正当化・弁明・そして非難(in japanese)

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応用哲学会第八回年次研究大会 2016 5 7 慶應義塾大学 1 正当化・弁明・そして非難 Erdemović に救いはあるか― 太田 雅子 戦下であれ通常時であれ、虐殺は許しがたい行為であり、どのような側面においても、 説得力のある内容の正当化を与えることは困難である。虐殺を指揮した側からは何らかの 正当化(justification)がなされても、多くの人命が失われるという事実の前には無力である。 例えば「国の統治のために必要であった」という正当化がなされても、死者をなるべく少 なくする形での戦略は可能であったのではないかという反論が可能であり、正当化として 決定的な役割を果たしているとは言いがたい。 しかしながら、例えば殺害対象となる文民たちに民族的な怒りを抱き、皆殺しにしよう として虐殺に及んだのと本人の希望がなく、命と引き換えに虐殺を強要された場合に同 様の非難や量刑が可能であるとは思われない。正当化や弁明の可能性に関して、両者は明 確に区別されるべきだろう。弁明の内容をなす諸事情が存在しなければ彼(女)はそのよ うな大罪を犯すことはなかっただろうことが想定されるという意味で、後者には弁明 (excuse)の余地が与えられている。とはいえ、その行為が大量虐殺のような大惨事であった 場合には、たとえそれを行うのがやむをえなかったとする事実が開示されたとしても、そ の説明を正当化と見なすのは極めて困難である。 例えば、「軍隊に所属する青年 Erdemović 1200 人もの大量虐殺に加わった」という一 文だけをとってみれば、この青年に同情の余地はないように見える。しかし、「上官から虐 殺行為を行わなければ自分や家族の生命が危険に晒されると言い渡され、自分と家族の命 を守るために大量虐殺命令に従った結果、多くの人命を奪うことになった」という事実関 係が明らかにされたならば、「自分と家族の生命を軍隊から守るために大量虐殺に加わった」 というような理由説明は弁明になりうるのではないか。 今回取り上げるのは、「従わなければ命を奪う」という内容の命令すなわち「強制(duress)が正当化あるいは弁明となりうるかどうかという、Gideon RosenRosen[2014])によって 提示された論点である。 事件の背景 考察に入る前に、今回取り上げる事件の概要と、主役となる Erdemović の来歴を見てみ よう(Rosen [2014], 河合[2003])。「スレブレニッツァの虐殺」は、 ボスニア・ヘルツェゴ ビナ紛争(19921995)中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで 1995 7 月に 発生した大量虐殺事件である。 ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍 Vojska Republike Srpske; VRS)によって推計 8000 人のムスリムが殺害された。 Erdemović の属する部隊はブランイエボ収容所から輸送中のムスリムを待ち伏せして 1200 名の死者 を出した。 Dražen Erdemović は事件当時 23 歳、クロアチア系ボスニア人の電気技師であり、妻と 9 ヶ月になる子供がいた。自身は平和主義を標榜し争いを好まない性格だった。このことは、 家族を養うために一旦はボスニア軍隊に入隊するも、虐待される恐れのある囚人たちを逃

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応用哲学会第八回年次研究大会 2016年 5月 7日 慶應義塾大学

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正当化・弁明・そして非難 ―Erdemovićに救いはあるか―

太田 雅子

戦下であれ通常時であれ、虐殺は許しがたい行為であり、どのような側面においても、

説得力のある内容の正当化を与えることは困難である。虐殺を指揮した側からは何らかの

正当化(justification)がなされても、多くの人命が失われるという事実の前には無力である。例えば「国の統治のために必要であった」という正当化がなされても、死者をなるべく少

なくする形での戦略は可能であったのではないかという反論が可能であり、正当化として

決定的な役割を果たしているとは言いがたい。 しかしながら、例えば殺害対象となる文民たちに民族的な怒りを抱き、皆殺しにしよう

として虐殺に及んだのと、本人の希望がなく、命と引き換えに虐殺を強要された場合に同

様の非難や量刑が可能であるとは思われない。正当化や弁明の可能性に関して、両者は明

確に区別されるべきだろう。弁明の内容をなす諸事情が存在しなければ彼(女)はそのよ

うな大罪を犯すことはなかっただろうことが想定されるという意味で、後者には弁明

(excuse)の余地が与えられている。とはいえ、その行為が大量虐殺のような大惨事であった場合には、たとえそれを行うのがやむをえなかったとする事実が開示されたとしても、そ

