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1 知られざる横浜中華街の街づくり 法学部政治学科 4 S 30960137 萩原沙織 目次 はじめに 1. 横浜中華街を取り巻く歴史と現状 () 横浜開港の背景 () 横浜中華街誕生とその歩み () 日本で暮らす中国系移民について 2. 横浜中華街の素顔 () 街歩き 2012 9 12 () 街歩き 2012 12 23 3. 横浜中華街の特徴 () 街づくりとは () 目に見える街づくりの工夫 居心地の良い「ゴチャゴチャ感」 「中国らしさ」を感じさせる街の整備 () 街の「経営」方針の工夫 クラスター理論とルールづくり 周囲との連携 街づくりとは、「人づくり」 4. 横浜中華街の今後の課題と展望 おわりに 参考文献

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知られざる横浜中華街の街づくり

法学部政治学科 4 年 S 組

30960137 萩原沙織

目次

はじめに

1. 横浜中華街を取り巻く歴史と現状

(1) 横浜開港の背景

(2) 横浜中華街誕生とその歩み

(3) 日本で暮らす中国系移民について

2. 横浜中華街の素顔

(1) 街歩き 2012 年 9 月 12 日

(2) 街歩き 2012 年 12 月 23 日

3. 横浜中華街の特徴

(1) 街づくりとは

(2) 目に見える街づくりの工夫

① 居心地の良い「ゴチャゴチャ感」

② 「中国らしさ」を感じさせる街の整備

(3) 街の「経営」方針の工夫

① クラスター理論とルールづくり

② 周囲との連携

③ 街づくりとは、「人づくり」

4. 横浜中華街の今後の課題と展望

おわりに

参考文献

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はじめに

「中華料理っておいしいけど、中国人はなんだか怖いよね」。先日、横浜中華街を訪れた時の友人

のこの発言に妙な違和感を覚えた。そう言っている側から友人は、中国人の料理人が作ったと思われ

る肉まんを何食わぬ顔でほおばっていたからだ。だが、確かに、中華街で分からない言葉で必死に栗

を手に握らせてこようとする商人の姿に最初は戸惑うし、日本人の中国人に対する一般的なイメージ

も良くはない。内閣が実施した「外交に関する世論調査1」によると、中国に「親しみを感じない」

と答えた人は 71.4%もいた。この数字から日本人が中国を良く思っていない様子が顕著に示されて

いる。

そんな中国に対して抱かれるイメージを表す興味深い考えがある。「ドラゴン・スレイヤー」対「パ

ンダ・ハガー」である2。千葉明は、ドラゴン・スレイヤーは中国を敵対視する人であり、パンダ・

ハガーは中国をかわいいお隣さんとみなして抱きしめたがる人で、リベラル系に多いと言及している。

ところが、最近この考え方が変わってきており、いま日本に多く見られるのは「パンダ・スレイヤー」

であるそうだ。「パンダでも何でもとにかく恐ろしいから倒すべし3」と、中国を全面的に拒む姿勢で

ある。では何故、これほど中国は親しみを持たれないのだろう。日本人の中国への嫌悪感の理由の一

つとして、「『世界第二の経済大国』を脅かされることへの嫉妬4」が考えられている。急速に経済発

展している同じアジア圏の中国をライバル視し、もしかしたら、「中国には負けたくない。日本の方

がすごい」という感情をメディアの影響で少なからず持ってしまっている心当たりはないだろうか。

以上のことに加えて、中国で行なわれている反日デモ5、毒入り餃子事件6等の普段流れるニュース

やネット上の噂は、決して中国へのイメージを良くはしないだろう。にも関わらず、私の友達がそう

であったように、平気な顔で中華街を訪れる人が多くいることに矛盾を感じる。確かに日中の国家関

係は良いと断言できないが、国家間の軋轢の影響で、簡単に中国人のイメージを決めつけることを疑

問に思う。何の根拠もなく、ただの先入観で中国人全員を敬遠するのは無責任な態度だ。

だが、ここで視点を変えると、これほど中国は好意的に思われていないのに、来訪者が年々増えて

いる横浜中華街の存在は注目されるべきである。そもそも、横浜中華街は年間 2,100 万人の来客数を

誇り7、その数は東京ディズニーランドに匹敵する8ことをご存知だろうか。何より、横浜開港時から

1 内閣府発表資料「外交に関する世論調査」より。平成 23 年 9 月 29 日〜10 月 16 日の間に 3,000人に調査。

http://www8.cao.go.jp/survey/h23/h23-gaiko/2-1.html (2012 年 11 月 1 日取得)2 千葉明『日本人は誰も気付いてはいない在留中国人の実態』彩図社,2010 年,120 頁3 同上4 同上, 122 頁5 Yahoo! ニュース「中国の反日デモ」

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/anti_japan_demo_in_china/ (2012 年 11 月 5 日取得)6 Yahoo! ニュース「中国製ギョーザで中毒症状」

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/gyoza_with_methamidophos/ (2012 年 11 月 5 日取得)7 横浜中華街公式 HP「中華街の近代史」によると、年間来訪者数は 2,100 万人を超えたともいわれ、

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始まった横浜中華街が今も尚衰える事なく繁盛し、日本経済の一部を支えている姿からは、他の日本

の商店街では見受けられないような巧みなセルフ・ブランディングと街の一体感、そして中国人商人

の街づくりへの熱い思いが伺える。

そこで、本論文では、知られざる横浜中華街の歴史を暴くとともに、どうして横浜中華街がここま

で大きな観光地に発展し、エスニック・ビジネスの成功例として世に知られるようになったのかを探

る。加えて、新しい研究が少ないため、実際に足を運んで今の横浜中華街の実態を記録し、商人や住

人がどういう考えを持って街おこしをしているのか分析する。最終的に、これらの考察を通じて、「中

国人はなんだか怖い」となんとなく決めつけている中の一人でも多くの人が先入観を取り払い、中華

街の料理だけでなく、文化や人と向き合うことに関心を抱いて頂くことが目的である。

第1章では、横浜中華街の歴史について振り返り、第2章では実際に自分の目で見る横浜中華街の

姿について分析する。それらから導きだした横浜中華街の特徴、特にその魅力を解明するのが第3章

である。そして、最後に第4章で今後の横浜中華街への期待、中国人との関係への展望について考察

する。

尚、本論文で使う「横浜中華街」、「中華街」という言葉は、老華僑が創設し、現在では横浜華僑総

会等の団体や協会が「華僑の正当な利益を擁護し、愛国団結、中華文化の継承と弘揚を増進し、経済

文化のレベルを高め、中日友好を推し進める9」ために街おこしをしている場であり、そこに暮らし

ている人たちの考えがそのまま街に表れている場とイメージしている。

東アジア最大の中華街となった。

http://www.j.or.jp/fact/column/990 (2012 年 11 月 5 日取得)8 オリエンタルランド発表資料「入園者数データ」によると、2011 年度はディズニーランドとディ

ズニーシーの入園者は 2 パーク合算で 25,347,000 人だった。

http://www.olc.co.jp/tdr/guest/ (2012 年 11 月 1 日取得)9 横浜華僑総会公式 HP「横浜華僑の歴史と横浜華僑総会の紹介」より

http://www.yokohama-chinese.gr.jp/gyoumu.html (2012 年 12 月 16 日取得)

