企業経営における政治的なもの: 経済権力の民主化へ向けた予備的考察

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政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C 2016 5 29 於・名古屋大学 0 企業経営における政治的なもの経済権力の民主化へ向けた予備的考察 松尾 隆佑 (法政大学博士後期課程 [email protected]要旨 官民協働によるガバナンスの一般化などを背景に、脱政治化を批判する意図で政治の「経 営化」や国家の「株式会社化」を語る向きがある。だが、実際の企業経営はむしろ、諸利害 の対立を前提にした闘争や協働、統合といった政治的諸契機に満ちている。本報告では経営 学史の歴史的展開と代表的な経営思想のいくつかを見ることにより、経済的諸関係におけ る「小政治」の一形式としての企業経営の多面的性格を確認する。さらに、企業統治論にお けるステークホルダー・アプローチを手がかりに、経済権力の民主的統御を企業の内部組織 から実現しうる方策として、ステークホルダー間の合意形成による統治を可能にする企業 体制の検討こそ、政治理論が経営を対象に取り組みうる喫緊の課題であることを論ずる。 キーワード 企業経営、企業権力、コーポレート・ガバナンス、経済デモクラシー、ステークホルダー 目次 はじめに政治の「経営化」? 1. 経営学の政治的起源 1.1. ドイツ合理的行政・全体の福祉・経営共同体 1.2. アメリカ能率増進・科学的管理・調和 2. 経営なるものをめぐって 2.1. 闘争と支配 マックス・ウェーバー/ラルフ・ダーレンドルフ 2.2. 合意と協働 チェスター・バーナード/ハインリヒ・ニックリッシュ 2.3. 統合と創造 メアリー・パーカー・フォレット/ピーター・ドラッカー 3. 経営への政治学的接近企業権力の民主的正統化 おわりに

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政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

2016年 5月 29日 於・名古屋大学

0

企業経営における政治的なもの—経済権力の民主化へ向けた予備的考察

松尾 隆佑

(法政大学博士後期課程 [email protected]

要旨

官民協働によるガバナンスの一般化などを背景に、脱政治化を批判する意図で政治の「経

営化」や国家の「株式会社化」を語る向きがある。だが、実際の企業経営はむしろ、諸利害

の対立を前提にした闘争や協働、統合といった政治的諸契機に満ちている。本報告では経営

学史の歴史的展開と代表的な経営思想のいくつかを見ることにより、経済的諸関係におけ

る「小政治」の一形式としての企業経営の多面的性格を確認する。さらに、企業統治論にお

けるステークホルダー・アプローチを手がかりに、経済権力の民主的統御を企業の内部組織

から実現しうる方策として、ステークホルダー間の合意形成による統治を可能にする企業

体制の検討こそ、政治理論が経営を対象に取り組みうる喫緊の課題であることを論ずる。

キーワード

企業経営、企業権力、コーポレート・ガバナンス、経済デモクラシー、ステークホルダー

目次

はじめに—政治の「経営化」?

1. 経営学の政治的起源

1.1. ドイツ—合理的行政・全体の福祉・経営共同体

1.2. アメリカ—能率増進・科学的管理・調和

2. 経営なるものをめぐって

2.1. 闘争と支配

マックス・ウェーバー/ラルフ・ダーレンドルフ

2.2. 合意と協働

チェスター・バーナード/ハインリヒ・ニックリッシュ

2.3. 統合と創造

メアリー・パーカー・フォレット/ピーター・ドラッカー

3. 経営への政治学的接近—企業権力の民主的正統化

おわりに

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

2016年 5月 29日 於・名古屋大学

1

はじめに—政治の「経営化」?

現代のグローバル資本主義経済下における主権国家の統治能力へ寄せられる疑念は、そ

の核心において、経済権力が公的な政治過程に持ちうる影響力の拡大と、経済権力が政治的

統御を逃れながら社会に及ぼしうる影響力の増大とに結びついている(Crouch 2004; Crouch

2011; Wolin 2008)。したがって、人々の社会生活を民主的に秩序づけようとするなら、経済

権力の主要な行使主体である私企業や経済諸団体の統御方策を再考することが求められよ

う。アーチョン・ファングの言葉を借りるなら、いまや「デモクラシーの理論家たちは、国

家にとどまらず、より幅広い影響を市民、および社会生活の秩序づけに及ぼしている他の諸

組織へと、その視野を広げるべき」なのである(Fung 2013: 236)。このような認識は、企業

統治(corporate governance)の民主化を主題とする政治理論研究の地平を開きうる。

ところで、官民協働を駆使した行財政改革(ガバナンス)が唱道され、ポピュリズムの台

頭や「大統領制化(presidentialization)」の傾向が耳目を集める 20 世紀末以降の先進資本主

義諸国においては、その評価にかかわらず、政治・公行政を企業経営(国家を株式会社)に

なぞらえる言説がしばしば観察されるようになっている(中野 2015: 12–13)。これを便宜的

に政治の「経営化(managementalization)」仮説と呼ぶとするなら、そこで企業経営の投影と

して描かれるのは、最高責任者たるリーダーが既得権益に与る抵抗勢力を退けてトップダ

ウンの意思決定を行い、市場の要求に応える改革を迅速に実現するような、集権的かつ効率

的な政治モデルが一般的である。だが、少なくとも現代政治の批判的分析にとって、このよ

うな戯画化された経営像を用いた議論の有益性は甚だ疑わしい。言うまでもなく現実の個

別企業ではそれほど単純な上意下達の組織は稀であり、通常その意思決定には、対立する諸

利害の調整や異なる立場間での合意形成の過程を見出せる。集団内部の紛争とその拘束的・

暫定的な解決との循環運動に政治現象を見出す視座に基づけば(丸山 2014)、企業の意思決

定過程もまた、少なからず政治的な側面を有すると言ってよい。したがって経営化仮説は、

経営概念の問いなおしを通じて経営に固有の非政治的性格を明らかにすることがないかぎ

り、有意味たりえないだろう。

経営化仮説に現れる粗野な経営観が再生産される背景には、政治学における一種の不活

発性を見出すことができる。政治的企業家や政治マーケティングなど、ビジネスの比喩を用

いたボキャブラリーを少なからず備えている政治学であるが、経営それ自体について何を

語りうるかと言えば心許ない。政治思想研究においても、少数の貴重な例外はあるものの

(McMahon 1994)、経営なるものを対象とする考究が豊富に積み重ねられてきたとは言いが

たい状況にある1。こうした現状の下、もっぱらマクロな公的政治過程(大政治)を論ずる

文脈から、公共部門の民営化(privatization)や市場化(marketization)を「脱政治化

1 近年では、前述の経営観とは一線を画すような妥協や調整としての経営を、「業務

(business)」としての政治に重ね合わせたウォルター・バジョットの思想を描く遠山(2011)

が意義深い。貴族による所領経営と議会政治の結節に着目した政治経済史として、水谷

(1987)も参照。ミシェル・フーコーに由来する統治(性)の系譜学的研究は隆盛を見せてい

るが、経済(economy)概念の子細な検討を積み重ねている一方で、管見の限り、経営概念に

ついての充実した研究プログラムは展開しえていないようである(アガンベン 2010)。

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(depoliticization)」へと直ちに結びつけることが通例化する一方で(Hay 2007)、経済的・社