の説明を正当化と見なすのは極めて困難である。 例えば、「軍隊に所属する青年 Erdemović は 1200 人もの大量虐殺に加わった」という一文だけをとってみれば、この青年に同情の余地はないように見える。しかし、「上官から虐

殺行為を行わなければ自分や家族の生命が危険に晒されると言い渡され、自分と家族の命

を守るために大量虐殺命令に従った結果、多くの人命を奪うことになった」という事実関

係が明らかにされたならば、「自分と家族の生命を軍隊から守るために大量虐殺に加わった」

というような理由説明は弁明になりうるのではないか。 今回取り上げるのは、「従わなければ命を奪う」という内容の命令すなわち「強制(duress)」が正当化あるいは弁明となりうるかどうかという、Gideon Rosen(Rosen[2014])によって提示された論点である。 事件の背景 考察に入る前に、今回取り上げる事件の概要と、主役となる Erdemovićの来歴を見てみよう(Rosen [2014], 河合[2003])。「スレブレニッツァの虐殺」は、 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992〜1995)中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで 1995年 7月に発生した大量虐殺事件である。 ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍(Vojska Republike Srpske; VRS)によって推計 8000人のムスリムが殺害された。Erdemovićの属する部隊はブランイエボ収容所から輸送中のムスリムを待ち伏せして 1200 名の死者を出した。 Dražen Erdemovićは事件当時 23歳、クロアチア系ボスニア人の電気技師であり、妻と 9ヶ月になる子供がいた。自身は平和主義を標榜し争いを好まない性格だった。このことは、

家族を養うために一旦はボスニア軍隊に入隊するも、虐待される恐れのある囚人たちを逃

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したかどで解雇されているというエピソード1からも窺える。電気技師としてその技能を活

かせる仕事に就くのは困難で、スラブ人が大半を占めるボスニア・セルビア軍に入隊し、

非戦闘部署を希望し知的部門に配属された。にもかかわらず、1995年 7月、ブランイエボ収容所へ派遣され、そこでバスで連行されてくるムスリムたちを殺害するように命じられ

る。Erdemović はいったんは命令を拒否したものの、上官に「彼らに同情するなら、お前も彼らと同じ目に遭うだろう」と脅され、家族と自分の命を守るために虐殺に加担する。 Erdemović は殺人罪で告訴されたが、そのときの抗弁では自分が殺害命令に逆らえなかったことを明らかにしている。

私はそう(虐殺を実行)しなければなりませんでした。私が断ると彼ら(上官)はこ

う言いました。「奴ら(ムスリム)を哀れに思うならお前も彼らと一緒に並べ、そうす

ればお前も殺してやる」と。私は自分のことは気になりませんでしたが家族のことは、

妻と生後 9ヶ月の息子のことは哀れに思いました。私は彼らが私を殺すと言ったから断れなかったのです」(Rosen[2014], 73, カッコ内発表者)。

Erdemović は殺人罪で告訴された。裁判においては、「上官による強制が抗弁(弁明)としての機能を果たしうるか」が争点となった。その際、命令を拒否することは本当にでき

なかったのか→弱冠 20 代の非戦闘隊員だと戦術に長けた上官の命令に抗するのは困難であること、家族(特に幼子)があることも考慮の対象となった。 第一審原審判決では人道(humanity)に反する罪で禁錮 10年、差戻審では戦争法規違反で禁錮 5年の求刑となった。 Erdemović の行為には正当化や弁明の余地はないのだろうか。この場合の「正当化や弁明の余地がある」というのは、簡単にいえば(法的なそれよりも広い意味で)「そうせざる

をえなかった」という評価が当てはまるということである。 繰り返しになるが、今回とりあげる Rosenの議論の特徴は、どう見ても救いようのないErdemović の弁明が可能であるという結論を導き出している点である(当然ながら、憐憫や同情なしで)。そこで、有責性(弁明可能性?)の条件としているのが、そのときかかわ

