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Title 論文紹介 テオドール・シーダー ランケ「近世史の諸時代」の成立

Author(s) 田中, 友次郎

Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学. 1966, 6, p.120-133

Issue Date 1966-01-31

URL http://hdl.handle.net/10069/9528

Right

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論文紹介

テオドール・シーダー

ランケ「近世史の諸時代」の成立

田中友次郎

ランケ(Leopold von Ranke, 1795-1886,以下Rと略す)の,,Uber die

Epochen der neueren GeschichteHは,周知の如く, 1854年Rがバイエルン

王国東南端の山地ベルヒテスガーデン(Berchtesgaden,以下Bと略す〕にお

いて国王マクシミリアン二世(Maximilian H,以下Mと略す)のために行な

った講演である.本書は言圧代史学の大成者たるこの碩学の世界史体系をその

全貌において示す唯一のものであり,しかも従来の如何なる世界史よりも簡潔

であるにも拘わらず,その体系においては如何なるものよりも普遍的な完全さ

を示しているといわれている.本書について我国では既に大正7年村川堅固氏

の訳業あり,昭和16年鈴木成高・相原信作両氏による訳書が, 「世界史概観」

と題し岩波文庫中に含まれて刊行され,さらに昭和36年平易な現代文でその改

訳が出されている.この訳書の巻頭にはド-ヴエCAlfred Doveノ1844-1916,

1884-91ボン大学教授,以下Dと略す)の序文が掲げられ,本書の「序説」と

相侯ってRの歴史理論を窺うに足る重要な文献となっている.

ここに紹介せんとするHisto二ische Zeitschrift. Band 199. HeftI (1964

年8月)所載ケルン大学Theodo二Schieder教授の30頁に亘る論文,′Die

Entstehung von Rankes ,、Epochen der neueren Geschichte化は, Rの請

演と,速記者の速記録と,その普通文字文-の薪訳清書と, Dにより始めて刊

行されたテキストとの問の異同や成立事情さらにRの思想と講演の狙いにつ

き,多数の根本史料を駆使し,教授の博識と鋭い史的洞察力とによって精微き

わまる論証批判を行なっている.私は以下本論文の概要を序説・二葦合計29節

に分けて紹介することとする.

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ランケ「近世史の諸・時代」の成立 121

序説

① 19世紀ドイツの根本的な三大史書の-たるRの,,Epoctea''については,

その土台が未だ精査されていない. -

19世紀におけるドイツ人の偉大な歴史叙述の根本的著作の三つは,すなわ

ち,ドロイゼンの「歴史学講義」,ブルックバルトの「世界史的考察」,及びR

の,,Uber die Epochen der neueien GeschichteHである.以上三つにつ

いては,何れも著者の死後に公刊されたものであるという点を注目すべきであ

り,従って「伝達及び原文問題」が起ってくる.この問題はRの,,EpochenHに

おいては,この著作の土台が本来この上なく不確実なものであるにも拘わら

ず,未だ少しも杵査されていない. 1888年Rの本講演を始めて出版し,以来こ

の講演のテキスト形態を今日まで決定しているDは,速記術による筆記の「清

書」 (Reinschrift)に基いている.この清書は既に1854年12月1日付国王の書

簡の中で話題となって居り,後にミュンヘン国立図書館に収められたが,現今

も保存されている. Dに拠ると,この清書の写しは, 1855年6月20日すなわち

数カ月の後Rの許に届いた.この写しは今日Rの遺品の中には見出されない

が, Dj坂の基礎となったもので,この版はこの写しを「徹底的に信じて」これ

に則っている. Dは, 「速記者または筆写生の誤解,恐らくはまた全く朗読者

の見落しまたは言い間違いに基くほんの僅かの誤りは,躇躊なく訂正されてい

る.私は仮りにも何牧かを省略するという決心はつかなかった」と述べている

如く,このテキストの信悠性について明らかに嚇かの疑いをもさし挟んでいな

い.

