台湾原住民文学序説...145 研究ノート 台湾原住民文学序説 下 村 作 次 郎 (...

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145 研究ノート 台湾原住民文学序説 下 村 作 次 郎 ( ) 台湾文学 「山地文学の 創造は, もはや夢ではない」 1989 11 18 日に,屏 東で『 原報 (Aboriginal post) という新聞が 創刊された。 創刊の 言葉に「長期にわたる 準備をへて,ほんとうの 台湾原住民の 新聞が,今日誕生した」 ( 「陳朝 創刊記」) とうたったこの 新聞は,原住民がはじめて 出した新聞であ る。 タイトルに掲げた 副 題は,創刊号にみる 言葉であ る。 この言葉は, 台湾文学における 新しい表現者の 登場を告げる マニフェストともとらえることができる。 ここで,近代以降の 台湾文学の歴史を 振り返ってみよう。 1895 4 17 日に,下関の 春帆楼 において調印された 日清講和条約で ,清朝は台湾を 日本に 割譲 末日本は敗戦を 迎えるまで,台北に 台湾総督府を 置き,半世紀にわたって 台湾を植 民地として領有した。 この時代を台湾では「日脚時代」と 称する。 この「 日拠時代」の初期, さ湾 巡撫店員嵌を 総統として建国を 宣言した,台湾民主国 ( 日本 軍の台北上陸にともないまもなく 崩壊 ) をはじめ, 日本の統治を 容認しない台湾人による 武力 抵抗が続いた。 その一方,台湾総督府は ,当時「蕃人」と 蔑称で呼ばれていた 原住民の支配に 乗りだし総督府内に「 理蕃課 」を置き 彼らの居住 区には 硲勇線 ( 要衝の地に, 硲勇 つま り警備員を配置した。 隔勇は主に台湾人の 志願者のなかから 採用。 この制度は清朝の 防俗 制度 に由来しているという ) を設け,衝突を 繰り返しながら 山地の隅々にまで 入っていった。 そ の後, 「高砂族」と 称されるようになった (23 年,昭和天皇, 当時皇太子の 訪台時からの 新し ぃ命名といわれ 原住民との武力事件は 30 10 27 能高都講社 ( 南投県 仁愛郷大同 の一部 ) で最も悲劇的な 形となって起こる。 霧社事件であ る。 しかし この頃 には,漢族系 住民による武力抵抗はもはやなくなっていた。 さ湾 領有の初期に 起こった激しい 武力による血腫 抵抗は,次第に 抑えられ,抵抗の 形は知 誠人による言論, レ 、 は政治闘争に姿を 変えていった。 その運動は日本留学生のなかから 起 こる。 18 年 5月に結成された 六三法 撤廃期成同盟会 ( 六三浩とは,台湾総督に 行政,軍事のほ かに立法権 を与えた第六十三号法律で 1896 年 3 31 公布 ) と, 21 年 3月に起こった 台湾議 会設置請願運動であ る。 ともに,台湾人の 利拡大を求める 政治運動であった。 こうした政治 運動が,東京の 台湾人留学生を 中心に押しすすめられると 同時に, 20 ヰ 7月には『 さ湾青年』 ( 主に日本語,のち『台湾コ 改称), そして 23 4月には『台湾民報』 W はじめ中国語白話 のち, 中日文併用から 日本語へ。 紙名も下さ清新民報』と 改称 ) が創刊され,雑誌発行に よる啓蒙運動も 盛んになっていった。 ここにようやく ,台湾新文学が 生まれる土壌が 日本暦 学生によって 形成されたのであ る。 当時,近代文学の 装いで登場した 作品として, 追 風 ( 謝春木 ) 「彼女は何処へ ( 悩める若き姉妹へ ) ( 『台湾』第 3 年第 4 7 号, 22 年 7 月一 10 ) ( 日本語) ( 不詳 ) 「神秘的自制島 ( 同第 4 年第 3 号, 23 年 3 ) ( 文言 ) 瀬 雲 ( 頼和 ) 闘問熱 (『台湾民報』 86 号, 2,f 1 ) ( 白話文 )

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研究ノート

台湾原住民文学序説

下 村 作 次 郎

( 一 ) 台湾文学 「山地文学の 創造は, もはや夢ではない」

1989 年 11 月 18 日に,屏 東で『 原報 』 (Aboriginal post) という新聞が 創刊された。 創刊の

言葉に「長期にわたる 準備をへて,ほんとうの 台湾原住民の 新聞が,今日誕生した」 ( 「陳朝

創刊記」 ) とうたったこの 新聞は,原住民がはじめて 出した新聞であ る。 タイトルに掲げた 副

題は,創刊号にみる 言葉であ る。 この言葉は, 台湾文学における 新しい表現者の 登場を告げる

マニフェストともとらえることができる。

ここで,近代以降の 台湾文学の歴史を 振り返ってみよう。

1895 年 4 月 17 日に,下関の 春帆 楼 において調印された 日清講和条約で ,清朝は台湾を 日本に

割譲 し , 爾 末日本は敗戦を 迎えるまで,台北に 台湾総督府を 置き,半世紀にわたって 台湾を植

民地として領有した。 この時代を台湾では「日脚時代」と 称する。

この「 日拠 時代」の初期, さ湾 巡撫店員嵌を 総統として建国を 宣言した,台湾民主国 ( 日本

軍の台北上陸にともないまもなく 崩壊 ) をはじめ, 日本の統治を 容認しない台湾人による 武力

抵抗が続いた。 その一方,台湾総督府は ,当時「蕃人」と 蔑称で呼ばれていた 原住民の支配に

も 乗りだし総督府内に「 理蕃課 」を置き , 彼らの居住 区 には 硲勇線 ( 要衝の地に, 硲勇 つま

り警備員を配置した。 隔 勇は主に台湾人の 志願者のなかから 採用。 この制度は清朝の 防 俗 制度

に由来しているという ) を設け,衝突を 繰り返しながら , 山地の隅々にまで 入っていった。 そ

の後, 「高砂族」と 称されるようになった (23 年,昭和天皇, 当時皇太子の 訪台時からの 新し

ぃ 命名といわれ 朋 原住民との武力事件は , 30 年 10 月 27 日 能高 都講社 ( 現 , 南投県 仁愛郷大同

村 の一部 ) で最も悲劇的な 形となって起こる。 霧社事件であ る。 しかし この頃 には,漢族系

住民による武力抵抗はもはやなくなっていた。

さ湾 領有の初期に 起こった激しい 武力による血腫 い 抵抗は,次第に 抑えられ,抵抗の 形は知

誠人による言論, あ る レ 、 は 政治闘争に姿を 変えていった。 その運動は日本留学生のなかから 起

こる。 18 年 5 月に結成された 六三 法 撤廃期成同盟会 ( 六三浩とは,台湾総督に 行政,軍事のほ

かに立法権 を与えた第六十三号法律で , 1896 年 3 月 31 日 公布 ) と, 21 年 3 月に起こった 台湾議

会設置請願運動であ る。 ともに,台湾人の 権 利拡大を求める 政治運動であ った。 こうした政治

運動が,東京の 台湾人留学生を 中心に押しすすめられると 同時に, 20 ヰ 7 月には『 さ湾 青年』

( 主に日本語,のち『台湾コ に 改称 ), そして 23 年 4 月には『台湾民報』 W はじめ中国語白話

文 。 のち, 中日文併用から 日本語へ。 紙 名も下さ清新民報』と 改称 ) が創刊され,雑誌発行に

よる啓蒙運動も 盛んになっていった。 ここにようやく ,台湾新文学が 生まれる土壌が , 日本暦

学生によって 形成されたのであ る。

当時,近代文学の 装いで登場した 作品として,

追 風 ( 謝 春木 ) 「彼女は何処へ ( 悩める若き姉妹へ ) 」 ( 『台湾』第 3 年第 4 一 7 号, 22 年 7

月一 10 月 ) ( 日本語 )

無 知 ( 不詳 ) 「神秘的自制 島 」 ( 同 第 4 年第 3 号, 23 年 3 月 ) ( 文言 )

瀬 雲 ( 頼和 ) 「 闘問熱 」 ( 『台湾民報』 86 号, 2,f 年 Ⅰ 月 1 日 ) ( 白話 文 )

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雲 梓生 ( 楊雲洋 ) 「光臨」 ( 同上 ) 旧話 文 )

