高岡城(2)高岡城の規模・構造...

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(1)高岡城築城 加賀前田家 2 代当主・前田利 としなが 長は、慶長 10 年(1605)隠居して富 山城にいましたが、同 14 年(1609)3 月下旬の大火により城を失い ました。利長はいったん魚 うお 城へ避難し、4 月6日付で駿 すん (静岡市) の大 おお しょ ・徳川家康と、江戸の将軍・徳川秀 ひで ただ から関 せき (高岡の旧名) での築城許可を得ました。関野は加賀藩領(現富山・石川県)のほ ぼ中心にあり、小 川や当時大河であった千 せん 川がつくった広大 な沼 しょうたく 沢地でした。高岡城はその中に浮かぶ高岡台地(標高約 15m) の北隅 すみ に築かれました。 高岡城は高山右 こん が縄 なわ ばり (設計)したと伝わります。しかし、最 近の研究では利長自らが縄張をした可能性が指摘されています。築 城及び城下町造成に関する利長の書状が約 30 通も残っており、利長 自らが積極的に指示したことが分かっています。そのほとんどが督 とく そく じょう であり、利長がいかに築城を急がせていたかうかがえます。 当時は未だ大坂に豊臣家があり、徳川家は完全に天下を統一した わけではありませんでした。利長は父利 とし いえ の跡 あと を受け豊 とよ とみ たい ろう 及び豊臣秀 ひで より の傅 もり やく でありながら、いち早く徳川家に味方しました。 母芳 ほうしゅんいん 春院(まつ)を江戸へ人 ひと じち に出し、後継ぎの利 とし つね と家康の孫娘 を結婚させ、加賀本 ほん ぱん は完全に徳川大 だいみょう 名としましたが、自らは一線 を引いて微妙な立場を保持し続けました。そこで、自分の有力な拠 点を早急に持つ必要があったのです。 高岡築城の経緯をみていきます。慶長 14 年 4 月中旬に高岡最初の 町となる「木 まち 」を小矢部川と千保川の合流地点に築いて物資の揚 よう りく としました。また同時に城下町の建設も進めています。5 月中 旬には城の地 ちん さい を行っておりこれ以降、普 しん (土木工事)が本格 化したと思われます。領内から約 1 万人(推定)の人員を動員して とっ かん 工事で進められ、9月初旬には仕上げの段階になったといいます。 そして慶長 14 年 9 月 13 日、利長は主 おも つ家 しん 434 名を引き連れ て入城を果たしました。しかし 5 日後に二の丸の門や隅 すみやぐら 櫓(2 棟)の 増築を命じており、また入城 3 年後にも書院廊下用の畳の調 ちょうたつ 達を命 じているなど、城はしばらく未完成であったと思われます。 博物館ノート 国指定史跡・日本百名城 高岡市立博物館 「前田利長書状」慶長14年(1609)4月12日付 (木町神社蔵、高岡市指定文化財) 駿河(家康)よりの使者が帰り次第に最初に木町の町割を命じている。 「高岡城之図」(小堀図部分)江戸後期 (金沢市立玉川図書館近世史料館蔵) 本丸礎石検出状況 平成 23 年 高岡市教育委員会提供 かん ばし (朝 ちょう よう ばし 南橋詰)栗 ぐり いし 検出状況 平成 23 年 高岡市教育委員会提供

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  • (1)高岡城築城 加賀前田家 2 代当主・前田利

    としなが

    長は、慶長 10 年 (1605)隠居して富

    山城にいましたが、同 14 年(1609)3 月下旬の大火により城を失い

    ました。利長はいったん魚うお

    津づ

    城へ避難し、4 月 6 日付で駿すん

    府ぷ

    (静岡市)

    の大おお

    御ご

    所しょ

    ・徳川家康と、江戸の将軍・徳川秀ひで

    忠ただ

    から関せき

    野の

    (高岡の旧名)

