在日コリアンの歩み - 桜美林大学1904...

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在日コリアンの歩み 20327081

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在 日 コ リ ア ン の 歩 み ~ 戦 後 か ら 今 日 ま で の 在 日 観 ~

学 籍 番 号 20327081 金 本 佳 織

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目 次 はじめに p.3

第 1 章 在日とは ~歴史を通しての在日イデオロギー~ p.4

第 1 節 在日の歴史を知る p.4-7 第 2 節 「強制連行論」の論争 p.7-9 第 2 章 在日コリアンの人権、法的、社会的地位 p.10 第 1 節 在日コリアンの国際的人権状況 p.10-11 第 2 節 永住権をめぐって p.11-12 第 3 節 地方参政権問題 p.12-13 第 4 節 社会的差別の撤廃に向けて p.14-15 第 3 章 地域研究 ~戦後最大の在日コリアンタウン~ p.16 第 1 節 枝川・塩崎町の形成 p.16 ~18 第 2 節 コリアンタウンの結婚事情 p.19 ~20 第 3 節 コリアンタウンが抱える問題 p.20 ~24 終章 p.25-27 参考文献 p.28

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はじめに 日本における在日コリアンの推定人口は、2004年の時点でおよそ 60 万人と言われてい

る ( 在日本大韓民国民団中央本部調べ ) 。日本に在住する外国人のうち最も多い民族グル

ープである。一般的に日本国内で、彼らは「在日」とひとまとめに認識されているが、正

式には韓国国籍を持っている在日韓国人と、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に帰属す

る在日朝鮮人に分けられる。前者の多くは「在日本大韓民国居留民団 ( 民団 ) 」に所属

し、後者の多くは「在日本朝鮮人総連合会 ( 総連 ) 」に属している。「民団」に属するい

わゆる韓国系と「総連」に属する朝鮮系である。 筆者自身も韓国人の父を持ち、そのため幼少時から少なからず韓国文化に触れてきた。

しかしながら、日本で生まれ育ち韓国語はまったくと言っていいほど話すことが出来な

い。筆者は韓国のことについてあまりに無知であった。それを実感したのが、韓国にある

祖父母の故郷を訪れたときである。韓国にいる親族とコミュニケーションが取れないとい

う事態に筆者は困惑し、自分のアイデンティティに初めて葛藤を覚えた。 在日 1 世の祖父母は、韓国文化を大切にし自在に韓国語を話す。韓国人としての自分を

見出しているのに対し、筆者たちの世代はどうだろうか。 1 つ言えることは、 1 世と私た

ち 3 世、 4 世の持つ在日観は確実に変化しているということである。筆者の住む在日コリ

アン居住地区においても、その傾向は明らかに見て取れる。 3 世、 4 世の若い世代は、筆

者と同じようにほとんど韓国語が話せず、韓国文化に対してもあまり興味関心がないよう

に思える。民団系の人々が多いせいか、総連系と違い、民族教育を受けてこなかったこと

も原因の 1 つに挙げられるだろうが、たった半世紀の間に在日の在日観はどのように変化

してきたのであろうか。国籍だけが違うというだけで、彼らは日本人と何ひとつ変わらな

い。戦後半世紀以上が経過した現在、時代の流れと共に「在日」も変化しつつあることが

身近に感じられるのである。 近年の日本における韓国ブームによって韓国への関心が高まる中で、在日コリアンの存

在は少しずつ稀薄になっていっているように感じている。60万人という在日コリアンは、

今後どのような道を辿るのであろうか。時代を経るにつれて多様化する在日の生き方と共

に変化する在日観を、筆者自身改めて考えていきたいと思っている。当事者である筆者た

ち自身が在日の今を、未来を考えていくことが、重要なのではないだろうか。 第 1 章では、在日コリアンとはどのような存在であるのかを再考する。第 2 章では、在

日コリアンの人権、法的地位について論じていく。前章を踏まえながら、第 3 章では筆者

の住むコリアンタウンの現状を明らかにし、これからの在日の行く末を考察していきた

い。

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第 1 章 在日コリアンとは~歴史を通しての在日イデオロギー~ まず、在日コリアンとは何なのか。一般に在日コリアンとは、「第二次大戦前、日本の

朝鮮支配の結果、日本に渡航したり、戦時中に労働力として強制連行され、戦後の南北朝

鮮の分断、持ち帰り資産の制限などにより日本に残留せざるをえなくなったりした朝鮮人

とその子孫 ( 広辞苑第 5 版 ) 」と言われている。本章では、日本社会で「在日コリアン」

と呼ばれている彼らは、いつ、どのような経緯で出現したのかを明らかにする。戦後半世

紀以上経過した現在までに、在日コリアンがどのように自らを語り、また語られてきたか

の歴史を振り返り考察していく。これを理解した上で、続く第 2 章以下を展開していくつ

もりである。 第 1 節 在日の歴史を知る

在日社会で「今後、日本社会をどう生きるか」という問いを発すれば、さまざまな意見

が出される。 100 人の人に聞けば 100 通りの答えがあるだろう。人びとは、これを「価値

観」の多様化現象だという。しかし、それは「価値観」の多様化ではなく、単に在日が歩

んできた歴史をほとんど知らないことから、自分の体験だけを基に勝手なことを述べてい

る結果ではないかという疑問がある [ 金 1997:12] 。 現在、在日コリアンの多数を占める 2 ~ 3 世は、祖父母や父母たちから生活体験として

語られる在日の歴史上の出来事の片々を基に、また自分の個人的体験などから彼ら自身の

「在日観」を語る場合が多い。それはそれとして貴重であるが、それでは語る側の歴史的

共通認識を欠いたままの「在日観」になる。そんな「在日観」を「価値観」の多様化と評

価できるのであろうか。日本社会が在日コリアンの歴史・生活について無知であること、

自らの「歴史」を在日の人々に普及する在日側の努力不足の結果として、このような「価

値観の多様性」が生じているのかもしれない [ 金 1997:13] 。 時代を経てさまざまに変化する「在日コリアン」の概念を改めて、歴史を通し考えてい

く必要がある。 韓国併合以前の在日コリアン

1910 年の韓国併合を機に、それ以後日本に渡る朝鮮人が爆発的に増加した。だが、併

合以前からも朝鮮人の渡日の動きはあった。 1875( 明治8)年、江華島事件で李氏朝鮮は明治政府に屈し、翌年、江華島条約が結ばれ

た。同年 8 月には、朝日貿易規則が締結され、それまで禁じられていた朝鮮と日本との人

の往来、貿易が可能となった。それに伴って、朝鮮内での日本人居留地の設置や居留地内

の治外法権等のほかに日本商品の無関税協定、日本貨幣の通用容認権などの略奪的な通商

権益を日本は強要した。このような背景から、一攫千金を夢見た日本人が多く朝鮮に押し

かけた。反対に朝鮮から日本に渡ってくる人々はきわめて少数であった [ 金 1997:16] 。 1899( 明治 32) 年の勅令第 352 号 1 によって、日本への朝鮮人労働者の入国は禁止

されていたが、併合後、日本国民となった朝鮮人にはこの勅令が適用されなくなり、労働

力として流れてくるようなったと通説的には言われている。だがこの勅令第 352 号は、当

1 『条約若しくは慣行により移住の自由有せざる外国人の移住及び営業などに関する件』

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時日本に在留する外国人の多くを占めていた中国の労働移民を規制するものである [ 小松

他 1994:16] 。

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1909 年時点の公式統計では、日本にいた朝鮮人はわずか 790 人と記録されているが、

当時兵庫県の山陰線工事などで多数の朝鮮人が働き、また神戸市中では「朝鮮飴」売りの

人がいた記録があるなど、統計に現れない朝鮮人が多くいたことがわかっている [ 仲尾 2003:9-10] 。

韓国併合後 1904 年の日露戦争に勝利した日本は、朝鮮を日本の勢力下に置くことをロシアに認め

させた。朝鮮支配を企図した日本は韓国の内政権・外交権を掌握し、 1910 年 8 月、韓国

併合条約が調印された。朝鮮総督府が全ての権限を握り、日本政府の意を体した政策をお

し進めた。各地で多くの朝鮮人義兵が立ち上がり、併合反対の運動が起きたものの、総督

府は討伐作戦を展開し鎮圧した [ 三橋 2002:82-83] 。 その後、総督府は 1912 年、土地調査事業 2 を実施した。半封建的農業国家であっ

た当時の朝鮮では、近代的な意味での土地の所有権は確立していなかった。地主ではない

が長い習慣的な土地の占有によって農耕している農民や、「洞中」と呼ばれる村の共有地

の耕作権を保有している農民も多く、これらは国家が課税対象を特定しにくい制度であっ

た。農民から税を徴収するために、厳密に土地の私有権を確定し、その所有者に地税賦課

を行うための事業であった [ 金 1997:27-28] 。この事業によって土地を失って、自作農民

が小作農となり、高率の小作料を払えないために農村を離れざるを得なくなった農民が多

数発生した。当時、朝鮮の全人口のうち約 80 パーセントが農民だったため、農村を離れ

た人々は都会へ出て都市周辺で雑業に従事するしかなかったのである [ 仲尾 2003:1 ] 。

また、 1920 年代には産米増殖運動が計画された。これは、朝鮮の農地を日本向けの食

糧基地にしようという運動で、朝鮮で収穫された米は全て日本へと運ばれた。土地調査事

業計画、産米増殖運動によってますます農民は生活苦に陥り貧窮化した。その結果、多く

の朝鮮人たちが、流民化し国外に流出した。この時、中国に流民として流れたのが今日の

中国朝鮮族である。また、朝鮮南部の零落農民は、資本主義の発展期を迎えていた日本の

産業界に安価な労働力として移入してきたのだった。この時、日本に渡った出稼ぎ朝鮮人

労働者は約 3 万人だと言われている [ 金 1997:29] 。併合時、約 3 千人いた朝鮮人は 10年で 10 倍の数になったのである。

日中戦争、第二次世界大戦下

1929 年に始まった世界大恐慌に巻き込まれた日本は、大陸侵略にその抜け道を見出し

ていった。 1931 年の満州事変を皮切りに、日中戦争へと発展した。 日中戦争の勃発は、大量の民間人を軍隊に駆り立てた。それは、民間企業の若年労働力

の不足となって現れ、戦時経済体制下の日本経済に深刻な影響をもたらした。日本政府は

2 朝鮮全土の所有権を証拠書類によって確認し、証拠となる書類を提出出来なかった土地

や共用地、入会地などは取り上げられ、日本人地主や植民地経営会社である東洋拓殖会社

の所有となった。

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その対策として、国家総動員法を制定する。当時すでに日本に居住していた朝鮮人もその