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1. 横浜中華街を取り巻く現状

(1)横浜開港の背景

まず、横浜中華街について詳しく見る前に、横浜開港の歴史を簡単に振り返る必要がある。まず、

横浜の歴史が大きく変わった日である 1854 年 3 月 8 日、ペリーが横浜にやって来た時の様子を南学

は次のように描写している。

沖にはペリー一行が乗ってきた軍艦が停泊し・・・、ボートに乗り移って、軍楽隊が演奏する中

を着岸しました。当時、横浜は横浜村という、わずか一〇〇戸ほどの小さな漁村だったのです。

前年の一八五三年に久里浜に上陸し・・・、「来年また来る」といって去り、再び来航したペリ

ーに対して、当時の幕府は江戸に乗り入れられたら困るということで、神奈川の宿場付近の横浜

を指定したといいます。江戸への上陸を避けるために妥協した場所が横浜だったのです10。

やがて、1858 年に日米修好通商条約が締結され、横浜はその翌年に開港した。そして、「『文明開

化の窓』11」として世界と日本を結ぶ大きな役目を担った。日本は「生糸の輸出で外貨を稼ぎ、近代

化と富国強兵の道を歩12」んだ。

貿易の場だったからか、横浜には今も尚どこか国際的なイメージが残っている。例えば、「横浜」

という場所の名前からもその雰囲気は感じられる。普段の表記は「横浜」だが、この他に「よこはま」

「ヨコハマ」「横濱」「YOKOHAMA」と、パソコンの予測変換で五通りも予測されるのだ。このよ

うな街が横浜以外にあるだろうか。さらに、そんな異色な雰囲気を醸し出す横浜は、まるでテーマパ

ークみたいな街だと菅原一孝は説いている。

ランドマークタワーからマリンタワー、山下公園、人形の家、中華街、元町商店街、外人墓地、

港の見える丘公園などに至るまでの地域は、歴史的な観光資源が多く、しかも『初めて』、『一番』、

『究極』のキーワードにも恵まれている。展望ゾーン、散策ゾーン、ファッションゾーンなど、

あたかもディズニーランドのようにゾーン別の地域の機能がワンセットでまとめられている13。

つまり、当時の都だった江戸の代わりにペリーを迎えたからこそ、小さな村だった横浜はわずか

150 年で見事な成長を遂げ、日本に新たな文明や文化をもたらす重要な場所になった。横浜があるか

らこそ、今の日本がある、と言い切っても過言ではないだろう。

10 南学『横浜 交流と発展のまちガイド』岩崎書店,2004 年,19 頁11 同上,39 頁12 同上13 菅原一孝『横浜中華街探検』講談社,1996 年,25 頁

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(2)横浜中華街誕生とその歩み

続いて、横浜開港からどうやって横浜中華街が生まれたのかを探っていく。伊藤泉美によれば、欧

米の商人が開国した日本を訪れることは中国人にとっても日本に来る大きなチャンスだった14。何故

なら、イギリスのジャーディン・マセソン商会やアメリカのオーガスティン・ハード商会は日本にや

ってくる際、彼らは直接日本に来るのではなく、先に開国していた上海、広州、香港に一度寄ってい

たからである。そこで欧米商人は中国の人たちを一緒に連れてきていたといわれている。

貿易の中心地となった横浜では、外国人居留地が開かれ、急速に発展を遂げていった。その際、欧

米人と共に日本に渡って来た中国人の役割は大きく二つあった。まず、貿易の仲介者、通訳としての

役割である。これを「買弁ばいべん

15」と呼び、日本人と欧米人の商取引の場で、通訳に限らず、物の大きさ

や貨幣の単位を換算するという、非常に重要な役回りを持っていた。二つ目は、新しい技術を日本に

紹介する役目である。中国は日本より開国が早かったため、中国人が持ち込んだ建築業、印刷業、楽

器製造における技術が今の日本の繁栄に大きく貢献した。また、注目すべきは、ほとんどの中国人が

料理人として渡ってきていないことだ。料理業を営む店舗が圧倒的に多い現状16からは想像できない。

もちろんそういう人もいたかもしれないが、「華僑がなぜ横浜で必要とされたのかを考える場合、一

つは貿易の仲介者としての買弁の存在、二番目にまだ日本になかった新しい技術を伝えたことによっ

て、存在価値が認められていった17」のだという点を忘れてはならない。

買弁と技術者がどんどん日本にやって来る中、一つ問題があった。日本は「欧米列国とは条約を締

結したが、清国とは条約を結んでいなかった18」のである。だが、それでもやって来続ける中国人へ

の対策として、幕府は「『籍牌せきはい

規則』というものを作成した。横浜に上陸する中国人はお金を支払い、

住所、氏名、年齢、職業を書いて、神奈川奉行所に登録しなければならない、という住民登録、臨時

戸籍のようなもの19」を制定したのだ。こうして徐々に今の中華街の原点となるようなコミュニティ

が出来上がっていったのだが、その中で、慣れない土地でも、お互いが懐かしい母国の味を食べられ

るようにと、居留地で料理の商売等を始めるようになったのが中華街の発端である。そして、料理店

の他に中華会館や劇場までも建設し、まさに職住一体の街を築いていった。ところが、出来上がった

街はそう順調にはいかず、三回ほど存続の危機に陥り、その都度人口は激しく変動している。まず、

最も古い中国人の人口の記録は 1872 年で、その数はおよそ 1,000 人だった。その後、5,000~6,000 14 伊藤泉美「横浜開港と中華街」,横浜商科大学編『横浜中華街の世界』横浜商科大学,2009 年,10-26頁15 同上,15 頁16 横浜中華街公式 HP によると、2010 年 6 月現在、総店舗数 620 店の内 309 店舗が飲食店である。

http://www.chinatown.or.jp/fact/column/993(2012 年 11 月 1 日取得)17 伊藤泉美,前掲論文,横浜商科大学編,前掲書,18 頁18 林兼正しい『なぜ、横浜中華街に人が集まるのか』祥伝社,2010 年,54 頁19 同上

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人規模にまで成長するが、震災後にがくんと下がる。さらに、日清戦争で多くの中国人が亡くなって

減ったときもあった。続けて 1911 年には辛亥革命によって中華民国が誕生し、帰国してしまう人が

増えた。やがて、横浜市内の中国人人口は 6,000 人余りとなり、この数字は戦後から 1986 年まで変

わらないが、新華僑がやって来るようになってから毎年 1,000 人ずつぐらい増えている。その結果、

今は 32,000 人程になっている。

日清戦争や第二次世界大戦は祖国と居住国の戦いを意味し、多くの中国人は疎開を栗化しながら、

自分の立場に悩ませられただろう。反中国感情が強く見受けられる時期があっても、それでも多くの

中国人は再び中華街に戻り、その都度街の復興を試みた。戦後は、日本の高度経済成長期の波に加え

て、中華街の商人の地道な地元との関係作りの努力が実って急速に発展し、現在の中華街に至る。

横浜中華街を訪れたことがある人なら共感できると思うが、今の中華街はどこからどこまでが範囲

なのか少し分かりにくい。普通に石川町や元町を歩いていると、いつの間にか中華料理店が並ぶ通り

に進んでしまっていることもある。横浜中華街発展会協同組合のパンフレットによれば、「商業的に、

1950、60 年代の中華街は善隣門がある大通りを指し、1971 年 12 月から 77 年までに東西南北の牌

楼門を建ててからは、その門に通じる各通りを意味し、生活空間とみれば四つの牌楼に囲まれた区域

20」だそうだ。そんな中華街の中でも圧倒的に店舗数が多いのは、やはり料理業だ。横浜中華街の特

徴は、総店舗数 620 店のうち約三分の一は中華料理店なのだが21、特筆すべきは、ほとんどの店が「父

の味、母の味が受け継がれている22」ことだ。これは中華街の本来の目的であった、「慣れない土地

で母国の味を楽しむため」にも共通すると考えられ、まさに中華街が「食の街」だというイメージを

人々に持たれる大きな役割を担った。

料理業のほかに、職住一体の街だからこそ、学校の存在も中華街にとって大きい。中華街には横浜

山手中華学校と横浜中華学院の二校があるが、横倉節夫はそれらを以下のように語る。

両校とも『民族教育』をさらに広く、『中華文化』の継承が教育目的とされており、中国語教育

を中心に日本語、英語などが加わっている。こうした教育によって中国人としてのアイデンティ

ティーが形成され、それは異国社会の中で生きるうえで心の支えになっている・・・。このアイ

デンティティーの形成は個人レベルだけでなく、親子あるいは異世代間、同世代間をつなぐ絆と

20 横浜中華街発展会協同組合『横浜中華街 華僑・華人の歴史と生活』2005 年より。

21横浜中華街公式 HP によると、2010 年 6 月現在、総店舗数 620 店の内、226 店舗が中国料理店で

ある。

http://www.chinatown.or.jp/fact/column/993(2012 年 11 月 1 日取得)22 神奈川大学人文学研究所編『在日中国人と日本社会のグローバル化 神奈川県横浜市を中心に』