った人々に対する ill-will、または関心の不十分さ(insufficient concern) である。周囲への気遣いが不十分なままなされ、なおかつその行為が誤っていた場合、そのことは行為者が責

任を問われる必要条件となる。Rosenによれば、Erdemovićはこの条件を満たしていない、、、、、、、

この結論に至るまでには、有責性と行為者の信念の真偽との関係や、ill-will の内実にScanlonの説が引かれており、複雑さを極めている。 本発表では、極めて擁護が困難な Erdemović の事例を「弁明の余地あり」と結論づけたRosen [2014]の議論を解きほぐし、①「不十分な考慮」の存在は有責性(blameworthiness)の条件として妥当か、および ②Erdemovićは本当にそれを「満たしていないがゆえに弁明可」なのかについて検証する。 考察の上での留意点

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今回のようなデリケートな問題を考察するにあたり最初に注意しておきたいが、正当化

や弁明の対象となるのは Erdemović の行為であって人柄ではないということである。確かに Erdemović は過去に囚人を逃がして軍を解雇された経験があり、今回の虐殺行為とはおよそ相容れない性格であることは予想できるが、そのことにより行為の評価が影響される

ことがあってはならない。どんなに温和な人間でも非常時にはその性向からしてありえな

い行為を働くことがある。とはいえ、なぜ脅迫に屈せざるをえなかったかを追及するにあ

たり、Erdemović の来歴自体を看過することはできない(河合[2003])。上官に上記のような脅迫ともいえる虐殺命令を受けた時彼は 23歳の非戦闘部門所属で、上官に抗えるだけの地位も身分もなかった。(【異論はあるが、という限定つきで】加えて、幼い子どもがおり

家族を養う必要があったということも命令に従わざるを得なかった事情に若干は関与して

いると思われる。もし自分の身ひとつであり、無辜の市民を殺すくらいなら自分が死んで

も構わないと思っていれば、虐殺に加担しないという選択肢もあったかもしれない)。 他方、残虐行為の帰結(1200人もの文民(ムスリム)が殺害された)のみをもってして行為の評価を行わないことも重要である。この種の行為に対する意見でよく聞かれるのは

「いかなる理由があろうとも殺人は許されないことであり、ゆえに弁明の余地などない」

というものであるが、無辜の市民の大量虐殺が許されないことに対して異論を唱えること

が本発表の目的ではない。実際に、その点に関しては異論の余地はない。本発表で問うの

は、「ゆえに弁明の余地はない」という主張が正当なものであるかどうかである。なぜなら、

状況次第で本当に正当化や弁明の余地がないのか否かの評価が変わりうるからである。

Erdemović が受けたような上官命令による脅迫は自身の生命または生活が脅かされることと引き換えに行為を強制するものであり、行為選択の是非や責任の有無などにきわめて強

い影響を及ぼすものである。脅迫が行為の正当化あるいは弁明となりうるかどうかは行為

自体の評価を左右する。

Erdemovićの行為の正当化・弁明可能性―いくつかの条件― Rosenの定義では、正当化とは行為が道徳的に許容可能な背景を持っていることを示す。一方、 弁明は、たとえその行為が許されないものであっても行為者を免責させる働きをもつ。まず Rosen は Erdemović の行為が「正当化」できるかを問う(73)。オーソドックスな倫理的枠組みに当てはめた場合、単純な帰結主義では「たとえ Erdemović が命令に従わなかったとしても多くの人命が失われたことは変わりないが故に彼に責任はない」ことにな

り、義務論では「無実の人間の殺害が絶対に許されないのだから Erdemović は悪い」となり、いずれも帰結が単純すぎて彼の行為の正当化の根拠としては不十分である。Rosen はErdemovićの行為が強い意味で以下のパレート条件を満たすことに着目する。

パレート:Xが Aを行うことが許されるのは、Xが Aを行ったことの道徳的に関連する側面において、X が自身に開かれている他の選択肢を取った場合より悪くなることはなく、少なくとも一人の人が良い状態であるときである

先に述べたように、たとえ Erdemović が命令に従わなかったとしても大虐殺は行われてい

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たので、命令に従っても従わなくても虐殺対象となる人々の状況に変わりはない。ただ、

