ルース・セント・デニスの腕 url doiルース・セント・デニスの腕 小笠原 愛...

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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 111: 37-53 URL http://hdl.handle.net/10291/10815 Rights Issue Date 2010-03-26 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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  • Meiji University

     

    Title ルース・セント・デニスの腕

    Author(s) 小笠原,愛

    Citation 文芸研究, 111: 37-53

    URL http://hdl.handle.net/10291/10815

    Rights

    Issue Date 2010-03-26

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • ルース・セント・デニスの腕

    小笠原

    一.

    ヘじめに

     海外から舞踊家が来日するようになった大正から昭和

    の初めを振返り、「思い出の舞踊家」を綴った文章がい

    くつかあるが、そこでまず間違いなく登場するのは、 一

    九二二年に来日したアンナ・パヴロヴァであろう。回想

    録の中で思慕されるだけでなく、当時多くの文化人、知

    識人がその観劇記を記していることからも、いかにパヴ

    ロヴァの来日が衝撃的だったかが窺える。そして、必ず

    そのパヴロヴァと比較されつつ登場するのが、パヴロヴァ

    の三年後に来日したデニショーン舞踊団、あるいはルー

    ス・セント・デニスの名前である。

    「デニショウン舞踊団を見たということはその当時の

    大正十四年(一九二五)の日本の、私の場合の神戸で

                   