会的な諸領域においても遍在するミクロな集合的意思決定・拘束的紛争解決(小政治)は、

等閑視されたままである(cf. 川崎 2010)。ここにおいて、政治学のポテンシャルは過度に

抑制されていると言わざるをえない。

そこで本報告では、いくつかの角度から、企業経営を主題とした政治思想研究の材料を提

示してみたい。まず、日本へ与えた影響の大きいドイツおよびアメリカの経営学が、19 世

紀後半から 20世紀初頭にかけてどのように立ち上げられ、発展したかを辿ることで、企業

経営の非政治性を歴史的に否定する(1)。次に、いくつかの主要な経営学説を採り上げなが

ら、対立を前提とした闘争、協働、統合などの多様な経営観を提示することにより、企業経

営における政治性の所在を確認する(2)。さらに、20 世紀半ば以降の企業統治論の展開を

踏まえ、多様なステークホルダーの立場から企業内部の意思決定を民主的に正統化する回

路の考察が、政治理論の重要な主題でありうるとともに、経済権力の民主化に向けた喫緊の

課題であることを示す(3)。以上の作業によって、企業経営の政治学的研究に、わずかなり

とも必然性、可能性、必要性を添えることができれば、本報告の目的は達せられる2。

1. 経営学の政治的起源

日本の経営学は、ドイツの「経営経済学(Betriebswirtschaftslehre)」の強い影響下に形成さ

れ、大正末期から昭和初期にかけて学問的制度化を進めるとともに、次第にアメリカの「経

営管理学(business administration/management)」を摂取していった。ドイツ経営学が本格的

に輸入されたのは、1926年に出版された増地庸治郎(1896–1945)の『経営経済学序論』が

端緒とされるが、日本における経営学の出発点として言及されるのは、増地の師である上田

貞次郎(1879–1940)によって書かれた『経営経済学総論』(1937年)である3。東京高等商

業学校(1887年創立、1920年から東京商科大学)において福田徳三(1874–1930)の教えを

受けた上田は、イギリスおよびドイツへの留学を経て、1909 年から同校で「商工経営」を

開講し、経営経済学の商業学・商事経営論からの発展と、統一体系の確立に努めた。経営お

よび企業の概念をめぐって福田や關一(1873–1935)と論争を繰り広げた当時の上田は、経

営学を経済学の構成部分と位置づけながら、広義には企業経済学のみならず財政学および

家政学をも内包する学問として構想していた(図 1)。

現代でも広義の経営学は、営利性(Rentabilität)を追求する企業に加え、営利を目的とし

2 本報告では、小政治をそれ自体として政治理論研究の対象とする可能性への関心に基づき、

必ずしも大政治に結合・還元されない、一応の自己完結性をもった独立の営みとして小政治を

把握する視角を採用する(cf. 田村 2015)。したがって、企業経営の基盤や条件をなす要因と

しての大政治の性質や、企業経営の過程や帰結を通じた大政治への影響可能性は、基本的に焦

点化しない。本報告はいわば、経営学史・経営思想史を、ある一定形式の小政治にかんする思

想史(一種の小政治思想史)として読み替える試みである。なお、検討の対象は私企業の経営

組織・経営管理に限定し、会計・財務や、公企業および非営利組織の経営については取り扱わ

ないこととしたい。公企業経営と行政の関係を論じたものとして、竹中(1965)がある。 3 このほかの先駆的な著作として、坂西由蔵『企業論』(1904年)、渡辺銕蔵『商事経営論』

(1922年)がある。日本の経営学史について片岡(1990); 裴(1996)、経営学史一般につい

ては Wren(1994); 経営学史学会(2012)を参照。

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ない事業体(公共事業、公益事業、協同組合)の生産活動も対象とするが、生産経済である

企業経営と、主として消費経済である政府財政や家計は区別されるのが通常である(図 2)。

欲求充足(Bedarfsdeckung)を追求する家計と異なり、企業は経済性(Wirtschaftlichkeit)を

発揮すべく計画的に生産を遂行する。企業を家計から分化させる歴史的条件は産業化の進

展による市民社会の膨張であり、経営学の誕生は、これを効率的かつ平和的に秩序づけると

いう統治課題を請けたものにほかならなかった。

図 1:上田貞次郎による経営学の定位

(出所)上田(1909: 5)より作成

図 2:経済組織体の体系的分類

(出所)細井(1985: 7)より作成

1.1. ドイツ—合理的行政・全体の福祉・経営共同体

上田や福田、關らが留学した 19 世紀末のドイツは、経営経済学の前身たる私経済学

(Privatwirtschaftslehre)が、国民経済学(Volkswirtschaftslehre)からの分化を図ろうとする

時期にあたっていた4。国民経済学が 17~19世紀の官房学から国家学・国法学と枝分かれし

4 ドイツの経営学史については、岡田ほか(1980); 海道/深山(1994); Tribe(1995: ch. 5);

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た学問であることからすれば、ドイツ経営学の根は官房学にあるとも言える。君主の資材と

しての人口の福祉を国家目的とし、目的実現の手段として合理的な行政(Verwaltung)の術

を追求する官房学においては、官吏養成のための徴税に関する経営的叙述が 18世紀頃から

見られたとされる。

さて私経済学は、1860 年代から商業学・商業経営学に工業経営学を加え、国民経済学か

ら自立するかたちで発展を続けて、戦間期までに経営経済学として確立される。急速に工業

化が進展し、工場制経営と株式会社形態に基づく大規模企業が出現すると、旧来の商業学や

一般論的な国民経済学では企業経営の把握に不十分であるとして、国民経済から区分され

る個別経済としての企業を扱う私経済学の必要が説かれるようになったのである。やがて

専門的経営人材を養成する商科大学の設置運動が起こり、1895 年にドイツ商業教育協会が

結成されると、98 年にライプツィヒ大学とライプツィヒ商業学校による 2 年一貫の商科大

学課程が初めて設立されたのを皮切りに、1919年までに 10の商科大学が設置された。

ただし当初は、(初期の上田がそうであったように)私経済学はあくまでも国民経済学の

一部として確立されるべきものと考えられていた。1906 年のベルリン商科大学創設ととも

に招かれ、のちに学長も務めた J. F. シェアー(Johann Friedrich Schär, 1846–1924)は、商業

学の科学化に努めたが、商業における利潤追求は国民経済全体の福祉に従属するものと捉

え、商業経営学を国民経済学から独立に建設する意義を認めなかった。また、ドイツ商業教

育協会委員であったリヒャルト・エーレンベルク(Richard Ehrenberg, 1857–1921)は、官吏

養成のために全経済生活の細胞である私経済の理解が不可欠と考え、官房学が内包した比

較国民経済知識と同権的な独立科学として私経済学を体系化すべきことを説いたが、その

議論は私経済学の確立をもって国民経済学の基礎を強化しようとする立場に終始していた。

これに対して、私経済学を国民経済学の部分とすることに対する純粋私経済学側からの

反論が現われる。ライプツィヒ商科大学 1期生の私経済学者オイゲン・シュマーレンバッハ

(Eugen Schmalenbach, 1873–1955)は、必要とされているのは技術論(Kunstlehre)としての

私経済学であり、これは科学(Wissenschaft)であることが求められる国民経済学から分離

されるべきものであると説いた。また彼は、国民経済と国民福祉の大部分は私経済における

利潤追求に基づいて形成されている以上、企業の利潤追求を金儲けとして道徳的に非難す

ることは非学問的であるとして、全体福祉の観点から企業経済を従属的地位に置く国民経

済学への抵抗を示したのである。また同じく商科大学生え抜きの私経済学者であったハイ

ンリヒ・ニックリッシュ(Heinrich Karl Nicklisch, 1876–1946)も、国民経済にとっての目的

を個別経済たる企業において実現しようとすれば利潤追求なしには済まされないのだから、

私経済学が主に個別企業の営利性との関連において考察を進めることは、道徳的に中立で

あるとした。ニックリッシュはシュマーレンバッハとは反対に私経済学は科学であると規

定した上で、全体経済の一般的福祉を扱う国民経済学と、個別経済の繁栄を扱う私経済学は、

同一の研究対象を異なる立場から考察するものであると説くことで、国民経済学からの独

大橋(1966); 田島(1979)を参照。なお以下では、原語・原文を参照の上、訳語・訳文を適

宜改めている場合がある。

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立を果たそうとした。

こうして、伸長するブルジョワジーの経済的自由主義(ökonomische Liberalismus)に押さ

れて勃興した私経済学は、次第に独立科学としての地位を獲得していく。しかしながら、ル

ヨ・ブレンターノ(Lujo Brentano, 1844–1931)による論文「私経済学と国民経済学」(1912

年)が、企業者のための利潤追求の手引きを大学の学問として認めるべきではないと弾劾し

たように、規範的観点から階級利害に一定の掣肘を加えようとする新歴史学派国民経済学

の残響は、第一次大戦の経験とあいまって、ドイツ経営経済学の労使協調的性格を形づくる

ことになる。この点をもっとも顕著に体現したのが、後述する戦間期ニックリッシュの経営

共同体思想である。

1.2. アメリカ—能率増進・科学的管理・調和

アメリカの経営管理学(business administration/management)もまた、南北戦争後の鉄道建

設と移民流入による市場拡大に支えられた大規模工業経営の展開を背景に、19 世紀末以降

に形成されてきた5。アメリカの商業専門教育は、1881年にペンシルヴァニア大学に設置さ

れたウォートン・スクールが最初である。98 年以後は各大学に次々と商学部が設けられ、

1907 年にはハーバード大学に経営学大学院が設置されるに至った。もっとも、体系的な理

論科学としての確立を目指したドイツ経営経済学とは異なり、経営管理学は実用的性格を

その特徴としていた6。この学問は実際のところ、工場経営の現場に携わる機械技師たちの

手によって形成されたのである。

激しい競争の下で能率(efficiency)の増進によって製造原価の引き下げを実現する必要に

迫られていた機械技師たちにとって、その障害たる労働運動の高まりを抑え、組織的怠業

(systematic soldiering)を排除することは、最大の課題であった。彼らは 1880 年にアメリカ

機械技師協会(American Society of Mechanical Engineers: ASMA)を設立し、工場管理の合理

化へ向けた新たな管理方法を創出するべく、技術的知識と経済的・会計的知識の結合や、能

率増進への誘引と労務費の削減を両立させる賃金制度の探究などに取り組むようになる。

フレデリック・テイラー(Frederick Winslow Taylor, 1856–1915)の「科学的管理(scientific

management)」は、こうした能率意識のなかから生み出されたものである。

「出来高制(A Piece Rate System)」(1895年)に始まり、『工場管理(Shop Management)』

(1903年)および『科学的管理の諸原理(The Principles of Scientific Management)』(1911年)

