主権者として、...

1
(P.54 / P.86 / P.142 / P.190 / P.254 / P.292) 5 10 15 20 1944年8月,沖 おき なわ の国民学校の子どもたち 780人が,軍用船の対 つしま まる に乗って長崎に向かいました。アメリカ軍(米 べい ぐん )の沖縄への攻 こう げき せま ってきたため,学 がく どう かい が始まったのです。 しかし,米 べい ぐん せん すい かん の魚 ぎょ らい こう げき で対馬丸は沈められ,子どもたちは 暗い夜の海に投げ出されました。救助されたのは,わずかな子どもた ちだけでした。日本の護 えい かん もいたのですが,そのまま北進していき ました。 米軍は,1945年3月,多くの子どもや住民が残る沖縄に総 そう こう げき を開 始しました。沖 おき なわ ほん とう きん には,千数百隻 せき の艦 かん せん が押 しよせ,航 こう くう かん から飛び立つ飛行機は 1300機,総兵力は 50万人を超 えました。こ れに対する日本軍は,約 12万人でした。 日本軍は,住民を防衛隊に組織し,中学生などを鉄 てっ けつ きん のう たい いん にし て日本軍の戦 せん とう に参加させました。女学生は学校ごとに看 かん よう いん にし て,日本軍とともに行動させました(「ひめゆり学 がく たい 」など)。また, 住民に住宅や食料を提供させ,飛行場の建設にも動員しました。 米軍は,艦船が海上から砲 ほう だん を撃 ち込 み,空から戦闘機や爆 ばく げき おそ いかかりました。人も畑も森も吹 き飛ばし,地形が変わるほどでした。 さらに陸上では,火 えん ほう しゃ で炎 ほのお を吹き出す戦車などが攻撃してきま す。これらはのちに,鉄の暴 ぼう ふう とよばれました。 日本軍は多大な損害を出しながら,南部へ後退しました。住民も戦 火の中で逃 げ場を失い,次々と死 しょう しゃ を出しながら,追いつめられて いきました。 くら やみ しず どもたち 戦火われる住民たち 13 暴風 沖縄戦 3 米軍の艦 かん ぽう しゃ げき による砲弾の跡 あと じま よみたん かい がん 4 13 4 19 4 17 4 3 4 1 じま しゅ きゃん 屋武 みさき 6 20 6 4 3 26 しき じま 対馬丸の生存者平 たい けい (国民学校4年生)の体験から 「おかあちゃーん、けて」「先生 どこにいるの」いろんながとびかっ ていた。いとこ に、さけ んだ。ではさなイカダ うば いあっていた。は、これにかもぐりんだが、従姉ゆく はわ からなくなった。 鉄血勤皇隊員山 やま しろ ひろ のり (中学3年生)の体験から かくれていたに、 米軍がガスをができなくなった。ようやく ったぼくら4は、米兵て「アイアム・スクールボーイ」とか、 食料のことを「フード」とか、ありった けの英語使ってみた。米兵は、をしゃべるぼくらを、めずらしそう ていた。 2 おき なわ せん の戦場 米軍の進行路 おき なわ じま (沖縄本島) 20km 10 0 248 1 ガマ(洞 どう くつ )を攻 こう げき する米 べい ぐん 戦争の現実を見る、 平和を考える 主権者として、 現代の課題に向き合う 戦争を体験し、生き抜いた人たちの声を聞くとき、自らの問題として受けとめる 各部のまとめの課題 原爆投下は、過ぎ去った一瞬の悲劇 ではなかった。 体と心に刻まれた原爆の傷は、70 年 経た現在も痛み続ける。 原子爆弾を学ぶことは、兵器としての 威力を学ぶことではない。被爆の悲惨 さだけを学ぶことではない。被曝者の人 間としての尊厳を学ぶことである。 被爆した佐々木禎子の生き方と 願いに寄り添って、戦後の世界を見 つめる。 