9世紀以前のアラビア語の研究 池 田 修 - jst

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9世紀 以 前 の ア ラ ビ ア語 の 研 究 §1. イスラム社会 々においては,ア ラ ビア 語 の 研究 は,イ ス ラム神 学 を補 足 す る も の と み な さ れ て 来 た 。 コ ー ラ ン の 正 読 法(a-qira'a),お よびタフシ イ ー ル(at-tafslr)を 支 える もの と して,重 要 な 地 位 を し め て い る こ と は, 明白である。 これ々に加えて,広 範多岐にわたるアラブ文学の発展そのも の も,ア ラ ビ ァ 語 の 規 範 化 の 要 求 を 強 く 出 し,こ れ に 応 ず る も の と し て, アラビァ語の研究が発展したとも云 えよ う。 ア ラ ビァ語 の 研究 は,伝 統 的 に,2つ の 学 問 領 域 を 構 成 して い る 。 第 1は,文 法 学('ilm an-nahw)で あ っ て,こ れ は,更 々に,語形論々に当るas- sarfと,統語 論 々に相 当す る と ころ のan-nahwとか ら成 る。 第2は,辞 書 学('ilm al-lugha)で あ っ て,語 彙 の 蒐 集,辞 書 の 編 集,正 則的用法 (al-fasaha)等 を,研 究する学問である。 ア ラ ビ ァ 語 の 言 語 学 的 研 究 が,開 始 され た時 期 は,イ ス ラ ー ム 発 生 後, ま もな い頃 々にさか の ぼる こ とが 出来 る 。 即 ち,コ ー ラ ンを 正 し く 読 む た め に は,ア ラ ビァ語 の,言 語 現 象 の 明 確 な 理 解 が 必 要 で あ る が,初 期に お い て は,多 くの ム ス リ ム が,こ れを不正確によんでいた。読み方が区 々 で あ り,不 正 確 で あ る 事 実 が 明 白 に な れ ば な る ほ ど,正 読 法 の た め の 案内書が必要となってきた。 イ ス ラ ー ム の 伝 播 は,当 初 口伝 に よ った が,ほ とん ど最 初 か ら,多 数 の 非 ア ラ ブ人(al-'ajam)が イ ス ラー ム々に帰 依 してい た こと,お よ び,ア ビ ア 半 島 か ら遠 く離 れ て,多 数 の ペ ル シ ャ 人 な ど 非 ア ラ ブ 人 の 間 で,小 数 の ア ラ ブ人 が正 読法 の定 ま らない コー ランに も とつ いて,イ スラーム -121-

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Page 1: 9世紀以前のアラビア語の研究 池 田 修 - JST

9世 紀 以前 のアラ ビア語 の研究

池 田 修

§1.

イ ス ラ ム社 会 に々お い て は,ア ラ ビア 語 の 研究 は,イ ス ラム神 学 を補 足

す る もの とみ な され て来 た。 コ ー ラ ンの 正 読法(a-qira'a),お よび タ フ シ

イ ール(at-tafslr)を 支 える もの と して,重 要 な地 位 を しめて い る こ とは,

明 白で あ る 。 これ に々加 え て,広 範 多 岐 に わ た る ア ラ ブ文 学 の 発 展 そ の も

の も,ア ラ ビァ語 の規 範 化 の要 求 を 強 く出 し,こ れ に 応ず る も の と して,

ア ラ ビァ語 の 研究 が 発 展 した と も云 えよ う。

ア ラ ビァ語 の 研究 は,伝 統 的 に,2つ の 学 問 領域 を 構成 して い る 。 第

1は,文 法 学('ilm an-nahw)で あ って,こ れ は,更 に々,語 形 論 に々当るas-

sarfと,統 語 論 に々相 当す る と ころ のan-nahwと か ら成 る。 第2は,辞

書 学('ilm al-lugha)で あ って,語 彙 の蒐 集,辞 書 の 編 集,正 則 的 用法

(al-fasaha)等 を,研 究 す る学 問 で あ る。

ア ラ ビァ語 の言語 学 的 研 究 が,開 始 され た時 期 は,イ ス ラ ー ム発 生後,

ま もな い頃 に々さか の ぼる こ とが 出来 る 。 即 ち,コ ー ラ ンを 正 し く読 む た

め に は,ア ラ ビァ語 の,言 語現 象 の 明確 な 理解 が必 要 で ある が,初 期 に

お い て は,多 くの ム ス リムが,こ れ を 不 正 確 に よん で いた 。 読 み方 が区

々で あ り,不 正 確 で ある 事 実 が 明白 に な れ ば なる ほ ど,正 読 法 の た め の

案 内 書 が必 要 とな っ て きた 。

イス ラー ム の伝 播 は,当 初 口伝 に よ った が,ほ とん ど最 初 か ら,多 数

の非 ア ラ ブ人(al-'ajam)が イ ス ラー ム に々帰 依 してい た こと,お よび,ア ラ

ビア半 島 か ら遠 く離 れ て,多 数 のペ ル シ ャ人 な ど非 ア ラブ人 の 間で,小

数 の ア ラ ブ人 が正 読法 の定 ま らない コー ランに も とつ いて,イ ス ラ ー ム

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を 伝 播 す る とい う不 都 合 な 状況 の もとに お か れ てい た こ と,等 は,容 易

に想 像 出来 る 。 こよ の うな,状 況 の もとで,文 法 学 は,発 生 した 。

ア ラ ブの 資料 に々よ る と,最 初 に々文 法 学 の 基 礎 を設 定 した の は,Abu al-

aswad ad-du'ali(H48/A.D.668-9死 亡,以 下 この順で死亡年 月 日を示す)で

あ った 。 彼 が 文 法 学 に手 を 染 め た の は,① カ リフ'Aliの 命 令 に よる と

す る もの,② カ リフ'Umar々 による とす る もの,③Mu'awiyahが,'Ali

を倒 した あ とバ ス ラ と クー フ ァの知 事 と したZiyad ibn abihiの 命 によ

る とす る も等 伝 承 に よ って 区 々 で ある が,次 の よ うな資 料 は,バ ス ラに

お い て,謂 る正 則 ア ラ ビァ語 に 乱 れ が生 じて い た ことを 充 分 推 察 せ しめ

る 。(1)彼 は或 る時,コ ー ラ ン第9章3節(sura at-tawba)'anna l-laha

bari'un mina l-rnushrikina wa rasuluhu

「神 は,雑 神 崇拝 者 共 に か かわ りな く,神 の使 徒 とて 同 じ く彼 等 に々か

か わ りな し」。

と読 む べ きと ころ を,人 々 が,最 後 の 単 語rasuluhu「 そ の(神 の)使

徒=主 格」 を,rasulahu(対 格)又 は,rasulihi(属 格)と 読 んで,「 神 の

使 徒 と雑 神崇 拝 者 達 」 を,混 同 して い る のを知 り,あ わ て てZiyadの

命 令 に 応 じて語 形 論 の 基礎 と,母 音a,i,uの 正 しい 用法 を説 き,コ ー

ランに シ ャ クルを 打 っ た。

(2)ある 日,彼 の娘 が,ma ahsanu's-sama'i「 空 の中 で何 が最 も美 しい

か?」 と言 っ た ので,'al-kawakibu「 星 だ 」,と 答 えた と ころ,娘 は,感

嘆文 を意 図 した とい うの で,そ れ な らば,ma ahsana's-sama'a!(空 は

何 ん と美 しい こと よ)と す べ きで あ る と教 えた 。

(3)ある 日,人 々 が,la ya'kuluhu'illa l-khati'ina「 彼 は罪 人 達 だ け

を食 べ る」とい うの を 聞 き,la ya'kuluhu'illa l-khati'una「 そ れ を食 べ

る の は,罪 人 達だ け だ 」,と 教 えた 。

(4)バス ラの 人 々 が,「 父 が 死 ん で,我 々 息子 だ け残 し ま した 」 とい う

のを,tuwuffiya'abana(正 しくは'abuna)wa taraka banuna(正 しくは

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9世 紀以前 のアラ ビア語の研究(池 田)

banina),と 言 って い る のを 聞 い た註(1)。

い ず れ に々して もAd-du'aliは,コ ー ラ ン に々正 しい母 音 点 を打 つ た め に々,

ア ラ ビァ語 の文 法 現 象 に々目を とめ た の で あ る。 彼 は,ウ マ イ ヤ朝 の人 で

ある が,や が て ア ッバ ー ス朝 に々全 盛 を誇 る に致 るア ラ ビァ 語 研究 の先 駆

者 で あ った 。

ア ラ ビア 語 の 研究 は,以 後,イ ス ラー ム の征 服 に よ って 建 設 さ れ た2

つ の都 市 で,他 の諸 学 と併 行 して発 展 して い く。 バ ス ラは,ペ ル シ ャ湾

へ の河 口か ら約60マ イル ほ どさ か の ぼ った と ころ のShatt al-'arab(ア

ラブ人 の河)の 右 岸 に々あ る。 この河 名 は,チ グ リス とユ ー フ ラテ ス両 河

の 合 流 点Al-qurnaか ら河 口ま で全 体 を 言 う名 称 で あ るが,水 量 は 豊 か

で,ナ ツメ ヤ シの 主 産地 を貫 流 して い る。 この 町 は,イ ラ ク南 部 か らペ

ル シ ャ湾 に々致 る地 域 が イ ス ラ ー ム軍 に々征 服 され た あ とカ リフ'Umarの

命 令 で,将 軍'Utba ibn ghazwanが,H15/636-7年 に々建 設 した都 市 で

あ る。 クー フ ァは,バ ス ラの北 に々あ っ て,チ グ リス河 の右 岸 に々あ う,近

か くに は,古 代 都 市 クテ シフ ォンの跡 が あ る。 や は りカ リフ'Umarの

命 令 でSa'd ibn abi waqqasが,H17/638年 に々建 設 した も ので あ る 。

'Umarは,sa'dに 書 状 を 送 り,「 モ ス レム達 が 移住 が 出来,し か も彼 等

の 集 合地(qayrativan)と な り,ウ マル とモ ス レム達 の 間 に々海 が 介 在 しな い

)

土 地 を選 べ 」 と命 じた とい わ れ る。註(2)後に々カ リフ'Aliは,こ の 町 に々居 所

を 移 した。 イ ラ ク南部 に々建 設 され た 両 市 は,当 初 か ら異 った 性 格 を持 ち,

それ ぞ れ ち が った 発 展経 過 を た どる。

ク ー フ ァは,バ ス ラよ り2年 程 あ と に々建設 され た に もか か わ らず,ア

ラブ有 族 や,マ ホ メ ッ トの教 友 達 の集 結地 と して,政 治,軍 事 の 中心 地

とな り,'Aliが カ リフの居 所 を移 して 来 た こ とで ます ます,ア ラ ブ人 の

都市 として の 性格 を 強 よめて い た。 しか しバ グ ダ ッ ドが カ リフの所 在 地

とな る頃 に々は,昔 日の面 影 は完 全 に々失 わ れ,ほ とん ど問題 にな らな い村

に 転 落 して行 った 。

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これ に々ひ きか えバ ス ラは,非 ア ラ ブ人 が こぞ って 集 結 し,ア ラ ブの部

族 色 を うす め,諸 階 層 の 開 きが あ ま り問題 に々され ず,ア ラ ブ と非 ア ラ ブ

要 因 の混在 す る 国際 的 商業 都 市 に 発 展 した。 ペ ル シ ャ湾 に々直 接通 ず る地

の利 もあ って,今 日で も通商 都 市 と して 栄 え て い る。

イ ス ラ ム諸 学 は,こ の両 市 で花 を 咲 か せ る が,特 に,ア ラ ビァ語 研 究

は,著 る しい発 展 を とげ た 。 しか も,ク ー フ ァ とバ ス ラ とで は,前 記 の

よ うに,そ れ ぞれ の都 市 の 性 格的 な相 違 もあ っ てそ の 方 法 が根 本 的 に々異

っ て お り,互 い に激 しい 論争 を展 開 した 。

Aj-jahiz(H225/868)は,「 バ ス ラの人 ア ブー ア ムル イ ブ ン ア

ル ア ラー イは,ク ー フ ァの 人 々 に 向 って"君 達 は,ナ バ テ ァ人 の狡 猾 さ

と,自 惚 れ を 受 け つ いで い る が,我 々は ペ ル シ ャ人 の 鋭利 と夢 を そ な え

て い る"と 言 った」,と 伝 えて い る が,註(3)両派 の論 争 は,as-sarf(語 形論),

an-nahw(統 語論),al-lugha(辞 書学),ア ダ ブ文 学,al-kalarn(神 学)そ

の 他 に々及 び,学 者 達 は,そ の居 住 す る 町 と,学 派 を 熱 狂的 に々誇 示す る に

つ とめた 。 両 派 の論 争 例 を,最 も豊 か に々伝 えて い る 資料 は,Ibn al-fagih

al-hamdhaniのal-buldan(諸 国)で あ ろ う註(3)。

こ れ を ア ラ ビ ァ 語 研 究 上 の 論 争 に々限 っ て み る と,い わ ゆ る 「ク ー フ ァ

学 派 と,ノ ミス ラ学 派 の 相 違 に関 す る 公 平 な 判 断 」('al-'insaf fi masa'il al-

khilaf bayna an-nahwiyyin:al-basriyyin wa al-kufiyyin)が バ グ ダ ッ ドの ニ

ー ザ ミ ィ ー ヤ 学 院 教 授Abu al-barakat'abd ar-rabman al-anbari(H

577/1181-2)々 によ っ て 著 わ さ れ,我 々 は,こ の 著 作 に々 よ っ て,双 方 の 論 点

を よ く知 る こ と が 出 来 る 。G.Weilに よ るLeiden版1913,Muhyi ad-

din々 に よ る カ イ ロ版1945.の 二 種 が あ る 。

バ ス ラ学 派 も,ク ー フ ァ 学 派 も,コ ー ラ ン を は じ め,ジ ャ ー ヒ リ ー ヤ

の 古 詩,ベ ド ウ ン の 中 の 正 則 語 を 話 す 者 達(al-fusaha'min al.'arab)お よ

び 諺(al-'amthal)な ど を 所 説 の 例 証 に々用 い て い る の で あ る が,一 般 的 に

み て,ク ー ア 学 派 は,経 験 を 重 ん じ,あ る 意 味 で 実 証 的 で,ベ ドウ ン の

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9世 紀以前 のアラ ビア語の研究(池 田)

