アラン・ヒョンオク・キム. (2014)...

139
本書は、敬語を体系的に記述することを目的とするものではなく、敬語表 現がなぜそのような形の表現になったのか、いうなれば、日本語の敬語表現 をそのような形のものに作り上げるもとになる青写真のようなもの、基本デ ザイン――これを本書では原理または原則と呼んでいる――がどのようなも のであるかを追究する。 日本語の敬語は幾千年もの間日本語を話す人たちによって育まれてきた高 度な組織を持つ体系であり、完結した 1 つの下位範疇として日本語の文法体 系の中に組み入れられている。この下位体系が具現する言語的礼儀表現は 1 つのまとまった「喩え」の体系をなしている。本書では敬語表現の対象にな る人、つまり、 「上位者」という概念を理想化された 1 つの典型、すなわち モデルとする作業仮説を立てる。さらに、この典型としての上位者は下位者 にとってはタブー、すなわち、禁忌の対象であり、上位者・下位者の相互関 係は根源的にさまざまな喩え(隠喩またはメタファー)を通じて表され、こ れが敬語の文法に 1 つの体系として投射されていると見る。上位者の言動、 そしてそれに対する下位者の言語表現はタブー禁制に基づいた 5 つの原則で 規定されるとするほか、尊敬・謙譲形式は特に恩恵の授受の関わりによって 一次敬語系と二次敬語系の 2 つの階層で成り立っているものとする。 本書ではこのような作業仮説を日本語の広範な通時的・共時的資料を使っ て検証する。日本語の敬語がさまざまな隠された比喩表現(これを本書では メタファーと呼ぶ)で体系をなしているといっても、それは、相互に関わり のない個別的なメタファーの寄せ集めでなく、1 つの対象系、つまり、敬語 という組織に体系的に働く統一された 1 つの隠喩系 systemic metaphor とも 呼べるひとくるみのメタファー系である点が強調される。このような探索は 形態論的な繊細な分析によるところが多く、そのような過程を通して今まで まえがき 遅ればせながら、 父金昌竜、母尹今先、弟金顕基、 3 人の韓国人の霊前に捧ぐ。

Upload: siu

Post on 28-Jan-2023

7 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

本書は、敬語を体系的に記述することを目的とするものではなく、敬語表現がなぜそのような形の表現になったのか、いうなれば、日本語の敬語表現をそのような形のものに作り上げるもとになる青写真のようなもの、基本デザイン――これを本書では原理または原則と呼んでいる――がどのようなものであるかを追究する。日本語の敬語は幾千年もの間日本語を話す人たちによって育まれてきた高

度な組織を持つ体系であり、完結した 1つの下位範疇として日本語の文法体系の中に組み入れられている。この下位体系が具現する言語的礼儀表現は 1

つのまとまった「喩え」の体系をなしている。本書では敬語表現の対象になる人、つまり、 「上位者」という概念を理想化された 1つの典型、すなわちモデルとする作業仮説を立てる。さらに、この典型としての上位者は下位者にとってはタブー、すなわち、禁忌の対象であり、上位者・下位者の相互関係は根源的にさまざまな喩え(隠喩またはメタファー)を通じて表され、これが敬語の文法に 1つの体系として投射されていると見る。上位者の言動、そしてそれに対する下位者の言語表現はタブー禁制に基づいた 5つの原則で規定されるとするほか、尊敬・謙譲形式は特に恩恵の授受の関わりによって一次敬語系と二次敬語系の 2つの階層で成り立っているものとする。本書ではこのような作業仮説を日本語の広範な通時的・共時的資料を使っ

て検証する。日本語の敬語がさまざまな隠された比喩表現(これを本書ではメタファーと呼ぶ)で体系をなしているといっても、それは、相互に関わりのない個別的なメタファーの寄せ集めでなく、1つの対象系、つまり、敬語という組織に体系的に働く統一された 1つの隠喩系 systemic metaphorとも呼べるひとくるみのメタファー系である点が強調される。このような探索は形態論的な繊細な分析によるところが多く、そのような過程を通して今まで

まえがき

遅ればせながら、

父金昌竜、母尹今先、弟金顕基、

3人の韓国人の霊前に捧ぐ。

4

気づかれなかったさまざまな現象が明らかになり、それらに対してより合理的な説明が可能であることが示される。本書を書くに当たって、特に、日本語の敬語研究の歴史と現状に対する

調査には東京堂出版の西田直敏『敬語』(国学叢書 13、1987年)、菊地康人の『敬語』(講談社学術文庫、1997年)が手引きとして大いに役立った。本書の執筆の直接的なきっかけになった Sells & Iida(1991)、池上嘉彦『「する」と「なる」の言語学――言語と文化のタイポロジーへの試論』(大修館書店、1981年)、久野暲『新日本文法研究』(大修館書店、1983年)、アメリカの『Language』誌に掲載された Shibatani の“Passives and related constructions: A

prototype analysis”(1985年)は私の 20数年前の粗雑な思いつきをどうにか学問的なものにしていくのにこの上ない貴重な助けになったことを記しておく。本書は言語学の専門書並みの学術論文であるが、一方では、敬語の本質に

関心を持つ一般知識層の読者や研究者にも読んでいただけたら幸いである。

本書の出版にあったって、数多い人々を煩わし、また恩を蒙った。下に記して篤く感謝の意を表したい。尹容鎮教授、詩人方夏植、金聖道長老、詩人許萬夏医学博士、申鉉淑教授および同教授門下生諸氏、岸本秀樹教授、金水敏教授、鄭聖汝教授、堀江薫教授、佐藤滋教授、Prashant Pardeshi教授、鎌田道生教授、角岡賢一教授、また、影山教授の門下生であった日高俊夫氏、名古屋大学留学生センターの野水勉氏、Claudia Yoshikawaの両先生、Barbara Pizziconi教授、定信敏行教授、Mutsuko Endo-Hudson教授、Patricia Wetzel教授、John Haviland教授、Francesca Bargiela教授、Daniel Kádár教授、国立国語研究所長・影山太郎教授ならびに同研究所の角田大作教授、相津正夫教授、Prashant Parddeshi

教授、John Whitman教授、同研究図書館研究図書グループ前係長の加藤論子氏、現係長の原紀代子氏とそのスタッフの皆様方、米南イリノイ州立大学の Jinsuk Bae嬢、Shirley Clay Scott博士、Frederic Betz博士、Alan Vaux博士、David Dilalla博士、Anne Allen-Winston博士、David Johnson博士ならびに現人文学大学長 Kimberly Kempf-Leonard博士。本書の初稿にお目を通され細かいご批評をくださった柴谷方良教授に深

謝する。言語学科大学院の院生であり、日本語学科の助教であった中津川正信、大田早紀、西尾知恵の諸君にも本書の最終稿の校訂で大変お世話になった。出版依頼に快く応じていただいた明石書店代表・石井昭男氏、編集部の大

野祐子氏、赤瀬智彦氏、そして小山光氏に感謝する。本書の出版を待ちに待ってくれた娘たち、Elaine Kim-Seireeni、Mirena

Levine、Serena Kim、義理の子たち、Jennier Applegate,William J. Budslick

とその家族たちも喜んでくれるだろう。最後に、日本語が読めない妻のこと

謝 辞

6

メタファー体系としての敬語――日本語におけるその支配原理 ◎ 目次

まえがき 3

謝 辞 5

序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け 11

0.1 これまでの研究 11

0.2 省みられなかった問題点 13

0.3 敬語理論のための新しい接近法 16

0.4 現代日本語の敬語文法とその一般規則 17

0.5 本書の構成 27

第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説

第1章 上位者概念のメタファー 33

1.1 「上位者」概念の基礎付け 33

1.2 タブーの本性 37

1.3 名指しのタブー 39

1.4 日本語の敬語研究に見えるタブー概念 40

1.5 モデルとしての「上位者」 43

1.6 まとめ 46

第2章 メタファーの体系としての日本語の敬語 48

2.1 メタファーによる敬語の見直し 48

2.2 メタファーの構造と機能 53

第3章 敬語の原則とその文法化 63

3.1 新しい敬語概念の定立 63

3.2 「敬語の場」の設定 63

3.3 敬語の体系を司る枢密軸の原則と 5つの下位原則 70

ではあるが、私のささやかな研究を陰ながら見守り、愛情と激励で精一杯支えてくれた Daleにもこの機会に真心をこめて Arigatō。

米イリノイ州カーボンデール近郊にて

アラン・ヒョンオク・キム(金顕玉 Alan Hyun-Oak Kim)

3.4 敬語原則の文法化ガイドライン 72

3.5 敬語の原則における「上位者・下位者」の相補関係 78

第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し

第4章 言葉の豪華包装のメタファー 83

4.1 禁忌標示としての包装様式 83

4.2 敬語の接頭辞と接尾辞 84

4.3 文の豪華包装メタファー――丁寧形の助動詞「です」と「ます」 89

4.4 告知・陳述の動詞から丁寧形の助動詞への文法化 92

第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー 99

5.1 贈り物の内容としての素材文の敬語とそのメタファー様式 99

5.2 尊敬形における自発メタファー――動作主役割の極小化 101

5.3 「奉仕メタファー」の他動詞「する」と謙譲形生成のメカニズム 115

5.4 久野の統語論からの支え 142

5.5 なぜ謙譲形に語用論的制約が多いか 147

5.6 まとめ 152

第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化 157

6.1 恩恵移動の原則と文法化のためのガイドライン 158

6.2 恩恵の原則 Dによる敬語の授受表現のメタファー 159

6.3 敬語の相互承接――恩恵授受の複合形式 163

6.4 下位者による命令/要請から上位者の裁可への変換 169

6.5 「やりとり」の類型 174

6.6 授受動詞と謙譲形軽動詞の意味構造上の対応 187

第3部 敬語と礼儀の接点

第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」 195

7.1 ポライトネス理論と「わきまえ」の文化 196

7.2 「すみません」の分析 198

7.3 メタファー理論から見直す「わきまえ」と「すみません」 205

第8章 敬語文法化の道程 214

8.1 助動詞「ます」の文法化(Dasher 1995) 214

8.2 Traugott & Dasher(2005)の「そうろう」の分析 227

第9章 総まとめ 233

9.1 統一場の理論として 233

9.2 2つの次元――文法としての原則体系と語用論 235

9.3 文法化のメカニズムと制約 237

9.4 「非焦点化」の解釈――複数と受身と「ぼかし」と「にごし」の機能 238

9.5 尊敬形構造における「なさる」の不整合性 241

9.6 複合授受様式の設定と恩恵移動のタイポロジー 241

9.7「命令と授与」から「裁可と贈呈」への変換形式 242

9.8 文化的特殊性のパラメーター化 243

9.9 加減調節の領域――修辞的表現の次元 244

9.10 日本語文法のマイクロ・コズムとしての敬語 246

第 10 章 結びと展望――新しい型の解明的理論作りを目指して 248

あとがき 250

付 録 251

ABSTRACT 254

参考文献 000

事項索引 000

人名索引 000

凡例一、本書では、本文中および引用文献に現れる著作者に対する敬称  をすべて省略した。一、韓国語資料はハングルに英文アルファベットを併記した。一、韓国語のハングルの英文の表記はMcCune-Reischauer表記シ  ステムを採用した(これは、言語学が専門でない一般読者には  より馴染みやすいだろうと思われるからである)。一、冒頭に *を付した例文は文法的あるいは用法的に問題のあるも  の、♯や ?を付した例文は文法的あるいは用法的に間違いでは  ないが、日本語として座りが悪く馴染みが薄いもの。一、同じ語彙でも抽象化された原型といった意味を込めて使用する  場合はカタカナ表記とした(例:カミサマ等)。

