ローマ書におけるピスティスとノモス(1) url right...

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Hitotsubashi University Repository Title �(1) Author(s) �, Citation �, 5: 256-309 Issue Date 2011-03-31 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/19025 Right

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Page 1: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

Hitotsubashi University Repository

Title ローマ書におけるピスティスとノモス(1)

Author(s) 太田 修司

Citation 人文自然研究 5 256-309

Issue Date 2011-03-31

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL httpdoiorg101505719025

Right

256  人文自然研究 第 5 号

1パウロ的「信」の構造

 ロ ー マ の 信 徒 へ の 手 紙(ロ ー マ 書)の 中 に 見 ら れ る ピ ス テ ィ ス

(πίστις)とノモス(νόμος)の主要な用例をそれらを含む文脈と相互の

関連に注意しながら釈義的神学的に考察しその結果を全体的に提示す

ることが本論考における筆者の課題であるこの問題については「イ

エスキリストのピスティス(信実)」(διὰ πίστεως rsquoΙησο Χριστο[ロ

マ 322ガラ 216]ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο[ガラ 322])とそ

の同等表現(ἐκ πίστεως Χριστο[ガラ 216]διὰ πίστεως Χριστο

[フィリ 39]ἐκ πίστεως rsquoΙησο[ロマ 326]ἐν πίστει τ το υἱο

το θεο[ガラ 220])および「ピスティス」(信)の絶対的用法(用例

多数)を中心にすでに基本的な釈義の結果を公表しているが(1)パウロ

のノモス発言についての考察は遅れたままであったこの論考はその遅れ

を取り戻すことを目的の一つとしているしかし本稿ではノモスの用例

をピスティスとは別に検討しそこから一定の結論を引き出したうえでそれ

をピスティスについての使徒の教えと突き合わせるという方法はとらな

いむしろこれらの語を含まない手紙の重要箇所も含めパウロ的ピス

ティスの構造についての私なりの解釈を徹底して推し進めるという道を

たどることにしたいというのはキリストによってもたらされた神と人

との新たな関係としてのピスティスをパウロがどう理解しこの用語によっ

て何を言おうとしたかが明らかになれば「人が義とされるのはノモスの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)

太田修司

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  257

行いによるのではなくピスティスによる」(ロマ 328)とパウロが説

く理由の概要もまたおのずと明らかになると考えられるからである

(1)パウロにおける「ピスティス」の意味 ピスティス(信)は信じる者と信じられる者がいてはじめて成立する

信じることはこの関係を肯定しその中に入りそこに留まることを常

に含意するこれは人間同士の信の関係でも神と人との信の関係でも同

じである(後者は信じる者と信じられる者の立場が決して入れ替わらない

という非対称性を本質とするにしても)この関係が成り立つためには

それに先立つ契機として接触(contact)に始まる言葉の交信(communi-

cation)がなければならない(2)これらは信の関係成立の必須の条件であ

るこの関係において信じる側は相手が信じるに値することを相手に対

して認めているのだからすでにそれによって相手に信(信頼性)を「贈

与」していることになるこのことは「信を置く」という言い回しを見れ

ばすぐに納得されるであろうもちろん贈与は「信じます」という言葉

だけでなく物質的精神的な贈与にまで容易に発展しうるが前者が後者

を可能にしているのであってその逆ではない言葉の贈与はたとえ「信

じます」としか言えない場合でも物質的精神的贈与の貧弱な代用物と

して片付けられるものではない信の関係はそれ自体言葉による信の贈

与によって成り立つ「贈与の関係」なのであるさらに信の贈与はそれ

自体相手との距離の短縮両者の近さの増大を含意しその近さがまた

さまざまなものの贈与を可能にするそれゆえ信の関係は「近さの関係」

としてとらえ直される(3)

 言葉の交信におけるメッセージとコードが意味をもつのは一定のコンテ

クストにおいてでありそのコンテクストは当事者たちの世界の変化と共

に変化するから信の関係が一定不変ということはあり得ない信の関係

は変わりうる可能性を内包しており関係の存在が関係の維持を自動的に

保証するわけではないエバが神ではなく蛇の言葉に聞き従って信の関係

258  人文自然研究 第 5 号

(まだ可能態であったが)を台無しにしたのと同様に第三者の介入がす

でに成立している関係を壊すことはよくあるまたそれ以上にありふれ

た現象だが信頼を安心と取り違えて相手からもっぱら安心を得ようとす

るなら信の関係はすでにその時点で別のものに変質しているのかもしれ

ない(4)信の関係の維持強化のためにはそうした可変性の克服が不可欠

でありそのためには双方が接触に始まる言葉の交信に価値を見いだし

コンテクストとコードに基づいて解読しうるメッセージの意味に相手の意

味作用が先立つことを認めて常に「私4

」の意味付与の彼方4 4 4 4 4 4 4 4

を目指すこと

が必要となるその意味で信の関係は本来非対称的な関係でありそうで

あるからには互いに信じ合える(と当事者たちが確信する)対称的な

「信頼関係」をモデルに信の関係を分析することは不適切であるそうす

るならば言葉(呼びかけ)の果たす本質的役割が見逃されそれゆえま

た贈与と近さの本来的意味も見過ごされてしまうだろう

 ピスティスに対する以上の限定的な分析とそれが使徒パウロのいうピ

スティスにも当てはまるという点については―すなわちパウロのピステ

ィスの概念4 4

を神の言葉によって形成される神と人との「信」の関係(信

じる人間の信仰と信じられる神の信実を基本とする)として捉えることが

できるという点については―それほど大きな異論はないであろうしか

しわれわれにとっての当面の関心事はパウロにおけるピスティスの概念4 4

ではなくその概念を言語で表わす名辞4 4

としてのピスティスであるすな

わち彼の手紙に現れる「ピスティス」という名詞の意味は何であるか

一般に考えられているように「信仰」つまり個々の人間の神とキリスト

を信じる姿勢や行動帰依や献身を意味するのかそれとも信仰だけでな

くそれと密接に関連する他の要素も同時に意味するのかその点を見極め

ることがまず第一に必要となる

 この問題について筆者はすでに次のような結論を得ている(太田① 5

67 および太田②)「イエスキリストのピスティス」の解釈の問題と

共にここにその要点をまとめておくことにしたい(前稿よりも厳密な表

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  259

現に改める)―(1)パウロにおける規定語を伴わない「ピスティス

(信)」は原則として神と神のキリスト(メシア)を信じる人間信じ

られる神とキリスト両者の関係を創出維持前進させる神の言葉の

三つの要素を暗黙に含みもつ超個人的な恵みの現実を全体として指示する

用語として用いられている(2)従って「ピスティス」の意味はこの名

辞が含意する内容すなわちその指示対象である恵みの現実全体とそれに

含まれる各要素のもつ属性―救いのシステム(エコノミー)(5)信じる

人間の姿勢(信仰)信じられる神とキリストの信頼性(信実)関係を創

出維持前進させる神の言葉の力(福音)―にある(3)ここで「超

個人的」とは信じる個々の人間の信仰がその信じる行為や意識に決して

還元されない他者(神キリスト)の信実を相関者としてもつことおよ

びその信仰が信じる個人と世代を超えた共同体的広がりをもつことこ

の二点を指すこの超個人的な恵みの現実はユダヤ教のトーラーを包

摂凌駕する救いのシステムとして機能する信の共同体は神の敵のた

めに贖罪の死を遂げたキリストによって形成される「社会的」共同体であ

りその扉はすべての不敬虔な人間に向かって開かれている(太田① 7

91213)

 パウロは以上の「ピスティス」の意味を基本としながらこの現実を成

り立たせている神とキリストあるいは人間を具体的に指示したいときに

つまりそこに含意された特定の意味を前面に押し立てたいときにこれに

属格形の代名詞や名詞を添える方法を用いたすなわちこれら属格形の

規定語は重要な差異化(意味の遠近法)の手段であり信じる人間の信仰

の事実やあり方を言い表わすときには人間を指示する代名詞や名詞の属格

形を「ピスティス」に添え神またはキリストの信実を言い表わすときに

は名詞の「神」または「キリスト」の属格形を添えたすなわち「あな

たがたの信仰」(ἡ πίστις ὑμν)(ロマ 181 コリ 251514172

コ リ 1241015フ ィ リ 2171 テ サ 183256710

Cf ロマ 112フィリ 1251 テサ 13)「あなたの信仰」(ἡ πίστίς

260  人文自然研究 第 5 号

σου フィレ 56)「働きはなくても不敬虔な者を義とする方を信じる」

人間の信仰(ἡ πίστις αὐτο 45)「アブラハムの信仰」([ἡ]πίστις

rsquoΑβραάμ ロマ 41216)「神の信実」(ἡ πίστις το θεο ロマ 33)そ

して「イエスキリストの信実」(前記の七例)である(太田① 456

および太田②)(6)

 ただし誰のピスティスを指すか文脈から分かるときには属格形の規

定 語 は 用 い ら れ な いた と え ばロ ー マ 4 章 9 節(λέγομεν γάρ

rsquoΕλογίσθη τ rsquoΑβραὰμ ἡ πίστις εἰς δικαιοσύνην「というのはわたした

ちは『アブラハムには信仰が義と認められた』と言っているからです」)

の ἡ πίστις がアブラハムの信仰を指すことは文脈から明らかであるロ

ーマ 4 章 19 節(μὴ ἀσθενήσας τ πίστει「信仰において弱ることなく」)

もアブラハム自身の信仰という意味にとるしかないローマ 14 章 122

節の用例も同様に解せるであろうローマ 12 章 36 節の用例も同様に見

えるがこれらについては別の解釈もありうるローマ 4 章 11 節(καὶ

σημεον ἔλαβεν περιτομς σϕραγδα τς δικαιοσύνης τς πίστεως τς ἐν

τ ἀκροβυστίαι「そして無割礼におけるピスティスの義の証印として割礼

のしるしを受けたのです」)および 13 節(ἀλλὰ διὰ δικαιοσύνης πίστεως

「そうではなくピスティスの義によるのです」)のピスティスはアブラハ

ムの信仰ではなく「信」を指すと見る方がよい(太田① 120 頁と太田②

77 頁をこのように訂正する)これらについては「ローマ書におけるピス

ティスとノモス(3)」(以下「論考(3)」)で詳述することにしたい

(2)主語的解釈の限界 パウロにおける「イエスキリストのピスティス」(πίστις rsquoΙησο Χρι-

στο)の釈義をめぐる論争は二十世紀半ばから始まり現在もまだ続い

ている(7)リチャードヘイズの重要なモノグラフ(1983 年)以来(8)

「イエスキリストの」という属格形を目的語的にではなく主語的にとる

解釈が研究者の間に強い支持を得るようになった目的語的にとる伝統的

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  261

な解釈[口語訳と新共同訳もこれを踏襲]ではこの句は「イエスキリス

トへの信仰」という意味に解され主語的解釈によれば「イエスキリス

トの信実信仰忠実」という意味に解される主語的解釈において

「イエスキリストの信実(faithfulness)」と「イエスキリストの信仰

(faith)」ではかなりの違いがありまた「キリストの信実」といってもキ

リストの誰に対する4 4 4 4 4

信実かが問われるはずだがこれらの問題は「論考

(2)」で取り上げることにしたい筆者自身はこの属格構成を「イエス

キリストの信実」の意味にとり人間にとってキリストが「信頼に値する

こと」を言い表わす表現として理解している(太田① 3)

 主語的解釈は目的語的解釈のさまざまな問題点をクリアすることを可能

にした点で高く評価されるしかし主語的解釈も目的語的解釈もさら

にこの属格構成を折衷的にとる解釈もそれだけでは規定語を伴わない

パウロの「ピスティス」の用例について満足のいく説明を与えることがで

きないパウロ的「信」との関連でこの点を最初に確認しておく必要があ

 まず目的語的解釈の限界から話を始めよう特に問題となるのはローマ

1 章 17 節同 3 章 25 節ガラテヤ 3 章 23―25 節などである(これらは

主語的解釈論者がすでに以前から指摘してきた)πίστις Χριστο を「キ

リストへの信仰」ととる伝統的な目的語的解釈はパウロの手紙に現れる

すべての πίστις を一様に「信仰」の意味に解しようとするローマ書全

体のテーマを掲げた 1 章 17 節の前半部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν 直訳「というのは神の義がそこ

〔福音〕において信に基づき信を目指して啓示されるからです」)に含まれ

る ἐκ πίστεως εἰς πίστιν の釈義も例外ではないἐκ hellip εἰς hellip という前置

詞のイディオム的使用をどう説明するにせよこのピスティスを「信仰」

の意味にとると「神の義」の啓示つまり神の義とする働きの啓示が人4

間の信仰4 4 4 4

に依存するという不合理なことになってしまう「神の義」を

「神からの義」として説明しても不合理であることに変わりはない(実は

262  人文自然研究 第 5 号

これは決して不合理ではないのだがその点を理解するにはピスティス

をもっぱら人間の信じる姿勢や行動の意味にとるのではなく神と人との

信の関係としてのピスティスに着目する必要がある「論考(2)」参照)

次 に ロ ー マ 3 章 25 節 だ が(ὃν προέθετο ὁ θεὸς ἱλαστήριον διὰ τς

πίστεως ἐν hellip)この文の主語は ὁ θεὸς(「神」)であり動詞は προέθετο

(「立てた」)だからこれに含まれる διὰ τς πίστεως は副詞的に動詞に

かけて読まざるをえない(詳しい釈義は「論考(2)」にゆずる)そのた

め目的語的解釈の原則に従ってこれを「信仰によって」ととるとこの

文は全く意味をなさなくなる新共同訳は本節を「神はこのキリストを立

てhelliphellip信じる者のために4 4 4 4 4 4 4 4

罪を償う供え物となさいました」と訳しているが

とてもまともな訳とは言えない最後にガラテヤ 3 章 23―25 節の 4 つ

のピスティスの釈義においてもこの解釈の弱点が明らかになる目的語的

解釈では22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο を「イエスキリストへの

信仰」24 節の ἐκ πίστεως を「信仰によって」と解しさらに 23 節と 25

節 の τὴν πίστιν も「信 仰」の 意 味 に と るだ が こ れ に よ る と

人間の「信仰」が「来た」「啓示された」という奇妙なことになってしま

うこの問題を乗り越えるためHDベッツは 23―25 節のピスティ

スの到来と啓示の基本的意味を「神が御子と御子の霊を送ったときには

じめて信仰が人類にとっての一般的可能性となった」という点に見る(9)

そして「キリストの来臨(24 節)と共に前者〔律法の時代〕が終わり後

者〔信仰の時代〕が始まる」「πίστις(「信仰」)は個人の信じる行為では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

なく4 4

歴史的現象の出来を言い表わす」(傍点引用者)「ἀποκαλύπτω

(「啓示する」)という用語はここではパウロへの信仰の啓示を指すのでは

なく福音の啓示という一般的な意味で〔用いられている〕」と注記して

いるベッツのいう「歴史的現象」はキリストの来臨と福音の啓示の両方

を指すのであろう彼がそこに人間の信じる行為としての信仰を含めない

のはそれを含めると人間の信仰が啓示の対象になってしまうからであろ

うベッツの解釈はキリストおよびキリストの霊の来臨と福音の啓示が

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 2: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

256  人文自然研究 第 5 号

1パウロ的「信」の構造

 ロ ー マ の 信 徒 へ の 手 紙(ロ ー マ 書)の 中 に 見 ら れ る ピ ス テ ィ ス

(πίστις)とノモス(νόμος)の主要な用例をそれらを含む文脈と相互の

関連に注意しながら釈義的神学的に考察しその結果を全体的に提示す

ることが本論考における筆者の課題であるこの問題については「イ

エスキリストのピスティス(信実)」(διὰ πίστεως rsquoΙησο Χριστο[ロ

マ 322ガラ 216]ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο[ガラ 322])とそ

の同等表現(ἐκ πίστεως Χριστο[ガラ 216]διὰ πίστεως Χριστο

[フィリ 39]ἐκ πίστεως rsquoΙησο[ロマ 326]ἐν πίστει τ το υἱο

το θεο[ガラ 220])および「ピスティス」(信)の絶対的用法(用例

多数)を中心にすでに基本的な釈義の結果を公表しているが(1)パウロ

のノモス発言についての考察は遅れたままであったこの論考はその遅れ

を取り戻すことを目的の一つとしているしかし本稿ではノモスの用例

をピスティスとは別に検討しそこから一定の結論を引き出したうえでそれ

をピスティスについての使徒の教えと突き合わせるという方法はとらな

いむしろこれらの語を含まない手紙の重要箇所も含めパウロ的ピス

ティスの構造についての私なりの解釈を徹底して推し進めるという道を

たどることにしたいというのはキリストによってもたらされた神と人

との新たな関係としてのピスティスをパウロがどう理解しこの用語によっ

て何を言おうとしたかが明らかになれば「人が義とされるのはノモスの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)

太田修司

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  257

行いによるのではなくピスティスによる」(ロマ 328)とパウロが説

く理由の概要もまたおのずと明らかになると考えられるからである

(1)パウロにおける「ピスティス」の意味 ピスティス(信)は信じる者と信じられる者がいてはじめて成立する

信じることはこの関係を肯定しその中に入りそこに留まることを常

に含意するこれは人間同士の信の関係でも神と人との信の関係でも同

じである(後者は信じる者と信じられる者の立場が決して入れ替わらない

という非対称性を本質とするにしても)この関係が成り立つためには

それに先立つ契機として接触(contact)に始まる言葉の交信(communi-

cation)がなければならない(2)これらは信の関係成立の必須の条件であ

るこの関係において信じる側は相手が信じるに値することを相手に対

して認めているのだからすでにそれによって相手に信(信頼性)を「贈

与」していることになるこのことは「信を置く」という言い回しを見れ

ばすぐに納得されるであろうもちろん贈与は「信じます」という言葉

だけでなく物質的精神的な贈与にまで容易に発展しうるが前者が後者

を可能にしているのであってその逆ではない言葉の贈与はたとえ「信

じます」としか言えない場合でも物質的精神的贈与の貧弱な代用物と

して片付けられるものではない信の関係はそれ自体言葉による信の贈

与によって成り立つ「贈与の関係」なのであるさらに信の贈与はそれ

自体相手との距離の短縮両者の近さの増大を含意しその近さがまた

さまざまなものの贈与を可能にするそれゆえ信の関係は「近さの関係」

としてとらえ直される(3)

 言葉の交信におけるメッセージとコードが意味をもつのは一定のコンテ

クストにおいてでありそのコンテクストは当事者たちの世界の変化と共

に変化するから信の関係が一定不変ということはあり得ない信の関係

は変わりうる可能性を内包しており関係の存在が関係の維持を自動的に

保証するわけではないエバが神ではなく蛇の言葉に聞き従って信の関係

258  人文自然研究 第 5 号

(まだ可能態であったが)を台無しにしたのと同様に第三者の介入がす

でに成立している関係を壊すことはよくあるまたそれ以上にありふれ

た現象だが信頼を安心と取り違えて相手からもっぱら安心を得ようとす

るなら信の関係はすでにその時点で別のものに変質しているのかもしれ

ない(4)信の関係の維持強化のためにはそうした可変性の克服が不可欠

でありそのためには双方が接触に始まる言葉の交信に価値を見いだし

コンテクストとコードに基づいて解読しうるメッセージの意味に相手の意

味作用が先立つことを認めて常に「私4

」の意味付与の彼方4 4 4 4 4 4 4 4

を目指すこと

が必要となるその意味で信の関係は本来非対称的な関係でありそうで

あるからには互いに信じ合える(と当事者たちが確信する)対称的な

「信頼関係」をモデルに信の関係を分析することは不適切であるそうす

るならば言葉(呼びかけ)の果たす本質的役割が見逃されそれゆえま

た贈与と近さの本来的意味も見過ごされてしまうだろう

 ピスティスに対する以上の限定的な分析とそれが使徒パウロのいうピ

スティスにも当てはまるという点については―すなわちパウロのピステ

ィスの概念4 4

を神の言葉によって形成される神と人との「信」の関係(信

じる人間の信仰と信じられる神の信実を基本とする)として捉えることが

できるという点については―それほど大きな異論はないであろうしか

しわれわれにとっての当面の関心事はパウロにおけるピスティスの概念4 4

ではなくその概念を言語で表わす名辞4 4

としてのピスティスであるすな

わち彼の手紙に現れる「ピスティス」という名詞の意味は何であるか

一般に考えられているように「信仰」つまり個々の人間の神とキリスト

を信じる姿勢や行動帰依や献身を意味するのかそれとも信仰だけでな

くそれと密接に関連する他の要素も同時に意味するのかその点を見極め

ることがまず第一に必要となる

 この問題について筆者はすでに次のような結論を得ている(太田① 5

67 および太田②)「イエスキリストのピスティス」の解釈の問題と

共にここにその要点をまとめておくことにしたい(前稿よりも厳密な表

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  259

現に改める)―(1)パウロにおける規定語を伴わない「ピスティス

(信)」は原則として神と神のキリスト(メシア)を信じる人間信じ

られる神とキリスト両者の関係を創出維持前進させる神の言葉の

三つの要素を暗黙に含みもつ超個人的な恵みの現実を全体として指示する

用語として用いられている(2)従って「ピスティス」の意味はこの名

辞が含意する内容すなわちその指示対象である恵みの現実全体とそれに

含まれる各要素のもつ属性―救いのシステム(エコノミー)(5)信じる

人間の姿勢(信仰)信じられる神とキリストの信頼性(信実)関係を創

出維持前進させる神の言葉の力(福音)―にある(3)ここで「超

個人的」とは信じる個々の人間の信仰がその信じる行為や意識に決して

還元されない他者(神キリスト)の信実を相関者としてもつことおよ

びその信仰が信じる個人と世代を超えた共同体的広がりをもつことこ

の二点を指すこの超個人的な恵みの現実はユダヤ教のトーラーを包

摂凌駕する救いのシステムとして機能する信の共同体は神の敵のた

めに贖罪の死を遂げたキリストによって形成される「社会的」共同体であ

りその扉はすべての不敬虔な人間に向かって開かれている(太田① 7

91213)

