title 唐帝國とソグド人の交易活動 東洋史研究 (1997), 56(3...

36
Title 唐帝國とソグド人の交易活動 Author(s) 荒川, 正晴 Citation 東洋史研究 (1997), 56(3): 603-636 Issue Date 1997-12-31 URL https://doi.org/10.14989/155150 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 唐帝國とソグド人の交易活動 東洋史研究 (1997), 56(3 ......唐帝園とソグド人の交易活動 荒 11 1 J 正 晴 はじめに 一朝 貢・互市交易とソグド商人

Title 唐帝國とソグド人の交易活動

Author(s) 荒川, 正晴

Citation 東洋史研究 (1997), 56(3): 603-636

Issue Date 1997-12-31

URL https://doi.org/10.14989/155150

Right

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Kyoto University

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唐帝園とソグド人の交易活動

1

1

11J

朝貢・互市交易とソグド商人

二外来ソグド商人の入境賞態

三外来ソグド商人の交易活動圏

四撰探州府「百姓」としての外来ソグド一商人

結びに代えて

-171ー

t主

このため、朝貢使の正備を明らかにするために、

(2〉

を用いることになっていた。榎本淳一氏の考察によれば、この銅魚符は、唐代前牢期において、陸上の園境を通って入朝

唐において、衛禁律「越度縁溢開塞」僚の疏議に明記されるように、公使以外の園境の出入が巌禁されていたことは既

(

1

)

に指摘されているとおりである。

唐では銅魚符(銅契〉と呼ばれる割符

する西域諸固にのみ輿えられ、海路により入朝する日本などの園々には輿えられなか司たとされる。氏も指摘されるよう

に、このことは、

八世紀前半までの唐の出入園管理というものが、

西北港における陸上園境に重黙が置かれていたことを

示すものとなろう。

603

ところで、こうした外受方針が採られていたことから、唐の周漫諸閣は、朝貢の機舎をとらえて唐と交易する、

いわゆ

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る朝貢貿易を行っていた。さらに唐と周漫諸固との聞では、園家聞の交易である朝貢貿易に劃して、民間レベルでの交易

を特別に認可する互市交易が行われていたことも知られている。言うまでもなくこれら朝貢貿易

・互市交易は、唐だけで

なく中園歴代の王朝、か、保持してきた針外交易のあり方であり、中園の濁特な外国との貿易形態として、

(

3

)

格やそれが歴史的に果たしてきた意義について論じられている。

しばしばその性

しかし、唐前半期における唐と周溢諸園との交易のうち、

こうした朝貢貿易や互市交易という枠

(

4

)

「一商胡」あるいは「興胡」と呼ばれるソグド商人らは、朝貢貿易や互市

西方世界とのそれは、

の中では捉えきれないものが認められる。印ち、

交易だけでなく、

それらとは全く無関係に、

日常的に唐内地奥深くまで進出してくる存在となっていた。もちろん、復ら

の進出は唐以前からのものであり、既に自治的な緊落さえも中圏内地に作り上げていたが、ここに検討する唐前半期にお

ける彼らの活動は、

そうした唐以前におけるそれとは次元を異にし、唐の一一帝図的秩序に組み込まれた構造的なものが認め

西北に偏在する長安に閤都を据えた唐王朝にと

って、唐の建国以前より中園領内に深く、浸透し、

さらには中園の周遊世

qru 弓'

噌ム

られる。

界に贋く活動するソグド一商人を如何に扱うかは大きな問題となっていたことは疑いない。また唐王朝はそうした彼らの母

園を、

西方奥深くまで手を伸ばす形でその支配秩序に組み込んでいくが、こうした行動の背景にはこの問題と闘わる部分

があったものと考えられる。

唐前牢期における唐と周溢諸園との貿易にかかわるこれまでの検討は、

ソグド商人の活動の重要性を示しつつも、

西方

との交易をその他の周遊諸園とのそれと同

一のステージ、換言すれば朝貢貿易や互市交易という枠内にこれを留めて一括

して論じようとする傾向が認められる。本稿は、唐と西方世界との交易の賀態を、

ソグド一商人の活動を中心に据えて改め

て考察し、

そこから七世紀に成立した唐の一帝園的支配の性格の一端を明らかにしようとするものである。

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朝貢・互市安易とソグド一商人

唐の一帝園的秩序が、基本的に内地都督府・州/罵康都督府・州/遠夷(入蕃〉

(5〉

論のないところであろう。朝貢貿易を行う朝貢園とは、遁常はこのうちの遠夷にある園、聞ち蕃園のそれを指し、

主客郎中の僚には全部で七十園を掲げている。この中には同時に罵際都督府・州(以下、環膿

の三重構造よりなっていたことはほぼ異

『大唐

六典』巻四種部、

ただし、

州府と略構する)が設置されているものもあり、朝貢する蕃園としての側面と同時に、唐の罵鹿州府としての側面を併せ有

している園がある。唐の周溢諸園の少なからざる部分はこうした園であり、

ソグディアナのオアシス諸国も、唐前牢期を

通じて罵康州府が置かれていた。既によく知られている事貧ながら、

西域全瞳が唐の一帝一園的秩序に組み入れられていた、

七?八世紀牟ばのソグデ

ィアナ諸圏を見る際に、こうした唐の罵康州府としての側面をなかば切り捨てて捉えてきたよう

に思う。少なくとも唐からすれば

ソグディアナ諸園は唐に朝貢してくる外園であると同時に、唐の寝際州府として存在

-173ー

していたことを改めて確認しておく必要があろう。

ていた。互市交易といっても、

また先に述べたように、こうした園家聞の朝貢貿易に劃して、外固との民間レベルでの交易として、互市交易も行われ

(6)

石見清裕氏が検討されているように、北方だけでなく南方での港市での交易もこれに含め

ることができ、唐の時代にも活濯に行われていたことが知られている。これに射して、西域方面における互市交易につい

7)

遊牧民族とのそれしか史料的には確認できない。西域のオアシス諸園に射しては、

ては、

「開元戸部格残巻」

(ω-H∞+P

〈寓〉叶、H,U(∞)・ア叶N

・〈録〉吋吋ロ芝・

官・

8・〉に、

ゆる

赦すらく、諸蕃の一商胡、若し馳逐するものあらば、内地に於いて輿易するを任すも、蕃に入るを得ず。侃りて遁州の

西・庭・伊等の州府に属す者は、験ベて公文あらば、本貫よ

開津

・銀成をして、巌しく捉揚を加えしめよ。其の買、

605

り己東の来往を聴す。

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606

垂扶元年(六八五)八月二八日o

l--

(8〉

利を求めて東来してくる一商胡、部ちソグド一商一人を封象にして、互市交易を越

えて、内地での交易を正式に認可している。この方針は、この詔教が開元年聞の戸部格となっていることから、

八世紀前

とあるように、唐は垂扶元年(六八五)に、

牢にも維持されていたことが明らかである。ただし彼らも、

入境後は唐内地の「百姓」同様に蕃に入ることが許されない

建て前であ司た。

もちろんこの方針は、唐初からのものではなかったらしく、

『資治逼鑑』巻一九三貞観四年(六

=δ)一二月甲寅(二四

日〉の篠に、

高昌園王に従って西域諸国が遣使入貢しようとした際、太宗が使いを遣わしてこれを迎えようとしたのに封

して、貌徴が

今、天下、初めて定まれり。前者に文泰、来るに、務費は己に甚し。今、借に十園をして入貢せしむれば、其の徒放

は千人を滅ぜず。

遁民は荒耗し、

勝に其の弊に勝えざらんとす。

若し其れ一商買の佐来を聴し、

進民と交市せしむれ

A官

4マム

ば、則ち可なり。償し賓客を以て之を遇さば、中国の利に非るなり。

と諌めたことより見れば、貞観四年時黙では、他の多くの外固と同様に、

西域諸園との民間交易も、最大限、

「遺民」と

の互市安易を論ずる程度であったことがわかる。

の支配を援大させてゆくことになる。

ただし次節に検討するように、

」の貞翻四年を境にして、唐は西域へそ

はじめに述べたように、唐は西域方面からの朝貢使には「銅魚符」を用いて入園審査をしたと言われるなど、私貿易商

人による儒朝貢使の取り締まりに積極的であった。

しかしながら一方では、

既に見たように、

開蕃できない僚件のもと

で、私的な交易を目的とするソグド一商人の入境自置も認めており、唐は決して彼らの私貿易そのものを排除はしなかった

のである。このことから、

ソグド一商人の公認の入境方法として、朝貢使に伴う場合と私的に入境する場合とが存在してい

たことが認められる。

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(

9

)

