雲南における中国内地会の伝道 1900-1952...雲南における中国内地会の伝道...

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Meiji University Title � 1900�1952 Author(s) �,Citation �, 529: 101-144 URL http://hdl.handle.net/10291/19152 Rights Issue Date 2017-09-30 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Title 雲南における中国内地会の伝道 1900―1952

Author(s) 福本,勝清

Citation 明治大学教養論集, 529: 101-144

URL http://hdl.handle.net/10291/19152

Rights

Issue Date 2017-09-30

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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明治大学教養論集通巻529号

(2017• 9) pp. 101-144

雲南における中国内地会の伝道 1900-1952

福本勝清

I) 20世紀初頭の内地会

20世紀の中国キリスト教伝道の歴史は,義和団が引き起こした大きな混

乱によって幕が開けられたといってよい。クリスチャンにとって,義和団の

乱は悪夢でしかなかったであろう。義和団によって, 2万数千人以上の中国

人クリスチャンが殺され, 241名の外国人が殺害されている。外国人犠牲者

の内訳は,カトリック宣教師(修道女を含む)が 53人,プロテスタント宣

教師及びその家族が 188人であり,そのうち子供が 53人であった。なかで

も,プロテスタント最大の伝道団体であった中国内地会は,宣教師 58人,

子供 21人が殺害されている。

義和団事変でもっとも多くの犠牲者をだしたのは山西省であった。清廷の

宣戦布告以後,山西巡撫鮪賢の教唆のもと,義和団のキリスト教攻撃は苛烈

をきわめ, 1万人以上のクリスチャンが殺害された。宣教師も例外ではなく,

191人が殺害されている。華北においては山西省を拠点としていた内地会の

ダメージは大きく,傘下の中国人クリスチャンからも,宣教師からも多くの

犠牲者を出している。

宣教師は帝国主義の先兵であり,中国人のキリスト教徒はその走狗である

とする従来の考え方からすると,反帝国主義運動である義和団の乱によって,

宣教師や中国人クリスチャンの多くが殺害されたのは自業自得ということに

なろう。だが,プロテスタント各伝道団(中国内地会を含めて)は,あくま

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で民間団体であり,帝国主義列強に唆されて伝道を始めたわけでもなく,ま

たその意図に沿って伝道を行っていたわけでもない。

むしろ,各教派の華北伝道が, 1870年代中葉以降の華北大飢饉救済活動

を画期として活発化したように,大飢饉の勃発に打つ手がなく,官術でさえ

手をこまねいていたおり,宣教師たちが命がけで飢民救済にあたったことを

評価すべきであろう。飢えが広がり,多くの人々が次々に飢え死にしていく

なかを,資金や救援物資を携帯して,見知らぬ土地を奥深く入り込んで行く

ことは,危険というしかない行為であった。また,救済事業が長引けば,被

災地における疫病の広がりと,宣教師たちの健康状態の悪化から,彼等自身

が疫病に侵される危険性が極めて高かった。実際に,内地会のショフィール

ドHaroldSchofield (1851-83)のように医療伝道において疫病に罹り,犠

牲となった宣教師も少なくなかったのである。家族および国家以外の救済装

置のない社会において,伝道団が行う自発的な社会活動が如何に重要であっ

たかを知れば,その意義は大きいと考えるべきである。

たしかに,これら伝道団体は難民や飢民,病人,孤児, 自然災害などの被

災者の救済そのものを目的とした組織ではない。あくまでキリスト教宣教組

織であった。また,欧米の伝道団体がアジア各国においてどの程度活動しう

るかは,列強の軍事力行使を含めた上での外交交渉に負っていたことも事実

である。中国や日本のように長く海禁政策あるいは禁教政策が取られていた

国においては,開国させ,伝道が可能になるかどうかは,欧米列強の外交的

圧力(砲艦外交)にかかっていたといっても過言ではなかった。さらに,開

国後アジア各地において伝道に従事する宣教師の身の安全もまた,主要に

は,列強の外交力の駆使に委ねられていた。もし,不幸にして宣教師が殺害

されたならば,その国の政権担当者は,宣教師の母国に対し賠償金を支払わ

なければならなかった。

ただ,それらのことをもって宣教師イコール帝国主義の手先とはならない

であろう。たとえば,プロテスタント伝道団体は,列強の砲艦外交の結果を

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受けて,それぞれ開国した諸国において伝道に従事したのであって,彼らが

砲艦外交を主導していたわけではない。また,殺害された者が宣教師ではな

く,社会主義者であっても,列強各国の市民であるならば,列強は同じよう

な要求を,当該諸国に対して行ったであろう。それぞれの国家は外国におけ

る自国市民の通商の自由を求め,さらに,それに伴う自由な通行や居住を求

める。結局,宣教師の伝道も社会主義者の活動も,基本的には,その範囲内

の行動に数えられる。

もちろん,開国を強制され宣教された側にすれば,宣教師をも帝国主義列

強の一翼とみなすのは当然である。だが,前稿「ゾミア」に関する議論(福

本 2017) を援用するならば,低地国家の主要民族である彼ら漢民族にして

も,周辺諸民族に対し,歴代王朝の庇護のもと,あるいはパックス・シニカ

のもと,仏教なり儒教・道教の伝道を行っており,そのことをもって自ら,

進んだ文明を周辺の遅れた無知蒙昧な部族の民にもたらしている,野蛮人に

恩恵を施していると考えていたことは,列強各国の多くの宣教師たちと同様

であったと言わなければならない。

義和団事変の事後処理をおこなった北京議定書(辛丑条約)において,被

害を受けた関係諸国に 4億 5千万両の賠償金を支払うことが決められた。賠

償金 4億 5千万両は,利払いを含めると 8億 5千万両に上った。清朝の年間

予算が 1億両たらずであったので,賠償額はまさに法外なものであった。清

朝は,その賠償金の支払いのために外国による財政支配を受容せざるを得な

くなる。海関税•常関税•塩税が義和団賠償金の担保としてさし押さえられ,

それを制度化するために,海関の総責任者に外国人が任命され,海関を統制

した。さらに,外国軍の駐兵権をも認めざるをえなくなる。中国は「半植民

地」ともいえる状態に陥った。

義和団の迷信と野蛮な行為は,クリスチャンのみならず非キリスト教徒で

ある中国人をも傷つけるものであった。義和団民衆は, 自らの生活の惨めさ

を西洋のせいにし,西洋的なものすぺてに対し敵意を示し,野蛮な攻撃を繰

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り返した。一方,西欧列強に押されっ放しの政権を担う朝廷や官僚は,気位

のみ高く,西洋人および西洋文明を嫌悪し,民衆に対しては権威・権力を振

り回すばかりであった。彼等は,腐敗した「天上帝国」を近代化するだけの

力も覇気も持ち合わせていなかった。

辛丑条約以降危機感を持った清廷は,おそまきながら改革,近代化に乗

り出す。新軍の創設,商業の奨励のほか,科挙は廃止され,教育改革への取

り組みが始まった(光緒新政)。しかしながら,結果からいえば,すべては

あまりにも遅すぎたといえる。

ニ0世紀初頭,義和団事変という悲惨な幕開けに遭遇した中国のクリスチャ

ンであったが,意外にも 1901年から世界大戦までの時期は,中国の伝道団

体にとって,もっとも良い条件のもとで,宣教を行うことができた時期であっ

たといえよう (Latourette,p. 535)。義和団事変以降,中国の伝統的な士大

夫層は自信を失い,知識人たちは,ようやく西洋の知識や思想を受け入れる

以外に,中国の自立富強を実現する道がないことに気づき始めた。科挙が廃

止され,学堂が作られ,少しずつであるが,新しい教育が行われるようになっ

た。だが,その内容や方法は,確固としたものがあるわけではなかった。新

しい教育を施せる教育者自体が圧倒的に不足していた。それに対し,宣教師

たちの大多数は,すでにそれぞれの母国において高等教育を受けたものたち

であった。その点において,教会は,西洋文明を取り入れる,その入り口と

もなりえたのである。

このような中国社会の趨勢にあわせるかのように,各ミッションは学校建

設に力を入れるようになる。 1900年以前にも,各ミッションは牧師や伝道

師を養成するために神学校を有していた。だが, 20世紀に入り,顕著となっ

たのは,非教徒も学べる高等教育機関の設立であった。たとえば, 1879年,ヨハネ

聖公会によって上海に建てられた聖約翰書院は, 1892年に大学課程を置き,

さらに 1905年,米国の大学制度に則り,神学部のほかに文学部などを併設ヨハネ

し聖約翰大学となる。また,南京では, 1910年に幾つかのミッションスクー

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ルを統合して金陵大学 (Universityof Nanking)が設立されている。

このような全体の動向のなか,中国内地会もまた,新しい指導体制を模索

していた。前述したように,プロテスタント最大の伝道団体として,義和団

事変において,最大の犠牲を出した内地会であったが,その指導者,ハドソ

ン・テーラーは,内地会犠牲者への賠償金を求めなかった。義和団事変にお

いてだけではなく,他の事件においても,内地会は犠牲に対し賠償金を求め

なかった。中国の民衆に神の寛大さを示すためだといわれている。

義和団事変当時,ハドソン・テーラー (1832-1905)は68歳であり,次第

に激務をこなすことが難しくなっていた。バイス・ディレクターであった J・

W ・スティーブンソン (1844-1918) もすでに年配であり,若い世代へのバ

トンタッチをはかる必要があった。そのため,ウィリアム・クーパー (1858-

1900)を二人目のバイス・ディレクターに任命し,継承に備えていた。だが,

次期ゼネラル・ディレクターと目されていたウィリアム・クーパーは,義和

団事変の際,危険を顧みず北上し,義和団に捕らわれ殺害されてしまう。彼

は,山西に赴き,さらに保定に向かったが,保定で義和団の攻撃を受け,清

軍に保護を求めたところ,義和団に引き渡され殺害されたのだった。クーパー

の殉教は内地会にとって,さらなる打撃であった。テーラーの年齢を考えれ

ば,猶予はできなかった。結局,白羽の矢が立てられたのは,ケンブリッジ・

セプンの一人で,テーラーの姪 GertrudeBroomhallの婿でもあったディ

クソン・ホスト (DixonE. Hoste 1861-1946)であった。

ホストは,英国王立陸軍士官学校の出身であり工兵隊を率いる将校として

訓練を受けていた。それが,内地会指導者として頭角を現すのに役に立った

のかもしれない。 1901年,ホストはゼネラル・ディレクター代行となり,

その翌年,テーラーに代わり,ゼネラル・ディレクターとなった。 1905年,

テーラーは,長く外国人宣教師の居住を拒んでいた湖南省の省都長沙に移り,

そこで生涯を終える。内地会もまた,ホストの指導のもとに新しい時代を迎

えることになる。

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2) 中国西南における内地会 1900-1915

中国内地会によって 1870年代末に始まった西南伝道が,なかなか進展し

なかったこと,さらに,雲貴高原に住むヒルトライブに対する宣教は, 1890

年代後半にようやく着手されたことについては,すでに前稿(福本 2017)

