている。『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』と『ホモ・デウス : テクノロジーとサピエンスの未来』の著者である歴史家 ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「人類の歴史と未来は、今我々が紡ぎ出す物語を軸に成り立っている」と述べている。そして紡ぎ出される「物語」には、現代に生きる我々の価値観や理想、そして社会への期待が大きく関わっているのだ。

    啓蒙主義からフランス革命、そして近代科学や20 世紀の好戦的イデオロギー誕生まで、近代という時代は社会観の対立を経ながら形作られてきた。そして社会の理想像というテーマは、その中で常に議論の対象となってきた。例えばフランス革命は、宗教的権威や封建制度を打破し、世俗的

    *ウェルビーイング

    身体的・精神的・社会的に良好な状態にあること

  • 5© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    1 http://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/102425899600200206?journalCode=trsa2 https://www.ipsos.com/en/what-worries-world-march-20183 http://www.afrobarometer.org/data4 https://www.dw.com/en/democracy-in-latin-america-is-on-the-defensive/a-19526469

    が適切な経済運営を行っていると考える調査対象者はわずか 38%にとどまった 3。またある大手メディアの調査では、政府のガバナンス欠如を背景に、ラテンアメリカ諸国における民主主義体制への支持低下が明らかとなっている 4。

    政府の信頼低下が見られるという点では先進国も変わらない。「政府機関への信頼低下は、OECD 加盟国・非加盟国の両方で過去 10 年以上にわたって見られる現象だ。特に若者世代の間では、その傾向が顕著になっている」と指摘するのは OECD の公共ガバナンス担当ディレクター Marcos Bonturi 氏。その背景となる要因は国によって様々だが、世界金融危機後の景気低迷が大きな影響を与えているのは確かだ。危機の影響が特に大きかった国々(例えばスペイン・ポルトガル・ギリシャなどの南欧諸国)では低下傾向が著しい。政府への信頼や社会全体に対する楽観姿勢は、その時々の状況によって絶え間なく変化するものだ。OECD 公共ガバナンス評価部門 統括副責任者 兼 オープン・ガバメント部門 統括責任者の Alessandro Bellantoni 氏によると、汚職スキャンダルなどは特に大きな影響を及ぼすという。だが、政府機関への不信感がこうした要因により生じた一時的現象でないことは、上述の調査結果が物語っている。

    一方、調査結果の中には(特に今後の展望について)市民の楽観ムードを示すものもある。例えば 2017 年に実施されたある調査では、「今行動を起こせば気候変動の問題に対応可能だ」と

    や国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)などの組織が象徴するように、その価値観と原則は国際社会体制の最終発展型になったというのが同氏の議論だ。個人主義や自由主義を重視する英米モデルから、コンセンサスと共同体全体の繁栄を志向する欧州諸国の「ライン型資本主義」まで、厳密に言えばニュアンスが若干異なる部分もある 1。しかし、1990 年代にワシントン・コンセンサスが世界各国の経済改革の指針となったことは、こうした見方の正しさを裏付けるものと考えられた。

    だが同氏の予測に反し、その後数十年を経た世界は大きな岐路に立たされている。アジア諸国は独自の社会・経済モデルをベースに経済的繁栄を実現。一方で、2016 年に英国で実施されたEU 離脱をめぐる国民投票や米国大統領選挙など、欧米諸国では主要政党が選挙で予想外の敗北を喫している。新興国のみならず、先進国でも社会のあるべき姿や改革の方向性にまつわる見解の対立が深刻化しているのだ。

    市民の視点これまで実施されてきた多くの調査からも明らかなように、世界規模で見られる対立・分断の一因となっているのは「不安感」だ。Ipsos Moriが最近実施した調査では、自国が「進むべき道を誤っている」と考える回答者が 58%に上っている 2。Afrobarometer が活動拠点とするアフリカ諸国で実施した世論調査によると、自国政府

  • 6 © The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    調査結果の概要

    国家の現状 ● 「今の社会運営のあり方に満足している」と答えた回答者は、わずか 29%にとどまって

    おり、「社会がもたらす恩恵に満足している」とした回答者も半数を下回った(43%)。これは近年実施された他の調査でも見られる傾向だ。

    ● 市民にとって最大の不安要因は経済的機会だ。「満足していない」と回答した者は全体の 34%に達した。2 番目に回答者の多い不安要因は医療で、その割合は 30%に上っている。

    ● 自国の現状について前向きな回答者が最も多かったのは中国(70.2%)で、タイ(54%)やエチオピア(54%)でも半数を上回っている。一方、ナイジェリア(80%)・ペルー

    (76%)・イタリア(76%)・ロシア(68%)・コロンビア(66%)・ハンガリー(62%)といった国々では、自国の現状に不満を持つ回答者が大きな割合を占めた。

    将来の展望 ● 世界全体・自国の将来については、楽観的な見方が目立った。「人類が全体としてより

    良い方向へ進んでいる」という記述では、同意する回答者と同意しない回答者が共に34%に上った。「自国が良い方向へ進んでいる」という記述については、同意した回答者(40%)が同意しなかった回答者(35%)を上回っている。

    ● 自国が「より良い社会の実現に向けて前進している」と考える回答者は 40.5% に達し、社会の行方に悲観的な回答者は 21.4% にとどまった。

    ● 「今後 10 年で自国がより良い社会へ前進する」という記述に同意する回答者が最も多かったのは中国(91.4%)で、悲観的な回答はわずか 3.3% にとどまった。オーストラリア(67.3%)や韓国(69%)でも楽観的な回答者が多く見られる。逆に悲観的な回答が多かったのは、ドイツ(47%)・スウェーデン(44%)・日本(44%)・ハンガリー

    (40%)といった国々だ。

    ● 将来的動向に関する回答傾向は、年齢層によって大きく分かれた。「人類がより良い社会へ前進している」という記述に同意した回答者は、ミレニアル世代(1981 〜 2000年生まれ)で 50.7% を占める一方、X 世代(1965 〜 80 年)とベビーブーム世代(1946〜 64 年)ではそれぞれ 44%・28.7% と低調だった。また「社会の進歩が大きな恩恵をもたらす」と考えるミレニアル世代は、ベビーブーム世代の 3 倍以上に達している。

  • 7© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    5 https://www.climateoptimist.org/wp-content/uploads/2017/09/Ipsos-Survey-Briefing-Climate-Optimism.pdf6 https://www.forbes.com/sites/niallmccarthy/2018/01/19/the-countries-most-optimistic-about-2018-infographic/#6e9db6a032a17 https://content.lifeisgood.com/7-surprising-results-national-optimism-survey/

    考える回答者が 64%に上っている(「今からでは遅すぎる」とした回答者はわずか 11%)5。また国レベルで見ると、自国の先行きに関する楽観的傾向が目立つ。ある調査では、2018 年の見通しが 2017 年よりも明るいと答えた対象者が、ペルー(93%)・コロンビア(93%)・中国(88%)・インド(87%)などで圧倒的多数を占めた 6。自国(あるいは世界)の現状を悲観しながらも、先行きについては明るい見通しを示した調査は数多く見られる。例えば、米国で実施された調査では、世界の現状を悲観する回答者が 54%に上る一方、将来を楽観視する回答者は 86%に達した 7。

    結果がどのようなものであれ、世論調査はステークホルダー(政府・非政府機関・民間企業・市民社会)が相互理解を深める手段として極めて重要だ。現代の世界では、ソーシャルメディアや携帯電話、インターネットの普及により、様々な調査が可能となっている。こうした調査は、社会の世相を把握し、自らに影響を及ぼす議論や意思決定への市民参加を促す手段として有効だ。市民の期待・ニーズを反映した政策やプログラム、科学研究の実現にも大きな役割を果たすだろう。

    社会は市民のニーズにどの程度応えているのか、そして市民は自国の進むべき方向性をどう考えているのか?ザ・エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)は、50 カ国 3,221 名を対象とするアンケート調査と、世界各国の専門家への聞き取り調査を実施した。その目的は、各国市民が自国の進歩についてどのような見方をしているのか、社会の理想像にどの程度近づいているのか、世論と市民の環境を左右する意思決定に影響を与える要因は何か、といった点を考察すること