朝貢使に伴う場合は、入境にあたって、巌しい入園審査が行われていたと考えられるが、唐内地において私的な交易に

従事することが認められたソグド一商人(以下、こうしたソグド商人を外来ソグド商人と稽する)の場合は、蕃域より唐領内に入

境する際に、どのような手績きを経て内地に入ってきていたのであろうか。この賠に関しては節を改めて検討しておきた

L、。

外来ソグド商一人の入境賞態

唐西迭における外来ソグド商人の入境の貫態については、

トゥルファン文書にその具僅的な朕況をうかがうことができ

るものが残されているので、

それを手がかりに検討しておきたい。まずは以下に録文と和需を掲げておく。

「唐垂扶元(六八五)年康義羅施等請遁所案巻」(宏、叶〉ζ昌一見(白)・皇白)・

8∞(白)・5NN弁N印〈潟〉『文書

〔参〕』三四六

1三五

O頁。

-175ー

〈録〉『文書』七、八八J九四頁。〉

r、、前

飲'-"

1

一国鉄元年四月

2

語、翠那依潜

4

「連。亨白。

十九日。」

3

607

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608

② 5

(朕尾)

口口義羅施年品川

6

h

u口鉢年六十

(吐火羅)

口口口抑延年品川

(吐火羅胞)

口口口口色多年品川五

(羅施等鰐)

口口口口。

被問所請過所、有何衆文、

仰答者、謹審、但羅施等並従西

来、欲向東興易、震在西無人遮得、更

7 8 9 10 11 12

不請公文、請乞責保、被問依賀、謹

(鱒}

口。

-176ー

13

「{予」。

14

|口韮口供口元日年口四月)

(九行目以下の和詳)

(康尾義羅施等がお答え申し上げます。)「過所を請求するにあたり、どのような来文があるのか、仰ぎ答えよ」との

およ

尋問をお受けいたしましたので、謹んで審らかにいたします。但そ、私ども、康尾義羅施等は、みな西より来て、東

に赴いて安易をすることを願っております。

西(トゥルファン以西)に在つては誰も通行を規制するものはなく、従つ

てあらためて公文(来文U

過所〉を請求することはありませ

んでした。願わくは、保人を取り調べられますように。

早等

聞をお受けいたしましたので、員買に依

って、謹んでお答え申し上げる次第です。

「亨」。

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609

f、、前

1

四月

日批附撃将軍円

U。

2

「連。亨由。

3

十九日」

4

輿U 生薦胡潜|絃年 |桂:Il十年五五

十五

--,

亨L

5

6

U口達年品川六

7

円高口芸円五口高口孟段口宅 日空口滞Inコロ篤 口宍口等|利口添U一口墾口判U趨等)漢}審一 :-1口並官、被|延

鰐請府但問年責 、|薦所六

♀保所|潜請十点、以等過

υ一被更並所不従請西

-177-

8

有何公文

9 10 11 (

〈入行目以下の和語)

(鳶潜等がお答え申し上げます。)「過所を請求するにあたり、どのような公文があるのか仰ぎ答えよ」との尋問をお

およ

受けいたしましたので、謹んで審らかにいたします。但そ、私ども、蔦潜等はみな西より(来ましたが、)唐の官街(も

無く?)、従ってあらためて(公文H過所を)請求することはいたしませんでした。薦潜等はみな、保人を取り調べら

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610

れるよう願

っております。(尋問をお受けいたしましたので、員賞に依

って、謹んでお答え申し上げます。

「亨」。)

/ー¥

歓'-../

1

圏一剛一圃等鼎、被問得上件人等僻、請岡一

(刊山〉

家口入京、其人等不是座良誌誘寒盗

等色以不、仰答者。謹審、但那体等保

2 3 4

款 知不

求是受匪依良法等罪色

被若間後依不買依園(今口号

。。々4

l

-

5 6

「亨」

垂扶元年四月

7

「連。

ム日

8

十九日」

(和課)

体那渚等がお答え申し上げます。

「上件人等の僻では、家口を引き連れて入京することを願

っているが、

そのもの等は良人の子女を買って奴舛としたり、

歎き騎してかどわかしたり、

盗んだりしたものではないのかどう

か、仰ぎ答えよ。」との尋問をお受けいたしましたので、謹んで審らかにいたします。但そ、私ども、那侭等は、(こ

,、布。州山VA苔

れらが)良人の子女を買って奴舛としたものではないことを保誼いたします。もし後にこの款に依らないことがあれ

ば、すすんで法に依って罪をお受けいたします。尋問されましたので、員買に依って謹んで申し上げます。

「亨」。

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〈前

l

(年)

保人庭伊百姓康阿了口口口

2

保人伊州百姓史保年叫川

3

保人庭州百姓韓小児年加

4

保人烏番人曹不那遮年口口

5

保人高昌豚史康師年品川五

6

康尾義羅施年対

作人曹伏磨

馬一匹円

7

瞳三頭

解可解支

吐火羅携延年分

奴突蜜口

8 9

瞳三頭円

吐火羅磨色多一司口口[ハ

奴割遁吉

10 11

奴莫賀地

駐二頭

n

12 13

臨五一岡守門

14

何胡数刺

作人曹延那

15

雄三頭。

16

男伴陣げ

作人曹野那作人安莫延一樹一円

17 18

u U u 円

U U

U

-179ー

υ U

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612

19

宮家名口偲(入代日京等)、被

色其間以人得不等上者不件、是人匪等良(牒

口喜穂1 1')

)請ー口き

阿了嬬、

20 22

不是匪良偲代等色、

(等保知)

謹審、但了口口口

(依今款)

若後不口口口

(盟問)

被間依貫謹口。

(臼)

垂扶元年四月口。(

白)

亨口。

「連。

21 23

求受依法罪、

24 25

/ー¥

依'J

(和語、

一九行目以下)

〈康)阿了がお答えいたします。

「上件人等の牒では、家口を引き連れて入京することを願っているが、

そのもの等

-180

は良人の子女を買って奴稗としたり、(欺き臨してかどわかしたり)、他人の名を踊りそれに成り代わったなどのもの

およ但

そ、私ども、阿

ではないかどうか、仰ぎ答えよ。」との尋問をお受けいたしましたので、

謹んで審らかにします。

了等は

(これらが)良人の子女を買

って奴稗としたり、他人の名を騎りそれに成り代わ

ったなどのものではないこ

とを保置いたします。もし後にこの調書に依らないことがあれば、すすんで法に依って罪をお受けいたします。尋問

されましたので、員買に依って謹んで申し上げます。

)

本文書は、六断片より成

っており、本来貼り絡がれていた順序については必ずしも明確ではないが、ここでは一雁『文

書』に掲載された配列に従うことにする。

まず本文書が、何れも「捧」鮮であることは、

(日〉

その書式より容易に認められる。詳しくは別稿に譲るが、この「嬬」僻

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は別に「款」

(くちがき、尋問調書)とも記され、

お上の尋問に封しての供述書を意味する。

賓際には、尋問に封する答え

)

を官司側が書き留め代書しているのであり、それを本人の前で讃み上げて間違いなければ重指することになる。①の部分

(

(

その

2行目に詩語人の程那徐潜の名と彼の重指が見えているが、翠姓ながら、那依濯がソグド語の「ロロヨ門口」であ

-r」ふみ、

tt

ることから、彼がソグド人であることは間違いない。おそらく彼は、取調を受ける者と官司との聞に立ったソグド人であ

ったと見られる。即ち、取調を受ける外来ソグド一商人は漢語ができない可能性が高いことから、漢語での尋問とソグド語

での嬬明をそれぞれこの逼需が書し、最終的な内容の讃み上げ確認においても彼が漢語をソグド語に課したものと思われ

る。①の年月日の後の彼の董指は、漢人の書記が作成した調書の内容に相違ない旨を誼するものであろう。残念ながら、

②・③の「嬬」鮮は、末尾が依落していて確認はできないが、課語人を介したのであれば、その名と董指が添えられてい

たと推定できる。

以上の「嬬」酔が、②・③より明らかなように、外来ソグド一商人が西州都督府に過所を請求したことに射する、西州府

-181ー

側の申請者に劃する尋問の供述調書であることは疑いない。

(

既に別稿において検討したように、唐の州牒「百姓」が本貫を離れるための遁所を取得する場合は、州鯨の録事が窓口

となり、

そこを通して申請書を提出し、

過所を受け取っていた。

本文書における外来ソグド商人も、

④の

1行自によれ

ば、過所を申請する鮮を西州府の官司に提出していたことが知られるので、彼らも通常の「百姓」が過所を申請するのと

全く同様な手緩きを踏んでいたことがうかがえる。

また審問に嘗たっては、保人をはじめとする闘係者の調書が取られることになるが、本文書でも、①J③に遁所申請者

の「揖」酔、績く④は逼罪である翠那徐潜の「鼎」僻、

さらにその後の⑤は保人の「癖」鮮が貼り連ねられている。

さらに、通常の州豚「百姓」の申請であれば、こうした審聞は、州府の遁所護給を捲嘗する戸曹司の命を受け、腕怖にお

613

いて行われていたと見られるが、

トゥルファン文書によれば、

西州「百姓」でも一商一人の場合は、州の戸曹司より直接取り

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614

(

)