御茶の水書房,2008 年,137 頁

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もなる23。

こうして自ら中国の文化を後世に引き継げられるようなコミュニティを形成したのだが、横浜港開

港時に日本にきた中国人の一世達が家族をつくってから、子孫に世代交代していき、現在では三世に

交代しつつある。渡戸と井沢によると、2004 年に実施された山手中華学校の調査では、中国籍の生

徒が 42%に対して日本籍の生徒が 55%と、今までの状態を逆転した24。日本人との結婚、帰化が原

因で、どんどん中国ではなく、日本を故郷と感じる人が増えている点も見逃してはならない。日本に

より親近感を持つ中国人は、やがて中華街というコミュニティから離れ、日本人が多く住む地域に引

っ越し、料理店ではなく事務、エンジニア、不動産等、幅広い職に就くようになっている。

「日本人だ」という意識を強く持つ人が増えると、中国人の中でジレンマが生まれる。それは、特

に中華学校のような、伝統文化、言語等を学ぶ空間で見られる。何故なら、たとえ中華学校で中国語

を習得できても、母国に戻った時に不自由なく喋られる場合はなかなかない。加えて、結局多くの人

は日本の文化に合わせて過ごす人が多い。具体的にいうと、横浜中華街発展会協同組合のパンフレッ

ト25に掲載されているアンケート調査では、インタビューされた 480 人のうち、「新暦の正月のみを

祝う」割合は 43%にものぼり、約半数は中国の旧正月を祝わないというデータが非常に興味深い。

さらに、同パンフレットの中華街に住む人の心配事についての項目に関しては、「若い世代の人たち

が中国語を話さなくなってきている」「華僑・華人同士の結びつきが希薄」「生活が日本風になってき

ている」という声が目立ったのだが、やはり居住者のアイデンティティーが変容し、中華街を離れて

暮らす人が増えつつある点が大きな原因だろう。

(3)日本で暮らす中国系移民について

次に、本論文が取り上げる横浜中華街の主役である中国人の実態に迫る。そもそも、外国籍の人が

日本に在留するためには、何が必要なのだろうか。入国管理局は、「日本国籍の離脱や出生その他の

事由により入管法に定める上陸の手続を経ることなく我が国に在留することなる外国人が、その事由

が生じた日から引き続き60日を超えて我が国に在留しようとする場合に必要とされる在留の許可26」

を取得しなければならないと提示している。そして法務省の入国管理局の資料27によれば、2012 年 7

月から新しい在留管理制度が始まった。それ以来、中長期間に渡って日本に在留することを許可され

23 同上,139 頁

24 井沢泰樹,渡戸一郎『他民族化社会・日本』明石書店,2010 年,114 頁

25 横浜中華街発展会協同組合,前掲パンフレットより26 法務省入国管理局 HP より

http://www.immi-moj.go.jp/tetuduki/zairyuu/syutoku.html(2012 年 12 月 20 日取得)27 法務省発表資料「日本人に在留する外国人の皆さんへ」より

http://www.immi-moj.go.jp/newimmiact_1/q-and-a_page2.html#q1-a (2012 年 12 月 16 日取得)

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た人は、在留カードが交付されるようになり、在留期間の上限が5年に変更となった。

以上を踏まえた上で、母国を離れた中国人については時期、暮らし方、目的によっていくつかの考

え方が存在する。まず、菅原一孝は著書で以下のように「華僑」、特に商人としての「華僑」という

言葉について言及している。

華僑とは、周知のように中華の<華>と僑まいの<僑>の合成語である・・・。また、住んでい

る国に帰化する中国人も増えているが、この場合は区別するために『華人』という言葉が使われ

る・・・。しかし、ここでいう華僑とは、帰化しているか帰化していないかの事実は重視しない

こととしたい。あくまで、帰化の有無に関係なく商業的な側面からみて、自らの商人としての固

有特性(アイデンティティー)を喪失していない中国人と定義することとする。日本人的な商業

秩序の中に染まってしまった中国人の商人は、たとえ日本人に帰化していなくても、ここでいう

華僑商人の範ちゅうには入らない28。

陳天璽も、確かに外国にでる中国人の種類は「華僑」と「華人」の二通りに分けられていたという。

特に華僑は「葉っぱにたとえれば、葉が落ちて、どこかに流れ着いても結局は自分の根っこがあると

ころに帰ることを意味する落葉帰根とたとえられた29」そうだ。また、「華人をたとえた落地生根と

は、葉が木から落ちて、その地に根を生やし成長していく30」と捉えられている。

ところが、周知の通り、グローバルになったといわれる今の世の中で、世界中を行き来する手段が

多様かつ手軽になり、世界をまたいだビジネスが増えている結果、外国に住んでいる中国人は実に

様々な理由で母国を出てきている。よって、上記の、今までされていたような単一的な分類では外国

にやってきている中国人が収まらなくなってきていることも認めなくてはいけない。陳は次のように

続けて分析する。

かつては一つの目的地を目指し、そこに半永久的に移住することが多かったのですが、最近の新

華僑を見ていると、目的地に一時的に滞在し、目的を達成すると故郷に帰ることもあります。横

浜中華街で働いている新華僑を見ていても、日本に十年ぐらいいる間貯めたお金を故郷に送金し、

故郷に家を買い退職したら老後は国に帰って暮らそうと考えている人もいます。子どもを生んだ

ら中国に送り返して教育を受けさせたり、またはオーストラリアやカナダなど第三国に留学させ

るなど、国の政策や国際情勢、景気などを見ながら、次はどこに行けばいいのかを考えて移動し

28 菅原一孝『横浜中華街の研究』日本経済新聞社,1988 年,45-46 頁

29 陳天璽「世界のチャイナタウンと拡大する華人ネットワーク」,横浜商科大学編,前掲書,68頁

30 同上

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ているように見えます31。

そこで、実際に日本に在留資格を取得している中国人はどういう人なのか詳しく見てみるとする。

図1によると、2011 年度に中国出身は 2,078,480 人中、674,871 人もいて、外国人の中では朝鮮・

韓国籍の 545,397 人を抜いて一番多い。

図1 国籍(出身地)別外国人登録者数の推移32

国 籍

( 出 身

地)

2004 年 2005 年 2006 年 2007 年 2008 年 2009 年 2010 年 2011 年

総数 1,973,747 2,011,555 2,084,919 2,152,973 2,217,426 2,186,121 2,134,151 2,078,480