対象となっており、動員人数に組み込まれた。この時点で内地にいた朝鮮人数は約 30 万

人であったとされる。労働力不足が特に目立った炭坑は、商工省に朝鮮人労働者の雇用促

進を強く要請していたが、内務省はその要請に対し、朝鮮本国の朝鮮人ではなく在日朝鮮

人に限定して積極的に雇用を推進していた。しかし、在日の人々だけでは労働力不足は補

え切れず、炭坑は労働者を朝鮮から募集できるように要請を強めた [ 金 1997:114-115] 。 1938 年、日本政府は国家総動員法に基づき、労務動員計画 3 を制定したが、その

裏で朝鮮から日本国内で不足する労働力を連行することが計画されていた。翌年 1939年、第二次世界大戦勃発と共に、石炭、土木、金属鉱山などの各企業は、朝鮮での労働者

募集を本格的に開始した。当初は応募者が殺到したが、日本での劣悪な労働環境、苛酷な

労働条件が広く知れ渡り、半年後には「募集」に応ずる人々はいなくなっていた。朝鮮人

労働者を「募集」で集めていたのでは必要人数を確保することが困難になったため、日本

側は行政的強制力を伴う方法の採用を立案する。 1941 年、太平洋戦争が勃発した翌年の

1942 年 2 月、「半島人労務者活用に関する方策」を閣議決定し、行政、警察力の行使を

伴う朝鮮人労働者移入方式を決定した。この決定を受けて、朝鮮総督府は「鮮人内地移入

斡旋要綱」を制定した。これがいわゆる「官斡旋」である [ 金 1997:117] 。

しかしながら、太平洋戦争の戦線が拡大すると、日本国内の労働力不足はさらに逼迫し

行政の強制を伴う「官斡旋」方式でも不足する労働力を確保できなかったのである。こう

して「官斡旋」は、労働力確保のための「強制連行」に姿を変えた [ 佐藤 1993:46] 。た

だひたすら、割当人数を満たすために「人狩り」を行ったのである [ 旗田 1986:202] 。以

上に述べた一連の労務動員運動により連行された人々は 100 万人以上、また、軍属として

徴用された人は 12 万人、女子挺身隊として従軍慰安婦にされた女性は 10 数万人にのぼ

るといわれている [ 佐藤 1993:48] 。 1944 年、戦局が悪化すると、朝鮮人を労働力とだけみなしていることが出来なくなっ

て、ついに朝鮮にも徴兵制度が施行された。 22 万人もの朝鮮人が日本軍の軍人として戦

争に駆り出されたのだった [ 旗田 1986:202] 。一方で、朝鮮民族の民族的自主意識の拠り

所のひとつである民族氏名を消滅させることで、皇民化の徹底を図る創氏改名が施行され

た。その他、日本の神道の神社を作って「聖地参拝」の強化、結婚式における朝鮮式挙式

の禁止と神前結婚の強要など、同化政策が推し進められたのである [ 金 1997:121] 。 実に、 1940 年代の 5 年間に 100 万人近い朝鮮人たちが強制的に移動させられた結果、 1945 年の日本の敗戦時点では、総勢 230 万人もの朝鮮人が日本にいたとされる。

戦後帰国事業 終戦前、日本は連合軍に無条件降伏の受諾を通告した。その日を境に日本全土にいた朝

鮮人の境遇は激変していった。朝鮮人強制連行者にとって、日本の敗戦は奴隷状態からの

解放であった。そして、それは即時帰国事業の要求となっていった。日本側としては、強

3 1934 年閣議決定「朝鮮人移住対策の件」によって、朝鮮人労働者移入阻止政策を一変

させ、積極的移入促進に転換した。計画に基づき朝鮮から 8 万 5 千人の労働者を募集する

許可を各企業に与えた。

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制連行や強制労働問題が連合国側から追及され、「戦犯」になることを恐れたこと、抑圧

の反動で朝鮮人暴動が発生する危惧を抱いていたため、帰国事業を急がせた。しかしなが

ら、 200 万人を越す朝鮮人の帰国は、混乱を極める。日本を占領した連合国は、旧日本帝

国が残した複雑な本土在住の朝鮮人の問題の解決を引き継ぐことになったものの、その問

題に対処する政策と呼べるものを準備していなかった。 GHQ は日本政府に在日コリアン

の計画的帰還輸送を指示し、米軍輸送船による帰国事業の推進を発表した。この計画を伝

え聞いた朝鮮人は、下関や博多などの港湾都市に殺到したのだった。日本の敗戦から 7 ヶ

月足らずで、 160 万人を越える人々が故郷に帰っていったのである [ 金 1997:134-138] 。 帰国しなかった在日コリアン 解放と共に自由を得た朝鮮人の多くは、帰国していったが、当時の南朝鮮の政治経済状

況とも関連して、帰るに帰れぬ事情の生じていた約 60 万人が日本での生活を続けざるを

得なかった [ 旗田 1986:222] 。 1946 年、日本政府によって実施された「帰還希望者登

録」において、残った 60 万の朝鮮人のうち 51 万 4 千名が帰国を希望するとして登録し

た。しかし、実際に帰国できた人は、希望者登録した人々の 5 分の1にも満たなかったと

いう。冷戦が始まったこともあり、 38 度線以北を本籍地とする朝鮮人の帰国を危険視

し、彼らの帰還を停止する指令を GHQ は出した。また、所持品持ち帰り制限 4 をさ

れたこともあり、帰国後の生活に一層の不安を感じた朝鮮人は、帰国を躊躇するようにな

ったのである [ 金 1997:140- 41]1 。

これらの処置の結果として、朝鮮人の帰国の停滞がもたらされ、それ以後の朝鮮情勢の

急激な悪化に伴い、多くの朝鮮人が日本に残留することとなった。この時日本に残留した

朝鮮人とその子孫が今日の在日コリアンである [ 金 1997:141] 。 第 2 節「強制連行論」の論争 ここで注目したいのが、未だ論争が繰り広げられている「強制連行論」である。第 1 節

では、通説として語られてきた「強制連行論」を踏まえ論じてきたが、そもそも「強制連

行」などはなかったという反論を、鄭大均著『在日・強制連行の神話』に焦点をあてて考

察する。これは、在日イデオロギー、あるいは『在日観』を考える上で、重要なことであ

る。 1939 年の国家総動員法に基づき、国民徴用令が発令され、 1945 年まで 70 万人近い 朝鮮人が徴用されたが、この動員によって日本にやってきた朝鮮人が全てではない。職

を求め、自ら望んで日本にやってきた朝鮮人も少なくない。当時の韓国の封建体制を嫌

い、韓国併合後、日本に移住してきた者も多い [ 竹内 2005:150] 。 一般的言説として、強制連行された朝鮮人の子孫が今日の在日コリアンと解釈されがち

であるが、在日コリアンが強制連行の被害者やその子孫であるという言説を鄭は以下のよ

うに批判している。

4 日本政府と GHQ により 1946 年 4 月以降の帰国希望者に対し、携帯持ち帰り物品を 1人あたり約 113 キログラム以下とする所持品持ち帰り制限処置が行われた。朝鮮人を日本

に残留させようとして取られたわけでなく、共産主義国家への反共対策として、また運輸

費負担の増大を嫌っての処置であった。

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「強制連行」という言説には、いくつかのニュアンスの違いが含まれていて、一方に今日

の在日コリアンが強制連行による被害者やその子孫であることを無垢に語るものもいれ

ば、他方で「強制連行」という言葉を使いながらも、今日の在日コリアンと強制連行の体

験を直接的に結びつけることを避けるものもいる。両者の違いを見分けるのは容易ではな

いが、「強制連行」という言葉の用法とともに、何が語られ、語られていないかの問題で

ある。在日コリアンが強制連行による被害者であるという言説は、在日コリアンによって

よりは日本人によって、日本人よりは欧米人や韓国人によって明瞭に語られるという傾向

がある。在日が強制連行の被害者であるということは、当事者である 1 世から離れるほど

真実性を増すものだと鄭は述べる [ 鄭 2004:27-28] 。 強制連行論に対する批判や反論が注目しているのは、ある者は子弟に高い教育を受けさ

せようと、またある者は経済的成功を手に入れようという朝鮮人の渡日目的のむしろ自発

的な性格である。批判や反論のもう 1 つの論点は、敗戦直後の引き揚げに注目するもの

で、戦時期の動員労働者の多くは故郷に帰ったのだから、今日の在日を「強制連行の被害

者」と見なすのはおかしいという指摘である [ 鄭 2004:35-36] 。 太平洋戦争時下の徴兵拡大による労働力不足は必然的に起こることであり、それを補う

ために労働力の統制や強化がなされるのは当たり前のことである。その過程で朝鮮から炭

坑や建設現場という劣悪な労働条件に送り込まれ、重労働を強いられ民族差別的待遇を受

け、暴力的で強制的な労働を強いられた者が少なくなかったというのは事実であろう。日

本人であれ、朝鮮人であれ当時の日本帝国の臣民はすべてお国のために奉仕することが期

待されていたのであり、多くの者は、それに従属的に参加していた。したがって、「強制

連行」などという言葉で朝鮮人の被害者性を特権化し、また日本の加害者性を強調する態

度はミスリーディングと言わなければならないと鄭は主張している [ 鄭 2004:62-63] 。 このような強制連行論に異を唱える書が、近年多く存在している。その代表として挙げ