 パウロは以上の「ピスティス」の意味を基本としながらこの現実を成

り立たせている神とキリストあるいは人間を具体的に指示したいときに

つまりそこに含意された特定の意味を前面に押し立てたいときにこれに

属格形の代名詞や名詞を添える方法を用いたすなわちこれら属格形の

規定語は重要な差異化(意味の遠近法)の手段であり信じる人間の信仰

の事実やあり方を言い表わすときには人間を指示する代名詞や名詞の属格

形を「ピスティス」に添え神またはキリストの信実を言い表わすときに

は名詞の「神」または「キリスト」の属格形を添えたすなわち「あな

たがたの信仰」(ἡ πίστις ὑμν)(ロマ 181 コリ 251514172

コ リ 1241015フ ィ リ 2171 テ サ 183256710

Cf ロマ 112フィリ 1251 テサ 13)「あなたの信仰」(ἡ πίστίς

260  人文自然研究 第 5 号

σου フィレ 56)「働きはなくても不敬虔な者を義とする方を信じる」

人間の信仰(ἡ πίστις αὐτο 45)「アブラハムの信仰」([ἡ]πίστις

rsquoΑβραάμ ロマ 41216)「神の信実」(ἡ πίστις το θεο ロマ 33)そ

して「イエスキリストの信実」(前記の七例)である(太田① 456

および太田②)(6)

 ただし誰のピスティスを指すか文脈から分かるときには属格形の規

定 語 は 用 い ら れ な いた と え ばロ ー マ 4 章 9 節(λέγομεν γάρ

rsquoΕλογίσθη τ rsquoΑβραὰμ ἡ πίστις εἰς δικαιοσύνην「というのはわたした

ちは『アブラハムには信仰が義と認められた』と言っているからです」)

の ἡ πίστις がアブラハムの信仰を指すことは文脈から明らかであるロ

ーマ 4 章 19 節(μὴ ἀσθενήσας τ πίστει「信仰において弱ることなく」)

もアブラハム自身の信仰という意味にとるしかないローマ 14 章 122

節の用例も同様に解せるであろうローマ 12 章 36 節の用例も同様に見

えるがこれらについては別の解釈もありうるローマ 4 章 11 節(καὶ

σημεον ἔλαβεν περιτομς σϕραγδα τς δικαιοσύνης τς πίστεως τς ἐν

τ ἀκροβυστίαι「そして無割礼におけるピスティスの義の証印として割礼

のしるしを受けたのです」)および 13 節(ἀλλὰ διὰ δικαιοσύνης πίστεως

「そうではなくピスティスの義によるのです」)のピスティスはアブラハ

ムの信仰ではなく「信」を指すと見る方がよい(太田① 120 頁と太田②

77 頁をこのように訂正する)これらについては「ローマ書におけるピス

ティスとノモス(3)」(以下「論考(3)」)で詳述することにしたい

(2)主語的解釈の限界 パウロにおける「イエスキリストのピスティス」(πίστις rsquoΙησο Χρι-

στο)の釈義をめぐる論争は二十世紀半ばから始まり現在もまだ続い

ている(7)リチャードヘイズの重要なモノグラフ(1983 年)以来(8)

「イエスキリストの」という属格形を目的語的にではなく主語的にとる

解釈が研究者の間に強い支持を得るようになった目的語的にとる伝統的

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  261

な解釈[口語訳と新共同訳もこれを踏襲]ではこの句は「イエスキリス

トへの信仰」という意味に解され主語的解釈によれば「イエスキリス

トの信実信仰忠実」という意味に解される主語的解釈において

「イエスキリストの信実(faithfulness)」と「イエスキリストの信仰

(faith)」ではかなりの違いがありまた「キリストの信実」といってもキ

リストの誰に対する4 4 4 4 4

信実かが問われるはずだがこれらの問題は「論考

(2)」で取り上げることにしたい筆者自身はこの属格構成を「イエス

キリストの信実」の意味にとり人間にとってキリストが「信頼に値する

こと」を言い表わす表現として理解している(太田① 3)

 主語的解釈は目的語的解釈のさまざまな問題点をクリアすることを可能

にした点で高く評価されるしかし主語的解釈も目的語的解釈もさら

にこの属格構成を折衷的にとる解釈もそれだけでは規定語を伴わない

パウロの「ピスティス」の用例について満足のいく説明を与えることがで

きないパウロ的「信」との関連でこの点を最初に確認しておく必要があ

 まず目的語的解釈の限界から話を始めよう特に問題となるのはローマ

1 章 17 節同 3 章 25 節ガラテヤ 3 章 23―25 節などである(これらは

主語的解釈論者がすでに以前から指摘してきた)πίστις Χριστο を「キ

リストへの信仰」ととる伝統的な目的語的解釈はパウロの手紙に現れる

すべての πίστις を一様に「信仰」の意味に解しようとするローマ書全

体のテーマを掲げた 1 章 17 節の前半部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν 直訳「というのは神の義がそこ

〔福音〕において信に基づき信を目指して啓示されるからです」)に含まれ

る ἐκ πίστεως εἰς πίστιν の釈義も例外ではないἐκ hellip εἰς hellip という前置

詞のイディオム的使用をどう説明するにせよこのピスティスを「信仰」

の意味にとると「神の義」の啓示つまり神の義とする働きの啓示が人4

間の信仰4 4 4 4

に依存するという不合理なことになってしまう「神の義」を

「神からの義」として説明しても不合理であることに変わりはない(実は

262  人文自然研究 第 5 号

これは決して不合理ではないのだがその点を理解するにはピスティス

をもっぱら人間の信じる姿勢や行動の意味にとるのではなく神と人との

信の関係としてのピスティスに着目する必要がある「論考(2)」参照)

次 に ロ ー マ 3 章 25 節 だ が(ὃν προέθετο ὁ θεὸς ἱλαστήριον διὰ τς

πίστεως ἐν hellip)この文の主語は ὁ θεὸς(「神」)であり動詞は προέθετο

(「立てた」)だからこれに含まれる διὰ τς πίστεως は副詞的に動詞に

かけて読まざるをえない(詳しい釈義は「論考(2)」にゆずる)そのた

め目的語的解釈の原則に従ってこれを「信仰によって」ととるとこの

文は全く意味をなさなくなる新共同訳は本節を「神はこのキリストを立

てhelliphellip信じる者のために4 4 4 4 4 4 4 4

罪を償う供え物となさいました」と訳しているが

とてもまともな訳とは言えない最後にガラテヤ 3 章 23―25 節の 4 つ

のピスティスの釈義においてもこの解釈の弱点が明らかになる目的語的

解釈では22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο を「イエスキリストへの

信仰」24 節の ἐκ πίστεως を「信仰によって」と解しさらに 23 節と 25

節 の τὴν πίστιν も「信 仰」の 意 味 に と るだ が こ れ に よ る と

人間の「信仰」が「来た」「啓示された」という奇妙なことになってしま

うこの問題を乗り越えるためHDベッツは 23―25 節のピスティ

スの到来と啓示の基本的意味を「神が御子と御子の霊を送ったときには

じめて信仰が人類にとっての一般的可能性となった」という点に見る(9)

そして「キリストの来臨(24 節)と共に前者〔律法の時代〕が終わり後

者〔信仰の時代〕が始まる」「πίστις(「信仰」)は個人の信じる行為では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

なく4 4

歴史的現象の出来を言い表わす」(傍点引用者)「ἀποκαλύπτω

(「啓示する」)という用語はここではパウロへの信仰の啓示を指すのでは

なく福音の啓示という一般的な意味で〔用いられている〕」と注記して

いるベッツのいう「歴史的現象」はキリストの来臨と福音の啓示の両方

を指すのであろう彼がそこに人間の信じる行為としての信仰を含めない

のはそれを含めると人間の信仰が啓示の対象になってしまうからであろ

うベッツの解釈はキリストおよびキリストの霊の来臨と福音の啓示が

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 3: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  257

行いによるのではなくピスティスによる」(ロマ 328)とパウロが説

く理由の概要もまたおのずと明らかになると考えられるからである

(1)パウロにおける「ピスティス」の意味 ピスティス(信)は信じる者と信じられる者がいてはじめて成立する

信じることはこの関係を肯定しその中に入りそこに留まることを常

に含意するこれは人間同士の信の関係でも神と人との信の関係でも同

じである(後者は信じる者と信じられる者の立場が決して入れ替わらない

という非対称性を本質とするにしても)この関係が成り立つためには

それに先立つ契機として接触(contact)に始まる言葉の交信(communi-

cation)がなければならない(2)これらは信の関係成立の必須の条件であ

るこの関係において信じる側は相手が信じるに値することを相手に対

して認めているのだからすでにそれによって相手に信(信頼性)を「贈

与」していることになるこのことは「信を置く」という言い回しを見れ

ばすぐに納得されるであろうもちろん贈与は「信じます」という言葉

だけでなく物質的精神的な贈与にまで容易に発展しうるが前者が後者

を可能にしているのであってその逆ではない言葉の贈与はたとえ「信

じます」としか言えない場合でも物質的精神的贈与の貧弱な代用物と

して片付けられるものではない信の関係はそれ自体言葉による信の贈

与によって成り立つ「贈与の関係」なのであるさらに信の贈与はそれ

自体相手との距離の短縮両者の近さの増大を含意しその近さがまた

さまざまなものの贈与を可能にするそれゆえ信の関係は「近さの関係」

としてとらえ直される(3)

 言葉の交信におけるメッセージとコードが意味をもつのは一定のコンテ

クストにおいてでありそのコンテクストは当事者たちの世界の変化と共

に変化するから信の関係が一定不変ということはあり得ない信の関係

は変わりうる可能性を内包しており関係の存在が関係の維持を自動的に

保証するわけではないエバが神ではなく蛇の言葉に聞き従って信の関係

258  人文自然研究 第 5 号

(まだ可能態であったが)を台無しにしたのと同様に第三者の介入がす

でに成立している関係を壊すことはよくあるまたそれ以上にありふれ

た現象だが信頼を安心と取り違えて相手からもっぱら安心を得ようとす

るなら信の関係はすでにその時点で別のものに変質しているのかもしれ

ない(4)信の関係の維持強化のためにはそうした可変性の克服が不可欠

でありそのためには双方が接触に始まる言葉の交信に価値を見いだし

コンテクストとコードに基づいて解読しうるメッセージの意味に相手の意

味作用が先立つことを認めて常に「私4

」の意味付与の彼方4 4 4 4 4 4 4 4

を目指すこと

が必要となるその意味で信の関係は本来非対称的な関係でありそうで

あるからには互いに信じ合える(と当事者たちが確信する)対称的な

「信頼関係」をモデルに信の関係を分析することは不適切であるそうす

るならば言葉(呼びかけ)の果たす本質的役割が見逃されそれゆえま

た贈与と近さの本来的意味も見過ごされてしまうだろう

 ピスティスに対する以上の限定的な分析とそれが使徒パウロのいうピ

スティスにも当てはまるという点については―すなわちパウロのピステ

ィスの概念4 4

を神の言葉によって形成される神と人との「信」の関係(信

じる人間の信仰と信じられる神の信実を基本とする)として捉えることが

できるという点については―それほど大きな異論はないであろうしか

しわれわれにとっての当面の関心事はパウロにおけるピスティスの概念4 4

ではなくその概念を言語で表わす名辞4 4

としてのピスティスであるすな

わち彼の手紙に現れる「ピスティス」という名詞の意味は何であるか

一般に考えられているように「信仰」つまり個々の人間の神とキリスト

を信じる姿勢や行動帰依や献身を意味するのかそれとも信仰だけでな

くそれと密接に関連する他の要素も同時に意味するのかその点を見極め

ることがまず第一に必要となる

 この問題について筆者はすでに次のような結論を得ている(太田① 5

67 および太田②)「イエスキリストのピスティス」の解釈の問題と

共にここにその要点をまとめておくことにしたい(前稿よりも厳密な表

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  259

現に改める)―(1)パウロにおける規定語を伴わない「ピスティス

(信)」は原則として神と神のキリスト(メシア)を信じる人間信じ

られる神とキリスト両者の関係を創出維持前進させる神の言葉の

三つの要素を暗黙に含みもつ超個人的な恵みの現実を全体として指示する

用語として用いられている(2)従って「ピスティス」の意味はこの名

辞が含意する内容すなわちその指示対象である恵みの現実全体とそれに

含まれる各要素のもつ属性―救いのシステム(エコノミー)(5)信じる

人間の姿勢(信仰)信じられる神とキリストの信頼性(信実)関係を創

出維持前進させる神の言葉の力(福音)―にある(3)ここで「超

個人的」とは信じる個々の人間の信仰がその信じる行為や意識に決して

還元されない他者(神キリスト)の信実を相関者としてもつことおよ

びその信仰が信じる個人と世代を超えた共同体的広がりをもつことこ

の二点を指すこの超個人的な恵みの現実はユダヤ教のトーラーを包

摂凌駕する救いのシステムとして機能する信の共同体は神の敵のた

めに贖罪の死を遂げたキリストによって形成される「社会的」共同体であ

りその扉はすべての不敬虔な人間に向かって開かれている(太田① 7

91213)

 パウロは以上の「ピスティス」の意味を基本としながらこの現実を成

り立たせている神とキリストあるいは人間を具体的に指示したいときに

つまりそこに含意された特定の意味を前面に押し立てたいときにこれに

属格形の代名詞や名詞を添える方法を用いたすなわちこれら属格形の

規定語は重要な差異化(意味の遠近法)の手段であり信じる人間の信仰

の事実やあり方を言い表わすときには人間を指示する代名詞や名詞の属格

形を「ピスティス」に添え神またはキリストの信実を言い表わすときに

は名詞の「神」または「キリスト」の属格形を添えたすなわち「あな

たがたの信仰」(ἡ πίστις ὑμν)(ロマ 181 コリ 251514172

コ リ 1241015フ ィ リ 2171 テ サ 183256710

Cf ロマ 112フィリ 1251 テサ 13)「あなたの信仰」(ἡ πίστίς

260  人文自然研究 第 5 号

σου フィレ 56)「働きはなくても不敬虔な者を義とする方を信じる」

人間の信仰(ἡ πίστις αὐτο 45)「アブラハムの信仰」([ἡ]πίστις

rsquoΑβραάμ ロマ 41216)「神の信実」(ἡ πίστις το θεο ロマ 33)そ

して「イエスキリストの信実」(前記の七例)である(太田① 456

および太田②)(6)

 ただし誰のピスティスを指すか文脈から分かるときには属格形の規

定 語 は 用 い ら れ な いた と え ばロ ー マ 4 章 9 節(λέγομεν γάρ

rsquoΕλογίσθη τ rsquoΑβραὰμ ἡ πίστις εἰς δικαιοσύνην「というのはわたした

ちは『アブラハムには信仰が義と認められた』と言っているからです」)

の ἡ πίστις がアブラハムの信仰を指すことは文脈から明らかであるロ

ーマ 4 章 19 節(μὴ ἀσθενήσας τ πίστει「信仰において弱ることなく」)

もアブラハム自身の信仰という意味にとるしかないローマ 14 章 122

節の用例も同様に解せるであろうローマ 12 章 36 節の用例も同様に見

えるがこれらについては別の解釈もありうるローマ 4 章 11 節(καὶ

σημεον ἔλαβεν περιτομς σϕραγδα τς δικαιοσύνης τς πίστεως τς ἐν

τ ἀκροβυστίαι「そして無割礼におけるピスティスの義の証印として割礼

のしるしを受けたのです」)および 13 節(ἀλλὰ διὰ δικαιοσύνης πίστεως

「そうではなくピスティスの義によるのです」)のピスティスはアブラハ

ムの信仰ではなく「信」を指すと見る方がよい(太田① 120 頁と太田②

77 頁をこのように訂正する)これらについては「ローマ書におけるピス

ティスとノモス(3)」(以下「論考(3)」)で詳述することにしたい

(2)主語的解釈の限界 パウロにおける「イエスキリストのピスティス」(πίστις rsquoΙησο Χρι-

στο)の釈義をめぐる論争は二十世紀半ばから始まり現在もまだ続い

ている(7)リチャードヘイズの重要なモノグラフ(1983 年)以来(8)

「イエスキリストの」という属格形を目的語的にではなく主語的にとる

解釈が研究者の間に強い支持を得るようになった目的語的にとる伝統的

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  261

な解釈[口語訳と新共同訳もこれを踏襲]ではこの句は「イエスキリス

トへの信仰」という意味に解され主語的解釈によれば「イエスキリス

トの信実信仰忠実」という意味に解される主語的解釈において

「イエスキリストの信実(faithfulness)」と「イエスキリストの信仰

(faith)」ではかなりの違いがありまた「キリストの信実」といってもキ

リストの誰に対する4 4 4 4 4

信実かが問われるはずだがこれらの問題は「論考

(2)」で取り上げることにしたい筆者自身はこの属格構成を「イエス

キリストの信実」の意味にとり人間にとってキリストが「信頼に値する

こと」を言い表わす表現として理解している(太田① 3)

 主語的解釈は目的語的解釈のさまざまな問題点をクリアすることを可能

にした点で高く評価されるしかし主語的解釈も目的語的解釈もさら

にこの属格構成を折衷的にとる解釈もそれだけでは規定語を伴わない

パウロの「ピスティス」の用例について満足のいく説明を与えることがで

きないパウロ的「信」との関連でこの点を最初に確認しておく必要があ

 まず目的語的解釈の限界から話を始めよう特に問題となるのはローマ

1 章 17 節同 3 章 25 節ガラテヤ 3 章 23―25 節などである(これらは

主語的解釈論者がすでに以前から指摘してきた)πίστις Χριστο を「キ

リストへの信仰」ととる伝統的な目的語的解釈はパウロの手紙に現れる

すべての πίστις を一様に「信仰」の意味に解しようとするローマ書全

体のテーマを掲げた 1 章 17 節の前半部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν 直訳「というのは神の義がそこ

〔福音〕において信に基づき信を目指して啓示されるからです」)に含まれ

る ἐκ πίστεως εἰς πίστιν の釈義も例外ではないἐκ hellip εἰς hellip という前置

詞のイディオム的使用をどう説明するにせよこのピスティスを「信仰」

の意味にとると「神の義」の啓示つまり神の義とする働きの啓示が人4

間の信仰4 4 4 4

に依存するという不合理なことになってしまう「神の義」を

「神からの義」として説明しても不合理であることに変わりはない(実は

262  人文自然研究 第 5 号

これは決して不合理ではないのだがその点を理解するにはピスティス

をもっぱら人間の信じる姿勢や行動の意味にとるのではなく神と人との

信の関係としてのピスティスに着目する必要がある「論考(2)」参照)

次 に ロ ー マ 3 章 25 節 だ が(ὃν προέθετο ὁ θεὸς ἱλαστήριον διὰ τς

πίστεως ἐν hellip)この文の主語は ὁ θεὸς(「神」)であり動詞は προέθετο

(「立てた」)だからこれに含まれる διὰ τς πίστεως は副詞的に動詞に

かけて読まざるをえない(詳しい釈義は「論考(2)」にゆずる)そのた

め目的語的解釈の原則に従ってこれを「信仰によって」ととるとこの

文は全く意味をなさなくなる新共同訳は本節を「神はこのキリストを立

てhelliphellip信じる者のために4 4 4 4 4 4 4 4

罪を償う供え物となさいました」と訳しているが

とてもまともな訳とは言えない最後にガラテヤ 3 章 23―25 節の 4 つ

のピスティスの釈義においてもこの解釈の弱点が明らかになる目的語的

解釈では22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο を「イエスキリストへの

信仰」24 節の ἐκ πίστεως を「信仰によって」と解しさらに 23 節と 25

節 の τὴν πίστιν も「信 仰」の 意 味 に と るだ が こ れ に よ る と

人間の「信仰」が「来た」「啓示された」という奇妙なことになってしま

うこの問題を乗り越えるためHDベッツは 23―25 節のピスティ

スの到来と啓示の基本的意味を「神が御子と御子の霊を送ったときには

じめて信仰が人類にとっての一般的可能性となった」という点に見る(9)

そして「キリストの来臨(24 節)と共に前者〔律法の時代〕が終わり後

者〔信仰の時代〕が始まる」「πίστις(「信仰」)は個人の信じる行為では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

なく4 4

歴史的現象の出来を言い表わす」(傍点引用者)「ἀποκαλύπτω

(「啓示する」)という用語はここではパウロへの信仰の啓示を指すのでは

なく福音の啓示という一般的な意味で〔用いられている〕」と注記して

いるベッツのいう「歴史的現象」はキリストの来臨と福音の啓示の両方

を指すのであろう彼がそこに人間の信じる行為としての信仰を含めない

のはそれを含めると人間の信仰が啓示の対象になってしまうからであろ

うベッツの解釈はキリストおよびキリストの霊の来臨と福音の啓示が

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 4: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

258  人文自然研究 第 5 号

(まだ可能態であったが)を台無しにしたのと同様に第三者の介入がす

でに成立している関係を壊すことはよくあるまたそれ以上にありふれ

た現象だが信頼を安心と取り違えて相手からもっぱら安心を得ようとす

るなら信の関係はすでにその時点で別のものに変質しているのかもしれ

ない(4)信の関係の維持強化のためにはそうした可変性の克服が不可欠

でありそのためには双方が接触に始まる言葉の交信に価値を見いだし

コンテクストとコードに基づいて解読しうるメッセージの意味に相手の意

味作用が先立つことを認めて常に「私4

」の意味付与の彼方4 4 4 4 4 4 4 4

を目指すこと

が必要となるその意味で信の関係は本来非対称的な関係でありそうで

あるからには互いに信じ合える(と当事者たちが確信する)対称的な

「信頼関係」をモデルに信の関係を分析することは不適切であるそうす

るならば言葉(呼びかけ)の果たす本質的役割が見逃されそれゆえま

た贈与と近さの本来的意味も見過ごされてしまうだろう

 ピスティスに対する以上の限定的な分析とそれが使徒パウロのいうピ

スティスにも当てはまるという点については―すなわちパウロのピステ

ィスの概念4 4

を神の言葉によって形成される神と人との「信」の関係(信

じる人間の信仰と信じられる神の信実を基本とする)として捉えることが

できるという点については―それほど大きな異論はないであろうしか

しわれわれにとっての当面の関心事はパウロにおけるピスティスの概念4 4

ではなくその概念を言語で表わす名辞4 4

としてのピスティスであるすな

わち彼の手紙に現れる「ピスティス」という名詞の意味は何であるか

一般に考えられているように「信仰」つまり個々の人間の神とキリスト

を信じる姿勢や行動帰依や献身を意味するのかそれとも信仰だけでな

くそれと密接に関連する他の要素も同時に意味するのかその点を見極め

ることがまず第一に必要となる

 この問題について筆者はすでに次のような結論を得ている(太田① 5

67 および太田②)「イエスキリストのピスティス」の解釈の問題と

共にここにその要点をまとめておくことにしたい(前稿よりも厳密な表

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  259

現に改める)―(1)パウロにおける規定語を伴わない「ピスティス

(信)」は原則として神と神のキリスト(メシア)を信じる人間信じ

られる神とキリスト両者の関係を創出維持前進させる神の言葉の

三つの要素を暗黙に含みもつ超個人的な恵みの現実を全体として指示する

用語として用いられている(2)従って「ピスティス」の意味はこの名

辞が含意する内容すなわちその指示対象である恵みの現実全体とそれに

含まれる各要素のもつ属性―救いのシステム(エコノミー)(5)信じる

人間の姿勢(信仰)信じられる神とキリストの信頼性(信実)関係を創

出維持前進させる神の言葉の力(福音)―にある(3)ここで「超

個人的」とは信じる個々の人間の信仰がその信じる行為や意識に決して

還元されない他者(神キリスト)の信実を相関者としてもつことおよ

びその信仰が信じる個人と世代を超えた共同体的広がりをもつことこ

の二点を指すこの超個人的な恵みの現実はユダヤ教のトーラーを包

摂凌駕する救いのシステムとして機能する信の共同体は神の敵のた

めに贖罪の死を遂げたキリストによって形成される「社会的」共同体であ

りその扉はすべての不敬虔な人間に向かって開かれている(太田① 7

91213)