で述べた。この黒苗伝道においては,地方漢族支配層による,宣教師とヒル

トライプが結びつくことに対する執拗な妨害が行われた。そこには,漢族の

統治に反抗し続けた苗族が,キリスト教に帰依することによって,再び漢族

統治への反抗を企てるのではないか,といった貴州東部,労海地方漢族支配

層の恐怖が存在していた。彼らは 1898年,人を唆して,労海伝道から貴陽

へ帰る途中のオーストラリア人宣教師フレミングおよび伝道師播秀山を襲わ

せ両者を殺害した。そればかりでなく, 1900年義和団事変の煽りで,騒然

とした雰囲気のなか,凱里が土匪に襲われ,街が略奪されたことを口実に,

苗民多数を捕らえ拷問を加え, うち 32名を「キリスト教徒」として処刑し

た。それら「キリスト教徒」のなかには,キリスト教と無関係な者もいたの

である。苗民がキリスト教に近づくとどうなるかを示す見せしめであった。

だが貴州内地会はヒルトライプに対する伝道を諦めなかった。苗族への伝

道は安順の R・アダム(党居仁)に引き継がれる。アダムは, 1890年代中

葉以降,安順地区に住む花苗の言語を学び,苗族伝道を開始していた。 1903

年,アダムは苗族の一支,大花苗と接触し,彼らの支持を得る。花苗は苗族

のなかでも貧しい一支であり,なかでも責州西北に住む花苗は大花苗と呼ば

れたが,狩猟を営み,葬族支配層に従属するなど, もっとも貧しく,虐げら

れていた人々であった。花苗たちは,次々に安順を訪れ,アダムに教えを請

うた。当時,威寧県に属していた葛布(現在は赫章県)からもたくさんの花

苗がやってくるようになり,花苗の安順もうでは, 日に百人を越えるほどに

なっていた。 20世紀に何度も繰り返される,中国西南のヒルトライプによ

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るキリスト教信仰の,最初のマスムーブメント massmovementであった。

このマスムーブメントは,新たな展開を生む。貴州西北の威寧県の,さら

にその奥地(雲南省境)からも花苗たちが何日もかけ,野宿をしながら安順

にやってくるようになる。 1904年夏,あまりにも遠くから花苗たちがやっ

てくることを心配したアダムは,威寧奥地からは安順より雲南省昭通のほう

がはるかに近いことを考え,威寧奥地の花苗たちに昭通駐在のメソディスト

宣教師サミュエル・ポラード(柏格理)を訪ねるよう話し,紹介状を書いた。

同年 7月,四人の花苗が昭通のポラードのもとを訪れる。ポラードらの歓

迎を受けた花苗たちは,伝道ステーションに一週間ほど滞在し,ポラードら

の教えを受け,貴州側に戻っていった。ポラードは,当時,苗語は未習得で

あった。すでに苗語を話していたアダムとはその点において異なっていた。

昭通に最初にやってきた花苗たちは,少なくとも漢語を話すことができるも

のたちだったであろう。そのような彼らの間で,どの程度まで深く話せたの

かはわからないが,花苗はポラードたちのもてなしに満足して帰っていった。

その後,ポラードたちの伝道ステーションに,次々にと花苗たちがやってく

るようになる。その数は急速に増加し,ついには日に六~七百人もの人々が

昭通の伝道ステーションを訪れ,泊まり込むという事態になった。

花苗が足しげく昭通の宣教師のもとを訪れる事態は漢族のみならず苗族を

支配する黒葬もまた不安を感じ,苗族の昭通もうでを妨害し始めた。宣教師

たちにとっても,数百人もの多数が伝道ステーションに泊まり込むことは防

災の面から問題があり,火事や疫病の発生を考慮せずにはいられなかった。

1905年,ポラードは昭通から 30kmの,貴州側に入った石門吹に土地を求

め教会を建て, 自らその地に住み,さらに予想される婦依者の到来に備えた。

サム・ポラードは,内地会の協力団体,聖書キリスト教会(メソディスト

系)から,僚友 Dymond(台闘慕廉)らとともに中国に派遣され, まず,内

地会の語学学校(安慶)で中国語の基礎を学んだあと, 1888年,昭通にお

いて伝道を開始する。 1891年,昆明において,内地会のメンバーであった

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Emma Haingeと結婚している。ポラード等メソディストたちの昭通での

布教活動も,昆明その他におけるそれと同じく,まったく振るわなかった。

信者はほとんど獲得できず,彼らの苦難の伝道活動も,住民からは,単なる

医療活動としてしか受け入れられなかったようである。

ポラードは,苗族と接触する前に,すでに少数民族に関心をもっており,

1903年にはノスの住む四川大涼山地区を旅行している。独立ロロとして知

られた瓢悼な部族ノス(涼山葬族)への伝道可能性を探るためであった。そ

れゆえ,初めて昭通の伝道拠点に苗族を迎えた頃のポラードたちには,すで

にそれなり覚悟や心構えがあったと思われる。

花苗は湖南西部から貴州東部を経て,あるいは四川南部を経て貴州西北部

に移住してきたといわれる。当時,貴州西北や雲南東北の苗族は,葬族の土

目によって支配されており,花苗も,白葬や紅葬など種々の葬族とともに土

目の支配に喘いでいた1)0

ポラードは,花苗が住んでいる貴州西北に入り,葬族土目の暴力的な支配

のもと貧困に苦しむ花苗を主な対象に,当地における布教を開始する。確か

に,貴州の山奥に拠点を移すことに危険はあったであろう。ただ,天津条約

(1858年),芝衆条約 (1876年)により,キリスト教布教の自由が認められ,

宣教師の保護が義務づけられており,地方官術は彼らを守らなければならな

かった。すなわち,ポラードたちが現地に乗り込んで布教活動した方がはる

かに,帰依した花苗たちを守りやすかったのである。

石門炊における伝道活動は,驚くほどの成功をもたらす。昭通におけるメ

ソディストたちの布教が,十数年のひたむきな努力にもかかわらず,みるペ

き成果をあげていなかったのとは対照的に,石門炊のポラードのもとには貴

州・雲南• 四川の省境地帯の苗族が大挙して訪れ,布活動教は俄に熱気を帯

びてきた。また,葬族の帰依者もそれに続いた。

ポラードは社会革命家と同じタイプの人間であり,その意味において石門

炊教会は野戦司令部でもあった。ヒルトライプに対する伝道は,大きな社会

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変容をもたらす。宣教師たちは,みな例外なく,呪術と供犠を禁止し,さら

に禁酒• 禁アヘンを励行した。当然,そのことは,伝統的祝祭にも影響を与

えることになった。酒宴が禁止されたほか,性的放縦につながりかねない夜

這いや歌垣も禁止されることになった。

いずれの教派であっても宣教師たちは, ヒルトライプが祭りの際に,男女

入り乱れて,酔い潰れ,時には何日も飲み続けることを嫌悪した。それは,

若衆宿や夜這い,歌垣など古い慣習に対する嫌悪に繋がっている。しかし,

宣教師も現地教会も,ただそれらを禁止すればよいと考えていたわけではな

い。祝祭には祝祭の意味があるからである。伝統的祝祭に費やされるエネル

ギーや,それらに伴う楽しみは,教会や学校における種々の行事,教会の聖

歌隊活動,学校の文化祭や体育祭などに置き換えられることになった。この

点において学校の果たした役割は顕著であった。ポラードなどの事績に触れ

た著書において,よく掲載されている学校の運動会の写真からはそのことが

よく見て取れる。真新しい運動着を着て,整列し,走り,ゲームをする生徒

たち,そこから宣教師や教師の,教民子弟の身体の成長や健康管理について

の強い関心が伺える。そのような関心は,教民の子弟のみならずひいては地

域の保健衛生や文化生活の変容(改善)へとつながっている鸞

ポラードたちにとって,石門炊伝道に関わる様々な出来事は,新しい出来

事の連続であり,次々と起こる新しい事態に対しては,ポラードを中心に,

昭通から彼とともに石門炊にやってきた,ポラード夫人,パーソンズ夫妻,

中国人伝道師李司提反,鍾換然など,そして石門炊でポラードの聖書翻訳に

参画した幾人かの苗族信者(張約翰,楊雅各など)が,一種の野戦司令部の

ような役割を担い,その都度,その対処をめぐって議論し,随時決定を下し,

実行に移さなければならなかった。それらの全てにポラードは関与し,決定

や実行に対し責任を負っていたのである。

それだけではない。上記のごとく,初期においては,あらゆることに彼が

関与しなければならなかった事情に加え,当初,苗族の伝道師がほとんど育っ

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ていない状況下では,彼が毎日苗族と接し,教え導いていたにもかかわらず,

彼から直接教えを請おうと,次から次へと苗族が押し寄せた。ついには夜,

寝所で休んでいても,若者たちがベッドにまで押しかけ,教えを請うたので,

睡眠時間さえ十分にとれなくなってしまったという。

このような激務にもかかわらず,ポラードの対応も迅速であった。 1904

年の時点において苗語ができず,訪ねてきた苗族には漢語で語りかけること

しかできなかった彼が,急速に苗語を習得しつつ,その翌年には石門炊に拠

点を移しその周辺一帯へと宣教地区を広げ,さらには同じ苗族が住む,雲南

の武定,禄勧一帯への伝道に出かけ,洒普山教会(後に内地会に帰属)の端

緒を開き,さらには,苗民に対する布教の便のために,苗文字 (Pollard

script)を考案した。最初の苗語の「新約聖書」は, 1919年, 日本のメソディ

スト教会の手で印刷されたといわれる。

おそらく,このような布教活動の成功が,当地の土目や地主たちを恐れさ

せたのであろう。ポラードヘの威嚇はつねに存在したが,実際に,ポラード

が襲われたのは, 1907年 4月のことである。雲南東北の永善県附近で地主

武装勢力に襲われ, リンチにあったあげ<'殺されかけている。幸いにも,

この時期, Emmaと二人の子供は,帰国しており,難に巻き込まれること

はなかった。だが,この事件は,教団本部を震撼させ,その報告と休暇のた

め,ポラードは翌年 4月,帰国している。再び,雲南(昆明)に戻って来た

のは, 1910年 1月である。

1915年,石門炊小学校の子供たちが次々に傷風(おそらくチフスであろ

う)に感染し,ついにはポラード自身も病に倒れる (1915年 9月 15日,死

去)。医療伝道者についてまわる悲劇であったといえよう。

一方,安順を中心とするアダムたち内地会の伝道も,依然として活発に行

われていた (Clarke1918)。1902年,安順近郊において, 20人の花苗に洗

礼を施した後受洗者は増加し, 1906年には, 1,479人に達する。特に,注

目すべきは, 1903年以降,威寧県葛布(現在は赫章県)の苗族に教えが広

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 111

まったことであり,葛布教会は,その後,貴州内地会の重要な拠点となる。

1904年末,アダムは葛布を訪れ,葛布教会の礎を築く。葛布教会は,その

後も発展を続け,幾度かの浮沈を経験しながらも,貴州内地会の拠点として

人民共和国期まで教勢を維持し続けた。また,民国期における内地会のヒル

トライブ伝道の成功例として,洒普山教会や怒江流域のリス族教会とともに,

よく例に挙げられる存在でもある。ちなみに 1920年頃,葛布教会の傘下に,

苗族,葬族合わせて 5,600人以上の信者がいたとされる。ポラードの事績と

同様に,アダムの伝道も大きな成功であったように思う。

もし,アダムの継続的な苗族伝道がなければ,ポラードの成功もなかった

であろう。彼等が撒いた種は,豊かな収穫をあげていく。福音は宣教師がま

だ足を踏み入れたことのない地域を,苗族や葬族の手で,野火のように広が

りつつあった。それは,アダムやポラードすら,予想もしなかったほどであ

り,まさに星火燎原の勢いであった。その結果,安順から北上する内地会の

布教と,昭通から東に向かい貴州内に流れ込む昭通・石門炊教会の布教が,

威寧一帯で互いに入り組む事態となった。

昭通・石門炊教会は,ポラード等メソディスト派の宣教師が築いた教会で

あったが,前述のごとくポラード等の母教会は小さなメソディスト系教派で

ある聖書キリスト教会であった。小さな教派が極東に宣教師を派遣するとい

うのは難しかった。ポラードらの派遣は, 1880年代,ハドソン・テーラー

がイギリス滞在のおり,聖書キリスト教会に内地会の協力団体となり,その

一翼として中国に宣教師を派遣することを勧めたのがきっかけであった。内

地会は,彼等を雲南に派遣したが,当時,内地会は雲南には主にメソディス

トを派遣する方針にしており,ポラードたちにとっても,メンバーシップの

面で,やりやすい環境であったと思われる。

ところが, 1907年,イギリスにおいて幾つかのメソディスト教派が合同

し統一メソディスト教会が結成される。聖書キリスト教会もその合同に加わ

る。その数年前の時期において,アダムが花苗にポラードの教会を推薦した

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のは,おそらく,アダムにとってポラードが依然として内地会の一翼である