Erdemovićが生き残るか死ぬかだけが違う。

命令に従う:ムスリムが 1200人殺害される/Erdemovićは生き残る 命令に背く:ムスリムが 1200人殺害される/Erdemovićもともに死ぬ

だが、パレート条件は、たとえ命令に従わなかった場合の条件が降格などの軽い懲罰程度

だったとしても当てはまってしまう。 その場合、たとえ降格を避けたかったという理由で虐殺に加担しても Erdemovićは許されることになる。

命令に従う:ムスリムが 1200人殺害される/Erdemovićは生き残る 命令に背く:ムスリムが 1200人殺害される/Edemovicは生き残り軽い懲罰を受ける

Erdemović の行為の正当化可能性が問われるのは、自らの命を守る目的で他の多くの人間の生命を犠牲にすることについてであって、降格や軽い懲罰とは比較対象の重みが異なる

にもかかわらず、パレート条件には依然として当てはまる。よって、この条件が適用され

るかに基づいて Erdemovićの行為の正当化可能性を立証するのは難しい。 そこで Rosenは上のパレート条件を強化し、「当該の行為が食い止めた害(確保された利益)がそれの引き起こした害よりも顕著な道徳的重要性をもつ場合」という制限を設ける。

だがここで Rosen は「Erdemović が多くの収監者たちと一緒に並んで撃たれることにより何人かの命を救うことができた場合」という想定を付け加える。ここでの要点は、「命令に

従わない」という選択肢をとることで惨状をいくらか緩和する可能性が開かれているにも

かかわらず、Erdemovićがそちらを選択しない点にある。Erdemovićが銃を構えないことで、何人かの虐殺対象者は混乱の中を逃げ出し、仲間の兵士たちは彼のの行為に反乱を起こす

など、一時的な混乱状態に陥ることが予想される。仮に Erdemović が命令に背いて彼らの代わりに撃たれることで 100人が救われたと想定すると、

命令に従う:1200人殺される/Erdemovićは生き残る 命令に背く:1100人殺される/Erdemovićは死ぬ

これはもはやパレート状態ではない。修正版 Erdemović 事例は、行為者または彼が気遣う者たちの生命への脅威が弁明になりうるかという疑問をより鮮明にする。オリジナルの事

例では、修正版における生命の危機は Erdemović が自分自身を追い込むことを選好したという self-preference に端を発している。修正版は脅迫が行為を正当化するかにあたってはオリジナルより厳密な条件をクリアしなければならない(以降はオリジナルの例をもとに

正当化・弁明可能性を論じてゆくが、それぞれの段階においてこの修正版も各条件をクリ

アしているかどうかを常に念頭に置いて論じるものとする)。 パレートによる正当化が不首尾に終わるとしたら、他にどのような方法があるか。もし

当該の行為が正当化や弁明を要するものであるなら、それには賞賛が伴い、第三者が行為

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者を手伝えるということによって行為の非難の有無を条件付けることができるかもしれな

い。つまり「Xが Aを行うことが許容可能ならば、第三者が Xを手伝うこともまた許容可能である」という assistance principleが当てはまるかどうかが問題になる。だが、この条件のもとでも Erdemović はまた困難に陥る。Erdemović の銃が故障し不発に終わり、そのとき Jonesが銃を手渡して彼を「手伝う」としよう。Jonesは Erdemovićの命令を遂行させて彼の命を救おうとしたのかもしれない。けれども Jones 自身は Erdemović と同様の命令を課されたわけではなく自発的に虐殺に参加しており、なおかつ生命の危険に晒されている

わけではない。このような条件のもとで、今度は Jones の行為が正当化されうるのかが問われることになるが、殺人幇助にあたるこの行為を正当化するのは絶望的だろう。 かくして、Erdemovićの行為を正当化しようとする試みはここで終わっている。 blameworthinessが成り立つための ill-will条件 帰結主義や義務論、パレートや assistance principleによって Erdemovićの行為を正当化する Rosenの試みはいったんここで頓挫している。しかし、正当化が不可能であっても彼の行為を「弁明する」ことは可能なのではないか。すなわち、「たとえ行為が許されないもの

