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新潟大学人文学部 2016 年度卒業論文概要 メディア・表現文化学 主専攻プログラム

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Page 1: 新潟大学人文学部 2016年度卒業論文概要...声をもった自画像:森村泰昌論 相澤里帆 森村泰昌(1951-)は、歴史上の人物や西洋絵画の中の登場人物に扮したセルフポートレ

新潟大学人文学部2016年度卒業論文概要

メディア・表現文化学主専攻プログラム

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目 次

相澤 里帆 声をもった自画像:森村泰昌論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1

穴 沢 基 巨大ロボットものアニメにおける人間と機械の関係性について . . . . . . . . 2

石田 奈美 シャフト作品にみられる演出:『化物語』を中心に . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3

植木 花乃 アイドルとラジオ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4

海老原敬志 西谷弘の映画作品を中心にみる視線の在りか . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 5

大西 瑛子 末満健一におけるアイドル演劇 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6

小川 侑未 エンターテイメント化するメンヘラ現象 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 7

加藤みのり 俳優によるマンガキャラクターの再現 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 8

亀井 翔子 ファッション誌の変遷 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 9

川崎紗英子 スマホ時代のファッションと自己イメージ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 10

木戸 菜月 ファッションのジェンダーレス化 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11

木村 清華 桜ソングと日本 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 12

栗 原 望 現代のメディア環境における音楽聴取 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 13

小池 桃子 シューマンとロマン派文学 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 14

小林 真奈 創作活動における投稿サイトの位置づけ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 15

小 林 唯 BLマンガにおける家族 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 16

小山 祥子 ラーメンと地域創生 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 17

昆 実 咲 アニメにおけるキャラクターデザインの役割:「京都アニメーション」作品を中心に . . . . . . . . .

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齋田 佳奈 横断する物語とメディアミックス論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 19

斎藤 麻未 香月日輪論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 20

斎藤 楓穂 Jポップに表象される「自分探し」 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 21

佐 藤 光 「THE IDOL M@STER」シリーズ研究 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 22

三瓶 和也 福島第一原発事故が生み出した住民意識の隔たりに関する考察 . . . . . . . . 23

清水 夏音 はやみねかおる論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 24

須 賀 穂 西 炯子作品の分析 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 25

鈴木あかり 「塩顔イケメン」の流行からみる現代の男前論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 26

高津戸陽介 ポピュラー音楽における曲の構造 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 27

高橋 摩名 公共の場におけるキャラクター利用 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 28

高橋 未来 アルフォンス・ミュシャの設計 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 29

竹原 春佳 2.5次元ミュージカルとは何か . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 30

寺尾 真理 4D×鑑賞時の感情移入:2Dとの比較 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 31

中平 萌夏 黒沢清映画における幽霊の表象について . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 32

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西村 未音 宮崎駿作品における『少女』 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 33

二宮 友紀 流行歌の歌詞と携帯電話 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 34

林 将 吾 スピルバーグ映画における父 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 35

東澤 佳子 萩尾望都における顔 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 36

伏見 桃花 アメリカ女子ドラマの日本における受容について . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 37

古山 和樹 シェアリングと現代のメディア論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 38

堀内健史朗 熊本地震報道と災害のメディアリテラシーの考察 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 39

松岡きらら 錦絵に見る明治女性服飾史:美人画を中心に . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 40

梁田 侑希 身体のサイボーグ化と環境の変容 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 41

山岸 智大 公民権運動期における黒人音楽の思想 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 42

山田慶太郎 『宇宙戦艦ヤマト』のアニメと実写映画における映像表現の比較研究 . . 43

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声をもった自画像:森村泰昌論

相澤 里帆

森村泰昌(1951-)は、歴史上の人物や西洋絵画の中の登場人物に扮したセルフポートレイト作品を制作する芸術家であるが、彼は 30年以上にわたる活動の中で映像作品の制作も行っている。サイレントや実験映像のような作品が中心であった森村の初期映像作品だが、近年では肉声を用いて他者を演じる作品が複数制作されている。本論文では、森村が肉声を用いて他者を演じる映像作品の分析を中心に、森村が作品の内外で発する、「声」がもたらす効果について考察を行った。第一章では森村のテクストによる「解説を行う、メタの「声」」について分析を行った。そこから、森村のテクストによるメタの「声」は鑑賞者や批評家の作品解釈に一定の影響を与えていることを明らかにした。更に従来の写真論に立ち返って森村の写真作品とテクストの在り方について考察を行い、森村においては、テクストによる過剰な「声」が作品を取り巻いていることが明らかになった。また森村はこの「声」によって作品の鑑賞者に先入観が生じることを恐れてはおらず、むしろ積極的に自分の作品の背景やテーマ解釈につながる考えについてテクストを通して発信していることも確認された。第二章では森村の肉声による「声」が作品や鑑賞者に与える影響について分析を行った。森村が展覧会「美の教室、静聴せよ」(2007年)で自作した作品解説のための音声ガイドの「声」は、通常の音声ガイドと比較して長く、鑑賞者を拘束するものであった。この「声」の過剰は「自由な鑑賞」の前段階には音声ガイドのように時間・空間的な拘束を伴う「学び」が必要であることを示している。続いて森村が 20世紀の歴史に焦点を当てて制作した「なにものかへのレクイエムシリーズ」のパフォーマンス作品を 2点取り上げ、作品の「声」について考察を行った。三島由紀夫の演説を演じた『烈火の季節』では、三島の演説の肉声以上に力強く響く森村の「声」が、三島の演説が失敗した事実を強調していることを指摘した。そして映画『独裁者』(1940年)の演説シーンを演じた『独裁者を笑え』においてあらわれる、「悪」とされるヒンケルと「善」とされるチャーリーを同時に演じる森村の「声」と映像表現は、「独裁者」という存在の不可分性を示しているということを指摘した。第三章では最新の展覧会「森村泰昌:自画像の美術史―『私』と『わたし』が出会うとき」展(2016年)を取り上げた。まず展覧会の持つ役割や新たな試みについて検討したのち、展覧会で発表された『「私」と「わたし」が出会うとき―自画像のシンポシオン―』の分析を行った。森村は作品で演じる画家たちの「声」のイントネーションに変化をつけたり、話す内容を変化させたりすることで画家たちに個性を持たせている。映像作品のラストシーンの分析では、森村が演じる「モリムラ」が「美術史を知る自分」を殺すことで、彼が長年取り組んできた「美術史」というテーマに別れを告げていることを指摘した。このラストシーンで「美術史」から突き放された鑑賞者が何を感じるのかということが、この展覧会と映像作品の隠された主題ではないかということを解釈の可能性として提示した。

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巨大ロボットものアニメにおける人間と機械の関係性について

穴沢 基

巨大ロボットアニメは日本のテレビアニメーションの黎明期から存在し、現在に至るまで数多くの作品が制作されているだけでなく、『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』など社会現象となる作品を生み出すなど、日本アニメを代表するジャンルの一つである。本研究では巨大ロボットアニメにおけるロボットの描かれ方や人間との関係を分析し、その時代のテクノロジーの普及や発展と照らし合わせ類型化することを目的とした。第一章では「乗り物としてのロボット」の元祖である『マジンガー Z』から始まる 70年代の巨大ロボットアニメと当時普及の只中にあった自動車との関連を分析した。玩具として所有でき、アニメの主人公に自らを投影することで制御することのできる巨大ロボットが受け入れられたことを示した。また、自動車との関連を示すもう一つの事例として、巨大ロボットアニメブームと同時期に起きたスーパーカーブームとの関連を示し、この時期の巨大ロボットアニメを「スーパーロボット型」と分類した。第二章では 70年代的なスーパーロボットが下火になったころに登場した『機動戦士ガンダム』に始まる「リアルロボット型」と呼ばれる作品群を対象に分析した。「ロボットが量産される」という大きな特徴を持ったリアルロボット作品は、普及が一段落し、特別な存在ではなくなると同時に、世界と対等に渡り合うための工業製品となった自動車と対応していると指摘した。さらに第二章ではそのリアルロボットアニメブームが終了した 85年ごろに登場した『トランスフォーマー』に代表される意思を持ち人間と会話することができるロボットが登場する作品群についても分析した。この新しいタイプのロボットと関連するテクノロジーとして本論ではコンピュータを取り上げ、「コンピュータとしてのロボット」と定義するとともに、さらにそれを「人工知能型」「RPG型」の二つに分類した。第三章では「コンピュータとしてのロボット」が 90年代に入ってどのように変化していったかを分析した。『トランスフォーマー』では人間から完全に独立した存在として描かれていた「人工知能型」のロボットも、90年代の「勇者シリーズ」になると人間への依存の度合いが強まっていったことが確認された。「RPG型」のロボットもゲーム機の性能が向上するに伴い、姿を消していった。そして、『新世紀エヴァンゲリオン』において「他者的な要素を持つ巨大ロボットが主人公の身体の拡張を補助する働きをする」という「乗り物としてのロボット」と「コンピュータとしてのロボット」が合流したタイプのロボットが登場する。それに対応したテクノロジーとして、コンピュータと自動車の合流であるカーナビと先進安全自動車を取り上げた。以上の分析により巨大ロボットアニメは自動車とコンピュータという二つのテクノロジーと関係性があり、年代ごとにある程度類型化できると結論づけた。

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シャフト作品にみられる演出:『化物語』を中心に

石田 奈美

現在、アニメーション(以下アニメ)制作会社は何百と存在する。そして、イラストやストーリーなどさまざまな点においてそれぞれが会社ごとの特色を備えている。その中でも、株式会社シャフト(以下シャフト)は、作品内で、実写映像とアニメのコラージュを使用したり、タイポグラフィを多用したりと、独特な演出を用いることで知られている。本論文では、シャフトが用いる演出について、アニメ『化物語』(2009)を中心に考察し、さらにシャフトの演出における独創性は誰の手によって生まれているのかをも明らかにすることを目的とした。第一章では、まず国内においてアニメはどのように生まれ、発達していったのかということについて津堅信之の論を参考にしながらまとめた。その後、『化物語』含むテレビアニメはどのような歴史をたどってきたのか、引き続き津堅の論や 2015年に作成されたマイナビの記事をもとに概観した結果、シャフトは現在人気のあるアニメ制作会社の中では古株であるということが分かった。第二章では、『化物語』にみられる演出の特徴を、大きく六つに分けて論じた。そのうえで、古くからマイナスイメージを持たれていた「リミテッド・アニメーション」と顔暁暉が提唱する「セレクティブ・アニメーション」の違いについて考察し、『化物語』等のシャフトの作品は「セレクティブ・アニメーション」に属することを確認した。また、『化物語』は原作が西尾維新の小説であるため、原作とアニメでは主に演出面でどのような違いがあるのか比較検討した。そのうえで、シャフトによる『化物語』の演出は一般的にどのように評価されているのか調べ、論じた。第三章では、『化物語』の演出に大きく関わっているであろう新房昭之と尾石達也に焦点を当て、それぞれの人物がどのような作品に影響を受け、どのような考えで作品の制作を行っているのかについて論述した。その結果、シャフトといえば監督を務める新房の裁量が大きいと一般的には考えられているが、実際はシャフトならではの演出には尾石の存在が強く影響しているのではないかと結論付けた。

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アイドルとラジオ

植木 花乃

本論文では、アイドルにとって最大の売りとも捉えられる「容姿」を伴わないラジオは現代のアイドルとファンにとってどのような存在となっているのか、ジャニーズアイドルを対象に考察した。また、2010年に普及したインターネットラジオや SNSとの連携により接触率や利便性を高めたラジオは、アイドルとラジオの関係にどう作用しているのか、ラジオを通してどのようなコミュニケーションが行われているのかを明らかにすることも本論文の目的とした。まず第 1章では、本論文におけるアイドルの定義を「歌や踊りなどの一定の上演形式を持つひとつの芸能ジャンル」と設定したうえで、ジャニーズ事務所に所属するアイドルの本業と「表」の姿を強調した。第 2 章では、先行研究による現代社会における女性アイドルの在り方と比較することでジャニーズアイドルの特徴を述べた。両者の共通点として主たる活動の場が「現場」(コンサートや交流イベント)であり、ファンはその場を作る一員として「参加」することを重視すること・アイドルのパーソナリティを享受するようになったことを挙げた。両者の差異として女性アイドルが情報発信や心情吐露の手段として使用している SNS をジャニーズアイドルは使用していないことを挙げた。第 3章では、次章での具体的な番組の分析を前に現在のラジオ聴取環境は接触率や利便性が増していることを強調した。第 4 章では、ジャニーズアイドルがレギュラー出演している全番組(2016 年 10月現在)を対象にラジオ番組における Twitterとの連携・生放送・公開収録・トーク内容の 4つの観点から分析した。その結果、現在のラジオ聴取環境は双方向コミュニケーションが可能であるという特性を最大限に生かすことができ、ジャニーズアイドルとファンにとってラジオは女性アイドルとファンにおける SNSの代替的な役割を果たしていることが分かった。ジャニーズアイドルにとってラジオは情報発信や心情吐露の場であり、ファンにとっては

「現場」を補完する機能を果たし、アイドルのパーソナリティを享受するひとつの手段である。ジャニーズアイドルはラジオで「裏」の姿を提供しつつ、SNSで過度に「自我」を表現せずにファンとの独特な距離感を保ちながら“ジャニーズらしさ”をほしいままにしていると結論づけた。