ア ラ ビア語 を重 視 す る傾 向が 強 く,反 面,先 人 の範 を 無 批 判 に取 り次 ぐ

こ とを"学 問"と す る 弱 点 を持 って い る 。 これ に反 し,バ ス ラ学 派 は,

論理 的,批 判 的 で あ り,類 推 を 重 要 視 し,例 外 を 排 除す る傾 向が 強 く,

反 面 実証 に 欠 け る よ うで あ る。

バ ス ラ,ク ー フ ァ両 学 派 に よ って,発 展 した ア ラ ビァ語 文 法 学 は,や

が て,バ グ ダ ッ ド学派 に々吸収 され て行 く。 バ グ ダ ッ ド学 派 は,い わ ぽ,

両 派 の 調停 者 で あ り,独 創 性 に々欠 け,以 後 の文 法 学,辞 書 学 は,折 衷 学

派 ない しは,文 献 編 集 学派 として,存 続 す るに 致 る 。従 って,ア ラ ブに

お ける ア ラ ビア語 研 究 の主 要 部 分 は,今 日で も,バ ス ラ,ク ー フ ァ学 派

の極 め た と ころか らほ とん ど出て い な い と言 って も差支 えな い 。

本 稿 で は,9世 紀 まで の ア ラブに お け る以 上 の よ うな ア ラ ビァ語 研 究

の歴 史 の 中 でー ス ラ,ク ー フ ァ両 学 派 の 重要 な学 者 お よび文 献 が どの よ

うな位 置 を しめ てい るか を 明 らかに して みた い 。

§2。

い わ ゆ るバ ス ラ文 法 学 派 を代 表 す る 人物 は,第 一 層 のnasr ibn 'asim

(H89/707-8)々 には じま り,第6層 のAl-Mubarrid(H285/898)々 に終 った と

され て い る。 この約190年 間 に々,約26人 の学 者 が バ ス ラを 代 表 して い

る。

Muhammad al-mun'imは,こ の階 層 を次 の よ うに整 理 して い る註(5)。

第1層(1)Nasr ibn'asim (H89/707-8)

(2)Abu dawud'abd ar-rahman(H117/735)

(3)'Anbasat al-fil(H100/718)

(4)'Abd al-lah ibn'abi ishaq(H117/735)

(5)Yahya ibn ya'mur al-laythi(H129/746)

第2層(1)'Isa ibn'umar ath-thaqafi(H149/766)

(2)Abu'Amr ibn al-'ala'(H154/770)

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(3) Abu al-khitab al-'akhfash al-'akbar(H 154/773-4)

第3層(1)Al-khalil ibn'ahmad(H 174/790)

(2)Yunus ibn habib(H 182/798)

第4層(1)Sibawayh(H 188/803-4)

(2) Al-yazidi(H 202/817)

(3)An-nadr ibn shamil al-mazini(H 204/819)

(4) Qutrub(H 206/820)

(5)Al-akhfash a1-'awsat(H208/823)

(6)Abu'ubayda ma'mar ibn al-muthanna(H 213/828)

(7) Abtl zayd al-'ansari(H 215/830)

(8) Al-'asrna'i

(9) Ibn sallam (H216/831)

第 量5層 (1)A1-jarmi(H 232/846)

(2) At-tawajji(H 225/839-40)

(3)Al-mazini(H 238/852)

(4) Az-ziyadi(H 249/863)

(5) Ar-riyashi(H 257/870)

(6) Abu hatirn as-sijistani(H 255/868-9)

第6層(1)Al-mubarrid(H 285/898)

文 法 学 は まず バ ス ラに おい て,発 生,開 花 し,相 当期 間た って,そ の

成 果 が クー フ ァ に々伝 え られ,方 法(manhaj)お よび,応 用(tatbiq)に お

い て,異 る独 創 的 な 所説 を も って,ク ー フ ァ学 派 が 生 まれ る 。

ク ー フ ァが政 治,軍 事 的 色 彩 の 濃い 都市 と して,コ ー ラ ン読 み,ハ デ

ィース 学者 な ど政 治,軍 事 に 密 着 した 学 者 を集 め て い る間 に,バ ス ラ

に は,そ の 他 の諸 学 派,諸 宗 派 が こぞ って移 った 。 そ うして,神 学論

争 の 新 ら しい 動 きがバ ス ラ に々 生 じた 。な か で も,ム ゥタ ジ ラ派(al-mu-

'tazila)の 動 が きわ だ って いた 。 彼等 は,自 派 の 主張 を 支 え るた め に文 法

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9世 紀以前のア ラビア語の研究(池 田)

学を 必要 と した.ま た ア ラ ブ人 は,イ ス ラ ー ムに論 理 を 貫 くた め に文 法

学 を学 び,非 ア ラ ブ人 は,公 用 語 で あ る ア ラ ビァ 語 を学 ん で,ア ラ ブ支

配 の も とで,平 和 な 生活 を 追 求 した 。

バ ス ラ の名 士Ad-du'aliが,バ ス ラで,文 法学 を は じ,めた の も故 な し

と しな い。 しか し,文 献 的 な姿 で,文 法 学 が 登 上す る の は,H2世 紀/

西 暦8世 紀 に な って か らで ある 。 それ 以 前 の こ とは,伝 承 に頼 る ほ か は

な い 。上 記 第1層(4)のIbn abi'ishaqに 関 す る次 の よ うな 伝 承 は,文

法 学 の発 展 の初 期 の 事情 を よ く物 語 っ てい る 。

「彼 は,文 法 学 に々最 初 に々筋 道 を 立 て,尺 度=al-qiyasを 広 げ た 人物 で

あ る註(6)」「彼 は,最 も よ く尺度 を 用 い た 人物 で,Abu'amr(II層 の(2))は,

ア ラ ブ人 の言 語 に 最 も広 い 知 識 が あ った註(7)」

Ibn abi ishaq は,'Isa ibn'umar ath-thagafiの 師 で あ り,後 者 は,

Al-khalilお よび,Sibawayhへ と,学 説 を伝 えて行 った 。 早 や くか ら,

「言語 に々論 理 的 な 原則 を 定 め,こ れ を尺 度 に々類 推(taqdlr)を 行 な う」とい

う方 法 が,文 法 学 に 取 り入れ られ て いた ことが わ か る。

Abu'arnrやal-Asma'iな ど,コ ー ラ ンや,民 俗伝 承 に詳 しい 学者 が

初 期 バ ス ラ学 派 に は名 を連 ね て い る が,文 法 学 につ いて み る 時,最 大 の

人 物 は,Al-kbalil ibn ahmad al-farahidiで あ る。 ア ラ ビア 語 の文 法 書

と して 名 高 いal-kitab(書)と い う著 作を ま とめたSibawayhは,彼 の

第 一 の弟 子 で あ るが,

「ア ル ハ リール は,シ イ ーバ ワイ ヒの 師 で ある 。 シイ ー バ ワィ ヒが,

al-kitabの 中 で,名 前 を あげ ず に々,"私 は,彼 に々質 問 した"と か,"彼 は

言 った"と か述 べ て い る彼 とは,す べ て,ア ルハ リー ル の こ とで あ る註(8)」

と伝 えられ て お り,Sibawayhへ の影 響 のほ どが知 れ る。

Al-khalil以 前 に々文 法学 の本 が あ った とい う伝 承 は あ るが,Sibawayh

のal-kitabほ どの体 系 だ っ た もの で は なか った よ うで あ る。 勿論,現

存 しない註(9)。

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しか し,Al-khalilが 今 日有 名 な の は,文 法学 に々おい て よ りも,む し

ろ,韻 律 学 と,辞 書 等 にお け る 二つ の業 績 に々よっ てで ある,

第 一 は,ア ラ ブの古 詩 の 研 究 を通 じて,脚 韻 の諸 法 則,韻 律 の種 別 を

発 見 し,韻 律学('ilm al-'arud)へ の 道 を 開 い た こ とで あ る 。 韻 律 学 は,

彼以 前 に々は,誰 一 人 基 礎 づ け の 出来 なか った もので,Al-khalilの 独創

的 発 見 に々よる もの で あ る。 伝 承 に々よる と,彼 は バ ス ラのバ ザ ー ル に あ っ

た あ ち こち の 鍛 治屋 のハ ンマ ー を打 つ 音 の 調和 を開 い て,古 詩 にお け る

韻 律 の規 則 性 に々気 づ いた とい われ る註(10)。

第二 は,彼 が,初 の ア ラ ビア 語辞 典kitab al-'ayn(ア イ ンの書)を 編 集

した こ とで あ る 。 彼 の編 集 方 法 は,独 得 な もの で,音 韻 を基 礎 と した 点,

イ ン ド人 に学 ん だ の で は ない か と もいわ れ る。彼 は,今 日の辞 典 の よ う

に々ア ラ ビア語 の語 彙 を,ア ル フ ァベ ッ ト順 に々配列 す る の で は な く,発 音

上,同 種 の子 音 の もの を順 に並 べ る方 法 に よった 。 第 一 の グ ル ー プ には,

喉 音 が お かれ,次 い で 口蓋 音,歯 擦 音,舌 音,唇 音,半 母 音 の順 で 配列

され る 。 この結 果,Al-khalilの ア ル フ ァベ ッ ト順 は,次 の よ う に々なる 。

' ayn ha' ha' ghayn

qaf kaf

jIm shin dad

sad sin zay

ta' dar ta'

za dhur tha'

ra' lam nun

fa' ba' mim

waw alif ya hamza註(11)

以 上 の 通 り,彼 は,子 音 の 発 声器 官 に注 目 し,調 音点 が 口腔 の奥 にあ

る もの か ら順 次,並 べ る手法 を 取 ってい る 。 この辞 書 は,文 字'aynの

項 か ら始 るの で 「ア イ ンの書 」 と 呼 ば れ てい る もので あ る。Al-khalil

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9世 紀以前の アラビア語 の研究(池 田)

は,こ の辞 書 を 完成 す る こ とな く他界 し,彼 の 弟子 の 内,主 と してAl-

laythが,残 りを 完 成 させ た とい うの が 多 くの ア ラ ブ資 料 の伝 え る と こ

ろ で あ るが,注 に あげ た 校 訂 者Darwisbは,Al-khlailが 全 部 完 成 し,

弟 子Al-laythは,こ れ の 伝 達 者(rawiyah)で あ っ た と 述 べ て い る註(12)。

バ ス ラ学 派 の 初 期 文 法 学 者 の 中 で ,こ の ほ か 傑 出 して い た 人 物 は,'Isa

ibn'urnar ath-thagafi(H110/728-9),Abu al-khattab al-akhfash al-

akbar(H177/793-4)お よ びdunus ibn habib(H 182/798)を は じ め,数

多 い が,彼 等 自 身 の 著 作 は,現 存 し な い 。 し か し,ど の よ う な 説 を な し

て い た の か は,Sibawayh (Abu bishr'amr ibn'uthmanア ラ ビ ア語 文 法 学 の

父 と呼 ば れ て い るH176/792-3)が 著 し たal-kitabに よ っ て 知 る こ と が 出

来 る註(13)。

SIbawayhは,お よそ32歳 頃,生 地 ペ ル シ ャを 出て,バ ス ラ に行 き,

こ こで 上記 の学 者 達 に 師事 した 。 彼 は,や がて バ ス ラを 代 表 す る文 法 学

者 とな う,ク ー フ ァを 代表 す るAl-Kisa'Iな ど と論 争 す る が,な か で も,

有 名 な の が ス ズ メ蜂論 争(mas'ala zanburiyya)で あ る。

「Sibawayh は,イ ラ ク に々着 くと,Al-kiss'iと,Abi ja'far ibn kbalid

ibn barmakお よび,AI-fadl ibn yahyaを 訪 問 した。

彼(AI.kisa'i)は,"私 は,貴 殿 等 御 両 人 の家 庭 教 師 で あ り,親 友 で す

が,こ の 男(Sibawayh)は,そ の 私 の地 位 を 奪 わ ん もの とや っ て来 た の で

す"と,告 げ た。 す る と二人 の公 子 は,"何 か は か りご とを 工 夫 して お

い て下 さい 。我 々が あ なた と,彼 を バル マ ク家 で対 決 させ る手 はづ を と

との えます か ら"と 言 った 。

さて,AI-kisa'iは,(弟 子 の)AI-farra'お よびAI-ahmarそ の 他 を引

き連 れ て 席 に現わ れ た ところ,Sibawayhは,た った 一 人で 来 て い た。

クー フ ァ側 は,

kuntu 'azunnu 'anna I-'agraba 'ashaddu las'atan mina z-zanburi fa-

'idha- huwa hiya 'aw fa -'idha huwa 'iyyaha

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Page 10: 9世紀以前のアラビア語の研究 池 田 修 - JST

