脳科学からみたカレーのチカラ...いを2回嗅いだ後、もう一度匂いを嗅いでから摂...

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News letter -第10回カレー再発見フォーラム- 脳科学からみたカレーのチカラ ~国民食“カレー”は、脳に何を刻み、何を刺激しているのか~ 2011年8月 茂木健一郎氏(脳科学者) *試験協力:株式会社センタン 1999年の発足以降、カレーの文化や伝承を科学 的な視点で捉え直し、カレーの新たな価値をご 紹介してきた「カレー再発見フォーラム」では、 去る7月26日に「第10回カレー再発見フォーラ ム」を開催いたしました。 今回のカレー再発見フォーラムには、脳科学者 の茂木健一郎氏を講師にお迎えしました。講演 では、茂木氏ご自身が行ったインターネットを 用いた調査結果、また脳科学・認知科学の知見 を生かしたサービス開発を提供する株式会社セ ンタンの協力を得て、カレー再発見フォーラム が行ったヒト試験の結果を、茂木氏よりご紹介 いただき、カレーが脳にもたらす可能性につい て考察いたしました。 本ニュースレターは、「第10回カレー再発見 フォーラム」の講演内容をまとめています。

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Page 1: 脳科学からみたカレーのチカラ...いを2回嗅いだ後、もう一度匂いを嗅いでから摂 取し、認知課題を行う。そして安静後、カレー または比較食の香りを2回嗅いだ後、もう一度香

News letter

-第10回カレー再発見フォーラム-

脳科学からみたカレーのチカラ~国民食“カレー”は、脳に何を刻み、何を刺激しているのか~

2011年8月

茂木健一郎氏(脳科学者)*試験協力:株式会社センタン

1999年の発足以降、カレーの文化や伝承を科学的な視点で捉え直し、カレーの新たな価値をご紹介してきた「カレー再発見フォーラム」では、去る7月26日に「第10回カレー再発見フォーラム」を開催いたしました。今回のカレー再発見フォーラムには、脳科学者の茂木健一郎氏を講師にお迎えしました。講演では、茂木氏ご自身が行ったインターネットを用いた調査結果、また脳科学・認知科学の知見を生かしたサービス開発を提供する株式会社センタンの協力を得て、カレー再発見フォーラムが行ったヒト試験の結果を、茂木氏よりご紹介いただき、カレーが脳にもたらす可能性について考察いたしました。本ニュースレターは、「第10回カレー再発見フォーラム」の講演内容をまとめています。

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優秀な学者を数多く輩出するインド

私がカレーに着目した理由は、ひとつは私自身が大変カレーを好きなこと。先日フランスに行ったときも、日本にいるときと同様に、カレーを週2~3回食べていた。そしてもうひとつが、カレーを毎日食べるインドから、優秀な学者が数多く輩出され続けているということ。その彼らがカレーを食べて育ったという事実から、カレーと脳に関連性があるのではないかと考え、今回のカレーと脳をテーマにした調査と試験に携わった。

茂木氏によるインターネット調査

本年7月に私が行ったインターネット調査では、カレーに関する質問を行ったところ、全国から401件の回答が集まった。

今回の回答者の95%がカレーを好きと回答した。このように人が何かを好きになることには、「ドーパミン」という脳の神経伝達物質が働いている。何らかの行動により喜びを感じたときに、ドーパミンが分泌され、脳に快感をもたらす。そして脳はその行動を記憶し、快感をもたらしたものを好きになる。つまり、カレーが日本人の「国民食」として好まれる理由は、これまでカレーを食べてきた多くの日本人の脳に、ドーパミンを分泌させてきた蓄積にあると言うことができる。

カレーを食べる頻度を聞いたところ、最も多かったのは月に2~3回であった。これより多い人たちを頻度が高い群、少ない人たちを頻度が低い群として、回答の比較を行った。その結果、カレーを食べる頻度が低い群には、暑さに弱いと自覚している人が多かった。ただしこの結果には、統計的に有意な差はない。また、カレーを食べる頻度が高い群には、効率性と集中力が高いと自覚している人が、多いことがわかった。この結果には、頻度が少ない群に対して、統計的な有意差が得られている。