られるのが、韓流ブームの最中に発行された『嫌韓流』だ。在日のルーツは、貧しい朝鮮

から豊かな日本へ移住しようと渡ってきた、もしくは戦災を逃れ日本に密入国したのであ

り、強制連行などは当時存在していなかったと断言している [ 山野 :84-87] 。 ではなぜ「強制連行論」がここまで広まったのか。 80 年代に入り、日本のメディアが

第 2 次世界大戦中の日本の国家犯罪を語り、在日コリアンに対する差別問題を語るように

なると、「強制連行」という言葉はにわかに大衆化する。 80 年代は、日韓間の教科書問

題という外交問題が生じた時期であり、在日コリアンの指紋捺印制度 5 がメディアで

取り上げられ、またソウルオリンピックの開催に伴う韓国ブーム到来というように韓国へ

の関心が広まった時期である。その道案内の役割を担った者の中には、左派系の人々が含

まれており、「強制連行」という言葉を広めたのは彼らであると鄭は述べる [ 鄭 2004:120] 。「強制連行」のイデオロギーは、当事者の 1 世ではなく、戦後メディアによ

って、また反日知識人たちによって形成され代弁されたイデオロギー的にも捏造されやす

いものであった。よって、鄭は今日の在日コリアンは決して強制連行被害者の子孫ではな

いということを強調している。

5 朝鮮独立後、戦前のように戸籍情報が交換できなくなった日本は、 1952 年外国人登録

法施行と共に在日コリアンの管理に指紋押捺を義務化。

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確かに、鄭の述べている強制連行否定論には納得させられるところがある。在日コリア

ン全てが強制連行の被害者であるということではないことは確かだ。しかし、戦時下に日

本が朝鮮にした所業は、残酷なものであり、戦争被害者としての在日の被害者意識確立は

自然なものであると考えられるのではないだろうか。メディアや反日知識人たちによって

強制連行論は誇張されてきたが、厳密に言えば強制連行という表現は適切ではないかもし

れないが、戦時下においてそう言ってもおかしくない行為があったことも根底にあること

に注目すべきである。飛躍した被害者意識、加害者意識を真に受けず、かといって、在日

の被害者意識の背景にある様々な要素もしっかり見ながら、様々な観点から考えていく必

要があるのだと感じる。 在日コリアン自身の自己理解 現在、在日コリアン社会も 3 世、 4 世の時代を向かえた。彼らが「在日コリアン」とは

何かを自問するとき、考える拠り所になるのはやはり在日の通史のようなものであろう。

彼らの民族的アイデンティティも稀薄になり、日本への同化が強まりつつあるのが現状で

ある。ただ、時代に流れに流されるだけでなく、速度を速める同化の流れの中で、もう 1度立ち止まり、自分は、在日は何者かと考える時代に入っている [ 金 1997:248] 。時代と

共に少しずつ変化していく在日コリアンのイデオロギーを様々な論争にも目を向け、耳を

傾けながら再考していかなくてはならない。 第 1 章では、在日コリアンの歴史を通し、在日コリアンのイデオロギーの通説とそれに

対する反論を論じてきた。現在の日本社会では韓流ブームなどに見られるように、以前よ

りも韓国理解は深まってきている。一方で、戦後処理に関する問題もいまだに取り上げら

れているのが実状である。このような今日の情勢の中で在日社会は、また 1 つの歴史的な

節目を迎えているのである。

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第 2 章 在日コリアンの人権、法的、社会的地位 本章では、在日コリアンの日本における立場を法的、社会的な人権問題に焦点をあてて

述べていきたい。それと共に、そこから見える差別や偏見の実状を理解、考察していく。 第 1 節 在日コリアンの国際的人権状況 1.国際人権規約

1979 年、日本は国際人権規約を批准した。国際人権規約とは、基本的人権について

1966 年に国連総会が採択した人権規約であり、経済的、社会的、文化的権利に関する規

約と市民的政治的権利に関する規約の 2 つがある [ 広辞苑第四版 ] 。この人権規約の批准

で、在日の生活権はある程度改善された [ 仲尾 1997:113] 。当時の日本の建設省や大蔵省

は通達を出し、従来、在日の公共住宅の入居、分譲資格、公的機関の融資資格などで、日

本国民でないとの理由だけで拒否してきた国籍条項を撤廃したのである [ 姜 1994:233] 。 批准前まで、日本国籍を持たない在日コリアンは、「地方住宅供給公社法 6 」によって

地方自治体が経営する都道府県営住宅や市町村住宅に入居することが出来なかった。ま

た、「住宅金融公庫法 7 」も外国人には門戸を閉ざし、制度融資の利用も不可能であっ

た。市民としての基本的な生存権を認めない非人権状況下に在日は置かれていた。そのた

め、在日は自力でバラックを建て、改装・改築しながら雨露を凌いでいた。国際人権条約

の批准後、在日はやっと公共住宅や公団住宅に入居できる権利を獲得したのである [ 仲尾

1997:113] 。 2.難民条約 次いで、 1982 年日本は「難民条約」 (1951 年発効 ) を批准する。難民条約批准によ

り、日本はベトナム戦争終結後に発生した大量のインドシナ難民受け入れの体制をつくる

必要があった。国際世論からインドシナ難民の受け入れを迫られ、先進国の仲間入りをし

たかった日本は国内的に受け入れ態勢を展開していった。この条約は、国内法の改正にも

繋がった [ 仲尾 1997:114] 。 また、 1959 年に制定された国民年金法は、「日本国内に住所を有する 20 歳以上 60

歳未満の日本国民は、国民年金の被保険者とする」と定めており、在日は国籍条項により

国民年金から排除されてきた。 82 年の難民条約批准にともなって、国民年金法および児

童手当三法の国籍条項が撤廃され、外国人も国民年金に加入できるようになった。この規

定に従って、外国籍の人でも子どもの養育のための給付を受けることが出来るようにな

り、年金受給も 25 年の掛金期間を満たしていれば可能となった。また 86 年、厚生年金

と国民年金の一元化を目的とした法改正に際し、加入期間 25 年に満たないケースも「カ

ラ期間」を設けることで、加入期間の不足を救済する措置がとられるなど加入条件は緩和

された [ 田中 2002:40 -41] 。しかしながら、長い間加入ができなかったため、加入したと

しても受け取れる金額が少ないことから、特に在日高齢者は加入する者が少なかったとい

う。

6 1965 年に成立。この法によって、在日は公団住宅の入居が禁止されていた。 7 国民の住宅建設資金の融通を目的とする公庫。

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ここで注目したいのが国際人権規約と難民条約が共に国連での発効後、日本は長い期間

批准をためらってきたということである。国際人権規約は、批准されるまでに 14 年かか

った。難民条約に関しては在日コリアンを主な対象としたわけでもなく、インドシナ難民

問題の処理を急ぐ必要があったからであり、そのために在日コリアン問題を素通りできな

かったという背景がある [ 姜 1994:234] 。 日本政府の態度に、国際社会の眼は厳しく、日本の外国人政策には大きな問題があると

指摘されてきた。在日朝鮮人や在日中国人への差別が日本の国際条約の批准を消極的にし

ている、日本人は純粋な、もしくは無意識の人種差別主義者であるという国際世論の指摘

を受け、ようやく批准するに至ったのである [ 田中 1995:157-159] 。戦後、在日が納税の

義務を果たしながら、社会保障や公的住宅入居という人間としての基本的権利が奪われた

ままであることに目を注いで批准したのではない。日本政府は国際世論をうかがいながら

引き伸ばしを図りつつ、ようやく批准したのである [ 仲尾 1997:114] 。その原因の 1 つと

して、日本国籍を持たない在日コリアンは外国人であるとし、民族的少数者として認知さ

れていないことが挙げられる。 第 2 節 永住権をめぐって 「定住外国人」という言葉はすっかり一般化し、その対象として在日コリアンをイメージ

することもごく普通となってきた。しかしながら、在日コリアンが日本に定住することが

出来るようになったのは、ごく最近のことである。在日コリアンの在留資格問題は、長い

間不安定な状況にあったのである [ 仲尾 :1997:125] 。

「国籍自由の原則」を尊重することもなく、日本政府は、1952年 4 月28日、サンフランシ

スコ条約発効を機に、旧植民地出身者の日本国籍喪失を一方的に宣告した。それは以下の

ようなものであった。

①朝鮮人および台湾人は、内地在住者も含めすべて日本の国籍を喪失する。

②③④略 ( 婚姻、養子縁組による入籍者、除籍者の扱い )

