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2013年9月、世界的な権威を持つ医学専門誌「ランセット」に、G8の首脳が初めて論文を寄稿した。「我が国の国際保健外交戦略―なぜ今重要かー」と題された論文の著者は、日本の安倍首相である。その中では、全国民が経済的困難なしに医療サービスを享受できる「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(以下UHC)」という概念を実現することの重要性が述べられている。

この異例の寄稿は、同年5月に外務省が発表した「国際保健外交戦略」を受けたものである。政府は「国際保健外交戦略」で、日本ブランドとしてのUHCの主流化を図るとともに、途上国におけるUHC達成へ貢献していくことを表明した。日本は、国民皆保険制度を中心とした医療システムにより、高いレベルでUHCを実現しており、UHCの「世界の模範」と称されている(1)。今年(2015年)9月に健康・医療戦略推進本部が発表した「平和と健康のための基本方針」の中でも「世界各国におけるUHCの実現」が究極的な目標として掲げられており、

はじめに−ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ概説−

現在UHCは国内外から注目を集める概念となっている。

UHCは、「医療サービス(予防、健康増進、治療、リハビリ、緩和ケア)を必要とする全ての人が、不当な経済的困難に陥ることなく、医療サービスを受けられる状態」と定義される(2)。その達成度は、「経済的リスクからの保護」「人口」「サービス」という3つの軸で判断される

(図表1)。UHCの性質上、達成度合いを示す具体的な

単一の指標はない。しかし、複数の指標の比較や定性面を勘案することにより、各国のおおよその達成段階を把握することは可能である。日本と世界銀行が行った共同研究(3)では、研究対象となった11カ国をUHCの達成状態毎に区分しており(図表2)、未達成国の中でもUHC

達成段階は多岐にわたる。たとえば医療保険制度が未整備の国もあれば、制度上は国民皆保険を達成していても、保険のカバー範囲や自己負担割合・医療サービスの質などに難があることからUHC達成とみなされない国も存在する。

日本が他国のUHC達成を支援するにあたっては、経済力、文化、地理的条件、医療保健の

途上国における医療提供水準の問題がしばしば指摘される中、現在の国際潮流では「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)」への注目が高まっている。日本はUHCの模範国であり、政府は日本主導でUHCを推進するための取組みを進めている。本稿では、途上国におけるUHCの現状と課題、その背景について概説するとともに、UHCの達成に向けた方向性について考察する。

社会動向レポート

途上国におけるユニバーサル・ヘルス・カバレッジ— 現状と課題 —

社会政策コンサルティング部リサーチアナリスト 安達 光

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諸制度、制度の発展過程などの違いを加味して、各国毎に適切な支援を見極める必要がある。そのためには、各国の健康指標・医療提供状況や医療保険制度について現状を適切に把握するこ

とが肝要である。本稿では、複数の国を対象にケーススタディを実施することを通して、途上国における現状の把握とUHC達成に向けた方向性を議論する。

(資料)前田, et al(2014)より引用

図表2 前田 et al(2014)研究対象国のグルーピング

(資料)前田, et al(2014)より引用

図表1 ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)イメージ図

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本章では、途上国の実態と課題を明らかにするため、UHCを目指している国を対象にケーススタディを行う。ケーススタディの対象国は、日本政府が「国際保健外交戦略」で重要視するとしているASEAN諸国から、①一定規模の人口を有する ②国民皆保険を目的とした制度が存在する という2点を満たす、タイ・インドネシア・ベトナムの3カ国を選択した。タイは既に国民皆保険を達成しているが、インドネシアとベトナムは国民皆保険を目指している状態にある。また、3カ国とも医療サービス面で何らかの問題を抱えており、完全なUHCの達成には至っていないと考えるのが一般的である。

図表3はケーススタディ対象国を含めたASEAN各国の経済状況やUHC関連の指標等をまとめたものである。全般的に高所得国ほど健康指標の値は良好である。一方で、政府の総保健支出やGDP比医療費などをみると、政府の医療・保健関連政策のスタンスは、その国の経済水準とはあまり関係がないようである。