という認識があったからであろう。それゆえ,ポラードが事前の了解もなく,

雲南省境とはいえ貴州省威寧県の奥地に貴州花苗への伝道を担う教会を設立

し,貴州側に向けて伝道を行うというのは,おそらく,アダムにとって納得

しがたい問題であったと思われる。

内地会の場合,自己の伝道地区の調整は頻繁に行われていた。協力団体に

内地会の伝道地区を譲ることもしばしば行われていた。貴州内地会とポラー

ド等の教会は, 1905年,伝道地区の境界を巡って話し合いを行い, 1906年,

和解している(肖耀輝&劉鼎寅 2007)。だが,ロバーツや東人達によれば,

その後も伝道地区をめぐる協議は続いていた模様である。両者はおそらくそ

の後も協力関係にあったとはいえ,伝道地区が交差する場合,調整はそれほ

ど簡単ではなかったのであろう。というのも,宣教師が取決めを結んだとし

ても,マスムーブメントの中の信者たちが,自発的に教えを近隣や知り合い

に広めていけば,境界は簡単に踏み越えられてしまい,すぐに互いに入り組

む関係が復活したからである。

3) 中国西南における内地会 1900-1915 (続)

i 漢北地区

演北地区の中心となった武定,禄勧の各県城は,昆明から 100キロ前後で

ある。ただ,伝道の対象となった苗族,葬族はみな山地に住んでいる。 19

世紀に貴州西北部から葬族が武定,禄勧一帯へ移住したおり,その従属民で

あった苗族も葬族に従って移住してきたと言われている。演北伝道の先鞭を

つけたのは,石門炊教会のサミュエル・ポラードである。彼は 1905年,苗

族伝道師を伴い昭通を出発,昆明を経て武定洒普山 (Sapushan)を訪れ,

武定,禄勧,禄豊,富民一帯の苗族に向け伝道活動を行なっている。同時期,

内地会(昆明)のアーサー・ニコルズ(オーストラリア人,郭秀峰)は,武

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 113

定県の苗民の訪問を受ける。苗族たちは,彼等の同胞である貴州西北の苗族

が新しい教えを学んでいるという噂を聞き,一度彼らの村を訪ねたことがあ

るニコルズのところに教えを請いにやってきたのだった。ニコルズは,苗語

ができなかったこともあり,やはり一度ポラードの教会を訪ね,その経験に

学ばなければならないと考え,石門炊に向かった。当然,この訪問は,内地

会指導者であるマッカーシーなどの了解を得て行ったものであった。ポラー

ドは同じメソディストであるニコルズを信頼し,雲南・貴州省境一帯の巡回

伝道の際には彼を伴ってでかけ,ニコルズに苗族伝道を経験させるとともに,

ニコルズも苗語学習を開始する。

1906年,ポラードは二度目の演北訪問を行った。今度は苗族伝導師のほ

か,ニコルズを伴い,洒普山を訪れ,現地政府と交渉して土地を取得し,教

会の礎を築いた。その後,ポラードはニコルズを洒普山に残し,石門炊に戻っ

た。当初,洒普山教会は石門炊教会の手厚いサポートを受けていた。特に,

実際の働き手となる苗族伝道師の派遣が大きい。ニコルズは,洒普山の伝道

を始めた頃,未熟な苗語で,彼らと出会った喜び語ったと記されており,

1906年,ポラードから洒普山一帯の伝道を委ねられた当時,苗語で福音を

伝えるには,十分な水準に達していなかったと思われる。その後,苗語を流

暢に話し,苗族の事情に精通したと言われるようになる。伝道は人の言葉を

通して伝わる以上,同じ言語を話し,かつ経験ある伝道者は多ければ多いほ

どよかったはずである。苗族,葬族の布教にすでに実績をもつ石門炊教会の

協力は,ニコルズに大きな助けとなったと思われる。さらに,苗語や葬語に

よる聖書や讃美歌なども,石門炊において蓄積されており,それをそのまま

利用することができたことも大きい。

ニコルズは, 1908年,ポラードの同意を得て,洒普山教会を内地会に所

属させることに決めたといわれる。 1912年には,演北地区の,昭通石門炊

系統の教会が,洒普山教会のもとに移されたとある。ポラードの内地会への

配慮が伺える。また,石門炊教会の実質的な自立の時期であろう。だが,そ

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の後も,学校教師の派遣を昭通地区にあおぐことや,また,洒普山系の教会

のもとには,小学校しかないので,卒業後なお勉学を望むものは,昭通地区

の中学に進学するような関係は続いたと思われる。組織的には分離したとは

いえ, もともと,石門吹地区の苗族・葬族と演北の苗族・葬族との間に強い

結びつきがあった以上,教会間の繋がりは以後も残ったとしても不思議では

なし、3)0

演北地区の宣教師に関しては,洒普山にニコルズ(郭秀峰),撒老吾

(Salaowu)にGladstonePorteous (張爾昌), G.E. Metcalf (王懐仁)夫

婦が消谷 (Taogu) に長期滞在し,それぞれ苗族,葬族, リス族を指導し

ていた。

ニコルズの指導のもとに,洒普山教会は,当初は石門炊教会の援助を受け

ながらも,内地会所属の教会として発展し, 1923年,内地会演北六族聯合

会が発足する。六族の教会とは,武定の洒普山苗族総堂,浴谷リス族総堂,

阿谷米干葬族総堂,老把タイ族総堂,禄勧の撒老埠黒葬総堂である。演北教

会の主力は苗族であるが,葬族やリス族に対しても積極的な伝道が行われた。

ii フレーザーと怒江流域の伝道

J. 0・フレーザー(富能仁 1886-1938)は, ロンドンのカレッジで電気工

学を学んだ後,内地会に加入し, 1908年上海に着き,安慶の内地会語学学

校で半年語学の訓練を受けた後,雲南伝道の先駆者マッカーシーに従い, ビ

ルマから雲南に入り,最後に,騰越(現在の騰衝)にたどり着いた。マッカー

シーは,安慶を訪れ,語学学校で学ぶフレーザーを自分の目で見て,後継者

として彼を指名したのだといわれている。

その後,フレーザーは,騰越を拠点に主として保山地区の伝道に力を注ぐ

ことになる。当初は,中国語を学びつつ漢族中心に布教を行なっていたが,

次第に保山や騰越周辺の少数民族(タイ族, ジンポ一族, リス族など)に注

目していく。おそらく,少数民族の多くが,漢族とは異なり,外国人宣教師

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 115

に好意的であり,喜んで彼らの話を聞いてくれることが,足しげく彼らのも

とを訪ねる一つの誘因であったと思われる。因みに, 1906年まで,雲南内

地会の漢族信徒はわずか 28人だっといわれている(申暁虎 2014)。

1913年初, Gowman(高漫)とともに高地にあるリス族の村を訪ね,結

婚式に参加し,その一族や近隣に福音を伝えたのをきっかけにリス族への布

教活動を始める。その年の春, リス族の村で,入信を希望するものに香炉や

偶像を捨てさせることに成功する。リス族の信仰は一般にはアニミズムや祖

霊崇拝なので,それに関する神像や位牌のようなものを捨てさせたのであろ

゜.つ

だが,一人で広大な地域を巡回する方法では,自から限界があった。フレー

ザーによって信者となったものたちは,彼が次の巡回で村にやってくるまで,

自分たちだけで信仰を守らなければならなかった。リス族は文字を有してお

らず,それゆえ,聖書や賛美歌集はおろか,書かれた教えが何もない状態で,

フレーザーの次の訪問を待った。このような時,信仰に熱心であった者,特

に先駆けとなった若者の病気は,村の信者に動揺を与えることになった。村

人にとっては,新しい信仰も古い信仰と同じ次元で計られることになるから

である。つまり,キリストヘの祈りが病気の治癒に有効なのかどうかが問わ

れることになった。そして,その死は,多くの場合,村人を元の伝統信仰に

戻らせることになった。

フレーザーの伝道が実を結ぶには,かなりの数の現地信者, とくに指導的

な信者や伝道者が一定程度育ってからのことであった。それまでは,長期の

厳しい条件のもとでの布教活動にもかかわらず,せっかく獲得した信者が,

戒律を維持しえず,あるいは伝統信仰に戻ることも多く,非常にゆっくりと

したペースでしか,安定した信者層が作られることはなかったと思われる。

1911年,マッカーシーが死亡する。指導者を失ったフレーザーは,内地

会中国本部のディクソン・ホストと直接連絡を取り,その指示を仰ぐように

なる。ホストは,すでに洒普山教会が発展しつつあり,人員の不足を感じて

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いたところから,演北地区への移動を勧めたが,演西におけるヒルトライブ