 パウロは以上の「ピスティス」の意味を基本としながらこの現実を成

り立たせている神とキリストあるいは人間を具体的に指示したいときに

つまりそこに含意された特定の意味を前面に押し立てたいときにこれに

属格形の代名詞や名詞を添える方法を用いたすなわちこれら属格形の

規定語は重要な差異化(意味の遠近法)の手段であり信じる人間の信仰

の事実やあり方を言い表わすときには人間を指示する代名詞や名詞の属格

形を「ピスティス」に添え神またはキリストの信実を言い表わすときに

は名詞の「神」または「キリスト」の属格形を添えたすなわち「あな

たがたの信仰」(ἡ πίστις ὑμν)(ロマ 181 コリ 251514172

コ リ 1241015フ ィ リ 2171 テ サ 183256710

Cf ロマ 112フィリ 1251 テサ 13)「あなたの信仰」(ἡ πίστίς

260  人文自然研究 第 5 号

σου フィレ 56)「働きはなくても不敬虔な者を義とする方を信じる」

人間の信仰(ἡ πίστις αὐτο 45)「アブラハムの信仰」([ἡ]πίστις

rsquoΑβραάμ ロマ 41216)「神の信実」(ἡ πίστις το θεο ロマ 33)そ

して「イエスキリストの信実」(前記の七例)である(太田① 456

および太田②)(6)

 ただし誰のピスティスを指すか文脈から分かるときには属格形の規

定 語 は 用 い ら れ な いた と え ばロ ー マ 4 章 9 節(λέγομεν γάρ

rsquoΕλογίσθη τ rsquoΑβραὰμ ἡ πίστις εἰς δικαιοσύνην「というのはわたした

ちは『アブラハムには信仰が義と認められた』と言っているからです」)

の ἡ πίστις がアブラハムの信仰を指すことは文脈から明らかであるロ

ーマ 4 章 19 節(μὴ ἀσθενήσας τ πίστει「信仰において弱ることなく」)

もアブラハム自身の信仰という意味にとるしかないローマ 14 章 122

節の用例も同様に解せるであろうローマ 12 章 36 節の用例も同様に見

えるがこれらについては別の解釈もありうるローマ 4 章 11 節(καὶ

σημεον ἔλαβεν περιτομς σϕραγδα τς δικαιοσύνης τς πίστεως τς ἐν

τ ἀκροβυστίαι「そして無割礼におけるピスティスの義の証印として割礼

のしるしを受けたのです」)および 13 節(ἀλλὰ διὰ δικαιοσύνης πίστεως

「そうではなくピスティスの義によるのです」)のピスティスはアブラハ

ムの信仰ではなく「信」を指すと見る方がよい(太田① 120 頁と太田②

77 頁をこのように訂正する)これらについては「ローマ書におけるピス

ティスとノモス(3)」(以下「論考(3)」)で詳述することにしたい

(2)主語的解釈の限界 パウロにおける「イエスキリストのピスティス」(πίστις rsquoΙησο Χρι-

στο)の釈義をめぐる論争は二十世紀半ばから始まり現在もまだ続い

ている(7)リチャードヘイズの重要なモノグラフ(1983 年)以来(8)

「イエスキリストの」という属格形を目的語的にではなく主語的にとる

解釈が研究者の間に強い支持を得るようになった目的語的にとる伝統的

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  261

な解釈[口語訳と新共同訳もこれを踏襲]ではこの句は「イエスキリス

トへの信仰」という意味に解され主語的解釈によれば「イエスキリス

トの信実信仰忠実」という意味に解される主語的解釈において

「イエスキリストの信実(faithfulness)」と「イエスキリストの信仰

(faith)」ではかなりの違いがありまた「キリストの信実」といってもキ

リストの誰に対する4 4 4 4 4

信実かが問われるはずだがこれらの問題は「論考

(2)」で取り上げることにしたい筆者自身はこの属格構成を「イエス

キリストの信実」の意味にとり人間にとってキリストが「信頼に値する

こと」を言い表わす表現として理解している(太田① 3)

 主語的解釈は目的語的解釈のさまざまな問題点をクリアすることを可能

にした点で高く評価されるしかし主語的解釈も目的語的解釈もさら

にこの属格構成を折衷的にとる解釈もそれだけでは規定語を伴わない

パウロの「ピスティス」の用例について満足のいく説明を与えることがで

きないパウロ的「信」との関連でこの点を最初に確認しておく必要があ

 まず目的語的解釈の限界から話を始めよう特に問題となるのはローマ

1 章 17 節同 3 章 25 節ガラテヤ 3 章 23―25 節などである(これらは

主語的解釈論者がすでに以前から指摘してきた)πίστις Χριστο を「キ

リストへの信仰」ととる伝統的な目的語的解釈はパウロの手紙に現れる

すべての πίστις を一様に「信仰」の意味に解しようとするローマ書全

体のテーマを掲げた 1 章 17 節の前半部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν 直訳「というのは神の義がそこ

〔福音〕において信に基づき信を目指して啓示されるからです」)に含まれ

る ἐκ πίστεως εἰς πίστιν の釈義も例外ではないἐκ hellip εἰς hellip という前置

詞のイディオム的使用をどう説明するにせよこのピスティスを「信仰」

の意味にとると「神の義」の啓示つまり神の義とする働きの啓示が人4

間の信仰4 4 4 4

に依存するという不合理なことになってしまう「神の義」を

「神からの義」として説明しても不合理であることに変わりはない(実は

262  人文自然研究 第 5 号

これは決して不合理ではないのだがその点を理解するにはピスティス

をもっぱら人間の信じる姿勢や行動の意味にとるのではなく神と人との

信の関係としてのピスティスに着目する必要がある「論考(2)」参照)

次 に ロ ー マ 3 章 25 節 だ が(ὃν προέθετο ὁ θεὸς ἱλαστήριον διὰ τς

πίστεως ἐν hellip)この文の主語は ὁ θεὸς(「神」)であり動詞は προέθετο

(「立てた」)だからこれに含まれる διὰ τς πίστεως は副詞的に動詞に

かけて読まざるをえない(詳しい釈義は「論考(2)」にゆずる)そのた

め目的語的解釈の原則に従ってこれを「信仰によって」ととるとこの

文は全く意味をなさなくなる新共同訳は本節を「神はこのキリストを立

てhelliphellip信じる者のために4 4 4 4 4 4 4 4

罪を償う供え物となさいました」と訳しているが

とてもまともな訳とは言えない最後にガラテヤ 3 章 23―25 節の 4 つ

のピスティスの釈義においてもこの解釈の弱点が明らかになる目的語的

解釈では22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο を「イエスキリストへの

信仰」24 節の ἐκ πίστεως を「信仰によって」と解しさらに 23 節と 25

節 の τὴν πίστιν も「信 仰」の 意 味 に と るだ が こ れ に よ る と

人間の「信仰」が「来た」「啓示された」という奇妙なことになってしま

うこの問題を乗り越えるためHDベッツは 23―25 節のピスティ

スの到来と啓示の基本的意味を「神が御子と御子の霊を送ったときには

じめて信仰が人類にとっての一般的可能性となった」という点に見る(9)

そして「キリストの来臨(24 節)と共に前者〔律法の時代〕が終わり後

者〔信仰の時代〕が始まる」「πίστις(「信仰」)は個人の信じる行為では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

なく4 4

歴史的現象の出来を言い表わす」(傍点引用者)「ἀποκαλύπτω

(「啓示する」)という用語はここではパウロへの信仰の啓示を指すのでは

なく福音の啓示という一般的な意味で〔用いられている〕」と注記して

いるベッツのいう「歴史的現象」はキリストの来臨と福音の啓示の両方

を指すのであろう彼がそこに人間の信じる行為としての信仰を含めない

のはそれを含めると人間の信仰が啓示の対象になってしまうからであろ

うベッツの解釈はキリストおよびキリストの霊の来臨と福音の啓示が

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 5: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  259

現に改める)―(1)パウロにおける規定語を伴わない「ピスティス

(信)」は原則として神と神のキリスト(メシア)を信じる人間信じ

られる神とキリスト両者の関係を創出維持前進させる神の言葉の

三つの要素を暗黙に含みもつ超個人的な恵みの現実を全体として指示する

用語として用いられている(2)従って「ピスティス」の意味はこの名

辞が含意する内容すなわちその指示対象である恵みの現実全体とそれに

含まれる各要素のもつ属性―救いのシステム(エコノミー)(5)信じる

人間の姿勢(信仰)信じられる神とキリストの信頼性(信実)関係を創

出維持前進させる神の言葉の力(福音)―にある(3)ここで「超

個人的」とは信じる個々の人間の信仰がその信じる行為や意識に決して

還元されない他者(神キリスト)の信実を相関者としてもつことおよ

びその信仰が信じる個人と世代を超えた共同体的広がりをもつことこ

の二点を指すこの超個人的な恵みの現実はユダヤ教のトーラーを包

摂凌駕する救いのシステムとして機能する信の共同体は神の敵のた

めに贖罪の死を遂げたキリストによって形成される「社会的」共同体であ

りその扉はすべての不敬虔な人間に向かって開かれている(太田① 7

91213)

 パウロは以上の「ピスティス」の意味を基本としながらこの現実を成

り立たせている神とキリストあるいは人間を具体的に指示したいときに

つまりそこに含意された特定の意味を前面に押し立てたいときにこれに

属格形の代名詞や名詞を添える方法を用いたすなわちこれら属格形の

規定語は重要な差異化(意味の遠近法)の手段であり信じる人間の信仰

の事実やあり方を言い表わすときには人間を指示する代名詞や名詞の属格

形を「ピスティス」に添え神またはキリストの信実を言い表わすときに

は名詞の「神」または「キリスト」の属格形を添えたすなわち「あな

たがたの信仰」(ἡ πίστις ὑμν)(ロマ 181 コリ 251514172

コ リ 1241015フ ィ リ 2171 テ サ 183256710

Cf ロマ 112フィリ 1251 テサ 13)「あなたの信仰」(ἡ πίστίς

260  人文自然研究 第 5 号

σου フィレ 56)「働きはなくても不敬虔な者を義とする方を信じる」

人間の信仰(ἡ πίστις αὐτο 45)「アブラハムの信仰」([ἡ]πίστις

rsquoΑβραάμ ロマ 41216)「神の信実」(ἡ πίστις το θεο ロマ 33)そ

して「イエスキリストの信実」(前記の七例)である(太田① 456

および太田②)(6)

 ただし誰のピスティスを指すか文脈から分かるときには属格形の規

定 語 は 用 い ら れ な いた と え ばロ ー マ 4 章 9 節(λέγομεν γάρ

rsquoΕλογίσθη τ rsquoΑβραὰμ ἡ πίστις εἰς δικαιοσύνην「というのはわたした

ちは『アブラハムには信仰が義と認められた』と言っているからです」)

の ἡ πίστις がアブラハムの信仰を指すことは文脈から明らかであるロ

ーマ 4 章 19 節(μὴ ἀσθενήσας τ πίστει「信仰において弱ることなく」)

もアブラハム自身の信仰という意味にとるしかないローマ 14 章 122

節の用例も同様に解せるであろうローマ 12 章 36 節の用例も同様に見

えるがこれらについては別の解釈もありうるローマ 4 章 11 節(καὶ

σημεον ἔλαβεν περιτομς σϕραγδα τς δικαιοσύνης τς πίστεως τς ἐν

τ ἀκροβυστίαι「そして無割礼におけるピスティスの義の証印として割礼

のしるしを受けたのです」)および 13 節(ἀλλὰ διὰ δικαιοσύνης πίστεως

「そうではなくピスティスの義によるのです」)のピスティスはアブラハ

ムの信仰ではなく「信」を指すと見る方がよい(太田① 120 頁と太田②

77 頁をこのように訂正する)これらについては「ローマ書におけるピス

ティスとノモス(3)」(以下「論考(3)」)で詳述することにしたい

(2)主語的解釈の限界 パウロにおける「イエスキリストのピスティス」(πίστις rsquoΙησο Χρι-

στο)の釈義をめぐる論争は二十世紀半ばから始まり現在もまだ続い

ている(7)リチャードヘイズの重要なモノグラフ(1983 年)以来(8)

「イエスキリストの」という属格形を目的語的にではなく主語的にとる

解釈が研究者の間に強い支持を得るようになった目的語的にとる伝統的

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  261

な解釈[口語訳と新共同訳もこれを踏襲]ではこの句は「イエスキリス

トへの信仰」という意味に解され主語的解釈によれば「イエスキリス

トの信実信仰忠実」という意味に解される主語的解釈において

「イエスキリストの信実(faithfulness)」と「イエスキリストの信仰

(faith)」ではかなりの違いがありまた「キリストの信実」といってもキ

リストの誰に対する4 4 4 4 4

信実かが問われるはずだがこれらの問題は「論考

(2)」で取り上げることにしたい筆者自身はこの属格構成を「イエス

キリストの信実」の意味にとり人間にとってキリストが「信頼に値する

こと」を言い表わす表現として理解している(太田① 3)

 主語的解釈は目的語的解釈のさまざまな問題点をクリアすることを可能

にした点で高く評価されるしかし主語的解釈も目的語的解釈もさら

にこの属格構成を折衷的にとる解釈もそれだけでは規定語を伴わない

パウロの「ピスティス」の用例について満足のいく説明を与えることがで

きないパウロ的「信」との関連でこの点を最初に確認しておく必要があ

 まず目的語的解釈の限界から話を始めよう特に問題となるのはローマ

1 章 17 節同 3 章 25 節ガラテヤ 3 章 23―25 節などである(これらは

主語的解釈論者がすでに以前から指摘してきた)πίστις Χριστο を「キ

リストへの信仰」ととる伝統的な目的語的解釈はパウロの手紙に現れる

すべての πίστις を一様に「信仰」の意味に解しようとするローマ書全

体のテーマを掲げた 1 章 17 節の前半部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν 直訳「というのは神の義がそこ

〔福音〕において信に基づき信を目指して啓示されるからです」)に含まれ

る ἐκ πίστεως εἰς πίστιν の釈義も例外ではないἐκ hellip εἰς hellip という前置

詞のイディオム的使用をどう説明するにせよこのピスティスを「信仰」

の意味にとると「神の義」の啓示つまり神の義とする働きの啓示が人4

間の信仰4 4 4 4

に依存するという不合理なことになってしまう「神の義」を

「神からの義」として説明しても不合理であることに変わりはない(実は

262  人文自然研究 第 5 号

これは決して不合理ではないのだがその点を理解するにはピスティス

をもっぱら人間の信じる姿勢や行動の意味にとるのではなく神と人との

信の関係としてのピスティスに着目する必要がある「論考(2)」参照)

次 に ロ ー マ 3 章 25 節 だ が(ὃν προέθετο ὁ θεὸς ἱλαστήριον διὰ τς

πίστεως ἐν hellip)この文の主語は ὁ θεὸς(「神」)であり動詞は προέθετο

(「立てた」)だからこれに含まれる διὰ τς πίστεως は副詞的に動詞に

かけて読まざるをえない(詳しい釈義は「論考(2)」にゆずる)そのた

め目的語的解釈の原則に従ってこれを「信仰によって」ととるとこの

文は全く意味をなさなくなる新共同訳は本節を「神はこのキリストを立

てhelliphellip信じる者のために4 4 4 4 4 4 4 4

罪を償う供え物となさいました」と訳しているが

とてもまともな訳とは言えない最後にガラテヤ 3 章 23―25 節の 4 つ

のピスティスの釈義においてもこの解釈の弱点が明らかになる目的語的

解釈では22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο を「イエスキリストへの

信仰」24 節の ἐκ πίστεως を「信仰によって」と解しさらに 23 節と 25

節 の τὴν πίστιν も「信 仰」の 意 味 に と るだ が こ れ に よ る と

人間の「信仰」が「来た」「啓示された」という奇妙なことになってしま

うこの問題を乗り越えるためHDベッツは 23―25 節のピスティ

スの到来と啓示の基本的意味を「神が御子と御子の霊を送ったときには

じめて信仰が人類にとっての一般的可能性となった」という点に見る(9)

そして「キリストの来臨(24 節)と共に前者〔律法の時代〕が終わり後

者〔信仰の時代〕が始まる」「πίστις(「信仰」)は個人の信じる行為では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

なく4 4

歴史的現象の出来を言い表わす」(傍点引用者)「ἀποκαλύπτω

(「啓示する」)という用語はここではパウロへの信仰の啓示を指すのでは

なく福音の啓示という一般的な意味で〔用いられている〕」と注記して

いるベッツのいう「歴史的現象」はキリストの来臨と福音の啓示の両方

を指すのであろう彼がそこに人間の信じる行為としての信仰を含めない

のはそれを含めると人間の信仰が啓示の対象になってしまうからであろ

うベッツの解釈はキリストおよびキリストの霊の来臨と福音の啓示が

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 6: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

260  人文自然研究 第 5 号

σου フィレ 56)「働きはなくても不敬虔な者を義とする方を信じる」

人間の信仰(ἡ πίστις αὐτο 45)「アブラハムの信仰」([ἡ]πίστις

rsquoΑβραάμ ロマ 41216)「神の信実」(ἡ πίστις το θεο ロマ 33)そ

して「イエスキリストの信実」(前記の七例)である(太田① 456

および太田②)(6)

 ただし誰のピスティスを指すか文脈から分かるときには属格形の規

定 語 は 用 い ら れ な いた と え ばロ ー マ 4 章 9 節(λέγομεν γάρ

rsquoΕλογίσθη τ rsquoΑβραὰμ ἡ πίστις εἰς δικαιοσύνην「というのはわたした

ちは『アブラハムには信仰が義と認められた』と言っているからです」)

の ἡ πίστις がアブラハムの信仰を指すことは文脈から明らかであるロ

ーマ 4 章 19 節(μὴ ἀσθενήσας τ πίστει「信仰において弱ることなく」)

もアブラハム自身の信仰という意味にとるしかないローマ 14 章 122

節の用例も同様に解せるであろうローマ 12 章 36 節の用例も同様に見

えるがこれらについては別の解釈もありうるローマ 4 章 11 節(καὶ

σημεον ἔλαβεν περιτομς σϕραγδα τς δικαιοσύνης τς πίστεως τς ἐν

τ ἀκροβυστίαι「そして無割礼におけるピスティスの義の証印として割礼

のしるしを受けたのです」)および 13 節(ἀλλὰ διὰ δικαιοσύνης πίστεως

「そうではなくピスティスの義によるのです」)のピスティスはアブラハ

ムの信仰ではなく「信」を指すと見る方がよい(太田① 120 頁と太田②

77 頁をこのように訂正する)これらについては「ローマ書におけるピス

ティスとノモス(3)」(以下「論考(3)」)で詳述することにしたい

(2)主語的解釈の限界 パウロにおける「イエスキリストのピスティス」(πίστις rsquoΙησο Χρι-

στο)の釈義をめぐる論争は二十世紀半ばから始まり現在もまだ続い

ている(7)リチャードヘイズの重要なモノグラフ(1983 年)以来(8)

「イエスキリストの」という属格形を目的語的にではなく主語的にとる

解釈が研究者の間に強い支持を得るようになった目的語的にとる伝統的

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  261

な解釈[口語訳と新共同訳もこれを踏襲]ではこの句は「イエスキリス

トへの信仰」という意味に解され主語的解釈によれば「イエスキリス

トの信実信仰忠実」という意味に解される主語的解釈において

「イエスキリストの信実(faithfulness)」と「イエスキリストの信仰

(faith)」ではかなりの違いがありまた「キリストの信実」といってもキ

リストの誰に対する4 4 4 4 4

信実かが問われるはずだがこれらの問題は「論考

(2)」で取り上げることにしたい筆者自身はこの属格構成を「イエス

キリストの信実」の意味にとり人間にとってキリストが「信頼に値する

こと」を言い表わす表現として理解している(太田① 3)

 主語的解釈は目的語的解釈のさまざまな問題点をクリアすることを可能

にした点で高く評価されるしかし主語的解釈も目的語的解釈もさら

にこの属格構成を折衷的にとる解釈もそれだけでは規定語を伴わない

パウロの「ピスティス」の用例について満足のいく説明を与えることがで

きないパウロ的「信」との関連でこの点を最初に確認しておく必要があ

 まず目的語的解釈の限界から話を始めよう特に問題となるのはローマ

1 章 17 節同 3 章 25 節ガラテヤ 3 章 23―25 節などである(これらは

主語的解釈論者がすでに以前から指摘してきた)πίστις Χριστο を「キ

リストへの信仰」ととる伝統的な目的語的解釈はパウロの手紙に現れる

すべての πίστις を一様に「信仰」の意味に解しようとするローマ書全

体のテーマを掲げた 1 章 17 節の前半部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν 直訳「というのは神の義がそこ

〔福音〕において信に基づき信を目指して啓示されるからです」)に含まれ

る ἐκ πίστεως εἰς πίστιν の釈義も例外ではないἐκ hellip εἰς hellip という前置

詞のイディオム的使用をどう説明するにせよこのピスティスを「信仰」

の意味にとると「神の義」の啓示つまり神の義とする働きの啓示が人4

間の信仰4 4 4 4

に依存するという不合理なことになってしまう「神の義」を

「神からの義」として説明しても不合理であることに変わりはない(実は

262  人文自然研究 第 5 号

これは決して不合理ではないのだがその点を理解するにはピスティス

をもっぱら人間の信じる姿勢や行動の意味にとるのではなく神と人との

信の関係としてのピスティスに着目する必要がある「論考(2)」参照)