    での築城許可を得ました。関野は加賀藩領(現富山・石川県)のほ

    ぼ中心にあり、小お

    矢や

    部べ

    川や当時大河であった千せん

    保ぼ

    川がつくった広大

    な沼しょうたく

    沢地でした。高岡城はその中に浮かぶ高岡台地(標高約 15m)

    の北隅すみ

    に築かれました。

     高岡城は高山右う

    近こん

    が縄なわ

    張ばり

    (設計)したと伝わります。しかし、最

    近の研究では利長自らが縄張をした可能性が指摘されています。築

    城及び城下町造成に関する利長の書状が約 30 通も残っており、利長

    自らが積極的に指示したことが分かっています。そのほとんどが督とく

    促そく

    状じょう

    であり、利長がいかに築城を急がせていたかうかがえます。

     当時は未だ大坂に豊臣家があり、徳川家は完全に天下を統一した

    わけではありませんでした。利長は父利とし

    家いえ

    の跡あと

    を受け豊とよ

    臣とみ

    家け

    五ご

    大たい

    老ろう

    及び豊臣秀ひで

    頼より

    の傅もり

    役やく

    でありながら、いち早く徳川家に味方しました。

    母芳ほうしゅんいん

    春院(まつ)を江戸へ人ひと

    質じち

    に出し、後継ぎの利とし

    常つね

    と家康の孫娘

    を結婚させ、加賀本ほん

    藩ぱん

    は完全に徳川大だいみょう

    名としましたが、自らは一線

    を引いて微妙な立場を保持し続けました。そこで、自分の有力な拠

    点を早急に持つ必要があったのです。

     高岡築城の経緯をみていきます。慶長 14 年 4 月中旬に高岡最初の

    町となる「木き

    町まち

    」を小矢部川と千保川の合流地点に築いて物資の揚よう

    陸りく

    基き

    地ち

    としました。また同時に城下町の建設も進めています。5 月中

    旬には城の地じ

    鎮ちん

    祭さい

    を行っておりこれ以降、普ふ

    請しん

    (土木工事)が本格

    化したと思われます。領内から約 1 万人(推定)の人員を動員して

    突とっ

    貫かん

    工事で進められ、9 月初旬には仕上げの段階になったといいます。

     そして慶長 14 年 9 月 13 日、利長は主おも

    立だ

    つ家か

    臣しん

    434 名を引き連れ

    て入城を果たしました。しかし 5 日後に二の丸の門や隅すみやぐら

    櫓(2 棟)の

    増築を命じており、また入城 3 年後にも書院廊下用の畳の調ちょうたつ

    達を命

    じているなど、城はしばらく未完成であったと思われます。

    博物館ノート

    高 岡 城国指定史跡・日本百名城

    高岡市立博物館

    「前田利長書状」慶長14年(1609)4月12日付(木町神社蔵、高岡市指定文化財)駿河(家康)よりの使者が帰り次第に最初に木町の町割を命じている。

    「高岡城之図」(小堀図部分)江戸後期(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)

    本丸礎石検出状況 平成 23 年高岡市教育委員会提供

    貫かん

    土ど

    橋ばし

    (朝ちょう

    陽よう

    橋ばし

    南橋詰)栗ぐり

    石いし

    検出状況 平成 23 年高岡市教育委員会提供

  • (2)高岡城の規模・構造 高岡城跡は測量調査によれば、長さ 648m、幅 416.5m の

    規模を持っています。面積は約 21.8 万 m2(東京ドームの

    約 4.5 倍)で、そのうち 37% が水掘で占められています。

    縄張形式は、本丸から二の丸、鍛か

    冶じ

    丸、明丸、三の丸、現

    「梅林」、御ごじょう

    城外がい

    (現小お

    竹だけ

    藪やぶ

    )という 7 つの郭くるわ

    (城内の区画)

