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24
日本オーラル・qXg[、 3 抜刷 2007 9 15 日発行 立体的理解 を可能にするオーラル資料 と 文字資料の併用 - 1942 年度 ・1943 年度のタイ国招致学生事業における 在 日タイ国留学生に関する調査研究の事例か ら 河路 由佳

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日本オーラル・ヒストリー研究第3号 抜刷 2007年 9月 15日発行

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用

- 1942年度・1943年度のタイ国招致学生事業における

在日タイ国留学生に関する調査研究の事例から

河 路 由 佳

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『日本オーラル ・ヒストリー研究』第 3号 (2007年9月) 75

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 - 1942年度 ・1 943年度のタイ国招致学生事業における

在日タイ国留学生に関する調査研究の事例から

河路 由佳

1.はじめに

筆者は日本語教育学を専門としており、人が母語以外の言語を学ぶこと、またそれを教える

ことの意味について考えている。特に十数年来関心をもってとりくんでいるのは、太平洋戦争

中の日本語教育、中でも、その時期に 「国際文化事業」1)として取り組まれた日本語教育、ま

たそれと深くかかわる留学生教育である。

こうした研究では、対象となる人物や事柄が複数の国家にまたがることが多く、異なる文化

的文脈の上に現れたその事柄を、それぞれの面から立体的に読み解いていく必要がある。その

ための方法として、筆者は、十数年来の調査研究において、連絡のつく関係者に会って資料を

見てもらい話を聞いたりすることを継続的に行ない Z )、文字資料の調査と並行して実施する聞

き取り調査を必要不可欠のものであると認識してきた。その認識はある程度共有されているも

のと思われ、日本語教育、留学生教育などに関して記述される場合、ジャーナリズムの領域に

属するものも含めて当事者への聞き取り調査、インタビューで得られた資料が活用されること

は比較的多い 3)。

しかしながら、そうした研究の方法について改めて考えたのはここ数年のことで、特に

2004年度より勤務する東京外国語大学の 21世紀 COEプログラム 「史資料ハブ地域文化研究

拠点」のオーラル ・ア-カイヴ班の活動に参加し、日本オーラル ・ヒストリー学会の活動に触

れるようになって学んだものが大きい。

日本語教育の現場にあって 「国際文化交流」のための日本語教育とは何かを問うことから始

めた筆者の研究は、もとより特定の方法論を意識したものではなかったが、文献調査と聴き取

り調査という複数の調査法及びそれによって得られた資料の併用によってそれぞれの調査法や

資料の限界を補うという考え方にもとづいていたようである。

そうして、意識的にとりくんだ最近の聞き取り調査の中で、オーラル資料と文字資料の併用

の有用性を改めて認識させられる事例を経験した。1 942年度 ・1 943年度のタイ国招致学生

事業における在日タイ国留学生に関する調査研究の一環として実施した元留学生への聞き取り

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76 河路 由佳

調査における事例である。

本稿では今回の事例を、文字資料とオーラル資料(聞き取り調査あるいはインタビューによっ

て得られた資料)の併用が研究対象の立体的な理解のために効力を発拝した例としてそのプロ

セスを紹介し、こうした質的研究における文字資料とオーラル資料の併用の有用性について分

析的に考察する。

2.文字資料と聞き取り資料の併用

有夫賢 (2006)はオーラル・ヒストリーを採取する場合を以下の三つに分類して示している。

その内容を以下に箇条書きにして示す。

1.歴史叙述における口述証拠として

文献的、文書史料が存在しないかそれが十分でない場合、これを補う口述資料が必要と

される。この場合はインフォーマント (情報提供者)は、ある程度、客観的な判断が下

せる立場や公人 (役職者や知識人など)が望ましい。

2.歴史的叙述にあって当事者の 「主観的な声」として

戦争体験や被爆体験、事件の当事者、被害者など公的であれ私的であれ、経験した者で

なければ述べられないある種の主観的感情を伴った口述資料が必要とされる。

3.「口述の生活史」として

話者のライフストーリーを口述-聞き書きという方法で調査する場合。

有夫 ( 2006)は、これらには 「事実の探求」の側面と、「意味の探求」の側面が重なり合っ

て存在しており 「歴史的事実の記述を中心とした政治史、外交史、経済史、社会史などに比べ

ると、生活史には人間主体の 『生きる意味の探求』という意味の側面が重要視されている (54

ページ )」と整理している。

この分類に照らして、筆者の実施してきた日本語教育史研究における聞き取り調査について

改めて考えてみると、1と 2を中心に、戦時における 「国際文化事業」としての日本語教育に

関する 「事実の探求」と 「意味の探求」をらせん状に実施してきたことに思い当たる。特に教

育については、その実態はその教育現場における教育者 ・学習者による実践にあり、その意味

は教育者 ・学習者の人生にある。記述された資料は、現場を支えた理念や政策など文字資料な

らではの重要なテクストを含み、現場で使われた教材や学習者による作品、実践報告や教育の

記録などそれぞれに価値を有するものの、教育の実態を理解するためには、文字資料の多くは、

いわば三次元の実態を二次元に写し取った影のようなものである。我々はその二次元の影から

三次元の実態を浮かび上がらせようとするが、それには相応の知識と想像力が必要である。筆

者が文字資料と聞き取り資料の併用を不可欠なものとしてきた第一の理由は、その想像力を養

うためであったと言える。

しかしながら、日本語教育史、また留学生教育史に関する実証的な論考をまとめる際には、

聞き取り調査で得

で聴き取り調査は

料の解読のしかた

資料による裏付け

わからない情報を

その経験がその人

その教育や学習の

また、オーラル

つけた資料として

本稿で紹介する

関する調査研究のJ

いという動機から

ル資料を得ること

期待にこたえる結

つの軸の交差する ̀

印象づけたこの事

3.調査研究の.

本稿は、以上に主

として紹介する研≡

日本では、満洲 !

た。1 933年 2月♂

国議会で 「国際文イ

外務省文化事業部 L

それまでの文化事 ∋

際文化事業」に取I

したのは、国際文イ

中でも 1935年

邦外国人学生の保言

たが、やがて重点7 :

国際学友会は 19

必要のあるいわゆ;