伝道の可能性を予感していたフレーザーは,怒江流域に残ることを希望した。

ホストたち本部の立場からすれば,当時,苗族やリス族などヒルトライブへ

の伝道が,漢北において盛んに実践されているところから,その経験をつむ

ためにも演北においてヒルトライプ伝道に従事すぺきだと考えたのであろう。

フレーザーは,ホストたちを説得するためにも,演西リス族の現状を調査し,

ホストたちに,何とか伝道の継続を納得させる必要があった。

孤独な伝道を行っていたフレーザーであったが, ミャンマー北部のバプティ

スト派(浸礼会)の宣教師ガイズ CJ.G. Geis 1860-1936)およびバソー (Ba

Thaw 1891-1967)の協力を得ることができた。辛亥革命の際,フレーザー

が一時, ミャンマー側に退避した折,バプティストたちと連絡がとれたこと

が発端であった。ミッチーナを中心として伝道に従事していたガイズ,バソー

たちとフレーザーは, 1875年当時,内地会のスティープンソン,ソルトー

と,バプティスト派のカッシングとの間で結ばれた親密な関係を引き継いで

いた。特にこの時期は,年長のガイズが,フレーザーの相談相手となってお

り,また若きカレン族宣教師バソーは,フレーザーの良き協力者であった。

彼らは主にミャンマー北部のカチン族, シャン族, リス族への伝道に従事し

ていたが,国境を接していた徳宏のジンポー族やリス族へも働きかけを行っ

ていた。

1913年冬,ガイズはバソー, フレーザーを伴い,怒江を遡行する旅に出

る。冬に決行したのは雨季の増水を警戒したためであろう。彼らは雪が降る

季節に,厳しい自然と闘いながら,怒江峡谷に接える高い山地を踏破し,怒

江を遡り,怒江下流のリス族(花リス)とその北に住むリス族(黒リス)で

は方言が異なり,容易には通じないことを知る。さらに, リス族が予想より

もずっと多いことを知った。これはフレーザーにとって重要であった。宣教

にたるほど十分な人口を怒江流域のリス族が有していることは,ホストたち

を説得する手がかりとなるからである。 1914年, フレーザーは大理を訪ね

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 117

た折,演北においてリス族伝道を行っていたメトカルフに会い,伝道の経験

や方法を学んでいる。

演西における漢族への伝道は,辛亥革命以後,保山,騰越などで少しずつ

信者を獲得し始めていた。だが,フレーザーはリス族などヒルトライプ伝道

に大きな可能性を感じていた。 1910年代の怒江流域のリス族伝道は,依然

としてフレーザーがほぼ一人で行っていたといってよい。ガウマンが加わっ

た時期もあったが,演北のリス族伝道に転じている。おそらく,大理地区の

伝道に従事していた AnnaDunkeshererとの結婚により,可能性のより大

きい浪北に移動したのであろう (1923年に浪西に戻り, 30年死去している)。

iii 概況

1915年,雲貴両省のプロテスタント伝道を牽引してきた二人の指導者サ

ミュエル・ポラードと R・アダムが死亡した。

それまで雲貴両省では,宣教師たちが長期にわたり伝道活動を続けていた

にもかかわらず,信者は宣教師の周りにほんの少しいるだけであった。アダ

ムおよびポラードの苗族伝道の成功は,局面を大きく変えることになった。

1900年まで,両省は内地会とその協力団体であるメソディスト系の聖書キ

リスト教会のみが宣教を行っていた。彼らの成功後,多数のミッション,あ

るいは個人や小グループで伝道を目指す人々が両省を訪れることになった。

サミュエル・ポラードの石門炊教会の成功が伝えられたのが刺激になった

のであろう,辛亥革命に前後する 1910年代には,プロテスタント系の様々

ミッションが雲南に入り伝道活動を始めた。民国期を通じて, もっとも有力

であったのは,漢北,演西に展開する内地会であった。内地会のドイツ系ミッ

ションであるファンツブルガー・ミッションは, 20年代末以降,玉渓地区

からその南へ向け,漢族,タイ族,ハニ族,葬族への布教を進めた。また,

石門吹教会を中心として昭通地区から,貴州西北部,四川南部へと,苗族,

弊族を中心に布教を広げるメソディスト(循道公会)も有力であり,かつ内

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外の注目を浴びていた。そのほか,有力であったのは,雲南に隣接するミャ

ンマー側のバプティストによる布教であった。まず,カチン州側から,米国

北部バプティスト(浸礼会)による徳宏ジンポー(景頗)族への布教が進め

られ,さらに同じくミャンマー側から,米国南部バプティスト(浸進会)の

ウィリヤム・ヤング父子による雲南西南のラフ族, ワ族布教が活発化した。

また,演南から北上するようにして,欧米のペンテコステ系ミッション(五

旬節会,神召会)によるハニ族,葬族に対する布教が浸透していく。同教派

は怒江流域にも進出している。その他,英国国教会(聖公会),長老派(長

老会),ルーテル派(信義会),再臨派のセブンスディ・アンドベンティスト

(復臨安息日会)などプロテスタント各教派が雲南に進出したほか,モース

父子の演蔵キリスト教会など独立した個人やグループによる伝道も行われた。

共産中国成立当初 (1950年前後),雲南には 11万人のプロテスタントが

存在しており,全国プロテスタントの約 10%を占めた。雲南の信者のほと

んどはヒルトライプであった。その後,弾圧の主要なターゲットとされ猛烈

な攻撃を受けた昭通地区(石門炊教会を含む)を除けば,演北,演西,演西

南など主要地区のプロテスタントは,文革期の厳しい弾圧をも生き延び,改

革開放後,教勢を大きく伸ばすことに成功している。

4) 二つの世界大戦のはざまの時期において 1915-1937年

1911年,辛亥革命以後,中国におけるプロテスタント伝道はより広範に,

より力強く進められた。おそらく,衰退しつつあったとはいえ巨大であった

専制王朝=清朝の崩壊と,不安定な民国の政治体制は,キリスト教布教には

有利に働いた。プロテスタント各教派の教会および信者は引き続き増加した。

この時期,すなわち民国期前半において注目すべきは,プロテスタント伝

道において,社会への関心が高まってきたことである。社会への関心とは,

貧困の救済,労働,教育,農村,民族など多岐の分野にわたる。民国期の,

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 119

特に軍閥政府の腐敗,そして軍閥相互の混戦のもとでの,悲惨な民衆生活を

考えれば,個々のクリスチャンもまた貧困や飢餓,犯罪や疫病など,庶民を

困窮せしめる社会的矛盾,社会的諸問題に関心をもたないわけにはいかなかっ

た。だが,個人的な魂の救済以上に,それらの社会的諸問題に関心が上回る

ことは,たしかに,宗教的な覚醒にとって不利であろう。とくに,民族問題

(自立富強への道)への関心は,青年たちを宗教より政治活動に向かわせる

ことになりかねなかった。

米国 YMCAの指導者,あるいは世界キリスト教学生運動の創設者で,

1910年のエジンバラ世界宣教会議の立役者でもあるジョン・モットは,

1907年, 1912-13年に来華し,中国の青年や学生に対し,社会への関心,社

会的貢任を喚起し,様々な社会事業への参加貢献を呼びかけた。教派を越え

たキリスト教青年組織である YMCAの中国全国組織は, 1912年上海におい

て成立した。 YMCAや YWCAは,とくに 1920年代から 30年代にかけ,

上海を中心として,様々な社会事業を行った。職工や女工に対する識字学校

など,その継続的で地道な活動は評価されるべきである。だが,それらはま

た,中国共産党など左翼分子に格好の活動場所を提供するものであった。ま

た, これら YMCAの社会救済事業に携わるなかから左傾化するものも少な

くなかった。

農業伝道 agriculturalmission, rural missionとは,明らかにラウシェ

ンブッシュ (WalterRauschenbusch) に始まる社会的福音 socialgospel

への流れの影響を受けおり,それは,中国プロテスタント伝道における米国

系ミッションの台頭につれて持ち込まれ,影響力を強めたということができ

る(劉家峰 2008)。中国の民衆の大多数は農村に住んでいた。すなわち農民

であった。中国農民の貧しさは農村の社会構造と,中国農業の特殊性に由来

していた。それらを少しでも改善しないかぎり,農民たちを救うことはでき

なかった。そこから,社会的福音の一環として農業伝道の考え方が生まれる。

飢えた人々を,宗教家の慈善事業として,食料の分配や炊き出しのような

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形で一時的に救済することはできる。だが,それらを恒常的に続けることは,

救済事業の依存者を増やすだけのことになる。中国農業の欠点を克服し,農

民たちが自らの職業である農業において家族を養っていけること,そのよう

な状態へ近づくべく近代的農業の専門家が農民を指導していかねばならない。

この農業専門家の役割を宣教師自身が担うこと,あるいは農業専門家をミッ

ションスクールが養成することによって,農業および農民生活の改善をはか

り,そのプロセスにおける農民と宣教師の関わりのなかから,福音を農民に

届けようとするのが農業伝道であった。 1920年代から 1930年代中葉にかけ

熱心に繰り広げられた郷村建設運動には,このような農業伝道の立場から,

多くの宣教師および中国人クリスチャンが加わることになった。

このような社会的福音の担い手は,当然,学生あるいは青年クリスチャン

であった。彼らは,西欧文化を受容し,伝統的な支配システムに対し,ある

いは個人の自由な思惟や行為を認めない古い文化に対し,反対していた。だ

が,その一方で,中国を政治的・経済的に隷属させようとしていた欧米日本

など帝国主義列強の中国政策にも強く反対していた。

陳独秀が『新青年』を創刊したのが 1915年であった。伝統的な支配思想

や支配文化に抗すべく「民主と科学」を旗印とした彼らの運動は新文化運動

と呼ばれた。 1919年五四運動後, ロシア革命の影響を受けた陳独秀らが,

社会主義運動を開始したのに比し,胡適らは体制内での改革を志向していく。

1920年前後においては,陳独秀らの社会主義者も,胡適など改良主義者も,

その支持者はいずれも青年知識人層であり,それら新文化運動を支持した若

者たちと,学生など若きクリスチャンは,多くの共通点を持っていた。それ

ゆえ, 20年代初頭における左翼的な学生を中心とした反キリスト教運動の

勃発は,若きキリスト教徒に大きな衝撃を与えるものであった。

このようなキリスト教批判に応えるぺく,中国人クリスチャンのなかから,

自治・自養• 自伝の三自運動を加速させる動きが強まっていく。これらの

「クリスチャン指導者は,いずれもミッションスクールで学び,海外留学の

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 121

経験を有するようなエリート知識人であり,キリスト教指導者であるばかり

でなく,政治的社会的にも,広い影響力をもつ人々,オピニオン・リーダー

でもあった。

ディクソン・ホストに代表される中国内地会は, 1910年代以降も,中国

最大のプロテスタント伝道団体であり続けた。 1912年,その宣教師数は

1,000人を越え, 1934年には 1,368人が 364のステーションで伝道に従事し

ていた。なお,全中国におけるプロテスタント宣教師数は 1921年の数字で

あるが, 7,000人以上であったといわれる(『中華帰主』上 2007: p. 709)。

彼らは, 1920年代に中国プロテスタントの世界に顕著となった上記の潮

流—―—社会的伝道やリベラルな傾向一ーとはほぼ無縁であった。むしろ否定

的であったといってよい。 1926年には,ゆるやかな連合体であった全国組

織中華全国基督教共進会からも脱退してしまう。そこに,保守的といわれ

る内地会独特のポジショニングがあったのだと思われる。 1920年代後半か

ら30年代にかけ華々しくおこなわれた郷村建設運動に対してもまったくと

いってよいほど関心を示すことも,参加することもなかった匹

内地会は,初等教育と医療伝道,あるいは飢饉の際の救済事業以外に,社

会事業を行わなかった。それは,彼らの財力を越える問題であると同時に,

可能なかぎり,福音の届いていない中国内地(奥地)に福音を届ける,時に

は現地教会を他の教派に譲ってでも,さらに内地深く入り込み,未到達地域

において宣教に従事するという彼らの宗旨から来るものであった。内地会の

宣教師たちは,そこにほとんどの人生をかけて,ひたすら伝道の方法やスキ

ルを磨いていたようにみえる。

高等教育機関を持たないこと,信者を留学に派遣をしないことは,内地会

系教会に集まる若者たちのなかから,将来,オピニオンリーダーになる者は

出ないということを意味した。つまり,中国の信者が内地会の活動を讃える

書籍を出版したり,内地会の思想や信条を,出版物を通じて普及させるとい

う可能性は存在しなかったといってよい。カトリックを除けば,民国期最大

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の伝道団体であり,かつ,その宣教師の多くが農村を日常的に巡回伝道して