    を土ど

    橋ばし

    で繋つな

    げる「連続馬うまだし

    出」であり、非常に高い防御力を

    もっています。現在、その郭の形状や水堀のほぼ全てが残っ

    ており、高岡城は平成 18 年 2 月、県内で唯一「日本百名城」

    に認定され、また平成 27 年 3 月 10 日には国史跡に指定さ

    れました。

     発掘調査により城域全体に手厚い地盤造成の痕跡や、本

    丸には幅 50m 以上の規模をもつ御殿の存在などが発見さ

    れました。各種史料から、本丸には材木蔵・番所・鷹部屋、

    「貫かん

    土橋」(車橋)や、二の丸に鈴木権之助屋敷と門と隅櫓

    2 棟、三の丸には今枝民みん

    部ぶ

    直なお

    恒つね

    の屋敷があったことなどが

    記されています。

    (3)高岡城跡、3度の危機 入城翌年に病を発した利長の容態は、徳川・豊臣の関係

    と同じく年々悪化しました。そして慶長 19 年(1614)5

    月 20 日、利長は城内にて 53 歳で死去しました。同年冬の

    大坂冬の陣の際は稲垣与右衛門が、翌年の大坂夏の陣には、

    岡嶋一吉らが高岡城に配置されました。そして戦後、幕府

    により「一国一城の令」が発せられ、高岡城は廃城となっ

    てしまいました。

    高岡古城公園図

    二の丸

    県道入口

    ← 高岡駅へ

    ← 市街へ

    池の端入口↓

    高山右近顕彰碑

    大手口

    枡形堀

    (塵不溜)

    県  

    富山方面 ←

    市民会館

    本 丸

    鍛冶丸

    明丸

    本丸広場(緑の広場)

    池の端堀

    瑞龍前田公遺徳碑中の島中の島

    三の丸(民部丸)

    小竹籔

    前田利長公   銅像前田利長公   銅像

    ▼ 朝陽の滝

    滝▲

    梅林

    体育館

    三の丸堀

    搦手口

    卯辰山

    相撲場

    内 堀犬走り

    動 物 園

    古城の滝 ▼

    射水神社

    博 物 館

    高山右近銅像

    築山

    忠魂碑

    南 

    外 

    駐春橋

    護国神社

    本丸橋

    児童公園

    朝陽橋

    民部の井戸

    小竹籔駐車

    北口駐車場

    椿山

    自然資料館

    服部嘉十郎 碑服部嘉十郎 碑

    N

    2016. 3. 30 発行

     しかし、利長の跡を受けた 3 代当主・前田利常は、高岡

    城の水掘を埋め立てませんでした。そして米や塩などの蔵

    を設置し、番人をおいて、一般の出入りを禁止しました。

    つまり利常は、城の実質的価値である塁(郭)と堀を保存

    して、その潜せんざい

    在能のうりょく

    力を保ほ

    持じ

    したのです。

     江戸時代はそのまま保存されましたが、明治初期に 2 度

    目の危機がありました。城跡が民間に払い下げられたの

    です。しかし、落札者は開かい

    墾こん

    などをしなかったといいま

    す。これは町民の間で高まった城跡保存の世論によるもの

    と思われます。築城以来 260 余年間、「古ふる

    御お

    城しろ

    」と呼び誇

    りとしていた城跡が破壊され、失われるのを何とか防ごう

    とする町民の思いが察せられます。そして当時の第 17 大

    区区長の服部嘉か

    十じゅう

    郎ろう

    ら有志は県に城跡の公園指定請願書を

    提出、明治 8 年(1875)7 月 4 日、城跡は「高岡公園」と

    して認定され、無事に保存されました。その時に奔ほん

    走そう

    した

    鳥とりやま

    山敬けい

    二じ

    郎ろう

    は大正期の市長時代に公園整備に尽力しまし

    た。

     そして 3 度目の危機といえる昭和 30 〜 40 年代の高度経

    済成長期には、全国の多くの城跡が「開発」という名で破

    壊が行われていますが、高岡市は城跡を保存しました。

     高岡城は高岡の発祥を示す貴重な史跡で、高岡のアイデ

    ンティティーといえます。今後も我々は、利長・利常、そ

    して高岡市民たちの長きにわたる思いを尊重し、守り伝え

    ていかねばならないと思います。