title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · title...

21
Title <論文>内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation アジア・キリスト教・多元性 (2016), 14: 101-120 Issue Date 2016-03 URL https://doi.org/10.14989/214338 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Upload: others

Post on 23-Jan-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

Title <論文>内村鑑三の三位一体論

Author(s) 渡部, 和隆

Citation アジア・キリスト教・多元性 (2016), 14: 101-120

Issue Date 2016-03

URL https://doi.org/10.14989/214338

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

101

アジア・キリスト教・多元性 現代キリスト教思想研究会

第 14号 2016年 3月 101~120頁

内村鑑三の三位一体論

渡 部 和 隆

本論は三位一体の概念を切り口にして内村鑑三のキリスト教思想を分析するものである。

もっとも、内村は体系的な神学的著作を残していないため、本論のような神学のキーワード

による分析方法が内村研究にとって有意義なのかどうかが方法論的に問題となる。実際、三

位一体に関して比較的まとまったテクストは内村鑑三全集中にはほとんどない。このテクス

ト上の制約のためか、内村の三位一体論に関する先行研究はさほど多くはない。管見の限り、

内村の三位一体論を本格的に扱っているのは、佐藤全弘の論文「二つの三位一体」1がある

ぐらいである。にもかかわらず、論者がこのようなテーマを扱うのは、内村が三位一体論に

関しては自らの思想史的背景に言及しているからである。内村は基本的に自分が参考にした

思想家や著作についてあまり語らないが、三位一体に関しては珍しく言及している。したが

って、内村の三位一体論を追えば、内村のキリスト教思想の思想史的背景の一端を明らかに

することができるのである。

以上の観点から、本論では内村鑑三の三位一体論を分析していく。なお、三位一体論につ

いては内村が時に三位一体という言葉をキリスト教思想以外の文脈で比喩的に用いることに

ついて最初に一言述べておく。そのような用法には二種類ある。第一に、聖書と歴史と天然

との三つを通して神を認識するという彼独自の発想である。内村はこれを三位一体と呼ぶこ

とがある2。次に、内村は日本の古来の教育を論じる際に子供の忠誠心の対象が両親、教師、

主君の三つであることに言及し、それを「実にセンセイと両親とキミ(主君)とは、深い尊

敬をはらうべき対象の三位一体をなしていた。」3と比喩的に語ることがある。これらの三

1 佐藤全弘「二つの三位一体」内村鑑三研究二九号、一九九二年、三五~六五頁。 2 この聖書と歴史と天然とを三位一体とする内村独自の三位一体については佐藤論文に詳しい。

佐藤論文は内村独自の三位一体について、「内村鑑三の思想と信仰の集中的表現は、この自然と

人と聖書、聖書と歴史と科学、聖書と天然と歴史という、その青年時代から世を去るまでを一貫

して流れる『特有の三位一体』に見出される」(佐藤、前掲論文、六五頁)と論じている。 3“JAPAN AND THE JAPANESE”内村鑑三全集三巻、英文ページ二五一頁。原文は“Indeed,

sensei, parents, and kimi (lord) constituted the Trinity of our worshipful regard”であり、訳

文は岩波文庫『代表的日本人』に収録されている鈴木範久訳を引用した。以下において、内村鑑

Page 3: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

102

位一体の用法に関しては、本論ではキリスト教思想における三位一体に集中するため、扱わ

ないこととする4。

1.『基督教問答』における三位一体論

内村が三位一体論を本格的に論じたのは、一九〇四年発表の「三位一躰の教義」5という

対話形式のテクストが最初である。本節ではこのテクストを中心に扱う。その構成は以下の

通りである。

其一 余は断じてユニテリアンに非ず

其二 聖書に顕はれたる三位一躰

其三 三位一躰の哲理的説明

其四 実際的信仰としての三位一躰

対ユニテリアンという文脈が見てとれる。上述した佐藤論文は本テクストを概観した後、

「最も大切な内村らしい議論が見られるのは、その四『実際的信仰としての三位一体』であ

る。」6として、内村の議論を「御子の十字架にあらわれた神の愛が、三位一体の信仰の基

礎だということ」7という形で要約している。佐藤論文によれば、実験によって把握された

贖罪と愛の信仰が三位一体の信仰の基礎であるという考えは、その後の内村のテクストにお

いても確認できる。佐藤論文の指摘は非常に興味深いものであるが、本論の問題意識からす

ると、「其四 実際的信仰としての三位一躰」に加えて、「其二 聖書に顕はれたる三位一

躰」と「其三 三位一躰の哲理的説明」も重要であり、緻密な分析が必要とされる。特に、

キリスト教思想の観点から見て、其三には注目する必要がある。以下、其三と其四の議論を

分析していくこととする。

三全集(岩波書店全四〇巻)を用いるが、本論では単に「全集」と表記することとする。なお、

調査には DVD 版『内村鑑三全集』(内村鑑三全集DVD版出版会、二〇〇九年)も援用した。 4 内村は他にも、一九〇三年二月二五日から『聖書之研究』で連載していたコロサイ書の注解の