「私 は,サ ソ リにか まれ た 方 が ス ズ メバ チ に刺 され る よ りも 痛 い の か

と思 って い た のだ が,な ん とそ れ と これ は どち らも 同 じ よ うな もの だ」

と 云 う場 合,点 線 の 部 分 は,fa'idha huuTa hiyaと 言 うべ き か,そ れ

と も,fa'idha huwa'iyyahaと 言 うべ き か い ず れ か と 問 うた 。

Siaawayhは,fa'idba huwa hiyaが 正 し い と答 え た 。

す る と クー フ ァ側 は,そ れ は,正 し くな い,と 口を そ ろ え て言 った註(14)。

同席 のYahya ibn khalidは,

「これ は,困 った。 御 二 人 と もそ れ ぞれ の町(バ スラ とクーファ)を

代表 す る 先生 で あ る。 それ が対 立 した とな る と,だ れ が判 定 を 下 す べ

きだ ろ う」 と言 った 。

す る と彼 等(ク ーファ側)は

「扉 の と こ ろに控 えて 居 ります ベ ドウソ達 に判定 させ て はい か が で

し ょ う」 と,提 案 した。 こ うして 数 名 の べ ドウ ン(あ らか じめ,AI-kisa'i

達がつれて きていた)が,そ の席 へ 参 加 を 許 され,こ の場 合,

fa-'idha huwa'iyyahaで あ る と述 べた ……註(15)」

この結 果,Slbawayhは,負 けた のだ が,Yahyaは,彼 に々賞 金一 万 デ

ィル ハ ムを 与 え,去 らせ た 。Sibawayhは 憤 然 と して,故 郷 に々帰 り,間

もな く他 界 した。

さ て,こ のSlbawayhの 答 え は,そ の後 多 くの彼 の弟 子 達 によって,

正 しい と され た 。そ して,今 日で は,Al-kisa'iが,あ らか じ,めベ ドウ ン

を 買収 して い た とい う伝承 が,信 じ られ てい る 。 この 他,こ の論 争 に つ

い て は,少 しち が った表 現 の も の もあ る が 「スズ メバ チ 論争 」 は,パ ス

ラ,ク ー フ ァ両 学 派 の論 争 の一 典 形 を なす もの として よ く知 ら れ て い

る 。Sibawayhのal-kitabは,し か し文 法 学 史 上,最 も重要 な文 献 で あ

る 。 彼 が,そ の 師Al-khalilや,そ の他 の説 を 引用 して これ を 集 大 成 し

た こ とは,al-kitabそ の も の に書 か れ てい る と ころ か ら明白 で あ る 。例

え ば,縮 少 型(at-tasghir)に つ いて,説 い て いる 箇所 には,

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9世 紀以前 のアラビア語の研 究(池 田)

「この章 お よび次 章 に お い て私 が 述 べ て い る の は,Yunusの 説 で あ る」

(alkitabII-109),と か,或は,Abu'amr ibn al-'ala'の 説に 言 及 して,

これ をAl-khalilとYunusの 説 と比 較 しな が ら,

「私 は,Al-khalilに,呼 び掛 け(an-nida')に お いて,al-gadi(裁 判官)

とい う語 は ど うす れ ば よい か と質 問 した と ころ,彼 は,

"Yagadi"と す べ きで あ る。 ち ょ うど,tanwin(語 末鼻音化現象)が,

"Hadba l-qadi(こ の裁判官)"と い う場合 つ か ない の と同様に,と 答 え

た。 これ に対 し,Yunusは,

"Yaqad"と す べ きで あ る と言って い る。Yunusの 説 が 有 力('agwa)

で ある 」(al-kitab II-289)と も述 べ てい る 。

またAbual-khitab al-'akhfashの 説 の 引用 も多 く,「 ア ラ ビァ語 に

つ いて 最 も信 頼 のお け る者 が 語 って くれ た が 」 と暗にAbu zaydの こ

とを 示 した り,ま た,「 この 詩 は,純 粋 な ア ラ ビァ語 を 話す べ ドウ ンが,

彼 の父 の詠 んだ もの で あ る と言 って,我に 教 え た も ので あ る」(al-kitab

II-52)の よ うに,ベ ドウ ンか らも材料 を得 て い る。

要 す る にSibawayhは,al-kitabの 中に,先 行 学 者 の諸 説 等 を 集 約 し,

整 理 し,彼 等 の用 い た例 証 や,彼 自身 が聞 い た 例証 詩 な どをbab(章)に

分 けて,ま とめ た ので あ る。

この書物 は,今 日 まで 完全 な 姿 で 残 って い る 。全 部 で571章 よ りな り,

語 形 論,と 統 語 論 の す べ て にわ た っ て詳 細に 論 じてい る 。

Sibawayhは,al-kitabに,コ ー ラ ンと,ア ラ ブ古 詩 か ら 合計1,050

の証 例(shawahid)を あげ,あ らゆ る文 法上 の論 点,問 題 点 を,系 統 的,

論 理 的に 解 明 して い る 。 これ以 後,文 法 学 者 の 主 な研 究 は,こ のal-

kitabを 学 び,弟 子に 教 え,解 説 を つ け る ことで あ った 。 解 説(sharp)

を つ け た 者 約27人 の うち,Hasan as-sirafi(H368/978-9)の も の が 最 も

重 要 視 さ れ て い る 。(ヨ ー ロ ッパ で は,H.Derenbourgに よ る 校 訂 版 パ

リー1881~1889が あ る)。

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パ ス ラ学 派 の学 者 達 の 関心 事 は,文 法的 な問 題 に 限 らず,豊 富 な ア ラ

ビア語 の語 彙 の研 究 も,彼 等に と って は,充 分 興 味 を 引 くも の で あ っ た。

彼 等 は,こ の研 究 を,主 と して,ア ラ ブ古詩 の蒐 集 との関 連に おい て 開

始 した 。 ア ラ ブ古 詩に 正 しい 解 釈 を下 す た めに,彼 等 は,イ ス ラ ム以 前,,

つ ま りジ ャー ヒ リー ヤ時 代に おけ る ア ラ ビア語 の用 法 を,そ の ま ま よ く

保 存 して い る とみ な され てい た べ ドウ ソ達に 目を 向 け た。 彼 等 は,砂 漠

の 中へ 出 か け てベ ドウ ソを尋 ね た り,逆 にベ ドウ ンを バ ス ラに まね い た

うして,彼 等 の言 葉 を 記録 に とどめ た 。 彼等 が砂 漠 の住 人 達 と の交 渉 を9'

あ らゆ る機 会 を と らえて 保 つ のに 努 め た こと は,数 多 くの ア ラ ブ伝 承に

語 られ て い る。

Abu'amr ibn al-'ala'や,Al-asma'iな ど,古 詩 や ベ ドウ ソ社 会 の こ

とを よ く語 り伝 えてい る学者 達 は,す べ て,こ の よ うな方 法に よ って,

資料 を 収 集 し,こ れ を 基礎 と して,ア ラ ビァ語 の辞 書学('ilm al-lugha)

を発 展 させ た の で あ る。

初期 の文 法 学 者,辞 書 学者 の多 くは,

kitab al-wuhush .,(野 生 動 物 の書)

kitab al-khayl(馬 の書)

kitab ash-sha(羊 の書)

kitab al-'ibil(ラ クダの 書)

kitab al-matar(雨 の書)

kitab khulq al-'insan(人 間習 性 の 書)

な どの 題 名 で 同 じよ うな著 書 を 残 した こ とを,al-fihristの 著 者Ibn an-

nadimは 記 録 して い る が,こ れ は,何 を物 語 る もの で あ ろ うか 。筆 者 は9,

初 期 の辞 書学 は,Al-khalilの 「ア イ ンの 書」 の配 列法 を 取 り入 れ,単

に,純 血 を誇 るベ ドウ ソの用 い る語 彙 お よび表 現 法 の蒐 集に は じま り,

やや 進 ん で,題 目別に 整理 す る程 度に 達 した の だ と考 える もの で あ る。

これ 等 の書物 の 中で は,ベ ドウ ン社 会 で 見 られ る そ れ ぞれ の 題 目に 関 係.

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9世 紀以前のア ラビア語 の研究(池 田)

す る さ まざ まな 言 語 学 的資 料 が,詳 細 に 記 録 され,数 多 くの例 証 が 論 ぜ ら

れ た だ ろ う。 また,語 彙 や 表 現 法 の蒐 集に 加 え,彼 等 は,非 常 用 語(い

わゆal-gharib),に 強 い 関心 を 持 って い た よ うで あ る 。

ア ラ ビア語 の辞 書 学 が,語 彙 を 集 め て,題 目別 に 整理 す る初 期 の 段 階

,から,膨 大 な,体 系 を 整 え た辞 書 編 集 に発 展 す る の で あ る が,そ れ に は,

さ して 時 間 はか か らな か っ た よ うで あ る 。

バ グ ダ ッ ドの学 者 で,バ ス ラ学 派 の 方 法 を受 け 次 い だAbu bake mu-

畑mmad ibn durayd(H321/933)の 著 作 が,こ の発 展 過程 を証 拠 立 て る

もので あ る。

彼 は,バ ス ラ学 派 の代 表 的 な文 法 学 者 の 一人.Atbu hatim as-sijistani

(H250/864-5)を は じめ,合 計19人 の師 を 持 ち,多 くの弟 子 と,約25種

の 著作 を 残 した註(17)。

彼 がす ぐれ た詩 人 で あ った こと は,Abu bakr muhammad ibn rawq

al-'asadiが,

「Ibn duraydは ,詩 人 の 中 の最 大 の学 者 で あ う,学 者 の中 の 最 大 の詩

人 で あ った 」 と,語 っ てい る こ とか らも うか が える註(18)。

また,Ibn khallikanは,「Al-mas'udlは,Ibn duraydが,言 語 と

詩 歌 の面 で す くれ て い る こ とを証 言 し,"lbn duraydは,当 代 切 って の

詩 人 で あ り,ま た,辞 書 学 を 極 め た学 者 で あ る。 彼 は,い わ ばAl-kbalil

ibn ahmadに 比 す べ き人 物 で,先 行 学者 の 知 らな か った 言 語 上 の 事柄

の 多 くを説 き 明か した"と 語 った」 と,伝 え てい る註(19)。

彼 は 辞 書 学者 と して,as-sarjwaal-lijum「 鞍 と 手 綱 」 とか,sifat

as-sihab wa al-ghayth「 雲 と雨 の 性質 」 とか,gbarlb al-qur'anコ ー

ラン の非 常用 語 」as-silah「 武 器」 な ど,い わ ゆ る題 目別 の辞 書 を 著 して

い る が,こ の他に,膨 大 な語 彙 集jamhara fi al-lugha(言 語集大成)を

著 した 。 これ は,初 期 ア ラ ビア語辞 書 学 の 集大 成 と も云 うべ き もの で あ

る が,後 に 辞 書学 が 著 しい発 展 を とげ た た め,あ ま り注 目され な い。 し

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か し彼 は,今 一 つ の著 作kitab al-'ishtigaq(語 原の書)に よっ て,そ の

名 を 後世に 残 した 。

この 書物 は単 な る単 語 集 で は な くて,古 代 ア ラブ の種 族 名 に 関 し,そ

の起 源 につ いて の伝 承,お よび語 原 研 究 の書 物 で あ る。 また これ の編 集

は,ア ラ ブ諸種 族 の系 統 分 技 を基 礎に 行 な っ て い る ので,単 に ア ラ ビァ

語 の古 い 語法 や 語原 の資 料 で あ る のみ に と どま らず,ア ラ ブ社 会 の系 図

研 究 の信 用 出来 る資 料 と して 今後 注 目す べ き もので あ ろ う。

Ibnduraydの 語 原 研 究 は,バ グ ダ ッ ド学 派 のIbnjinniに よっ て,

更 に系 統 立 った もの とな る。 彼 の大 語 原,小 語 原 の 分類量は,語 根 と意 義

との 関連 を 明 らかに す る画 期 的 な業 績 で あ る 。

バ ス ラ学 派 を 代 表 す る博 学 な 言語 学 者 の 一 人に 数}ら れ て い る の が,

Abu al-'abbasal-mubarrid(H285/898)で あ る 。

彼 は,自 信 の強 い 学者 で あ った ら し く,仮 えSibawayhの 権 威に 対 し

て さ え も,暗 々裏に 従 うよ うな こ とは な く,そ の著 作 の 中に は,Ar-rad

'ala sibawayh(シ ィーバー ワィ ヒへの反論)と い うよ うな も の まで あ った

と 伝 え ら れ て い る註(20)。しか し,後 に,彼 は,パ ス ラ学 派 の 学 者 と して,

Slbawayhのal-kitabに 最 大 の 尊 敬 を 払 うに 到 っ た 。 あ る 時,al-kitab

を 学 び た い と 思 っ て い る とい う者に 対 して,

Hal rakibta l-bahra?

「君 は ,大 海 に乗 り出 した の か」 と話 しか け た とい う註(21)。これ は,彼 が,

al-kitabを,偉 大 視 し,そ の 内容 を誇 示 しよ うと した もので あ る とAS-

siraflは,伝 えて い る。

彼 はAl-kitab al-kamil(完 全 な書 物=W.Wright.Leipzig1864)と

い う著 作 を 残 し,後 世に 名 をな した。 この 書 物 は,そ の名 の如 く,ア ラ

ビァ語 につ い て は 勿論 の こ と,ア ラ ブ人 の 習 慣 や,詩 歌 お よび歴 史に 関

ずる さ ま ざ まな 伝 承 を,内 容 とす る文 献 で.ウ マ イ ヤ朝 全 体 とア ッマ ー

ス朝 初 期 の歴 史 は勿論 の こ と,特 に ハ ワー リ ジュ派 の動 ぎ と,主 要 人物

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9世 紀以前 のアラ ビア語の研 究(池 田)

に関 す る情 報 の宝 庫 だ と言 っ て も構 わ ない 。 しか し,内 容 が 多 岐に わ た

る反 面,系 統 だ った もの とは い えず,あ る 文 法 的 な 問題に つ い て述 べ る

か と思 うと,例 証 詩 を引用 し,そ の詩 人 に まつ わ る伝 承 を 文 学 的に 香 り

高 い文 章 でつ づ り,い つ の 間に か読 者 を,作 者 の意 図す る 課 題に 引 き入

れ る とい っ た手 法 を 用 い て い る 。主に,彼 の 多 くの師 や,古 詩,お よび

詩 人 達に つ い て述 べ て い る 。al-kamilは,こ の た めに,歴 史 資 料 で あ

る と共 に,彼 以後 著 し く発 展す る一 種 の純 文 学,即 ち,ア ダ ブ文 学 へ の

橋 渡 しをす る文 献 で もあ る 。 又,彼 が一 連 の 「文 法 学 者 伝」 の先 駆 と し

てTabaqat an-nahwiyyln al-basriyyinを 書 い てい る の は,バ ラス学 派

の存 在 時 期を考 える 上 で 重 要 で あ る。

Al-mubarridを 有 名に して い る の は,al-kamilと 共に,彼 がバ ラ ス学

派 を代 表 して,ク ー フ ァ学 派 を 代 表 して いたTha'labと,か つ てな い

論 争 を 行 な っ た ことで あ る 。 この論 争 は,Al-mubarridがSibawayhの

al-kitabを 基 礎 と しな が ら 論 理 的手 法 とす ぐれ た 修 辞(balagba)の 駆 使

に よってTha'labを 敗 北 させ,以 後 両 学派 は,存 在 しな くな った 。 即 ち,

これ以 後 の 学者 は,お お む ね両 派 を 析衷 す るバ グ ダ ッ ド学 派 へ と吸 収 さ

れ て行 くの で あ る。

ア ラ ビァ 語 研究 史 上,バ ラス学 派 の 中 で今 日まで,文 献 を 残 して お る

主 要 な学 者 に ふ れた が,文 法 学 の面 で み る 場合,最 大 の文 献 は,Slba-

wayhのal-kitabで あ る 。 この書物 は,以 後 のバ ス ラ学 派 の学 者 達 を

眩 惑 し,Sibawaynの この書 物 の方 法 を学 び,こ れに 従 うこ とが彼 等 の

義 務 の よ うな もの と な って い た らし く,「 …… は,… …に 師 事 してal-

kitabを 学 ん だ」 とい う形 の伝 承 がや た ら と多 い 。

また,Abu'utbman al-mazinilid「 文 法学に 関 して,Sibawayhの

al-kigabを お いて,大 著 を書 こ うとす る者 は,恥 を知 るべ きで あ る 」 と

さ え 語 っ て い る註(22)。

Al-rnubarridが,こ れ を 大 海に な ぞ ら え た こ と は,す でに 述 べ た が,

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これ等 の伝 承 は,al-kitabが,バ ラス文 法 を 育 て た 柱 で あ う,主 軸 で あ