    にある。GDP などのマクロ経済指標では評価が難しい、市民の主観的ウェルビーイングの理解が求められる今、こうした視点からの分析は極めて重要な意味を持つだろう。

    市民と進歩の担い手

    各国市民が自国の将来を考える際に判断基準としているのは物質的側面だけではない。公平性や社会とのつながり、存在意義、社会の目的、自立性といった要因も極めて重要だ。例えば、所得水準や政治参加の度合い、人生の中で享受する機会

    (life chance)といった面での不平等はその一例で、無力感や疎外感につながりやすいだけでなく、市民のウェルビーイングに複雑な悪影響を及ぼす恐れがある。

    こうした問題への対応には、絶対的貧困の撲滅という枠組みを超えた取り組みが求められるだろう。現代社会は歴史上最も物質的に恵まれた状態にある。数百万人規模の人々が貧困から脱却し、医学の進歩により幼児死亡率も急速に低下。伝染病の多くは治癒可能となり、生命を脅かすものではなくなりつつある。HIV・エイズといった致死病も、今では病状の進行を抑制できるようになった。またイノベーションやテクノロジーの進化(特に携帯電話やインターネットの普及)を背景に、世界規模で所得拡大が進んでいる。スティーブン・ピンカーやハンス・ロスリングといった歴史家は、現代を史上最も暴力と困窮が少ない時代と位置付けた。ロスリング氏は著書『Factfulness』の中で過去と現在の状況をデータ比較し、現代人の悲観的傾向や先行き不安感が誤った認識に基づくものであると論じている。

  • 8 © The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    楽観的傾向が目立つ新興国

    今回の調査では、アジア・アフリカの新興国が OECD 加盟国よりも楽観的な傾向を示している。

    ● 自国の現状に満足する回答者がヨーロッパ諸国で22%、南北アメリカで18.8%だったのに対し、アジア太平洋とアフリカ・中東ではそれぞれ 40.6%・33.1% に上った。

    楽観的傾向の目立つアジア諸国

    図表 1 自国がより良い社会へ前進していると考える回答者の割合

    図表 2 自国の教育機会に不満を持つ回答者の割合

    米国 38%

    ドイツ 12%

    イタリア 12%

    ベトナム 

    中国

    インドネシア

    72%

    83%

    78%

    ヨーロッパ 20%

    アジア・太平洋 17%

    南北アメリカ 33%

    アフリカ・中東 8%

  • 9© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    8 http://worldhappiness.report/

    こうした流れを背景に、研究者は人々の充足感や幸福感を左右する様々な要因に目を向けるようになった。『World Happiness Report』8 の編集を手がけた John Helliwell 氏によると、経済専門家や政府関係者は、社会進歩やウェルビーイングの評価指標としてのマクロ経済データに限界を感じているという。「前向きな社会的つながりや社会の存在意義・目的、他者との関わり、日常生活で感じる“流れ”、回りの環境に対する信頼感といった要因はどれも重要だ」と同氏は指摘する。「道で財布を落としたときに近隣住民が届けてくれるか。役所の係員は親身になって助けてくれるか。あるいは書類を突き出して、なるべく早く追い返そうとするか。こうしたミクロな側面が日常生活の中で意味を持つことはいうまでもない。しかし、より根源的な指標として大きな重要性を持つことはあまり理解されていない」

    近年では政府機関も、主観的ウェルビーイングや幸福感といった概念への関心を高めている。国民総幸福量(Gross National Hapiness = GNH)という考え方が第 4 代ブータン国王によって提唱されたのは 1970 年代のことだ。それ以来、量的かつ厳密に(そして主観・客観両方の見地から)ウェルビーイングを評価するための研究が進んでいる。GDP・所得といった大まかな基準よりも、社会の健全性を明確に評価できるからだ。例えば英国政府は 2010 年以降、ウェルビーイングに関するデータを公式の評価基準として収集。アラブ首長国連邦(UAE)政府も、幸福大臣(Minister of Happiness)という閣僚ポストを設けている。市民のウェルビーイング、あるいは個人と社会の優先課題が合致しているかといった側面の評価に必要なのは、政府機関の取り組みだけではない。

    市民がどのような社会を理想と考えるか、そしてその実現に何が必要なのかを、詳細にわたって検証する必要があるのだ。

    ウェルビーイングや幸福感の実現には、政府の積極的な関与が欠かせない。市民自体が、政府を社会進歩の重要なけん引役とみなしているからだ。今回 EIU が実施した調査では、最も重要な存在として政府を挙げる回答者が 68.4% に上った。続いて割合が多かったのは、家族(51.8%)と地方自治体(32.9%)で、民間企業や NGO を挙げる回答者は、それぞれ 15.4%・8.4% にとどまっている。社会進歩の担い手として家族を挙げる割合が低かった国々(韓国・スウェーデン・中国など)で、政府を最も重要と考える傾向が顕著に見られたのは興味深い(次ページ図参照)。

    社会変革・進化の最も重要な担い手として民間セクターを挙げる回答者は全体として少なかったが、結果を世代別に見ると微妙な差が見られる。企業を最も重要な担い手として挙げる回答者は、ミレニアル世代で 20.3% と、X 世代(18.5%)、ベビーブーム世代(18.6%)、サイレント世代

    (19.5%)よりも若干多かった。また政府を挙げるミレニアル世代の回答者は 63.3% で、X 世代

    (71.7%)やベビーブーム世代(72.1%)よりも少ない。サイレント世代 * ではさらに低く 61%となっている。一方、地方自治体と国際機関を挙げるミレニアル世代の回答者は 35%・18.7%で、いずれも X 世代(33.1%・12.6%)とベビーブーム世代(29.4%・14.1%)の割合を上回った。若者世代は新たな社会変革の推進役を求めており、必ずしも中央政府の役割を重視していないようだ。

    *サイレント世代

    1924〜42年生まれの世代

  • 10 © The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    コロンビア 74%

    フィリピン 70%

    ブラジル 69%

    モロッコ 68%

    韓国 21%

    スウェーデン 24%

    中国 12%

    スウェーデン 94%

    韓国 92%

    中国 88%

    モロッコ 46%

    南アフリカ 36%

    スイス 34%

    図表 3社会進歩の担い手として家族を 1・2 番目に挙げる回答者が多かった国(同意した回答者の割合・%)

    図表 4社会進歩の担い手として政府を1・2 番目に挙げる回答者が多かった国(同意した回答者の割合・%)

  • 11© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    9 https://www.ilo.org/public/english/protection/download/lifecycl/lifecycle.pdf

    1:市民と社会の課題

    政府の重点的な予算配分分野として、最も多くの回答者が挙げたのは医療だ。回答者が医療分野に配分した予算割合の平均値は 17% で、社会的保護・教育分野は 15.8% を占めた。国別に見ると、医療を最も重視するのはハンガリーとポルトガルで、三大優先課題の一つに同分野を選ぶ回答者はそれぞれ 80%・78%に上っている。また今回の調査では、自国の医療サービスに不満を持つ回答者が多く見られた(特に北米・南米)。医療の質向上を今後 10 年間の最重要課題と考える回答者は全ての地域で半数を上回っており、アフリカ・中東では特にその傾向が顕著だ(表 5 参照)。

    医療の質向上が重視されるのはある意味当然のことだが、ひとえに医療といっても各国が置かれた状況は大きく異なる。例えば、英国では公的医療制度が幅広い支持を得る一方、米国では公的機関が医療に果たす役割に関する根強い意見対立があり、党派間の論争が改革の足かせとなっている。

    現代社会は、医療・平均寿命といった分野で目覚ましい進歩を遂げつつある。例えば今日産まれた乳児は、(一部地域を除けば)歴史上最も長い寿命を期待できる。小児麻痺や天然痘、インフルエンザ、マラリアなど、かつて高い致死率を誇った疾病は根絶、あるいは治療法・ワクチンが確立され、水道インフラの整備も世界規模で進みつつある。だがその一方で、新たな健康問題が深刻化している。糖尿病・ガン・心血管疾患といった非感染性疾患(いわゆる「贅沢病」)の先進国における蔓延はその一例だ(伝染病・熱帯病が並行して蔓延している国も見られる)。また精神疾患や自殺、不安障害なども、特に若者世代で拡大している。米国における麻薬・薬物乱用や自殺の増加は、物質的豊かさが必ずしもウェルビーイングにつながらないことを象徴する事例だ。