㊨ ,,Epochen"は決して「即興詩」的なものではなく,むしろ組線的に秩序

だてられ濃縮された叙述の如き作用をなしている. -

上述のDの信頼の念は多くの点において驚くべきことである. Dの論説や書

簡は従来, R自身の言葉を借りて, 「一冊の本の面影」のない「即興詩」

(Rhapsodien)が問題であるということを認識させたが,今や,,Epochen`・は

決してかかる印象を与えない.本書は, Rが即席的話者として現われる個所が

明らかに存在しているにも拘わらず,一つの即興詩の如くではなく,むしろ組

織的に秩序だてられ濃縮された叙述の如き作用をなしている.テキスト形態の

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この根本的な問題点に対してDは注意を怠っている.

④ Dが無視したこの講演の速記者は, ,,Epochen"のテキストに決定的な役

割を演じている. -

Dが等閑に付したB講演の速記者は,非凡な教養を有する練達の士であっ

た.このことが,この速記者をして単なる筆記者となしただけでなく,大きな

役割を演じさせた.同時に我々は,,Epochenuのテキストにとって決定的な

問題に当面するのである. Rの講演を筆記しまた「清書」した人物, Franz

Seraph Leinfelder (1825-91,以下Lと略す)は,法律研究の後1852年以来

バイエルン宮内省及び外務省の「官職候補」となり,同年Mの内閣に廻され,

B講演の年内閣書記官に任命された.彼はその後式部官-,さらに議会文書館

長,さらに叉枢密文書館長へ昇進し,貴族に列せられ, 1889年枢密顧問官の称

号を有する内閣顧問として隠退した.

④ Lがこの講演に招かれた事情. -

1854年秋LをRに近づけたものは,単に彼が王国内閣の所属員であったこと

のためのみならず,殊に「議会速記者」, Gabelsberger (ドイツの速記術発明

者, 1849年枚)の門下生としての素養と業績とであり,このことは1846年及び

47年のバイエルン下院協議会において,特に48年のフランクフルト国民議会に

おいて確証されていた.国王の枢密顧問官にして秘書官たるPfistermeister

が実に彼のこの速記術上の経験ゆえに彼を王国内閣に招き入れたこと,さらに

この内閣から国王によってミュンヘン大学教授たちの講演に際して速記のため

に招かれたということは有り得ることである.とにかく速記者としての彼の能

力は国王によく知られていたので, Mは彼を専ら講演のためにBに招いたので

ある.

①講演のためにRが招かれた事情と講演プログラムの「即興詩」との矛

宿.-

Mとその顧問Doennigesは先にRをミュン-ン大学に迎えんとして失敗

し, 1853年春には集中講義に招かんとしてこれも失敗し,その後始めてMはR

宛の直接的招請をさけて, Rの-門下生が「キリスト紀元以後の歴史の様々な

世紀を動かしている諸理念についての簡潔な概説を引受けてくれることができ

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ランケ「近世史の諸時代」の成立 123

るや否や」を問い合わせた. R宛のDoenniges書簡に拠ると, 「この概説

は,私が王を正当に理解しているとすれば,あなたの学問体系からの抜琴の如

くに,然し乍ら諸々の主章と指導的理念と事件とがこの概説の中で最初に言及

され,また諸々の事実が単に説明と短い敷延とのためにこれに加えられる程に

行なわれねばならない」. -これこそ確かに,やがてこれに続くBにおける

講演のプログラムであるが, Rがバイエルンへの招請を明確に,この大きなテ

ーマについて語るようにとの要請と共に受けていたということに対しては,な

んらの証拠も存在していない.とにかく,,EpochenHについてのR自身の「即

興詩」なる言葉は,上述のDoenniges書簡と根本的に矛盾している.

㊨ RのB滞在と講演期間. -

Rは永く滞在しないつもりで9月21日Bに着いた.然しMに対する御前講演

は, 9月25日にようやく始まり, 10月13日まで時間一杯行なわれ,この間Rは

9月29日を除いて毎日,最後の日には2回までも講演を行なった.出立したの

はようやく10月19日である.講演の場所は主に王の「別荘」であり,数日間を

限ってWimbachすなわち修道院長たちの猟館であり, 9月28日の講演は確

かにここで行なわれた.