があ げられる。

その後,北京に 渡り五四運動の 余熱に触れた , 張 戎車らの白話文学連動が ,前述した『台湾

民報 ] を中心に繰りひろげられ ,胡適や魯迅らの 中国新文学が 台湾にも伝えられていく。 この

間 , 台湾文学は中国文学, 日本文学双方の 影響を受け,世界の 文芸思潮とも 連動しながら 発展

していく。

このように,台湾文学は ,北京そして 東京と, 島外の中国文学, 日本文学とも 実に深い関係

をもって出発しながら , その文学的営為は 当時の中国の , あ るいは日本の 文壇においてもほと

んど関心をもたれなかった。 そもそも,台湾文学が 日本の文壇に 登場したのは , 1934 年に揚陸

の「新聞配達夫」が 日本の『文学評論』 (10 月 号 ) にはじめて掲載され ,つづいて 翌ヰの 1 月

号に 呂赫君 の「牛車」が 掲載された, それが最初であ る。 と同時に, この二作品はその 頃 東京

に留学していた 胡風の目にとまり ,胡風の訳によって ,前者ははじめ『世界知識』 (35 年。 未

見 ) に載り, のち 呂赫 若の作品とともに 胡風調『朝鮮台湾短編小説葉 山霊コ ( 上海文化生活

出版社, 36 年 4 月 ) に収録されて 中国に紹介されることになった。 戦前に, 日本および中国の

いずれの地でも 紹介された作品は , わずかにこの 二 篇の作品だけであ る。 日本の中央 話 に掲載

された作品では , ほかに 頼 和 め 「豊作」 ( 暢達 訳 。 『文学案内』。 36 年 1 月 ) や龍瑛宗の 「パパ

イヤ のあ る 街 」㏄改造』 37 ヰ 4 月 ) などがあ るが, これらの作品が 中国で再び紹介されはじめ

るのは, 79 年にいたってからのことであ る。 げ台湾小説選コ 人民文学出版社, 12 周 ) このよう

に, 台湾文学は,長い 間その存在を 島外でほとんど 知られることなく 存在してきた。

以上は,いわば 台湾文学の概観であ るが, このような環境にあ った台湾文学のなかで ,台湾

の原住民族はどのような 位置にあ ったのだろうか。

このことを 呉錦発 編著『恋情的山林台湾 m 地 小説 藻 』 ( 景星出版社, 87 年 1 月出版。 以下,

『懇情の山地 コ とする ) によってみてみよう。 該善 には, 7 人の漢族系作家と 2 人の原住民作

家 パイワン族の 陳英雄 とフスン 族の田雅客 ( トパス・タナ ピマ @ の作品が収録されて

いる。 2 人の原住民作家は ,ともに現代の 作家で,彼らが 登場する以双の 原住民族は, " 蕃人 "

( 清朝時代は " 番人 ") として, あ るいは " 高砂族 ", さらに " 高 m 族 ", " 山地同胞 ", " 山地

太 " として,常に 描かれる対象として 存在してきたといっていいだろう。

荒っぽい議論が 許されるならば ,戦前の「 日拠 時代」は,王に 日本人作家が 描いてきた。 例

えば,佐藤春夫の『 女誠扇綺譚 』 ( 第一書房, 26 年 ) 「諸社』 ( 昭森社 , 36 ヰ ), 大廟 卓 の 下 野

蛮人』 ( 学林書房, 36 年 ), 中村地平の『長耳 国 漂流記 Jl ( 河田書房, 41 年 ) r 台湾小説 集 ; ( 墨

水書房, 41 年 ) や , さらに西川満や 坂口祥子らの 作品があ る。 また, 中西伊之助の 丁 さ 清見聞

記』 ( 実践 社 , 37 年 ) や野上豊一郎・ 野上捕虫子の 丁朝鮮・台湾・ 海南諸港』 ( 拓 商社, 42 年 )

などの旅行記にも 記述がみられる。 り l それに対して ,十分な調査はしてれないが ,台湾人作家は

ほとんど取りあ げていないといってい い のではないか。 彼らが,積極的に 原住民族を対象に 描

きだすのは, 45 年の日本敗戦にともなう 台湾の戦後を 迎えてからのことであ る。 しかも,作品

の発表はなおかなり 遅れる。 『 悲 清の山地口の 巻頭に収められた 鍾理 和の「山の女」 ( 原題は

後褐 ) は,戦後台湾において 原住民族を描いた 文学として先駆的な 作品であ るが,発表は 66n 年

であ る。

その後, 台湾人作家が 後述するように 次第に取りあ げはじめることになるが , ここで少しく

70 年代の初期に 台湾の大学あ るいは専科学校で 起こった「山地服務」運動に 言及しておく 必要

があ ろう。 この運動は, 70 年代初頭に起こった 釣魚倉 ( 尖閣列島 ) 事件にはじまり ,次々と台

湾を襲った国際政治の 波と国際的な 孤立化のなかで ,知識人の危機感と 学生の社会意識が 急激

に高まり,従来みられなかったような 言論活動と社会参加がはじまったなかで , 「社会服務」

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運動の一環として ,全島的な規模で 大学生あ るいは専科学校生の 間に広まった。 例えば, 当時

霧 白 で山地医療活動に 従事した 陳 大興 の 『 lU 地 服務 在 霜台』 ( 官達出版, 78 年 3 月 ) によれば,

教育,娯楽,農業,医療,衛生など 多方面にわたる「服務工作」が 行われている。 この運動は,

その後下火になっていったが ,後述するような 今日の原住民族運動を 考える 時 ,組織的な活動

のなかで展開された 学生と原住民との 生活レベルでのはじめての 接触は , 決して見逃すことの

ことのできない 影響をもたらしたであ ろう。 李昂の 「 G . L への手紙」 ( 原題「一対米 寄的 情

書」, 84 年。 山内一恵 訳 。 m 口守 監修『バナナボート』 nlCC 出版局, 91 ヰ 9 月収 ) にも描写

があ る。 なお, 『 原報 』第 20 期 (93 年 6 月 15 日 ) には, 当時の「各校 山服隊 簡介」が掲載さ

れ , 「 m 地 服務」の「過去,現在と 未 来 」が回顧・展望されて ,新たな問いが 発せられている

ことをひとまず 指摘しておきたい。

さて,原住民族を 描いた台湾人作家の 作品に話をも ど そ う 。 台湾人作家のなかでは , 鍾肇政 が比較的よく 描いている。 該書 に収められている「 熊 狩りに挑む男たち」ほか , 『烏黒披風

雲 』 ( 人人文庫, 73 ヰ ) や丁高山組曲 コ ( 『 Jll 中島」, 『戦火山蘭亭書店, 85 ヰ ) のように講社 事 コ ワン

件を背景とする 長編小説, さらに原住民族の 民間故事業『高利 科弩 英雄伝』 ( 照明出版社, 79

年 ) や ア持二席百二戸 ピ ・ナン 妨てコ ( 前衛出版社, 87 年 ) を発表している。 また, 該書 に収録された「碧宙 村

遺事」の作者,古家仁は 貧しい農村,漁村,廃坑になった 炭鉱の村, そして山地の 部落を描い

た 報道文学, 『黒色的部落』 ( 時報文化出版, 78 年 ) をあ らわしている。 このルポルタージュ

に描かれた原住民族の 村は,アタヤル 族が住む新竹 県 矢石郷の 秀轡村 であ る。 他に, 陳渠川著

『霧社事件』 ( 地球出版社, 77 年 ) のようなドキュメントタッチの 作品もあ る。 さらに, 多く

の作家が書いているだろうと 思われるが, 今 ,筆者の力のおよぶところではない。 ただ,気が

つくところでは , 90 年代に入って ,台南一帯に 分布居住したシラヤ 族 ( 漢民族の移民の 過程で,

早くに漢民族に 同化してゆき ,今は平 坤族 の一つぼ数えられている ) の米商を描いた 棄石濤の 『四粒 雅族的 米商』 ( 前衛出版社, 90 年 ) や, F ㍻ 首 J ( 派色文化出版社, 91 年 ) のような作品

が出ている。 また, 「台湾第一部調査報告漫画」と 銘打たれた漫画『霧社事件』 ( 郎君瀧編 画 。

90 年 10 月,時報文化出版。 邦訳に江湖 秀 ・柳本通産 訳 , 93 年 4 月,現代書館 ) のような作品も

出ていることをつけ 加えておこう。

r 恋情の山地』は ,こうした台湾の 作家たちの文学的営為を 知る上での好個の 作品集であ る。

編者の呉 錦発は 「 序 」に「私の台湾原住民へのお 返しと 蹟 非行為の第一歩」と 記しているが ,

台湾の 80 年代文学は, 内なる原住民の 存在に気づいた 漢族系台湾人作家の 自省の年代としても

位置づけられる。 そして, この自省は先述した 70 年代の「 m 地 服務」運動がもたらした 時代的

な潮流との連関性においてとらえておく 必要があ るだろう。

呉錦発は 87 年に 該 書を世に問うてのち , 89 年には『 願 妹山地 郎 台湾山地散文選』 ( 注け 2)