であっても行為者を免責する」ことはできるのではないか。ここから Rosen は Erdemovićの弁明に焦点を移して考察を続ける。 弁明される行為には必ず非難が伴う。非難されるからこそ弁明を行うことになる。とい

うことは、非難がどのようにしてなされるのかが明らかになれば、弁明の成立のために何

が必要かがわかるかもしれない。そこで Rosenは有責性(blameworthiness)の追及に移る。 責任が果たされていない場面に接したとき、私たちは怒りや憤りを感じる。遡って、怒

りや憤りによって有責性を特徴づけたのがストローソンであるといえる。Rosenによれば、有責性の完全な説明は次の 2つの要素からなる。ひとつは、怒りや憤りなどの「反応的感情」がどういうものであるかについての説明であり、もうひとつの要素は、それらの怒り

や憤りが許容される(warranted)条件についての説明である。そして、これらの説明の鍵となるのが、反応的感情に含まれる「思考」である。 思考は何らかの対象に向けられる「志向的状態」であり、信念類似的 (belief-like)ではある(Rosen [2014], 79)。例えば、「〜が怖い」と言う反応的感情の一部には、「自分が〜によって危険な状態に置かれている」という思考が含まれていると言ってよい。それらの思考

は特に意識される必要はないが、それらは世界をあるがままに表象し、世界がその表象す

る通りの状態であるときに限り、それらの思考は真である。反応的感情の構成要素のすべ

てが擬似信念的であるとは限らないが、B についての思考を含む反応的感情が許容され(warranted)、適切なものとなるのは Bが真であるときだけである。 では不注意、無関心、無知などにより、思い違いによって生じた誤りはどうなるのか。

例えば、X がいつも自分の駐車スペースとして使っている場所に Yの車が止まっている場合、Xは自分の駐車スペースが横取りされた(P)と思いそれに対して怒りを感じる。(P)で表されているのは間違った行為なので、Yの行為に対する Xの判断が真であったならば、X の Y に対する非難は正当である。X は(P)に対して怒っている。そしてこの怒りに対して Y が自らの駐車行為を正当化する必要があるのは(P)が真であったときに限る。も

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し「ここは私がいつも停めているところなんですが」と Xが注意したとき「あ、すみません。ここに来るのは初めてで誰でも駐車してもいいんだと思っていました」と Yが答えたら、X が最初に抱いていた怒りは消えてゆく。Y の駐車行為が思い違い、すなわち偽である信念に基づくものだからである。Rosenによれば、ここで Xの反応的感情(「場所を横取りされた!」という怒りなど)が許容されるには、次の3つがすべて真であることが必要

である2。

①「Yが自分の場所を横取りしていた」という事実についての思考 ②「Yの(自分に対する)配慮が不十分である」という思考 ③「Yの行為が敵意を催させるものである」という思考

すなわち、行為(P)を行ったことに対する Yの非難が成立するのは、「Aは②Yの側の不十分な善意を表す①誤った行為であり、それゆえにある種の③敵意ある反応を許容する」

ときである。 ここから Rosenはひとつの重要な条件を導き出している。 ill-will条件( insufficient good will/concern:不十分な善意)

行為が有責であるのは、その行為が誤りであり、かつ、その影響が及ぶ人たち

への不十分な考慮あるいは配慮が行為に表れているときに限る (Rosen [2014], 81)

自分の行為によって相手がどのような害を被るかに関して無知であるか目をそむけてい

る場合、たとえその行為が犯罪ではなくても、「なぜ相手のことを考えないのか」と責めら

れる。「相手のことを考えない」という振る舞いは意識的でも無意識的にもなされうるが、

幼児や精神薄弱者のように最初から人を気遣う能力が欠如している存在は除外される。無

知や思い違い、認識能力の欠陥などによって誤った行為が行われた場合になされる弁明は

「認知的弁明(cognitive excuse)」と呼ばれる。 Erdemović は自分の命を守るために罪のない人々を殺している。彼は自分のなすべきことがいかに残虐であるかわかっており、命令によって強制されたとはいえ、自らの意思で

それを行った(少なくとも、「上官命令に従う」という選択は Erdemović自身が行っている)。当然、認知的弁明をするには当たらない。しかし彼の状況は不十分な配慮を許容するもの

