質量分析...ぶんせき 217 3 試料導入量...
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216
Appropriate Usage of Analytical Instruments―Mass Spectro-
metry.
216 ぶんせき
分析機器の正しい使い方
質 量 分 析
吉 野 健 一
1 は じ め に
入門講座「分析機器の正しい使い方」は,本誌 2017
年 1 月号連載開始時の紹介に記されているように,測
定原理を理解しなくても装置を使用できる「装置のブ
ラックボックス化」が進んでいる中で,装置の使い分け
や正確な測定値を得るために必要な基礎知識,適切な試
料前処理法などを分析機器・測定分野別に解説するため
の連載企画である。今回の測定分野である「質量分析」
においても,質量分析計の性能や制御解析用ソフトウェ
アの向上に伴い,優れたマススペクトルを容易に得るこ
とが可能になった。しかし,電気的に中性の分子に電荷
を持たせるイオン化のプロセスを避けられない質量分析
では,いくら質量分解能が高い質量分析計を用いて測定
したとしても,イオン化されない分子の質量を測定する
ことはできない。優れた分析結果を得るために最も大切
なことは,試料中の分子がイオン源で“気持ちよく”イ
オン化する状態の試料を質量分析計に導入することであ
る。イオン化された場合でも,試料中のすべての分子が
同じプロセスでイオン化されるわけではないので,マス
スペクトルに表示される数値を均等に扱うことができな
い。測定したマススペクトルから正確な測定値を得るた
めには,イオンの種類や価数を判断し,同位体の存在や
m/z と質量の違いを正確に理解することが求められる。
本講座ではこれらの点に焦点を絞り,初学者向けに解説
する。
2 試料の前処理
質量分析は,試料中の分子をイオン化し,イオンの質
量と電荷に基づいて分離し検出する分析法である。電気
的に中性の分子に電荷を持たせて気相のイオンを生成さ
せる装置がイオン源であるが,イオン源に導入された試
料中のすべての分子がイオン化されるわけではない。イ
オン化効率は分子の性質やイオン化の条件によって異な
り,試料中に複数種の分子が混在している場合,イオン
化効率が低い分子や存在量の少ない分子のイオン化が阻
害される。イオン化されにくい分子をイオン化させるた
めに,たとえばエレクトロスプレーイオン化(elec-
trospray ionization : ESI)であればスプレー電圧やキャ
ピラリー電圧(装置によって呼称が異なる)を大幅に上
げる操作や,マトリックス支援レーザー脱離イオン化
(matrixassisted laser desorption ionization : MALDI)
であれば照射するレーザーの強度を大幅に増加させる操
作を行っても,結果が向上することはほとんどない1)。
イオン化効率の低い分子や微量成分を安定的にイオン
化させるためには,試料分子の濃度を上げることに加え
試料分子以外の塩類やきょう
夾ざつ
雑成分(マトリックス)を除
去することが求められる。そのためにはイオン源導入前
に試料の前処理を施すことが必要となる。質量分析では
試料分子がイオン化されなければ,事実上,試料中に存
在しない場合と同じ結果になる。試料の前処理は分析の
成否に大きく影響する。
試料に含まれる化合物の種類が多い場合,一度の分析
でより多くの成分を検出するためには,液体クロマトグ
ラフィー(liquid chromatography : LC)等の各種クロ
マトグラフィーを利用してイオン源に導入する前に質量
分離とは異なる分離原理で試料をあらかじめ分離するこ
とが望ましい。たとえば,多数のペプチド成分が含まれ
るプロテオミクス用の試料では,微量成分やイオン化効
率が低いペプチドにとって大量に存在する他のペプチド
成分がイオン化を阻害する夾雑物となる。LC を利用し
て同時にイオン源に導入されるペプチドの種類を減少さ
せることによって検出できるペプチドの種類の総数が増
大する。また前処理で除去しきれなかった夾雑成分(マ
トリックス)の影響を減少させる効果もある。
試料分子のイオン化はイオン源における試料分子の絶
対量ではなく濃度に影響されることから,LC を利用す