    経済自由主義の生みの親 アダム・スミスは、「市民の大半が貧困・困窮状態にある社会では、繁栄と幸福は保証されない」と論じた。この言葉が示すとおり、小さな政府を志向する経済的自由主義でも、社会的保護は不可欠と考えられている。社会的保護という言葉に、政策として世界共通の概念があるわけではないが、国際労働機関(ILO)は、

    「市民やその家族が脆弱な状態や不測の事態から守られ、医療へのアクセスや安全に労働へ従事できる環境が確保された状態」と定義している 9。

    EIU による今回の調査でも、全世界の回答者が社会的保護を最優先課題の一つとして挙げた。

    ヨーロッパ 55%

    アジア太平洋 57%

    南北アメリカ 48%

    アフリカ・中東 62%

    図表 5医療の質向上を今後 10 年間の最重要課題と考える回答者の割合(地域別)

  • 12 © The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    行方を左右するわけではない。「世論が常に正しいとは限らないし、政治家が必ず世論に従うべきだとも思わない。しかし世論調査を行えば、リーダーシップの発揮やさらなる議論、客観的な報道を通じたイメージ・情報の訂正が必要な分野を把握することができる。世論調査のメリットは、政治的議論に参加することの少ない人々に意見表明の機会を与えることだ。あらゆる問題についてあらゆる国民の声を反映させるのは不可能に近い。しかし世論に一定の敬意を払い、政策決定の判断材料にすることは重要だ」と同氏は指摘する。だが今日のメディアを取り巻く状況により、こうしたアプローチの実践はますます困難になっている。

    「大量のニュースがリアルタイムで流れてくる現代社会で、複雑な問題を深く考えるのは非常に難しい」

    多くの専門家が指摘するように、適切な情報に基づいた国民の対話を妨げる要因は他にもある。例えば暴力・安全問題のニュースは、人々の恐怖心に訴えかけ、メディアや警備産業の利益につながるような形で誇張されることがある。ロッテルダム経営大学院 組織行動・文化担当教授で公共安全の専門家 Gabriele Jacobs 氏は、「人々の不安感を煽る方が、その逆よりも利益につながりやすい」と指摘している。

    米国では政治的動機を背景とした政策介入に注目が集まりたちだ。しかしカイザーファミリー財団のエグゼクティブ・オペレーション担当シニア・ヴァイス・プレジデント Mollyann Brodie 氏によると、各党派の考え方には共通点も見られる。その一例として同氏が挙げるのは、オバマケア(患者保護並びに医療費負担適正化法)を巡る全国規模の論争だ。当初、共和党支持者の間では、同法案の廃止に幅広い支持が集まった。しかし「(共和党が)示した代替案には支持者が重視する多くの項目が含まれておらず、国民生活に及ぶ実践面での影響が浮き彫りとなった。その後すぐに国民の間で反対の機運が高まり、議会での否決につながった」という。同氏の言葉を借りれば、オバマケア廃止を訴える有権者の多くは、自らに及ぶ影響を悟って意見を変えたのだ。英国ヨーク大学疫学部の Kate Pickett 教授によると、社会政策の調査でも同様の現象が見られることがある。「スウェーデンに住みたいかと単純に質問すれば、多くの米国人は「社会主義的な国には住みたくない」と答えるだろう。しかし、富の配分を視覚的に表した図を見せながら同じ質問をすると、90%の回答者がスウェーデンを選ぶ」という。

    しかし Brodie 氏が指摘するように、医療といった複雑な政策分野では、世論調査だけが議論の

  • 13© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    不平等:現代最大の課題

    これまで健康やウェルビーイングは、予防接種や乳幼児死亡率、水道インフラなど基本的物質ニーズを満たすことで向上すると考えられていた。そして物質面の充実度にかかわらず市民のウェルビーイングに複雑な影響をもたらす不平等の問題は、ともすれば軽視されがちだった。

    不平等が健康やウェルビーイングに与える影響は 1970 年代から研究対象となってきたが、市民の大きな関心事となったのは過去 10 年のことだ。ヨーク大学の Kate Pickett 教授によると、「この問題への関心が急速に高まったのは金融危機以降のことだ」という。「今ではIMF・世界銀行・世界経済フォーラム・国連といった様々な組織で取り上げられ、持続可能な開発目標(SDGs)の 1 つとなっている」

    不平等がもたらす影響が社会面のみならず経済面にも及ぶことは、多くの研究者が指摘している。前出 Prickett 教授との共著「平等社会(The Spirit Level)」(2009 年)・「The Inner Level」(2018 年)で不平等と健康・社会状態との関係を検証した英国ノッティンガム大学社会疫学部 名誉教授 Richard Wilkinson 氏はその1人だ。同氏によると、「不平等は経済成長に負の影響をもたらす」という。「(不平等は)社会的流動性や子供の学力低下、服役囚人・精神病患者の増加にもつながり、人材の有効活用という意味でも大きな損失となるだろう」と述べている。

    社会とのつながりや関連性がウェルビーイングに重要な影響をもたらすことは、近年行われた多くの研究で明らかになっている。今回のアンケート調査では、不平等解消に向けた政策と個人・集団の優先度に関する質問が設けられた。「理想的な社会実現のため市民全体のニーズが個人のニーズに優先されるべき」という記述に同意した回答者は全体の 59.5% に上っており、特にアフリカ・中東ではその傾向が顕著に見られる(65.2%)。一方、この記述に「同意しない」あるいは「全く同意しない」回答者は、世界全体でそれぞれ 16.3%・5.6%にとどまった。

  • 14 © The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    不平等の問題を重視する傾向は、その他の質問事項でも明らかになっている。今後 10 年間の優先課題となる社会・経済的目標に関する質問では、社会的保護を三大優先課題の一つに挙げる回答者が 55.9% に上った。次いで割合が多かったのは、医療の質・アクセスと教育で、それぞれ全体の 55%・50.6% を占めている。

    個人生活に影響を与える最大の要因として挙げられたのは医療の質向上(55%)で、社会的保護を選ぶ回答者も 51.4% に上った。今後 10 年の優先課題として社会的保護を挙げる回答者が特に多かった国は、ドイツ(72%)・中国(70.2%)・カンボジア(68%)・デンマーク(68%)などだ。

    不平等の解消と公正な社会の実現にまつわる議論では、企業が果たす役割も重要となる。企業は雇用の大部分を占めており、その従業員は1日の大半を労働に費やしているからだ。企業の行動は文化や業務といった側面で、市民のウェルビーイングに複雑な影響を及ぼす。例えば、役員報酬制度やダイバーシティ(雇用の多様性)は、社会の平等や理想像に深く関わる問題だ。ギグ・エコノミーの拡大が労働者の搾取につながりかねないとして各国政府が懸念を表明していることも、企業が市民生活に与える影響を端的に示している。だが企業は、革新的取り組みを通じて社会平等の実現に貢献することもできる。英国の小売りチェーンJohn Lewis が実施する、従業員による企業共同所有の仕組みはその良い例だろう。

    ヨーロッパ 51%

    アジア太平洋 64%

    南北アメリカ 61%

    アフリカ・中東 65%

    図表 6理想的な社会実現のため、市民全体のニーズが個人の自由に優先されるべきだ(地域別)

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    10 http://www2.itif.org/2014-federally-supported-innovations.pdf11 http://www.simonandschuster.com/books/The-Innovators/Walter-Isaacson/978147670870612 https://www.jstor.org/stable/40722165

    2:科学・テクノロジーと今後求められるスキル

    市民は常に科学の発展を支持しているわけではない。税金が使われる場合は特にそうだ。「政治家の演説の中で、どれだけの時間が科学研究というテーマに費やされているか考えてみるといい。政治家はこの問題が地元有権者の最優先課題でないことを理解している。科学の価値が高まるのは、重要課題への対応策が提供された場合だ」と指摘するのは、非営利組織 Science Counts エグゼクティブ・ディレクターの Edward Volpe 氏。