のものである 8)。盲

ための準備教育でl

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ンタビューによっ

列としてそのプロ

有用性について分

∃して示している。

口述資料が必要と

客観的な判断が下

れ、経験した者で

される。

側面が重なり合っ

社会史などに比べ

挽されている ( 54

二取り調査について

ての日本語教育に

い当たる。特に教

にあり、その意味

策など文字資料な

実践報告や教育の

之字資料の多くは、

の二次元の影から

が必要である。筆

、その想像力を毒

≧まとめる際には、

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 77

聞き取り調査で得られた資料を用いることには慎重な姿勢をとってきた。研究のプロセスの中

で聴き取り調査はそれまでほとんど無関係に見えていた複数の文字資料を結び付けたり文字資

料の解読のしかたに重要な示唆を与えてくれたりしたが、聞き取り調査で語られた事柄は文字

資料による裏付けなしには原則として論文に引用することは控えた。ただ、文字資料だけでは

わからない情報を得る意味で用いることはあった。その典型は当時の教師や学習者の思いや、

その経験がその人物の人生にいかなる意味をもたらしたかについての語りであって、これらは

その教育や学習の意味を考察するのに必要なものと考えた。

また、オーラル資料の豊かさにはそれを越えた魅力も利用価値もあると思い、別途、注釈を

つけた資料として発表してきた 4 )。

本稿で紹介する 1 942年度 ・1 943年度のタイ国招致学生事業における在日タイ国留学生に

関する調査研究の例では、文字資料の不可解な部分を当事者に会って話をきくことで理解した

いという動機から聞き取り調査を実施した。文字資料だけでは理解の困難な部分を、オーラ

ル資料を得ることで構造的に理解できるのではないかと期待したのである。今回の調査はその

期待にこたえる結果をもたらした。文字資料とオーラル資料は異なる軸を持つもので、この 2

つの軸の交差する空間に研究対象が初めて立体的に浮かび上がる場合がある。そのことを強く

印象づけたこの事例について以下に紹介しながら、分析してゆく。

3.調査研究の背景

本稿は、以上に述べたように、文字資料とオーラル資料の併用をめぐる論考であるが、事例

として紹介する研究の背景について、以下に簡潔に整理しておく。

日本では、満洲事変の後、国際的な孤立への危機意識から国際交流の重要性に注目が集まっ

た。 1 933年 2月の国際連盟脱退をはさむ 1 933年 1月から 3月にかけて開かれた第 64回帝

国議会で 「国際文化事業局開設に関する決議案」が審議され可決されると、翌 1 935年 8月に

外務省文化事業部に国際文化事業を管掌する第三課( 1938年 12月より第二課)が新設された。

それまでの文化事業部の業務が 「対支文化事業」に限られていた 5 )のを改め、世界に向けた 「国

際文化事業」に取り組む体制を整えたものである。この管轄下に日本語普及 ・教育事業を実施

したのは、国際文化振興会 6)と国際学友会であった。

中でも 1 935年 12月に設立された国際学友会は 「学生を通し国際文化の交席を図り、且本

邦外国人学生の保護善導を図るを目的と 7)」し、日本語学習支援は当初は補助的なものであっ

たが、やがて重点をおいてとりくまれることになり、相応の成果を残した。

国際学友会は 1 943年度に国際学友会日本語学校を開校したが、これは漢字を最初から学ぶ

必要のあるいわゆる非漢字圏出身の留学生を対象とした 1年課程の予備教育機関として最初

のものである 8 )O留学生の予備教育とは、留学生が日本語で高等教育を受けられるようになる

ための準備教育で日本語教育を主とする。それ以前には不可能と考えられていた 1年課程の

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78 河路 由佳

実現を促進したのは、熱心に学ぼうとした留学生たち、そしてそれに応えようとしてとりくん

だ教員たちと彼らを支えた国家的な支援の厚さであった。当時、国際学友会で最も多かったの

はタイからの留学生で 9)、彼らに対する教育実践と並行して国際学友会は教科書編纂、カリキュ

ラムの編成、教育環境の整備等を実現した。

特に 1942年 1月に国際学友会と泰国文部省との間に結ばれた 「泰国学生招致に関する協

定」によって 1942年9月末に来日した第 1回タイ国招致学生の 6名に対する日本語教育の

成果は大きかった。「成功例」としての当時の報告を含めて、文字資料が比較的多く残されて

いる 10)。しかしながら翌 1943年8月末に来日した第 2回タイ国招致学生の 6名については、

日本語教育は順調に行なわれず、前年の学生たちのような成果は得られなかったとされる。こ

のときの国際学友会日本語学校は 1943年4月に開校し、1945年 12月に閉校となる短い運

命にあったが、それにしても開校に先行して成功例を収めたとされる第 1回招致学生に比べ、

開校して間もなく来日した第 2期生の教育がうまく運ばなかったらしいことは謎であり、こ

れを明らかにする手がかりを得るために実施したというのが本稿で紹介する聞き取り調査の概

略である。

4.タイ国招致学生に関する主な文字資料

(1)タイ国招致学生制度について

本稿で紹介するタイ国招致学生は、国際学友会と泰国文部省との間に 1942年 1月 19日付

で結ばれた 「泰国学生招致に関する協定」に基づき、1942年度・1943年度にそれぞれ 6名 (男

子 4名 ・女子 2名)ずつ来日した。

協定に書かれた学生の資格や選抜方法を抜粋してまとめると以下の通りである 11)0

1.男女ともマタヨム (中等学校)6年を修了し、年齢は 17歳を超えないこと。原則と

して毎年、男子 5名、女子 2名とする。(ママ)

2.学修科目は募集の都度タイ国文部省の意向を参照して国際学友会が決定する。

3.採用は学術試験、人物試験、健康診断によるが、学術試験に合格した者にのみ、人

物試験、健康診断を課す。学術試験はタイ国文部省に、人物試験と健康診断は在タ

イ国日本大使館にそれぞれ委託する。

4.招致学生は日本留学中、国際学友会及び在日タイ国大使館の指示監督に従い、学業

に専念すること。もし学業成績または素行の不良や学生の本分にもとる行為により

成業の見込みなしと認められた場合は招致学生の資格を取り消し帰国させることが

ある。

彼らは来日直後の一定期間を国際学友会で主として日本語の予備教育を受け、その後それぞ

れ高等教育機関に進学し、8年程度の長期にわたって日本で教育を受けることとされていた。

この協定の結ばれた 1942年 1月は、ピブ-ン首相に率いられたタイ国が日本に従う形で米

英に宣戦布告を

同士と互いを認

本軍がタイに進

1944年 7月に1

関係は冷めてい

国はただちに対

いを免れ、続い

定によって留学

ことができなか

(2)来日した羽

l)日本にあ召

招致学生の受l

事録、月次報告

されている。ほ

の学習状況」が

して具体的に詳:

報告には、招致

本タイ協会会報⊂

2)タイにあそ

タイにおける

28日号に、「あ;

回招致学生が跡

に取材したもの,

学生である聞きⅠ

の類、またその与

るのを確認する(

3)タイにあそ

調査がまだ十

かっており、そ(

務省への在日留±

また、バンコケ

会会誌』には、う

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うとしてとりくん

で最も多かったの

・書編纂、カリキュ

巨招致に関する協

「る日本語教育の

攻的多く残されて

16名については、

ったとされる。こ

開校となる短い運

l招致学生に比べ、

とは謎であり、こ

聞き取り調査の概

12年 1月 19日付

それぞれ 6名 (男

ある 11)0

ないこと。原則と

)決定する.‡

した者にのみ、人

と健康診断は在夕

監督に従い、学業

もとる行為により

帰国させることが

:け、その後それぞ

ととされていた。

;日本に従う形で米

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 79

英に宣戦布告をし、そのことが日本のマスコミにも大きく報道されていた。東アジアの独立国

同士と互いを認識し、「東亜の盟邦」として日本とタイが接近した時期に当たる。この後、日

本軍がタイに進駐し、占領地同様の扱いをすることが目立ってタイ側の日本への期待は失われ、

1944年 7月にピブ⊥ン政権が破綻して新政権ができると、それまでに築かれた親密な日タイ

関係は冷めていった。1 945年8月 15日の日本の敗戦によって太平洋戦争が終結するとタイ

国はただちに対英米宣戦布告は日本の圧力によるもので無効であるとの宣言を出して敗戦国扱

いを免れ、続いてそれまでに結ばれた対日関係条約協定の廃棄を通告した。そのため、この協

定によって留学した学生たちの奨学金の根拠も失われ、学生たちは当初の勉学目的を遂行する

ことができなかった。

(2)来日した招致学生に関する文字資料

招致学生らに関する文字資料で、聞き取り調査に先立って筆者の見ることができた主なもの

を以下に整理して挙げる。

1)日本にある日本語資料

招致学生の受け入れ及びその教育 ・進学の斡旋などを行った国際学友会の学籍簿や理事会議

事録、月次報告、会報といった文字資料が外務省外交史料館及び国際学友会 12)の資料室に残

されている。ほかに国際学友会 (1943)は、その題名 「日本語教授三ケ月- 泰国招致学生

の学習状況」が示すとおり、第 1回招致学生 6名への日本語教育 (彼らの日本語学習)に関

して具体的に詳述された現場からの報告で、当時の日本語教育の記録として貴重である。この

報告には、招致学生本人による作文も掲載されている。また、日本タイ協会による月刊誌 『日

本タイ協会会報』などにも、彼らに関する記事を見ることができる。

2)タイにある日本語資料

タイにおける日本語社会向けに発行されている新聞 「週刊バンコク」1 979年 1月22日-

28日号に、「ある避近- 色あせない目・タイの友情を」と題されて掲載された記事は、第 1

回招致学生が初めて日本へ行くとき乗った船の乗組員と 37年ぶりにバンコクで再会したこと

に取材したものである。そのほか、過去のバンコクでの聞き取り調査の中で ■3)、元タイ人留

学生である聞き取り対象者が所有していた当時の身分証明書、国際学友会から授与された賞状

の類、またその後日本語教師など交流のあった日本人とやりとりをした書簡の類が残されてい

るのを確認することができた。

3)タイにあるタイ語資料

調査がまだ十分ではないが、タイ国公文書館文書の中に関連文書が含まれていることがわ

かっており、その中の 1943年 4月 8日、同年 6月 23日付けの在日タイ大使館よりタイ国外

務省への在日留学生に関する報告文書を複写を、入手することによって読むことができた 14)0

また、バンコクで刊行されているタイ国元日本留学生会による季刊誌 『タイ国元日本留学生

会会誌』には、元留学生によるエッセイやインタビュー記事が見られ、そのいくつかを読むこ

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80 河路 由佳

とができた。中でも今回の調査に関係の深いものは、チュムシン ・ナ ・ナコーン (1991)「愛

情と秤 - 1枚の古い写真から - 」(『タイ国元日本留学生会四十周年記念誌』)とプラシッ

ト・チャイティップ (1994・ 1995)「東京発の最後の船」(季刊 『タイ国元日本留学生会会誌』

1994年 4月-6月号、7月-9月号、10月 -12月号、1 995年 1月-3月号の 4回に分け

て連載)で、いずれもタイ語読者に向けた、当事者による当時の回想を含むエッセイである。

今回の聞き取り調査はこれらのエッセイの著者 2名を含む 3名に対して行なわれた。

5.文字資料に見るタイ国招致学生

聞き取り調査に先立って文字資料を読んで行くと、第 1回招致学生と第 2回招致学生に関

する記述に質量ともに大きな違いがあり、日本側の当事者たちの間での評価が対照的であるこ

とがわかった。聞き取り調査の前程になったその違いについて、以下にまとめる。

(1)第 1回招致学生

第 1回招致学生は、1 942年 9月 27日に 6名がそろって来日、国際学友会で 1年半日本語

を学習し、高等教育を受けるに十分な日本語力を身につけ、それぞれ高等教育機関へ進学したO

しかしながら、1名は進学のため赴いた福岡の海岸で事故死するという悲劇に遭い、1名は病

気のため早期に帰国、他の 4名も終戦前後に帰国した。

表 1)第 1回招致学生 (国際学友会学籍簿より 作成 :河路)

呼び名 悼 来日時 進学先満年齢 備考

ニヨム M 15 福岡高等学校理科 1946年 1月帰国

ティナコーン M 15 福岡高等学校理科 1944年 7月 30日 事故死

パーン M 17 横浜高等工業学校 (機械科) 1946年 1月帰国

ワラ-ハ M 14 福岡高等学校理科 病気のため、1 944年 11月帰国

チユムシン F 16 日本女子大学校家政科 1945年 2月帰国

その日本語学習の状況については国際学友会 (1943)や学籍簿の記録から、具体的に知る

ことができる。例えば国際学友会 (1943)には以下のように記述されている。

数へ年十六 ・七歳の心身共に健全な少年少女たちで、日本において四年乃至八年に亘っ

て徹底的に教育 しようといふ者たちであるから、これまで学友会で取り扱った国籍 ・年

齢 ・学歴 ・境遇 ・志望等の異なる各国人の寄集まってゐる組とはちがって、教授上にも

扱ひよく、随って成績も非常に良好である。( 81ページ)

彼等が≡

ことにも

の指図に

らである

日本語教師だ

に応えて文字 iB

1年半で予備教

かりか、高等裁

先に示したエ

は、その題名 「に満ちて乗った

していることを

果たしたという

た 「週刊バンコ

わりが強調され

(表 2)第 1回タ.