る場合は可能な限り細い流路系で内径の小さなカラムを
用いて分離を行ったほうが微量成分の検出が可能にな
る。試料の損失に対しても配慮が必要となるので,カラ
ムへの吸着による損失をより少なくするためにもレジン
量の少ないカラムを用いることが望ましい。
217217ぶんせき
3 試料導入量
ほとんどの分析機器と同様,質量分析計にも分析に供
する試料量には適量がある。適した試料量は,試料導入
方法,イオン化法,質量分離の方法,また試料の化学的
性質によって異なるので,一般論として適量を述べるこ
とはできないが,適量を超えた試料量を導入した場合,
まともな測定結果が得られないだけではなく,イオン源
や装置内部を汚染させ,以後の分析に支障をきたすおそ
れがある。最悪のケースでは真空を解除して装置内部の
洗浄が必要になる場合もある。クロマトグラフィーを用
いて試料を導入した場合,著しいキャリーオーバーに悩
まされることにもなる。
装置や化合物に応じた適量は,それぞれの分析の現場
で経験的にわかっているので,初学者の場合は経験者か
ら適量を学ぶことが必要である。適量が不明な場合は,
希釈シリーズを用意し,少量の試料から分析を試み,適
切なイオン量が検出できるまで段階的に量を増やし分析
を試みる。イオン化が困難な化合物もあるので測定例を
文献等で事前に調べることも大切である1)。
4 質 量 較 正
正確な測定値を得るためには測定前にあらかじめ質量
が既知のこう
較せい
正用化合物を測定して質量較正を行う必要が
ある。較正用化合物はイオン化法や装置によって異なる
が,各装置には常時使用している較正用化合物があるの
で,それを適量用いて較正作業を行う。手順どおりに進
めたつもりでも質量較正が正しく行われていないことも
あるので,作業後に同じ試料を用いて通常の測定を行
い,正しい測定値が得られることを確認することが望ま
しい。筆者はこの後さらに較正用化合物とは異なる既知
試料を測定し,分析システムに問題がないことを確認し
ている。クロマトグラフィーを用いて試料導入を行う場
合は,質量分析計以外の分析機器の状態も測定結果に影
響することから,分析システム全体が順調に稼働してい
ることの確認も兼ねている。たとえば,ペプチドを分析
する場合は,ウシ血清アルブミンのトリプシン消化物を
分析し,ペプチドの分離状態や保持時間,イオン強度等
を確認してから未知試料の分析を始めている。未知試料
の測定結果になんらかの不具合があった場合,問題が試
料にあるのか,分析システムにあるのかを明確にさせる
ため,筆者はこの作業を測定終了直前にも実施している。
5 マススペクトルから正確な測定値を知るた
めの基礎知識
5・1 マススペクトルに表示された数値≠測定質量
正確な測定値を得るために最も重要なことは,測定結
果であるマススペクトルを正しく理解することである。
質量分析では電子てん
天びん
秤とは異なりマススペクトルに表示
された数値がそのまま試料分子の質量の測定値にはなら
ない。同じ分子に由来するイオンでも,イオンの種類や
価数が異なれば測定値として得られる m/z の値が異な
るため,イオンの種類と価数を判断し,観測された m/z
の値から測定質量を換算しなければならない。近年は
データベース検索ソフト等で処理した二次的なデータか
ら測定結果を判断する頻度が高くなった。取得した大量
のマススペクトルすべてを確認する必要はないが,重要
な結論につながるデータに関しては一次的な生データで
あるマススペクトルに戻ってソフトウェアが導き出した
結果を確認することが望ましい。
5・2 m/z
質量分析の一次的な測定結果であるマススペクトルの
横軸から直接読み取ることのできる測定値は m/z(エ
ム・オーバー・ズィー)である。m/z は「イオンの質量
を統一原子質量単位(=ダルトン)で割って得られた無
次元量をさらにイオンの電荷数の絶対値で割って得られ
る無次元量」と定義されている2)~4)。質量は kg や Da,
u などの単位を有する有次元の物理量であるのに対し,
m/z は単位表記が必要ない無次元の物理量である。質量
分析ではマススペクトルに表示される無次元量の m/z
の値から,Da もしくは u の単位を有する有次元の質量
の値に換算する。
あるメーカーのソフトウェアはマススペクトルの横軸