    はモダン連中の誇りでもあった」

     こう回想するのは、独特の語り口でお馴染みの映画評

    論家、淀川長治である。大正十一年(一九二二年)、十

    三歳の時にアンナ・パヴロヴァを見て以来、舞踊家にな

    りたいと思いつめるほどだった淀川少年は、「このデニ

                         ヨ 

    ショウン舞踊団ももちろん見逃すわけはなかった」とい

    う。 

    デニショーン舞踊団とは、ルース・セント・デニスと

    テッド・ショ;ン率いるアメリカの舞踊団である。舞踊

    団の母体であったデニショーン・スクールは、ソロで活

    37

  • 動をしていたデニスがショーンと出会い、一九一五年ロ

    サンゼルスに開設した学校だ。ここが、マーサ・グラハ

    ムやドリス・ハンフリー、チャールズ・ワイドマンら、

    モダン・ダンスのパイオニア達を輩出した場所であるこ

    とは言うまでもないだろう。デニショーン舞踊団は、以

    後一九三一年に学校が閉鎖となるまで、欧米、アジアな

    どの各地を巡演した。一九二五年当時は、この学校もか

    なりの規模となっており、カリフォルニアとニューヨー

    クの他、各地に分校を有するほどであった。この年、満

    を持して出発したオリエンタルツアーでは、日本、中国、

    インド、インドネシア、ミャンマー、マレーシア、満州、

    スリランカ各地を回り、来日したのは一九二五年と一九

    二六年であった。日本がこのツアーの出発地であり、ま

    た最終地ともなったのである。

     ルース・セント・デニスについては、モダン・ダンス

    の歴史の中ではほぼその立ち位置も定まっている。日本

    では、研究対象として、早くはデニショーン来日後に著

                         ヨ 

    された小寺融吉の著作中に取り上げられているが、近年

    においては、葦原英了や先の淀川長治ら、実際に舞台を

    目にした者による回想の他、片岡康子氏の論文に始まり、

    神澤和夫氏や海野弘氏の著作の中で論じられている。各

    論とも、モダン・ダンスの先駆者と言われる他の人物達

    を視野に置きながら、あるいは大きく二〇世紀の舞踊史

    の流れの中でデニスの位置づけをしている点は同じであ

            る 

    るが、片岡論文では、デニショーンの公演が当時の日本

    舞踊界の実態を照らし出す役割を果たし、舞踊研究家に

    舞踊論形成を促したことを指摘している。神澤氏の著作

      ら で

    は、モダン・ダンスの第一世代を輩出したデニスと

    ショーンの影響力が、フランソワ・デルサルトの理論を

    基礎としたことに一因があると明記している点で興味深

                さ 

    い。また、海野氏の著作では、デルサルトをも含め、身

    体を核とした周辺の諸領域との関わりにおいてモダン・

    ダンスの歴史をとらえ、その歴史が二〇世紀の精神運動

    に深く関わっている様子を明らかにしている。それ故、

    デニスに割かれたスペースは大きい。これらの邦文文献

    からだけでも、現在、デニスやデニショーンの全体像を

    ほぼ窺い知ることができると言えよう。勿論、私もこれ

    らの著作から多くの示唆を受ける一人だが、この人物を

    取り巻く様々な要素が明るみに出るにつけ、その示唆か

    らの発展を繋げていきたいと強く思うようになってきた。

    ここでは、特にデニスが来日するまでに彼女を目の当た

    りにした日本人の言葉を手助けに、その一部分を取り上

    38

  • げたいと思う。

    二.デニショーン来日以前

     一九二五年八月十九日早朝、デニショーン舞踊団を乗

    せたプレジデント・ジェファーソン号は、横浜港に入港

    した。そこで多くのカメラマンに迎えられた一行は、電

              ア 

    車で東京駅へと向かった。東京駅では、帝劇の専属俳女

                      き 

    優、社員や関係者ら百十数名に出迎えられ、少女から花

    束の歓迎を受けると、またカメラの撮影攻撃を浴びると

    いう具合であった。デニショーンの公演は、九月一日か

    らの「九月興行独特女優劇」に特別加入という形で行わ

    れることになった。第一部には、一.「新時代劇 吉田

    御殿」(一幕)、二.「世話劇 伊勢音頭恋寝刃」(二幕)、

    三.「第二回高速度喜劇五種」、そして第二部にデニ

    ショーン舞踊団の公演というプログラムである。今から

    みると、デニショーンの単独公演ではないことに違和感

    を覚えるかもしれない。これ以前に来日し帝劇の舞台に

    立った舞踊家のスミルノワとロマノブやアンナ・パヴロ

    ヴァの場合は単独公演であるし、それ以後のアルヘン

    ティーナやサカロフ夫妻も同様である。ただルース・ぺi

    ジの場合は、デニショーン舞踊団と同じく他の演目と抱

    き合わせでの公演であった。パヴロヴァは例外であるが、

    単独公演の演者は公演期間がだいたい一週間以内である

    のに対し、デニショーン、ルース・ページは共に一ヶ月

    間の興行期間に丸々出演している。翌一九二六年に再来

    日した際は、デニショーンも五日間の公演で、今度は単

    独公演であったから、期間的な問題もプログラム構成の

    一因であったのかもしれない。しかし、帝劇は設立当初

    より、数種の演目を組み合わせたプログラムを組むこと

    が多く、その中にローシーの手になる「バレー」を組み

    込むことも通例であった。他の演目とあわせてデニショー

    ンの舞踊を目にすることは、それほど違和感のあること

    ではなかったであろう。また、観劇料は一、二部の通し

    料金と、二部のみ、という価格設定があったから、勿論

    二部のみで入場した観客もいたと思われる。

     さて、日本の観客が、彼らの姿を直に目にするのはこ

    れが初めてであるが、デニショーン、あるはセント・デ

    ニスの名は当時の日本でどれほど知られていたのだろう

    か。来日直前には、新聞や雑誌などで、デニス及びデニ

    ショーンを取り上げた記事が幾つか紹介されている。し

    かし、それ以前、例えば「洋舞」なる存在が認識され始

    39

  • めた大正の始め頃から見ていくと、イサドラ・ダンカン

    やニジンスキー、さらにロイ・フラーらの人物について

    は、新しい舞踊手として盛んに紹介されている一方、同

    じ時期に活動を始めているにも関わらず、セント・デニ

    スの名はあまり出てこない。来日前後に積極的にデニス

    について筆を取り、自らを「紹介の序詞役」と称した光

    吉夏弥が、

    「これ迄日本には、パブロワやダンカンの事のみよく

    紹介されて、デニスに付いては一向に知られずに来た

    が、此度の来朝に依て、この偏破な片手落ちが救はれ

             

    るのは幸甚である」

    と述べていることからも、その状況が窺えよう。

     一方、デニショーンの公演を見逃すまいとした淀川少

    年の場合は、既にデニスの存在を知っていたという。D・

    W・グリフィス監督の映画『イントレランス』(一九一

        り 

    六年)で、デニスが「バビロン大宮殿の広場の野外の大

    階段の舞踊のリーダi格で踊っていたことをも知ってい

                           け 

    たのでその本人を日本の舞台で見られることに期待した」

    というのは、いかにも後年映画に携わる人物の言葉らし

    いが、ともかくも、スクリーン上で既にデニスを見てい

    たことになる。淀川の回想によれば、デニショーンが来

    日した頃は、「サイレント映画史上の最高期を誇るとき

    だった」というが、淀川のように、スクリーンを通して

    異国の人々が演じる、あるいは踊る姿を既に目にしてい

    た日本人もいたわけだ。そして、淀川は、デニショーン

    の公演を「それらの映画とはまたちがってなまの外国の

    美術ということで評判を高めた」と振り返っている。当

    時、来日舞踊家に対する興味の内には、モノクロ、サイ

    レントのスクリーンの世界と、「なま」の舞台の世界と

    いう対比も含まれていたのである。

     『イントレランス』の日本公開数年前には、舞踊家と

    してではなく、「米国の女優」として、新聞記事に登場

    したこともある。一九一三年四月二九日付の東京日日新

    聞に、「亜米利加女優のニツポン「サヤアテ」」として、

    着物姿のデニスの写真が掲載された。「近頃米国では加

    州議会で排日案を提出して大騒動をやつてゐるかと思へ

    ば一方芝居道では盛んに日本の狂言が演ぜられて喝采を

    博している」として、デニスが「不破と名古屋の鞘当を

    嵌め込んだ」ものを上演していると紹介している。これ

    は、「不破と名古屋の鞘当」の話に、ラフカディオ・パー

    40

  •                       ゆ 

    ンが「十訓抄」から引いて記した「普賢菩薩」の話を組

           ほ 

    み合わせたもので、デニスの日本を題材とした作品の代

    表である『オミカ』のことである。

     またその翌年には、デニス自身の文章を訳したと思わ

    れる記事が紹介されている。一九一四年の「歌舞伎」

    (第一六六号)誌上に、「新しき象徴的舞踊の創始」とし

    て、松本苦味の訳で掲載されたものである。デニスがヨー

    ロッパから戻り、アメリカツアーを始めた頃に書かれた

    もののようで、タバコのポスターのイラストにインスピ

                       け 

    レーションを受けたという有名なエピソードも書かれて

    いるが、出典は明記されていない。そして、この文章が

    「歌舞伎」に載せられた元を辿ると、ある一人の日本人

    に行きつくことになる。それに先立つ一九一〇年、自ら

    の目でデニスの踊りを見た日本人、坪内士行である。一

    九一〇年というと、デニスはまだショーンと出会ってお

    らず、ヨーロッパから戻って間もない頃で、インドやエ

    ジプトに題材を取った作品を精力的に創作していた時期

    にあたる。先のデニスの文章が書かれた頃のことだ。

     「歌舞伎」(明治四三年第一一七号)に掲載されたその

    記事は、「デニスの表象的舞踊」(筆名は「在米赤とんぼ」)

