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Title 六部成語註解に就いて Author(s) 内藤, 乾吉 Citation 東洋史研究 (1940), 5(5): 336-350 Issue Date 1940-09-10 URL https://doi.org/10.14989/145707 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 六部成語註解に就いて 東洋史研究 (1940), 5(5): …...る。その封面には乾隆七年 zgr 日一円刻・新鋭・重錆 等の文字を皆 Z2 守口 nr と諜しとあり、満漢爾文で

Title 六部成語註解に就いて

Author(s) 内藤, 乾吉

Citation 東洋史研究 (1940), 5(5): 336-350

Issue Date 1940-09-10

URL https://doi.org/10.14989/145707

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 六部成語註解に就いて 東洋史研究 (1940), 5(5): …...る。その封面には乾隆七年 zgr 日一円刻・新鋭・重錆 等の文字を皆 Z2 守口 nr と諜しとあり、満漢爾文で

J36

六部成語’註解に

      

 

昨年の春ヽ宮崎市定先生から六部成語註だの刊行に

ついて御相談を受けた。鴬時京都帝國大學の東洋史開

係の諸君の中に、清朝の制度に開する研究を始めた人

々があったので、その參考に供する篤に先生が東京の

加藤繋博士から此書を借りて来られたのであるが、之

を印刷して研究者に頒ちたい、加藤博士も此書の傅を

弘めることを希望し七居られるといふことであった。

賓は私はそれまで六部成語註解といふ書を全く知らな

かった。東川徳治氏の典海(一名支那法制大誹典)や支

那の鄭競毅といふ人の法律大附書に此書が引用されて

ゐることも、此等の酔書を所持してゐながら気がっか

すに居った。今簾匍聊博士所蔵の鈴本を印刷に付する

χ, `

  

  

について始めて一讃することが出来たのであるが、そ

の結果此書には夥しい傅寫の調脆があるばかりでたく

段々見てゐると註解そのものにも少からぬ誤謬があっ

て、軽々しく信用出来ぬ處のある書であることを知っ

た。文字の調脱は出来るだけ訂正し、宮崎先生にもI

校を煩はして私の気のっかぬ誤なども訂正出来たが、

註解そのものx誤は私の如き清朝の掌故について何の

知識も持たぬ者がブ朝一タに全般的訂正を施すことは

困難であるので、これには全く手を鯛れぬことにし

た。但だこれをそのま`i印行するにっいては、此書の

性質について私の知り得た所だけでも記しておけば、

多少の參考にならうかと考へてこの解説をものする次

第である。

 

此書の由来については’、嘗て豪薦總督府の臨時有慣

-20-

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調査會にその鱗本が一部あって、調責開係考が之を寫

したもの及びそれからの傅鈴本があるといふことを調

査會に開係。せられた狩野君山先生から聞いてゐるが、

やはり調査開係者であった加膝博士の蔵本や、同じく

調査開係者東川氏の典海に引用されてゐるものなどは

この調査會の本から出たものである。此書が湯漢合璧

の六部成語の漢語に註解を施したものであることは、

藤枝晃君に満漢六部成語といふもびがある筈だといふ

ことを教へられ、早速所書を比較して見て知ったので

校訂にも之を使用したのであったが、近頃岡野一朗と

いふ人の支那経済耐典といふものを見たとこぢが、そ

の六部成語の項に次のやうなことが書いてあるので參

考までに掲げる。「前清時代の六部、即ち官場にて通

用する慣用語にして、前清時代に満洲人が漢文及官用

語を習熟する唯一の教科書として編纂され、各成語の

下に満洲文字で解憚を施したものである。数十年前日

本人の篤志家が支那學者を聘して之を流謬し、支那官

公文1 研究の資料としたことがあり、其の後更に海間

幇辨敗山口昇氏によって解抑を施され、六部成語註解

としヽて行はれたことがある」といふのであって、その

六部成語に對する説明はそのfi ^y.は受け取り難く、

且つ六部成語註解Q依抹した書とは趣を異にしてゐる

處があって、或は六部成語といふ書を見ないで云って

ゐるのではないかと疑ぱれるのであるが、日本人の篤

志家云々とか故山口昇氏云々といふやうなことは何か

傅聞する所があるのであらう。

      

 