っ た ことを 物 語 って い る。 言 葉 を 換 えれ ば,バ ス ラ文 法 は,al-kitabを

中 心に,色 々な解 説 を加 え て,こ れ を補 強 した もの で あ っ た とも云 えよ

う。

これ に対 して,ク ー フ ァ学派 は ど うで あ った か,彼 等 は,al-kitabに

強 い 関 心 を示 し,こ れ を 研 究 した ことは,バ ス ラ学 派に 劣 らな か った が,

そ の 立 場 は,あ くまで 「批 判者 」 と して の それに 終 止 して い た。

この 書物 が,ア ラ ブ文 学 史上 どの よ うに扱 わ れ て い た か を物 語 る資料

を 紹 介 しよ う。

Sa'idibn'ahmad al-jiyaniと い うア ン ダル シ ヤ の学 者 は,

「私 は,古 今 を通 じて,一 冊 の書 物 の中に,あ る学 問 の 全 体 が 包 まれ

て い て,そ の学 問 分 野 を くま な く取 り囲 んで い る 書物 とい え ば,た だ次

の 三 冊 を 除い て 類 を み な い。 第 一 は,プ トレマ イ オ ス の天 文 学 書 で あ り,

第 二 は,ア リス トテ レス の論 理 学 書 で あ う,第 三 は,バ ス ラ の人Siba-)

wayhのal-kitabで あ る註(23)」と語 って い る。

またAl-jahizは,「 私 は,Al-mu'tasimの ワ ジ イ ー ル(宰 相)Muh

ammad ibn'abdal-malik az-zayyatを 訪 門 し よ うと思 い,何 か贈 物 を

と考 えて見 た 。 そ の結 果,Sibawayhのal-kitabに 代 るべ き立 派 な もの

はな い ことに 気 が つ い た。 ワジ ール の と ころ に行 くと,私 は,

"こ の書 物 は,Al-farra'(後 出)の 遺 産 の 中 か ら買 い ま した"と 申 し

上 げ た 。 ワジ ール は

"こ れに ま さ る土 産物 に何 が あ ろ うか"と 言 われ ま した」 と も伝}ら

れ て い る註(24)。

この 書 物 は 「文 法 学 の コー ラ ン」 と も云 わ れ,ま た,「 某 々が 書物 を

読 ん だ とい え ば,Sibawayhのal-kitabの ことで あ る。 書 物 の 半分 を 読

んだ と云 え ば,こ の 書物 の ことで あ る」 こ とが,バ ス ラで は,自 明 の こ

と で あ っ た註(25)。尚,Sibawayhか ら,Al-mubarridに 致 る 間 のQutrub

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9世 紀以前 のアラ ビア語の研 究(池 田)

(H206),Abu'U'bayda(H210),Al-asma'i(H216),Abu zaid(H215),

Al-akhfash al-awsat(H215),Al-jarmi(H225),Al-mazini(H248)な

どに つ い て は 紙 幅 の 関 係 で こ こ で 特に ふ れ な か っ た 。

§3

ア ラ ビ ア 語 研 究 史 上 言 わ れ る ク ー フ ァ学 派 は,Ar-ru'asi(H187/802-3)

に は じ,ま り,Tha'labv(H291/903-4)に 終 っ た こ とに な っ て い る 。le/luha-

mmad更abdAl-mu'im(注(5)参 照)は,こ の 学 派 は,次 の 四 階 層 か ら成 立

し て い た と し て い る 。

第 一 層 (1) Ar-ru,asi(H 187/802+3)

(2) Sha.yban ibn'abd ar-rahman(H 164/780)

第 二 層 (1)Al-kisa'i(H 189/804-5)

(2)Abu Al-basan Al-ahmar(H 194/809-10)

(3) Al-farra'(H 207/822)

(4)Hisbam ad-darir(H 209/824)

(5) Al-lihya:ni(H 220/835)

第 量三 層 (1)Al-gasim ibn sallam(H 223/837-8)

(2) Ibn Al-a受r乱hl(H 231/845)

(3) Ibn sa'dan(gl 231/845)

(4)At.tuwal(H 243/857)

(5) Ibn as-sikkit(H 244/858)

(6)Ibn gadim(H 251/865)

第 四 層 (1)Tha'lab(H 291/903-4)

以 上 の よ うな クー フ ァ学 派 の 階層 把 握 は,従 来 のア ラ ブ資 料に よ って,

な され て 来 た もので あ う,現 代に な って も,Ahmad aminも,大 体 これ

に 同調 した と らえ方 を して い る註(26)。即 ち,ク ー フ ァ学 派 の学 祖 を,従 来 は,

Ar-ru'asi(H 187/802-3)に す る ことに よっ て,バ ス ラ学 派 の 中心 人物 で

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あ るAl-khalil.,(H174!790)及 びSibawayh(H188/803-4)と,ほ ぼ 同 時

代 に ク ー・フ ァ 学 派 が 存 在 し て い た こ と を 主 張 し て い る の で あ る 。Ibnan-

nadimは,Ar-ru'asiの 次にMu'adh ibn muslim al-hirra'(H187/802-3)

を 配列 して い る註(27)。しか し,最 近,ク ー フ ァ学 派 の 真 の建 設 者 は,Al-kisa'1

と,そ の弟 子Al-farra'で あ る とす る新 らしい 判 断 が示 され は じめ た こ

とは,注 目され る註(28)。この二 人 は,バ ス ラで 文 法 学 を修 め,ク ー フ ァに帰

って,バ ス ラ文 法 に批 判 を 加 え,ク ー フ ァ文 法 を は じめて 説 い た とす る

もの で あ る。

従来 言 わ れ て来 た よ うなAr-ru'asiや,Mu'adbの ク ー フ ァ文 法 学 者

と して の存 在 は,こ れを 証 拠 だ て る よ うな文 献 が な く,臆 測 の域 を 出て

い な い。 この よ うな臆 測 が 何 故下 され た か を 考 える上 で 見 逃 がす ことが

出 来 な い の は,彼 等 を クー フ ァ学 派 の初 期 文 法 学者 であ る とい う説 を 唱

えて い る の が,Abual-cabbastha'labお よび そ の 弟子 のAbubakribn

al-anarlで あ る とい う事 実 で あ る 。 当時,バ ス ラと クー フ ァの両 学 派

間に は,か つ て な い 激 しい論 争(al-khilaf)が あ う,互 いに 党 派 心(al-'as

ablyya)に もえて 論 争 して いた 。Tha'lab(ク ーフア)とAl-mubarrid(バ

ス ラ)は,い ず れ も,Al-i'rab(文 中で果す単語の機能を語末母音で判断す る

文法学上 の用語)の 大 家 で あ う,両 者 の論 争 は,文 法 学 上 の あ らゆ る 問 題

に わ た っ てい た が,こ の よ うな過 程 で,ク ー フ ァ側 が,al-ierabが,伝

統 あ る もので あ り,バ ス ラが 基本 とす るal-kitabの 著 者Sibawayhの

頃 まで,さ か のぼ う得 る もの だ と誇 大に 主 張す る よ うな ことが あ っ て も

不 思 議 で は な い。

Mu'adhに つ い てみ る と,彼 が初 期 の 文法 学 者に 名 を 出 して お りな が

ら,文 法 上 の著 作 が 知 られ て い な い。 又,他 の文 法 書に,彼に 由来 す る

学 説 が 見 当 らない 。 分 って い る の は,彼 が'Abd al-malik ibn marwan

(H96/715ウ マイヤ朝第5代 カ リフ)の 子 供 達に 教 えた とい うこ と,お よ び

教 えた 内 容 が文 法 学 と関 係 が 直接妾ない もの で あ った とい うこ とで あ る。

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9世 紀以前 のアラ ビア語の研究(池 田)

当 時 の 家庭 教 師(al-mu'addib)は,詩 歌 とア ダ ブが 説 明 出来 て,コ ー ラ

ソの 正 則的 な読 み 方(Al-qira'a)の 知 識 を有 して お れ ぽ,そ れ で た りた 。

Mu'adhが ア ダ ブ と,詩 歌 のrawin(口 伝者)で あ り,コ ー ラ ンの 読 手

で あ った と推 則す る こ とは,困 難 で は な い 。何 故 な ら,ク ー フ ァは,文

学 上の 伝 承 家(ar-riwaya)と コー ラ ン読 誦者 の 揺藍 の地 で あ った か らで

あ る。

As-suyutiは,「Mu'adhこ そ,語 形 論('ilm at-tasrif)を,は じめ て説

いた 学 者 で あ る」 と述 べ て い るが註(29),これ は,言 い過 ぎで あ る 。As-suyutl

は,Az-zubaydlの 言 を 引 用 して,彼 が,「Yafa'i1'if'Al」 と答 え た と

い う伝 承に 注 目 して い る が,ア ラ ビァ詩 の動 詞 や 名 詞 の形 を 「F'L」 の

三 文 字 で 示 す こ とを 語 形論 の方 法 と して用 いて,独 自のserf(語 形論)

学 が成 立 す る の は,Slbawayh以 後 相 当経 過 して か らで あ る か らだ。 少

な く と も,Mu'adbの 時 代に は,nahw(統 語論)と,serf(語 形論)は,

未分 化 の状 態に あ った の で あ る。 語 形 をFa','ayn,lamの 三 文 字 で 示 し

た の はAl-khalilだ がAl-kiss'iの 講 義 の 席 で あ るベ ドウ ソア ラブが 説

い た もので あ る とYaqutは,伝 えて い る註(30)。

Ar-ru'asiを クー フ ァ学 派 の学 祖 とす る説 は,か な り有 力 で,前 述 の

通 う,Ahmad aminも この説 を採 用 して い る。 ア ラ ブ資 料 は,大 体 彼

が,'ustadh al-madrasa al-kufiyya al-awwal(最 初のクーフア学派 の師〉

で あ る と述 べ,Al-kisa'iも,Al-farra'も 共に 彼に 学 び,彼 こそ は,最

初に クー フ ァの 学者 の中 で,文 法 書 を 著 わ した人 物 で あ る と して い る。

Ibn an-nadim は,彼 の 著 書 を多 くあ げ,こ の 中にkitab al-faysal(断

定 の書)と い うの が ある が,Tha'labは,こ れ を,ク ー フ ァに お け る最 初

の 文 法 書 だ と 言 っ て い る註(31)。ま た,彼 は,kitab at-tasghir(縮 少 形 の 書),

kitab ma'ani al-qur'an(コ ー ラ ンの意 義)akitab al-waqf wa al-ibtida'

(休 止 と開始 の書)を 書 き,更に,「Al-kballl ibn ahmadは,私に 使 い を

よ こ し,私 の 著 書 を 求 め た 。 そ こ で 私 は,そ れ を 送 っ て や っ た と こ ろ.

-139-

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彼 は,こ れ を読 んで,著 作 を もの に した」 と語 った といわ れ て い る註(32)。