茂木健一郎(脳科学者)

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「カレーと脳」をテーマにしたヒト試験

脳の活動と食品摂取の関係を調べるためには、他の食品と比較することが重要になる。そこで今回はカレーの効果、特にスパイスの効果を調べるために、対象群にはカレーに似た食品として、カレーからスパイスを取り除いた比較食を摂取してもらい、脳の活動の変化を比較した。

脳の活動を計測する方法には、NIRS(近赤外分光法)を採用した。NIRSは頭皮上から頭蓋内に弱い近赤外線を照射し、再び頭皮上に戻る反射光を検出し、血中の「ヘモグロビン」という酸素を運ぶ分子を調べ、血流量を計測する。このヘモグロビンには、酸素と結合した酸化ヘモグロビンと脱酸化ヘモグロビンがあり、NIRSではその両方を計測できるが、脳活動に関連して変動する指標として酸化ヘモグロビンを見ることが多い。なお本実験で使用した装置の利点として、計測器がヘッドギアのように簡単に装着できるため被験者の負担が少なく、日常生活のなかで計測できるということがあげられる。

今回の試験では、株式会社センタンの協力のもと、電話番号などを一時的に覚えるために使われる「作業記憶」と、街中で知り合いを探すときなどに使われる「視覚探索」を組み合わせた認知課題を被験者に行ってもらい、脳活動をNIRSで計測した。被験者に行ってもらった認知課題は、まず常用漢字2字が、被験者に2秒間提示され、その後1秒間インターバルを置いて、漢字4字を組み合わせたものが4パターン提示される(下図参照)。このなかから、前に表示された漢字が、最も多く含まれているパターンを、選ぶというもので、課題を遂行するためには、作業記憶と視覚探索が必要とされる。

今回の試験では、成人男女12名(カレー群6名、比較食群6名)を被験者とした。被験者はNIRS装着後、まずコントロール試験として、水の匂いを2回嗅いだ後、もう一度匂いを嗅いでから摂取し、認知課題を行う。そして安静後、カレーまたは比較食の香りを2回嗅いだ後、もう一度香りを嗅いで一口摂取した後、認知課題を行う。そしてこの間、NIRSにより脳活動を計測した。

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カレーの香りを嗅ぐことと摂取することは「脳の司令塔」を活性化させる

脳の活動において、脳のどこが活性化するかが重要になる。そこで今回は「背外側前頭前皮質(ブロードマンエリア46野)」の活動に着目した。背外側前頭前皮質は「脳の司令塔」と呼ばれ、課題の遂行時に脳の各所に指令を出す役割を担っている。最初に、カレーと比較食の香りを嗅いだ時と、香りを嗅いで一口摂取した時の変化について比較した。その結果、カレー群は背外側前頭前皮質が活性化していることがわかった。

上図の横軸は時間の流れであるが、背外側前頭前皮質と推定される領域において、香りを嗅いで一口摂取した時(上図の赤丸部分)に、脳活動と関連して変化する「酸化ヘモグロビン」の量が明確に増加した。なお比較食群において、酸化ヘモグロビンと脱酸化ヘモグロビンがともに上昇したタイミングがある。この理由は不明だが、比較食の香りや摂取による影響はなく、いわゆるアーチファクト(偽信号)ではないかと考えている。

カレー群は認知課題の遂行時における脳の神経活動が有意に向上した

次に、認知課題を遂行している時の背外側前頭前皮質における、酸化ヘモグロビンの変化について比較検討を行った。その結果、カレー群では酸化ヘモグロビンの量が、比較食群に対して有意に上昇したことがわかった。

このことは背外側前頭前皮質の神経細胞の活動量が増加していることを示している。脳の神経細胞は活動量が増えると、エネルギーをつくるために酸素が必要となる。そのため酸素と結合した酸化ヘモグロビンが増える。この結果から、カレー群は課題遂行時における脳の神経活動が向上したことが明らかにされた。