0.1 これまでの研究

日本語のもっとも大きな特徴の 1つであり、伝統文法の中でも特別な部門をなす敬語に関しては、すでに数えきれない研究によってさながらありとあらゆる面がもう論じ尽くされたかのように見える。敬語の定義から、その文法様式、敬語構造の成分(「話し手」「聞き手」、特定の「場面」、話し手と聞き手以外の「特定の対象」など)、敬語体系の分類、敬語様式の歴史的変遷過程、敬語選択の要因、敬語使用の効果、他言語における敬語現象との比較、敬語の言語政策的統制にいたるまで、研究は実に広範多岐にわたっている。理論的な面からいえば、山田(1924)の『敬語法の研究』によってはじめて敬語が法則性を持つ 1つの完結した体系であることが明らかになり、敬語は「謹称」と「敬称」に二大別される。時枝(1941)は、さらに言語過程という独自の概念を導入した理論に立って、「詞の敬語」と「辞の敬語」を提唱する。前者は「御覧になる」や「拝見する」のような表現は言葉自体が概念として直接持っているものであり、これを話し手が素材を上位者として認識しているということを表す、いわゆる、「言葉の敬語」であるとする。一方で、「です」や「ます」を使う後者の敬意表現は「辞の敬語」と特徴付け、これこそが真の敬意表現といえるものだとする。時枝は「辞の敬語」については、特に、尊敬と謙譲という概念は実は 1つの概念の表裏をなすものであって、尊敬語・謙譲語のような区別は無意味であるとしている。時枝のこの見方は、「です・ます」による対者敬語が素材敬語から独立した領域の敬

序 章

新しい視点からの敬語理論の基礎付け

12 13序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

意表現であることを明確にした反面、素材敬語の内部構造における主体と客体の相関関係、そしてそれらに対する話し手の間接的な関係などをかえって曖昧にしたきらいがある。この問題は、その後、辻村敏樹(1967)が「素材の敬語」という概念を確立し、それに立って、時枝のいう「詞」的敬語も、「辞」的な敬語の介入なくしては成立できないことを立証するにいたって、敬語の体系は、一応、丁寧語、尊敬語、謙譲語、それに美化語の範疇を加えて 4つの領域を認める分類法に収まったように見える。一方、現代言語学の主流になっている生成文法の枠組みの中では、理論の

検証のための引き合いに出されるのがほとんどで、敬語現象を特に体系的に取り扱うまとまった研究としては、Martin(1964)、Neustupný(1968, 1972)、Uyeno(1971)、Dasher(1995) 等の博士論文、Harada(1976)の修士論文やWenger(1983)、McGloin(1984)、Kim(1987)、金(2004)、Sells & Iida(1991)、Hamano(1988, 1993)、Mori(1993)、そして、ごく最近の Fukada & Asato(2004)

などが挙げられる。敬語現象のいろいろな側面については、寺村(1976)、池上(1981, 2007)、McGloin Hanaoka(1984)、Hinds(1986)、そして、統語論の立場から敬語の内部構造に迫る久野(1983)など数多い論文が発表されている。しかし、最近は敬語の語用論的な視点からもっとも実り多い研究実績が出されているといえる。1980年代から現在までの敬語・礼儀現象に関する 24編あまりの博士論文を見ても、4、5編の構文的な研究を除くと、残りはみな機能論・語用論に集中していることがわかる。たとえば Neustupný

(1972, 1978)、Coulmas(1981)などをはじめ、熊取谷(1988)、R. Ide(1998)、Shibamoto(1985, 2011)、Boyle(1991)、S. Ide & Yoshida(1999)、Fukushima

(2000)などが挙げられるが、敬意表現における日本語の話者が示す社会言語学的な統制としての「わきまえ」の意義を強調するMatsumoto(1988,

1997)、S. Ide(1986, 1989)、また談話環境での無敬語をも含む局地的な敬語レベルの変動現象の意義をただす Usami(2002)、その他、敬意表現に見える「配慮」に関する総合的な研究をまとめた国立国語研究所(2006)などが精緻な統計学による社会言語学的研究方法で大きな成果を挙げており、敬語現象への新しい認知言語学的な接近を試みる Hiraga(1994, 1999)、そして、安(1981)、韓(1982)、彭(2000)、上原(2004)のような中国語や韓国語と

の対照研究も見られる。また、1980年代以降顕著な発展を遂げている文法化理論の枠組みによる Traugott & Dasher(2005)では、日本語の敬語の歴史的資料が豊富に駆使されている。特に、ごく最近の宇佐美(2001, 2002)、滝浦(2005, 2008)と井出(2006)では Brown & Levinson(1978, 1987)のポライトネス理論をめぐって日本語の敬語に対する新しい評価がなされている。本論の基盤になる自発や働きかけの概念に注目しながらミニマリスト理論に立つ Ivana & Sakai(2007)の新しい敬語の分析にも大きな関心が寄せられる。

0.2 省みられなかった問題点

しかし、このような先行研究を省みても、極めて少数の示唆に富む断片的な研究を除いては、敬語の文法規則の内部構造、そしてそのような構造を支配する原理がどのようなものであるかを問い詰めた体系的な研究は見当たらない。日本語の敬語を詳しく見ると、奇抜な発想といってもよいような数多い特

異な表現が使われていることに気づく。たとえば、上位者に会いたいというメッセージを上位者に伝えるときには、「お目にかかりたい」という。字義どおりに見れば、まるで上位者の「お目」が黒蜘蛛が張り巡らして獲物を待ち構えている網に喩えられているかに見える。上位者の視野がなにか網状のような格好になっていて、あたかも取るに足らぬ話し手がそのような視野の網に引っかかっていくかのような状況を連想させる言い方に聞こえる。つまり、「会う」を「お目にかかる」という表現にする発想の背後には、「会う」が対等なもの同士の会合でなく、上位者をなにか巨大な、重要な存在と見なし、それとの会見にあずかる話し手の下位者を誇張的に矮小化するという発想があるように見える。ところが、日本語の敬語には、このような表現が 1

つや 2つでなく驚くほど広く行われていることが観察される。そればかりでなく、これらが個別的、偶発的なものでなく、敬語法全体にわたってある種の規則性を持って体系化されているように見えてくる。尊敬語表現で下の(1)のような形が許されない点も注目に値する。

14 15序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

(1) a. *お書きになさるb. *お書きられるc. *お書かれるd. *お書きにする

上のような適格でない構文を単なる敬語規則の違反と見てしまえばそれまでであるが、それらを排除することができる 1組のより根源的な原則はないものだろうか。(1)の文の非文法性や(2)の文法性を言語の恣意性に帰することもできるだろう。しかし、敬語の下位範疇によって、このように違う種類の補助動詞が弁別的に選ばれるということは、考えてみれば、大変不思議に思われる。

(2) a. *それは、先生が研究室で私にお会いになったときのことである。b. それは、先生の研究室で私が先生にお目にかかったときのことである。

上は両文とも適格な尊敬形で、主語と目的語が置き換えられてはいるが、意味上の違いはない。それにもかかわらず、日本語の話者は(3a)のような言い方を避ける傾向がある。(3a)のような表現が談話上適格でないのは、いうまでもなく、上位者がわざわざ下位者のところまで出向いていって会ったという解釈ができ、このような解釈をいわば不敬とする考えが話し手にあるように見える。このような現象はなにかその場限りのものでない、より一般的、包括的な原則が日本語の文法体系を支配していることを暗示しているものと考えられる。

(3) a. ?先生が私にチョムスキーの近著をおくれになる。b. ?先生が私からチョムスキーの近著をおもらいになる。

上の(2a)や(3b)のような文も敬語の規則がよく守られているにもかかわらず、使われない表現である。生産的な尊敬形の文法の規則を適用した

「おくれになる」も「くれられる」も「おくれなさる」も、また、(3b)の「おもらいになる」などもあまり聞かない。例外的に、尊敬形「おくれなさる」だけは、「これ、郵便局に出してきておくれ」や東京の下町あたりで聞けそうな「何々しておくんな(せ)」などの表現の原型と考えられるが、パターンからは外れている。「おもらいになる」「もらわれる」「おもらいなさる」などのような表現は見受けない。ということは、「もらう」の尊敬の語彙ははじめから日本語の辞書項目にないばかりでなく、また、それに対する尊敬形規則の適用も許さないものであることを物語っている。「いらっしゃる」という表現を考えてみよう。この言い方は、文脈によって 4通りの意味に解釈される。たとえば、先生が研究室に「行く」「来る」「居る」、そして、先生にお嬢さんが 3人「在る」など、いずれの場合にも尊敬表現として使われる。また、「山田先生は土地の小学校の校長でいらっしゃる」の「でいらっしゃる」は繫辞の「だ」、または、「である」の尊敬形である。「お出でになる」も「いらっしゃる」とまったく同様に働く。「行く・来る・居る・である」の 4つの動詞を 1つの単語「いらっしゃる」で表すことができるのは、一体どうしてなのだろうか。これと関連して、封建時代の「お上のお成り」では、「来る」が「なる(成る)」という単語になっている。「お運びになる」も、上位者が一つ一つの独立した「歩行」を、または、おみあし(御御足)を運んでいくかのような表現にとられる。つまり、この発想は「歩行」という動作が上位者の筋肉運動によるものでないという考えが基になっているように見受けられる。これと同じ類の発想である「お拾いになる」のような表現も奇抜である。というのは、ここでは、上位者の「歩行」は上位者の主体から完全に切り離される。そして、花びらか何かのように、行く先の道ばたに置かれてある上位者の「足跡」を一つ一つ拾っていくというような状況が連想される。これも、いうならば、上位者の「歩く」ことが上位者の労力によるものでないという考えの極端な表現と解釈される。文法の領域で観察される上のようなもののほかに、感謝を表す用語につい

て見てみよう。日本人が贈り物をもらって、「ありがとう」という代わりに「すみません」というように、外国人からのプレゼントを前にしてよく I am

16 17序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

sorryといって相手を面食らわせるような言語表現は、何に由来するものであろうか。学者によっては、よその人から何かをもらったとき、一方では、「恩」を受けることに対する感謝の念、そして、もう一方では、贈り物のために相手が費やした費用や労苦などで心ならずも相手を煩わせたものとしてもらったほうのこちらが心を遣うこと、つまり、相手への「思い遣り」という 2つの理由から「すみません」という表現が来るものであるとする。しかし、特に「すまない」だけが相応しく、そのような場合、「ありがとう」は好ましくないばかりでなく不敬を犯すことになりかねない。このような違いまでも含めて説明できる解釈が望まれる。尊敬形と謙譲形では動詞類が未然形や連用形などの形をとって、文の述部を構成する動詞句の構造から見れば、本動詞の直後に接続する仕組みになっているが、同じ敬語範疇に属する「です・ます」のような丁寧形に限っては必ず文の最右端、文末に位置するが、このような統語上の違いを余儀のないものにするなんらかの原理的な説明が期待される。上に挙げたような問いは、一見、詮索を必要としない当たり前のような事

柄に見えるかもしれない。しかし、本書はまさにこのような問題に対する新しい接近を試みるものである。

0.3 敬語理論のための新しい接近法

本書は次のような基本的な考えに立脚する。日本語を母語とする話者が「上位者」と見立てる対象は、1つの抽象的な「上位者」、つまり、モデルとしての「上位者」である。さらに、日本語の敬語体系は、このようなモデルとしての上位者を 1つのタブー、すなわち、禁忌の対象として特徴付ける。そのような上位者は 5つの属性を持つものとし、それらの属性を基に敬語の全体系を支配する原理を導き出す。この原理にはタブーの対象である上位者との接触・直視禁忌の原則、上位者の労役免除の原則、上位者による恩恵の一方的授与の原則、上位者による権利独占の原則、そして、上位者と下位者との間の物事の垂直移動を司る位相の原則を含めて 1つの体系をなすと見

る。このような原理体系は敬語の文法規則と制約に隠喩(メタファー)の形で具現されているものとする。敬語現象に対するこのような接近法は、従来の伝統的な敬語の研究法から