調べを受けていたことが知られる。おそらくは彼ら外来ソグド商人の取り調べも、燃ではなく西州府の戸曹司で行われて

(悶〉

いたのであり、本文書に見える「亨」のサイ

ンも、戸曹参軍のものであった可能性は高い。従って、外来ソグド商人に劃

する過所も、戸商目司の審査を通して、最終的には西州都督府の都督の決済を経て、窓口となっていた州府の録事より支給

されたものと見られる。

また戸曹司における審査では、本文書の②

・③の

「嬬」僻より、彼ら外来ソグド一商人がどのような公文を保持している

のか問題となっていたことが知られる。ここに言う公文とは来文(通行許可書)のことであり、ここでは過所を指してい

(

)

る。このことは、垂扶元(六八五)年嘗時、

外来ソグド人が

トヮルファン来着以前に辿り着く唐の官府より過所を支給

それを携帯して西州にきていることが前提となっていたことをうかがわせる。

(幻)

庭商都護府(八世紀以前は庭州)が最初の過所設給地となっていたと考えられ、

され、

おそらくは西域を統轄する安西

・北

本文書の外来ソグド一商人も本来であれば

南都謹府での過所護給の審査がどのようなものであ

ったかはわからないが、

西州府官司においてそれまでの過所が無い

182ー

何れかの「漢官府」より、過所を受け取っていたものと思われる。

ことが明らかとなっても、

それに績いたと思われる保人らの取り調べでは、外来ソグド一商人の率いる人(畜)の素性のみ

が問題となっていた。即ち、④以下の「鼎」僻で明らかなように、彼らが率いる人(畜)が「其人等不是塵良誌誘寡盗」

ではないことを保人や通語が明らかにすることが求められたのである。このことから、雨都護府での審査も基本的にはこ

の黙に重きが置かれ、その上で過所が護給されたものと思われる。

これらの「捧」僻よりうかがえるのは、外来ソグド一商人らの入境が、蕃園人の入園としての側面も有しているにもかか

わらず、

その質態は、過境州府の過所を取得するだけで京師へ入り込み交易することが可能であったことである。その過

所取得の審査内容も、内地州燃の「百姓」としての商人が、本貫を離れる際に過所を取得する場合と異なるところは全く

(

)

うかがえない。

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このことは、彼らが内地州鯨「百姓」の一商人と全く同じ篠件で唐内地を往来できたことを示している。

また外来ソグド

一商人の中には、遺州に留まる者もいたと考えられるが、先の「戸部格残巻」では、西・庭・伊州に附貫したものは、公文

があれば本貫以東への交通を許可しているがあるいはこれはこうしたソグド人を劃象とした規定であった可能性もあろ

うところで、こうした本貫を離れる際に取得する過所の審査で特徴的なのは、

保人(連保人、連答人)が、申請者の率いる

人畜の身元を保護することが必須であったことにあるが、

この外来ソグド商一人の場合も、

入境のための過所を申請するた

めには、既に見たように保人を揃える必要があった。前掲の文書には、以下のような保人が名を連ねている。

ィ、庭伊百姓康阿了

ハ、庭州百姓韓小児

-183ー

ロ、伊州百姓史保

ニ、烏番人曹不那遮

ホ、高田目前燃史康師

保人はその名から判断して、

(

)

西・庭・伊州の三州を本貫とするソグド人三人と漢人一人および安西都護府下の駕香都督

府のソグド人一人から構成されている。中には、

(ホ)に見えるように、高昌腕怖の膏更である史となっていたソグド人も

名を連ねている。

おそらくは州司に鮮を出す段階で保人を用意しなければならなかったのであろうが、

そのメンバーから

見て、外来ソ

グド一商人らは、唐の州豚「百姓」として境域オアシスに定着するソグド人らと密接な結びつきがあったもの

615

と推定される。こうした彼ら相互のコネクションが、私的な外来ソグド一商人の唐内地への入境を

システマテ

ィックなもの

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616

にしていたと見られる。

また、

(μ)

入京にあたって京城の四面開を越えるのであれば、通常の入境者であれば敷許を得なければならないところであ

ろうが、外来ソグド一商人への過所設給のあり方を見る限りそうした様子もなく、彼らの入境がなかば日常化していた様相

がうかがえる。前節で検討したように貞額四年の時期では、

ソグド商人も他の諸国と同様に透境において交易が許される

かどうかの段階にあっ

たことを考えれば、その後、彼らの商業活動の吠況が大きく獲化したことになろう。

ただし、先に

検討した武后期、

垂扶元年(六八五〉の詔敷の瑳布が

これを機に民聞のソグド人に入朝を果たす遁を聞いたものではな

く、それまでのソグド人の入境の現紋を追認したに過ぎないものであることは、本節で検討した先の文書の年月日が、

、ーー

の詔放の設布以前であったことからも明らかである。また後節に検討する文書からも、高宗、綿-章年開ごろには、既に多

くの外来ソグド人が唐内地に入境していたことをうかがうことができる。

-184-

そこで想起されるのは、貞翻四年以降、唐の勢力が商域に績大し、高宗期にはパミ

lル以西にまで数多くの罵際州府を

(お)

(

M

A

設置することになっていくことである。このとき、入蕃の概念も「波斯」にまで績大し、名目的にはソグディアナ周漫諸

園の民すべてが、唐の鴇膿州府民とな

っていった。ソグド一商人は、こうして構築された唐との新しい闘係のなかで、高宗

期以降、積極的に唐内地へ入境してい司たことが容易に考えられる。

以上の検討より、唐の鴇燦州府民ともなってい司た外来ソグド商人の入境に際しては、

いわゆる入園審査なるものは全

く認められず、過所を取得することによって日常的に唐領内に入境していたことがうかがえる。唐の周進諸園でも、こう

した入境は、外来ソグド一商人にのみ公認された特殊な状態であったものと考えられる。ただし彼らは、前掲の「戸部格残

巻」にあるように、唐内地に入境後は、時蕃することは許きれない建前になっていたが、

その貫態はどのようになってい

たのであろうか。

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617

外来ソグド商人の交易活動圏

前節において検討したように、外来ソグド一商人が積極的に唐内地に入境するようになるのは、高宗時代以降のことと思

トヮルファン出土文書には、

われるが、

この時期の彼らの一商業活動の一端についてうかがうことのできるものがある。

『文書』編纂者によって

と題された文書であ

「唐西州高昌勝上安西都護府牒稿篤録上訊問曹様山訴李紹謹雨造揖僻事」

り、先ずこれを取り上げておきたい。本文書は、十断片より成り、本稿ですべてについて検討する徐裕はないので、

書』において冒頭に配されているこ断片宮町、叶〉ζ

E

H

H

叶(guNω(σ)"

ミ¥NWN叶¥H(σ)、〈寓〉『文書』〔参〕、二四二J二四三頁、〈録〉

(

)

『文書』六、四七01四七三頁)に限り、録文と和需を以下に掲げておきたい。

『丈

(本断片の冒頭二行には奏疏の草稿が記されるが、ここでは省略する)

'hd 。。

1

園昌豚

圃一様山年品川

(依機0・)

口口案内

(牒得)

口口上件人辞稽、向西州長史門

口口口在弓月城有京師漢名一隅一円

口口口在弓月城奉取二百七十五疋絹、向亀

(廷。阿兄0・)

口口口相逐、従同岡崎向噛峰。阿兄更有

(馬)

口口閲一、臨南頭、牛田頭、撞一一頭、百疋絹債撃

口井椀、別有百疋絹債財物及漢鞍衣裳

牒上安西都護府

2 3

υ

4

U

5 6 7 8

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9

其李三爾箇相共従弓月城向亀蕊、

不達到街地弦。其李三是漢、有気力語行、

身是胡、不解漢語。

調度。

10 11

身了知此開口口、

歓'-./

(和語〉

高昌豚より安西都護府へ牒をもって上申いたします。

曹除山

年三

O歳。

「西州長史に射して・:。弓月城に京師の漢人で李というものが居り、

::弓月城で二七五疋の絹を〈兄より〉借り受け、亀弦へ向かいました。

申し上げます。上件人の鮮を得たところ、

(兄も?)ともに利を求め弓月城より緬蛮

-186ー

へ向かいました。兄は別に、馬口疋

・臨雨頭・牛四頭・瞳一頭

・百疋絹債の華口や椀、さらには百疋絹債の財物及び

漢の鞍・衣裳

・調度品を持

っていました。李一ニ〔李紹謹〕と二人でともに弓月城より抱弦へ向かいましたが、〈兄は〉

亀蛮には到着しませんでした。李三は漢人であり、熱静をふるって調停明いたしますが、私は胡人であり、漢語は理解

できません。私は、こちら(の状況?を)はっきり掴んでおり、

1

井共

i曹果毅李及謹|二|酋嘗弁時外共生兄居間者伴与

|去割、|謹固~ ,向劃(口割弓園29

0-固(口事口容。)

2

間口得|秘口款|山有

所開

請乞禁身、

3

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4 5 6

唯兄不来、

既是口口口安

胡口|山 l西 i西輩口得 。 。庭口款兄|李指口、不巴的事別至山見同兄憧到奉己所練来以口、陳口室経訴三)四。年更

口会無

lm ロ窓口園口

関一間隔一

7 8

曹二

9

身及外

10

口 |月客生口 |城京見去在師逐

依周一一 I~'--' 1同亦家後|開不口去円在在

|弓。 |其口茸身 |園口き圏 |園。来 |毅

嘗日

戸、 |曹三留二共住是

|弓 胡

-187ー

11 12 13

(和語)