ラベルに `̀ Mass(m/z)'' と表記し m/z を質量の単位の
ように扱っている。しかし m/z は物理量の名称であり
単位ではない。また m/ z は質量電荷比(massto
charge ratio)の記号だと信じられているが,電荷と電
荷数の定義は異なるので“m/z=質量電荷比”は誤った
固定概念である5)~7)。したがって `̀ mass/charge'' の横
軸ラベルも誤記である。
マススペクトル(質量スペクトル)と称されるが,原
則としてマススペクトルの横軸の数値は m/z の値で,
質量ではない。ただし,価数の異なる複数の多価イオン
ピークとして検出された生体高分子の ESI マススペク
トルから分子(中性種)の質量に変換したデコンボリュー
ションマススペクトルの場合は横軸の数値は質量である。
`̀ m/z, Da'' と表記するソフトウェアもあるがこれも誤記
である。Da は不要で,マススペクトルに表示された数
値に Da をつければ必ず測定質量になるわけではない。
質量分析で得られた数値を表す際,m / z,質量
(mass),質量数(mass number),質量電荷比(mass
tocharge ratio),分子量(molecular weight)の用語
が用いられる。しかし,この 5 種類の用語は同義語で
はなく,同じ化合物の質量,m/z,質量数,分子量,質
量電荷比の数値は必ずしも同じではない。質量分析の結
果を説明する際に質量数,質量電荷比,分子量の用語が
用いられる場合,その多くは誤用である5)~12)。質量分
218
図 1 Spermactivating peptide I(GFDLNGGGVG)の
ESI マススペクトル 図 2 塩化水素の EI マススペクトル
218 ぶんせき
析計に備わったソフトウェア自体に誤用があり紛らわし
いが,分析結果を正確に伝えるためには,測定値の正確
さとともに用語の正確さも必要である。
5・3 モノアイソトピック質量
質量は一つ一つの分子が有する固有の物理量である。
有機化合物を構成する主たる元素 C, H, N, O には質量
が異なる同位体が存在する。質量分析では一つ一つのイ
オンの質量に基づいて分離されるので,同じ組成式をも
つ化合物であっても同位体組成の異なる分子が含まれて
おり,試薬瓶から取り出した純度 100 % の有機化合物
を測定しても同位体組成の異なる分子に由来する複数の
イオンピークがマススペクトル上に観測される。
それぞれのピークから測定値が得られるが,通常は最
も低質量側のモノアイソトピックピークと呼ばれるピー
クの測定値が利用される(図 1)。この測定値(実験値)
と比較する計算値は,各元素において天然存在度が最大
の同位体の質量を用いて計算したモノアイソトピック質
量であり,分子量(相対分子質量)ではない。C, H, N,
O の場合,天然存在比が最大の同位体は,各元素の最も
低質量の安定同位体である 12C, 1H, 14N, 16O なので,こ
れらの同位体のみで構成される分子に由来するイオンが
最も低質量側のピークとして観測される。
5・4 同位体ピークは混合物
C, H, N, O から構成される分子を測定した場合,モ
ノアイソトピックピークの高質量側にもピークが観測さ
れる。1 価イオンの場合モノアイソトピックピークから
m/z が約 1 大きな位置に,2 価イオンであれば約 0.5 大
きな位置に観測されるピーク(M+1)は C 原子の一つ
が 13C である分子,H 原子の一つが 2H である分子,N
原子の一つが 15N である分子,O 原子の一つが 17O であ
る分子のいずれかである(図 1)。それぞれの分子の質
量は等しくないが,現在の質量分析計でこれら 4 種類
の分子を分離することは難しく,分離されることなく一
本のピークとして観測されている。このため,モノアイ
ソトピックピークの測定値に対するモノアイソトピック
質量のように,この同位体ピークの測定値と正確に比較
できる計算値を求めることは難しい。13C の同位体存在
度が 1.07 % であるのに対し,1H, 15N, 17O の存在度は
0.0115 %,0.364 %,0.038 %13)と小さいので,M+1
のピークは C 原子の一つが 13C の分子の割合が高い。
そのためなんらかの理由で最も低分子側のピークの測定