    科学がもたらす価値に関する市民の意見は重要だ。暗号解読機からインターネット、マラリアをはじめとする伝染病の治療薬開発まで、公的資金は常に技術進歩の牽引役となってきたからだ。現代人の生活の中で日常的に利用されるテクノロジーも、政府主導の(あるいは軍事開発)プロジェクトを通じて生み出されたものが少なくない。レーダーや電子機器、ジェット機、原子力、GPS、インターネットなどは全て、米国政府や公的研究機関の研究プロジェクトによって開発されたものだ 10。 Walter Isaacson 氏は、著書『The Innovators』の中で、産官学連携による研究がテクノロジーの進化や米国歴代政権の基盤としていかに重要な役割を果たしてきたか論じている 11。 また Ha-Joon Chang 氏や Mariana Mazzucato氏などの専門家が指摘するように、政府機関は東アジアをはじめとする他の地域でも、研究開発や技術イノベーションのけん引役となってきた 12。

    人類の進化の歴史は、常に「ものづくり」とともにあった。人間と動物の区別を工作と結びつけて考えるホモファベル(homo faber = 工作的人間)という言葉もこうした背景から生まれてきたものだ。人間が火打石を使うことを学んでから数百万年。現代テクノロジーは、1980 年代のスーパーコンピュータ並みの能力をスマートフォンという形でポケットに収められるところまで進化している。IoT(モノのインターネット)が都市や住宅、オフィスで普及するにつれ、AI やユビキタスセンサーも人々の生活へ急速に浸透しつつある。今後 2 〜 3 年で 5G(第 5 世代移動通信システム)が実用化されれば、デジタル化と情報社会の流れはさらに加速するだろう。

    科学技術は、常に社会の価値観・理想と表裏一体の関係の中で進化を遂げてきた。科学革命から啓蒙主義の時代まで、先進的知識人たちは思想家であると同時に急進的な革命家であった。ガリレオやコペルニクス、ニュートン、ダーウィンは、ヨーロッパ社会の根底に流れる宗教的価値観に疑問を呈し、人類が道具を使い自然を作り変えていくという現代世界の価値観の基礎を築いた。

    だが市民は科学やテクノロジー、研究開発をどの程度重視しているのだろうか。日常レベルでその恩恵を感じ、科学研究に公的資金が投入されるべきだと考えているのか。専門家によると、現代

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    科学とテクノロジー:アンケート調査結果の概要

    ● 研究開発を今後10年間の三大優先課題として挙げた回答者の割合は16.3%にとどまっている。

    ● 政府の予算配分に関する質問では、北米・南米の回答者による科学・テクノロジー研究開発への配分が全体の 9.8% と最も低い。アフリカ・中東とアジア太平洋地域の回答者はそれぞれ 11.8%・11.7% を配分している。

    ● 回答者はテクノロジー全般について前向きなイメージを持っている。「テクノロジーは社会に変革をもたらしてきた」という記述に同意する回答者が 60%に達する一方、同意しない回答者は 14%にとどまっている。将来的な社会の進歩にテクノロジーの役割を期待する回答者も 59%に上っており、期待しない回答者は 14%にとどまった。

    「テクノロジーが自らの生活向上に役立っている」という記述でも、同意する回答者(68%)が同意しない回答者(8%)を大きく上回っている。

    ● 研究開発を今後 10 年間の三大優先事項の一つとする回答者が最も多かったのは、デンマーク(30%)・ナイジェリア(36%)・エジプト(28%)といった国々だ。

    ● 自らの生活にテクノロジーがもたらす影響については、全ての年齢層で同様の回答傾向が見られる。「テクノロジーが自らの生活向上に役立っている」という記述に同意した回答者は、ミレニアル世代で 45%、X 世代で 45.4%、ベビーブーム世代で 41.1%、サイレント世代 * で 39%となっている。一方、この記述に「強く同意」したミレニアル世代の回答者は 30.3% と、他の世代(それぞれ 23.2%・18.5%・12.2%)よりも多い。「テクノロジーが将来的な生活向上に役立つ」という記述についても、「強く同意」するミレニアル世代の回答者が 35.9% と最も多く、その他世代ではそれぞれ 26.4%・20.2%・22%にとどまった。

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    に好意的な教養層・富裕層であっても支持低下につながる恐れがある。

    「科学研究を、国の競争力とは関連の低いグローバルな活動と捉える人もいる。仮に中国の科学者がガンの治療に成功すれば、世界中の人々にとってプラスになるという考え方だ。例えば、教育水準の高い進歩的リベラル層は、科学研究を国家間の競争ではなく世界の進歩の実現手段と捉える傾向が強い。競争という切り口でコミュニケーションを図れば、科学研究に好意的なこうしたグループの興味を失わせてしまう」と Volpe 氏は指摘する。

    科学研究に対する一般市民の支持が重要なのは、政府支援の拡大につながるからだけではない。倫理面で複雑な影響を及ぼす AI や遺伝子操作といった分野で、有効な政策的フィードバックとなるからだ。英国の慈善団体 Nesta のイノベーション部門 主任研究員 Tom Saunders 氏によると、科学研究への支持を広げるためには、市民にとって「科学」と「テクノロジー」のどちらが重要かといったテーマよりも、実践的な活用事例に焦点を当ててコミュニケーションを図る必要があるという。

    「一般市民に「AI をどう活用すべきか?」あるいは「医療分野で意思決定の自動化をすすめるため、機械学習をどう利用すべきか?」といった質問を投げかけた場合、返ってくる答えには微妙なニュアンスが含まれている。リスクの低い領域では活用に前向きでも、高い領域では消極的なことが多い。また人間の担当者による医療サービスを

    「現代科学が抱える最大の問題は、科学研究に果たす政府の役割や資金援助に占める割合がごく小さなものであるという誤解が定着していることだ」と語るのは Volpe 氏。「我々の調査によると、科学研究に政府支援が不可欠だと考える米国人は4人に1人だ。つまり4人のうち3人は、政府支援がなくなっても企業や NGO、起業家が穴埋めできると考えていることになる。これは全く事実に反する見方だ」

    こうしたイメージが根強い理由の1つは、科学技術の担い手として企業が役割を拡大していることだ。スマートフォンやビッグデータ、電気自動車、自動運転など、現代人の生活に変革をもたらしたイノベーションの多くは、市場競争の中で民間企業が生み出したものだ。しかしここで留意すべき点がある。それは、これらの技術が政府支援を受けた基礎科学領域のイノベーションによって成り立っているという事実だ。政府は助成金や研究開発支援といった分野でも極めて重要な役割を果たしている。企業と政府がこうした形で連携を図ることは、科学技術の進歩に不可欠な要因なのだ。

    求められるコミュニケーション力

    Volpe 氏によると、科学研究への支持を広める上で鍵を握るのは、コミュニケーションだ。例えば、障害者コミュニティに対しては、科学が身近な問題の解消に役立つことを伝えるべきだ。コミュニケーションがターゲット層の価値観に沿ったかたちで行われなければ、たとえその対象が科学研究

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    策を推進する上で、こうした取り組みは極めて重要だ。「英国政府は、倫理的な AI の活用で世界をリードすることを目指している。そのためには一般市民との対話が不可欠だ。専門家だけで議論を重ねても、この目標は達成できないだろう」

    新興国とテクノロジーの進化

    科学技術の進歩を、欧米諸国がリードする時代は過去のものとなっているった。多くの新興国は、独自の社会観に基づいたイノベーションや科学技術の推進に取り組んでいる。特にインド・中国といった国は、AI やデジタル・テクノロジー分野で競争力の高いエコシステムを構築しており、その他の国々も科学分野で着実に地歩を築きつつある。例えばフィリピンは、農地の監視や人道的危機への対応を視野に入れ、独自の宇宙開発プログラムを進行中だ。一方アフリカ諸国は、飛躍的イノベーションを通じてインフラの不備がもたらす制約を克服しつつある。Vodafone とSafaricom の連携により、ケニアで 2007 年にスタートしたモバイル送金サービス M-Pesa(エムペサ)はその一例だ。光熱費の支払いから農業生産者向け気象情報まで、同地域では携帯電話を活用したサービスが急速に広まっている。「我々は携帯電話やノートパソコン、インターネットの利用動向を継続的にフォローしている。分析を開始して以来、携帯電話の契約者数は急速に増加しつつある。通話以外の用途も増えており、南アフリカ・ケニア・ナイジェリアでは特にその傾向が顕著だ」と語るのは、Afrobarometer 共同創業者の E Gyimah-Boadi 氏。