参照 ) を編集し , 引き続き原住民文学の 出版に努めている。

( 二 ) モ ー ナノン と トパス・タナ ピマ

前章で述べたように ,原住民は描かれる 一方だった。 先にあ げた 陳 英雄は, 1941 年に台東 県

大竹村に生まれたパイワン 族で, 60 年代のはじめに『新文芸月刊』や『 幼獅 文芸 占 『文芸 月

干 Ⅱ』,『台湾文芸』などに 小説を発表し 71 年にはさ 湾 商務印書館から『域覚憂 痕 J ( 人人文庫,

7 月 ) を出版。 該 書は台湾文学史の 上では, 台湾原住民文学として 最初の個人作品集であ る。

その陳も今は 書いていない。 書き手はほとんどこの 作家が唯一であ ったといっても 過言ではな

いのであ る。 ( 鍾肇政 Ⅲ中島山所収「自序」参照。 前掲 書 ) このような状況のなかで ,彗星

の如く台湾文学界にあ らわれたのが ,モ ー ナノンと田雅客,すなわちトパス・タナ ピマ であ る。

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モ ー ナノン ( 莫邪 能 ) は詩人であ る。 ここで少しく 個人的なことを 述べると,筆者は 1990 年

の 9 月初旬に, 呉錦発 氏を台湾に訪ねた。 その時, 呉 氏の世話でモ ー ナノン と トパス・タナ ピ

マ に会っている。 モ ー ナノン氏に会ったのは 台北二日目の 午前中だった。 「旅行文学」で 知ら

れる散文作家,木木女 義 氏の案内で承徳 路 にあ る職場を訪ねた。 この界隈は,按摩業の 看板をか

ける店が立ち 並んでいる。 モ ー ナノン氏はその 按摩 業 の一軒の店で 夫人と一緒に 働いていた。

彼は,パイワン 族の出身であ る。 1956 年に台東京 達仁郷 の阿亀蔵 に生まれた。 漢名は曾 舜旺 。

聞くところによると ,中学を卒業後,目の 病気のために 進学がかなんず ,肉体労働を 転々とし,

二十歳前半からますます 視力が落ち, その後まったく 光を失って現在の 職業につき,生計を 立

てているということだった。 彼はとつとつと 自己を詰りながら ,彼ら原住民族全体の 境遇を

語ってくれた。 特に, m 地の少女たちのことについて , 自身の妹のことにも 触れながら,物静

かに語っていたのが 印象的だった。 次に引く詩は , 彼が山地のメロデイでうたってくれた 自作

の詩であ る。

圭 童の音が鳴るとき

受難の姉妹, 山地の幼 い 妓女らに捧げる

妓楼のおかみが ,店の灯をつけ ,呼びこみの 声をあ げるとき / わたしには,教会の 鐘が聞こ ぐ ル智 り え とそ 6% 威 ィ 部 / 乱落 拝じ 日ゅ の フ 朝に に隆 なり そ る ま た り ・ 鳥 / 北の拉拉から ラーラ @ 南の大武山まで ター ゥ ,汚れなき陽の 光が / 阿 ァ

客 が満ちたりた 坤き 声をあ げるとき / わたしには,学校の 鐘が聞こえる / クラスじゅう か

ら , 「先生あ りがと う 」の声があ がると, また鳴り / 運動場のブランコ と シーソーは / たちま

ち ,ぼくらの笑い 声につつまれる

教会の鐘が鳴るとき / ママ,知ってるかいノホルモン 注射の針が,少女の 青春をつみとって

しまっていることを / 学校の鐘が鳴るとき / パパ,知ってるかい / 店の男の鉄拳が ,少女の笑

い声を黙らせてしまっていることを

もう一度鐘を 打てよ,牧師 ノ 祈りで,処女を 失った魂をあ がなってくれ / もう一度鐘を 打て

よ,先生 / 笑い声をあ の広い運動場に 解き放ってくれ

鐘の昔がまた 鳴るとき / パパ,ママ,知ってるかい / ぼくは,いつもいつも 思っている / ど

うか, もう一度ぼくを 生みなおしてくれないかと

( 注 ) 粒粒 : 台北宗 と 桃園 県 にまたがる粒粒 山 。 大武 Uu : 台東 県 ,

パイワン族が 分布居住する。 阿 亀 威部落 : 前出。 作者の故郷。

以上の詩は, S9 年に出たモ ー ナノンの個人詩集『 ぅ るわしき稲穂 Jl ( 原題『美麗的稲穂山

役 掲 ) に収められている。 この詩編からも 感じとれるよ う に , モ ー ナノンの詩は 原住民族の心

なう た い , また,例えば ,

「生養」から「 m 地 同胞」へと / わたしたちの 名前は / 台湾史の片すみに 次第に忘れ去られ

てきた ノ 山地から平地へと / わたしたちの 運命は , ・…‥わたしたちの 運命は / ただ人類学の 調

査報告のなかで / 丁重なとりあ っか いと 関心を受けているにすぎない

( 「わたしたちの 名前をかえせ」の 第一節 )

のような率直な 詩風で,原住民族の 心をとらえたのであ る。 詩の言葉は,深い 悲しみのなかか

ら掬われ,彼らのメロディにのせられて 唱 われるかのようだ。 次の「帰っておいでよ ,サウ ミ 」

の「サウ ミ 」 ( 原文「 渉 烏木」 ) は,誰を指すのか , あ るいはパイワン 族の精神的ななにかの

象徴なのか, 今 不明だが,山地から 出ていった人を 呼び戻そうとする 悲しい詩であ る。 詩の最

後の部分を引いてみよう。

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サウき よ,サウミノ 弓と 火種をもって ,兄は / 消えることのな い愛と 希望を抱きながら /m

また 山ヘ / 一遍も う 一遍と,あ なたの名を う た い つづけている ょ / 帰ってお い で ょ ,帰ってお

いで / 粟と 芋がどっさりとあ る田舎の家へ 帰っておいで !

現代は,恋しい 人はそれぞれに 山地を捨てて 工業化に酒造する 消費都市へ,夜の 街へ,海へ

……とひたすら 流出する。 そして,かつては ,後述するような 経緯で,多くの 人が南洋へ,果

ては大陸へと 引っ張られて 帰らぬ人となった。 この詩には, そのような彼らの 絶望的な境遇が

うたい込まれているともいえる。

次のトパス・タナ ピて は ブヌン 族で, 田雅 各は漢名であ る。 1960 年に 南投県 信義 郷 に生まれ

た 。 高雄医学院を 卒業し原住民族のための 医療活動に情熱を 燃やしながら 創作活動を続け ,

83 年に処女作を 発表して以来わずか 3 年で, F 恋情 の m 地口収録の「最後の 猟人」によって 呉

濁流文学賞を 受賞。 そして, 87 年には作品集『最後的猟人』 ( 後 掲 ) を上梓するにいたる。 該

書の表紙には「台湾第一部山地小説」と 銘打たれている。 先述した如く ,すでに 陳 英雄の作品

集 があ り,「第一部」というのは 正確ではないが ,トパスの作品は 台湾文壇で大きな 衝撃をもっ

て迎えられたのであ る。

『恋情の山地』には「 田雅 各作品 下 最後的猟人』討論会」 (86 年 3 月 3 日開催。 以下「座談

会」と略称。 なお, この「座談会」は , 注 (3) にあ げた邦訳書には 訳出されていない ) が 収

録されている。 そのなかで, 呉錦発は 「 田雅 各の出現は,台湾文壇にとって 一大事件」と 述べ

ている。 また,「座談会」に 参加した 鍾肇政は ,「彼の作品を 読むと,強烈で 不思議な感覚に

見舞われ, これこそほんとうの 台湾小説だと 感じる」とまで 称賛し幸高 は 「北京語で創作し

ている作家に 反省の機会を 与えたことに 最も意義があ る」と思考のマンネリ ィヒ した既成作家へ

の 警鐘ととらえている。 呉はまた, トパスの作品が 新聞 ( 呉が土偏する 下民衆日報コ 前 刊 ) に

載ると,山地で 伝道に従事する 神父や牧 描 ,さらに有識者から 電話でコピーを 依頼されるほど

だったと伝えている。

さて, トパスの処女作の 題名は「トパス・タナ ピマ 」 ( 「 拓抜斯 ・ 搭 馬匹馬」 ) であ る。 この

小説の特筆すべき 特徴は, その奇抜な題名にあ る。 つまり, トパスは, 自分の本名を 題名に 冠

した小説で台湾文壇に 登場した。 確かなことはいえないが ,作家が作家自身の 名前をテーマに

して描く作品は ,台湾文学に 限らずほかに 類をみないのではないか。 こうした題名を 可能にし

た条件は,作者が 二つの本名をもっている 点にあ ろう。 恐らく, この作品口を 発表したときの 作

者名は,漢名の 本名,つまり 本書でも使っている「 田 雅名」であ ろうと推測する。 この漢名が

公式の場での 本名であ り,投稿したのが ,高雄医学院での 文芸誌であ る点から推してほぼ 擬 い

ないところだ。 つまり,彼は ,種族名を本名として 名乗ることを 禁じられてきたことを 逆手に

とって,種族名の 本名を作品の 題名とすることで 名乗り・をあ げた。

トパス・タナ ピマ と , こう題名に自己の 名を う たったとき,作家のなかでどのような 作

用 が働いたのであ ろうか。

前述した「座談会」のなかで , 鍾肇政は , トパスは思考のプロセスにおいて ,母語 ( ブヌン

語 ) の影響を受けていると 指摘する。 鍾肇 氏自身, 45 年を境に日本語から 中国語への転換を 迫

られ,実際トパス 同様の体験,つまり 鍾の場合は先ず 日本語で思考し それを頭のなかで 中国

話 に訳す「 訳脳 」にの言葉は ,台湾文学を 考える ぅぇ での一つのキーワードであ る。 鍾肇政

「台湾文学について 『 訳脳ロの 体験から」『台湾文学研究会会報 コ第 10 号, 85 年 7 月所収 )