さて六部成語註解の性質を知る篤には一息その註解

されたもとの本である六部成語を知る必要がある。此

書は清朝の官衝慣用の漢文成語とその満洲語謬とを並

記した對鐸書であって、その語彙を吏戸誼兵刑エの六

部忙従って類聚したもびである。乾隆七年に出たのが

初板本であるらしいがヽその複刻本が逮行してゐる・

その醒裁は左行でぃ満語を左に漢語を右に並列し、六

部の各部を一巻づXとトy

るやうに、此書より以前に此1 と内容・醍裁を異にす

『る書が既に六部成語と題されて出てゐるが、註解に用

ひられたのは上述の乾隆七年本系統の本である。因み

に上掲0 。支那麺済斟典の六部成語・の箆明祀「各成語の

--2

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下に満州例文字で解燥を施したもの」とあるのは誤りで

あって、軍たる譲一語を示してあるだけで解緯を施した

ものではたく、従って「之を渓持、した」といふととも

誤りである。

六部成諾に就いては従来メレンドルフやラウフアー

や渡謹議太郎氏等の誠文書誌には、その偶ま見た本に

ついて箆軍・な説明を奥へてゐるに過ぎなかったが、フ

ックス氏巧と

52nEの図。宮町問。

N55D会片山ma

nro口出守口。唱さEωg円

FX2P23H,。-qpHO∞G

には

氏の見た多くの板本に依って此蓄の源流が頗る詳しく

説明されてゐる。それ等の板本には私の未見のものも

多いので、以下先づフ氏の.訟に聞き、然る後に私の目

暗する所によって之を補設するととLする。フ氏の云

ふ所の大要は次の女くである書七三頁

六部成語は最も一屡主版を重ねた官燦専門語集であっ

て、六巻に分たれてゐるのが通行の本である。ラウ

フアーは此書を康照六十一年の戴穀の能書(清文備

考)に基くものとしてゐるが、しかしそれより以前

康照三十二年の劉.順・桑格ム口編輯の同文葉集の第三

巻に厳に六部の成一語約九百四十を集めた成語類とい

ふ一類がある。共後とれに由来する幾多の版が出た

が、自分の知る所は左の如くである。

ω最初のものは康照六十一年の戴毅の清文備考の

第二容と第三巻とを、た刊誌板心の文字と各巻首の原

書名を除いてそのまL別行したもので、その封商に

は六部成語と滅渓雨文で題し、琉璃廠博文堂裁板と

あって出版年月はたい。その語会は同文葉集から取

ったものが基礎にたってゐるが、著しく増加して殆

んど三千二百諾にのぼってゐる。

waと全く同一本であるが、たど封商の出版所名

が愛って京都英華堂殺板とたってゐるもの。

ω自分の見た所では改修版は乾隆七年のものを最

初とする。此版では践に以後の総ての板本と同様に

- 22 -'

吏戸躍兵刑工の各部一巻づL

の六巻本になってゐ

フ氏は新刊・新

る。その封面には乾隆七年

zgr日一円刻・新鋭・重錆

等の文字を皆

Z2守口nrと諜しとあり、満漢爾文で

てゐるつ原文に何と・めるかは不明

六部成語と記されてゐる。同じ年の一本にはとれと

同じ封商に吏に京都永魁堂梓行の文字があるロ

ゆ右の重刊本が乾隆六十年に北京の文盛堂から出

先。封商には瀦漠雨丈の書名と出版所の外に上部に

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乾隆六十年Neudruckとある。

  

㈲右と同じ板の嘉慶二十一年版の対面には海女E乙

漢文の書各の中間に京都文盛堂梓行と記し、上部に

’嘉慶二十一年重鎬と記す。

  

雨最も屡―見るのは道光二十二年版で、その封面

 

には右方に出版年を中央に満漢六部成語といふ書名

 

を記し、左方にはたゞ堂刊とあって出版所名を訣い

 

てゐることが屡よあるが、文英堂刊・聚県堂刊・小

 

酉堂刊等と’出版所名のあ・るものもある。

 

な降乾隆七年本は康煕六十一年の清文備考本とは語

 

の選様及び順序が異って居り、且つ此本からは各語

 

が上下接続して排列されてゐるので、一目瞭然たり

 

難くなってゐる’。defの三つの版は乾隆七年本の

 

複刻である。

 

以上フックス馬の云ふ所を要約すると、六部成語と

題した書は、その内容及び前裁の異る勘からして

 

 

一康煕六十一年の清文備考の一部分を別行した本

の二に)(

乾隆七年本系統の諸本/

       

種に分たれ、二は更に刻板の上からして

jイ乾隆七年本

 

りイの複刻本印ち乾隆六十年本こ費慶二十一年本。

  

道光二十二年本

の二種に大別されるものXやうで吻る。この中で清文

備考本については後に述べることxして、乾隆七冬本

系統の本で私の目暗したものは、その封面によれば『

 

乾隆七年重鎮

 

京都鴻遠堂梓行(東方文化研涜所蔵)

 

嘉慶二十一年重鎬

 

京都文盛堂梓行(家蔵)

 

道光二十二牟

 

小酉堂刊象繭)

 

封面なき本(石潰純太郎氏蔵)

の個種で、乾隆六十年本は未見である。その乾隆七年

鴻遠堂本はフ氏の拳げてゐたいものであるが、フ氏の

見た乾隆七年本と板は同じでないかと思ふ。嘉慶本・

道光本は■70とよりフ氏の挙げてゐるのと同種のもので

ある。無封面本臆フ氏は挙げてゐないが嘉慶本丿道光

本と同一板で、板がぴどく磨滅し紙も粗悪であるから

最も後のものと思はれる。他の本は皆毎巻一冊の六冊

本になつてゐるが、此本だけは四附に装されてゐる。

この四種の本を對比して見ると、乾隆七年本と嘉慶本

とは刻板が別であるが、嘉慶本・道光木・無封面本の

三本は全く同一刻板であることフ氏の所説の如くであ

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って、たゞ後のものほど’漫港が甚しくなってゐるだけ

 