中国 487,570 519,561 560,741 606,889 655,377 680,518 687,156 674,871

韓 国 ・

朝鮮

607,419 598,687 598,219 593,489 589,239 578,495 565,989 545,397

ブ ラ ジ

286,557 302,080 312,979 316,967 312,582 267,456 230,552 210,032

フィリピ

199,394 187,261 193,488 202,592 210,617 211,716 210,181 209,373

ペルー 55,750 57,728 58,721 59,696 59,723 57,464 54,636 52,842

米国 48,844 49,390 51,321 51,851 52,683 52,149 50,667 49,815

その他 288,213 296,848 309,450 321,489 337,205 338,323 334,970 336,150

また、図1からは、リーマンショック等の経済問題や東北の震災等の影響で登録者の数は減少して

いる年もあるが、2004 年と 2011 年の数字を比べると、7 年間で 187,000 人も結果的に増えているこ

とが分かる。次に、日本にくる目的に焦点をあてると、戦前の中国人は先述の通り、主に欧米の商人

の助手として共につれられて日本にやって来ていた。だが、近年は、日本を訪れる理由はますます多

様になっていることが法務省で毎年発表している外国人登録者の統計表33から明らかに見受けられ

る。

31 同上,75 頁32 法務省発表資料「外国人登録者数」より、2004 年〜2011 年のデータをもとに筆者作成。

http://www.moj.go.jp/content/000094842.pdf (2012 年 11 月 1 日取得)33 法務省公式 HP より

http://www.moj.go.jp/housei/toukei/toukei_ichiran_touroku.html (2012 年 12 月 20 日取得)

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図2 日本の在留目的別中国人の外国人登録者数の推移34

在留資格 2006 年 2008 年 2010 年 2011 年

総数 560,741 655,377 687,156 674,871

永住者 117,329 142,469 169,484 184,216

未取得者 3,219 2,171 1,929 654

日本人の配偶者 55,860 57,336 53,697 51,184

永住者の配偶者 4,301 6,170 7,415 8,078

定住者 33,305 33,600 32,048 30,498

特別永住者 3,086 2,892 2,668 2,597

教授 2,507 2,476 2,339 2,294

芸術 128 119 108 97

宗教 103 113 129 129

報道 12 12 12 21

投資・経営 1,553 2,096 3,300 3,974法律・会計業務 7 6 6 6

医療 64 114 187 246研究 951 904 894 790教育 109 99 101 103

技術 17,634 27,665 25,105 22,486人文知識・

国際業務

21,883 31,824 34,433 34,446

企業内転勤 4,147 6,557 6,238 5,518興行 2,153 907 671 389

技能 9,807 14,142 16,350 17,657文化活動 1,148 939 902 749

短期 9,026 7,235 6,036 5,179

うち観光 4,345 3,535 2,921 2,223 うち商用 412 301 189 168 34 同上より、2006 年度、2008 年度、2010 年度、2011 年度の資料から、筆者が作成。

2010 年度、2011 年度の「就学」は、もとの統計表にデータがなかったため、空欄。

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うち文化・

学術活動

79 40 33 33

うち親族訪問 2,697 2,560 2,311 2,209

その他 1,493 799 582 546留学 88,074 88,812 134,483 127,435就学 21,681 25,043

研修 52,901 65,716 5,602 1,275家族滞在 39,478 49,776 59,567 61,481

特定活動 68,531 84,478 44,328 5,374その他 1,744 1,706 800 402

図2からは、近年の在留中国人の動向が明らかになっている。特に注目したいのは、年々永住者が

増えていること、そして医療、技能目的で日本にやって来る人も増加していることである。開港時代

に訪れていた買弁や技術者に比べると、ライフスタイルや生き方が多岐に渡っていることが分かる。

加えて、田嶋淳子は、ニューカマー35の移住のパターンを以下の4つの年代に分けてまとめている。

先ほどの数字だけでのデータだけでなく、図3のように大きく分類してあると、より日本にいる中国

人に対してのイメージがつきやすいのではないだろうか。

図3 年代ごとにおける日本に在留する中国人の特徴36

年代 準備期

(1972〜78)

エスニック・ネット

ワーク形成期

(1979〜89)

エスニック・コミ

ュニティ形成期

(1990〜98)

エスニック・コミ

ュニティ拡大期

(1999〜)

在留資格等 中国帰国者(残留孤

児および残留婦人

とその家族)

留学生および就学

就職者、起業家、

日本人配属者

仲介業者、技術・

技能、IT 技術者、

研修生

出身地域 主に東北三省およ

び福建省

上海、北京、福建 上海、北京など大

都市から次第に東

東北三省、山東、

江蘇

35 本論文においては、第二次世界大戦以降に日本に移住した人を指すこととする

36 田嶋淳子『中国系移住者の移住プロセスとボランタリー・アソシエーション』法政大学特別研究

所, 2006 年,117 頁の表2を筆者が再度作成。

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/5171/1/55-4tajima.pdf (2013 年 1 月 28 日取得)

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北へ移行

居住地域 地方農村地域(永

野、山形、熊本など)

東京・大阪・名古

屋・福岡等大都市

大都市中心だが、

地方農村部にも広

がり

IT 関連は大都市

部、研修・実習は

大阪、愛知、岐阜

など工業地域

1999 年以降、技術・技能や IT 関連の理由で在留している人が多いと図3からわかるが、これを図

2の数値と照らし合わせてみると、納得がいく。技能、技術の資格を取得して日本に住んでいる中国

人は年々増加しているからである。このように、多種多様な事情で来日した中国人に対して、数多く

のボランティア団体や NPO 団体が日本語教室を開いたり、法律相談を受けたりと、日常生活で困っ

ている外国人の手助けを行なっている37。次章では、いよいよ横浜中華街の実際の姿に迫る。

37 その一つに、横浜市国際交流会によって運営されるなか国際交流ラウンジがある。外国につなが

る人々に、日常生活に関係する情報を提供し、日本人市民との交流、共生を目的に設置されたラウン

ジである。

http://nakalounge.main.jp/ (2012 年 11 月 5 日取得)

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2. 横浜中華街の素顔

文献から得た知識だけでなく、本論文がよりリアルで、身近なものとなるために、実際に自分の足

で横浜中華街を二度に渡って訪れてみた。横浜中華街の地図を参考に、写真とともに紹介したい。

図4 横浜中華街 マップ38

38 横浜中華街公式 HP より、地図抜粋

http://www.chinatown.or.jp/img/pdf/chinatown-guide.pdf (2012 年 12 月 31 日取得)

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(1)2012 年9月12日

一回目の訪問は 2012 年 9 月12日だった。平日の14時過ぎという、とても中途半端な時間帯に

出かけた。京浜東北線の石川町駅を降り、改札を左に出て、数分道なりに歩くと、右手に交差点があ

る。それまでは何一つ中華街らしさがなかったのに、交差点の先に、中華街の入り口である延平門が

突然姿を見せる。門をくぐり、学校の校庭に挟まれた不思議な雰囲気の道をまた数分歩き進めると、

ぽつりぽつりとエスニック雑貨店や土産屋が現れ、「どうぞー、いかがですかー。」と、少しアクセン

トがかかった日本語で呼び込みをする店員が数名いる。横浜銀行の ATM ブースが赤の門のような形

になっていたりと(写真1)、街の色の統一感は強い。だが、平日の昼間だからか、この時点では観

光客はまだ少なく、静かである。やっと「中華街にきた」という実感をもてたのは、横浜中華街のシ

ンボルである善隣門(写真2)の前にたどり着いた時である。中高年の団体観光客が善隣門の前で記

念撮影をし、土産袋を両手から下げているのを見て、ようやく中華街らしさが伝わってきた。善隣門

の先の大通りは日中だけ歩行者天国になっている。先ほどとは一変し、欧米からきたと思われるカッ

プルや何人かのグループ等で賑わっていた(写真3)ことに驚いた。手相占い(写真4)、タピオカ

ジュース店には行列までできており、真夏日の昼間とは思えないほど繁盛していた。だが、大通りか

ら一本それると、ほとんど人はおらず(写真5)、シャッターがおりている店も多かった。この訪問

で最も印象に残ったのは店の種類だ。中華街といえど、大通りには回転寿し屋(写真6)、韓流アイ

ドルのグッズが売られているショップ、水族館(写真7)、カラオケ、エスニック小物屋(写真8)