を経験している。 同様の指摘は , 呉錦発 もしており, トパスの中国詰は , 時に形容詞が 動詞に

後置されて標準語にはな い 特徴をもっと 述べる。 この 2 3 な 作業は並大抵のことではないだ る

う 。 事実,「何度も 書き直す」とトパス 自身が筆者に 語っていた。 つまり, トパスは ,ブヌン

語で思考 し 学校教育のなかで 獲得した第二の 言語,中国語で 創作する。 そのプロセスで 中国

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語を対象化しさらにブタン 語の世界に存在する 自己,つまり「トパス・タナ ピマ 」を作者「 田

雅客」が対象化する。 ここにおいてはじめて 自己の名を題名とする 作品の誕生が 可能となった。

その結果,作品は 広がりをもち ,私小説風の 手法ながら ブヌン族 全体を包みこむ 大きな世界を

描くことに成功した。 ( なお, このような対象化を 容易にさせたのは , ブヌン 族の命名の仕方

にもあ るかもしれない。 長男であ る彼は,祖父の 名を継承している )

はじめに取りあ げたモ ー ナノンをはじめ ,漢名以外に 自分の種族の 本名を名乗って 文ィヒ 活動

に従事する原住民が 増えつつあ る今日, トパスのデビュ 一作は,原住民の 文学にとっても 記念

碑的な作品として 位置づげられるだろう。

( 三 ) 原住民文学の 世界

ここまで,特に 断ることもなく 原住民あ るいは原住民族という 呼称を使ってきた。 従来, ほ

とんど使われることがなかったこの 呼称は, 80 年代の覚覚の 民主化運動の 影響を受けた 彼ら自

身の自覚から 生まれてきたものであ る。 もちろん,アメリカをはじめとする 世界の少数民族の

運動とも連動していよう。

88 年に東京で講演したという , イ バン・ユカン ( アタヤル 族 ,現在東京大学大学院在籍 ) に

よると, 「台湾の民主化運動は , 70 年代後半から 成長してきましたが ,私たちの原住民族運動

は, 80 年代における 党外民主運動の 発展の刺激のもとに 起こってきたものといえます。 1983 年

の『高山青山創刊の 後, 84 ヰ , 85 年といわゆる 党外雑誌がつぎつぎとタブ 一に挑戦して 反対運

動の限界をおしひろげてきましたが , そのなかで原住民族のさまざまな 問題が広く発掘・ 報道

されるようになり , 「男は海に出 ( 遠洋漁業船の 下級乗組員に 代表される 重 作業労働者 ), 女

は 海に下る ( 苦海に沈む,つまり 売春 ) 」という言葉に 示される原住民族の 悲劇が認識される

ようになりました。 このほか,少なからぬ 反対運動参加者が 積極的に原住民族運動に 協力する

ようになりました」という。 ( 「立ち上がる 台湾少数民族 イ バン・ユカン」若林正文者『 転形

期の台湾 「 脱 内戦化」の政治』田畑書店, 89 年 9 月所収 )

彼らはこの運動のなかで , 84 年 12 月, 台湾原住民権 利促進会を結成し , 87 年 10 月には台湾原

住民族権 利促進会 ( 以下「原権 令」と略称 ) と改称した。

同じく, イ バン・ ユ カ ン によると,主な 運動方針として「原住民族自治運動を 推進すること」

「中国大陸でとられている 民族区域自治制の 視察団の派遣」「原住民族固有姓名復活運動の 推

進 」「土地返還要求運動」などをあ げている。

このように 83 年 5 月に目高山 青 』が台北で創刊されて 以来,原住民の 言論活動も活発になり ,

「原権 令」の『全訳』 "m 外山』 ( 前者の第 1 期から第 6 期,および後者の 第 t 期は T 原住民

被 圧迫者的 呵城 ( 台湾原住民族権 利促進会成立姉週車軸 ) J 87 年 12 月初版に収録 ), さら

には前掲の新聞『 原報 』 (Aboriginalpost) が 89 年 11 同 18 日に屏 東で発刊され ( 現在, 93 年

8 月 15 日付第 21 期まで出ている ), 90 年 8 月には『猟人文 ィ Ⅱが台中で創刊されている ( その

後発展して, 該 誌を母体に 92 年 10 月に「 さ清 原住民人文研究中心」が 設立された ) 。

モ ー ナノンの登場も , トパスの出現もこうした 原住民の覚醒と 無縁ではない。 むしろこ うし

た 時代のなかから 生まれてきた。 台湾文壇にとっても , もはや無視できない 存在として確固た

る位置をしめるようになった。

ここで原住民の 人ロとその分布をみてみよう。

前掲の F 原 親コ創刊号に 統計が出ている。 それによると ,次の通りであ る。

平地 m 胞 145,792 人

山地山砲 176,096 人

Page 7: 台湾原住民文学序説...145 研究ノート 台湾原住民文学序説 下 村 作 次 郎 ( 一 ) 台湾文学 「山地文学の 創造は, もはや夢ではない」 1989

さ 清原住民文学序説 Ⅰ 5I

総人口数 321,888 人

種族名 人口総数 分布地区 ( 地図参照。 同紙掲載のものにもとづく )

アタ ヤル 族 75,975 人世 来郷 ,共同郷, 甫漢郷 , 覆 異郷,英五 郷 , 丑峰郷

柑平郷 , % 安 郷 , 樺 愛郷, (281 男木木 邦 B,

パイワン 族 60,770 人姉池 郷 , (191 %% 塚 てゆ 6@ @121 考 宇田 ;%B, 11@1 男 きき 隻 Mo, @141 春日脚, J 師子 如は

牡丹 郷 , 1261 士垂イ 二班 耶 ,金崎 @251 郷

ブタン 族 35,009 人信義 (101 郷 , ( 桝 延 @ 平鯛, (231 海ま詰 @SD7W6, (201 三辰 郷 , 胡と源卯ト

アミ 族 120,703 人 台東,花蓮など 県境

ツウオ 族 7,U40 大ト 可 里山相 廿

サイ シ ヤット 族 3,884 人面圧抑, 丑峰郷 ヤミ 族 3,461 人 (2% 蘭岨郷

ピュマ族 8,125 人 台東市, 卑 南郷

ルカイ 族 6,801 人寿男 1181 @ 白 4%, (221 茂木木 m ロ

ここで,分類されている「平地山肥」と「山地山肥」の 別は,原住民族が「山地同胞」,

「戦士、 乾杯Ⅱ

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152 天理大学学報

あ るいは「高山族」, 「 LU 地大」と称されるように ,晋山地に住んでいるわけではないことを

物語るものであ る。 例えば, 蘭岨に 住むヤミ族や 東部海岸地帯に 住む ピュマ族や アミ族の多く

は 平地に住んでいる。 ここにあ がった両者の 人口数字は, どのような方法で 計算されているの

か 不明だが,行政上は「山地山砲 は , m 他行政区域内に 居住する アタ ヤル 人,ブヌン人,

ワン 人 ,ルカイ 人 , ツ オウ 人 ,ヤミ 人 ,それにサイ シ ヤット 人 ,アミ人の一部を 指す。 平地山

肥 は ,普通行政区域内に 居住するアミ 人 , ピュ マ人 ,サイ シ ヤット 人 , それに アタ ヤル 人 ,パ

イワン 人 ,ルカイ 人 , ブヌン人 , ツ オウ人などの 一部を指す」 ( 陳国 強者 屈 さ清高山族研究』

三職書店上海分店出版, 88 年 10 月所収の「台湾高山族的人口問題」にみる ) とい つ 、

さて ニ 懇情の山地コには , 9 作家 皿 篇の作品が収められている。 そして,描かれた 種族は ,

次の六種族であ る。

鍾理和 (1915 一 60 年。 屏 東県人 ) 「山地の女」 パイワン

鍾肇政 (1925 ヰ 生 。 桃園県人 ) 「 熊 狩りに挑む 男 」 アタでか

田雅各 ( 前掲 ) 「最後の猟人」 フヌン

胡台麗 (1950 年上。 上海人 ) 「 呉鳳 の 死 」 ツオウ

田 雅客 「マナン, わかった」 フヌン

李 喬 (1934 年生。 苗栗 県人 ) 「パスタアイ 考 」 サイ シ ヤット

田 雅客 「」、 大族」 フヌン

古 豪仁け 951 年生 。 雲林 県人 ) 「 碧岳村 遺事」 ア タヤ ル

陳 英雄 ( 前掲 ) 「ひな鳥の涙」 パイワン

呉錦発 (1954 年生。 高雄泉美濃 八 ) 「燕が鳴く小道」 サイ シ ヤット

葉音 中 Ⅰ 962 年生。 苗栗人 ) 「我が友は佳 霧 に住みき」 ルカ ィ ?