一つ「哥羅西書講義第一章〔第三節―第六節〕」において、「哥林多〔コリント〕

前書、腓立比〔ピリピ〕

書及び以弗所〔エペソ〕

書等に於てパウロは恒に信●

、望●

、愛●

、を説けり、此の三字はパウロが道徳の、 、 、

三位一躰、 、 、 、

とも称すべ

きか、注目せよ本書の三節以下またこの文字の現はれ居ることを、此三者は皆な相互に聯関して

離す可らず、信愛は望に因り、望はまた信愛と接触す。」(全集一一巻、七二頁)と述べて三位

一体という言葉を比喩的に用いている。しかし、管見の限り、この用法は上記二つの用法とは異

なり、ここでしか用いられていない。 5 一九〇四年二月一八日『聖書之研究』四九号「問答」欄。署名「内村鑑三」。『基督教問答』

という書籍に再録された。 6 佐藤、前掲論文、三九頁。 7 同上、三九頁。

Page 4: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

103

1-1.内在的三位一体の観点

まずは「其三 三位一躰の哲理的説明」である。内村が其三で提示するのは、社会的三位

一体の考えである。内村はこれを「神は愛である」ということが導き出している。内村は、

三位一体の教義は神論を無駄に煩雑にするだけではないかと、その必要性を疑う人に対して、

神が愛であるという観点から三位一体論を展開しているのである。

まず、内村は、神は愛である以上、神は天地創造以前にも愛でなければならないとした上

で、次のように言う。

「愛は言ふまでもなく交換的であります、愛する者があり、愛せられる者があつて始めて完

全なる愛があるのであります、然るに憐むべし、……私は此語を用ゆるに躊躇致しません…

…貴下の想像なさる単独の神は、彼が宇宙万物を造り給ひし前には、自己以外に愛すべき者

を有〔も〕

たれませんでした、彼はデホーの小説にある南洋の孤島に孤独の生涯を送りしロビン

ソン、クルッソーのやうな者でありました、漠々たる虚空こ く う

の中に彼自身の外に『汝よ』と呼よび

懸か

くることの出来る者なく、又『然り』と応ふる者もありませんでした、貴下は斯〔か〕

かる虚

空の単独者を称して完全なる愛を備へたる完全の神と言はれます乎〔か〕

」8

内村は愛を関係性として捉えた上で、もし神が三位一体の神でないならば、天地創造以前、

神が愛であることはありえないという結論が出て来ると指摘する。愛が愛する者と愛される

者との間にのみ成立する以上、自己以外の他者すなわち「彼自身の外に「汝よ」と呼懸くる

ことの出来る者」を必要とするのであり、それは創造以前の神においても変わらない。ここ

で注意したいのは、内村は明確にはしていないが、創造以前が想定されていることから伺え

るように、内村が三位一体について内在的三位一体の観点から論じていることである。神は

内在的三位一体の観点からみて、愛の対象すなわち他者を必要とするのである。むろん、神

は自分自身を愛したと考えることは可能である。しかし、内村は「自身を愛することは愛で

はありません、少くとも愛の最も劣等なるものであります」9として、この考えを否定して

いる。自己愛は最も劣等な種類の愛であり、不完全な人間にはふさわしくても、完全である

神にふさわしくない。したがって神が愛であるならば、「神とても絶対的に単独たることの

出来る者ではありません」10という結論が導かれる。「単独」の神は愛ではありえないので

あり、逆に神が愛ならば、神は「単独」ではないのである。では、創造以前の神は誰を愛し

ていたのか。

8 全集一二巻、五九~六〇頁 9 同上、五九頁 10 同上、六〇頁

Page 5: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

104

「彼の中に三位があつて、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

、彼は彼自身の中に聖なる社会を備へ給ふたと言ふのでありま、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

す、

『三位の社会』the Society of the Trinity とは米国第一の神学者ジヨナサン、エドワード

の始めて用ひし熟語でありまして、『社会』なる詞ことば

の何人の口にも上のぼ

る今日に至ては甚だ

俗化され易き語句ではありますが、然かし此事に能く注意して用ひますれば其中に深い真理

を含む辞句こ と ば

であると思ひます。」11

内村は、アメリカの神学者ジョナサン・エドワーズの「『三位の社会』the Society of the

Trinity」に言及し、三位一体の神の内部に「聖なる社会」を認めている。内在的三位一体

を社会と解することではじめて神は愛の対象を見出すことができ、永遠の愛でありうる。で

は、三位一体を社会として捉えることは「三位一躰の哲理的説明」、すなわち三であるもの

が同時に一でもあるということをどのように説明するのか。

内村が着目するのは神のペルソナである。内村は「ペルソナとは意志と○ ○ ○

智性と○ ○ ○

能力と○ ○ ○

愛心と○ ○ ○

を備へ○ ○ ○

た実在○ ○ ○

物であ○ ○ ○

ります○ ○ ○

」12と説明した後、「人は神の象かたち

に像かたど

られて造られた者

であります」13という Imago Dei の議論を介して人間のペルソナから神のペルソナについて

類推している。内村が持ち出すのは夫婦と国民国家という具体例である。まず、夫婦につい

て内村は創世記二章二四節「是故このゆゑ

に人ひと

は其その

父ちち

母はは

を離はな

れて其その

妻つま

に好合あ

ひ二人ふ た り

一體いったい

となるべし」

(文語訳)を引用し、次のように言う。

「其道徳上の可否は別問題と致まして、此一節の中に深い心理学上の真理が含ふく

まつて居るこ

とは確かであります、即ち夫婦たる者は二個別々のペルソナ性を有したる個人でありますけ

れども、若〔も〕

し其意気相投じ、熱望相合するの場合に於ては二人は実に一躰○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