いたにもかかわらず,政治史や文化史を含めて,民国史の舞台から,内地会

の事跡がなかなか見えてこないという理由の一端は,そこにあろう。

5) 西南伝道の進展 1915-1930年代にかけて

ポラードとアダムの死は,西南伝道における一つの時代の終わりではあっ

た。だが,それは伝道開始期の終わりであって,伝道自体の終焉ではなかっ

た。ポラードやアダムの死は,石門炊教会および安順教会にとっては大きな

打撃であったが,西南全体としては,プロテスタント伝道はようやく興隆期

にさしかかったところであり,まだまだ伝道の方策,スタイルを改良し,現

地の実情に合わせるべく,それぞれスキルを向上させる必要があった。 1910

年代中葉以降,西南伝道あるいは雲南伝道の中心は,洒普山教会のニコルズ,

そして怒江流域のフレーザーなどによって担われることになる。

i 昭通•石門炊地区

サム・ポラードの死後も,石門炊には宣教師としてパーソンズ(張道恵)

および Hudspeth(王樹徳)が滞在し,ポラードの伝道事業を引き継ぎ,教

民の指導にあたっており,苗族を中心にヒルトライブ出身の伝道師も次第に

育っていた。

ここでは,沈紅 (2007) に依りつつ,石門炊教会の教育事業および,それ

を通した現地教会と国家(教育行政)との関わりを検証したい。

石門炊に学校の校舎が建てられたのは, 1905年 10月末であった。校舎は

350人の収容が可能であり,学童の授業のほか,教民の日曜礼拝に用いられ

た。資金が欠けていたので,土地は葬族の土目(土司の一種)が提供し,校

舎建設のための資金と労働は苗族教民の供出によるものであった。実際に生

徒が募集され,授業が始まったのは翌年秋であり,第一期生 26人はみな苗

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 123

族であった。また,寄宿舎が付属しており,通学生ばかりでなく,遠方から

の寄宿生も学ぶことが可能となった。また,当初より男女共学であった。

1912年(民国初年),学校は正式に石門炊光華小学と名づけられた。 1913

年,国民政府教育部の規定による,初級小学 4年,高級小学 3年の,七年制

の完全小学であった。学校では教育部審定の国文(国語)課本を採用し,さ

らに,初級中学への進学にあたっては,成都華西教育協会出版の統一テスト

を用い,合否を決定した。

教学は漢語(中国語)を主体として行い,苗文の授業は週二時限ほどであっ

た。石門炊光華小学の評判が高くなり,葬族の土目や漢族の地主までその子

弟を光華小学へ入学させるようになった。光華小学は教育部の規定に沿って

教学が行われたとはいえ,教会学校なので,修身の授業として,毎週二,三

回,キリスト教教義(主に聖書)が教えられた。だが, 30年代以後,国家

の統一教材を用いなければならなくなり,正規の授業として聖書が教えられ

ることはなくなった。それでも,夜の礼拝などへの参加が奨励されていたが,

次第にそれも生徒の自主に任せられるようになった匁

入学する生徒は苗族を主として,葬族,回族,漢族らと,多彩であった。

また,教民の子弟が主体とはいえ,非教民の子弟も多数存在した。また,遠

く,雲南の武定,楚雄,四川涼山,貴州鎮寧,紫雲などから来る生徒もいた。

学費は,貧しい山地民の経済状態を考慮し低廉であり,玉蜀黍で収めてもよ

かった。教民の子弟と非教民の子弟の間に区別があった。後者の学費は,前

者の学費比べ,何割か高かった。学校の建設と運営が教民の喜捨や参与,労

働奉仕で成り立っていた以上,それは当然であったといえる。

石門炊教会の教育事業がとくにすぐれたものとして取り上げられるのは,

光華小学を中心とした雲南・貴州• 四川の三省省境地区に広がる教育および

文化ネットワークの存在であった。光華小学の分校は,平均 40名の生徒と

2人の教職員から成り,学校経費および教職員の給与は,各地苗民の拠出と

循道公会からの補助によってまかなわれていた(なお,抗日戦争期,石門炊

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の小学校を本部として,三省交界地区の各県に 42校の分校が存在し,さら

にそれらの分校を含め, 50か所以上の教会学校が存在したといわれる)。

各分校の卒業生は毎期本校が行なう卒業試験を受け,合格者は本校の高級

小学に進級することができ,高級小学を優秀な成績で卒業したものは,昭通

の明誠中学などに進学することができた。中学を優秀な成績で卒業したもの

は,派遣されて省外の大学など高等教育機関に進学することができた。

このような学校のネットワークは,地域の文化ネットワークおよび教会の

ネットワークと重なっており,学校の教師は伝道者でもあった。山村に広が

る学校のネットワークは,苗族や葬族など少数民族の人材養成および教育を

うけた少数民族出身の司牧の排出に大いに貢献した。

石門炊文化圏の中心,石門炊光華小学から様々な文化が発信され,三省交

界地区に波及した。光華小学にはプールまで存在した。陸上競技,集団体操

など,新式体育が教えられ,普及したが,なかでもサッカーが盛んであった。

端午節に開催される光華小学の運動会には,生徒の父母をはじめ,各地から

苗民が集まった。 1934年の石門炊端午節運動会には 2万人以上が押しかけ,

空前のにぎやかさであった。

ii 漢北地区

1923年,ニコルズは内地会演北六族聯合会を設立する。演北教会は発展

し,傘下に多くの信者および自前の伝道者を擁するようになる。そうなれば,

昭通の循道公会(メソディスト)との関係も以前とは異なるものになってく

る。 1928年,洒普山教会傘下の私立恩光小学高等科の第一期生がまもなく

卒業しようとする頃,昭通派遣の教師郭明道は病気を癒すために薬酒をつく

り飲んだことがニコルズの知るところとなり,ニコルズは郭明道を譴貢した

ばかりか,彼を昭通に追い返してしまった。教師がいなくなり,授業が滞り,

怒った幾人かの生徒たちはニコルズを難詰した。彼らは,ニコルズが何日待っ

ても一向に善処しないことに腹を立て,学校を辞め,昆明に出て学業を続け

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 125

ようとしたが,うまく行かなかった。転校先をみつけた者も,勉学を長く続

けられなかった。多分,みな貧しく,学費すらままならなかったからであろ

う。彼らは演北に戻ることになるが,それはニコルズの敵としてであった。

一部は,昆明滞在の折,安息日会(セブンスディ・アンドベンティスト)の

信者となり演北で活動を始め,一部はどの教派にも属さない,独立教会「中

華基督教自立会」を設立し,いずれも内地会に対し執拗に対抗しようとした。

おそらく,郭明道の薬酒については,禁酒をめぐる循道公会(メソディス

ト)と内地会の理解の仕方に違いがあったことが,この事件の背景にあると

思われる。中国伝道に従事したプロテスタント宣教師は,一様に禁酒,禁ア

ヘンを励行した。だが,プロテスタント教派の間でも,禁酒への対処の仕方

について,若干の差があった。多分,循道公会のメンバーであった教師郭明

道は,薬酒ぐらいは許されると考えていたのであろう。それに対し,自分自

身はメソディストであったとしても,内地会の地区教会監督としてニコルズ

は例外のない禁酒を励行していたのであろう。

これらの事件から浮かびあるのは,ニコルズの頑なさである。ニコルズに

ついては,毀誉褒貶いずれもがあり,その評価は,一概には決められないが,

洒普山滞在が長期化するにつれて,ニコルズの独善的な指導が目立つように

なっていったのだと思われる。ニコルズは 1943年末までずっと演北地区監

督の地位にあったが,そのような地位の固定化が,指導の柔軟さを阻む大き

な要因となっていたと考えられる。

iii 怒江流域

フレーザーのリス族伝道は,彼が大理でメトカルフに会い,東リス族伝道

の経験,その伝道方法及びリス文字考案について学び,演西に戻った頃から,

少しずつではあるが本格化し始めた感がある。 1914年秋, フレーザーは,

騰越西北の担札 Tantsah郷を訪れ,村ごと神の側にかちとるぺく,努力を

傾けた。彼のリス語がようやくそのようなことを可能にするレベルに達した

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ということの証明でもあった。だが,同時に文字による伝道の必要性も痛感

することになった。

フレーザーとバソーは, 1912年,二人でリス文字を考案することを約束

した。バプティスト派(浸礼会)はすでにビルマ北部においてカチン文字を

使用しており,それを参考にアルファベットを利用したリス文字を考案し使

用が試みられていた。 1917年 2月,二人はフレーザーが考案したリス文字

とバソーらが使用しているリス文字を比較し,前者の方が,読み書きが容易

であり, リス族民衆に受け入れやすいとして,前者を採用することにした。

1919年,二人は, さらに改良を加え, リス文字を完成させている。 1922年

代前半,「マルコによる福音書」,「ヨハネによる福音書」をリス語に翻訳し,

ラングーンのバプティスト派の印刷所で印刷している。

フレーザーは騰越西北の担札ばかりでなく,それに程近い蘇典郷(現在の

盈江県蘇典リス族郷)一帯への伝道の取り組みを行っていた。彼はリス族の

村を巡回し,確実に帰依者を獲得していった。だが,難しい問題も浮かび上

がってきた。いずれの村の信者も,悪霊の報復をひどく恐れており,それが

元のアニミズムや祖霊信仰にもどる大きな誘因となっていた。時には彼の教

えが勝ることもあるが,この怯えを一掃することはできなかった。フレーザー

はこの悪霊をサタンの仕業と考え,信者たちにそれと闘うよう求めたが,な

かなか成功しなかった。

1917年,虫垂炎を患ったフレーザーが,ホストの勧めに従い上海に赴き,

治療の後,新来の宣教師フラッグ (Flagg苑善慶)を伴い,騰越に戻った。

その間,バソーは蘇典郷に 4ヶ月ほど滞在し,周辺の村落を巡回し,信者を

励まし,彼らの信仰を維持させ,かつ信者を増やしたほか,さらにこれまで

信者のいなかった村を訪れ,新たな信者を獲得したのだった。カチン族のナッ

ト(ナッ)がよく知られているが, ヒルトライプの間では精霊信仰は普通の

ことであった。時に人間に害を及ぽすものを悪霊と呼ぶが,それをサタンな

どと決めつけることは,かえって民衆の恐怖を引き起こすおそれがあった。

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 127

カレン族の出自であり,かつカチン族やリス族の伝道に当たっていたバソー

はすでに経験豊かな宣教師であった。彼は,事態が膠着した時,どのように

すればよいのか理解していたのであろう。現地に 4ヶ月も滞在したのは,時

間をかけ,悪霊の報復におびえる村人たちの気持ちを,ゆっくりと落ち着か

せるためであったのであろう。 1918年,蘇典郷にはリス族信者の手でチャ

ペルが建設されている。草葺の粗末なものであったが,壊れれば,また信者

たちの手で再建すればよく,フレーザーにとっては,それが望ましい形であっ

た。

1919年,中国のムーディーと呼ばれる丁立美の一行が大理を訪れた。フ

レーザーは大理で丁立美に会い,各族教会を視察する一行に随行したが,丁

は蘇典郷までやってきて,フレーザーの通訳によって, リス族の信徒に神に

ついて語りかけた。丁を大理まで送っていったフレーザーは,そこでアメリ

力からやってきた青年宣教師クック (AllynCooke)に会う。

1918年, ロサンゼルスの聖書学院を卒業し,内地会に加入したクック

(楊思慧)は, 1919年上海に到着,ほどなく大理に派遣され,そこでフレー

ザーと知り合い,怒江流域で宣教活動に従事することを決めてしまう。本来

ならば,新人は安慶の語学学校で一定の期間語学訓練を受けなければならな

いはずであったが,クックはそのまま騰越において漢語およびリス語の訓練

を受けることになる。おそらく, リス族に対する伝道が成果を生む可能性が

高いことをホストなど内地会本部も理解するようになったからであろう。

フレーザーのリス族伝道が,今日においても,なお注目に値するものとさ

れているものに,その原住民主体の原則 indigenousprincipleがある。ロ

バーツ (Roberts2013)が例として挙げている,フレーザーが現地クリスチャ

ンの自立への配慮を示した諸策を幾つかあげてみよう。

フレーザーは, リス族などの,案内役や荷物持ちの手伝いなどに,報酬を

払わなかった。一般的にいえば,現地の信者が宣教師に雇われ,それが日常

化すれば,宣教師に最も近い信者たちが,現地教会の自立を望まない,とい

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うことになりがちである。また,教会建設も現地の費用でおこなうべきであっ

た。草葺の教会でもかまわない。信者に聖書を買わせたのも,同じ考えにも

とづいている。その土地の教会は,如何に貧しくとも自前の力によって教会

建設を進めるべきであるとするのがフレーザーの考え方であった。

フレーザーは,宣教師の医療伝道においても無料で医療を施すことに反対

であった。患者は少なくとも一定の対価を払うべきであった (Roberts,p.