医療施設の整備状況に関しても概説する。民間病院が全体の約8割を占める日本の現状からは想像しづらいが、3カ国とも公的病院が病院

1. ケーススタディの過半数を占めている。また、公的医療保険を使用できる病院は圧倒的に公的病院が多い。いずれの国も公的病院のサービスの質(待ち時間等)が問題となっており、高品質のサービスを求める富裕層は民間病院を受診するのが一般的である。

(1)タイ①医療保険制度とその現状

タイは東南アジアの中でシンガポール、ブルネイ・ダルサラーム、マレーシアに次ぐ経済力を持ち、世界銀行による定義では「高中所得国」に分類される。2002年に国民医療保障制度が成立したことで、今回のケーススタディ対象国の中では唯一国民皆保険を達成している。

タイの医療保険制度の大きな特徴は、国民の8割以上について医療保障が税財源で賄われていることである。タイの医療保険は公務員を対象とする「CSMBS」(全人口の8%)、民間被用者を対象とする「SSS」(全人口の16%)、それ以外(自営業者・農業従事者等)を対象とする「UC」(全人口の75%)からなる。このうちCSMBSとUCは税方式で運営されており、SSSのみ加入者が保険料を負担する。なお、SSSも保険料のみで運営されているのではな

(資料)WHO、世界銀行データより筆者作成。

図表3 日本・ASEAN 基本情報

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く、政府により保険料の追加拠出がなされている。各制度により提供されるサービスの質や本人負担率は異なっており、その違いは図表4のようにまとめられる。

OOP(総保健医療支出の自己負担)は11.2%と非常に低く、経済的保護に関するユニバーサル・カバレッジはほぼ達成されていると考えられる。しかし、医療サービスの面では問題があり、世界銀行と日本の共同研究(4)では、各国のUHC達成段階を示す全4グループのうち、

「UHC達成」ではなく、「改善の余地がある」グループに入っている(図表2)。

②現在抱えている課題タイの課題としては、まず皆保険制度の維持

が挙げられる。そのためには、今後増大が見込まれる医療費を抑制し、財政的に持続可能な制度を構築する必要があろう。既にCSMBSにおける多額の支払が問題化しており、ジェネリック医薬品の積極的使用などの施策が講じられている。

3つの保険制度の間で、受けられる診療やサービスに隔たりがあることも大きな問題である。不平等を解消するためにはCSMBS、SSS、UCを統合するのが望ましいと考えら

れるが、保険料方式のSSSと税方式のUC・CSMBSの統合には大きな困難が伴うだろう。

公的病院と民間病院の格差問題も残っている。UCに加入している国民は基本的に公的病院を受診することになるが、公的病院のサービスは質的に劣り、長時間の待機時間を強いられることも多い。民間病院は病床数・サービスの質ともに公的病院を上回り、待機時間も短い。そのため多くの富裕層は公的病院を忌避し、民間医療保険(5)を使用して民間病院を受診する状況にある。

また、タイの医師数は人口1000人あたり0.39

人(6)、看護師数は人口1000人あたり2.08人である。WHOによる医療従事者数の最低ライン(7)

には達しているが、医師数は世界平均(1.3人(8))に及ばない。地域間の医師の偏在の問題も残っている。

(2)インドネシア①医療保険制度とその現状

インドネシアでは2014年に医療保険制度の再編が行われ、それまで大きく4つあった医療保険制度が、社会保障実施機関(BPJS)が運営するJKNに一括化された。JKNでは2019年の国民皆保険達成を目指しており、2015年5月現

(資料)各種資料より筆者作成。

※正確には、出産、児童手当、老齢手当などを包括した社会保障制度の中の「傷病等給付」が民間被用者向けの医療保険制度に該当する。

図表4 タイ医療保険制度概要

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在までに以前の公的医療保険制度の加入者を中心として約1.5億人が加入済である(9)。