             ほ 

    と題されたものだった。当時士行が留学していたボスト

    ンからの便りである。

    「此の暮れから春に掛けて私の只今居ります米国ボス

    トン市に、踊り子の集まった事は今迄殆ど無かつた位

    だと人が申します」

     こう切り出す通り、そこで名の挙がる「踊り子」たち

    は、イサドラ・ダンカン、モード・アラン、ロイ・フラi、

    アデリーン・ジェニi、そしてセント・デニスと鐸々た

    る顔ぶれだ。そして士行は、ダンカンを観たのは「去年

    の事になりましたので止めて」と前置きし、彼女らの中

    からセント・デニスをピックアップして筆を取ったので

    ある。

     士行は、インドを題材にした六つの作品を見物し、

    「二時間半程を見終つての感想を先づ申せば、概して

    暗い、動かぬ、意味有りげな、が、まだ悟り切らぬ、

                    

    成熟せぬと言う踊りと思いました」

    と述べた後、この公演で目撃したデニスの特徴は、ずば

    り「腕」にあると言葉を続けている。デニスの「腕」に

    41

  • ついての士行の詳細な報告は、神澤氏が指摘したデルサ

    ルトとの繋がりを考える上で非常に興味深い。士行の筆

    を借り、デニスの「腕」の動きをしばし眺めてみること

    にしたい。三

    .デニスの腕

     「悟りきらぬ、成熟せぬ」とその舞踊の全体を評しな

    がら、士行は、次のように報告した。

    「特徴は腕に御座います。足踊りでも手踊りでも無く、

    言わば腕踊り、手首から腕、二の腕、肩の働きに非常

    の工夫を加へ、練磨した物と見え、日本の踊り子の中

                        ぼ 

    にも真似しうる人は無い位に自由に動かせます」。

     士行が観たのは、腕を蛇に見立てた「蛇使ひ」(「コブ

    ラ」)、波打つ腕の動きで香の煙を表現する「香の精」

    (「

    Cンセンス」)、「ノーチ」、「ロータス・ポンド」、「ヨ

    ギ」、そして五感を象徴する踊りを取り入れた「ラーダ」

    というプログラムであった。これらの作品はいずれも、

    インドを舞台としたものである。士行は、この中でも二

    番目に見た「香の精」(「インセンス」)が「踊りは極め

    て単純ながら、一番この女の特徴が発揮されて面白く存

          

