title 大貫隆著『イエスという経験』 citation 88(2): …...書 評 大貫隆著...

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Title <書評>大貫隆著『イエスという経験』 Author(s) 橋川, 裕之 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2005), 88(2): 302-312 Issue Date 2005-03-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_88_302 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

Title <書評>大貫隆著『イエスという経験』

Author(s) 橋川, 裕之

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2005),88(2): 302-312

Issue Date 2005-03-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_88_302

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

Page 2: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

大貫隆著『

イエスという経験』

は じ め に

橋 川 裕 之

 新約聖書研究の世界で史的イエス探求の試みが本格化して久し

い。イエスとはどのような人物で、どのように生き、どのように

死んだのか。彼の真の教えとは何であったのか。イエスをめぐる

こうした素朴でありながらも根源的な問いは、イエスの生きた一

世紀以来、信者であるか否かを問わず、多くの人々の興味を惹き

つけてきた。歴史を重視する見地に立てば、キリスト教会の制度

的な確立とその後の発展には、イエスを継承する宗教権威の下で、

イエスをめぐる無数の解釈が異端として捨象され、=つの正し

い解釈」(11正統)が構築される永続的プロセスがともなってい

たと考えられる。史的イエスの探求とは、この=つの正しい解

釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的に

検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す

る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇

場であったが、現在はカトリックや非信者の学者をも巻き込み、

ドイツの枠を越えて世界的に展開されている。特筆すべきは、ア

メリカ(北米)の新約学界の現況であろう。一九七〇年代頃より

盛んになったアメリカのイエス研究は、 一九世紀と二〇巻紀中葉

の二期にわたるドイツでの探求を踏まえて、「第三の探求」と呼

ばれている。毎年、史的イエスをめぐる試しい量の専門論文、研

究書が現れ、イエス研究熱が沈静化する気配は一向に感じられな

い。この史的イエス研究の現状は、日本の出版界にも反映されて

いる。かつて新約研究といえば、ドイツ語専門書からの翻訳一辺

倒であったが、近年ではアメリカ学界で評判を呼んだ良質な書物

も多く訳されるようになっている。

 複数の史料書語を学ぶ必要に加えて、研究文献の爆発的増加に

よって専門家ですら困難さを吐露する史的イエスの問題に、真正

面から取り組もうとしたのが本書『イエスという経験』である。

書き手は、グノーシスと新約、それぞれの研究領域においてわが

国を代表する学者、大貫開館(以下、敬称略)である。ヨハネ福

音書の研究を出発点とする大貫は、これまでグノーシスの文献学

研究や新約の文学社会学研究などで大きな成果を挙げ、それらは

数多くの論文や著書にまとめられてきた。こうした長年に及ぶ着

実かつ重要な研究を経て、ついに大貫は史的イエスの問題に足を

踏み入れたのである。イエスの歴史的な経験を再構成しようとす

る大貫の試みは、果たして成功しているのだろうか。本稿では、

大貫の展開する議論をなるべく忠実に紹介したうえで、大貫の史

料批判の方法と歴史的な事象に村するアプローチに焦点を当てて、

本書の持つ意義について吟屯してみたい。

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Page 3: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