かつての医療保険制度は「ASKES(公務員向け)」「JAMSOSTEK:JPK(民間被用者向け)」

「JAMKESMAS(中央政府運営・低所得者向け)」「JAMKESDA(地方政府運営・低所得者向け)」に分かれ、保障内容もそれぞれ異なっていた。民間被用者向け保険では加入義務を免れる事業者が多かったことや、自営業者等のインフォーマルセクター(10)向けの公的保険が存在しないことなどから、医療保障を受けられない国民も多く存在した。

JKNは、政府が保険料を全額負担する貧困層向けの「PBI」と、その他の公務員・民間被用者・自営業者などが加入する「Non-PBI」の2つで構成される。両制度とも外来の保障内容は同じであり、保険の対象となる病院では全ての治療費・薬剤費が無料となる。一方、入院に関しては格差がある。PBI加入者が利用できるのは最低ランクのサービスのみであり、また自営業者は保険料支払額によって(11)受けられるサービスが異なる。なお、2013年以前に民間医療保険に加入した国民も多いことから、公的保険でカバーされない費用(差額ベッド代など)を民間が補助する形の給付調整制度「COB

(Coordination of Benefit)」も合わせて施行されている。

医療保険はBPJSのネットワークに参加している病院及び保健センターでのみ利用が可能であり、施行直前の2013年末時点で約2300の病院のうち1710施設が参加している。また、一次診療を受けるPuskesmas(診療所)も9217施設が参加済とされている(12)。

保険者から医療機関への支払は、一次医療を行うPuskesmasでは人頭払いが、二次医療以上の病院ではDRG(診断群別分類)を自国向けに改良した INA-CBGが採用されている。

②現在抱えている課題インドネシアは2019年の皆保険達成を目指

して新しい制度がスタートしたばかりであるが、現時点では様々な問題を抱えている。

現 行 の 制 度 は 、貧 困 者 や A S K E S 、JAMSOSTEK、JAMKESMASといった既存の医療保険制度の加入者をそのまま加入させる形でスタートした。しかし、インドネシアでは労働者の半分以上がインフォーマルセクターで就労しており、その大半はこれまで無保険であった。また、労働者保護が手厚く設定されていることから、医療保険制度加入の義務がない非正規雇用を企業が多用する傾向にあったことや、代替医療給付による加入免除などにより、フォーマルセクターでも未加入者が多かった。国民皆保険の達成のためには、これらの未加入層に如何に新規登録を促せるかがカギとなる。

しかし、インフォーマルセクターには収入が不安定な労働者も少なくない。収入が不安定な状態での定額保険料負担はあまり現実的とはいえないだろう。BPJSは銀行の支店で保険料の振込みを可能にするなど、個人での新規加入を促すため、手続きの円滑化に腐心しているようである。

貧困層の保険料は国が拠出しており、財政面の負担も懸念される。政府が全額拠出する貧困層向け保険の保険料は以前の制度における保険料の3倍程度にあたる。この状態で全ての貧困層をカバーすると、現在の予算の10倍近い毎年約130 ~160億ドルの支出が必要になると試算されている(13)。一方で、現在の政府負担の保険料は、依然として十分な質の医療を提供するには低すぎるという指摘もある(14)。

病院数・医療従事者はともに不足しており、満足な医療提供体制が整っていないことも大きな問題である。年間6000 ~7000人の医師が新たに誕生しているが、現在の医師数は人口

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1000人あたり約0.2人、看護師数は人口1000人あたり約1.38人であり(15)、WHOが示した最低ラインに達していない。

国土が1万3000を越える島々で構成されるという地理的特性も手伝って、地域間の医療格差も大きな問題である。西部では医師が余剰な一方、東部では50%の病院が医師不足の状況にあるとされる(16)。医療設備に関しても、ジャカルタでは先進的な医療が受けられるが、それ以外の地域では日常的に医療機器・医薬品の不足が続くという格差がある。また、僻地や離島の住民は病院や診療所から離れて暮らしており、容易には満足な医療を受けることができない。そのため、僻地や離島の住民は医療保険に加入する誘因が少ないと考えられる。