のことである・それで刻板の異る乾隆七年本と嘉慶本

  

とを比較すると、行数・字数・丁数等の脛裁は同じで

  

あるが、嘉慶本は満漢文ともに少かぬら論誤脆落があ

  

って、頗る粗悪な複刻であることが知られる。のみな

  

らす巷二戸部成語の末尾の第四七二葉は刻板を亡失し

  

たものと見えて嘉慶・道光・無封面の三本ともに訣葉

  

になってゐる。乾隆七年本は嘉慶本には勝るけれども

  

やはり文字の調誤があって完善な本ではないので、湖

  

ってその基く所の諸本を見る必要を感ぜしめる。

   

乾隆七年本六部成語の基く所として、フ氏は同文彙

  

集中の成語類と清文備考中の第二第三附巻とを阜げて

  

ゐる。同文彙集はフ氏によれば康煕三十二年の序文あ

  

るもの三版、康煕四十一年の序文あるもの一版の少く

  

とも四版あるが、何れも序文や本文の内容には愛化だ

  

く、異る所は封面と序文の日附の處と書名とだけであ

  

って、書名は同文廣彙全1 とも廣彙全1 ともなってゐ

所蔵の板木で

よいム。

奸詐駒毀

 

私の見たのは大阪外國語學校

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序文の日附が康煕四十一年、巻首や板

心の書名が廣彙全1 となつてゐるものである。フ氏に

よれば同文彙集は類聚式の漏漢離書としては現存する

最古のものであるといふことで、あらゆる方面の語彙

を乾象類・時令類等の四十四類に類聚し、四谷に分っ

た本である。その第三巻の首にある成語類は官廳用成

語を集め、之を六部の順序に排列したものであるが、

各部の最初の語に吏部戸部等の語を置いて、これが標

目にもなってゐるじ

二第三谷を別行した本はい未見であるが、清文備考は京

都帝國大學所蔵の板本を見ることが出来た。此1 は十

二巻本であって、その第一谷は虚字講約(フ氏によれ

ば沈啓亮の大清金書の附録なる清書指南からその奎x

取ったもの)・形容語・相連語の三部分よりなり、第四

巻以下は滞洲字母によって排列された満満1 書である

が、第二巻は即ち吏戸檀三部成語、第三巻は兵刑工三

部成語であって、此書では既に各部ごとに吏部成語・

戸部成語等と標目されてゐる。

 

右の廣彙1 1 一・清文備考と乾隆本六部成語とを比べ

て見ると、六部の成語といふものが僻書中に於て特殊

の語彙として取扱はれ、遂にこれが濁立の書となった

径路を知ることが出来る。更にこの三書中のそれ等の

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語彙を比較して見ると、清文備考の六部成語は廣彙全

  

私には今それを調べる暇もない。た?私の見たところ

  

書の成語類の語の全部ではないが大部分を探入した外

  

では沈啓亮の大清全書も材料にたった書のIとして皐

  

に、。廣彙全書以外の語を多く取り、上記フ氏の示して

 

ヽげらるべ・き4 のと思ふ。フ氏が六部成語の基く所を廣

  

ゐる数字によれば總語数は三倍以上に喰加してゐる。、彙全書爽で湖らしめたのは、此書に於て始めて此等の

  

乾隆本六部成語は清文備考本に比べると總語数は数百

  

成語が六部に1 聚されてゐる鮎によるものと思はれる

  

を波じてゐるのであるが、その語彙は清文備考本より

 

`が、更に六部成語が僻書の一部分から分化して来たも

  

揮取し禿ものは總語数四牛分以下であってゝそれ以外

  

のとして見るならば、少くとも大清全書までは湖るべ

  

の語を多く取っ七ゐる。また廣彙全書0 成語順の語は

  

きものと思ふ。大清全1 は廣彙全書より十年早く康煕

  

やはり大部分乾隆本に探入されてゐるが、その清文備

  

廿二年に出来た字母排列式の満漢餅書であって、此1 

  

考本に探入されたものと多少の出入があ『るし、また廣

  

の中には後の所謂六部成語が散在して含まれてゐる。

  

彙全書の成語類以外の部1 の語で清文備考本に取られ

  

その数は精確に計算はしないが五六百を下る奎いと思

  

てたい語も僅かながら入ってゐるところを見れば、乾

  

ふ。廣彙全書・清文備考・乾隆本六部成語の三書とも

  

隆本は爾書を參取したものと考へられる。かくしてこ

  

にそれ等と共通の語を含んで居・つて、三1 ともにそれ

  

の三書中の六部成語はその数に検減があり、語の選鐸

  

みχ大清全1 を參取したものと思はれる。就中清文備

  