と成るとの事実、

是れであります、二人が一躰、即ち一人となる、而〔し〕

かも一人ではない二人であるとは数理

学から言へば背理の最も明かなる者ではありまするが、然かし愛情を有する人の特性として

考ふれば決して怪しむに足りません。」14

内村は、夫婦が二人の人間でありながら同時に「一躰」でもあるという「深い心理学上の真

理」を基にして三位一体について考えようとする。国民国家の例でも同様である。

「四千五百万個の石を 蒐〔あつ〕

めた所が矢張り四千五百万個の石より他の物ではありません、然

かし或る高貴なる目的のために四千五百万の人◎

を結合して御覧なさい、是れは一個人躰とな

ります、即ち一国家となりまして、泰山をも崩し、大陸をも呑む力となります」15

11 同上、六〇頁。 12 同上、五六頁。 13 同上、五六頁。 14 同上、五七頁。 15 同上、五七~八頁。

Page 6: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

105

内村は、夫婦の例と同じように、国民国家もまた複数の人間から構成されると同時に「一個

人躰」でもあるということを指摘し、その事実から三位一体について考えようとしている。

この二つの例はどちらも「人○

の○

心○

は○

或○

る○

場○

合○

に○

於○

て○

は○

融○

和○

投○

合○

し○

て○

一○

つ○

と○

成○

る○

と○

云○

ふ○

事○

」16

を示している。ここで注目したいのは「成る」という表現である。内村は、複数のものが同

時に単数であるという背理を避けるため、複数の人間が一つのものになる事例を挙げている。

複数の人間が、それぞれ個人でありながら、同時に一つのものとして統一されている場合が

考えられているのである。このようにして、内村は「数理学の理を以て人事を量る者は大に

誤ります、ペルソナ性を有する人は多くの場合に於ては数理学の法則の外に立つ者でありま

す。」17と結論づけ、この人のペルソナの性質を神のペルソナにも当てはめて考えようとす

るのである。

むろん、内村は神と人との差異を無視しているわけではない。内村によれば、神のペルソ

ナが完全であるのに対して人間のペルソナは不完全であるため、「完全は○ ○ ○

不完全○ ○ ○

より○ ○

推して○ ○ ○

知る事○ ○ ○

の出来る○ ○ ○ ○

ものでは○ ○ ○ ○

あ○

り○

ません○ ○ ○

、完 ◎

全 ◎

の ◎

標 ◎

準 ◎

は ◎

完 ◎

全 ◎

其 ◎

物 ◎

で ◎

あ ◎

り ◎

ま ◎

す ◎

」18とあるように、

人間のペルソナから神のペルソナを論じることはできない。内村は「神の事を攻究する時の

普通の誤謬は人△

を△

本△

位△

と△

し△

て△

立△

て△

ゝ△

神△

の△

事△

を△

人△

の△

事△

よ△

り△

推△

断△

す△

る△

こ△

と△

で△

有△

ま△

す△

」19とまで主

張する20。なぜなら、「夫婦と云ひ、国民と云ひ、 孰〔いず〕

れも不完全なるペルソナであります

から其 糾 合〔きゆうごう〕

一致も 随〔した〕

がつて不完全であります、故に彼等が一躰となるの状さま

を以て 直〔ただ〕

ちに之を三位の神に適用することは出来ません」21というわけだからである。内村は一応、

完全な神のペルソナと不完全な人のペルソナとの間に差異や断絶があることは認めている。

しかし、内村の表現の仕方に注意するなら、完全な神のペルソナと不完全な人のペルソナの

違いは完成度という程度の違いではないかとも考えられる。実際、内村は Imago Dei の議

論を介して人のペルソナの性質から神のペルソナについて考えようとしている。人のペルソ

ナの性質は「 直〔ただ〕

ちに之を三位の神に適用することは出来ません」が、しかし「三位が一躰

となりて存在することが出来るとの事を推量するためには充分なる思料マ マ

として用ゆることが

出来ます」22というわけである。かくして内村は「人の心は或る場合に於ては融和投合して

一つと成ると云ふ事」を「充分なる思料」として用いて、三つのものが一つであることを説

明しているのである。

16 同上、五七頁。 17 同上、五八頁。 18 同上、五六頁。 19 同上、五六頁。

20 なお、内村は逆に、神のペルソナから人間のペルソナを論じるべきだと主張している。「神◉

を◉

知◉

つ◉

て◉

始◉

め◉

て◉

人◉

を◉

知◉

る◉

こ◉

と◉

が◉

出◉

来◉

る◉

の◉

で◉

あ◉

り◉

ま◉

す◉

、ペルソナの何たるも之を完全に知らんと欲

すれば神に於て之を知るより外に途はありません。」同上、五六頁。 21 同上、五八頁。 22 同上、五八頁。

Page 7: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

106

以上、「其三 三位一躰の哲理的説明」において内村は主に三位一体を内在的に論じ、神

は愛であるということから社会的三位一体の考えを導き出している。その際、三位一体の神

の社会性は人間の社会性を「充分なる思料」とすることで説明されているのである。

1-2.経綸的三位一体の観点

次に、「其四 実際的信仰としての三位一躰」を分析する。この節も神は愛であるという

前提から出発する。しかし、天地創造以前を想定していた「其三 三位一躰の哲理的説明」

とは異なり、人間の救済という観点から論じられている。内村は今度はヨハネの手紙(一)

