メスバウアー分光法の応用展開 (転換電子法および散乱x...

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東レリサーチセンター The TRC News No.116(Mar.2013) 21 ●メスバウアー分光法の応用展開(転換電子法および散乱X線法) 1.メスバウアー分光法 メスバウアー分光法は、原子核がγ(ガンマ)線を共 鳴吸収する現象(メスバウアー効果 )を利用して、試 料の吸収スペクトルを測定する方法である。メスバウ アー効果が観測されている核種が限られているうえに、 観測の容易さ等の理由から分光法としての利用は鉄とス ズの場合がほとんどである。特に鉄の利用が多く、化合 物中の鉄の価数、配位環境、磁性などの情報を選択的に 得ることができる。 鉄のメスバウアースペクトルの観測には、放射性同位 (RI)である 57 Co(半減期約270日)を線源とし、壊 変後の第₁励起準位から基底状態に遷移する際に放出さ れる14.4 keV ** のγ線を用いる(図1)。なお、共鳴吸収 を起こすのは質量数57の同位体 57 Fe(天然存在比2.2%のみである。 図1 メスバウアー分光法の原理 線源から放出されるγ線は単色光であるため、線源を 等加速度運動させ、ドップラー効果 *** によりエネルギー を変化させる。そのγ線を試料に照射し、透過してくる γ線を試料の後ろに置かれた検出器で観測してスペクト ルを得る(図2)。 図2 メスバウアースペクトルの測定(透過法) 放出γ線のエネルギーを E γ、線源のドップラー速度を V とすると、γ線のエネルギー E γ'は E γ︵1+ V / c c 速度)となる。メスバウアースペクトルの横軸は通常ドッ プラー速度 V で表されており、エネルギーへの換算は行 わず速度値で議論される。図3にメスバウアースペクト ルの例を示す。 図3 メスバウアースペクトルの例(室温測定). 3左は 57 Feメスバウアー分光法で基準物質となる純 α-Fe)箔(25μm厚)のスペクトルである。金属 鉄は室温で強磁性体であるため、原子核位置には静磁場 が存在し、その大きさ約33 Tに比例する分裂幅を伴って 6本に分裂している(磁気分裂)。図3右はLiFePO4電池 の放電状態(2.0 V)の正極のメスバウアースペクトル である。3組の二重線(四極分裂)が観測されており、ピー クの中心位置(アイソマーシフト値)から価数が判別で きる。強度の強い主成分はLiFePO4由来のFe︵2+)であ り、その他の2成分はFe︵3+)に帰属される。 2.転換電子法(CEMS)、散乱X線法(XMS) 通常メスバウアースペクトルは「透過法」で測定する が、「散乱法」による測定も可能である。試料中で励起 された原子核が再び基底状態に戻る際には、吸収したの と同じエネルギーのγ線の再放出を行う代わりに、核外 の電子にエネルギーを与え、電子を放出する過程が大部 分を占める。この過程を内部転換と言い、放出される電 子を転換電子と言う。 図4  57 Fe 核の内部転換過程 共鳴吸収に対して一定の割合で転換電子が放出される ため、転換電子を観測してもメスバウアースペクトル が得られる。この手法を転換電子メスバウアー分光法 ︵CEMS : Conversion Electron Mössbauer Spectroscopy︶ と呼ぶ。転換電子を検出するには、試料表面を露出させ て検出器(比例計数管)の中にセットする必要があるが、 厚みを持った試料でも測定できる(図5)。電子は荷電 メスバウアー分光法の応用展開 (転換電子法および散乱X線法) 無機分析化学研究部 中本 忠宏

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東レリサーチセンター The TRC News No.116(Mar.2013)・21

●メスバウアー分光法の応用展開(転換電子法および散乱X線法)

1.メスバウアー分光法

 メスバウアー分光法は、原子核がγ(ガンマ)線を共鳴吸収する現象(メスバウアー効果*)を利用して、試料の吸収スペクトルを測定する方法である。メスバウアー効果が観測されている核種が限られているうえに、観測の容易さ等の理由から分光法としての利用は鉄とスズの場合がほとんどである。特に鉄の利用が多く、化合物中の鉄の価数、配位環境、磁性などの情報を選択的に得ることができる。 鉄のメスバウアースペクトルの観測には、放射性同位体(RI)である57Co(半減期約270日)を線源とし、壊変後の第₁励起準位から基底状態に遷移する際に放出される14.4 keV**のγ線を用いる(図1)。なお、共鳴吸収を起こすのは質量数57の同位体57Fe(天然存在比2.2%)のみである。

図1 メスバウアー分光法の原理

 線源から放出されるγ線は単色光であるため、線源を等加速度運動させ、ドップラー効果***によりエネルギーを変化させる。そのγ線を試料に照射し、透過してくるγ線を試料の後ろに置かれた検出器で観測してスペクトルを得る(図2)。

図2 メスバウアースペクトルの測定(透過法)

 放出γ線のエネルギーをEγ、線源のドップラー速度をVとすると、γ線のエネルギーEγ'はEγ︵1+V/c︶︵c:光速度)となる。メスバウアースペクトルの横軸は通常ドップラー速度Vで表されており、エネルギーへの換算は行

わず速度値で議論される。図3にメスバウアースペクトルの例を示す。

図3 メスバウアースペクトルの例(室温測定).