⑦ Lの速記録についての吟味推定. -

Lは19回の講演を,線を引いてない大きな23の復折帳(Doppelbogen)の中

で原稿85頁に亘って筆記している.それに標題の2頁が加わってしゝる.この2

頁のうちの第1頁にLの手記で, 「Bでの国王陛下御前における1854年秋行な

われたRの歴史学講演, Lによる速記録」という標題を含んでいる.第2頁す

なわち,確かにより古い標題の頁の上には一部分速記文字で次の如く記されて

いる. 「R,キリスト紀元の初め以来における各歴史時代の傾向に関する講

演, SeptノOct. 1854, L」.講演の筆記は,旧Gabelsberger式速記術で作成

されている.一連の言葉たいてい外国語の引用文,または固有名詞は,普通文

字で記されている.速記術による固有名詞には例外なく下線を引いてある.請

演されたテキストの速記術による受容れは, Lが最初の時期に紛うかたなき困

難に打克って後益々確実となり益々流麗となっている.第1頁において,鉛筆

で書かれたテキストの後は赤インクで追記されている.第1頁の最後の数行か

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ら第4頁の前半に至るまで,本源的記録の問に部分的に既にいくらか総括的な

用語が赤インクで記されている.これは, Lが筆記の後直ちに翻訳の準備に取

りかかったことを暗示している.私は東にこのことを,他の目立った特徴から

推論できる.すなわち,最終講演の速記の第21折帳の2頁は,僅かに半分だけ

筆記されている.この2頁の他の半分はLの普通文字での記録によって占めら

れている.この記録は内容的には第14講の終りと第15講の初めとに関連して居

り,恐らくは翻訳の最初の草稿を意味している.それゆえ私は, LはP滞在中,

彼の自由な時間にテキストの翻訳に従っていたと想定できる.これは,速記者

によって作成されたテキストの批判にとって意味深いことである.すなわち,

このテキストは,速記術による記録が遺漏または疑問を未解決のままにしてお

く場合,なお生々しい記憶から再建され得るのである.

㊥ M及びRの清書入手と, D版テキストに対するRの関係. -

Mが講演終了後間もなくその清書を入手したということは, 1854年12月1日

付R宛の書簡で判る.クリミア戦争の激化がこの両人に研究のための「静寂な

時間」への興味を減退させていたが, 1855年2月7日RはPfistermeister

宛,注意を促しつつ次のように書いた. 「私はBにおける講演について第-

に,この講演は決して第三者に伝えられないということ,第二に,私に一つの

写しが約束されているということを思出して下さいませ八か」.然しこの写し

は6月20日始めて, Mの勅書と共にRに届けられた, Rに送られたLの翻訳の

写し,の手本となったものは,紛失されたものと見なされる.それゆえ,この

写しに基いてDにより出版されたテキストの,バイエルン国立図書館所蔵の最

初の清書からの,時々のまた-1般に重要でない逸脱が,どの程度までRの訂正

に帰するのか,それともどの程度までDが彼の出版の序言の中で報告している

「僅かの誤り」の修正に属するものかを決定することは出来ない.然し殆んど

総ての事柄が, R自身テキストを検閲したということ,又僅か乍ら軽い修正を

加えたということを反証している.わけても重大なのは,彼が出版の事を考え

なかった時,それについて決してなんらの理由を有ってはいなかったという単

純な事実である.

㊥ D版表題の由来. -

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ランケ「近世史の諸時代」の成立 125

それゆえ私は,保存されている清書は, D版よりも,たとえ相違はほんの僅

かであっても速記に近い,従って恐らくRの実際の講演に近いものであると推

定できる.さてミュンヘン国立図書館所蔵の翻訳は,或筆記者の手記で, Lの

手記に成る多数の欄外標題を連続して含んで居り,これに加えて手稿全体の上

に鉛筆書きの少数のMの注を,また確かに王のものである下線,さらに折々の

質問と感嘆の目印Lを散在させている.努頭に81葦の主題を含む短い内容目次

と,翻訳文で内容を概括した題目が記されている.この翻訳の表題は次の如く

である,,Versuch die welthistorischen Epochen der neueren Zeit zu

bestimmen und zu charakterisieren." Dがこれに拠って,,Uber die

Epochen der neueren Geschichte``なる表題を自ら発見したということに

は,なんらの疑いも存在しない.