    じました」と述べている。舞台の背景は、暗い青色の布

    を天井から下げて壁に見立て、舞台の中央に絨毯を敷き、

    その四隅に鉄製の腰ほどの高さの台を飾り、「婦人の居

    間、印度風のカーテン」という様子であった。背景のカー

    テンの間から登場したデニスは、五分袖の衣装を着て頭

    には紗を被り、煙の立ち昇る鉢、すなわち香を入れた鉢

    を抱えて登場する。四隅におかれた台にその香を入れる

    と、煙が立ち上がり、照明の色が一々変わるという具合

    であった。

    「さて、香の姻盛んに立昇る真中に立ちました。それ

    から両手を腰の辺りから次第に上げて行きます。筋肉

    の能く発達して居ります事! グニャーと何とも申

    せぬ奇妙な、柔らかな動き方で、段々肩、頭、頭の上

    へと一ぱいに高く差延します。申さば真綿で作った腕

    みたいに、グルー筋が廻つて上がつて行くやうに見

    えます。…手先、指先の働きを見せますが、何でも無

    い事のやうで、さて真似しても一寸は出来ぬ姻りの姿。

    手にも取られずと申しますのが、あの女は姻りを手に…

    42

  • いや手を姻りにして居ると姻に巻かれて見て居りまし

    た。蛇使ひも巧みでしたが、是は腕をあらはに出して

    居りますだけに筋肉の働きが十分見え、面白う御座い

       に 

    ました」。

     「真綿で作った腕」とはうまく言ったものだ。本来な

    らば関節のある腕が、まるでその関節がないかのように、

    ぐにゃぐにゃと煙が立ち上っていく波動を表していると

    いうのである。これは、指、手首、肘、肩の関節が非常

    に柔らかく、自由に動かせるということだろうか。

     デニスの伝記を記したスザンヌ・シェルトンは、この

    踊りが、ジュヌヴィエーヌ・ステビンズの著作、、日7①

                            の 

    OΦ口①くδ〈Φω8σσ5ωω団ω8§ohけゴ①勺ゴ《匹o巴↓茜ぎヨαq、

    に掲載されている「サーペンタイン・シリーズ」という

    腕のエクササイズが元になっていると指摘している。デ

    ルサルトの名前は、ステビンズというこの女性を通して

    登場するのだが、彼女は、デルサルトの直接の弟子であ

    るスティール・マッケイに教えを受け、アメリカにその

    システムを広く普及させた人物である。

     ステビンズのこの著作は、「美しいものを導くような、

    しかし小さな子供や学校の教室でも教えられるくらいシ

    ンプルな、進歩的な身体訓練を必要としている多くの教

       カ 

    師たち」に向け記したものだという。「サーペンタイン・

    シリーズ」は、第三章の「反復訓練(α二=の)」のうち、

    四つの腕の動きからなる「美的訓練(芸Φo①ω昏Φ江o

    α円旨)」に含まれている。言葉の説明では今一つ分かり

    づらいが、その記述を追ってみよう。まず、体の側面で

    腕を肩の高さまで上げ、手首を下方に沈めてから手の平

    を裏返すと、指先は床を指す。今度は手首を肩まで持っ

    てきた後(肘を折る形になる)、その手首を上方へ上げ

    て指先を肩につける。そして肘を伸ばし手を後ろによく

    反らせる。これを、今度は肩より高い位置↓頭上↓肩の

    位置(斜め前方で)↓肩より高い位置(斜め前方で)↓

    肩の位置(体の正面で)↓肩より高い位置(正面で)、

             お 

    と繰り返すのである。肩から頭上へと位置を変えながら

    腕の動きを反復していく様子に共通点を見出すことはで

    きるが、果たしてこれが士行の記したようなデニスの腕

    の動きになるかは、実際にこの動きをやってみても今一

    つよくわからない。

     デルサルト・システムについては、俳優の演技による

    表現方法やモダン・ダンスの身体訓練法において影響を

    与えたと言われながら、その具体的な紹介や論考は著さ

    43

  • れずに、日本では通り一遍の記述で済まされることが殆

                           り 

    どであったが、武田清氏の論文ではステビンズの著作に

    依りながら、その哲学的、実戦的側面を具体的に紹介し

       お 

    ている。武田氏の論考から、先のデニスの真綿のような

    腕について理解する、いくつかのヒントを見出すことが

    できる。

     まず、関節の柔らかさについてである。武田氏は、デ

    ルサルト・システムの実践としてステビンズがまとめた

    十二のレッスンを記し、その最初にある「身体分節化

    (緊張を解く)練習」について、次のように記述してい

    る。

    「身体の小さな部分から始めて、身体全体へと力を抜

    いて(解緊して)いき、最後に顔面の解緊に終わる。

    完壁な柔軟性を身につけるための練習である。身体各

    部の関節の柔軟さを身につけることで、表現の水路を

    開放し、水流が障害物にじゃまされずに水路を流れで

    るように、活力が流れ出るようにするのだ、とステビ

    ンズは解説する。その順序は、指↓手↓前腕↓腕全体

    ↓頭↓胴↓足↓下脚↓脚全体↓身体全体↓まぶた↓下

          め 

    顎の順である」。

     そして、「この身体分節化の練習は、現在でもモダン・

    ダンスの基礎練習のなかに採り入れられている。ただし

    独立した練習を成してはいないので誰もまさかデルサル

                         ガ 

    ト・システムに源があるとは思わないだけである」と指

    摘しているのである。デニスは、まず母親からデルサル

                    お 

    トのテクニックを教えられたというが、士行が目撃した

    あの腕の柔らかさは、デルサルト・システムのレッスン

    を実際に行っていた賜物であるとも想像できる。

     また、武田氏は、「デルサルト・システムに対する誤

    解の源がうかがわれる」として、ステビンズが読者に向

    けた警告に注目している。ステビンズは「デルサルト・

    システムのレッスンを外形的に速成で身につけようとす

    るから、機械的わざとらしさに陥るのだと警告している」

    が、「デルサルト・ブームのなか、入門した大多数の者

           の 

    がそこに陥った」というのである。辛抱強く訓練を繰り

    返すことによってのみ、それが自然なものとなるという

    ことだが、士行の筆から察するデニスの腕の動きは、ま

    さにその段階まで進んでいたことを思わせはしないだろ

    うか。

     さて、士行がデニスの腕に驚嘆してから十五年後、帝

    劇の舞台に立ったデニスは、やはりその腕で観客を魅了

    44

  • していた。光吉夏弥は彼女を「手の踊手」と呼び、「こ

    れに異議をさしはさむものはあるまい」と述べている。

    ここで光吉の言うデニスの手とは、やはり士行が厳密に

    「手踊りでも無く、言わば腕踊り」と述べたところの、

    「腕」と捉えるべきだろう。次の一文からは、それがよ

    くわかる。

                    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

    「全くセント・デニスの舞踊に美のしよう点は、彼

    女のこの手にある。無限の波線を描いて動く手の脈

    動1。まるで関節のないやうなくねーとした手の

    動き。かと思ふと彼女はまたその手をはつらつとした

            