評封匁

 なお、評者はビザンツの教会・宗教史を主専門としており、新

約学やイエス研究の専門家ではない。そのため、読者にあっては

評者による批評が不適切だと思われる向きもあるだろう。しかし、

評者は近年、ビザンツのキリスト教とそれにまつわる諸現象をユ

ダヤ・キリスト教のルーツから検討しなおす必要を感じ、古代教

会史および新旧聖書学の諸成果を集中的に読み込んできた。無論、

細かな議論についてはその道の専門家に譲るしかないのであるが、

大貫の研究を歴史学の見地から見定めることは可能であると考え

ている。

『イエスという経験騙の内容と論旨

本書の事立ては次のようになっている。

はじめに 本書の課題と方法

第 章 これまでの研究

第二章 時代と先駆け

第三章 イエスの覚醒体験と「神の国」

     ーイメージ・ネットワークの初発

第四章 イエスの発言  イメージ・ネットワークを編む

第五章 イエスの生活と行動

       イメージ・ネットワークを生きる

第六章 最後の日々ーイメージ・ネットワークの高揚と破裂

第七章 復活信仰と原始キリスト教の成立

       イメージ・ネットワークの組み替え

第八章  「全時的今」を生きる一新しい非神話化を目指して

 「はじめに」では、本書の課題と方法が明確に述べられている。

大貫はまず、二〇〇~年九月=日に生じた岡時多発テロ以降の

アメリカの政治、社会状況を引き合いに出しながら、イエスの死

後に成立し、約二千年後の現在にあって、大統領ブッシュの対外

政策およびアメリカ国内世論の~部を動機づけているキリスト教

「標準文法」を門脱構築」しなければならないと説く。この目的

のために重要となるのは、イエス自身の「今」の経験と、その弟

子たちによるイエス経験とを峻別したうえで、イエスの生活と行

動がいかなる内的論理にもとづいていたのか、そして、十字架上

で死を遂げた「人間」イエスを「神の子」として理解する「標準

文法」がいかにして成立したかを問うことである。これに答える

ために大貫が採用するのは「イメージ・ネットワーク」という新

視角である。大貫によれば、イエスは同時代の種々の神話的、前

論理的思考に特徴づけられた「古代人」であり、彼の表象やイ

メージは、「神の国」を中心的モチーフとする一つのネットワ…

クを形成していた。このイメージ:不ットワークの成立とその後

の展開は、福音書を批判的に読解し、生前のイエスの三葉を慎重

に検討することによって跡づけることができる。以上のように、

課題と方法が明示され、本書の考察は開始される。

 第~章では、イエスのイメージ・ネットワークという視角を研

究史上に位置づけるべく、これまでの国内外のイエス研究の動向

が概観されている。八木誠~や荒井献、田川建三ら、わが国の高

名な新約学者の研究にも触れてはいるが(大貫がより多くの紙幅

を割いて検討しているのは、国外、とりわけドイツとアメリカの

研究である。A・シュヴァイツァーやR・ブルトマソら数世代前

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Page 4: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

の大家から、現在の学界を代表するG・タイセンに至るまで、ド

イツの新約学者たちは概ね、イエスの運動を「神の国」の私信を

中心とする終末論的性質のものとみなしている。この伝統的な終

末論的解釈に対して声高に異議を唱えているのが、「第三の探

求一を代表するD・クロッサンやM・ボーグら、アメリカの学者

たちである。彼らは、Q資料もしくはQ福音書と呼ばれるイエス

    ①

の語録資料の分析にもとづいて、「知懲の教師扁や門犬儒派賢

者」としてのイエス像を提示した。大貫は、クロッサンらの非終

末論的イエス解釈には資料操作の点で問題があり、さらに、イエ

スの醤動の内的動機づけが不明確であると強く批判する。大貫に

よれば、福音書に一度しか現れないイエスの言葉をいかに理解す

るかが、史的イエスを再構成するための鍵を握っているという。

従来の研究では、そうした言葉は真正性がはなから疑われ、考察

対象から除外されてきた。しかし、それらの真正性を改めて問う

たうえで、真正であれば、イエスのイメージ:不ットワークとの

連関を問う必要があると大貫は主張する。

 第二章では、イエスの幼年期と洗礼者ヨハネの問題が考察され

る。イエスの厚い立ちについては、マタイとルカによる記述があ

るものの、確固とした史実は何も伝わっておらず、同時代ユダヤ

社会の状況から推測するほかはない。クロッサンは、イエスを識

字能力のないユダヤ人貧農とみなしたが、大貫は、C・ヘザーに

よる識字率の研究などに依拠しながら、イエスに識字能力を認め

る立場をとっている。次いで、大貫はイエスと洗礼者ヨハネの関

係という研究史上の大問題に議論を進める。イエスの生きた時代

は、ローマ支配に抗する「政治主義的メシア運動」が勃発した時

代であった。しかし、モーセ伝承によって特徴づけられた反ロー

マ的政治運動と、洗礼者ヨハネによる運動はその性質を全く異に

するものであった。大貫は、マルコ、マタイ、ルカに共通するヨ

ハネ記述を分析し、ヨハネを特徴づけるのはユダヤ教黙示文学に

見られる終末論であったとする。イエスは一旦、ヨハネの弟子と

なるも、その後輩から独立して自らの運動を開始した。イエスは

ヨハネから大きな影響を受けたが、そこに「神の国」の私信は含

まれないと大貫は断言する。その独自性を明らかにするものこそ、

イエスのイメージ・ネットワークなのである。

 それでは、イエスのイメージ:不ットワークはいかにして形成

され、彼の運動はいかにして始まったのか。第三章が扱うのはこ

の問題である。大貫はまず、Q資料経由でマタイとルカに伝わる

「洗礼者ヨハネとイエス」の記事から、イエスが自らを新時代の

開始を告げる存在と位置づけていたとする。次いで、ルカにある

「私はサタンが稲妻のように天から地に落ちるのを見ていた」

(一

Z章18節)という語をイエスの真正の言葉とみなす。この府

営はイエスにとって、その存在を根底から揺るがす覚醒体験、大

貫に言わせれば「宇宙の晴れ上がり」であった。サタンが放逐さ

れた後の天上では、神の国が隈なく実現し、神の祝宴が始まった。

この神の祝宴のイメージこそ、「父なる神」の観念とならんで、

イエスのイメージ・ネットワークを意味づけ、作動させる「ルー

ト・メタファー」となっている。大貫は以上のように理解したう

えで、イエスが、なぜヨハネのように荒野に留まることなく、町

から町、村から村へと逓治したのかという研究史上の難問に明快

に答える。イエスは、地上に降臨して人々を悪へと追いやるサタ

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Page 5: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