一万、1 943j

る公文書の中に

性が高いので、

金に頼っている

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ーン (1991)「愛

:誌』)とプラシッ

ト本留学生会会誌』

1号の 4回に分け

エ ッセイである.

われた。

2回招致学生に関

が対照的であるこ

める。

会で 1年半日本語

宇機関へ進学した。

に遭い、1名は病

立休的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 81

彼等が三ケ月の学習としては非常に成績良好なのは、選ばれて来た頭の良い者達である

ことにもよるが、家庭的な嚢にゐて、勉学と運動のほか余念のない境遇にをり、教授者

の指図にすなはに従って、習っただけの事は必ず身につけるだけの勉強を続けてゐるか

らである。(89ページ)

日本語教師たちは年齢の低い彼らに対し、家庭に招くなど愛情をこめて接し、彼らもそれ

に応えて文字通り家庭的な雰囲気の中で素直に学習していた様子が読み取れる。彼らは実際、

1年半で予備教育に予定されていたすべての課程を終え、日本語による会話に不自由がないば

かりか、高等教育に必要な読み書き能力も身につけたことが記録されている。

先に示したエッセイのうち、第 1回招致学生の 1人によるチュムシン・ナ・ナコーン (1991)

は、その題名 「「愛情と粋- 1枚の古い写真から- 」に示されるように、16歳の日、希望

に満ちて乗った日本への船で出会った乗組員が、その 35年後、1枚の写真を頼りに彼らを探

していることを知り、1979年 1月に 6名の仲間のうち 4名が集ってその元乗組員との再会を

果たしたというエピソー ドを心温まる交流の物語として綴ったものである。同じ事実に取材し

た 「週刊バンコク」の記事もこれに呼応する内容で、彼らと日本の人々との愛情に満ちたかか

わりが強調されている。

(表2)第1回タイ国招致学生 6名に対する日本語予備教育 (国際学友会学籍簿より 作成:河路)

ヒリ 作成 :河路)

ら、具体的に知る

ら。

】年乃至八年に亘つ

己り扱った国籍 ・年

りて、教授上にも

年月日 (期間 時) 数 学習内容 .使用教科書 日本語以外の科目

入学 1942/10/1 開始時、日本語学習経験は皆無

1 1942/10/ -同112/

2 1943/1/6-同 3/

3 194/4/1-7/233

4 943/8/ll-112/28

5 1944/1/1-3/28

28264国際学友会 『日本語教科書 基礎編 .巻 l』 なし

25301国際学友会 『日本語教科書巻 2』『巻 3』途中 英語

同 381国際学友会 『日本語教科書 3』続き、『巻 4』 英語 .歴史理 .化学 .物

同 508国際学友会 『日本語教科書 5』 英語 体操数学 ..物象..歴史

同 277 岩波書店 『国語 1』.新聞など 体操 .苦楽 .学 .英語 敬

苦楽 .

一万、1943年 6月 23日付けの在日タイ大使館からタイ国外務省にあてられたタイ語によ

る公文書の中には、「彼ら (訳注 :日本政府から奨学金を得ている学生)は、洗脳される可能

性が高いので、非常に危険で、心配でたまりません。これらの留学生は日本の組織からの奨学

金に頼っているため、在日タイ大使館を無視するような行動がはっきりと見え、何の協力もし

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:

.

82 河路 由佳

てもらえません」(タイ国公文書館文書,原文はタイ語。翻訳 :モンコンチャイ・アッカラチヤ

イ)との記述が見られる。この 「日本政府から奨学金を得ている学生」は、第 1回招致学生

を指すものと思われる。1 4歳から 17歳という低年齢で留学生として受け入れ、家庭的な雰

囲気のうちに教育を施し日本の高等教育機関への進学を斡旋して 8年という長期にわたる留

学を経験させることの国家的な目的のひとつに親日的なタイ人を育てることがあった。周囲が

そのことに熱心であれば、若い学生たちがそれに素直に応えることはあり得るが、タイ国大使

館から見れば、それが 「洗脳されやすい危険な状況」と見えるのは道理である。

以上の文字資料はいずれも矛盾することなく、彼らの様子を語っていると思われた。すなわ

ち、彼らは素直に日本側の準備した環境に順応し、幸福な気分で勉強に勤しみ、所定の予備教

育課程を良好な成績で修了し、それぞれ斡旋された高等教育機関に進学を果たした。が、それ

について在日タイ大使館が不安を抱いていたことは、やがて日本の敗戦により、彼らの留学を

支えた日タイ関係が崩壊することになる予兆であったろうと解釈されたのである。

(表 3)第 2回

♂. /一■り

旧卜満、

19

この間、彼ら

2回招致学生に

ては教師であて

る人でも第 2匝

しかし、調査

41年の夏に

学生 Sへの聞き

( 43年 10月)の 「雑報」の欄には彼らの来日を知らせる 8月 29日付の毎日新聞の記事が Sへのはがきで19

)第 2回招致学生

第 1回タイ国招致学生の来日から約 11か月後にあたる 1943年 8月 28日、第 2回タイ国

(2

招致学生の 6名 (男子 4名、女子 2名)が来日した。『財団法人 日本タイ協会会報第 36号』

紹介されている (88ページ ) 0 模範学生として

彼が卒業した凄

東亜の盟主日本の学術を学ぶためタイ国文部省から派遣された男女留学生六名が八月 というと、第 1

二十八日来朝した。何れも同国中学校在学中または卒業者中から選抜された優秀者達で わるようにタイ

先づ日本語を勉強した後夫々高等専門学校に入学する。 (八 ・二十九、毎日 )

えるのである。

この限りにおいては、第 1回招致学生と同じ待遇が見込まれていたのに違いない。この時期、 ている。はがき

第 1回招致学生は国際学友会日本語学校で順調に日本語学習に励んでおり、第 2回招致学生

も同じ宿舎に入り、同じ学校に通って同様に勉強を始めた。 最近の状

W しかしながら、彼らに関する日本語学習の記録は第 1回招致学生が国際学友会日本語学校 て何より

)

-tiU

を卒業した 1944年 3月までしか残されていない。同じ時期に、いわゆる南方特別留学生は

授業を受けていた。タイからの南方特別留学生 12名は 1944年 4月来日、 1 945年 3月まで

監 (大佐

した。然

国際学友会で学習しその 4月にそれぞれ秋田鉱寺、岐阜農専畜産科、東京歯科医専、函館高 指示を待

等水産などへ進学を果たしている。第 2回招致学生がもし第 1回招致学生と同じ日本語教育 ・

進学斡旋を受けたとしたら、この南方特別留学生と同じく 1945年 3月まで日本語を学び、進 陸軍の命令で

学したはずであった。しかし、第 2回タイ国招致学生については日本語学習の記録が 1944年 はがきの文面

3月で絶えている。彼らはいずれも高等教育機関に進学を斡旋されることなく、日本語学校を 学校でも命令に

卒業することもなく、全員が 1945年 2月 14日に日本を離れ、帰国していった。 いう第二回招致

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立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 83

イ・アツカラチヤ (表 3)第 2回招致学生 (国際学友会学籍簿より 作成 :河路)

第 1回招致学生

入れ、家庭的な雰

う長期にわたる留

があった。周囲が

るが、タイ国大使

るO

思われた。すなわ

み、所定の予備教

たした。が、それ

り、彼らの留学を

ある。

日、第 2回タイ国

協会会報第 36号』

毎日新聞の記事が

:留学生六名が八月

≡された優秀者達で

毎日)