に相異があるのみたらす、その排列の順序にも相異が

  

考が大清全1 を最も主要な材料としたことは、前にI

  

あり、また六部の各部への分配の仕方の異る為のさへ。言した如く、その虚字講約が大清全1 の附録より取っ

  

少しはある。此等の書の場合、後出の書が前出の諸書

  

たものであるばかりでたく、第四巻以下の字母式餅1 

  

を參取して作られることはいふまでもないことである

  

の部分がやはり大清全書を頗る多く取ってゐることで

 

が、右の三書が上記の書以外の如何たる書を參照した

  

も知られる・また乾隆本六部成語が大清全市を1 考し

 

かとやらうこと紅、そ四廣琉全1 や情文備考に取られ

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てゐない大清全書の語を含ん1 ゐること肥よって推測

nj

   

される。ところでこの大清全書の凡例には、清字に對

   

する漢字費鐸の轟さゞる場合には清1 の成語を引いて

   

補足するが、成語とは即ち五経諸書、六部定例内に探

   

入されてゐるものであると断ってゐる。之に依ってそ

   

の六部成語と共通の語には謂ふ所の六部定例などの中

   

の語が多にいのであらうことが知られる。尤もフ氏によ

   

れば大清全書もオリヂナルな著作ではたく、氏が康煕

   

二1 一年以前に出来たものと考鐙する海漢同文全書を

   

堵益して作ったものであるといふことであるが、私は

   

その書を見てゐないので、六部開係の語が此書から来

   

てゐるかどうかは詳かにしない。

   

乾隆七年本の劣悪たる複刻板は書肆の手を韓々とし

   

て甚しく磨滅するまで使用され、恐らく此書は清朝末

   

年まで需要されたものと思はれるが、光緒年間に至っ

   

て此書の流れを汲む同種の書が出た。その一は光緒十

   

五年の清語摘抄皿靉計詣ご

   

目・官街名目・公文成語・摺奏成語の四冊より成り、倶

   

に漢語の下に満語詳を記したもので、その公文成語と

  

‐摺奏成語には六部成語の語を多数に探入してゐる。公

文成語は若干の例外を除いて大膿二字已

あって、別に細目はないが、その初めの方に公文に開

する特殊の語を集めた外は、大服六部成語と同様の分

け方で六部の順序で成語を列べてゐる。摺奏成語は漢

語四字のものを集めたもので、やはりその初めの方に

摺奏に開する特殊語を集めた外は大服六部の順序にな

ってゐる。他の一は成語4 要である。此書は封面に光ヽ

緒辛卯(十七年)仲秋新鎬、板存荊州駐防緒謬總學とあ

る光緒1 七年本が普通に見る所のやうであるが、たゞ

渡逡薫太郎氏の.堵訂満洲語圖書目録

元年荊州駐防精謬總學の出版とある

亜細亜研

   

    

究第三琥には光緒

  

.波過氏の著録し

  

 2

た書は五六種を除く外は大阪外國語學校の蔵書である

と序文にあるが、同校所蔵の成語輯要はやはり光緒十

七年本で、光緒元年といふのは或は波逡氏の思ひ這ひ

。でないかと思ふが姑らく疑を存して置く。此書は上巻

 

を吏戸の二部、下巻を徴兵刑エの四部に分ってあって

 

その成語はやはり六部成語からのものが多数を占めて

 

ゐるばかりで壽くヽその磯部の末尾には乾隆本六部成

 

語の表籐式に倣って皇太后賀表式と皇上賀表式とを附

 

載してある。此書の語彙を清語摘抄の公文成語及び摺

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奏成語と比べゐ犬雨者0 間に多少の出入があ巾、且

  

っ此書の方が数が少いけれども、大部分は共通しで居

  

って、その一方が他方に依ったことは明らかである。

  

な芦此等の書が六部成語の末流であることはフ氏の既・

  

に指摘してゐる所であるけれども、たゞフ氏が成語輯

  

要として説明してゐる所は、成語輯要の上唇と清語輯

  

要どいふ別0 書の下唇とで、これを成語輯要二唇と思

  

ひ込んでゐるらしい。配一心垂皿清語輯要は成語輯要

  

の兄弟本ともいふべき書であって、伺じく光緒十七年

  

荊州駐防柵譚紳學の出版に係る二泰二1 本で、書附の

  

値裁を同様である。その内容は廣彙全書だどのやうな

  

類書的分類により書類・破奈類・祭祀類・城郭類等三

  

十四類に語彙を類聚したもので、やはり類書的分類に

  

よってゐる清語摘抄の祈署名目・官街名目と對庶し、

  

その語彙にも爾者心欄係が詔められ`る。‘私の家にはど

  

ういふもの。か恰もフ氏の説明と反對に清語輯要の上奏

  

と成語輯要の下唇とを蔵してゐ・るが、これはその1 冊

  

の醗裁は同じでも、清語輯要の上唇に目録があその・で

  

成語輯要の下唇と憾別本であることが一見して分る。

お3

 

成語輯要の上唇には目録がないのでフ氏は気がっかた

か?