⑤ 朝鮮人および台湾人が日本の国籍を取得するには、一般外国人と同様に帰化の

手続きによること。その場合は、国籍法にいう「日本国民であった者」および「日

本国籍を失った者」には該当しない [ 田中 2002:4]。

1945年の解放まで、朝鮮人は旧憲法下で「大日本帝国臣民」であり、同化を強要されて

きた。日本が独立を回復すると同時に、法律上「日本国民」とされていた在日コリアン60

万人は、外国人としてみなされた。日本政府は、外国人管理のための治安立法として「出

入国管理令」を発布し、外国人登録法を即日、公布施行した [ 姜 1994:229-230] 。

しかし、サンフランシスコ条約が発効したことが原因で「外国人」になった在日コリア

ンの在住権問題が浮き彫りになった。そこで日本政府は暫定措置を盛り込んだ法律を制定

した。この法律が「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係

諸命令の措置に関する法律」 ( 法一二六 ) と題された。在日の在留資格及び在留期間が決

定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく、本邦に在留することが出来ると

いう法である。当時の外国人登録者数は約60万人で、その95%近くがこの「法一二六」該

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当者であった [ 田中 2002:8] 。

一方で、外国人登録法の強制退去条項は遠慮なく適用され、安定した在住状況ではなか

った。「例外」である暫定措置がとられた人々が「一般」の外国人よりはるかに多いとい

う事態が起こったのである。解放後いったん朝鮮半島へ帰国したものの、生活の見通しが

立たないで再び日本に舞い戻ってきた人々には法一二六は適応されなかった [ 仲尾

1997:126] 。

1965年になって日韓の国交が正常化され、ついに同年 6 月日韓会談が実現した。日韓基

本条約が締結され、日本当局は法的地位協定によって永住権制度をつくり、在日に在留資

格を与えることで問題を解決しようとした [ 姜 1994:230] 。それが協定永住と呼ばれる制

度である。日本に在住する韓国国民は66年からの 5 年間は日本政府に申請すれば「協定永

住」が許可された。しかし、その範囲は協定永住を申請した者の 2 世までに限られ、その

後の世代については保障されず25年という年限を限定した永住制度であった [ 仲尾 1997: 126] 。在日の処遇は25年後に改めて論議するという決着が図られた。 1991 年に再度会

合が持たれることとなったのである。

しかし、ここでも問題が挙げられる。在日コリアンが協定永住を得るためには、従来の

外国人登録で出身地域を「朝鮮」と記入していた人は「韓国」を国籍として選ばなくては

ならなかった。同じ歴史的背景を持つ者の中に、南北分断、すなわち「38度線」を持ち込

むこととなったのである [ 田中 2002:9] 。日本政府が韓国だけとの国交回復を急いだこと

で、在日の在留権に大きな影響を及ぼしたのである。北朝鮮と国交がないというだけで

「朝鮮」を国籍でなく「記号」として見なし続けていた。結果、在日は「協定永住」と

「法一二六」の該当者、その他の永住者に分断された在留資格を持つようになってしまっ

た [ 仲尾 1997:127] 。これがいわゆる91年問題である。

91年問題の解決

在日が日本で生活していく上での基本となる在留権については、日韓基本条約は大きな

課題を残したと言える。1991年 1 月、海部首相が訪韓した際、日韓両国の外相の間で「日

韓法的地位協定に基づく協議に関する覚書」が調印されたことを契機に、入管法について

もいくつかの事項が盛り込まれ、在留権問題の解決方法として「日本国との平和条約に基

づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」8(以下「入管特例法」 ) が

提案された。この入管特例法により今まで分断された在住資格を持っていた在日は「特別

永住者」としてやっと一本化されたのである [ 田中 2004:9] 。

しかしながら、特別永住権を取得してもなお在日の立場は弱かった。

第 3 節 地方参政権問題

戦後、日本の場合、選挙権は戸籍法の適用を受ける者に限定するとされていた。旧植民

地出身者は戦前にあった選挙権を失い、先に述べたようにサンフランシスコ条約によって

日本国籍自体を喪失した。地方参政権については地方自治体法第18条の国籍条項によって

8 戦前から日本に在留し、一般外国人とは異なる歴史的経緯及び永年日本に住む生活の実

態考慮し、その子孫にまで「特別永住」の資格を与えた法

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排除されることが確定した [ 仲尾1997:65]。

しかし、在日コリアンの世代交代が進むにつれ、永住志向が確定してきた90年代に入る

と在日の人々から「納税の見返りとしての選挙権を」「抑圧されてきた在日の人権をとり

かえす一環として参政権を」という声があがった。民団をはじめとする在日コリアンの民

族組織が、日本政府や議会に対し、地方自治への参画を求めて様々な運動を展開してき

た。永住外国人の大多数を占める在日コリアンの要請を受け、定住外国人の地方参政権を

求める声が広がっていった。在日コリアン地方参政権を求める裁判は、1990年に金正圭ら

11名の在日コリアンが、公職選挙法に基づく選挙人名簿に名前が登載されていないことを

不服とし、大阪市など 3 市の選挙管理委員会に異議申し立てをしたのが始まりであった

[ 朴 2005:72-73] 。

これを受け、1995年 2 月の最高裁判決で「在日コリアンのような歴史的経緯を持つ定住

外国人に地方参政権を与えても憲法違反ではない」「そのための措置を講じるかどうかは

国の立法政策に関わる事柄である」という解釈が示された。しかしながら司法から対応を

求められながらも、政府は一向に動こうとしなかった。また、朝鮮総連はこの地方参政権

の獲得について反対の意向を明らかにした。その理由として、参政権の行使は内政干渉に

つながる、選挙権の行使によって在日朝鮮人の同化が一層進むということからだった [ 仲

尾1997:66]。

定住外国人の地方参政権問題に対し、新進党、社会党、さきがけは参政権付与に積極的

であったが反対する自民党との隔たりが消えず、合意が見られないまま先延ばしにされ

た。その後、参政権付与に賛成していた党は次々と解党し、参政権問題は一時立ち消え状

態となっていた。参政権議論を再び過熱させたのは1999年当時の韓国大統領、金大中の訪

日であった。大統領は訪日した際、「在日コリアン 2 世 3 世は、日本で税金を納め大きな

貢献をしている。彼らが今後日本社会で貢献できる立派な構成員になれるように、制度的

条件と社会的雰囲気が改善されることを願う」と演説した。このような意向を受け、民

主、公明両党で定住外国人への参政権付与法案 9 が示されたが立法化には繋がらなかった

[ 朴2005:79]。

公明党や、民主党、共産党が法案を何度も国会に提出したにもかかわらず、自民党の反

対で法案はことごとく廃案に追い込まれていった。自民党は最後まで相互主義の原則をふ

りかざし反対体制を取り続けたのだ。相互主義とは、「相手国 ( 韓国 ) がその国に在住す

る日本人に参政権を認めない以上、日本も在日外国人に選挙権を与えることは出来ない」

ということである。しかし、ついに2005年 6 月韓国で公職選挙法の改正案が可決され、永

住資格を持つ19歳以上の外国籍住民に地方選挙権が認められた。韓国が在韓永住外国人に

参政権を認めたのは、民団の韓国政府に対する地道な運動の成果である。このことから、

自民党の相互主義理念による反対体制は崩されることになり、韓国に対し日本も相互主義

で応える必要がある [ 朴 2005:80-81] 。

9 ①定住外国人のうち選挙人名簿に登録を申請した者にだけ選挙権を与える。

②当面は被選挙権を除外し、定住外国人の被選挙権を与えるかどうかは、将来の議論に

委ねる。という法案

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第 4 節 社会的差別の撤廃に向けて

前節で述べてきた通り、国籍が違うというだけで在日コリアンは権利制限をされてきた

が、彼らの人権、地位は法的には少しずつ改善されてきたことがわかる。しかし、未だに

社会的差別は少なからず残っているのではないだろうか。

1.就職差別

在日コリアン自身、嫌でも差別を感じるときは就職時であることが多い。特に、公務員

採用問題には在日に対する差別、偏見が顕著に表れている。法律上、在日コリアンは、公

務員になることが出来る。全国の多くの市町村は国籍を理由に外国籍の人の受験を禁止し

てはいない。しかしながら、都道府県や政令指定都市は重要な役職に国籍条項を持ち出し

ていた [ 仲尾1997:69]。

他の国の主権におかれている外国人が、日本の公権力を行使したり、公の意思形成に参

画するのは不適切だという考え方が当然とされてきたのだ。在日コリアン 1 世や 2 世には

「外国人だから公務員になれないのは当然だ」という考え方があったかもしれないが、 3

世、 4 世と定住化が進み、公務員志望の若い在日の人々にとって大きな障害となってい

た。

1984年、長野県の教育委員会で、教員採用が決まった在日コリアンの梁浩子さんの採用が

取り消しになる事件が起こった。全国の市民団体から抗議が殺到し、民団側も当時の文部

大臣に要望書を提出した。長野県教育委員会は、梁さんを教諭ではなく常勤講師として採

用するに至った [ 朴 2005:183-185] 。

このように、教員の分野で外国人を任用する声が高まっていく中、こうした運動は、一

般公務員の採用問題に発展していくことになった。1980年代、多くの自治体で外国人が採

用されたが、国の影響を受ける可能性が高く人口の多い政令指定都市では、なかなか一般

職受験の国籍条項は撤廃されなかった。その中で在日コリアン学生たちの国籍条項撤廃の

運動は粘り強く続けられてきた。このような運動はしだいに全国的な運動へ発展し、つい

に1996年、専門職だけでなく一般職すべてを外国人が受けられるようにしてほしいという

嘆願を川崎市が政令指定都市ではじめて受け入れた。翌年から、大阪市や神戸市など多く

の政令指定都市で一般事務職の国籍条項が撤廃された [ 朴 2005:188-189] 。

90 年代になってやっと就職の門戸も開けてきた。一方で、大阪府教育委員会による『在

日外国人生徒進路追跡調査報告書』 (1999 年版 ) によれば、 4 年制大学に進学した 3 割の

在日コリアンが、なんらかの形で国籍による就職差別を受けたことがあると回答してい

る。こういった報告書を見ると、依然として在日コリアンに対する就職差別があることが

わかる [ 朴 2005:180] 。

2.進学差別

1994年 6 月の朝日新聞によれば、17の公立大学、 162 の私立大学が民族学校卒業生の受

験を認めている。しかし、国立大学はいっさい門戸を開いていなかった。民族学校卒業者

が国立大学を受験する場合、「大学入学資格検定」 ( 大検 ) に合格しなければ受験資格は

取得できず、大検受験の資格として日本の高校に在籍していたことがあるという事実が必

要であった。そのため、彼らは民族学校在学中に日本の通信制の学校にも通わなければな

らなかったのである [ 仲尾 1997:86-87] 。

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2003年 8 月 6 日、文部科学省は朝鮮民族学校を含む「各種学校」扱いの外国人学校の卒