第一章速記者の講演受容態度

① 」により整理されたテキストと彼の功績. -

D版によって世に知られ有名となった写本の意義は,この写本を本源的速記

と比較する時,始めて完全に推論される.さてLによって整理されたテキスト

は,結合力,濃縮しつつ概括する能九並びにR的思考とこの歴史家の語法と

に対しての感情移入の点で,一つの驚嘆すべき精神的業績を示している. R的

軌道から外れぬ文体の統一性,莫大な史料の濃縮された提示,歴史的過程に向

けられた思考態度,すなわち翻訳の内的及び外的形態の素暗しさは, Lの功績

である.なお,速記の翻訳は清書と比較して推論すると,大体逐語的なもので

はない.然し,,Epochen``の中の引用句・格言の如きは速記からの逐語訳で

ある.

亘)序論につづく国王R問の対話と第7講とが速記のテキストに比べて最も相

異している. -

例えば,人類の道徳的進歩の可能性についての国王の絶えずくり返された穿

さく的な質問に対し,清書やD版においては僅かに, 「最大の繁栄の後再び野

蛮状態に陥っている」アジアの歴史があげられているに過ぎないが,速記にお

いては,なお北米及び南米の占領と植民地化との,人類の文化的進歩に対する

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意義についての興味ある論及が行なわれている.また例えば, D版の中で厳し

い論理的帰結を有する理論化された間奏曲の如く作用している第7講描,速記

の中ではむしろ,最後の仕上げを欠いている不用意な未完成の書入れという印

象を与えている.それゆえ,テキストを決定的な諸問題へ圧縮したことは, L

の特別の業績である.

㊥ Lの取扱い方法の三原則. -

彼の取扱い方法は次の三原則に帰着する.すなわち, 1.口授され速記文字の

ノートの中に書留められたテキストは,至る処で要約されている.なおこのこ

とは,最後の部分に対してより最初の部分に対して一層甚しく妥当している.

2.このテキストは,様式的にも内容的にも収縮されている. 3.取扱い者は多く

の個所において,誤っている叙述過程を改修し,その上また補足によって,事

情次第では客観的流儀の補足によって,理解を促進しようと企てている.以上

の三原則を個別的に検討し, Lの省略方式を観ると,一般に,くり返しや講演

からの脱線や全体的テーマの典拠としての個々の実例,その上恐らくはその個

所で速記者がもはや信頼するに足るテキストを確信をもって復原できない総て

の個所が省略されるという原則が行なわれている.

④客観的に不当と思われる省略,不快考与える文章または陳腐な表現につい

ての省略. -

客観的にみて,余り合点のゆかぬ省略が多い.例えば, Gustav Adolfの死

後における三十年戦争最後の局面の総ての事件の黙殺や, Friedrich Barba-

rossa, Ludwig XIV, Napoleonの如き偉大な個人格の描写における著しい

省略がそうである.また折々, 「カール大帝は司教たちを任命していたので,

彼等は大帝の被造物(KreatureiOとなった」,または「気むづかしい哲学に

ふさわしい表象としての,序論における理性の荻滑さについてのHegelの

Ideeに関して」の如き不快を与える文章または陳腐な表現についての省略が

行なわれている.