評書

ンと闘い、神の支配を貫徹させようとしたのだ、と。

 第四章で考察されているのは、イエスの時閥理解と「神の国」

の讐え、そして「さばき」である。マルコの福音書の冒頭には、

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

(一

ヘ15節)というイエスの有名な書風が置かれている。大貫は、

これをマルコによる編集句とする学説を退け、イエスの真正の言

葉と解する。そして、過去・現在・未来すべてを一点に内包する

「全時的今」という概念を提起し、イエスによって表明されたの

は、この「全時的今扁の認識であったと説く。また、イエスの書

葉とされるものの中には、「神の国」を讐えによって表現したも

のが多く含まれる。大貫はこれについて、実現しつつある「神の

国」の切迫性を見る先行研究に概ね同意している。~方、福音書

には、イエスが如実に終末思想を表明していると思われる語句が

いくつも存在する。こうした語句は、従来、終末論的イエス論者

にあっては、まさしくイエスが終末時の最後の審判を言明したも

のと理解され、一方、非終末論的論者にあっては、ダニエル書な

どのユダヤ教黙示文学を参照した凶音書記者による編集句とされ

た。大貫は前者の説をある程度受け入れつつも、「人の子」が

「神の国」と同義であるという新説を披露し、門鑑の国偏の漸次

的実現と「さばき」がイエスの「全心抽斗」の時間認識にあって

は同時発生していたと主張している。

 前章に続いて第五章においても、イエスの発醤と行動の具体相

が考察されている。まず、大貫はイエスによる一二人の弟子の選

定と裏切りのユダの存在をともに史実と確認する。天上における

「神の国偏の実現を確信したイエスは、「預言者的な象徴行動」

を次から次へと起こし、同時代人に大きなインパクトを与えてい

く。彼は、杖も袋も持たず、裸足で逓歴し、社会的な差別を受け

る賎民や女性、子供とも分け隔てなく接した。大貫は社会学的な

検討にもとづいて、聖書に伝わる奇跡物語は、史実というよりも

フィクションであり、イエスが「神の国」の到来を象徴的に示す

べく実際に行った病人治癒と悪霊払いが核となって形成されたと

考えている。

 自らのイメージ:不ットワークを編み、それを生きようとした

イエスであったが、ガリラヤでの宣教活動は不成功に終わり、彼

はエルサレム上京を決意する。第六章が扱うのは、イエスのエル

サレム上京と刑死である。イエスは、エルサレム行きを思いとど

まらせようとした弟子ペテロにサタンの驚きを見て、「サタン、

退け」と一喝する。また、イエスは、エルサレム神殿の破壊を予

告するなど挑発的な発言を行う。大貫は、こうした発雷に、イエ

スのイメージ:不ットワ!クの高揚を見る。地上での「神の国」

の実現が迫り、来るべき識神の国」はエルサレム神殿を中心とし

ないのである。やがてイエスは死を予感し、恐れ悶え始める。そ

して、ユダの裏切りによって逮捕されたイエスは、審問に沈黙で

答える。大貫は、こうしたイエスの一連の行動を史実とみなす。

大貫にしたがえば、「神の国」実現へのイエスの確信は揺らぎ始

めたのである。十字架につけられたイエスは絶叫をもって果てる。

大貫は、このイエスの絶叫をイメージ・ネットワークが破裂する

瞬間であったと解し、イエスは「自分自身にとって意味不明の謎

の死を死んだ」と結論づけている。

 第七章ではイエス死後のイメージ・ネットワークの展開が論じ

(305)141

Page 6: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

られる。イエスの復活を確信した弟子たちは、イエスの死の謎を

理解するため旧約聖書の読解に向かい、神の救済計画の中でイエ

スが人類の襟掛のために死したという理解に到達する。この「解

釈学的な事件扁の帰結として、イエスを「神の子」にして「メシ

ア目キリストしとみなすキリスト論が成立した。それにともなっ

て、イエスのイメージ・ネットワークの根本的な組み替えが生じ

る。イエスの弟子たちには、イエスのイメージ:不ットワークや

その「全時諸恋」は理解できなかった。彼らは、自分たちに馴染

みのあるユダヤ教の終末思想に沿って、品々の詳言のために死ん

だ「神の子」イエスが、世界の終末時に雲に乗って再臨し、人々

を裁くといった具合にイメージ:不ットワークを大胆に改変した

のである。

 イエスの「全美的今」の系譜を検討する最終章は、おそらく大

貫が本書の中で最も力を込めて執筆した部分であろう。イエスは

「ただ者」ではない生を生き、謎の死を遂げた。同時代の人々に

イエスの生き様、そのメッセージは理解されなかった。彼が編み

上げた「神の叢雨のイメージ・ネットワークは改変されてしまう。

大貫はこの改変をイエスのイメージ:不ットワークの「神話化」

とみなし、イエス本来のイメージ・ネットワークに対して「非神

話化」を行わなければならないと主張する。そして、「非神話

化」の可能性の一つとして、イエスの「全階寺今」の隠れた系譜

を明るみに出そうとする。大貫は、ヨハネ福音書、新約聖書のヘ

ブル人の手紙、アウグスティヌスの咽意字撫、そしてユダヤ系ド

イツ人の思想家ベンヤミンを取り上げ、それぞれのテクストと思

索のうちに、「日常的な時間(クロノス)の線状的連続性を、(中