値を利用できない場合は,同位体ピークの測定値を利用
する。その場合測定値と比較する計算値は組成を明記し
たうえ 13C の同位体を含んだ計算質量を用いれば事実上
問題ない。
5・5 質量分析では分子量を測定できない
分子量は分子を構成する各原子の原子量と原子数の積
の総和である。分子量を算出するために用いる原子量
は,同位体の存在度を重率としてかけた,元素を構成す
る各同位体の質量の加重平均値である。したがって平均
値である原子量から算出される分子量も平均値である。
試料分子の質量と装置の質量分解能にも依存するが,
マススペクトルに出現する各ピークの測定値は同位体組
成の異なる各分子の値であり分子全体の平均値ではない。
図 2 に塩化水素の電子イオン化(electron ionization :
EI)マススペクトルを示す。塩素原子には質量が
34.969 Da と 36.966 Da の 2 種類の安定同位体が存在
し,その存在度は 0.7576 と 0.2424 である13)。これらの
数値から加重平均値を計算すると 34.969×0.7576+
36.966×0.2424=35.454 となり,塩素の原子量は 4 桁
表記で 35.45 と定義されている14)。塩化水素(分子量
36.46)の EI マススペクトルを測定すると m/z 35.98 と
37.98 にピークが観測されるが,分子量の値に相当する
36.46 の位置にピークは現れない。モノアイソトピック
質量を測定していながらこれまで「質量分析によって分
子量を測定する」という表現が使われてきたが誤りであ
219
図 3 質量分解能(質量分解度)の 2 種類の定義方法
219ぶんせき
る。塩素や臭素を含まない低分子有機化合物の場合,モ
ノアイソトピック質量と分子量の値の差が小さいので有
効桁数が少なかった時代には混同しても数値的な問題が
生じなかった。しかし,現在では高分子有機化合物のモ
ノアイソトピック質量をかなり正確に測定できる。その
測定値と分子量を比較しても一致することはない。分子
量の有効桁数を増やした数値が精密質量だと誤解されて
いるが,有効桁数ではなく根本的な概念が異なっている。
5・6 具体的な測定値の表記例
図 1 のマススペクトルを利用して,各概念に対応し
た数値の表し方を具体的に説明する。
◯1 このマススペクトルに表示されている各ピークの
m/z の値の差は約 1 である。このことから観測され
たイオンが 1 価イオンであることが分かる。
◯2 ESI マススペクトルであることから,観測されたイ
オンを 1 価のプロトン付加分子[M+H]+ と考える。
◯3 モノアイソトピックピークの m/z は 892.416 であ
る。1 価イオンの場合,m/z の値と Da もしくは u の
単位で表記した質量の値は数値的には同じになるが,
無次元量である m/z の値として表記する場合,単位
表記は必要ない。
◯4 この測定値と価数からモノアイソトピックピークと
して検出されたイオンの質量の測定値は 892.416 Da
である。
◯5 892.416 Da はイオン(1 価のプロトン付加分子)
の測定質量である。試料分子の測定質量はイオンの測
定質量からプロトンの質量 1.007 Da を減じることに
よって得る。891.409 Da が試料分子の測定質量とな
る。この測定値は 12C381H57
14N1116O14 のモノアイソ
トピック質量の計算値と一致する。C38 H57 N11 O14 の
分子量は 891.925 であり,モノアイソトピック質量
と分子量の値には 0.5 以上の差がある。精密質量のレ
ベルで表記せずに小数点 1 桁目までで表記しても測
定質量の数値と分子量は同じにならない。
5・7 イオンの種類
質量分析計で直接測定している質量は分子の質量では
なく,イオンの質量である。同じ分子からでも,イオン
化法や試料調製法,溶媒等の測定条件によって異なるイ
オンが生じる。正イオンを測定する場合,EI では主に
分子イオンが観測されるが,MALDI や ESI などのソ
フトイオン化法ではプロトン付加分子以外にも,ナトリ
ウムイオン付加分子,カリウムイオン付加分子,アンモ
ニウムイオン付加分子など,複数のカチオン付加分子が
観測されることもある。同じ分子であっても付加するカ