業生にも、各大学の判断で受験資格を認めると発表した。民族高校生にとって進学のハン

ディが 1 つなくなったと言える [ 朴 2005:136] 。受験資格公認の裏には在日コリアン学生

たちの訴えや運動があった。

在日コリアンは、自らのハンディを自分の力で切り開き、在日に対する日本の社会体制

が改善されるようにと努めてきた。社会的差別の撤廃が戦後からの課題であることを再認

識し、在日の権利制限が少しでも緩和するよう取り組む必要がある。在日の公的立場は、

複雑なものでいまだ解決に至らない法的問題や教育問題があることは事実である。筆者の

住む在日居住地区にも、朝鮮学校を巡る問題が勃発している。この問題については、次章

で論じてゆく。

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第 3 章 地域研究 ~戦後最大の在日コリアンタウン~ 第 1 章では在日コリアン誕生の歴史的経緯を、第 2 章では日本における在日コリアンの

法的地位、権利などを取り上げ論じてきた。しかしながら、戦後半世紀以上経過した現

在、在日コリアンの現在はいかなるものか、どのように変化してきたのか。文献だけでは

見ることのできない、感じ取ることができない在日コリアンの現状を本章で探ってみよう

と思う。 東京都江東区の「枝川」と、「塩崎町(現・塩浜)」という地域を対象に調査を実施し

た。そこは、戦後最大の在日コリアン集住地区として形成された地である。老若男女、た

くさんの在日コリアンが現在も居住している。この地域を調査対象とし、現地の人々の実

際の声を聞くことで今後の在日社会の展望の手がかりにしたい。 第1節 枝川・塩崎町の形成 東京都の東部に、現在急激に都市化が進んでいる江東区がある。この地域は下町深川の

風情を残しながら、一方で最新の娯楽施設が次々と建設されていく新旧混在の町だ。この

江東地区には 4,000 人近い在日コリアンが居住し、戦後最大のコリアンタウンが存在して

いることを、いったい何人の人が知っているだろうか。隅田川が東京湾に注ぐ一帯に多く

の埋立地が広がる中、枝川、塩浜という地域がある。この地域こそ、終戦後最大の在日コ

リアン・コミュニティが形成された場なのである。 1941 年、東京市当局によって朝鮮人集合住宅がこの地の一角に建てられたことがこの

街の歴史の始まりである。定員 230 世帯の木造平屋と二階建ての長屋造り 23 棟が枝川に

建設された。当時、この地域はゴミ処理場と消毒所のほかに建物はなく、埋め立てられた

だけの荒地であった [ 中沢 2004:11] 。 なぜ、市当局が、最悪の環境状態であった枝川・塩崎町にバラック住宅を建てたのかと

いうと、東京オリンピック、万国博覧会が深く関係している。第 12 回オリンピック、ま

た万博の開催地が東京に決定し、江東区周辺地域が会場、関連施設用地とされたのであ

る。しかし、すでに開催予定地に居住していた在日コリアンたちは 1,000 人を超え、バラ

ック住宅が集まる集団居住地が形成されていた [ 中沢 2004:23] 。オリンピックで来る外

国人にみっともない姿、いわば日本植民地政策の結果を見られるのは具合が悪いという理

由からである。市当局はバラック住宅強制撤去を決定したが、当然のこと住民は反対姿勢

を示し、住民たちは自治会を発足し、団結して反対運動を行っていたという。そこで市当

局は、開催地居住民の在日コリアンを 1 ヶ所に住まわせようと、当時最果ての埋立地であ

った枝川に簡易住宅を建て、住民を移転させようとしたのである [ 金 1997:58] 。 しかしながら、 1938 年、東京オリンピックや万博は中止されるが、撤去作業だけは決

行され、在日コリアンの強制移住は強行された。先に述べた通り、当時の枝川・塩浜地区

は未開発、未整備の劣悪な環境であった。外国人の目につきにくいところに朝鮮人を押し

込め、移転はいわば孤島への「収容」と言ってもよい朝鮮人蔑視の排他的意識が伺える。

このような経緯で、 1,000 人近くの在日コリアンのコミュニティが突如として枝川・塩崎

地域に出現したのである。 当時の居住者の話によると、暮らしは酷いものであったという。道路舗装などされてい

るわけもなく、一面に芦が生い茂る荒地、ゴミ処理場からの悪臭には悩まされたそうだ。

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排水施設も悪く雨が降れば地面はぬかるみ、浸水被害に見舞われた。 「昔は道路なんかなかった。今はコンクリート道になって整備されているけれど、つい

4 、 50 年くらい前までは、今とは比べ物にならないくらいここも汚くてね。区画整理す

らしていなかったから」と塩浜に住む在日 1 世たちは口々に語る。 市当局によって枝川、塩崎町に建てられた簡易住宅は、木造瓦葺き 2 階建て 18 棟、平

屋 5 棟の計 23 棟 230 戸で、家賃は 3 円 10 から 15 円の 4 段階になっていた。しかし、最

悪の環境状態と無法地帯であったため、市当局は管理者としてなすべき一切を放棄した。

住環境の改善のため彼らは自費、自力でこの土地を管理、開拓して現在に至ったのであ

る。 枝川・塩崎町の開拓者たち~ 1 世たちの声~ 実際に埋立地を開拓して、暮らしてきた在日 1 世に当時の話を聞いてみた 11 。 町の様子は? 「何もなかったよ。ただの海と、海を埋め立てた荒地。地面なんかでこぼこ、ぬかるみ。

長靴じゃなきゃ歩けないほどだったから、このへんに住んでいた人たちはみんな長靴履い

ていたよ。そこに木造の長屋が立ち並んでいただけだった。なにせ下水がなかった。だか

ら汚水を処理できなくて、地面に穴掘ってそこに流していた。だから悪臭が酷い酷い。牛

や豚なんか家畜も飼ってたから余計に匂いはすごかったね。もちろん家庭に水道なんて通

ってなかった。共同水道が何ヶ所かあるだけ。みんな水を汲みに行くのに並んだものだ。

でもその共同水道の水が蛇口をひねってもチョロチョロしかでない。」 こう呟くのは、在日 1 世の 70 代女性。現在は区画、下水道の整理がされ、アスファル

トの道が続く風景に昔の面影はない。 「在日でもいろんな事情でここに来た人がたくさんいる。人伝いに聞いてきた人、立ち退

きされてきた人、夜逃げなんていう人もいたね。とにかく朝鮮人には厳しい時代だったか

ら。食べるのがやっとの時代、みんなで助け合ったものだ。枝川や塩崎町周辺に住む在日

の人たちは、みんなハングリーで、血の気も多いっていうか、些細なことでも喧嘩をして

た。でもみんな貧しかったから、喧嘩もいっぱいしたけどそれ以上に協力しあった人情の

厚い街だ。このへんの人たちはみんな顔見知り。やっぱり苦労を共にしたから絆は強い

よ。本当にいい町だと思う」と在日 1 世 70 代男性。 当時の職業は?収入は? 「まだ埋め立てされていない海で海苔を獲って売っていたよ。でも、埋め立てが進むにつ

れて海苔が獲れなくなった。だから今度はバタ屋。リヤカーを引っ張って街中に捨ててあ

ったりする紙やダンボールを拾い集めて回収屋に持っていくんだ。その拾った量によって

金が貰えたから、街中隅々まで探し歩いたものだよ。どんなことをしてでも金がほしかっ

10 当時、白米 10 キロ 3 円 32 銭。日本人都市勤労者の平均世帯主月収は 101 円 52 銭。 11 以下のインタビューは、 2006 年 10 月 23 日~ 2006 年 10 月 25 日、筆者が東京江

東区塩浜 ( 旧塩崎町 ) で行ったインタビュー。

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た」在日 1 世 70 代男性。 「はじめはパーマ屋をやっていたんだけど、お客さん来やしない。すぐ違う職を探して建

築作業場に就職したんだ。女が現場作業なんて今じゃ考えられなかったけど、がむしゃら

に働いたもんだ。職に就けただけでラッキー。汗と傷だらけになりながらやってたね」と

在日 1 世 70 代女性。 当時の職業といったら、バタ屋がほとんどだったようだ。朝鮮人は就職口がなかったた

め、とても貧しく詐欺紛いのようなこともして金銭を手に入れていた者もいるという。 「このへんは、火事が多かったね。なぜかって言うと、みんな自分の家に放火して、火災

保険詐欺をやってたんだよ。自分の家に保険かけて自分で家を燃やす。それでその保険金

を手に入れてたってわけさ。火災地域で有名だったね(笑)火事ばっかりで年中消火作業

だ。そのせいで一時期この地区だけ火災保険に加入できなかったことがあったくらい。で

も家を燃やしてまで必要なほど金に困っていたんだよ。」在日 1 世 80 代女性。 差別や偏見を感じたことは? 「日本人なんて、ここいらに近寄ろうともしなかった。境界線があってね。向こう側が日