次 に ロ ー マ 3 章 25 節 だ が(ὃν προέθετο ὁ θεὸς ἱλαστήριον διὰ τς

πίστεως ἐν hellip)この文の主語は ὁ θεὸς(「神」)であり動詞は προέθετο

(「立てた」)だからこれに含まれる διὰ τς πίστεως は副詞的に動詞に

かけて読まざるをえない(詳しい釈義は「論考(2)」にゆずる)そのた

め目的語的解釈の原則に従ってこれを「信仰によって」ととるとこの

文は全く意味をなさなくなる新共同訳は本節を「神はこのキリストを立

てhelliphellip信じる者のために4 4 4 4 4 4 4 4

罪を償う供え物となさいました」と訳しているが

とてもまともな訳とは言えない最後にガラテヤ 3 章 23―25 節の 4 つ

のピスティスの釈義においてもこの解釈の弱点が明らかになる目的語的

解釈では22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο を「イエスキリストへの

信仰」24 節の ἐκ πίστεως を「信仰によって」と解しさらに 23 節と 25

節 の τὴν πίστιν も「信 仰」の 意 味 に と るだ が こ れ に よ る と

人間の「信仰」が「来た」「啓示された」という奇妙なことになってしま

うこの問題を乗り越えるためHDベッツは 23―25 節のピスティ

スの到来と啓示の基本的意味を「神が御子と御子の霊を送ったときには

じめて信仰が人類にとっての一般的可能性となった」という点に見る(9)

そして「キリストの来臨(24 節)と共に前者〔律法の時代〕が終わり後

者〔信仰の時代〕が始まる」「πίστις(「信仰」)は個人の信じる行為では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

なく4 4

歴史的現象の出来を言い表わす」(傍点引用者)「ἀποκαλύπτω

(「啓示する」)という用語はここではパウロへの信仰の啓示を指すのでは

なく福音の啓示という一般的な意味で〔用いられている〕」と注記して

いるベッツのいう「歴史的現象」はキリストの来臨と福音の啓示の両方

を指すのであろう彼がそこに人間の信じる行為としての信仰を含めない

のはそれを含めると人間の信仰が啓示の対象になってしまうからであろ

うベッツの解釈はキリストおよびキリストの霊の来臨と福音の啓示が

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 7: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  261

な解釈[口語訳と新共同訳もこれを踏襲]ではこの句は「イエスキリス

トへの信仰」という意味に解され主語的解釈によれば「イエスキリス

トの信実信仰忠実」という意味に解される主語的解釈において

「イエスキリストの信実(faithfulness)」と「イエスキリストの信仰

(faith)」ではかなりの違いがありまた「キリストの信実」といってもキ

リストの誰に対する4 4 4 4 4

信実かが問われるはずだがこれらの問題は「論考

(2)」で取り上げることにしたい筆者自身はこの属格構成を「イエス

キリストの信実」の意味にとり人間にとってキリストが「信頼に値する

こと」を言い表わす表現として理解している(太田① 3)

 主語的解釈は目的語的解釈のさまざまな問題点をクリアすることを可能

にした点で高く評価されるしかし主語的解釈も目的語的解釈もさら

にこの属格構成を折衷的にとる解釈もそれだけでは規定語を伴わない

パウロの「ピスティス」の用例について満足のいく説明を与えることがで

きないパウロ的「信」との関連でこの点を最初に確認しておく必要があ

 まず目的語的解釈の限界から話を始めよう特に問題となるのはローマ

1 章 17 節同 3 章 25 節ガラテヤ 3 章 23―25 節などである(これらは

主語的解釈論者がすでに以前から指摘してきた)πίστις Χριστο を「キ

リストへの信仰」ととる伝統的な目的語的解釈はパウロの手紙に現れる

すべての πίστις を一様に「信仰」の意味に解しようとするローマ書全

体のテーマを掲げた 1 章 17 節の前半部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν 直訳「というのは神の義がそこ

〔福音〕において信に基づき信を目指して啓示されるからです」)に含まれ

る ἐκ πίστεως εἰς πίστιν の釈義も例外ではないἐκ hellip εἰς hellip という前置

詞のイディオム的使用をどう説明するにせよこのピスティスを「信仰」

の意味にとると「神の義」の啓示つまり神の義とする働きの啓示が人4

間の信仰4 4 4 4

に依存するという不合理なことになってしまう「神の義」を

「神からの義」として説明しても不合理であることに変わりはない(実は

262  人文自然研究 第 5 号

これは決して不合理ではないのだがその点を理解するにはピスティス

をもっぱら人間の信じる姿勢や行動の意味にとるのではなく神と人との

信の関係としてのピスティスに着目する必要がある「論考(2)」参照)

次 に ロ ー マ 3 章 25 節 だ が(ὃν προέθετο ὁ θεὸς ἱλαστήριον διὰ τς

πίστεως ἐν hellip)この文の主語は ὁ θεὸς(「神」)であり動詞は προέθετο

(「立てた」)だからこれに含まれる διὰ τς πίστεως は副詞的に動詞に

かけて読まざるをえない(詳しい釈義は「論考(2)」にゆずる)そのた

め目的語的解釈の原則に従ってこれを「信仰によって」ととるとこの

文は全く意味をなさなくなる新共同訳は本節を「神はこのキリストを立

てhelliphellip信じる者のために4 4 4 4 4 4 4 4

罪を償う供え物となさいました」と訳しているが

とてもまともな訳とは言えない最後にガラテヤ 3 章 23―25 節の 4 つ

のピスティスの釈義においてもこの解釈の弱点が明らかになる目的語的

解釈では22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο を「イエスキリストへの

信仰」24 節の ἐκ πίστεως を「信仰によって」と解しさらに 23 節と 25

節 の τὴν πίστιν も「信 仰」の 意 味 に と るだ が こ れ に よ る と

人間の「信仰」が「来た」「啓示された」という奇妙なことになってしま

うこの問題を乗り越えるためHDベッツは 23―25 節のピスティ

スの到来と啓示の基本的意味を「神が御子と御子の霊を送ったときには

じめて信仰が人類にとっての一般的可能性となった」という点に見る(9)

そして「キリストの来臨(24 節)と共に前者〔律法の時代〕が終わり後

者〔信仰の時代〕が始まる」「πίστις(「信仰」)は個人の信じる行為では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

なく4 4

歴史的現象の出来を言い表わす」(傍点引用者)「ἀποκαλύπτω

(「啓示する」)という用語はここではパウロへの信仰の啓示を指すのでは

なく福音の啓示という一般的な意味で〔用いられている〕」と注記して

いるベッツのいう「歴史的現象」はキリストの来臨と福音の啓示の両方

を指すのであろう彼がそこに人間の信じる行為としての信仰を含めない

のはそれを含めると人間の信仰が啓示の対象になってしまうからであろ

うベッツの解釈はキリストおよびキリストの霊の来臨と福音の啓示が

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 8: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

262  人文自然研究 第 5 号

これは決して不合理ではないのだがその点を理解するにはピスティス

をもっぱら人間の信じる姿勢や行動の意味にとるのではなく神と人との

信の関係としてのピスティスに着目する必要がある「論考(2)」参照)

次 に ロ ー マ 3 章 25 節 だ が(ὃν προέθετο ὁ θεὸς ἱλαστήριον διὰ τς

πίστεως ἐν hellip)この文の主語は ὁ θεὸς(「神」)であり動詞は προέθετο

(「立てた」)だからこれに含まれる διὰ τς πίστεως は副詞的に動詞に

かけて読まざるをえない(詳しい釈義は「論考(2)」にゆずる)そのた

め目的語的解釈の原則に従ってこれを「信仰によって」ととるとこの

文は全く意味をなさなくなる新共同訳は本節を「神はこのキリストを立

てhelliphellip信じる者のために4 4 4 4 4 4 4 4

罪を償う供え物となさいました」と訳しているが

とてもまともな訳とは言えない最後にガラテヤ 3 章 23―25 節の 4 つ

のピスティスの釈義においてもこの解釈の弱点が明らかになる目的語的

解釈では22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο を「イエスキリストへの

信仰」24 節の ἐκ πίστεως を「信仰によって」と解しさらに 23 節と 25

節 の τὴν πίστιν も「信 仰」の 意 味 に と るだ が こ れ に よ る と

人間の「信仰」が「来た」「啓示された」という奇妙なことになってしま

うこの問題を乗り越えるためHDベッツは 23―25 節のピスティ

スの到来と啓示の基本的意味を「神が御子と御子の霊を送ったときには

じめて信仰が人類にとっての一般的可能性となった」という点に見る(9)

そして「キリストの来臨(24 節)と共に前者〔律法の時代〕が終わり後

者〔信仰の時代〕が始まる」「πίστις(「信仰」)は個人の信じる行為では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

なく4 4

歴史的現象の出来を言い表わす」(傍点引用者)「ἀποκαλύπτω

(「啓示する」)という用語はここではパウロへの信仰の啓示を指すのでは

なく福音の啓示という一般的な意味で〔用いられている〕」と注記して

いるベッツのいう「歴史的現象」はキリストの来臨と福音の啓示の両方

を指すのであろう彼がそこに人間の信じる行為としての信仰を含めない

のはそれを含めると人間の信仰が啓示の対象になってしまうからであろ

うベッツの解釈はキリストおよびキリストの霊の来臨と福音の啓示が

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 9: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  263

「人間の一般的可能性」としての「信仰」を生じさせたという具合にキ

リストおよび福音と信仰との関係を因果関係として説明するだけで終わっ

ているこれでは「ピスティス」の到来啓示と人間の信仰との間にある

はずの内的な連関が不明のままであるその連関を明らかにするにはパ

ウロのいう「信」を全体的構造的にとらえることが必要になるのである

 次に主語的解釈の限界に目を転じよう彼らの弱点が顕わになるのはロ

ーマ 1 章 17 節ガラテヤ 3 章 23―25 節ローマ 4 章などの釈義において

であるまずこの解釈のリーダー格の一人であるダグラスキャンベル

はロ ー マ 1 章 17 節 の 前 半 部(δικαιοσύνη γὰρ θεο ἐν αὐτ

ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν)を「神の終末論的な救いの義が

福音において信実(つまりキリストの信実)を手段とし(信徒たちに

おける)信仰信実(faithfulness)を目標として啓示されている」と訳

す「キリストの信実」と「信徒たちにおける信仰信実」はギリシア語

原文にない語を補ったもので類似の解釈(「神の信実から人間の信仰へ」

等)は以前から行われている次にキャンベルはこれに続く 17 節の後半

部(καθὼς γέγραπται Ο δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται ハバクク 24

からの引用)をキリスト論的に解釈しこの「義人」(ὁ δίκαιος)を原始

キリスト教のキリスト論的称号と見て信じる者たちではなくキリストと

結びつける(10)彼が 17 節のハバクク引用をこのように解するのは「キ

リストのピスティス」をめぐる論争にとってこの解釈が中心的な意味をも

つと考えるからであるしかし「論考(2)」で示すようにこれらの解釈

は批判に耐えうるものではない

 主語的解釈にとってさらに大きな障害はガラテヤ 3 章 23―25 節に含

まれる 4 つのピスティスであるたとえばチェフンシクは23 節の ἐκ

πίστεως を 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現と見てこれら

4 つのピスティスをすべて「キリストの信実」(ldquothe faithfulness of

Christrdquo)の意味にとる(11)そして 23 節(Πρὸ το δὲ ἐλθεν τὴν πίστιν hellip

εἰς τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι「ピスティスが来る以前には

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 10: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

264  人文自然研究 第 5 号

helliphellip来るべきピスティスが啓示されるまで」)と 25 節(ἐλθούσης δὲ τς

πίστεως「しかしピスティスが来たので」)における「ピスティス」を

救済史的な出来事として説明する(「キリストの信実」は出来事そのもの

ではなく出来事はむしろピスティスの到来あるいは啓示のはずだがこ

の点はここでは不問に付す)そのうえでチェはこれらのピスティスが

啓示の対象であることを理由に「πίστις を人間の信仰として考えること

は全く困難である」と結論づけこれらの「ピスティス」が人間の信仰と

いう含意をもつことを否定するこの結論は一見筋が通っているように見

えるが実は彼の問いの立て方に誘導されているというのも彼は 23

節の ἐκ πίστεως が 22 節の ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現である

ことを大前提に論じるので23―25 節におけるピスティスは「イエス

キリストのピスティス」の二つの解釈(主語的目的語的)のどちらか

あるいはその両方である以外にないからである

 しかしこの前提はどれほど確かだろうかこの手紙におけるピスティ

スの最初の用例である 1 章 23 節(μόνον δὲ ἀκούοντες σαν ὅτι Ο

διώκων ἡμς ποτε νν εὐαγγελίζεται τὴν πίστιν ἥν ποτε ἐπόρθει「ただ彼

らはかつてわれわれを迫害していた者[パウロ]がかつて滅ぼそうと

していたピスティスを今は福音として宣べ伝えていると聞いていまし

た」)を彼はどう説明するのだろうかよく見られるように「パウロには

異例のもの」として片付けるつもりだろうかチェはこの用例を無視して

おりこの論文の中で彼は(筆者の所説を否定的に引用した注記の部分を

除き)1 章 23 節に一度も言及していない1 章 23 節の用例はパウロ的

「ピスティス(信)」が神の言葉としての福音の使信(2 コリ 21742

1 テサ 213 参照)を要素として含む共同体的な恵みの現実を指示するこ

とを他のどの章句よりも明瞭に示しているのである

 さらにもし ἐκ πίστεως が ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現だと

すればパウロはこの定型的言い回しをローマ書でも同じ意味で用いたと

推測されるから(チェによれば 330 は実際 326 の短縮表現である)1

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 11: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  265

章 17 節に出てくる 2 つの ἐκ πίστεως(一方は εἰς πίστιν と続き他方は

ハバクク書からの引用)も短縮表現と見なければならないはずであるし

かしこれより前の部分に ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο という表現は出てこ

ないもしどうしても短縮表現ととりたいのであれば少なくともこれら

をキャンベルのように解する必要があるがたとえキャンベル流の解釈を

貫徹できたとしてもローマ書冒頭でなぜパウロがいきなり謎めいた表現

(5 節 ὑπακοὴ πίστεως)を用いたのかその理由をきちんと説明できなけ

ればならないさらにチェの提案によればローマ 4 章の「ピスティスの

義」([ἡ]δικαιοσύνη[τς]πίστεως 41113新共同訳「信仰によっ

て義とされた」は不正確)もキリストの信実と結びつけて解釈できるはず

だが4 章はキリスト以前のアブラハムの信仰を論題としておりイエス

は章の末尾(24―25 節)でようやく言及されるにすぎない従ってこ

の「ピスティス」を「キリストの信実」と関連づけることは到底無理であ

る(ただし筆者の解釈はこれを「信仰」として説明するだけの伝統的解

釈とも異なる)

 チェの解釈はある意味で主語的解釈論者の発想を極限にまで推し進めた

ものである他の論者たち―チェは彼らの不徹底さを批判する―は

ガラテヤ 3 章 23―25 節のピスティスが「信じる者の信仰」と「イエス

キリストの信実信仰」の両方を含意すると見る解釈に傾いているたと

えばヘイズはこの箇所のピスティスに関する Hシュリーアの解釈

―「信仰は救いの手段(それ自体また〔救いの〕原理)だがキリスト

はその根拠である」―を肯定的に取り上げながら「πίστις の到来は実

際神に向かって自己を適切に配置する新たな可能的様式の到来である

しかしこの様式が可能であるのはそれが何よりもまずイエスキリスト

においてまたイエスキリストによって実現されたからにほかならな

い」と結論づけている(12)また Rロングネカーは彼のガラテヤ書注解

書の中で次のような釈義を展開している(13)まず 23 節については22

節と 23 節が並行関係にあることを指摘したうえで「両節とも律法の目的

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 12: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

266  人文自然研究 第 5 号

の頂点であるキリストの福音を指示しており4 4 4 4 4 4

(refer to)22 節の『イエ

スキリストの信実』という表現と 23 節の『信仰』という用語は互いに

並行しながらその福音を合図する4 4 4 4

(signal)ために用いられている」

(傍点引用者)と解説し25 節については「キリストによってもたらされ

る形でキリストの福音(τς πίστεως)が到来したのに及んでもはや律

法は信仰の生を統制する παιδαγωγός としての正当性をもたない」と説明

しているロングネカーは「福音」がこれらの名辞(「イエスキリスト

の信実」「信仰」)の意味の一部4 4 4 4 4

であると言っているわけではない彼は

名辞の指示対象と名辞の意味を正しく区別している実際 23 節の注解で

「τὴν πίστιν(「信仰」)と τὴν μέλλουσαν πίστιν ἀποκαλυϕθναι(「啓示さ

れるべき来ようとしている信仰」)によってパウロが言おうとする

(mean)のは一般的な意味での信仰ではなく22 節 b で言及された

『イエスキリストの信実』(ldquothe faithfulness of Jesus Christrdquo)および人

間の信仰の応答(humanityrsquos response of faith)と関係する特定の信仰で

ある」と述べている

 しかしロングネカーの釈義に不整合があることは明らかであるその

あたりを詳しく検討すると主語的解釈の限界が見えてくる

 第一にロングネカーはガラテヤ 3 章 23 節の πίστιν に付された定冠詞

τὴν について「冠詞の使用はhelliphellipパウロが 22 節の目的節で今しがた述べ

た事柄が彼の念頭にあることを合図する(signal)のに役立っている」と

説明するがこの τὴν が前方照応的に用いられているとすればもっぱ

ら 22 節の πίστις rsquoΙησο Χριστο を受けると見るのが自然であろう23 節

の τὴν πίστιν によってパウロは「キリストの信実」と「人間の信仰の応

答」の両方と関係する特定の信仰を言おうとしたという解釈はギリシア

語文法の規則からはすんなり出てこない(実際 23 節の冒頭部分を彼は

ldquoBefore this faith camerdquo とあいまいに訳している)(下線引用者)また

「人間の信仰の応答」がその意味の一部であるとすれば人間の信仰を啓

示の対象として考えることはできないというチェの批判に真っ向からさら

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 13: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  267

されるであろうにもかかわらず彼がこのように拡大解釈せざるを得ない

のは22 節の目的節に含まれる τος πιστεύουσιν の含意を 23 節の τὴν

πίστιν の意味にどうしても含めたいからである文脈上 23 節の τὴν

πίστιν は22 節の目的節(ἵνα ἡ ἐπαγγελία ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο

δοθ τος πιστεύουσιν「約束がイエスキリストの信実によって信じる者

たちに与えられるために」)から「キリストの信実」と「信徒たちの信仰」

という二つの概念を拾い上げて一語で示した名辞と見るのが最も無理がな

いように思われるしかし単純にそうとったのでは再びチェの批判にさ

らされるチェの批判をクリアしながらこの自然な読み方を維持するには

「ピスティス」という語自体が先に指摘した三つの要素を暗黙に含みもつ

恵みの現実を全体として4 4 4 4 4

指示すると見る以外にないのであるその場合

人間の信仰という「ピスティス」の含意については救いをもたらすこの

エコノミーがキリストの来臨と共に啓示されたことによりアダムの罪4

来人間に刻印されてきた信仰の痕跡4 4

(「可能性」ではない)が今やつい

にその差し向ける当のものを見いだすに至ったことをこの啓示が明らかに

したという具合に理解することができる(「論考(2)」以降で再度考察

する)

 第二にロングネカーは自ら暗黙に認めるとおりこの箇所の「ピステ

ィス」が「福音」を指示する理由をピスティスという語の意味に基づいて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

説明することはできない彼の解釈する「ピスティス」―「イエスキ

リストの信実」および人間の「信仰」の両方と関係する信仰―は福音と

いう含意をもたないのだからこのことは当然であるだがそれにもかか

わらず彼は「福音」がこの箇所の「ピスティス」の指示対象であること

を強調している律法と福音という対立を軸に考察する彼の方法(ベッツ

と共通する)はこの箇所に至るパウロの論述を見れば確かに妥当だが

「ピスティス」が「福音」を指示しうるのは両者の意味の間に内的な連関

があるからではないだろうか1 章 23 節の注解でロングネカーは「パウ

ロはまたキリストの福音の意味内容(the content)を言う(mean)ため

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 14: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

268  人文自然研究 第 5 号

に32325 で πίστις を絶対的な意味で(in an absolute sense)用い

る」と説明している(14)3 章 23 節の解説と突き合わせると「福音の意

味内容」が「キリストの信実」を含むことはすぐに理解できるが人間の

「信仰」もそれに含ませることは無理である(ロマ 12―4 と 1 コリ 15

1―5 を参照)むしろ逆に「ピスティス」の意味内容に福音が含まれる

と考えるべきではないだろうか1 章 23 節についてロングネカーは

「τὴν πίστιν『信仰』はキリストの福音の同義語として絶対的に用いられ

ている」と説明するが同義語と言っただけでは「ピスティス」の意味と

「福音」の意味との内的関係を説明したことにはならないむしろ福音が

ピスティスに包摂されると見るべきでありそう考えればこれら 2 箇所の

ピスティスを矛盾なく統一的に理解できるのである

(3)ガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用法 以上の点を踏まえガラテヤ書における「ピスティス」の絶対的用例の

いくつかについて私自身の釈義を明らかにしておくことにしたいこれ

らについてはすでに前稿(太田① 6)で一通り説明したが不十分な点を

ここに補足しておく

 ガラテヤ 1 章 23 節のピスティスは3 章 23―25 節のピスティスと同じ

さらに 26 節(Πάντες γὰρ υἱοὶ θεο ἐστε διὰ τς πίστεως ἐν Χριστ

rsquoΙησο「というのはあなたがたはみな信によりキリストイエスにあ

って神の子だからです」)のピスティスとも同じ超個人的な恵みの現実

を全体として指示しているただしパウロはこの用語の意味を伝えるとき

にその含意内容をいつも一様に取り出して提示するわけではない(これ

も差異化の一種である)1 章 23 節の「ピスティス」の意味に神の福音が

含まれることは明らかであるもしそうでなければそれを「福音として

宣べ伝える」(εὐαγγελίζεται)ことはできないからであるだがこのピス

ティスは信じる「わたしたち4 4 4 4 4

」における4 4 4 4

恵みの現実を全体として指し示す

のだから人間の「信仰」という含意もこれに含まれると考えないわけに

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 15: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  269