86)。それ以上に重要なのは,神への祈りであり,医療行為による治癒もま

た,神への祈りのなかでの出来事であった (Robertsp. 87)。

フレーザーはクック夫妻に対し,信者たちの自立を促すため,現在住んで

いる村を去り,他地に移るように指示している (p.80)。同じところに長く

居れば現地信者の宣教師への依存心が強まる。信者自身の能力を発展させる

ために,指導者は長期間,同じところに居てはならない,というのである。

フレーザーは,現地教会が自立すれば,宣教師は顧問にすぎないと述べたと

いわれ叫さらに,宣教師は教会という建物を建てるための足場 scaffolding

である, とも述べたと言われる (T'ienJu-k'ang, 1993: p.136)。つまり,

建物が完成されれば,足場は取り払われることになる。筆者は,この建物と

その足場の比喩が,指導される者の自立を促す指導者の在り方へのすぐれた

理解を示していると考える。同時にそれは,フレーザーが,卓越した指導者

であることも示している。

フレーザーが心がけていたのは,宣教師が現地のクリスチャンを見守るこ

とができなくなる時が来た時もなお,現地の人々の力で信仰を守り抜いてい

くことであった。現地教会の自立は不可欠なのである。そのためには,現地

のクリスチャンのなかから,伝道者が生まれなければならない。リス族伝道

者の育成が必須であり,最初のリス族牧師は 1930年に誕生している。それ

ぞれの教会の運営も現地教会の長老たちに委ねられたという。

フレーザーは, 1922年,演西地区の指導をクックなどに委ね,サバティ

カルを得てイギリスに戻るとともに,アメリカ,カナダにおいて中国奥地伝

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 129

道とくにヒルトライプ伝道の魅力を伝える講演旅行を行っている。

フレーザーの不在の間も,クック夫妻などを中心として, リス族伝道は着

実に成果を上げていた。急峻な峡谷における伝道は宣教師のみの力ではどう

にもならなかった。何よりも,伝道はリス族伝道師が担うべきことがらであ

る以上,宣教師は多数の伝道師を養成し,さらにその伝道者としての水準を

上げていかなければならなかった。クック夫妻は, 1922年,怒江下流の木

城披に教会を建設し,伝道活動の拠点とした。クック夫人ライラも神学校の

出身者であった。夫妻は,信者たちが夜締火の周りで聖書を学んでいるのを

見て,短期聖書教室のようなものを始めたところ,それが次第にはっきりと

した形をとるようになり,二週間の短期聖書学校となり,それを璽ねること

によって,多くのすぐれたリス族伝道師を生むことになった。さらに 1923

年頃には演北からガウマンが演西に転じてきたので,彼らは, リス族伝道者

摩西らとともに聖書の翻訳を目指すことになる。

内地会のゼネラル・ディレクターであるディクソン・ホストは,フレーザー

をとても信頼しており, 1924年秋, フレーザーが二年間の休暇から戻って

きた折,伝道地区の混乱を収拾するために甘粛省に派遣,その後,より本部

に近いところに活躍の場を与えようと,彼が江蘇省の貢任者(監督 superin-

tendent)になることを望んだが,あくまでも演西の伝道にこだわるフレー

ザーは,それを断り,最終的に, 1928年,雲南省内地会の責任者(監督)

となって雲南に戻っていく 7)0

フレーザーの雲南復帰と同時に,一群の若い宣教師たちが雲南に派遣され

る。かれらの登場とともに演西もまた局面を大きく変えることになる。 1929

年当時,内地会は怒江流域に 4組の宣教師を配置していた。クック夫妻は孟

定に居住し福音山一帯の伝道に責任を負い,ガウマン夫妻は木城披に,フィッ

ツウィリアム Fitzwilliam夫妻とカスト Casto夫妻は騰越に滞在した。重

要なのは,実際の伝道を担う保羅など優れたリス族の青年信徒が存在したこ

とである。

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iv ファンツブルガー・ミッション (DGD)

雲南における中国内地会系のミッションは, リス族布教を中心とする怒江

流域苗族,葬族を中心とする演北地区がもっとも有力なものであるが,他

に, ドイツ系ミッションが玉渓,紅河地区へ伝道をおこなっている。

このドイツ系ミッションは,一般にファンツブルガー・ミッションと呼ば

れている。キリスト教の教理や倫理にもとづいた社会奉仕活動の担い手を養

成する修養団体であり,当初は女性のみをその対象としていたが,後に男性

も受け入れるようになった。名称は,その創設地であるファンツプルク

Vandsburgの名前から来ている。創設は, 1899年であるが,ファンツプル

クは後にポーランド領となったため,本部をマルプルク Marburgに移した

ので,マルブルガー・ミッションとも呼ばれている。また,その中心組織で

ある DGD(Deutschen Gemeinschafts-Diakonieverbands)の名称で,そ

の活動を呼ぶことも多い (Diakonieは社会奉仕活動, Verbandは連盟)。傘

下の中心団体 (Mutterhaus)はドイツ国内だけではなく,スイス (Landli),

およびアメリカ (LibertyCorner)にも存在する。ファンツブルガー・ミッ

ション(以後, DGDと略記)の雲南伝道については, ImmanuelScharrer

(2007)が詳細な検討を加えており,以下の記述はそれに依拠している。

DGDは, 1920年代まで,内地会の協力団体であるリーベンツェラー・ミッ

ションの一翼として湖南部陽地区で活動していた。彼らが, 自らのミッショ

ンだけでの布教を望んでいたため,内地会の斡旋により雲南伝道へと転じた

のであった。彼らは, 1929年,内地会の協力団体として雲南で伝道を開始

し,他の伝道団体と同じく, 1950年初頭に雲南を撤退している。

ミッションは,全体で, 67人であった。その中に, 37人の DGDメンバー

(女性), 15人の Tabor卒業生(男性)が含まれる。また,配偶者として来

た者 13人も含まれている(さらに湖南で DGDに加わった中国人女性

Hnna Liuがいる)。そのほとんどはドイツ人であるが,若干のスイス人を

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 131

含む。彼らの活動は,内地会風の巡回宣教だけではなく,病院,歯科医院,

孤児院(昆明),少女の家(昆明),ハンセン病療養所,学校など,幅広い社

会奉仕活動を含んでいた。

DGDが雲南に入る前に,内地会のフレーザーから,一定の伝道活動後の

現地教会の自立に向けて,幾つか指示があった。その一つは,現地における

協力者の雇用についてであり,おそらく,外国資金による雇用,あるいは協

力者への賃金の支払いが,自立を阻む可能性があるので,できるかぎり控え

るようにとの指示であろう。また,病院についても,無料診療をせず,患者

に一定の支払いを求めるように,忠告されている。これについては, ドイツ

人たちは当初,無視していたが,本国から送金が滞ったため,患者に支払を

求めるようになったといわれている。前者についても,同じ理由で,有給の

協力者を減らさざるをえなくなった。

DGDが担当した伝道地区は,三つに分けられる。①峨山を中心とした玉

渓地区とその南にある②新平・漠沙を中心とする紅河以北地区,そしてその

南に広がる③紅河以南地区である。①はもともと内地会から譲られた伝道地

区であり,②は米国長老派パーク達が開拓した地区であり,伝道の主な対象

はタイ族であった。③は DGDの到来以来,巡回宣教を開始した地区である。

パークが熱心に伝道したタイ族は新平の花腰タイ族である。また,③の主要

な対象はハニ族の支族であるカド KaDoである。

同ミッションの伝道事業は,先行するミッションを引き継いだ①および②

について,どちらも全体として,信者,受洗者の数を増やしたとはいえ, こ

れまで述べてきた貴州や雲南のミッションの伝道実績に比べるとやや見劣り

がする。とくに①の内地会から引き継いだ信者,②パーク夫妻から引き継い

だ信者について, しっかりと教会のメンバーとして繋ぎ止めることができず,

多くの棄教者を出している。その理由の中には,パークの信者のように,パー

クが提供していた金銭的・物質的援助をドイツ人宣教師が拒否したため,信

者を失望させたといった,やむをえないものもある。

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だが, ドイツ人のなかに,タイ語をマスターしたものがおらず,タイ族に

対し,いつも説教を通訳付きで行わざるをえなかったというのは,重大な失

敗といってよいものもある。また,いずれの地区にも共通しているのは,宣

教師たちが受洗のために漢族や少数民族に対して求めた基準が高すぎたとい

う面を指摘せざるをえない。宣教師たちは受洗者に対し,カテキズム(教理

問答集)に対する知識を求めた。これは,文字を持たない人々,つい最近ま

で文字を持たなかった人々,あるいは読書という習慣のない人々に対するも

のとしては,性急な要求だと思われる。

③のカドに対する伝道において,当初受洗希望者が約 6,000人いるといわ

れた。だが,カドの受洗はゆっくりとしか進められなかった。宣教師たちが

受洗の基準を緩めようとはしなかったからである。ところが, 1930年代中

葉以降同地区には強力なライバルが出現した。ペンテコステ派(神召会)