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西谷弘の映画作品を中心にみる視線の在りか

海老原 敬志

西谷弘は自身が監督した映画作品内で、同じ時間に同じ空間にいるかのように人物同士の視線をつなぐメディアを映画の主題へのアプローチとして用いている。本稿では西谷の映画作品で描かれる主題とそのようなメディアとの関わりを論じながらそういったメディアによってつながる人物の視線がどのように演出されているかについて考察した。西谷が作品の中で主題へのアプローチとして用いたメディアとして鏡、電話、監視カメラを挙げた。第 1章では鏡について論じた。西谷は鏡を用いて、映画の中の人物の視点から鏡を見せることで限定された視覚を拡張し、同じ空間にいる別の人物の表情をとらえ人物の感情をあらわにした。また西谷は『真夏の方程式』(2013)、『任侠ヘルパー』(2012)においては映画の人物の姿を鏡に映しながらその視線をスクリーンに対して垂直に向けている。それにより観客は映画の中の人物の視点で鏡をのぞくような感覚にさせ、見る主体である観客と見られる映画という構図を強調し、それぞれの映画の主題を語っている。第 2章は電話について論じた。電話は離れた空間にいる二者を音によって同時間的につなげる。まずガニングなどの指摘を元にこれまでの映画における電話の通話の表現と携帯電話の登場によって生じた表現の変化について論じた。西谷の『容疑者 Xの献身』(2008)では通話のシーンを分割画面によって同一の画面で表現することで、よく用いられるクロスカッティング編集では表現できない同時間的な会話と「見つめ合い」を可能にし、男女の悲恋を象徴させた。『真夏の方程式』では携帯電話を海に飛ばしテレビ電話の通話によって海の中を見せた。電話を物として移動させ、テレビ電話の通話によって音ではなく映像をやりとりするものとして電話を使いながら、同時間のものとして携帯電話に映る「見る」人物の顔を海に浮かべることで、観客は海の中の「真実」を目にすることができた。第 3章は監視カメラについて論じた。レビンは 90年代ハリウッド映画における監視カメラの「リアルタイム性」について指摘している。『県庁の星』(2006)では物語の「高さ」という主題と関わりを持たせながら、監視カメラの「リアルタイム性」を用い、鏡よりはるかに広く離れた空間を俯瞰し、観客や人物の限定された視覚を広げるものとして監視カメラを用いていた。『仁侠ヘルパー』では監視カメラや携帯電話のカメラ、インターネットのライブ配信のカメラの前でリアルタイムに監視され、拡張された視覚にさらされる中で、今では時代遅れとなった任侠道を貫こうとする現代の任侠を描いた。彼は現代の社会に偏在する監視カメラや、ライブカメラの前でもかまわず「本物の極道」であり続けようとするのだ。西谷はどの映画の中でも同じ空間または離れた空間にいる人物同士を同時間につなげる鏡や電話、監視カメラのようなメディアを積極的に映画に登場させる。こういったメディアによって、映画の中の人物の視覚が拡張されることで不可視であるはずのものが、同じ時間、リアルタイムのものとして可視化されていく。その中で『任侠ヘルパー』では、西谷はそういった可視化された現代に生きる任侠を描くことで、新しい生き方を提示した。

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末満健一におけるアイドル演劇

大西 瑛子

多岐に渡る活動を行なうアイドルだが、近年演劇界への参入が盛んになってきた。これは女優へ転向する可能性のあるアイドルにとっては演技力向上の面で、演劇界にとってはアイドルが持つ動員力と女優の原石を発掘する機会が得られる点においてメリットがあるためである。香月孝史 (2013)は「特定のアイドル (グループ)の出演ありきで企画が成り立つ類の演劇」を「アイドル演劇」と呼び、アイドルが演劇を行なうことについて論じている。本稿においても香月のアイドル演劇の定義を用いて、脚本家・演出家・俳優である末満健一が作・演出したアイドル演劇『ステーシーズ 少女再殺歌劇』(2012)、劇団ゲキハロ第 13回公演『我らジャンヌ~少女聖戦歌劇~』(2013)、演劇女子部 ミュージカル『LILIUM-リリウム少女純潔歌劇-』(2014)、演劇女子部 S/mileage’s JUKEBOX MUSICAL『SMILE FANTASY』(2014)の 4作品を取り上げ、末満作・演出のアイドル演劇の特徴について考察を行なった。第 1章では第 1節にてアイドル演劇の定義を確認し、アイドルの演劇は「余技」であり、これまで演劇そのものよりも演技に奮闘するアイドルを見るという点にファンは魅力を感じると論じられてきたことを述べた。第 2節では AKB48グループ、第 3節ではハロー!プロジェクトにおけるアイドル演劇の変遷を見ていき、それぞれの特徴を明らかにした。第 2章では第 1節にて末満の経歴を確認した後、末満の作るアイドル演劇がメッセージ性が強く練られた脚本であること、末満自身がアイドルの実力や才能を認めていることの 2点を指摘し、末満作品にはこれまで考えられてきた「余技」としてのアイドル演劇とは異なる特徴が見られる可能性があることを示した。第 2節から第 5節では、上記 4作品の脚本、役柄、衣装等から物語の主題や特筆すべき点を明らかにして作品ごとにまとめた。第 3章では第 2章でまとめた事柄の中から類似性がみられる要素を取り上げ、さらに詳しく考察を行なった。第 1節ではアイドルたちの実年齢と役柄の年齢層が一致することを取り上げ、一致の理由を役者と役が同年代であることから生ずるリアリティに利点を見出したためだと考察した。また 4作品全てに「少女」が登場すること、その内 2作品においてはアイドルが演じる役柄が「情緒不安定な思春期の少女」であることに関しては、末満が若さゆえに移ろいやすい儚さを持つアイドルの「少女性」と重ね合わせた可能性を指摘した。第 2節では『ステーシーズ』と『リリウム』に描かれる、アイドルが演じるには惨たらしい「死」の描写を取り上げ、作中の「死」がアイドルの卒業や引退と密接に関係している要素であると分析した。以上の考察から、アイドル演劇は「余技」だと認識されているが、末満の作るアイドル演劇はアイドルだからこそ、より生々しく演じられる可能性を否定できず、アイドル演劇が決して「余技」だけではないことを示す一例であると結論付けた。

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エンターテイメント化するメンヘラ現象

小川 侑未

本論文『エンターテイメント化する「メンヘラ」現象』では、現代の、主に若者の間で流行する「メンヘラ」について探り、何故、本来はマイナスなイメージを持つはずの「病み」に纏わる商品がエンターテイメント化し、流行しているのか考察した。また、「メンヘラ」が最近の若者の流行り言葉であることから、論文に関する調査は主に新潟大学の学生約 100人に協力をお願いした。第一章では、エンターテイメント化している「メンヘラ」現象について調査した。本来ならば「病んでいる」とはネガティブなイメージとして捉えられるはずのものであるが、なぜ「メンヘラ」カルチャーなるものが受容されているのか、考察していった。結果、SNSの存在が「メンヘラ」の流行を助けている可能性があること、映画などのサブカルチャーが逆に大衆の「メンヘラ」像を固めていること、「メンヘラ」に関する商品に人々が共感を得、時に励まされることがある、といったことが考えられた。第二章では、「メンヘラ」という言葉がそもそも一体どういったものであるのか、この単語を知らない人にも分かるように、まとめた。「メンヘラ」は巨大掲示板サイト 2ちゃんねるより派生した言葉であり、大学生間における「メンヘラ」という言葉の認知度は極めて高いことが分かった。また、SNSに依存している、インドアの傾向が強い等といった特定のイメージが若者間に存在することも判明した。第三章では、「メンヘラ」は「SNSに依存しがちである。」というイメージを受けて、現代のスマフォユーザーの大半が利用する SNS が持ちうるストレス要因や、身近な若者である大学生の SNS利用について調査した。「病みツイート」を行う大学生達は、自分で自分のツイートをネガティブに感じている一方で、SNSを通じて他者との共感や同調を求めてしまう傾向があった。最後のまとめで、本論文の内容をまとめ、今回の論文について展望や反省を述べた。心の健康に問題を抱えている、ということが「メンヘラ」という言葉によって身近なものになったことで、人々は以前よりも「病んでいる」自分をさらけ出しやすくなったのかもしれない。だが、そこには自身の「病み」を更に悪化させてしまう危険性があるということも忘れてはいけない。本論文で調査した『大学生の「メンヘラ」に対する印象』は頗る悪かった。それにも関わらず人々はエンターテイメントとしての「メンヘラ」に共感し、そうすることで自身を「メンヘラ」に近づけ、需要の高まりと共に更に「メンヘラ」のエンターテイメント化を促進するという循環を生み出している。それ程までに、現代の若者の一部は病んでいるのかもしれない。

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俳優によるマンガキャラクターの再現

加藤 みのり

現在、マンガ・アニメ・ゲームといった 2次元の作品が次々に実写映像化、舞台化されている。その中でもマンガ原作においては、キャラクターの外観や動作・仕草が読者に明確に示されることで、読者の中にはキャラクターが鮮明に、はっきりと存在することになる。しかし同じマンガを原作としていても実写映像作品と舞台作品では、俳優のキャラクターの再現の仕方が異なり、観客の受容も異なっている。このことは、次元の違いと一言で片づけられるものではなく、舞台俳優と映画俳優の相違によるものであると考えられ、本論では、この相違を俳優が演じている“キャラクター”に着目して分析しつつ、観客による実写映像作品と舞台作品の受容の差について考えた。ただし本論では、観客が原作のマンガを読みキャラクターへの愛着あるいはしっかりとした認識を持った後に実写映像作品と舞台作品を鑑賞していることを前提とした。第 1章では、マンガのキャラクターについて特徴を挙げた。そして、舞台俳優と映画俳優がその特徴の再現を試みているが、媒体をうつることによってキャラクターの変化や変形は生じてしまうと論じ、第 2章の具体的な作品比較へと繋げた。第 2章では、舞台化と実写映像化の双方がなされている『テニスの王子様』と『美少女戦士セーラームーン』を代表として取り上げ、舞台作品と実写映像作品における俳優の比較を行った。その結果、舞台作品ではキャラクターを忠実に再現する傾向にあるものの、実写映像作品ではキャラクターが“観客に近い日常生活の中のキャラクター”に落とし込まれていることがわかった。第 3章ではマンガを構成する “コマ”に着目した。読者に大きな印象を残すコマが実写映像作品・舞台作品で再現され、俳優とキャラクターを重ね合わせる手助けになっていることがわかった。コマの外の出来事についても注目し、舞台作品は“日替わり”などで観客へ新たなキャラクターの側面をみせることを可能にしている一方で、実写映像作品では“カット割り”によってカットの外の出来事が生じており、舞台作品ほどキャラクターを自由に演じる余地がないと論じた。第 4章では俳優がキャラクターを演じる場所が、実写映像作品では観客と異なる位相にある一方で舞台作品では観客と同じ時空間であると論じた。さらに、俳優の知名度が実写映像作品ではキャラクターの記号の侵害となってしまう場合もあると述べた。以上のことから原作をすでに読んでいる観客にとって、マンガのキャラクターの記号を再現したうえで俳優が観客とのやりとりを行う舞台作品は、媒体の変化による新たな楽しみとして受け入れられるが、実写映像作品が“観客に近い日常生活の中のキャラクター”に落とし込んだとしても、観客と俳優演じるキャラクターの距離は縮まらず、マンガのキャラクターの設定だけ借りてきたパロディ作品としか受け入れられないと結論づけた。

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ファッション誌の変遷

亀井 翔子

本稿では、ファッション誌が辿ってきた変遷を明らかにするため、雑誌『an・an』の誌面分析をもとにその検討を行った。1970年に創刊された『an・an』は、日本のファッション誌において新たな歴史を作り出した雑誌と言える。型紙が付属し、洋服を自分で作ることが目的だった従来の雑誌の枠を超え、純粋にファッションを楽しむための雑誌の基盤を作り上げたのである。そんな『an・an』に関し、本稿では創刊された 1970年代から年代ごとに、誌面を構成する記事コンテンツの割合の測定を行った。そこから見て取れる誌面の特徴を 70

年代、80年代、90年代と順を追って示し、日本のファッション誌の先駆けである『an・an』がどのような変遷をたどってきたかを考察することを目的とした。まず第 1 章では日本の雑誌のこれまでの歩みを概観し、その中で 1970 年に創刊された

『an・an』がどのような位置付けにあるかを、これまでの研究をもとに確認し整理した。続く第 2章では、分析の方法を示すとともに、その分析結果から分かる 1970年代の『an・

an』の特徴を捉えることを試みた。ここでは、創刊当初に『an・an』がフランス誌と提携していたことに由来する「外国っぽさ」を 70 年代の誌面の特徴として指摘し、実際に創刊号や 70年代の誌面を取り上げて検討を行った。また、ファッション誌にも関わらず「旅行」をテーマにした記事が多い点にも着目し、社会背景などと絡めながら 70年代の誌面の特徴として分析を行った。さらに第 3章では、1980年代の『an・an』についての分析を進めた。「外国っぽさ」と「旅行」が特徴であった 70年代に対し、「旅行」記事が減少に伴い「恋愛・男性意識」の記事が増加してきたことを 80年代の誌面の特徴として指摘した。70年代に見られなかった「男性」というキーワードが誌面に登場し、『an・an』が理想とするこの時代の女性像が誌面の中で構築されていく様子を確認した。加えて、一般人の読者を誌面に登場させることを可能にした「スナップ企画」が広がりを見せたのも 80年代の誌面の特徴として示した。第 4章では 1990年代の誌面分析を行った。80年代の「恋愛・男性意識」の記事の増加の流れを汲み、90年代にはさらに誌面に「男性目線」が登場したことを指摘し、それがどのような形で記事に現れているかを実際の誌面を通して分析を行った。最後に、これまで確認してきた 70年代から 90年代までの変遷をまとめつつ、ファッション誌『an・an』が誌面において女性と男性の役割を明確化し、その描き分けを積極的に行ってきたことを改めて示した。結論として、ファッションの流行だけでなく時代や人々の生活スタイルの変化を的確に捉えることで、ファッション誌も社会を反映しながら変化していったことを指摘した。

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スマホ時代のファッションと自己イメージ

川崎 紗英子

インターネットの普及以前、ファッションとメディアとの関係性は、消費者がマスメディアを通して情報を受け取るものであり、基本的に消費者は情報の一方的な受け手であった。しかしインターネットが誕生し、その利用が世間的に広まって以降、ブログ上などで個人によるファッション等の情報の発信が行われるようになり、徐々にその一方的な関係性は変化してきた。そして近年のソーシャルメディアの爆発的普及により、これまで情報の受け手でしかなかった一般の人々がユーザーとして情報を発信し、その情報をまた一般のユーザーが享受するという動きが高まってきている。更に、双方向のやりとりでファッションを共有するといった動きも見られるようになってきた。特に、画像加工と共有に特化し、ファッションに関わる人の多くが利用する Instagramや、コーディネート共有・通販アプリケーションであるWEARなど、画像としてファッションを共有できるソーシャルメディアの利用者が広がりつつある。更に、ファッションに関する情報をまとめたキュレーションメディアも登場してきており、スマートフォン上からあらゆるプラットフォームでファッション情報を得る事が出来る。もはや現代の若者たちは、ファッションやライフスタイルの情報をスマートフォンでやりとりしているスマホ世代であるといえるだろう。ソーシャルメディアを通じて自らのファッションやライフスタイル情報を発信するようになった人々は、何を思い、誰に向けて画像を投稿しているのか。また、どのようなコミュニケーションのプロセスを経て、ファッション共有や情報のやりとりが為されているのか。ソーシャルメディアを通して、自らをどう表現しようとしているのか。本稿では現在のファッションやライフスタイルを取り巻くソーシャルメディアと、それを「おしゃれ」のために活用しているユーザーに焦点を当て考察した。