と、中国そのものには実際あまり関係ない店も少なくなかったことだ。ここは単なるチャイナタウン

なのではなく、日本社会の縮図でもあるという王維の分析39に納得ができた。

写真1

39 王維『素顔の中華街』洋泉社,2003 年,216 頁

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写真2

写真3

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写真4

写真5

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写真6

写真7

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写真8

(2)2012 年 12 月 23 日

二度目の訪問は、12 月の冷え込む日だった。外を歩き回るにはとても寒い日だったが、15 時頃に

行った時はクリスマス前だったためか驚く程賑わっていた。前回と同じルートで石川町から歩き進め

ると、前回は特に気にならなかったが、赤い街灯が目に留まった(写真9)。街灯の先にある延平門

には、中華街の地図とともに門の説明がなされていたり(写真10、11)、延平門をくぐって上を

見上げると、先ほどと同じような街灯には通りの名前が明記されていたりと(写真12、13)、観

光客に対しての配慮がなされている。また、一方で、中華料理の調味料や食材を売っているお店もあ

り、観光客だけでなく住人向けの店舗もちらほらとある(写真14、15、16)。

そのまままっすぐ歩き進み、目玉である善隣門にたどり着くと、前回以上の人混みに見舞われた(写

真17)。そして、左手には加賀町警察署の姿も見えてくるのだが、この警察署の存在は「安心、安

全」のイメージを少なからず観光客に自然と植え付けているであろう(写真18)。善隣門の先は歩

行者天国になっていると9月の訪問でも紹介したが、その看板もよく見ると中国語で書いてあり、工

夫がこらさている(写真19)。

歩行者天国のゾーンに足を踏み入れると地面はコンクリートから石畳に変わり、人の数はより一層

増えた(写真20)。混み合っている店も多い中、ちらほら閉店してしまっている店舗も少なくはな

かった(写真21)。そして、少し違和感を抱いたのが、街の装飾である。中国文化を活かした街で

あるはずなのに、クリスマスツリーや門松を飾っていたのだ(写真22、23)。クリスマスツリー

の前では写真も撮る人も多かった。

もう一点、気が付いたのが、ロゴマークである。これについては第3章でまた触れる予定だが、菜

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香という店は、入り口の左上の窓に横浜中華街発展会協同組合の会員証となる「We Are Chinatown」

のロゴマークをつけていた(写真24、25)。そして、そのロゴマークの下の方には、中華街憲章

も記されていた。他にもこれを飾っている店は無いか探してみたのだが、店舗の見える所に提示して

いたのは、今回はこの一軒しか見つけられなかった。以上二回という、短い訪問ではあったが、文献

では分からなかった横浜中華街そのものの雰囲気や、その時の中華街の一番最近の状態を自分の目で

見ることができ、非常に有意義であった。

写真9

写真10

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写真11

写真12

写真13

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写真14

写真15

写真16

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写真17

写真18

写真19

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写真20

写真21

写真22

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写真23

写真24

写真25

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3. 横浜中華街の特徴

横浜開港や中華街誕生の経緯を振り返り、実際に自分の目で中華街を見てみたところで、本章では、

他のチャイナタウンにはない横浜中華街の街づくりの特徴と魅力について熟考する。

(1)街づくりとは

第1章と第2章からは、横浜中華街には他の日本の商店街、また他の中華街とは異なる街としての

魅力があり、独特の雰囲気を醸し出しているという特徴が導き出せる。特に、もともとは同じバック

グラウンドを持った中国人同士が集まってできた中華街であるが、現在は、「文化、アイデンティテ

ィーのため」というよりも、「文化、アイデンティティーを利用して」中華街を演出し、経営してい

るような印象をうけた。だが、それらをより詳しくみていく前に、「街づくり」という言葉について、

定義を決める必要がある。ここでは、横浜中華街「街づくり」団体連合協議会の会長である林兼正の

議論を参照したい。林は、「町は誕生した瞬間から、衰退に向かって走っているものであって、けっ

して発展するものではない40」と論じている。

一見、繁栄を続けているように見える横浜中華街でも、この四年間に九十二店舗が閉店に追い込

まれていった。その原因はさまざまあるが、ひと言で言ってしまえば、顧客のニーズの変化や社

会の変化に対応できなかったことが、そうした結果をもたらしたと思える。

それでも・・・、横浜中華街の一店一店の経営者たちが、外部環境の著しい変化に左右されるこ

となく、内部改革を推し進め、日夜、店の経営に邁進することで町の衰退を必死で食い止めてい

るのである。

そして、そうした店主たちが集まり、発展協同組合をつくり、店の経営のノウハウを「町おこし」

「町づくり」に生かしている。それでも、町は衰退に向かって失踪しているのが現状である41。

したがって、本論文では「街づくり」という言葉を「放っておけば確実に潰れる町を『経営』する

こと42」と定義し、書き進めるとする。

また、もう一点特筆せねばならないことがある。「街づくり」を「経営すること」と捉えるのなら

ば、開港時にできた中国人コミュニティの時期から、すでにその精神は宿っていたといっても過言で

はないことだ。なぜなら、日本にやって来た中国人は皆出身地がバラバラで、中国人同士でも言葉が

通じない場合も少なくなかったからだ。言葉が通じるならば、故郷も一緒だ、という考えのもと、

40 林兼正,前掲書,16〜17 頁41 同上,17 頁42 同上,18 頁

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「郷幇きょうばん

」という「同郷人の助け合いの組織43」が生まれた。仕事や住む場所で困った中国人はこの

組織を通じて悩みを解決してもらえるようになったのである。この強い助け合いの精神は今現在でも

残っている。各店の経営者はいくつもの組織44に所属し、「そこで、情報を共有し、いま自分たちが

住んでいるこの町がどこへ向かっているのか、いまでも、住民自らがしっかりと把握している45」の

である。他の商店街ではみられない、この興味深いネットワークは、これから横浜中華街の考察をす

るうえで重要な前提知識となる。次節からはいよいよ詳細な分析にはいるが、中華街の街づくりの特

徴を、目に見える街自体の工夫(街の外観など)と、よりソフト面に寄った工夫(考え方や方針)に

分けて検証していきたい。

(2)目に見える街づくりの工夫

①居心地の良い「ゴチャゴチャ感」

「街づくり」というと、ディベロッパーが街のコンセプトを考え、そのテーマをもとに細部まで設

計された空間が創設されるイメージがある。ところが、横浜中華街はそういう綿密な計画をベースに

つくられた街ではない。前述のように、欧米人との商売の通訳や雑務を受け持つために日本にきた中

国人だったが、彼らが住む場所は十分に整っていなかった。横浜の歴史が詳しく掲載されている『横

浜タイムトリップ・ガイド』では、海岸と平行、あるいは直角になっている関内の道に対して、中華

街だけが傾いた台形の形になっていると紹介されている46。実は、中華街の土地はもともと横浜新田

という田んぼで、開港を機に外国人居留地の一部として埋め立てられ、中華街が生まれたのだった。

こうして最初から出来上がっていたまるで迷路のようにゴチャゴチャした通りの雰囲気を菅原一

孝は「路地もあれば横町もあり、地形的にはわかりにくい雑然とした街である。街の中には住居が多

く、下町的な生活くさい街の面も備わっているので、普段着のままでも来やすい大衆的な雰囲気が広

がっている47」と分析している。綺麗で整頓された都心の複合施設等と比較すると、横浜中華街はち

ょうど良い混沌とした雰囲気を兼ね備えていて、それがむしろ訪問者の冒険心をくすぐり、居心地が

良いのかもしれない。

補足だが、中華街が傾いているといわれているのは勘違いで、東西南北の方角に沿って形成されて

いるのは、実は中華街なのだそうだ48。中華街には東西南北の門があり、それらが東西南北の方角に

しっかり基づいているため、横浜新田の区割りが方角的に正しい事実が判明した。風水を大切にする

中国人だからこそ、多少入り組んだ街であっても、「東西南北の道が正しく流れているということは、

43 同上,56 頁44 現在、その数は 23 に及ぶ。45 同上,136 頁46 横浜タイムトリップ・ガイド制作委員会『横浜タイムトリップ・ガイド』講談社,2008 年,103 頁47 菅原一孝『横浜中華街探検』講談社,1996 年,12 頁48 伊藤泉美,前掲論文,横浜商科大学編,前掲書,20 頁