しか し,Al-rriakhzumi(注(28)参 考)が,「Muqadbは,'Abd al-malikibn

marwanの 時 代に 生 まれ,Al-barmak家 の時 代 ま で 生 きつ づ け た。 こ

の間,子 供 と孫 が 出来,彼 等 が 皆 ん な死 ん だ あ と も長 生 し,バ ス ラ生 れ

で あ った が,い と このAr-ru'asiと 一 緒に クー フ ァに 移 住 し,こ こで,

パ ス ラの 学 問 を教 えた註(33)」と語 ってい る よ うに,Ar-ru'asiは,実 は,ク

ー フ ァ学派 以 前 のバ ス ラ文 法 を学 ん だ 者に す ぎな か った の で はな か ろ う

か 。 彼 は,'lsa ibn'umarに 学 び,Al-khahlやSlbawayhと,同 じ道 を

歩 んだ ので あ っ て,当 時,最 もす ぐれ てい たAl-khalilが,Ar-ru'asi

を参 考 に しな け れ ば,書 物 が 書 け なか った とい うこ と も,信 じが た い 伝

承で ある 。何 故 この よ うな 伝 承 が後 世 に 流布 され ア ラ ブ資料に 書 き込 ま

れ てい る の で あ ろ うか 。

クー フ ァ とバ ス ラ は,建 設 当初 か ら強 い対 立 関 係に あ った 。 そ れ は,

都 族 主 義(al-'asabiyya al-gabaliyya)に 根 ざす 宗教,政 治面 で の対 立 で あ

ったが,こ れ が,次 第に 学 問 の分 野 で の対 立に 発 展 した 。Al-kisa'iと

Sibawayhや,Al-yazldlとAl-kisa'iの 論 争 が 激 し く行 なわ れ た が,

この よ うな 学 問 上 の抗 争 の 結果,ク ー フ ァ側 は,そ の所 説 の 伝 統 を 出来

る だけ 古 くさ か の ぼ らせ る た め,Mu'adhがsarf論 を 説 き,Ar-ru'asi

が 「断 定 の 書」 を書 い た と し,Al-khalilま で が これ ら参 考に した とい

う伝 承 を,勝 手に 作 った とい う判 断 が 下 され 得 る の で はな い か。

Ar-ru'asiが,ク ー フ ァ学派 の中に あ ってAl-kiss'i及 びAl-Farra'に

対 して どの 程 度 の地 位 を 有 して いた か を示 唆 す る ものに 次 の よ うな伝 承

が あ る。

「Al-Farra,は 語 った。Al-kiss'iが 種ミグダ ッ ドへ 登 って し まった 時,

Ar-ru'asiは,私に,"Al-kiss'iは,遂に 行 っ た 。君 の方 が,彼 よ り年 上

だ のに(一 説 には,君 の方 が彼 よ うす ぐれ て い るのに)"と 話 し か け ま し た註(34)。

そ こで,私 も,バ グ ダ ッ ドへ 参 り,Al-kisa'iに 会 っ て,Ar-ru'aspに

-140-

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9世 紀以前のアラ ビア語の研 究(池 田〉

知 恵 づ け られ た 質 問 を あ びせ ま した 。 す る と,Al-kisa'iは,私 が教 え

られ た 答 とは違 う回 答 を し,私 が,一 緒に 来 た クー フ ァの人に 目で あ

いつ ちを 求 め る と,Al-visa'iは,"君 は,何 故 否 定す る のか 。 クー フ ァ

の人 間 で は ない のか"と 言 うので す 。

私 は,"ク ー フ ァの人 間 です"と 言 うと,彼 は,"Ar-ru'asaは,こ れ

これ だ と言 っ てい る が,あ れ は,間 違 い で あ る。 私 は,ベ ドウンが これ

これ しか じか と言 うの を 聞 いて い るの だ か ら"と 言 い私 の質 問に ふ れ ま

した。 そ して,と うと う私 はAI-kisa'iに 組 した の です註(35)」

この伝 承 は,Al-kisa'iが,Ar-ru'asiと い うお そ ら く バ ス ラ文 法 を 教

え て いた 人物 の権 威 を 認 め てい ない こ とを物 語 って い る もの で あ る。 こ

の よ うに見 て くる と,Al-makhzumiの よ うに 「新 ら しい 方 法 を用 い て,

クー フ ァ文 法 を は じ,めて説 い た の は,Al-kisa'iで あ り,そ れ 以 前 の 文 法

学 は,バ ス ラに しか 育 って い なか った の で あ り,バ ス ラ人 で あ る と,ク

ー フ ァ人 で あ る とを 問 わず ,お よそ ア ラ ビァ語 を 学 ぶ者 は,バ ス ラで 学

ん だ 。 そ の後,最 初に クー フ ァに,次 い で,バ グ ダ ッ ド,さ らに エ ヂ プ

トや マ グ レブ,お よび ア ソ ダル シ アに 文 法 学が伝 播 した 」,と 解釈 出来

そ うで あ る註(36)。Al-Makhzumiの 人 脈 で は,Al-khalilの 段 階 まで は,文 法

学 派 は,バ ス ラに だけ あ り,Al-kisa'iとSibawayhの 段 階 で,バ ス ラと

クー フ ァに 分 化 した こ とに な って い る の は このた めで あ る。

ク ー フ ァ学 派 の 「新 らしい 方法 」 は,バ ス ラのそ れに 比 べ は る かに 経

験 主 義 的 で あ った 。バ ス ラ学派 は,厳 格 な一 般 的 ル ー ルを まず 定 め,こ

れに そ ぐわ な い個別 的 例 証 は,例 外(ath-shudhudh)と み な し,例 外 を 類

推 の基 礎 と しない 方法 を 用 い た。 これに 対 して,ク ー フ ァ学派 は,詩 人え

達や ベ ドウソ等 の なす 例 外 的表 現 を も,一 般 原 理(asl)と して,受 容 し,

類 推 を 行 な うとい う方 法 を 取 った。 これ は,ア ラ ブ文 法 等 に お け る類 推

論 と例 外 論 の対 立 と理解 す る こ と も出来 る が,こ の対 立 は,実 は,両 学

派に 分 化 す る 以前 か ら存 在 して い た ア ラ ビァ語 研 究 史上 の 古 典的 対 立 で

-141-

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あ る。 ク ー フ ァが,言 語 を あ る ま まの 姿 で と らえ よ うと した 方 法 は,ア

ラ ビァ語 で 書 かれ た コー ラ ンの神 聖 視,ア ラ ビァ語 の 「神 の 言 葉」 と し

て の理 解 に 由来 す る と ころ もあ るだ ろ う。

Ahmad amlnは,「Al-kisa'iは,特 別 の ケ ー スを 除 い て は許 さ れ な

い よ うな例 外 を 聞 くと,こ れ を 原理('asl)に 仕 立 て,類 推 を 行 な い か く

して 文 法 学 を台 無 しに した 」 とかAl-andAlsiの 言 を 引 用 して 「クー フ

ァの人 達 は,原 則 に反 す る よ うな詩 の一 節 で も聞 くと これ を 直 ち に 一つ

の原 則 と して,一 章(bab)を 設 けた 」 と してい る註(37)。例 え ばIbn al-'anbari

は,kitabal-insaf(前 出 §1)の 中 で,不 定 名 詞 の あ とに 同格 のkulluhu

(そのすべて)を 置 く こ とが 出来 る とい うクー フ ァ説 と,こ れ は 「例 外 で

あ って,こ れに 基 づ く 類 推 を して は な らな い(la yugasu'alayhi)」 とす

る バ ス ラの対 立 を取 り上 げ て い る。 クー フ ァは,あ る詩 の例 外 的 用 例 に

習 って 主 張 し,

shahran kullahu一 ケ月 全体

laylatan kullaha一 晩 中

な どの表 現 も許 され る と一 般化 して い る註(38)。

Ahrnad aminは,初 期 文 法 学者 達に ふ れ て,「Ibn abi isbaq al-ha-

dramiと,そ の弟 子'Isa ibn 'umarは,尺 度(al-giyas)を 用 い る のに

熱 心で あ った 。 この二 人 は,例 外 に は,意 を 払 わず,ま た べ ドウ ソの あ

や ま った 用 法に も無 批 判 で あ った 。 これに 対 し,Abu'amr ibn al-,ala'

と そ の弟 子 のYunus ibn habibは,ベ ドウ ソの 言葉に 大 きな 関心 を 示

し,そ の 用法 上 の あや まち に は批 判 的 で あ った」 とし,「 前 者 の傾 向 は,

そ の後 バ ス ラの 人に,後 者 の傾 向は,ク ー フ ァの人 々に 引 き継 が れ た 。

特にAl-kiss'iと,Al-Farra'に 」 として,類 推論 と例 外論 が歴 史 的 な

も の で あ る こ とを 明 白に してい る註(39)。

SibawaylzとAl-kisa'iの"ス ズ メバ チ論 争"(前 出)に して も,両 学

派 の考 え方,方 法 の ちが い を理 解 す る ことが 出来 る。Sibawayhが,

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9世 紀以前のアラ ビア語の研究(池 田)

fa-'idhahuwahiya(そ れ とこれは同 じよ うな ものだ)

と主 張 した時,彼 の 説 は,論 理 的 で あ る 。 何 故 な ら,huwa(彼)は,名

詞 文 章 の主 語(al-mubtada')で あ り,hiyaは そ の述 語(khabar)で あ って,

こ の二 つ の代 名 詞 は,主 格 位(raf')に あ るべ きで あ る と して い る た め で

あ る。

これに 対 して,Al-kisa'iは,ベ ドウンの 答 え を も とに して,自 説 を 主

張 した 。Slbawayhは,例 外 的 表 現 は,仮に 実 際に 聞 か れ る もの で あ っ

て も,類 推 の 基本 とす る こ とは,許 さな か った ので あ る 。

バ ス ラ学 派 と クー フ ァ学 派 は,こ の よ うな姿 勢 と方 法 の基 本に おい て

最 初 か ら対 立 し,両 者 の論 争 は,広 範 囲 に展 開 され た 。

クー フ ァ学 派 が今 一 つ バ ス ラ学 派 と きわ だ った 対 照 を みせ る の は,前

者 が 時 の権 力者 と深 くむす びつ い て い た ことで あ る 。バ グ ダ ッ ドが 建 設

され,ア ッバ ー ス朝 の 基礎 が 固 まる と,カ リフや ア ミール は,学 問 をす

す め,子 弟教 育を 学 者に ゆだ ね る よ うに な る。 これ に便 乗 した の が,従

来 か ら政 治,軍 事 に 関 係 の深 か った クー フ ァ出身 の学 者 達 で あ っ た。

Al-kiss'iが カ リフ アル ラ シ ィー ドの命 令 で,ア ル ア ミー・ン とア ル マ ア

ム ー ンの 師 とな り,Al-F'arra'が ア ル マ ア ムー ンの息 子 の 師に,ま た,

Ibn as-sikkitが,ア ル ム タ ワツキ ル の息 子 の 師に な った の は,こ の よ う

な関 係に よる もので あ る。 彼 等 が,当 時 の権 力者 の子 弟 に学 問 を教 えた

とい うこ とは,従 来 難解 と され て いた 文 法 学 を,青 少年 の手 の と ど く と

こ ろに お いた とい う点 で 評 価 は 出来 る。 バ ス ラ学 派 のAl-lnubarridが,

Sibawayhのal-kitabを 読 も うとす る者 を つ か ま えて,「 君 は大 海 へ 乗

り出す の か」 と言 い,Al-azlniが,Al-kitabに 代 る著 作 を こ ころ み る

者 は恥 を知 れ と した の も(前 出),い ず れ も,バ ス ラ学派 が,文 法学 を偉

大 視 し,難 解 視 して いた こ との証 拠 で あ る が,ク ー フ ァ学 派 は,支 配 者

達 の子 弟教 育を 通'じて,文 法学 を,「 明解 」に し,「 単 純 」に す る ことに

つ とめ た もの と考 え られ る 。 この よ うな クー フ ァ学 派 を 代表 す る学 者 が,

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Al-kisa'iと され る の は,当 然 で あ る。 彼 は,ク ー フ ァで,Mu'aclhや

Ar-ru'asiに 師 事 した あ と,バ ス ラでAl-kbalil ibn ahmadやYunus

な どに 師事 して い る。 彼 はバ ス ラ文 法 を学 んだ あ と,砂 漠 の ベ ドウ ソか

ら多 くの知 識 を 得 た。 メ ッカへ の 巡 礼 の途 中,数 年 間 ベ ドゥン と共 に 生

活 し,資 料 を 多 く集 めた 。 こ うして,次 第に バ ス ラ文 法 か ら脱 出 して,

新 らしい方 法に よる批 判 者に 成 長す る。 筆 者 は,Al-kisa'iの 方 法 は,コ

ー ラ ン読 み の方 法 に バ ス ラ文 法 学 の方 法 を ミ ックス した も ので あ る と考

えて い る。 コー ラン の読 み 方 は,一 種 の ス ンナ(Sunna)で あ り,正 し く

読 む と言 うこ とは,先 人 の 読 み方 に 従 うとい うことで ある 。 彼 が コー ラ

ンの7読 誦 者 の一 人 で あ った こ とを考 えれ ば 当然 の ことで あ る 。 彼 は,

この よ うな 経 験主 義に,Al-kbalilか ら学 ん だ バ ス ラの尺 度 を用 いた 類

推 とい う手 法 を 加 味 した の で あ る。 彼 が 「学 問 の偉 大 な 保 護者 」 とい わ

れ た カ リフ ア ツ ラ シー ドの 二 人 の息 子 ア ミー ン と マ ア ムー ンの師 とな っ

た こ とは,彼 の 権威 を 高 め,同 時に クー フ ァ学 派 の地 位 を あ げ,支 配者

達 は こぞ って 彼等 を家 庭 教 師に 採 用 す る よ うに な った 。 ア ミー ン とマ ア

ム ー ンは共に カ リフ とな り,Al-kisa'iに 数 々の 恩 恵 を 与 えた こ とは,よ

く知 られ てい る。 彼 と ア ッ ラ シ ィー ドとの 関係 は,親 密 を 極 めて い た。

カ リフがTus(ホ ラサ ーソ)を 訪 門 した 時,Al-kisa'iと,Muhammad ibn

al-hasan ash-shaybani(有 名なイスラム法学者)が 同行 した が ,Al-kisa'i

は,ラ ー イで 病 気に か か り,カ リフは 毎 日見 舞 った 。 しか し,彼 は,遂

に死亡 し,ほ とん ど時を 同 じ,くして,Ash-shaybaniも 死 亡 した 。 カ リ

フは,同 じ 日(H189)に 両 者 を ラー イに 埋 葬 し,バ グ ダ ッ ドに帰 る と,

dafannA l-figha wal-'arabiyyata bi-r-rayyi fi yawmin wahidin

"余 は,ラ ー イ の地に,イ ス ラ ム法 と ア ラ ビァ語 を,同 日に,埋 葬 し

た"と 詠 嘆 し た註(40)。

Al-kisa'iの 著 作 は,al-fihristに は,種 々 あ げ られ て い る が,こ れ 等 は ,

す べ て 失 な わ れ て お り,risala fi Iahn al-'amma(民 衆 の語 法 違 反に つ いて

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9世 紀以前のアラ ビア語の研 究(池 田)

の論考)と い うもの だ けが 伝 え られ てい る註(41)。しか し,彼 の権 威 が 不 動 の

もので あ った こ とは,種 々の資 料 で 明 白で あ る 。第 一に 彼 は,7人 の コ

ー ラン公 認 読 誦 老(al -qurr'a as-sab'a)の一 人 で あ った註(42)。第 二に 彼 は,時 の

権 力 と近 い 関 係 に あ った 。 この こ とが何 を 意 味 した か は,次 の伝 承 が 何

よ りも よ く物 語 っ て い る。Sibawayhが,Yahya ibn khalid ibn Barmak

に,「 私 は,あ な た が,私 とAl-kisa'iと を 対 決 さ せ て下 さ らな い か と思

って参 上 した 者 です 」 と 申 し出 た 時,Yahyaほ どの人 物 が 「私に は と

て も出来 な い 相 談 だ 。 それ とい うの も,Al-kisa'iは,平 和 の 都(バ グダ

ッ ド)の シ ャ イ フで あ り,こ の都 の読 論者(コ ーラソの)で あ り,ま た,

信 者 達 の長 の 御 子 息 の 師で あ って,こ の都 の者す べ て は,彼 の 味 方 で あ

るか らだ」 と言 って 断 っ た。 しか し,カ リフが これを 耳 に して,結 局 二

人 は,対 決 し た と い う も の で あ る註(43)。Yaqutは,mu'jam al-udaba'(同 書5-

188)で,文 法 学 者Al-kisa'iは,ア ッ ラ シ イ ー ドに と っ て は,法 学 者

Abu yusufに 比 せ られ る 人 物 で あ る と し,

「Al-kisa'iは ,カ リ フ の 気に 入 うで,カ リフ は,彼 を 家 庭 教 師 の 位 か ら,

親 しい 同 席 者(al-julasa'wal-mu'anisin)の 位に 引 き 上 げ た 」 と 述 べ て い る 。

これ ほ ど のAl-kisa'iも,詩に つ い て は,う と か っ た ら し く,Ibn

khallikan.,は,

「彼 は 詩 を 知 らず ,ア ラ ビァ 語 の 学 者 の 中 で,Al-kisa'iほ ど 詩に 無 智

な も の は な い と い わ れ て い た 」 と 述 べ て い る 。

ク ー フ ァ 学 派 の 路 線 を は じめ て 設 け たAI-kisa'iの 弟 子に は,Al-far-

ra',Al-ahmar.Hisham.,ibn mu'awiya,Salmuwayh,Ishaq ab-baghwi,

Abu mushil, Qutaybaの8名 な い し,こ れにAl-lihyaniを 加 え た9名

が あ げ られ て い る註(46)。

こ の 中 で,Al-kiss'iの 所 説 を 肉 付 け し,完 成 した の は,Abu zakariya

ziyad Al-farra'(H207/822-3)で あ る 。

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§4.