経済成長の光と影、問い直され る戦争、世界から絶えない戦火、そ して東日本大震災と原発事故…こ れらの課題を受けとめるとき、公民 学習が切実なものとなる。 17歳だった加藤義典は、 ヒロシマを生きのび、 74 歳までいだき続けた思いを、 1枚の絵に描いた 佐々木禎子の願いは、 公民学習で、 深められていく 5 10 15 1945 年8月6日午前8時 15 分,米 べい ぐん の爆 ばく げき が,原 げん ばく だん 「リトル ボーイ」を広島市に投下しました。約 600m 上空で大 だい ばく はつ を起こし,き のこ雲を巻 き上げました。学校は,すさまじい爆 ばく ふう で校舎が破 かい され, 子どもたちはその下 した きになって助けを求めました。 当時 17 歳 さい だった加 とう よし のり は,一人の子どもを,なんとか助け出しま した。しかし,猛 もう れつ な火の手が迫 せま ってきます。もう一人,助けたい子 がいたのですが,腕 うで が柱におしつぶされて,引き出してあげられませ んでした。子どもの手を握 にぎ り,ごめんねと言う以外に何もできません でした。このことは戦後も,ずっと加藤義典を苦しめましたが,74歳 になってようやく,それを絵に描 えが くことができました。 米軍はさらに,8月9日午前11時2分に,長崎市にも原子爆弾 「ファットマン」を投下し,やはり不 なきのこ雲が立ちのぼりまし た。原 げん ばく は広島と長崎に,これまでの爆弾とは違 ちが う深刻な被 がい をあたえ, 長い期間にわたって人びとを苦しめました。 その爆風は強 きょう れつ で,爆 ばく しん から 0.5km 付近で風速 300m( 毎秒 ), 2km 離 はな れていても風速 60m(毎秒)以上でした。放射された熱線も強 烈で,爆心地の地表面の温度は 3000℃以上に達していました。 この熱線によって,人びとはひどい火 やけど 傷を負 い,皮 は焼けてたれ 下がり,短時間で死亡しました。爆風は建物を倒 とう かい させて,迫ってく けられなくてごめんなさい 長崎にも 14 にんげんをかえせ 原爆投下 3 原爆のきのこ雲 (長崎 米軍爆撃機から撮 さつ えい 2 加藤義典が描いた絵 〈広島平和記念資料館提供〉 1 げん ばく で壊 かい めつ した広島市の爆 ばく しん きん (1945 年10月)/右は原爆ドーム(産 さん ぎょう しょう れい かん )。  250 5 10 15 太平洋のビキニ環 かん しょう から北東 150km の海で,第五福竜丸はマグロ漁 をしていました。1954年3月1日早朝,水平線上にせん光が走り,ご う音がとどろきました。やがて灰色の雲が空をおおい,船の甲 かん ぱん には, 白い灰が降り積もって,靴 くつ のあとがつきました。 乗組員は目や頭の痛み,吐 き気 を訴 うった えました。皮 に水ぶくれができ, かみ の毛が抜 ける人もでました。14日に焼 やい こう ( 静岡県 )に帰り着いて, 乗組員 23人はすぐ入院し,急 きゅう せい ほう しゃ せん しょう と診 しん だん されました。 白い灰は,アメリカがビキニ環礁で行った水 すい ばく じっ けん によるものでし た。この水爆の破 かい りょく は,広 ひろ しま がた げん ばく の 1000倍もあり,4500km 離 れた日本でも,放射能を帯びた雨が降りました。乗組員の久 やま あい きち が, 「原 げん すい ばく の被 がい しゃ は私を最後にしてほしい」という言葉をのこして,9 月に死亡しました。 11月には,映画『ゴジラ』が公開されました。水爆実験ですみかを破 壊された怪 かい じゅう ゴジラが,東京を襲 おそ うという話です。 5月に東京都杉 すぎ なみ の主婦たちが,原水爆禁止署名運動を始めまし た。運動は「原爆を許すまじ」の歌声とともに全国に広がり,署名数は 3200万人を超 えました。