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気が流れやすい49」といわれているため、その場所に好んで住み着いたと考えられる。実際、東西南

北にある四つの牌楼は「色は青赤白黒、季節が春夏秋冬、時間は朝昼暮夜ということで、朝日が昇っ

て真昼になり西に落ちて夜になるまで牌楼が中華街を見守っている50」と信じられており、風水に守

られているからこそ中華街はここまで発展できたという説もある。

この「ゴチャゴチャ感」は、発展協同組合等が「経営」した結果として生まれた特徴ではないが、

このゴチャゴチャ感を維持し、敢えて綺麗な街に作り変えたりしていないという見方でみれば、一つ

の大きな工夫として受け止められる。実際に筆者が横浜中華街を訪れた際にも、この入り組んだ町並

みは冒険心をくすぐり、その雑踏の中に自分がうまく溶け込めている気がして、どこか心地よい感覚

につつまれた。

②「中国らしさ」を感じさせる街の整備

一点目は、自然発祥的な特徴だったが、次は、日本にいながらも来訪者が「中国っぽい雰囲気」を

心ゆくまで堪能できるために施されている工夫を見ていく。

第2章でも指摘されたが、中華街に足を踏み入れると、まず街灯が赤くなっているのがすぐ目につ

くだろう。それらの街灯には「福建路」や「西門通り」などの通りの名称が書かれている。それだけ

でなく、ふと上を見上げれば、ネオンできらびやかに光る、漢字で書かれた看板があちらこちらにあ

って、その下の隙間に、店の評判をアピールするために有名人のサインの色紙が敷き詰めて飾られて

いるのが、観光客をまるで異国にいるような気持ちにさせる。そして、事実、中華街のイメージづく

りのために沢山の労力とお金がかけられている。NHK の「首都圏ネットワーク」での放送によると、

「火事で焼けた関帝廟を、中華街のシンボルとして再建、十カ所の入り口には中国風の門を設け・・・、

さらに、中国から取り寄せた石を使い、歩道や街灯等も整備51」したそうだ。歩道の石なんて言われ

なければ中国から取り寄せたものだと気付く人はいないはずだが、細部にまで気を配って中国文化を

最大限あらわしているのである。

加えて、もう一つ中華街らしさを表現しているのは、横浜中華街のロゴマークである。張玉玲はこ

れについて次の通りに解説している。

横浜では、「横浜中華街」の名称流用に対する自衛策として、ロゴマークを製作し、1999 年 6

月 10 日に特許庁に 14 分野に渡りロゴマークの商標登録を出願し、登録を完了した。ロゴマー

クは円形で、赤字に青字で「YOKOHAMA」の文字と牌楼が描かれ、白字で「We Are Chinatown」

49 同上50 同上,21 頁51 NHK「首都圏ネットワーク」内『日中をつないだ 40 年。いま横浜中華街では・・・』2012 年 9月 28 日放送。

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と書かれている。包装紙や袋・紙などに印刷し、方引シールにも利用できる。ロゴマークの使用

に際しては、①使用できるのは横浜中華街に本店がある企業、②マークに必ず商号(屋号)を添

える、③マークの形・色・文字を変えない、④マークを第三者に譲渡、貸与しない、⑤使用申請

を発展会協同組合に提出して覚書を交わす、などの規約がある52。

ロゴマークは第2章でも紹介されているが、たしかにこのロゴマークを窓に貼ってある店舗にはブ

ランド力を感じ、他店舗に比べて特別な印象をうける。「横浜中華街ブランドは、経営者が発するメ

ッセージと消費者が抱くイメージが時代や流行の変化に伴って複雑に絡み合いながら構築されてき

た。そしてブランド名から連想されるイメージや憧れが付加価値となり、中華街および個々の商品に

プラスされている53」と、長友麻苗未も主張している。

(3)街の「経営」方針の工夫

①クラスター理論とルールづくり

第2節では目に見える街づくりについて論じたが、続いて経営者達の間で共有しているスピリット

に近しいものをいくつか取り上げたい。ある経済用語で、「知的産業クラスター理論」という言葉が

ある。林によると、「ブドウの房のように、地域間の知的ネットワーク、あるいは異種企業間の恊働

などを連携させることによって、より経済が活性化するという戦略54」であるそうだが、これがまさ

に横浜中華街に見事に当てはまっているのだ。林は次のように続けている。

横浜中華街をこのクラスター理論にあてはめてみると、ブドウの房全体を中国とし、ブドウの一

粒ずつが中国にかかわる商売をしている。

つまり、横浜中華街が他の商店街と比べてユニークなのは、他の商店街と同様に、料理店、雑貨

店、土産物店などという個々の店がありながら、全体で中国というコンテンツでまとまった町に

なっている。

・・・、ブドウの一粒が中国と無関係になれば、クラスター理論はこわれてしまう。そうならな

いためにも、各経営者やそこで働く人たちにはがんばってもらうしかないが、それは、彼らがブ

ドウの一粒でありながら、「いかに、横浜中華街を愛しているか」にかかっている55。

52 張玉玲「観光地「中華街」の形成と発展からみる 日本人と華僑が試みた「共生」」愛知淑徳大学

論集−コミュニケーション学部・コミュニケーション研究科篇−第 7 号,2007 年,7 頁53 長友麻苗未『横浜中華街の発展とブランドイメージ』東京学芸大学地理学会リポジトリ,2009 年,79頁54 林兼正,前掲書,88 頁55 同上,88〜89 頁

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このクラスター理論が中華街に当てはまっていることからも分かるように、中華街の店舗の経営者

は少なくとも「二十三団体のどこかに属してい56」て、全員であの横浜中華街という場所を守ってい

る。パンフレット『横浜中華街 華僑・華人の歴史と生活』には、「各店のデザインは各人が考える

『中国』を表現してもらい、公共的なものは、専門家を交えて皆で徹底的に議論57」して決定するこ

だわりと示されている。そしてなにより、経営者たちは「『横浜中華街をこういう町にしましょう』

という、ここに住む人たちとの心をつなぐ『共感』のようなもので、拘束力は何もない58」横浜中華

街憲章をつくった。七章からなるこの憲章には、中華街に住み、商売をする者としての心得が掲示さ

れていて59、いわゆる憲法のようなものである。さらに、自身の公式サイトで横浜中華街街づくり協

定を公開していて、その目的を、「中国文化の継承と個性的な街並みと景観を維持向上させ、さらに

安全で魅力ある街をつくり続けるため60」と定めている。

憲章や協定をつくり、共有し、公開している商店街など中華街のほかにないだろう。だが、経営者

同士が同じ志を共有し、別々のお店同士でも一緒に協力して街を経営していこう、という考えを持つ

のは、横浜開港時に中国人コミュニティができた頃から根付いていた郷幇があったからこそ自然と生

まれたものではないだろうか。そう考えると非常に珍しい街の経営の仕方である。

②周囲との連携

中華街内の店舗同士で協力し合っていることは理解できたが、はたして、中華街の周囲の地域との

連携はどうなのか、焦点を当てたい。

先ほど、横浜という場所自体がディズニーランドのようにいくつものゾーンごとに分かれていて、

テーマパークに例えられることを説明した。実はこの要素が横浜中華街を大きな観光スポットにまで

発展させたといっても過言ではない。他のチャイナタウンは普通の住宅街や商店街の中にぽつりとあ

るだけだ。だが、横浜にはマリンタワー、元町中華街、ランドマークタワー、コスモワールド、赤レ

ンガ倉庫等、観光客がわざわざ横浜に足を運ぶ理由が沢山ある。その観光名所をまわっている合間に、

横浜中華街は「食」ゾーンの担当として、本場の中華料理で観光客をおもてなしできるのだ。

観光客を魅了する「食」だが、中国料理は地方によって少し味付けや調理方法が変わっている。そ

れらは大きく四種類あり王維は、「北方系の北京料理、東方系の上海料理、西方系の四川料理、南方

56 同上,160 頁57 『横浜中華街 華僑・華人の歴史と生活』58 林兼正,前掲書,159 頁59 横浜中華街公式 HP 掲載文書「中華街憲章」

http://www.chinatown.or.jp/fact/column/1274 (2012 年 11 月 4 日取得)60 横浜中華街公式 HP 掲載文書「横浜中華街街づくり協定」より抜粋。

http://www.chinatown.or.jp/fact/column/1304 (2012 年 11 月 4 日取得)