(3)ベトナム①医療保険制度とその現状

ベトナムにおける公的医療保険は、2008年に成立した医療保険法に基づき、ベトナム社会保険(VSS)が保険者となって運営されている。現在国民皆保険の達成が目指されており、当面は2020年の医療保険加入率80%を目標としている。なお、2015年5月現在での加入率は71.4%である(17)。

ベトナムの医療保険制度は加入者の属性によって細かく区分されているが、大きく分けると強制加入対象者と任意加入対象者の2つに分けられる。民間企業被用者や公務員などが強制加入の対象者であり、給与の一定割合を保険料として負担する。強制加入の対象者には、貧困者や6歳以下の子供など(18)も含まれており、これらの層の保険料は政府が全額負担する。準貧困者や学生にも一定割合の保険料助成が与えられる。なお、公的医療保険の対象は加入者(被用者)本人のみであり、被用者の被扶養者はカバーされていない。被扶養者は、農業従事者や

自営業者などとともに任意加入対象者となっている。

保険者から医療機関への支払は「出来高払い」と「人頭払い」の2種類があり、現在は全体の約6割の病院で人頭払いが採用されている。主に下位病院では人頭払いが、上位病院では出来高払いが一般的なようである。

②現在抱えている課題ベトナムの医療システムが抱える最大の課題

は、皆保険達成の困難さであろう。現状の加入率は約7割であり、公務員・民間被用者や、政府が保険料を全額負担している層(子供・貧困層など)の加入率は極めて高い水準にある。しかし、政府による保険料負担が全額ではなく一部に留まる準貧困層や、任意加入対象の自営業者などの加入率は芳しくない。

既存研究によると、任意加入対象者が保険に加入しないのは「金銭面の問題」「医療保険は不要と考えている」などの理由によるものである(19)。しかし、実証実験によれば、医療保険の必要性に関する教育や多少の補助金配布等の施策では、任意加入者の保険加入は促されない。このことから、UHC達成のためには政府による保険料の全額補助が必要になるという指摘もある(20)。

また、上位病院の直接受診や、現状の医療保険ではカバーされない医療行為が多いことなども重要である。OOPは約49%と、医療費の約半分は自己負担で支払われている。UHCを達成するためには、医療保険の加入率向上とともに、医療保険の対象となる医療行為・医療施設を拡大する必要がある。

財政面の問題も大きい。2010年現在、医療保険財源に占める中央政府・地方政府の割合は7割に達している。しかし、国民皆保険達成のためには、加入率が低い準貧困層の医療保険加

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入が必須であり、それに伴い保険料補助による財政負担はさらに重くなると考えられる。

政府負担を低減させる方策としては、診療報酬の支払方法を工夫して医療費の節約に繋げる試みが考えられる。政府はそのために人頭払いを浸透させる方針を示しており、約6割の病院が人頭払いに移行している。しかし、現在の診療報酬の人頭払い制度には地域間格差や貧富によるサービス格差を促進する仕組みが内包(21)

されており、公平性の問題は残存している。

本章では、前章で行ったASEANの3カ国を対象としたケーススタディの調査内容を、UHC

の「3つの軸」の観点から再考察する。 

(1)第1の軸:カバーされている人口ケーススタディの対象とした3カ国のうち、

タイは国民皆保険を達成しているが、ベトナムとインドネシアはともに約7割程度のカバー率である。

ベトナムとインドネシアでは、未加入者の多くを農業従事者・自営業者等を含むインフォーマルセクターが占める。両国では、実態把握が困難なこれらの人口をどのように医療保険に取り込むかが皆保険達成の要となる。

途上国で加入率を増大させるためには、保険料支払が困難な層の保険料を全額政府拠出にしてしまうことが効果的だと考えられる。例えば、ベトナムでは保険料の一部が補助されるにもかかわらず準貧困層の未加入率が高いことが問題となっているが、この問題の背景には、そもそも一定以下の収入しかない層に定期的な定額保険料支払は困難であるという事実がある。また、貧しい人々の居住地域には極めて質の低い病院しかないことも多く、多少の補助金では医療保険に入るインセンティブは小さい。政府が保険