.、ない。この時斯、

、第 2回招致学生

学友会日本語学校

南方特別留学生は

1945年 3月まで

:歯科医専、函館高

二同じ日本語教育 ・

:・日本語を学び、進

守の記録が 1944年

iく、日本語学校を

・った。

名前 悼 来日時の満年齢 進学先 備考

プラモート M 16 なし 1945年 2月帰国

プラシット M 14 なし 1945年 2月帰国

チヨム M 16 なし 1945年 2月帰国

ピシット M 15 なし 1945年 2月帰国

カンチャナ - F 15 なし 1945年 2月帰国

この間、彼らの学習や生活がどうなっていたのか、日本側の文字資料からはわからない。第

2回招致学生についての文字資料は第 1回招致学生に比べて少ない。当時の国際学友会につい

ては教師であった方々への聴き取り調査も実施してきたが、第 1回学生について記憶してい

る人でも第 2回の学生は覚えていないなど、どうも第 2回生は影が薄いのである。

しかし、調査を進めるうちに、新たな文字資料が発見されることがあった。そのひとつは、

1941年の夏に来目し 1943年 4月に日本語教育を終えて高等教育機関に進学した元タイ人留

学生 Sへの聞き取り調査の中で示された、1 944年 4月 2日付けの日本語教師 Tから留学生

Sへのはがきである。勉学に励み高い日本語力をつけて進学、無事専門の学業を修めた Sは、

模範学生として表彰を受けた優等生であった。日本語教師 Tは、進学先の寮で暮らす Sに、

彼が卒業したあとの国際学友会のタイ人留学生の様子を書き送っている。1 944年 4月 2日

というと、第 1回招致学生がその 3月末日をもって卒業、それぞれの進学先に進み、入れ替

わるようにタイからの南方特別留学生の 12名が来日、日本語学校に入学する直前にあたる。

1943年 8月末に来日、日本語学習を開始した第 2回招致学生の学習記録はこの 4月からとだ

えるのである。このような時期の「近況」として、教師 Tは元教え子の Sにこのように書き送っ

ている。はがきの文面からその部分を以下に引用して示す。

最近の状況を報告した詳しいお手紙を有難う。いつも心身共に頑張ってゐる様子を聞い

て何より喜んでいます。学友会も段々強力な組織になり、校長 (陸軍中将)の下に学生

監 (大佐)も任命されました。学生もみな九州へ入学して新しい泰人が十二人到着しま

した。然るに前からゐる第二回の招致学生達が寮でも学校でも命令に服せず大東亜省の

指示を待って処分しなければならぬやうな状態です。(後略)

陸軍の命令で校長として陸軍中将が送られ着任したのは 1943年 11月のことであった。

はがきの文面からは、そうした時局の影響による学校の雰囲気の変化と、その中で 「寮でも

学校でも命令に服せず大東亜省の指示を待って処分しなければならぬやうな状態」であったと

いう第二回招致学生の様子が述べられている。同じタイ人留学生の卒業生へのはがきであるこ

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84 河路 由佳

とを考えると不用意とも思われる 「近況報告」だが、SとTの間には深い信頼が結ばれていた

ようである。はがきの文面は

別便で文法の本を送りましたから、ひまなときおよみなさいO

と、結ばれているOほかにもはがきが数枚保管されていたが、双方向で贈り物のやりとりもあ

り、頻繁に書簡が交わされていたようであった。その中の一枚にふともらされた第 2回招致

学生の 「近況」は、文字資料の少ない彼らの様子を伝える貴重な資料である 】5)。

間もなく、第 2回招致学生であった一人によるエッセイ、プラシット・チャイティップ

「東京発の最後の船」が、タイ国元日本留学生会による季刊 『タイ国元日本留学生会会誌』の

1994年 4月-6月号、7月-9月号、10月 -12月号、1 995年 1月-3月号の 4回に分け

て連載されていることを知り、翻訳を通してその内容を読むことができた。日本留学中の思い

出を掘った長文のエッセイには客観的事実に誤認は少なくないものの、留学生当時の心情が生

き生きと描かれている。留学中、次第に当局の支配的な姿勢が強まり、服しがたい命令が下る

など納得しがたい事態に遭遇する機会が増え、屈辱を感じて反抗しては処罰されたことなど彼

らの 「反抗心」が国際学友会や大東亜省など日本側の当局のみならず、在日タイ大使館からも

にらまれていた様子が描かれている。しかしながら、男子学生 4人が罰として謹慎させられ

ているところに、処罰を免れた女子学生 2人が心配して差し入れをもってきたといった記述

もあり、この 「反抗」が愛国心ゆえの言動であったことが少なくとも第 2回招致学生 6人に

は共感されていたように語られている。

以上の文字資料の内容を総合的に理解して読み取れる第 2回招致学生は、「愛l卦E '」ゆえの

反抗的な言動によって国際学友会で問題を起こしがちで、教室で順調に学習できる状況にはな

かった。そのため 1944年 4月以降の授業は十分に行なわれず、したがって高い日本語力を

つけることもなく 1945年 2月の船で帰国するよう指導されたようである。

教師をはじめ日本における彼らの周囲の人々は、第 1回招致学生についてはその従順な素

直さに愛情を傾けたのに対し、第 2回招致学生については反抗的な態度を問題視し厳しい態

度で接したようである。

6.元タイ国招致学生への聞き取り調査

以上のように文字資料をたどる限り、第 1回招致学生と第 2回招致学生の印象は正反対に

見える。少なくとも、当時の国際学友会の教師たちや大東亜省、また在日タイ国大使館にはそ

のように映っていたものと推察される。当事者はこのことについて、どのように認識している

のだろうか。筆者は今回調査に先立って元タイ人留学生への聞き取り調査を 2004年 3月か

ら 2005年 1月にかけて 3回実施していたが、2 005年 10月の調査はこの招致学生の謎に焦

点をあて、第 1回タイ国招致学生であったチュムシン、スダー、また第 2回招致学生であっ

たプラシットの 3人への聞き取り調査を実施したのである 16)。

調査は、タ

学の日本語専

さん、翌 4日

実現した。チ

の語りは主と

ポートなど資

とができた。 ;

称を省略させ '

7.オーラノⅠ

聞き取り調至

語話者によっ 1

にまとめた。 ]

もって研究対義

の有用性につし

よる資料集にヨ

確認した文弓

に記述されてj

習効果がめざヨ

たという理解に

実態を明らかに

このうち、巨

得られた。第 1

流が続いたと讃

女性教師 T(先

に、戦後も T丈

ともに送られJ :

れることにつ V

スダー : (東〕

ちろん目

のときは

夫でした

Page 12: ァフI理解をツ¥ノキるI[ラル資ソニ カ字資ソフケpw日{I[ラル・qXgリ[、究x第 (2007 3 号 N 9 月) 75 ァフI理解をツ¥ノキるI[ラル資ソニカ字資ソフケp-1942