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系の広東料理61」だと紹介している。興味深いのは、各地方の料理店が並んでいても、アメリカのチ

ャイナタウンならアメリカ人好みの味の濃さ、日本の中華街なら日本人好みの味付けに少しずつアレ

ンジされて、「中華料理はそれぞれの国の味に同化しながら、それぞれの国の中華として発展してい

く62」そうだ。そうして徐々に、中国にはない、新しい形の「本場」の味がつくられていく。最大級

の規模を誇る横浜中華街は、上記の四種類の他にも「台湾料理、湖南料理、山東料理、福建料理など、

各地域の料理がある・・・。バリエーションに富んだ中華料理こそが、横浜中華街にとっての『本場』

63」であり、唯一無二の特徴だといえる。

横浜中華街がこの立地を上手に生かし、街の経営を行なうためには、確実に周囲との恊働が重要に

なってくるだろう。林は、自身が横浜中華街発展会協同組合の理事長になってから、「ざっくばらん

にお互いの町について意見を交換し、協力できることは協力した64」と振り返っている。

「来年の正月に、◯◯フェアと題して大がかりなイベントをうちでは考えているんだ」

「え、そうなんだ。それじゃ、横浜中華街の春節とうまく連携したらどうだ」

「いいねえ、じゃあ、うちの町はこうしよう・・・・・・」

そんな雑談がきっかけとなり、いまでは山下町、元町、横浜中華街の三つの町が連携する大イベ

ントが行なわれるまでに至っている。

・・・。山下公園で遊び、大桟橋から氷川丸を見学し、横浜湾一周フェリーで遊んだあと、元町

でショッピング、そして夜は横浜中華街でお食事・・・、ここに、三つの町で共通するサービス

をつければ連携プレーは完璧だろう・・・。この山下町、元町、横浜中華街の三つの町の連携は、

まさに、ディズニーランドと同じコンセプトだということにお気づきだろうか65。

それだけでない。NHK の「首都圏ネットワーク」では、店と取引先との連携も紹介されていた。

中華料理といえど、店は「野菜は地元の農家と契約。日本人とのつながりを深めてきました。・・・、

食材もほとんどは日本国内から仕入れて66」いるそうだ。これに対し、取引先の従業員も「中華街と

取引を始めたのは、30〜40 年前になるんじゃないですか。みんなうまくやっているんですから。(変

わらずつきあう?)当然つきあいさせてもらいます67」と答えており、日本企業と中華街の料理店の

絆がみえる。また、横浜中華街を訪れる多くの観光客は日本人であることから、曽徳深は「中国人と

61 王維,前掲書,125 頁62 同上,108 頁63 同上,126 頁64 林兼正,前掲書,121 頁65 同上,122 頁66 NHK「首都圏ネットワーク」, 前掲番組67 同上

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日本人が両方でお店の仕事を一緒にやっている。この街がこれだけ繁栄したのは中国人が努力した結

果みたいに言うが、実際はこの街をここまで育てたのは、僕は日本人だと思う68」と述べている。王

維も、これは横浜中華街の興味深い特徴であると、以下で論じている。

日本の中華街を訪れる人たちの多くは日本人である。中華街といっても、日本人を対象にして町

のイメージがつくられている。そのため、春節祭も日本人の観光客をおもな対象としている。そ

の意味において、北米や東南アジアの中華街と大きな違いがある。したがって、日本の中華街は、

華僑社会の縮図でありながら、同時に日本社会の縮図でもあるといえるのではないだろうか・・・。

中華街における伝統文化の創造活動には日本人も主人公として携わっている。また、世界各地の

春節祭と比べても、たとえば長崎のランタンフェスティバルのような、大規模でしかも現地の地

域文化と融合して根づいたものは見られない。現地と一体化した中華街、それは世界でも珍しい

姿であり、そこに独自のおもしろさがある69。

これらから、横浜中華街は中国人経営者が、街の衰退を避けるために必死に自分達で工夫しながら

「経営」して存続させていると見えるが、その背景には、隣接する街や日本企業の取引先との連携、

そして、絶えず足を運んでくれる日本人観光客の存在があってこそだといえるだろう。

③街づくりとは、「人づくり」

街づくりする上でもう一つ重要視されていることは「人づくり」の考えだ。中華街では、伝統文化

の継承を大切にしている。その思いは、「積極的に学生や青年の文化活動に発表の場を提供し、春節

と関帝誕で演じられる獅子舞、龍舞、中国舞踊、歌、民族楽器演奏70」していることから読み取るこ

とができる。常日頃から海外に調査しに行き、有名シェフを招いて料理のレベルの向上も目指してい

る。この姿勢が貫かれているからこそ、日本にやって来た中国人一世が「裸一貫で始めた店を家族労

働で基礎を固め・・・、その店を胃袋が国際化した日本人のお客さんが育てる71」サイクルが形成さ

れる。日本の中華街、特に横浜中華街が特別な理由は、「来場者の 95%が中国人でないということ・・・。

他はちょうどその逆72」であることだ。

そして、このお祭りを続けるのは、「人づくり」のためだけではないのだ。「たった一回でも祭りを

中止することで、多くの人々の「信頼」を失うことにつながる・・・。信頼のもとは約束事。横浜中

華街は、約束を守る町であり続けたい。なぜなら、約束を守れない町が楽しい町になるわけがないの

68 同上69 王維,前掲書,216 頁70 横浜中華街発展会協同組合,前掲パンフレット71 同上72 同上

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だから73」と、林兼正は述べている。このことから、常に来訪者のことを考えて経営している様子が