ではない。当時のスレブレニツァの状況は誰にもどうすることもできなかった。虐殺を止

めることはできず、たとえ Erdemović が拒否したとしても代わりに誰かが派遣されるだけだろう。しかし、このことは犠牲者の権利と利害に真摯な関心をもつこと可能性を排除し

ないということに注意する必要がある。すなわち、不十分な気遣いがなされたことを決定

づけるものではない。このことは ill-will条件の適用外とするにはいささか弱い根拠であるものの、Erdemovićの相手に対する考慮が十分になされた可能性を排除しない。 とはいえ、自分と家族の生命を守るために 1200人もの虐殺行為にかかわったことは「利己的」という謗りを免れない。この謗りはどうしたらかわせるのか。Rosen は利己的と思える行為であっても必ずしも非難の対象とはならないと考える。例えば「強盗に脅されて

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お金を渡す」「後続の登山者に当たるかもしれないリスクを冒して自分が落石をよける」と

いう行為はいずれも有責でありながら道徳的に許容可能な行為だという。強盗に脅されて

札束を手渡した行員は決して銀行の損失を考えなかったわけではなく、また後続者がいる

のを知りながら落石をよけた登山者は自責の念に駆られたかもしれない。自分とその行為

が及ぼすプラスの効果とマイナスの効果の比較が視野に入っているならば、そのような行

為は「ill will」や「不十分な考慮」をなしているとは見なされない。彼ら彼女らの行為と、単に自分が助かりたいから強盗にお金を渡し、落石をよける行為とは性質が異なるだとい

うのが Rosenの主張の根底にあるスタンスであろうと思われる。彼ら彼女らは、それぞれの場面においてたしかに利己的ではあるかもしれないが objectionable ではない。彼ら彼女らの利己性はいきあたりばったりのものではなく、何にウエイトを置くかについての関心

のパターンが行為に現れている。その関心のパターンが望ましいものであるならば、行為

自体は誤りであっても有責にはならないというのが Rosenの考え方である。 他者への配慮は道徳的良識を伴うか? 不十分な配慮の形跡がないがゆえに非難を免れることが可能であるという立場には、次

のような重要な反論が提示される。Rosenが提示しているそのままに引用しよう。

道徳的に良識ある (morally decent) 人 ―他の人を常に気遣い、その行為が常に十分な道徳的配慮が現れている人― は、他者の権利や利益に配慮し、人を殺すのが誤り

であるときにはそれを行わない。無知で能力のない人ならそのような行動が弁明され

るかもしれない。しかし、自分の行っていることがわかっており、人並みの大人とし

ての自制力のある人が、自分自身を救うために誤りだとわかっていることを行うとき、

それは端的にその人の他者への配慮が不十分だということになる。 (Rosen [2014], 83, 傍線発表者)

上の主張はすなわち「道徳的必要性に基づく価値を十分に気遣う人は誰もが常に自らが行

うべきことをしようとする」という自明の理に基づいている。真に良識があるならば道徳

的規範にも従うことができるはずであり、それに従えなかった Erdemović の行為はこの自明の理に照らせば弁明の余地はないことになる。 だが、Rosen によれば上の主張は自明ではない。それを示すために「基本的良識(basic decency)」と「十分な道徳的良識(full moral decency)」の区別を指摘する。人間の権利や利害、その他の重要な価値を十分に気遣う人は「基本的良識」を備えている(そして、それ

らの気遣いは規範によって律せられているが、どのような規範であるかはこの後明らかに

される)。一方、どれだけの個人的コストを負うことになろうとも、人が上記の事柄を道徳

からの要請に従うよう動機づけられている場合には、その人は「十分な道徳的良識」を備

えている。 それでは「基本的良識」の持ち主が遵守すべき規範はどのような内容をもつのか。ここ

まで再三にわたり「十分な気遣い(sufficient care/concern)」という表現を用いてきたが、「何に対して」十分なのかについてはここまで明らかにされてこなかった。Rosen はその点に

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ついての説明にあたり、非難にかんする Scanlonの主張から着想を得る。 Scanlonによれば、「Xが Aを行ったことが非難されるのは、Xの行為の「意味」に照らして Xとの関係を格下げ(downgrade3)するときである」。この場合の「行為の意味」は行