心の書名は別になって居るし、フ氏の引いてゐる李徳

啓の満文書籍聯合目録’には雨書が別本として並んで著

録されてゐるに拘らす、綿密な浦文書誌學者であるフ

氏が全く気がっかたいのは一寸不思議である。

     

 

 

しハ談晶町琵器祥べ詩驚倖卑蚕暑名

もなく、坊刻の俗書といふべきものであって、色々と

無責任な鮎の多い本である。之此書の乾隆七年鴻。遠堂本

にすら初刻とは思へぬやうな誤字があるが、それぽ瓦

て必いても、磯部成語の終りに附載されてゐる表雁式

は、康煕會典所載の順治元年定むる所のものに最も近

いもので、雍正や乾隆の會典にょれば、その天子に對

する表式は康煕六十一年十二月に、皇后に對する釜式

は雍正元年忙それみ~更定芯れて語句などが愛ってゐ

る。此書はその更定以前のものをそのまx載せ、たゞ

乾隆帝の御名弘暦を避けて、μ開といふ字を敷開に、

暦服・賓暦をそれぐ運服・賓蓮肥改めてゐるが、弘

昭一一匹四一一一一一匹をそのま乏

-27-

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344

は表撞式以外の成語の部分にもあって、例へば清文備

考には赤暦とある字が赤冊い皿皿一語となってゐるの

などは、やはり避譚によるものであらうが、一方雍

正帝の御名に對する避譚などには無開心である。例

へば刑部成語には「情箕」「分別情箕緩決可衿可疑

三等」「除員犯死罪外」といふ語が見えてゐるが、

その蜻賀・員犯とい『ふ語は雍正の初めに御名胤旗の

嫌名を避けて、蜻皆・竃犯と改められてゐる。定例類

各妙

省黄雍一i  

心E匹といふ書には雍正元年三月に刑部の大人が

の提塘に面論して各省の秋審冊掲の情翼の字を情

賓に改めさせたと見えてゐるし、呉壇の大清律例通考

によれば、律例内の情賞・賞犯の真字は雍正三年の律

例改修の時に賓字に改めたとある。雍正三年の律例は

未見であるが、雍正五年改修の大清律例集解附例では

特賞・賞犯ばかりでなく、員字は皆字を易へてゐるし

雍正會典でも人名その他特別の場合の外は務めて真字

を避けてゐる。地名にも賞定・賞陽・賞安廠どが正定・

正陽、・正安と改められた例がある。かういふ避譚に無

開心であるばかりでなく、刑部成語に見える「如法棚

11 」G棚松雁正三年の律例で憾鴬持既に榴社用ひ・てゐ。

ないからとて鎖の字に改めてゐるし、鰍皿四「欽賊」と

いふ字は雍正三年に「奉旨庶追之項」と改めよといふ

刑部の命令が出てゐるが、大郷それ等の字は皆もとの

まxになってゐる。吏た吏部成語に「宣讃聖論十六條」

といふ語があるが、康煕九年に出た聖論十六條があっ

て雍正二年に雍正帝が之を敷術した聖論廣訓は見えな

い。右は私の気づいたものを阜げたに過ぎないが、こ

れ等は皆六部成語が康煕時代の材料をそのφでに探用

した結果であって、乾隆時代に川来た賓用語學1 とし

ては無責任といへばいへるものである。

 

六部成語はこのやうな粗末な本であるに拘ら寸屡よ

印行されたところを見ると隨分廣く流布したものらし

い。これはもとより旗人等の満洲語學習書のIとして

行はれたものであらう。渡逡氏の目録には「其の刊行

の目的は筆帖式等の吏が満漢公文作製の參考に供せん

としたものである」とあるがIもとよりさういふこと

にも用ひられたであらう。科場條例の耕謬郷會試の條

を見ると、浪人出世の篤の試瞼である繕謬會試の試瞼

官の參考書にまで此書が阜げられてゐる。即ち嘉慶十ヽ

年鞍部の篇准にょれぱ、斐来文福會試の特に試験官に

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Page 11: Title 六部成語註解に就いて 東洋史研究 (1940), 5(5): …...る。その封面には乾隆七年 zgr 日一円刻・新鋭・重錆 等の文字を皆 Z2 守口 nr と諜しとあり、満漢爾文で

  

必要なm 考書を後部から試験場に移逍しrゐる例に倣

  

って、籍謬會試の時にも必要な清字の書籍を輪部から

  

試験場へ移逍して試験官の參考に置することにたった。

  

が、この篤め必要な清書を武英殿で一部づX印刷して

  

磯部へ移逍せしめることにした。この時武英殿から取

  

り寄せることになった書籍は古文淵鑑・五経・四書・

  

性理精義・清文鑑・資治通鑑こ八部成語・孝経術義・

  

清文補彙・清文彙書で、皆清漢合璧なるを要する作こあ

  

って、六部成語もこの冲に敷へられてゐる。尤も大清

  

會典では、この時武英殿から取り寄せることにたった

  