頬が結ばれていた

物のやりとりもあ

きれた第 2回招致 15)○

・チャイティップ

留学生会会誌』の

E]号の 4回に分け

日本留学中の思い

と生当時の心情が生

′がたい命令が下る

ほれたことなど彼

lタイ大使館からも

して謹慎させられ

きたといった記述

回招致学生 6人に

.「愛国心」ゆえの

?できる状況にはな

て高い日本語力を

・てはその従順な素

澗題視し厳しい態

三の印象は正反対に

旨イ国大使館にはそ

とうに認識している

至を2004年 3月か

)招致学生の謎に焦

!回招致学生であっ

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 85

調査は、タイ国チュラロンコン大学のウオラウット・チラソンバット氏の協力を得て、同大

学の日本語専攻の学生、パウイトラ-さんを通訳に、10月 3日にはチュムシンさんとスダー

さん、翌 4日にはチュムシンさんとプラシットさんにホテルのロビーでお話をうかがう形で

実現した。チュムシンさんの語りは大半が日本語でなされたが、スダーさん、プラシットさん

の語りは主としてタイ語によってなされた。チュムシンさん、スダーさんは当時の写真やパス

ポー トなど資料を持参してくれたこともあり、当時の日本留学について筆者は理解を深めるこ

とができた。なお、以下の記述においては記述の客観性のために元留学生の方々のお名前の敬

称を省略させていただくこととする。

7.オーラル資料によって新たに明らかになったこと

聞き取り調査によって得られたオーラル資料は通訳部分をもとに日本語で文字化して、タイ

語話者によってタイ語部分の録苦を聞きなおして加筆訂正するという作業を経たものを資料集

にまとめた。本稿では、本調査研究における内容から、オーラル資料と文字資料が異質の軸を

もって研究対象の立体的な理解を促すものと考えられる事例を特に抜き出して示し、その併用

の有用性について考察することとするO本稿における元留学生の語りは、上に示した日本語に

よる資料集にまとめたものから引用する。

確認した文字資料では、第 1回招致学生 6名と第 2回招致学生 6名について、それぞれ別

に記述されており、第 1回招致学生は日本側の用意した環境に従順に順応してよく学び、学

習効果がめざましく、第 2回招致学生は反抗的で素直に学ぶことをせず、教育が成立しなかっ

たという理解において矛盾のないものであった。このことについて、当事者の認識を確認し、

実態を明らかにし、理解を深めることが、今回の調査の主たる目的であった。

このうち、日本語教師らとの関係、日本語学習の様子に関しては文字資料を裏付ける証言が

得られた。第 1回招致学生のチュムシン、スダーは、日本人との関係が良好であり戦後も交

流が続いたと語り、プラシットはそのようなことはない、と語ったのである。特に担任だった

女性教師 T (先に示したはがきの差出人でもある)との関係についてスダー、チュムシンは共

に、戦後も Tが亡くなるまで交流の続いたことをなつかしげに語り、それぞれ戦後、手紙と

ともに送られた Tの写真を大切に持っていた。日本語学習の成果がめざましかったと伝えら

れることについても、二人の発言はこれを裏付けるものであった。

スダー :(東京女子高等師範学校の)入学試験は大勢の日本人と一緒です。同じ試験で、も

ちろん日本語で受験します。漢字のレベルは 3000字程度と言われていました。私はそ

のときは、日本語で喧嘩をすることもできるほど日本語が自由にできましたから、大丈

夫でした。

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86 河路 由佳

チュムシンは、1945年 2月に帰国してから、バンコク日本語学校の日本語教師となったと

いう。当時バンコク日本語学校の校長は、元国際学友会の教師であった鈴木忍であり、その関

係で誘われたのだったと思うということであった。そのほか、第 1期生の二人は日本語学習

の様子を具体的に好ましく誇らしい記憶として笑顔を交えて語った。それに対し、第 2回招

致学生のプラシットはそのような思い出をほとんど持っていなかった0

プラシット:最初の担任は M先生でした。若くてハンサムないい先生でした。わたしたち

は M先生を尊敬していて、何の問題も感じたことがありません。先生の教え方はよかっ

たんですが、日本語の上達があまりかんばしくなかったのは、私の方の問題だと思いま

す。私はあまり外国語の学習に向いていないようです。

教師Mは戦後国語学者として活躍され、国語辞典の編者として一般にも知られる人物だが、

'

I.. :A-:II =II1''

:.M.

..

:,II:I:

ど子

この日、ス

間したところ

プラシットはMは戦死したと思い込んでいた。戦後、交流が続いた日本人はいないという。

44年末には通常の授業がなくなり、「授業はないし家にいるばかりで、特に何もすること L19

がなくなったので、何もしませんでした。」ということであった 17)0

しかし、文字資料から読み取れた第 1回招致学生は従順で第 2回招致学生は反抗的であっ というもので

たという認識について、当事者はこれを共有していなかった。このことは、今回の聞き取り調 ドは、スダー

査から得られたオーラル資料の中でも最も大きな成果のひとつで、本稿では特にこのことを中 持している。

心に報告する。 ついては、似

反抗的であったのは第 2回招致学生に限らなかったというのである。スダーは反抗的な行 生たちに軍服

動を自分が指揮したこともあると語り、このことについて意識的であったO筆者の質問に対し と言い、これ

て、スダーは以下のように説明している。 も語られた。

スダー :(「第 2回招致学生は反抗的だった様子がプラシットさんのエッセイに書かれてい プラシット

るが- 」との質問に対して)そんなに悪いことはしなかったと思いますが。そうです・- いう意l

か。第 1期の学生でもパーンさんはよくそういう反抗をしました。当時、同盟国はタ ます。(

イだけですね。そのほかの東南アジアの国は支配されていた国です。で、タイだけは違

いますから、タイ人は違うので、一緒にしないでください、ということは、第 1期の 十代の若者

招致学生のみんなで、校長先生のところに行って言いました。これはみんなで行ったの プラシットに.

です。映画を撮影するという話がありました。それは、日本の支配の地域の留学生を撮 て、改めてた・

るものだったので、私たちは、タイ人は別なので、撮影しないようにと頼みました。学

校はわかったといいました。でも、映写機の回る書が聞こえてきました。裏切られたと プラシット

思って、私たちはそこから逃げ出したことがあります。あれは先生が約束を守らなかっ メンバ・

たのです.あれを言いにいったときは、リーダーは私でした。みんなを連れて一緒に行 まだ子.

きました。あのとき、学校は映画の撮影をタイ人は撮らないと、約束したんです。私た

、話

、た

L

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語教師となったと

忍であり、その関

二人は日本語学習

・こ対し、第 2回招

した。わたしたち

の教え方はよかっ

の問題だと思いま

3]られる人物だが、

\はいないという。

・特に何もすること

生は反抗的であっ

今回の聞き取り調

:特にこのことを中

ダーは反抗的な行

筆者の質問に対し

セイに書かれてい

・ますが。そうです

当時、同盟国はタ

で、タイだけは達

ことは、第 1期の

まみんなで行ったの

つ地域の留学生を撮

こと頼みました。学

ノた。裏切られたと

う1約束を守らなかっ

よを連れて一緒に行

束したんです。私た

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 87

ちは間違ったことはしていませんが、先生のほうが約束を破りました。(中略)だから、

タイ人学生の扱いについて、抗議をしたのは私たち 1期生も同じです。Z期生だけが反

抗的ということではありません。(中略)

2期生が来てから 1期生も一緒に動いたので、2期生のせいだと見えたのかもしれませ

ん。実際、抗議しなければならないことが、2期生が来たころから増えたのです。それ

で、それについての抗議行動は、わたしがリーダーだったこともあったのです。

この日、スダーに付き添ってきたご長男に日本留学の思い出としてどんな話を聞いたかと質

問したところ、返ってきた答えは、

子どものときから母は毎晩、日本の昔話など話してくれましたが、印象に残っているの

は、日の丸に頭を下げよといわれても下げなかった、という話です。それで先生と喧嘩

した、という話です。母はこの話が好きらしく、何度も聞きました。戦争のときに苦労

した話もよく聞きました。昔私に話したことを、私の娘にもよく話しています。

というもので、戦時の国家的な統制が教育現場に及び、それに対して抗議をしたというエピソー

ドは、スダーにとって繰り返し子どもや孫に語りつぐべき日本留学の思い出であったことを支

持している。反抗的な行動をエッセイに書いた第 2回招致学生のプラシットも、このことに

ついては、似たような考えをもっているようである。1 944年度になって、国際学友会では学

生たちに軍服に似た制服を着せようとし男子学生全員に髪を剃って坊主頭にするように命じた

と言い、これに承服できずに抗議をしたというエピソードはエッセイにも語られるが、口頭で

も語られた。

プラシット:私の考えでは、日本の戦争は、タイ以外の東南アジアの国々に独立を促したと

いう意味はあったと思います。その点では評価していいのではないかと、私も思ってい

ます。しかし、それはもともと独立国であるタイにはあてはまらなかったということです。

十代の若者ながら、彼らは当時の日本の対タイ外交の乱みを敏感に察していたようである。

プラシットによるエッセイに当時学生の間に 「抗日団体」があったと書かれていたことについ

て、改めてたずねると、

プラシット:この抗日団体は自分たちのことを指します。別に知られているのではなかった。

メンバーは 4人で、私、パーンさん、そして 2人のフィリピン人の友達です。その時、

まだ子どもなので、冗談にこの抗日団体を設けました。

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88 河路 由佳

と語ったが、ここに語られたパーンは、第 1回招致学生の一人である。のちにサリツト政権

時代に彼は処刑されたが、このことは 3人の間でつらく悲しい思い出として共有されていた。

第 1回招致学生が進学した 1944年 4月以降、問題がより表面化したことは、プラシット

(1994C)に以下のように書かれている。

四人の先輩 (河路注 :6人の招致学生のうち、男子学生 4人をさす。)は大学に進学し

てしまったから、相談に乗れる立場ではなかった。それで我々は担任の先生に相談する

ことにした。その結果は思いのほかややこしいことになった。その先生は我らを他の東

南アジアの留学生と比べた。他の学生は文句を言わないのに、なぜタイの留学生だけだ

いうのだと言われた。我々は戦争で日本に負けていないうえ、日本の植民地でもないた

め、それらの留学生と同じような扱いは承服できないと即答した。その先生は負けずに、

いろいろな理由を挙げた。たとえば、校則が変わったのだから、全員の留学生は丸坊主

しないといけないなど。我々はこの校則が最初からあるならば文句を言わずにそのルー

ルに従うが 18)、突然新たな校則ができて実行されることは許せないと、先生と口論杏

した。もし校則を認めないのならばタイに帰国させるしかないと先生に脅かされたが、

我々はそんなことには動じず、かまわないからどうぞ早速帰らせてくださいと言ったら、

それが火種になり (まさか、我々はそこまでいくとは思っていなかった)、校長の矢田

部先生の怒りが爆発し、しばらく脅かされ続けた。その後、いきなり矢田部先生が学校

を辞めさせられ、代わりに太平洋戦争における重要な人物である中将の竹内が新しい校

長に着任した。

元タイ大便であった矢田部保吉は専務理事であったが、タイ人留学生には校長のように映っ

ていたようである。陸軍中将の竹内寛が 1943年 11月に校長として迎えられたことは、国際

学友会の所管官庁が外務省から情報局そして大東亜省へと移った関係によるところが大きく、

必ずしも彼らの事件がきっかけかどうかはわからないが、タイ人の日本留学希望者が増加した

ことを受けて国際学友会の設立を促し、当初からその運営に関わってきた矢田部にとって、日

タイ関係の悪化がタイ人留学生の反抗を招くまでに表面化したことは大きな衝撃であったこと

は想像に難くない。1 944年 3月に、矢田部保吉は国際学友会を退いている。

一方、チュムシンは、戦後、1 952年から 1957年までの 5年間を、大使館員の夫とともに

再び来日の機会を得た。当時日本語の上手なタイ人が希少であったこともあり、タイを代表し

て外交の場面で活躍した。ラジオに出演したり、国際文化交流の場面でタイを代表して解説を

したりする機会も多く、楽しい思い出になったようである。タイに帰国してからも日本に関係

のある仕事をし、日本語を使い続けたそうで、インタビューのほとんどを日本語で答えた。チュ

ムシンは他の二人の語る 「抗日的」な思い出について、あまり覚えていないと語ったが、こう

した彼女のその後の人生が、よい思い出ばかりを残すことに力を貸した可能性がある。

次に、文字掌

れた.チュムS ,

イ人読者に向け

のは分量も多く

セイから読み確

そのひとつは

うものである。

イが戦争に負け

ら 2人対 40人

て行かれた。他

クボクシング (

のタイ人学生¢

しく描かれ、そ

て、当時の伝説

また、日本の

事件が以下のよ

1944年;