の明らかな離別を意味する。しかし、このようなアプローチの兆しは、言語学を 1つの理論として考える人々、なかでも、寺村(1976)、池上(1981,

2007)、久野(1983)、Hinds(1986)、Shibatani(1985)のような研究者たちの洞察力に満ちた研究にすでに現れており、菊地(1997)の「作れない形の敬語」についての説明にもうかがえる。これは、また、日本語が持っているものと見られる「なる」的特性という観点に立つ池上の見事な分析に見えるものである。しかし、これらの研究は、日本語の一般的な性格の特徴付けとか、または、受身の原型とかいった敬語の体系外の問題を追究する中でのものであって、敬語そのものの体系的な叙述のためになされたものではない。本書では、上に挙げたいくつかの先駆的な研究を踏まえて、尊敬形だけでなく、謙譲形はもちろん、丁寧形、それに、敬語の語用論の領域におけるインターフェイス現象までも包括的に説明できる統一的な原理体系を打ち建てようとする。そうすることによって、今までの研究で問題にされることがなかったさまざまな現象が新しい照明を受け、また敬語体系の全体像に対する原理的な説明が可能になると見通すのである。このような考えに立って、日本語のレキシコンの中に蓄えられている敬語を表す項目の語彙的分析、丁寧・尊敬・謙譲の文法的様式に表れる助動詞の形態的・意味論的素性の分析などを通じて、それらの分析結果が仮説の予想に合致するか否かを調べる。また、標準語だけでなく方言や他言語のデータを比較することによって仮説の有効性を調べる。データは研究資料からのものが使われるが、筆者の個人的な直感によるものも含まれていることを断っておく。

0.4 現代日本語の敬語文法とその一般規則

本書の直接的な対象になる日本語の文法規則を前もって概観する。

18 19序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

日本語の敬語は、周知のように、2つの異なる次元の上に成り立っている。1つは、話し手が、会話で、直接聞き手に対して敬意を表する敬語、つまり丁寧語。もう 1つは、会話文の内容――会話文から「です・ます」を取り去った部分、すなわち、文の命題――の中に登場する人物について話し手が敬意を表する言い方、つまり、尊敬語と謙譲語を含む。これは、「詞の敬語」(時枝 1941)、素材敬語(辻村敏樹 1992)、一般敬語(大石 1976)、命題敬語(Harada 1976)などと呼ばれているものである。本書でも、このような敬語の二大領域を丁寧語と素材敬語というふうに分けて考察する。厳密には、Harada(1976)の命題(proposition)という概念を基準にして、丁寧語を命題の外で起こる敬語という意味で一般敬語を命題外敬語(extra-propositional

honorifics)とし、素材敬語を命題の中での敬語、すなわち、命題内敬語(intra-propositional honorifics)と規定する1。このような命題を基準にした見方が、特に本書で試みている新しい接近法により相応しいものであることが追々明らかになってくるであろう。命題内敬語は、話される上位の人物がその素材文(命題文)の中で主語の役割を担っているか否かによって、さらに、命題内主語敬語(または、単に主語敬語)と(命題内)非主語敬語に下位分類される。伝統的には、前者は尊敬語、後者は謙譲語と呼ばれているものである。ここでの非主語は、主語以外のもの、直接目的語、間接目的語のほかに、起点、着点、方角、位置、方便、時点などに関する語句を含む。敬語の分類は、したがって、図 1のようにまとめられる。

A型謙譲と B型謙譲の区分は大石(1975)によるもので、前者は一般的な

命題外敬語(丁寧語)

命題内敬語(素材敬語)

敬語 主語敬語(尊敬語)

非主語敬語(謙譲語)

A型謙譲語

B型謙譲語

図1:敬語の分類

注)辻村敏樹 1992;Harada 1976などを基に作成

素材文の中の上位者に対する謙譲表現、後者の B型は特に聞き手が話題に登場する人物と同一の場合の謙譲語である。A型謙譲と B型謙譲の間には、実をいえば、実質的な差異などなく、素材の第三者が聞き手と同一人物の場合で、いわゆる A型謙譲の特殊ケースを指すものである。これを A型謙譲と B型謙譲に細分するのは煩瑣に過ぎると思われるが、通説に従うことにする。次に、丁寧語、尊敬語、および、謙譲語を作る文法規則をまとめておこう。

0.4.1 命題外敬語 (丁寧語)

上位の聞き手に向かって話すときの敬語、すなわち、丁寧語は、文法形式として用言文末に助動詞「です」、または、「ます」が付加される。用言が、繫辞すなわち指定の助動詞「だ」の場合は、「です」によって表される。文の述語が形容動詞である場合にも、その終止形に「です」が付加される。「です」の代わりに、 「でございます」がより敬意度が高い格式ばった表現として使われもする。たとえば、形容動詞の連用形「く」に接続して「暑くございます」「涼しくございます」「広くございます」になったり、「ウ音便」を経て「暑うございます」「涼しゅうございます」「広うございます」のような形にもなる。「静かな」「きれいな」のような「な」形容詞類には、「な」を除いて名詞並みに直接「です」「でございます」が付く。丁寧の助動詞「ます」は、文末の動詞の連用形に付く。動詞型活用の助動詞「せる」「させる」「れる」「られる」「たがる」の類もそれらの連用形に付加される。命令の「ませ」「まし」はいわゆる特別の五段活用の動詞「なさる」のほか、「いらっしゃる」「くださる」「おっしゃる」の 3つの動詞と「遊ばす」「召す」「召し上がる」に限って付加される(渡辺 1978:42参照)2。上にいったことを次のように整理しておく(N、A、Vはそれぞれ名詞、形容

詞、動詞を表す)。

(4) a. N/Aです(文の補語である名詞、または、形容詞に付加される)⒤ Nでございます

20 21序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

ⅱ Aく/う -ございますb. V連用形ます(文の述語である動詞の連用形に付加される)

無敬語の文に、上のような文法形式を適用すると、下のような丁寧文が得られる。

(5) a. あれが大学の正門です/でございます。b. この部屋は明るいです/明るうございます。c. 雨が降っています。

丁寧の助動詞「です」と「ます」は、その使い方に多少の形態論的な違いがある。助動詞「ます」は用言の連用形に付いて「行きます」「あります」「替えます」のようになるが、「です」の場合は、用言である「だ」に付いて[だ+です]のような形にならず、「だ」の代わりに補語の名詞に直接接続する。「です」は助動詞とはいえ、繫辞「だ」に接続するのでなく、それの置き換えであるという点で、不規則性を見せている3。しかし、「です」の出自を、辻村敏樹(1967:193)やMartin(1975:1032)が見るように、通時的に「ます」体の「であります」、すなわち、[である+ます]に求めるとすれば、「です」と「ます」の間には本質的な違いはなく、「ます」体がより一般的な丁寧形式で、「です」体はその変異形、または、その省略形であると見ることができる。これと異なる筆者の分析は第 4章§4.3で示す。

0.4.2 命題内敬語(素材敬語)

命題文の内部に登場する上位者に対しては、あらかじめ、日本語のレキシコンに収められている敬語向けの語彙項目、たとえば、主語敬語の場合であれば、「いらっしゃる」「召し上がる」「お見えになる」「くださる」など、謙譲語の場合は、「おり(ます)」「ござる」「申し上げる」「いただく」などが使われる。尊敬・謙譲を表す動詞がレキシコンに見当たらない場合には、動詞に特殊な様式を適用することになる。次に、このような命題内敬語、また

は、素材敬語における 2つの敬語様式――尊敬語と謙譲語――の規則を見てみよう。

0.4.2.1 上位者が主語の敬語形式――尊敬形文の命題の中で上位者が主語になっている場合には、命題内主語敬語――

ここでは通称の尊敬形と呼ぶ――が使われるが、この場合、尊敬表現に適する語彙項目が見当たらない場合は、下のような 1組の文法形式が動詞に適用される。

(6)上位者が主語である敬語の一般形式:尊敬形A.お/御 V連用形 になるB.お/御 V連用形 なさるC. V未然形(ら)れる

接頭辞「お」は、漢語系名詞と共起する場合は、「ご(御)」になる。A型と B型は、本動詞の連用形(動名詞)にそれぞれ「~になる」「~なさる」が付加されるが、このときの本動詞には敬語の接頭辞「お」または「御」が挿入される(以後、接頭辞の「お」と「御」は「お」で略して表すことにする)。C型では、特に、本動詞の未然形に助動詞「(ら)れる」が付く。 C型の本動詞 Vに「お」が欠けている理由はこのときのVが助動詞に接続する未然形であるため、Vはまともな動名詞でなく、接頭辞を冠する素地がないからであろう。このほかに、[お V連用形くださる]を(6)に D型尊敬形として加えることもできる。(6)の尊敬形の文法形式で特筆すべきは、それらの形式に関わる動詞類が自動詞の「なり」であったり、他動詞の「なさる」であったり、C型では、「られる」のように助動詞であったりして、それぞれ異質の用言が関与している点である。これとは対蹠的に、下で見るように、謙譲形はいわゆるコントロール動詞「する」、またはそれの謙譲形「申す」「致す」を付加することになっていて前者より構造的には単純かつ直截的である。

22 23序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

0.4.2.2 上位者が主語でない敬語形式――謙譲形 命題の中の主語が話し手であって、上位者が主語以外の直接目的語、間接

目的語、または、目標、起点、着点など斜格の役割を演じている場合は、謙譲形が作られる。

(7)上位者が非主語で下位者が主語である敬語形式:謙譲形A.お V連用形するB.お V連用形申す(申し上げる)/いたす(文語)

謙譲の文法形式には、A型と B型の 2つの形式が考えられる。B型の「おV申す」は、廃れた形であって、これを除けば、文法形式が「お Vする」の一式しかなく、前述したような尊敬形の多様性とは極めて対蹠的である。

0.4.3 授受の助動詞による敬語形式の文法的拡張――第二次形式

上の 2節で示したのが日本語の敬語法の一通りの規則の要約であるが、日本語の敬語で欠かせないといっても言い過ぎでないものは授受動詞の機能の活躍である。このような授受動詞が関与する分野は一般に敬語法外の現象と

表1:敬語の類型と動詞の活用

命題的敬語 (命題内) 敬語  語用論的 (命題外) 敬語

対象尊敬形 謙譲形 丁寧形

活用形 形式 活用形 形式 活用形 形式

名詞 おN ― ― ― ―

形容詞 おA ― ― ― ―

動詞 連用形未然形連用形

A型:おVになる *B型 : VられるC型: (お) Vなさる(D型:おVくださる)

連用形 A型:おVするB型:おV申すC型:おV致す

― ―

注)* Vは動詞の連用形、または NV すなわち動名詞。

して捉えられているが、本書ではこれを特に日本語の敬語法の 1つの拡張領域(extension)として敬語法の 1つに数える。話し手と聞き手の間でものを頼むとか貸し借りをするということは、一般

的にいえば、頼みや貸し借りのようなメカニズムの中を「授与物」が関与者の間を移動する現象というふうに解釈することができよう。特に敬語の世界では、上位者と下位者の交渉は、一方は「恵み」を与え、もう一方はそれを「恩」としていただくもの、また、物を差し上げるという形で行われる。上位者と下位者の間の移動は、単なる「授与物」の水平的な移動とは違った垂直性を持っていて敬語体系のもっとも重要な側面の 1つをなしていることがうかがえる。たとえば、Brown & Levinson(1978, 1987)が普遍的な言語現象の 1つとして提唱する礼儀に関する理論においても「ものを頼むこと」、いわゆる「依頼・要請」現象が理論の中心部になっている。授与物の移動はもちろん助動詞の「やる」と「もらう」によって表現されるが、構文的には本動詞を基にしてそれを埋め込んだ、いわば、二次的・副次的な形と見なされる。もちろん、本動詞如何によって尊敬にも謙譲にもなる。授与動詞「やる・くれる」は、尊敬の「くださる」と謙譲の「差し上げる」になり、受理動詞「もらう」のほうにも謙譲の「いただく」がある。授受動詞によって作られる敬語の複合構造をまとめると、表 2のようになる。授受動詞が関わる命題文の敬語は本動詞+助動詞というふうに重複するた

め、本動詞と助動詞の敬語化が独立して行われるが、「お開けになってください」の代わりに「開けてください」のように本動詞の部分が中立的な平称

表2:授与物の移動に関する敬語規則

授受動詞 複合尊敬形式 複合謙譲形式やる/あげるくれる

[[お V]くださる]]*[[お Vて]くださる]]

([[お V]申す])**([[お V]申し上げる]) [[お Vして]差し上げる]

もらう/受ける 頂戴する[[お V]いただく][[お Vして]いただく]

注)*  Vは連用形。  **「お手伝い申し上げます」に見えるような、丁重形の「お V申す」「お V申し上げ    る」は「Vたてまつる」と同じく現今ではおおかた廃語化している。