    直線にも動かす」。

     これは、士行が観た時にもプログラムに入っていた作

    品であり、デニスが一人で踊った「ノーチ」に対しての

    評である。デニショーン舞踊団が来日時舞台に上げたの

    は、舞踊劇作品、小品舞踊作品、音楽の視覚化を試みた

    ミュージック・ビジュアライゼーションズからなるプロ

    グラムで、この「ノーチ」は、小品舞踊作品に含まれる。

    「ノーチ」でのデニスの腕に感嘆した光吉は、かつては

    「コブラ」を演じたこの手が、過去の代表作だけでなく、

    ミュージック・ヴィジュアライゼーションズの「ワルツ

    と愛の夢」(音楽1ーブラームスの「ワルツ作品三十三番

    第十五」とリストの「愛の夢」)をも生み出したと続け

    ている。この作品の美しさは、「実に彼女の優麗な手の

    動きによるもの」であるというのだ。そして、「パブロ

    ワのトーにセント・デニスの手。これはけだし舞踊界の

    宝物だ」とパヴロヴァと対比しつつ、デニスの特徴を表

    現したのであった。

    四.デルサルトとモダン・ダンスの黎明

     デニスは当初母親からデルサルトのテクニックを学ん

    だというが、女性の間に広まったデルサルト・ブームに

    ついて、ナンシー・リー・カルファ・ロイターは、デル

    サルト自身に最も近しい段階でのデルサルト主義は、あ

    くまで男性主導の職業的な舞台の中にあったとし、次の

    ように述べている。長くなるが、デニスがデルサルトに

    触れることになった背景の一部と、先に武田氏が言及し

    ていたデルサルト・ブームの一端を見ることができるの

    で、引用しておこう。

    45

  • 「二人の女性が、マッケイやその他の人達から学んで

    きたものを受取り、デルサルト的な素材を、女性向け

    の教育や余興、そして素人の公演活動といったものに

    発展させ始めた時、この状況は変化した。ヘンリエッ

    タ・ホヴェイとジュヌヴィエーヴ・ステビンズは、依

    然職業俳優たちへの教授を続けていたし、たまに来る

    男性生徒を拒みはしなかったが、彼女たちは共に、デ

    ルサルト・システムを、女性(そして彼女たちの女児)