略、評者)救済史や摂理史の線状的連続性を切断する力」(二五

七頁)を秘めた時間意識の表明を見る。つまり、大貫によれば、

イエスの「全霊轡型」の認識は、救済史をその時間的枠組みとす

るキリスト教思想の中で、~つの伏流として生き残ったのである。

救済史的思考から完全に解き放たれたイエスは、あらゆる神熱論

からも解き放たれ、自らの責任で教えを説き、そして絶命した。

本書を結ぶ大貫のメッセージは力強く、重い。「今、真にイエス

の弟子であろうとする者は、神の名を引き合いに出すことを堅く

断念して、自分の名前と責任において発言し、行動しなければな

らない」(二六五頁)のである。

『イエスという経験臨の問題点

 本書はわずか~ヶ月余りという短期問で執筆されたという。大

貫によれば、執筆の契機となったのは、同時多発テロ以降、イス

ラム原理主義を敵視するアメリカ大統領ブッシュの繰り返したキ

リスト教原理主義的な発言であったという。一方で、大貫は次の

ようにも言う。自らの研究の道を定めたとき以来、「現在まで私

の心の奥底には、アメリカのキリスト教原理主義を徹底的に批判

しなければならないというパトスが燃え続けていた」(二六七-

八頁)と。ブッシュの証書は大貫のパトスの焔に油を注いだので

ある。本書の最大の魅力は、読者が大貫のこの燃え上がるパトス

を追体験できる点にあるだろう。大貫の文章は勢いに満ち、力強

く、重く、そして何よりも熱い。本書が読者に刺激と興奮を約束

することは間違いない。そして、これに加えて評価されるべきは、

大貫の提示する史的イエスの斬新さである。大貫は、イエスの思

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Page 7: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

評書

想、行動、経験を再構成するべく、新約聖書を独自の視点から読

解し、それによって、終末論的イエス解釈と非終末論的イエス解

釈という二つの対抗する立場の止揚を試みている。大貫が長期間

におよぶ調査をベースに、独自の史的イエス像を提示しようと意

図していることは一目瞭然であり、その主張は学問的な評価と吟

味に十分値するだろう。

 はじめに若干の感想を記しておきたい。現在の歴史挙には多様

な立場があるが、多くの学者は懐疑主義と相対主義がその思想的

基礎であることを認めるだろう。手短に書えば、過去に生じた事

象について、完全な理解も完全な説明もありえないとする立場で

ある。史的イエスの探求にしても、事情は同様であろうと思われ

る。イエスがどのような人物でどのような生を生きたのかという

問題を歴史学的に問うと、「真実」は存在しないという解答が直

ちに導かれるのである。著者の修辞戦略であり、それが魅力とな

っていることも否めないのだが、断定調の文章が多用される本書

は、かくも多くの学者を巻き込んで長年議論されている史的イエ

スの問題に、あたかもその門真実」を提示せんとするかのような

印象を読み手に与える。大貫の提示する史的イエスは一つの仮説

であって、史的イエスの真実や本質ではない。自らの信念にもと

づいてキリスト教原理主義、さらにはキリスト教一般を批判する

のは著者の自由であるが、斬新ではあっても、その蓋然性に大き

な疑問符のつく仮説(理由は後述)に依拠して、現代の政治や信

仰を批判するのは行き過ぎのように思われた。

 また、評者は大貫の描く、混乱した狂信者であるかのようなイ

エス像に大きな違和感を覚えた。この狂儒者的なイエス像自体は

大貫のオリジナルではなく、ドイツ新約学界に発する主流的解釈

である。例えば、古のシュヴァイツァーにせよ、現在のタイセン

                ヘ   ヘ   へ

にせよ、イエスが終末の到来という誤った観念を抱き、死を前に

して悶え苦しんだことを概ね史実とみなしている。大貫において

は、終宋とは異なる「神の国」の実現を確信したイエスが、死に

怯えた挙句、意味不明の謎の死を遂げたと説明される。両者に共

通するのは、イエスが尋常ではない死を遂げた点にイエスの高貴

さや「ヌミノーゼ」を見る点である。しかし、大貫にあって奇妙

なのは、イエスの強烈な覚醒体験と、死を前にしたイエスの動

揺・恐れの双方が等しく強調されている点である。それほどまで

に強烈な覚醒体験をした人物が、非現実的な夢想を抱いていたと

しても、死を恐れるのだろうか。一般には、時間や生死のような

此岸的価値から離脱する契機となる現象が、宗教的な覚醒体験

(仏教でいう悟りの境地)とされているのではなかろうか。

 さらに評者は、大貫がその史的イエス論の申核としているイ

メージ・ネットワークなる概念にも疑問を持った。大貫が、古代

人であるイエスの神話的・前論理的思考に注目すること自体は闘

違っていないと思う。しかし、一息代人の思想を幾つかのイメー

ジが織り成すネットワ…クと理解するのはいささか安直な撃発論

ではないのか。また、イエスの行動をそのイメ…ジ・ネットワー

クから説明することも同様に還元論ではないのか。そしてそもそ

も、大貫の再構成するイエスのイメージ:不ットワークはリアル

な歴史なのだろうか。

 端的に洗口えば、右にいくつかの例を挙げた評者の違和感や疑問

は、大貫の史料批判の方法と歴史的アプローチの問題性に発して

143 (307)