⑤筒約法的文章論的省略. -

Lは速記に当りその師Gabelsbergerの範に従って簡約法的文章論的省略を

屡々行なっている.実に彼は速記の翻訳に際しても草た,この省略に従って処

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ランケ「近世史の諾時代」の成立 127

理している.例えば,速記の草稿の最後D.文章は次の如くである. ,.Darin

liegt die Gefahr, die bei der Li増itimit云t nicht vorhanden ist. Der

Vorteil ist, dass es ein stabiles Prihzip ist.バ然るに翻訳においては,

Darin lkgt die Gefahr, die bei dem stabileren Prinzip der Legiti-

mitえt weniger zu befiirchten ist.‖文章の一部分または全文が往々少ない

言葉に集約されて居り,集中の必要がそれを要求する時は,他の個所に移され

ている.然し全節の短文への内容的総括においてもまたLはかなりのことを行

なっている.

㊨ Lの文章補足もテキストの信濃性を害ってはいない. -

Lが欠文や結びつける文章間また移り目となる文章問の補充に際して,如何

に大胆に振舞ったかということが目立うている.かかる補足は殆んど総ての頁

に存在している.彼は場合によっては,速記文の中になかった客観的補足を挿

入している.速記文については勿論,聴取している速記者が清書に取りかかっ

た時, Rの言葉と文章とを耳の中に又記憶の中に留めているということも認め

られ得るのである.テキストの信愚性はかかる書き込みによって異議をさし挟

まれる余地はない.I

⑦速記文の遠別は,出版のためではなく,山のためであり, Lのテキスト構

成の非凡の才と功績が認められる.こ⊥こ⊥-

我々は常に,速記文の選別は出版準備に役立つためではなくて,この講演の

唯一の聴き手たる国王のためにテキストを総括し国王に記憶の足場を与えるこ

とに役立つべきであったということを意識せねばならぬ.この観点からみる

と, Lの取扱い方は全く正当である.我々は唯,この加工者がテキストの構成

に対して抱いていた関心を測るためにのみ,この取扱い方を知らねばならな

い.この加工者はとにかくテキストの内容に対しては何等の影響を与えてはい

ない.彼は奉仕者的役割において,非凡な技偶と適応能力とをもって又最大の

文体的機才好尚をもって内面的に成長を遂げている.彼はその筆記を精神的に

消化し又そのことに依って始めてRの精神を後世のために保存した.

第二章講演成立の契機と特殊な個人的精神的諸条件

① ,,EpochenHの史学史的地位. -

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Rの,,EpoChenHの成立を狙い一とする研究は,最後になお,石本と精神的本

質とについての二・三の問題を設定せねばならぬ.人々は,,Epochen"春Rの

世界史的観照の雄大な総括として理解し,またこの著作を,,Grosse M邑chte;i

や,,Politisches Gespr云chH恐らくは又,,Geschichte der romanischen

imd germanischen Volker von 1494 bis 1514りの序説と同等に取扱うこと

に慣れている.このことは,個々の過程たる世界史の叙事的叙述を内容とする

"Mえr"としての,,EpochenHの, "歴史学"におけるドロイゼンの組織的歴

史学的方法論やブルック-ルトの「世界史的考察」の歴史学的類型学に対する

比較と全く同様に,可能であり正当である.とはいえ此処では未だ,この講演

成立の契槻とこの講演の特殊な個人的精神的諸条件の考察が欠けている.

㊤講演の決定的な前提条件CMの歴史についての根本的質問). -

Bにおける講演の決定的な前提条件は,国王の根本的酎問が提出され,この

質問は何よりも先ず,歴史における「指導的諸理念」 (Leitende Ideen)につ

いての質問であったということである.この質問は既に1854年7月12口付

Doenniges書簡の中に見出され,又速記文の巻頭の文の中にも存在してい

る. Rは冒頭の講演において此の出発点から,二つのより広い概念すなわち,

歴史における進歩の概念,歴史の哲学的説明についての概念を取上げている.