為の表面的属性とそれを行う選択をした行為者の態度によって決まる。例えば私が友人に

悪質なジョークを言われて傷つき、それに非難の意を表明するとすれば、直接面と向かっ

て非難する前に言葉を交わす回数を減らしたりなるべく会わないですむようにしたりとい

う方法をとるだろう。これは人間関係の格下げである。それなら面識のない人間について

はどうなのかという疑問が生じるが、私たちは未知の人間に最初に出会うとき、その人の

成功を願う気持ちや「信頼してみようかな」という期待など多かれ少なかれ前向きな気持

を抱いており、それらが人間関係のデフォルトとなる。この善意や心の広さはその後の相

手の行動により格下げすることができる。 Scanlonの主張は Rosenが提案する「ill-will条件」すなわち「不十分な気遣いの提示」においてどう生かされているのか。基本的良識の中心概念である「十分な気遣い」は、人々

の社会性をなす人間関係の格下げを生じさせないようにする。すなわち「他者を十分に気

遣う」が意味するところは、「他者からの非難を受けないようにする程度に」、すなわち「通

常の社交性(ordinary sociabilities)が決して許容されないようなしかたで」ということである。 基本的良識は以上のように理解できるが、他方、「道徳的良識」は端的に道徳が求めるこ

とをすることのみを要求する。すなわち、道徳を気遣わない一方で、デフォルトの道徳的

関係からの後退が許容されていない他者への気遣いは行うような事例において、基本的良

識と道徳的良識は必ずしも結びつかない。 Erdemović に課された道徳的要請は「無辜の人民を救うべき」というものであろう。しかしそれは彼自身の生命を犠牲にすることをも意味する。すなわち、Erdemović は自らの生命を犠牲にするために、Aを行うよう動機づけられるのに十分なほどに Aの根底にある価値について気遣うことを必要とせずに、道徳によって「自分の命を犠牲にせよ」と要求

されており(Rosen [2014], 84)、「十分な道徳的良識」による不可が過剰な状態にある。もし道徳的要請が過剰であれば、自分についての気遣いよりも道徳からの要請を優先する必

要はない。 Rosenの主張に対して Rosenは「優れた人格の持ち主は道徳的配慮にも富んでいるはずだ」という「自明の理」が必ずしも自明でないことを明らかにするために「基本的良識」と「道徳的良識」の区別

を設け、後者に当てはまらなくても前者をもつことは可能であり、Erdemović がまさしくそれに当てはまると述べる。しかし、これらの区別は妥当なものであるだろうか。基本的

良識は第三者からの social distancingを生じさせないようにする規範を守ることを要求し、道徳的良識は道徳を守ることを最優先させる。だが、道徳とはまったく無関係な動機で

social distancingが生じるとは想定しにくい。Rosenは基本的良識の十分な道徳的良識への含意関係を否定している(84)。むしろ人を遠ざける際に(あるいは人から遠ざかる際に)人の感情を害してはならないという道徳的規範に背いていると見ることができる。 Erdemović のケースはむしろ、端的に二つの異なる良識の板挟みになっていると見たほ

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うが適切なのではないか。一方では「上官の命令には従うべき」という厳重な規則もまた、

その背後には「軍の団結や規律を乱すべきではない」などの道徳的含意がある。他方では

「他者のためには自分の命を捨てるべきである」という純粋な道徳的要請がある。Rosenは basic decency の道徳的含意を否定してはいるものの、このように見方をすれば、Erdemović は基本的良識と道徳的良識との間というよりは、異なる二つの道徳的良識の間で板挟みになっているのである。 Rosen の主張は、後者の道徳的要請による重圧があまりに大きすぎる場合は(確かに自分の命を捨てろという要請は従うに躊躇すべき理由がある)そちらを放棄したとしても非

難にはあたらないとするものである。もし「二つの異なる道徳的要請の板挟みになってい

る」と見なすのであれば、Erdemović の行為の評価は基本的良識によってではなく、より重い道徳的要請を放棄したことによって決まると解するのが適切である。すると、