24 25序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

になるときもある。もちろん、聞き手敬語の場合は、下で示すように、丁寧形がその上に被さって第三の階層を形作る。

(8)少々[[[お待ち]Ⅰください]Ⅱ(ませ)]Ⅲ

(9)ちょっと[[[待って]Ⅰください]Ⅱ(ませ)]Ⅲ

(10)こちらのほうへ[[[お越しになって]Ⅰいただき]Ⅱます]Ⅲ

(11)この椅子、ちょっと[[[使わせて]Ⅰいただき]Ⅱます]Ⅲ

上の(8)では、敬語の授与動詞「くださる」に丁寧形「ます」が付いて文を締めくくっている。(11)は、許可・容認を表す使役の単純形としての「使わす」に恩恵の受理動詞「いただく」が、そして、その上にまた丁寧の「ます」が重なって、多重層構造をなしている。はやく、時枝(1938, 鈴木・

林 1984:289に再録)は「ます」を風呂敷に喩え4、その後、時枝(1941:501)

では、素材、素材と話し手、話し手と聞き手という順序に順次結合して表現されるとし、これを下の(12)のように重層する下線で表している。

(12)a. 丁が丙を 見て やり なさい ます  

b.丁が丙を 見て 下 さい ます5

c. 丁が丙を 見て あげ なさい ます

d.丁が丙に 見て いだだき なさい ます

時枝の下線の代わりに、埋め込み構造にして角括弧でくくり、一次複合形式をⅠ、二次複合形式をⅡ、三次複合形式をⅢというふうにローマ数字で示すと、(13)のようより見やすくなる。

(13)a. 丁が丙を[[[見て やり]Ⅰ なさい]Ⅱ ます]Ⅲb.丁が丙を[[[見て くだ]Ⅰ さい]Ⅱ ます]Ⅲc. 丁が丙を[[[見て あげ]Ⅰ なさい]Ⅱ ます]Ⅲd.丁が丙に[[[見て いただき]Ⅰ なさい]Ⅱ ます]Ⅲ

このように、本章§0.3でも述べたように、時枝は敬語を大きく「詞」と「辞」に分けて考えることによって、敬語の複合構造が「詞」の敬語を基層にして、その上に丁寧のような「辞」の敬語が重層するという立体的な構造を明らかにしている。敬語の構造を命題文の敬語と命題の外での敬語、つまり、素材の敬語と談話遂行的敬語に大別する現今の分析の先駆けになった点で、時枝の貢献は大きい6。(13)の重層構造に関する上のような観察は、Bybee(1984, 1985)の動詞句構造における表徴理論の予測と合致する。Bybeeによると、動詞句の形態論的結合順序は動詞句の構成成分が本動詞の項構造にもっとも深く関わるものがそれにもっとも近い位置に現れる。意味や機能の面から本動詞との関係が薄くなるに従って次第にその順次も異なってくる。すなわち文の最右端に現れる要素は本動詞の意味構造を決める命題の項構造からもっとも疎遠な位置(平面的な語順からすると、もっとも遠く、統語構造からすると、もっとも表層の位置)にあるものといえる。一方、項構造外的な諸条件は本動詞の語幹から離れて右端寄りに表されるとしている。つまり、文の内容の出来事が過去に起こったことか、それが推測に過ぎないものであっても命題文の内容が指すものを義務的に履行すべきこととして規制しているものか、平叙文であるか、疑問文であるか等、つまり命題の基本的な意味内容そのものに関わらない事柄(時制、アスペクト、法などと呼ばれているもの)は右寄りの文末になる7(13)の文で本動詞「見る」に次いで授受動詞「やる・あげる」「くださる・いただく」が、そして、「包むもの」すなわち外装である「です・ます」が文の最右端に現れるとする私たちの恩恵の原則 Cおよび隔離の原則Aが予測していることと Bybeeの予測との間に意義ある一致が認められる。ついでながら、極めて示唆に富む Bybee(1984)の研究で、まことに意外

と思われる点を 1つ付記しておく。それは、「『敬語(Honorifics)』が一つの

26 27序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

範疇として動詞句に現れる言語は調査対象にした 50ヵ国の言語の中、一つしかなかった」と報告し、そのため、敬語範疇は研究の対象にしなかったという注(同書 :40)である。この例外的な言語がどの言語であったかは明示されてはいないが、おそらく韓国語かまたは日本語ではなかったかと推察される。敬語範疇自体が動詞句の範疇としては例外的である上に、その構成様式が高度に錯綜していて取り扱いが容易でなかったということも、敬語範疇を研究対象から除いた理由ではなかったかと推察される。たとえば、「(これを)おとりになっていただきたく存じます」のような文を考えてみよう。この敬語動詞句を形態論的に分析する場合、(i)o、(ii)tori、(iii)ni、(iv)nar、(v)te、(vi)itadaki、(vii)taku、(viii)zonzi、(ix)masu という 9つ構成要素を取り扱わねばならない。たとえこれから niと te、そして oのような助詞類を除くとしても、tori、nar、itadaku、tai、zonzuru、masuという6つの動詞と補助動詞が連鎖をなして関わっている。それにこれらが 3つの異なる敬語様式(尊敬・謙譲・丁寧)の異なる標識によって異なる順序に従って構成されていることを考えると、単純な膠着言語の動詞句を分析するときのように一元的な形態論的接近法では取り扱いがおおよそ不可能に見えるのは当然のことに思われる。われわれの立場からすると、このようなデータこそが Bybeeの結論の正しいことを力強く裏付けるものと考えられる。なぜなら、上の例は 6つの動詞の配列が尊敬―謙譲―丁寧という互換を許さない順序になっていて、まさしく Bybeeの図式的表像相応(Diagrammatic

Iconicity)理論の予測どおりになっているからである。ということは、まず、尊敬形「になる」が本動詞「とる」の語幹にじかに付くのは、上位者の主語が動作主として用言の本動詞が持つ項構造の内部要素であるからである。さらに動作主の動作「おとり」は原則 Bによって隠喩的に「おのずからなる」の自発に還元されなければならない。この自発化を「おとり」に後続する「なる」が受け持っている。「~になる」という日本語の表現はある事象 A

が他の事象 Bに変わること、すなわち、Aは「動作主の役割」を、Bは「非対格化された動作主の役割」を表すもので、A→ Bという変換を意味している。このように形成される[[[o-tori]ni]naru]は第一階層の敬語構造と見ることができる。この構造は「て」を媒介にして第二階層構造[[ ]Ⅰ -te]

-itadaki]taku]Ⅱを作る。(vi)の謙譲形「いただく」は、隠喩的に自発化された上位者主語の動作、つまり、「おとりになる」を下位者の話し手が 1つの恩恵(文法的には対象格)として受理することを表していて、原則 Cが具現されている。次の(vii)の願望の「たく」で終わる句は、それに後続する(viii)の「存ずる」は「思う」の謙譲語の目的語として補文になっている。一方、謙譲形「存ずる」そのものはすでに先行する「おとりになりたい」の項構造の外にあり、しかも話し手というもう 1つの談話遂行的な要素を含んでいて尊敬の「おとりになりたい」から意味的にいっそう遠ざかっていることを示唆している。さらに進んで、(ix)の丁寧の「ます」にいたっては、すでに「おとりになりたい」の尊敬形の意味構造からも、また、謙譲形「存ずる」の意味構造からも遮断されて、ひとえに話し手と聞き手の上位者との間の談話の次元における事柄に関わる助動詞として、文の最右端に配置されている。したがって、[本動詞語基―自発助動詞(尊敬)―受理助動詞(謙譲)―丁寧助動詞]に見える連鎖順序はけっして恣意的なものでなく、Bybeeらのいう図式的表像相応原理の要請に適っている。[尊敬―謙譲―丁寧]の語順の配列パターンにおける入れ替えが絶対に起こらないという事実にもこのような意味構造が反映されている。このように見ると、日本語の敬語が惜しくも Bybeeの研究から除かれてはいるものの、動詞句の語幹と動詞句内の諸範疇の間に見える表徴性(Diagrammatic Iconicity)に関する理論を強く支える現象であると結論することができる。

0.5 本書の構成

本書の内容は 3部に分けられる。第 1部は序章に次いで、第 1章から第 3

章までを含み、本書で追究する問題がどのようなものであるかを示し、それらの問題の解決を可能にする仮説を立てる。第 2部は、このような前提から日本語の敬語の体系を見直す作業を行う本書の核心部になり、第 4章から第6章までを含む。第 3部の第 7章は、われわれの仮説が統語論の域外のものといえる語用論的な諸現象をも体系的に説明できることを示す一種の応用編

28 29序章 新しい視点からの敬語理論の基礎付け

である。章ごとに取り扱われていることをもう少し詳しく見てみよう。第 1章では日本語を母語とする話者が持っている「上位者」という概念がモデルとしての対象であると規定する。第 2章では、このような「上位者」は禁忌の対象(タブー)として、さらに、あたかも「カミサマ」のような対象として捉えられ、日本語の敬語は「上位者即カミサマ」というメタファーを根底として成り立つものであるとする作業仮定を立てるかたわら、メタファーの本性・構造を概説する。第 3章では、このような敬語を司る 5つの原則を導入する。また、第 2部の展開部で取り扱われる敬語の基本的文法様式と規則を一括して提示する。第 2部は第 1部で提案した仮説を第 4章から第 6章にかけて検証する、い

わゆる展開部に当たる。第 4章では、丁寧形を隔離の原則による「陳述の包み」というメタファーとして特徴付け、「お・御」による名詞句や副詞句の包装について論及し、「ます・です」が一種の文の包装様式であることを示す7。特に、このような丁寧形が一つの言語的包装様式であるとする分析は、丁寧の助動詞「です」が「そうろう」、「ます」が「まおす」など元来陳述または告知を示す動詞に由来したことと無関係でないことを示す。第 5章は尊敬形式と謙譲形式が労役の原則の文法化であることを示す。前者は「なる」のような動作主の役割の非焦点化としてのメタファーである自発動詞による表現、後者は逆に話し手の下位者の動作主としての役割を拡大強調する奉仕的な他動詞「する」のメタファーによってなされることを示す。第 6章では「くださる」や「いただく」のような授受に関する敬語を尊敬と謙譲の二形式の上に成立する二次的・副次的な構造として捉え、これが恩恵・利益の移動に関する原則の隠喩的な現れであることを示す。それと深く関連する使役・裁可の原則が上位者に委譲された下位者の利権を「裁可」という形にする偽装的恩恵メタファーであることを示し、従来の事物の「やりとり」交渉の一環として取り扱う分析を批判的に評価する。他の 4つの原則のすべてに関わる位相の原則はこの章で取り扱われる。第 3部は 4つの章からなり、提案された仮説が第 2部で示された事柄のほかに、語用論の領域でどのようなことが予測できるかを示す。第 7章では、特に、日本語における「感謝」と「謝罪」の表現を「上位者即タブー

対象」の仮説によって再検討し、先行研究に見える「思いやり」や「わきまえ」の概念の代わりに話し手の全面的「取り入り」、話し手の権利の委譲による「擬似的恩恵」のような概念を導入することによって日本語におけるポライトネスの本質を解剖する。第 8章では、文法化理論による「です」「ます」「候」などの丁寧形に関する最近の研究の問題点を指摘し、メタファー仮説による代案を提示する。第 9章は本書で観察された事柄を要約する総まとめの章になる。最後の第 10章の結論部では、「上位者即タブー対象」なるメタファーを敬語の本質とする新しい視点から本書で提示する作業仮説が、日本語の文法だけでなく、語用論をも含む幅広い領域にわたって敬語体系にどのように貢献できるかを展望する。