チオンの種類によって,イオンの質量が異なるので,観
測された m/z から分子の質量を換算する際には,観測
されたイオンの種類を判別する必要がある。多価イオン
の場合には,[M+H++Na+]2+ のように異なるカチオ
ンが付加する場合もある。ESI,大気圧化学イオン化
(atmospheric pressure chemical ionization : APCI),
MALDI で観測されるイオン種の例や判別法ついては高
橋,川畑による本誌の解説を参照されたい1)。
6 質量分解能とマススペクトル
6・1 質量分解能
マススペクトルの横軸 m/z にしたがって出現する
ピークがどの程度細かく分離されたのかを示す測定結果
の質を評価するための指標を質量分解度(mass resolu-
tion)と言い,特定の質量分解度の値を得ることができ
る質量分析計の能力を評価するための指標を質量分解能
(mass resolving power)と言う。
質量分解能(R)1000 とは m/z 1000 のピークと m/z
1001 のピークを分離できる能力を意味する。質量分解
能(質量分解度)の定義方法は 2 種類存在する(図 3)。
一つは「10 % 谷による定義」で,強度が同じ 2 本のピー
クの重なった部分の谷の高さがピークの高さの 10 % と
なるように分離できた場合,2 本のピークの m/z 値 m1,
m2 から質量分解能(R)は R=m1/(m2-m1)として定
義される2)~4)。この定義は主に磁場セクター型質量分析
計の質量分解能を表す際に使用される。
もう一つは「半値幅(full width of half maximum :
FWHM)による定義」で,現在使用されているほとん
どの質量分析計の質量分解能を表す際に使用されてい
る。ピークの m/z の値 m とピークの半分の高さにおけ
る幅(半値幅)Dm から質量分解能(R)は R=m/Dm
として定義される2)~4)。質量分解能 1000(FWHM)で
同じ強度の m/z 1000 と 1001 のピークを分離させた場
合,ピークの半分の高さで二つのピークが重なる。m/z
1000 のピークが m/z 1001 のピークと完全にベースラ
インで分離する場合,ベースラインにおけるピークの幅
は 1 以下でなければならない。ベースラインの幅が 1
のときの半値幅は0.5であり,完全にベースラインで分
離させるためには 1000/0.5=2000(FWHM)の質量分
解能が必要となる。
リフレクトロンを備えた飛行時間型質量分析計やフー
リエ変換質量分析計など質量分解能が数万を超える装置
220
図 4 質量分解度の差によるピーク分離の違い
220 ぶんせき
が高分解能質量分析計と呼ばれている。一方,四重極,
三次元イオントラップ,リニアイオントラップなどの質
量分析部の質量分解能は数千程度である。それでも分子
量 1000 以下の化合物であれば 1 Da の質量の差は識別
できることから,この程度の質量分解能は単位質量(ユ
ニットマス)分解能と呼ばれており,事実上低分解能を
意味する。
6・2 質量分解度の違いによるピーク分離の差
図 4 に質量分解度の違いによるピーク分離度の差を
示す。分子量 2592.731 のペプチドを測定した場合,質
量分解度 10000 ではベースライン上でピーク分離され
ており,モノアイソトピックピークの測定値 m / z
2592.265 を得ることができる(図 4A)。質量分解度
5000 ではベースライン上で分離されてはいないが,モ
ノアイソトピックピークの測定値 m/z 2592.265 を得る
ことができる(図 4B)。しかし,数千程度の低分解度で
このペプチドを測定した場合,ピークが重なりショル
ダーとして表示されたり(図 4C),一本のブロードな
ピークとして表示されたりする(図 4D)。このような
測定結果ではモノアイソトピックピークの測定値を読み
取ることはできない。
図 4D のようにピークが完全に重なってしまい,一本
のブロードなピークとして表示される場合,ピークの重
心の m/z 値から換算する質量は平均質量である。この
場合,モノアイソトピック質量ではなく平均質量の計算
値と比較し測定結果を評価する必要がある。
6・3 バーグラフ表示とプロファイル表示