本人地区、こっち側が朝鮮人地区。治安も悪かったし。日本人は怖がって来ないんだよ。

面白い話、タクシーなんて来てくれないだよ。日本人地区のほうにはタクシーが来るんだ

けど、こっちは避けるんだ。」在日 1 世 80 代男性。 「在日間でも差別はあったよ。総連と民団でね。今は民団の人のほうが多いけど、ちょっ

と前までは総連の人のほうが多くてね。私は民団だけど、総連の人にいろいろ言われた

よ。総連の団結心は物凄かったね。この点については民団も見習うべきだけど」 「正直、私たち 1 世は毎日食べていくのに精一杯だった。息子には悲しい思いをいっぱい

させたね。息子が中学生の時の話。息子は日本の中学校に通っていたんだけど、いきなり

近所のパン屋から電話がかかってきてね。うちの息子がパン屋に居座ってるって言うん

だ。何事かと急いで行ってみたら、パン屋の主人が出てきて、おたくの息子さんがうちの

パン屋で働くって聞かないって言うんだ。息子に訳を聞いてみると、中学校行ったって、

韓国人だ!近寄るな!ってまた差別される。学校なんか行きたくないし、パン屋になれば

差別されないじゃないか。息子はそう言った。それを聞いたときは、悲しくて今でも忘れ

られない。」在日 1 世 70 代女性。 「私たちの世代より、息子や娘の世代の方が差別に苦しんだのだと思う。息子は学校の体

育の教師になりたかったのだけど、韓国人だからというだけで先生にはなれなかった。日

本人となんら変わりはなかったのに」在日 1 世 80 代女性。 2 世、 3 世、今後の若い世代に対する思い 「私たちは自分の母国を捨てることなんてできない。せめて、私たちの代は祖国の籍でい

ようっていう気持ちが強い。だから、民団も私たちの代で終わり。 2 世、 3 世に託すつも

りはないし、息子も娘も孫もみんなもう日本人だからね。日本人と結婚して日本人になる

んだから。このへんも日本人がたくさん住むようになってきたし、枝川も塩浜もガラリと

変わったんだから、在日も変わるものだよ」在日 1 世 70 代女性。

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第 2 節 コリアンタウンの結婚事情 地域調査を進めていくうちに、興味深い話を聞いた。それは、在日コリアンの結婚事情

である。世代別に見てみると、コリアンタウンならではの結婚事情の特徴が見て取れ、こ

のことから各世代のアイデンティティのあり方も垣間見ることができた。 在日 1 世の場合

1 世の場合、とても複雑な結婚事情を持っている人が多い。 1 世が日本人と婚姻したケ

ースは稀で、在日コリアン同士結婚したケースがほとんどであった。戦争や出稼ぎなど、

様々な理由で日本に滞在することになった 1 世たちは、特に血統に関して厳しい考えを持

っている。韓国・朝鮮はアジア諸国の中でも、血統主義思想が強く血縁者の関係を大切に

する傾向がある。第 1 章・ 2 章で論じたように、第 2 次世界大戦の敗戦、戦後の在日コリ

アンの扱いなどが 1 世たちの民族意識をより強固なものとし、日本、日本人に対する悪い

イメージは少なからず抱いているのである。 在日同士で結婚した 1 世たちの例は、枝川・塩崎町において少なくない。ある意味、隔

離された地域である枝川・塩崎町は在日同胞が集まり、戦後最大の朝鮮人部落となったわ

けだが、 1 世たちが一から作り上げた地域内での民族共同体意識は非常に固かったとい

う。そして、限られたマイノリティーの中で婚姻が結ばれるのは必然であろう。祖国に妻

がいるのに、日本で在日女性と婚約した男性もいたり、逆にわざわざ韓国の貧しい田舎か

ら嫁を貰ってきたという例もあるくらいだ。ゆえに、 1 世の家族構成は複雑なのである。 在日 2 世の場合 1 世の婚姻から純血である 2 世が誕生し、彼らは自分たちが置かれている境遇に葛藤し

苦悩する。いろいろな問題が挙げられるが、その 1 つが結婚である。 2 世の場合、日本で生まれ、日本の環境の中で朝鮮人のアイデンティティを確立してい

くという難しい世代だ。彼らの国籍は韓国・朝鮮籍であるが、 1 世ほど強いナショナリズ

ムを持っているわけではない。枝川・塩崎町には朝鮮学校が 1 世たちによって設けられ、

2 世たちの民族教育の場となっているが、実際のところ、この地域に住む在日 2 世たち全

員が朝鮮学校で教育を受けたかというと、そうではない。総連系の子供たちは無論、民族

学校へ入学したが、民団系の子供たちは日本の公立学校へと入学するケースが多かった。

ゆえに、日本人の中で教育を受け、民族教育を受けてこなかった 2 世は少なくないため、

朝鮮人としてのアイデンティティは稀薄になってきているのである。 結婚適齢期を迎えた 2 世たちは、ここで大きな壁と衝突することとなる。枝川・塩崎町

で調査を進めていくと、意外なことに 2 世はお見合い結婚が多いことが判明した。これは

一体どういうことかというと、 2 世の結婚には父母である 1 世たちが深く関係している。

先述したように、 1 世は強固な民族アイデンティティを持ち、血統を重視する傾向があ

る。それゆえに、「日本人の血なんか入れるか」という血統主義から、日本人との婚姻を

拒絶した例が多いのだという。一方で、「朝鮮部落に住む朝鮮人と結婚などさせない」と

いう日本人側の考えも相まって、在日コリアンと日本人の結婚はできづらい環境であっ

た。 在日コリアン同士でお見合い結婚をした家庭が多いことは頷けるが、恋愛結婚ではなく

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強制的な結婚であったため、離婚率も高いことが見て取れる。 2 世の結婚事情も難しいも

のであった。 在日 3 世の場合

枝川・塩崎町に住む在日 3 世たちは、日本人と何ら変わらない。日本の教育環境で育

ち、韓国語もろくに話すことが出来ない若者が多いのである。彼らは朝鮮人の血が流れて

いることを感じながらも、朝鮮人としてのアイデンティティを感じるすべを持っていない

のではないと感じる。 3 世の代になると、 2 世のようなお見合い結婚はほとんどなくなった。在日コリアン同

士の強制的な結婚もなくなり日本人の嫁貰う、日本の家庭に嫁ぐ人のほうが多いようであ

る。ゆえに、在日コリアンと日本人の混血化が進み、最終的にその子孫たちは日本人とし

て生きてゆくことになるだろう。今日、在日コリアンは、政治的権利を除くと日本人とほ

とんど変わりのない権利・義務関係の中で生活している。結婚も在日コリアンの生がその

国籍によって規定されるところは少なくなった。韓国籍であろうと、朝鮮籍であろうと在

日と日本人との通婚率が今や 80 パーセントを超えるということは、この変化を語る雄弁

な数字である [ 鄭 2001:24] 。 第3節 コリアンタウンが抱える問題 枝川朝鮮学校 焼肉屋、朝鮮産乾物屋の店が点々と建つ枝川 1 丁目に東京朝鮮第二初級学校 ( 以下、枝

川朝鮮学校 ) がある。チマチョゴリの制服を着た女学生がしばしば見受けられる。そもそ

も朝鮮学校は、祖国が日本の植民地から解放されて間もなく、朝鮮半島の故郷に帰るにあ

たって日本語しか話せないわが子に朝鮮語を教えたいという、 1 世の切々とした思いが具

現化されたものである [ ウリハッキョをつづる会 2001:3] 。 在日コリアン 1 世が、朝鮮学校をかけがえのない財産として受け止めるのは、第 1 章に

記述したとおり 1 世の歴史的な体験と境遇が深く関わっている。現在、在日 1 世は在日社

会の中で1割以下の人数である。その彼らにとって、朝鮮学校は民族の魂を育て、朝鮮人

を育てるいちばん大切な場となっている。無一文から少しずつ築いてきた財産を、朝鮮学

校に還元することに無上の喜びと誇りを持っていた [ 朴 1997:32-35] 。 枝川朝鮮学校のはじまりは、戦前から同敷地に建てられていた「隣保館 12 」を利用する

形で、戦後、教育が始められたという経緯がある。なお、この隣保館では戦前、政府、市

当局の「講演会」が時折開かれ、朝鮮人住民に講演会の参加が強制されるなど、皇国臣民

化政策のもと、朝鮮人を管理、同化させるための拠点となっていた。それ以降、学校閉鎖

令 13 による都立学校の時代を経て、 1950 年代半ば以降は再び自主学校として今日に至

12 工費 5 万 1000 円をかけて造られた 174 坪の洋風平屋建てで、朝鮮人の同化を図る教化

施設。

13 1949 ~ 51 年、政府が朝鮮学校閉鎖令を出し白頭学院を除く朝鮮系学校を一時閉鎖、

また一般の学校における民族教育の禁止通達が出た。

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る。 枝川朝鮮学校は当時、都内で一番のぼろ学校であった。資金がなく、修繕費は全て地元