    が文化的な知識や健康、そして美というものを強める

    ことができるような複雑な訓練にまで発展させるため、

    自らが学んできたものを用いたのである。彼女たちが

    開発したものは、中流から上流階級の顧客たちをひき

    つけるようになり、ホヴェイ、ステビンズ、そして彼

    女たちの後継者は、それをこの女性の市場に提供する

    ことで、収入の大部分を得ることができたのである。

    ヘンリエッタ・ホヴェイとジュヌヴィエーヴ・ステビ

    ンズは、同時代の女性の振舞いと二〇世紀のダンスの

    双方に影響を与えた、最も主要なアメリカのデルサル

            む 

    ト主義者であった」。

    デルサルト・システムは、オペラ歌手や俳優の身体訓

    練というカテゴリから一気に供給の枠を広げることとなっ

    たのだ。中流から上流階級の女性たちというマーケット

    があったのである。女性にして医学を修めたセント・デ

    ニスの母親もそうであるが、これまでコルセットに締め

    付けられていた女性たちが自らの解放のために必要とし

    たのが、まさにデルサルトの身体理論であった。加えて、

    近代国家形成に不可欠であった国民の身体を作り上げる

    ため、表向きは国民の健康を促進するために、男子には

    体操、女子にはダンスを奨励していたその時代を後ろ盾

    に、デルサルト・システムは一気に広まっていったので

      ロ 

    ある。

     武田氏は、こラしてデルサルト・システムがブームを

    呼び起こしながら、その一方急速に忘れ去られていった

    一因に、デルサルト・コルセットやデルサルト椅子まで

    発売されるなど、「システムの実践的側面がプラグマティッ

                      お 

    クに捉えられすぎた」ことを挙げている。振る舞いを身

    につける教養としてのデルサルトに手を伸ばした多くの

    入門者にとっては、見方を変えれば、均一により多くの

    者にシステムを広めるためには、その方が手っ取り早い

    ことは確かであっただろう。急速に形骸化への道を辿っ

    たデルサルト・システムであるが、しかしながら、そこ

    46

  • から、モダン・ダンスにつながる道が通じていたことは

    心に留あておかなければならない。

     デニスは一八九二年、=二歳の時に、母親と共にニュー

    ヨークでステビンズの公演を観ている。「私の芸術家人

                     ム 

    生の真の誕生」とまで回想しているから、デニスの場合、

    ステビンズを通してのデルサルト受容ということが言え

    るだろう。デニスがこの時目にしたのは、「ダンス・オ

    ブ・デイ」という作品だった。ステビンズはギリシャ風

    のローブをまとい、舞台上に横たわっていた。眠りから

    目覚めると、起き上がり、真っ直ぐに立ち、日が沈むよ

    うに傾きはじめ、最後には反対の方向に向いてまた横た

       あ 

    わった。一見、他愛のないただ一連の動きに思えるが、

    スザンヌ・シェルトンは、デニスが、この動きの中に

    「退屈なデルサルト・エクササイズがダンスに変わるの

    を見たのだ」と述べている。「多くのデルサルト主義者

    とは違い、ステビンズ夫人は身振りの機械的なシステム

                          め 

    を動的な芸術形態へと変化させた」というのである。

    「今日のダンス史家に忘れられているが、彼女はアメ

    リカにおけるモダン・ダンスの先駆者ということが言

    える。というのは、単に若いルースのお手本になった

    というだけではなく、彼女はダンスにダイナミズムを

    加えたからである。十九世紀後半までには、アメリカ

    の劇場ダンスは静止した芸術であり、ポーズの連続で

    あり、それぞれ孤立した芸当のつながりであった。初

    期のモダン・ダンサーたちがしようとしたのは、ダン

    スに再び生命を吹き込むことであり、動きの理論を発

    見することであった。ステビンズは、エネルギーの源、

    ダンスのダイナモを発見した最初の一人であり、らせ

    ん状の形においてそれを見つけ出したのである」。

     ステビンズは、ヨガやスウェーデン体操、オリエンタ

    ル・ダンスやデルサルトを研究した中で、精神と身体の

    調和のとれた自然なバランスは、らせん形にあるとした。

    武田氏が紹介するデルサルトのレッスン2「調和のとれ

    た身のこなし」で、最後の工程に腰から上体を一方へ回

                        れ 

    し、頭を逆方向へ回すという動作が出てくるが、これも

    ステビンズの述べる「らせん状の形」となる。士行が感

    嘆した、「インセンス」でのぐるぐると立ち上る煙のよ

    うな動きも、いわばらせん形の動きなのである。

     また、シェルトンによれば、ステビンズのデルサルト

    の訓練は、あたかもモダン・ダンスのボキャブラリーの

    47

  • カタログであるという。例えば、腕と脚を反対方向にス

    ウィングさせる、足の屈曲、ひねり、体重のかすかな移

    動、背中を床につける、などである。加えて、呼吸のリ

    ズムでエクササイズのシステムを構築し、「胃の上と肺

    の下にあたる、まさに筋肉の中心である、横隔膜」を強

    調し、その上げ下げ、緊張と弛緩では、すべての筋肉が

    使われるのだと述べている。

    「モダン・テクニックの基礎としてステビンズのメソッ

    ドが重要なのは、無視されていた体の部分を使ったこ

    とである。たとえば、胴、腕、体の側面、そして頭で

    あり、空間における体の位置をつくり、横たわったり、

    脆いたり、起き上がったりといった様々なレベルを用

    い、呼吸の動きに基礎をおいた動きを取り込んだこと

    にある。ステビンズは、あるいは広義の「デルサルト」

    は、セント・デニスのダンス・テクニック、そしてそ

    れを受け継いだ彼女の後続者たちのテクニックの源泉

            お 

    であったのである」。

     これが、シェルトンが、ステビンズを「アメリカにお

    けるモダン・ダンスの先駆者」だとする理由である。

     シェルトンが挙げる右記の点に加え、デルサルト・シ

    ステムが初期のモダン・ダンスに大きなインスピレーショ

    ンを与え得たと考えられるのは、デルサルトが主張して

                    の 

    いた「形式と感情、外部と内部の関係」という点であろ

    う。興味深いのは、武田氏が、「この考え方は二〇世紀

    の演技論の最大の問題の一つであり続けている」とし、

    内的な感情が外的な形式に反響するだけでなく、外的な

    記号を与えることで、内部に感情を引き起こすというデ

                     れ 

    ルサルトの主張に注目していることだ。

     ここで頭に浮かぶのは、キャサリン・タッジ監督のド

                           れ 

    キュメンタリi・フィルム『マーサ・グラハムの生涯』

    に登場する、一つのエピソードである。ある女優が、子

    供を持つことができない女性を演じることになった。あ

    るシーンで、友人が幸せそうに赤ん坊を抱いている姿を

    見て泣き崩れる演技をしなければならないが、うまく感

    情が湧かず、どう動けばよいのかわからない。グラハム

    のレッスンに参加した彼女は、グラハムのコンストラク

    ション・アンド・リリースという技法をその場面で使う

    のである。呼吸から生ずる激しい横隔膜の動き、それに

    伴い体全体に亘る緊張と弛緩の動きにより、彼女は自分

    の経験したことのない感情を表現することができたとい

    48

  • う。ここでは、デルサルトとグラハムのつながり云々を

                        れ 

    述べたいのではなく、「内部世界と対応した形式」であっ

    た「コンストラクション・アンド・リリース」という技

    法が、その形式を与えることで内部世界を引き起こし得

    たという、その点に注目したいのである。内部世界と対

    応した形式を必要としたところで、初期のモダン・ダン

    スはデルサルトの理論に負うところ大であった。一方、

    ハリウッドの多くの女優がデニショーンに出入りしてい

    たことは有名であり、先の例のように、グラハムの下で

    教えを受けた演劇人も少なくないのは、身体訓練という

    理由のみならず、内部-外部双方向の作用についての可

    能性がそこに潜んでいたからだと考えるのは、些か飛躍

    しすぎだろうか。しかし、デルサルトの主張に含まれる

    この問題は、俳優と舞踊家双方にとって、デルサルト受

    容の一つのキー・ポイントであったことには違いがない。

     デルサルトは、人間の身体だけでなく、その存在の本

    質までをも三分割し、「形式と感情、外部と内部の関係

    について厳密な適合の科学11美学と記号学をうち立てる

                 お 

    ための徹底的な分節(細分)化」をしたという。このデ

    ルサルトの「科学」に惹きつけられ、二〇世紀のアメリ

                     な 

    カで、デルサルトについての重要な著作を記し、その紹

    介に貢献したのが、デニスのパートナーとなるテッド・

    ショーンであった。彼はまた、病気のリハビリのために

    ダンスの訓練を始めたのが契機となり、デニスに会う以

    前から、先に引用したロイターが挙げるもう一人の女性、

    ヘンリエッタ・ホヴェイに直接教えを受けていた。象徴

    的なのは、ショーンがデニスの「インセンス」を舞台で

    見たことから、二人の出会いがスタートしているという

         