Page 8: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

いる。

 大貫の史料批判の方法は重大な問題を孕んでいる。読者が想起

                       が

しなければならないのは、侮をもってイエスの真正の言葉とする

か、何をもってイエスの実際の行動とするかという問題は、史的

イエス研究の歴史において最大の争点になっており、大方の学者

が同意するような定説はいまだ形成されていないということであ

る。しかし、本書にあっては、次から次へとイエスの真正の千葉

および行動が確定されていく。後に実例を挙げて示すが、評者に

は、大貫のやり方は非常に強引かつ独断的なものに思われた。

 また、大貫はQ資料仮説を自らの史的イエス論の繭提としてい

るが、現在、アメリカで非常に盛んなQ資料研究の成果について

は何ら立ち入った検討を行っていない。」・クロッペンボルグや

J・ロビンソンらに代表されるアメリカの新約学者たちは、Q資

料がイエスの知恵文学的な語録を核に成立し、その後、黙示・終

末論的要素が付加されていったと考えている。このQ資料の編

集・層構造説に依拠して導かれているのが、クロッサンやマック

らの非終末論的イエス解釈である。彼らは、Q資料の中で時間的

に先に成立した部分をイエスの生前の言葉に近いと想定し、実際

                      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

のイエスは門知恵の教師」あるいは「犬儒派賢者」のような存在

            ②

であったと主張したのである。大貫は、Q資料に知恵文学的な雷

葉が多く含まれていることは認めつつも、彼らの学説を強く批判

している。しかし、大貫の批判は、アメリカのQ資料研究自体へ

の言及を欠いたうえ、不正確な点が多い。大貫は、「大量の知恵

資料は、終末論的預言者としてのイエス像とはおよそ適合しな

い」というボーグの見解を「はなはだ疑わしい断言」としている

が、それに続く説明はボーグを否定する内容となっておらず、む

しろ支持する内容とも受け取れる(一四一一五頁)。なお、付言

しておけば、大貫がアメリカにおける史的イエス研究の動向を把

                       ③

握するに当たって、ボーグの著作『イエス・ルネサンス』から多

くを得ていることは歴然としているが、ボーグのイエス研究自体

                    ④

についてはこれを誤解しているように思われる。

 大貫は、「資料操作の点でも、「第三の探求」には疑わしい予断

が少なくない」(~五頁)と断じているが、評者には、大貫の

門資料操作」にも大きな問題があるように思われた。確かに、大

貫の指摘するとおり、福音書に~度しか登場しない記事・葦子は

信用しないとするクロッサンの原則には問題があるだろう。けれ

ども、「第三の探求」の非終末論的イエス論者すべてがクロッサ

ンの方法に倣っているわけではない点は注意すべきである。一方、

大貫は、イエスを「神の子」とするキリスト論的関心の有無によ

って真正性を判断しようとする。確かに、福音書にはキリスト論

的関心にもとづいて福音書記者が明らかに挿入・編集したと思わ

れる箇所が多数存在する。けれども、特定の記事にキリスト論的

関心がないからといって、そこに示されたイエスの書論が真正に

して史実であると言えるのだろうか。この点に関しては、伝統あ

る新約様式・編集史研究の知見をもとに、福音書より先に成立し

たQ資料においても編集の手が幾度も加わっていると想定するア

メリカの学者たちのほうが、より慎重であるし、歴史学的な方法

論を正しく踏まえている。

 以下、大貫の史料批判の難点を本書内容に即して検討してみた

い。第二章では、マタイ三章7-12節の分析から、洗礼者ヨハネ

144 (308)