また, 呉錦発の 「 序 」によると,「この 小説 集は , 間南籍 ,客家籍,覚客 籍 , m 地籍からな

6 9 人の作家のⅡ篇の 山地に関する 小説を収録しています。 (B を ) これらの作家を ヰ 齢によっ

て分けますと ,すでに亡くなっている 本省出身の文学者, 鍾理 和先生を加えた 老 , 中 ,青の三

代を含み, 出身から分けますと ,客家籍 5 人, 閾南籍 1 人 ,外雀 籍 1 人, そして原住民籍が 2

人となっていて , ちょうど今日あ る台湾の居住者の 構成の特色が 表われています」とあ る。 さ

らに,「 序 」のなかで,呉は 次の三点をあ げ,編者の視点を 述べている。

a, 「客家籍の作家が 半数以上の 5 人を占めていること」

b, 作品が反映している 問題

c, 編集上の工夫

a は ついては, 「客家籍の作家に m 地を背景とする 小説が比較的多いのは ,おそらく歴史的

に客家人と原住民との 接触がそれだけ 頻繁であ ったからでしょう。 台湾開拓の初期に ,滝川,

泉州一帯の間 南 籍の移民が早く 来て,大部分の 平原地帯を占め ,広東舞 ( 筆者 注 : ここでは客

家籍と同じ意味 ) の移民はその 後になってやってきたので , 山麓の比較的 辺都 なところに住み

つくことになりました。 そのため,生存競争においても 原住民との関係が 密接で,客家籍の 作

家に山地を扱った 著作が多いのもこうした 関係からなのです」と 指摘している。

b については, 11 篇の作品を分析して ,次のように 分類している。 ( 筆者 油 ( Ⅱに分類さ

れた作品は論述の 都合上,編者があ げた順序に従っていない )

( 一 ) 山地の病勢文化が 平地の強勢文化の 侵食に直面したのちにあ らわれた価値観の 喪失。

「山地の女」,「 佳霧 に住む 友 」,「燕が鳴く 小道」,「 碧岳村 遺事」

( 二 ) 漢民族によって 書かれた歴史の 歪曲に対する 原住民の抗議。

「 呉鳳 の 死 」,「マナン ,わかった」

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台湾原住民文学序説 153

( 三 ) 原住民の伝統的な 神話についての 新しい解釈。

「パスタアイ 考 」,「小人 族 」

( 四 ) 原住民の伝統的な 生活風習に関する 描写。

「ひな鳥の涙」,「最後の 猟人」,「 熊 狩りに挑む男たち」

c は ついては,漢族 糸 作家と原住民作家の 作品を「 上ヒ較 文化」の観点から ,例えば,

次のように排列したという。

「原住民のく 狩猟 ) に関する描写」の 上 ヒ較 鐘 肇政 「 熊 狩りに挑む 男 」と田雅客「最後の 猟人」

「小黒人伝説」の 比較 李喬 「パスタアイ 考 」と田雅客「小人 族 」

「 呉 風伝説」の見方 明白鹿「異風の 死 」と田雅客「マナン ,わかった」

さて, ここでは, この編者の視点 h にもとづいて 11 篇の作品についてみておこう。

( 一 ) の分類で指摘されていることは ,台湾で歴史的に 発生してきた 問題であ るが,今日ま

すますその危機感が 深まっている。 80 年代に起こった 原住民族権 利促進運動は , まさしくこの

危機感への原住民の 覚醒から生まれた。 ガライ ポ

鍾理 和の「山地の 女」 ( 原題「 暇黎婆 」 6[@ 年 ) は,作者の祖父の 後妻を描いている。 原題の

「 暇黎 」は「山地の 人」を指す客家請であ る。 曾孫にあ たる鏡鉄 民氏 ( 作家 ) によると,パイ

ワン 族 らしい。 台湾では,台湾移民開拓 史 のなかで,漢民族と 原住民との結婚, あ るいは本篇

のように, 妾 として漢民族の 家庭に入った 原住民の女性は 案外少なくはなかったのかもしれな

い。 本篇では,そうした 祖母と孫 ( 作者 ) との関わりを 通じて,良好な 家族関係が形成されて

いた家庭が描かれている。 しかし祖母の 種族の親戚が 遊びにきた時の 彼女の応対ぶりや , 近

所の大人の噂, また山地にもどった 時の祖母と「 僕 」との距離感などに 起こる微妙な 意識の差

異が巧みに描出されている。 「山地文学」の 傑作としてさらに 深い考察が必要とされよう。

本篇同様に原住民の 女性を描きながら , さらに一歩踏みこんで 家族の血統のなかに 原住民族

の血が入っていることを 描いた作品が , 呉錦発の 「燕が鳴く小道」 ( 原題「 燕 唱曲街道」 83 年 )

であ る。 本篇は,「 僕 」と偶然の機会から 知りあ ったサイ シ ヤット族の歌手 ョ 一 % との出会い

を 描き,漢族系台湾人と 原住民族との 共生の道を探る 文学となっているが ,作品のなかで「ぼ

く・も・は ん ・ぶん・さん・ ち ・じんだ」という 告白がなされて 台湾文学の新領域を 切り開い

た。 本篇で構築された 世界は,台湾作家がはじめて 踏みこんだ世界であ る。 なお, タイトルに

取られ,小説の 結びにも登場する " 燕 " は, 「 燕好 」 ( 夫婦仲がむつまじいこと ) や「 燕賀 」 ( 新

築の落成を祝う 言葉 ) という言葉があ るように,漢族系台湾人 とサイシ ヤット族に代表される

原住民との " 共生 " を象徴している。

以上の文学史的価値とは 別に,「燕が 鳴く小道」の 優れた点は ョ 一 % という一人の サイシ ヤッ

ト族の女性をリアルに 描ききったところにあ る。 ョ 一では れも がる男たち, それは, 日本人観

先 客であ り,漢民族であ る。 本篇のリアリティは , ョ 一 %の 存在の危うさにあ る。

次の 2 篇は, 呉錦 発の観点からみれば , 「平地」と「山地」, い い 換えれば漢民族と 原住民

族との文化接触によって 生じる「価値観の 喪失」がテーマとなっている。

古豪 仁の 「若苗 村 遺事」 ( 原題 同 , 76 ヰ ) は,次のような 作品であ る。 夫の ブハオ が案内し

てきた 休 務局の漢民族の 青年紀 祥 清に,かつての 恋人の幻影をみたモリ 一の切ない恐物語。 村

の人びとに「生木を 裂くように」別れさせられた 音楽教師の恋人を 失って以来,生きる 力をすっ

かりなくしていたモリーは ,仕方なく今の 夫と結婚していた。 サリーという 一人娘がいるが ,

その子は自殺した 恋人の忘れ形見であ る。 夫はお人好しの 大工職人であ ったが,心から 受けい

れることができず ,今では,夫の 求めにも生理的に 拒否反応が出るくらいだった。 そんなモリ一

の前に突然あ らわれたのが ,死んだ恋人の 再来かと見まがうばかりの 紀祥漬 であ った。 「平地」

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154 天理大学学報

からやってきた 紀祥清は ,恋人の幻影を 追い,失った 愛を取りもどすために「平地」へと 誘っ

てくれる存在であ る。 しかし, その彼と新竹の 宿で一夜をともにした 彼女は, 「一風 L 佛を離

れるとすぐに 枯れて,死んでしまう」全線 蓮と 同じ運命なのだと 悟り, 朝 早く置き手紙を 残し

て去ってしまう。 帰り道は,昨日下ったばかりの 同じ山道。 「サリーを背負って ,地面いっぱ

い に積もった落葉を 踏みつけながら 歩いて」 ゆく モリ一の後ろ 姿は, いじらしくも 悲しい。 作

品の舞台であ る 碧 早材がどこを 指すのか定かではない。 大雪山林管区のなかのどこかをフィク

、 ンコ ン化した地名であ ろうか。 確認できる地名,姉崎や 有 鹿 大山などから 判断して,新竹 県の

矢石 郷 一帯の アタ ヤル 族 居住 区 と考えられる。 葉音中の「 佳霧 に住む 友 」 ( 原題「 我的 朋友佳任務」 85 年 ) は,青春文学であ る。 主人公の