③ Mに対するシェリングの影響とRのシェリング批判. -

Rは国王に対するSchelling (1775-1854年8月20日,以下Sと略す)の強

い影響を知っていた.またRは既に1840年代及び50年代に度々,たいていは批

判的に後期Sの理念に没頭していた. 1853年12月17日付国王宛Sの最後の書簡

に関するRの覚え書に拠って, RIこここの講演において追求している意図,;i推定

することができる.上述のS書簡は, 「現代の趨勢の予測し得る状態の次に世

界を動かすいかなる諸理念力続くであろうか」という国王の質問に対する,こ

の哲学者の回答であった. Rは, Sが「神の理想は,たとえ教会か国家そのも

のであり,強制によって此の理想を実現せんと欲するにしても,教会の眼前に

浮び出るのである」として,昔の意味の教会の復興/Jt論じている立場を超脱し

ている.東に王権についてのSの見解すなわち,ルイ14世に見られそ如く, 「国

王は単なる行動している法律ではなくして,法律を超越し法律の欠点を補う人

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ランケ「近世史の諸時代」o:成立 129

格である」という理念に対し, 「ルイ王は君主制に最大の害を与えた」とて,

この見解を排斥している.

④ ,,Epoche" a序説(歴史告学の防止,歴史主義に対する信LR告白). -

こうして序説は,歴史哲学の防止すなわち,人間的自由の歴史哲学による決

定,並びに現象する全歴史の歴史哲学による評価,さらにHegelの世界史の

意味においてであれ,それともSの時代(Weltalter)の意味においてであれ,

歴史哲学のいわゆるEpocheのためのEpoche,以上のことがらの防止とな

っている. Rは歴史哲学の要求に対し,歴史の経験的知識に対する要求をもっ

て答えた.まさしく序説において遥かに多く,概念のたえず新たな通用の印

象,根本的熟慮の不断の骨の折れる繰返しの印象を与えている,直接的な速記

において,歴史主義の信仰告白が,整理されたテキストにおけるよりも一層明

瞭になっている.

㊥元来RはIdeenよりもTeIユdenzen ^Prinzipien)を重視したが,

,,Epochen,5では此のP.の適用範囲が拡大している. -

実にRは, IdeenよりもTendenzenを重視することに依って,彼の青年時

代の,更に「政治論」や列強の観照の徹底的支配下にあって,彼の科学的創造

力の高所に留っている.それゆえ,列強その物がTendenzenすなわちPrin-

zipienの具現として現われているということは,これらのPrinzipienすな

わち,-カトリック的君主々義的(フランス),ゲルマン的海上的議会的

(イギリス),スラヴ的ギリシア的(ロシア),カトリック的君主々義的ドイツ

的(オーストリア),ドイツ的プロテスタント的軍国主義的(プロシア)

Prinzipienが, -実は個々の歴史的構造の叙述であって,必ずしも一般的

Ideenの具体化ではないという事実と同じく,少しも我々を驚かさない.罪

7章では,20年前に書かれた列強の輪郭が充分厳守されている.然し,,Epochen``

の新味と発展性とは,歴史的個性の本質決定の此の根本原理は今や,精神的及

び政治的諸力に対しても,例えばキリスト教や近代的な立憲的及び民主的諸理

念に対するが如く,遥かにより一般的な要求とより普遍的な意義とをもって適

用されているという点に存している.

㊥フランク時代における国家と教会との結合,次代における教権の優越に対

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130 田中友次郎

するRの批判. -

かかるTendenzenの概念からしてRは,フランク史の経過の中で「国家

と教会との結合」のEpoche,すなわち西洋における俗権と教権との両頭支配

の時代を認めた.次の時代における教権組織の政治的国家的性格は,速記文で

は,清書におけるよりも遥かに明瞭に断定されている.そしてRは,清書の中

で省かれている含蓄ある言い廻しで此の組織を批判し, 「ゲルマン的西洋は久

しくTheokratie (神政々体)ではあり得なかった」.むしろ此の教権組織的

世紀に他の世紀が続き,ゲルマン的ローマ的諸民族の内面的衝動が, 「一つの

哲学的法則に依ってではなく,それら民族のTendenzの不断の具現として」

最も生々と発展して行くということは, 「事物の本性」によるものであると論

じている.