測定の生データを連続的な信号としてプロットするマ
ススペクトルをプロファイル表示マススペクトルと呼
ぶ。一方,連続的な信号を定められたアルゴリズムで
ノーマライズしイオン強度を棒の高さとして表すマスス
ペクトルをバーグラフ表示マススペクトルと呼ぶ(図
5)。低分解能質量分析計を用いる場合バーグラフ表示
で記録するケースが多い。バーグラフ表示は,データの
容量が小さく処理時間を短縮できるが,ピーク分離の情
報が欠如しイオンの価数の判別ができない。そのため,
表示された数値をモノアイソトピックピークの測定値と
して扱うことの是非を判断できないケースも多い。
6・4 1 価イオンの実測例
低分解能質量分析計を用いてウシ血清アルブミンのト
リプシン消化物を測定した際に得られたデータを用いて
上記の問題を具体的に解説する。
図 5A 下に示したプロファイル表示のマススペクトル
ではピーク分離も確認でき,観測されたイオンが 1 価
イオンであると判断できる。バーグラフ表示とプロファ
イル表示で示された m/z 789.5 および 789.7 の測定値か
ら求められるこの分子の測定質量はそれぞれ 788.5 Da
と 788.7 Da である。このペプチドのモノアイソトピッ
ク質量の計算値は 788.5 Da で,バーグラフ表示の測定
221
図 5 低分解能質量分析計によって測定したバーグラフ表示
(セントロイドアクイジション)マススペクトルとプロ
ファイル表示(プロファイルアクイジション)マススペ
クトルの比較(三次元イオントラップ質量分析計を用い
て牛血清アルブミンのトリプシン消化物を分析した際に
得られたマススペクトル)
221ぶんせき
値と一致する。プロファイル表示の測定値 789.7 Da は
計算値と 0.2 Da の差で,誤差は 253 ppm である。分子
量 1000 程度以下の化合物であれば,低分解能質量分析
計で取得したマススペクトルであってもピーク分離は問
題なく,測定値をモノアイソトピック質量として扱うこ
とができ,誤差もそれほど大きくない。
6・5 2 価イオンの実測例
図 5B,C は同じペプチドが 2 価イオン(B)3 価イオ
ン(C)として観測されたマススペクトルで,このペプ
チドのモノアイソトピック質量は 1880.9 Da,平均質量
は 1882.1 Da である。
図 5B 下のプロファイル表示のマススペクトルでは同
位体イオンのピーク分離を確認でき,観測されているイ
オンが 2 価イオンであると判断できる。2 価のプロトン
付加分子と仮定すると低質量側のピークの測定値 m/z
941.6 から求められる分子の測定質量は 1881.2 Da とな
る。この測定質量は平均質量よりもモノアイソトピック
質量に近似しており(誤差 159 ppm),m/z 941.6 のピー
クはモノアイソトピックピークであることが裏付けられ
る。
図 5B 上のバーグラフ表示のマススペクトルだけで価
数の判断はできないが,2 価イオンとして測定値を評価
する。m/z 941.7 の測定値から求められる分子の測定質
量 1881.4 Da は平均質量よりもモノアイソトピック質量
の計算値に近い値(誤差 266 ppm)である。
6・6 3 価イオンの実測例
3 価イオンになるとピークが重なりプロファイル表示
でも価数の判断ができなくなる(図 5C)。以下 3 価の
プロトン付加分子と仮定し結果を評価する。バーグラフ
表示の測定値 m/z 628.2,プロファイル表示の測定値
m/ z 628.3 から得られる分子の測定質量はそれぞれ
1881.6 Da と 1881.9 Da である。いずれの測定値もモノ
アイソトピック質量よりも平均質量の計算値(1882.1
Da)に近い。平均質量の計算値との誤差はバーグラフ
表示が -266 ppm,プロファイル表示が -159 ppm で
あり,1 価や 2 価イオンから得られる測定質量とモノア
イソトピック質量との誤差(絶対値)と同程度であった。
6・7 バーグラフ表示の注意点
低分解能質量分析計を用いた測定ではバーグラフ表示
のマススペクトルでデータを取得する場合が多いが,そ
の場合 ESI など多価イオンが観測されるイオン化法を
用いた分析ではイオンの価数を判断することはできな
い。イオンの m/z から測定質量を換算する場合,既知