:::闘する所となっています。なにとぞ身柄を拘束して、李紹謹と相劃して取り調べられますことをお願い申しあげ

〈ちがき

〈そこでまず〉緑山を尋問して得た款には、

ます。」と言ってまいりました。

「李紹謹は嘗時、兄と同行して弓月城

へ向かいました。併せて曹果毅および曹二〔曹畢裟〕

さらには同居する外甥〔姉妹の息子〕も共に

(弓月城へ?〉往

きました。曹果毅および曹二は、弓月城に留往しておりましたが、李三は兄より練を借りて受け取りおわると、兄と

ともに安西に(再び向かいました〉。

李三は現に到着しているのに、

:::、兄は安西に到着しませんでしたので、

ただ兄だけはやって来ませんでした。

既に安西

そこで陳情申し上げることにいたしました。

更に・・・・:はありません。」

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620

とあります。

さらに様山らに一尋問して得た款によれば

「兄と別れて以来、

四年経過していますが

曹果毅と曹二

らの胡輩たちは(知見人として)重指したものであり

(彼らと)ともに(来て)絹を借り受けたのは李三でありま

す・私および外甥は李三の後を追っていきました。曹果毅、曹二はともに胡であり、京師で家族とともに客住してい

ます。私が(こちらに向けて)瑳とうとした日には、(薗田果毅、曹二らは〉弓月城に留往して居りましたが、〈今、彼

らと同じく?〉私もまた弓月城を不在にしております。李三は(兄?と)ともに〈安西へ〉往く時に嘗たり、弓月城

-0

」とあります。

本文書が、高昌豚より安西都謹府に上申した牒であることは①の冒頭の行より明らかであるが、文書題名にもあるよう

(mU〉

に、牒そのものではなくその草稿であった。これまでにも多くの研究者が引用しているが、黄恵賢氏以外は本格的に分析

本文書には紀年部分が絞落しているので、先ず文書の年代を確定しなければならないが、これについて葉氏は、総章元

-188

したものではない。ここでは、資氏の分析も参考にして営文書について検討を加えておきたい。

(六六八〉より威亨元年(六七

O〉四月以前と見なしている。

」れは上限については、裏面に記されている公文書の紀年

(麟徳二年〈六六五〉〉とそれが廃棄されるまでの期聞を想定し、下限については安西都謹府が皐弦に置かれていた時期を

(

(

)

勘案した上で決定したものである。しかしながら、高昌豚から直接、安西都護府へ牒上していることから見て、これは安

西都護府が西州に置かれていた時期と判断するほうが安嘗であろう。即ち、上限は、吐蕃によって安西四鎖が陥され、安

(

(

)

西都護府が西州に畏された威亨元年(六七

O)四月、下限は出土古墓の被葬者の漫年である威亨四年(六七一ニ)とみなされ

る。先に掲げた文書の内容については、細部では解躍が困難な黙が残されているが、

一躍和-謬を附しておいた。他の文書断

片も含めて見ると、大まかなところでは、本案件は以下のように理解できよう。

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まず基本的には、債権者であるソグド人の曹縁山の兄(曹炎延〉と債務者である漢人の李紹謹〈李三)との聞に生じた、

絹の貸借上のトラブル訴訟が案件の内容であり、貫際にこれを西州の官司に訴え出たのが乱仰山である。①の官頭で、訴え

それは②の一行固まで煩いていると剣断できる。その後の高昌牒での審議過程では、闘

出た椋山の僻が引用されており、

係者より多くの供述(款、くちがき)が取られているが、②には稔山の供述調書だけが見えている。

(

)

全瞳を遁した上で剣断ずれば、李紹謹は曹炎延より弓月城(イリ盆地のクルジャ附近)において網二七五疋を借りており、

その後に雨者がともに弓月城より亀蛮(安西〉に蔵立っている。

曹炎延は亀蛮に委を見せなか司たことから、

また絹を借りた際に、知見人となったのが、②に見える曹

ところが、

弟の藤山は李紹謹に返済を迫るべ

くお上に訴え出たのである。

果毅と曹二(畢裟〉とであった。そのことは別の文書断片からもうかがえ、

(お〉

西に向か

司たことが記されている。

さらに同文書には、彼らが弓月城よりさらに

①によれば、絹を借りた漢人の李紹謹は、京師の人であり、②によれば、知見人となった曹果毅と曹二も、家口ととも

-189-

に京師に客居するものであった。また曹炎延・稔山兄弟も、京師より来ているらしいことは、黄恵賢氏の指摘する通りで

(叫山〉

ある。さらに②では曹果毅・曹二が「胡」であることが明らかにされており、また曹稔山も①で自ら「胡」であると表明

(

)

(

)

している。別の文書断片に見える李紹謹の款では、品姐弦より同行した曹炎延らソグド人を指して「輿生胡」と記している

が、これは衣節に見るように、本稿で調う外来ソグド一商人を指している。このことから、彼らが唐建園以降に唐内地に入

境し、京師に寄佐していた外来ソグド商人であることがわかる。

以上のことから、京師に寄住する外来ソグド一商人が、

京師の漢人とともに、

安西〈クチャ)や弓月城(イリ)、

さらには

それ以西にまで、贋範囲に一商業活動を展開していたことがうかがえる。

621

唐が亀弦の安西都護府を西州に撤退させる直前、即ち威亨元年〈六七O)四月を遡ること久しか

らざる時期のことであったことは容易に推測できる。この時期は、唐が阿史那賀魯の凱を鎮定して、唐の西域支配を抜大

本文書が示す内容は

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622

させていた時ではあるが、天山以北の情勢について言えば、六六七年に五得失畢部を統轄していた縫往絶可汗が渡し、唐

(鈎)

は偶備的な可汗を失う時期であった。政治的な状況だけを見れば、嘗時のイリ盆地周逸がとても唐の寅質的な支配下にあ

ったとは思えない。それにもかかわらず、多くの京師の胡

・漢の商一人がそうした地にまで進出して活漉に交易を展開して

いたのである。もちろんこれは、

イリが天山以北を東西に走る交易ル

lト上の中橿黙であったからに他ならない。

しかしながら、先に検討したように、唐内地に入境した外来ソグド一商人は、内地州豚の「百姓」同様に、蕃域に入るこ

とは許されない建て前であった。これは先の垂扶三年の詔救援布に関わりなく、唐の律令に基づく支配の論理構造から判

断して、唐初よりの外交方針であったと思われる。さらには溢州での交易活動についても種々厳しい規定が設けられてい

(ω〉

た。開市令によれば、

「諸そ、錦・綾

・羅・穀・紬

・綿

・絹

・紙・布

・驚牛尾

・員珠

・金

・銀

・識は、井びに西進、北返

の諸闘を度ること及び縁過の諸州に至りて興易するを得ず。」と規定され、

返境域においては、

基本的な交易品ともなる

-190

絹全般に

Eって閥外に持ち出すばかりでなく、過州において交易することも許されていなかったのである。先の垂鉄三年

HU)

の詔救も含めて、こうした法的な規制が、外来ソグド一商人の活動を規制する場合もあった可能性もあるが、少なくとも前

このことに閥連し、

そうした規制が現質的に働いていたとは認めがたい。

西域支配が強化される八世紀にあって、『唐舎要』巻八六開市の僚に、

掲文書の外来ソグド一商人に関する限り、

天賢二年十月敷すらく、聞くが如くんば、開己西の諸園、輿販の往来は絶えずと。託するに利を求むるを以てすと雄

も、絡には外蕃に交通し、因循なること頗る久し。殊に穏便に非ず。今より己後、

一切禁断す。仰りて四銭節度使及

び路次由る所の郡販に委ねて、巌に捉揚を加え、更に往来あるを得ざらしめよ。

とあるように、蕃域への輿販(商人)の往来を厳禁する詔敷が出されていた。

この輿販の中に、

唐内地に入っていた外来

ソグド一商人が含まれていたであろうことは容易に推測され、彼らの鯖蕃を厳禁する法規が具文となっていたことを雄癖に

物語っている。

『慧超往五天竺園俸』の建駄羅園の僚にも「漢地輿胡」が見えており、近年の-諜注では「中園からやって

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(州出〉

くる輿胡」と解している。ここに言う輿胡は、

からガンダ

1ラにまで往っていたことになる。

明らかに外来ソグド商人のことを指しており、これによれば、彼らは中園

(

またタパリlの年代記にも、

イスラム暦一

O四年ハ七二二年六月J七二三年

六月〉の記事に、

ホラ

lサlンを統治するサイ

lド・イブン・アムル・アル・ハラシ!とソグド人たちの軍国との聞で戟

闘が行われていたことが侍えられているが、その中でソグド人たちがムスリムの囚人を虐殺したことをめぐって、

(ソグド人たちがムスリム囚人を殺害したという〉その報告が異質であることがわかると、

アルH

ハラシ

lはソグド

人たちを死に慮するよう命じた。

しかしながら、彼は先ずその中から一商人たちを選り分けた。彼らは莫大な一一商品を所

有する一商人たちで四百人もおり、

その一商品は中園からもたらされていたのである。

と見えている。これによれば、開元十年ごろにソグディアナと中闘を往来する商人が相首の数存在していたらしいことが

うかがえる。さらには、八世紀のムグ文書

(Bl幻〉は、漢文文書の紙背を利用してソグド語で一日ごとに銅銭の数が書か

(

)