Erdemović の例は先程の利己性に関する議論が当てはめられるが、そこで、どの良識に従うかの適切なウエイト付けを行ったうえで行為を選択したのかそれとも何らかの恐怖や瞬

発的反応によってその行為を選んだのかをどう区別するのか。ましてや Erdemović は軍隊の上官から脅迫とも受け取れる厳命を受けていた。もともと Rosenの議論はそのような強制力の強い命令が虐殺行為の弁明になりうるかを追求していたわけだが、「自分と家族の生

命と引き換えに虐殺を行う」という行為に対して「自分と家族の生命の危機に晒される」

という条件は圧倒的強制力をもつ。それゆえに「道徳的要求があまりに過剰である場合に

はそれに従う必要がない」ことの実例の範囲を逸脱しているのではないか。この逸脱を、

「戦時下の緊急事態による服従必至の上官命令」として倫理的議論にどう位置づけるかは

今後の課題としたい。 結びに 最後に、Erdemović の行為の正当化可能性と弁明可能性についての見解を提示して発表を終えることにしたい。正当化可能性に関しては、自分と家族の命がかかっていたとして

も 1200人の虐殺に関与したという事実は道徳的に許容しがたいと思われるため、正当化は困難であると考える。そして弁明可能性に関しては、ill-will条件を全面的に受け入れる段階にない。Scanlonの見解を活かして ill-will 条件がどのような形で成立したかを見直すと、ill-will条件は有責性の根本条件として認められるが、この条件が弁明可能性を判定するのに有効であるかどうかは「(不)十分な配慮」が及ぶ範囲をどこに定めるかによる。Erdemovićの場合、親族や上司に対しては ill-will ではなかったが、虐殺対象のムスリム(およびその遺族)に対しては ill-will であるという結果になってしまった。ill-will 条件が適用される事例一般にいえることであるが、一方に十分な配慮を施した場合に他方への配慮が不十分と

なることをよしとするか否かがひとつの論点になるだろう。この論点に関する考察が更に

必要であり、それ次第では評価が変わり得るという意味で△としたい。 【参考文献】 Baron, M. [2014], “Culpability, Excuse, and the ‘Ill- Will’ Condition”, Proceedings of the Aristotelian Society, Supp. Vol. 88 , 91-109.

応用哲学会第八回年次研究大会 2016年 5月 7日 慶應義塾大学

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河合英次 [2003]、「エルデモヴィッチ事件 : 上官命令及び脅迫の抗弁を中心に」、『法学ジャーナル』73号、184-208頁。 Rosen,G. [2014], “Culpability and Duress: A Case Study”, Proceedings of the Aristotelian Society, Supp. Vol. 88 , 69-90. Scanlon, T. M. [2008], Moral Dimension ―Permissibility, Meaning Blame―, Harvard University Press. Strawson, P. F. [1962], “Freedom and Resentment”, Proceedings of the British Academy, 48, 187–211[法野谷俊哉訳「自由と怒り」、門脇・野矢編/監修『自由と行為の哲学』、春秋社[2010]、 31−80頁] ICTY [1996a], Prosecutor v. Dražen Erdemović, case no. it-96-22-t. Transcript of first trial session, 31 May 1996. http://www.icty.org/x/cases/ erdemovic/trans/en/960531id.htm. —— [1996b], Prosecutor v. Dražen Erdemović, case no. it-96-22-t. Transcript of second trial session, 19 November 1996. http://www.icty.org/x/ cases/erdemovic/trans/en/961119it.htm. —— [1996c], Prosecutor v. Dražen Erdemović, case no. it-96-22-t. Transcript of continuation of second trial session, 20 November 1996. http:// www.icty.org/x/cases/erdemovic/trans/en/961120ed.htm. 1 このエピソードは Rosen [2014], 72で紹介されている。 2 発表では取り上げなかったが、Baron[2014] では、思考が真でなくても、行為者のその他の思考や信念と整合しており合理的であるならば正当化が成り立つと論じられている。駐

車場の例においても、自分のスペースに止めたことが故意ではなく勘違いによるものであ

ったことが明らかになったとしても、それ以前の怒りの反応的態度が無効になるわけでは

なく、それに対する正当化や弁明を提示する必要があるだろう。 3 Scanlon [2008]では impairという表現が多用されている。