にまとめられたテイラーの管理研究を貫いているのは、労使間対立などは疑似問題にすぎ

ないとの信念である。彼は管理にとっての最良の指針を、労働者が望む最も高い賃金と、使

用者が望む最も低い労務費との「調和(harmony)」をいかに実現できるかに求め、科学的管

理の目的は、この高賃金・低労務費の同時実現による労使双方の最大繁栄をもたらすことに

あると主張した。組織的怠業が引き起こされるのは、作業に要する最短時間や最良の作業方

5 アメリカの経営学史については、古川(1959); 権(1984); 塩見(1990); 廣瀬(2005)を

参照。 6 1903 年のベルリン商科大学設立にあたって行われた調査では、当時のアメリカに専門的なビ

ジネス教育の課程は事実上存在していないと報告されている(Tribe 1995=1998: 149)。

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法・用具などについて、使用者側に正確な知識が欠如しているためであり、「科学的」な方

法に基づき個別の労働者と機械の生産性を最大限に引き出すことができれば、生産能率と

賃金はどちらも高めることが可能なのであるから、労使間に根本的な利害の対立などは存

在しない。テイラーにとって、労使がその分割のために争う必要がないほどまで生産からの

「余剰(surplus)」を増やすことこそが、科学的管理の本質であった(Taylor 2003)。

テイラーの思惑とは別に、科学的管理が普及するとともに労働組合の反対闘争は激化し、

軍事予算に基づく科学的管理の実施を禁止する法案などを議会で採択させるまでに至る7。

だが、第一次大戦への参戦とともに軍需生産増強を目的とした科学的管理の実施が求めら

れると、組合幹部は協力へと転じ、大戦後には連合アメリカ技師協会(Federated American

Engineering Societies)が主導した「無駄排除運動(waste elimination movement)」にアメリカ

労働総同盟も賛同したことで、労使協調による能率増進と無駄排除が推し進められていっ

た。また、既に 1910年代から公共部門に波及し、体系性の乏しかったアメリカ行政学の形

成に寄与した科学的管理は、行政国家化が大きく進み、巨大組織の合理化と行政能率の促進

が緊急の課題となった 30年代には、より積極的に行政管理へと適用されることとなる8。

ドイツの経営経済学が君主統治に資する官房学を淵源として発達したのに対し、アメリ

カの経営管理学は工場における技師の実践から生まれ、民主国家の繁栄に奉仕する行政学

の発展を強く推進した。いずれにせよ経営学の成り立ちは、産業社会において成長した複雑

かつ巨大な人間組織内部で発生する諸紛争を処理し、階級対立の尖鋭化を挫きながら、合理

的に富の産出を果たすための専門的な管理(administration/management)の職能への社会的需

要に支えられていたのである。

2. 経営なるものをめぐって

経営(管理)の専門化・科学化は歴史的に社会内の階級利害と深くかかわっており、企業

はそれらの利害対立の表出・均衡の場としての側面を有するために、経営なる職能は絶えず、

人間対立への何らかの態度表明を要求するものであった。能率追求による労使の調和を唱

えたテイラーが対立の存在そのものを否認する一種の非政治的な経営観を示したとすれば、

それとは異なる政治的経営観を見ておくことが有益であろう。以下では、一般に政治の重要

な特質について語られることの多い、①闘争・支配、②合意・協働、③統合・創造のそれぞ

れを経営の基本性格と捉えた諸学説を順に採り上げることで、企業経営を小政治の一形式

7 1910 年末に鉄道運賃値上げをめぐる東武鉄道賃率事件(The Eastern Rate Case)を扱った州際

通商委員会の公聴会で科学的管理の導入による企業の利益が証言されると、大衆的関心が高ま

った。連邦議会は 11年にテイラー・システムおよびその他の工場管理の諸制度の調査に関する

特別委員会を設置し、14 年の労使関係委員会などでも調査を行った。 8 政治と分割された合理的・専門的行政の確立を目指した初期の行政管理論は、行政(public

administration)とは国家目的達成のための人および物の管理、すなわち「公共事務(public

business)」の執行にほかならないと捉え、経営(private/business administration)と同質的な技術

体系による「節約と能率(economy and efficiency)」の実現を追求した。その後ニューディール

期の行政国家化の過程に分割論への批判と融合論の受容が進み、1930 年代以降のアメリカ行政

学では、行政を政治と不可分かつ循環的な統治過程の一部と見なす立場が有力に主張されるよ

うになる(足立 1992; 手島 1995; 手島 1982)。

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と見なすことの経営思想史的根拠を示すことにしたい。

2.1. 闘争と支配

マックス・ウェーバー

経営なるものの性格規定について第一の参照点となるのは、これを官僚制支配

(Bürokratische Herrschaft)として論じたマックス・ウェーバー(Max Weber, 1864–1920)で

ある9。ウェーバーは、「経営(Betrieb)」を「一定種類の持続的な有目的行為」と定義した上

で、そうした「持続的な有目的行為を営む管理スタッフ(Verwaltungsstab)を備えた利益社

会関係(Gesellschaft)」を、「経営団体(Betriebsverband)」と呼ぶ(ヴェーバー 1972: 85)。目

的の持続性に基づく彼の経営概念は、企業のみならず、政府や教会、学校、その他の諸団体

に広く適用されるものであり、経営団体とは、公私を問わず独自の規律(Disziplin)を備え、

管理スタッフが権威を持った命令権力を通じて他の組織成員との間に支配(Herrschaft)の

関係を形成する、近代的な官僚制組織を意味している10。

ウェーバーによれば、「いかなる支配も行政(Verwaltung)として現われ」るのであり、「行

政をおこなうためには、常に、何らかの命令権力が何びとかの手中に置かれていることが必

要である」(ウェーバー 1960: 1 巻 16)11。したがって経営団体の管理スタッフは、経営目

的を実現するため、組織成員による個々の労働を相互に結合させ、これを絶えず規律によっ

て秩序づけようとする。彼の論理からすれば、のちのドイツで実現された労使による共同決

定制といえども、企業内部の利害対立を妥協により調停する権力分割として経営の単一支

配的性格を軟化させるにとどまり、規律を有する経営権力そのものが失われない以上、支配

関係は厳然として存在し続けることになろう(石坂 1975: 102–105)。

経営団体における規律は、組織成員に秩序への服従を求めるとともに、職務を進めるにあ

たって、対象に即した手段をめぐる合理的計算を要求する。ウェーバーの見るところでは、

機械や装置に人間を適応させるアメリカ式の科学的管理において、合理的な経営規律は最

9 ウェーバーの学説については、大塚(1974); 石坂(1975); 面地(1998)を参照。 10 ウェーバーによれば、経営ないし官僚制は近代以前の家産制国家や絶対王政国家にも見られ

たが、それらは「家政(Haushalt)」と未分化であり、非合理的な性格を残していた。また企業

(Unternehmung)は、それが営利(Erwerb)を志向する経済行為のカテゴリーである点におい

て欲求充足を志向する家政と区別されるが、単なる商業のように経営を内包しない企業は世界

のどこにでも見られたのであり、技術的観点によるカテゴリーである経営とは全く異なった概

念装置と見なされる(ウェーバー 1975: 372)。経営が技術的に持続的な性格のために家政から

分離し、その十全な姿を現わすのは、近代西洋に固有の資本主義文化を特徴づける「経済的合

理主義(Wirtschaftsrationalismus)」においてである。 11 ウェーバーは支配を、「或る内容の命令を下した場合、特定の人々の服従が得られる可能

性」と定義している(ヴェーバー 1972: 86–87)。ここでの「服従(Gehorsam)」とは、「服従者

が、命令の内容を、――それが命令であるということ自体の故に、しかももっぱら....

形式的な服

従関係だけの故に、命令自体の価値または非価値についての自己の見解を顧慮することなく―

―、自己の格率としたかのごとくに、彼の行為が経過する」ことを意味する(ウェーバー

1970: 7、傍点は原文)。

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高の勝利を収めている(ウェーバー 1960: 2巻 522)。科学的管理による規律化は、最善の収

益を達成するために物的生産手段と同様に個々の労働者をも計測するという原則に基づき、

人間の心身における有機的メカニズムを無視して、労働を機械作用がもたらすリズムへと

計画的に分割する。能率追求による労使の調和というテイラーの夢に反して、企業における

支配関係を焦点化するウェーバーが科学的管理から引き出すのは、経済的合理性の貫徹が

もたらす現実の人間的非合理であった。それゆえ彼にとっての経営は、その秩序を覆すべく

抵抗する側と抵抗を排そうとする側との闘争の可能性を、常に潜在させることになる12。

ラルフ・ダーレンドルフ

ウェーバーの後を承けて経営に内在する強制や闘争に着眼した代表的論者として、ラル

フ・ダーレンドルフ(Ralph Gustav Dahrendorf, 1929–2009)を挙げることができる。彼の主

著『産業社会における階級および階級闘争(Soziale Klassen und Klassenkonflikt in der

industriellen Gesellschaft)』(ドイツ語版 1957 年、英語版 1959 年)は、ウェーバーを下敷き

にカール・マルクスの階級闘争論を読み替え、タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons, 1902–