(

れているものであるが、既に吉田豊氏により検討されているように、日附がソグドのカレンダーによる日の名稽でなく、

一J三Oまでの数字で表されていること、中園圏内で書かれたいわゆる

「古代書簡」でも、

日附は数字で表記されている

-191ー

また漢文文書の一畏を利用していることから、裏のソグド語文書も中園圏内で書かれたものと推測している。さらに

このことから、この文書の存在は、八世紀初めソグド商人が、中園とソグドとを行き来していたことの直接の詮擦になる

と主張されている。もちろん、中には朝貢使節に伴って入朝したものもいたであろうが、これらの史料はかなり日常的に

こと、

ソグド商人が唐とソグディアナを往来していたことを示唆している。

以上の検討から、唐の前牢期を通じて、外来ソグド一商人の中には、唐内地と蕃域との聞を、規制に反して巷境の関門を

越えて往来するものが少なくなかったことが認められ、それもかなり日常的なものであったらしいことがうかがえる。

こうした交易紋況の背景には、外来ソグド一商人が謹境州豚で過所さえ取得すれば容易に唐内地に入境できる瞳制があっ

ではこうした外来ソグド一商人は、唐領内において如何なる存在として唐に掌握され、こうした交易活

623

たものと見られる。

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624

動を展開していたのであろうか。

鴇際州府

「百姓」としての外来ソグド一商人

はじめに述べたように、

ソグド人自身は、唐の建園以前より中園領内に入り込み商業活動をしていた。従って、

ソグド

人を掌握すると言っても、唐建園以前に既に中圏内地に定住していたソグド人と建園以降に新たに流入してくるそれとを

考えなくてはならない。

遅くとも貌音以降、

ソグド人は中園領内に緊落を構え

北説以後には「薩

(

)

それぞれの緊落には自治権が興えられていたと考えられている。印

それを擦軸'として交易活動をしていたが

賓」と呼ばれる緊落の統率官が置かれるとともに

ち、彼らはまったくの外園人として扱われていたのである。

-192ー

これらソグド人緊落や「薩賓」に封するこれまでの分析は、中園の各王朝、就中、北貌より惰唐期までを一括して論ず

ることが多く、その中での緊落や「薩賓」官の性格の緩化については全く考慮していない。結論を言えば、既に別稿で論

(

U

)

じたように、その性格は唐の前後で大きく出変化したと認められる。即ち、唐が成立すると、それまでの自治的緊落は、律

そこに属していたソグド人も唐の州豚「百姓」、

(川崎〉

成する籍帳に彼らを良人として編戸していったのである。要するに、唐の律令支配鰻制のもと、それまでの緊落のソグド

令支配の貫徹を目指す唐の州豚下に組み込まれ、

開ち州豚が定期的に作

人は、漢人との区別なく、

一様に唐の

「百姓」とな司たとみてよい。

さらに高宗の時代に西域に支配圏が績大すると、

西域諸園に罵鹿州府が置かれていったが、

この罵鹿州府に腐す民も、

同じく唐の

となっていったことは、

(川相〉

に、鴇康州民を「六城(州)傑謝百姓」としている例によりうかがえる。さらにトゥルファンの官文書には、開鴨鹿州府ば

(ω〉

かりでなく鵜鹿部落民をも「慮蜜部落百姓」とするものもある。これらの貼から見れば、ソグディアナのオアシス諸園の

「百姓」

梶原州府コ

lタンにおいて作成された、

税役の滅克等を指示する官文書中

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民も、律令支配の論理の上では、唐の罵鹿州府「百姓」として組み込まれていたと推測される。第二節で見たように、外

来ソグド商人が唐内地に入境し活溌に商業活動を展開したのは、こうした唐による鴇鹿州府設置以降のことであったと考

えられるのである。

きて彼ら外来のソグド商人が、唐内地においてどのように唐に管掌されていたのかは、既に多くの研究者により引用さ

れているが、次の文書が参考となろう。

「唐開元十六(七二八〉年北庭金満牒牒」

ハ「「金浦」豚之印」、有制御館日

『籍帳』三五四頁。)

1

金浦鯨

牒上孔目司

2

開十六税鏡、支開十七年用。

-193-

3

合嘗豚管百姓・行客

・輿胡、惣萱肝楽伯陸拾人。見税鏡、惣計検問

4

試伯伍拾玖肝陸伯伍拾文。

5

捌拾伍肝陸伯伍拾文、

百姓税。

r、後

(和語)

金浦豚より孔目司へ牒をもって上申いたします。

開元十六年の税銭を、開元十七年の支出に用いる〈件)。

嘗豚の管掌する百姓・行客

・興胡を合わせると、総計て

七六

O人となります。現在の税銭額は、総計二五九、六五

O文です。

625

八五、六五

O文、百姓の税銭。

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626

)文、行客の税銭。

U

)文、輿胡の税銭。

U

これによれば、北庭都護府管下の金浦豚に附籍される「百姓」と並んで、

「行客」

(

)

(本貫を離れた客・客戸を指す)ととも

に「輿胡」が見えており、彼らが開元二ハ年分の税銭を納入していたことが知られる。この「輿胡」が、ここで問題とし

ている日常的に入境してきでいる外来ソグト一商人であることは、第二節に掲載した文書の③に見える外来ソグド商人の康

(

位桂が「輿生胡」(輿胡はその略稽)の肩書きを、官司において附されていたことからうかがえる。さらにこれは、既に指

(

摘されているように、

(

)口

「儀鳳三年(六七八〉度支奏抄

・金部符」の一僚に、

(丁別)

務州諸豚及諸州投化胡家、富者口口

-194-

毎年請税銀銭拾文、次者丁別伍文、全

貧者請売。其所税銀鏡、毎年九月

一日以後十月対日以前、各請於大州

職納。

(和詳〉

(一〉務州諸廓及び諸州の投化の胡家は、富者は丁ごとに毎年銀銭一

O文を税として徴牧するよう求めおく。次者であ

れば、

丁ごとに五文とする。全貧者は、税を克ずるよう求めおく。税として徴牧する銀銭は、毎年九月一日より一

O月三

O日までに、各々、大州に於いて験納させるよう求めおく。

と見える「投化の胡家」と同一のものであ

ったと思われる。これによれば、彼らは入境後、

薙州(古川兆府)諸鯨とともに贋

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く諸州に管掌され、「富者・衣者

・貧者」に庭じて税銭を納入しなければならなかったことがうかがえる。中村裕一氏は、

(

)

先の「唐開元十六年北庭金浦豚牒」に見える「百姓

・行客・輿胡」の分別を「編籍による分類」と指摘されている。つま

「輿胡」とは、同じく外来ソグド一商一人を指す

「投化胡家」とか「一一商胡」などの呼稽とは異なり、

「行客」と並んで、寄

寓地となる州鯨で附籍される場合の公的な身分名稿ともなっていたのである。

このことより、外来ソグド一商人は、朝貢に附障して来朝し唐に在留するものと異なり、必ず何れかの州豚に蹄麗し附籍

されていたことがうかがえる。ただし、彼らは唐の州燃に附籍されるとは言

っても、

その所属する州豚「百姓」となるわ

けではない。この貼では、本来州豚「百姓」であったものが、本貫州を離れて寄寓地の州燃で附籍された「行客」が、そ

の州燃の「百姓」とならないのと同一の扱いである。即ち、「輿胡」も「行客」も、本来「百姓」であったものが、本貫

ではない寄寓地の内地州豚で「百姓」とは別に附籍され、

その富裕度に膳じて税銭を負捨していた。その上で、

はじめて

-195ー

彼らの活動が許されていたのである。

(

)

そこで注目されるのは、既に種々検討されている衣の賦役令の一僚である。

諸そ諸園

{蕃胡の内附せし者は]、亦、定めて九等と矯し、

四等己上を上戸と信用し、

七枯一寸己上を次戸と矯し、

入等己

{上戸は丁ごとに税銀銭十文、次戸は五文、下戸は之を克ず。貫に附して二年己上を経たる者は、

上戸は丁ごとに羊二口を職し、決戸は一口、下戸は三戸共に一口。}(羊無きの躍は、白羊の佑に准じ、軽貨を折納せ

よ。若し征行有らば、自ら鞍馬を備えしめ、三十日己上を過ぐる者は、嘗年の轍羊を克ず。)

本候文は、銀銭や羊という徴牧物の内容から、主として西北溢の遊牧・オアシス民を劃象としたことは明らかである。

(幻)