「 僕 」は,大学受験制度に 疑問をもち,結局失敗してしまった 青年。 彼はへルマン・ヘッセに

心酔 し , 「感傷的な気持ち」で , 佳 霧を訪れる。 このいくぶん 反抗的でロマンチックな 文学青

年に案内されて ,読者は ク 一イ やピ トアイが住む 山 深い m 地の世界に誘われる。 そこは許可が

なければ外部者は 入れない山地保護区であ る。 教会が村の中心に 建ち,伝統の スト。 石坂家屋がな

なり,代わって 町の新興住宅と 変わらぬ文化住宅が 整然と立ちならんでいる。 家庭にはバイク

やステレオがあ り, テレビや冷蔵 庫はほぼ普及している。 しかし,貧しい。 それに,生活が 単

調で若者が暇をもてあ ましている。 その 眼 つぶしが,昼間から 飲む酒であ り,バイクを 使って

の遊びであ る。 一見「文明化」した 村の生活はどこか 病んでいる。 本篇にはまた , カンボジア,

タイの国境あ たりから台湾に 引きあ げた友人泰雄の 父親の生活や ,彼らと一緒に 渡 白 したミャ

ンマ一の女たちの 生活,さらに 主人公が話した「オジサン」という 言葉を聞いて , 日本語を喜々

としてまくしたてる ク 一イ の 父親の様子などが 点綴されており ,読者は入山許可書不携帯のま

ま山地や山地周辺に 住む人びとの 世界を歩いてきたような 気にさせられる。 なお,地名の 佳 霧 ,

達加 渓は特定できない。

( 二 ) に分類された 2 篇は,清朝時代の 阿里山で通事をしていた 呉鳳が , そこに住む原住民

の首狩の風習をやめさせるために 自分の首を取らせたという「 呉風 伝説」を取りあ げたもので

あ る。

胡 白箆描くところの「芸風の 死 」 ( 原題「 呉鳳 文苑」 80 ヰ ) は,衝撃的な 作品であ る。 「 呉

風 伝説」を本篇に 描かれたようにとらえた 作家はかつていなかった。 今日みる「 呉風 伝説」の

原型は,日本植民地時代に 作られ, 日本では戦後の 教科

書からはもちろん 削除されているが , 台湾では先ヰまで 教科書に採られて 教材として教えられ

てきた。 ところが,先にみたよ う に 80 年代の原住民族の 権 利促進運動のなかで , この「芸風伝

説」の不当性が 取りあ げられ,ついに 87 年には教科書から 削除することに 教育部が決定した。

この間,原住民の 抗議運動は呉 鳳 廟の取り壊し 共属像の取り 壊し さらには英風概という 地

名を阿里山脚に 改名せよという 運動にまで発展して , 88 年 11 月にはそれを 実現させている。 本

篇は , こうした運動に 大きな影響をもたらすことにもなったのであ る。

登場人物の 2 人の名双は, 「 偉ィ二 」,「減員」と 名づけられているが , それぞれ「偉大な 人」

「貞潔」という 意味が仮託されており ,儒教の道徳観念を 象徴している。 作品は,はじめて 山

地を訪ねた減員 が 「 呉鳳は , あ なた方の英雄なのかしら ? 」と何気なくいった 言葉をきっかけ

に 思わぬ展開をする。 そして,漢民族の 彼らと ツ オウ族の「頭目」たちは 道徳観念をめぐって

激しくぶつかり ,破裂して火花を 散らす。 作品は,次のような 描写で終わっている。

ドアを押して 外に出ると,満天の 星が降りそそぐように 輝いていた。

降り注ぐ満天の 星は, 「 呉鳳 の 死 」後の,新しい 道徳観念を創造するためのスタートライン

に 着いた彼らを 祝福しているのであ ろうか。

も う 1 篇のトパス・タナ ピマ ( 田 雅樹描くところの「マナン , わかった」 ( 原題「患難 明

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台湾原住民文学序説 155

白丁」 86 ヰ ) は ,原住民族の 立場から「美風伝説」を 描いたものであ る。 儒教道徳の「 捨生取

義 」あ るいは「赦身 威 仁」を体現する 義人 呉 鳳の伝説が,小学校の 教材のなかでどのように 扱

われて,子供たちにどのような 印象を与えてきたかが よ くわかる作品であ る。 トパスの作品の

特徴として, ブタン語の使用があ げられるが,本篇では 父と子の理解の 成立の契機をはたす 言

葉 として巧みに 用いられている。 「 呉風 伝説」を教材とする 授業のあ と,更正 は 「色の黒い野

蛮人,蕃人は 野蛮, ギョロ目で,真っ 黒 け 。 黒ん坊は野蛮,人の 首を狩り,人肉を 食う,一番

残忍なのは,蕃人だ」といってクラスメートにからかわれる。 教室で粉々に 打ちくだかれた 更

正の心は, 父 との会話の最後に 父親を「タマ」 ( お父さん ) と ブタン語で呼ぶことではじめて

慰められる。 さらに,典正は 父親から「マナン」と 種族の本名で 呼びかけられることによって ,

ブヌン族 としての誇りを 回復するのであ る。

( 三 ) に分類された 作品は,台湾のいくつかの 種族に伝わるいわゆる「こびと 伝説」を扱っ

ている。

李高め 「パスタアイ 考 」 ( 「出所達磨 考 」 77 年 ) は,サイ シ ヤット族に伝わる「パスタアイ」

( 「倭人 祭 」あ るいは「 倭 霊祭り と呼ばれる祭りの 由来の伝説を 物語 ィヒ したものであ る。 本篇

の素材となった「サイ シ ヤット族の小人伝説」を 引いておこう。 ( 移 川手 之蔵 ・馬淵東一・ 宮

本延 九者『台湾高砂族系統所属の 研究』凱風 社 , 1988 年 12 月復刻所収 )