    重視する一方、医療システム上で個人情報が共有されていてもあまり意に介さない。そういうことには慣れているからだ」

    Saunders 氏によると、研究が現在進行中の場合、技術的に複雑な重要分野(例えば量子コンピューティング)で一般市民の支持を拡大するのは容易でない。そのため政府や研究機関などのステークホルダーは、コミュニケーション戦略に工夫を凝らす必要がある。「例えば、聞き取り調査やチェックリストによるアンケート調査、研究完了後のヒアリングといった形で一般市民の関心を高めることができる」と Saunders 氏は指摘する。「研究プロセスの早期段階で、(医療分野での AI 活用などに関する)新たな助成プログラムの担当閣僚、あるいは企業関係者・資金提供者・規制当局などと関わるかもしれない。だが一般市民がこうしたプロセスに関与することはほとんどない」

    アンケート調査からフォーカスグループまで、科学政策に対する一般市民の関心を高める方法はいくつかある。しかしどの方法にも、選択バイアス * などの問題を回避し、多様な意見を反映させるという課題がつきものだ。Saunders氏は現在、政府や科学分野の NGO との対話を進めている。幅広い市民コミュニティに目に見える成果と参加意義を提供し、魅力向上につながるような革新的コミュニケーションを模索するのが狙いだ。「現在、科学技術分野への一般市民の関心を高める創造的アプローチを模索しているところだ。例えばゲームや小説、アートやデジタルメディアなどの活用が検討されている」と同氏は語る。政府が AI といった分野の自然科学政

    *選択バイアス時間・リソース・思考などに関して特定の傾向を持つ集団を調査対象として選択すること。

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    13 https://www.bloomberg.com/view/articles/2018-04-19/independence-day-israel-s-first-70-years-surprised-the-world14 https://dkf1ato8y5dsg.cloudfront.net/uploads/5/80/worldwide-educating-for-the-future-index.pdf

    削減を実現したフィンテック企業 Transferwiseはその一例だ。同国は公共セクターによる先進テクノロジー活用(分散台帳技術[DLT]など)も進んでおり、デジタル公共サービス(電子政府)は世界トップクラスの効率性と有効性を誇っている。

    こうした国々のように科学技術を活用するためには、教育システムを整備し、高いスキルを備えた人材を長期的視野で育成することが重要だ。また教育システム改革は、個人の可能性を広げ、経済全体の活性化を促すためにも不可欠だろう。質の高い教育機関・医療や世界有数のインフラを実現し、国全体にプラスの循環を生み出せば、長期間にわたり科学技術大国としての地位を確立できる可能性が高い。

    こうした点を考えれば、教育の質が社会の健全性や進歩の度合いに関する市民のイメージに影響を与えるのは当然のことだ。国・個人レベルで教育の質を評価する目安としては、OECD の「生徒の学習到達度調査(PISA)」をはじめとするランキングやベンチマーク調査が有効だろう。テクノロジーが急速に進化する中で、教育システムが長期的視点でスキル獲得機会を提供しているかという部分に焦点を当てた指標もある。Yidan Prizeによる協賛の下、2017 年に EIU が実施した調査はその一例だ。学際的知識・創造・分析・起業・リーダーシップ・デジタル・技術・グローバルな視野・市民教育といった重要スキルの習得機会について 35 カ国を分析した同調査 14 では、ニュージーランド・カナダ・フィンランド・スイス・シンガポールがトップ5カ国に選ばれている。

    今回の調査では、新興国の多くでテクノロジーを好意的にとらえる傾向が見られた。特に社会の進歩に与える影響と将来的な期待という面では、先進国よりも楽観的な見方が目立つ。例えば、

    「テクノロジーは社会を良い方向に変えた」という記述に強く同意する回答者は、タイ・ベトナムで 32%、南アフリカで 38%、インドネシアで34%に上っている。カナダ・ドイツ・韓国といったテクノロジー先進国の結果(それぞれ 5.7%・6.9%・11%)と比較すると、その差は明らかだ。

    将来的に求められるスキル知識集約型の経済が世界規模で拡大する中、科学技術は個人・国家の経済的成功を大きく左右する要因となっている。天然資源に乏しい国や人口規模の小さな国には、経済成長の牽引役として STEM(科学・技術・工学・数学)分野に力を入れるケースが目立つ。例えばエストニアとイスラエルは、研究開発分野に重点的な投資を行っている国だ。また両国は教育システムにも力を入れており、経済・地理・人口の規模以上の高い国力を誇っている。イスラエルは、Nasdaq 上場企業が米国に次いで2番目に多い国だ。「スタートアップ大国」として知られる同国は、Waze やMobileye といった世界的企業を輩出し、AI やデジタル・テクノロジー、サイバー・セキュリティ、医薬品などの分野でリーダー国としての地位を確立している 13。 一方エストニアは、わずか 100万人超という人口規模にもかかわらず、世界有数のテクノロジー企業を生み出している。インターネット通信の世界で革命を起こした Skypeや、国際通貨市場で情報フローの透明化やコスト

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    教育システム:危機感がもたらす改革の機会

    世界では教育システムの質を理解する手段として、国際レベルのランキング調査が数多く実施されている。OECD が実施する「生徒の学習到達度調査(PISA)」は、その中でも知名度の高い調査だ。3年に1度開催される同調査は、世界各国の15才の学生を対象に、科学・数学・国語・共同問題解決・金融リテラシーの5分野でスキルと知識を評価するものだ。その他にも「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)」など、より焦点を絞った調査が行われている。

    教育の質に関するランキング調査は、(特に順位が低下した国で)国民的議論の引き金となることが多い。「TIMSS が実施された際、ドイツ人は自国がトップレベルにあると固く信じていたが、結果は期待を大きく下回るものだった。その後ドイツでは国民の懸念が高まり、教育システムの抜本的改革につながった」と語るのは、The National Center on Education and the Economy(NCEE)の理事 Marc Tucker 氏。「PISA の結果により自国の現状が明らかになった際も、教育関係者だけでなく、一般国民や政府関係者の間で大きな議論が巻き起こった」

    Tucker 氏によると、こうした調査で悪い結果が判明すれば、ショック療法的に教育改革の重要性を再認識するきっかけになるという。「教育先進国と呼ばれる国の多くは、こうしたショックを経験している。それが教育システムの抜本的な見直しにつながったのだ。教育システムは各国の文化に根ざしたものであり、親は改革と聞いて及び腰となることが多い。教育のように複雑で文化的なシステムを見直すためには、現状維持という選択に高いリスクが伴うことを市民全体が認識するきっかけが必要なのだ」

    Tucker 氏がその一例として挙げるのはフィンランドのケースだ。「同国経済は、輸出先として依存していたソビエト連邦の崩壊から大きな打撃を受けた。この非常事態に際し、全政党のリーダーが集まって対応を協議した。彼らに残された唯一の選択肢は、ハイテク経済を構築し、電気通信分野での強みを活かすことだった。そしてそのためには、世界トップレベルの労働力を生み出す教育制度を整備し、若者世代にアピールする必要があったのだ」

  • 21© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    15 https://www.economist.com/international/2018/10/06/parents-worry-more-about-bullying-than-anything-else16 https://www.ief.org.uk/debrief/education-reform-must-heart-campaign/17 https://www.educationworld.com/a_admin/admin/admin323.shtml

    るのが一般的だった。しかしテクノロジーの進化とともに、継続的なスキル獲得の必要性が高まっており、生涯学習が脚光を浴びている。こうした流れを背景に、企業が若者世代の教育を担い、教育機関が社会人世代の能力開発を支援するという逆転現象が生まれつつあるのだ。これまでも、企業は教育機関のパートナーとして重要な役割を果たしてきた。両者の連携がさらに進めれば、学生が進路について考える機会を卒業の何年も前に提供することができる。また企業には、社内や地元地域で教育システムの充実に貢献するという選択肢もある。Hoover 社が North Canton Hoover High School を対象に実施する奨学金制度や資金援助はその良い例だろう 17。高学年の生徒を対象としてインターンシップを実施し、休み期間中に就労体験の機会を提供するといったアプローチも有効だ。