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ファッションのジェンダーレス化

木戸 菜月

従来、ファッションに関心を持つことや、容姿へ高い関心を持つことは、男性よりも女性に対してより期待されてきた。そのため、女性の服装には制約が少なく、女性が男性の衣服を着ることに対する批判もほとんどない。一方で、男性のファッションは許容範囲がきわめて限定されており、女性の衣服を着ることによる社会から受ける軽蔑の目や批判は厳しいものであった。そのような風潮の中で、ジェンダーレスファッションが注目を浴びていることに着目し、ファッションの特徴や変遷からジェンダーレスファッションがどのように社会に受け入れられ、個人に採用されていったのか、そしてファッションと社会はどのような関係にあるのかを明らかにすることを本稿の目的とした。第 1章では、ファッションが持つ特徴と社会的役割についてまとめ、ファッションは、「自由」または「うつろいやすい」という特徴を持ち、「自己の規定」、「他者と自己の差異化」そして「時代を映す鏡」という社会的役割を持つことを述べた。第 2 章では、男女の壁を越えたファッションを楽しみ、中性的な服装をする若者として注目を浴びた「ジェンダーレス男子」を例に、日本のジェンダーレスファッションについて分析した。その結果、ジェンダーレスファッションは、女装やユニセックスといった既存のファッションに関するジェンダー表現とは異なり、異性の服だと認識した上で、異性に見られたいという願望を持たず、日常的に異性の服を着用すること、およびそのファッションと定義することができた。その上で、ジェンダーレスファッションが受け入れられるようになった社会的要因や、ジェンダーレスファッションを実践する者の心理的要因について考察した。第 3 章では、流行ファッションの観点からジェンダーレスファッションについて考察した。その結果、ジェンダーレスファッションは、「他者との差異」を求める心理から誕生したファッションであることがわかった。そして、その心理から生まれた過去のファッションが、現在のジェンダーレスファッションに引き継がれていることがわかった。また、メディアはその影響力から、ファッションと社会の関係をより強固なものにする役割を持つことがわかった。終章では、現在のジェンダーレスファッションが、社会や個人の様々な要因や、過去の流行ファッションが積み重なって形成されたものであり、ファッションの変遷は社会とそこに生きる人びとの心理と密接に関わっていることを述べた。そして、現在進行中のジェンダーレスファッションを見届けることは、同時にジェンダーレスへ向かう社会を考えるきっかけになることを指摘し、本稿のまとめとした。

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桜ソングと日本

木村 清華

古代から、日本では様々な方法で桜が愛でられてきた。今日では、新しい桜の楽しみ方として「桜ソング」というジャンルが確立し、人々の間で定着したように感じる。桜ソングがブームになったのは、2000年に発売された福山雅治の『桜坂』が大ヒットして以降なので、ここ十数年のことである。このブームの背景には、入学式や卒業式が行われる 3月から 4月に安定して売れるという極めてマーティング的なものもあるが、古代から培われてきた日本人の桜に対するイメージが投影されているからこそ、多くの人々の好感を得ているのではないかと考えた。本論文では、桜ソングにおいて定番と言われている楽曲の歌詞を分析することで、現代の日本人の桜に対する無意識的感性や心象風景を考察した。第 1章では、J-POPの中で桜ソングがどのように形成されていったのかについて明らかにした。また、J-POPの誕生から楽曲のグルーピング化についてまとめ、他国には見られない日本独自の楽曲ジャンルとして桜ソングを紹介した。第 2章では、奈良時代から現代までの日本と桜の歴史についてまとめた。和歌や花見などの文化的浸透から軍歌や都市計画による思想的浸透、そしてニュース化や観光資源化による日常的浸透へと、時代を伴って日本と桜の関係性が変化してきたことについて記述し、桜が日本人の心・精神と呼ばれる所以を探っていった。第 3章では、桜ソングの歌詞を分析し、日本人の心象風景や無意識的感性を考察した。楽曲の歌詞を分析していくと、複数の楽曲に、①想いを比喩する役割、②「私」の代名詞としての役割、③第三者として主人公たちを見守る役割、という特徴が共通して見られることが分かった。この 3つの特徴は、第 2章で明らかにした日本と桜の歴史にも大きく関係していると考えられ、古代から培われてきた日本人の心や精神として捉えることができた。そして最後に、桜ソングが定番化していく一方、2006 年にいきものがかりの『SAKURA』が発売されて以降、目立ったヒット曲が誕生していないということを指摘し、その理由を考察するとともに結びにかえった。桜ソングがここまで世間の心を掴んでやまない理由は、「桜」という存在自体が、我々に様々な感情や心象風景を喚起させる力を持っているからであると言える。私たちは、桜が咲くことから喜びや希望を感じたり、散っている様子からは悲しみや不安を思い描いたりすることができ、桜の木自体からは、生命力や人生観、死生観などを感じ取ったりすることができる。つまり、現在たくさんの桜ソングが存在しているのは、作り手にとって非常に作りやすいテーマであるからだといえる。桜を様々な心情に置き換えることによって、より聴き手の懐に入り込むことができるのだ。桜ソングのヒットの背景には、このようなリスナー側とアーティスト側の需要と供給が見事に合致した結果も関わっていそうである。

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現代のメディア環境における音楽聴取

栗原 望

音楽聴取媒体の変化とともに音楽聴取者の音楽の聴き方なども変化してきていると考えた。そして、現代のメディア環境における音楽聴取の実態を明らかにしたいと考え聴取者に大きな影響を与えたと考えられる、演奏会、レコード、ウォークマンで主に音楽が楽しまれていた時代の聴取行動を確認し、現代のメディア環境の特徴を明らかにしていった。第 1章では演奏会で音楽が楽しまれていた時代である 18世紀と 19世紀を取り上げた。18

世紀の演奏会では音楽を聴くことよりも社交をすることが目的とされていたが、19世紀では聴取者層の変化により「音楽の作り手の精神と聴取者が一対一で向き合う」という聴き方が正しいとされるほど真剣に音楽が鑑賞されるようになっていったことを示した。第 2章ではレコードの登場によって音楽が日常で楽しまれるようになり、聴取者が「周囲の観客を気にせず一人でじっくりと音楽に向き合う」、「目の前に音楽家がおらず必ずしも音楽に集中する必要がないため何か別なことをしながら音楽を『聴き流す』」という二通りの楽しみ方ができるようになったことを示した。また、レコードの主な聴取形態は家庭で聴くことであるため、聴取者同士の社交性は無くなっていったことについても言及した。第 3章ではウォークマンによっていつでもどこでも簡単に音楽が楽しめるようになり、外部を遮断し完全に一人になることができるその聴取形態によって、聴取者の個別化がもたらされたことを確認した。そしてウォークマンの機能により聴取者は曲順や選曲を自分好みのものにできるようになり、「聴取者主体の聴き方」をすることができるようになったと考察した。このことから以前の「音楽の作り手の精神を楽しむ」という聴き方が姿を消していっていたことについても言及した。第 4章では現代のメディア環境における聴取行動を分析した。現代では聴取者の個別化も見られる一方、聴取者が動画投稿サイトに既存の曲を踊り歌う様子を投稿する、ニコニコ動画では投稿したコメントが動画再生時に現れることからリアルタイムで他のユーザーと動画を観ている感覚になれるなどの「新しい社交性」が見られると考察した。現代においては、携帯音楽プレーヤー・動画投稿サイトの機能などにより音楽の作り手の存在を意識しない傾向が強くなっており、聴取者主体の聴取形態となっていること、音楽聴取媒体の変化によって徐々に姿を消していった聴取者間の社交性が現代のメディア環境においては「見えない相手と交流する」という新しい形で復活していることが特徴であると言えると考察し、現代においてはメディアと音楽は切っても切り離せない関係にあると結論付けた。

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シューマンとロマン派文学

小池 桃子

シューマンの音楽はただ美しい音が美しく並べられただけでなく、背後には彼の深い思想と幻想的な世界が広がっている。当時のロマン派的な文学の思想を崇拝し、彼の音楽の独創性の根底には文学作品から受けた影響が存在する。シンコペーションと対位法の多様、いつまでもピアノのペダルを踏んでしまいたくなるような木霊する深い響きと神秘的な和声、遠くから響く何かの到来を予感させる音たち、憧れに満ちているが果てない渇望を感じさせる解決しない音楽、自身の心に率直な姿勢。彼のピアノ作品は『蝶々作品 2』や『フモレスケ作品 20』、『ノヴェレッテン作品 21』など小曲を集めたような作品や小品集が多い。そこには彼が形式に縛られるよりも自身の心の一辺を率直に音楽にしようとする姿勢が表れている。このような彼の作曲における特徴は意識的にも、無意識的にもロマン派文学の影響を強く受けて、形づくられたと思われる。本論ではまず一度シューマンがシューマン生涯をたどる形で考察した。第一章では主にロマン派文学の思想について考えながら、シューマンの音楽や思想との共通点に触れてみた。まず文学の世界では音楽に先んじてロマン派の活動が盛んになり、ヴァッケンローダーは音楽への憧れに満ちた作品を生み出し、ジャン・パウルの作品の中には予感的な音楽が響いていて、シューマンに多大な影響を及ぼした。そしてノヴァーリスは自己と宇宙を一体と考え、一方ヴァッケンローダーは音の鏡で人間は自分自身を知るとしたが、ロマン派文学者たちは共にシューマンのように自身の内面を見つめ、宇宙や自然、音などに自分自身の心を重ねた。またロマン派文学にもシューマンの音楽にも果てない渇望と憧れがみられることを述べた。第二章では彼の出生や性格、学生生活、そして彼の意に沿わない法学を勧めるが、愛する母の思いと一方で音楽をしたい自身の心との間の葛藤を通して彼の心のあり方を記述した。第三章では物事に潜む共通点を見つけることで、異なるものもひとつにしようとするロマン派的精神がシューマンの作曲方法に与えた影響について考察した。ロマン主義者たちは古典派の人々のように余計なものを取り去った典型を見いだすのではなく、物事の中に潜む類似性を機知によってみつけだし、一なるものを見いだそうとした。そしてロマン主義者と同じようにシューマンの心向くままに作曲された音楽は、構成や形式よりもむしろ、一つのメロディーの変奏によってか、または繰り返し現れるモチーフ、対位法、和声によって統一感を与えられたということについて述べた。第四章では彼の最期について触れながら、最期まで一つになれず、さらに分裂していった彼の心について考えてみた。終章では、まとめとして、シューマンがロマン派文学の影響を強く受け、彼の人生も、心も、作曲のうえでも、ロマン派の考えに染まっていて、その考え方でもって心の問題すらも解決しようとしていた、ということで本論の締めとした。

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創作活動における投稿サイトの位置づけ

小林 真奈

本論文では、インターネット登場以前から登場後、現在に至るまでの創作活動の変遷について分析し、創作活動の場としてのメディアが創作者にとってどのようなものとして捉えられているのか論じてきた。第一章では、インターネットが登場する前に行われていた創作活動について述べた。インターネット登場前の創作活動として同人活動を取り上げ、その歴史と同人誌がどのような存在として捉えられていたのか確認した。同人誌は戦後、商業誌プロデビューへの手段や修練として始まり、1970年前後には自己表現の手段や商業への抵抗、交流の場として捉えられていた。第二章では、インターネットの登場や、それ以降に創作活動が行われていた場である個人サイトや投稿サイトについて確認した。現在の個人サイトの原型は 1994年頃から登場し始めた「e-zine」と呼ばれる形態のサイトであり、それまで同人誌やミニコミ誌などで表現活動を行なっていた学生が、よりコストのかからない手段を求めて始めたものだった。小説やイラストなどを扱う個人サイトは 1996年頃から増え始めたと考えられる。投稿サイトは 2005

年前後から登場し始め、個人サイトに比べ作品公開までのコストが低いこと、検索機能や評価システムの存在で読者にとっても作品を探す労力が少ないことから、個人サイトに代わって創作活動の場として選ばれるようになり、また新たに創作活動に参入する人口を増やしたことを示した。第三章では、代表的な投稿サイト「小説家になろう」「pixiv」を例に挙げて、投稿サイトが創作活動に与えた変化を考察した。個人サイトにはなかった評価システムは、創作者の創作の目的を「人気・承認の獲得」へと変化させ、また作品の内容までも変化させる可能性があることを示した。また、交流を志向する作品媒体であるイラストは、投稿サイトの交流の機能によってその要素が拡大され、イラストを描くという行為が交流を前提になされるようになってきている可能性があることを示した。第四章では、具体的な創作活動の事例として 3人の創作者に行ったインタビューをもとに、投稿サイトが創作者にとってどのような存在として捉えられているのか考察した。個人サイトの「作品発表」「交流」という機能は、投稿サイトと SNSに分化し、両者は相互に補完し合いながら利用されることがわかった。投稿サイトは SNSと併せてその 2つの機能を成すメディアであり、「人気・承認の獲得」のためのメディアたり得ることを示した。