1955年8月,広島市で原 げん すい ばく きん かい たい かい が開かれ,被 ばく しゃ や久保山愛吉の遺 ぞく が,核 かく へい の廃 はい ぜつ を訴えました。 をあびただい ふく りゅう まる 原爆すまじ 6 ゴジラのサダコの原水禁運動 1 だい ふく りゅう まる の被 ばくを伝える新聞 〈「読売新聞」1954 年3月16 日〉 2 映画『ゴジラ』のポスター〈©作品年度(1954年)TOHO CO.,LTD.〉 アメリカとソ連の原子力開発競争 1945年 アメリカが広島・長崎に原 爆投下 1946年 アメリカがビキニ環礁で原 爆実験 1949年 ソ連が原爆実験 1952年 アメリカが水爆実験 1953年 ソ連が水爆実験 1954 年 ソ連が実用的な原子力発電 所を運転する 1957 年 アメリカが商業用の原子力 発電所を運転する ビキニ環礁での水爆実験 実験場から240km にあるロンゲ ラップ島の住民が被 ばくし,ほかの島 への移住をアメリカに強制された。 原爆を許すまじ あさ せき 作詞 木 きの した こう 作曲 ふるさとのやかれ みよりのうめしやけ つち 花咲 ああすまじ原爆たび すまじ原爆われらの*佐々木禎子もこの歌をよく口ずさん だという。 268 5 「1942年9月 28日:ぜったいに外に出られないってこと,これがど れだけ息苦しいものか,とても言葉には表せません。でも,反面,見 つかって銃 じゅう さつ されるというのも,やはり恐 おそ ろしい」。この日記を書いた 少女は アンネ = フランク,オランダに住んでいたユダヤ人です。 ドイツではヒトラーの政権の下 もと で,ユダヤ人への迫 はく がい と差別が強め られました。自由に移動すること,学ぶこと,仕事することをはじめ, かく 日記9 戦争二人少女 ヨーロッパの戦争 1 左上はアンネ= フランク(1929~1945),右下はオードリー= ヘプバーン(1929~1993)/ 中央は,アンネが残した日記。〈オランダ アンネ= フランク・ハウス蔵〉 章 第二次世界大戦時代 …… 222 大戦わりをえた世界………………………………… 222 (1) チャップリンが来た 第一次世界大戦後の文化 —  ……… 224 (2) 世界中が不景気だ 世界恐慌と経済政策 —  ………… 226 (3)ヒトラーの独裁が始まる ナチ党のドイツ —  ………… 228 (4) 鉄道爆破から始まった 日本の中国侵略 …………… 230 (5) 問答無用、撃て 軍部の台頭 ……………………… 232 (6)戦火は上海、南京、重慶へ 日中戦争 …………… 234 (7) 戦火に追われる人びと 第二次世界大戦開戦 ……… 236 (8) 東南アジアの日本軍 アジア太平洋戦争 …………… 238 (9) 戦争と二人の少女 ヨーロッパの戦争 ……………… 240 (10) 赤紙が来た 戦時下の国民生活 …………………… 242 (11)餓死、玉砕、特攻隊 戦局の転換 ………………… 244 (12) 町は火の海 本土空襲 …………………………… 246 (13) 荒れ狂う鉄の暴風 沖縄戦 ……………………… 248 (14) にんげんをかえせ 原爆投下 …………………… 250 (15) 本土決戦か、降伏か 日本の敗戦 ………………… 252 学習 のまとめ 1 下の地図と年表のア~ウに共通する言葉を入れましょう。 教科書のうしろにある年表(P296 ~ 298) で確認しましょう。 239 倭 こく の女王・卑 が中国(魏 )に使いを 送る 478 倭 おう の武 が中国( 南朝の宋 そう )に使いを送る 607 遣 けん ずい 使 として小 のの いも を派 けん する 8世紀ごろの東アジア 東アジアとの交流 原始 古代(1章・2章) 11 12 かな平和学習 主権者としての