三章一六節「主しゅ

は我儕わ れ ら

のために生いのち

を捐すて

たまへり是これ

に由より

て愛あい

といふ事こと

を知しり

たり」(明治元

訳)やヨハネによる福音書三章一六節「それ神かみ

は其その

生うみ

みたまへる獨子ひとりご

を賜たまふ

ほどに世よ

の人ひと

愛あい

し給たま

へり」(明治元訳)を引用し23、人間との関わりにおける神の愛を問題としている。

内村自身は神学用語を用いていないが、経綸的三位一体の観点から論じていると言えよう。

内在的三位一体の議論と同じような議論が経綸的三位一体の議論にも当てはめられているの

である。内村はまずユニテリアン的な一位の神と比較する形で論述を始め、神が三位一体で

なかったら、「単独の神は之を思惟するには容易や さ し

い乎も知れませんが、然し実際に私共を慰

むるに足るの神ではありません」24という帰結が出て来ると指摘する。なぜなら、「愛○

は○

相互的○ ○ ○

の○

もの○ ○

で○

あります○ ○ ○ ○

から○ ○

単独○ ○

の○

神○

に○

は○

実は○ ○

愛○

なる○ ○

もの○ ○

は○

ない○ ○

」25からである。

「単独、 、

の、

神、

は、

自おのづ

から、 、

孤独、 、

の、

神、

で、

あります、 、 、 、

、爾、

う、

して、 、

孤独、 、

の、

神、

は、

世、

の、

独身者、 、 、

の、

性、

を、

帯びて、 、 、

決して、 、 、

同情、 、

推察、 、

の、

心、

に、

富んだ、 、 、

者、

で、

は、

ありません、 、 、 、 、

、彼は世界と人類との造主である乎も知れま

せん、然し彼は之を造つて後に之を彼の手より放はな

し、之を彼の定めし天然の法則に委ゆだ

ね、彼

れ自身は高く天の宝位み く ら

に棲止と ま

り、彼の足下に彼の造りし宇宙と人類とを瞰下み お ろ

し、其悲哀の状

を視て、転うた

た哲学的憐憫の情に堪へずと 雖〔いえど〕

も、而〔し〕

かも彼の栄燿えいえう

の天位を棄て汚濁の世に

降て之を救はんとするが如き慈悲的熱心を起す者ではありません」26

「単独の神」が登場しているのは、ユニテリアンへの反論である。愛が「相互的のもの」で

ある以上、「単独の神」は内在的三位一体の観点からして、愛ではありえない。経綸的三位

一体の場合においても「同情推察の心に富んだ者」ではありえないので、人間を救うことが

ない。内在的三位一体での考えが経綸的三位一体にも拡張され、徹底されている。「単独の

23 この二つの聖句は実際、内村が引用しているものである。同上、六五頁。 24 同上、六三頁。 25 同上、六五頁。 26 同上、六三~四頁。

Page 8: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

107

神」は愛ではないので、理神論的な「世界と人類との造主」ではあっても27、「彼の栄燿の

天位を棄て汚濁の世に降て之を救はんとするが如き慈悲的熱心を起す者」ではない。「単独

の神」は人間のところまで降りてきて、人間に働きかけることがない。したがって、人間を

救う神ではありえないのである。「単独の神は哲学的隠遁者の如き者であります、世を卑み、

嘲けり、 遠〔とおざ〕

ける者であります、彼に我等の悲痛を訴ふるも彼は応へません、彼は荘厳な

る君主であります、神聖にして 近〔ちかづ〕

くべからざる者であります」28というわけである。で

は、三位一体の神はどうなのか。

神は愛であるということから神が「聖なる社会」の三位一体の神であることを導き出した

のが前節である。内村はその議論をふまえつつ、神の愛の完全性と人間の不完全性とを対比

させる。内村によれば、「我○

儕○

が○

神○

は○

愛○

で○

あ○

る○

と○

云○

ふ○

は○

彼○

の○

衷○

に○

三○

位○

が○

在○

て○

其○

間○

に○

完全○ ○

に○

して○ ○

純正○ ○

なる○ ○

愛○

が○

存在○ ○

して○ ○

居る○ ○

から○ ○

」29である。三位一体の神の愛は人間の愛よりも完全で

あり、三位一体の神によるのでなければ、神の愛、すなわち「完全にして純正なる愛」がど

のようなものであるかを理解することができない。つまり、

「其○

独子○ ○

を○

世○

の○

ため○ ○

に○

捐すて

給○

ふ○

神○

の○

愛○

を○

知○

て○

始めて○ ○ ○

父○

の○

愛○

の○

何○

たる○ ○

乎○

が○

分かる○ ○ ○

の○

で○

あ○

り○

ま○

す○

父○

の○

命○

と○

あれば○ ○ ○

死に○ ○

まで○ ○

之○

に○

従○

ひし○ ○

子○

の○

従順○ ○

を○

見て○ ○

始めて○ ○ ○

孝○

の○

何○

たる○ ○

乎○

が○

分かる○ ○ ○

の○

で○

あ○

り○

ま○

す○

、聖○

父○

と○

聖○

子○

と○

よ○

り○

出○

て○

自○

己○

に○

就○

て○

は○

少○

し○

も○

語○

ら○

ず○

し○

て○

、聖○

なる○ ○

二者○ ○

の○

栄光○ ○

を○

のみ○ ○

是○

れ○

彰○

はさん○ ○ ○

と○

する○ ○

聖霊○ ○

の○

恩化○ ○

を○

受けて○ ○ ○

我儕○ ○

は○

無私○ ○

の○

生涯○ ○

の○

何○

たる○ ○

乎○

を○

知る○ ○

の○

で○

あります○ ○ ○ ○

」30

というわけである。内在的三位一体として捉えられていた神の愛が、ここでは「愛を以て働

き給ふ三位の神」31とされ、三位格の存在論よりもそれぞれの働きに焦点が当てられている。

人間から見た神の働きが主題となっているのである。三位格それぞれの働きを通して人間は

神の愛を認識する。「キリスト信徒の一致と云ひ愛と云ひ、皆な三位の神の相互の間に存す

る一致と愛とに傚ふべきものである」32とあるように、キリスト者はこうして認識された神

の愛に基づいて行動すべきだとまで内村は言う。これは必然的に人間の救済の問題につなが

っていく。具体的には、神の愛による罪の赦しや贖いの問題につながっていくのである。

「単独の神は地を遠く離れて高く独り天に捿止と ま

る神であるのみならず、斯かる神は 亦〔また〕

罪人

とは全く関係のない神であります、単独、 、

の、

神、

は、

地球、 、

に、

まで、 、

達、

しない、 、 、

神、

で、

あります、 、 、 、

、罪人、 、

に、

27 実際、内村はこの直後、「単独の神」の例として、理神論とユニテリアンとを挙げている。

同上、六四~五頁。 28 同上、六四頁。 29 同上、六六頁。 30 同上、六七~八頁。 31 同上、六八頁。 32 同上、六六頁。

Page 9: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

108

まで、 、

及ばない、 、 、 、

神、

で、

あります、 、 、 、

、三位○ ○

の○

神○

を○

待○

つて○ ○

始めて○ ○ ○

救拯す く ひ

の○

神○

は○

ある○ ○

の○

で○

あります○ ○ ○ ○

、罪の赦

し、其 贖〔あがな〕

ひ等は三位の神にあらざれば我儕のために成就ぐることの出来ない事でありま

す」33

「単独の神」は、三位の神と違って愛ではなく、「地を遠く離れて高く独り天に捿止と ま

る」神

であるため、地上にいる罪に悩み苦しむ人間を救うことはない。これに対し、三位の神は

「完全にして純正なる愛」であり、その愛は三位一体の内部にとどまらず、人間に対しても

働きかけ、人間を罪から救うのである。「三位の神を待つて始めて救拯の神はある」とある

ように、神は三位一体でなければ人間を救うことができない。神は三位一体でなければ愛で

はありえず、神が愛でなければ罪人を救うこともない。「罪の赦し、其贖ひ等は三位の神に

あらざれば我儕のために成就ぐることの出来ない」のである。ここで経綸的三位一体が贖罪

や罪の赦しと密接に関係づけられ、救いに不可欠なものとされている。かくして、内村は

「三位一躰の教義は道徳的教義であります」34と言い、「基督◎ ◎

教◎

の◎

総て◎ ◎

の◎

教訓◎ ◎

は◎

此◎

教義◎ ◎

と◎

大関係◎ ◎ ◎

を◎

有◎

つて◎ ◎

居ります◎ ◎ ◎ ◎

、之を取ても捨ても可〔よ〕

いと思ふ人は未だ基督教を了解しない人で

あります」35とまで主張するのである。

以上より、内村は、神は愛であるということを根拠に、内在的三位一体の観点からは社会

的三位一体の考えを導き出し、同時に経綸的三位一体の観点からは三位一体の教義が人間の

罪の赦しや救いにとって必要不可欠なものであることを提示したのである。

2.『基督教問答』の思想史的背景

では、内村の三位一体論にはいかなる思想的背景の内にあるのか。注目すべきことは内村

がジョナサン・エドワーズの名前に言及していることである。確かに、エドワーズは社会的

三位一体論を唱えた人物である36。ここだけ見れば、内村はエドワーズの系譜に位置付けら

れるのではないかという推測が成り立つ。だが、ここでも問題が生じる。内村がエドワーズ

に言及している箇所は実はほとんど見当たらない。著作を直接読んだ形跡もない。そのため、

エドワーズのどの著作を読んでどのようなエドワーズ理解を持っていたのかをテクストから

解明することは困難である。さいわい、既に示唆しておいた通り、『基督教問答』の三位一

33 同上、六八頁。 34 同上、六八頁。 35 同上、六八~九頁。 36 エドワーズの三位一体論に関しては森本あんり『ジョナサン・エドワーズ研究―アメリカ

・ピューリタニズムの存在論と救済論―』創文社、一九九五年と矢澤励太「ジョナサン・エド

ワーズの三位一体論―「神性の繰り返し」としての三位格―」東京神学大学、紀要、八号、

二〇〇五年とを参照。

Page 10: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

109

体論に関しては、内村が珍しく参考にした論文を文末で挙げており、有力な手がかりとする

ことができる。

「 序〔ついで〕

に申上げて置きますが、此答弁の大躰は私自身の思考の結果になるものであります

が、然し聖書の引照や、例証の撰択等に就ては私はR、M、ヱドガー氏が千九百〇二年十月

の発行にかゝる the Presbyterian and Reformed Review 雑誌に寄贈されし『三位一躰論』

に負ふ所が沢山あります。」37

「R、M、ヱドガー氏」の「『三位一躰論』」とは、“The Presbyterian and Reformed

Review ”という雑誌に一九〇二年一〇月に掲載された Robert McCheyne Edgar, ‘The

Blessed Trinity’である38。以下、本節では Edgar の論文と内村のテクストとを比較検討

していくこととする。

そもそも、“The Presbyterian and Reformed Review”とはどのような雑誌なのか。創

刊号の Editorial Notes によると、この雑誌には前身となる“The Presbyterian Review”

があり、それは「長老派教会を、その原理の強力で頑強で堅実で徹底的な擁護によって十分

に表す評論雑誌(a Review)」39に対する強い要望に応えるために作られたものである。そし

て前身となる“The Presbyterian Review”の廃刊後、「アメリカの長老派教会の神学と生

活とを十分に表す評論雑誌が必要とされているという確信は今日、十年前よりもはるかに強

くなっている」40ため、“The Presbyterian Review”廃刊後の空白を埋める形で“The

Presbyterian and Reformed Review”が新しく創刊されたのである41。創刊号にはプリン

ストン神学校やユニオン神学校といった様々な神学校の教授の名前が挙げられている42。こ

のような創刊の経緯をみる限り、“The Presbyterian and Reformed Review”は基本的には

当時のアメリカの長老派や改革派の教会のために作られた保守的な神学の雑誌ではないかと

推定することができる。

Edgar の‘The Blessed Trinity’自体は一九〇二年に出版された“The Presbyterian and

Reformed Review”の no. 52 に収録されている。Edgar の人物像については、調査したが、

37 全集一二巻、六九頁。なお、この注は本テクストが『聖書之研究』に発表された当初からつ

けられていたものであり、内村が『聖書之研究』の読者に対して Edgar の論文にも目を通すよ

うに促していたことが分かる。『聖書之研究』四九号、三五頁。 38 この書誌情報については内村鑑三全集一二巻の末尾にある解題を参照。全集一二巻、五〇四

頁。Edgar の論文自体は“The Presbyterian and Reformed Review” , 1902, Vol.13, no.52, p.52

4~550 に収録されており、プリンストン神学校の電子ジャーナルで閲覧およびダウンロードす

ることが可能である。 39 “The Presbyterian and Reformed Review” , 1890, Vol.1, no.1, p.111. 40 Ibid. 1890, Vol.1, no.1, p.111. 41 この時になぜ、“Reformed”が加わったのかについては現時点では不明である。今後の課題

としたい。 42 “The Presbyterian and Reformed Review” , 1890, Vol.1, no.1, p.111.を参照。

Page 11: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

110

今のところ詳細不明である43。論文自体は神を「関係の外にあるもの(out of relation)」

や「条件付けられないもの(the unconditioned)」として思考する哲学的不可知論44やユ

ニテリアンの反対説に対して伝統的な三位一体の神を擁護するために書かれたものである45。

内村はこのようなアメリカの長老派教会の神学を唱道する雑誌の論文に基づいて三位一体論

を考えていたのである。

Edgar の‘The Blessed Trinity’は以下のような構成となっている。

Ⅰ.PROOFS FROM THE OLD TESTAMENT.