1 Hadara(1976:502)は、命題内部での敬語に対して、命題外部に起こる丁寧語を、

談話遂行的敬語(performative honorifics)と呼んで、前者と区別している。

2 これらの例としてWatanabe(1972)に次のようなものが挙げられている。

   a. なさいませ/まし

   b. いらっしゃいませ/まし

   c. くださいませ/まし

   d. 召しませ

   e. 召し上がりませ

   g. おっしゃいませ/まし

    f . 遊ばしませ

3 「です」の出自については、広辞苑(1969:1526)には、デサウ(で候)の約となっ

ているが、Martin (1975:1032)は、辻村敏樹(1967)から 5つの可能な分析を引用

している。Martinは、そのうち、「です」が「であります」に由来すると見ている

が、これに従えば、「です」は「である」に助動詞「ます」が付いたものより一般的

な「ます」丁寧語法の 1つの現象として処理することもできよう。ちなみに、古形

では、助動詞「候」が繫辞の「なり」にも、動詞の連用形にも、規則的に付く。

4 時枝(1938, 鈴木・林 1984:289に再録)は次のように述べている。「それは宛も品

物にたいして(引用者注――その品物と)それを包む風呂敷の関係である。包まれ

たものと、包むものとの関係は、これをその真実の機構に於いて把握せむとするな

30

らば、これを同一次元のものとして考えることは許されない」。

5 「ください」は第二段の 敬語を含む。

6 時枝のこの表示法では、「見てやる」「見てくださる」「見てあげる」や「見ていた

だく」に見られるように、1つの階層の中に、「やる・くださる・あげる・いただく」

などの授受動詞が本動詞「見る」と混在しているが、本著では、「て」で媒介されて

いる動詞句[V-授受動詞]Ⅰを [[[…V]-te]Ⅰ授受動詞]Ⅱのように複合構造とし

て取り扱う。この分析については、のちに「敬語の相互承接:恩恵授受の複合形式」

を取り扱う第 6章§6.3で詳説する。

7 丁寧文の動詞句成分間の相対的位置に関するわれわれの分析を Bybeeらの動詞句

内の構成成分間の表徴的階層関係の理論と関連付ける本節の論考は柴谷方良教授の

個人な教示に負う。 第1部

敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説

序章で日本語の敬語が 2つの領域で異なる文法規則を持っていること、その 1つは聞き手向けの丁寧、もう 1つは、談話の話題に上る第三者に対する尊敬および謙譲であること、そして、丁寧形は階層的には文構造の表層部、つまり、発話文の辺境部である最右端に起こる一方、尊敬・謙譲の両形式は命題文の中で起こることなどを見た。そのほかにも、基層部と表層部の間に介在する授受関係が副次的な階層をなしていることも述べた。さらに、このような文法規則のあり方を「上位者即タブー対象」というメタファーの仮説に基づいて見直すことが本書の目的であると述べた1。ところで、敬語の文法形式の対象になる「上位者」という概念はどのよう

なものであろうか。日本語の場合、「上位者」の正しい把握は特別な意義を持つ。

1.1 「上位者」概念の基礎付け

敬語の対象になるものは、社会慣習的に話し手より目上の人であるが、このような目上の人について、日本語を母語とする人たちは、特殊な認識を持っているように思われる。そして、このような認識が、実は、日本語の敬語体系の成立に根深く関与しているということをこの章で究明したい。まず、本論に入る前に、次のような状況を考えてみよう。

第1章

上位者概念のメタファー

34 35第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第1章 上位者概念のメタファー

(1)下位者の Sが自宅に日ごろ敬愛してやまない書道の師匠である H氏の来訪を受ける。「これは、これは、私どもがお宅をお訪ねすべきところを、わざわざ先生にこんなむさ苦しいところまでお越しになっていただいて、まことに申し訳ございません」などといいながら、Sは来客を応接間の床の間を背にする上座に着かせる。そして、夫婦はなにやら接待で忙しく立ち回る。それを見かねて、来客が「何かお手伝いいたしましょうか」というと、「いや、いや、とんでもない、そんな……お客様ですから……先生はどうぞそのままでいらしてください」と来客の申し出を慇懃に断る。ようやく、食事の用意ができると、「まことに粗末なもので、とても先生のお口には合わないでしょうが、心を込めて作りましたから、どうぞお召し上がりになってくださいませ」といって晩餐を出す。食後、お茶を出すときに、「先生、まことに恐縮でございますが、私たちのために御一筆お揮いになっていただけないでしょうか」と書を願い出る。また、S自身の最近の作を持ち出し、「先生にご覧になっていただきたいのですが」などといって、来客の批評を求める。来客が辞するとき、「お帰りになる前に、せっかくこちらまでお越しになったのでございますので、よろしければ、この辺をご案内させていただきたいのですが……」などと町の案内を申し出る。

上のエピソードから下位者 Sが上位者 Hをどのように認識しているかをうかがうことができるが、その中で含意されていると思われる事柄を下にまとめてみる。

(2) a. Sたちが来客のお宅を先に訪ねるべきであるということ。b. 「先生がお越しになる」という表現が使われていること。c. 来客を上座に着かすこと。d.来客に何もさせないでそのままいてくれることを望むこと。e.来客はむさ苦しいあばら家には立ち入らないということ。 f. 来客の口に合わない粗末な膳ということ。

g. 「いただく」によって来客の行いを先生からの恩のように言い換えていること。

h.来客が書を書くのを「お揮いになる」と表現すること。 i. Sが進んで申し出した案内役を逆に来客から裁可を得て行うという言い方に改めていること。

まず、(2a)の場合、Sが Hのところに行くべきであるということは、H

が Sのところに赴くべきでないこと、つまり、Hは常に中枢軸に位置して軽々と動くべきでないということの隠喩的な表現と見られる。(2b)と(2g)では、来客の行為(来る、書く)があたかも自然に起こったように、つまり、先生の行為が先生の意思的動作によるものでなくて、おのずからそう「なった」のように言い表されていて、これも 1つの比喩になっている。さらに、(2c)の場合は、Hの元の位置が高所であるという位相的特性が暗示されている。高貴なものは上方に卑賤なものは下方にという席次の映像的図式が考えられる。来客の師匠を応接間の上座に座らせるということは、その人物が上位者であるということの隠喩的表現であるわけである。(2e)や(2f)は、上位者は不潔なところに行かない、不潔なものに手をつけたり、不潔なものを口にしたりしない「不浄にさらされることのない存在」であるということの比喩と見られよう。(2f)(2g)(2h)ではみな、「いただく」の受理動詞によって受け手である下位者が上位者から裨益されるというような表現になっている。逆に、上位者は、たとえ他のものから裨益される立場にあっても、常に下位者に恩を施す立場に立つと見られるように、つまり、上位者本位に権利の転移が行われている。特に、(2h)では、下位者が来客に町の案内をサービスしてあげる立場にありながら、逆に来客から案内のサービスをさせてもらうという懇願形式に言い換えられている。これも来客である上位者に決裁権を持たせることによって上位者の尊厳性を傷つけないように仕立てる比喩にほかならない。このように、Sが相手に敬意を示すさまざまな表現が本質的に隠喩によって成り立っていることがわかる。このような表現法に反映されている「上位者」という概念をまとめてみよう。

36 37第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第1章 上位者概念のメタファー

(3) a. 上位者は常に中心であり上座を占め、簡単に動かない。b.上位者は清く尊いもの、汚されてはならないものである。c. 上位者は働かず、下位者の奉仕を受けるだけである。d.上位者は権力者である。e.上位者は常に恩を施すものである。

先の来客のエピソードに反映されている上位者像はなにか神様のような絶対者のように見える。これはいうまでもなく、もてなすほうの主人が客を神様だと信じているということでなく、客のもてなし方にそれに近いメンタリティが働いているように見られるということである。日本人が上位者を絶対的な存在または強力な支配者のように見なす意識は歴史的に形作られたもののようであるという考えは、次の大野(1966:64)の指摘にも見える。

(4)だいたい、日本人の尊敬の意識は、自然に対する恐怖、畏怖に始まり、神や天皇に対する畏敬に移り、人間に対する尊敬の念に発展したのであり、さらに進めば、尊敬から親愛へ、そして軽侮へと進むのが基本的な道筋である。

このような見方をもう少し敷衍すれば、日本の古代人が絶対的な強者的存在または支配者を神聖なるタブーとして捉え、このような支配者としての上位者は、しかし、単なる畏敬の対象としてだけでなく、その支配下にある共同体の成員の日々の営みを保障する、守護神のようにも考えられていたものと見られる。歴史的には、日本の比較的まとまった統治体制は、紀元前 1世紀から紀元後 1世紀までのいわゆる弥生中期に現れる有力な首長たちとその部族社会にその萌芽を見ることができる。首長たちは「魏志」の東夷伝倭人条が伝える卑弥呼に代表されるようなシャーマンの性格を持っていたと推察されている。ここでいうシャーマンはまた巫女・巫覡ともいわれ、「神と人との感応を媒介する者、神に仕えて人の吉凶を予言する者(広辞苑

1998:2323)」で、交感(トランス状態)になって神霊と通ずる奇跡を行うものと信じられている。このような人物はその呪術的な能力によって絶大な権威

を持つようになる。神霊を代弁するシャーマン自身がやがて神座の位置を占めるようになり、特に、死後、神として祭られ共同体の守護神になるのはごく自然な成り行きと考えられる。古代の巫俗が共同体の宗教になり、女性の司祭者がヤマトの支配者になったといわれていることも容易に理解される。共同体の成員が祭政を司るこのような首長たちを遇するパターンに見られる特徴の 1つはそれらをタブー視することである。事実、祭司的支配者を直視すること、接触すること、果ては言及することなどが禁じられるようになる。つまり、これらの首長たち、さらに、それらを支配するより強大な大首長または大王は、タブーの対象として扱われるようになる。今、タブーという表現を使ったが、日本語の敬語の対象人物を 1つのタブー的なものと仮定してみると、敬語に使われているさまざまな特異な表現がなぜそのような形のものになったかという理由に対する合理的な説明を可能にする。この論考では、「上位者」という概念をこのような「カミサマ」的な存在に擬

なずら

えられたものであると暫定的に仮定し、この一見無謀に思われる作業仮定から日本語の敬語体系の構造に遍在する特異な隠喩的表現に対する合理的な説明を企てる。ところが、このような企図はなにも本書がはじめてのものではなく、「タブー」という概念を使って日本語の敬語を理解しようとした重要な先行研究があるのである。次の節では本書の基礎概念の 1つである「タブー」という語を調べ、これらの先行研究を追うことにする。そして、それらの先駆的な研究が決定的な端緒を開きはしているものの部分的な説明に終わっていて、本書の企図するところと大きく異なる点も明らかにする。

1.2 タブーの本性

前節で、日本語の敬語においては、話者が知らず知らずのうちに上位者を封建制の殿様のような存在に見立てているようなふしがあり、このような上位者はおそらくタブー的な対象に近いものであろうと論じた。この節では、上位者概念にまつわるタブーという概念をもう少し掘り下げて考えてみた後、このようなタブー概念を使って敬語を理解しようとした先行研究につい

38 39第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第1章 上位者概念のメタファー

て述べる。では、本書の根本的な基礎概念になっている「タブー」と「メタファー」はどのようなものであろうか。これらを 2つの章に分けて、「タブー」概念を本章で論じ、その後、第 2章で「メタファー」概念を取り扱う。まず、Frazer(1890)が展開するタブーの本性について見てみよう。その『金枝篇』の中で Frazer は、人類の初期の政治段階での支配者はまつりごとの祭主という性格を持つもので、本質的には、これらの祭主は魔術師だとしている。そして、祭主が行使する魔術を交感的魔術と呼び、それには2種類あるといっている。xをある種の行為、yをそれによる結果と呼ぼう。そうすると、次のようなことがいえる。その 1つ(i)は、「xをせよ、そうすると、yが起こる」というような魔術のことである。このときの yはその集団が望んでいるものを表す。インドネシアのババール群島では、懐妊を望む不妊の女性が赤い布で作った人形を胸に抱きしめて乳を飲ませるようなしぐさをする間、多産の家族の男性が太陽の神ウプレロに祈禱をする風習があるという。Frazerは、このような魔術を積極的魔術または呪術(まじない)と呼んでいるが、要するに、人形を抱きしめる行為が懐妊という望ましい結果をもたらすと信じさせるのである。もう 1つ(ii)は、「xをしてはならない。xをするとyが起こる」という場合で、xという行為をしないことによって、y、すなわち、危険な出来事や災いを未然に防ぐことができるというのである。このような場合の魔術を消極的魔術と呼び、これがいわゆるタブーであるとする。Frazerは、すべての魔術は同類対応(たぐい)と感染(うつり)という 2つの法則に支配されているという。なるほど、(i)の場合では赤い布の人形と赤子との間の類似的対応は明らかであり、そして、期待される妊娠という現象がまじないの対象者に「うつる」という効果をもたらす。後者、すなわち、タブーの概念について特に注意すべきは、タブーにおける行為と結果はあくまでも類推に基づく象徴的なものに過ぎず、タブーを犯す行為を行ったとしても、必ずしも実際にその祟りが起こるとは限らない。たとえば、「火に手をじかに焙ってはいけない。そうすると、やけどする」というような戒めは一見(ii)のような定式に適うようであるが、これをタブーとはいわない。なぜなら、それにそむく行為が確実にやけどをするという結果になるか