1979)の協働的な社会システム理論への批判を含みながら、経営は支配であり必然的に闘争

を生じさせると論ずる(Dahrendorf 1959)13。1920年代後半に創始されナチス台頭によって

頓挫したドイツの経営社会学(Betriebssoziologie)は、経営組織のなかで労使対立が尖鋭化

する要因を疎外論によって捉え、独自の経営社会政策による社会問題への対応を唱えるも

ので、ウェーバーの官僚制論を直接引き継がなかった。これに対しダーレンドルフは、パー

ソンズとアメリカ産業社会学を経由してウェーバーを再受容し、改めて経営=支配団体説

を提起することで、戦後西ドイツの経営社会学を主導することになる。

ダーレンドルフは産業経営を「合法的支配(legale Herrschaft)」と捉えるウェーバーに依

拠しつつ、そこで不可避的に生じる「権力の不平等」が、あらゆる闘争を引き起こすと主張

する(Dahrendorf 1959=1964: 96)。彼の説明によれば、所有を支配の要因と考えたマルクス

とは反対に、権力と支配こそ他に還元不可能な本源的要因であり、所有も支配の一形態にす

ぎない。階級とは、支配に参加しているか、支配から締め出されているかによって二分され

る闘争集団を意味する(Dahrendorf 1959=1964: 190–192)。すなわち、社会構造が生じさせる

「ある一つの闘争にふくまれている二つの利害のうち、その一方は変動をひきおこすこと

をせまり、他方は現状維持をもとめている」(Dahrendorf 1959=1964: 175–176)。したがって

12 ウェーバーは闘争を、「行為が、単数或いは複数の相手の抵抗を排して自分の意志を貫徹し

ようという意図へ向けられているような社会的関係」と定義する(ヴェーバー 1972: 62)。彼

の「権力(Macht)」概念は、このような関係において同様の意志を貫徹する可能性のすべてを

意味する(ヴェーバー 1972: 86)。より高次の統一への契機を闘争の社会形式に見出すことで

これを肯定的に捉えたゲオルク・ジンメルとは異なり、ウェーバーの関心は闘争それ自体にあ

ったことが指摘されている(野口 2006: 117–120)。 13 自説の要約として Dahrendorf(1958)が簡便である。ダーレンドルフによる経営社会学の著

作には、主著の前後に出版された『産業および経営社会学(Industrie-und Betriebssoziologie)』

(1956年)と『経営の社会構造(Sozialstruktur des Betriebes)』(1959 年)がある(長尾

1969)。その生涯にわたる広汎な業績は、加藤/檜山(2006)が概観している。

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

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企業における所有関係や工業化の発展段階、労働者の生活水準にかかわらず、経営における

強制性が存在する限り、闘争の発生は避けられない(Dahrendorf 1959=1964: 343–349)。

ただし、労使間の交渉や調停の枠組みが整うことで対立が制度化され、激しい労使闘争が

減少傾向にあった西ドイツの現実を前提するダーレンドルフは、「闘争の効果的な調整

(effective conflict regulation)」が可能なものと考えていた(Dahrendorf 1959=1964: 366)。こ

こから彼は、監査役会の一部を労働側から選出することを定めた共同決定法が闘争を除去

しうるとの期待を排撃する。労働代表とされる役員の地位もまた、紛れもなく企業における

一つの権威である以上、その地位を占める人物が誰であろうと、支配に参加することは避け

られない。むしろ労働代表は、必然的に経営者側の利益に巻き込まれてしまうだろう

(Dahrendorf 1959=1964: 360)。共同決定制は、闘争を悪とし、除去しなければならないとす

る確信から出発し、かえって労使の調整を困難にする自家撞着に陥る。効果的な調整のため

には、まず闘争を受け入れることが必要なのである(Dahrendorf 1959=1964: 365–366)14。

社会システム理論の静態性・閉鎖性を問題視するダーレンドルフは、闘争が最終的に社会

統合を促進する機能以上に、社会変動の源泉となる闘争のダイナミズムを重視し、積極的に

規定していた(Dahrendorf 1968)。彼にとって「社会は過程」であり、「闘争はあらゆる社会

構造に欠くことのできない要素」である(Dahrendorf 1959=1964: 157)。したがって経営にお

ける闘争もまた、制度化され和げられることはあっても、決して除去されるべきではない。

2.2. 合意と協働

チェスター・バーナード

企業内部の支配関係を強調したウェーバーやダーレンドルフとは異なり、チェスター・バ

ーナード(Chester Irving Barnard, 1886–1961)は協働の観点から経営組織を捉えた。1909年

にハーバード大学を中退してアメリカ電話電信会社(AT&T)に入社したバーナードは、22

年から 48年までニュージャージー・ベル電話会社社長の地位にあったと同時に、大恐慌の

さなかにニュージャージー州緊急救済局の責任者を務めるなど、各種公的機関の役員も歴

任している。彼はハーバード在学中に政治学を学んだ A. L. ローウェル(A. Lawrence Lowell,

1856–1943)の依頼を受けて 37年から連続講義を行い、その原稿をまとめた『経営者の役割

(The Functions of the Executive)』を翌 38年に出版した(Barnard 1938)15。大企業経営者で

あり行政の責任者でもあった経歴を背景に書かれた同書は、公式組織一般を協働システム

14 ダーレンドルフの立場は、疎外論を放棄することで階級対立を人間社会に普遍的に見られる

諸紛争の一形態にまで希薄化し、紛争の制度化を追認することで経営の支配関係が持つ強制的

性格を弱めてしまった点で、実質的には経営=協同組織説と大差ないとの評価も存在する(石

坂 1975: 22–30)。しかしながら、敵対性の強度は一旦措くとして、経営組織内部に対立の存在

を認めるゆえに妥協の契機を重視する立場は、(たとえばテイラーのように)対立そのものを見

出そうとしない立場と明確に区別しておくべきであろう。 15 アメリカ政治学における政党研究の先駆者として知られるローウェルは、1900 年にハーバー

ド大学教授に就任し、09 年から 33年まで学長を務めた(Adcock 2014)。

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(cooperative system)として論ずるものであり、現代組織論の古典に位置づけられている16。

バーナードは、経営組織における命令が権威を持つか否かは、受令者側がそれを受容する

かにかかっており、発令者の側が決定しうることではないとする(Barnard 1938=1968: 170–

171)。組織内で個人が命令に同意しうるのは、まず命令を理解でき、次にそれが組織目的と

一致していると考えられ、さらに自分が応じられる行為であって、自らの個人的利害とは対

立しない場合である(Barnard 1938=1968: 173)。つまり組織(協働)が持続するとすれば、

それは組織の参加者が命令を理解し応じる能力を通常持ち、組織の目的と参加者の利害に

ついての合意があって意識的な抵抗が生じないからである。それゆえ、権威は協働システム

の要求に服従しようとする個人の意欲と能力に与えられた別名である。こうしたバーナー

ドの議論をウェーバーやダーレンドルフの側から眺めれば、組織における強制性の軽視と

映るであろうが、企業組織内の人間社会を経営規律に基づく命令と服従の関係として一面

的に規定することへの批判は、ドイツ経営社会学における経営=協同組織説にも現われて

いる(石坂 1975)。むしろバーナードの権威論は、組織目的を実現するための規律に焦点を

当てたウェーバーとは異なり、組織を構成する個々人に光を当てながら、協働システム内部

のコミュニケーションと、組織目的の共有(合意)、目的実現へ向けた組織参加者の動機づ

けに関心を向けることで、経営=支配団体説の一面性を補完するものであったと言いうる17。

バーナードは公式組織を、「二人以上の人びとによる意識的に調整された諸活動ないし諸

力のシステム」と定義する(Barnard 1938=1968: 76)。この定義は、組織目的に貢献する諸力

の相互作用を指すものであり、経営者や労働者のみならず、出資者、供給者、取引先、顧客

などの活動を組織に内包している点で(Barnard 1938=1968: 71–74; Barnard 2003)、20世紀後

半の「ステークホルダー理論(stakeholder theory)」に通じるものである。彼は組織における

協働を、異なる二つの尺度によって評価する。第一は、協働によって組織の目的が達成され

る程度を意味する「有効性(effectiveness)」であり、第二は、目的の達成にかかわらず、協

働の過程で個々の組織参加者の欲求が満足される程度を意味する「効率(efficiency)」であ

る(Barnard 1938=1968: 20–21, 44–46)。有効性なしには、組織は自己の存在を正当化するこ

とができない。効率なしには、組織は参加者を確保し、定着させ、動機づけることができな

い。したがって経営者には、有効性と効率とが相互に対立する場合にも、適切な均衡を図り、

双方を維持することが求められる。経営者は有効性と効率を両立させるために、個々人の欲

求を充足させるような物質的・非物質的な誘因(inducement)を与えることで、組織参加者

16 バーナードの業績については、Wolf(1974); 飯野(1978); 藤井(2011)を参照。『経営者

の役割』出版後のバーナードは、1942~45 年に米軍奉仕協会(USO)の会長を務めたほか、48

年からロックフェラー財団理事長に転じた。同年には、論文集『組織と管理(Organization and

Management)』を出版している。 17 バーナードの議論にパーソンズとの親近性・共通性を認めることは容易い。バーナードは、

ヴィルフレド・パレート(Vilfredo F. D. Pareto, 1848–1923)への関心を通じて生化学者ローレン

ス・ヘンダーソン(Lawrence Joseph Henderson, 1878–1942)と親しく交わっていた。ヘンダーソ

ンによるパレートの紹介は、パーソンズを筆頭とする当時のハーバード学派社会学に多大な影

響を与えたとされる(富永 1965: 191)。バーナードによるパーソンズへの言及は限定的である

が(Barnard 1938=1968: 71, 255)、両者は一定の知的環境を共有していた。

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の貢献(contribution)を引き出そうとする。ただし誘因はいずれも費用を伴うものであり、