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評書

がユダヤ教黙示文学の伝統に立つ終末論的預二者であったことが

断定される。しかし、ヨセフスがヨハネを終末論高島癖者として

ではなく、善行を説いた道徳家として描いていることは考慮され

ていない。確かに、大貫の言うとおり、ヨハネと黙示的終末思想

を奉じたクムラン教団との悶には、清浄の水を重視するという共

通項が存在し、福音書もヨハネを終末論的預虚者として拙く。け

れども、福音書の記述のみからは、ヨハネを終末論的玉書者とし

て推測することはできても、断定することはできない。

 第三章は大貫の史的イエス論にとって非常に重要な部分である

が、ここも問題点が多い。大貫は、ルカ書のみに現れる記述、ル

カ一〇章17-20節のうち、「私はサタンが稲妻のように天から落ち

るのを見ていた」という語のみをイエスの真正の慧葉と解する。

「なぜなら、この言葉には原始教会のキリスト論的な関心が全く

読み取れないからである」(四五頁)。前後にあるイエスの書卓を

全て編集と解したうえで、この語だけを真正とする大貫の主張は

不可解である。さらに、大貫は「サタン」という語にキリスト論

的ニュアンスが含まれることを考慮に入れていない(後述)。ま

た、大貫の「全時的今」という概念の出所となっている次の語句

の解釈も不可解である。「やがて東から西から大勢の人がやって

きて、天の国(神の国)でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴

会の席に横たわるだろう」(マタイ八章11-12節)。大貫はイエス

のこの言葉を、「アブラハム、イサク、ヤコブという過虫の人物

が今の時代の異邦入とユダヤ人の頭上を飛び越えて「神の国」に

先任り」(五〇頁)することだと理解し、イエスの時間理解にお

いて「過去は未来へ先回りして、未来から現在へ回帰扁(同頁)

していると言う。これは大貫の直感的解釈であろうか。イエスの

言葉のみから大貫のような解釈を導くのは甚だ困難である。そも

そも、イエスの言葉は、アブラハムら、ユダヤ民族にとって特別

な人々が、「東から西から大勢の人々がやって」くるまえに、す

でに神の国にいることを示唆する。過去の特別な人々が今の累々

よりも先に神の国にいるというのは、大貫の言う線状的時間理解

に該当するのではないだろうか。

 第四章における大貫の「人の子」解釈も支持できない。福音書

には曲人の子」という語が多く見受けられる。この語にはいくつ

かの用法があるが、最も注園されてきたのは、イエスが来る「さ

ばき」について語る場面で多く用いられていることである。この

ような「人の子」の用法は、かつて、イエスが終末思想を奉じた

最たる証拠とされてきた。しかし、G・ヴェルメシュによるアラ

ム語用例の調査によって、アラム語において「人の子扁は、

「人々扁もしくは「私」などを表す一般的語句であって、終末論

的含意がないことが明らかになった。つまり、その研究は、福音

書に現れる「人の子」を含む終末論的な書葉が、イエス自身の口

                       ⑤

から証せられたものではないことを示唆したのである。ヴェルメ

シュへの面識はないが、大貫も部分的に門人の子」編集説を認め

てはいる。しかし、すべてが編集であるとは考えず、別の解決を

探ろうとする。例えば、マルコにあるイエスの次の言葉、「この

不貞で罪深い世代にあって、私と私の書葉とを恥じる者を、人の

子も彼の父の栄光のうちに聖なる天使たちと共に来る時に、恥じ

るだろう」(八章38節)。大貫は八木誠}に倣って、ここにある

「人の子」が「その入」を意味し、「その人」とは「神の国扁で

ユ45 (309)