のは清文鑑、澄

  

護、漢字古文淵鑑・性理精義、資治通鑑となってゐて

  

六部成語以下の四種の書は畢げてない。叉、科場條例

  

悠一一一四によると、これより五年後の嘉慶十五年に磯部

  

には前に武英殿から醗給を受けて現存してゐる書籍が

  

六種あるが、これでは足らぬとて之を堵して十五種と

  

定め、武英殿から既存の六種を除いた九種を磯部に補

  

我して柵譚會試に備へ、更に順天府にも新たに十五種

  

全部ぞ頒登して絡謬郷試忙肯へしめることになった眠、

                    

 

その十五種といふめは聖論廣訓・日講易経・日講書紺・

日誰1 讐目貫書彗喉乱12 影やか繋`

一上部上各゛孝経‘性理精義‘小學゛通鑑綱目’古文

皿良’四顧清文鑑゛堵訂清文鑑゛蒙古清文鑑

づ皿各pt

に補殺したとあるから、○を附した六種が誼部に現存

してゐたことになる鐸であって、嘉慶十年に武英殿か

ら移送することになったものと同じでなく、この遁の

事情陰詳かでないが、ともかく六部成語は入ってゐな

い。これはヽ六部成語は殿板がある謬でもなく、坊刻の

俗書に過ぎぬものであるから武英殿から取り寄せる筋

合のものでなかった篤であらうと思はれるが、さうい

ふ書が試験官の參考書として要求されたといふことは

此書が官宥用語の最も簡便な僻書として一般に重賓が

られ、殊に絡鐸科挙など忙庶する者の準備1 としても

訣くべがらざるものであったらうことを推測せしめ

る。光緒年間にこれと同種の書である成語輯要などが

駐防帚謬總學から出てゐることから推しても、六部成

語が教科書もしくは試験準備1 として行はれたであら

うことが想像される 0しかしまたかういふ書が長く行

はれたところを見れば、清朝中葉以後の一般旅人の満

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洲語の程度も推して知られよう。

         

 

六部成語註解といふ書は六部成語六巻に對して註鐸

を施したも‘のであるが、その外に篇首に吏部と題して

京報・奏事・引見等に開する制度を記した文を載せ、

篇末には補遺と訂正とを附してある。その作者に開し

ては上に引いた支那経済附典に見えてゐる以外のこと

は私は知らない。が、しかしその内容を見れば學者の作

ったものではないやうである。出来た時期も詳しいこ

とは分らぬが、註解中に「皇太后聴政」「慈禧端佑」

「咸同以来」‘などの語可あるから、西太后が端佑の徽

競を受けた同治十一年十月以後であることは明かであ

る。篇首の吏部と題する部分は何から取ったのか詳か

にせぬが、その中の値日班次の制は嘉慶會典所載のも

の。に合せすして光緒會典所載のものに合する。

に似ずして後者に近い。帥ち註解本は乾隆七年本には

存せずして複刻本に存する誤脱をそのまi踏襲してゐ

る處が多い。尤も複刻本の論脆を訂補してゐる處もあ

るけれども、その訂補の仕方が誤ってゐる處もある。

た五問に述べた嘉慶本以下諸本の戸部成語の末尾の訣

葉の處は註解本には訣けてゐないので、註解本がこの

處のみを他の本で補ったのでない限り、私の見た嘉慶

本より以前の本であらうと思はれる。複刻本であって

快葉の出来ぬ以前の本といふと、私は見ないがフ氏に

よれば嘉慶本と同板である乾隆六十年本か、又は嘉慶

本で映葉のないものがあるとすれば私の見た本より。前

印の本をいふことになるが、これは乾隆六十年本を見

ないと確かなことは云へぬ。いづれにしても誤脱の多

か粗悪な複刻本によったものであることを注意しなけ

ればならぬ。

 

註解本の六部成語の部分の語彙と六部成語の原本の

 

六部成語註解が乾隆七年本系の六部成語乞註解しだ

  

それとを比べると、その間に多少の出入があり、また

もの・であることは前に一言したが、乾隆本系の中でど

  

少々順序の違つてゐるところ心ある↓註解本には僅か

の本を用ひたか。註解本を私の見た乾隆七年本及びそ

  

であるが六部成語にない語が人つてゐ゛る。即ち吏部成

                         

              

           

     

の複刻本?