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Page 1: 主権者として、 現代の課題に向き合うmanabisha.com/tokushu/tokushupdf/p-p11-12.pdf · 現代の課題に向き合う 戦争を体験し、生き抜いた人たちの声を聞くとき、自らの問題として受けとめる

(P.54/ P.86/ P.142/ P.190/ P.254/ P.292)

5

10

15

20

 1944年8月,沖おき

縄なわ

の国民学校の子どもたち780人が,軍用船の対つしま

馬丸まる

に乗って長崎に向かいました。アメリカ軍(米べい

軍ぐん

)の沖縄への攻こう

撃げき

が迫せま

ってきたため,学がく

童どう

疎そ

開かい

が始まったのです。 しかし,米べい

軍ぐん

潜せん

水すい

艦かん

の魚ぎょ

雷らい

攻こう

撃げき

で対馬丸は沈められ,子どもたちは暗い夜の海に投げ出されました。救助されたのは,わずかな子どもたちだけでした。日本の護ご

衛えい

艦かん

もいたのですが,そのまま北進していきました。

 米軍は,1945年3月,多くの子どもや住民が残る沖縄に総そう

攻こう

撃げき

を開始しました。沖おき

縄なわ

本ほん

島とう

付ふ

近きん

には,千数百隻せき

の艦かん

船せん

が押お

しよせ,航こう

空くう

母ぼ艦

かん

から飛び立つ飛行機は1300機,総兵力は50万人を超こ

えました。これに対する日本軍は,約12万人でした。 日本軍は,住民を防衛隊に組織し,中学生などを鉄てっ

血けつ

勤きん

皇のう

隊たい

員いん

にして日本軍の戦せん

闘とう

に参加させました。女学生は学校ごとに看かん

護ご

要よう

員いん

にして,日本軍とともに行動させました(「ひめゆり学がく

徒と

隊たい

」など)。また,住民に住宅や食料を提供させ,飛行場の建設にも動員しました。 米軍は,艦船が海上から砲ほう

弾だん

を撃う

ち込こ

み,空から戦闘機や爆ばく

撃げき

機き

で襲おそ

いかかりました。人も畑も森も吹ふ

き飛ばし,地形が変わるほどでした。さらに陸上では,火か

炎えん

放ほう

射しゃ

器き

で炎ほのお

を吹き出す戦車などが攻撃してきます。これらはのちに,鉄の暴ぼう

風ふう

とよばれました。 日本軍は多大な損害を出しながら,南部へ後退しました。住民も戦火の中で逃に

げ場を失い,次々と死し

傷しょう

者しゃ

を出しながら,追いつめられていきました。

▶暗くら

闇やみ

の海に沈しず

む子どもたち

▶戦火に追われる住民たち

(13) 荒れ狂う鉄の暴風 ̶沖縄戦̶

□3 米軍の艦かん

砲ぽう

射しゃ

撃げき

による砲弾の跡あと

伊い

江え

島じま

読よみたん

谷海かい

岸がん

4/13

4/194/17

4/34/1座ざ

間ま

味み

島じま

那な

覇は

首しゅ

里り

喜き ゃ ん屋武岬

みさき

摩ま

文ぶ

仁に

6/20

6/43/26

渡と

嘉か

敷しき

島じま

対馬丸の生存者平たい

良ら

啓けい

子こ

(国民学校4年生)の体験から 「おかあちゃーん、助けて」「先生どこにいるの」いろんな声がとびかっていた。従

いとこ姉は私に、海に飛び込め

と叫さけ

んだ。暗い海では小さなイカダを奪

うば

いあっていた。私は、これに何とかもぐり込んだが、従姉の行

ゆく

方え

はわからなくなった。

鉄血勤皇隊員山やま

城しろ

博ひろ

則のり

(中学3年生)の体験から かくれていた壕に、米軍がガスを撃ち込み息ができなくなった。ようやく生き残ったぼくら4人は、米兵の前へ出て「アイアム・スクールボーイ」とか、食料のことを「フード」とか、ありったけの英語を使ってみた。米兵は、英語をしゃべるぼくらを、めずらしそうに見ていた。

□2 沖おき

縄なわ

戦せん

の戦場米軍の進行路

沖おき

縄なわ

島じま

(沖縄本島)