    民間セクターは、生涯学習の分野でも役割を拡大しつつある。Udemy や Coursera といったテクノロジー企業が提供するオンライン講座 MOOC(Massive Open Online Course = ムーク)はその一例だ。インターンシップから共同研究講座(特に STEM 教育)まで、企業はその他にも様々なかたちで教育機関との連携を進めている。特にテクノロジー企業が果たす役割は重要だ。例えば、政策・規制の対象となるイノベーションについて、公務員が(出向・研修といったかたちで)さらに学ぶ機会を設ければ、大きな効果を期待できるだろう。

    教育システムが国民のニーズを満たしているかについては、カリキュラムや学習・テスト手法、肉体的健康度など様々な要因に左右される。栄養価の高い食事と身体的な運動も、生徒のウェルビーイングや成績に影響を与えるだろう。生徒の健康状態に深刻な影響を及ぼす「いじめ」といった問題も、世界的な関心を集めている。複数の調査結果によると、いじめは米国や英国といった国々でも親の最大関心事項の1つとなっており、中国ではその撲滅に取り組む法案が成立された 15。カリキュラムの内容も重要だ。教育システムという言葉から連想する3つのイメージを答える北アイルランドの調査では、多くの回答者が「派閥争い」や「意見の相違・摩擦」という言葉を挙げている 16。

    教育システムの質に影響を与える要因は他にもある。資金・リソースの状況、授業の手法などはその一例だ。上下関係・暗記重視の伝統的なアプローチをとる教育機関もあれば、授業やプロジェクトを生徒主導で進めるなどの先進的アプローチを活用する教育機関もある。既存の教育方法に懐疑的な市民には、モンテソーリ教育法やシュタイナー教育法を取り入れた学校もある。理想的な教育システムという言葉から連想するイメージには、大きな個人差があるのが現実だ。国に求められるのは、市民それぞれのニーズに沿った多様な選択肢を用意することだろう。

    これまで多くの国では、若年層を対象に義務教育あるいは大学レベルまで教育サービスを提供す

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    18 https://www.theguardian.com/environment/2018/oct/08/global-warming-must-not-exceed-15c-warns-landmark-un-report19 https://www.bbc.co.uk/news/world-asia-india-4397215520 https://www.economist.com/leaders/2018/08/02/the-world-is-losing-the-war-against-climate-change21 https://news.gallup.com/poll/234314/global-warming-age-gap-younger-americans-worried.aspx

    3:環境問題と市民の視点

    (WHO)のデータによると、世界で最も大気汚染が進む 20 都市のうち 14 がインドの都市だ 19。同機関の Tedros Adhanom 局長によると、炊事・暖房用燃料などの汚染源から発生する「死の煙を日常的に吸い込む」人々は、世界で 30 億人に上っているという。

    人類が地球環境に及ぼす破壊的影響の証拠が次々と明るみに出るなか、世論調査も市民の不安感を浮き彫りにしている。38 カ国を対象として 2017 年に実施されたある調査では、気候変動を大きな脅威と考える回答者が 61%に上った 20。若年層では特にその傾向が顕著だ。ある米国の調査によると、気候変動を「非常に懸念している」あるいは「かなり懸念している」と回答した55 才以上の回答者が 56%だったのに対し、18〜 34 才の回答者ではその割合が 70%に達している 21。

    しかし EIU による今回の調査では、(少なくとも政府支出の)優先課題として環境問題を挙げる回答者はそれほど多くなかった。「自分に権限があれば政府予算をどう配分するか」という問いで、回答者が環境問題に配分した予算の割合は2番目に少ない(科学分野の研究開発が最下位)。自然環境の質に不満を持つ回答者も 24.9% で、現状に満足する回答者(45%)を大きく下回っている。

    気候変動の科学的根拠を示す地球サミットがリオで開催されたのは 1992 年のことだ。それ以来、気候変動の問題は市民の大きな関心事となっている。環境は社会的ウェルビーイングを大きく左右する要因だ。しかし地球規模の温室効果ガス削減に必要な改革の多くは、依然として実現していない。今年 10 月に IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が発表した評価報告書は、破壊的な気候変動を回避するために残された時間はごくわずかだとして警鐘を鳴らしている 18。

    1990 年代初頭に国連で採択された気候変動枠組条約は、環境問題対応のグローバルな枠組みとして重要な役割を果たしてきた。そして 2015 年には、気候変動枠組条約の全参加国によってパリ協定が採択され、各国に削減目標の公開が義務づけられた。しかし各国の義務は目標の作成・提出・維持にとどまり、達成にまで及んでいないために、同協定の効果を疑問視する専門家もいる。

    地球温暖化は紛れもない事実だ。バングラデシュやモルジブといった低平地国、そして干ばつに見舞われている東アフリカやカリフォルニアなど、一部の国・地域はすでにその影響を受けている。2018 年の夏にはアテネで大規模な山火事が発生し、日本も例年以上の猛暑に見舞われた。ハリケーンや台風の被害も増加の一途をたどっており、インドをはじめとする世界各国の都市では、大気汚染がさらに深刻化している。世界保健機関

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    22 https://www.radiotimes.com/news/tv/2018-08-29/blue-planet-2-plastic-waste-final-episode/

    『Blue Planet』の放映だ。アホウドリがプラスチックを餌として雛に与えるシーンなど、プラスチック汚染の影響を克明に捉えた同ドキュメンタリーは世界中に衝撃を与えた 22。「Blue Planet は数多くの国で放映され、何百万人もの視聴者を惹きつけた。そしてプラスチック汚染問題が大きく取り上げられるきっかけになった」と Bennett 氏は語る。

    こうしたエピソードは、言うまでもなく歓迎すべきものだ。しかしプラスチック汚染に劣らぬ重要性を持つ問題が、世界の注目を浴びずに深刻化している現状を忘れてはならない。「世界全体の3分の1にあたる土地では、工業型農業

    (industrial agriculture)を背景とした土壌汚染が過去 40 〜 50 年で悪化している。極めて深刻な問題であるにもかかわらず、人々の注目が集まることはない。何かのきっかけで人々の想像力が刺激され、世界的な議論が巻き起こるかもしれないが、今後の展開を予測するのは難しい。重要なのは1つの問題に長い時間をかけて取り組むことだ。そうすれば、ある日突然人々の不安の導火線に火がつき、大きな脚光を浴びるかもしれない」

    市民の関心が政策レベルで目に見える影響を及ぼすことは、複数の研究からも明らかだ。環境問題に関する世論については、Eurobarometer・European Social Survey・World Wellness Survey といった調査プロジェクトを通じて、詳細にわたるデータが蓄積されている。英国エセックス大学の Tobias Böhmelt 教授は、世論が実際の政策にどの程度反映されているかを検証するため、専門家との連携を通じて世論データと

    NGO は環境問題の認知向上や市民運動のけん引役として、これまで重要な役割を担ってきた。しかし NGO が直面する課題は決して容易なものでない。影響を及ぼすには問題が大きすぎる、あるいは自らに及ぶ影響がわずかだと考える市民が少なくないからだ。

    「ある問題の重要性が科学研究で実証されたとしても、それだけで人々が興味を持ったり憤りを感じたりするわけではない」と語るのは、Friends of the Earth の CEO Craig Bennett 氏。環境問題全体よりも、プラスチックによる海洋汚染や都市部の大気汚染といった具体的な問題に関心が集中するケースも少なくない。

    環境問題のどの分野に注目が集まるかを予測するのは不可能に近い。Bennett 氏によると、Friends of the Earth は何年もの間プラスチック汚染の問題に懸念を深めてきたという。しかし世界の注目を集めるためには、あるきっかけが必要だった。著名な英国人動物・植物学者デイビッド・アッテンボロー氏による環境ドキュメンタリー

    コロンビア 64%

    ベトナム 60%

    アイルランド 56%

    マレーシア 24%

    タイ・インドネシア 16%

    図表 7環境問題を今後 10 年の最優先事項として挙げた 回答者の割合(%)