に住む在日コリアンたちの手でまかなって、学校を建て直していった。 1963 年、本格的

な校舎の新築を計画していたが、土地を買う資金や建築費が足りないため、旧校舎を壊す

のに生徒の父母たちがハンマーやノコギリを持参し取り壊したのだ。日本政府から助成金

が出ない中、校地、校舎の増築費や学校運営を助けるため、少ない給料の中から寄付金も

出し合ったという [ 金 2006:41-43] 。 在日同胞にとって、朝鮮学校は民族の言葉や文字、朝鮮人としての素養のみならず自己

のアイデンティティを確立しようとするうえで重要であった。子供たちが日本社会におい

て民族性を守り、民族の誇りを抱いて生きていくために民族教育は重要な役割を果たして

いる [ 在日本朝鮮人人権協会 1999:195] 。日本の抑圧に抗しながら、民族アイデンティテ

ィを獲得していくことを意味していることがうかがえる。 しかし、定住化がすすむにつれ、帰国を前提とした朝鮮学校の教育内容は変わらざるを

えなくなり、定住化に即した内容へと改善されていったという。戦後、半世紀の間に在日

コリアン社会は大きく変化し、朝鮮学校のあり方も問い直されるようになり、枝川朝鮮学

校でもまた、時の流れとともに少しずつ民族教育の内容が変わってきたことも事実であ

る。 枝川朝鮮学校の教育 枝川朝鮮学校では、現在小学 1 年生から 6 年生まで 65 人の生徒たちが学んでいる。こ

の学校の教育目標は、すべての在日同胞子弟にしっかりとした民族性を育て、知・徳・体

を兼ね備えた朝鮮人として、在日同胞社会と民族の繁栄に貢献することのできる有能な人

材を育てることにある。在日同胞は、生活基盤が日本にあり、日本に定住するという特殊

な現状を考慮されてもいる。母国語をはじめ、朝鮮の歴史、地理、社会などについての教

育や自然科学教育にも力をいれ、文化面では日本の学校をはじめ在日外国人や、海外との

交流を積極的に行い、親善の輪を広げている [ 宋 2006:22] 。 日本で生まれ育ち、祖国と民族の言葉と歴史を知らない子供たちの民族のアイデンティ

ティをいかに育むか、それと同時にいかにして絶え間なく変化、発展する現代社会に生

き、人間としての自主性と創造的能力を培うか、この問題は民族教育を行うものが、その

時代の流れの中で常に抱えてきた問題である。 2003 学年度から 2005 学年度にかけ、教

育カリキュラムを改編し、教科書も全面的に改訂した。民族教育=反日教育ではなく、リ

ニューアルされた教科書には、国際化・情報化社会に対応できる能力を培うことに重点が

おかれている [ 宋 2006:22-23] 。 65 人の生徒たちがのびのびと学習しているこの学校は

現在、大きな問題を抱えている。 枝川朝鮮学校裁判 2003 年 12 月 15 日、枝川朝鮮学校が都有地を「不法占有」しているとして、東京都

は校舎の一部を取り壊して校地を明け渡すこと、及び 4 億円もの損害金を支払うよう求め

て訴訟を提起したのだ。また、都は 2004 年 7 月 29 日、江東区が「不用物件」として管

理していたとする校地の残余部分(いわゆる区道部分)についても、 2004 年 4 月 16 日

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をもって江東区の「不用物件」管理期間が満了したとして、「不法占有」を理由に、校舎

の一部を壊して明け渡すように求めて訴訟を提訴した [ 金 2006:9] 。 校庭部分の都有地 4139 平方メートルを、契約が切れたままタダで使っているとして、

都は明け渡しを求め近く提訴する。 2 年前から払い下げ交渉を進めていたが、都の対応を

問う住民監査結果が出たことから、教育機関に対しては異例の強硬姿勢に転じた。朝鮮学

校側は「学校を含む一帯は戦前、朝鮮人が強制的に移住させられた歴史的経緯がある」

と、反発を強めている。 同校は 1945 年 10 月、在日本朝鮮人連盟(後の在日本朝鮮人総連合会=朝鮮総連)の

手で始まった。 72 年に 90 年まで校庭部分を無償貸与する契約が結ばれ、当時、都はこ

う説明している。

枝川朝鮮学校が当該地を使用し、開設されるに至った経緯は、過去日本において朝

鮮人に対する政策上の問題から派生しているものであり、客観的・歴史的事実とし

て今日この問題を考えた場合、単に画一的に財産管理面だけでとらえることは必ず

しも妥当ではない。朝鮮学校敷地についての他の地方公共団体における取り扱いに

ついても、過去の日朝関係の歴史的経緯を考慮し特例的(使用賃借、著しく安価な

払い下げ等)扱いをしている例がある。朝鮮学校の運営費は、当該地域の父兄に専

ら依存しており、父兄の生活状態によってその運営が大きく左右されている。父兄

の負担は限度があり、学校の運営費は窮乏の状況にあるため、 45 年以降の地代は

未納入である。このように、人件費・光熱水費さえ思うにまかせない事情にあるた

め、今後とも地代の負担には到底耐えられない状況にある。これらの理由から判断

し、本件土地を無償貸付することは事情やむを得ないものとする [ 佐藤 2006:15] 。

その後、契約満了前後に払い下げが協議されたが、価額が折り合わず決裂。 2001 年 2

月に再び交渉が始まり、都港湾局と学校側とが意見交換を重ねてきたところ、江東区の住

民らが「都は土地の適正管理を怠っている」として監査請求を行った。「学校は無権原

(無契約)で土地を占有しており、都は是正措置などを講ずること」とする監査結果が出

た。これで、都は方針を転換し、時価の 13 億円(1平方メートル約 30 万円)での土地

買い取りと、無契約の間の使用料 6 億円余りを要求した上で、交渉打ち切りを通告したの

である。 東京都は 30 年前、今日にいたっての枝川朝鮮学校が置かれている「客観的・歴史的事

実」を直視していたにもかかわらず、都の政策変更、この提訴が不当なものであることは

明らかであろう。 朝鮮学校側は、「これまでの経緯をまったく無視したやり方だ」と怒りを隠さない。朝

鮮学校は各種学校扱いで、都の助成金は年間 1 人当たり約 1 万 5 千円に過ぎない。ちなみ

に、都の私立高校生への助成金は年額平均約 34 万円(昨年度実績)である。運営費は保

護者の寄付に多くを頼っているが、不況で各家庭とも苦しく、修繕費もままならないとい

う。こうした中、都が提示した年間賃貸料は約 7,000 万円だが、同学校の年間予算は約

4,000 万円に過ぎない。売却金額は概算で約 13 億円。この額は民間企業に対する賃貸や

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売却と同じ扱いになる。都は「公立学校でないので、減額できない」としている [ 朝日新

聞 2003:11-30] 。 本件の裁判は、枝川裁判闘争として 2004 年 2 月から始まり、 2006 年11月現在、第

16 回もの口頭弁論まで進行している。この裁判闘争に伴い、学校は運営を支援する「枝

川朝鮮学校支援都民基金」を立ち上げ、日本社会に広く賛同を呼びかけた。その結果、

2006 年 6 月、日本や韓国の市民から基金に寄せられたカンパは 360 万円を超え、スクー

ルバスを購入し、子供たちの通学に役立てている [ 佐藤 2006:14-18] 。

第16回 口頭弁論(11月 24 日(金)東京地裁 631 号法廷にて)

枝川朝鮮学校裁判は、16回もの口頭弁論が繰り広げられる中、未だ決着はついていな

い。朝鮮学校・東京都・江東区の三者で争われていたが、今回の口頭弁論での争点は、旧

区道部分の返還について、区道廃止の陳情を市議会で採択しているにもかかわらず、区は

40年近く廃止手続きをとらなかった点、また、その理由を全く説明していないという点に

ついてである(1964年の新校舎建設当時に学校側が出した廃道陳情について)。さらに

1964年当時に学校側が新校舎建設の建築確認を申請していたことに対しても、東京都が建

築確認をしたかどうかは分からないと説明している。しかしこれも、当時その申請を受理

して東京都に回付したのは江東区であり、区は旧区道部分に新校舎が建てられるのを十分

に知りえたにも関わらず、その後確認することもできたが、40年間近く学校側に一切の異

議申し立てをしてこなかったのである。

弁護士によると、区はこの裁判に消極的である。というのも、区が朝鮮学校を訴えるこ

とになったのは、江東区の住民が旧区道部分の管理を怠っていることの違法を確認する住

民訴訟を江東区におこし、江東区が裁判に負け、区に旧区道部分の管理責任があることが

確定したという経緯があったからだ。

区は住民との裁判において、そもそも旧区道部分についての違法性を前提として、管理

責任が都にある、と主張したのみで負けてしまったのだ。つまり、朝鮮学校が占有する権

利があるか否か、占有が違法か否かについては争わなかった。当事者である朝鮮学校関係

者に一度も相談せず、裁判にも呼ばなかったという。さらに敗訴した後には控訴もせず、

朝鮮学校を訴えたのである。区は自らの責任を取りたくないという姿勢がうかがえる。

区の主張のうち、廃道措置や建築確認受理など、区の独自の責任について、口をぬぐっ

ている点については、弁護団は今後も責任を追及していく、とのことである [ 枝川裁判支

援連絡会 HP 2006,12,5] 。

朝鮮学校の背後では、壮絶な裁判が繰り広げられているが、朝鮮学校で学ぶ子供たちの

教育を受ける権利を尊重してほしい。 在日コリアンの子供たちが、自民族の言葉で普通教育を受ける権利が保障されるために

は、日本政府あるいは地方自治体は自主的な学校設立を援助し、朝鮮学校についても、少

なくとも憲法上では、日本の私立学校と同程度の財政的援助をすべき義務があることを再

確認すべきである [ 佐野 2006:98] 。 現在もこの裁判は闘争中であるが、この裁判は、在日外国人の子供たちの教育の権利、

さらにマイノリティーの権利が奪われるかどうかが問われるものである。何より 1 世たち

が貧困生活の中、子供たちのために造った学校であり、枝川朝鮮学校で学ぶ 65 人の子供

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たちひとりひとりにここで教育を受ける権利が存在することを再認識することが重要であ