サイ シ ヤット族の間には タ アイ (Taai) と 称する身長姉尺位の 小人の居た説話が 残され

て居る。 タ アイは上坪渓の 上流右岸の地マイバラ 山の中腹 の洞窟内に住み , サイ シ ヤットの

部落に常に果て 居た。 歌をよくしサイ シ ヤットの歌は 皆 タ アイに教へられる 所であ ると 云

ふ 。 又 祭祀も タ アイに教へられ , 豆 姓の家に来つて 祭と 歌を教示して 居た。 タ アイは 又 女色

を好み , 時々大隅 社 その他の部落に 来て婦女を犯し 尚 その 脅力 をたのんで暴力を 用ふる所

があ った。 このため サイシ ヤットは タ アイを追はんとし 成時その住居の 洞窟の前で祭をし

て タ アイを呼び出し 洞窟から此方の 岸に渡る途中の 丸木橋を タ アイの渡って 居る最中に河

中に落した。 このために大部分の タ ア イ は死し二人の 残存したものは 東の方に去って 行っ

た。 それは 釆タ アイを祭る祭祀が 行はれ, その祭祀は常に 東に伺って タ アイを呼ぶと 云ふ 。

タ アイの祭は Pas-taai と称し他の祭祀が 同姓間のみで 行はれるに対し この祭祀は全 族

同一に行はれ , その総司祭は 常に 朱姓 即ち TRteeln がこれに 出 る。 往時はこの役は 豆 姓

(Tautausai) が ィテつ たが, タ アイのために 虐待されその 戦が 朱姓に 移り, タ アイの 殺毅 に

は 朱姓 のものが主謀者となり ,遂に司祭は 朱 姓に 移ったと 云ふ 。

今も隔年に一度,盛大に 行われている。 ( 昔は毎年,稲が 実った頃 の満月の夜を 中日にして,

4 日間にわたって 行われたという ) その様子は,本書収録の「燕が 鳴く小道」の 冒頭に描写さ

れている。 なお,作者の 住むところは , 苗栗県のサイシ ヤット 族 居住 区 に隣接した地域で ,彼

らの歴史,習俗, 人情によく通じている。

一方, トパスの「小人 族 」 ( 原題「 休儒族 」初出不詳 ) は,ブタン族に 伝わる「こびと 伝説」

を 扱ったものであ る。 同じ ブヌン 族でもまた部族によって 違った伝説があ るようだが,本篇が

拠ったものは 不明。 伝説を語る手法が 現代の小説仕立てであ るために,サーカスの 舞台で小人

をみた祖父が ,「森の原住民」であ る彼らを彼らの 土地から追いだしたと 伝えられる「サリウ

ス」の子孫だと 思いこむ筋立ては 奇異な感じを 抱かせる。 しかし,作者は 敢えてこのような 手

法を用いて,伝説のなかに フヌン 族のルーツを , ひいてはそこに 隠されたブタン 族の原初的な

姿, それは精神文化といい 換えてもいいようななにかを 探りあ てようとしているのかもしれな

いと思わせる。 作品の結びの「高山に 住む フヌン は日に日に背が 低くなって,ついには 人の晒

までしかなくなってしまうのだろうか ? 」という言葉は ,フヌン 族が衰退することへの 危機感

を 詰っているのだろうか P

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156 天理大学学報

次に, ( 四 ) にあ げられた 3 篇の作品をみてみよう。

陳 英雄の「ひな 鳥の涙」 ( 原題「雛鳥 涙 」初出不詳 ) は,大竹村に 伝わるパイワン 族のパラコ

ワン ( 男子集会所 ) を素材にしたものであ る。 パラコワンで 訓練を受ける 気の弱い少年の 心理

が興味深い。

トパスの「最後の 猟人」 ( 原題「最後的猟人」 86 年 ) は,作者の故郷, 南投県 信義郷人相 村

(@ 日日本時代地名,台中州新高部 轡 蕃人倫 社 ) を舞台にしたものであ る。 主人公の ピヤリと 愛

妻パスラの会話,さらに 客家人の店の 主人,村の猟人ル 力 ,入山検査所詰めの 巡査との会話,

それに猟犬イファンを 相手に語る独り 言が,時にはユーモラスな 筆致をまじえて 生き生きと 描

かれ,山地での 日常生活が伝えられている。 そして, 森と 猟人の肉体的なまでの 関係が自分の

心の底をのぞき 込むようにして 語られる。 「あ の女にいつか 愛想が尽きたって ,おれにはこの

森があ る」「馬鹿野郎 ! % 鼠の野郎,穴にすっこんでないで ,早く出てこい。 猟人が森で飢え

死になんて,森の 恥 だ ! 」。 しかも,こんな 森の住人 ピヤけ にもどこかしら 哀感が漂う。 タイ

トルにとられた「最後」の 二字の意味するところは ,文字どおり 開発の名のもとに 破壊されて

ゆく森の猟人たちの 絶望的な現実をいいあ らわしたものであ る。 と同時に,ブタン 族 ,ひいて

は原住民全体への 警鐘の意味が 込められている。 作品の最後で ,獲物を没収され「心に 誓う」

言葉 「猟銃がなくてもきっとまた 釆 るさ」は,作者のメッセージとも 読みとれる。

鍾肇攻め 「 熊 狩りに挑む男たち」 ( 原題「 猟熊 酌人」 82 年 ) は,原住民のなかで 最も武勇を

誇る アタ ヤル族の現代の 父と子の意識の 断絶を軽 快 なタッチで描いた 物語であ る。 山を下り,

近代文明の洗礼を 受けた オ ピルには山地の 生活は単調そのものでしかない。 町で覚えたギター

が唯一彼を慰める。 そんな彼には ,勇敢な アタでか の伝統など重荷以覚のなにものでもない。

作者の故郷は ,作品の舞台 馬 別科 弩に 隣接した歴史的に 原住民との交渉の 深い桃園 県龍憤 であ

る 。 作者は,現代の 語り部のように 高利 科弩 一帯に住む アタ ヤル族の現代っ 子の生活意識を 切

りとって読者に 語ってくれている。

以上, 11 篇の収金 乖 作品についてそれぞれ 簡単に述べてきた。 ここに描かれた 原住民族は ,か

つて「高砂、 義勇 隊 」として旧日本軍の 一員として戦場に 駆りだされたことのあ る人びとであ る。

それほど深い 関係にあ った彼ら ( およびその後 脊 ) が, 日本敗戦後,「中華民国」政府のもと でどのように 生きてきたのか ,戦後の日本ではまるで 知られていないといっても 過言ではな

い。 さらに,「高砂義勇 隊 」に関連してつけ 加えるならば ,寅泰明 の 「戦士,乾杯 ! 」 ( 原題

同 , 88 年。 筆者 訳 。 前掲 旧 バナナボートコ 収 ) を見逃すことはできない。 好 茶 杓 ( 屏 東早霜台

郷 。 該村は ,政府主導の「杉村」がもたらした 著しい弊害を 象徴する原住民の 部落として注目

されている。 現在,義援金を 募って旧好 茶 村の再建運動が 続けられている ) に住むルカイ 族の

戦士を描く本篇は ,「 四 世代にわたって 部族のために 勇士として覚敵に 立ちむかい,その 上慢

略 者であ る異民族のために 兵士となって 別の敵を相手に 戦い,時には 世代ごとに,ひどい 場合

には一代もたたないうちに 侵略者が変わり , さらにその侵略者の 戦士となってなんの 恨みもな

い人びとを不倶戴天の 敵として戦った」シオンの 家族を悲しみの 筆で描く。 ルカイ族の戦士,

日本 兵 ,中国国民党 兵 ,そして中国共産党 兵 。 作品の一場面を 引いてみよう。 ( シオンの家に

飾られた写真の 額を指して訊ねる 場面であ る )

「日本兵の隣のこの 人は誰ですか ? 」

「あ あ ,共産具のやっか い 」

、 ン オンの返答は 私を驚かせ つ づけた。

「共産具 ? 」

「そうさ,台湾が 祖国復帰してから ,最後に大勢の 人が大陸に行って 戦争をしたらしいけど

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台湾原住民文学序説 157

この村からもたくさん 行ったんだ。 でも,みんな 八路軍につかまって 共産具にさせられたって

聞くよ」

さ 清原住民族の 人びとが, 「高砂義勇 隊 」として,戦場に 赴いたのは 1941 年頃 からであ る。

その後, 日本敗戦まで 日本軍人として 参戦した。 この歴史的事実はよく 知られたことであ る。

しかしながら , ここに描かれた 事実はほとんど 知られてこなかったことではないだろうか。 最

近ようやく出版された 手水城監修『台湾歴史年表終戦篇 1 (1945 一 1965) J ( 国家政策研究資

料中心, 90 年 11 月 ) によると, 46 年 9 月 3 日に徴兵制度が 実施され, 48 年Ⅰ同 20 日に停止され

ている。 陳国 強者『台湾高山族研究』 ( 前掲 ) 所収の「祖国大陸上的高山族同胞」によると ,

「祖国大陸に 居住する高山族同胞は ,大部分が抗日戦争勝利前後に 台湾から大陸に 移ってきた」

とあ り, その人口は 64 年の全国人口調査時, 3f66 人 , 82 年の第 3 次調査では 1.549 人と記されて

いる。

台湾原住民族の 文学は, 「原住民文学」としてはじまったばかりであ る。 呉錦発 によれば,

原住民作家は ,突如として 次から次へとあ らわれて,斬新 ( 中国詰「新奇」 ) な 作品を発表す

るようになったという。 『悲憤 め L U 」 ヰ也 』の原書を出版して は釆 ,原住民文学の 出版に力を入れ

ている景星出版社からは「台湾原住民文学」と 銘打つシリーズが 出ているが,すでに U4 冊出版

さ れている。 (121 さらに,文学雑誌『文学台湾』でも「原住民文学」の 特集を二度にわたって 組み,第 4 期 (92

年 9 月 ) では「原住民文学」の 定義について 論じられ,第五期 (93 年 1 月 ) では ピュマ 族の孫

大 Ⅱ l ( 著作に『久久潤一次コ 張 老師出版社, 91 年 7 月があ る ) による講演とその 討論会がもた

れている。

旅大川の講演テーマは ,「黄昏文学の 可能性 原住民文学試論」というもので ,そこで孫

は原住民族の 置かれた環境を 1, 人口, 2, 土地, 3, 言語・文字, 4, 社会制度・風俗習慣

の 4 点からみれば , そのイメージ ( 意象 ) は「黄昏」という 言葉で括れるとする。 つまり, こ

04 点のどの一つを 取ってみても ,原住民族は 危機的な状況にあ るという。 減少する一方の 人

口,失われてゆく 土地, そして言語, さらに漢民族の 社会制度・風俗習 噴に同ィヒ されてゆく民

族固有の伝統文化。 台湾原住民文学は ,その出発から 重い課題を担っているのであ る。

; ユ i

い ) 中村孝志「台湾の 原住民族」Ⅱひとものこころ 台湾原住民の 服飾』天理教道文 社 , 93 年 8 月 )

参照

(2@ 中国大陸における 台湾文学については ,中島利郎 編 「中国大陸発行雑誌所載台湾小説作品・ 作

家資料目録 稿 」げ台湾文学研究会会報』 1- 9, 82 年 6 月 -84 年 12 月 ) があ る。

(3@ 該書 に収録された 作品の邦題は ,邦訳書『恋情 の m 地 台湾原住民小説 選 』 ( 筆者 監訳 , 呉薫 ほ

か訳 , 田 *m 書店, 92 年 11 月 ) に従 う 。

(4) 中島利郎 編 「西川 l 滴全書誌」 ( 中国文芸研究会, 9..@ 年 10 月 ), 「坂口 褥子 著作年譜」 ( 「台湾文学研

究 会会報」第 20 号, ¥¥ 月 ) があ る。

(5@ 参考までに,戦後の 日本文学にあ らわれた台湾原住民描写作品を 管見した範囲であ げてお

坂口碑千苦『蕃地』新潮社, 1954,3

坂口祥子 著 『 蕃婦ロポウ の話』大和出版, 1961,4

坂口祥子 著ア 蕃社の譜』コルベ 出版社, 1978,3

稲垣真美 著 『セイダッカ・ グヤ の叛乱 ( 霧社事件 ) 』講談社, 1975,3

佳木隆三著「見たかも 知れない青空」『閃光に 向かって走れ』文春文庫 収 , 1982,12

佐藤愛子 著 『スニョンの 一生』文芸春秋, 1984,8

Page 14: 台湾原住民文学序説...145 研究ノート 台湾原住民文学序説 下 村 作 次 郎 ( 一 ) 台湾文学 「山地文学の 創造は, もはや夢ではない」 1989