のベーカー牧師であった。ベーカーは紅河地区一帯において勢力的に伝道活

動を行なったが,その人物についてカリスマ的であると評されていた。また,

夫人と二人で,ほぽ独力で伝道に従事していたことは,先ほどのパーク夫妻

と同様であった。ベーカーは異言や霊的体験を重視するペンテコステ派らし

く,神学的知識などにこだわってはいなかった。夫妻はカドが住む山地を回

り,次々に受洗者を増やしていた。

DGDのなかで,紅河南段を受け持っていたのは主にタボール卒業生であっ

たが,彼らは,ベーカーに対抗すべく,彼らの伝道戦略を変えることはなかっ

た。おそらく,彼らの母院であるムッターハウスが予め決めた原則から逸脱

することはできなかったのであろう。このような宣教師たちの厳しい組織規

律は,たとえば,第二次世界大戦下における,母国との連絡がままならない

状況において,以前と変わらぬ伝道を維持することに大いに貢献したと思わ

れる。だが,状況に合わせ,原則を緩め柔軟な対処が必要な局面では,かえっ

てその変更を阻止する方向に働いたと思わざるをえない。

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6) 抗戦期の中国内地会と西南伝道

1930年代に入り,内地会はホスト (1861-1946)の後継者を決めなければ

ならなかった。だが,容易には決めることができず, 1935年,ようやく浙

江省監督であったジョージ・ギプGeorgeW. Gibbに引き継がせることになっ

た。しかし,政治情勢の急転とギブの体調悪化から,やむなく 1940年,英

国国教会の四川教区の主教 bishopであり,かつ内地会中国評議会のメンバー

であったフランク・ホフトン FrankHoughtonが,ギブに代わってゼネラ

ル・ディレクターとなる。だが,戦況の更なる悪化,そして,内地会中国本

部が罹かれた上海が,日本軍に占領され,内地会の全国的な指淳は難しくなっ

ていった。さらに,状況を難しくしたのはホフトンの中国不在が長引いたこ

とであり,内地会は,それぞれのメンバーが現地の教勢と戦況の変化を勘案

しつつ,自らの組織機構に依拠し,戦時下の伝道を行って行かなければなら

なかった。

1938年,雲南省内地会の指導者J.0・フレーザーは,脳マラリアの発症

により急死する。途中,数年の不在があったとはいえ,それまでほぽ 30年

間,雲南伝道に従事したフレーザーは内地会を代表する宣教師であり,かつ,

クック夫妻,クーン夫妻など多くの宣教師にとって,フレーザーは, ヒルト

ライプ伝道の先駆者であり,範とするに足る良き師であった。

雲南の省都昆明は,組織機構としては雲南内地会の中心であったことは間

違いない。ただ,フレーザーの伝道活動の主力が怒江流域に置かれていたの

で,おそらく省の教会実務に関しては昆明三一聖堂主任が担当していたので

はないかと思われる。当時の三一聖堂主任は牧師アレンであり,アレンが

1936年,帰国した後,それを引き継いだのはデヴィッド・ハリソン(李徳

富)であった。だが,抗日戦争期においては, ミッションの財政が逼迫して

おり,雲南内地会の中心としては十分な機能を発揮することは不可能であっ

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た。

日中戦争が拡大するなか,雲南には省外から多数の難民が到来した。戦況

の悪化やそれに伴う混乱からの影響を避けるため,雲南内地会は,西部,北

部,東部など,それぞれの伝道区が,それぞれ自立的に伝道活動を行うよう

になっていく。昆明の教会(三一聖堂)の指導的な役割はいよいよ縮小し,

通信や連絡上の役割に限定されていく。このような状況の下,内地会本部は

雲南を東西に分ける。 1939年ジョン・クーン(楊志英)が演西地区監督と

なり,戦時下の演西内地会を指導することになる。

i 漢東北地区

1930年代に入り,石門炊に宣教師が滞在することは稀になる。宣教師た

ちは,主に循道公会西南教区の弁事処が置かれている昭通あるいは省都昆明

などに居住するようになる。最大の要因は,軍閥混戦と土匪の横行により,

農村に外国人が住むことが難しくなったことである。さらに,昭通には付属

病院や学校など教団施設が置かれ,都市環境の改善に寄与し,宣教師にとっ

て比較的暮らしやすくなってきたことがあげられる。

前述の石門炊を中心とした三省交界地区における「教会一学校」体制の成

立は, 1930年代以降次第に国家および地方政府の,教育政策および民族

同化政策と直接関わりを持つことになる。最初の出会いは, 1935年,四川

軍閥の領袖の一人,楊森 (1945-48年貴州省政府主席)の部隊が石門炊を通っ

たおり,部隊のチームと光華小学との間で,サッカーとバスケットボールの

試合が行なわれ,楊森に石門炊地区について強い印象を与えたことに始まる。

折から,紅軍長征の時期であり,紅軍を追撃阻止するため西南には続々と

蒋介石磨下の中央軍が投入され始めていた。それまでは,西南の一隅の伝道

団体における一つの伝道事業と見なされてきた石門炊教会の事績が,俄然,

国家的観点から注目を浴びる結果となったのである。

少数民族と外国人宣教師団の強い結びつき,苗文字による教育,貧しい山

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 135

村における傑出した教育水準の高さは,その後視察に訪れた政治家・官僚・

学者たちの眼に,不安や脅威を与えることになった。石門炊は小香港と呼ば

れ,貧しい山区であるにもかかわらず国民党貴州省党部の下に石門炊弁事処

が置かれ,教会の事業に対する監視と統制が行なわれた。

それに対し,石門炊教会は,やむをえず,その上層部の一部を国民党に参

加させ,不必要な摩擦を回避しようとした。教会側には都市の高級中学に学

んだものや他省の大学に学んだものが多数戻って宣教および教育に従事して

おり,おそらく彼らは国民党に対しどのように対応すればよいか, どのよう

に折り合いをつければよいか,知っていたと思われる。

結局, 30年代後半から 40年代前半は,対日抗戦に追われた時期であり,

また 40年代後半は共産党との間で内戦を繰り返していた時代であり,国民

党および国民政府が石門炊教会に対して徹底して統制を加えるような挙にで

ることはなかった8)。

ii 漢北地区

演北地区における重要な問題として,学校教育の問題があった。他の伝道

団体と同じく,内地会の伝道地区においても教育を重視した。だが,それは

聖書を読むことが可能になるレベル,小学校レベルの教育であった。昭通や

石門炊などの循道公会地区では,中学校が設立され,優秀なものについては,

さらにその上の学校(成都,武昌など)への進学なども,伝道団の支持があっ

た。だが,演北においては.伝道者養成については神学校を設立して,その

必要に答えたが,一般の信者が希望する中学設立が実現することはなかった。

ニコルズは,教会学校の生徒たちが,一般の中学などに進学すること自体,

望まなかったといわれる (1940年頃)。中学や大学で学ぶと,先生の言うこ

とを聞かなくなるから, というのがその理由であった。本当に,ニコルズが

そのようなことを言ったかどうか疑問だが,複数の資料で,彼がそのように

言ったとされている。また,昭通地区の中学校に進学した者の中には,卒業

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後,洒普山地区に戻りたがらない者もいる,という話も残っている。

この学校教育の問題については,循道公会と内地会の伝道スタイルの相違,

組織の在り方の相違として,中国人研究者の間で議論されているところであ

る。内地会はあくまで伝道団体であり,福音がいまだ届いていない地区への

伝道を第一義としている。それゆえ,傘下の教会の自立については寛容であっ

た。とくに,財政が厳しくなった 1930年代には,たとえば葛布教会に対し,

自立を促している。それに対し循道公会は伝道団体であると同時に教団であ

り, 自らが育てた教会はずっとその傘下に残ることを前提としている。それ

ゆえ,彼らは昭通•石門炊地区の病院や学校建設に関して熱心であり,教育・

文化・保健衛生に関して,石門炊地区は,当時の中国としては稀な先進農村

地区であった。

ただ,伝統中国において,科挙以来,学ぶことと立身出世することはほぼ

イコールであった。それゆえ,たとえ近代的な教育機関であっても,学校は

出世のための踏み台になりかねなかった。それはミッションスクールにおい

ても同様であった。科挙が廃止された時代, ミッションスクールを出て欧米

に留学することは,科挙における進士及第と同じような出世コースでもあっ

た。現在問題になっている中学設立の問題は,それほど大した問題ではない

かもしれない。だが,地方において中学出身者は名士であり,地方行政の担

い手であると見なされても不思議ではなかった。西南伝道に従事する宣教師

たちは,ひたすら現世利益を求める漢族とは異なった性格をヒルトライブに

見出していた。教育の拡充によって,それが失われるのではないかと宣教師

が恐れたとしても,決して間違っていたというわけではない。

1943年 11月,ニコルズは内地会監督の地位を退き,翌 44年帰国してい

る。「基督教苗族教会史料」には,ニコルズなど外国人牧師が「残念な気持

ちを抱きつつ」洒普山を離れたとある。おそら<. 上記の問題のほかにも,

ニコルズと現地クリスチャンのリーダー(長老)との間に確執があったので

はないかと思われる。演北教会の運営は,王志明(苗族)など,各族総堂会

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長の合議によってなされることになった。これが,演北教会の自立であると

されている。ただ,内地会との縁が切れたのではなく,その後も,内地会宣

教師の派遣は 1950年まで続けられている。

iii 怒江流域

1920年代における演西の伝道センターは木城城であり, さらに南方の歌

馬県福音山(旧名賀永山)一帯への伝道が試みられていた。だが,長い間内

地会のみが伝道を行っていた怒江流域にも, 1920年代末,神召会(ペンテ

コステ派)の馬導民(英文名不明)が福貢県一帯において伝道を開始し,さ

らに 1930年代初めには,そのさらに北方で,モース父子の演蔵キリスト教

会が伝道を始めている。おそらくそのような動きに連動してであろう,内地

会もまた, リス族伝道師を北上させ,碧江県を中心とした怒江中流への伝道

を試みるようになる。 20年代末には,すでに碧江県において里吾底教会が

成立している。

1933年,順調に増加しつつある信者をまとめるためであろう, クック夫

妻が碧江に移り,里吾底教会は怒江峡谷両岸の信者の中心的な役割を果たす

ことになる。クックは木城披や福音山時期に引き続き, リス族のモーゼ(賑

西)とともになおもリス語訳新約聖書の完成に精力を注ぎつづけた (1938

年完成)。

1930年代前半,演西に新たな主力ともいうべきクーン夫妻が加わること

になる。 1924年,帰国したフレーザーが米国,カナダにおいて講演旅行を

行った際,ワシントン州において,その講演を聞いたイゾベルは, リス族伝

道を志し, シカゴのムーディー神学校に入学,卒業後の 1928年,内地会に

加わり,中国に赴く。翌年,昆明ですでに婚約中のジョンと結婚する。ジョ

ンも同じ神学校の出身であった。すぐにもリス族伝道に加わりたいイゾベル

であったが, フレーザーは同意せず,クーン夫妻はしばらくは澄江や大理,

永平などで漢族や回族を対象とした伝道活動および宣教事務などの経験をつ

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むことになった。今日,クーン夫妻については,おそらく夫人であるイゾベ

ルの方がリス族伝道についての著者として,世界の読者に知られている。

1934年,クーン夫妻はようやく怒江峡谷の麻里坪(濾水県)に移り,念

願のリス族伝道に従事することになる。 38年,ほぽ二年間のサバティカル

から中国へ戻ったクーン夫妻は再び怒江峡谷に戻ることができた。フレーザー

の死後,ジョンが内地会演西地区監督として漢族を含めた伝道全体に責任を

負う立場からリス族伝道のみに専従しえなくなったが,同年,二人は雨季聖

書学校を主催し,成果を収め,学校はその後も拡充しつつ続けられている。

短期聖書学校自体は, 20年代前半に木城披で始まったものであり,演西内

地会の伝統ともなっていた。だが,この雨季聖書学校の詳細な様子がイゾベ

ルの著書によって広く国外に紹介され,彼女たちの事績として知られるよう

になる。

フレーザーの死によって, もっとも大きな影響を受けたのは, もちろん怒

江流域の教会であった。だが,怒江流域には,クック夫妻,クーン夫妻など,

フレーザーを慕って演西にやって来た宣教師たちが伝道に従事しており,彼

らは伝道実践のなかから,すでに一定の訓練を受けてきていた匹

また, リス族を中心とする現地教会も, 1920年代以来,徐々にそれぞれ

の教区において長老を中心として運営を行ってきており, しだいに自立的な

対応をできるようになっていた。それゆえ,フレーザーの死が, リス族伝道

の停滞をもたらすようなことはなかった。

iv ファンツブルガー・ミッション (DGD)