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    23 https://www.greenpeace.org/usa/sustainable-agriculture/save-the-bees/24 http://iopscience.iop.org/article/10.1088/1748-9326/aa8f80

    の中間値へ収れんされていく。ここで問題となるのは、中間的な有権者が何を求めているかだ」同研究の結果、世論はヨーロッパ諸国の再生可能エネルギー政策に重要かつ有益な影響を与えていることが明らかとなった 24。「世論が環境問題対応を支持する方向へシフトするにつれ、政府が環境保護政策を強化する可能性は高まる」というのが同氏の見解だ。

    ヨーロッパにおける政策変化を分析した。その結果判明したのは、規制改革という具体的なかたちで、環境問題に関する世論の動向を反映する各国政府の姿だ。

    「我々は個人レベルの調査データを用い、マクロな視点から世論が政策にどう影響を与えるのかを検証した」と Böhmelt 氏は語る。民主主義的な文脈でいえば、政策は「究極的に有権者の意向

    ミツバチを救え:認知向上につながる身近な問題

    国際社会は依然として、温室効果ガス削減に向けた法的拘束力のある協定を実現できていない。しかし実生活にかかわる身近な問題が、関心の高まりや行動につながるケースもある。そのユニークな例として挙げられるのは、ミツバチ保護の取り組みだ。受粉活動の 80%を担うなど、ミツバチは生態系の中で極めて重要な役割を果たす生き物だ。主要農作物 100種類のうち 70 種類は、ミツバチの助けを借りなければ受粉できない。グリーンピースによると「食べ物3口のうち1口」23 は、ミツバチ1匹の働きのおかげで口にできるものだ 。しかし現在、ミツバチの生息地は農薬・干ばつ・環境破壊・大気汚染・地球温暖化などの影響を受けて急速に減少している。

    ミツバチが人々の憤りをかきたてる様子は想像しにくい。だが現在、世界中でこの問題への懸念が急速に高まっている。Friends of the Earth の CEO を務める Bennett 氏によると「ミツバチ保護は、自然環境の悪化と取り組みの必要性を議論するきっかけになっている」という。「ミツバチは環境問題全体を象徴する存在だ。我々の運動には何万人もの人々が直接的に参加しており、市民参加という意味で最も裾野の広いプロジェクトの1つだろう。英国のある国会議員によると、この問題に関して選挙区の有権者から受け取る陳情の手紙は、他のどの問題よりも多いそうだ。豊かな自然環境の喪失について関心を高め、世論を動かす絶好の機会となっている」

  • 25© The Economist Intelligence Unit Limited 2018

    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    25 https://pages.eiu.com/rs/753-RIQ-438/images/Democracy_Index_2017.pdf

    4:市民と政治プロセス 参加型予算・世論を反映する政策・参加型民主主義

    Afrobarometer のエグゼクティブ・ディレクター Gyimah-Boadi 氏。「国によって状況は異なるが、アフリカ人の7割は望ましい政治体制として民主主義を選ぶだろう。他の政治体制は即座に否定される」

    政府への信頼向上、当事者意識や社会的一体感の高まりなど、市民による政治参加の拡大がもたらす効果は万国共通だ。「投票ベースの民主主義から討論ベースの民主主義、つまり問題・解決法の特定に市民がより大きな役割を担う制度へ移行する方法はいくつかある」と指摘するのは、OECDの Bellantoni 氏。

    政府への信頼が求められるのは、選挙といったマクロな政治分野だけではない。エラスムス大学ロッテルダム経営大学院の Gabriele Jacobs 氏によると、警察や公共の安全維持などの日常的な側面でも重要な意味を持つという。「ヨーロッパで頻発するテロ事件など、公共の安全を脅かす問題は多様化しており、警察が単独で対応することはますます難しくなっている。こうした脅威に対応するためには市民の情報共有が不可欠だ。またテロリスト予備軍の急進化を未然に防ぐためには、警察だけでなく、学校・地域コミュニティ・社会サービス・医療機関などの協力が必要となる」

    政策を策定するうえで、世論は医療・教育・環境などあらゆる分野において極めて重要な政策的インプットとなる。世論調査データの収集には、方法論や実践面での課題がつきものだ。しかしインターネットが世界規模で普及した現在、政府・NGO・企業が市民社会と連携しながらコンセンサス形成や問題特定、対策の検討を行うことが容易になりつつある。

    一般市民は、社会に関する重要な意思決定への関与を強く望んでいる。過去何十年もの間、参加を阻まれてきた地域・国では特にそうだ。サハラ以南のアフリカ諸国の多くは、第二次世界大戦後に植民地支配から独立して以来、軍事独裁体制や権威主義体制を経験してきた。しかし過去 20 年間で、(例外はあるものの)民主的体制への移行が進んでいる。もちろん問題や民主化に逆行する流れがなくなったわけではない。EIU の民主度指標ランキング(Democracy Index)によると、アフリカ諸国の半数以上では報道の自由が未だに確立されておらず、市民の自由や政府の機能度といった分野のスコアも(政治参加の拡大にもかかわらず)過去5年で悪化している 25。だが同地域の人々が、民主的な政治制度を望んでいることに疑いの余地はない。「世界全体の議論の流れを見ると、民主主義に対する市民の支持は低下しているようだが、アフリカ諸国は例外だ」と語るのは、

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    26 https://siteresources.worldbank.org/INTEMPOWERMENT/Resources/14657_Partic-Budg-Brazil-web.pdf

    を強化する取り組みが広まりを見せている。例えば、天然資源の獲得を巡る取引の詳細を公開すれば、資金の流れやステークホルダーの関係性を理解し、国のニーズに沿ったリソース配分がなされているか検証することができる。よりオープンな公共財政の実現を目指す企業は、こうした取り組みへより積極的に参加すべきだろう。

    プロセスの信頼性向上

    政策決定プロセスへの市民参加が進むことで生じる制約や課題もある。その一例として Bonturi氏 が 挙 げ る の は、「 協 議 疲 れ 」(consultation fatigue)の問題だ。「市民があらゆる問題について無数の質問を投げかければ、かえって混乱を招きかねない」と同氏は指摘する。また市民の意向を反映させることが、常に最善の選択となるわけではない。ただ世論に従うのではなく、政府や政治家が議論をリードすべき局面もあるだろう。開かれた政府の条件として、OECD は情報・協議・参加という3つの柱を掲げている。だが現実的には、開かれた討論に向いた政策問題もあれば、そうでない問題もある。Bellantoni 氏によると、どのような問題であっても「目に見える成果に結びつかない場合、市民は議論への参加を厭うようになる」という。市民参加の拡大を目指す政府は、中央・地方レベルにかかわらずプロセスの明確化・透明化に取り組み、議論の成果を政策に反映させる努力をしなければならない。

    また OECD の 行政パフォーマンス評価プログラム統括責任者 Christiane Arndt-Bascle 氏によると、「市民にとっては、結果だけでなくプロ

    市民の政治参加を促す仕組みは数多くある。社会的優先課題に関する市民の視点を反映しながら予算配分を決定する市民参加型予算は、革新的取り組みの一例だ。その起源はブラジルのポルトアレグレで 1990 年代初頭に行われた実験プロジェクトにあり、現在カナダから南アフリカまで様々な国に広まりつつある 26。

    Open Society Foundation の Julie McCarthy氏によると、市民が「予算編成・支出といった政策プロセスに関与し、意思決定に影響を及ぼせば」インクルーシブな社会の醸成につながるという。「医療・教育・インフラにどれだけの予算を配分すべきか、障害者・精神疾患患者など特定グループの権利をいかに考慮すべきかといった問題について、市民の視点を取り入れることは極めて重要だ」

    参加型予算は、予算配分に市民の意向を反映させる方法として効果的だ。また社会変革の手段として公共財政が持つ重要性の理解につながり、ひいては税金など幅広いガバナンスの問題への関心を高める効果も期待できる。「市民の視点から重要分野の予算拡大を求めるだけでなく、長期的には税政の側面から予算規模自体に疑問を投げかける意識が広まってほしい」と McCarthy 氏は語る。