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BLマンガにおける家族

小林 唯

本稿では BLマンガの家族表象と、それに係る物語の母型〈メロドラマ〉に焦点を当てた。BLマンガは一種のジャンルフィクションであり、それが持っている登場人物や舞台設定(舞台装置)自体が持つリアリティ(現実らしさ) と、それらを用いて物語る際に、本当らしさを裏付けるもの(物語の母型)という二つの要素が存在した。したがって、第一章では、溝口彰子の論を参考にしつつ BLマンガを構成する要素をいくつかに分け、それらが BLマンガをジャンルフィクションたらしめる前提であることを確認した。第二章では、BLマンガのなかで物語の本当らしさを担保しているものが〈メロドラマ〉という物語の母型であることを考察した。また、〈メロドラマ〉の「人生の葛藤を推し進めたり、悪に対する活動的で明快な対立を犠牲儀式の代わりとしている。それは人間を不屈の抵抗者たらしめる。メロドラマは脅威にもめげず、人を先に進ませる」という認識と特徴は、BLマンガにおけるそれと共通しているため、BLマンガにおいて〈メロドラマ〉という物語の母型の利用は適切であったのである。ところが、その〈メロドラマ〉が包含する主題には家族(家庭)もあった。これに関して言えば、BLマンガというジャンルフィクションの要請(男性同士の性愛を描くものである)や BLマンガの読者層(女性)を考慮すると、BLマンガにおいて〈家族〉という主題は、思考実験を妨害する要素であり、省かれる要素であったのである。故にそれらの間で、〈家族〉という主題を巡り矛盾が生じた。第三章では第二章で述べた〈メロドラマ〉が包含する〈家族〉という主題に関する矛盾の克服を試みる動きがあることを述べた。しかしながらその動きは、主人公ら(同性愛=〈メロドラマ〉ではない)に〈メロドラマ〉の遂行を担わせるものであり、それは〈メロドラマ〉への回帰的側面をも浮き彫りにした。一方で、その矛盾を克服するために異なったアプローチの思考実験を行った作品があることを述べ、それらを分析した。異なったアプローチとは、主人公ら(同性愛=〈メロドラマ〉ではない)に〈メロドラマ〉の遂行を担わせるのではなく、まず異性愛(メロドラマ)ではないものを正当化するための装置としてこれらの世界設定を組み込み、そこからさらに〈メロドラマ〉が持つ道徳観とは異なった観念を示唆するものであった。そしてそれは、既存の〈メロドラマ〉という母型に収束するのではなく、新たなものを含んだ物語の母型たる〈メロドラマ〉へと換骨奪胎していった。本稿では BLマンガにおいて、そのジャンルフィクションの要請と〈メロドラマ〉の要請とに板挟みとなった〈家族〉という主題が、〈メロドラマ〉という物語の母型を再考させ、それにより〈メロドラマ〉を換骨奪胎するような思考実験を可能にしたことを明らかにした。そして特に、ジャンルの要請との矛盾があるために、〈メロドラマ〉における〈家族〉という主題に関する、現代社会に通じる道徳観、人間観こそが、〈メロドラマ〉という定義の問い直しを試みる余地を与えるものであったのである。

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ラーメンと地域創生

小山 祥子

ラーメンは多くの日本人にとって日常的に口にする食べ物であり、その食べるパターンは多様化している。Twitterや Facebook等のソーシャルメディアでも、ラーメンに関する投稿が多いように感じる。特に新潟県では「新潟 5大ラーメン」を公式の観光資源としており、地域情報誌はラーメンやラーメン店に関する情報を発信し続けている。2014 年から地域の人口減少・高齢化対策が日本各地で実施されたこともあり、ラーメンと地域創生に関係性があると仮定した。本論文ではラーメンの食文化、行政の地域振興政策、地域情報誌のラーメン特集、アンケート調査から地域や地域の人々とラーメンとの関係を考察した。第 1章では文献を参考にしてラーメンの誕生・発展を確認し、外食としてのラーメンの立ち位置を把握した。文献から歴史を分析し、ラーメンは作り手によって異なる味に変化することからアレンジ性と貴重さがあることを指摘した。第 2章では、2000年以降のまちおこしブームとそれに伴う B級グルメブームに行き着いた過程を説明し、ラーメンがブームとなるきっかけを考察した。体験型・交流型のまちおこしの一環として食の観光資源化が進行し、地方自治体は個性の伸長と他地域との差別化を図るためにご当地グルメのラーメンを活用した。第 3章では、最も長くラーメンを特集してきた『月刊新潟 Komachi』の歴代のラーメン特集を分析し、時代を追って情報誌とラーメンと地域のつながりについて研究した。分析したうえで 24年間の Komachiの特集を 4期に分け、それぞれの期間で地域とどのような関係性にあったのか指摘した。読者は徐々にラーメン愛を地域愛に発展させ、個人のこだわりも主張するようになった。第 4 章では Komachi 本誌と、近年ラーメン特集を定着さらにボリュームアップさせた

『月刊にいがた』や Komachiラーメン特集のインターネット上のサイト「新潟ラーメンガイド」と比較しながら、さらに読者とラーメンや地域との関わりについて探求した。店主へのフォーカスと口コミの情報としての活用という、ラーメンの情報の多様な形態を指摘した。第 5章では自称「ラーメン好き」の人へのアンケート調査をもとに、新潟県民のラーメンの情報収集から消費までの流れについて考察した。人々のラーメンを食べることに対する積極的な姿勢を指摘し、自己表現が情報として他者に受け入れられているとした。第 6章では第 1章から第 5章までで考察したことを踏まえて、ラーメンの地域限定性・アレンジ性・話題性の 3つの「地域性」を提示した。特に新潟には長年育まれてきた「ラーメンストーリー」が存在すると考察し、そのストーリーをたどることで地元への愛着を感じるようになると指摘した。そして、ラーメンを資源とした地域活性化は様々なステークホルダーによる地域創生の方法の 1つであると結論づけた。

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アニメにおけるキャラクターデザインの役割「京都アニメーション」作品を中心に

昆 実咲

キャラクターデザインとは、アニメやゲームに登場する人物などの外見をデザインすることであり、近年はこのキャラクターデザインが原作の絵に忠実であればあるほど評価される傾向にある。そのような傾向の中で、作品を越えて似通ったキャラクターデザインを提示し、支持を得ている制作会社も存在している。その中の 1 つに京都アニメーションがある。京都アニメーションは原作がある作品やキャラクターデザイナーが異なる作品でも、キャラクターに一貫したイメージを持たせていることが多い。本論文では、京都アニメーション作品の分析を通して、アニメにおいてキャラクターデザインが担う役割について論じた。第 1 章では、京都アニメーションが初期にアニメ化をおこなっていた美少女ゲームを原作とするアニメを中心にキャラクターデザインを比較した。この時期の京都アニメーションはゲームのキャラクターデザインと非常に似せたデザインでアニメを制作しており、それはゲーム自体の人気やブランドを利用するためであると考察した。また、アニメとゲームの性質の違いにも言及した。第 2章では、『涼宮ハルヒの憂鬱』に焦点を当て、小説のアニメ化について述べた。『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメ化においても、原作のキャラクターデザインを踏襲したデザインとなっていることを指摘した。しかし、ロトスコープによる演出によって、原作では提示されなかったような特殊な表情なども表現されており、それらの表情が「ハルヒ主義」というキャラクター中心のマーケティング戦略により視聴者に受容されたと考察した。第 3章では、四コマ漫画を原作とするアニメ『らき☆すた』と『けいおん!』について分析し、『けいおん!』の特異性について述べた。『らき☆すた』が原作の顔のバランスのムラなどを修正したキャラクターデザインになっていたのに比べて、『けいおん!』のデザインは原作の絵とは目や眉など顔のパーツの形が異なっており、これまでの京都アニメーションのキャラクターデザインとは一線を画すデザインであることを示した。第 4章では、『けいおん!』以降に制作されたアニメが原作のキャラクターデザインとは乖離しており、『けいおん!』のキャラクターデザインと似通ったデザインになっていることを指摘した。そしてこの独自のキャラクターデザインは、京都アニメーションがキャラクタービジネスにおいて自社がアニメヒットの恩恵を多く受けることができるような仕組み作りを目指した結果であると結論づけた。また、キャラクターグッズを通して、キャラクターデザインが非常に強く消費者の購買意欲を刺激するものであるということを示した。

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横断する物語とメディアミックス論

齋田 佳奈

複数のメディアで同一の作品が展開されることを、メディアミックスと呼ぶ。俗に言う、漫画や小説のアニメ化や実写化や、オリジナルアニメーションや実写映画のノベライズ、コミカライズなどの現象をひとまとめにした呼称である。われわれがメディアを通じて何か作品を受容する際には、もはや必ずと言っていいほど生じている現象と言えるだろう。しかしこの現象そのものに関する言説は、大きく取り上げられることがなく、もしくは、商業的な側面のみが注目されたままに、われわれの生活に浸透している。本稿では、オリジナルアニメーション映画作品とそのノベライズ、およびコミカライズの関係を考察した。オリジナル、という言葉の定義は曖昧なものかもしれないが、映画作品以前に 1つの作品・商品として同様の物語が発行されていないもの、という定義をした。また、映像化による動きや音声の付与、など付け足されるタイプのメディアミックスではなく、映像から文章へと収斂されるタイプのメディアミックスを取り上げた。以下に、各章の内容を列挙していく。1章では、メディアミックスに関する研究史を取り上げ、商業的な視点ではなく、メディアミックスすることそのものを表現の形として捉える傾向の論文を確認した。また、本稿で取り上げる作品について、吉浦康裕が原作・脚本・監督を務めたオリジナルアニメーション映画作品『サカサマのパテマ』ではメインビジュアルを提示し、視覚的に訴えることを前面に押し出したアニメーション作品がノベライズすることによる変化を取り上げることを目的とした。原作・脚本・監督『バケモノの子』では、ノベライズの著者が、映画の原作・脚本・監督と同じ細田守であることに着目し、映像と文章が同一人物によって表現されている例として取り上げる意義を示した。2章では『サカサマのパテマ』について、重力を用いた設定を考察し、その世界観を作り上げるための歴史の存在をとりあげ、ノベライズがあることによってその歴史が明らかになるとした。また、ノベライズで主観を与えられた登場人物によって、世界観が詳しく語られる効果についても触れた。3章では『バケモノの子』をとりあげ、アニメーションとノベライズで全く変化のないメディアミックスの意義を、物語の一回性を強調しているのではないか、とした。4章では総括として、物語中の仮想世界であっても、読者がそれを 1つの現実として受け止めるという大塚(2004)の前提を紹介し、それに沿う形で、世界観の深化をメディアミックスによって行っているとした。また、2作品のオリジナルアニメーション映画としてのバックボーンの考察とともに、映画の対象年齢の下限を低くする姿勢を取り上げ、このことと、世界観の深化の関連性をとりあげた。全体を通して、メディアミックスを、表現の一つの形としてとらえ、作品間にある差異が生み出す世界の広がりや、メディアミックス作品同士の重なりは、重視されるべき存在であるとした。

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香月日輪論

斎藤 麻未

香月日輪(1963-2014)は、1994年に『地獄堂霊界通信 ワルガキ、幽霊にびびる!』でデビューした児童文学作家である。著作には妖怪、幽霊、異世界の要素が共通して登場し、日常の隣の非日常に出会い、困難を乗り越えることで成長していく主人公を描く。本論文では、香月の作品分析、販売戦略に関する分析、他作家との比較分析、ジャンル分析などを行い、多角的な視点から香月について論じることで、視覚的なキャラクター造形にこだわりながら、児童文学やヤングアダルト、BLまでを横断した作家としての香月を明らかにした。第 1 章では、出版社の変更に伴い読者層が変化したことに注目し、「地獄堂霊界通信」シリーズの旧版と新版の比較から、読者の対象年齢に応じた表現の変化を分析した。第 2 章では、イラストに関するトラブルで出版社が変更されたことにふれ、変更後にはより幅広い年代の読者を獲得したい編集部と、香月の視覚的な造形のこだわりと、子どもむけに執筆していたのではないという香月の意識がうまくかみ合い、一般文芸に近づいていくパッケージングが行われたことを指摘した。第 3章では、香月と同時期に活躍し、読者層も重なりがあった同世代の女性作家である江國香織、宮部みゆき、あさのあつことの比較を試みた。一方では同時代の女性作家としての共通点を見出すことができたが、他方では児童文学研究者・宮川健郎の言うように、児童文学の「成長物語」と「遍歴物語」の要素を併せ持つところに香月作品の独自性があることを明らかにした。第 4章では、香月の小説とコミカライズ作品との結びつきの強さを論じ、香月の初期作品から順に辿っていくことで、BL小説の性格が強い「全裸男」シリーズへの接続を見出すことができると指摘した。さらに、香月の 2種類の HPを分析することで、自身の同人活動や愛好するまんがの二次創作が作品に影響していることも明らかにした。第 5 章では、東浩紀と大塚英志のリアリズムに注目したライトノベル研究と、大橋崇行の少女/少年小説の観点から見たライトノベル研究に基づいて、香月作品の分類を行った。東・大塚らの視点と、大橋の視点でそれぞれ考察することで、香月のキャラクター観の複合的な分析がなされた。以上の考察から、香月作品が持つ相乗りする多ジャンル的な特性や、児童書の枠組みを超える広がりを明らかにできた。そして、香月作品が、現代の物語が持つ多様性と錯綜性を代表的に示していると結論付けた。

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Jポップに表象される「自分探し」

斎藤 楓穂

現代日本のポピュラー音楽である Jポップの歌詞、とりわけアイドルや日本のポピュラーなロックバンドにおいて、「本当の自分を見つける」ということは「恋愛」と並ぶ Jポップにおける典型的なモチーフの一つである。この「自分探し」的なテーマは、Jポップにおいて肯定的に描かれていることが多いが、現実に「自分探し」をする若者は昨今批判的に捉えられる傾向にある。本論文は、現代日本のポピュラー音楽である Jポップを通じて、なぜ本来人間にとって重要とされるアイデンティティの模索が、近年「自分探し」として世間に否定的に受容されているのかを明らかにすることを目的とした。第 1章では、ポピュラー音楽と人々の関係性に言及し、Jポップを取り上げることの意義を説明した。第 2章では、音楽とアイデンティティとの関連性を考察し、コミュニケーションの手段としての Jポップについて述べた。第 3章では、音楽の聴取行動から現代の若者のアイデンティティについて探った。若者のアイデンティティの揺らぎは現代さらに進展し、場面や状況に合わせて依拠する音楽を使い分けるような音楽聴取のあり方は、逆説的に若者のアイデンティティ欠如を示唆していることを明らかにした。第 4章では、Mr.Childrenの歌詞を取り上げ、「自分探し」する若者の姿に迫った。そして、

「自分探し」自体が批判されているのではなく、若者のアイデンティティ欠如の傾向によって生み出された「過剰な自分探し」が批判の対象であったと述べた。そしてMr.Childrenに代表される「自分探し」の歌はこの「過剰な自分探し」に加担している可能性があると主張した。アイデンティティを渇望する若者は「自分探し」をすることによって本来の自分を見つけようとするが、その一方で終わらない「自分探し」にはまってしまう一面を持つ。「自分探し」を肯定的に歌う Jポップは、このような若者をさらに「過剰な自分探し」へと誘導する役割を持っているのであると結論付けた。