「Al-farra'は ,文 法 学者 と して は,細 か な ちが い は あ るに して も,Al-

khalilに 匹敵 す る 。 彼 は,広 範 な研 究 を 行 な い,外 来 文 化 か ら多 くの利

点 を 吸収 した註(47)」と,Mahdl Al-makhzumiは 述 べ て い る が,彼 が,文 法 学

者 の 中 にお い て は,最 大 の 学者 で あ った と評価 され て い た伝 承に は,事

欠 か な い。

「も しAl-farra'が 居 なか った ら,辞 書 学 は,存 在 しな か っ た ろ う。

何 故 な ら彼 は,こ れ を 集 め,整 理 したか らで あ る。 また 彼 が 居 なか った

な ら,ア ラ ビ ァ 語(文 法 学)は 没 落 し て い た だ ろ う… …註(48)」。

彼 は,Ar-ru'asiとAl-kisa'iに 師 事 す る と 共に,バ ス ラに4~5年 留

学 し,Yunusに も 師 事 し,バ ス ラ文 法 と ク ー フ ァ 文 法 の 双 方 を 修 め,そ

の 博 学 故 に,

「文 法 学 は ,Al-farra'に よ る も の,Al-farra'は,文 法 学 の ア ミ ー ル

アル ム ウ ミニイ ー ン(信 者の長)で あ る註(49)」とい われ た 。

ま た,彼 は,イ ス ラ ム法学,天 文 学,医 学,ア ラ ブ古代 史,詩 歌 に通

じ,mutakallim(神 学者)で もあ っ た。

「ム ウ タ ジ ラ派 に 心 情 的 で,著 作 に は,哲 学 者 で あ るか の よ うに 工 夫

し,哲 学 上 の用 語 を好 んで用 い た」 とYaqutは,同 じ箇 所 で 述べ てい

るが,彼 が マ ァ ムー ン の息 子 の教 師に な った の も,ム ウタ ジ ラ派 と関 係

が あ る 。 ム ウタ ジラ派 の有 力 な指 導者thumamaが,マ ァ ムー ンの宮 殿

を よ く訪 問 して いた 当 時,彼 は,た ま た まAl-farra'に 会 った 。 「私 が,

彼 に 会 っ てみ る と,ア ダ ブを心 得 た 人 物 で,同 席 して語 彙に つ いて 尋 ね

て み る と,彼 が 大海 の如 くよ く知 って い る ことが 分 った 。文 法 学 に つ い

て 比 類 な く,法 学に つ い て諸 派 の ちが い を よ く知 っ てお り,天 文 学,医

学 を は じめ ア ラブ戦 史,詩 歌に 通 じてい る の で,私 は,"一 体 これ ほ ど

の あ な た は誰 です か,Al-Farra'で し ょ う"と 言 うと,こ の 男 は,"私 が

Al-farra'で す"と 答 えた。 私 は,カ リフの と ころへ 行 くと これ を 話 し

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9世 紀以前のア ラビア語の研 究(池 田)

ま した 。 カ リフほ,す ぐにAl-farra'を つ れ て来 い と命 令 され た 。 これ

が き っ か け で,マ ー ム ー ン とAl-farra'と は む す び つ い た註(50)」

Al-farra'は,Al-kisa'iに 師 事 し,そ の 方 法に 従 っ た た め,多 く の 点

で 一 致 した 結 論 を 出 し て い る が,Al-kisa'iが ハ デ ー ス 学 者 や 読 誦 者 の 方

法に よ っ た のに 対 し,Al-farra'は,よ り哲 学 的 ・神 学 的 思 考 を 基 礎 と し

て,文 法 学に 取 り組 ん で い る 。Sibawayhが,師Al-khalilと し ば し ば

見 解 を 異に した よ うに,Al-farra'も,Al-kisa'iと 対 立 し た 説 を と こ ろ

ど ころ で行 な って い る註(51)。しか し,全 体 と して み る と,Al-farra'は,師

の 描 い た ク ー フ ァ文 法 の骨 組 み に 肉付 け し,完 成 した の で あ る 。

マ ア ム ー ン は,彼に 文 法 の諸 原理('usulan-nahw)を ま とめ,ま た べ

ドウィ ンの言 葉 を 解 説す る よ う命 じて,宮 殿 の一 室 を 与 えた 。 そ の上,

召 使 い,書 庫 及 び書 記 も与 えた 。 こ うして,彼 が書 き上 げ た の が有 名 な

kitabal-hudud(限 界 の書.す でに 失なわれてい る)と い う大 著 で あ る。Al-

hududと い う名称 は,こ の書 物 の内 容に よ る もの で,haddal-ma'rifa

wa annakira(限 定語 と非限定語の限界)と か,hadd an-nida'(呼 び掛の限

界)の 如 く,用 い られ て い る。 こ れ は,hadd(限 界)の 複 数形hudud

を,「at-ta'arif(定 義)と い う意 味に,用 いて い る もの で あ って,Siba-

wayh(babを 用いた)に み られ な い もの で,Al-farra'が 論理 学 と哲 学に

影 響 され て い た ことを 示 す もので あ る註(53)。」 と,Ahmad amlnは 説 明 して

い る。Al-farra'のhududの 概 念 は,文 法 学に お け る規 則(Al-gawa'id)

の設 定 と,細 目化 を 目 ざす も ので,文 法 学 を,誰 に で も理解 しや す くす

る クー フ ァ学 派 の 明解 化 と単 純 化 の先 駆 を なす もので あ ろ う。

尚Al-farra'は,コ ー ラ ンに 関す る講 義 を行 な い,ma'ani Al-qur'an

(コーランの意義)と い う著作 を残 してお り,こ の 中に も,彼 の文 法学 を

知 る資 料 が 多 くあ る。 彼 の コ ー ラン の講義に は,バ グ ダ ッ ドの多数 の住

民 がそ の度に 出席 した といわ れ る。

Al-farra'の 弟 子 の 内で,師 の学 説 を,そ の ま ま受 けつ い だ といわ れ

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る のが,Salma,At-tuwalお よび,Ibn qadimの 三 人 で あ る。 彼 等 を

介 して,有 名 なAbu al-'abbas ahmad ibn yahya tha'labが 現 われ る。

「At-tuwalは,ア ラ ビア 語 を 正 確に 読 む こ とに す ぐれ,salmaは,

書 物(Al-farra'の 書 のことか)を よ く憶 えて お り,Ibn gadimは,分 析

に長 じて いた 」 とい う伝 承 をAl-makhzumi.,は 述べ て い る。 いず れに し

て も,salmaやIbn qadimに 由来す る文 法 上 の 発 言 は見 あ た らず,二

人 と も,師 の著 作 を 憶 えて,お おむ 返 しに 教え て い た の で あ ろ う。 これ

に対 し,At-tuwAlに は文 法 上 の発 言 が多 い が,彼 の 説に は,ク ー フ ァ

文 法 を 示 す もの が多 い 。 例 え ば,

(1)dare'baghulamuhu zaydan

「ザ イ ドの小 性 は,ザ イ ドを 打 った 」

の如 く,-huな る 代名 詞 がzaydanを 受 け る と彼 は主 張 した 。 この

よ うに代 名 詞 が 後置 の発 音 さ れ る名 詞 を 受 け る とい うの は,多 くの文 法

家 の 反対 す る と ころ で あ るが,後に,Ibn jinniや,Ibn malikな どに

よ って も正 しい と認 め られ た註(54)。

(2)'inna zaydan la muntaliqan

「ザ イ ドは,走 って い る」

とい う文章 は,こ の文 の前に 誓 い の文(jumla al-qasam)が 省 略 され て い

る,と み な した 。

クー フ ァ学 派 は,lazaydun qa'imun(ザ イ ドは,立 っている)と い う文 で

も,「 誓 い」 の部 分 の省 略 を考 え てい る 。

kitab al-insaf第58間に は,

「クー フ ァの人 々は,lazaydun 'afdalu min 'amrin(サ イ ドは,ア ムル

ようす ぐれてい る)に おけ る文 頭 のlamを,省 略 され て い る誓 い の文 の

答 え とみ て い た。 そ の た め,本 来 は,こ の文 の前にwa l-lahi(神 かけて)

が あ った の で あ る が,wal-lahiを 省 略 して も,lamが あれ ば事 足 りる

と した」 と述 べ て いる 。 この ため ク ー フ ァの 学者 には,バ ス ラ学 派 の言

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9世 紀以前のア ラビア語 の研究(池 田)

うlam alibtida'(文 を は じめ るlam)は 存 在 しな か っ た 。At-tuwalの 所

説 は,こ の よ うな ク ー フ ァ文 法 の 延 長 に す ぎ な い 。

同 じAl-farra'の 弟 子 で も,Abu yusuf ya'qub ibn as-sikkit(H243/

857-8)は,辞 書 学 の 分 野 で ク ー フ ァ学 派 を 代 表 し た 。

ク ー フ ァ 学 派 の 常 と し て,彼 も,ベ ド ウ ソ 達 と親 交 が あ り,著 作 に,

ベ ドウンか ら得 た資 料 を 活 用 してい る註(54)。彼は,バ グ ダ ッ ドで 青 少年 教 育

に たつ さわ った あ と,ア ル ・ム タ ワ ッキル の好 遇 を得 て,そ の 二人 の息

子 の教 育 を 信 託 され た 。 しか し,彼 は,熱 心 な シイ ー ア派 モ ス レムで,

あ る時,ア リーの 召使 カ ソバ ル な る も の の肩 を もつ 発 言 を 行 な い,カ リ

フの 息 子に 無 礼 が あ った と して,ム タ ワ ッキル の手 に よ って,処 刑 され

た 。

彼 の著 作 は,約20種 あ った とAl-fihristで は述 べ られ て い る が,文 法

学に 関す る もの は ない 。 しか し,islah al-nlantiq(論 理の改良)と い う正

しい表 現 法 を 論 じた も の と,kitab tahdhib Al-alfaz.(語 彙 の書)と い う

ア ラ ビァ語 の古 語 を題 目別 に 整理 した 一 種 の辞 書 を残 して い る。

Al-mubarridが 「私 は,バ グ ダ ッ ドの 人 々 の書 い た も ので,Ya'qub

ibn as-sikkitの 論 理に 関 す る 本 ほ どす ぐれ た著 作 を 見 た ことが な い註(56)」と,

語 って い る ほ どで あ る か ら,Islah al-mantiqと い う著 作 は,バ ス ラ学

派 か らも評 価 され る ほ どの もの で あ った の だ ろ う。

「語彙 の書 」 は 彼 自身 の 収集 した 語彙 だ けで はな く,先 行 学 者 が 主 と

して,古 詩 な どか ら集 めた 資料 を多 く盛 り込 ん でい る た め,後 世に な っ

て,重 要 視 され た 。 これ は,当 時 まで の辞 書 学 の集 大 成 で あ って,そ れ

以前 の もの を 凌 駕 し,事 実 上,そ れ 等 を 不 必 要 な もの と した 。

クー フ ァ学派 の最 後 の代 表 者 Abu al'abbas yahya tha'lab(H291/

903-4)は,バ グ ダ ッ ドに 生 まれ,こ こで 育 った 。 彼 は,イ ス ラ ム歴 の ち

ょ うど200年に 生 まれ て い る 。 それ は,彼 が4歳 の時,(H204年)カ リ

フ マアム ー ンが ホ ラサ ー ンか ら,バ グ ダ ッ ドの ルサ ー フ ァに あ る 宮殿 に

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帰 る途 中,父 に連 れ られ て これ を見 物 し,二 列に 並 ぶ 人 垣 の 中 を 進 む マ

ア ム ー ンを見 て,彼 の父 が,「 これ が マ ァ ムー ンだ よ,今 年 は4年(H

204)だ 」 と言 った のを,「 私 は,未 だ に そ の事 を 記 憶 してい る。 そ れ は,

私 が4歳 の時 の こ とで あ った」 と語 って い る ことか ら証 明 さ れ る註(57)。彼 は,

Al-farra'に 直 接妾師 事 して い な い。Al-farra'iは,H207に 死 亡 して お

り,Tba'labは 当時7歳 で あ っ た。 そ れに,彼 自身 「私 は,16歳 の時に

ア ラ ビァ語文 法 と詩 と辞 書 学 を学 び は じめ,25歳 の時に は,ア ラ ビァ 語

を マ ス タ ー し,Al-ferrs'の 著 作 は,一 字 も残 さず,全 部 記 憶 して しま

った」 と述 べ て い る か らで もあ る註(58)。

Tba'labの 文 法 学 の 師 は,多 数 ある が,中 心 的 な 人物 は,Al-farra'