カレー群は課題への回答が有意に速くなる

最後に、カレーが被験者の認知課題に対する回答に、どのような影響を与えたか検討するために、被験者の回答時間を比較した。なお、データのばらつきを抑えるために、平均回答時間の短い上位10問を対象として、データを算出した。

比較食群の1問あたりの回答時間は、コントロールである飲水後に比べて、約0.5秒遅くなった。一方、カレー群の1問あたりの回答時間は、飲水後に比べて、約0.4秒速くなった。そしてカレー群の1問あたりの回答時間の短縮は、比較食群の回答時間の短縮(実際には約0.5秒長くなった)に対して、統計的に有意な差があった。

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カレーは「IQを7」上げる

カレー群の回答時間が短縮した意味を、わかりやすく示すために、その差をIQ(知能指数)にあてはめてみた。回答時間の短縮を、一定時間内の回答数に換算したところ、カレーを食べた人のIQは「7」上がったことがわかった。IQの平均値は時代とともに変化している。ニュージーランドの心理学者ジェームズ・フリンの研究によると、先進国におけるIQの平均値は、過去数十年間上がり続けている。この理由には、情報機器の進化により、多くの情報を処理できるようになったことがあげられている。IQは遺伝のみならず、生活習慣や環境など後天的なものにも影響を受けていることがわかる。フリンの研究によると、IQは10年で約3上昇しているという。つまり、カレーを食べるということは、タイムマシンに乗って10年後、20年後のIQを先取りしたと言えるかもしれない。

スパイスの香りがもたらした効果

今回の試験結果をまとめると、カレーの香りを嗅ぎ、摂取することにより、脳の司令塔である背外側前頭前皮質の活動が活性化される。そしてその後の課題遂行時の神経活動が有意に上昇する。さらに回答時間が有意に短縮され、IQに換算すると「7」上がることがわかった。日常的に食経験の多いカレーが、今回の結果をもたらしたことは大変興味深い。今まで類似したカレーを何度も食べてきたにもかかわらず、

これほどの結果が得られたということは、この効果が長期的に保たれることが示唆される。そして今回の結果を生み出した主因は、私はスパイスの香りにあると考えている。香りを処理する脳の部位は、記憶を処理する部位と近い。香りを嗅ぐことで何かを思い出すということがあるほど、香りは記憶と深く結びついている。脳のこれらの機能に、スパイスの香りが何らかの働きかけを行っているのだろう。

カレーの新たな発見の可能性

今回の結果について、私はカレーの効果の一部に過ぎないと考えている。例えば、家族一緒にカレーをつくって食べることで、おいしい、うれしいといった感覚を持つことも、脳によい影響を与える。現在、脳科学で注目されている「集合的知性」はチームとして協力して、パフォーマンスを上げることがテーマであるが、このためには相手の気持ちを理解することが重要になる。カレーを一緒に食べることは、集合的知性によい影響を与えることが想像される。また近年、脳とからだの関係に着目した興味深い報告がなされている。温かい飲み物と冷たい飲み物が入ったカップを持った時を比較すると、温かい飲み物の時のほうが、他者に温かい感情を持ちやすくなるという。これは手を温めたことが、脳に影響を与えたためと考えられている。このようにいろいろな視点から見ていくことで、カレーと脳の関係において、新たにおもしろい発見が生まれるのではないかと考えている。

Profile

茂木健一郎 Kenichiro MOGI 脳科学者脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。1962年東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。専門は脳科学、認知科学。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに、文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。2005年『脳と仮想』で、第四回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。2006年1月~2010年3月、NHK『プロフェッショナル仕事の流儀』キャスター。主な著書に『脳とクオリア』(日経サイエンス社)、『生きて死ぬ私』(徳間書店)、『心を生み出す脳のシステム』『脳内現象』(NHK出版)『脳と仮想』『ひらめき脳』(新潮社)『脳と創造性』(PHP研究所)ほか、多数。