2. 考察

料を全額拠出することで、金銭的問題により未加入だった層の加入によりカバー率の大幅拡大が見込まれる。

(2)第2の軸:カバーされている医療サービスUHCを達成するには、国民の誰もが高品質

のサービスを享受できなければならない。しかし、ケーススタディの対象とした3カ国では、複数の面でサービスの質に格差が生じており、十分なサービスを受けられない国民が多く存在する。

まず挙げられる格差は地域間の格差である。いずれの国でも、「医療施設の数」「医療の質」

「医療従事者数」「医薬品」などの面で都市部と地方部の間に大きな格差が存在した。

次に挙げられる格差は公的病院と民間病院の格差である。公的医療機関は非常に混雑しており、著しくサービス品質が低下することがある(22)。

また、多くの国の公的病院では地区毎や病院毎に割当てられた予算の範囲内で医療サービスが提供される。そのため、医薬品処方が限定されたり、リファラルシステムによる上位病院への紹介が忌避されるといった、制度設計に起因するサービスの低品質化も問題となっている。一方、民間病院では公的医療保険が使用できないことが多く、民間保険か自費で支払を行う必要がある。その代わりに、待ち時間の低減などの快適なサービスや、医療保険の対象外になっている高額な医療サービスを受けることができる。

さらに、医療保険制度における加入者分類間での格差も存在する。ケーススタディした国ではいずれも加入者分類毎に保険料や保障範囲が異なっており、すべての国民が同様の医療サービスを受けられる状況にはなっていない。

(3)第3の軸:経済的リスクからの保護経済的リスクからの保護を実現するには、医

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療費の自己負担額が支払い可能な範囲に収まる保障がなければならない。同時に、限られた財源でその目的を達するため、医療費や薬剤費を抑える試みも重要となる。

国民皆保険の途上にあるインドネシアやベトナムでは、未だにOOPは40%台後半と高い水準にある。人口の約3 ~4割が無保険であることに加え、医療保険が適用される病院が全体の一部に留まること、公的病院・下位病院の質の低さが嫌われ患者が高負担の病院(上位病院、民間病院)を受診していること、医薬品や医療サービスの価格をコントロールするメカニズムの欠如などが原因として考えられる。一方、国民皆保険を達成しているタイでは原則として低額の定額負担か無償で医療サービスを受けられることから、OOPは11.3%と先進国並の水準にある。

経済的リスクからの保護を達成するためには、貧困層を含む国民全員をカバーでき、病院側の治療インセンティブを損なわない形で皆保険制度を構築するとともに、広範な範囲の病院で医療保険を適用可能とすることが肝要だと推察できよう。

最後に、途上国におけるUHCの達成を支援するための方向性として、制度の持続可能性・効率性と国民皆保険の達成方法の2点について検討し、本稿を総括する。

(1)制度の持続可能性と効率性UHCは、「UHCを達成した状態が持続する

こと」に意味がある概念である。持続性を担保するためには、保険者から病院への支払構造や医療費・薬価の水準等について、財政の負担を抑える施策を行う必要がある。

保険料を支払うのが困難な貧困層等につい

3. おわりに

て、保険料の一部もしくは全額を政府負担で賄う場合、政府財政に大きな負荷がかかる。事実、税負担で医療保障を受ける国民が大半を占めるタイでは、政府支出に占める医療・保健関連支出の割合がASEAN内最高の17%に達する。UHC導入途上国では政府が保険料を負担して貧困層をカバーする必要も大きく、政府の財政への負荷は今後も大きくなると考えられる。

また、保険者から医療機関への診療報酬の支払い方法は、医療の提供や財政に大きな影響を与える。人頭払いでは、地域毎に登録者数に単価を乗じた額が予算として配分されるため、医療費が徒に増大するリスクは低い。ただし、医療機関は予算の範囲内で医療行為を行おうとするため、特に地域レベルの医療機関において患者の医療アクセスが制限されるおそれがある。一方、診療毎に支払が行われる出来高払いでは患者の医療アクセスが阻害されることはないが、病院側が過剰な医療サービスを提供する誘因を持つことに繋がるため、一般に医療費は増大すると考えられている。