    ことだ。彼らの結びつきにはデルサルトという強い磁力

    が介在していたことがわかるであろう。

     なお、後続者を輩出したという意味では、セント・デ

    ニス単独で捉えるよりも、ショーンを加えた「デ一一ショー

    ン」というまとまりで考えるべきであろう。デニスは、

    デニショーンの生徒への講義中、デルサルトから引いた

    言葉を多く語っていたというが、実際には生徒に教授す

                    お 

    るのはあまり得意ではなかったという。後進の育成とい

    う点では、多くをショーンに負っていたということから

    も、デニショーンとデルサルトという点、あるいは、と

    かく女性中心に語られがちな初期のモダン・ダンスにお

    けるショーンの役割についても、もっと注目すべきであ

    ろう。

    49

  • 五.おわりに

     葦原英了は「パブロワの時は胸をしめつけられるほど

    感動したが、デニショウンの時は楽しさに心浮き浮きし」、

    「舞踊の楽しさを、この時ほど痛切に感じたことはなかっ

                            ゲ 

    た」とデニショーン舞踊団の帝劇公演を振り返っている。

    一方、神戸での公演を観た淀川長治も、次のように回想

    している。

    「大正十一年(一九二二)のアンナ・パブロワ公演と

    ちがいデニショウンはもっと観客の層がひろかった。

    美しい踊り、誰が見ても楽しめる、西洋人がいっぱい

    出るダンス、このような一般の評判がパブロワとはち

    がって町じゅうに親しみを感じさせたのか、神戸でも

    その超満員があたかも家族連れの満席だったのだ」。

     その楽しく親しみのあるデニショーンの印象は、公演

    当時の劇評の中でもいくつか見られるものの、「パブロ

    ワとは違う新しい舞踊」という前提のもと、どの評者も

    何とかデニショーンの舞踊に説明を加えようと格闘して

    いるかのように見える。デニショーンの舞踊を説明する

    には、それと比較するものが必要であり、それが、デニ

    ス来日以前に日本人が体験したアンナ・パヴロヴァの舞

    踊であった。クラシックとモダン、西洋的と東洋的、足

    と手、テクニックと非テクニックなど、多くは二項対立

    の視点で語られている。あるいは、パヴロヴァの来日が、

                          ゆ 

    洋舞関係者よりも日本舞踊家に影響を与えたように、日

    本舞踊の世界との関係で論じる視点も多く見られる。か

    つて、デニスの腕について報告した坪内士行も、その一

    人であった。これら、デニショーン来日時の反響につい

    ては別稿を要するが、多く触れられる、「均整のとれた

    身体」、「彫刻的な美」、「美しい曲線美」、「ポーズの美し

    さ」などの感想は、これまで見てきたデルサルトとの関

    係からみると、より具体的に見えてくるであろう。

     日本では、これに先立つこと十五年以上前、士行のデ

    ニスの腕に関する報告が「歌舞伎」誌上にのる少し前に、

    既に二世市川左団次により、デルサルト・システムが導

    入されていたという経緯があるが、このデニショーン舞

    踊団の公演にその面影を感じ取った者は、当然とはいえ

    いないようだ。しかし、デニスの腕が「舞踊界の宝物だ」

    と述べた光吉夏弥は、ショーンについて次のように言葉

    50

  • を続けている。

    「テッド・ショウンは、人間の肉体の動きといふ事を

    深く研究しどう察してゐる舞で彼は人体のあらゆる動

    きを知りそれを運用してデニショウン全演目にあらは

    れた広大な表現範囲を獲得してゐる。事実デニショウ

    ンの舞踊の表現の範囲の広さは、他のどの舞踊の有す

    る境域よりも広いものといへる。ショウンの舞踊は彫

       む 

    刻的だ」。

     光吉は、デルサルトの磁力で結びつけられた二人のモ

    ダン・ダンスの先駆者について、そうとは知らずとも、

    デニショーンの舞台から、その特徴を読み取っていたと

    言えよう。光吉が鋭いアンテナで察知した、デルサルト

    に結びつけられたこの二人について、神澤氏は次のよう

    に指摘している。

    「イサドラ・ダンカンが二ーチェとワーグナーに行っ

    た時、方法論を求めてデルサルトに行ったテッド・ショー

    ンとルース・セント・デニスの影響が、アメリカのモ

    ダンダンスに強く投影したことは偶然ではなかった。

    ダンカンの刺激は大きいが、

       ロ 

    だから」。

    継承されるのは方法なの

     つまり、「継承される方法」があったが故に、セント・

    デニスとショーンがより次世代への影響力を持ちえたと

    いうことであり、その方法とは、デルサルトを拠り所と

    したものだったと言える。

     真綿のように柔らかにらせん形を描く腕で観客を魅了

    し、デルサルト・システムを深いレベルで体現したセン

    ト・デニスの身体と、デルサルトを科学的拠り所として

    その理論を伝えたテッド・ショーンの結びつきこそが、

    次の世代を生み出す苗床となったのだと言えよう。

    《注》

    (1) 淀川長治『私の舞踊家手帖』(新書館、一九九六年)

     七〇頁

    (2) 同書、七〇頁

    (3) 小寺融吉『舞踊の美学的研究』(春陽堂、一九二八年)