その提供可能性には限界があるため、主観的な欲求を変化させようと「説得(persuasion)」

が試みられることもある。これには、解雇といった制裁手段を背景に恐怖を作り出し必要な

貢献をするように仕向ける「強制的状態の創出」から、宣伝などによって貢献の義務を個人

に信じ込ませる「機会の合理化」、教育や垂範を通じた「動機の教導」などがある。ここに

見られるように、バーナードは組織の参加者を絶えず協働へ向かわせるための方法を考察

しており、組織内部における対立や強制の存在を否定しているわけではない(Barnard

1938=1968: 146–159)。

バーナードが組織内部の対立を協働へ導くために重視するのが、経営者による「道徳的創

造性(moral creativeness)」の発揮である。経営者は、組織目的に共通の意味を与えるべく、

教育、垂範、説得、命令、制裁などを通じて組織参加者の道徳準則に訴えかけ、協働を促進

する個人的確信を育まなければならない。各個人は私的な準則にしたがって行為するため、

組織内部には相互に矛盾する道徳性が存在しており、協働の過程では、何が正しい行動であ

るかをめぐって衝突が生じうる。こうした衝突を処理するため、経営者には対立するいかな

る道徳準則にも反しない新しい道徳準則を創造することが求められる(Barnard 1938=1968:

286–293)。バーナードにおける経営者(executive)の役割は、外部環境に応じて協働システ

ム全体の有効性と効率の均衡を実現する戦略的・創造的な技芸にあり、科学的・技術的な手

法に還元できるものではなかった(Barnard 1938=1968: 245, 268)18。

ハインリヒ・ニックリッシュ

既に触れたニックリッシュは、その経営共同体(Betriebsgemeinschaft)思想においてバー

ナード以上に規範的な経営観を示しており、経営を協働として描いた有力な論者の一人と

見なせる。商科大学の誕生とほぼ時を同じくして学問研究の道に入った彼は、1912 年に主

著となる『商業(および工業)の私経済学としての一般商事経営学(Allgemeine kaufmännische

Betriebslehre als Priwatwirtschaftslehre des Handels (und der Industrie))』を出版する19。当初から

企業者利害よりも企業それ自体の利害を重視していたニックリッシュは、企業の長期的な

存立維持のために要求される企業の姿を求めた。彼によれば、企業者から独立した一個の完

成された有機体としての企業は、その生存と発展、すなわち自己維持(Selbsterhaltung)を本

来の目的とする。企業は国民経済における個別存在として、社会的に必要とされる機能をそ

18 このような道徳的創造性の描写は、後述する M. P. フォレットの「統合」や P. F. ドラッカー

における management と大きく重なる。『経営者の役割』で management の語がごく稀にしか用

いられないのは、「科学的」手法の広範な適用を求める当時の管理過程(management process)

論が、バーナードの考える経営過程(executive process)においては一手段としてしか位置づけ

られていなかったからである(藤井 2006; 藤井 2007)。彼は 1950 年の講演で、十分かつ妥当

な証拠が得られないにもかかわらず意思決定を迫られるときに頼るべきは「判断(judgment)」

であり、これこそ人間の能力のうちで最も高い地位を占めると述べている(Barnard 1986)。 19 ニックリッシュはライプツィヒ商科大学およびチュービンゲン大学で国家学と商業学を学ん

だ後、1902年に博士号を取得し、07 年からライプツィヒ商科大学で商業経営学を講じた。10

年からマンハイム商科大学、21年からはベルリン商科大学で教鞭を執り、ともに学長を務めて

いる。彼の学説は、大橋(2012); 髙田(1957); 大橋(1966); 田島(1979)を参照。

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の目的に内包していなければ存立できないため、何らかの経済的欲求の充足に参与するこ

とを通じて、自己維持に足るだけの利潤を獲得することを目指す。企業が全体として継続的

に繁栄を果たすためには、企業者個人の利害とは離れて、個別の状況に応じてその経済原則

(ökonomische Prinzip)を変容させる必要がある。

第一次大戦によりドイツ資本主義が危機に陥ると、ニックリッシュは 1915 年の講演で、

組織された「諸力の共同体(Gemeinschaft von Kräften)」としての企業観を打ち出した。彼は

ブレンターノの私経済学否定論に反論して、私経済学は企業者のための研究ではないと述

べ、企業を国家と同様の一つの全体、「多様な利害を持つ多数の人間を一つの統一体に統合

しているもの」と捉えた上で、企業者はこうした企業の「一器官」にすぎないとした(ニッ

クリッシュ 1996)。この立場は 20年の『向上への道、組織(Der Wegaufwärts! Organisation)』

において、人間それ自体が一つの全体であると同時により大きな全体の肢体であるとの有

機体論に進み、組織において目的を設定する際には、それ自体として目的的存在たる人間が

組織の単なる手段とされることなく尊重され、組織の目的と個人の目的とが一致するよう

にしなければならないと主張されるに至る(ニックリシュ 1975)。彼はまた、経営協議会法

(1920 年)による経営参加などを念頭に、真の共同体として企業の一体化を実現するため

には、労使の共同決定が必要だと主張する。組織における分業と階層化のために、組織全体

と構成員の結びつきは間接的にならざるをえないため、構成員を全体に直接的に結合する

制度が必要とされたのである。

ニックリッシュは『組織』の内容に基づき、1921 年に『経済的経営学(Wirtschaftliche

Betriebslehre)』、さらに 1929~32 年には『経営経済(Die Betriebswirtschaft)』と改題の上、

主著の改訂を重ねた。『経済的経営学』で彼がこの学問の対象に規定したのは、経営に提供

される精神的・肉体的な労働の経済性と、この労働に関与したすべての人への成果の分配で

あった。すなわちニックリッシュにとって、共同体としての企業が追求すべきものは、成果

(Ertrag)である。彼は既に共同体における企業者と労働者を同等の立場として、賃金を分

配された成果と見なしており、成果の配分をめぐって対立が生じる可能性のあることを認

めた上で、この「対立をなくすべき、労資のとり分の、その分割線」を求めていた(大橋 1966:

251)。彼は成果分配にあたって遵守するべき原則として、「公正(Gerechtigkeit)」を掲げる。

受け取られた成果は新たに企業の生産物の購買に使用されるため、成果分配が公正に為さ

れ、分配される成果が大きくなるほど、経営が市場および人々の生活に与える影響は良好な

ものになると考えたのである20。ニックリッシュによれば、経済性が完全に実現される場合

には、生産に対する貢献と等しい割合のものが、成果として分配されることになる。出資者

であれば、提供した資本に相応する対価が与えられなくてはならない。彼の考える諸力の共

同体には、バーナードの協働システムと同様に、企業組織の成員のみならず取引先や供給者

などの利害も含まれていた。したがってニックリッシュにおける経営とは、貢献に応じた成

20 企業が公正な成果分配を行うことで労働者の生活と市場の状態が改善され、企業の自己維持

も助けるとするニックリッシュの立論は、事後的な再分配だけではシティズンシップ保障が十

分にならないとして近年提起されている「当初配分(pre-distribution)」の思想と共通性があ

り、その経営参加論を含め、財産所有デモクラシーの左派的解釈と響き合う(松尾 2015)。

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果の分配によってステークホルダーの欲求を充たしながら自己維持を為しえている場合に、

その経済性を十全に実現する協働行為であると言える。

2.3. 統合と創造

メアリー・パーカー・フォレット

企業経営を単なる支配とも協働とも異なる「統合」として捉えるのが、メアリー・パーカ

ー・フォレット(Mary Parker Follett, 1868–1933)である。彼女は、政治学史におけるより遥

かに重要な地位を経営学史のなかに得ているが、その最初の著書『下院議長(The Speaker of

the House of Representatives)』(1896年)は、アメリカ連邦議会における議長の積極的な影響

力行使を実証的に論じたものであり21、ドイツ国家学から多くを得た草創期のアメリカ政治

学に満足せず、ウォルター・バジョット(Walter Bagehot, 1826–1877)に範を求めながら政治

制度の実際の活動を明らかにしようとしたローウェルやウッドロー・ウィルソン(Woodrow

Wilson, 1856–1924)などに続く研究であった(Adcock 2014)22。

大学に職を得ることのなかったフォレットは、1900 年頃からボストンで青少年向けのソ

ーシャル・ワークに身を投じ、次第に保育・教育・衛生・住宅など幅広い社会問題の改善を

求める諸実践活動に従事するようになる。こうした活動を背景とするフォレットの政治思

想は、1918年に出版された『新国家(The New State)』において全面的に展開された。同書

は、地域コミュニティへの参加を通じた下からの国家統合を求める独自の多元主義(批判)