らであって、もはや象徴的なうつりでなく、それは常識に基づいた 1つの教訓的警告になるからである。Frazerはタブーを偽りの信念、すなわち、こうこうすれば、必ずこうこうの結果になるものだというような誤った信念に基づくものであると特徴付けている。タブーが持つこのような比喩的特性は実は敬語の本性を明らかにする重要な手がかりになる。次の節では、特に、タブーが言語と結びついた名指しのタブーについて述べる。

1.3 名指しのタブー

Freud (1938)もいっているように、言語とタブーがもっとも典型的に関わっている現象といえばやはり名指しのタブーであろう。そして、それも、死者の名前に関するタブー、すなわち、忌み名である。この風習はオーストラリアやポリネシアのほかにも人種や文化が判然と異なる地域においても観察される。シベリアのサモイェデ、インドのトダス、タタール地方の蒙古族、サハラのツアレグス、フィリピンのチングアネス、ニコバル諸島、マダガスカル、ボルネオなどの地域で広く行われている。

Freud(1938:849)は名指しのタブーについて Frazerの『金枝篇』からの次のような例を挙げている。(i)南アメリカでは、遺族の面前で死者の名前を口にすることは彼らにとって死に値する最大の侮辱になる。(ii)アフリカのマサイ族は死者が出ると速やかに死者に新しい名前をつけるとともに旧名の使用を禁じる。(iii)オーストラリアのアデライデ湾とエンカウンター湾に棲む部族の間では死人が出ると同じ名前を持つすべての人がその名を捨てて別の名をとることになる。(iv)忌み名の風習が極端なのは、北米カナダのビクトリアの先住族に見えるように、死者の親族のもの全員が、その名が死者のそれと似ているか否かにかかわらず、一斉に別の名を名乗る。(v)パラグアイのグアイチュル族の間では、死者を弔うために首長が部族全員に新しい名を与え、部族員もその新しい名前があたかも長らく使われてきたもののように装って使うという。さらに、この種の忌み名が動物名にまで及ぶ風習も前述した多くの部族の間に見られるという。パラグアイのある司祭は 7年

40 41第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第1章 上位者概念のメタファー

間の奉職の間、豹、鰐、棘、畜殺者などの名前が 3度も衣替えしたといっている。そればかりでなく、極端なものになると、死者の名はもちろんのこと、死者のすべての所持品のそれにまで及ぶ例もあって、このような忌み名の差し押さえが伝統や部族の歴史的な記憶を跡形もないものにすることになり、のちの研究者たちの大きな障害にまでなっているほどであるという。またその反面、多数の先住民がこのような度を過ぎる煩わしい忌み名の習俗を償う方策の 1つとして、長期にわたる喪の期間を終えた後、新しく生まれてくる子供に死者の復活のしるし(徴)としてその名前をつける風習もあるという。このような忌み名の風習は中国も例外ではない。藤堂(1974:145-146)によると、中国では、古くから、名前は「生」の実体そのものと見られ、名前を犯すと、その人の気迫、すなわち、生きている証、そのものを犯すものと考えられ、実名のほかにあざな(字)を定めて、間接的な呼び方をする。また、人の死後にも、忌み名をつけて本名を呼ばない。皇帝の本名を文字で記すときは、畏敬の念から漢字の一画または二画を抜いて書いたり、同音の別字に代えて書いたりする風習はごく近年まで行われていたという。日本でも、明治初年までは、天皇の名前と一致する漢字は、版本でも一画を欠いた「闕画」にするように定められていたという。

1.4 日本語の敬語研究に見えるタブー概念

日本語における忌み名の現象についても重要な研究がなされており、すでに、穂積(1926)、金田一京助(1942)、辻村裕(1981:27)などに日本語の敬語の起こりをタブーに求める論議が見られる。

1.4.1 穂積(1926)『実名敬避俗研究』

日本におけるこの分野の先駆的研究は穂積(1926)に見える。穂積は、日本には昔から、人の本名は呼ばない習わしがあって、本名の代わりに場所、方角、官位などで呼称するのが礼儀であるとし、このような実名忌避は普遍

的なタブー現象であり、日本語の「忌み」がまさにタブーに当たるものと見ている。さらに、これは、神聖、忌避、禁戒の 3つの意義を兼ねているものと見る。そして、特に、君主に対するタブーを接触のタブー、観視のタブー、呼称のタブーの 3種に分けている。このようなタブーは、原始社会に見られるように、支配者である首長を部族の成員から隔離することによって、その権威を強化し、尊厳化・神格化を図ることだとする。はじめは、被支配者を近寄せない、次は、その姿を見せない、そして、最後には被支配者がその名を口にすることさえも禁じるようになる。実名敬避の風習はここから来たものだとしている。さらに、穂積はこの実名敬避の習俗が秘名俗、避唱俗、避書俗の 3つの形で現れるとする。秘名俗はこの中でももっとも極端なもので、君主の本名を公にすると、それが不平分子や逆賊に冒瀆される可能性があるため、名前代わりの尊号をつける習わしのことをいう。避唱俗は、君主や他の貴人の名をみだりに唱えることを禁止するもので、ここから忌み名の礼制が起こったとしている。避書俗は、先に見た、中国における「闕画」をはじめ、「欠字」「平出」「台頭」などのような敬避書式を用いる慣習をいう2。 事実、穂積がいうように、記紀に現れる神名や人名はみな実名でなく、これを敬避した美称や貴号であり、「みなしろべ」「みこしろべ」なども宮殿や地名を指すものであって、現代にいたっては、すべて実名は滅んで伝わらないことを見ても明らかだという。いずれにしろ、穂積の日本古代における実名敬避に関する研究はわれわれの敬語の語法への接近の先駆けになる貴重な研究であることを特記しておかなければならない。

1.4.2  金田一京助(1942)の段階発展説におけるタブー概念

敬語をタブーと関連付けているもう 1つの研究に金田一京助(1942)がある。金田一は、日本語における敬意語を発展段階的に捉える試みをしている。日本語の敬語は、第一期タブー時代、第二期絶対敬語の時代、第三期相対敬語の時代の 3期の段階を経て発展してきたと説いている。第一期は父権時代で、女性のいわゆる「性の禁忌」によって、妻が夫の名を呼称すること

42 43第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第1章 上位者概念のメタファー

を避け迂回的表現にして使うことから女性語が発生し、それが次の世代に獲得伝承される。つまり、タブーが敬語の起源と見なされているわけである。第二期は絶対敬語発生の段階で、たとえば、アイヌ語を話す女性が聞き手に関係なく夫のことを敬語で話すような場合である。この段階は 13世紀の鎌倉時代まで続く。そして、その後、中世後期から近世になると、第三期の相対敬語に移るとしている。金田一は相対敬語が絶対敬語よりも進んだ段階と見て、アイヌ語や欧米の敬語も第二期の段階を超えていないとする。それはともかく、敬語が発生する第一期をタブーの時代と見ているのだが、前に触れた積穂と同じく、金田一においても、タブー概念を敬語における近親間の呼称というごく限られた分野の説明に適用するにとどまっていることがわかる。しかし、古代の社会に先祖神や氏神と呪術的・宗教的な禁忌が現れる前にまず性の禁忌があったとするのはどうであろうか。

1.4.3 神々の忌み名からの敬語の起こり(辻村裕 1981)

積穂と金田一とは違って、前述した大野(1966)と同様に、辻村裕(1981)

の見解がわれわれの上のような疑問に答えてくれる。辻村によれば、敬語は起源的に神や天皇への畏敬の気持ちを表すのに用いられたと見ており、そこから次第に人間関係における上下尊卑の認識の表現へと一般化の過程を経て発展してきたものだとしている。われわれがとる上位者がタブー的存在であるという考えは辻村の見方に近く、敬語は神や天皇への恐れや忌みの意識に起源を持ち、これから典型的な「上位者」の概念が形作られたと見る。しかし、この「上位者即タブー的存在」の概念が敬語の起源であったとするだけでなく、本書の考察では、このような概念が敬語の現象全般を規制する原理になくてはならない根本的な前提になるということが、辻村をはじめその他の先学と筆者の仮説との鋭く異なる点である。

1.4.4 「言い換え」と「言い控え」のタブー(南不二男 1981)

南不二男(1981)では、タブーと敬語との関わりを違った面――すなわち、

言葉のタブーを「言い換えること」と「いうことを差し控える」という 2つの面――から考察している。言語表現上の禁忌、つまり、「いってはならぬこと」に対していうことをまったく差し控えるか、そうでなかったら、それを「ほかの言葉で言い換えて」表現する。タブーが起こる理由を南は、(i)宗教的・超自然的理由、(ii)社会慣習的理由、(iii)心理的理由の 3つの要因に求めている。(i)の例としては、東北のマタギが山に入って猟をするとき特に熊のことを「イタチ」と言い換える現象、「四」が「死」に通じるから避ける風習など、(ii)は、身体障害者の前で関連身体部位の発言に気を配ることなどに見えるもの、(iii)の心理的理由としては、恥ずかしさ、汚さ、むごいことを口にしないことなどを挙げている。このような見解はまた小松(1981:131)にも見える。敬避表現が直ちに敬語表現ではないとして、死者に忌み名をつけるのは「その人の本名を尊敬してのことでなく、魔にとりつかれぬようにと言霊信仰から本名を神聖なものとしたのである。それで〈言い換え〉をする必要があったのである。この〈言い換え〉は敬語意識とは関係のない事柄に属することである」(下線は筆者)としている。しかし、本名の忌避は本名自体を上位者の一部と見ることから、本名で名指すことが直ちに上位者本人に対する接触禁忌を破ることになると信じられているからであって、小松が解釈しているように「本名を尊敬」してのことでないことはいうまでもない。南不二男(1981)や小松(1981)が取り上げているタブーは、言語生活に

おける語用論的な禁忌制約であって、言語の中でも特に敬語体系の諸原則の基底になる本書でのタブー概念とは根本的に違うジャンルのものであることに注意されたい。

1.5 モデルとしての「上位者」

ここで、本書で使われる「上位者」の概念規定と関連して、もう 1つ、付言しておきたいことは、「上位者」を 1つのモデルとして考えることである。ちなみに「上位者」の意味として三省堂の大辞林(1988:2403)には、

44 45第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第1章 上位者概念のメタファー

(i)「(意)実験的に少数作られるモデル、原型、基本型」であるとし、また(ii)「一つのカテゴリーにまとめられる成員のうち、グループの中心をなすと見られる典型、英語の鳥(bird)のプロトタイプの一例はコマドリ(robin)

といわれる」と見えるが、この論考でもすべての目上の人、つまり、敬語の対象になれる人物の典型を「上位者」と呼ぶ。つまり、日本語の話者が「上位者」または「目上の人」といっているもの

は、たとえば、1年上の先輩から、学校の先生、家族の年長者、職場の上司、貴族や政界の指導者にいたるまで千差万別で、幅広い階層の人物でありうるのであって、話し手はその場に応じたさまざまな尺度で話者自身に対する聞き手の社会的位相を適宜に判別し、それによって示すべき尊敬の度合い、つまり、敬度を決定し、実際の表現を選択しなければならない。したがって、敬意表現も相手によって無限といっていいほど違った色合いのものになり、それにつれて、敬語の文法も無限に近い複雑性を持つであろうと予想される。しかし、実際は、序章§0.2で見たように、日本語の話者は極めて簡単な 1組の敬語規則しか持ち合わせてないのである。それでは、どのようにして、このごく限られた文法的材料で、それぞれの目上に対して、それぞれに相応しい敬意表現を作り出すことができるのであろうか。