20km100

248

□1 ガマ(洞どう

窟くつ

)を攻こう

撃げき

する米べい

軍ぐん

戦争の現実を見る、平和を考える

主権者として、現代の課題に向き合う

戦争を体験し、生き抜いた人たちの声を聞くとき、自らの問題として受けとめる

各部のまとめの課題

 原爆投下は、過ぎ去った一瞬の悲劇ではなかった。 体と心に刻まれた原爆の傷は、70年経た現在も痛み続ける。 原子爆弾を学ぶことは、兵器としての威力を学ぶことではない。被爆の悲惨さだけを学ぶことではない。被曝者の人間としての尊厳を学ぶことである。

 被爆した佐々木禎子の生き方と願いに寄り添って、戦後の世界を見つめる。 経済成長の光と影、問い直される戦争、世界から絶えない戦火、そして東日本大震災と原発事故…これらの課題を受けとめるとき、公民学習が切実なものとなる。

17歳だった加藤義典は、ヒロシマを生きのび、74歳までいだき続けた思いを、1枚の絵に描いた

佐々木禎子の願いは、公民学習で、 深められていく

5

10

15

 1945年8月6日午前8時15分,米べい

軍ぐん

の爆ばく

撃げき

機き

が,原げん

子し

爆ばく

弾だん

「リトル

ボーイ」を広島市に投下しました。約600m上空で大

だい

爆ばく

発はつ

を起こし,き

のこ雲を巻ま

き上げました。学校は,すさまじい爆ばく

風ふう

で校舎が破は

壊かい

され,

子どもたちはその下した

敷じ

きになって助けを求めました。

 当時17歳さい

だった加か

藤とう

義よし

典のり

は,一人の子どもを,なんとか助け出しま

した。しかし,猛もう

烈れつ

な火の手が迫せま

ってきます。もう一人,助けたい子

がいたのですが,腕うで

が柱におしつぶされて,引き出してあげられませ

んでした。子どもの手を握にぎ

り,ごめんねと言う以外に何もできません

でした。このことは戦後も,ずっと加藤義典を苦しめましたが,7

4歳

になってようやく,それを絵に描えが

くことができました。

 米軍はさらに,8月9日午前11時2分に,長崎市にも原子爆

「ファットマン」を投下し,やはり不

気き

味み

なきのこ雲が立ちのぼりまし

た。原げん

爆ばく

は広島と長崎に,これまでの爆弾とは違ちが

う深刻な被ひ

害がい

をあたえ,

長い期間にわたって人びとを苦しめました。

 その爆風は強きょう

烈れつ

で,爆ばく

心しん

地ち

から0.5km付近で風速 300m(毎秒),

2km離はな

れていても風速60m(毎秒)以上でした。放射された熱線も強

烈で,爆心地の地表面の温度は3000℃以上に達していました。

 この熱線によって,人びとはひどい火

やけど

傷を負お

い,皮ひ

膚ふ

は焼けてたれ

下がり,短時間で死亡しました。爆風は建物を倒

とう

壊かい

させて,迫ってく

▶助けられなくてごめんなさい

▶8月9日、長崎にも

(14) にんげんをかえせ ̶原爆投下̶

□3 原爆のきのこ雲

(長崎 米軍爆撃機から撮さつ

影えい

□2 加藤義典が描いた絵〈広島平和記念資料館提供〉

□1 原げん

爆ばく

で壊かい

滅めつ

した広島市の爆ばく

心しん

地ち

付ふ

近きん

(1945年10月)/右は原爆ドーム(産さん

業ぎょう

奨しょう

励れい

館かん

)。 

250

5

10

15

 太平洋のビキニ環かん

礁しょう

から北東150kmの海で,第五福竜丸はマグロ漁をしていました。1954年3月1日早朝,水平線上にせん光が走り,ごう音がとどろきました。やがて灰色の雲が空をおおい,船の甲