る。 まとめ

本章では、地域研究として枝川・塩崎町のコリアンタウンを取り上げ論じてきた。コリ

アンタウンに住む人々の実際の声を聞くことでマイノリティーの様々な問題が浮き彫りに

なった。 特に在日 1 世の人々は、今後の在日社会の展望を明確に捉えている。半世紀、日本の地

で様々な思いを感じ、開拓してきた 1 世だからこそ、在日コリアンの同化と共生をひしひ

しと感じているのだと調査を進めるにつれ感じた。地域調査をしてみて改めて感じたこと

は、やはり若い世代になるにつれて、朝鮮人としてのアイデンティティは稀薄になってい

ることはもはや避けられない必然であることである。日本の地で 1 世は在日コリアンが住

みやすい環境の外的骨組みを作り上げ、 2 世、 3 世は外面だけでなく、内面も日本に溶け

込もうという同化意識が感じられた。しかしながら、民族問題でもある枝川裁判は身近な

ところで発生しており、筆者自身、在日コリアンとして考えなくてはならない問題もあ

る。裁判の動向はこれから先も追っていきたい。

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終章

筆者は 3 章で、独自にコリアンタウン調査をしてみたが、世代別にアイデンティティの

相異が明確に見て取れた。そこで、終章では在日アイデンティティの変化について、これ

までの議論を踏まえながら、考察したい。 変わりゆく在日アイデンティティ 1 世は、「私は朝鮮人」という揺るぎない強固なアイデンティティを確立している。実

際、筆者の祖父母を含む、枝川・塩崎町に住む 1 世たちの国籍は大多数が朝鮮籍を保持し

ている。激動の戦中、戦後時代を生きてきた 1 世は今も母国を思い、民団、総連に所属も

している。「日本の地に骨を埋めることになるが、せめて私たちの代は母国の籍でいよ

う」という 1 世の強い思いが感じられた。 2 世は、朝鮮人でありながらそのアイデンティティを確立することが困難な立場であ

る。日本生まれの 2 世たちは、進学、就職、結婚など人生の節目に必ずと言っていいほど

差別を受け、自らのアイデンティティに葛藤しているのである。枝川・塩崎町に住む 2 世

たちの国籍は、朝鮮籍のまま生活する者と帰化申請を行い、日本国籍を取得した者の半々

に分かれている。しかし、日本籍に帰化した者でも民族的儀礼は通年行っている家もあ

り、 2 世は民族アイデンティティをどこかで意識し、また自覚しているようだ。 3 世は、韓国・朝鮮を母国であると認識していない、出来ない世代である。 3 世たちの

多くは、日本の公立・私立学校に進学し、日本の教育を受ける。朝鮮語を話せる 3 世はご

くわずかで、日本国籍を持つ者が大多数である。 2 世と異なり、在日だからと差別を受け

た例もほとんどないという。 10 代後半から 20 代の 3 世たちに民団、総連の正式名称を

尋ねても答えられる者は少ない。さらには、地元で起こっている枝川朝鮮学校裁判につい

ても関心を寄せる者は珍しい。 3 世は、日本人としてのアイデンティティを持ち合わせ、

民族教育を受けない限り、 1 世のような民族アイデンティティを確立することが不可能な

のは必然なのである。 3 世、 4 世、それ以降の世代は、大半の者が日本人との婚姻を結んでいくことになるだ

ろう。結果、在日の子孫たちは完全な日本人として、生活していくことになるのは目に見

えて分かることである。 しかし、筆者は今、この時代だからこそ「在日コリアン」という思想が定義され、論議

されている、いわば在日コリアンにとって大きな節目となる時期なのだと感じる。日本国

籍を取得しても、在日コリアンとして民族アイデンティティを追及、模索してゆく生き方

もあるということなのではないだろうか。日本国籍を取得し日本人として生きる、朝鮮籍

を保持したまま朝鮮人として生きる、という両極端な二択に加え、在日コリアンとして歴

史的ルーツを認識し、日本で生きてゆくことも選択できるのが今の在日コリアンなのであ

る。多様化していく在日観の中、どのような生き方を選択するのかは、もちろん個人の自

由だが「在日世代」に生まれた筆者たちの世代が、残された問題に今後どのように向かい

合うかが重要なのである。 コリアンタウンの住民として

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筆者は、在日 2 世の父を持つ 3 世である。祖父は第 2 次大戦中、硫黄島に徴用され、激

動の時代を日本で生きてきた在日 1 世である。祖父は、長男で戦後貧しい暮らしをしてい

た朝鮮本国の兄弟たちに日本で稼いだ金を毎月欠かさず仕送りしていた。祖父が、祖国を

思いながら、他界し 10 年以上経つ。 2 世の父は、民族学校には通わず、日本の教育を受けてきた。そのため、韓国人であり

ながら、韓国人としての明確なアイデンティティを見出すことが出来なかったそうだ。日

本人と変わりない、しかし国籍が異なるゆえに様々な差別を体験してきた父は、帰化申請

を行い、日本国籍を取得したのである。そして日本人の母と、両親の反対を押し切って結

婚した。母は日本人であるというだけで、周囲から厳しい目で見られていた。コリアンタ

ウンでの暮らしに慣れようと、韓国のしきたりを一から学び、相当な苦労をしてきたので

ある。文化の違いを感じながらも、母は肯定的に韓国理解をしてきたのだった。 枝川・潮崎町は様々な苦難を乗り越え、多くの人々によって形成され、常に変化してい

る町だ。日本人が踏み入らなかった地は、今や日本人も住むようになり、共生の道を辿り

ながらも、どこかコリアンタウンを感じさせる風土が存在しているのである。この地に住

む筆者たち若い世代が、コリアンタウンとしての風習を少しでも多く引き継ぐことで、共

生、そして日本と韓国の相互理解が、より深まっていくのではないだろうか。 最後に

最近、韓国にいる筆者のはとこが結婚することになった。結婚式に出席するため、筆者

は祖母と共に韓国を訪れた。祖母は故郷へ帰ることを喜んでいたようだが、筆者はもう 1つの母国へ帰る、という気持ちには正直ならなかった。筆者にとって、確かに韓国は母国

である。しかし、筆者の故郷はまぎれもなく日本なのだ。 結婚式当日は、韓国中から親戚が一同に集まった。初めて会う韓国の親族たちは、 50人以上。筆者は拙い韓国語しか話せず、親族たちとなかなかコミュニケーションが取れな

かった。流暢に韓国語を話す祖母を見て、普段は日本人のように生活しているが、祖母は

紛れもなく韓国人なのだと実感した。 筆者自身はどうなのだろうか。韓国語も韓国文化もよく分からない。在日 3 世といって

も日本国籍を取得し、日本人となんら変わりない。そんな筆者を、初対面の親族たちは家

族だと言って温かく受け入れてくれた。血縁関係の強さが感じられ、日本と韓国、遠く離

れていても縁は切れることはないのだと感じた。筆者たち 3 世世代になると、朝鮮にいる

親族たちとは絶縁してしまうケースが少なくない。日本人としてのアイデンティティが形

成され、韓国を母国として意識することがなくなり、親族の存在自体知らない若い世代は

多い。 本論文では、在日の出現の歴史から、実際のコリアンタウンの暮らしを調査し論じてき

た。戦後から現在までの歴史の中で、在日は様々な問題と向き合い、それぞれが多様な在

日観を形成してきた。在日コリアンの存在は、あと半世紀もすれば消滅しかねない。在日

コリアンと呼ばれる世代は、 3 世 4 世までであろう。 今回、筆者が韓国を訪れ、多くの親族たちと交流を深めたことで、在日コリアンとして

のアイデンティティを意識させられた。日本で生まれ育っても、どこかで韓国と繋がって

いることを意識させる因子は、筆者たちが気づかないだけで、在日の周りにはたくさん存

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在しているのである。これからの若い世代の在日コリアンは、それぞれが確立していくで

あろうアイデンティティの中に、根底にある在日コリアン因子というものを見出し、生涯

大切にしていくことが重要なのではないだろうか。

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< 参考文献 > 朝鮮史研究会編 編集代表旗田巍 (1986) 『入門朝鮮の歴史』三省堂 枝川裁判支援連絡会 (2006) 『とりあげないでわたしの学校』樹花舎 金賛汀 (1997) 『在日コリアン百年史』三五館 江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会 (2004) 『東京のコリアンタウン』樹花舎 姜徹(1994) 『 在日朝鮮人の人権と日本の法律 〔 第二版 〕 』 雄山閣出版

三橋広夫 (2002) 『これならわかる韓国・朝鮮の歴史Q& A 』大月書店 仲尾宏 (2003) 『Q& A 在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識【第二版】』明石書店 朴一(2005) 『 「 在日コ リ アン 」 ってなんでんねん? 』 講談社 朴三石 (1997) 『日本のなかの朝鮮学校』朝鮮青年社 佐藤文明 (1993) 『在日「外国人」読本』緑風出版 竹内睦泰(2005) 『 日本 ・ 中国 ・ 韓国の歴史と問題点80 』 ブ ッ クマン社

田中宏(1995)『在日外国人 新版』岩波新書

田中宏編(2002) 『 在日コ リ アン権利宣言 』 岩波書店

鄭大均 (2001) 『在日韓国人の終焉』文藝春秋 鄭大均 (2004) 『在日・強制連行の神話』文藝春秋 ウリハッキョをつづる会 (2001) 『朝鮮学校ってどんなとこ?』社会評論社 山野車輪 (2005) 『嫌韓流』晋遊舎 < 参考ホームページ > 枝川裁判支援連絡会『とりあげないで私の学校』 2004

http://kinohana.la.coocan.jp/edagawatop.htm