論として知られているが、のちの経営管理論にも共通するフォレットの基本発想が既に現

われている。彼女は、人間結合の基礎を画一性(uniformity)ではなく多様な差異の「統一

(unifying)」に求め、最小の単位にして幅広い差異を内包する近隣集団における責任ある参

加からはじめることで、より大きな集団への統合が基礎づけられていくとした。フォレット

によれば、個人と全体は絶え間ない相互作用によって混じり合い、ともに形成し合う関係に

おいて統一されるものであるから、一方が他方に従属することはない。そして、統一は固定

的なものではなく、永続する動態的過程である(Follett 1918)。

21 少女時代にフィヒテ哲学を専門とする歴史教師アンナ・トンプソン(Anna Boynton

Thompson, 1848–1923)の薫陶を受けたフォレットは、1888年にハーバード大学アネックス

(のち、ラドクリフ・カレッジ)へ進むと、A. B. ハート(Albert Bushnell Hart, 1854–1943)の

指導下に、アメリカ政治過程の研究に着手する。90年からケンブリッジ大学ニューナム・カレ

ッジに留学し、ニューナム歴史学会で「アメリカ下院議長の任務について(On the American

Speakership)」を発表。翌年に帰国すると、アメリカ歴史学会で「連邦議会下院議長としてのヘ

ンリー・クレイ(Henry Clay as Speaker of the United States House of Representatives)」を発表し

た。カレッジを修了したのは、著書出版後、1898 年のことである。フォレットの業績を概観す

るものとして、三戸/榎本(1986); 三井(2012)を参照。その政治思想と経営学説の関係に

ついては、稲村(1981a); 稲村(1981b); 岡本(1986)がある。 22 遠山隆淑によれば、バジョットにおける management は、主体間の差異と断絶を前提にしな

がらも、「単なる弥縫策とは異なる」包括的・中道的な「妥協」による政治的決定を可能にする

ものであった(遠山 2013: 124)。バジョットが評価するような、場当たり的な「妥協」と区別

される本来の「妥協」が、フォレットの統合とどの程度の距離を持つかは検討の価値がある。

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フォレットの長年にわたる社会実践には、調停委員会、最低賃金委員会、公的裁決機関な

どの公衆代表委員として経験した、労使紛争の解決への関与も含まれている。こうした経験

に基づき執筆された 1924年の第三作『創造的経験(Creative Experience)』は、前著で示した

集団統合の理念を引き継ぎながら、あるべき紛争解決のかたちを描いたものであり、同年の

うちにニューヨーク人事管理協会での連続講演を開始する彼女の経営管理論の骨格を成し

た(Follett 1924)23。フォレットによれば、企業組織ではいたるところに「紛争(conflict)」

が存在する。紛争とは、意見や利害の差異が表面化したものであり、不可避的に生じるもの

であって決して否定すべきではない。紛争の解決は、①一方が他方に勝利する「支配

(domination)」や、②双方が少しずつ譲歩する「妥協(compromise)」によってなされがち

であるが、③相異なった欲求をそれぞれ満たし、いずれも何一つ犠牲にすることのないよう

な「統合(integration)」こそが望ましい(Follett 1941=1997: 41–45)。もっとも統合が一つの

紛争を解決した後には、より高いレベルで新たな紛争が生じるであろう。フォレットの考え

る経営とは、このような統合の反復過程であり、差異や紛争は、統合に結実する限りで組織

を動かす「建設的対立」として肯定されることになる24。

組織内部において統合を実現することは、いかにして可能になるのであろうか。フォレッ

トによれば、組織成員はそれぞれに固有の職能を有し、各職能に付随して権限と責任が生じ

るのであって、上位の階層から権限が委譲されてくるわけではない(Follett 1941=1997: 207–

208)。したがって経営は、拡散している権限・責任を累積的に意思決定へと発展させること

を意味しており、最終的な決定とはこの過程のなかの一時点(a moment)にすぎないのであ

るから、それによって組織成員が犠牲を強いられることはない(Follett 1941=1997: 215–217)。

また、人間には特定の人からの命令に従うことを嫌う傾向があるから、命令が受諾されるた

めには、それが特定の状況に即した客観的で恣意性をもたない「非人格化」された命令であ

23 同書は直接に企業経営を論じたものではないが、協同組合の事業経営への助言を求められて

執筆されたとされている(三戸/榎本 1986: 80, 128)。同書出版に続く 1924年から 33年まで

のニューヨーク人事管理協会での講演は、フォレットの死後、同協会の主宰者ヘンリー・C. メ

トカーフ(Henry C. Metcalf, 1867–1942)と、彼女のイギリスにおける支持者 L. F. アーウィッ

ク(Lyndall Fownes Urwick, 1891–1983)の手で編まれた『動態的管理(Dynamic

Administration)』(1941年)に収録された。さらに、1933年に LSE 経営学科で行った講演を中

心として、『自由と調整(Freedom & Coordination)』(1949年)が編まれている。 24 その反面、彼女は差異と「敵対(antagonism)」を峻別する。彼女が認めるのは、統一体

(unity)の維持・発展に資するような多様性に限られるのであって、統合を不可能にするよう

な敵意(hostility)の存在や、差異が統合されないまま対立が継続することは、病理でしかない

(Follett 1918=1993: 37; Follett 1941=1997: 49)。このようにフォレットは、「対立を差異と多様性

に還元することによって対立から一切の敵対的契機を追放する」のであり、「社会における諸利

害の非和解性を彼女は認めない」(稲村 1985: 284)。フォレットによれば、労使が互いの対立

を解決するためには、一方的な支配を排するだけでなく、「交渉(bargaining)」によって接触す

ることも避けるべきである。交渉においては双方の側に闘争的態度があり、それは妥協には帰

着しても、統合に結びつくものではない(Follett 1941=1997: 102–103, 233)。労使が共通目的を

理解し、それぞれの利害を統合するために必要とされるのは、「協議(conference)」である。彼

女によれば、労使双方の差異が「固まってしまう(have crystallized)」前に、合同の委員会とい

う職場における「まったく初期の段階(the very early stages)」での協議を重ねることが、企業

および産業での統一を実現する方法なのである(Follett 1941=1997: 221–222, 308)。

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

2016年 5月 29日 於・名古屋大学

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ることが重要である。組織成員の一人ひとりが、自ら全体状況を判断し、そこから生じてい

る要求を「事実に基づく命令」として受容することを、フォレットは「状況の法則(the law

of the situation)」と表現する(Follett 1941=1997: 83–85)。状況の法則に従うとき、発令者も

受令者も、ともに自身の判断と責任において命令を受容し、行動することになるのであり、

そこでは組織成員の一人ひとりが自ら管理する(Follett 1941=1997: 120)。このように管理者

と労働者の間に絶対的な境界線を引けるものではないというフォレットの信念は、彼女自

身がテイラー協会に所属し、自らを科学的管理の追随者と位置づけていたことと無関係で

はないだろう25。状況が何を求めているかの理解を通じて人々は進んで命令に服従し、自ら

管理するというフォレットの主張は、経営団体内部の摩擦を否定し、支配権力の強制性を隠

蔽してしまうものとも受け取られかねない。

だが実際には、命令は「再人格化」されるのであり(Follett 1941=1997: 85–86)、統合は機

械的に為しうるわけではない。すなわち、個別特殊な状況の解釈は人それぞれ異なりうるが、

「循環的応答(circular response)」と呼ぶべき相互作用を繰り返す過程で、状況の理解をめ

ぐる相違を明確にしながら、組織成員一人ひとりの欲求や経験を相互浸透(interpenetration)

させることによって、多様性は相互の犠牲や譲歩を強いることなく統一性(unity)へと至る

ことが求められる(Follett 1924; Follett 1941=1997: 62–63)。フォレットによれば、このよう

な循環的応答のなかで生み出されるのは、上から支配する権力(power-over)ではなく、下

から共同する権力(power-with)である(Follett 1941=1997: 142–143)。彼女は、労働者、消

費者、投資者など多様なステークホルダーの利害を調整する統合者(integrator)として経営

者を規定するが、それは審判者(umpire)とか裁定者(arbitrator)などと考えられるべきで

はないとする。なぜなら経営者が為すべき統合とは、既に存在する異なる立場の間で決定す

るのではなく、そこに彼自身の経験を加えながら、全員を満足させる新たな解決を創造する

ことにほかならないからである(Follett 1941=1997: 130–131, 358)26。

ピーター・ドラッカー

政治学的土壌から経営思想を育んだ点で、ピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker,

1909–2005)はフォレットと似た道のりを辿っている。ウィーン出身のドラッカーは、1931

年にフランクフルト大学から博士号(国際法・公法)を取得後、イギリスを経て 37年に渡

米し、42年にベニントン大学の政治学・哲学教授として初めて大学のポストを得た27。この

間に最初の著作『経済人の終焉(The End of Economic Man)』(1939年)を刊行している。彼

25 「使用者であれ労働者であれ、科学的基準に従って自らを律し、能率化しなければならな

い」というテイラーの意識は、1930 年代後半まで受け継がれていた(廣瀬 2005: 219)。 26 フォレットは、偉大な裁判官とは状況に規則と前例を「適用する」のではなく、規則と前例