こういった問題はケーススタディ対象国でも顕在化していた。タイでは、外来診療での出来高払いの採用やジェネリック医薬品の不使用傾向を背景にCMBMSの支出額増大が問題化し、改善のための取組みが行われている。ベトナムでは上位病院で出来高払いが採用されている(23)

ほか、保険支出の半分以上を占める薬価を、制度側が管理する仕組みが存在しないといった問題点がある。しかし、過剰な医療費削減により医療機関の負担が増加すると、医療アクセスの悪化にも繋がりうる。事実、インドネシアでは上位病院で診断群別分類(DRG)を改良したシステム(INA-CBG)が採用されているが、償還価格の低さを忌避した民間病院等が医療保険への参加を渋る現象も起きている(24)。

持続可能なUHCを目指すためには、UHC

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の達成に影響を与えないように留意しつつ、医療費の削減と財源の確保に取り組むことが必要となる。これらを実現するための施策としては、費用対効果の高い医薬品の優先使用や、タイのように所管省庁による医薬品等の価格引き下げ交渉といった供給側の管理政策と、一次医療(プライマリ・ケア)の利用促進、効果の高いサービスの受診の誘因付け、地域ベースの公衆衛生プログラムの整備といった需要側の管理政策があげられる(25)。

また、需要側の管理政策を行うにあたっては、ケーススタディ対象国のような中所得国では、医療に関わるインフラが十分に整備できていないという点に留意が必要である。ただ、1人

あたりGDPが相対的に低いベトナムのUHC

指標が相対的に良好な値を示していることからも推察できるように、保健医療の質はその国の経済水準だけで決まるわけではない。それぞれの国に即した施策を実施することによる保健医療システムの改善余地はあると考えられる。

(2)UHC達成に向けて−皆保険達成のための税方式の検討−

国民皆保険の達成はUHCの主要な要素である。皆保険を達成した国で必ずUHCが実現されているわけではないが、皆保険の有無がUHCの状況を判断する指標として語られることも多い。UHCの達成に向けて、国民皆保険を途上国で実現するためには、人口の多くを占める貧困層への支援及びインフォーマルセクターの加入促進策が必須である。

日本のように戸籍制度等の整備が進んでいない途上国では、インフォーマルセクターの労働者を把握し保険料を支払わせるのは困難である。また、医療保険を強制保険として運用できても、貧困層が保険料を負担することは難しく、政府による何らかの支援が必須となろう。

保険料を支払う形での皆保険達成が困難である現状を踏まえると、既に徴収システムが存在する税財源を重視した医療保障制度の設計が考慮されるべきではないだろうか。タイでは国民の約8割は税財源の医療保障制度に加入しており、保険料方式で皆保険を目指している国(ベトナム、インドネシア)でも、保険者収入のうち少なくない割合が政府による負担や補助金で占められている。単一の皆保険制度を策定することで、加入者間で受給できるサービス格差も生じず、公平性の確保にも繋がると考えられる。

日本主導でUHCを推進するという観点からは、保険料方式による皆保険制度を発展させてきた日本の知見は、税方式を採用した場合には応用しづらいようにも思える。しかし、タイの例からも明らかなように、税財源を主財源とした皆保険は財政面に大きな負荷をかけ、医療費削減施策への要請が強くなる。包括医療費支払い制度(DPC)の策定・運用手順や薬価の決定手法などのような、日本がこれまで作り上げてきた医療費削減に資する制度についての知見を共有するという形で支援を行うことも可能であろう。