1つの方策としては、敬語の文法規則が対象にする「上位者」なるものを、上で見たような 1つの典型に限ってしまうこと、つまり、「上位者」を 1つのモデルに想定することである。そうすると、話し手が聞き手をいったん目上の人と判断したとき、その人物の社会的な地位に関係なく、1年上の先輩も、学長も、総理大臣も、みな、1つのモデルとしての「上位者」として取り扱えばよい。そして敬語の文法もそのような単一のモデルに適用できる 1

組の規則だけを用意しておけばよいということになる。相手をどのように低めて話すか高めて話すかは、いったん適用されたルールにいろいろな加減の水増しをすることで調整する。この水割りをする方法は敬語の文法規則の枠外の装置で行うようにする。このような調整には省略法、疑問文、否定文、推量や可能の様相の助動詞の活用など、さまざまな修辞的方法が援用される。

(5)お昼前までにお知らせいただけないでしょうか。[お知らせしていただく]

(6)これちょっと使わせていただいてもよろしいでしょうか。[使わせていただく]

(7)そんなことしなさんな。[なさる]

(8)ちょっと待ってて頂戴。[待っていて頂戴する]

(9)健ちゃん、窓開けておくれ。[あけておくれなさる]

上の例で括弧内の動詞句が示しているように、話しかける対象や話題になっている対象が、話し手にとってそれぞれ大きく異なる位相の人たちであっても、使われている敬語の規則はみな前章の表 1のものになっている。(5)の文に使われている基本形は謙譲の基本形に授受動詞を組み合わせた複合構造である。(6)は恩寵の使役または裁可の使役に謙譲形が複合されている。(7)は C型尊敬形、(8)は受け取りの動詞「もらう」の謙譲語でやはり授受の複合構造を作っている。(9)は「くれる」の C型尊敬形「おくれなさる」になっている。「おくれなさる」の形については第 5章§5.1.3を参照。ここでいう水割り調整の見事な実証例がごく最近の Dunn(2005)に見える。Dunnは日本の結婚式で新郎に対する先輩の祝辞で謙譲形が儀礼的な表現と砕けた言い方の間をどのようなコンテクストで浮動するかを綿密に分析していて大いに参考になる。上の(5)~(8)の文形に共通している点は、疑問化、否定化、思い切っ

た省略法などを通じて、話し相手の位階に相応しい談話遂行論的な「調整」が施されているということである。これは、わかりきったことで再論するまでもないようであるが、考えてみれば、実に驚くべき文法のメカニズムといえる。そうでなかったら、無限に近い「上位者」の位階の違いに従って、これまた無限に近い敬意表現のための文法規則が用意されていなければならな

46 47第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第1章 上位者概念のメタファー

いことになろう。学習者もこれらをあたかも単語を覚えるように一つ一つマスターしていくしかなくなるであろう。ところが、実はそうでなく、1つに代表される理念的な「上位者」が文法に想定されていることによって、敬語の学習者は実際の目上の人の位階の等級に煩わされることなく、このような「理想像」の上位者用の 1組の簡単な規則だけを習得しておきさえすればよいということになる。

1.6 まとめ

この章では、日本語の敬語における上位者を 1つのモデルとして規定し、このようなモデルとしての上位者が「王様」のような、「神様」のような隠喩的存在であると見なし、上位者はタブー視されると仮定した。つまり、商業広告で企業家たちが「消費者は王様」という隠喩的な表現で消費者たちに呼びかけるのが見受けられるが、日本語の敬語においても、ちょうどこれと同じく「上位者はカミサマである」というメタファーがその根底にあると仮定するわけである。ここで特に強調されることは、このような「上位者即カミサマ」というときの「カミサマ」は、それが支配するものから隔離されることによってその尊厳性が守られるような存在を意味するということである。このような隔離によって、「カミサマ」は神聖かつ不可侵な存在に擬せられるようになる。「カミサマ」は接触・直視・名指しが禁じられる対象、つまり、「タブー」視される存在になる。このような禁忌の概念で敬語の本質を捉えようとした 5つの先行理論を概観した。メタファー概念は文学の世界だけでなく、最近、言語学の分野、特に、認

知言語学のような新しい言語学の分野で重要な概念の 1つに浮上している。次章では本書の基礎になっている「上位者はカミサマ」をメタファーという観点からもう少し詳しく考察する。

1 ここでいうメタファーは第 2章§2.2.1で規定するような意味で使う。

2 広辞苑(1998)によると、文章中に天皇・貴人の名などを書くとき、敬意を表す

ため、欠字は、「そのすぐ上を一字か二字分あけて書くこと」(同書 :840)、平出は、

「行を改めて前の行と同じ高さにその文字を書くこと」(同書 :2393)、台頭は、「普通

の行よりも高く上に出して書くこと」(同書 :1610)とされている。闕画は漢字の画

を省くこと。たとえば 5画の「玄」の最後の画を略した字(同書 :838)。

49第2章 メタファーの体系としての日本語の敬語

2.1 メタファーによる敬語の見直し

これまでの日本語の敬語の研究は、大きく見れば、多彩極まりなく錯綜する敬語の諸現象をどのように分類して組織化するかというプロジェクトに取り組んできたということができる。そのような努力の成果として敬語体系の大綱は一応完成の域に達したものと見ることができよう。まず、敬語の文は 2つの要素――文法が規定する敬語の表現形式とそのよ

うな形式が適用される文自体、つまり、素材の文――に分解される。敬語の表現形式、つまり、敬語の規則には 2種類あって、その 1つは素材文の中に適用される規則と、もう 1つは素材文の外部に適用される規則である。通常、前者は尊敬・謙譲表現、後者は丁寧表現、というふうに呼ばれているが、このような体系的な整理が、日本語の敬語をより組織的に研究できる跳躍台を築いたということができよう。本書が目的とするところは、このように先行研究によって整理された日本

語の敬語の体系を土台にして、それに使われている特異な表現様式を根本的に分解することによって日本語の敬語の体系を新しい視点から見直し、それに対するより原理的な説明を試みようとするものである。結論からいえば、日本語の敬語はその全体系が 1つの完結した隠喩・メタファーで表される体系であると特徴付けられる。このような企ては、少しく過激に聞こえ、伝統的な学風から離脱すると見なされるおそれあって、特に、慎重に慎重を期して論を進めようとするものであるが、まず、以下のような具体的な例で本書

第2章

メタファーの体系としての日本語の敬語

の意図するところを披瀝する。

(1)Professor Yamada came to the party.

上の英文で、Professor Yamadaを話し手の先生だとすると、日本語なら、山田先生に[+尊敬]という意味素性が与えられると考えられ、それによって、用言の cameも同じように[+尊敬]の意味素性がかかって尊敬形に言い直される。たとえば、上の例文を日本語にしてみると、(2)のようにいろいろな形の尊敬形になる。

(2) a. 山田先生がパーティに来られた。b.山田先生がパーティにお出でになった/お出でになられた。c. 山田先生がパーティにお越しになった/お越しになられた。d.山田先生がパーティにお見えになった/お見えになられた。e.山田先生がパーティにいらっしゃった。

(2a)では、カ行変格動詞「来る」の未然形に受身の形態素「られ」が付いている。そのほかにも、表現法にかなり特異な表現が使われている。 (2b)は、形からすると、「出る」の動詞を基に、その連用形に敬語の接頭辞「お・御」を冠して動名詞が作られており、それに方向格の「に」が付いたものが自動詞「なる」と組み合わされている。文字どおりに訳すと、「山田先生が『お出で』という状態になった」というような意味にとれる。これは、上位者が会場に「現れた」ことに重点を置いた言い方で、「来る」という行為自体――会場に現れるまでの上位者の動作・行為自体は文面に現れていない。「上位者のお出で」になったという表現には、上位者が自身の労力を費やして会場までやってきた経緯を背景化する効果が見られる。つまり、「来る」という意図的な動作をする主体を、労力なしでも現れることができる何か特別な存在のように隠喩化しているように見える。また、「お出でになられた」の「なられた」も自動詞「なる」に自発の areが付いていて、いやが上にも過剰な自発表現にしている。(2c)の「お越しになる」も(2b)と同

50 51第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第2章 メタファーの体系としての日本語の敬語

じような隠喩的表現と考えられる。(2d)はどうだろうか。この場合は、もうすでに宴会場にやってきている先生を下位者が「見る」という格好になっている。ここでも先生が来ている情景、または、シーンそのものが言及されている一方、先生がたとえば電車の人ごみに揉まれながらもこうしてやってきたというようないかにも人間臭い行動の部分は度外視されている表現といえよう。(2e)においては、先生の行動の連鎖(お宅からの出発、乗り換え、5分ほどの数丁の歩行、そして、最終的に会場への到着という一連の行動の連

鎖)の最終部、つまり、行動が完結した結果としての状態そのもの――会場に「いる」ことに焦点が当てられているように見える。もし尊敬形が上位者の行動性を背景化することが目的だとすると、(3e)のような表現はもっとも効果的であるともいえよう。(2a)の場合、機能の面から見れば、本質的には、受身がそうであるように、上位者の動作主性を避ける言い方の 1つと見ることができ、他の(2b)~(2e)の場合と変わらない。上で行った観察から、日本語の尊敬形の様式[お・御 Vになる]という規則は上位者の動作主性を避ける文法的仕掛けと見ることができる。要するに、(3)に見られる尊敬形はみな、下の(4)に示されているように、上位者の動作主性を抜き去る 1つの隠喩的装置であることを示唆している。

(3)尊敬表現:[+動作主性]→[-動作主性](隠喩的言い換え)

それにしても、なぜ日本語では尊敬形にこのような隠喩的な言い換えが行われるのであろうか。これは、日本語を母語とする話者が、知らず知らずの間に使っている敬語の表現法の中には、その対象になる「目上の人」を特別な存在と仕立てているものがあるからであると考えられる。この特別な存在を次のようなものと仮定してみよう。

(4)上位者は尊い存在であり、鎮座している存在で、自ら手を下すことがない。

上位者はたとえ動いたとしても、それは動いたのではなく、そのような状

態にひとりでに「なった」ものである。努力をし、あれこれと動作をするのは常人のなすことで、高貴なもののなすことではないという考えである。そうすると、先生が会場までやってきた労苦は実際の労苦であって、これが(4)と相容れないのは当然である。したがって、(4)のような上位者を可能にするためには、先生の運動を運動でないもののようにするために、何らかの喩え、つまり、メタファーを使わざるをえなくなるであろう。その 1つの方法として考えられるのが動作を「隠喩的に状態化」することである。ここに、動作>状態のメタファーが成り立つ。

(5)自発メタファー:上位者の動きは「おのずから顕れること」である。

尊敬形が「お Vになる」という形になっているのは、このためだと思われる。今度は、謙譲形の文法規則を調べてみよう。謙譲形は接頭辞「お」を付け

た動詞の連用形(すなわち、動名詞句)に「する」が接続して、「お Vする」の形になっている。この場合、他の組み合わせも可能であるはずなのに、特に[お+連用形+する]という特殊な形を謙譲表現にあてがっているのはどうしてであろうか。これは次のような理由からであると考えられる。まず便宜上、句の形態論的な内部構造が比較的透明に見えるようにローマ字を使って、謙譲形「お Vする」を下の(6)のように分解する。

(6)[o - V-i - (ACC)]+ suru

   動名詞  を   する

いうまでもなく、「お V する」はそれ全体が 1つの固定した様式になっていて、分析の対象にすべきでないとする見方もあろうが、語源学者がすでに膠着した単語からその構成要素を析出する作業と同じく、ここでも分析を差し控えることはないと思う(これからは〈o-Vi〉を便宜上「お V」と略して表記

する)。まず、(6)で示してあるように、動詞の連用形を動名詞として取り扱う。接頭辞の付加は隔離の原則によるものと考えられる。「する」は他動

52 53第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第2章 メタファーの体系としての日本語の敬語

詞で、動作の対象になる目的語が伴うものであるから、「お Vする」の「おV」は連用形であって、この場合は動名詞句と見なされ、「お Vする」は「おVをする」の形から目的格「を」が脱落したものと解釈でき、この「お V」を下位者の行うサービスの内容として捉えることができる。つまり、下の(7a)のような謙譲文は(7b)のように解釈される。