いかない一方「キリストの信実」という含意はこの用例では完全に背

後に退いているここではまだこの要素を取り出して光を当てる必要は

ないからである

 これにたいし 3 章 23 節と 25 節の「ピスティス」は主としてこの超個

人的な恵みの現実の含意内容である「イエスキリストの信実」と信じる

人間の「信仰」を意味するとしても人間の信仰を創始するのはピスティ

スの到来を告げる神の言葉であるからこの「ピスティス」の意味には神

の言葉としての福音も当然含まれるはずである3 章 24 節の ἐκ πίστεως

は22 節 ἐκ πίστεως rsquoΙησο Χριστο の短縮表現ではなく3 章 11 節のハ

バクク引用に含まれる同じ言い回し(37891255 にも現れる)

を再び用いたものである24 節は 23 節と 25 節にはさまれているから

ピスティスの意味が前後と異なるとは考えにくいすなわちこの ἐκ

πίστεως(「信によって」)は「神とキリストの信実人間の信仰およ

び神キリストと人間との関係を創出する福音を本質的要素としてもつ神

の救いのエコノミーによって」の要約的綱領的表現と考えられるのであ

る(キリストの信実は神の信実を常に含意する関連事項を「論考(2)」

で考察する)だがこれがハバクク 2 章 4 節からの引用文と関係するとす

ればこの引用を含むパウロの文脈からも「信によって」の意味が裏付け

られるはずである(「論考(2)」ではガラテヤ 3 章 11 節ではなくほとん

ど同じ引用文を用いたローマ 1 章 16―17 節を取り上げて論じることにす

る)次に 26 節の διὰ τς πίστεως(「信によって」)における「ピスティ

ス」の意味も直前と同じであり従ってまた24 節の ἐκ πίστεως とも同

じ要約的綱領的表現と見ることができる(両者の間に実質的な意味の違

いはない)ただしこれにパウロは「キリストにあって」(ἐν Χριστ

rsquoΙησο)と続けることにより信による義についての議論から信徒たちの

キリストへの参与(つまり「キリストの近さ」)についての議論に話を移

しているこれはローマ書 5 章から 6 章への移行に対応すると考えてよか

ろう

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 16: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

270  人文自然研究 第 5 号

 3 章 25 節の ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)は ἐξ ἔργων νόμου

(「トーラーの行いから」)と対になって出てくる(「信の告知から」と訳す

理由については太田① 4 と 6 を参照ただし① 4 ではピスティスを「信

仰」の意味にとる不徹底さがまだ残っている)この箇所は「トーラーの

行いによっては何人も神の前で義とされない」という主旨のパウロの教え

(ガラ 216311ロマ 32028)を理解するうえで最も重要なテク

ストの 1 つである新約聖書の中で ἀκοή は宣教用語として用いられ(ロ

マ 1016―17[イザ 531 を引用]1 テサ 213ヘブ 42ヨハ 12

38[イザ 531 を引用])七十人訳においてはしばしば「使信」や「知ら

せ」という意味で用いられた(出 231サム上 224サム下 1330

王 上 228107代 下 96詩 1127[LXX 1117]イ ザ 527

[ロマ 1015 に引用]531エレ 6245043[LXX 2743]49

23[LXX 3029]ホセ 712ダニ 1144ハバ 32ナホ 112オ

バ 11トビ 1012知恵 19 等)この箇所の ἀκοή もそういう意味

にとるべきであろう従って「信の告知」は神キリストと人間とのピ

スティスの関係が可能となったことを神がその働き人を通して告知する言

葉(使信)つまり「信」に加わってキリストの恵みにあずかるよう神が

人間に呼びかける言葉を指すと考えられる(イザ 551―7 参照)より具

体的には神から御子の啓示を受けたパウロ(および彼の協力者たち)が

その啓示の内容を福音として宣べ伝える使信を指すと考えてよい(ガラ

115―16 ὅτε δὲ εὐδόκησεν ὁ θεὸς ὁ hellip καλέσας διὰ τς χάριτος αὐτο

ἀποκαλύψαι τὸν υἱὸν αὐτο ἐν ἐμοὶ ἵνα εὐαγγελίζωμαι αὐτὸν ἐν τος

ἔθνεσιν「しかし御自身の恵みによってわたしを召し出した神が異邦

人の間にわたしが彼の御子を福音として宣べ伝えるためにわたしのうち

に御子を啓示することを良しとした時」)ただし文脈上この告知はあく

までも「聞かれる言葉」つまり聞く者たちによって受けとられる限りで

の使信を意味するのであり聞くことを離れて存在する使信の客観的な内

容そのものを指すのではない(15)しかしだからと言ってこの ἀκοή の

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 17: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  271

意味を単に「聞くこと」に限定すべきでもないパウロがここで言ってい

るのはガラテヤの人々は十字架につけられたイエスキリストについて

の使信を聞いて受け入れたときに実際に霊を受けたということである

聞く行為は聞かれる言葉から切り離され得ない聞かれる言葉がそのよう

なものであったからこそ聞く行為が霊を受けることにつながったのであ

 神の使信はその働き人である宣教者(この場合はパウロ)を通して告知

されるが宣教者の言葉を通して語っているのはほかならぬ神である3

章 1 節 ος κατrsquo ὀϕθαλμοὺς rsquoΙησος Χριστὸς προεγράϕη ἐσταυρωμένος

(「あなたがたのために眼前にイエスキリストが十字架につけられている

ままに公示されたのだ」)もそのことを示している「眼前に」との関連か

らすると本節の προγράϕω という動詞はプラカードに書いて掲げるよ

うにして公に告示することを言っていると考えられるその告示の仕事は

使徒に委ねられたが告示者は神であるガラテヤの人々は「十字架につ

けられているままに」公示されたイエスをメシアとして受け入れたときに

霊を受けた(216「キリストイエスを信じた」参照)これは神が信じ

る者たちを愛し彼らに霊を贈与したことを意味する(ロマ 5884―

11 等参照)信の関係は神が信じる者に霊を無償で与える贈与の関係な

のである(「神の霊」ロマ 89111415191 コリ 214316

6117401232 コリ 33フィリ 33「キリストの霊」ロマ

89―10ガラ 46フィリ 119「聖霊」ロマ 55911417

151316191 コリ 6191232 コリ 6613131 テサ 15

―648)

 ガラテヤ 3 章 25 節でパウロは ἐξ ἀκος πίστεως(「信の告知から」)

を ἐξ ἔργων νόμου(「トーラーの行いから」)と対立させている「トーラ

ーの行いから」という要約的綱領的表現は「信の告知から」が告知の

言葉が聞かれ受容されることを含意するのと同様にトーラーの行い(つ

まりトーラーの命じる行い)が(たとえ全部でないとしても)実行されう

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 18: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

272  人文自然研究 第 5 号

ることを含意しているその限りで「律法を行ったからですか」という新

共同訳の訳文は許容できる(それに対応する「福音を聞いて信じたからで

すか」には問題があるが)それに対しこれを「律法の業績から」(16)と

訳したのではすべてが台無しになるパウロはもちろんパウロに敵対す

るイエス派ユダヤ人グループも伝統的なユダヤ教徒もἔργων を「業績」

としては理解しなかった

 パウロはガラテヤ人たちが霊を受けたのは「トーラーの行いから」では

ないという事実をまず言明したうえでその理由ないし機序の説明に入る

3 章 12 節でパウロはレビ記 18 章 5 節の一部を引用してὁ δὲ νόμος οὐκ

ἔστιν ἐκ πίστεως ἀλλrsquo Ο ποιήσας αὐτὰ ζήσεται ἐν αὐτος(「だがトーラ

ーは信に属してはいませんかえって『それらを行う者はそれらによって

生きる』のです」)と述べているパウロがこの文の前半部で言っている

のはトーラーと信は出自を異にしトーラーの仕組みは信の仕組みと原理

的に異なるということである「それら」は七十人訳の本文では「わ

たし(=主)のすべての命令と裁き」(πάντα τὰ προστάγματά μου καὶ

πάντα τὰ κρίματά μου)を指すのでパウロの引用文でもその意味にとる

べきであろうそうとったほうが5 章 3 節の言葉が理解しやすくなる

―「割礼を受けようとするあらゆる人にわたしは再度証言しますそ

の人はトーラー全体を行う義務があるのです」(μαρτύρομαι δὲ πάλιν

παντὶ ἀνθρώπωι περιτεμνομένωι ὅτι ὀϕειλέτης ἐστὶν ὅλον τὸν νόμον

ποισαι)七十人訳の本文は ἃ ποιήσας ἄνθρωπος ζήσεται ἐν αὐτος とな

っておりこれを直訳すると「それら(=主のすべての命令と裁き)を行

うならば4 4 4

人はそれらによって生きるであろう」となるこの文がトーラ

ーの全規定の実行を生の条件にしている点に注意が必要であるトーラー

全体を行うならば生きるという仕組みでは神と神の民との関係が全面的

にトーラーによって規定されることになるしかもその場合の生は行い4 4

の対価4 4 4

であって贈与ではない(ロマ 44 参照)しかしこれは神が人間

の行いの成果を業績として評価しその業績に応じて生を与えるという

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 19: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  273

ことでもないレビ記 18 章 5 節の言葉は契約関係を前提に語られている

(申 79 以下参照)行いは「業績」ではなく契約への忠実の「あかし」

と考えられているこの契約は神にも義務を負わせる神は査定官ではな

く契約当事者として契約の義務を果たすためあかしのある行いに対価

を与えるのであるだが忠実の程度は再び業績として量られるのではない

か―そうではない契約は相互のものである行いが契約への忠実を

あかししているか否かは言わば相互の検証によって決定されるのであっ

て神が一方的に決めるものではないそして契約への忠実は契約関係

の中でトーラーを適切に行うことを意味するのだからどの程度の忠実が

求められるかは人間にも見当がつく初期ユダヤ教の宗教性について E

Pサンダースが「契約的法規範主義」という用語で説明したのはまさに

このことであった(17)もしそうでなければ神が「裁きを受ける」(ロマ

34)という発想自体出てこないであろう(ロマ 31―8 におけるパウロ

の仮想的な対話相手は神とイスラエルとの契約を根拠にパウロを論破し

ようとしている詳しくは「論考(2)」で論じる)

 このようにトーラーを行うならば生きるという仕組みにおいては生

は言わば行いと交換されるのであって贈与されるのではない贈与のよう

に見えたとしても贈与としての贈与つまり無償の贈与にはなっていな

いもちろん神によるイスラエルの選び自体が神の恵みとして受けとめら

れ(申 420343776―71015142 詩 4751056

1065イザ 418441454アモ 32 等)トーラーもまたその

ように理解されたこと(詩 198―101197277 等)は確かである

遡ればすべては神の側からの接触つまり接近から始まったのである

にもかかわらずこの仕組みでは行いの対価としての生以上のものは神

が自ら原則を破って与えようとしない限り決して与えられないそういう

契約だからである(ガラ 421―25 参照)そしてパウロの考えではそ

の原則が破られることは決してないというのもトーラーは「違犯のた

めに〔つまり違犯を促すために〕約束を与えられている子孫(=メシ

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 20: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

274  人文自然研究 第 5 号

アイエス)が来るまでの間付け加えられた」(319 τν παραβάσεων

χάριν προσετέθη ἄχρις ο ἔλθῃ τὸ σπέρμα ἐπήγγελται)ものだからで

あり(ロマ 520 も参照514 とは異なり「違犯」ではない)そもそ

もトーラーの目的は「人を生かす」(ζωιοποισαι)ことにはなかったので

ある(ガラ 321―22)行いと生との交換によっては神と人との距離

は最初の距離以上には縮まらない(出 2018―19 参照十戒の授与の直

後にイスラエルの民がシナイ山から「遠く離れて立った」ことは象徴的で

ある)贈与は最初の贈与(トーラーと嗣業)以上のものにはなり得ない

そこでは距離を保って交換を続けることだけが目指されるのである(契約

的法規範主義)

 しかしトーラーを行う者たちは当然神を信じて行うのだから彼らに

信仰があることは否定できないのではないだろうか彼らもまた神との信

の関係のうちに生きているのではないだろうかこの反論にわれわれはど

う答えるべきだろうか―すでに見たように「信の告知から」は告知

の言葉(使信)が聞かれ受容されることを含意し「信の告知から霊を受

けた」は神の贈与とキリストの近さを含意するパウロの言う「信」は

メシアイエスを受け入れずに成り立っているユダヤ教的信仰ではなく

神の特定の言葉4 4 4 4 4

(福音の使信)によって形成されメシアイエスと明白に

関係づけられた信仰を本質とする関係である神はこの具体的な信仰

「キリスト信仰」を望んでいるのであり告知の言葉を聞かされた人間が

聞いて受け入れるときに神は霊を贈与するそして霊を受けた人間は

キリストにあずかることによって神にいっそう近づく要するに信の関

係と言っても神が欲し自ら告知する関係であるか否かが決定的な意味をも

つのであるしかしなぜ神はそれを欲するのかなぜそれでなければな

らないのかその点はガラテヤ書を見ているだけでは分からないこの問

題を解明するにはローマ書に向わなければならない(ただしガラテヤ書

の中でパウロはローマ書とはまた別のきわめて重要なトーラー批判を繰り

広げているこの問題には後の「論考」で戻ることにしよう)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 21: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  275

 ガ ラ テ ヤ 5 章 4 節 κατηργήθητε ἀπὸ Χριστο οἵτινες ἐν νόμωι

δικαιοσθε τς χάριτος ἐξεπέσατε(「トーラーによって義とされようとす

るあなたがたはみなキリストから引き離され恵みから落ちたのです」)

も関係的現実としての「信」を考慮したときにはじめて十分な理解が可

能になるパウロは特定の相手に語りかけている彼らはかつて神の使信

を受け入れて信の関係のうちに身を置きキリストの恵みにあずかるよう

になったところが彼らはその後「トーラーによって義とされる」ことを

望むようになった言い換えるとキリストと恵みの領域から離れること

(遠ざかり)を望んだトーラーによる義の仕組みは信による義の仕組み

と原理的に異なるトーラーによる関係のうちにキリストはいてもいなく

ても構わないが信による関係はその中にキリストがいて中心的役割を果

たすことなしには成り立たないトーラーの行いはキリストを離れても可

能であり行う者はそれによって義とされる(つまり神との関係に忠実で

あると見なされる)ことを確信することができるが福音によって形成さ

れる信の関係の中での生はキリストなしには一歩も立ち行かないため信

じる者が義とされるのは究極的には本人の信仰ではなくキリストの信実4 4 4 4 4 4 4

よるのである信仰とは福音の使信の内容を信じて受け入れ霊という

キリストおよび神との近さにおいて(56 で「キリストにあって」と言

い換えられる)キリストの信実(キリストにおける神の信実と言い換えて

もよい)に全面的に信頼することである

 これに続く 5 章 5 節 ἡμες γὰρ πνεύματι ἐκ πίστεως ἐλπίδα δικαιοσύνης

ἀπεκδεχόμεθα(「なぜならわたしたちは霊によって信による義の希望

を待ち望んでいるからです」)が言っているのは神との信の関係のうち

に留まるわれわれはその関係のうちで働く神の力によって最終的に義と

されることを神から与えられた霊に支えられて待望しているというこ

とであるこの「信による義」は神との正しい関係の回復という意味で

の義(信の関係の中で信じる者に付与される神の民としての身分あるい

はさらに神の「子供」としての身分)に言及したものではなく(新共同訳

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 22: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

276  人文自然研究 第 5 号

の解釈は誤り)最終的に信徒たちの身分が確証されて「神の国を受け継

ぐ」こと(521)を意味するそれがどういう時かパウロはガラテヤ

書の中では語っていないが「神が正しい裁きを行う怒りの日」(ロマ 2

5)が念頭にあると見てよいであろうそうであるならこの希望は「神

の栄光の希望」(ロマ 52)と同じであり「義」は「神の怒りから救わ

れる」こと(ロマ 59―10)あるいはさらに「永遠の命」および「栄光

と誉れと平和」(ロマ 26―10)を与えられることを意味すると考えてよ

いこの「義」は「義とする」(δικαιόω)という動詞の関係的用法に対

応するのではなく筆者が「終末論的用法」と呼ぶものに対応する(太田

① 10)この文における「霊によって」は文法的には「待ち望んでい

る」にかかると見るのが自然である望みの堅持を可能にする霊のこの働

きはパウロがこのあとの 5 章 16―26 節で説明する信じる者たちを導

いて実を結ばせる霊の働きと一致する本節はローマ 5 章 1―11 節に詳し

く展開される事柄を一言で述べたものと見ることができよう(どちらも義

とされた者たちに与えられた霊が彼らの希望を支えることを説明してい

る)

 続 く 5 章 6 節 ἐν γὰρ Χριστ rsquoΙησο οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε

ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις διrsquo ἀγάπης ἐνεργουμένη(「というのはキリス

トイエスにあっては割礼も無割礼も力にはならず愛によって働く信が

〔力になるからです〕」)の意味は前節とのつながりに注目すればすぐに

明らかになる(γὰρ に注目)「キリストイエスにあって」は 5 節の「霊

によって」の言い換えでありどちらもキリストと神への近さを含意する

これはトーラーによる義の仕組みから引き離されること(遠ざかり)であ

るから(54)割礼は信じる者を義とする力にはならずそうかと言っ

て無割礼が力になることもない義をもたらす力になるのは「信」つま

り神の言葉である福音の使信によって創出された恵みの現実としての神

キリストと信じる人間との信の関係だけである「信」が「愛によって働

く」ことをパウロが指摘するのはキリストの贖罪死も霊の恵与も神の愛

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 23: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  277

に由来するからである(ガラ 220ロマ 55―8)神の愛なしには信

は燃料の切れた船のようなただの器であり信じる者たちを最終目的地に

届けることはできないのである1 テサロニケ 2 章 13 節との比較が有用

であろう―ὅτι παραλαβόντες λόγον ἀκος παρrsquo ἡμν το θεο

ἐδέξασθε οὐ λόγον ἀνθρώπων ἀλλὰ καθώς ἐστιν ἀληθς λόγον θεο ὃς

καὶ ἐνεργεται ἐν ὑμν τος πιστεύουσιν(「なぜならわたしたちから神

の告知の言葉を受けたときあなたがたはそれを人間の言葉としてではな

く真にそうであるとおりに神の言葉として受け入れたからですそれ

(神の言葉)はまた信じるあなたがたのうちに働いているのです」)こ

の文が言っていることはガラテヤ書の宣述を理解するための鍵となる

ここでもパウロは ἐνεργέω という動詞を中動相で用いながら神の告知に

言及している使徒の言葉を神の言葉として受け入れたテサロニケの人た

ちはそのことによって神との信の関係に入った神の言葉はもちろん単

なる伝達の手段ではない神の言葉は接触に始まる関係の創出と維持と深

化を可能にする力である神と人との関係においては人間の離反が関係

をこわす唯一の原因であるからその力がその関係の中で「信じる」者た

ちのうちに働くことで信の関係―すなわち「信」―は維持強化され

るのである神の言葉が神の言葉として受け入れられるときには神の

「愛」もすでに受け入れられている(1 テサ 14 ἠγαπημένοι ὑπὸ το

θεο)神は告知の言葉においてすでに愛の働きを始めているその愛が

「信」全体の原動力になるのであるだがもちろんこの「愛」を神の愛に

限定する必要はないこのすぐあとで(ガラ 513―14)パウロは信徒た

ち相互の愛を呼びかけている(ロマ 12―14 章も参照)「信」は信じる人

たち相互の関係をも包含している(18)信徒たち相互の愛は神の愛によ

って働く「信」が生きいきと機能していることの現れであるパウロがこ

こで愛を仲間内での親切や善行にあえて限定したのはガラテヤの信仰共

同体が「互いにかみ合い食い尽くし合う」状況に陥っていたからである

(51526)だが彼らがパウロのように「〔敵であった〕わたしを愛し

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 24: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

278  人文自然研究 第 5 号

わたしのために自らを〔死に〕引き渡した神の子の信実によって」(2

20)生きることを学び霊によって歩むならば(5161825)共同体

の中の敵たちを愛することができるようになるだろうそのときには彼

らも「霊の実」(522その中にはピスティス[誠実]が含まれる)を結

び彼らの愛はすでに仲間内だけのもの(共同体的な愛)ではなくなって

いるであろう

 最後に6 章 10 節 ἄρα ον ὡς καιρὸν ἔχομεν ἐργαζώμεθα τὸ ἀγαθὸν

πρὸς πάντας μάλιστα δὲ πρὸς τοὺς οἰκείους τς πίστεως(「それだから

わたしたちは時がある間にすべての人に特に信の家族に善を行い

ましょう」)も以上の流れで考えると分かりやすい「すべての人に」と言

ったあとにすぐ「特に信の家族に」とつけ加えるのは共同体の中に現に

不和と仲間争い(520)があるからである集会で顔を合わせていた

「隣人」(514)と敵対したままで「すべての人」に善を行おうとするの

は偽善でしかないとはいえパウロが真に望むのは愛を共同体の内部

に留めることではなく終わりの時が来るまでの間に(69)外部の

人々(異教徒たち)にも愛を行動で示すことである「信の家族」つまり

神との信の関係に入りキリストの信実によって義とされる人々の共同体は

「社会的共同体」であることを求められているのである

2ローマ書におけるピスティスとノモス ― 5 章のもつ意味

(1)ローマ書の構成と 5 章 12―21 節の位置づけ ローマの信徒への手紙は冒頭の挨拶(11―7)と末尾の長い挨拶

(16 章)との間に手紙の本体がはさまれた形になっている挨拶と言って

も冒頭のそれには手紙の主題と密接に関連する「福音」についての説明

(定義)が含まれ末尾の挨拶は豊かな神学的内容をもつ頌栄(1625―

27)で終わっている(19)従ってわれわれはこれらをこの手紙の本体で

展開される論述と結びつけて理解しなければならないこの手紙の主題は

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 25: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  279