の試料であれば価数を計算できるが,未知試料の場合は
複数の価数を想定する必要がある。
3 価以上の場合,得られる測定値はモノアイソトピッ
ク質量ではなく平均質量の測定値である可能性が高い。
ピークリストを作成してデータベース検索を行う場合,
通常測定値はモノアイソトピック質量の計算値と比較さ
222
図 6 ヒトミオグロビンの計算マススペクトル
222 ぶんせき
れる。低分解能質量分析計を用いた場合,測定値のピー
クリストにはモノアイソトピック質量と平均質量の値が
混在している可能性があることを念頭に置いてほしい。
低分解能質量分析計を用いた測定で測定値と計算値との
誤差が大きくなる原因は,横軸 m/z の正確さの低さも
さることながら,ピーク分離が悪いことによって結果的
に平均質量の測定値をモノアイソトピック質量の計算値
と比較していることも一因となっている。
7 高分解度マススペクトルの問題点
ヒトミオグロビンを質量分解度 50000(FWHM)で
測定した場合のマススペクトルを図 6 に示す。分子量
17000 を超える高分子でも同位体ピークどうしがほぼ
ベースラインレベルで分離している。質量分解度の高い
優れたマススペクトルのように思えるが,実はこのデー
タから正確な測定値を得ることは難しい。
有機化合物の場合,分子量が大きくなればなるほど分
子を構成する C 原子のすべてが 12C である分子の割合
が減少する。ヒトミオグロビンの場合,計算上 13C を
10 個含んだ分子が最も多くなり,この分子由来の同位
体イオンピークが最大強度となる15)。このピークの強
度を 100 とした場合,モノアイソトピックピークの強
度比は 0.04 に過ぎず,これを検出し,正確な m/z の値
を得ることは困難である。最大強度ピークの値を読み取
り,計算値と比較することも可能であるが,最大強度
ピークと前後のピークの強度比の差は小さく,実測の最
大強度ピークが計算上の最大強度ピークと一致しないこ
とも多い。誤ったピークを選んだ場合,少なくても測定
質量に約 1 Da の誤差が生じる。ミオグロビンの場合 1
Da は 59 ppm の誤差に相当する。質量分解能 50000 の
質量分析計でこれほど大きな誤差は生じない。
このようなケースでは,波形処理を行って同位体ピー
クをまとめて一本のピークとし,そのピークの重心の値
を測定値とした場合のほうが正確である。ただしこの測
定値は平均質量の値である。ESI マススペクトルの場
合,さらにデコンボリューションを行うことによって価
数の異なる複数のピークからより正確な測定値を求める
ことができる。
8 測定値の有効桁数
質量分析で計測された測定質量の正確さ,すなわち計
算質量との一致度を mass accuracy(質量確度または質
量真度)と呼ぶが,制御解析用ソフトウェアは装置の
mass accuracy を考慮して m/z の数値を表記しているわ
けでなない。たとえば,リニアイオントラップ・フーリ
エ変換オービトラップ質量分析計の場合,リニアイオン
トラップ質量分析部で測定したマススペクトルとフーリ
エ変換オービトラップ質量分析部で測定したマススペク
トルとでは,mass accuracy が異なる。それにもかかわ
らず,測定値を表記する際,いずれのマススペクトルか
ら得られたデータであってもソフトウェアが表記すると
おりに小数点四桁目までを測定結果として表記する初学
者がいる。測定値である以上有効桁数という概念が必要
であり,これを無視すると逆に不正確な値となる。四重
極やリニアイオントラップ等の質量分析部で得られたマ
ススペクトルであれば,m/z の値で小数点以下一桁目ま
でが科学的に意味のある数値である。誤差 3 ppm の
フーリエ変換オービトラップ質量分析部で得られたマス
スペクトルであれば,m/z 800 のピークの場合,±
0.0024 の誤差を含むので,小数点以下三桁目までが意
味のある数値となる。測定に用いた質量分析計の mass
accuracy を確認し,それを反映した有効桁数を用いて
測定値を表すことが正確な表記方法である。
9 お わ り に
質量分析のデータの解釈を難しくしている最大の原因
は,質量分析と呼びながら現状は m/z 分析であり,マ
ススペクトルに表記された数値をそのまま試料分子の測