158 天理大学学報

西村里 著 「もう日は暮れた』正風書房, 1984, 10

寺田強者『太陽の 怒り 1( 高砂族の反きし ) 』白帝 社 , 1986,1

西川 l 滴 著 『 ちょぷ らん 島 漂流記』 中 公文庫, 1986,3

面Ⅱ l 滴 著 『 雲林記 』 日孝 山房, 1989,9

西川 l 滴 著 『 蕃歌 』人間の星 社 , 1990 , 9

矢野一也 著 『台北 車姑 ( たい ぺい ・ ち やたん ) 』新評論, 1986,9

五味 川 純乎 著 「惨劇 霧社事件」『オール 読物 』 収 , 1988,7

応保忠彦 著 『大酋長モ一々 の 争い 講 社蕃人蜂起秘話コ 芸文 堂 , 1991,2 ( 未見 )

郡楠 暗者アドキュメント 小説霧社事件 霧と 灸コ三一書房, 1992,7

なお, 日本発行のものとして ,次の作品があ る。

張良 沢著圧 太陽征伐 4 小峰書店, 1988,3

上記の作品をみると ,「霧社事件」を 扱った作品が 多いことに気がつく。 それに比べて ,現在の原

住民の生活や 意識を反映したものが 極端に少ない。

(6) 出征する恩師を 見送る途中,豪雨のなかで 濁流に呑まれて 犠牲になった「高砂族」の 少女 サョ

ンを 描き,映画にもなった『サヨ ン の 鐘 』を取り上げる 必要があ るが,ただ, これには次の 二 書

があ って調査を要する。

長尾和男 著 『 サコ ンの鏡コ台南・ 皇道精神研究普及部, 1943,7 ( 未見 )

呉 海砂 著 ・春光 淵訳 デサ コ ンの 鐘 山台北・東亜出版社, 1943,7, 同 11 再版

さらに, 199.W 年 5 月 8 日, 日本現代中国学会関西地区研究報告会において ,「台湾原住民族の 文

学」の題で報告を 行った際に,塚本照和 氏 より 龍瑛宗 「薄々社の饗宴」 (r 孤独な毒魚山盛典出版

社, 43 ヰ 12 月前 腱 のあ ることをご教示いただいた。 なお, 該篇は 『民俗台湾』 ( 第 9 号, 42 年

3 月 ) 原載 。 また, 巫 永福氏は戦双における 原住民作家の 存在を伝えている。 げ 文学台湾』 5 期所

載の討論会での 発言にみえる ) 今後さらに詳しい 調査を必要とするところであ る。

(7@ 台湾におけるキリスト 教の山地伝道については ,二宮忠弘「台湾ユ エンチユウ ミン宣教の現状

と課題一台湾基督長老教会の 場合一」 ( 玉山神学院, 93 年 6 月 ) が参考になる。

(8@ ワリシ・ コ カ ン ㎝ 歴斯 ・九輪,漢名 柳即 ) 「清一切 只是起歩 関 船 「台湾原住民人文研究中

心」的成立」 ( 『台湾史料研究 Jl l, 93 年 2 用参照。 中央研究院民族研究所,称美容 氏 のご教示に

よる。

(9) 総人口数と九種族の 人口総数を合計した 数との間には , 20 人の差異があ る。 どこかの数字に 誤

記あ るいは誤植が 生じたものと 解される。 これは, 注 (3) にあ げた邦訳書の 解説「台湾原住民

の詩と文学」に 引用した時には , 気 づかなかったことであ る。 また,中村孝志茂のご 教示により,

この部分の解説で ,「平地山肥」を「 平捕族 」と混同する 誤りを犯していることを 知った。 本稿を

借りて,訂正させていただいた。

(10) 前述した古豪仁の 報道文学の舞台も アタ ヤル 族 居住地矢石郷であ る。

(11@ 駒込 武 「植民地教育と 異文化認識 一 「芸風伝説の 変容過程一」」 げ 思想』 91 年 4 月 ) が詳しい。

なお,筆者は ,文学の観点から 別稿 「トパス・タナ ピマ の文学」 巨 天理台湾研究会年報』 92 年 1

月 ), 「台湾原住民族の 現在」Ⅰひとものこころ 台湾原住民の 生活用具 曲 天理教道 文社 , 9348 別

において取り 上げた。

(12) 本稿では,これらの 文献を十分に 取りあ げることができなかった。 それ 故 ,本稿は,いわば「原

住民文学」の 一つの導入に 終わっている。 将来の再考を 期し,参考までに 以下書名を掲げておく。

1. 呉錦発編 『悲 憤 的山林 台湾山地小説 選 b (1987,1 初版, 92,1 修訂三板 )

2. 呉錦発編 『 願嫁 山地 郎 台湾山地散文選』 (1988,3 初版 )

3. 宮本 延 八者・ 魏桂 邦訳了台湾的原住民』 (1992,m0 初版 ) ( 原文,『台湾の 原住民一一回想・ 私

の 民族学調査一ム 大興出版, 1985,9)

4. 田 雅客 ( ブヌン族 ) 著 『最後的猟人 呉 濁流文学英作品』 (1987,9 初版。 93,4 三板 )

5. 莫邪 能 ( パイワン 族 ) 著 『美麗的稲穂 台湾山地詩集』 (1989,8 初版, 91,9 三板 )

6. 柳卸 ( アタヤル 族 ) 著 『永遠 f9 部落 台湾山地散文集 コは 990 , 9 初版, 91,5 二服 )

Page 15: 台湾原住民文学序説...145 研究ノート 台湾原住民文学序説 下 村 作 次 郎 ( 一 ) 台湾文学 「山地文学の 創造は, もはや夢ではない」 1989

さ 清原住民文学序説 159

7. 娃 刑期・ 羅刊 ( アタヤル 族 ) 著 『泰雄 脚 % 台湾山地小説 選 』 (1991,7 初版 )

( アタ ヤノ壕吾 ・中国詰対照本 )

8. 夏木 奇 他愛 雅 ( 漢名・ 周京 経。 ヤミ 族 ) 著 Ⅰ 釣到雨韓的 雅美人 台湾雅美放神話葉コ (1992,6

初版 )

9. 夏量 , 藍波安 ( 漢名・加勢 来 ,ヤミ 族 ) 著 『八代湾曲神話 台湾雅美 族 神話 集 』㎝ 992,9 初

版 ) ( 作品は二部からなり ,一部はヤミ 語 ・中国語対照 )

10 . 瓦歴斯 ・九輪 ( 漢名・ 柳卸 ) 著 『荒野的 呼喚 台湾山地散文・ 報導 葉コ (1992,12 初版 )

11. 打抜 斯 ・ 塔 馬匹馬 ( 漢名・ 田 雅名 ) 著 『情人手妓女台湾山地小説 集 」 (1992,12 初版 )

12. 休廷 成著 ァ頭目出 巡 台湾山地散文集」 (1992,¥2 初版 ) ( 作品は水墨画と 小品文からなる )

13. 尤稀 ・ 達公 ( 漢名・乱文音,アタヤル 族 ) 著仮譲我的 同胞畑道 台湾原住民評論集 J (1993,6

初版 )

14. 呉錦 発着『 原舞 君 原住民 舞団 的成長記録』Ⅰ 993,7) また,吉原出版社の「協和台湾叢刊」のなかには ,次のような 書物が入っている。

甲立国者『台湾原住民族的祭礼』 (89,1), 石 高 寿考『台湾的 拝壺 民族』 (90,6), 陳千武 訳述

『台湾原住民的母語伝説』 (91,2), 鈴木葉者『台湾原住民風俗言 ま 』 (92,1), 達 西島 拉鸞 ・里

馬 ( 田哲益 ) 著 『台湾 布農 竹生命祭儀』 (92,8), 巴蘇亜 ・ 博伊哲努 ( 浦 忠成 ) 著 『台湾 那族

的風土神話』 (93,6) ほかに, 瓦歴斯 ・ 尤幹 『番方円鞘』 ( 稲郷 出版社, 92,12) が出ている。

[ イ寸 記 ] 本稿執筆にあ たっては, 徐 邦男氏から得難い 資料の提供と 共に貴重なご 教示をいただ

いた。 記して謝意を 表したい。