折から, ドイツにおいてナチスが台頭し,第二次大戦においては,中国が

連合国側で参戦したので,その間, ドイツ人たちはパスポートなしで活動し

なければならなかった。たが,アメリカのムッターハウス (LibertyCor-

ner)およびそれと付き合いのあるプロテスタント団体を通じ,宋美齢を介

し,中国政府に働きかけ,何とか身の安全を確保し,活動を継続することが

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できたといわれる。ただ,長期にわたり, ドイツからの送金が制限され,ま

た一時,送金が不可能となったため, ドイツ人たちは,厳しい生活を強いら

れることになった。そのような活動のなかで,病院,歯科医院の収入が頼り

であったが, もっとも困難なおりには,その技術をいかし,副業として家具

製造を行い,収入を得たともいわれている。

第二次世界大戦勃発後, ドイツ系伝道団体という装いを改める必要にから

れた宣教師たちは,現地教会の自立化を名目として,中華基督教雲南奮進会

を発足させる。奮進会は DGDからの分離を宣言したが,宣教師たちはそれ

をあくまで便宜的なものと考えていたと思われる。とくに宗教的な指導にお

いて,現地のクリスチャンは,あくまでも協力者以上の存在になりえなかっ

た。そこでも,神学的な素養や水準が問題となっていたようである。現地教

会の伝道師のなかでもっとも宣教師が高く評価していたはずの Yang

Kuanglin (楊光霊)ですら,彼を牧師に立てたのは,ようやく 1947年のこ

とであり,あまりにも遅すぎた。もし,高く評価していたならば, もっと早

く抜擢し,彼を中心とした指導体制を作り上げるべきであった。宣教師が中

国を撤退した時,彼は十分な声望や権威を獲得していなかった。宣教師撤退

後の「奮進会」の選挙において,指導部に選出されたのは HannaLiuであ

り,楊牧師は選出されなかった。

シャラーは, DGD傘下の教会においては,教堂と宣教師宿舎が併設され

ていたことを指摘している。もし,現地教会の自立を促すならば,教会と宣

教師宿舎は分離されるべきであった。信者の宗教活動の一つ一つが宣教師の

監視下にあるようでは,現地教会の自立は困難であるということであろう。

シャラーは,紅河以南の伝道地区においては,現地教会は自立的であった

という。なぜなら, この地区は土匪が横行し,宣教師の滞在は非常に危険を

伴うため,時折の巡回伝道に切り替えられ,教会の運営は長老たちに任せざ

るをえなかったからであるという。 DGDメンバーのうち, どのくらいが三

地区の宣教に従事していたのか,具体的な数は不明だが,演西や演北に比べ

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れば,テリトリー当たりの宣教師の数が多かったのではないかと推測される。

宣教師が多い分,細かい指導や指示が現地クリスチャンになされることにな

り,それが現地教会の自立を,より妨げることになったのではないかと思わ

れる叫

7)共産革命の進展と伝道団の撤退

長き苦難の時期,抗日戦争が終わった 1845年以後,教会組織は急速に回

復していく。だが,一旦戦争を避け国外に逃れた宣教師たちは,半分以下し

か戻ってこなかった。そして, 1946年には国共内戦が勃発,当初は国民党

軍が優勢であったが, 47年春以降戦局は国民政府に不利に展開する。

実際には,抗日戦争期も,その後の内戦期においても,クリスチャン(プ

ロテスタント)は着実に増え続けていた。どちらの時期も,政治的にも社会

的にも不安な時期であったからであろう。ただ,蒋介石一家,宋子文一家な

ど,国民党や国民政府の首脳がプロテスタントであったので,先行きに不安

を感じていた役人たちがクリスチャンに帰依する可能性も多々存在した。そ

れが,共産党から見れば,キリスト教=特権者の宗教というレッテルを貼る

要因となった。また,抗戦期も内戦期においても,支配者たちの米軍への依

存が顕著であった。そこからキリスト教徒=アメリカ帝国主義の手先,ある

いはその走狗といったイメージもつくられがちであった。

1949年,毛沢東が率いる人民解放軍(共産軍)は,長江をわたり首都南

京を攻略,ついに国民政府を追い詰める。政府軍は全線で後退を続け,つい

に蒋介石ら国民党は台湾に逃亡し,台湾を拠点に大陸反抗を目指すことにな

る。

中国共産党はキリスト教を帝国主義列強のイデオロギー装置としてしか認

識していなかった。それゆえ,共産党にとって,宣教師全員の国外退去は,

当然の方針であった。「解放」直後すなわち,共産党の政権奪取直後,国内

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の治安がまだ不安定だった時期には,党・政府・軍は,国内のキリスト教徒

に対しても,宣教師に対してもやや慎重に振舞っていたかもしれない。だが,

治安維持に成功するやもはや遠慮はしなかった。中国人はたとえクリスチャ

ンであっても,外国人と縁を切ること,それが党の本意であであった。共産

党の意を体したプロテスタントたちは共産党の指導権を認める三自愛国教会

を組織し,宣教師たちとの関わりを断っていった。折から,朝鮮戦争が勃発

し,中国民衆の反米意識は先鋭化した。反米であれ,反帝であれ,西側世界

は敵であった。

中国のクリスチャンにとって,外国人である宣教師との付き合いを継続す

ることは,その身を危険にさらすことであった。自分たちの存在自体が中国

人クリスチャン弾圧の口実となることを悟った時,宣教師たちは中国に残る

ことを諦めざるをえなかった。彼らは中国から離れることを決意した。共産

党の人民支配が急速に強化されるなか,各伝道団の宣教師たちは次々に中国

を離れ,それぞれの出身国へと戻っていった。

1949年末においてもなお,内地会は 737人の宣教師が中国に残っていた。

クックもクーン夫妻もその中に含まれていた。撤退は単純なことではなかっ

た。撤退にも多額の費用がかかったからである。 1950年末,まだ, 518人の

内地会のメンバー,および 119人の協力団体のメンバー,そしてそれらの子

供たちを含めて,中国各地に散らばって残っていた。翌年, 1951年こそ撤

退の年であった。残留メンバーは 4月までに 371名, 6月末までに 203名に

減ったが,最終的な撤退は 1953年までかかることになった (Lyall1965)。

他の伝道団とは異なり,中国内地会にとり,中国という宣教地域の喪失は,

その存立根拠を失うに等しいものであった。だが,内地会は本部をシンガポー

ルに移し,中国周辺諸地域への伝道へ宣教地域を変更することで,引き続き

伝道団体 OverseasMissionary Fellowship (後に OMFinternational) と

して活動する道を選んだ。

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《注》

1) サミュエル・ポラードとメソディストの西南伝道に関して,『走近石門炊』

http:/ /www.shimenkan.org/に附載されている諸資料を多く利用している。こ

のサイトには,張坦『“窄門”前的石門吹』初版のほか,「葛布教会史」,「苗族教

会史」など,見るべき史料が多く掲載されている。

2) 経済面についてそれほど史料があるわけではないが,石門炊教会では,教民の

田地は教民にのみ譲渡売買しえたことが,長期的には,教民の間での資産保全に

つながり,教民と非教徒との間にはっきりとした差を生じさせたことを述ぺてい

る(張坦 1992)。さらにリス族教会(怒江流域)の例では,個々の家庭にとって

大きな経済的な負担となる,葬儀や巫医の治療行為に伴う大小家畜の供犠の禁止

が,結局は,教民の経済生活に良い影響を与えたこと,かつ,その後の政府や地

主による苛税や搾取に対して抵抗力をもたらしたと述べている(申暁虎 2014)。

3) このニコルズと石門炊教会との強いつながりが,演北地区におけるニコルズの

特別な地位の確立に結びついたものと思われる。ニコルズは 1943年,損北地区

を去り,オーストリラリアに帰国するが,それまで一貫して,同地区の監督であっ

た。ニコルズが 30年以上も洒普山に留まったということについて,ポラードが

礎を築いた洒普山教会の内地会への帰属をニコルズが決めた,という創立当初の

事情が関わっているのではないか,と思われる。

4) なお,民国期の河北定県の平民教育運動で知られる中華平民教育促進会の指導

者晏陽初は,幼少の頃,四川保寧の内地会西学堂に学んでいる。

5) 光華小学を拡大再編し,「西南辺罷威寧石門吹初級中学」が置かれたのは 1943

年のことであり,これは,威寧県における二つ目の中学であり,中国西南苗区の

最初の中学であった。 1951年に至るまで,光華小学は累計四千人以上,初級中

学は五百人以上の卒業生を輩出した。

6) 李亜丁「華人基督教史人物辟典:富能仁」 http://www.bdcconline.net/zh-

hant/stories/by-person/f/fu-nengren.php

7) 帰浪後ほどなくフレーザーは,循道公会のメンバーで,ポラードの僚友 Dymond

の娘 Roxieと結婚している。ポラード死後の内地会と循道公会(メソディスト)

の関わりを推測させる縁組である。

8) 党および国家との全面的な対立は,革命後の 1950年代にやってきた。外国(帝

国主義)の一切の影嬰から人民を解放しようと決意を固めていた党および国家に

とって,石門炊はいまや「小さな台湾」(小台湾)であった。小台湾の徹底した

壊滅を図る党と政府の攻勢の前に,石門炊教会はなすすべはなく,ただ屈服する

しかなかった。 1950-70年代における,打ち続く弾圧と混乱により,石門炊地区

あるいは三省交界地区における「教会一学校」体制は破砕され,石門次文化圏は

消失した。

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雲南における中国内地会の伝道 1900-1952 143

9) フレーザーはイギリス人,その伝道事業を引き継いだクックやクーンはアメリ

カ人である。それらを内地会主力における英系勢力から米系勢力への転換と呼ぶ

ことは正しくないであろう。ただ, 20世紀の二つの世界大戦時期において,特

に財政的な貢献を通じて,内地会にかぎらず各教派においても,アメリカ系伝道

団体の比重が高まったことは事実である。中国プロテスタント伝道全体について,

この時期,英系勢力から米系勢力へ,伝道の主力が代わったとする中国側研究者

(肖耀輝&劉鼎寅 2007)の見方には,注意を要する。そこには,宣教師団におけ

る主力の推移を,英帝から米帝への力の推移に強引に結び付けようとする中国側

の意図がある。すなわち,共産中国成立時において,共産党が宣教師やクリスチャ

ンをアメリカ帝国主義の手先として敵視したのは正しかったとする主張の一つ布

石である。

10) 更にひとつ, DGDには,重要な―ーしかし雲南伝道の範囲を大きく超える_

問題がある。 DGDの指導者 TheophilKrawielitzki (1866-1942) とドイツ・ナ

ショナリズム,ひいてはナチズムとの関わりの問題である。ただ,クラビーリッ

キーは,たしかにドイツ・ナショナリズムおよび反ユダヤ主義に傾きながら,

1920年代から 1930年代にかけ,英米色の強い内地会との関係を維持し,かつ,

DGDはその後も内地会の一翼として雲南における伝道を続けており,それらを

どう考えるのか,問題はそう簡単ではないように思われる。

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