Ⅱ.PROOFS FROM THE NEW TESTAMENT.

Ⅲ.SUBSTITUTES FOR THE TRUE DOCTRINE.

Ⅳ.PRACTICAL ADVANTAGES OF THE REVEALED DOCTRINE OF THE TRINITY.

内村の「三位一体の教義」の構成と部分的に重なっている。内村自身の証言に従えば、「此

答弁の大躰は私自身の思考の結果になるもの」であるが、「聖書の引照や、例証の撰択」は

Edgar の論文に負うところが大きいという。以下、内村が用いている聖書の例や比喩につ

いて、Edgar と比較対照する形で分析していく。

2-1.聖書の引用

本節では聖書の引用を扱う。具体的には、三位一体の教義の根拠として言及されている聖

書の箇所や事柄について、内村の「三位一体の教義」の「其二 聖書に顕はれたる三位一

躰」46と Edgar の‘The Blessed Trinity’の“Ⅰ.PROOFS FROM THE OLD

TESTAMENT.”47と“Ⅱ.PROOFS FROM THE NEW TESTAMENT.”48とを比較対照

させる。すると、次の表のようになる。

43 Edgar の人物像については‘The Blessed Trinity’の末尾(Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.550)

において、“ROBERT McCHEYNE EDGAR”の署名とともに、“DUBLIN”とも書かれてい

るので、アイルランドの長老派ないしは改革派の教会の関係者ではないかと推定されるが、現時

点では詳細は不明である。 44 この哲学的な不可知論に関して、一応“Sir William Hamilton, of Edinburgh”“Mansel”

といった人名やユニテリアンの名前が挙げられている。 45 ただし、Edgar 自身はユニテリアンという言葉を、旧約聖書の時代の思想に対しても用いる

ことがあり、特定の教派としてのユニテリアンだけを問題としているのではないことに注意が必

要である。 46 全集一二巻、四七~五四頁。 47 この節は、“The Presbyterian and Reformed Review” , 1902, Vol.13, no.52, p.528~537.に

収録されている。 48 この節は、Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.537~542.に収録されている。

Page 12: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

111

言及されている聖句 内村 Edgar

旧約聖書

創世記一章一節 ○ ○

創世記一章二節 ○ ○

創世記一章二六節 ○ ○

創世記二章 ×49 ○

創世記三章二二節 ○ ○

創世記六章三節 × ○

創世記二二章一一~二節 ○ ○

創世記三二章二四~三〇節 × ○

創世記三五章七節 × ○

創世記四一章三八節 × ○

出エジプト記三章一五節 × ○

出エジプト記四章二二節 × ○

出エジプト記三五章三一節 × ○

申命記六章四節 ○ ○

申命記一〇章一九節 × ○

ヨシュア記二四章一九節 × ○

詩篇二章 × ○

詩篇二三章六節 × ○

詩篇五一章一一~二節 × ○

詩篇一三六章二節 × ○

箴言八章二二~三一節 ○ ○

箴言一三章二二節 × ○

コヘレトの言葉一二章一節 ○ ○

イザヤ五四章五節 ○ ○

イザヤ書六三章一〇節 ○ ○

エゼキエル書三七章九節 ○ ○

ホセア書一二章四節 × ○

マラキ書 × ○

49 ただし、これは内村が夫婦の比喩を述べている「其三 三位一躰の哲理的説明」では引用さ

れている。

Page 13: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

112

新約聖書

マタイ福音書三章一六~七節 × ○

マタイ福音書一二章二八節 × ○

マタイ福音書二八章一九節 ○ ○

ヨハネ福音書五章一七~二〇節 × ○

ヨハネ福音書五章二一~二七節 × ○

ヨハネ福音書一四章八~一二節 × ○

ヨハネ福音書一四章二三節 ○ ×

ヨハネ福音書一六章一三~一四節 × ○

使徒言行録一三章三三節 × ○

第二コリント書一三章一四節 ○ ○

内村が言及した箇所で Edgar が言及していない箇所はほとんどない。ほぼ重なっている。

この表の結果を見る限り、内村が「聖書の引照や、例証の撰択」について Edgar を参考に

したのは間違いない。内村は聖書に関する Edgar の議論を部分的に利用する形で論を組み

立てているのである。

2-2.ジョナサン・エドワーズの引用

内村が本テクストでエドワーズに言及しているのは、既に引用したように、「其三 三位

一躰の哲理的説明」において三位一体を内在的三位一体の観点から論じる箇所だけである。

これだけでは内村がエドワーズの社会的三位一体論について知っていたということが示せる

だけで、それ以上のことを解釈して引き出すのは無理である。

これに対し、Edgar は内村より頻繁にエドワーズと彼の Society of the Trinity に言及し

ている。テクストのなかで、エドワーズの名前は二回50、Society of the Trinity とそれに類

似する表現は六回も使用されている51。Edgar がいかにエドワーズの社会的三位一体論を重

視していたかが伺える。五三〇頁のエドワーズの初出には“Cf. Observations concerning

the Scripture Œconomy of the Trinity, by Jonathan Edwards, New York, 1880, p. 30)”52

という注も付けられている。これはエドワーズの著作であり、エドワーズの研究書でもエド

50“The Presbyterian and Reformed Review” , 1902, Vol.13, no.52, p.530, 550. 51 Society of the Trinity という表現は Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.530, 537, 538 とで言及され

ている。類似した表現としては“the society in operation, the love of Father to Son, of Son to

Father, and of Spirit to both in beautiful exercise”が五四一頁で、“Social Trinity”が五五〇

頁で二回使われている。二回目は Trinity が大文字となっている。 52 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.530.