「福音において啓示される神の義」でありその義の働きが複数の関連局

面について順を追いながら説明されるそこでこの手紙は次の 4 つの部分

から成ると見るのが順当である

 (1)1―5 章 罪の下にある人間を「信」によって義とする神の義

 (2)6―8 章 キリストへの組入れによって栄光へと導く神の義

 (3)9―11 章 イスラエルの不信仰の問題を乗り越える神の義

 (4)12―16 章 信の共同体の生活を導く神の義

 1―8 章の論述は実際には一つの大きなまとまりをなしておりその全

体が罪の下にある人間(39)を救い出して栄光へと導く神の働き(神の

義)をテーマとしている便宜上これを 2 つに分けたのは1―5 章と 6―

8 章でパウロが神の義の働きの相異なる局面を取り上げて解説しているか

らであるすなわち1―5 章では罪の下にある人間を「信」によって義

とする神の義の働き(関係的終末論的)が概括的(116―17321

―31)信仰論的(4 章)和解論的(51―11)そして三度概括的(5

11―21)に宣述されるのに対して6―8 章では神との正しい関係に置

かれた者がすでにキリストに組み入れられて(63―11)霊(聖霊神の

霊キリストの霊)を与えられている(82―17)「信」の恵みの現実に

光を当てながら信じる者たちを霊によって導き栄光を与える神の義の働

き(終末論的)が宣述されるのである手紙の内容区分について最も意見

が分かれるのは5 章を後続部分に含めるかそれとも先行部分の一部と見

なすかという点である今日では多くの研究者が 4 章と 5 章の間に重要

な切れ目を置く傾向にある(20)6―8 章で展開される諸テーマ(希望霊

神の愛)が 5 章冒頭に手短かに示されることは確かに重要な意味をもつ

しかし4 章で区切る注解者たちの中にも NTライトのように「パ

ウロは一連の思考を締めくくった後でもそれと論理的につながる同系統

の考察に移行する以上のことはしていない」という見方がある(21)そう

であるなら1―5 章の論述を締めくくる部分に後続部分で展開される諸

テーマが出てくるからと言ってここで必然的に区切るべき理由はない

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 26: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

280  人文自然研究 第 5 号

むしろ 5 章と先行部分とのつながり(議論の流れ)の方が重要であり5

章を 6 章以下に引き寄せた場合には終末時の完成をも射程におさめた「神

の義」の働きの構図が見失われ「神の義」は(現在的な)「義認」という

狭い概念に還元されてしまうのである

 3 章 21―30 節でパウロは神の義の働きを概括的に宣述する3 章 23―

24 節では「というのはすべての人が罪を犯して神の栄光を失っており

神の恵みにより無償でキリストイエスによる贖いによって義とされる

からです」(πάντες γὰρ ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο

δικαιούμενοι δωρεὰν τ αὐτο χάριτι διὰ τς ἀπολυτρώσεως τς ἐν

Χριστ rsquoΙησο)と述べているこの文における現在分詞 δικαιούμενοι

(義 と さ れ る)は人 間 が 罪 を 犯 し た こ と に よ る 神 の 栄 光 の 喪 失

(ἥμαρτον καὶ ὑστερονται τς δόξης το θεο)とのアンチテーゼ的な対

応関係からその負の過程を止揚して栄光を取り戻させる―あるいは

(この点が重要なのだが)それよりはるかにまさる栄光を与える―神の

救いの働き全体を指すと見るべきである終末時の完成まで射程に収めた

神の働きを指すこうした δικαιόω の用法を筆者は「終末論的用法」と名

づけた(太田① 10)神の義の働きを概括的に宣述した最初の箇所である

1 章 16―17 節をこの地点から振り返って考察すると17 節 Ο δὲ δίκαιος

ἐκ πίστεως ζήσεται(ハバクク 24 の引用)における ζήσεται(生きるで

あろう)の未来時称が重要な意味をもつことが明らかになるこれは決し

て論理的未来ではなく「神に生きる」こと(611 ζντας τ θε)そ

してその生が「永遠の命」(2751821622―23)に行き着くこ

とを意味するつまりこの未来時称は今説明した δικαιόω の終末論用法

に対応すると考えられるのである(詳細は「論考(2)」以降)これに続

く 4 章では信仰論的につまり「信」の関係に占める人間(父祖アブラハ

ム)の信仰に光を当てながら不敬虔な者たちを「信」によって義とする

神の義が説明されるそして 4 章を受けた 5 章 1―11 節では信によって

すでに義とされた(∆ικαιωθέντες ἐκ πίστεως)「わたしたち」の現在の生

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 27: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  281

が和解論的につまり神の愛に基づく神との平和および希望のうちにあ

る生き方として説明されるこの箇所の δικαιόω のアオリスト受動分詞

(δικαιωθέντες「義とされたのだから」519)は「キリストの血」

(32559)による贖罪によって罪を赦され神との正しい関係に置かれ

たことを言い表わす「関係的用法」であり終末時まで止むことなく続く

神の義の働きの一部としてすでに(信じる者たちにおいて)実現した段階

を指し示すさらに 5 章 12―21 節では3 章 23―24 節に言及された神の

栄光の喪失とそれを止揚するキリストイエスの贖いとの対比がアダムと

キリストの影響力の対比として展開されるこの段落が罪に支配された人

間を「信」によって義とする神の義の働きを終末時の完成まで視野に入

れて概括的に宣述していることはたとえば 21 節の要約的な文(ἵνα

ὥσπερ ἐβασίλευσεν ἡ ἁμαρτία ἐν τ θανάτωι οὕτως καὶ ἡ χάρις

βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον διὰ rsquoΙησο Χριστο το

κυρίου ἡμν「それは罪が死によって支配したようにそのようにまた

恵みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによ

って支配するためです」)から明らかである従って 5 章 12―21 節は人

間を「信」によって義とする「神の義」についての宣述の頂点をなすと考

えるべきである(15「信の従順」と 519「従順」との対応関係にも注

目)もし 4 章と 5 章を切り離すなら概括的宣述による枠構造が見失わ

れて神の義についての説明は 4 章で頂点に達すると解されることになり

神の義は結局「義認」という狭い概念に還元されてしまうのである

 なお3 章 23―24 節を受けて 5 章 2 節で取り上げられる「神の栄光の

希望」という論題がようやく 8 章後半に入って詳しい説明を与えられるこ

とについては(64 は直接関係しない)次のように考えれば納得がいく

すなわちパウロは信じる者たちが神の栄光を受けるのは彼らがキリス

トを長子とする神の子供とされてキリストと共同の相続人になることによ

ってはじめて可能になると考えるので(814―17)キリストへの組入れ

(incorporation)と霊の導きに話を移す前にその話題に具体的に踏み込む

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 28: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

282  人文自然研究 第 5 号

ことはできないのであるしかし5 章 12―21 節で言及される「(王的)

支配」(βασιλεύειν 17 節)や「(永遠の)命」(ζωή 171821 節)が神

の栄光と密接に関連していることは明らかだからすでにこの箇所に 8 章

後半の論述のためのレールが敷かれていると見ることができる終末時の

完成まで視野に入れた 5 章 12―21 節の概括的宣述は神の栄光の話題も

実質的に包含しているのである

(2)5 章 12 節の構文と訳 この段落の釈義においてまず問題になるのは12 節冒頭の ∆ιὰ τοτο

(「それゆえ」)と ὥσπερ(「のように」)である∆ιὰ τοτο(単なる移行句

ではない)は先行箇所のどの論述を受けるのだろうか(22)またこの

ὥσπερ は οὕτως と相関的に前提節を導入する機能を担っているとする

多数説に疑問の余地はないのだろうかこれらの問題が密接に関連し合っ

ていることは明らかである

 ὥσπερ を前提節の導入語としてとる解釈にとって不都合なのはそれ

に対応する οὕτως が近くに見当たらないことである少しあとの καὶ

οὕτως によってこれに対応する帰結節が導かれると見ることはほとんど

不可能である(口語訳新共同訳青野太潮訳田川建三訳はすべてそう

とっている)ギリシア語の καὶ οὕτως と οὕτως καί の間にははっきりし

た用法(意味)の区別がありὥσπερ や ὡς に始まる前提節に対応する帰

結節を導入するときには καὶ οὕτως ではなくοὕτως またはそれよりも

意味の強い οὕτως καί が用いられる([ちょうど]helliphellipようにそのよう

に[また]helliphellip)(23)パウロもこの原則に従っている(ロマ 51518

1921641130―311 コリ 111215221612 コリ 17

714ガラ 4291 テサ 24ロマ 6111151 コリ 2119

1412121491215422 コリ 8611107ガラ 431

テサ 414 に出てくる οὕτως καί にも注目)そのうえこの文の ὥσπερ

を καὶ οὕτως と結びつけると∆ιὰ τοτο による先行部分との論理的関係

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 29: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  283

が全く意味不明になってしまうこのため多くの釈義家は ὥσπερ で始ま

る 12 節の文を帰結節をもたない破格構文と見なし18 節になってようや

く宙に浮いた対比が再開されると考えるそのさい長い挿入部分(13―

17 節)によって前提節が見失われた可能性があるためパウロは ὡς hellip

οὕτως καὶ hellip という語法を再度用いてアダムとキリストの対比を再開した

と説明される

 この解釈はそれなりに筋が通っているがパウロの手紙は信徒たちに向

かって朗読されることを予期して書かれたのだから(1 テサ 527コロ

416 も参照)聴衆が語られる言葉を聞いて理解する仕方は学者が書

かれた文字を目で追いかけて意味をとる仕方と同じではないはずである

聴衆としては12 節の文の後に ἄχρι γὰρ νόμου hellip と続くのを聞いたとき

に12 節を前提節と受けとめて話の続きを待つのではなく文意がこれ

だけで完結している可能性を顧慮しながら聴こうとするのではないだろう

かその場合οὕτως を καὶ οὕτως と結びつける理解は文法的に不自然

だから結局 12 節に主語と動詞が省かれていると見てそれを頭の中で

補いながら 12 節全体を理解しようとするであろう彼らは διrsquo ἑνὸς

ἀνθρώπου(一人の人によって)という語句からすぐ前の箇所に集中的

に出てきた「キリストによって」に類する表現を連想しそれらが神の働

き(義認神との平和誇り神の栄光の希望和解救い)と排他的に

結びつけられていたことを想起するであろうすなわち5 章 1 節 διὰ

το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主イエスキリストによ

って」2 節 διrsquo ο「この方によって」9 節 ἐν τ αἵματι αὐτο「彼の血に

よって」および διrsquo αὐτο「彼によって」10 節 διὰ το θανάτου το υἱο

αὐτο「彼(=神)の子の死によって」および ἐν τ ζω αὐτο「彼の命

によって」11 節 διὰ το κυρίου ἡμν rsquoΙησο Χριστο「わたしたちの主

イエスキリストによって」および διrsquo ο「この方によって」(11 節の表

現が 1―2 節と正確に対応して枠構造を形成している点に注目)特に直前

の 3 つの節ではすでに実現した「義認」(δικαιωθέντες)および「和解」

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 30: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

284  人文自然研究 第 5 号

(κατηλλάγημεν 等)と 未 来 の 終 わ り の 時 に 成 就 さ れ る「救 い」

(σωθησόμεθα)が「キリストによって」に類する表現と密接に結びつけ

られて繰り返し強調されていたそこで彼らが最も自然に思いつく 12

節の文の主語としてはたとえばこれらの概念すべてを含みうる ἡ

σωτηρία が考えられるであろう実際「救い」は手紙の主題(「神の

義」)を掲げた冒頭の要約的宣述(116)に出てきた重要語であるそし

て 5 章 15 節 a まで進んだところで聴衆はそうした理解が間違っていな

かったことをはっきり知らされるであろう― rsquoΑλλrsquo οὐχ ὡς τὸ

παράπτωμα οὕτως καὶ τὸ χάρισμα(「しかし罪過のようにそのよう

にまた恵みの賜物もということではありません」)明示されなかった主

語がまさに「恵みの賜物」に対応することを彼らはここで確認して納得

するのであるそこで推測される聴衆の理解に従って 12 節を訳すと次

のようになる

それゆえ〔救いは〕ちょうど一人の人によって罪が世に入りそし

て罪によって死が(入り)そしてこのようにしてすべての人に死が

行き渡ったようなものですそれ(=死)を目指してすべての人が罪

を犯したのです(∆ιὰ τοτο ὥσπερ διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς

τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς

πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος διλθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)

 この訳における ἐϕrsquo の解釈は全くの少数派に属するだがこの問題は

あとで論じるとしてもう少しこの ὥσπερ の用法について見ておくこと

にする完結した直前の言述を受けて次の文を主語も動詞も示さずに

ὥσπερ で始めるこの語法は新約聖書の中ではマタイ福音書 25 章 14 節

に見いだされるΩσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους

δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτος τὰ ὑπάρχοντα αὐτο(「すなわちある人

が旅に出るときに自分の僕たちを呼んで彼らに自分の財産を預けたよう

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 31: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  285

なものである」)新共同訳は文脈から主語として「天の国」を補っている

これと似た用法は七十人訳聖書にも出てくる(申 221ὥσπερ は כאשר

の訳)

ἔθνος μέγα καὶ πολὺ καὶ δυνατώτερον ὑμν ὥσπερ οἱ Ενακιμ καὶ

ἀπώλεσεν αὐτοὺς κύρ ιος πρὸ προσώπου αὐτν κα ὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης ὥσπερ ἐποίησαν τος υἱος Ησαυ τος κατοικοσιν ἐν Σηιρ

ὃν τρόπον ἐξέτριψαν τὸν Χορραον ἀπὸ προσώπου αὐτν καὶ

κατεκληρονόμησαν καὶ κατωικίσθησαν ἀντrsquo αὐτν ἕως τς ἡμέρας

ταύτης

〔これは〕大きくて数が多くアナク人のようにあなたがたよりも強い

民であるだが主は彼らを彼ら〔アンモン人〕の前に滅ぼし彼ら

〔アンモン人〕が相続地を獲得し彼らに代わって今日に至るまで住

み着いた〔これは〕彼らがセイルに住むエサウの子らのために行っ

たのと同様である〔すなわち〕彼らがフリ人を彼ら〔エサウの子ら〕

の前から根絶し彼ら〔エサウの子ら〕が相続地を獲得し彼らに代

わって今日に至るまで住み着いたのとちょうど同様である(申 2

21―22)

 ただしパウロの用法は ὥσπερ 本来の順接的な使い方(「~のように」)

とは反対に両者が言わば写真のネガとポジのような関係で対応すること

をこの一語によって指示しただがさすがにこれでは分かりにくいので

このすぐ後の箇所(14 節)でアダムを「来るべき方の反対のかたち」

(τύπος το μέλλοντος)と呼んで話を明確化した(τύπος についての考

察は「論考(3)」に回す)黒と白を反転させるように 12 節を言い換える

と次のようになる

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 32: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

286  人文自然研究 第 5 号

それゆえ〔この救いは〕ちょうど一人の人によって義が世に入り

そして義によって命が(入り)そしてこのようにしてすべての人に

命が行き渡るのと同様です命を目指してすべての人が義を行うので

す(26―1051618[下記参照]と比較)

 このように言い換えるとパウロの言おうとすることが一目瞭然となる

(3)アダムの罪と全人類の死 12 節の文において重要な意味をもつのは καὶ οὕτως(「そしてこのよう

にして」)という語句であるこれには次のような意味が込められている

と思われるすなわち罪と死が世に入るという出来事が最初の人間であ

るアダムによって引き起こされそのことが「世」(被造世界全体よりは

むしろ人間世界が考えられている)の仕組み(エコノミー)を決定的に変

えてしまったということを言おうとしたように思われる(この「仕組

み」については「論考(3)」で考察する)「すべての人に死が行き渡っ

た」のはこの決定的に変わってしまった仕組みの中でのことであるア

ダムによって罪が世に「入る」ことがなかったとすれば死が入ることも

なかったであろうから「すべての人に死が行き渡る」こともなかったは

ずである従ってここにはアダムの罪とそれに伴う死が全人類の死4

の原

因になったという考えが暗示されていると見てよいだがパウロはア

ダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であるとは言っていない次に

その点をテクストに即して具体的に確認しよう

 まず 15 節 b では「一人の罪過のために多くの人が死んだ4 4 4

」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι οἱ πολλοὶ ἀπέθανον)ことそして 17 節では「一人の

罪過のために死がその一人を通して支配するようになった」(τ το

ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ το ἑνός)ことが指摘され

る15 節 b「神の恵みと一人の人イエスキリストの恵みによる〔神の〕

賜物とはさらにいっそう多くの人々に満ちあふれたのです」(πολλ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 33: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  287

μλλον ἡ χάρις το θεο καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τ το ἑνὸς ἀνθρώπου

rsquoΙησο Χριστο εἰς τοὺς πολλοὺς ἐπερίσσευσεν)におけるアオリスト時称

は文字どおりの意味に解されるべきであるこの「神の恵みと賜物」が何

を指すかは後続章句から明らかになる「一人の人イエスキリストの恵

み」は彼の「義の行為」つまり「従順」(1819 節)がすべての人のため

の恵みにほかならないことを合図するのであろう15 節と 17 節にはさま

れた 16 節についてはどう考えるべきだろうか

 16 節の「断罪」(κατάκριμα)は神がアダムの罪を裁いて死を宣告し

たこと(創 317―19)そしてその結果すべての人間が死に支配される

ようになった(17 節)ことを言っていると考えられる(124 以下に三度

繰り返される παρέδωκεν と比較)ここには彼の罪が子孫たちの罪を生

じさせたという考えは含まれていないしかし注意が必要なのは16 節

b はあえて動詞を用いずに人類の歴史のあらゆる時代4 4 4 4 4 4

(アダムの創造か

ら終わりの日に至るまで)に妥当する神の裁きと恵みの原則を明示した綱4

領的な文4 4 4 4

だということである(24)この原則はアダムの罪に対する神の

断罪だけでなく「怒りの日」における神のすべての人間に対する「正し

い裁き」(δικαιοκρισία 25)にも当てはまる―「というのは裁き

は一つ〔の罪過〕から断罪へと〔至るが〕恵みの賜物は多くの罪過から

義の行為へと〔至る〕からです」(16 節 b τὸ μὲν γὰρ κρίμα ἐξ ἑνὸς εἰς

κατάκριμα τὸ δὲ χάρισμα ἐκ πολλν παραπτωμάτων εἰς δικαίωμα)本

節の δικαίωμα については18 節末尾の δικαίωσις と同義と見て「義認」

や「無罪の判決」などと訳す解釈が何の疑いもなく繰り返されているが

18 節の δικαιώματος(キリストの「義の行為」を指す)と同じ意味にと

るべきでありそうとって悪い理由はどこにもないこの文において

κρίμα は χάρισμα に対応しκατάκριμα は δικαίωμα に対応するしかし

その対応関係は同一水準での対応ではなく後者が前者を止揚する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

形での

対応である従ってδικαίωμα は κατάκριμα の単なる反対概念ではな

く(25)「裁き」の概念が全く用をなさない水準を指し示している「恵みの

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 34: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

288  人文自然研究 第 5 号

賜物」は義認に尽きるものではない「恵みの賜物」はその贈与と近さ

の意味合いから義とされた人間に与えられた聖霊(54)による神とキ

リストの働きをも含意すると考えるべきであるそして神の霊が信じる者

のうちでその本来の働きをするときそれはその者のために「義の行為」

を創り出さずにはいないのである18 節の δικαιώματος が文脈上アダム

の「不従順」(παρακοή)と対立するキリストの「従順」(ὑπακοή)を指

すことからこの「義の行為」の本質がある程度明らかになるすなわち

これは行為自体として見られた善行や自己犠牲を意味するのではなく

信じる者が神との関係すなわち「信」の関係のうちに身をおいて神の言

葉に従順に聞き従い神の霊の働きに自らを明け渡すときに神がその者

のうちに新たに創り出す正しい行為を全体的にまとめて指示するのであ

る(ロマ 83―13ガラ 516―262 コリ 517 を参照)しかしこう

言っただけではまだ不十分であるχάρισμα が κρίμα を止揚する以上

「従順」の本質がなお問われなければならないこれを神の戒めや命令へ

の服従という意味にとったのではパウロの真意もトーラー批判の意味も

決して理解できないであろう(後の「論考」で考察する)

 そうであるなら17 節「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けて

い る 人 た ち」(οἱ τὴν περισσείαν τς χάριτος καὶ τς δωρες τς

δικαιοσύνης λαμβάνοντες)における「恵みと義の賜物」も近さと贈与

という点から理解されるべきであるこの言葉の力点は「恵みと賜物」に

ある「義」はその根本性格を指し示す修飾語であり神の賜物が「義」

によって規定されることを言っている「義の賜物」が第一義的に意味す

るのは神から賜物として与えられる義(フィリ 39 τὴν ἐκ θεο

δικαιοσύνην「神からの義」)ないし義認あるいは神の民の成員としての

(さらには神の「子供」としての)身分ではないむしろこの「義」は

神自らが義であるところの義つまり神の本質としての義を第一義的に意

味するそして神が「義である」ことは神が不敬虔な者たちを「義とす

る」ことと表裏一体的であるから(ロマ 326 εἰς τὸ εναι αὐτὸν δίκαιον

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 35: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  289

καὶ δικαιοντα τὸν ἐκ πίστεως rsquoΙησο)その義が無償の賜物のかたちで

つまり信じる者たちを行いなしに神との正しい関係のうちに置き移す(義

認)というかたちで発揮されるのであるだがパウロは義認において

すでに信じる者に聖霊が与えられたと考えている(55「神の愛がわたし

たちに与えられた聖霊4 4 4 4 4 4 4

を通してわたしたちの心に注がれています」ἡ

ἀγάπη το θεο ἐκκέχυται ἐν τας καρδίαις ἡμν διὰ πνεύματος ἁγίου

το δοθέντος ἡμν)聖霊は義認に続いて「聖化」のために与えられるの

ではない聖霊の恵与は神が御自身の霊を人に贈与し(神の愛)神と

人との近さが人間にもそれと分かるかたちですでに確立されたことの現れ

である(1 コリ 619 と 2 コリ 121―22 を参照)その霊の力が神の

愛に感謝し神を喜び祝う(511)者たちに対し「命において一人のイエ

スキリストによって支配する」(ἐν ζω βασιλεύσουσιν διὰ το ἑνὸς

rsquoΙησο Χριστο)こ と を終 わ り の 日 に 可 能 に す る の で あ る

βασιλεύσουσιν(「(王として)支配するであろう」)という未来時称は純粋

に未来的な意味にとるべきであるつまりこれは「義とする」という動

詞(δικαιόω)の終末論的用法に対応するのである

 18 節の文も動詞を欠いているこれに続く 19 節(「すなわち一人の

人の不従順によって多くの者が罪人にされた4 4 4

ように一人の従順によって

多くの者が義人にされるでしょう4 4 4 4 4 4 4

」)によって 18 節が説明される点を考慮

すると本節は 17 節と同様16 節 b の一般的な意味を過去と未来の事項

に特に絞って言い直したものと見ることができるパウロは 18 節はもち

ろん 19 節でもアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原因であると言

おうとしたわけではない「多くの者が罪人にされた」とはアダムの罪

によって決定的に変わってしまった仕組み(神と人人と人人と被造物

の三重の関係)の中ですべての人間が罪を犯したあるいはその仕組み

が罪を犯すことを促したという意味でしかないアダムの罪が伝染性の

ものであるとか遺伝のように受け継がれるとかいったことをパウロが言

おうとしたわけではない19 節の「義人」(δίκαιοι)は「義と認められた

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 36: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