Page 10: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

あると主張する。この言葉の真偽の問題はさておき、やはりこの

番葉は終末論的意味において理解されるべきだろう。なぜならこ

の心葉は、「人の子のような」(ダニエル書七章13節)姿をした救

世主が、世界の終末時に天使たちと共に地上に降臨し、審判を行

うという、ユダヤ教黙示文学の定型表現と符合する要素が多いか

らである。「この不貞で罪深い世代」という語も、終末論的読み

を支持する。来る救世主は悪しきこの世に終止符を打つと考えら

れていたからである。ちなみに、キリスト論的関心の有無による

判断という大貫の原則に照らせば、これは編集句ということにな

る。評者には、イエスの「金時的今」の経験という論証困難な前

提が、先行研究から大きく逸脱した解釈を大貫に余儀なくさせて

いるように思われた。

 大貫の史料批判の難は、イエスの最後を扱った第六章で頂点に

達する。まず、大貫は、イエスが弟子ペトロを叱った古葉「サタ

ン、退け」を真正と解する理由の一つに、福音書記者がイエスの

筆頭弟子ペトロをサタン呼ばわりすることがありえないことを挙

げる。これに対しては簡単な反論が存在する。ペトロに対するマ

ルコの筆致がきわめて辛辣であることは常々指摘されてきたこと

である。また、たとえ原始教会の中でペトロが最重要人物であっ

たとしても、必ずしも信者すべてがその権威に服していたわけで

はない。そしてそもそも、マルコの福音書がペテロの権威を奉じ

るグループ内で成立したことを示す確たる証拠はない。大貫は、

この雷葉が過去の伝承に由来するとしたディンクラーの説も理由

に挙げるが、これは受難物語の伝来をめぐる諸説の一つに過ぎな

いため、傍証としては不十分であろう。

 また、大貫は、イエスが子ろばに乗ってエルサレム入場を果た

したという記述を史実と解する。イエスは、ゼカリや書九章9節

の「見よ、あなた(エルサレム)の王がくる。(中略、評者)ろ

ばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って」という記述を

「共通のメタ・テクスト」に利用し、「神の国偏を示すための象

徴行動を行ったというのが大貫の理解である。しかし、大貫は否

定しているが、これはイエスをイスラエルの王的な救世主と理解

した福音書記者の編集とするのが妥当ではないか。少なくとも、

大貫のように主張するためには、丹羽リや書の当該箇所がエルサ

レム市民にとって「共通のメタ・テクスト」になりえたことが示

されねばならない。

 イエスの神殿蜜潰に関しても、大貫は福音書記事をほぼ額面通

りに受け取る。大貫にあっては、最高法院での、あるユダヤ入の

証言として紹介されるイエスの書葉「私は手で造られたこの神殿

を壊し、三日の後に、手で造られたのではない別の神殿を建てて

みせる」(マルコ~四章58節)が真正とされ、イエスが三日後に

迫った「神の国」実現を高らかに宣言したものと理解される。し

かし、この間接延醤と、十字架に死んだイエスが三日後に復活し

たとする復活信仰との類似性は、やはり真剣な考慮に値するので

はないだろうか。イエスの最後の祈りにしても大貫の解釈はナ

イーブに過ぎる。マルコは、死を予感し苦悩するイエスが神に対

し祈りを行う場面を描く。イエスは三人の弟子をともなっており、

自分の祈りの間、目を覚ましているよう三人に命じる。しかし、

三入はイエスの祈りの間に三度も眠り込んでしまう。大貫はこの

記述を史実と理解する。「その事実性を疑う理由はないと思われ

ユ46 (310)

Page 11: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

評書

る。誰かがそれを見ていたのだ」(二〇七頁)。ここではマルコが

                         ⑥

数字の三を多用している事実を指摘するにとどめておきたい。

 受難物語がどの程度まで史実を反映しているかという問題は、

イエスの私信の本質とならんで、終末論的解釈と非終末論的解釈

が真っ向から対立する争点となってきた。終末論的解釈にあって、

受難物語は概ね史実を伝える「記憶化された歴史」とされ、非終

末論的解釈にあっては、もはや史実の抽出が困難な「歴史化され

た聖書」とされてきた。大貫はここでも終末論的解釈を支持する

ドイツの学者たちに依拠しているようだが、その史料批判のナ

イーブさと強引さのため、史実性を最小限に見積もるクロッサン

らを論駁するには至っていない。

 最後に、大貫の史的イエス論全体に関わる、さらなる問題点に

ついて触れておきたい。少なくとも、本書のみから判断すれば、

大貫はサタンの文化史やサタンの社会史と呼ばれる研究領域の成

果を十分踏まえていないように思われる。大貫の史的イエス論の

中心的な主張の{つは、イエスが、天上から放逐されるサタンを

実際に(覚醒体験として)巳撃し、地上での「神の国」実現のた

め、サタンとその手下である無数の悪霊たちと闘ったことである。

大貫は言う、(イエスは)「サタンとその手下の悪霊たちの実在を

信じていた。プラトンでもアリストテレスでもなかったパレスチ

ナの一介の庶民にとって、それは当然のことであった。「神の

国」は今そのサタンの勢力を地上で克服しつつある。その闘いの

最前線に自分は遣わされて、働いている。これがイエスの自己理

解であった」(書論)。歴史学の側からすると、大貫の単葉はあま

りに乱暴に響く。残念ながら、イエスが「サタンとその手下の悪

霊たちの実在を信じていた」ことは当然のことではない。それは

厳密な史料批判にもとづいて論証すべき歴史学的な問題なのであ

                  ⑦

り、導かれる結論も仮説であるに過ぎない。

 大貫がユダヤ教黙示文学に見られる終末思想を重視すること自

体は決して間違ってはいない。というのも、ユダヤ教の終末思想

は明らかにキリスト教の思想伝統の中に流れ込んでいるからであ

る。問題となるのは、ユダヤ教とキリスト教の思想的系譜関係に

おけるイエスの罪業づけである。ゾロアスター教の善悪二元論や、

古代オリエントの英雄闘争神話からの影響を受けて成立したユダ

ヤ教終末思想において、地上の諸悪の根源であるサタンと英雄的

な闘争を行い、サタンに打ち勝つ役割を与えられたのは、世界の

終来時に降臨する神の子、救世主に他ならない。例えば、死海文

書を残したクムラン教団の人々は、救世主の降臨と終末の実現を

信じ、それに備えるべく死海縁で禁欲主義的コミュニティを形成

したのである。注旨すべきは、彼らが、サタンと闘う主体をいま

だ来臨せぬ救世主を中心に考えていた点である。サタンとの闘争

を中心的プロットに据えるという点で、ユダヤ教黙示文学と新約

福音書の共通性は明らかであろう。但し、時制は異なっている。

ユダヤ教黙示文学では主として未来に生じる闘争が描かれたのに

対して、福音書が描いたのは過去にすでに生じた闘争、そして未

来に完遂される闘争である。大貫も認めるようにイエスの弟子た

ちはイエスの死後、十字架に死んだイエスが実はすでに地上に派

遣された救世主、キリストであると理解した。福音書において、

イエスがサタンと闘争し、「人の子」の来臨が予告される根拠は

ここにある。イエスとサタンの闘争の背後にはキリスト論的関心

147 (311)