と状況から創造を行うものだと述べている(Follett 1924: 287)。経営者が発揮すべき創造性の例

を司法的な紛争解決に見出す議論は、バーナードにも共通して見られるものである(Barnard

1938=1968: 292–293)。 27 ドラッカーの業績については、藻利(1975); Flaherty(1999)を参照。彼は 1950 年から、

ニューヨーク大学大学院の経営学教授に迎えられた。また同年には GEの経営コンサルタント

に就任し、同社の組織改革に貢献したとされる。

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

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は同書と続く『産業人の未来(The Future of Industrial Man)』(1942年)において、大企業の

専門経営者を来たる産業社会の発展を担う新たな支配者と目しつつも、伝統的な所有者支

配の正統性を支持する立場から、経営者支配の非正統性を主張していた28。ドラッカーにと

って転機となったのは、43年から開始した GM調査の成果に基づく『企業という概念(The

Concept of Corporation)』(1946年)であった。彼は同書を、「共通の目的のために人々の諸

活動を組織化する社会的制度」としての企業を対象にした「政治学的」分析と特徴づけてい

る(Drucker 1946=2008: 12)。このような人間組織(a human organization)としての企業観に

立つことで、所有権による権限の基礎づけは必然性を減じ、株主もまた、企業と特別の関係

を有する人々による多様な集団の一種にすぎなくなる(Drucker 1946=2008: 23)。こうして

1950年の『新しい社会(The New Society)』では、所有者支配の実質的な正統性の喪失が言

明され、いまや出資者に対して与えなければならないものは、所有権などではなく、未来の

収益の分け前に対する請求権だけであると述べられるに至る(Drucker 1993=1957: 384)。

ただし、「正統な権力とは社会的に機能する権力のこと」であり、「いかなる社会的権力も

正統でないかぎり永続することはできない」としていたドラッカーが(Drucker 1942=2008:

33, 117)、経営者の権力を無条件で肯定したわけではない。自由な産業社会を決定づけ、代

表し、構成する制度(the decisive, the representative and the constitutive institution)たる企業は、

市民に平等な機会と意義ある仕事をもたらし、社会の一員としての地位、機能、および尊厳

を確保させることを通じて、人々の願望や信念を十分に満たすという約束に応えなければ

ならない(Drucker 1946=2008: 12–14, 142; Drucker 1993=1957: 39)29。すなわち企業は、その

最善の自己利益の追求そのものが自動的に社会的責務を果たすように組織されるべき、社

会の機関(organ)と見なされるようになる(Drucker 1946=2008: 16, 196)。

さらにドラッカーによれば、企業の統治機関(governing organ)としての経営は、いくつ

かの点で必然的に政治的(political)機能を遂行する。第一に、個人が生産に関与するため

に不可欠な生産組織を掌握することで、企業は市民の生計手段へのアクセスを支配し、シテ

ィズンシップの実現を左右している。第二に、企業はその内部秩序への服従を要求し、命令

権力を通じて、市民の経済的・社会的地位に影響を及ぼす決定を為す。第三に、経営者は経

済的業績への責任を優先させるため、企業の統治者でありながら被治者である従業員の利

益のために権限を行使することができず、必然的に被治者の利益を求める反対者としての

労働組合とのあいだに、組織内分裂を生じさせる。経営者と労働組合は、ともに企業の存続

という同一の前提の下でのみ活動できる一対の存在であるから、両者の闘争状態が継続し、

28 株式所有の分散および所有と経営の分離から主張された経営者支配論に対してドラッカー

は、権力の正統な基盤として所有権に代わるものは何も見つかっていないとして、株主によっ

て制御されない経営陣の権力は正統な権力ではないと批判した(Drucker 1942=2008: 90)。その

背景には、経営者支配の正統性を認めれば、同じく伝統的な所有権を無視して台頭したナチズ

ムの権力もまた正統化されかねないという状況認識があった。経営者支配の正統性を肯定する

にはナチズムの崩壊を待たねばならなかったのである。 29 ドラッカーは、現代の産業社会が巨大企業なくしては存立しえないという事実は、企業と経

営者に対し、所有者支配の時代とは全く異なる社会的責任を課すものであるとした(Drucker

1989=2006: 下 265)。

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

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企業の自律性を破壊するような国家権力による介入を招かないためには、対立の政治的解

決が求められる(Drucker 1993=1957: 55–58)。

もっともドラッカーは、企業が一次的には経済的存在であることを強調する。企業にとっ

ての一次的な課題は自己維持であって、そのために顧客を創造することが客観的必要

(objective needs)となる。そこで『経営の実践(The Practice of Management)』(1954年)で

は、客観的必要を個人の目標に転換することが、自らの仕事を自ら管理する動機と責任、広

い視野をもたらすとして、支配による管理(management by domination)に代えて、目標と自

己統制による管理(management by objectives and self-control)が提唱される(Drucker

1989=2006: 上 163, 180)30。目標と自己統制による管理は、組織の規模や、管理者の階層・

職能を問わず広く適用されうるものであり、客観的な事実によって自己管理を駆り立てよ

うとする発想において、フォレットの状況の法則に共通するものである。経営(management)

に固有の判断は、単一の目標(objective)を機械的に追求するものではなく、複数の目標を

衡量するものであると考えたドラッカーは、経営者の職務は厳密な意味での科学とは異な

る実践(practice)であり、適応的(adaptive)であるよりも創造的(creative)な性格を有す

ると主張した(Drucker 1989=2006: 上 62)。

3. 経営への政治学的接近—企業権力の民主的正統化

以上から明らかなように、対立、闘争、支配、妥協、合意、協働、調整、統合、創造など、

「政治とは何か」について通常語られることのほとんどは、経営の基本性格としても主張さ

れている。この興味深い事実は、政治の経営化仮説におけるナイーブな経営観を確固として

退けるのみにとどまらず、政治に経営を投影して語るよりむしろ、経営に政治を投影して語

ることが有益である可能性に改めて目を開かせるものであろう。

どのような経営観を支持するにせよ、企業内部の集合的な意思決定過程の存在を否定し

ないならば、そこにおける最大の権力の所在、すなわち「統治しているのは誰か(Who

governs?)」という問題は避けられない。この問いを企業経営において前景化させたのが、

1930 年代に提起された所有と経営の分離論であり、個人株主への株式分散による所有者か

ら経営者への支配構造の変容を指す「経営者支配(management control)」の進行である(Berle

and Means 2009; Burnham 2009)。現代の企業統治論の起源は、ここに求められる31。株主利

益極大化のため経営者を規律する純経済的な機能に焦点を当てられがちな企業統治論だが、

アメリカにおいて corporate governance の概念が登場したのは、ヴェトナム戦争下における

兵器製造への批判や南アフリカのアパルトヘイト政策への反対など、各種の運動が企業に

社会的責任を強く要求した 60年代後半からであり、直接には企業に対する政府規制を求め

30 ドラッカーは、労働者が自らの仕事に対して経営者的態度(managerial attitude)を持つこと

を求め、このような態度はとりわけ職場コミュニティ(plant community)の統治への参加によ

って培われるとする。職場コミュニティとは労働者の人間としての必要と目的とに依存して企

業内部に不可避的に発生するものであり、経営者とは独立に、労働者の社会的地位を確保する

ための自治機関(self-government)を持つとされる(Drucker 1993)。 31 アメリカにおける企業統治論の歴史的展開については、佐久間(2003); 今西(2006); 正

木/角野(1989); Cheffins(2013)を参照。

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

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る社会運動の文脈からであった。ドラッカーが主張したように、20 世紀中葉のアメリカに

おける高度産業社会においては、企業の事業活動は準公共的な性格を帯びるようになり、テ

クノクラシーへの危惧を背景にしながら(Galbraith 2007)、企業内外に重大な影響を及ぼす

意思決定を行う経営者権力の正統性が厳しく問われたのである32。

企業の社会的責任を問う 60年代以降の運動のなかで形成され、80年代以降に理論的発展

を遂げたのが、ステークホルダー理論である(Freeman et al. 2010)。バーナードやニックリ

ッシュ、ドラッカーの企業組織観に見られたように、長期的な自己維持を図る企業は、多様

なステークホルダーとの相互作用のなかで誘因を提供し、その誘因に見合う貢献を引き出

そうとする(谷本 2002: 86; 山縣 2014; 山縣 2015)。企業と各ステークホルダー間の誘因‐

貢献の交換関係が繰り返されることにより、各ステークホルダーは長期的な交換関係の維

持を有利と考え、関係は制度化されていく。このように制度化された協働システムにおいて

は、多様な利害を調整し、ステークホルダー間の紛争を統合することで、協働を秩序づける

役割が経営者に期待されるようになる。ステークホルダー理論における重要な意義は、企業

において表出・均衡される利害を、労使二元的なものから、より多元的なものへと拡大して

捉えている点に求められる。企業はその決定の影響を被る社会内のステークホルダーへの

応答性を高め、組織目的を再定義することを通じて、正統性を確保可能になる。

ドイツにおいてはどうであったか。労使協調傾向の下で企業間の競争を促進させる西ド

イツの社会的市場経済は、モンタン共同決定法(1951 年)、経営組織法(1952 年)などによ

り労働者の経営参加を認めていた。さらに 1970 年代に入ると、改正経営組織法(1972 年)