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「THE IDOL M@STER」シリーズ研究

佐藤 光

『THE IDOLM@STER』(以下『アイドルマスター』)シリーズは 2005年 7月に稼働を開始したアーケードゲームから始まった作品群で、プレイヤーはアイドルのプロデューサーとして、アイドルと二人三脚でトップアイドルを目指すというのが基本のストーリーである。ゲームの他にも幅広いメディアミックスがなされているが、ゲームにおいてはプレイヤーが操作するプロデューサーを、アニメではひとりの独立したキャラクターとして新たに作りあげて登場させている。本稿ではこのプロデューサーに焦点を当て、『アイドルマスター』シリーズにおいてはどういった存在なのかを考察していった。第 1章ではシリーズのなかでも『アイドルマスター』と『アイドルマスター シンデレラガールズ』(以下『シンデレラガールズ』)のゲーム・アニメ作品に絞り、ゲームについては大まかな流れと、プロデューサー、つまりプレイヤーのできることとしてシステムを解説した。アニメについては各作品のプロデューサーたちは対照的と言ってもいいほどに異なる人物像を持つが、いずれも第 1話に加えていくつかのエピソードを辿ることで、彼らにはそれぞれの原作であるゲームの特徴が反映されていることを解明した。第 2 章では先行研究を元に現実世界のアイドルとそのプロデューサーを取り巻く環境をまとめたことで、『アイドルマスター』シリーズは現実世界で行われてきたアイドルの楽しみ方をそのままゲームへと変換したものであることが分かった。さらに現実世界で代表的、かつ『アイドルマスター』シリーズの制作にあたっても参考とされていたモーニング娘。とAKB48というアイドルたちの特性の相違が、プロダクションの仲間は最も大切にすべき「家族」であり、その一員としてアイドルと対等に近い立ち位置にあるような印象を受ける『アイドルマスター』のプロデューサーと、グループだけではなく個人の活動も重視し、アイドルたちがそれぞれの道を見出して進んでいくのを上司としてサポートする『シンデレラガールズ』のプロデューサーという違いにつながったのだと論じた。第 3章では、それまでの考察から導き出した「『アイドルマスター』シリーズ全体を通して共有されているプロデューサー像は実在のプロデューサーをモデルとはしない『アイドルマスター』独自の存在である」という説への理解を深めた。プロデューサーにはアイドルと何か・誰かの間をつなぐことが仕事であるという板挟みの状態にあるからこそのドラマがあり、また実在するプロデューサーとは異なって、『アイドルマスター』シリーズのプロデューサーはマネージャーとしての役割も担っていると同時に担当アイドルの一番のファンという面も持つことを明らかにした。『アイドルマスター』は今なお展開し続けているコンテンツである。今後のゲーム作品やアニメ作品からもまた新たなアイドルとプロデューサーの関係性を読み解くとともに、受け継がれるプロデューサー像を再確認することを目標に掲げて本稿のまとめとした。

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福島第一原発事故が生み出した住民意識の隔たりに関する考察

三瓶 和也

本論文は、福島第一原発事故が生み出した様々な問題の中でも、特に福島県民の間に生じた確執に着目した。福島第一原発事故は直接的な放射線の脅威だけでなく、放射性物質等に関連した様々な風評被害や蔑視、差別等の問題も生み出した。さらに言えば、国や東電による福島第一原発事故被害者に対する賠償金や、その他補償に伴い、福島県民同士の確執をも生み出したのである。これらの県民の心の問題は明確になっておらず、処理をしようとする機運も無い。そのため住民間における不平等、不公平感は放置されてしまっている。そこで、本論文は、福島第一原発事故によって生み出され、未だに福島県に燻り続けている問題の所在を明らかにし、住民間に存在する確執の実態の一端を提示することを目的とした。第 1章では、東日本大震災、福島第一原発事故について触れ、被害の状況や原発事故の悲惨さを改めて確認した。第 2章では、福島第一原発事故の様々な影響について、先行研究や具体的な事例を交えて述べた。第 3章では、福島県内での住民意識の隔たりについて聞き取り調査を基に分析、考察した。第 4章では、各章を総括した。福島県民の間で意識の隔たりが生まれた背景には、事故後の国や東電の対応に問題があったと考えられる。確かな調査やデータに基づかない避難計画の策定や「ないない尽くし」の事故説明、また賠償対応の劣悪さ等が国や東電に対する不信感を募らせる要因となったのは先行研究、本論文の聞き取り調査の結果からも疑いようのない事実である。また被災者に対する賠償において、賠償対象の選定基準や賠償額の決定基準の曖昧さ等の問題が山積しており、賠償や補償の不公平感が住民同士の確執を生み出した。国と東電は、福島県民の抱いているネガティブな思いが確執となって顕在化しないように、賠償問題に関してコミットすべきであったのだ。賠償や補償の不公平感により生まれた福島県民同士の確執は、元々各住民が持っている考え方の違いや、立場の違い、社会環境の違いからさらに増大した。この知見をいかに統括し、反省材料にするかが今後の課題であるはずだが、これらの問題を視する機運の無さが問題である。大規模な災害や事故、事件等において、一見すると同じ被害者にしか見えない集団にも様々な立場により個人の意識や思いは大きく異なり、個人同士の意識の隔たりが直接的な被害とは異質な二次、三次的な問題を引き起こす危険性があるということを我々は理解すべきである。

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はやみねかおる論

清水 夏音

児童文学に対して子ども向けの文学作品という認識されているが具体的にどういったものを指すのかということに明確な答えを出すことは難しく、先行研究においても答えが出されることはほとんどない。そこで本稿では「名探偵夢水清志郎事件ノート」シリーズや「怪盗クイーン」シリーズなど人気長期シリーズを複数持つ現在の児童向け小説を代表する作家の1人と言えるはやみねかおるの作品の特徴をみていきながらはやみねの書く物語について考察することで現在の児童文学について考えた。第 1 章では、第 1 節において先行研究に示されている児童文学というものについてまとめ、本稿における一応の児童文学の定義を①おとなが子どもを読者対象として創造した文学、②広い意味の教育性(向日性・理想主義)をもつもの、③読者である子どもの興味・関心をよび起し、感動を誘うものという条件を満たす物語であると定めた。そして、第 2節では現在の児童文学の定義づけを困難にしている原因の 1つである児童文学のボーダーレス化について、いじめや自殺などの今まで扱われなかった題材が描かれるようになった児童文学におけるタブーの崩壊といった点に触れながらまとめた。第 2章では、第 1節ではやみねかおるとはやみねの長期シリーズ作品を紹介した。次いで第 2節では「怪盗クイーン」シリーズをはじめ「都会のトム&ソーヤ」シリーズなどにもみられた超常現象の登場といった作品の初期にはなかったファンタジーや SF的要素が物語の主軸に絡む作風の変化について触れた。そして、はやみねが夢やロマンを大切にしていることや野上の『越境する児童文学』におけるファンタジーに対する指摘を踏まえ、読者に夢やロマンを与えて「赤い夢」を見させる方法としてファンタジーや SF的展開を用いたのではと考察した。第 3章でははやみねかおる作品のキーワードである「赤い夢」について考察した。そのために第 1節、第 2節を通してはやみねの物語に出てくる赤い夢の住人の特徴をみていった。第 3節において前節までのまとめも兼ねて夢水清志郎についてみていきながら赤い夢の住人の特徴を自信と誇り、そしてどこか子どものような部分を持っていて基本的に多くの人を幸せにしようとする常識外の存在であるとした。さらに、赤い夢の住人と作中に少しだけ出てきた「赤い夢」に関する記述から赤い夢が一種の理想の世界なのではないかと述べた。終章では第 2章、第 3章でみてきた特徴を踏まえながらはやみねの作品が第 1章で述べたこととどう関わるかをまとめた。最初に第 1章で定めた児童文学の定義とはやみね作品を比べ彼の作品が児童文学であると確認したうえではやみねの作品が児童文学でありつつも子どもだけでなく大人のためにもあることを示した。そして、タブーの崩壊などの作品における変化だけではなく、今日大人が夢やロマンを求めていることが現在の児童文学の読者層の拡大に繋がっているのではないかと考察した。

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西 炯子作品の分析

須賀 穂

「西炯子」という女性がいる。『娚の一生』『姉の結婚』などを代表作として掲げ、30年近く第一線で活躍している女性漫画家だ。彼女は 1986年のデビューから現在に至るまで、30

シリーズ以上の作品を描き上げており、他では見られない独特な作風やストーリー展開で多くの読者の人気を得ている。本論では、そんな西炯子の代表作品を 3作品取り上げ、そのなかで挙げられる彼女の作品の特徴をイラスト・キャラクター・ストーリーといった観点から分析する。まず第 1章では、西炯子作品分析の前段階として、少女漫画がどのように変化、発展してきたのかを戦後から現在に至るまでを先行研究をもとに解説した。戦後当時少年漫画に比べレベルが低いとされてきた少女漫画であったが、「24年組」の活躍によりストーリー・テーマの多様化や基本技法の定着などをもたらし大きく発展したことを示した。次に第 2章で、西炯子という漫画家について詳しく紹介し、今回取り上げた 3作品が彼女にとってどのような作品であるかを述べた。また、3作品の登場人物やおおまかなあらすじをそれぞれ作品ごとに紹介した。そして第 3章以降で、イラスト、コマ使い、キャラクター、ストーリーなどにおける特徴を大きく視覚・物語の 2つの観点に分け、本格的な作品分析を行った。第 3章では主に視覚的な観点から、取り上げた 3作品の中でのコマやページを具体的に取り上げ、そこに現れている他の作家には見られない西炯子ならではの特徴を示した。ページの横幅いっぱい使われる横長のコマの連続、一見意味がないようで実は重要な意味を持つ空白への「書き込み」、同じページの中で描かれる複数の状況や心情、以上の 3つの観点に分け、その具体例を見ながらそれぞれのコマ使いの意味や効果などを分析した。第 4章では、主にストーリーの観点から、他の少女漫画には見られないような斬新なキャラクター設定、あるいはストーリー展開について述べた。西炯子の作品には、恋愛を諦めた独身アラフォーキャリアウーマンや、そんなヒロインのことを一途に思い続ける男たちが多く登場し、そんな彼らが巻き起こす物語は突拍子もなく、主人公たちはときに読者の想像を大きく超える行動を起こす。しかしそんな中でも、読者の現実世界に根付いたようなリアルな環境、テーマが存在し、読者の共感を得ることを忘れない。西炯子の作品は、一見非現実的なキャラクター・ストーリー展開でありながら、現実的かつ社会的な描写を取り入れられているため、読者の現実世界に近い世界観をつくりあげている。そしてそれが実際の読者から大きな共感を受け、広い人気を得ているのだとして、本論の締めとした。

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「塩顔イケメン」の流行からみる現代の男前論

鈴木 あかり

2007 年にイケメンブームが起こってから、様々なイケメンが世間をにぎわせてきた。メディア内においても毎日のようにその言葉は使用され、「イケメン俳優」や「イケメンアーティスト」などと呼ばれる男性タレントが活躍を見せている。その中で近年よく耳にするのが、「塩顔イケメン」である。塩顔イケメンとは、イケメンと呼ばれる男性の中でもよりあっさりした顔立ちの男性を指して使われる言葉である。2013

年頃に塩顔イケメンという言葉が誕生する前から、男性の顔立ちを調味料に例えて区別化することは、世間一般の間でなされてきた。最初に使われ始めたのが 1987年頃の「ソース顔」と「しょうゆ顔」であり、これは 1988年の流行語にもなっている。時が経つにつれてソース顔、しょうゆ顔、塩顔と、話題になる顔が変化していること、さらにはより薄い顔立ちになってきていることに気がつき、なぜこのような変化が起こっているのか興味を持った。またこのことから、女性が男性に求めること・理想像の変化が背景にあることを示しているとも考えた。第 1章ではメディアにおいて「塩顔」がどのようにトレンドとして押し上げられたのか考察し、実際の塩顔人気を示した。さらに塩顔以外にもいくつか存在する「○○顔」についても紹介し、なぜそのような「イケメンの分類」が必要であったのか、問いを立てた。第 2章では現代の女性が好む内面・外見を考察した。外見の考察では歴代の男性アイドルを参考とし、時代が進むにつれて西洋風な濃い顔立ちのみならず、日本人らしい薄い顔立ちにも需要が生まれていることを示した。さらにそのことを考慮したうえで、「イケメン」という言葉がもつ働きについて述べた。第 3章では「塩顔イケメン」を合成語や流行語といった観点から考察し、なぜ「塩顔イケメン」という言葉が必要だったのか、「塩顔」と「イケメン」が組み合わせられることで、どのようなことが起きるのかについて見解を述べた。第 4章では「塩顔イケメン」という言葉がもたらす適用の拡大とハイブランド化について考察した。適用可能な男性の範囲が広がる一方で、ハイブランド化される「塩顔イケメン」といった現象について、合成語と内面性の観点から見解を示した。さらにこの現象から読み取れる女性が求める関係性について論じた。

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ポピュラー音楽における曲の構造

高津戸 陽介

日本の音楽ヒットチャートが機能不全を起こして久しい。ランキングの上位を占めるアーティストの作品の中には、CDに握手券を付けるなどの付加価値によって売れているものもある。それは明らかに、従来の CDの売り方とかけ離れたビジネスモデルである。CDの商品価値の中には、音楽的価値とそれ以外の付加価値が内包されている。ヒットチャートは、売り上げ枚数という指標から一つのランキングとして形成されるが、音楽的価値そのものに順位を付けるわけではない。それでは、これが音楽的価値であると言えるものは、明確に示せるのだろうか?という問いから、本論では人気を博した曲の構造に共通する特徴を分析し、それを音楽的価値として立ち上げることを目的とした。第 1章では、日本において CD消費がどのように行われてきたかについて論じた。CDの生産量の最も多かった年は、1998年であった。従って、CDを通じて音楽産業が大きく興隆した 90年代から、CD不況と呼ばれるまでになった 10年代までの 20年間の曲群は、本論考における試金石となることを確認した。第 2章の第 1節では、音楽産業分析に関する従来の知見の中から、消費者と生産者に関わる 4つの理論モデルについて、批判や検討を加えた。その上で、最も重要な理論モデルはサイモン・フリスの合意モデルであることを指摘し、このモデルをフレームワークとして考察を進めることを確認した。第 2節では、ポピュラー音楽における曲の構造を理解する上で必要な、和音に関する音楽理論を概説し、和音がどのように分析に関わってくるのかを述べ、分析対象とその手法について定めた。第 3章では、1991年から 2000年までの楽曲群と、2001年から 2010年までの楽曲群に含まれる和音進行について、個別的に調査し比較・検討した上で、どのような特徴が見出せるのか考察した。その結果として、サビの導入に使われる和音には共通性があることが分かった。また、楽曲の転調といった音楽的操作には、商業的操作にとって代わられる恐れがあり、そのような操作によって画一化された音楽が、我々の感性に対して馴化をもたらすと指摘した。一方で、同じ和音進行を持つ楽曲が消費されてきた背景には、新しいメロディやリズムを常に志向するアーティストによる脱馴化があり、それこそが本来的な音楽的価値として位置付けた。第 4章では論の結びとして以上の総括を行い、フリスの合意モデルの枠組みの外に敷衍する理論モデルの構築を今後の課題として提示した。