 図3左は57Feメスバウアー分光法で基準物質となる純鉄(α-Fe)箔(25μm厚)のスペクトルである。金属鉄は室温で強磁性体であるため、原子核位置には静磁場が存在し、その大きさ約33 Tに比例する分裂幅を伴って6本に分裂している(磁気分裂)。図3右はLiFePO4電池の放電状態(2.0 V)の正極のメスバウアースペクトルである。3組の二重線(四極分裂)が観測されており、ピークの中心位置(アイソマーシフト値)から価数が判別できる。強度の強い主成分はLiFePO4由来のFe︵2+)であり、その他の2成分はFe︵3+)に帰属される。

2.転換電子法(CEMS)、散乱X線法(XMS)

 通常メスバウアースペクトルは「透過法」で測定するが、「散乱法」による測定も可能である。試料中で励起された原子核が再び基底状態に戻る際には、吸収したのと同じエネルギーのγ線の再放出を行う代わりに、核外の電子にエネルギーを与え、電子を放出する過程が大部分を占める。この過程を内部転換と言い、放出される電子を転換電子と言う。

図4 57Fe 核の内部転換過程

 共鳴吸収に対して一定の割合で転換電子が放出されるため、転換電子を観測してもメスバウアースペクトルが得られる。この手法を転換電子メスバウアー分光法︵CEMS : Conversion Electron Mössbauer Spectroscopy︶と呼ぶ。転換電子を検出するには、試料表面を露出させて検出器(比例計数管)の中にセットする必要があるが、厚みを持った試料でも測定できる(図5)。電子は荷電

メスバウアー分光法の応用展開(転換電子法および散乱X線法)

無機分析化学研究部 中本 忠宏

22・東レリサーチセンター The TRC News No.116(Mar.2013)

●メスバウアー分光法の応用展開(転換電子法および散乱X線法)

粒子であるため、物質内での飛程が短い(57Feの場合数100 nm程度)ことから、CEMSでは表面近傍のみの情報が得られる。

図5 CEMS の測定(XMS も同様)

 また、内部転換では同時にX線の放出が一定の割合で起こるため、X線を検出しても散乱法(XMS:X-ray Mössbauer Spectroscopy)の測定が可能である。X線は透過力が強く、電子よりも深い位置(57Feの場合約20μm︶から飛び出してくることが可能であるため、よりバルクに近い情報が得られる。

3.CEMSとXMSの測定例

 同一試料でのCEMSとXMSの測定例を図6に示す。試料は①:亜鉛メッキ鉄釘、②:亜鉛メッキを剥がした鉄釘、③:②を強熱し黒錆を生じさせた鉄釘である。用いた鉄釘は胴径が約2 mmあり、14.4 keVのγ線は透過することができない。また、約700 nmの厚みがある亜鉛メッキ層が邪魔になりCEMSの測定もできないが、XMSならば亜鉛メッキをつけたまま測定が可能である(図6左)。もちろん、メッキを剥がして表面に鉄を露出させればCEMSでも容易に測定できる。なお、散乱法ではスペクトルは上向きに出る。表面に約250 nmの黒錆層が生じた鉄釘は、CEMSでは主に黒錆の成分が観測されるが、XMSでは表層の黒錆の寄与はほとんどなくなり、内部の鉄が主に観測される(図6右)。CEMSとXMSでは検出用ガスが異なるため、それぞれ個別に測定が必要であるが、検出器を二層構造にすることによりCEMSとXMSの同時測定(薄い試料であれば透過法も)が可能な検出器も開発されている1︶。

図6 鉄釘のメスバウアースペクトル

4.XMSの応用

 飛程の短い転換電子を検出するには、試料を検出器内にセットすることが必須であるが、これはX線検出の場合にも有利である。しかし、X線は到達距離が長いため、図7のように試料を外に置く配置での測定も可能である。

図7 XMS の測定(試料外置きの場合)

 試料と検出器の距離を離すと検出率が著しく低下するため、検出立体角を上げる工夫が必要であるが、試料外置きのXMS法によれば、薄く調整した試料を線源と検出器の間の光路上に置く必要がなくなり、非破壊でバルク情報を得ることができる。この方法はNASAの火星探査でも用いられた。2003年に打ち上げられた2台の火星探査ローバーのアームの先端には、手のひらサイズのメスバウアー分光分析装置(MIMOS II)が搭載されており、再放出γ線とX線の観測による火星の石等のメスバウアースペクトル測定が行われた2︶。小型装置を作成できれば、移動させられない試料のもとへメスバウアースペクトルの測定に出向くことも可能になる。

※ 無反跳核γ線共鳴吸収現象。ドイツの物理学者R.L. Mössbauer(1929-2011)により1957年に発見された。1961年ノーベル物理学賞受賞。

※※ エレクトロンボルト(電子ボルト)。SI単位ではないが、特殊な分野に限り併用が許されており、放射線のエネルギーを表す単位として用いられる。1 eV=1.60×10︲19 J。

※※※ 媒質が存在しなくても伝搬する電磁波のドップラー効果では、光源と観測者の相対速度Vのみが問題となり、音波の場合とは関係式が異なる。

5.参考文献

1) K. Nomura, T. Okubo, M. Nakazawa, Spectrochim. Acta B , 59, 1259–1264(2004).

2) I. Fleischer, G. Klingelhöfer, R. V. Morris, C. Schröder, D. Rodionov, P. A. de Souza, Hyperfine Interact., 207, 97-105(2012).

■ 中本 忠宏(なかもと ただひろ) 材料物性研究部 材料物性第₁研究室 兼

無機分析化学研究部 無機分析化学第₁研究室

博士︵理学︶ 趣味:園芸、BCL