-30' W

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俸・清官、戸部成語の烹分、磯部成語の陪祀ご初祭・

  

大祭轟奥、兵部成語の短夫・短解である。これは註

  

解者が補作だもの谷あちう・之。に反し玉八部成語にお

  

って註解本にない語も若干ある。その中には註解本の

  

ヽ用ひだ複刻本の刻板に既に文字が訣けて。し乗ってゐる

  

ものや原木に漢語が重複してゐるのを省いたものもあ

  

るが、―‘!重複にも海漢文ともに同じ語・が。前後重出し。

  

てゐる場合と、漢語は同じでも満謬の異るために漢語

 

 

が重複してゐる場合とがあり、後者では註解者が重複

   

の一方の字を易へて別の語にしてしまってゐる場合も

   

あるHOた註解本の傅紗の際に脱落したものもある

   

やうである。なほその外に註解本には、註解者に解仰

   

のっかたい篤に原本の字を勝手に易へてしまってゐる

   

ものもある。

                

’・

   

次に註解であるが、その文膿は文語頭あり白話頭あ

   

りヽ。雨奪を混へたるあり~頗る駁霧ご

   

手に成ったものでないことを思はせる。註解白膿は極

   

くあっさりしたもので、豆っどこまで信用出来るかは

   

問題である。とにかく頭から信用しては危瞼で、利用

g3

 

する人の判定を必要とするものである。殊にところど

 

ころ非常な出鱈目な解鐸が出て来るので、さういふ處

 

を見ると大いに信用を害ずるのである。が、しかしその

、篤に全部を葉てるには営らない。最も困るのは註解者

 

の知らn語でも何でもとにかく何’とかして解仰をつけ

 

てゐることで、さういふ場合に字を易へてしまったり

 

望文成義、牽強附會を平然と行っtゐる。中には荒唐’

 

無稽失笑を禁ぜぬやうなものもある。従って六部成語

 

の板本に誤脱のある處などもそのまxで註禅が施され

 

てゐる。それから註解の中には清文を參照したごとを

 

述べてゐる處が二箇處あるが、全部に亙って清文と互

 

稽したのでないことは、清文を見れば到底なし得べか

 

らざる解憚をしてゐるもの’があるので知られる。又昔

 

あって今なき制度なることを註してゐる處が一二ある

 

が、これも全般に亙ってさういふ注意を彿ってゐるの

 

でないことは前述の情具・具犯などの清末にはなき字

 

様に對して何の断りもたく註憚してゐるので気分る。

 

大醒常識的知識で註憚してゐるので、正確さを求める

 

のは無理であって、誤りとは云へたくても肯繁に富ら

 

ぬといったものが少くない。それからこれは註解者の

 

責任ではないが、元来浦漢僻1 として出来た六部成語

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の8 彙であるから、漢語としては殆ど瞎綴を悛たぬ語

  

が多いのは已むを得ぬところであるが、それ等に對し

  

てもあってもなくてもよいやうな解を施してある。一

  

方多少ながら六部成語にない語を補ひ、叉補遺などを

  

作って之を満文を離れた漢語の僻書とする意向である

  

とすれば、もとよりこれは甚だ不備なものと云はねば

  

ならない。なほ此度上梓する本の底本とした加藤博士

  

所蔵の紗本は、上述の如き註解自身の誤りり外に、傅

  

寫によって生じたと思はれる文字の調脆の夥しい本で

  

あるが、これは恐らくそのもとの本である奮慣調喪會

  

の紗本の誤りを襲うてゐるものが多いのであらう。

   

六部成語註解といふ書はE述の如き性質の。本である

  

から、之を用ふるにはそれだけの注意を沸ひさへすれ

  

ばよい。もとより清朝人が清朝の語を解してゐるので

  

あるから、その鮎は大いなる強味であって、たとへ不

  

精確な常識的な解であっても大いに役に立つ場合があ

  

る・私の如き清朝の掌故に暗い者の知らぬ語、しかも

  

普通’の群書などには見えぬ語が多いので、なかく魅

  

力のある書であることは苧はれぬ所で、一本を秘蔵し

  

てゐるのには頗る面白い書であると思ふ。既にI相常に

利川してから膚漫取るに足らずとして棄てるたら聡て

ても晩くはない。少くとも私自身は此書を一讃して大

いに得るところがあ『つた。若しかういふ紗本が書肆に

でも出たとすれば孚って買0 取られ’て珍蔵されるもの

であらうと思ふ。私は加膝博士が秘蔵の鈴本の。印刷を

許可されたことを感謝してゐる。博士も此書には隨分

あてにならぬ解かあると云って居られるとのことであ

るが、それにも拘らず此書の傅を弘めることを望んで

居られるのでも、その賓際に役に立つものであること

を知るべきである。たゞ萬一此書を妄信する者があっ

ては危瞼を件ふと思っだので、特に訣勘ばかりを畢げ

た次第であって、決して此書の利用價値を否定するの

ではない。

      

 

最後に従来此書によって過られてゐる例を學げて1 

考に供しよう。此書を引用じてゐる東川氏の典海、岡

1  氏の支那経済尉典、鄭氏の法律大1 書などは皆不幸

にして此書の誤を受け脇いでゐる。先づ東川氏の典海

が俑を作ってゐる。典海は此書をかなり多く引用して

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ゐるだ:byそ2

  

々列挙する煩に勝へぬが、最も甚しい例を二三挙げて

  

見よう。六部成語註解の補遺にある惟正之供といふ語

  

が傅寫の誤りで惟が性になってゐるが、典海は之を襲

  

うて性正之供といふ無意味の文字を掲げてゐる。それ。

  