の 忠実 な弟 子 の一 人salmaで あ った 。 辞 書学 は,Al-kisa'iの 弟子 の

Mubmmad ibn ziyad al-a'rabiか ら学 んで い る 。

今 日,我 々は,Al-kiss'iやAl-farra'の 学 問 を,そ の著 作 か ら一部 知

る こ とは 出来 て も,大 部 分 は,Tba'labを 通 じて学 ぶ の で あ る。Tba'lab

は,と うわ けAl-farra'の 著 作に 通 じ,後 の学 者 達 は,彼 を クー フ ァ学

派 の 所説 を求 め る 源 泉 と して い る。

Tba'labの 諸 説 は,常に,Al-kisa'iとAl-farts'の 言 行,の 伝 達,説

明に 終 止 した とい わ れ,事 実,彼 の 著作に は,こ の二 人 の 先 達 の学 説 の

紹 介 と解 説 が 大 部 分 を しめて い る 。Tha'labの 数多 い著 作 の 中 で,最 も

有 名 な もの はkitabal-fasih(正 則語 の書)kitab qawa'id al-shi'r(詩 の

法則 の書),な どで ある 。 彼 は,前 者 の 中 であ い ま い な単 語 や 表 現 の多 く

にわ た って正 則 的 な,即 ち,古 典 ア ラ ビア語(al-lugha al-fusha)に の っ と

った 用 法 を,ク ー フ ァ文 法 の立 場 か ら論 じて いる 。 ま た,彼 に は,kitah

al-majalis(講 義録)と い う著 書 もあ り,今 日に 伝 え られ て い る。 又 彼 は,

Ikhtilaf an-nahwiyyin(文 法学者の論争)と い う もの 、も書 い た 。

Tha'labは,18歳に してAl-farra'のkitab al-hududを 学 びは じめ,

25歳に なる と,「Al-farra'の 著作 の中 で,私 が記 憶 して しま った もの 以

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9世 紀以前 のアラビア語 の研究(池 田)

外 に は,何 一 つ 残 っ て い ない註(59)」と語 って い るが,彼 は,こ の 頃す で に ク

ー フ ァ学 派 を 代 表す る学 者 と して の 地 位 を 固 めて い た 。

Al-Mufaddal ibn salmaは ,「Tha'labは,文 法 学者 の代 表 と な り,

225年に は,人 々 は 彼 の も と を し ば し ぼ 訪 問 す る よ うに な っ た註(60)」と 述 べ

て い る 。 彼 が ク ー フ ァ学 派 を 代 表 す る 学 者 に 成 長 す るに つ れ て,バ ス ラ

学 派 の 指 導 者 で あ っ たAl-mubarridと の 間に,か つ て な い 激 し い 論 争

が 展 開 さ れ た 。

Tha'labは,自 分 の 周 囲に,「Ali slayman al-'akhfash.Niftawayh,

Abu bakr ibn al-anbari,As-sarraj,al-Mufaddal ibn salma,Az-zajja

な ど を,弟 子 兼 支 持 者(ansar)と し て 集 め,バ グ ダ ッ ドの モ ス ク な ど で

ク ー フ ァ文 法 を 教 え て い た 。

Al-mubarridは,samarra註(61)を ア ル ・ム タ ワ ッ キ ル の 命 令 で 訪 問 し ,詩 人

のAl-buhtriや,Al-bath ibn khaganな ど と 一 緒に,カ リ フ の 宮 殿に 出

入 りを 許 さ れ て い た 。 カ リ フ が 殺 害 さ れ る と,Al-mubarridに も身 の 危

険 が せ ま り,彼 は,バ グ ダ ッ ドへ 移 っ た 。 バ グ ダ ッ ドへ 来 たAl-mubar-

ridは,あ る 金 曜 日,Tha'labが 常 々 よ くや っ て 来 る モ ス ク へ,行 き,

こ こ で,Tha'labの 高 弟 の 一 人Az-zajjajを や り込 め た 。Az-zajjajは,

付 添 い の 者に,「 我 々 の シ ャ イ フ で あ るTha'labの も とへ 引 き 帰 え せ,

私 は,も う,こ の お方 か ら離 れ る こ とは 出来 ない 」 と云 わせ た註(62)。「弟 子

が 師 を取 り替 えた」 この 事 件 は,バ グ ダ ッ ドに おけ る両 学 派 の平 和 的 共

存 の 夢 を粉 砕 す るに 充 分 で あ っ た。Tha'labの 側 は,い わ ぽ お ど しを か

け られ た ので あ る。

これに 加 え,Tha'labの 女婿Abu'ali ahmad ibn ja'far ad-day-

nawariま で が,Al-mubarridに 走 っ て し まった 。

「もしお 前(Ad -daynawari)が,あ の男(Al-Mubarrid)の 所 へ 行 っ て,

学 ん で い る とい う事 を世 間 の人 達 が 知 った ら,彼 等 は,こ れ は ど うい う

訳 か と言 うだ ろ う」 とTha'labは,警 告 した ので ある が,Abu'aliは,

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これ を 無 視 して,Al-mubarridの 講義 に出た註(63)。

この 二 つ の事 件 は,Tha'lab-Al-mubarrid以 後,ク ー フ ァーバ ス ラ

学派 が な くな りバ グ ダ ッ ド学派 に 吸収 され て行 く過 程 を 説 明 す る 決定 的

な も ので あ る と筆 者 は考 えて い る。 即 ち,両 派 の対 立 は,激 化 した が,

弟子 達 の中 に は,両 派 を学 ぶ た め に師 を 取 り}た り,そ こ まで しな く

て も,極 秘に クー フ ァ学派 の者 がAl-mubarridの 講 義に 出た り,そ の

逆 が あ った りした ので はな か ろ うか,こ うして,新 らしい 学 者 集 団 が生

まれ た ので あ る。 この集 団 は,両 派 の 方 法 を等 し く学 び,い ず れ か の派

の 学説 方 法 を 選 ぶ か,両 派 の方 法 を折 衷 す る か,総 合 す るか した の で あ

る 。 「… … は,両 派(madhhabayn)を 混 ぜ た」 とい う伝 承 が,こ の二 人 の

指 導者 以 後 の 文法 学者 につ い て 言わ れ る こ とが多 くな るの は,そ のた め

で あ る。 謂 るバ グ ダ ッ ド学 派 は,こ うして 生 じた ので ある 。

Tha'labと,Al-mubarridの 論 争 は,後 者 が 常に そ の表 現 力 と,強 力

な:論理 で も って,前 者 を,何 時 で も守 勢に お いた た め,Tha'labは,Al-

mubarridに 会 うのを 避 け てい た 。

Tha'labは,ク ー フ ァ文 法 のみ な らず 「バ ス ラ学派 の深 底 を 極 め てい

た註(64)」とい わ れ る ので,お そ ら くal-kitabを,独 学 で 修 め て い た ので あ

ろ う。 しか し,修 辞 学 に 弱わ く,言 葉に 訛 うが あ った らしい 。 とい うの

は,あ る 弟子 が,誰 りの あ る し ゃべ う方 を した のをTha'labは,弁 護 し

て,

「彼 が誰 りの あ る し ゃべ う方 を した とて 何 ん で あ ろ う。 文 法 学 者 の

Hisham ibn mu'awiya ad-darirと い うAl-kisa'iの 弟 子 も こ うで あ っ

た し,Abu hurayraは,ナ バ テ ア人 の言 葉 で,子 供 達に 話 して いた も

の だ 」 と 言 っ て い る註(65)。

又,Tha'labの 女 婿Ad-daynawariは,Tha'labがAl-rnubarridと

会 うこ と を 避 け て い る 理 由 を 問 わ れ て,「Al-mubarridは,表 現 が 上 手

で あ る 。 二 人 が 会 え ば,Al-mubarridに 軍 配 は 上 げ られ よ う。Tha'lab

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9世 紀以前 のアラビア語の研究(池 田)

の 派 は,学 者 派(madhhab al-mu'allimin)だ 」 と,答 え た と言 わ れ る註(60)。

しか し二 人 は,対 決 を余 儀 な くされ る 時 も あ った 。

ー グ ダ ッ ドの総 督Muhammad ibn'abdAl-lah ibn tahirの 召 集 す る

会 合に おい て な どは,こ の一 例 で あ る 。Ibn tahir は,Tha'labを 息 子 の

家 庭 教 師 と して い た 。 そ のIbn tapirの 前 で のTha'labと,Al-mubar-

ridの 論 争 は,多 くの 問題に 及 ん だ が結 局Al-mubarridの 勝 利に 帰 し,

Ibn hirは,彼 を,自 か らの師 と し,Tha'labを 息 子 の 師 と した 。

こ の よ うにTha'labの 負 け が 目立 ち は じめ る と,ク ー フ ァ学派 のバ ス

ラ学 派 へ の嫉 妬 心 は増 々か きた て られ た 。 クー フ ァ学 派 に関 す る誇 大 宜

伝 は,こ うして,登 上 す る の で あ る。

これに 大 役 を果 した の がTha'lab及 びAbu bakr ibn al-'anbariと い

うTha'labの 弟 子 で あ る。

「Al-kisaiに は,万 事 が 備 って い る,彼 は,文 法 学 を 誰 よ うも よ く知

っ て い る。 非 常用 語 につ い て は,他 の 追 随 を許 さな い 学者 で あ り,コ ー

ラ ンを最 も よ く知 っ てい る 人物 で ある 」。

「Al-ferrs'は,文 法 学 の信者 の長 で あ る」

「バ グ ダ ッ ドの人 々は,Al-kisa'iと,Al-farra'の 二 人 が 居 るか ぎ り,

他 に ア ラ ビァ語 学者 が居 な くて も 自慢 出来 る」

等 々の伝 承 は,す べ て,Tha'lab又 は,Ibn al-anbariの 勝 手に 流 布 し

た 誇 示例 で あ る と,Mahdl al-makhzumiは,主 張 して い る ほ どで あ る註(67)。

この よ うな判 断 を支 持 す る伝 承 もあ り,バ ラ ス学派 のAbu at-tayyib

は,

「Tha'labの 述べ て い る人 々の 一致 した 意 見 とい うの は,バ ス ラの 人 々

の 関 知 し な い こ と で あ る 」 と 述 べ て い る註(68)。

Al-kisa'iがAl-farra'と の や り と りでAr-ru'asiの 所 説 を 一 蹴 し た こ

と は,す でに 取 り上 げ た が,Ibn al-anbariの 時 代に な っ て,Ar-ru'asi

が 天 才 で,ク ー フ ァ 学 派 の 祖 で あ る と い わ れ だ し た の も,捏 造 で あ ろ う。

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こ の よ うに み て くる と,Ahmadaminが 「両 学 派 の 対 立 は,ク ー フ ァ

のAr-ru'asiと,バ ス ラ のAl-khalilの 間 で 静 かに 始 り,Al-kisa'iと,

Slbawayhの 間 で 激 化 し た 」 と述 べ て い る註(69)のは,少 な く と も 誤 解 だ と い

う こ と に な る。

Mahdi al-makhzumiは,Ahmad aminは,Ibn al-anbariが,そ の

著nuzha al-aliba'で,

「Yubka'anhu'annahuqala… … 彼に つ い て ,彼 が … … と 言 っ た と い

わ れ る 」 と い う書 き 出 し を 不 用 意 に 信 用 し たに ち が い な い と批 判 し て

る註(70)。従 って我 々 は,ク ー フ ァ学 派 に 関 す る誇 示 的 伝 承 を取 う扱 う場 合 に

は用 心 しな けれ ぽな らな い。 この 仮 面 を は ぐ こ とに よ って,バ ス ラや ク

ー フ ァに お け る学 派 の 存在 そ の もの に も新 らしい 見 方 が生 まれ る か も知

れ ない 。

Tha'labの 文 法 学 は,Al-kisa'iとAl-farra'の 所 説 の おお む 返 しで あ

った 。 これ は,学 者 とか,研 究 者 と して,ク ー フ ァ学派 で は,あ るべ き

姿 で もあ った。 即 ち,彼 等 は,先 人 の 言行 を,そ の ま ま伝 達 す る ことを,

学 問 と して重 視 して いた か らで あ る。Tha'labは,「 証 拠 を 示 して ほ し

い」 と質 問 され て も,Al-kisa'iやAl-farts'の 学説 の ない と ころ の もの

に つ い て は,何 一 つ 答 え る こ と が 出 来 な か っ た 」 の で あ る註(71)。

学 派 の 代 表 制(ar-riyasa)は,Tha'labと,Al-mubarridで 終 っ た と い

うのが,通 説 で あ り,As-sirafiも,同 様 の 見 解 を表 明 して い る註(72)。しか し,

両 派 の 対立 が一 挙に 消矢 した の で はな く,バ グダ ッ ド学 派 の 中に 列 挙 さ

れ てい る 学者 達 に よっ て,当 分論 争 が 続 い た よ うで あ る。

「Al-mubarridの 弟 子に は,Az-zajjaj(前 出)と,Ibn kaysanが 居 た 。

文 法 学 の 代表 制 は,Al-mubarridの あ と,こ の 二 人 で終 った 。Az-zajjaj

は,あ くまで バ ス ラ学派に 固執 し,Ibn kaysanは,両 派 を ミック ス

(yakhlitu)し た註(73)」と す る が,Ibn kaysan, Abu musa al-hamid'Alii ibn

ulayman al-akhfash, Ibrahim ibn'urfa, Niftawayh な ど は,両 派 を

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9世 紀以前 のアラ ビア語 の研究(池 田)