し、日本

んなで会

と頭を下

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モートは

プラ-モ

が、このゴ

この反抗

この少し前の

プラシット (

当時、静

をされたく

て、その二

を学生に -

ないと∴

Page 16: ァフI理解をツ¥ノキるI[ラル資ソニ カ字資ソフケpw日{I[ラル・qXgリ[、究x第 (2007 3 号 N 9 月) 75 ァフI理解をツ¥ノキるI[ラル資ソニカ字資ソフケp-1942

ちにサリット政権

こ共有されていた。

とは、プラシット

.)は大学に進学し

‡の先生に相談する

三生は我らを他の東

rイの留学生だけだ

)植民地でもないた

の先生は負けずに、

lの留学生は丸坊主

さ言わずにそのル一

・と、先生と口論を

里に脅かされたが、

ださいと言ったら、

った)、校長の矢田

)矢田部先生が学校

亨の竹内が新しい校

ま校長のように映っ

されたことは、国際

るところが大きく、

≠希望者が増加した

竜田部にとって、日

ま衝撃であったこと

)o t館員の夫とともに

らり、タイを代表し

Iを代表して解説を

=からも日本に関係

t語で答えた.チュ

・、と語ったが、こう

酸性がある。

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 89

次に、文字資料であるエッセイに関するその筆者への確認の質問からも興味深い結果が得ら

れた。チュムシンとプラシットは、前述のとおり当時の思い出についていずれもタイ語で、タ

イ人読者に向けてエッセイを発表している。特にものを書くことを職業とするプラシットのも

のは分量も多く、多くのエピソードが語られているが、その内容について確認したところ、エッ

セイから読み取れる内容と、語られた 「事実」とにずれのある部分があった。

そのひとつは、経験したこととして書かれたエピソードが、実は伝説的な噂であった、とい

うものである。エッセイの中では先輩に当たるある 2人のタイ人留学生について 「彼らはタ

イが戦争に負けて日本の奴隷になったのだと侮辱されて、日本人とバスの中で口論をした。彼

ら 2人対 40人の日本人の間で殴りあいが繰り広げられ、4人は完全に気を失って病院に連れ

て行かれた。他の幾人かの人たちも同様に、何日も入院生活を送った。日本人がなぜタイのキッ

クボクシング (ムエタイ)にそこまで関心を示すのか、というと、それは他でもない、戦時中

のタイ人学生の腕前を見たからだ、と言われている。(プラシット1995A)」とおもしろおか

しく描かれ、その 2人が彼らを神戸港まで迎えに来た、と書かれているが、これは本人によっ

て、当時の伝説的な噂を取り入れて脚色したもので事実ではないと説明された。

また、日本の学校での体罰の問題についての描写がある。まず、国際学友会日本語学校での

事件が以下のように書かれている。

1944年春のある晴れた日、毎日のように、100人に達する留学生が学校の芝生で朝礼

し、日本の国旗を掲げた。教室に入る前、天皇の肖像に礼をし、先生の言葉を聴き、み

んなで会釈した。その時、務め始めたばかりの新しい軍人の先生が、プラ-モートに「もっ

と頭を下げろ、もう1回やれ」と大きい声で命令した。プラ-モートはもう一度やり

直したが、その先生は認めなかったうえ、「もう 1回やれ」と再び命令を下した。プラ-

モートは 2回目の命令を無視し、やり直しをしなかった。先生の怒りが爆発したようで、

プラ-モートが立っているところにまっすぐ小走りしてプラ-モー トを殴ろうとした。

が、この学校は日本の普通の学校と違ったから、(訳注:先生は自制して)殴らなかった。

この反抗事件は留学生みんなの前であったから、大事件となった。

この少し前の部分に、日本の学校における体罰について以下のように書かれた部分がある。

プラシット (1995B)の以下の部分である。

当時、留学生全員は一列に並べ、と命令されたが、不真面目に行ったので、全員が体罰

をされた。列の先頭の一人目から殴られ、タイの留学生も殴られたが、すばやく反撃し

て、その先生に倍返しをした。それから、先生が、殴ったり、叩いたりするような体罰

を学生に与える際には、タイ人かどうかを確認したうえ、タイ人には体罰をしてはいけ

ないと、先生は皆、気をつけるようになった。結局、体罰のシステムはタイの留学生に

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90 河路 由佳

は適用されずに終わった。 たしo

あとに挙げたエピソードの舞台は必ずしも明確に示されてはいないものの、国際学友会日本

語学校である可能性もあるものと読める (プラシットはほかに日本の学校生活を経験していな

い)。そこで確認してみたところ、プラシットの答えは以下のようなものであった。

プラシット:国際学友会は留学生の学校だから、普通の学校ではありませんでした。相手が

外国人ですから、体罰のようなことは、やはりなかったと思います。

- 先生が順になぐって、タイ人学生を殴ったとき学生がお返しをした、と書かれています

が-・・・

プラシット:それは国際学友会の話ではありませんO別の学校の話で、聞いた話ですOタイ

人学生は、先生が殴ろうとしたら殴られる前に殴り返した、という話です。それで、そ

Inノ

よのこ

れから、先生は、殴る前にタイ人かどうか確かめて、タイ人だったら殴らないというこ8.オーラJl

とになったという話です。国際学友会の話ではない。国際学友会は殴りませんでした。 今回、特に持

私たちは納得できないことは言いましたが、殴られたりすることはなく、聞いてくれた たのは事実でき

こともありましたO タイ関係にかカ

容が、必ずしも・

プラシットは実際には国際学友会日本語学校以外の学校の生活を経験したわけではないが、 第 1回招致弓

当時の日本の状況を語ろうとして噂に聞いたことなどをあわせて叙述したらしいOこの点につ 日本の対タイノ

いては、他の二人にも確認したが、国際学友会は東南アジアのみならず欧米からをも含む世 という要素のi喜

界各地から来た留学生たちが共に学ぶ場であり、一般の日本人の生活に比べても恵まれていた 日本の対タ1

ことについては認識が一致していた.生活費として受給された月額 30円は当時としては高額 推進する 「盟声l

で使いきれず、洋服は季節に 2着、仕立屋がやってきて採寸をし、好きな生地で好きなデザ に準ずる扱いハ

インのものを作ってもらうことができ、女子学生はピアノや華道など好きなお稽古事を選んで れた 19).第 2(

レッスンを受けることもできたという。また、教員は留学生の話に耳を傾け、抗議が受け入れ んでタイから宅

られることも少なくなかったという。坊主頭の一件も彼らの抗議によって結局しなくてよいこ 致学生の学習言i

とに落ち着いたそうである。 生にとって南7:

また、聞き取り調査の中で、プラシットは日本および日本人について日本留学当時の自分の 第 1回招致弓

見方に誤解があったかもしれないということを、以下のように語った0 1945年 2月の帰国後、 同じく第 1回茄

日本の軍人との間の通訳を仕事としていたときのことである。 祝との合理性も

優秀なよい学生

プラシット:通訳をしていると、日本はいい国と思うようになりました。戦争の終わりごろ、 気づくことがで

日本は、タイにセ-リータイ (自由タイ)運動があったことを知ったようですが、それ 面することの孝

を抑えようとしたりすることはなく、何も悪いことをしませんでした。そんなにタイを 性の問題と思い

侵略しようとか、支配しようとかいう気持ちが強かったわけではないらしいとわかりま 解するはずだと

Page 18: ァフI理解をツ¥ノキるI[ラル資ソニ カ字資ソフケpw日{I[ラル・qXgリ[、究x第 (2007 3 号 N 9 月) 75 ァフI理解をツ¥ノキるI[ラル資ソニカ字資ソフケp-1942

・、国際学友会日本

二活を経験していな

伝った.

-んでした。相手が

と書かれています

ヨいた話です。タイ

…です。それで、そ

.殴らないというこ

契りませんでした.