Page 14: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

113

ワーズの三位一体論を論じる際には言及されている53。Edgar がエドワーズの三位一体論に

ついて一通りの研究をしてから‘The Blessed Trinity’を書いたことが分かる。

以上より推測されるのは、内村がエドワーズの社会的三位一体論を知ったのは、エドワー

ズの著作を直接読んだことによるのではなく、Edgar の論文を介して間接的に触れたこと

によるのではないかということである。内村は Edgar を介してエドワーズの社会的三位一

体論を間接的に知り、その影響の下で「三位一体の教義」の論を組み立てたと推定されるの

である。

2-3.その他の引用

本節ではその他の引用、特に人名の引用について、注目すべきものを二つ検討する。まず

は内村の次の引用を見てみよう。

「問、然らば明状あからさま

に伺ひますが、(ドウゾ褻涜せつとく

の罪を以て私を責めないで下さい)、如何ど う

て三つの者が一つであり得ます乎、若〔も〕

し 3 = 1 であり、1 = 3 であると言ひますならば数

学の土台が崩れて 了〔しま〕

ひまして世に算数学なるものは其 迹〔あと〕

を絶つに至るではありません乎。

答、御質問は 御 尤〔ごもつとも〕

であります、西洋にも斯〔か〕

かる質問を試みる者があります、バベージ氏

の三位一躰に対する数学的反対説なるものは貴下の御質問と同じものであります。」54

ここで突然、「バベージ氏の三位一躰に対する数学的反対説」というものが言及されている。

内村はこの「反対説」に対して、上述した石の比喩を使って反論しているが、ここで重要な

のはその出典である。実は、Edgar の論文中の“Ⅲ.SUBSTITUTES FOR THE TRUE

DOCTRINE.”において「バベージ氏の三位一躰に対する数学的反対説」が言及されている

のである。

「その教理(doctrine)に対して、反対説は算術的な根拠から取られてきた。例えば、際限

のない自信の Babbage 氏のような機械論的な思索家はアタナシオス信条について、それは

『明確に直接的な矛盾である。もし三つのものが一つのものでありうるなら、それゆえ算術

の学問全体がすぐに壊滅し、天文学者が示したように太陽系を支配する素晴らしい法則は単

なる夢である。』と言うことができるだろう。」55

53 森本あんり『ジョナサン・エドワーズ研究―アメリカ・ピューリタニズムの存在論と救済

論―』創文社、一九九五年、注八二頁を参照。 54 全集一二巻、五五頁。 55 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.542. なお、引用中の『』には注がついており、“Babbage’s

Passages from the Life of a Philosopher, p. 404”と出典が明記されている。

Page 15: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

114

内村は Edgar のこの箇所から「バベージ氏の三位一躰に対する数学的反対説」を取り出し

ていると推測される。内村は Edgar の論文から材料をとってきて論を構築しているのであ

る。興味深いのは、この Babbage の議論に対して、Edgar が次のように反論していること

である。

「さて、そのような見解が属しているのは多神教であり、啓示された宗教の教理ではない。

というのも、啓示された宗教は最も純粋で最も高尚な性格の一神教であり、諸統一性

(unities)の最も偉大なものの教理だからであり、一方、同時に、神(He)は孤独な一つ

のもの(Unit)ではないからである。」56

Edgar は unit と unity とを分け、unity を三位一体の神の方にあてがって Babbage の議論

を反駁しようとしている。Babbage のような論を展開する三位一体の批判者は、神自身あ

るいは神の位格のそれぞれを unit と捉えているために三位一体の教義は数学的に考えると

矛盾だと批判するが、実際の三位一体は unity であるから、その批判は当たらないというわ

けである。Edgar は三位一体の三と一とはそれぞれ数としての次元が異なっていることを、

unit と unity の使い分けによって示そうとしているのである。興味深いのは、内村も実は

Edgar と似たような unit と unity の使い分けをし、三位一体論を展開していることである。

「そ●

れ●

(引用者注:三位一体の教義のこと)は●

神●

は●

一●

つ●

で●

あ●

る●

、然し● ●

単独● ●

(unit)で●

は●

ない● ●

彼●

は●

三つ● ●

の●

ペルソナ● ● ● ●

(persons)と●

して● ●

存在● ●

する● ●

、然●

かし● ●

三つ● ●

の●

異●

つた● ●

神●

が●

ある● ●

の●

で●

は●

ない● ●

父●

、子●

、聖霊● ●

、 各おのおの

神●

で●

あつて● ● ●

、爾●

う●

して● ●

神●

と●

は●

此●

の●

三位● ●

の●

一致● ●

し●

たる● ●

者●

(unity)で●

ある● ●

と、

斯〔こ〕

う云ふ事であります。」57

内村もまた、Edagr と同じように、「単独(unit)」と「一致したる者(unity)」とを使い分け

て、後者を三位一体の神の表現として用いている。本論で今まで分析してきた内村の「単

独」や「一致」という言葉の背後には、実はこの unit と unity との区別が潜んでいたので

ある。用語法の観点から見て、Edgar と内村との間には明らかな並行関係を見みてとるこ

とができるだろう。この用語の並行関係が示唆するのは、内村が unit と unity との区別に

関する Edgar の用法をもとにして自分の論を組み立てているということである。

さらに、次の引用にも注目してみよう。内村も Edgar も対ユニテリアンという文脈は共

有し、ユニテリアンへの反論を試みている58。少し長くなるが、内村のテクストから該当箇

56 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.542. 57 全集一二巻、四五頁。 58 もっとも、内村の場合は、ユニテリアンという言葉を特定の教派としてのユニテリアンに限

定しなかった Edgar とは異なり、日本のユニテリアンの存在が念頭にあったのは間違いない。

Page 16: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

115

所を引用する。引用箇所は内村がエドワーズの社会的三位一体論に言及した直後である。

「単独の神を哲学的に思惟するの困難は深く此問題に就て考ふる人の常に感ずる所でありま

す、ユニテリアン派の第一等の思想家と見做〔みな〕

されしジエームス、マーチノー氏が 曾〔かつ〕

て此問

題に就て述べた言がありまするが、単独の神を信ずるユニテリアンの思想家でも若し公平に

思惟の順序を追ふて攻究しますれば 竟〔つい〕

に此論結に達しなければなりません、彼は単独の神

を造化の成りし前さき

に思惟するの困難なるを述べ、 斯〔かか〕

る神は可能的潜勢力を抱蔵せる『大な

る沈黙』と見るより外なきを論じ、竟に言を続けて曰ひました

彼は 力フオース

に非ず、そは其時未だ之に抵抗するものなければなり、彼は原因に非ず、そは

未だ結果なければなり、正義なる 能〔あた〕

はず、其時未だ之を施すの霊的実在物の神を除い

て他に無ければなり、愛なる能はず、そは其時未だ愛すべき者なければなり、吾人は視

るべき物なき時の視覚、接触すべき物躰なき時の 力フオース

、思惟其物の外、思惟すべき事物

のなき時の思惟に就て思惟せんと欲するも能はざるなり、吾人は斯〔か〕

かる単独にして隔絶

せる神に対し、之に附与すべき一の属性を有せず、吾人が彼に就て言ふは、 恰〔あた〕

かも黒

暗又は空白の無極に就て言ふが如く、単に否定を以てするのみ、即ち彼に資質なし、 、

、限

界なし、 、

、感情なし、 、

と言ふに過ぎざるなり、 而〔しか〕

して資質と云ひ、限界と云ひ、感情と云

ふも、是れ皆な受造物ありて以来の言なるを如何〔いかん〕

せん。

実に公平なる断案であると思ひます、単独の神の永遠の存在は思惟せんと欲して能はざるも

のであります。」59

内村はユニテリアンの思想家「ジエームス、マーチノー」の否定神学的な哲学的不可知論の

議論を引用し、逆にユニテリアンへの批判の材料としている。「単独の神を哲学的に思惟す

るの困難」は他ならむユニテリアンの思想家自身が認めているというわけである。この「ジ

エームス、マーチノー」の名前は、「我々はユニテリアニズムをその極めて最も高度な形態、

すなわち Dr,James Martineau の人格において取り上げよう」60とあるように、Edgar の論

文の中にも登場している。Edgar も Dr,James Martineau の引用をしており、それは内村

による引用よりも長く詳細にわたっている。Edgar による Dr,James Martineau の引用を

部分的に見てみよう。

全集中での三位一体の初出は一八九一年に発表された「我が信仰の表白」 というテクストであ

るが、これは当時自由主義神学に傾倒していた横井時雄の「我が信仰の表白」に対する反論とし

て書かれたものである。内村の三位一体論は最初から日本のユニテリアンを意識したものだった

のである。 59 全集一二巻、六〇~一頁。 60“The Presbyterian and Reformed Review” , 1902, Vol.13, no.52, p.533.