}は武徳令に存在していたと見られるので、この時貼で西北方面の内附者に射する賦役規定が考えられ

下を下戸と篇す。

またこの令文の

{

627

ていたことになる。石見清裕氏によれば、これはソグド系内附者と北方遊牧民系内附者ハ縁燦州府民)に射する規定が合わ

(

さったものであり、本来賦役令の一つの候文中に複数種の内附者を劃象とする規定が記されていたとされる。とすれば、

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628

後の高宗期に西域方面に罵鹿州府が設置され、蕃園の民が「開化在蕃者」

上では、名目的なものながら、これが彼らに適用される税役規定として観念されていたのではなかろうか。既に大津透氏

(

)

により指摘されるように、同じく銀銭で表示される、先の「投化の胡家」が負携した税額と本賦役令に示される税額とは

(蕃域に在る腸化人)となった時には、

律令、法の

つまり、外来ソグド一商人が内地諸州で附籍され負携していた税銭とは、本来の罵鹿州府の「百姓」として

負捲すべき税賦であったのである。彼らが唐内地に入境し蹄蕃が許されない存在となった段階で、唐の鴇鹿州府「百姓」

一致している。

としての立場とその賦役負捨が寅瞳を伴うものとなっていったと言えよう。換言するならば、彼らが唐内地へ入境するこ

とは、内地での彼らが「投化の胡家」とも呼ばれるように、

内地への投化(鋳佑)と見なされ、

それまでの

{蕃闘の民/

輯鷹州府「百姓」}

の彼らが、掃蕃できなくなる規定によって

{鴇鹿州府「百姓」}

となると同時に、

「百姓」でありなが

ら本貫に蹄らない存在となっていく過程でもあったのである。

これまで、蕃域(外地)の璃鹿州府については、

軍に名目的な設置と見られてきたが、

唐は内地領内において彼らを、

-196ー

律令に基づく帝園的支配の論理の上に、本貫を離れた唐の嘱康州府「百姓」として受け入れ、同じく本貫を離れた内地州

府「百姓」であった「行客」とともに、寄寓地の州豚で附籍することを認めたのである。そして彼らは寄寓州豚を援貼と

ししててし、

た既もにの内と地考州え府らの

れ"-, る60百。)姓

L

に組み込まれていたソグド人を保人として過所を取得し、様々なレベルで交易活動を展開

結びに代えて

唐王朝は、律令支配の根幹をなす原則である本貫地主義に基づき、定期的に作成する籍帳に「百姓」を編戸した上で、

極力その移動を制限する方針を保持していた。もちろん内地と外地との明確な匿別は存在するが、律令に基づく一帝一園的支

配の論理から見れば、

周遊世界にまで州鯨下に編戸される「百姓」は抜大していった。

しかしながら周知のごとく寅際に

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は、唐は「百姓」でありながらも本貫を離れ、寄寓地で附籍される人々を認知せざるを得なかった。それは唐内地の「行

客」ばかりでなく、外来ソグド一商人も唐の帝園的秩序の構造からすればそうした人々であ司たのである。

ただし、詳しくは別稿に一一譲らざるを得ないが、彼らの移動は、過所に依ったので、定められた公道を外れたり引き返し

たりすることは許されず、唐の巌しい交通管理下に置かれるものでもあった。

ば、彼らは京師が目的地とされているので、必ず公道に治って西州府より京師を目指さねばならなか司た。また地方州府

先の第二節に掲げた文書のケlスで見れ

であれば、どこへでも交通を許可する過所が護給できたかどうかは疑わしく、とりわけ長安への交、通を許可する、

(

)

京城四面開内への「勘入」を請求する過所が護給できたのは、特定の官府に限定されていた可能性は高い。京城四面闘を

つまり

通る騨道上に在る、安西・北庭南都護府や西州都督府などはそうした官府であったものと考えられる。

こうした瞳制の下に、安西・北庭やトクルファンといった境域オアシス都市は、西方から来る一商人等にとって、唐の一一帝

都と直結する陸の寄港市と化していたものと見られる。

さらに、

西漫境域地域に集まるものばかりでなく、

-197-

西

化・情報などを一帝都に集める機能を果たしていた側面もあろう。反割に中圏内地からも西域地域へ人やもの・文化が抜大

していたが、それらの流れを保護していたものこそ、唐内地と西謹境域地域とを結び附けていた唐の幹線公路と、その上

(

)

に形成された周到な交、通システムであったのである。

またこのようにソグド商人の京師への移動を保護しようとする唐の志向は、隔の表矩の「商一胡招致策」に代表されるよ

(臼〉

うに、北貌以来、北朝系の政権が一貫して採ってきた政策を踏襲したものであると考えられる。これは、中圏西方の漫境

おそらくは先に述べた側面、即ちものだけでなく、

域にソグド一商人らを足留めにさせないようにするのが目的でもあり、

文化・情報などの中園中橿への流入が滞ることを回避しようとしたためと推測される。

629

そもそも、先にも述べたようにソグド商人は、唐の勃興以前に既に、多くが中園周迭の世界に移住してきており、交通

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630

の要路上に彼らの緊落を形成していた。貫態は明確ではないが、そうした商業上の援貼を結んで、彼らがある種のネット

ワークを形成していたことは疑いないであろう。唐はこれらソグド商人を、中圏内地および周遊世界において、経済的な

側面ばかりでなく、政治的にも祉舎的にも大きな影響力を有する情報に逼じた存在として認め、彼らを積極的に取り込も

うとしたと想像される。唐が遠くソグディアナ周漫諸園に数多くの罵庶州府を設置し、それらを支配秩序に組み入れてい

たのも、唐のかかる姿勢を無視しては理解することはできない。

唐王朝は、

その前半期において、中圏内地ばかりでなく周遊の蕃域にも罵麿州府を設置し、内地州府とは明確に匿別さ

れるものの、唐の州府に附籍される「百姓」を押し披げていった。とりわけパミ

lル以西にまで罵鹿州府を設置して、

西

方に大きく膨張するかたちで唐の州府を績大させていたことは、既に見たとおりである。唐におけるソグド一商人らの活動

t土

こうした唐の支配秩序の周造への蹟大を背景に生まれてきたものであり、

律令に基づく一一帝園的支配の論理からすれ

-198ー

ば、彼らは唐の鴇牒州府「百姓」でありながらも本貫を離れ、唐内地の寄寓州燃で附籍されることを許された一商人となっ

ていた。そして官司が護給する過所によって、唐はそうした彼らの移動を保護するとともに、その一帝都にも結び附けてい

たのである。

はじめにも述べたように、

ソグド一商人の中圏内地

への活動は唐以前からのものであり、既に外園人として中圏内地に自

治的な緊落さえも作り上げていたが、唐一帝園の成立は、

そうした唐以前の時代における彼らの活動の様相を

一嬰させるも

のであったことを銘記しなければならない。

{略競}

『文書』・・園家文物局古文献研究室

・新彊維吾爾自治医博物

館・武漢大同学歴史系編『吐魯番出土文書』一

J一

O、文物出版社、一九八一

J一九九一年。

『文書〔萱J態〕』

:::中園文物研究所

・新調維吾爾自治医博物

・武漢大皐歴史系編『吐魯番出土文書〔萱J態〕』

文物出版社、一九九二J一九九七年。

Page 30: Title 唐帝國とソグド人の交易活動 東洋史研究 (1997), 56(3 ......唐帝園とソグド人の交易活動 荒 11 1 J 正 晴 はじめに 一朝 貢・互市交易とソグド商人

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由叶∞-

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由∞。・

『籍帳』:::池田温『中園古代籍帳研究』一九七九年、東京大皐

出版曾。

631

註〈1〉榎本淳一「『小右記』に見える「渡海制」について

l律令

図家の封外方針とその獲質|」山中裕編『掻開時代と古記

録』吉川弘文館、一九九一年、一七三頁。

(

2

)

榎本淳一「『性盤集』に見える「竹符・銅契」と「文書」

について」『日本古代の俸承と東アジア』吉川弘文館、一九

九五年、四六五J四六八頁。

〈3)

多くの論著があるが、北方遊牧民とのそれについては、松

回詩男

「絹馬交易究書」「絹馬交易に関する史料」『松田蕎

男著作集二遊牧民の歴史』六輿出版、一九八六年、一四

0

1一七九頁などがある。

(4〉、通常ソグド一商人と言えば、ソグディアナ出身の一商人を指す

が、唐に進出していた「一商一胡」や「輿胡」の中には、周迭の

トハ

lリスタ

ン等の出身者なども含まれていた可能性はあ

る。本稿では、便宜上、

そうした出身者も含めてソグド商人

と呼んでおく。

(5〉渡逸信一郎『天空の玉座|中園古代一帝園の朝政と儀檀|』

柏書房、

一九九六年、二三八J二四七頁。ただし石見清裕氏

によれば、健康州府は外地と内地のそれとに区別されるの

で、先に掲げた三つが裁然と分かれているわけではなく、内

地諸州府と遠夷の樹党方に跨るかたちで、続康州府が置かれて

いたと見た方がよい。石見清裕「唐の内附異民族封象規定を

めぐって」『中園古代の園家と民衆』汲古書院、一九九五年、

三ハ頁。もちろん、朝貢

-m封・

緑膿

・内地化などの段階

を設定して、周透異民族との関係を捉える見方もある。これ

も含めて緑膿州をめぐる諸問題については、片山章雄「属探

州」『アジアの歴史』(第一篇中園、四章惰唐、問題黙

の提起二〉南雲堂、一九九二年、八四J八五頁参照。

(

6

)