Page 12: Title 大貫隆著『イエスという経験』 Citation 88(2): …...書 評 大貫隆著 『イエスという経験』 は じ め に 橋 川 裕 之 る。もともとは、ドイツのプロテスタント系新約学者たちの独壇検討し、イエスの歴史的実像に迫ろうとする研究のことを意味す釈」を相対化したうえで、福音書記事やその他の史料を批判的にたと考えられる。

が潜んでおり、大貫の原則に照らすと、闘争プロットはすべて福

                 ⑧

音書記者の編集と判断されるのである。

 大貫の本当の関心は、歴史というよりむしろ哲学や神学にある

のではないか。大貫はアウグスティヌスやベンヤミンの思想を立

ち入って検討するだけでなく、新約学におけるオースティンの誉

語哲学やガダマーの解釈哲学の可能性について論じてもいる。そ

して、わが国の新約学者では、歴史・社会学的な立場に立つ田淵

建三や荒井献ではなく、実存主義的立場の八木誠一に重きを置く。

けれども、哲学・神学的な思惟によってイエスの歴史的実像に迫

ることができるのだろうか。終末論的解釈と非終末論的解釈の対

立を越えて進もうとする大貫の試み自体は評価できるが、それが

史的イエスの探求における新たな}歩となっているかと問われれ

ば、否と答えざるをえない。史的イエスの探求はこれからも世界

の多くの学者を巻き込んで続いていくだろうが、新たな一歩は緻

                              ⑨

密で厳密な歴史考証に支持されたものでなければならないだろう。

① イエスの死後に編纂され、マタイやルカの福音書記者たちが参照し

 たと考、凡られている仮説上の資料。Qはドイツ語O信亀Φの略。

②大貫は触れていないが、こうしたアメリカの学者たちが支持する非

 終末論的イエス解釈は、ユダヤ人歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代誌撫

 において、イエスが「賢者」そして「教師」として言及されているこ

 とと符合するのである。

③ζいじd9σqv§防誤§Q§§督ミ墜勲ミミ妬§(<毘3喝。おpぢ逡)

 (小河陽監訳鴨イエス・ルネサンスー現代アメリカのイエス研究嚇

 教文豆、一九九七年Y

④おそらく大貫はR・ホースリーとボーグ、それぞれのイエス解釈を

 混同している。同著、とりわけ第二章と第五章を参照のこと。クロッ

 サンやボーグらへの根本的な批判については、U.O.〉霞ωoP§い塞ミ

 さ趣§蕪≧§NN§ミ繭§℃、号詠鴨馬(罫嘗⑦巷9ω口8c。)がまずもって参照

 されるべきであろう。

⑤この門人の子扁解釈の劇的な転換には、N・ペリンの研究も大きな

 役割を果たしている。Ω■U.じσ震寄ド§自象轟駄§、ドbSミ門国韓㍗

 ミ壁職ミ衝心ミミ§(O磐ぴaσQρ68)もワ①c。-。。回.

⑥ちなみに、マルコにおいては、イエスの受難も三度予告されている。

⑦同様に、大貫は、イエスが門宇宙が天と地と地下(冥府)の三層か

 ら成るという古代的世界像を自明のこととして」いたと雷うが、これ

 も自明のことではない。

⑧実際、アメリカのグノ;シス研究者E・ペイゲルスは§鳴9喧嵩

 月琴、§(賭㊦♂く磯oH搾曽梱り㊤α)(松田直樹訳『悪魔の起源㎏青土社、二〇

 〇〇年)で、四福音書に描かれたイエスとサタンの闘争が、編集史的

 な見地からすべて合理的に説明されうることを示した。ちなみに、 

 部の学者のように、イエスに救世主としての自己意識があったと理解

 するならば、大貫の解釈は成立する余地がある。

⑨この点について評者は、三〇年以上前に発表された」・M・ロビン

 ソンの論考「新約聖書におけるケーリユグマと歴史」が依然、重要で

 あると思うQ回筈■労。営霧op雪儒田.国。①ω8お寧鉦鴨ら§乱題註肉§含

 9誌§ミ竜(℃賦一匙Φ督ぽダ一鶏一)”竈.柏O謁O(撫山久夫訳槻初期キり

 スト教の思想的軌跡』新教出版社、一九七五年、二七一 〇三頁ソ

 Oh一b.986。二一§恥奪8、馬ミN蓼§㌧§鴨卜笥駄窺さミミミ、罵§周

 計越慧憂窺ミ(ωき軍き。房ooL8一)u竈.羨く一丁漆室一い

(m隅山ハ邨刊 …嵩…二百八 二〇〇「「一年…○ロ月

岩波出版社 税別一二五〇〇円)

   (日本学術振興会特別研究員)

(312)148