混 合 し,折 衷 派 を 形 成 す る 。 こ うい う流 れ の 中 に あ っ て,あ くまで ク ー

フ ァ学 派に 固執 した の がAbu bakr ibn al-anbari(H328/939-40)で あ

る。

彼 は,Tha'lahの 弟子 の間 で は,最 もす くれ た 業 績 を 残 して い る。 彼

の父Muhammad al-anbariも,相 当 な文 法 学 者 で あ った とい う。Ibn

al-anbariの 趣 味 は,ア ラ ブ古 詩 の蒐 集 で あ った 。 彼 の 記 憶 力 は抜 群 で

30万 種 の詩 を 暗 記 して い た と いわ れ,こ れ 等 の詩 は,す べ て コー ラ ンに

お け る ア ラ ビア語 の用 法 を反 映 した もの ば か りで あ った 。 師Tha'labと

同様 古 詩 集 の編 集 に 努 力 し,「 ゾヘ ール 詩 集」 「ナ ー ビガ詩 集」 「ア シ ャ

ー詩 集 」 な どを 校 訂 し,ま た,古 詩 集 と して有 名 な アル ムア ッラ カ ー ト

(al-mu''allagat)ア ル ム フ ァ ッダ リー ヤー ト(Al-mufaddaliyyat)の 注 釈 も行

な った 。

しか し,彼 が今 日有 名 で あ るの は,何 よ りも,そ の著 書,kitabAl-

addad(反 対概念を もつ語彙集)に よっ てで あ る 。 この書 物 の 中 で,彼 は,

約400の 正 反対 の意 味 を もつ単 語 を あ げ て説 明 して い る。 例 え ば,

masjur(一 杯 で ある)(空 で あ る)

basl(正 当 な もの)(不 当な もの)

な どの よ うな もので,彼 は,こ の よ うな対 立 概 念 語 を説 明す るた め,コ

ー ラ ンや 古詩 か ら数 多 くの例 証 を 引 用 して い る註(74)。 また 方 言的 な用 法に も

特 別 の意 を 用 い た。 尚 このIbn al-anbariと,kitab al-insaf(前 出)の

著 者abu l-barakat al-anbariと は別 人 で あ る。

以 上 の通 り,ク ー フ ァ学派 は,Al-kisa'iに よ って基 本 的 な 方 法 が定 ま

り,Al-farra'は これ を体 系 化 し,完 成 させ,Tha'labが,忠 実に これに

従 った 。彼 等 は,例 外 的,非 論 理 的 な 言語 のあ る が ま まの姿に 注 目した

とい う点で,バ ス ラ学 派 の と らえ方 と きわ 立 った違 いを 示 して い るの で

あ る。

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(1)'As-sirafl;'akhbar an-nahwiyyin al-basriyyln(カ イ ロ,初 版)p.10-16.

拙 論,「'Abu l-'Aswad d-du'aliを め ぐ っ て 」 大 阪 外 大 学 報 第19号(1968)で

詳 し く論 じ た 。

Ibn an-nadim; alfihrlst(カ イ ロ,Al-istiqama版p.65-66.)

(2)Al-baladbrl;futuh al-huldan(カ イ ロas-su'ad版p.274.)

(3)Aj-jahiz;Al-bayan wa at-tabyin 2-p.89.原 文,lakum hadhlagatu n-

nabati wa salafuhum wa larva daha'u farina wa'ahlamuhurn.

(4)尚,'Ahmad'amin; duha al-lslam II-78.以 下に,両 学 派 の 主 要 な 論 争

が 要 約 さ れ て い る 。

(5)'As-sirafi校 訂 序 文 で,Muhanlrn.ad'abd al-rnun'im,TaHa Muharnmad

両 氏 は,As-sirafiを は じ め,Az-zubaydiのtabagat,Al-'anbariのnuzuhat

al-'alibba,As-suyutiのbughya Al-wu'at,lbn an-nadirnのal-fihrist,Yaqutの

mu'jam al-'udaba',Ibn khallikanのwafayat al-'a'yan な どに も と つ い て,

文 法 学 者 の 学 派 別 階 層 を 整 理 し て い る 。

(6)Muhammad ibn sallam;tabagat ash-shu'ara' P.10.原 文,kana'aw-

wale man ba'aja n-nahvfa wa madda l-qiyasa

(7)As-slrafi; P.20.原 文 inna bna'abi'ishaga kana' ashadda tajridan li-

lgiyasi wa kana' abu' amrin' awsa' a' ilman bi-kalayni l-'arabi… … 。

(8)As-slrafl; p.31.

(9)'Isa ibn'umar ath-thagafiの 著 作al・jams'とal-ikmalの 二 書,Al-khalil

が 「'Isa ibn'ummarの 偉 業 に よ る も の で,従 来 の 文 法 は,不 要 とな っ た 」 と

詠 ん で い る の が,こ の 二 著 で あ る 。

(10)Encyclopoedia of Islam,'Arudの 項 。Al-haririお よ びIbn khallikanが

共に こ れ を 伝 え て い る 。

(11)Al-khalil; kitab al-'ayn ('abd al-lah darwish校 訂 バ グ ダ ッ ド版1967.

Al-'ani 版P .53.

(12)同 上 校 訂 序 文 。 な おDarwlsbは,こ の 序 論 で,か な う詳 し く古 字 本(四

種)お よ び 伝 承 に 関 す る 解 説 を 行 っ て い る 。

(13)Al-kitabに 引 用 さ れ て い る 初 期 文 法 学 者 は,

1. 'Isa ibn 'umar ath-thagafi

2. Hammad ibn salma

3. Yunus ibn habib

4. Al-khalil

5. Harun

6. Abu zayd al-'ansari

7. Abu al-kh i tab al-akhf ash

8. Abu 'amr ibn al-'ala-'

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9世 紀以前のアラ ビア語 の研究 (池田)

9.Abd al-lah ibn abi ishaq(引 用 さ れ て い る 学 者 の 中 で は,最 も 古

い 学 者)

10.Ar-ru'asi(彼 は,ク ー プ ア の 人 即 ちA1-kufiと し て 四 回 引 用 さ れ

て い る に す ぎ な い 。

な ど で あ る 。

(14) (イ) fa-idha zaydun qa'imun(主 格)

(ロ)fa-idha zaydun qa'im.an(対 格)

「す る と み よ,ザ イ ドは 立 っ て い る で は な い か 」 が 引 き 合 い に 出 さ れ,

こ れ に な ら っ て,(ロ)の よ うに,対 格 に し て も 良 い と ク ー フ ア 側 は 主 張 し

た と い う伝 承 も あ る 。 しか し,qa'imunが 非 限 定 で あ っ て,分 詞 で あ り4

対 格 用 法 の 場 合 い わ ゆ るhalと 解 され る が,代 名 詞 は,限 定 語 で あ り,

同 列に 論 ず る こ と は 出 来 な い 。

(15)Az-zubaydi;tabagat an-nahwiyyin al-basriyyin(カ イ ロ 版p.68-69)

Ibn khallikanで は,サ ソ リが ス ズ メ バ チに,ス ズ メ バ チ が ミ ツ バ チに な っ て

い る 。

(16) Al-hadithi: kitab SI'bawayh wa shuruhuh(ノ ミグ ダ ッ ド1967)p,23.

(17)Ⅱbn durayd;al-ishtigaq.('Abd As-salam muhammad harun校 訂 カ イ

ロ,ム ハ ソ マデ イ ー ヤ 版1958)序 論P-340.

(18) Al-baghdadi; tarikh Baghdad II-196.

(19) Ibn khallikan; wafayat al-a'yan.1-497-8.

(20)As-suyuti;bughya alwu'at(Muhammad,abu a1-fadl ibrahim校 訂,カ

イ ロ1964)1-270.

(21)As-sirafi;p.39.尚Al-mubbarridは, al-kitabを, Al-maziniか ら 学

ん で い る 。

(22) As-sirafi; p.39, p.50.

(23) Al-hadithi; p.64.

(24) Ibn khallikan; III-133.

(25) As-sirafi; p.39.

(26) Ahmad'amin: duha al-lslam, II-284.

(27)Ibn an-nadim;al-fihrist(カ イ ロal-istiqama版)P.102.

(28)例 え ば,Madrasat a1-kufa(ク ー フ ア 学 派)を 著 し たMahdi al-makhzumi.

同 書P.74.

(29) bughya al-wu'at. II-p.291.

(30) Yaqut; Mu'jam al-'uda'ba'13-193.

(31) al-fihrist, p.102.

(32) Al-fihrist, p.102.同 じ こ と は, As-suyuti;bughyaのAr-ru'asiの 項

に も述 べ ら れ て い る 。

(33) Mahdi al-makhzumi;Madrasat al-kufa p.77.

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(34)Al-kisa'iが カ リフ ハ ー ル ー ソ ア ツ ラ シラ ー ド に々招 か れ,そ の 二 人 の 子 息

の 教 育 をす るた め バ グ ダ ッ ドへ 行 った時 の こと。

(35) Abu al-barakat ibn al-anbari; nuzuhat al-alibba'p.65.

(36)Mahdi al-rnakhzumi;madrasat al-kufa p.80.で は,こ の よ うな 考}xを

もとに して,独 自 の ク ー プア文 法 学者 の人 脈 を 次 の よ う に々,描 き直 して い る.

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9世 紀以前 のアラビア語の研究 (池田)

(37) duha al-islam II-295.

(38)例 証 詩 は,Ya layta'iddata hawlin kullihi"す べ て の 状 況 が な け れ ば …,

kitab al-insaf p.186.

(39) duha al-islam II-296.

(40)Al-fihrist;Al+kisa'i p.!04お よ びIbn al-hasanの 項p.301.

(41)筆 者 は こ の 資 料 を 手に して い な い 一

(42) Al-fihrist p.50.

(43)Al-fihrist, Sibawayhの 項p.82.お よ びAz-zubaydi;Tabaqat an-nah-

wi,yyin wa lughawiyyln, Abu alfadl校 訂 カ イ ロ1954,70.

(44) Mu'jam al-'udaba'5-184.

(45) Ibn khallikan. wafayat al-'ayan I-469.

(46)Al-fihrist.ク ー フ ア 文 法 学 者 の 項 。

(47) Madrasat al-k耐a p.126.

(48) Mu'jam al-'udaba'2-11.

(49) Mu',jam al-,udaba'7-276.

(50)Ibn al-'anbari;nuzhat a1-alibba'fi tabagat al-'udaba';P.133.筆 者 は,

こ の 伝 承 は,信 用 し な い が,A1-farra'と ム ラ タ ジ ラ 派 と の 関 係 は,う な ず け

る 。

(51)例 え ば,ni'maと かbi'saと い う単 語 をAl-kisa'iは, 動 詞 と み な し,

A1-farra'は,名 詞 と み な した 。 ま た, Ma'af'ala形 で 感 嘆 を 示 す 場 合 の'af'ala

をAl-kiss'iは,バ ス ラ 文 法に 従 い 動 詞 とみ た が, Al-farra'は,名 詞 と み た 。

(52)Al-fihrist;Al-farra,の 項 。

(53) duha al-islam II-p.308.

(54)Mahdi al-Makhzimiの 引 用に よ る 。 筆 者 は,シ リ ア 語 と の 関 連 も考え て

い る。

(55)al-fihrist;Ibn as-sikkitの 項 。

(56) Al-baghdadi; tarikh Baghdad 10-374.

(57) al-fihrist;Tha'labの 項 。

(58)al-fihrist. Tha'labの 項 。

59) Al-gifti; inbah ar-ruwat 1-139.

al-fihrist;Tha'labの 項 。

原 文;ma baqiya shay'un min kutubi l-farra'i fl hadha l-waqti'illa qad

hafiztuhu.

(60) Al-gifti;inbah ar-ruwat I-142.

(61)Samarraは,バ グ ダ ッ ドの 西 北 の 町 で, Surra man ra'a(見 る 者 が 喜 ぶ)

が 元 来 の 名 称 で,こ れ が 詑 っ た も の と い わ れ る 。

(62)Az.zubaydi;tabagat;Al-mubarridの 項 。

(63)Az-zubaydi;tabagat;Tha'labの 項 。

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Page 40: 9世紀以前のアラビア語の研究 池 田 修 - JST

(64) mu'jam al-'udaba'5-120.

(65) Al-qifti; inをbah ar-ruwat l-140.

(66) Al-gifti; inbah ar-ruwat 1-145.

(67) matlrasa al-kufat p.149.

(68) As-suyuti; al-muzhir II-254.

(69) duha al-islam II-249.

(70) madrasaV al-kufa p.151.

(71) Al-gifti; inbah ar-ruwat I-144.

(72) As-sirafl; p.72-73.

(73) As-sirafi; p.80-81.

(74)内 記 良 一 氏;ア ラ ブ 語に お け る対 義 性に つ い て;(東 京 外 大 論 集11.1964)

に,詳 細 な 論 考 が あ る 。 又,同 氏 の"ク ー フ ア 派 文 法 学 の 格 概 念 に つ い て"

(東 京 外 語 大 論 集17」1968)も,本 稿 を ま と め る 上 で,多 く参 照 さ せ て い た だ

い た 。

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Page 41: 9世紀以前のアラビア語の研究 池 田 修 - JST

Arabic Studies before 9th Century

By Osamu IKEDA

It is well known that the study of Arabic was carried on concur-

rently in Basra and Kufa, towns founded immediately after the Isla-

mic conquest of Iraq.

The development of these two cities was quite different. Basra,

situated on the right bank of the Satt Al-crab, became one of the

centers of world trade and has maintained its important position to

the present. Kufa, on the other hand, played a major role in state

adminstration at first, but lost its importance after the f oundantion

of Baghdad.

The study of the Arabic flourished first in Basra, then in Kufa.

Because of the controversy between the two towns the rules of the

language were made from different viewpoints.

The auther's intention is to examine the literary works of some of

the famous scholars, thereby elucidating the differences between the

Basra and Kufa schools. He concludes that the Basrans thought more

logically and critically than the Kufans, establishing rigid rules

which did not make exceptions for individual peculiarities. They

used the so-called "qiyas" (analogy) system more strictly than did

the Kufans.

Although the KU-fans began their studies with the "shuyukh" (mas-

ters) of Basra, they were soon expounding veiws which, more archaic

and more natural, approved the individual exceptional styls ("shu-

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Page 42: 9世紀以前のアラビア語の研究 池 田 修 - JST

dhudh") as a basis ("usul") for further analogies. They were, so to

speak, anomalists, while the Basrans were analogists.

When Baghdad become the new intellectual center the controversy

between the Basra and Kufa schools become more and more attenuat-

ed, finally disappearing in the 10th century. The residents of Bagh-

dad chose between the rival doctrines by using both of them indiscri-

minately, thus representing electicism in the history of Arabic stu-

dies.

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