⑦国家と教会との分裂(国家の勢力強大化す). -

宗教改革によって招来された宗教的秩序において,勢力がこれまでよりもむ

しろ国家へ移ったということは重大である.-思うにLutherほどに公権の概

念を鋭く理解した人はなく,新教は既に成立当初においてドイツにおける国家

の原理と結合一体化して分離不能となった.この点イギリスにおいても同一で

あり,要するにRにとっては,国家と教会との歴史的結付きの折にふれての混

合形態は様々である.

そこで,教会が民主々義を一方的に利用しようと欲しないかとの国王の質問

に対しRは,民主々義と世俗的権威とは,決してTheokratieに屈服しない

ということに関して結付いている共通の利害関係を指示することをもって答え

た.さらにRは「ローマ的ゲルマン的精神は教会の形式を凌駕して自由に拡大

する」と述べている.それゆえ,近代の世俗主義は教会との対決から説明さ

れ,又は逆に,近代の世俗化した文化は,西洋の教会的伝統から由来する解放

された力として認められる.

④ ,,Epochen"におけるRの保守的傾向の弱化. -

若いRは曽て,立憲的自由主義を「見知らぬ存在の抽象概念」と称し,憲法

の防止を一般的原理にまで高めた彼の保守的イデオロギーを示したが, ,,Epoc-

hen,,においては,かかる観念を固守したとは言えない.その最後の章が

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ランケ「近世史の諸時代」の成立 131

,,Wiederherstellung``なる表題を有する,,Grosse M云chte``から読み始め

る人は,,Epochenqの第8章すなわち最後の章が,,Das Zeitalter der

RevolutionHなる表題下にあるということに驚かされるに違いない.今や, S

のローマン的復古的君主像の影響を受けているMの御前講演において,その歴

史的現実性における「革命的傾向」は,君主的専制的傾向と並んで殆んど無条

件的に認められている. ,,Grosse Mえchteバにおいても,後にイギリス史にお

いてもアメリカ合衆国の離反に眼が向けられなかったのに,今や,,Epochen"

において, 「北米革命」は革命時代の一断片として,叉言わば,その序章とし

て現われている.唯その中でRは依然として,一つの歴史的傾向が国家的勢力

となった時始めて,この傾向にその充分な特性を与えるという彼の旧来の原理

を守っている. Rの次の言葉はこれを意味している. 「代議制理論は,この理

論が一つの国家を構成した後において始めて,その充分なる意義を得た」.

⑪ Rの近代世界についての保守的観照. -

Rは結びの言葉で次の如く述べている. 「単に,人民主権が一切の物を支配す

るに至るということの中に世界の傾向を認めようと目論む人は,打鳴らされた

鐘の音を理解しない者である.何となれば,民主々義運動には多くのdest-

ruktive Tendenzenが結付いていたので,もし仮りに人民主権が優勢を占め

たとしたら,文化及びキリスト教の危機が生じたであろうから.今や君主制が

再び世界に根を下しつつあるのは,そうした理由による(Rは当時のNapo-

leonnの統治を,君主々義的に構成された北米的原理の人民主権として定義

づけている).けだし恰も大河の決する如き民衆的原理の奔流と共に彰涯とし

て打寄せるdestruktive Tendenzenを消去するには,君主制が是非とも必

要となって来るからである.人心のこのような動と反動との中に巨大な運動と

生の要素とが並び存している」.

⑩ ,,destruktive Tendenzen``について. -

ここでdestruktive Tendenzenとして現われているところの物をRは既

に,彼の原則的内容のために重要な第7講の中で,絶対的国家による人格的世

襲的原理の破壊として特徴づけていた. ,,Wenn die allgemeinen Staatsi-

deen in Deutschland vollkommen Herr warden, so dass nichts iibrig

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132 田中友次郎

bliebe von Personlichem und Erblichem, so wiirde das fiihren zur

Republik und spater zum Kommunismus."それゆえ君主制は,旧保守的

思想の意味において,絶対的国家権力の全能に対抗する保証として理解され,

自由主義と民主々義とは,この絶対的国家権力の先導者と見なされた.