Page 17: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

116

「彼は力(a Power)ではない。というのも、抵抗がないからである。また原因でもない。と

いうのは、結果がないからである。正義であることもできない。そこには対処すべき精神力

(character)がない。また善(goodness)でもあることもできない。そこには愛されるべき被造

物がない。知覚すべき外的なものがない知覚、それが取り掛かるであろう点のない行動、思

考であるもの以外に対象を持たない思考、こういったものは私達を際限のない矛盾に巻き込

むかのようである。私達がそのような孤独で関係を持たない神に対して割り当てることので

きる属性をはっきりと定めることはできない。我々が彼について言うのはただ、私達が暗闇

や空虚な無限について言うように、単なる否定によってである。すなわち、彼には部分

(parts)はなく、制限(limits)もなく、熱情(passions)もないということである。そして、そ

の時でさえ、私達は、彼が後に私達の知識のために創造したもの、すなわち私達が彼に対し

ては否定しなくてはならないものに依存しているのである。」61

Edgar による Dr,James Martineau の引用はもっと長く、引用箇所の前後にさらに展開し

ているが、内村との比較のためにはこれだけで十分であろう。両者を比較すると、単語など

の細かいところでの違いはあるものの、内容や表現の仕方に関して注目すれば、Edgar に

よる Dr,James Martineau の引用も内村による引用も、同じのテクストからの引用である

と考えられる。発表の時期や順番、そして内村自身の証言を考慮に入れると、内村は実は

Edgar の論文から孫引きしたのではないかと推定される62。

以上より、内村が Edgar の論文に大きく依存する形で自分の三位一体論を展開している

ことが明らかとなった。Edgar の論文を介することで、内村は、ジョナサン・エドワーズ

をはじめとするニューイングランドの長老派の神学の影響のもとに三位一体論について思索

し、論の材料を得ていたのである。

2-4.内村による編集

前節では、内村のテクストと Edgar の論文との類似点を扱ってきたが、違う人間が書い

たテクストである以上、相違点も存在している。本節では、両者の相違点を扱う。

2-4-1.削除と付加

61 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.533~4. 62 もっとも、この点に関しては、内村が英語をどのようなに日本語に翻訳したかに関する研究

も合わせて行うことが必要となる。内村はしばしば、同じことを述べるのに英文と和文との双方

を使って発表することがあり、英語と日本語の双方で発表された内村のテクストを緻密に比較対

照する研究が可能であろう。そのような先行研究は管見の限り、見つからなかった。今後の課題

としたい

Page 18: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

117

まず指摘されるべきことは、内村が Edgar の論文の中から選ばなかった主題があること

である。特に、Edgar の論文中の“Ⅲ.SUBSTITUTES FOR THE TRUE DOCTRINE.”

に関しては、Edgar がこの節では、サベリウス主義63やアレイオス主義64、エマーソンの宗

教観65について言及して論じているにもかかわらず、内村は先述した「バベージ氏の三位一

躰に対する数学的反対説」しか引用していない。内村は Edgar の論を単純に繰り返したの

ではなく、取捨選択の編集を施している。では、内村による編集はどのような判断基準でも

って行われたのか。

サベリウス主義やアレイオス主義、エマーソンの宗教観に関しては、内村が明記していな

い以上、解明は著しく困難であるが、内村の「三位一体の教義について」を全体的に俯瞰す

ると、内村が日本人への伝道という文脈を意識していたことが分かる。例えば、「其四、実

際的信仰としての三位一躰」は次のような出だしで始まっている。

「何よりも実際を貴ぶ日本人としての貴下の御質問として誠に 御 尤〔ごもつとも〕

であります、吾等は

斯 国〔このくに〕

に在ては何事に就ても其実利実益を述べなければなりません、日本人は自ら哲学的の

民であると称〔い〕

ひて誇りまするが、然かし彼等の最も貴びまするものは哲理ではなくして実

利実益であります、『是れは金に成る乎〔か〕

』、是れが彼等の最大問題であります、彼等は基

督教は果して真理である乎と問ひません、基督教は国家のために、然り、我◎

が◎

為に利益であ

る乎、是れ日本国に於ては何人も基督教に就て問ふ所であります、『三位一躰の実益』、私

は御質問に接して戦慄みぶるい

が致します。」66

内村はここで急に、日本人は「哲学的の民」を自称するくせに実際には「実利実益」「金」

「国家のため」といった利益のことばかり考えていると、まるで伝道上の愚痴ともとれるよ

うなことを書いている。この内村の日本人観は、本テクストが一九〇四年二月というまさに

日露戦争開戦の時期に発表されたことを考えると興味深いものがあるが67、本論の問題関心

から見て重要なのは、日本人にキリスト教を布教するという文脈が示唆されていることであ

る。内村のテクストのこの箇所に対応する Edgar の論文の箇所は、“Ⅳ.PRACTICAL

ADVANTAGES OF THE REVEALED DOCTRINE OF THE TRINITY.”であるが、これ

は「終りに、この偉大な the Trinity in Unity の教理(doctrine)を受け入れることによっ

て確保される実際的な利点(the practical advantages)のいくつかを考えてみよう」68と

いう文で始まっており、既存の国家や国民への言及は皆無である。内村は編集によって日本

63 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.543. 64 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.544. 65 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.544. 66 全集一二巻、六二~三頁。 67 実際、内村はこの時期、『聖書之研究』において盛んに非戦論を唱えている。 68“The Presbyterian and Reformed Review” , 1902, Vol.13, no.52, p.546.

Page 19: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

118

人に対してキリスト教を布教するという文脈を意図的に本テクストに導入している。ここで

想起されるのは、内村が『余は如何にして基督信徒となりし乎』においてアメリカの神学校

での教育が実際の東アジアでの伝道には向かないことを批判している一節である。内村が神

学校で訓練を受けて母国での伝道を開始した人を例にとり、次のように言う。

「それならば、彼の思想は。それもまた彼の国人の思想といかに不調和になったことよ!