石見清裕「唐代外園貿易・在留外薗人をめぐる諸問題」

『軸翌日南北朝時代史の基本問題』汲古書院、一九九七年、

八J七一頁。

(7〉『奮唐書』巻一九四、突放惇下〈『資治通鑑』巻二二二、

開元一四年(七一一六〉一二月の僚〉。「文書』八、八四J九

O頁に見える文書史料も、遊牧民との互市交易に関するもの

であろう。

(8〉一商一胡は、唐によって波斯や大食とは区別される存在として

認識されていたことがうかがえ、必ずしもイラ

ン系商人を緯

稽する語として使用されていたわけではない。『奮唐書』智

一一

O節景山俸の「一商胡大食波斯等商放死者数千人。」も、

「一商胡・大食・波斯らの爵放の死する者は数千人なり。」と

讃むべきであろう。

〈9〉唐では使節の往来にかかわる負捲すべてを園家丸抱えにす

る鐙制から、途迎する州燃の負捲も甚大であり、そのため朝

199ー

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632

貢使そのものを嘗初より

一貫して厳しくチェックする鐙制に

あった。逃州の負捲については、先の『通鑑』の史料にも見

えているが、さらに「準奉」に閥して、八世紀後牢の史料

(河西節度使剣集〉にも、諸園の首領に根食を停止する剣文

おさ

に、「沙州の根を率むるは、辛苦ならざるに非ず。首領、進

奉するに、此に怒りて興生す。速く自り来りて、誠に合に

ねんどろ

優に嘗るべきと錐も、流に留り且つ久しければ、資拍恨を

ゆ倉わた

遂らせ難し。理は適時を貴べば、事は宜しく停給すベし。」

(ベリオ二九四二、『籍帳』四九五頁)と見えている。この

剣文における諸園の首領とは、西域諸園の首領を指すものと

考えられ、彼らが進奉の機舎に交易に駒み、そのまま滞留す

る傾向にあった潟に、迭迎する遊境の州豚の負揚が過重とな

っていたことを停えている。なお西域諸閣の統治者を首領と

表現することは、

「西蕃胡二十七閣の首領」と見える『惰書』

巻六七裳矩停など参照。

(

m

)

「豚一良」が

「感一良篤賎」であることは、戸婚律「放部曲奴

稗還座」の僚および『資治通鐙』巻二八三、後耳目紀四稿用王天

一服八年(九四三)、二月丙子(二八日)の篠参照。後者には、

「自烈租相奥、禁堅良篤賎」の胡三省の注に「良人の子女を

買いて奴縛と篤す、之を良を墜して賎と信用すと謂う。律の禁

ずる所なり。」と見えている。また「該誘」は、張九齢『曲

江集』巻十一「救吐蕃賛普書」等にも見えるように、人をか

どわかす意味で用いられている。

「家盗」については、拙稿

「唐の州豚百姓と過所の愛給唐代過所公験文書街記(1)|」

『史観』一一一一七、一九九七年、

一OJ一一頁参照。

(孔)

「園田名俵代」の意味については、街禁律四

「宮殿門無籍」

の候、同二三

「宮門等冒名守衛」の僚および『謬註日本律令

六唐律疏議誇註篇二』一二

・六九頁参照。

(ロ〉①と②の閲は、現在は切り離されて塞紙に貼られている

が、本来は紙がここで貼り縫がれていたことは、紙縫背に書

かれた

「亨」のサインの存在から疑いない。

(日)前掲註(叩)拙稿、七J一O頁。

〈は〉『文書』九、六一頁には、

「鶴間」僻冒頭の供述者名の下に

登指が、またその末尾に

「典康仁依口抄弁讃示詑。」と記さ

れているものがある。これは「書記の康仁が口書きをし、併

せてそれを(供述した本人の前で〉讃み示し終えた。L

後に

供述者が重指したことを意味している。サインした例はまだ

知られていない。

(日)-誇語人については、李方「唐西州的譲語人」『文物』一九

九四|二、四五J五一頁等参照。

(日)