途上国におけるUHC達成を目指すにあたっては、国毎に相異なる多様な要素が複雑に絡み合い、決して全ての国が同じ道を行くわけではない。一方で多くの国が共通して抱える課題も確かに存在しており、今後は共通課題に対する包括的な対応策の検討と、個別の国毎における具体的な対応策の検討の両方が必要になるだろう。日本主導でUHCの推進を考えていくにあたっては、国際的な包括的対応策の検討に積極的に加わりながら、既存の制度や状況を踏まえ、わが国の知見を有効に活かせる国に対して個別に具体的な対応策を提示することが重要だと考える。

総括

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注(1) 世界銀行「キム世界銀行グループ総裁による基調

講演 保健政策閣僚級会合:ユニバーサル・ヘルス・カバレッジに向けて」(2013年)

(2) 前田明子、エドソンアロージョ、シェリルキャッシン、ジョセフハリス、池上直己、マイケルライシュ『包括的で持続的な発展のためのユニバーサル・ヘルス・カバレッジ:11カ国研究の総括』、日本国際交流センター(2014年)

(3) 同上(4) 同上(5) 全人口の10%以上が民間保険に加入しているとさ

れており、民間保険業界の成長率は年20%以上に達する。

(6) 2010年時点(7) 主要なプライマリ・ヘルス・ケアを実現するため

には、医師数と看護師数の合計が人口10000人あたり23人以上(=人口1000人あたり2.3人以上)であることが必要とされている。([WHO])

(8) 2009年時点(9) 厚生労働省『海外における医療ニーズ等及び国内

企業の海外進出状況等調査及び分析業務 報告書』(2015年)

(10) 「インフォーマルセクター」とは公式に経済活動が記録されない職業に従事している者を意味する用語である。しかし、各種文献では農業従事者や自営業者を含む使用例も存在する。また、経済活動が記録される職種は国により異なると考えられる。本稿では、農業従事者や自営業者等を含めた、所謂被用者ではない労働者を指す概念として「インフォーマルセクター」という用語を使用する。

(11) 自営業者は3種類の定額保険料から任意の支払額を選択する。

(12) 鈴木久子『インドネシアの公的医療保険制度改革の動向』、損保ジャパン総研レポート(2014年)

(13) IRIN, “ Hopes and fears as Indonesia rolls out universal healthcare”,(2014年1月14日)。

(14) 同上(15) いずれも2012年時点。(16) 厚生労働省『 海外における医療ニーズ等及び国内

企業の海外進出状況等調査及び分析業務 報告書』(2015年)

(17) http://news.finance.yahoo.co.jp/detail/20150706-00000136-scnf-world

(18) 他には少数民族、留学生、軍人、軍事恩給受給者、軍人等の家族、社会的扶助受給者などの保険料が政府により全額拠出される。([国際協力機構、2012])

(19) Wagstaff A.(2014). “On the road to universal health coverage:Lessons from a multi-country study in East Asia. World Bank.

(20) 同上

(21) World Bank(2014)によれば、人頭払いレートは概して富裕層のほうが貧困層より高い。保険料は各地域毎にプールされ、医療サービスは各地域に割当てられた額の範囲で提供されるため、貧困層の受信者が多い病院では医療サービスの質が低下する傾向にある。また、裕福な州では、貧困層が多い州よりも人頭割レートが高い傾向にある。貧困層が多い州ではそもそも医療サービスの利用が少なく、黒字州が赤字州を補填する仕組みが存在していることから、貧困層が多い州の黒字で裕福な州の赤字を埋め合わせるという現象が起こってしまう。

(22) 国際協力機構『ベトナム国 社会保障分野情報収集・確認調査ファイナル・レポート』(2014年)

(23) 人頭払い制度では各病院に予算が割当てられ、使わなかった予算の20%を病院の収入とすることで、病院に医療費を削減する誘因を与える施策が実施されている。

(24) Toh S., Chan M. (2015). Universal healthcare coverage in Indonesia- One year on. The Economist intelligence Unit.

(25) 前田明子、エドソン・アロージョ、シェリル・キャッシン、ジョセフ・ハリス、池上直己、マイケル・ライシュ『包括的で持続的な発展のためのユニバーサル・ヘルス・カバレッジ:11カ国研究の総括』、日本国際交流センター(2014年)

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