;く、聞いてくれた

たわけではないが、

iしい.この点につ

:米からをも含む世

くても恵まれていた

と当時としては高額

:生地で好きなデザ

王お稽古事を選んで

ナ、抗議が受け入れ

去局しなくてよいこ

t留学当時の自分の

=年 2月の帰国後、5

戦争の終わりごろ、

Iようですが、それ t

Iと.そんなにタイを

.→らしいとわかりま

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 91

した。(中略)

それから、日本軍の人たちは、戦争が終わったとき、自分から武器を捨てました。一

列に並んでそれぞれ刀や銃を捨てました。それはみな自分から捨てたのです。プライド

をもって捨てた。プライドを持って負けた、という感じがしました。これは、私自身が

見たのではなく見た友人から聞いたのですが。それまで、私は日本軍に安心できなかっ

たのです。負けたら逆に武器をふりかざしてタイ人に悪いことをするかもしれないと恐

れていたのです。実際はそうではありませんでした。敗戦のときの日本軍、日本人の様

子をみて、意外でしたが初めて安心しました。

このような内容は、エッセイには触れられていない。

8.オーラル資料と文字資料の併用による立体的理解の分析と考察

今回、特に問題にした第 1回招致学生は 「従順」で、第 2回招致学生は 「反抗的」であっ

たのは事実であったか、という問いについては、オーラル資料を得て、また、それを当時の日

タイ関係にかかわる歴史的な流れに照らして確認すると、特に日本側の文字資料に残された内

容が、必ずしも留学生の実態を正しく理解して書かれたものではなかったという結論が導ける。

第 1回招致学生と第 2回招致学生の違いは、個々の学生の資質や性格の違いというよりは、

日本の対タイ人留学生の扱いの変化を反映して、次第に彼らの反発を招くようになっていった

という要素のほうが強く、その表れであったと見るほうが実態に近いようである。

日本の対タイ外交が、外務省による欧米諸国に準ずる独立国扱いから 「東亜新秩序」を共に

推進する 「盟邦」へ、そして大東亜省による 「大東亜共栄圏」を構成する東南アジアの占領地

に準ずる扱いへと変化していった事情は、留学生の受け入れ制度、教育体制にそのまま反映さ

れた 19)。第 2回招致学生が日本語学習をはじめて半年過ぎたころ、他の東南アジア地域と並

んでタイからも南方特別留学生がやってきた。彼らに対する教育が始まったのと、第 2回招

致学生の学習記録がなくなる時期とが符合している。独立国の気概をもってやってきた招致学

生にとって南方特別留学生の扱いは受け入れられるものではなかったようである。

第 1回招致学生のパーンが第 2回招致学生プラシットと 「抗日団体」を組織していたり、

同じく第 1回招致学生のスダーが、抗議行動を指揮したことがあったりしたことは、社会状

況との合理性もあり信頼性の高いものと思われる。教師をはじめ日本側の関係者は、「素直で

優秀なよい学生」であった第 1回招致学生が日本に批判的な感情を抱くことがあったことに

気づくことができなかったようである。また、来日まもなく 「反抗」せざるを得ない状況に直

面することの多かった第 2回招致学生の思いを理解することはできず、これを彼らの質や個

性の問題と思い込んだようである。この時期、勤勉で素直なよい学生であれば日本の立場を理

解するはずだという思い込みのもとに留学生教育が推進されていたことの現われでもある。「反

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92 河路 由佳

抗的」な学生には授業の続行が不可能とされたのは、その裏返しである。年齢の若い留学生は

感化 Lやすいというねらいもあって実施された招致学生制度であったが、教師らの目に幼く愛

らしく映った彼らは、実際にはより敏感に情勢の変化を感じていた。

タイ国、日本側の文字資料が公文書から私的な書簡に至るまで一致して第 1回生と第 2回

生の性質の違いとする認識に基づいて記述していた 「勤勉」である側面と、「日本の国家的統

制の強まりへの反発」を感じることは、同じ人物の中に矛盾なく備わり得る要素であった。

しかし、文書を含めて当時の日本の社会や人々にはこの構造的な理解は困難であった。日本

語教師 Tにも、在日タイ大使館からタイ国外務省へ報告を送った人物にも、第 1斯生の 1人

と第 2期生の 1人が結んで 「抗日団体」を組織していたことなどは知る由もなく、熱心に学

んでいる年若い第 1期生のうちに日本の対タイ外交への敏感な批判がくすぶっていたことに

気づくことはできなかったものと思われる。

今回、聞き取り調査に先立って調べた文字資料の中には、教育機関の学籍簿の記録や大使館

関係の公文書が含まれるが、特に本調査研究のように 「教育」を扱う場合には、こうした文字

資料は、いずれも行政m rから見た教育に関する一側面を記述したに過ぎない。特に教育を受けJ

た学生の側の論理や実態は、当時から理解が届いていなかった可能性が高い。教育の実態とそ

の意味を問うためには、学生側の視点からの検証は欠かせない。学生側の証言を得て、改めて

文字資料を読み直すと、その記述がどの一面を照らしたものか、それが照らしていない領域と

あわせてよくわかる。第 1回招致学生は、自らの勉学への希望を実現するために熱心に学習

をしたが、それが即ち、日本側の資料が示すように日本が準備したすべてに従順であったこと

を意味するのではないし、タイ大使館が危供したほど 「洗脳」されていたとは限らないことが、

オーラル資料によってあぶりだされた。日本語教師 Tは、「従順」であるとみなした第 1回招

致学生の少なくとも 2人とは亡くなるまで文通を続け、それ以前のある留学生にも卒業後送っ

たはがきに第 2回招致学生が反抗的で困るなどと書き送るほど心を聞いていたが、第 2回招

致学生には批判的で彼らを疎んじていたことがその文面にも露である。熱心で有能な教師で

あったと伝えられる Tであるが、第 1回招致学生と第 2回招致学生の間にある友情や共感に

は思いが至らなかったようである。

もっとも、これは当時に限ることではなく、いつの時代も教育主体側が学習者を評価すると

き、その心情に深い理解を致すことなく一面的な尺度に基づいた判定を下し、それが学習者へ

の親疎また好悪の感情に現れることは十分にありうることに、自覚的であるべきことを示唆し

ている。文字資料もまた、オーラル資料同様、書かれた社会的文脈や力関係、その目的を離れ

て、無条件に一人歩きをすることはない.