    (4) 片岡康子「日本の現代舞踊の成立過程ーデニショー

      ン舞踊団の日本公演を中心として」(「お茶の水女子大学

     人文科学紀要」(38)一九八五年三月)。他に、「モダン

     ダンスの人物思想史小論ールース・セント。デニスの

    51

  •   舞踊思想と改革」(「お茶の水女子大学人文科学紀要」

      (35)一九八二年三月)、編著『20世紀舞踊の作家と作品

      世界』(遊戯社、一九九九年)等でデニスについて論じ

      ている。

    (5) 神澤和夫『20世紀の舞踊』(未來社、一九九〇年)

    (6) 海野弘『モダンダンスの歴史』(新書館、一九九九年)

    (7)宣器○。げ①『ヨpPの§識薦」ミ鳴§9遷§戚§討δミ9

      b§蹄討黛ミ§ 織自§ミ § ミ⑩ 建『肉9無 N途噺IN爲働

      ζ乙邑Φ8≦戸08戸≦①巴亀睾d巳くΦ邑蔓牢Φωωし㊤刈ρ

      Pω。。

    (8) 「雑誌帝劇」大正十四年九月号記載の消息日誌より。

    (9) 「東京朝日新聞」大正十四年五月二十日

    (10) 日本公開は一九一九年。

    (11) 淀川、七四頁

    (12) r臥8αδ国$旨あぎ§ミ帖轟勲匡け二Φbdδ≦戸ゆo曾o戸

      一8ρの中に収められている。

    (13) ωロNき9ω冨犀oP沁ミ壽巽b§帆い§竃o§菖ミミ⑪

      §ミミ職§o塁¢巳〈9巴一団o噛↓①×窃写①葺〉霧江昌”

      一8ρ℃」8

    (14) デニスが見たのはエジプトタバコの広告だったという

      のが通説だが(巨冒9σΦ夢閑①昌α9戸§鳴「鳴魯恥風o謡89

      Z①≦磯o蒔”開⇒o℃炉一雪Φも.おなど)、ここでは「東印

      度の踊子の絵」(六〇頁)と訳されている。

    (15) この記事は、後に『西洋芝居土産』(坪内士行、富山

      房、大正五年)にも集録されている。

    (16) 坪内士行「デニスの表象的舞踊」(「歌舞伎」明治四三

      年第=七号)、三八頁

    (17) 同書、三八頁

    (18) 同書、四一頁

    (19) 同書、四二頁

    (20) Ω①器≦①<Φoっ辞①げげヨρZ①≦網o蒔響国αoq母oっ゜≦①ヨ9

      勺¢げ臣三ロσq卿Oo白Bコざ一Φ一ω」ωけ〇二σ」o。り。。.

    (21) ωげ①洋O戸P昭

    (22) Qり8げσヨωも』

    (23) N守ミ噛P一留

    (24) OΦ9くδ<①の什①げげぎρb鳴冴ミ弊⑩紹⑦鷺§ミ§惹恥鴇§℃

      U①口8国oユNo昌ρ一Φミ讐一ω一〇ロσ」08°

    (25) 武田清「デルサルトの表現システムについてー」(「文

      芸研究」第八十一号、明治大学文芸研究会、一九九九年)

     30

       A  A  A29 28 27 26)  )  )  )

    同書、一〇七頁

    同書、一〇七頁

    Qり

    ーΦ一8戸℃°=

    武田、一一五頁

    光吉夏弥「デニシヨン舞踊

    (五)」(「報知新聞」大正

      十四年九月二八日付)

    (31) Zきo《[①①Oげ巴富菊仁旨①ぴ↓書§ミ§琳画§9守o魯

      §戚§§風§ミミ討§ミら鳴ミ袋鑓》ミミ魯§b災鶏ミ肋§、

      O目讐O「8づ≦ooα牢Φωρ一80’PN°。

    (32) 三浦雅士『身体の零度』(講談社選書メチエ、一九九

      四年)では、身体にまつわる多様な側面から、近代とい

      う時代への転換点を浮き彫りにしており、「体操」と

      「舞踊」相互の関係も論考の重要な項目となっている。

    52

  • (33) 武田、一二〇頁

    (34) ωげ①一け8もP一ω-嵩

    (35)きミ、や一゜。

    (36) 、ミ3P一G。

    (37) 武田、一一五頁

    (38) ω冨一8戸P一切

    (39) 武田、一一九頁

    (40) 同書、二九頁

    (41) 一九九四年、アメリカ映画。ユーロスペースの「アー

      ト・ドキュメンタリー・フィルム」シリーズ。

    (42) 市川雅『ダンスの20世紀』(新書館、一九九五年)一

      七六頁

    (43) 武田、=九頁

    (44) ↓巴Q。冨≦戸肉竃越ミ§ミo竃§§警9守8澄S°ミ

     ぎ蕊9賊。・b災鶏§’霊洋ωh芭ρζ器゜。霧げロωΦ茸ρ国餌σqδ

      牢ぎニロσq9ρコ匹田ロα言σqOo日」㊤罐゜

    (45) 「デニショウン大舞踊団」(帝国劇場文芸部、一九二六

      年十月)、五一頁。デニショーン再来日の公演時に出さ

      れたパンフレットでも、このエピソードが紹介されてい

      る。

    (46) 望o「ヨきり,b。°。

    (47) 藍原英了『舞踊と身体』(新宿書房、一九八六年)二

      五頁

    (48) 國吉和子『夢の衣装・記憶の壺i舞踊とモダニズム』

      (新書館、二〇〇二年)=三頁

    (49) 注(30)に同じ。

    (50) 神澤、一三二頁

    53