㊨ Bの講演におけるRの国王への教訓. -

かかるRの信念は,国王が結びの対談において提出した「今日ドイツ君主の

課題は何であるか」との質問に対する回答の中に示されている.すなわち,

「君主は世襲権を固守し,しかも時代の傾向たる人民主権の中に存しているも

のを無視してはならない」ということである.のみならずRは,諸信条親近の

理念を認め, Augusburg和議の信条を費え,さらに,新教か完全に全欧を支

配した場合,それは望ましいかの質問に対し,慎重に, ,,Ich mochte diese

Frage nicht unbedingt bejahen. Fur Deutschland w云re es allerdings

das beste gewesen-・."と答えている. Rは本講演においては, -廷臣とは

全くの別人として言動している.しかもRは王に対するSの影響を考慮しつつ

応答している.すなわち,この哲学者が王国の再建されたる高い未来に熱中

し,この国王を,独り国家に対してのみ一層高い霊力を媒介できる国家自体の

単なる完成しつつある勢力としてではなく,国家を凌駕している勢力として特

徴づけた時, Rは次の如く率直に述べている・ 「我々は殊に世界を堅墜旦鍵蔓

ならぬ.それから善を欲せねばならぬ.このことは君主におけると均しく私人

そのものにおいても同様である.ただ権勢(Potenz)においてのみ課題は異

なっている」.速記文においては,ここで更に続いている. 「とにかく君主は,

彼に必須的と思われるもの,彼に良心が命ずるところのものを為さねばなら

些」. Rがこの講演において目指している教育的意図がこの文において以上に

明瞭となっている処はどこにもない.この文はこの君主のために世界史から答

えを引き出さんと欲し,又その際事物そのものに対する君主の行動を方向づけ

んとの控え目な目的を狙っている.

⑲現代の指導的傾向は,君主制・人民主権及び世界の欧州化である. -

現代世界の傾向の多様性と相対性とによって深い不安に駆られているMか再

び, 「何物を我々の世紀の指導的傾向として特微づけ得るか」 (速記文のみに

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ランケ「近世史の諸時代」の成立 133

在り)という質問に対し, Rは結びの言葉において,なお一度かの,,Welt-

geschichte Europasqなる彼の宏大な観照に戻っている. Rは彼の王政復古

に拘束された早期におけるが如く,君主制と人民主権との間の妥協の中に時代

の本質が決定されるのを観んと欲しているのみならず,これと並んで第三の原

理として,同様に激しく,実に殆んど一層支配的に,歴史的にはローマ的ゲル

マン的精神の拡大,すなわち世界の欧州化として実現されている人間精神の

「無限の旭続的発展」を認めている.

⑲若きRの神秘的理念は依然として保持されているが,結びの談話の冷静な

実用主義は,国王への意識的な感化方式である. -

Rは哲学に対抗して,世界の有限性からのなんらの飛躍をも許さない経験的

歴史主義の綱領を設定している.それにも拘わらず,それは単に,純粋な世俗

主義への信仰告白として把握さるべきではない.この点についてはRの著述に

して,,EpochenH以上に推測を許すものはない.若きRの神秘的理念は,神へ

の関与としての歴史への没頭によって,冷静な実用主義的認識をさけている

が,世界史の,..M云r"は, Rにとって依然として神的秘密の一片たるに止って

いる.我々が, Hegelによる-また敢えて付け加え考える如く, -Sによ

る歴史の哲学者的誤解に対するRの論駁を含む講演の初めを回想する時,まさ

しく結びの談話の冷静な実用主義は,決定的な回答を知ることなくして時代の

問題を心にかけている国王-の意識的な感化方式となっている. Lのテキスト

作成に際して隠蔽されている此の最後の談話の個所(速記文のみにあり)で,

Rは国王に対し, 「我々が過した」偉大な各時代についての質問に答えて,彼

の歴史に関する根本的確信をもう一度意味深長に, 「我々がこれまで挙げた若

干の原理,これらの指導的原理は,事物そのものに内在している---. 」と述

べている.

(昭和40年9月30日受理)