かん

板ぱん

には,白い灰が降り積もって,靴

くつ

のあとがつきました。 乗組員は目や頭の痛み,吐は

き気け

を訴うった

えました。皮ひ

膚ふ

に水ぶくれができ,髪かみ

の毛が抜ぬ

ける人もでました。14日に焼やい

津づ

港こう

(静岡県)に帰り着いて,乗組員23人はすぐ入院し,急

きゅう

性せい

放ほう

射しゃ

線せん

症しょう

と診しん

断だん

されました。 白い灰は,アメリカがビキニ環礁で行った水すい

爆ばく

実じっ

験けん

によるものでした。この水爆の破

壊かい

力りょく

は,広ひろ

島しま

型がた

原げん

爆ばく

の1000倍もあり,4500km離れた日本でも,放射能を帯びた雨が降りました。乗組員の久

保ぼ

山やま

愛あい

吉きち

が,「原

げん

水すい

爆ばく

の被ひ

害がい

者しゃ

は私を最後にしてほしい」という言葉をのこして,9月に死亡しました。 11月には,映画『ゴジラ』が公開されました。水爆実験ですみかを破壊された怪

かい

獣じゅう

ゴジラが,東京を襲おそ

うという話です。

 5月に東京都杉すぎ

並なみ

区く

の主婦たちが,原水爆禁止署名運動を始めました。運動は「原爆を許すまじ」の歌声とともに全国に広がり,署名数は3200万人を超

えました。1955年8月,広島市で原げん

水すい

爆ばく

禁きん

止し

世せ

界かい

大たい

会かいが開かれ,被

爆ばく

者しゃ

や久保山愛吉の遺い

族ぞく

が,核かく

兵へい

器き

の廃はい

絶ぜつ

を訴えました。

▶死の灰をあびた第だい

五ご

福ふく

竜りゅう

丸まる

▶原爆を許すまじ

(6) ゴジラの怒り、サダコの願い ̶ 原水禁運動̶

□1 第だい

五ご

福ふく

竜りゅう

丸まる

の被ひ

ばくを伝える新聞〈「読売新聞」1954年3月16日〉□2 映画『ゴジラ』のポスター〈©作品年度(1954年)TOHO CO.,LTD.〉

アメリカとソ連の原子力開発競争1945年 アメリカが広島・長崎に原 爆投下1946年 アメリカがビキニ環礁で原 爆実験1949年 ソ連が原爆実験1952年 アメリカが水爆実験1953年 ソ連が水爆実験1954年 ソ連が実用的な原子力発電 所を運転する1957年 アメリカが商業用の原子力 発電所を運転する