彼はヒューム主義とセオドア・パーカー主義を非難する。しかしヒュームやパーカーは彼の

説教しつつあるその人々の心のなかに存在したことなどないのである。ロマ帝国の滅亡と

『血のメリー』(Bloody Mary)の迫害は、『馬耳東風(“wind to the horse’s ear”)』

(我々はすべて無理解をそう呼ぶのであるが)のように響くのである。彼は聖書的真理を聖

書によって証明する、しかし聖書はこれらの人々にとっては用のない好古家のすすけた羊皮

紙に過ぎない。彼の説教は彼らの頭上を飛び越え、空中に消える。彼は聴衆に、聴衆は彼に、

失望する。不満、不平、辞職、離脱。」69

内村は、アメリカと東アジアとでは思想的文脈が異なるため、アメリカの神学教育で教えて

いることをそのまま持ち込んでも無意味だと指摘する。「問題は比較的な重要性の問題であ

る。我々が取り組むべきなのは、懐疑的なヒュームや分析的なバウルではなく、インド哲学

の精緻さや中国の道徳思想家の非宗教性であり、加えて新しく生まれた国の混乱した思考と

行動である。」70というわけである。したがって、日本人への伝道という観点からサベリウ

ス主義やアレイオス主義、エマーソンの宗教観に関する議論はふさわしくないものとして削

除された可能性がある。内村は Edgar の議論のうち、日本人の伝道にふさわしい論とふさ

わしくない論とを分け、前者をもとに論を組み立てているのである。

また、内村によって拡張され、付与された箇所も存在する。先の箇所で、内村がペルソナ

という観点から三位一体を説明するために夫婦と国民国家という具体例を持ち出しているこ

とを述べたが、似たような夫婦の例は実は Edgar にも見られる。Edgar は創世記にあるア

ダムとエヴァの創造物語から、夫婦関係のような人間の社会性を指摘し、それを Imago

Dei の議論を介して神にも適用する。「さて、もし私達がエデンにいた私達の最初の親(引

用者注:ここではアダムのこと)の立ち位置を正当に理解しようとするなら、我々は彼が関

係していたところの神的存在の性質をもっと明確にするだろう。」71とあるように、アダム

が対等な仲間としてのエヴァを必要としていたなら、神もまた、対等な相手との関係を必要

としているだろうと Edgar は論じている。しかし、国民国家の例は Edgar の論文には見当

69 全集三巻、英文一四二頁。なお、訳文は岩波文庫収録の鈴木俊郎訳によった。 70 全集三巻、英文一三八頁。訳文は岩波文庫収録の鈴木俊郎訳を参考としつつ、論者が訳し直

したものである。 71“The Presbyterian and Reformed Review” , 1902, Vol.13, no.52, p.531.

Page 20: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

内村鑑三の三位一体論

119

たらない。したがって、国民国家の例は夫婦関係の例をもとにして内村が自分で生み出した

ものだと考えられる。なぜ例を敷衍したかについては、内村が明記していないのではっきり

しないが、上述した日本という文脈のことを考慮すると、当時の日本人に分かりやすい具体

例を自分で考えたからだと考えられる。本テクストが発表されたのは一九〇四年二月、まさ

に日露戦争開戦の時期であり、内村自身は非戦論を唱えつつも、戦争を前に愛国心に湧く当

時の日本人に対しては夫婦の例よりも国民国家の例を使った方が分かりやすいだろうと考え

たからではないかと推測されるのである72。

2-4-2.Attractive から「罪の赦し」

先ほど、内村の「其四、実際的信仰としての三位一躰」に対応するものとして Edgar の

“Ⅳ.PRACTICAL ADVANTAGES OF THE REVEALED DOCTRINE OF THE

TRINITY.”を挙げたが、実は、タイトルは似通っているものの、内容には相違点が存在し

ている。Edgar がこの箇所で言及しているのは社会的三位一体の教義によって、以下のこ

とが導き出されるということである。

・神の内部で神の活動の対象が確保されるので、神は被造物に依存することなく、自由に活

動できる(DIVINE FREEDOM)73

・神の内部で各位格が愛によって自分以外の位格に自分をささげるので、神の存在のなかに

倫理的関係が確保される。この神内部の倫理的関係は経綸の方にも伝えられるので、宇宙

(Universe)にも倫理的性格が付与され、倫理の基礎となる。74

・神を世界から切り離して遠ざけるユニテリアンに対し、社会的三位一体の教義は神を人間

に近づけ、魅力的(attractive)なものにする。人間を神に惹きつけるので、福音の伝道の

成否は、ユニテリアンにではなく、三位一体論者にかかっている。75

以上の Edgar の主張と上述した内村の「其四、実際的信仰としての三位一躰」と比べると、

社会的三位一体の考えは大枠では一致しているものの、力点に相違点があるのが見てとれる。

最大の違いは、内村が社会的三位一体を人間の救済すなわち罪の赦しに必要不可欠なものと

考えていたのに対し、Edgar は「魅力的(attractive)」と述べるにとどまっていることで

72 内村が時局に配慮していたことは「三位一体の教義」と同じ『聖書之研究』の号に「国難に

際して読者諸君に告ぐ」というテクストが収録されたことからも十分に推定できる。このテクス

トでは内村は日露戦争開戦をうけ、戦争時にはどのようにふるまうべきかを『聖書之研究』の読

者に呼びかけている。内村は、単に非戦論を唱えるばかりではなく、事態の推移に対して細心の

注意を払いながら発言をしていた。全集一二巻、八九頁。 73“The Presbyterian and Reformed Review” , 1902, Vol.13, no.52, p.546.を参照。 74 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.547~9.を参照。 75 Ibid. 1902, Vol.13, no.52, p.550.を参照。

Page 21: Title 内村鑑三の三位一体論 アジア・キリスト教・多元性 … · Title 内村鑑三の三位一体論 Author(s) 渡部, 和隆 Citation

アジア・キリスト教・多元性

120

ある。既に見たように、内村にとって社会的三位一体の経綸的側面は、単に神が人間と関係

をもつというだけにはとどまらず、さらに進んで贖罪や救済にまで至るものであった。神が

愛であるということは、単に神が人間にとって「魅力的(attractive)」だということにと

どまらずに、さらに進んで神が人間の罪を赦して救済するということにまで至るものであっ

た。「三位一躰の教義は道徳的教義」であり、「罪の赦し、其贖ひ等は三位の神にあらざれ

ば我儕のために成就ぐることの出来ない」のである。この点、内村は Edgar よりも徹底的

に三位一体を贖罪や救済と結び付けたと言ってよい。内村は Edgar の論文をもととしつつ

も、Edgar とは違って「神は愛である」ということを徹底化し、社会的三位一体を贖罪や

救済と結びつける形で強調したのである。

3.結論

内村は三位一体に関しては社会的三位一体の考え方を展開した。それは「神は愛である」

ことの徹底であり、三位一体の教義を人間の救済にとって必要不可欠なものとして提示する

ものであった。その際、聖書の引用、ジョナサン・エドワーズの社会的三位一体論への言及、

人名の引用など、内村は Edgar の論文を参考にして論を組み立てていることが本論の分析

で提示された。したがって、内村はアメリカの神学、特に長老派の神学の伝統のなかで思索

を展開していることが明らかとなったのである。

しかし、他方、内村が付与したり削除したりした箇所の検討によって、内村が Edgar の

論文をそのまま日本に持ち込んだわけではないことも提示された。内村は日本人に伝道する

という自分の文脈を意識し、その文脈に合うように Edgar の議論を編集し、削除や付与を

施しているのである。

ここから浮かび上がってくるのは、アメリカのキリスト教と日本への伝道という二つの文

脈のなかで思索している内村鑑三の姿である。内村は前者の伝統のなかで思索しつつ、後者

の課題にこたえようとしていた。その際、内村が重視したのは、「神は愛である」というこ

とであり、三位一体論を贖罪や救済の上に根拠づけるまでに徹底することであった。内村は、

自らの信仰であるところの、神が愛であり人間の救い主であるということを、アメリカのキ

リスト教の伝統のなかで長老派の神学から素材を得つつ、日本人に合うように編集して発表

したのである。「此答弁の大躰は私自身の思考の結果になるもの」だが、「然し聖書の引照

や、例証の撰択等」については Edgar の論文に負うところが大きいという内村の但し書き

は、このような意味で解釈されなければならないだろう。

(わたなべ・かずたか 京都大学非常勤講師)