定質量の値として表記できない点である。ソフトイオン
化法が開発されたことにより質量分析の応用範囲が拡大
したが,m/z から質量に換算するためにはイオンの価数
や種類の判別が必要となった。質量の小さい電子だけが
増減し,専ら 1 価イオンが生成する EI が主に使用さ
れ,測定値の有効桁数が少ない頃の固定概念がいまだに
残っており,多くの部分でそ
齟ご
齬が生じている。質量分析
計がスマートになった分,我々利用者もスマートになら
なければならない。初学者には分かりづらい点もある
が,一つ一つの概念についての基本を理解し,整理して
考えれば決して難しいことではない。本講座が,優れた
マススペクトルを測定し,正確な測定値を得たいと考え
る初学者の一助になることを願う。
223223ぶんせき
文 献
1) 高橋 豊,川畑慎一郎:ぶんせき,2007, 328 (2007).
2) 内藤康秀,吉野健一編:“マススペクトロメトリー関係用
語集”,(2009),(日本質量分析学会・国際文献印刷社).
3) 日本分析化学会編:“分析化学用語辞典”,(2011),(オー
ム社).
4) K. K. Murray, R. K. Boyd, M. N. Eberlin, G. J. Langley, L.
Li, Y. Naito : Pure Appl. Chem., 85, 1515 (2013).
5) 吉野健一:J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 54, 175 (2006).
6) 吉野健一:J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 54, 219 (2006).
7) 吉野健一:J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 55, 51 (2007).
8) 吉野健一:J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 54, 33 (2006).
9) 吉野健一:J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 56, 21 (2008).
10) 吉野健一:J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 56, 173 (2008).
11) 吉野健一:J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 56, 209 (2008).
12) 吉野健一:生物工学,91, 464 (2013).
13) J. R. De Laeter, J. K. B äohlke, P. De Bi àevre, H. Hifdaka4,
H. S. Peiser, K. J. R. Rosman, P. D. P. Taylor : Pure Appl.Chem., 75, 683 (2003).
14) 日本化学会原子量専門委員会:“4 桁の原子量表(2015)”
および“元素の同位体組成表”,http://www.chemistry.or.
jp/activity/doc/atomictable2015.pdf.(2017 年 5 月 7 日著
者最終確認)
15) Molecular Weight Calculator (http://www.alchemistmatt.
com/mwtwin.html), Ver. 6.50.(2017 年 5 月 7 日著者最
終確認)
吉野健一(Kenichi YOSHINO)
神戸大学バイオシグナル総合研究センター
(〒6578501 神戸市灘区六甲台町 11)。
金沢大学大学院自然科学研究科博士後期課
程修了。博士(理学)。≪現在の研究テー
マ≫質量分析によるタンパク質翻訳後修飾
解析法,質量分析用語の標準化。≪主な著
書≫“分析化学用語辞典”(オーム社)。
≪趣味≫登山,サイクリング,音楽,旅
行,映画鑑賞,日本標準時子午線に関わる
文化の研究。
Email : kyoshino@kobeu.ac.jp
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