から東川氏は六部成語を全く參照しなかった篤に之を

  

參照することによって営然避けらるべき誤に陥ってゐ

  

るのがかなり価る。例へば乾隆七年本六部成語の侵欺

  

槨移といふ語が複刻本には侵挨捌移と誤ってゐるのを

  

註解本憾侵掻揚移と妄改し・て牽強附會の解を施してゐ

  

るが、典海は之をその奎x踏襲してゐる。植欠の様の

  

字が複刻本ではなんとも知れぬ形に誤ってゐるのを註

  

解本は極といふ形に作りなして勝手な解憚をしてゐる

  

が、典海は之を踏襲して、。この篤にわざく埋といふ

  

標9 を設け「新字」と断り「崇と同字ならん」と註し

  

てゐるのなどは頗る念が入ってゐる。又六部成語註解

  

には帯徴といふ語に「代替也。此官維徴未竣。以事他

  

去。後官代篤経徴也」といふ解がっいてゐるが、こ。れ

  

は傅寫の際に代徴の解が 1 徴の下に誤入したのである

 

ことは六部成語に帚徴・代徴の二語が並んでゐるの『を

見れば誰でも気がっぐご託解本ではこ2

代徴といふ語を脆してしまってゐる。典海憾この誤を

襲うて帯徴を解するに代徴の解を以てし「代替也」と

いふ註解の句を「帚は代又は替と伺義」と曲讃してゐ

る。I尤も俗書では帚といふ字を代と書くことはあ

るが帯は代と同義といふこと゛はたい。I-典海の著者

はこの解の後に但し書きとして餅源の帯徴の解を引い

てゐるが、典海が帯徴のすぐ次にやはり六部成語註解

を引いて阜げてゐる帚徴銀の解は齢源の解と合すると

ころがあるに拘らす、註解を妄信した結果右の如き誤

に陥ってゐるのである。叉君解本の活捉といふ語を引

用するに際して、典海は捉を息に誤って活息としてゐ

る。何故誤ったかといふと、六部成語には活捉のすぐ

前に掩襲といふ語があるが、註解本は之を誤って掩息

としてゐる。典海の誤はこの隣の掩息の息から来てゐ

ることがわかる。これは軍たる文字の誤寫であるが、

此語の解も典海は誤ってゐる。註解には「把賊活活的

捉拿仕了」とあるのを典海は「迅速に犯罪人を逮捕す

ることを謂ふ」と解してゐる。六部成語の満文によれ

ば、活捉はいけどりといふことで、迅速にとらへるこ

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8bO

とではない。註解の活活的といふのも恐らく生きなが

らといふ意であらうが、典海はわざく「活活的」と

いふ。一項を設けて「迅速なることを表はす語なり」と

註してゐる。以上の外にも典海が六部成語註解の本文

や註の誤脱をそのまx踏襲し又は誤讃してゐる例はい

くらもある。

 

次。に岡野氏の支那経済餅典は典海をそのまx引いて

ゐるものが多く、従って六部成語註解に開する典海の

誤はそのまx踏襲されてゐる。例へば帯徴の解なども

典海をそのまx寫してある。たゞこの附典には定日虚

税といふ典海にない六部成語註解の語を引いてあるの

でI-六部成語註解から引いたとは断ってないがI

岡野氏は註解を見だのかも知れぬが、大抵は典海から

引用したらしい。因みに定日虚税は乾隆七年本六部成

語では定呟課税とあり、複刻本が弓を日に誤ったもの

であるが、註解本は誤のまxで妄解をして居り、勿論

岡野氏はそのまx之を踏襲してゐるのでおる。

 

鄭氏の法律大尉書。に引用されてゐ・る六部成語註解が

典海からの孫引であることは活息といふ典海製造の語

を引いてゐる・ので分るが、そQ外忙も上掲の侵理榔蓼

や場欠などの註解本製造語を引用してゐる。

 

此等は典海から受けた被害の例であるが、しかしか

ういふ賓際存在したい蹟などは僻書に存在しても之を

引くことはまづないから却って罪が軽いとへいばいへ

る。賓際にある字によい加減な解をしてあるのは一1 

始末が悪い。もっとも右の1 典なども引用には皆それ

相座の注意はしてゐるのであらうし、鄭氏の法律大附

1 などは六部成語註解を引かたくて・も濤むやうな處に

は引用をして居らす、相営惧重であるけれども、やは

り珍奇な字様に引っかxつてっまらぬ誤りに陥ってゐ

るのは気の毒である。六部成語註解といふ書も辞書な

どに引用されてゐるところだけを見たのでは此書に對

する價値判断がっきかねる。一度此書の全腰を示すこ

と名無益でなかふうと思ったことも此書を上梓する理

由の一つである。

 

附記

 

私は満洲語の知識を持だないので六部成語の満文な

    

ども会部參照した課ではない、た£

    

る楊合に鴛鋼一、三田村泰助、藤枝晃諸氏の敦示を

    

仰いで満罪を參考しゼ處があるに過ぎない。

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