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公共の場におけるキャラクター利用

高橋 摩名

「キャラクター」は、それを利用する企業やその商品、地方自治体などのイメージアップに繋がる重要なアイコンである。しかし、所謂「ゆるキャラ」が商用・非商用の目的問わず利用される一方で、「萌えキャラ」は「公共の場に相応しくない」と批判されることがある。地方自治体の「萌えキャラ」批判の例として、三重県志摩市の「萌えキャラ」・「碧志摩(あおしま)メグ」が挙げられる。公共の場に「萌えキャラ」が相応しくないとされる理由を端的に示せば、「碧志摩メグ」を含めその多くが性を誇張した表現をしているためである。本論は「萌えキャラの描き方」の考察に重点を置き、アニメや漫画のキャラクターとしてではなく、「萌えキャラ」が「公共の場のキャラクター」となった時にどのような問題を生じさせるのかを明らかにすることを目的とした。また、女性キャラクターだけではなく、「ゆるキャラ」ではない男性キャラクターも「公共の場」においては「性的身体」と成り得るのかどうかも合わせて論じた。第 1章では、「萌え」は「瞬間的に性的イメージを喚起させる表現」であると示し、それが氾濫することへの疑問を呈した。また、「萌えキャラ」を通して「女性の性的なイメージ」ばかりを公で描くことは、「男性:支配/女性:服従」というラディカル・フェミニズムの視点から見たポルノグラフィの問題を孕んでおり、また公的機関がイメージキャラクターを女性として造形する行為自体に、社会的な女性の従属の問題を含んでいることも示した。第 2 章では、「萌えキャラ」と男性キャラクターの違いについて考察した。「萌えキャラ」は胸や太ももなど、身体パーツに消費者の性的欲望が反映されるためにそれ単体で性的イメージを喚起させる。しかし、男性キャラクターは男性同士の恋愛を描く BL(ボーイズラブ)のように、キャラクターの二者関係があって初めて性的身体として成立する。また、「イメージキャラクター」には「物語」が希薄な例が多いが、この「物語」が「萌えキャラ」の性的な身体への欲望を正当化させたり、男性キャラクターどうしの「関係性」を成立させたりする働きを持つことについても述べた。第 3章では、「碧志摩メグ」や長野中央警察署の二人の男性キャラクターなど、実際に公的機関が利用している「萌えキャラ」と男性キャラクターの事例を挙げ、第 1章と第 2章で述べてきたことが実例に表れているのかを確認した。以上の分析を通して、「萌えキャラ」は性的な身体を強調して描く手法が定着しており、そのような女性のセクシュアルな表象だけを男女共用の空間に描くことは、「見る男性/見られる女性」という男女の社会的地位の非対称性を可視化させてしまうと結論付けた。一方、男性キャラクターは単体では性的表現とはならないが、「公共の場におけるキャラクター」としてのイメージを損ねかねない「性的な二次創作」を避けるためには、男性キャラクター同士の「関係性」の描き方にも留意すべきであることを、結論として述べた。

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アルフォンス・ミュシャの設計

高橋 未来

「ポスターの世紀」と呼ばれた 19 世紀末のフランス・パリで一世を風靡した画家、アルフォンス・ミュシャ (1860-1939)は、商業ポスターをはじめとするグラフィック・アートの分野において、たおやかな美女と緩やかな曲線を描く髪、それを飾る無数の花々といった優美な表現様式を確立し、「アール・ヌーヴォーの巨匠」と称される。しかし、彼の作品はただ優美であるだけでなく、細部まで計算され尽くした綿密な設計によるものであった。本論文は、ミュシャの生涯と作品と、その当時の世紀末芸術、ことさらアール・ヌーヴォーとの関係性について考察するとともに、具体的な作品の分析を通して彼のポスター作品における「設計」について論じることを目的とした。序章・第二章では、ミュシャの生涯と作品について簡単にまとめ、彼がパリで活躍した

1894年から 1904年までのグラフィック・アート類が、それまでミュンヘン、パリのアカデミーで伝統的な歴史画の手法を学び、生涯を通して熱烈なナショナリストであった彼にとってはまったく新しい、未知の分野の仕事であったことを確認した。それにも関わらず、彼はそれらの仕事において、当時の人びとが求めていたものを敏感に感じ取り、画面の中に的確に実現させることで「アール・ヌーヴォーの巨匠」としての地位を確立したとして、この時代の作品について論じることの重要性について示し、本論文の方向づけを行った。第三章では、ミュシャが活躍した 19世紀末の芸術界の状況と、「世紀末芸術」の表現の特質について述べ、彼の作品との関連性を指摘した。さらに、彼のポスター作品は、当時の他のポスター作家たちの作品と比較しても、きわめて「アール・ヌーヴォー的」であり、当時の人びとの要請に的確にこたえるものであったことを明らかにした。第四章では、まず「ミュシャ様式」の特質が、グリッドシステムを用いた理性的な画面構成と、巧みに抽象化され優美な曲線を描く動植物の装飾モチーフ、そしてアカデミックなデッサンや肉付けによる理想化された女性像によるものであると述べた。次に、ミュシャが 1894

年から 1899年の間に制作したサラ=ベルナールのための演劇ポスター全 7作品の分析を通して、これらの作品がヨコ:タテ= 1:3の縦長の画面を上部・中部・下部の三つの部分に正確に分割する明快な画面構成の中心に、繊細な装飾的モチーフを背負ったサラの立ち姿が配される共通したスタイルで描かれ、空白や色彩のコントラスト、理想化されたプロポーションとポージングの女性が綿密な計算の上で効果的に用いられていることを指摘した。以上の考察・分析から、第五章では、彼のポスター作品が当時流行のアール・ヌーヴォー風の意匠を意識的に取り込み、緻密な計算による画面構成と、綿密な計画に基づく視覚的効果によって「設計」されたものであると結論付けた。

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2.5次元ミュージカルとは何か

竹原 春佳

「2.5次元ミュージカル」とは、漫画・アニメ・ゲームを舞台コンテンツ化したものの総称である。2.5次元ミュージカルの昨年(2015年)の上演数は 123作品、年間観客動員数は 132

万人を突破 、市場規模を拡大しており、2014年には一般社団法人 2.5次元ミュージカル協会が設立された。現在ではメディアで取り上げられる機会も増えてきている。本稿では、2.5

次元ミュージカルが現在演劇においてどのような存在なのか、そしてどのような影響を与えているのか明らかにすることを目的とした。第 1章では、「2.5次元ミュージカル」という名称に注目し、メディアでの取り上げられ方や上演数、観客動員数の変化から、この演劇ジャンルの成り立ちと変遷を考察した。「2.5次元ミュージカル」という名称が使用されるようになったのは 2011~2012年にかけてである。この時期に、現在も続編が制作されるような作品が上演され、人気を得て、観客動員数が増加していったことが要因と考えられる。2014年の一般社団法人 2.5次元ミュージカル協会の設立によって、漫画やアニメ原作の演劇作品が「2.5次元ミュージカル」という名称の下 1つのジャンルとして統一され、それを機にメディア露出も増加した。第 2章では、漫画原作の作品を扱うことがある宝塚歌劇団や歌舞伎を演劇の先行ジャンルとして比較しながら 2.5次元ミュージカルの特徴を述べた。観客の鑑賞態度に類似点はあるものの、宝塚や歌舞伎が「俳優」の個性や「家」を重視するのに比べ、2.5次元ミュージカルではまず「キャラクター」が重要視される。しかし 2.5次元ミュージカルでは、舞台上の出来事だけでなく、SNSや DVDなど舞台外の様々な場所から情報を知ることができる。観客はそれらによって俳優を「キャラクター」としてだけでなく「俳優本人」としても観始め、先行ジャンルと比べより活発に「相関図消費(=作品等に登場する人物とその人物間の人間関係に注目する)」を行って 2.5次元ミュージカルを楽しんでいる、と考察した。第 3章では、観客や演劇関係者の発言から、2.5次元ミュージカルの評価や従来の演劇ジャンルとの関係を考察した。観客からはキャラクターや物語再現の高さを評価する一方で、2.5

次元ミュージカルの今後を心配する意見もアンケートにおいて見られた。演劇関係者側では、2.5次元ミュージカルに対し批判的な者も未だ一定数いるようだが、演劇を共に盛り上げる存在になると期待する意見も増えている。近年の大手制作会社の 2.5次元ミュージカルへの参入、俳優・スタッフのジャンルを超えた行き来が見られる状況から、2.5次元ミュージカルというジャンルの確立により演劇全体が活性化していると指摘した。最後に、2.5次元ミュージカルというジャンルはまだ試行錯誤している段階であり、今後演劇の 1つのジャンルとして残っていくかはまだ分からない。しかし、今後いかに丁寧な作品作りができるか、2.5次元ミュージカルで演劇に初めて触れる観客の多さから、漫画やアニメなどの原作はもちろんだが、いかに演劇の魅力を発信できるか、という点が 2.5次元ミュージカル、ひいては演劇が今後更に発展するために重要になってくると結論付けた。

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4D×鑑賞時の感情移入:2Dとの比較

寺尾 真理

映画やアニメなどの物語性のある動画を見ているとき、人々は特定のキャラクターに感情移入していることが多い。しかし、観客はいつも主人公の感情に没入しているわけではなく、シーンによって様々なキャラクターに自分の感情を重ね合わせていることも確かである。本論文では、4DX映画鑑賞時における身体的体験がストーリーへの感情移入にどのような影響を及ぼすのかということを、2D映画鑑賞時における観客の感情移入との比較に焦点を当てて考察した。第 1章では 4DXについての概要について提示したのち、近年どのような作品が 4DX化されて上映したのかを確認した。分析してみると、4DX化されている作品の多くは「アクション」「ファンタジー」系統であり、「ラブストーリー」「ヒューマン・ドラマ」系統の映画は4DXでは上映していないことがわかった。第 2章では映画館の歴史に沿って述べたのち、4DXはアトラクションとしての位置を確立できた映画館、すなわち現代で主流となって使用されている“遊園地の遊戯設備”という意味での「アトラクション」を用いた「アトラクション化された映画」として分類されると述べた。第 3 章では映画鑑賞時の観客の視線と判断、感情移入について先行研究をもとに論じた。観客の感情は大きく分けると、①他の観客 ②カメラワーク等による演出 の二つの要因からコントロールされているということが分かった。そして、観客は演出やカメラワークによって決定された視点を通して「想像的な身体」をイメージし、物語のキャラクターに自己投影、感情移入をしていると述べた。第 4章では 4DX版『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』での 4DXのモーションをもとに、4DXにおける感情移入を考察した。4DXのモーションは時に「想像的な身体」と不一致となったり、その影響で観客が予想していたストーリー展開を裏切るということがある。そうなると、観客の感情の行き先がスクリーン上で迷ってしまい、違和感や不快感といった新たな感情も生み出してしまうと分析した。以上のことから、4DXは疑似体験劇場としての役割を十分に果たし、観客を「想像的な身体」すなわち、物語への感情移入に好影響をもたらした。しかしその一方で、「想像的な身体」と 4DXによる身体的影響の不一致や、観客の視点とシートのモーションの間にずれが生じたことで、2Dの鑑賞時では感じることのなかった違和感を覚えたシーンもいくつか見つかったのも確かである。だが、4DXはまだまだ未発達の段階であるため、4DXのことを知り尽くした制作陣によって作られる 4DX映画が主流になってきている頃には、これらの身体的影響の不一致も少なくなると考えられると結論づけた。

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黒沢清映画における幽霊の表象について

中平 萌夏

映画監督である黒沢清は、自身の手掛けたホラー映画の中で、幾度となく幽霊を登場させてきた。黒沢は「幽霊とは何か」について思考を重ね、独自の方法で幽霊を表現している。本稿では、ホラー映画というジャンルの中で観客を怖がらせる存在として扱われる幽霊に着目し、黒沢作品における幽霊の正体に迫り、黒沢が幽霊を描くことで表現しようとしている恐怖とはどのようなものなのかということについて考察した。第一章では、まず幽霊の定義が「死者の霊魂のうち生者が視覚的に認識できるもの」であるということを確認し、「見る」立場である人物が存在して初めて幽霊が存在できるのだということを述べた。次に、黒沢作品における映像表現としての幽霊の描き方を『呪怨』や『リング』などの Jホラー作品と比較しながら分析し、黒沢の演出が、幽霊を目撃した登場人物の恐怖心を観客に伝播させることを目的としていないことを指摘した。さらに、作中において登場人物が幽霊を見つめる視線に着目して分析し、観客が幽霊を見る視点は、小中千昭が述べる「醒めた」観点であり、幽霊とも登場人物とも異なる「第三者」としての立場を観客に強く意識させるものであると述べた。第二章では、人々が幽霊に対して抱く恐怖心とは何かを述べた上で、黒沢が作品のストーリーを作る上で幽霊に関連した恐怖をどのようなものとして描いているのか考察した。黒沢の作品において、幽霊が現れる原因やそれによってもたらされる結果の描写が排除されている点を指摘し、黒沢の描く恐怖とは幽霊の出現によって訪れる結果やそれを打破する行為も方法も存在しない、「克服不可能な恐怖」であり、それは幽霊を見るという「体験」そのものに対しての恐怖心であると結論づけた。第三章では、黒沢による幽霊の身体の描き方について考察した。まず、幽霊の身体は死者の身体である「肉体」とは異なるものであるとした上で、可視的な存在である幽霊は目には見えるが実在しない、幻影としての「身体」を持つものであると述べた。黒沢が『LOFT』における幽霊の身体を死体=「肉体」として描いている点や、幽霊と登場人物の身体的接触によって、幽霊を視覚だけではなく触覚でも認識できる存在として描いている点に言及し、幽霊の幻影としての「身体」が質量をもって存在する物体として表現されていると指摘した。それによって、黒沢の作品では、本来「見られる」存在である幽霊が「見る」側の存在の有無にかかわらずそこに存在するものとして描かれていると述べた。黒沢が描く幽霊に対する恐怖とは、幽霊を見たという「体験」が記憶となって残り続け、一生まとわりつくことへの不安に根差している。登場人物を通してではなく観客自身がそこに存在する幽霊を目撃しているかのような感覚に陥ることで、この「体験」が観客自身のものとして残り続けるということが、黒沢の幽霊表象によってもたらされる恐怖であると結論づけた。