290  人文自然研究 第 5 号

者」と同義ではなく社会的関係の中でその関係にふさわしく行動する者

を意味する(太田① 10)「されるでしょう」(κατασταθήσονται)という

未来時称を論理的未来と見て「正しい者とされるのです」(新共同訳口

語訳田川訳も同様)と訳すことは致命的な誤りであるこれでは義人

にされることが義認と同じ意味になってしまい神の義とする働きの終末

論的次元が完全に見失われてしまう

 19 節との比較から 18 節の文も前半部と後半部にそれぞれ過去形と未

来形の動詞を補って読むべきであろう(新共同訳のように後半部分を現在

のこととして解するのは誤り)―「それゆえ一人の罪過によってす

べての人にとって断罪へと〔至った〕ようにそのようにまた一人の義

の行為によってすべての人にとって命の義化へと〔至るでしょう〕」

(Αρα ον ὡς διrsquo ἑνὸς παραπτώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

κατάκριμα οὕτως καὶ διrsquo ἑνὸς δικαιώματος εἰς πάντας ἀνθρώπους εἰς

δικαίωσιν ζως)(「義化」という語を筆者は聖書的救済論や教理史と

関わる論争とは無関係に本節の δικαίωσις の単なる訳語として用いる)

本節末尾の「命の義化」(δικαίωσιν ζως)は神が終わりの日に不敬虔

な者たちを「正しくすること」(δικαίωσις の基本的な意味)つまり神の

義とする働き(δικαιόω)の最終結果をそれに必然的に伴う「命」との

関連で言い表わしたものであるただしパウロは終末時の「神の正しい

裁き」を法廷の場面と結びつけているので(118―320)この「義」

が神による信徒たちの身分の最終的確認を含む(従って義認の意味を含

む)ことは決して否定できない「命の義化」とは「命を内容とする義化」

の意味であろう「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている人た

ち」はすでに「霊」においてキリストの命にあずかっているはずだが

(810「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら体は罪のゆえ

に死んでいても霊は義のゆえに命です」εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμν τὸ μὲν

σμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην)5 章の宣

述に信徒たちにおける命の現在性を明言する言葉は含まれないので(10

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 37: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  291

21 節参照)「命の義化」によって言われていることは 2 章 7 節の内容

(「忍耐強く善を行いながら栄光と誉れと不滅とを求める者たちには永遠

の命を〔お与えになります〕」τος μὲν καθrsquo ὑπομονὴν ἔργου ἀγαθο

δόξαν καὶ τιμὴν καὶ ἀϕθαρσίαν ζητοσιν ζωὴν αἰώνιον)とほぼ同様と思

われる(417642223 も参照)

 最後にパウロは(21 節)トーラーによって罪の増し加わったところに

「恵みがますます満ちあふれた」(ὑπερεπερίσσευσεν ἡ χάρις)のは「恵

みが義によって永遠の命へとわたしたちの主イエスキリストによっ

て支配するため」(ἡ χάρις βασιλεύσῃ διὰ δικαιοσύνης εἰς ζωὴν αἰώνιον

διὰ rsquoΙησο Χριστο το κυρίου ἡμν)であることを強調して一連の論

述を締めくくるこの「支配」と「永遠の命」が過去に開始された死の

支配を完全に止揚する未来の終わりの時に実現されると考えられているこ

とは明白である

(4)パウロのサブテクストとしての「モーセの黙示録」と「ソロモンの知恵」

 以上に見たようにパウロはアダムの罪がすべての人間の罪の直接の原

因であるとは一言も言っていない12 節の文をどのように訳そうとも

パウロはすべての人間が罪を犯したことを誤解のないように付け加えてい

るそれならばアダムの罪とすべての人間の罪との間にはどういう論理

的関係があるのだろうかこの問いと取り組むにはパウロのテクストだ

けでなくそのサブテクスト(書かれた言葉の背後に潜むテーマと密接に

関連するテクスト)も考慮に入れる必要があるまず明らかなのはパウ

ロがこの箇所で創世記 2―3 章に語られた物語を参照していることである

―「一人の人によって罪が世に入りそして罪によって死が(入った)」

(12 節)「アダムの違犯」(14 節「違反」ではない)「一人の罪過」(15

161718 節)「一人の人の不従順」(19 節)だがサブテクストとして

考えられるのは創世記だけではないアダムの生涯および人間の罪と死の

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 38: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

292  人文自然研究 第 5 号

起源について考察したパウロの時代前後のユダヤ教文書も重要なサブテク

ストでありその中には古くから指摘されるように「ベンシラの知恵」

(シラ書)14 章 17 節15 章 14―15 節25 章 24 節「ソロモンの知恵」

(知恵の書)2 章 23―24 節10 章 1―2 節「ヨベル書」3 章「アダムと

エバの生涯」4449 章「モーセの黙示録」1014―303239 章「シ

リ ア 語 バ ル ク 黙 示 録」17 章 2―3 節23 章 4 節48 章 42―43 節

54 章 15―19 節56 章 5―6 節「第四エズラ書」(エズラ記ラテン語)3

章 4―7 節21―22 節4 章 28―32 節7 章 11―12 節116―118 節 ヨ

セフス『ユダヤ古代誌』134―3840―51 などが含まれる

 これらの中パウロの論述との関連が最も強く認められるのは「モーセ

の黙示録」(ギリシア語版「アダムとエバの生涯」)であるその 20―21

章にはアダムがエバと共に楽園の中央にある木の実を食べた時にそれま

でまとっていた「義」と「神の栄光」を失ってしまったという考えが示

されている(26)

するとその時わたし〔エバ〕の目が開かれてわたしは自分が身に

まとっていた義を失って裸になっていたことを知りましたそしてわ

たしは泣きながら〔蛇に〕言いました「なぜあなたはこのことをわ

たしにしたのですかわたしが身にまとっていたわたしの栄光4 4 4 4 4 4

から

わたしは引き離されてしまったではないですか」(201―2 Καὶ ἐν

αὐτ τ ὥραι ἠνεῴχθησαν οἱ ὀϕθαλμοί μου καὶ ἔγνων ὅτι γυμνὴ ἤμην

τς δικαιοσύνης ς ἤμην ἐνδεδυμένη καὶ ἔκλαυσα λέγουσα τί τοτο

ἐποίησάς μοι ὅτι ἀπηλλοτριώθην ἐκ τς δόξης μου ς ἤμην

ἐνδεδυμένη)

「ああ悪い女よお前はわたしたちの間に何をつくり出したのだお

前は神の栄光4 4 4 4

からわたしを引き離した」(216 γύναι πονηρά τί

κατηργάσω ἐν ἡμν ἀπηλλοτρίωσάς με ἐκ τς δόξης το θεο

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 39: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  293

ここに見られる考えはローマ書 3 章 23 節に示された「すべての人が罪

を犯して神の栄光を失っている」というパウロの理解とよく似ているこ

の章句でパウロがアダムではなくすべての人の罪に言及したのは「信じ

るすべての人たち」を対象とする神の義について要約的に宣述する必要が

あったからであるしかしそれでは神の栄光の喪失がアダムから始まった

事実が置き去りにされてしまうのでパウロは 5 章 12―21 節で本格的に

アダムの罪の問題を取り上げ同時にまた「すべての人が罪を犯した」

(πάντες ἥμαρτον 323 と全く同じ)ことを再度指摘するのである実際

手紙の構成についての考察と以上に示した 15―21 節の釈義から明らかに

なったように5 章 12―21 節のパラグラフはまさに 3 章 23―24 節の要約

的宣述を展開したものになっている

 だがパウロが「すべての人が罪を犯した」と言うとき彼は「モーセの

黙示録」よりもむしろ「ソロモンの知恵」を念頭に置いていたと思われる

パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて 1 章 19 節―2 章 6 節の論述に

その主張を反映させた蓋然性が高いことはすでに古くから指摘されてい

る(27)両者の思想およびギリシア語表現の比較において注目されるのは

知恵 2 章 23―24 節12 章 23―24 節13 章 1―913―14 節14 章 812

1621―28 節15 章 1―4 節等の章句だがとりわけ知恵 13 章 1―9 節と

ローマ 1 章 20―21 節との内容的類似性は見逃しようのないほど鮮明であ

確かに神を知らずにおり目に見えるよいものから存在者〔出 3

14 参照〕を知ることができず作品に目を向けながら作者を知るこ

ともなかった人々はみな生来むなしい(Μάταιοι μὲν γὰρ πάντες

ἄνθρωποι ϕύσει ος παρν θεο ἀγνωσία καὶ ἐκ τν ὁρωμένων ἀγα-

θν οὐκ ἴσχυσαν εἰδέναι τὸν ὄντα οὔτε τος ἔργοις προσέχοντες

ἐπέγνωσαν τὸν τεχνίτην)というのは造られたものの崇高さと優

美さからそれらの創造者が相応に観取されるからだ(ἐκ γὰρ

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 40: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

294  人文自然研究 第 5 号

μεγέθους καὶ καλλονς κτισμάτων ἀναλόγως ὁ γενεσιουργὸς αὐτν

θεωρεται)だからといって彼らも容赦されるべきではない

(πάλιν δrsquo οὐδrsquo αὐτοὶ συγγνωστοί)(知恵 13158)

というのは神の目に見えない性質はその永遠の力も神性も世界

の創造以来造られたものにおいて認識されるものとしてはっきり

認められるからですだから彼らに弁解の余地はありませんなぜな

ら彼らは神を知っていながら神として栄光を帰すことも感謝する

こともせずかえって彼らはその考えにおいてむなしくなり彼らの

悟りのない心は暗くなったからです(τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτο ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τος ποιήμασιν νοούμενα καθορται ἥ τε ἀΐδιος

αὐτο δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους διότι

γνόντες τὸν θεὸν οὐχ ὡς θεὸν ἐδόξασαν ἢ ηὐχαρίστησαν ἀλλrsquo

ἐματαιώθησαν ἐν τος διαλογισμος αὐτν καὶ ἐσκοτίσθη ἡ ἀσύνετος

αὐτν καρδία)(ロマ 120―21)

 パウロによる「ソロモンの知恵」の利用は9 章 19 節以下の論述との

関連でも指摘されている(28)パウロが「ソロモンの知恵」を知っていて

さまざまに利用したとすればアダムの罪に言及したローマ 5 章 12―21

節にも何らかの関連を見いだせないだろうか筆者が指摘したいのはそ

れ自体は人間の死の起源を論じたパウロの時代前後のユダヤ教テクストと

して重視されるにもかかわらずローマ 5 章 12―21 節との関連ではごく

限定的にしか取り上げられない「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節である

というのは神は人を不滅性のために4 4 4 4 4 4 4

創造し御自身の永遠性の似姿4 4 4 4 4 4

として4 4 4

人を造られただが悪魔のねたみによって死が世に入り4 4 4 4 4 4

悪魔

の分け前に属する者たちが死を経験するのである(ὅτι ὁ θεὸς ἔκτισεν

τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος ἐποίησεν

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 41: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  295

αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον

πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες)(知恵 223―

24)

この文の ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι を新共同訳は「不滅な者として」と訳しているが

ギリシア語の前置詞 ἐπί の意味(目標や目的を表わす)からすれば「不

滅性のために」と訳す方がよいであろう(RSV ldquoGod created man for

incorruptionrdquo)「ソロモンの知恵」の著書はアダムを「義人」の列に加

えその息子カインを「悪魔の分け前に属する者」の一人と見ている2

章 23―24 節に続く箇所と 10 章の冒頭部分(91―3 も参照)で著書は次

のように述べている

だが義人たちの魂は神の手のうちにあり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

責め苦がそれらに触れるこ

とは決してない愚か者たちの目に彼らは死んでしまったと映り彼

らの旅立ちは災いと思われわれわれからの離別は破滅と〔思われ

た〕しかし彼らは平和のうちにいるなぜなら人間たちの見ると

ころ彼らが罰を受けたとしても彼らの希望は不死4 4

に満ちているから

である(∆ικαίων δὲ ψυχαὶ ἐν χειρὶ θεο καὶ οὐ μὴ ἅψηται αὐτν

βάσανος ἔδοξαν ἐν ὀϕθαλμος ἀϕρόνων τεθνάναι καὶ ἐλογίσθη

κάκωσις ἡ ἔξοδος αὐτν καὶ ἡ ἀϕrsquo ἡμν πορεία σύντριμμα οἱ δέ

εἰσιν ἐν εἰρήνῃ καὶ γὰρ ἐν ὄψει ἀνθρώπων ἐὰν κολασθσιν ἡ ἐλπὶς

αὐτν ἀθανασίας πλήρης)(知恵 31―4)

これ(知恵)は最初に形造られた世の父を彼のみが創造された時に

守り彼をその罪過から救い出し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

そして彼に万物を支配する力を与

えたしかし不義の者4 4 4 4

は自らの怒りのうちに知恵から遠ざかると

兄弟殺しの憤りのために滅びた(Αὕτη πρωτόπλαστον πατέρα κόσμου

μόνον κτισθέντα διεϕύλαξεν καὶ ἐξείλατο αὐτὸν ἐκ παραπτώματος

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 42: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

296  人文自然研究 第 5 号

ἰδίου ἔδωκέν τε αὐτ ἰσχὺν κρατσαι ἁπάντων ἀποστὰς δὲ ἀπrsquo αὐ-

τς ἄδικος ἐν ὀργ αὐτο ἀδελϕοκτόνοις συναπώλετο θυμος)(10

1―3)

 著書はアダムについて彼が神の戒め(創 21631117)を破っ

た後も知恵から遠ざかることなく知恵の助けを受け続けカインのように

悪に走ることはなかったと述べている義人アダムは肉体の死によって

滅びたのではなく死後もその魂が神によって守られ不死の希望に満ち

ているのである(515 も参照)ここには明らかにギリシア的な霊魂不

滅思想の影響が見られる(本書における「死」「不死」「不滅」等の意味

を考察するときにはその点を常に念頭に置いてかかる必要がある)2 章

24 節の「悪魔のねたみによって死が世に入った」という言葉は創世記

の物語に照らせばカインではなくアダムの罪過と結びつけて理解される

はずであるしかし著書はここにアダムの名を出してはおらず死が入っ

た原因を「悪魔のねたみ」に帰している彼の罪過は決定的な意味をもた

ず実際 10 章 1―3 節では単なる過ちのように見られている著書の考え

に従えばアダムとカインの違いは知恵に聞き従うか知恵から遠ざかる

かという点にある知恵に聞き従ったアダムが万物を支配する力を与え

られたのに対し知恵から遠ざかったカインは兄弟殺しをしでかした著

書はアダムの時代にトーラーがすでに存在したとは述べていないがたと

えば次の箇所に照らすとアダムは創造の初めから存在する知恵の法を守

ったので不滅の存在に移されたと考えられているように思われる

〔知恵への〕愛は知恵の法4 4 4 4

を守ることであり法を心に留めることが

不滅性4 4 4

を確かなものにするそして不滅性4 4 4

は〔人が〕神の近くにいら

れるようにする(ἀγάπη δὲ τήρησις νόμων αὐτς προσοχὴ δὲ νόμων

βεβαίωσις ἀϕθαρσίας ἀϕθαρσία δὲ ἐγγὺς εἰναι ποιε θεο)(618

―19)

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 43: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  297

(5)ソロモンの知恵とローマ 512―21 ローマ 5 章 12―21 節においてパウロは「ソロモンの知恵」とは異なり

アダムの罪が人類の歴史において決定的な意味と影響力をもったことを強

調している(ロマ 5121415―19)パウロの論述が思弁的形而上

学的な詳細を欠いていることは事実であり彼は悪魔の企み(知恵 224

モーセ黙 16―20 章)やエバの責任(シラ 2524アダムとエバ 44 章

モーセ黙 1419―2132 章2 コリ 1131 テモ 2142 エノク 30

17―18 も参照)や天使によるエバの誘惑(1 エノク 696)アダムの

悪心(4 エズラ 430「悪の種が最初にアダムの心に蒔かれた」)などには

一切触れていない(29)そのためパウロは「アダムの罪の起源を示す必

要を感じて」おらず5 章 12 節の本来の関心は「この段落の本来のテー

マである(新しい)生の起源のための引き立て役として死の起源を示す

ことである」とさえ言われる(30)だがこの種の議論はパウロの重要な

サブテクストとりわけ「ソロモンの知恵」の軽視の上に成り立っている

もちろん「ソロモンの知恵」がパウロの思想的背景の一角を形づくること

は広く認められているがローマ 5 章 12―21 節とのより具体的な関連に

ついてはせいぜい εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν(「世に入った」)という言い

回し(12 節)が「ソロモンの知恵」2 章 24 節(および偶像について論じ

た 1414)の εἰσλθεν εἰς τὸν κόσμον と一致する事実が指摘される程度

である(31)しかしパウロのテクストと「ソロモンの知恵」のテクストと

の比較は前者による後者の批判4 4

という視点も交えてよりきめ細かく行

う必要があるローマ 1 章 18 節以下においてパウロは異邦人の偶像崇

拝とその結果である倫理的道徳的退廃を批判するのにこの文書を利用した

が(前記参照)イスラエルも荒れ野で偶像崇拝に陥ったことを指摘する

ことにより「ソロモンの知恵」の思想をラディカルに修正したすなわ

ち1 章 23 節で詩編 106 編 20 節をそれとなく引用してユダヤ人もまた

異邦人と共に神の裁きの対象に含まれることを指摘したのである詩編

106 編 20 節は生ける神の代わりに黄金で造った若い雄牛の鋳像(口語

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 44: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

298  人文自然研究 第 5 号

訳「鋳物の子牛」)を拝んだイスラエルの行為を批判している(出 32 章も

参照)

そして不滅の神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものの姿に似

せた像と取り替えたのです(καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν το ἀϕθάρτου

θεο ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος ϕθαρτο ἀνθρώπου καὶ πετεινν καὶ

τετραπόδων καὶ ἑρπετν)(ロマ 123)

そして彼らは彼らの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた(καὶ

ἠλλάξαντο τὴν δόξαν αὐτν ἐν ὁμοιώματι μόσχου ἔσθοντος χόρτον)

(詩 10520 LXX)

これに続く 1 章 25 節の言葉も異邦人とユダヤ人の両方に向けられてい

ると見てよいであろう

彼らは神の真理を偽りと取り替え造り主の代わりに被造物を崇め礼

拝したのです(οἵτινες μετήλλαξαν τὴν ἀλήθειαν το θεο ἐν τ

ψεύδει καὶ ἐσεβάσθησαν καὶ ἐλάτρευσαν τ κτίσει παρὰ τὸν

κτίσαντα)

「ソロモンの知恵」の思想はこれとは異なるすなわち荒れ野のイスラエ

ルは罪を犯すとしても誤りをただす程度の叱責を受けるだけでありイス

ラエルの民は総体として異教徒のエジプト人よりもすぐれていると考え

ている(たとえば知恵 151―6)パウロは「ソロモンの知恵」を利用し

ながらも詩編の作者と一致してイスラエルが契約の神に背いて異教徒

をまねるに至ったことを指摘するそして一連の議論を経て「ユダヤ人

もギリシア人もみな罪の下にある」(rsquoΙουδαίους τε καὶ Ελληνας πάντας

ὑϕrsquo ἁμαρτίαν εναι)と結論づける「みな罪の下にある」とは罪の支配

を免れて罪を犯さない者は一人もいないという意味である(310「義

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 45: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  299

人はいない一人もいない」Οὐκ ἔστιν δίκαιος οὐδὲ ες と比較)

 そこでパウロが「ソロモンの知恵」を知っていてただまねるのではな

く批判的に用いたとするならローマ 5 章 12―21 節のパラグラフでも同

様のことを行った可能性を考えてみるべきであろうローマ 5 章 12 節と

知恵 2 章 23―24 節との対応関係および逆対応関係(語句と内容)は次

のようになっている

διrsquo ἑνὸς ἀνθρώπου ἡ ἁμαρτία εἰς τὸν κόσμον εἰσλθεν καὶ διὰ τς

ἁμαρτίας ὁ θάνατος καὶ οὕτως εἰς πάντας ἀνθρώπους ὁ θάνατος δι-

λθεν ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον(ロマ 512)

ὁ θεὸς ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας

ἀιδιότητος ἐποίησεν αὐτόν ϕθόνωι δὲ διαβόλου θάνατος εἰσλθεν εἰς

τὸν κόσμον πειράζουσιν δὲ αὐτὸν οἱ τς ἐκείνου μερίδος ὄντες(知

恵 223―24)

 「ソロモンの知恵」はアダムの罪過に(この章句では)全く触れていな

い死を世に引き入れたのは「悪魔のねたみ」でありアダムは責任を問

われないしかも「悪魔の分け前に属する者たちが死を経験する」と断言

されることによって「死」の意味はすでに生物学的な意味から離れ生

物学的な死の重大さは等閑に付されているこの扱いはパウロの目に非常

に危険なものに映ったに違いないというのも肉体の死の意味を問わな

い「ソロモンの知恵」の思想はパウロの福音の不可欠の要素である「死

者の復活」(1 コリ 153―412―19)を骨抜きにしてしまうからである

パウロにとっては肉体の死自体が死の支配の現れなので(ロマ 51417

2169)死が最終的に滅ぼされる(1 コリ 1526)ことなしに復活は

あり得ず「不滅性」(1 コリ 154250525354 ἀϕθαρσίαἄϕθαρτος)

も達成されない(ロマ 123271 コリ 925知恵 223―246

18―19 も参照)そこでパウロとしてはアダムの肉体の死(創 319

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 46: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