「ロミ胃コ」(ナナイ紳の恩恵三巴22巧巾ZPNRgmEE

印ロ}戸ぬロ同VAwgo口。ロロ由ghwロmorc口問・HS札。hGw-遣ぬミぽ町、V町、。ご町、VNhおE

hS3・巴吋N・同】-E∞・に

「寧寧念」が、吉田墜

「ソグド語の

人名を再構する」『ぶつくれっと』七八、

一九八九年、七

頁に「寧寧念」と並んで

「那市用溶」があげられている。また、

Z・ωEm--者二一35♂旬。

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円。ロ仏OP

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・司自》-SIS-

参照。

(げ)前掲註(叩〉拙稿、

-200-

一一、t一四頁。

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633

(凶〉『文書』九、四四

1四七頁。詳しくは別稿で論ずる。

(日)程喜森「《唐垂扶元年ハ六八五)康尾義羅施等請過所案巻》

考圃梓」『貌耳目南北朝陪唐史資料』一一、一九九一年、二四一

頁。

(却)詳しくは鰯れられないが、この公文が来文を指すことにつ

いては何の問題もない。また来文としては、過所だけでなく

いわゆる公験もあるが、関を度るには過所を必要とする。過

所と公験については、砺波護「唐代の過所と公験」『中圏中

世の文物』京都大皐人文科拳研究所、一九九三年、六六一

1

七二

O頁に関連史料

・論者が網羅されている。

〈幻〉ただし七世紀においては、安西四銀をめぐり唐は吐蕃と抗

争を繰り返しており、本文書の垂扶元(六八五〉年に、唐が

西域支配を回復していたかどうかは確定されていない。森安

孝夫「吐蕃の中央アジア進出」『金津大拳文皐部論集史拳

科編』四、一九八四年、二ハ頁

・六五頁註〈苅)。本文書にも、

「西に在つては誰も通行を規制するものはなく」とあり、唐

の安西四銀が再置されたとみなすことには疑問が残ろう。し

かしながら西州府が外来ソグド商人に劃して、既に唐の来文

(過所)を携帯していることを期待していたことは疑いな

く、北庭(庭州〉経由の場合もあり得るが、四銀すべての回

復はともかく、少なくとも安西都護府は亀弦に戻っていた可

能性はあろう。

(辺)これについても、註(川崎)に同じ。

〈部〉保人は内地州豚の「百姓」となっていたが、この垂扶年関

には「阿了」(円可唱)のように胡風の名前を持つ者がまだい

たことが知られる。

Z・辺自由・当三UEm-Eι・・司・

2・参照。

なお「阿了」がソグド語の同司君の漢字音篤であることを、

吉田豊氏よりご教示いただいた。

(M〉嘱波護「唐代の畿内と京城四面開」唐代史研究禽縞『中園

の都市と農村』汲古書院、一九九二年参照。

〈お〉『奮唐室田』巻四

O地理志三などに「西域十六都督州府」と

して、龍朔元年(六六一)に、子関より以西、波斯以東の地

に、都督府一六〈または八〉、州八

Oハまたは七六、八八〉、

豚一一

O、軍府一一一六を設置している。

(お〉『唐舎要』巻一

OO雑録には「塑歴三年三月六日殺すら

く、東は高麗園に至るまで、南は員臓園に至るまで、西は波

斯・吐蕃及び堅昆都督府に至るまで、北は契丹・突放・綜絹

に至るまでを、並びに入蕃と篤す。以外は紹域なり。其の

使、感に料を給うべきは、各、式に依れ。」と見え、七世紀

末ごろの唐にとっての遠夷(入蕃)の園が具種的に示されて

いる。これらの入蕃の園は開元二五年の雑令規定にも見えて

いるが、それも全く同様の園を掲げている。

(幻〉『文書』では、①の一二行自に「行黒津於此閥、請一箇

L

を掲げているが、これは別の文書断片であり、ここ

に接績するかどうかは疑わしいので省略した。

(お)「唐麟徳二年(六六五)牛定相辞震請勘不還地子事」

(g

吋〉冨Hω串口也、『文章田』五、九二頁〉によれば、「封嘗」は

「本人と謝して直接取り調べる」という意味に解することが

できる。

(mm

〉黄恵賢「《唐西州高昌勝上安西都護府牒稿篤録上訊問曹疎

-201ー

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634

山訴李紹謹荷造融問僻事》嗣押」『敦煙吐魯番文書初探』武漢大

皐出版社、一九八三年、三四四J一一一六一一一頁。

(m却)賞、前掲註〈mm〉論文、三五三J三五五頁。

(氾)西州に安西都護府が置かれていた時期には、守文書』七、

一九J一一一一頁などに見えるように、都護府は州ではなく燃に

直接、符を下達していた。このことからすれば、西州で眠怖か

ら直接、都護府に牒上することは拍思想可能である。しかし安

西都護府がクチャに置かれていたとすれば、西州はその管轄

から外されるので、高昌師怖が安西府に直接牒上することは考

え難い。

(匁)森安、前掲註(M4

〉論文、一

OJ二頁。

〈お)「麿威亨四年(六七三)海生墓誌」が出土している。『文

書』六、四五八頁。

(泊)より正確な地理比定の作業は残されているが、弓月城がイ

り盆地のクルジャ附近に存在したことは疑いない。松田害時男

「弓月についての考」『古代天山の歴史地理皐的研究増補

版』一九七

O年、三三八頁。

(お〉

A

山町、吋〉豆町HHH

由(『〉、『文書』六、四七七J四七八頁。賞、

前掲註(mm〉論文、三五五・三五九頁参照。

(お〉賞、前掲註(ぬ)論文、三五三頁。

(幻)炎延・藤山はともに胡風の名であるが、吉田盟氏によれ

ば、炎延はソグド語の可(dg〕¥ロ(ヤマ紳の恩恵)の一一音潟と

される。

Z-ω】自由・当EEBPEL--u・∞H

・参照。

(お)由酌吋〉玄白HUMM(『〉。『文書』六、四七四頁。

(鈎〉森安、前掲註(況)論文、四頁。

(机叫)復元関市令四。仁井田陸『唐令拾遺』東方文化率院、一九

三三年、東京大事出版舎復刊、一九六四年、七一五頁。仁井

田陸(著

γ池田温(編集代表)『唐令拾遺補』東京大摩出版

舎、一九九七年、二二九五頁。

(HU)

西北迭境域においては、巌しい園境管理が行われており、

これらの法規が全くの具文であったとは考えられないことも

指摘されている。菊池英夫「惰唐王朝支配期の河西と敦爆」

司講座敦燈二敦爆の歴史』大東出版社、一九八

O年、二二

一一一J一三四頁。池田温「敦煙の流通経済」『講座敦建三敦

燈の祉曾』大東出版社、一九八

O年、三一一一頁。

(必〉桑山正進(編)『慧超往五天竺園惇研究』京都大皐人文科

皐研究所、

一九九二年、三八頁。

(

]

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叶田宮コ・叫dbwえ』伊

MHA・w-ERNSRH42RNぬ』伊・ロ曲〈広

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叫,

eaQユ〈口一・MM内回〈・

204弓J円

OHFES-司・

Ha-の英語に撮

った。吉田島「ソグド語資料から見たソグド人の活動」『岩

波講座世界歴史

一一

』岩波書庖、

一九九七年、一

八八頁。

(仏〉豆・

2・切O「ohgqO回白出

O

X・の富国勺ZO回opnshwhhhHRR町

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国立口)『口RHHFMOM出障の叶回巾国民民巾

同ORV可冨巾

ZJ『rr玄O門岡田

PEE-2-yalg-

(日出〉吉田堕「ソグド文字で表記された漢字一音」『東方撃報』京

都第六六加、一九九四年、三

O四頁註(ロ)。

(日明)藤田盟八『東西交渉史の研究西域篇及附篇』岡書院、一

九三三年、三

OO頁。

羽田明「ソグド人の東方活動」

『岩波

講座世界歴史6

内陸アジア世界の形成』岩波書庖、一九

。bnu qb

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635

七一年、四二七頁。

(幻)拙稿「北朝惰・唐代における「薩賓」の性格をめくって」

『東洋史苑』五

0・五て一九九七年。

(日明〉山根清志「唐の「百姓」身分について」『枇曾経済史皐』

四七|六、一九八二年。同「唐の「百姓」身分・補論」『中

園古代の法と祉曾』汲古書院、一九八八年、

二九三J三一一一

頁。

(川叩)森安、前掲註(況〉論文、五二頁に検討するダンダンH

ウィ

リク出土文書。この他にも多くのコ

lタン出土文書に、様際

州府下の一般良人を「百姓」とする例が認められる。

〈印)『文書』九、

一一一一O頁。

(日〉もちろんこれが、内地州豚「百姓」とは明確に区別されて

いたことは言うまでもない。従って、唐律令制下の「百姓」

には、律令が本来規定する内地州豚のそれだけを封象とする

場合と、唐の支配下に組み入れられた、蕃域の緩燦州府のそ

れをも含んで指す場合とがある。

(臼)池田、前掲註(HU

〉論文、三四

O頁註(MmV

「行客」の性格

は多様であるが、商人の場合は寄寓地で附籍されたものは多

いと考えられる。ただし西北透への漢人一商一人の進出を考えれ

ば、この透りの「行客」が寄寓地で附籍される法的認知を得

るのは、必ずしも八世紀玄宗期の客戸の制度化以降のことで

あったとは限らない。また菱伯動「敦埋新彊文書所記的唐代

。行客乙圏家文物局古文献研究室編『出土文献研究績集』

文物出版社、一九八九年、二七七J二九

O頁参照。

(臼〉菱、前掲註(臼)論文、二七九頁。前掲註(必〉『慧超往五天

竺園停』二=頁の森安

「輿胡」

の註多照。

〈臼)大津透「唐律令園家の殻算について」『史皐雑誌』九五l

一二、一九八六年、三

O頁。石見、前掲註(

6

)

論文、七五

頁。

(日)中村裕一『唐代官文書研究』中文出版社、一九九一年、四

五二頁。

(日山〉復元賦役令六。仁井田、註(州制〉前掲書、六七一

J六七二

頁。

〈閉山)仁井田、註(幼〉前掲書、六七一頁、仁井田・池田、註(紛)

前掲書、七六七J七六八・二二五四頁。また岡田宏二「唐代

の暴燦政策|特に穣擦府州鰻制を中心として」『園立政治大

撃透政研究所年報』一七、

一九八六年参照。

(回〉石見、前掲註ハ6〉論文、四二三J四二八頁。これに針して

堀敏一氏は、本僚文が舗化した個人にかかるものであり、緑

膿州民を封象としたものではないとされるが、本論の検討を

踏まえれば、本僚は係文全鐘を逼して、西北迭の緑膿州府民

を封象とするものと理解できるのではなかろうか。同「中華

世界」『貌菅南北朝惰唐時代史の基本問題』汲古書院、一九

九七年、五

O頁。なお「凡そ内附せし後に生まるる所の子

は、即ち百姓と同じにして、蕃戸と震るを得ざるなり。」の

一文は、賦役令の本候文に附すべきものではない。

(印〉大津、前掲註(

M

)

論文、二九頁。「度支奏抄」は前掲賦役

令の施行細則であると指摘する。

(印〉輿胡の中には、州の周遺地域のみで一商業活動していた例も

認められる。『文書』九、六八頁等。

-203ー

Page 35: Title 唐帝國とソグド人の交易活動 東洋史研究 (1997), 56(3 ......唐帝園とソグド人の交易活動 荒 11 1 J 正 晴 はじめに 一朝 貢・互市交易とソグド商人

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(飢〉このことは、南方ではあるが、困珍が長安へ上る際に、越

州都督府に至つてはじめて長安への過所を愛給してもらって

いることからもうかがえる。嘱波、前田岡註(却)論文、六九四

J六九七頁参照。

(臼〉拙稿

「中央アジア地域における唐の交通運用について」

『東洋史研究』五一一一一、一九九三年参照。

(臼)階の裳矩以外にも、北貌の北涼征服時の討伐理由(『貌書』

各九九、鹿水胡温渠蒙遜停)、北周の西域招致策(『陪唐』巻

七、躍儀志)などに認められる。

-204ー

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This document was called aか符.A bureaucrat from this department

signed this agreement, however, the column reserved for dating was at that

time left blank. A copy of this document was made and it was then

returned to the menがa branch. Upon receipt of the king's orders, the

Relations department would draw up another document known as aル, the

purpose of which was to appoint an ofBcial to enforce the decree. An

o伍cial of themenxiabranch inspected this document, and after that entered

a date. Theshangshubranch then issued this document to the responsible

official as aか. This system of the communication of the orders of a king

via a document known as a /z4 is described and analyzed in this paper.

SOGDIANS IN THE TANG EMPIRE

               

Arakawa Masaharu

   

The imperial rule of the Tang extended to the neighboring foreign

countries, and continuing up until the period of the high Tang, the

government exercised a loose control over these countries by setting up

が-mi zhou-か輯廳州府(“loose reign" prefectures). The residents of these

foreign countries were also entered as households of commoners in the

household registers, as was prescribed by the lu-lins律令system. Among

these foreign countries, almost a11Central Asian countries eχtending as far

as Sogdiana were included in this system. As a result, the trading

activities of Sogdians were arranged in accordance with system. Within

the晩一ling system, Sogdians were treated as merchants who were permitted

to be entered in the household register of their domicile of choice after they

had left their legal domicile. The Tang government ensured the safe

passage of Sogdians via issuing them passports and allowing them access to

the Tang communication system that connected them with the imperial

capital. The Sogdian trading state established by Tang imperial order in

the firsthalf of the Tang era was entirely distinct from indigenous Sogdian

states established both before and after this period.