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宮崎駿作品における『少女』

西村 未音

日本にはジブリ映画というものがある。宮崎駿は子ども、とりわけ少女が主人公、またはキーパーソンに置かれる作品が多いとしばしば言われてきた。冒険や戦争の色を含んだ作品は、従来少年(または青年)が主導権を握り展開していく場合が多い。しかし、宮崎駿の作品は、少女キャラクターが物語を動かしていくものが多く描かれている。本稿では、宮崎駿はなぜ少年ではなく少女を印象的に描くのかということにも着目し、宮崎駿が描く「少女」の特徴を考察した。第 1章では、まず宮崎駿の歴史について触れた。宮崎駿が脚本と監督を務めている長編映画作品に限って、各作品の業績などを見ていった。さらに、インタビューで、子どもは可能性をもっている存在であり、子どもに語ることは価値があるということや、自分と同性を描こうとすると、自分の少年時代の陰影が強く投影されて対象化しきれないと語ったことを提示した。第 2 章では、宮崎駿が描く「少女」を分析するにあたって、宮崎駿が脚本、監督であり、宮崎駿の典型的な少女キャラクターが登場していると思われる『ルパン三世カリオストロの城』、『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』の 8作品を対象とした。さらに、各作品の登場人物やあらすじを紹介した。第 3章では、一般的な「少女」という概念について触れた。少女という概念は 1890年から 1910年にかけて創出され、定着したとされ、さらに少女のヴィジュアル・イメージの変遷についても見ていった。第 4章では、各作品に登場する少女キャラクターの一般的な少女の概念に収まる部分を提示し、映画の中で見られる視覚的なイメージや行動などを分析した。少女に対の男性主人公がいる場合、典型的な「助けを待つ少女」と「それを助ける男性主人公」という関係性になりやすいことを指摘した。第 5章では、逆に少女の概念から逸脱している部分について分析した。宮崎駿が描く少女の特徴であり、一般的な少女の概念から逸脱している〈母性〉、〈戦闘〉、〈周りとの関係性〉という 3つの軸を考え、その軸を用いて分析を行った。ほとんどの少女キャラクターが母性を持ち、戦闘を行い、一般的な少女の関係性とは異なる関係性の中にいることを指摘した。第 6章では、各作品の少女キャラクターについてまとめ、宮崎駿が描く少女キャラクターは、一般的な少女イメージと、〈母性〉、〈戦闘〉、〈周りとの関係性〉というような一般的な少女イメージから逸脱しているもの両方を含んでいることを明らかにした。さらに、宮崎駿が描く「少女」は、宮崎駿が考える理想的な主人公であると結論づけた。

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流行歌の歌詞と携帯電話

二宮 友紀

今日、携帯電話は肌身離さず持ち歩き、常に自分と共にある無くてはならない存在となっている。例えば、人間関係をつくっていく上で携帯は欠かせない。親しくなりたい相手と携帯で連絡をやり取りすることで距離を縮めようとする経験は、多くの人がしたことがあるだろう。もちろん、携帯は人と人を繋ぐだけではなく、人間関係を断ち切る道具になる場合もある。しかし、単に人間関係を構築する、断ち切るといっても、そのプロセスは多様である。そこには、一言では説明できない携帯の様々な役割が存在する。流行歌にも、歌詞のなかに携帯電話が登場する曲が多くあり、主人公が携帯を使用して人間関係を構築したり断ち切る姿がうたわれている。歌には、主人公の感情が描かれているため、人々が普段は表に出さないような繊細な心理状態を読み取ることが可能となる。本論文では、流行歌の歌詞を分析し、携帯電話の役割とその変遷を考察した。第一章では、流行歌分析の先駆者である見田宗介 (1978)と、流行歌における携帯電話の役割について分析した谷本奈穂 (2014)の先行研究を取り上げ、これまで流行歌の分析がどのように行われてきたか述べると共に、本稿の目的との違いを明らかにした。第二章では、流行歌の歌詞を分析し、歌詞のなかで携帯電話がどのような役割を果たしているか考察した。その結果、携帯電話は自分と相手を繋ぐ役割をもつ一方で、繋がることのできない不安を生むものでもあり、また行動や心を拘束する力があることを論じた。第三章は、「アドレスや写真を消去する」「メールを打ちかけてやめる」という一定の行為がどのような意味を含んでいるかについて論じた。失恋ソングでみられた、相手のアドレスや写真を消すという行為は、相手との繋がりを感じる機会を避けるだけでなく、前に進むけじめとしての意味も持っており、このとき自身と携帯が一体化しているような錯覚をおぼえていることを述べた。そして、メールを打ちかけてやめるのは、気持ちを言葉にする難しさや返事がなかった場合の不安、内容に隠された気持ちの大きさ故の行為であることを明らかにした。第四章では、歌詞のなかで携帯を現代的な方法で使用している橋本環奈「悪魔なカンナ」

(2016)を取り上げ、なぜこの曲が生まれたのか、という問いを掲げた。問いの答えを導くため、1997年から 2016年までの間を、流行歌の歌詞をもとに携帯電話の役割ごとに四つの時代に区分し、役割の変遷をたどった。「悪魔なカンナ」が生まれたのは、携帯電話で人と繋がることが当たり前になる中で、次第に携帯は束縛性を持つようになり、人々が「当たり前」を操作的に利用するようになったからであることを明らかにした。

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スピルバーグ映画における父

林 将吾

南波克行によれば、20世紀までの SF映画における「遭遇」が外宇宙の知的生命体との出会いを主眼としていたのに対し、21世紀の SF映画での「遭遇」は精神世界における自己との出会いを主眼とするようになり、自己を見つめるものへと変化してきた。本論文では、SF

映画における「遭遇」の変化を追うために、スティーヴン・スピルバーグ (1946-)が監督を務めた三つの SF映画作品――『未知との遭遇』(1977)、『E.T.』(1982)、『宇宙戦争』(2005)

――を分析した。スピルバーグは様々な映画ジャンルで、家族と不和を抱えた「父親」を描いてきた。本論文ではこの「父親」という役割の人物を中心に、異星人との遭遇による人々の反応の変化を追った。第一章ではスピルバーグ自身が父親と不和を持っていたことに言及したうえで、『未知との遭遇』を取り上げ、そこで描かれる父親像について分析した。異星人の呼びかけによってロイは自身の「父性」を放棄したが、異星人と結びつきを得られるという、積極的な特徴を付与された人物として描かれている面もあることを明らかにした。第二章では『未知との遭遇』の語り直しであるともいえる『E.T.』を題材にし、そこで

E.T.と出会う少年エリオットの心情の変化について分析した。父が不在であったエリオットにとって E.T.は寂しさを埋める存在であり、E.T.と結びつきを得たことで、エリオットは身近な他者である家族や友人との関係を再構築していく勇気を得ることができた。第三章では『宇宙戦争』の主人公であるレイの父性について分析を行った。自身の父性を子供たちから承認されないレイは、二人の他人の「死」を賭して娘を守ることで、家族に自身の父性が承認させることができた。しかし映画の最後で明らかになるように、レイの元妻が住む中産階級の街に異星人の攻撃の跡がない。攻撃を受けていたのはあたかも労働者階級者のみであるかのように物語は進んでいたのであり、『宇宙戦争』は単なる異星人と地球の対立だけでなく、階級の対立を描いた物語であって、その対立はレイの家族の内部にまで侵入していたのである。このように、スピルバーグの SF映画で描かれる「遭遇」は、「外」との結びつきを重視していたものから自身の家族や父性など「内」を見つめ直すものへと変化していった。その変化は、南波が指摘していた 20世紀から 21世紀へかけての「遭遇」をテーマとする SF映画の変化によく当てはまる。だが同時に、『宇宙戦争』で思いもよらなかった階級の溝が映像の中で出現したように、スピルバーグは家族の問題の重点を、その内部の個人的な問題から、家族の外部にあって家族をいわば横切る問題、つまり階級問題へと移行させている。スピルバーグ映画における父は、家族との関係の中での自己というテーマのみならず、現代のアメリカにおいて階級問題が未だ解消されないものであるということを示すうえでも重要な役割を持ったキャラクターなのである。

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萩尾望都における顔

東澤 佳子

本稿では、漫画というメディアに登場する人物がどのように描かれているかを検討した。とりわけ、別個の人物同士が有する〈同じ顔〉を取り上げ、漫画家の萩尾望都が〈人物の同一性〉という問題にいかに取り組んだかを、漫画家生活において自身が影響を受けたと萩尾が証言する手塚治虫の作品との比較を通し、考察した。第一章では、漫画論者の四方田犬彦の著書『漫画原論』(1994年)を先行研究として取り上げ、四方田が漫画の人物の識別に有効な四要素とした顔の形、髪、眼、口に着目し、以降の論考の助けとなる構成要素をまとめた。また、論考を進めるにあたり、顔を構成する要素以外で留意すべき要素を確認する目的から、漫画という媒体において可能な表現について、例示しつつ整理にあたった。それらは〈登場人物により認識可能な要素/認識不可能な要素〉に大別できるものであり、一例として、前者には人物の同一性を担う服装や言葉遣い、後者にはフキダシやフォントを挙げた。第二章では、押山美知子の著書『少女マンガ ジェンダー表象論――〈男装の少女〉の造形とアイデンティティ』(2007 年)を取り上げた。ここでは、手塚治虫の『リボンの騎士』(1953-1956年)が人物の描き分けという課題に対して髪型や服装に差異を設けるにとどまっていた 1950年代前半の漫画作品とは一線を画しており、顔の表象の差異化により人物に個性を与えるという、以降の作品にも通ずる手法を取り入れたことの革新性に触れた。また、視覚が不自由な人物による人物の認識を扱った手塚の『I.L――眼』(1970年)を分析し、『リボンの騎士』以後も手塚にとっては顔の表象の差異化こそが人物の描き分けに直結するものであったことを指摘した。第三章では、クローン技術という形で二つの〈同じ顔〉を登場させた萩尾の『A―A’』(1981

年)を、共通の題材を扱った手塚の『火の鳥――生命編』(1980年)と比較した。手塚はクローン体という複数の〈同じ身体〉を描きながらも、その各々に対し自我を与えることはしなかった。一方で萩尾においては、物語の設定において物質的に同等のものであると考えられるクローン体に明確な自我があり、それがオリジナルとは確かに異なる存在であることが読者に対し強く印象づけられている。第四章では、双子という〈同じ顔〉の存在とそれに付随する人格の問題を提起した萩尾の

『アロイス』(1975年)を分析した。まず萩尾においても、人物の描き分けの一方法として、手塚同様に顔の表象の差異化が図られていることを述べた。加えて、人物が登場するコマや彼らに与えられるフキダシが人物により異なっていることを指摘し、これらの差異化もまた人物の識別のうえで有効な要素であったこと、そしてそれが萩尾独自の手法であったことを示した。最後に、前章において筆者が明らかとした萩尾の〈身体の同一性〉に対する視線を再確認し、一人の人物の内面の葛藤に焦点をあてることにより同一性という主題を問いかけた萩尾の作家としての独自性は手塚を超えたところにあると結論づけた。

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アメリカ女子ドラマの日本における受容について

伏見 桃花

『ゴシップガール』(2007 年~2012 年) はニューヨーク市マンハッタンのアッパー・イースト・サイドの名門私立高校を舞台として、そこに通う高校生たちの恋愛を中心に描くアメリカの連続ドラマである。日本においてもたびたびファッション誌で特集され、人気を集める作品となった。ワーナーは公式サイトで『ゴシップガール』を「女子ドラマ」としてプロモーションしている。『ゴシップガール』はティーンエイジャーが主人公の、ティーン向けのテレビドラマであるが、シリーズを通して主人公の高校時代から結婚するまでが描かれている。また、現代の日本において「女子」という言葉が指し示す年齢層が広がりを見せている。この二つの要素によって、『ゴシップガール』はティーン向けのドラマでありながら、それ以上の世代にまで需要層が拡張されている。そこで本稿では「女子」という言葉に着目して『ゴシップガール』を分析することで、日本人女性がどのように『ゴシップガール』を受容しているのかを明らかにすることを目的とした。また、この問いを通して、戦後の日本の文化に少なからぬ影響を与えてきたアメリカとの関係も明らかにしていった。本稿ではまず、第一章では、「女子」という言葉が現代的用法では女性主体の言葉として使用されるようになったことを確認した。続いて「女子ドラマ」を考察するために、類似した受容の態度をとる「女子映画」について述べた。「女子映画」の受容の際にはファッションという評価軸が重要視されているため、従来の映画の評価軸では「女子映画」を評価しきれていないことを指摘した。第二章ではファッションに注目して『ゴシップガール』を分析した。日本の雑誌で『ゴシップガール』が紹介される際は、何を着ればそのキャラクターらしいファッションになるのかが具体的なブランド名とともに掲載されていた。また『ゴシップガール』においてファッションは、キャラクターの個性を表現するだけではなくそれぞれの関係性を示すなど演出の重要な要素であることを述べた。第三章ではハリウッド映画が日本人女性のファッションに影響を与えた例として、ヘプバーン・カットが当時の女性にとって自らを解放する有効な手段であったことを述べた。続いて『ゴシップガール』が日本の雑誌の中で翻訳・解釈される際に人種の問題がどのように反映されるのか分析した。日本の雑誌では、アメリカで重要視されている人種的多様性への配慮が欠け、白人中心の世界を再構築してしまっていることを指摘した。第四章では『ゴシップガール』がどのような人種表象となっているのかを、アメリカでの批評を踏まえて分析した。『ゴシップガール』では人種的多様性に配慮し、有色人種も登場しているが、ステレオタイプな表象が未だに行われていた。最後に上記を総合して、日本人女性にとって『ゴシップガール』は、ファッションを起点としたエンパワーメントの役割を担うという肯定的側面を持っている一方で、日本で受容される際には人種的偏りの問題が軽視され、白人中心の世界の再構築・強化が行われているため、人種的多様性に対する配慮が見えづらくしてしまっていると結論付けた。