300  人文自然研究 第 5 号

「塵に返る」)の原因をはっきり指摘しなければならない彼は創世記 3 章

に従ってそれをアダム本人の罪(ロマ 519「不従順」)に帰しながらロ

ーマ 512 の文を組み立てる単純に比較すると彼は知恵 2 章 24 節の

「悪魔のねたみによって」(ϕθόνωι διαβόλου)を「一人の人によって」(διrsquo

ἑνὸς ἀνθρώπου)に変え「罪が」(ἡ ἁμαρτία)と「罪によって」(διὰ τς

ἁμαρτίας)を挿入したように見えるそれに加えて死は「悪魔の分け

前に属する者たち」だけが味わうのではなく「すべての人」がその支配の

下にあることを示すためこれに「すべての人に死が行き渡った」と続け

た「そしてこのようにして」(καὶ οὕτως)は知恵 2 章 24 節では本来

必要ないがアダムの罪および死とすべての人の死との連関を問題にした

いパウロにとっては絶対に必要な語句である

 12 節末尾の「それ(=死)を目指してすべての人が罪を犯したのです」

(ἐϕrsquo πάντες ἥμαρτον)はこの文の構造にすっきり収まらない付加的

部分のように見えるこれは知恵 2 章 23 節のテーゼ―「神は人を不滅

性のために創造し御自身の永遠性の似姿として人を造られた」(ὁ θεὸς

ἔκτισεν τὸν ἄνθρωπον ἐπrsquo ἀϕθαρσίαι καὶ εἰκόνα τς ἰδίας ἀιδιότητος

ἐποίησεν αὐτόν)―を念頭に置きながら神に従順に歩んで不滅性を与

えられるべき人間がかえって自ら死を志向したことを強調するために付

加された言葉ではないだろうかつまりパウロの考えではいかなる形で

あれ(ロマ 514)罪を犯すことは命の源である神に背を向けて死を選

びとり死の支配に自ら服することを意味するのであるこれは創世記

3 章の物語のきわめて筋の通った解釈である並木浩一によると創世記 2

章 17 節における神の警告―「善悪の知識の木からは決して食べては

ならない食べると必ず死んでしまう」―は「人間が本当に生きるこ

と人格的応答関係に生きることを問題にしていた」「神とのまた隣り

人との真実な応答は人が神または隣り人との交わり4 4 4

に生かされまた生

きること」(傍点著書)であるから「神に対する応答関係を破った人間は

もはや本当には生きていない」のである(32)だがパウロはこの思考をさ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 47: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  301

らに一歩進めて神との人格的応答関係を破ることは神の代わりに死を志4 4 4 4 4 4 4 4 4

向して自ら死を選びとる行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にほかならないことを指摘するここですで

にわれわれはピスティスの問題領域に入り込んでいる(創 27「命の息」

[1 コリ 1545]がすでに神の贈与である点に注目)このことはまたパ

ウロの思想における罪の根本性格をピスティスの関係への不信実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

としてと

らえるべきことを暗示するさらにトーラーあるいは戒めと罪との関係

(513―14)および「トーラーの行いによってはだれ一人神の前で義と

されない」(320)理由についてもピスティスに基づく考察が必要にな

ることを暗示するだがこうした問題に進む前にわれわれは 12 節にお

ける ἐϕrsquo の用法と意味を文法的に確認しておかねばならない

 今日の多くの研究者は ἐϕrsquo を理由を表わす接続語 διότι あるいは ἐπὶ

τούτωι ὅτι と同等と見て「~ので」「~だから」「~のゆえに」という

意味にとる傾向にあるそのさい2 コリント書 5 章 4 節フィリピ書 3

章 12 節4 章 10 節に出てくる同じ表現がその傍証として用いられるし

かしこの解釈は一般に考えられているほど堅固なものではないJ

Aフィッツマイヤーは古代のギリシア語文献に ἐϕrsquo を διότι の意味

で用いた確実な用例がほとんど見当たらないことを Thesaurus Linguae

Graecae に収録されたギリシア語文献に当たって確認しこの成句はむし

ろ結果を表わす用法であって「その結果そのためそれで」(with the

result that so that)という意味にとるべきことを指摘した(33)フィッツ

マイヤーの研究の重要性は彼自身の提案―ほとんど支持されていない

―よりもむしろこれを「~ので」の意味にとる支配的な解釈が決して

確実ではない点を明らかにした点にある

 パウロによる他の 3 つの用例―2 コリント 5 章 4 節フィリピ 3 章 12

節4 章 10 節―自体そのことを示している2 コリント 5 章 4 節を新

共同訳は「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが

それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません死ぬはずのも

のが命に飲み込まれてしまうために天から与えられる住みかを上に着た

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 48: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

302  人文自然研究 第 5 号

いからです」(καὶ γὰρ οἱ ὄντες ἐν τ σκήνει στενάζομεν βαρούμενοι ἐϕrsquo

οὐ θέλομεν ἐκδύσασθαι ἀλλrsquo ἐπενδύσασθαι ἵνα καταποθ τὸ θνητὸν

ὑπὸ τς ζως)と訳している(ἐϕrsquo を理由の意味にとる点は口語訳青

野訳田川訳も同じ)しかしこの訳によると「脱ぎ捨てたいのではなく

上に着たい」という理由で現に「重荷を負ってうめいている」という奇妙

なことになるστενάζομεν βαρούμενοι は現在の事実を単純に言い表わす

だけであり「重荷を負ってうめくことに忍耐強く耐えている」というよ

うなことを言ってるわけではない(ここにはロマ 822―23 のような「産

みの苦しみ」の考えは見られない)むしろこの文は ἐϕrsquo を成句ではな

く関係詞節を導く用法と見て次のように単純に訳せば論理的に筋の通っ

たものになる―「確かにこの幕屋の中にいるわたしたちは重荷を負っ

てうめいていますがそのことのゆえに4 4 4 4 4 4 4 4

〔それを〕脱ぎ捨てたいと願って

はおらずむしろ死ぬべきものが命にのまれてしまうために上に着るこ

とを〔願っているのです〕」フィリピ 3 章 12 節については次の NIV の訳

が参考になる(KJV 等も同様)―ldquoNot that I have already obtained

all this or have already been made perfect but I press on to take hold of

that for which Christ Jesus took hold of merdquo(Οὐχ ὅτι ἤδη ἔλαβον ἢ ἤδη

τετελείωμαι διώκω δὲ εἰ καὶ καταλάβω ἐϕrsquo καὶ κατελήμϕθην ὑπὸ Χρι-

στο rsquoΙησο)この訳は ἐϕrsquo を τοτο ἐϕrsquo の省略形ととっているこ

れを参考に原文の後半部分を直訳調で訳すと「そのためにわたしがキリ

ストイエスによって捕えられたところのものをわたしもあるいは捕え

ることができるかと追い求めているのです」となるこの ἐπί(+与

格)はガラテヤ 5 章 13 節「自由のために」(ἐπrsquo ἐλευθερίαι)と同じ目的や

目標を示す用法であり知恵 2 章 24 節とローマ 5 章 12 節の問題の語句も

これと同じと考えられる(日本語の訳語としては「~のために」「~を目

指して」「~を求めて」等が考えられる)最後にフィリピ 4 章 10 節の用

例についても問題の ἐϕrsquo を「~ので」の意味にとるよりもたとえば

次のように解する方が自然である―「さてあなたがたがわたしへの

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 49: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  303

心遣いをついにまた花咲かせてくれたことをわたしは主にあって大いに

喜びましたわたしのことを実際あなたがたは考えていたのですが機会

がなかったです」(rsquoΕχάρην δὲ ἐν κυρίωι μεγάλως ὅτι ἤδη ποτὲ ἀνεθάλετε

τὸ ὑπὲρ ἐμο ϕρονεν ἐϕrsquo καὶ ἐϕρονετε ἠκαιρεσθε δέ)これと同様の

ἐπί の用法はヨハネ福音書 12 章 16 節と使徒言行録 5 章 35 節にも見いだ

される

 このようにἐϕrsquo は「~ので」を意味する成句であるという先入見を

捨てて読めばより自然で論理的な解釈が可能になるローマ 5 章 12 節

に話を戻すとフィッツマイヤーは 12 節の ἐϕrsquo の古代から現代に至る

さまざまな解釈を列挙しこれを関係詞節とみる見方を一通り吟味否定

したうえでギリシア語の用例を分析し先に紹介した結論を得た従って

この結論は「これが成句であるすればどういう意味か」という問いに答え

たものにすぎないἐϕrsquo 以下を関係詞節ととる解釈の中には関係代名

詞 の先行語を直前の θάνατος と見てこの ἐπί を「死を目指して」(in

Richtung auf)という意味に解する Eシュタウファーの解釈も含まれる

のだが(34)フィッツマイヤーはこれを「こじつけ」(farfetched)の一言

で切り捨てている確かに「人間が一人残らず罪を犯すことによって陥っ

た死」(der Tod dem sie Mann fuumlr Mann durch ihr Suumlndigen verfielen)

というシュタウファーのパラフレーズには無理があるとしても「死を目

指して罪を犯した」という命題がパウロの思想の中でどういう意味をもち

得るか「ソロモンの知恵」との関連でより真剣に考察すべきであった

 フィッツマイヤーの説自体はほとんど追随者を見出していないものの

Rジュウェット(35)はフィッツマイヤーの研究の意義を認めて問題の

ἐϕrsquo を「世において」という意味にとることを提案するジュウェット

によれば「世において」は人間が罪を犯してきた領域を指しており「す

べての人が罪を犯した」は罪が世界中に広がった責任が人間にあることを

暗示するしかしこの読み方では関係代名詞 がかなり前に位置する

κόσμον を受けることになりたとえその概念が πάντας ἀνθρώπους に引

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 50: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

304  人文自然研究 第 5 号

き継がれているとしてもかなり不自然と言わざるを得ないそのうえ

「世」は確かに次の 13 節でも言及されるがそれに続く部分でこの概念は

何の役割も果たしていないまた8 章 3 節でパウロは「神が御自身の子

を遣わした」(ὁ θεὸς τὸν ἑαυτο υἱὸν πέμψας)ことを指摘するがここ

に「世」という語は含まれず(新共同訳は不正確)議論の焦点も世では

なく「肉」に合わされている結局「ソロモンの知恵」2 章 23―24 節お

よび創世記 3 章との関連を考慮して「死を目指してすべての人が罪を犯

したのです」と訳せばパウロがこの箇所で「信」の関係を問題にしよう

としたことが明らかになるのである

註(1)太田修司『パウロを読み直す』キリスト教図書出版社2007 年(以下

太田①論文番号を添えて① 2 のように表記する)ldquoAbsolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paulrdquo AJBI Vol 23(1997)(以下太田②)

(2)ロマンヤコブソンの社会的コミュニケーションモデルを信の関係に応用して考察を進める周知のようにヤコブソンは言語的コミュニケーションに発信者受信者メッセージコンテクストコード接触の 6 つの要因が関与していることを明らかにしたこの仕組みは次の図によって表わされるRヤコブソン『一般言語学』(田村すゞ子他訳みすず書房1973 年)183―221 頁

コンテクスト―関説的(指示的)機能メッセージ―詩的機能

発信者 心情的機能 ― 受信者 動能的機能接触―交話的機能

コード―メタ言語的機能

   接触が担う交話的機能は「伝達を開始したり延長したり打ち切ったりあるいはまた回路が働いているかどうかを確認したりするのに主として役立つ」と説明されている(191 頁)「信」との関連で言えばたとえ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 51: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  305

ば預言者サムエルが「サムエルよサムエルよ」(サム上 34)という主の呼びかけに「しもべは聞きますお話しください」(310)と答えたとき彼は主との言葉の交信に入ったこれを直ちに「信」の関係と同一視することはできないが接触に始まる言葉の交信がなければ「信」もあり得ないことは明らかである

(3)ジャックデリダはマルセルモースの『贈与論』を批判して「贈与の真理」は lt 忘却の構造 gt であり「贈与はそれがあるところのものとして現われるや否やもはやそれがあるところのものではない」と述べているまた「贈与はhelliphellip掟(ノモス)に違背するどころかしばしば掟をつくる」とも述べている(高橋充昭訳『他者の言語』[法政大学出版局1989 年]83107 頁)パウロ的ピスティスにとっての最大の問題はこの点と関係すると言ってよいピスティスにおける贈与がモースの言う意味での「交換」を真に乗り越えられるか否かは(さらに正義の可能性は)結局ピスティスとノモス(法トーラー)の関係をどう捉えピスティスのうちにノモスをどう位置づけるかにかかっているこの困難な問題を迂回して神の義の贈与は「無償」であるというパウロの教えをいくら繰り返しても大した成果は望めないだろう

(4)社会学的信頼論における「信頼」と「安心」の区別については山岸俊男『信頼の構造』(東京大学出版会1998 年)を参照

(5)英語の ldquoeconomyrdquo は神学用語としては ldquodispensationrdquo(OED の定義では ldquoa method or system of the divine government suited to the needs of a particular nation or period of timerdquo)の同義語として用いられ通常「摂理」や「経綸」と訳されるしかしこの用語は家の管理(家政)を意味するギリシア語の οἰκονομία に由来しその管理には金銭や物質の(家の内外での)交換分配贈与消費およびそれらに関わる人間関係全般の管理が含まれるので「摂理」や「経綸」という訳語では抽象的すぎるように思われるパウロ的ピスティスは「家」つまり信仰共同体の中での物質の適切な使用を重視している(ロマ 1413―23 等)この事実はひどく軽視されているが彼の思想を理解するうえできわめて重要である

(6)これらと関連してパウロの πίστις の用法においてその前に定冠詞があるか否か定冠詞の有無がどういう意味をもつかという点が問題になるこの点については「論考(2)」でまとめて考察することにしたい

(7)「キリストのピスティス」の解釈をめぐる最近の傾向としてより広い関

306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

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306  人文自然研究 第 5 号

連を視野に入れた研究が増えている点を指摘しておきたいたとえばBenjamin Schliesser Abrahamrsquos Faith in Romans 4 Paulrsquos Concept of Faith in Light of the History of Reception of Genesis 15 6 (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Karl F Ulrichs Christusglaube Studien zum Syn-tagma πίστις Χριστο und zum paulinischen Verstaumlndnis von Glaube und Rechtfertigung (Tuumlbingen Mohr Siebeck 2007) Desta Heliso Pistis and the Righteous One A Study of Romans 1 17 against the Background of Scripture and Second Temple Jewish Literature (Tuumlbingen Mohr Sie-beck 2007)など最近の議論と関連文献についてはMichael F Bird and Preston M Sprinkle ed The Faith of Jesus Christ Exegetical Bibli-cal and Theological Studies (Carlisle Paternoster 2009 Peabody Hen-drickson 2009) を参照1980 年代以前の研究動向については太田① 3 も参照

(8)Richard B Hays The Faith of Jesus Christ An Investigation of the Nar-rative Substructure of Galatians 3 1ndash4 11 (Chico Scholars Press 1983 2nd ed Grand Rapids Eerdmans 2002)

(9)Hans D Betz Galatians Hermeneia (Philadelphia Fortress 1979) 175f(10)Douglas A Campbell ldquoRomans 1 17―A Crux Interpretum for the

ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ Debaterdquo JBL 113 2 (1994) 265-285(11)Choi Hung-Sik ldquoΠΙΣΤΙΣ in Galatians 5 5ndash6 Neglected Evidence for the

Faithfulness of Christrdquo JBL 124 3 (2005) 467-490(12)Hays The Faith of Jesus Christ 2nd ed 203f(13)Richard Longenecker Galatians WBC 41 (Dallas Word 1990) 145 149(14)Ibid 42 (15)この箇所の ἀκοή を「告知」や「使信」の意味にとる解釈を批判する S

Kウイリアムズ(ベッツとヘイズを主な標的としている)はこの重要な点を見逃している(Sam K Williams ldquoThe Hearing of Faith ΑΚΟΗ

ΠΙΣΤΕΩΣ in Galatians 3rdquo [NTS 35 1 (1989) 82-93])それは彼が(彼だけに限らないが)言葉の担う贈与の機能を理解できず言葉を単なる伝達の道具として捉えるからである

(16)田川建三訳著『新約聖書 訳と注 3 パウロ書簡その一』(作品社2007 年)172 頁等これはパウロのトーラー批判に対するプロテスタントの伝統的理解を無批判に踏襲した訳語に見えるそうした理解を保持したまま「キ

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 53: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  307

リストの信」を強調するならパウロを「無律法主義」に近づけるだけであろうなおἔργα νόμου(「ノモスの行い」)という表現はクムラン文

書の 4QMMT に出てくる התורה と関連がある(トーラーの行い)מעשיと考えられているこの点については「論考(2)」で考察することにしたい「4QMMT と『トーラーの行い』 ― NTライトのローマ書注解から」(『福音と世界』2009 年 7 月号)も参照

(17)EPサンダース(土岐健治太田修司訳)『パウロ』(教文館2002 年新装版)の巻末拙論「サンダースのパウロ解釈」を参照

(18)Rジュウェットはローマ 3 章 22 節の πίστεως rsquoΙησο Χριστο について「最初期のキリスト教の用語法」において πίστιςπιστεύειν は「回心者たちの共同体に加わることを言い表わす広く規定された専門用語として機能した」と指摘しπίστις Χριστο の主語的解釈はこの用語法の「社会的次元を見失わせる結果につながる」という理由から「イエスキリストの信仰」という主語的解釈を退けているジュウェットの結論は最初から決まっており釈義の名に値するものではないわれわれの考える「信」はジュウェットの指摘する意味を最初から折り込んだうえでさらに彼を含む伝統的な目的語的解釈が見逃してきた属格による「信」の差異化を本質的と見なすのであるRobert Jewett Romans Hermeneia (Minneapo-lis Fortress 2007) 277

(19)筆者はローマ 16 章が 25-27 節も含め最初からローマ書の他の部分と一体のものとして書かれたという立場をとるこの見方についてはN T Wright ldquoThe Letter to the Romans Introduction Commentary and Reflectionsrdquo in The New Interpreterrsquos Bible Vol 10 (Nashville Abing-don 2002)の関連箇所を参照

(20)太田① 9 の注 1 を参照5 章を 1-4 章の論述の締めくくりと見なす解釈については特にヴィルケンスとダンの注解書を参照Uヴィルケンス

(岩本修一訳)『ローマ人への手紙(1-5 章)』(教文館1984 年)James D G Dunn Romans 1-8 WBC 38A (Dallas Word 1988)

(21)N T Wright ldquoThe Letter to the Romansrdquo 397(22)パウロの手紙における διὰ τοτο の他の用例(ロマ 126416136

1591 コ リ 4171110302 コ リ 4171313101 テ サ 213357)の中に単なる移行句として用いられたものは 1 つもない

(23)C E B Cranfield A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 54: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

308  人文自然研究 第 5 号

the Romans ICC 2 vols (Edinburgh T amp T Clark 1975) 272 n 5 を参照

(24)これを現在の恵みの事実(義認)への言及として理解するなら続く 17節(冒頭の γὰρ「というのは」に注目)で過去の事実と未来の希望が対比される理由がうまく説明できないつじつま合わせのため 17 節のβασιλεύσουσιν を論理的未来としてとることは全く無理でありこの

「(王的)支配」の未来性を「義認にあることとして先取りされる」などと現在の意義に翻案して説明するのも体のよい読込みでしかないケーゼマンの解釈(岩本修一訳『ローマ人への手紙』[日本基督教団出版局1980年]298 頁)に反対

(25)ジュウェットはこの δικαίωμα に対する従来の解釈を退けて「正しい判決」という意味にとる(Romans 382)しかしこの重要な事実を見逃していることに変わりはない

(26)「モーセの黙示録」のギリシア語本文として Constantin von Tischendorf Apocalypses Apocryphae(Leipzig Mendelssohn 1866 1-23)を用いた日本語訳には日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 別巻補遺Ⅰ』(教文館1989 年)所収の土岐健治訳がある

(27)たとえばW Sanday and A C Headlam A Critical and Exegetical Com-mentary on the Epistle to the Romans ICC (Edinburgh T amp T Clark 5th ed 1902) 51-52 の一覧表を参照J D G Dunn Romans 1-8 57ff 82f と idem The Theology of Paul the Apostle (Grand Rapids Eerd-mans 1998) 84ff も参照

(28)Sanday and Headlam the Epistle to the Romans 267-269 の一覧表を参照ローマ書における「ソロモンの知恵」へのアリュージョンはこのほか 8 章や 11 章にも見いだされる

(29)Dunn Romans 1-8 272 Jewett Romans 376(30)Rブルトマン(青野太潮訳)「ローマ人への手紙 5 章によるアダムとキ

リスト」(ブルトマン著作集 9『聖書学論文集Ⅲ』新教1994 年)104 頁(31)Cranfield Romans Vol 1 274 Jewett Romans 373f(32)並木浩一「旧約聖書の死生観」(村上伸編『死と生を考える』ヨルダン社

1988 年)123 頁ただし旧約学における創世記 3 章の解釈としてこれが適切か否かは筆者の問うところではない並木の解釈に対する批判が旧約学者の間にあることを指摘しておくに留める関根清三『旧約における超越

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである

Page 55: ローマ書におけるピスティスとノモス(1) URL Right …...ローマ書におけるピスティスとノモス(1) 257行いによるのではなく,ピスティスによる」(ロマ3:28)とパウロが説

ローマ書におけるピスティスとノモス(1)  309

と象徴』(東京大学出版会1994 年)314362-63 頁等(33)Joseph A Fitzmyer To Advance the Gospel (Grand Rapids Eerdmans

2nd ed 1998) 349-368(初出は 1993 年)(34)Ethelbert Stauffer Die Theologie des Neuen Testaments (Stuttgart W

Kohlhammer 4 verb Aufl 1948) 53 248f(村上伸訳『新約聖書神学』日本基督教団出版部1964 年)シュタウファーはこの ἐπί が「ソロモンの知恵」2 章 23 節と同じ意味であることを正しく指摘している

(35)ジュウェットはフィッツマイヤー説に対する反証としてディオゲネスラエルティオス『哲学者列伝』「クレアンテス」71694-6 とプルータルコス「アラトス」4441 の 2 例を挙げているが彼の意図は ἐϕrsquo の伝統的な解釈(「~ので」)を擁護することにはないJewett Romans 375f フィッツマイヤーの研究から伝統的な解釈について「これはギリシャ語の初歩」(田川建三『新約聖書 訳と注 4』[作品社2009 年]181 頁)などと言えなくなったことは確かである