    納税・天然資源の獲得・公的調達など様々なかたちで政府予算に関与する企業は、公共財政とその透明性向上を考える上で不可欠な存在だ。近年 に は、Publish What You Pay や Extractive Industries Transparency Initiative( 採 取 産 業透明性イニシアティブ)など、企業から政府への資金の流れを透明化し、説明責任や公共監視機能

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    27 https://www.opensocietyfoundations.org/voices/link-between-functioning-toilets-and-justice

    参加型予算がもたらす変化:南アフリカ

    参加型予算や社会監査が持つ価値は、抽象的な帳尻合わせにとどまらない。予算編成プロセスに市民が関与すれば、社会・経済に具体的変化をもたらすことができるからだ。Open Society Foundations 財政ガバナンスプログラム統括ディレクターの Julie McCarthy 氏は、参加型予算や公共プロジェクトを評価する「社会監査」のインパクトを示す例として、南アフリカの旧黒人居住区 Khayelitsha と Wattville での取り組みを挙げる。

    「2つの地区では市民が公衆衛生施設の社会監査を実施した。その結果、業者の管理が行き届かない公衆トイレの状況や、事故・暴力事件(特に性暴力事件)につながりかねない街灯設備不足が判明した」と同氏は語る。Khayelitsha の監査では、同地区住民の 20%に対して予算の 1%しか配分されていない現状が明らかになった。特に非公式居住区ではトイレの 26%が故障。15%がつまり、12%は断水、6%は下水管とつながっていない状態にあった。10 〜 26 名の住人が1つのトイレを共有しているケースもあったという 27。

    「監査の際には予算を分析し、要望の裏付けとなる事実関係を整理した。その結果、Wattville では自治体幹部と請負業者、コミュニティ組織の話し合いが政府の働きかけによって実現し、120 の公衆トイレの建て替えと障害者用トイレの設置が決まった。またこの事実を知った同国 Gauteng 州の監査長官は、迅速かつ効果的な公衆衛生インフラ改善の仕組みとして、社会監査を州全体で導入する意向を示している」

    McCarthy 氏によると、Wattville のサプライチェーン管理部門は、同地区住民の3分の2に影響を及ぼす1億米ドル規模の契約業者決定プロセスで、社会監査の分析を活用している。またインド Maharashtra 州では、社会福祉予算削減の一環として予定されていたコスト削減プログラム(朝食や補助栄養食品、予防接種サービスの廃止など)に NGO と労働組合が反対。社会監査が実施された結果、削減規模は既存予算の約 15%まで抑制されたという。

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    イメージと現実のギャップ

    今回の調査では、政府予算の使途に関する市民の見方を理解するため、7つの分野(公共の安全・環境・医療・教育・社会福祉・研究開発・運輸)に対する予算配分が質問に加えられた。

    調査結果を見ると、回答者の配分と実際の予算配分が非常に近い国と開きがある国に大きく分かれている。表8は7つの分野が各地域の回答者によってどのようにランク付けされたのかを示している(1 =最も高い配分割合 7 =最も低い配分割合)。世界共通で最も配分割合が多かったのは医療分野だ(南北アメリカでは2位)。公共

    セスも重要だ」という。「プロセスが公正であると市民に感じてもらうためには、いくつかの点に留意する必要がある。その一つは、政策の設計・実行に市民の声が反映されているという実感だ。またプロセスと決定について明確な説明がなされることも重要だろう。決定が下された後で、市民への諮問プロセスが形だけ実行され、議論がどのような影響を与えたのか全く説明されないこともある」市民への諮問プロセスの結果をオンライン上で定期的に公開する OECD 加盟国は 3 分の 1に満たない。

    アジア 南北 アフリカ 全体 ヨーロッパ 太平洋 アメリカ 中東

    #1 #1 #1 #2 #1

    #2 #2 #2 #4 #3

    #3 #5 #3 #1 #2

    #4 #4 #5 #2 #4

    #5 #3 #4 #5 #5

    #6 #6 #7 #6 #6

    #7 #7 #6 #7 #7

    医療の質・アクセス向上

    社会的保護 (低所得世帯・高齢者・障害者・疾病患者・若者世代の支援)

    教育の質・アクセス向上

    公共の秩序・安全確保

    交通機関の質

    環境保護

    研究開発(テクノロジー・IoT などの製品・手法に関するイノベーション支援)

    図表 8 予算配分の優先度ランキング

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    南北アメリカ 順位 差異 アジア太平洋 順位 差異ペルー 1 19 オーストラリア 1 13チリ 2 40 カンボジア 2 14アルゼンチン 3 50 台湾 3 18ブラジル 4 52 ベトナム 3 18米国 5 55 フィリピン 5 21コロンビア 6 57 中国 6 22カナダ 7 69 日本 7 24メキシコ 8 75 インドネシア 8 30 シンガポール 9 32ヨーロッパ 順位 差異 タイ 10 36ハンガリー 1 31 インド 11 43イタリア 1 31 韓国 12 46スペイン 1 31 スリランカ 13 47ポルトガル 4 32 マレーシア 14 57ベルギー 5 36 アイルランド 5 36 アフリカ・中東 順位 差異オランダ 5 36 モロッコ 1 3スイス 5 36 エジプト 2 7英国 9 38 サウジアラビア 2 7ポーランド 10 41 ナイジェリア 4 10トルコ 10 41 UAE 5 14デンマーク 12 42 タンザニア 6 15スウェーデン 12 42 南アフリカ 7 19フランス 14 43 クウェート 8 30ドイツ 14 43 オマーン 9 31ロシア 16 174 ケニア 10 32 エチオピア 11 36 カタール 12 38

    図表 9 政府予算と市民の考える優先度の差は?

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    進歩の優先順位 ー 市民の声に耳を傾ける

    地域組織と国境を超えた課題

    社会的優先課題の全てが、国・政府レベルで対応・解決可能なわけではない。市民生活に影響を及ぼすリソース配分や基準の設定に、地域組織が重要な役割を果たすのはそのためだ。市民が日常レベルでその存在を意識する機会は決して多くない。しかし専門家は、地域組織が市民の利益をより反映した活動を展開できると考えている。

    アジア財団のタイ駐在代表 Thomas Parks 氏によると、例えば ASEAN は数百万人が貧困に苦しむアジアの支援開発政策で重要な役割を果たすことができるという。歴史的には政府レベルでの取り組みが多いものの、同組織は開発支援などの分野で基準の制定をしやすい立場にあるからだ。「現在、数多くの開発プログラムが2国間ではなく地域レベルで進められており、国家の枠組みを超えた基準の制定はしやすくなっている」とParks 氏は指摘する。来年 ASEAN の議長国となるタイは、より積極的に開発支援へ関与する意向を示しており、プログラムの改善と諮問プロセスの導入拡大に向けた協議を提案している。

    Parks 氏によると、「ASEAN は過去 5 〜 10年間、組織の民主化を進めて透明性を向上させるとともに、市民・NGO との協力関係構築に取り組んできた」という。例えば ASEAN 経済共同体は、重要なステークホルダーとして民間セクターの参加を拡大している。「ASEAN が支援開発分野で存在感を高めたければ、プログラム開発や方向性の決定に中心的役割を担う必要がある。各国政府はこうしたプロセスに関与しておらず、ASEAN がけん引役となれる可能性は高い。

    の安全は、南北アメリカで2位に選ばれる一方、その他地域では 4・5 位と差が見られた。環境は世界共通で優先度の低かった分野だ。気候変動の問題が深刻化する中、これは憂慮すべき傾向といえる。

    今回の調査では、公開データを活用した予算配分と市民が考える優先順位との比較も行われている。表9は実際の予算と市民の意向にどの程度の開きがあるかを示すもので、「差異」という項目の数字が低ければ低いほど、両者に差がないことを意味している。

    依然として貧困地域が存在するアジアで、市民が最優先分野として選んだのは社会福祉だ。しかし、シンガポールとマレーシアの実際の予算では5番目と、最も大きな差が見られる。南米で両者の差が最も少なかったのはペルーだ(教育・医療分野を除く)。一方コロンビアでは、全ての分野で大きな差が見られるが、南米全体で優先度が6 位と低かった環境分野が 4 位にランクされた。

    ヨーロッパの対象国の中で、回答者の優先順位と実際の予算が最も一致してい