また、当事者によって書かれた自伝的エッセイという 「語り」と似た性格をもつ文字資料の、

インタビューによるオーラル資料との相違点があぶりだされたことも今回の調査の成果であっ

た。エッセイでは、実際に経験したことと、人づてに聞いた話が揮然と交じっている描写が見

られた。「事実」を確認するには問題となるが、これは必ずしもプラシットのエッセイの問題

点だとは言えなし

ことを目的とす局

証人として、主と

学生としての思し

であり、こうし充

実を詳細に述べ葛留学した 1年半 Ij

りを守り、毅然と

本留学体験が筆着るべきである。

タイ人の若き柳

が語られた可能僧

なされたが、ここ

展開した。聞き瑚

9.まとめ -

以上に示した聞

を示すように思わ

下のように整理で

(1)個の視点か∈

ることがらの

(2)文字資料の肋

相対化するこ

(3)文字資料であ

向けられる苅

相対化するこ

特に異なる言帯

あたっては、文字

必要不可欠なもの

まだまだ研究す

齢に達しており肝

ともに、オーラルj

いだろうか。

筆者はこれまで、

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二齢の若い留学生は

:師らの目に幼く愛

第 1回生と第 2回

「日本の国家的統

.要素であった。

ヨ難であった。日本

,第 1期生の 1人

;もなく、熱心に学

~ぶっていたことに

妻帯の記録や大使館

:は、こうした文字

・。特に教育を受け

・。教育の実態とそ

E言を得て、改めて

∋していない領域と

.ために熱心に学習

=従順であったこと

は限らないことが、

:みなした第 1回招

芦生にも卒業後送っ

:いたが、第 2回招

5心で有能な教師で

=ある友情や共感に

学習者を評価すると

し、それが学習者へ

らべきことを示唆し

系、その目的を離れ

iをもつ文字資料の、

7)調査の成果であっ

じっている描写が見

tのエッセイの問題

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 93

点だとは言えない。プラシットのエッセイは、日本語教育や留学生教育に関する事実を述べる

ことを目的とするものではなく、戦争中にタイ国招致学生として日本留学を経験した数少ない

証人として、主として同胞であるタイ語読者に当時の日本で見聞きしたことを伝え、タイ人留

学生としての思いを伝えようというのが目的である。実話をもとにしているとはいえ文芸作品

であり、こうした作品においては、読みやすさ、わかりやすさ、そしておもしろさが、時に事

実を詳細に述べることに優先する。プラシットの作品は、困難な時代の日本へ 10代の若さで

留学した 1年半ほどの、戦況悪化の時期に、さまざまな困難の中をいかにタイ人としての誇

りを守り、毅然として抗議行動を起こしながら生き抜いてきたかを語る物語である。当時の日

本留学体験が筆者の人生においてこのように意味づけられたことにこそ資料的価値があると見

るべきである。

タイ人の若き研究者がプラシットにインタビューをしたなら、よりこのエッセイに近い内容

が語られた可能性もある。今回の調査は日本の日本語教育史 ・留学生教育史研究を目的として

なされたが、ここで聞き手である筆者の質問に応じてプラシットはエッセイとは違った語りを

展開した。聞き取り調査は聞き手と語り手との相互行為であり、そこに調査の意義もある。

9.まとめ- 立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用

以上に示した聞き取り調査による成果は、文字資料とオーラル資料の併用の有用性の一側面

を示すように思われる。本稿に報告した文字資料とオーラル資料を併用することの有用性は以

下のように整理できる。

(1)個の視点からの情報を得て、事実関係に関する一面的な認識が是正され、研究対象とす

ることがらの構造を立体的に把握することができる。

(2)文字資料の脚色が説明され、事実に関する情報が是正されると同時に文字資料の特性を

相対化することができる。

(3)文字資料であってもオーラル資料であっても、それは書かれ語られた時の社会的文脈や、

向けられる対象、またその目的に依存していることを認識し、それぞれの資料の解釈を

相対化することができる。

特に異なる言語、文化圏にまたがって実施された教育についてその事実と意味を探求するに

あたっては、文字資料だけでもオーラル資料だけでも不十分であるO少なくとも筆者が併用を

必要不可欠なものとしてきた意味のひとつは、このように説明できる0

まだまだ研究すべき課題が多く残されている 20世紀前半の諸事象については、当事者は高

齢に達しており聞き取り調査は急がれる。そうしてできるだけ立体的な実態に迫る研究成果と

ともに、オーラル資料そのものをも次の世代に残すのも、今を生きる我々の世代の務めではな

いだろうか。

筆者はこれまで、特定の時期の留学生教育の場における実態を明らかにするために聞き取り

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94 河路 由佳

調査を実施 してきたため、併用の結果を文字資料を主とした論考にまとめることが多かった。

しかし、オーラル資料を中心にまとめる方法もあり得る。聞き取り調査で語られる情報は一人

一人の人生における留学や外国語学習の意味を語る貴重な資料でもあるO留学当時の思い出は、

その後の人生に留学経験が如何なる意味を持ち得たかに多分に依存しているようである。一人

一人のライフス トーリーの分析から留学や外国語学習の意味を考察 してゆくことも意義あるも

のと思われる。今後の課題としたい。

【注】

1) 本稿では 「国際文化事業」という言葉を、基本的に外務省文化事業部の業務としての 「国際文化

事業」を指して用いる。すなわち、国策としての 「国際文化事業」である。

2)筆者がこれまでに実施してきた研究における聞き取り調査の対象は以下のとおりである。

①外務省文化事業部関係の日本語教育事業

(聞き取り対象:当時の教員、教科書編纂者、留学生寮の日本語指導者、学習者であった元留学生、

またその家族)

②中国人留学生に対する日本語教育

(東京高等農林学校で学んだ元中国人留学生と、同級生であった日本人)

③台湾の公学校における日本語教育

(台南師範学校附属公学校のあるクラスの担任の日本人教員、台湾人教員、生徒であった方々)

3) 倉沢愛子 (1997)『南方特別留学生が見た戦時下の日本人』(草思社)

藤原聡 ・篠原啓一 ・西出勇志 (1996)『アジア戦時留学生』(共同通信社)

後藤乾- (1986)『昭和期日本とインドネシア』(勤草書房)

市川健二郎 (1987)『日本占領下タイの抗日運動- 自由タイの指導者たち』(勤草書房)

yod,rc 191 mpraJpnsClua rga nTaln 94 - 5RenlsBuea (9 )1 eilaa- utrlPormsi hiad1 0 4 "(in

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StMatns r ,e okp.3 16. ri.PessNwYr.p9 - 1)などO日本語教育史の分野での調査研究も多く、特に

戦前の日本語教育については、前田均氏が主として台湾、松永典子氏が主としてマレー半島、多

仁安代氏が主として南洋群島、中村重穂氏が主として宣撫班の日本語教育に関して文献調査と聞

き取り調査を進めている。

4) 河路 (1998)は聞き取り調査資料、河路・淵野・野本 (2003)の第2部、また、河路 (2006)では、

第三部が聞き取り調査資料を中心に構成されている。

5) 外務省の文化事業は、1923年に義和団賠償金を財源に 「対支文化事業特別会計法」が制定されて、

「対支文化事業」として始まった。

6) 国際文化振興会は、正確には、外務省文化事業部第三課の設立に先立つ 1934年 4月に創設され

たが、第三課設立後、この管轄下に置かれた。その目的は 「国際間文化の交換、殊に日本及び東

方文化の海外宣揚を図り、世界文化の進展及び人類福祉の増進に貢献すること (「財団法人国際

文化振興会設立経過及昭和九年度事業報告書」 1935,pp.17-18)」であった。現在の独立行政法

人国際交流基金の前身に当たる0

7) 「国際学友会会則」(1935)第 3条

8) 河路由佳 (2006)0

9) タイ人骨弓

島由僅 嘩

10)実存に朋

会が新軸

いる。

)原文は 叩

1)

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周帝学友貞2

13)筆者はここ

粥童を2∝そのうち、

14)これらのタ

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15)この資料の

会関係者に

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ン氏の自宅

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18)第 2回招致!

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ることが多かった.

きられる情報は一人

学当時の思い出は、

5ようである0-人

:ことも意義あるも

iとしての 「国際文化

おりである。

者であった元留学生、

t徒であった方々)

』(勤葦書房)

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さ、河路 (2006)では、

≧計法」が制定されて、

〕34年 4月に創設され

交換、殊に日本及び東

iこと (「財団法人国際

た。現在の独立行政法

立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用 95

9) タイ人留学生の増加が、国際学友会の設立を促進したという事実もあり、このことについては河

路由佳 (2003)に述べたo

10)実際には彼らの日本語教育の期間は 1年半であった01年課程の学校の開講を見込んで国際学友

会が新たに編纂した教科書体系 (全 6巻)のすべてを、記垂剥こよると彼らは 1年 2ケ月で終えて

いるo

ll)原文は lF財団法人 国際学友会会報 第五号』(1942),pp.1451147)等に掲載されている.

12)国際学友会は 2004年 3月に解散、同年 4月より独立行政法人日本学生支援機構の一部となった。

13)筆者はここに紹介する調査の前に、戦時体制下の日本で学んだ元タイ人私費留学生への聞き取り

調査を 2004年 3月、同 9月、2005年 1月に実施した。お会いした元日本留学生の数は 10名だが、

そのうち、特に個別に聴き取り調査を実施したのは 5名である。

14)これらのタイ語による公文書また、タイ国元日本留学生会の出版物については、同会会員でもあ

るチュラロンコン大学のウオラウット チラソンバット氏より資料提供を受けた。そして、東京

外国諸大学在籍のタイ語専攻の学生 (京谷美帆)、タイ人留学生 (プラ-ディットデンランシー ・

スチャート、モンコンチャイ ・アツカラチヤイ)らの協力を得て日本語に訳出してもらい、筆者

はこの翻訳を通して読んだ。

15)この資料の発見に至った聴き取り調査の資料は、河路 (2006)の第三部 「戦時体制下の国際学友

会関係者に対する聞き取り調査」の 7番目の 「戦時体制下の国際学友会で学んだ学習者 サワン・

チャレンボン」(pp.389-439)に掲載されている。2005年 1月 15日、タイ ・バンコクのサワ

ン氏の自宅で行われた調査において、帰国後も親しく文通を続けたという日本語教師、武宮りえ

からの書簡が保管されているのが示された。引用したはがきはこの中の 1枚で、現在もサワン氏

のもとに保管されている。

16)この聞き取り調査は東京外国語大学大学院の 21世紀 COEプログラム 「史資料ハブ地域文化研究

拠点」(オーラル・ア-カイヴ班)の活動の一つとして実施された。ここで得られたオーラル資料は、

『東京外国語大学大学院地域文化研究科 21世紀 COEプログラム 「史資料ハブ地域文化研究拠点」

(オーラル ・ア-カイヴ班)聞き取り調査資料集 タイ編 (041Ka-1).(05-Ka-1・2・3)』と

して冊子にまとめられている。

17)それでもプラシットの日本語学習には相応の成果があったようで、帰国後、日本語の力を生かし、

日本語とタイ語の通訳の職についたことを語った。複雑な内容は扱わない簡単なものであったと

いうことだが、1945年 3月から戦後、日本軍が引き上げるまで、タイ政府の通訳として日本軍

関係者との交渉などにあたったそうである。これは文字資料から得られなかった新情報であった。

18)第 2回招致学生より遅れて来日した南方特別留学生の 12人については、これが南方占領地の学

生たちを中心とするプログラムであることは明白であった。第 2回招致学生と違って南方特別留

学生の 12名は、さらに状況が悪化した 1944年 4月の来日にもかかわらず勤勉に学び 1945年

4月には進学も果たしたが、この違いは、それぞれの留学プログラムの違いによるものと思われる。

招致学生制度は、少なくとも建て前は、タイと日本が 「東亜の友邦」として対等な関係にあるこ

とを前提として推進された日タイ文化事業の一環として実施されたものであった.

19)この時期の日本の対タイ外交の変化のタイ人に対する日本語教育 ・留学生教育の制度的側面への

影響は河路 (2003)に述べた。

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に連載 (原文 :タイ語、翻訳 :プラーディットデンランシー・スチャ- ト、モンコンチャイ・アッ

カラチヤイ)

*本稿は、2006年9月に開かれた 「日本オーラル ・ヒストリー学会 第 4回大会」での発表

をもとに、当日の議論などを参考にして書き改めたものである。貴重など示唆をいただきまし

た桜井厚先生に感謝申し上げます。

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立体的理解を可能にするオーラル資料と文字資料の併用

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