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シェアリングと現代のメディア論

古山 和樹

現在においてシェアリング、シェアはごく一般的でありふれた行動である。古くは物々交換に始まり、今ではインターネットの情報化と結びついて益々の進化を遂げている。料理を分け合ったり、衣服を共有したり、CD・DVDをレンタルしたり、SNS上の投稿や書き込みなど、インターネット上の情報を拡散すること等々、日常生活を思い返せば、いかにありふれた行動であるかが分かる。ではなぜ、シェアリングという行動はこれほど広く行われているのだろうか。本論文の目的は、シェアリングが普及していく過程を、その社会背景と、メディアとの関連から明らかにしていこうとするものである。1 章でシェアリング、シェアについて定義し、2章で、近年になって取り上げられるようになった経済活動であるシェアリング・エコノミーについて具体例を挙げながら述べた。3

章では、シェアリングが普及するに至る社会背景を、主に消費社会の構造の変化と共にみていった。4章では、シェアハウスの定義に始まり、調査資料からシェアハウス入居者の人物像を考察した。5章でメディアが映すシェアハウス像とはどのようなものかについて分析し、明らかにした。6章では、シェアハウスで生活した経験のあるひとからのアンケート調査をもとに、実際のシェアハウスでの生活の様子とメディアで見るシェアハウス像との違いをみた。7章でまとめ・結論を述べた。論文を通して、シェアリングが広まっていく社会背景を追い、それは消費社会の構造の変化と、情報化の発達が要因であることを明らかにした。シェアリングの最大の魅力は、シェアによってひととのつながりや信頼が生まれ、心の豊かさもはぐくむ点である。加えてコミュニケーションの場や、コミュニティが創造されることに新しく価値を見出すようになったのである。シェアハウスもそのような「シェアリングブーム」の一例であり、ここでは、これまでの集団形態とは異なる、互いに深入りしないゆるやかなつながりが持たれていた。メディアが映すシェアハウス像は、実際の生活の様子そのままであるとは限らないが、「シェアハウス」という新しいコミュニティを世間に認知させ、具体的なイメージを持たせることとなった可能性は大いにあるだろう、と述べて本論文の締めくくりとした。

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熊本地震報道と災害のメディアリテラシーの考察

堀内 健史朗

本稿は災害時に活用されたメディアから分析しそのメディアから読み取ること(メディアリテラシー)ができる役割にはどのようなものがあるのかを見出していくことを目指している。メディアリテラシーの概念についてレン・マスターマンは次のように述べている。メディアリテラシーの基本概念は「構成され、コード化された表現(representation)」というコンセプトである。メディアはシンボルと記号のシステムであり、現実をそのまま反映しているのではなく、現実を媒介し、再構成して提示する。メディアリテラシーの取り組みはこの基本的なコンセプトの理解から始まり、誰が構成しているか(メディア・テクスト生産の決定要因)、どのように構成されているか(メディア言語)、テクストはどのような意味をもっているか(価値観・イデオロギー)、どのような人たちによってどう読まれているか(オーディアンス)といった一連の分析と取組むことになる。                           [レン・マスターマン 1985]

1章では熊本地震とはどのような地震であったか、その地震により被った情報インフラ復旧を軸に取り上げていく。2章では熊本地震が起きた直後のテレビメディアの報道について分析研究を行っていく。3章では熊本地震被災者報道で視聴者によって問題視されたメディア問題を、実例を挙げ、その報道に対し視聴者がどのように感じ批判したのかを確認していく。4章ではテレビメディア報道批評から新聞による報道の再認識を考えていく。

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錦絵に見る明治女性服飾史:美人画を中心に

松岡 きらら

17世紀後半に生まれ、200年ほど続いた浮世絵の人気は、明治時代になると次第に陰りを見せ始め、先行研究において明治時代は錦絵(浮世絵)の終焉期とされてきた。しかし明治時代にも、江戸の浮世絵師の流れを汲んだ浮世絵師達が活躍し、人々から一定の支持を得ていたのは事実である。本稿では、目まぐるしく変化していく時代の流れの中の装いと、それを追った錦絵の中に描かれた流行の装いとの間に生じた相違点に注目し、時世が反映されやすく、特に変化の激しい女性の服飾に焦点を当て、明治時代の女性の装いの移り変わりと、美人画を中心とした錦絵との共通点および相違点を述べることで、錦絵衰退期の明治時代においても錦絵が更に発展を遂げ、人気を得ていた要因を明らかにした。第一章では、錦絵の持つ特徴や明治時代に至るまでの浮世絵及び錦絵の歴史を整理した。浮世絵は、庶民が好む流行を追い続けていたという点と、庶民が手に入れやすい価格を実現し、大量生産を可能にした版画形態をとっていた点という二つの特徴を持っており、また、大量生産が可能であるという特徴が、江戸時代の人々の情報受容にも大きな影響を与え、浮世絵成立期以降の江戸社会には、当世の流行を追い発信する浮世絵とそこから情報を得る庶民という構図が成立していたことを確認した。第二章では、明治時代の服飾の歴史を、先行研究に従い、明治元年~明治 19年、明治 20

年~明治 29年、明治 30年~明治 45年の三期に分け、それぞれの時期の女性服飾史を辿るとともに、明治時代における錦絵版画の流行反映箇所の変化を分析した。幕末に輸入され始めた人工顔料の使用が一般的であり、流行色の正確な反映が難しかった明治前期は、その分着物の様式や、それ以外の装いの流行に対する意識が高かった。しかし明治中期以降は、版画技術の向上に伴い、時代の好みに合わせた淡い色遣いが可能となり、色の再現に最も力が注がれ、段々装い自体の流行を細かく追うことはしなくなっていったことを明らかにした。そして次第に、色の再現に対し注力する箇所は、流行色ではなく、「明るく淡い、美しい色」の表現へと姿を変え、明治後期になると、美術品の要素が強く、流行を細かく追う必要のない錦絵が生み出されていったことも示した。第三章では、第二章を踏まえ明治錦絵の性質の変遷を考察し、錦絵の色の表現が豊かになるにつれ、次第に錦絵の芸術性が高まり、それ以外の服飾の流行反映に対する意識が弱まっていったことを明らかにした。そして、明治時代の錦絵美人画は、江戸時代以来のメディアとしての錦絵と、美術品としての錦絵という、役割の異なる二つのタイプに分化していったことを明らかにした上で、後者の登場により、女性を描くという役目は日本画へと移り変わっていったという説を述べた。そして以上のことから、明治時代が終わり、情報伝達メディアとしての役目を終え姿を消してしまった錦絵の系譜は、錦絵が消滅前に辿り着いた、日本画における美人画という日本美術の一大ジャンルの中に僅かながらも息づいていると結論付けた。

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身体のサイボーグ化と環境の変容

梁田 侑希

本論文では、SFアニメーションにおける都市構造と、ネットワーク上で一種の空間性をもつ領域として認識される電脳空間という 2つの環境の描写と、作中で描かれるサイボーグの身体との関係の変遷を、「攻殻機動隊」の映画や TVアニメシリーズを起点に分析した。第 1章では、押井守の映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)と『イノセンス』(2004)、神山健治の TVアニメシリーズ (2002~2006)を取り上げた。押井の映画では、サイボーグは自分自身のアイデンティティを探求する主体であった。また、作中の都市は『ブレードランナー』(リドリー・スコット、1982)からの影響が見られるポストコロニアルな都市であったが、電脳空間は単に業務の必要上使用されるものに留まった。しかし、神山による TVアニメシリーズでは、サイボーグは集合知による複合体を形成する主体として描かれる一方、都市は当時の日本の都市と非常によく似た日常的な場所として描かれた。また、電脳空間が作中で一般市民の娯楽としても利用され始めていることから、TVアニメシリーズでは、都市とサイボーグの身体の描写について、日常と非日常が混在し始めたのではないかと考察した。第 2章では、「攻殻機動隊」以後の SFアニメーションとして磯光雄による TVアニメ『電脳コイル』(2007)について検討を行った。『電脳コイル』では機械を身体に直接埋め込まない「目に見えない」サイボーグ化が広まりつつある一方、電脳空間は現実の都市と全く同じ景色を構築することで日常性を獲得している。加えて、サイボーグ化を一切していない人々から「目に見えない」サイボーグへという人々のあり方の変化や、都市開発による田園風景の消失、都市の情報ネットワーク化の進行など、『電脳コイル』では古いものから新しいものへ移り変わる過渡期が描かれている。第 3章では、『電脳コイル』後の作品として、塩谷直義によるTVアニメシリーズ「PSYCHO

-PASS」(2012~2014)について論じた。「PSYCHO-PASS」では「目に見えない」サイボーグが社会の大部分を占め、東浩紀が「環境管理型権力」と呼ぶような情報ネットワークが人々を支配している様子が描かれている。また、作中ではホログラム技術が発達しており、ホログラムは投影対象をより華美に描き出す一種のミラーシェードとして機能しており、ホログラムによる電脳空間が現実世界を侵食しつつある。以上の分析より、「攻殻機動隊」では生身の身体と機械の融合という目に見えるサイボーグ化が主流であったのに対し、近年の SFアニメーションでは、機械を身体に直接埋め込まない「目に見えない」サイボーグ化が浸透しつつあること、また、サイボーグを取り巻く環境の描写においては、電脳空間や情報ネットワークが現実の都市や社会システムを侵食する度合いが強まっていることを指摘し、まとめとした。

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公民権運動期における黒人音楽の思想

山岸 智大

1950 年代半ば頃からアメリカで巻き起こった公民権運動において、音楽が民衆の心を一つにする上で大きな役割を果たしたことは間違いない。黒人教会で歌い継がれてきた黒人霊歌やフォーク・ミュージックはそれぞれ黒人の連帯や社会批判を扱うことで運動に貢献したと言われている。その一方で、当時流行していた黒人音楽と黒人意識との結びつきは見過ごされがちである。本論文では、当時の黒人運動の精神的基盤となった二つの黒人思想に着目したうえで 1950年代から 60年代頃の黒人音楽について考察した。そのうえで、60年代にジェームズ・ブラウンが創始したファンク・ミュージックが当時の黒人音楽シーンと黒人思想の関わりにおいて重要な意味を持っていたと考え、分析を行った。第 1章では、黒人解放運動の歴史の中で形成された二つの代表的な黒人思想について、著名な指導者の活動などから概観した。黒人が白人と平等な地位で共存することを理想とした統合主義と、白人社会とキリスト教的価値観から離れ、黒人の誇りと独立を訴えた黒人民族主義の二つの主張の違いを整理した。第 2章では、公民権運動に影響を与えたとされるフォーク・ミュージックを扱った。フォークは伝統的な黒人霊歌を歌うことが多かった点を指摘し、長い黒人解放運動の歴史を伝承する役割を果たしたとした。さらに、白人のフォーク歌手が歌うことで、公民権運動を黒人だけの運動ではなくアメリカ社会全体の問題へと提起したと述べた。第 3 章では 50 年代より人気を博した黒人歌手とレコード会社を分析対象とした。レイ・チャールズ、サム・クック、モータウン・レコードといった存在は、白人市場においても人気を得ることで黒人音楽の大衆化と黒人の社会進出を象徴した。しかし、白人からの受容を意識するあまり、ブルースなど伝統的な黒人音楽から乖離する指向を持っていた。そして、これらの黒人音楽は音楽産業内での人種の融和に貢献したものの、白人に同化しなければ平等にはなれないという差別意識が背後に読み取れると指摘した。第 4章では黒人音楽家であるジェームズ・ブラウンと彼が生み出したファンクを扱い、そこから読み取れる黒人思想を考察した。ブラウンのファンクの特徴をコード進行の否定とリズムの細分化と定義した大和田俊之の論を参考に、モード・ジャズや原始的な黒人音楽との共通項を指摘して、ファンクが白人性を排除した黒人音楽であり、黒人の誇りを重要視したブラウンの思想を反映させていると主張した。また、ブラウン自身は統合主義者であったが、黒人にも社会で自立するための努力を求め、白人と平等な立場で成功を競う社会を理想と考えた彼の思想を整理した。以上より、白人との統合を目指しつつも音楽面では黒人性を強めたジェームズ・ブラウンは二つの黒人思想を同時に体現し得た存在であり、ファンクという音楽は黒人の誇りが忘れられた、形だけの統合に対して警鐘を鳴らした彼の思想の現れであると結論付けた。

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『宇宙戦艦ヤマト』のアニメと実写映画における映像表現の比較研究

山田 慶太郎

手描きアニメーションという二次元的な映像作品を実写化という三次元的な映像作品にするということにどんな意味があるのかというところから端を発したこの研究は、『宇宙戦艦ヤマト』を題材として、映像作品の制作方法、視聴者が感じる視覚的な影響と聴覚的な影響を比較して、そこから実写と手描きアニメーションの違いを分析し、なぜ手描きアニメーションの実写化が行われるのかということを考察した。映像制作と、その際行われる編集における手描きアニメーションと実写の違いは、実写映画を作る際、現実世界において撮影を行っていることであり、手描きアニメーションの場合は一から手描きで平面上に絵を作り出し、それをつなぎ合わせることで流れを作り出しているように見せかけている、ということであった。しかしこれは実写と手描きアニメーション両方が「時間の流れ(を視聴者が感じることができるようなもの)」を有しているという共通点でもあり、それによる映像の「変化」を我々は感じ取っている。この「変化」を視聴者がどのように感じ取るかの違いが、実写と手描きアニメーションの違いになってくるのではないかと考えた。視覚的な「変化」を比較していくと、『ヤマト』の場合明らかに違うのが「映っているのが生身の人間を中心とした、現実を基準とした実写映像」と「一からすべて手描きで描かれたアニメーション映像」であるということである。そこには目に見えるものから感じ取ることのできる、「質感の違い」が存在しているのである。一方聴覚でも、同様の「質感の違い」というものは存在している。しかしながら、視聴者のイメージによって質感が想起される映像にとって、手描きアニメーションにおいて視覚的に現実ではありえないものでも、音のイメージが合致すれば現実の質感に近しい感覚を得ることが可能になるという、イメージの想起の緩さが存在している。これらを踏まえて、視聴者が実写映画と手描きアニメーションを比較して見る際に、「質感の違い」によって両者を区別し、その基準は現実に基づいている。これは、視聴者がアニメーションの持つ「アニメ的な質感」よりも現実の質感を優先している(というよりも現実の質感しか視聴者は経験できないためにアニメ的質感という架空の質感も現実を基準にするしかない)。手描きアニメーションを実写化することは、アニメーションが持っていた「アニメ的質感」の変化を、限りなく「現実の質感」に近づけたうえでの変化として視聴したいと視聴者が求めるからなのである。

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