ビキニ環礁での水爆実験実験場から240kmにあるロンゲラップ島の住民が被

ばくし,ほかの島への移住をアメリカに強制された。

原爆を許すまじ浅あさ

田だ

石せき

二じ

作詞 木きの

下した

航こう

二じ

作曲ふるさとの街やかれみよりの骨うめし焼

やけ

土つち

に今は白い花咲

くああ許すまじ原爆を三み

度たび

許すまじ原爆をわれらの街に

*佐々木禎子もこの歌をよく口ずさん だという。

268

サダコの願い̶原水禁運動̶

5

10

15

 「1942年9月28日:ぜったいに外に出られないってこと,これ

がど

れだけ息苦しいものか,とても言葉には表せません。でも,反面,

つかって銃じゅう

殺さつ

されるというのも,やはり恐おそ

ろしい」。この日記を書いた

少女は アンネ= フランク,オランダに住んでいたユダヤ人です。

 ドイツではヒトラーの政権の下もと

で,ユダヤ人への迫はく

害がい

と差別が強め

られました。自由に移動すること,学ぶこと,仕事することをはじ

め,

人間として生きる権利を根こそぎ奪うば

われました。そのため,アンネは

家族とともに生まれ故郷のドイツを追われ,オランダに移住しまし

た。

 しかし,ここもドイツ軍に占せん

領りょう

され,ユダヤ人は,黄色いダビデの

星のマークをつけることを強制されます。父親のオットーは,事務

に出られなくなり,アンネは学校に通えなくなりました。1942年7

月,

アンネの一家は,ほかのユダヤ人とともに,隠れ家で息をひそめて

活をするようになりました。

 このころ同じオランダに,母親を助けて,ドイツ占領軍に対する

抗運動(レジスタンス)に加わった少女がいました。この少女の名前

は,

オードリー= ヘプバーンです。オードリーの兄たち二人は,ドイツ

の協力を拒こば

んだために,収容所に入れられていました。叔

父じ

たちは捕つか

まって,目の前で銃殺されました。

▶隠かく

れ家が

で日記を書く

▶ドイツに抵てい

抗こう

する連絡係

(9) 戦争と二人の少女 ̶ヨーロッパの戦争̶

□1 左上はアンネ = フランク(1929~1945),右下はオードリー = ヘプバーン(1929~1993)/

中央は,アンネが残した日記。〈オランダ アンネ = フランク・ハウス蔵〉

240

□2 隠れ家(オランダ・アムステルダム)/

本ほん棚だなの裏が,隠れ家の入り口になって

いた。

隠れ家での生活は,およそ2年続いた。通報

されて,一家は捕とらえられ,強制収容所に送

られた。1945年3月,アンネは病気のため,

16歳で死亡した。同年5月,ドイツは降こう伏ふくし

た。

□3 ドイツ軍が通る道路をふさぐレジスタンス

(フランス)

第9章 第二次世界大戦の時代 …… 222□大戦の終わりを迎えた世界…………………………………… 222

(1) チャップリンが来た— 第一次世界大戦後の文化 — ………… 224(2) 世界中が不景気だ— 世界恐慌と経済政策 — … ………… 226(3) ヒトラーの独裁が始まる— ナチ党のドイツ — … ………… 228(4) 鉄道爆破から始まった— 日本の中国侵略 —… …………… 230(5) 問答無用、撃て— 軍部の台頭 — … ……………………… 232(6) 戦火は上海、南京、重慶へ— 日中戦争 — … …………… 234(7) 戦火に追われる人びと— 第二次世界大戦開戦 —… ……… 236(8) 東南アジアの日本軍— アジア太平洋戦争 —… …………… 238(9) 戦争と二人の少女— ヨーロッパの戦争 —… ……………… 240(10) 赤紙が来た— 戦時下の国民生活 — … …………………… 242(11) 餓死、玉砕、特攻隊— 戦局の転換 — … ………………… 244(12) 町は火の海— 本土空襲 — … …………………………… 246(13) 荒れ狂う鉄の暴風— 沖縄戦 — … ……………………… 248(14) にんげんをかえせ— 原爆投下 — … …………………… 250(15) 本土決戦か、降伏か— 日本の敗戦 — … ………………… 252

学習のまとめ

1 下の地図と年表のア~ウに共通する言葉を入れましょう。  教科書のうしろにある年表(P296 ~ 298) で確認しましょう。

(教科書P42 に,ヒントになる地図があります。)

239 倭わ

国こく

の女王・卑ひ

弥み

呼こ

が中国(魏ぎ

)に使いを 送る

478 倭わ

王おう

の武ぶ

が中国(南朝の宋そう

)に使いを送る

607 遣けん

隋ずい

使し

として小お

野のの

妹いも

子こ

を派は

遣けん

する

630 第一回遣   使を派遣する

645 中なかの

大おお

兄えの

皇おう

子じ

らが蘇そ

我がの

入いる

鹿か

を倒たお

663 朝鮮半島の白はく

村そん

江こう

で唐とう

軍ぐん

・   軍に敗やぶ

れる

672 壬じん

申しん

の乱らん

が起きる

701 大たい

宝ほう

律りつ

令りょう

を定める

710 都を   にうつす

752 東とう

大だい

寺じ

の大仏が完成する

794 都を平へい

安あん

京きょう

にうつす

8世紀ごろの東アジア

ウ イ

東アジアとの交流

第1部 原始・古代 (1章・2章)

054

2 第1部をふりかえり、東アジアとの交流によってもたらされたものを,あげてみましょう。

11 12確かな平和学習 主権者としての学び