見て取れる。

加えて、「海外のチャイナタウンと比べて、横浜中華街のみが誇れる大きな特徴が一つある。それ

は他でもない、この犯罪がないということ74」だと菅原は断言している。その大きな理由として、「中

華街にはじめて住みはじめた中国人は、広東省出身の親戚や親しい友人からなる小さい濃密なコミュ

ニティをつくりあげてきた75」からだ。知らない土地で慣れない暮らしをしながら、いきなり新しい

商売を始めるうえで、「犯罪を引き起こすと華僑全体のビジネス活動に支障をきたすことになるので、

自主的に最初から犯罪が起きにくいシステムのコミュニティをつくりあげていった76」そうだ。

これまで、大きく五つの観点から横浜中華街の街づくり、「経営」、の工夫を取り上げた。ただ訪れ

るだけでは分からないような、経営者達の熱い思いが発見できたのではないだろうか。単なる中華料

理を食べる街として行くのも楽しいかもしれないが、その裏に隠れている歴史、努力を知ってから訪

れれば、同じ料理もさらに美味しく感じられるかもしれない。

73 林兼正,前掲書,112〜113 頁74 菅原一孝『横浜中華街探検』講談社,1996 年,36 頁75 同上,37 頁76 同上

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4. 横浜中華街の今後の課題と可能性

本章まで、横浜中華街の歴史や自分の目で見た姿、その街づくりの検証を行なってきたが、これか

らは、横浜中華街の将来についての考察に入りたい。

まず、今後の課題の一つとして、住人のアイデンティティーの変容が挙げられる。第1章で述べた

が、一世から世代交代が進み、日本で生まれて日本で暮らして来た中国人が増えている。中華街が中

国らしさを保てているのは、経営者達が母国の文化を理解し、それを有効に利用して街づくりに生か

しているからだ。だが、日本で生まれる人が増え、中華街から出て都会に移っていく人が増えている

中、その中国らしさを維持できるかが大きな課題となっているだろう。

また、クラスター理論を紹介したが、それが崩壊するのではないか、という危機も見逃せない。街

歩きで中華街を散策していた際に、赤で統一された町並みの中に、一際目立っていたのが、真っ青の

外観の、水族館と韓流アイドルの店であった。クラスター理論によれば、ブドウの房の一粒でも中国

らしさを失ってしまえば、街としての統一感が損なわれ、中華街ならではの独特な雰囲気が崩れてし

まう。回転寿司店や和風雑貨の店等、中国に関係ない店が増えているのは、今後注意しなくてはなら

ない事態なのではないだろうか。

上記の問題等が進行する前に、変化が激しい今の世の中において、「『流れ』を把握して、次の時代

を予測することが必要で・・・、その時にヒントにしてほしいのは、『企業経営の五年後を支えるの

は、新たな商品であり、十年後を支えるのは人材である』77」ことをわきまえ、経営者を育てるのが

もう一つの課題である。横浜中華街のような個性的で長い歴史をもつ街はその分、街づくりも慎重に

行なわなくてはならないので、なおさらだ。「いま、他の町や企業との連携ができるのは、若い時代

に青年会議所やロータリー・クラブなどで知り合った赤間が、他の町のリーダーになっていたからで

ある。そして、言われたことをするだけでなく、『これでいいのか?』、『これがベストなのか?』と

自分で考える力を持った若い人たちを育てることも必要なのだ78」と横浜中華街「街づくり」団体連

合協議会の現会長である林兼正は求めている。都会等に移動し、「中華街離れ」していく人が多い中、

後継者を育てるのは重要なミッションである。

とはいえ、課題だけでなく、横浜中華街はまだまだ可能性も秘めている。冒頭で示した、中国に対

してやまない一方的な嫌悪感への克服の方法の一つに、横浜中華街があると筆者は信じている。日本

に暮らす中国ルーツの人々との向き合い方は答えのない問題なのかもしれない。だが、少なくとも中

華料理、そして横浜中華街は日中を繋ぐ大きな存在であることは間違いない。

77 林兼正, 前掲書, 200 頁78 同上, 201 頁

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おわりに

本論文では、横浜開港の歴史や横浜中華街のあゆみ、今日の中華街の姿から垣間見える横浜中華街

の街づくりの特徴について探求してきた。そもそも、筆者が横浜中華街に注目するようになったのは、

冒頭でも触れたが、日中関係の悪化のニュースを頻繁に耳にする中、たまたま訪れた横浜中華街が日

本人の観光客で賑わっている光景に驚いたからだ。中華料理には興味あるように思える人が多いにも

関わらず、栗を持って話しかけてくる売り人を「中国人は怖い」と敬遠する私の友人にもびっくりし

た。ところが、実際に知った横浜中華街の歴史、経営者の思いと努力は想像以上のものであり、ただ

単に「中国人はなんとなく怖い」と決めつけてしまっている人々がいることを非常に残念に感じたの

である。戦争や地震があっても、それでも日本から離れず、毎回中華街に戻って来て復興を繰り替え

ず経営者や料理人の姿は、逆に見習うべき姿勢である。

また、横浜中華街のロゴマークに記されている「We Are Chinatown」には、中国人の経営者たち

が人と人の関わりを大事にしている様子が伝わってくる。

「THIS IS CHINATOWN」ではなく、「WE ARE CHINATOWN」。

日本語に訳せば、「私たちは中華街です」。

つまり、中華街という町は、建物ではなく、ここで暮らしている「私たち」なのだ、ということ

を強調している79。

そんな周囲の人々との絆を大切にする彼らが先述の通り、「日本の取引先や日本人観光客がいたか

ら横浜中華街は今日までやってこられた」と考えていたように、私達もその繋がりをもっと実感し、

この関係を大事にするべきなのではないだろうか。

そして、2012 年は日中国交正常化40周年の年80であった。中華街で料理店を経営する陳祖明は、

日中の軋轢について次の言葉を紹介している。「“平和”に解決すると財は生まれるという言葉があり

ます。中国語では“和気生財”。お互いに冷静に対応して解決する イコール よいものが生まれま

す81」。また、一方で、曽徳深も、「現状を打開するためには、当時の精神に立ち返ることが必要だ82」

と語っている。特に陳祖明が中国語で「和気生財」というフレーズを使用していたが、やはり漢字は

日本人と中国人の大きな共通点である。日本人が世界中の国の中でも筆談でコミュニケーションをと

ることが可能なのは中国人だけだ。横浜港開港時に日本人と欧米人の仲介役として雇われた中国人の

役割を思い出すと、漢字は中国人と日本人を引き寄せる非常に重要なツールだと考えられる。この国

79 同上, 160 頁80 NHK「首都圏ネットワーク」, 前掲番組81 同上82 同上

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交正常化40周年という節目となる年を境に、メディアの影響で中国を「なんとなく嫌」と思ってい

る人が一人でもその偏見に気付き、横浜中華街を接点に中国人と向き合い、対話したいと感じて頂け

たら、幸いである。

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参考文献

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神奈川大学人文学研究所『在日外国人と日本社会のグローバル化 神奈川県横浜市を中心に』御茶

の水書房,2008 年

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菅原一孝『横浜中華街探検』講談社,1996 年

関満博,遠山浩『「食」の地域ブランド戦略』新評論,2007 年

千葉明『日本人は誰も気付いていない在留中国人の実態』彩図社,2010 年

張玉玲「観光地「中華街」の形成と発展からみる 日本人と華僑が試みた「共生」」愛知淑徳大学

論集−コミュニケーション学部・コミュニケーション研究科篇−第 7 号,2007 年

曽徳深,王子英,伊藤泉美,坂本淳,浦川久代,木村博之『横浜中華街〜華僑・華人の歴史と生活〜』横

浜中華街発展会協同組合,2005 年

永野武『歴史とアイデンティティ 在日中国人』明石書店,1994 年

長友麻苗未『横浜中華街の発展とブランドイメージ』東京学芸大学地理学会リポジトリ,2009年

林兼正しい『なぜ、横浜中華街に人が集まるのか』祥伝社,2010 年

原尻英樹『日本のなかの世界 つくられるイメージと対話する個性』新幹社,2003 年

三谷香子『エスニック・バウンダリーの「創出」』日本僑報社,2008 年

南学『横浜 交流と発展のまちガイド』岩崎書店,2004 年

横浜商科大学編『横浜中華街の世界』横浜商科大学,2009 年

横浜タイムトリップ・ガイド制作委員会『横浜タイムトリップ・ガイド』講談社,2008 年

吉田忠則『見えざる隣人 中国人と日本社会』日本経済新聞出版社,2009 年

参考テレビ番組

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月 28 日放送

参考 URL

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(2012 年 11 月 1 日取得)

法務省発表資料「外国人登録者数」http://www.moj.go.jp/content/000094842.pdf(2012 年 11 月 1

日取得)

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(2012 年 11 月 1 日取得)

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オリエンタルランド発表資料「入園者数データ」http://www.olc.co.jp/tdr/guest/ (2012 年 11 月 1

日取得)

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横浜中華街公式 HP 掲載文書「中華街憲章」

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Yahoo! ニュース「中国の反日デモ」

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Yahoo! ニュース「中国製ギョーザで中毒症状」

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http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/5171/1/55-4tajima.pdf (2013 年 1 月 28 日取得)