や共同決定法(1976 年)による経営参加の拡大と呼応して、二元的利害に基づく企業体制

の定着を踏まえながら、新たな企業モデルを提示する立場が登場する。第一に企業用具説は、

あらゆるステークホルダーが自らの目的を実現するために利用可能な手段が企業であると

して、企業が持続的かつ効果的に事業を展開するためにはステークホルダーとの価値交換

が不可欠であるから、企業の目的は各ステークホルダーの目的と合致しなければならない

と主張する(シュミット 1974)。第二に企業体制論は、企業を様々なステークホルダーから

構成される連合体と捉え、企業の目的を決定する利害秩序においては出資者利害と従業員

利害のみならず消費者利害と公共利害も重要であるとして、企業の意思決定過程を利害多

元的な企業協議会に基づかせるべきだと説く(万仲 2001)。これらはいずれもステークホル

ダー理論(あるいはバーナード、ニックリッシュ、ドラッカーらの企業観)と共通性の高い

32 個人株主に分散していた株式は、1960年代以降に顕著な機関集中へと至るが、機関投資家の

中核であった商業銀行は 70 年代半ばまで物言わぬ株主であり続けた。しかし、74 年の従業員

退職所得保障法(Employee Retirement Income Security Act: ERISA)が年金基金の受託責任を明

記したことで運用業績が問われ始めるとともに、年金基金への株式集中が進むにつれて、機関

投資家は株主提案権を通じて経営者に圧力をかけるようになり、90年代には社外取締役を通し

て経営者を解任させるなど、明らかな支配力を行使するようになっていく。ドラッカーは『見

えざる革命(The Unseen Revolution)』(1976年)で、拠出者である被用者が最大の所有者・債

権者となることを通じて労働者と経営者の利害が一致する、年金基金社会主義を提起した

(Drucker 1996)。現在でも、株式市場に占める年金資産の決定的重要性は同様であり、被用者

の資産拡大による経済の社会化は、なお有効なヴィジョンと言えよう(cf. 松尾 2015)。

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

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主張であり、20 世紀後半以降の企業統治論においてステークホルダー・アプローチが有力

な潮流となっていることを物語っている。

さて、政治学における企業の主題化は、これまで大別して二つの視角から行われてきた

(Dahl 1959; Vogel 1996)。その第一は「政治のなかの企業」(あるいは、“Business and

Politics/Government”)と呼びうるような、公的政治過程における主要アクターの一種として

企業を捉える視角であり、企業が他のアクターと関係を取り結びながら行う政治活動を分

析の対象とする(Lindblom 1977; 大嶽 1996a; 恒川 1996; Coen et al. 2010)。そこにおいて諸

企業の政治性は、個別的、ないしは業界団体・経済団体(財界)を通じて組織的に、政治資

金の提供や選挙における集票、ロビイングなどを行い、政党・政治家に資源を提供するとと

もに、政府・官僚とのコミュニケーションを密にすることで、事業活動を有利に進めるべく、

公的政治過程(大政治)への影響力を獲得・行使しようとする点に見出される33。

これに対して、もう一つの分析視角は「企業のなかの政治」(あるいは、“Business as politics”)

と言うべきものであり、企業組織内部の意思決定過程に政治性を見出し、本来の事業活動に

内在する小政治を主題化する(e.g. 大嶽 1996b: 1章 2節)。従来の政治学において、公的政

治過程と直接結びつくとは限らない「企業のなかの政治」への関心が、「政治のなかの企業」

に比べて低調であったことは否めない。職場内デモクラシーに対する政治理論的関心は持

続的に存在しているものの(Walzer 1983; Dahl 1985)、企業内在的な小政治が扱われる場合

には、労使関係を通じた公的政治過程の規定や、職場における参加がもたらす教育的・統合

的機能への期待など、何らかのかたちで大政治への波及可能性が念頭に置かれている場合

が主であった。また、社会内に広範な影響を及ぼしうる企業権力の制御という観点からは、

主に社会運動を通じて企業の外部から働きかけを強める市民社会アプローチが盛んに議論

されてきた一方で、企業組織内部における統治構造や政治過程への着目は相対的に乏しか

ったと言わざるをえない34。

だが、人間集団内部の拘束的な意思決定としての企業経営は、それ自体として闘争・協働・

創造といった政治的諸側面を持つのであり、労使に限られないステークホルダーの多元的

な利害を調停・統合することを通じて企業権力を制御しうる内的回路が開かれると考える

なら、企業統治はデモクラシー理論にとって重要な主題の一つとして改めて認識しうる。企

業などの非国家主体を政策形成や公共サービス提供へ参画させるガバナンスの一般化に伴

い、統治機能は少なからず社会内の諸領域に断片化されつつある。多元化した統治主体の責

任を追及し民主的制御を可能にするため、非国家主体の内部統治を民主化する方策は今後

33 この分析視角は、「企業の方針に影響を与えようとする国家の活動と、国家の政策に影響を

与えようとする企業の活動を、両者の力関係に焦点をあてながら分析すること」と言われるよ

うに(恒川 1996: 1)、公的政治過程における企業(群)と他のアクターとの相互作用を含んで

いる。他のアクターから企業に対する働きかけに着目するもののうち、本報告と直接関連する

ものとしては、企業統治法制の比較政治経済学的研究が重要である(Gourevitch and Shinn 2005;

西岡 2015)。また、相互作用の一種として、財界からの政治的リクルートメントに着目する研

究もある(松浦 2015)。 34 越境的な統治権力の民主的制御のために「市民社会による民主化」のみならず「市民社会の

民主化」の重要性を提起したものとして、松尾(2014)を参照。

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

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ますます検討の重要性を増す課題であり、もはや「企業のなかの政治」を周縁的主題にとど

めるべき理由は存在しないと言えよう。

おわりに

本報告の主張は、政治思想研究にとって企業経営が選択しうる主題であり、取り組むべき

課題でもあるということである。その論拠を示すべく次の三つの作業を果たした。第一に、

ドイツおよびアメリカにおける経営学の形成と発展を歴史的に振り返ることにより、この

学問が労使の対立に向き合いながら巨大かつ複雑な人間組織を統治するために生み出され

た専門的・技術的体系であることを見た。第二に、若干の代表的論者による経営観を整理す

ることにより、経営が、企業内の対立を前提にした支配や協働、統合など、政治と相似的な

基本性格を持つものと考えられてきたことを示した。第三に、20 世紀後半の企業統治が、

労使に限られないステークホルダーの多元的な利害を調停・統合する過程として公共的な

性格を強めていることを示し、これを経済権力の民主化を模索する政治理論が取り組むべ

き主題として捉えなおした。

本報告が採り上げた経営学説・経営思想は、企業経営の一側面としての政治性を極力明瞭

に描き出す目的のために取捨選択されたものであり、その恣意性に応じて上記の主張の妥

当性が減じられるべきであることは言うまでもない。また、本報告で見た議論の多くが 19

世紀末から 20世紀半ばまでを中心とする時期に集中していることから、経営化仮説が前提

するような 20世紀末以降の企業経営の実態や環境とは隔たりが大きいのではないかとの疑

義もありえよう。しかしながら翻って見るに、20 世紀末以降の現実政治の実態や環境の変

化に応じて、政治学における政治の本質や「政治的なもの」をめぐる議論の内容..

が根本的に

変わってしまったとは認められない。同様に、実際的変化のために企業経営の基本性格が大

きく変容したと考えるべき根拠は未だ乏しいのであって、小政治の一形式としての企業経

営像に修正を迫るほどの言説が新たに台頭しているか否かは、別途の慎重な検討を要する35。

多様なステークホルダーの相互に異なる利害に基づく紛争を調停・統合することが求め

られる企業の経営過程は、公的政治過程における大政治とは区別される小政治の一形式と

して、政治思想研究の対象となりうる。また、デモクラシー理論が現代企業の強大な経済権

力を民主的に統御する方途を探ろうとするなら、企業の意思決定によって多大な影響を被

りうるステークホルダーたちが意思決定過程に実効的な発言力を行使しうるような企業統

治のあり方は、避けることのできない問いである。企業を主題とする政治理論研究を新たに

切り拓こうとする潮流は、既に出現しつつある(Ciepley 2013; Malleson 2014; Landemore and

Ferreras 2016)。本報告は、やや変則的なかたちで同じ流れに棹差そうとした小論であった。

35 たとえばボルタンスキー/シャペロ(2013)は、フランスで 1960年代と 90年代に発行され

たビジネス書の内容を比較することから、イデオロギー変容の批判的検証を試みている。彼ら

が見出すのは、企業組織の階統性を維持しつつ分権性を高めようとする態度から、より柔軟な

ネットワーク状の組織こそ高いパフォーマンスを発揮できるとしてヒエラルキーを拒絶する傾

向への転換であり、個々の労働者における自己管理や、管理者層における創造性のより一層の

重視である。少なくとも、ここにフォレットやドラッカーに見られた主張との明白な矛盾を認

めることは困難であるように思われる。

政治思想学会第 23 回研究大会 自由論題 分科会 C

2016年 5月 29日 於・名古屋大学

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