(7) a. 木村がタクシーをお呼びした。b. 木村が[先生に][タクシーを呼ぶという[サービスを]]した。

要するに、謙譲形が特に「お Vする」の形をとっているのは偶然ではなく、話し手が上位者を何かのタブーの対象のようなものとするメンタリテイを表しているものと解する。上位者を自ら手を下さない尊い存在だとすれば、下位者である話し手が万全を尽くしてそれをもてなすのは当然であろう。下位者の上位者に対する行為は常に「~して差し上げる」というようにこちらのサービスを謹んで供え、贈呈するというような形式がとられる。これを(8)のように表す。

(8)奉仕メタファー:下位者の上位者に対する行動はすべて上位者への奉仕、上位者のための奉仕である。

具体的にこのような奉仕的表現は「下位者が上位者に対して上位者のためになる行為をする」、あるいは、上位者に対して「慎み深い行い」を「する」ということでもあるが、それと同時に、上位者に何もさせない、上位者が何もしなくてよいように万事を取り計らうという意味での奉仕も意味する。ここで、特に強調しておきたいことは、「上位者」という概念を「敬って奉る尊厳のある神聖なる存在」として規定しているのはあくまでも日本語の敬語現象に偏在する特異な表現を体系的に説明するための 1つの仮説的な方便であるということである。これはけっして今日の日本語話者が上位者を言葉どおりに神様として、そして自身を奴婢として信じているというのでないことはいうまでもない。しかし、幾千年もの過去における支配者と被支配者

との間における絶対的な主従関係から芽生えたと推察される誇大化された尊卑表現がその歴史的過程で、特に平安期以後一つのまとまった敬語意識の表現様式として日本語の文法体系の中に定着することになったであろうことから、先代における主従意識などとはまったく関わることのない、純然たる文法的な規則になりおおせたものと見ようとするのである。21世紀の若者たちが上記のような隠喩化した敬語表現をまともに被支配者意識を持って使っているものでないことは贅言を要しない。これまで従来問題視されることがなかった敬語表現の特異な仕組みを、メ

タファーという概念で合理的に説明できることをいくつかの例で示した。しかし、このメタファー概念による説明はこれらの個別的な現象だけにとどまるものでなく、この説明によって日本語の敬語の全体系が実は 1つのメタファー系であることが示されなくてはならない。その前に本書でいうメタファーとはどのようなものであるかを述べておこう。

2.2 メタファーの構造と機能

本書で提示する仮説の根底になるメタファーは、われわれの生活のすみずみにまで浸透しているもっとも重要な人間の思考様相の 1つである。中学生たちが自分の友達を「おでこちゃん」とか「やぎ」と呼んだり、料理店の接客係がお得意を「蒲焼さんいらっしゃったよ」と板場の料理人に告げるとか、「背広姿の叔父」や「ちょっとホッチキス貸して」の背広(ロンドンのセビロ)やホッチキスなどの商品名もその類である(もっともこれらは換喩あるいはメトニミーとも呼ばれる隠喩の一種である)。もちろん、「神武景気」「出帆の際は」「人生航路」「花の都」「霞ヶ関消息」などはいうまでもなく、「堪忍袋の緒が切れる」「そんなに有頂天の彼だったが、今は失望のどん底」「そのとき、妙な考えが浮かんできた」などの感情・思考・概念などはみな物理的なメタファーであり、「2時過ぎ」は「長野駅を過ぎて」、「卒業前に」は「仁王門の前で」のように、時間的な出来事は、私に向かって近づいてくるもの、永遠に去り行くもの、一瞬立ち止まったかのようなもののように、空

54 55第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第2章 メタファーの体系としての日本語の敬語

間的メタファーによってしか表現できない1。Talmy(1985)の言語と思惟におけるダイナミックスの理論に沿って Sweetser(1990)は用言の「法範疇」の mustや mayまでもメタファー現象であるとし、前者は何かの行動が抽象的な障害物で堰き止められている状況、すなわち、何かをすることが禁じられていることを表すメタファー(「Xをしてはならない」)であり、後者の場合は、そのような堰が除かれた状況――何かをしてもかまわないこと――のメタファーと解釈する。このように見ると、人間は考える葦、理性を持った社会的動物、道具を使い、象徴を創る存在であるに違いないが、またメタファーを創る存在でもあると規定できそうである。メタファーのない世界とはどのようなものであろうか。それは窮屈な世界というよりも本質的に不可能な世界であるかもしれない。では、このメタファーそのものの本性とはどのようなものであろうか。メタファーのどのような性質がこのようにわれわれの言語活動の中枢的な部分でなくてはならない働きをするのだろうか。これはアリストテレスから始まって 20数世紀もの間たゆみなく模索が続けられてきている問いであるが、混迷に混迷を重ねているとでもいえる現状でアテネの哲人たちを満足させるにはまだほど遠いように見える。しかし、幸い、ごく最近、認知言語学の台頭とあいまって、Lakoff(1987,

1993等)、Lakoff & Johnson(1980)などに見える研究から、この分野がにわかに活気づき、Turner(1996)、Fauconnier(1997)、Grady(1997)などの研究者たちによって画期的な進展を見せている。日本においても佐藤信夫(1993)、Taniguchi(1996)、鈴木睦(1997)、Seto(1999)、辻(2001)、谷口(2003a, 2003b)などによってメタファーに関する本格的な研究が展開されている。

2.2.1 メタファーの構造

メタファーは比喩を根本とするわれわれの思考パターンのことをいう。たとえば、「人生は一幕の劇である」という表現を考えてみよう。これはいうまでもなく、人生には出生という始めがあり、さまざまは紆余曲折を経て変化し続け、そしてあっという間に老い果てて、死が否応なしに結末をつける

もの、儚い性質を持ったものであることを表現している。このような性質を持つものがほかにあるのだろうか。あるとすれば、それはどんなものであろうか。その儚さという性質から見れば短い春の夢のようなもの、「一場の春夢」に喩えられよう。また、一生の間のさまざまな出来事を転々と経ていくものに喩えるとすれば、「旅路」であり「航路」である。またそれがどんなに栄光に輝く帝王であろうと一介の塵のような奴婢であろうとすべては地に帰り行くという無常なものであると考えれば、まさに「一幕の劇」以外のなにものでもないといえよう。ここでいう「春夢」とはその「短さ」に、「旅路」とは一刻もとどまることのない「出来事の起伏の連続」に、その無常とは栄華の人生も屈辱の人生も観客の消え去った楽屋の虚ろな舞台に喩えることができるであろう。つまり、「夢」「旅」「舞台」などは人生という概念が持つ性質の局面をもっとも端的に凝縮した「喩え」と見ることができよう。「人生は夢のようなものである」、いやむしろ「人生は夢である」と直言したときに人生がどんなものであるかを私たちは端的に喝破するようになる。「旅路」や「舞台」という言葉も、人生とはやはりそんなものであったのかというわれわれの認識を目の当たりにさせる驚くべき効果を見せてくれる。メタファーとはこのように「もの」や「出来事」の本質を極度に濃縮された形で「新たに認識させる」もの、あるいは「再発見させる」魔力を持つもののことをいう。周知のように、メタファー(metaphor)はギリシャ語の meta「何かを越え

て」と phora「運ぶ」の合成語で metaphoraすなわち「何かをあるところからほかのところへ運ぶ」という意味であるという。日本語では「隠喩」または「暗喩」と訳されているが、たとえば、広辞苑(1998:170)には、「ある物を別の物にたとえる語法一般。修辞法の一つ。たとえを用いながら、表面にはその形式(「如し」「ようだ」等)を出さない方法。白髪を生じたことを『頭に霜を置く』という類……」と出ている。たとえば、「夜の海に浮かぶ舟のような三日月」の比喩から「のような」を取り去って直截に「夜の海に浮かんでいる舟の三日月」とすると、そんな三日月があるはずはないが、暗にそのようなものであるとほのめかす隠れた比喩であると解釈できれば、このときの「暗夜に浮かぶ片舟」が三日月のメタファー、つまり「隠喩・暗喩」な

56 57第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第2章 メタファーの体系としての日本語の敬語

のだということであろう。James Geary(2012)はメタファーに関する最近の著書を『私って(私でない)別のもの(I is an other)』と題しているが、これなどはメタファーが Aなるものを Bと別の言葉で言い換えることであるということを巧みに表現したものといえる。「ジュリエットは太陽なんだ」というせりふで、ロミオの永遠の恋人を A、そして、太陽を Bとすると、A

= Bのような等式が成立する。一般に、修辞学では Aは主意(tenor)、Bは媒介(vehicle)と呼ばれてきているが、Lakoff & Johnson(1980)などの最近の認知言語学では、Aを目標領域(target domain)、Bを起点領域(source

domain)としている。メタファーはこの 2つの認知領域――起点領域と目標領域――に関わる現象であると特徴付けられ、これら 2つの領域は表象形式、または、イメージ・スキーマによって橋渡しされると考えられている。たとえば、上述した「人生は一幕の劇である」という表現は 1つの陳述文と考えられ、これは主語の「人生」と客語の「劇」が文の骨子になっている。いうまでもなく、この表現が意味をなすのは人生が劇に比喩できる何らかの特性の集合があって、それが劇にも同じように認められるからである。このときの「何らかの特性の集合」というのはいたって抽象的なもので、これが人生と劇という表面上まったく異なる 2つの事象の対応を有意義なものにして認識することを可能にすると考えられる。これが Lakoff & Johnson(1980)

のイメージ・スキーマに当たる。目標領域 Aが持つある特定の構成要素と起点領域 Bが持つ特定の構成要素の間の類似性がマッピングという手続きで一つ一つ見分けられ継ぎ合わされることが確認されなければならない。このようなマッピング(観念的なつなぎ合わせ)によって 1つの完全な 1対 1

の対応が見分けられたとき、Aを Bで表すことができる、つまり A = Bというメタファーが成立するということになる。たしかに、このような「イメージ・スキーマのマッピング」という図式で

メタファーに関する一応の理解はできると思われるが、メタファーを単なる類似でない、メタファーをしてメタファーならしめるもっとも要になる点を見落としてはならない。それはメタファーが持つ強力な創造性のことである。たとえば、「犬と猫は 4本足である」という判断は、話者が 2匹の動物が持つあまたの特性から 4本足という共通点を抽出することに成功したこと

によって導き出されたものといえる。このときの「4本足」は 1組のイメージ・スキーマといってもよい。アメリカの国防総省のことをよく知らない聞き手が「今度のパキスタン作戦にはペンタゴンは関与していない」というニュースをまともに判断することは容易でないだろう。「アメリカの国防総省は五角形だ」というメタファーのイメージ・スキーマを見抜くためには、国防総省に関わる少なくとも 2つの事実を知った上で、両者の間の緊要なイメージを見抜かなければならない。すなわち、アメリカの国防総省が陸海空軍のほかに海兵隊と海岸警備隊という計 5つの組織を統括する機関であったこと1、それが、その数を象徴する図形に投射された五角形のフロア・プランによって建てられた巨大複合建築物の中に収容されているということ、そして、そのことから、ペンタゴンつまり五角形というイメージ・スキーマを認知的に抽出することができなければないのである。今「見抜く」または「認知的抽出」という表現を使ったが、単なる類似でない、強力な比喩、つまり隠喩または暗喩が持つ共通の概念的特性はまさに「隠されているもの」であって、それは「見抜かれ」なければならないものである。つまり、それは、あるものが持つ特性を他の言葉でもってそれが持つ真の姿をより純粋により鮮明に描き出す魔力を持つものである。メタファーは、あるものが隠し持っている特性を集中的に明るみへ出すことによってそのものの真価を再認識させるものである。それはなぞなぞのようなものである。メタファーを通じて「あー、そうだったのか」と「悟らせるもの」である。

(9)1つの声を持ちながら、朝は 4つ足、昼には 2本足、夜には 3つ足で歩くものは何か。

というスフィンクス(ギリシャ語で「絞め殺す者」)の謎をテーバイにやってきたオイディプスが「それは人間である」と答える。この謎かけは、長い人生をわずか 1日の変化に置き換えることによって、人の一生がどのようなものであるかをまざまざと直視させ再認識させる。この神話の謎は 3組のメタファー、つまり、幼年の朝、青年期の昼、そして、斜陽期の夜に喩えられていると同時に、足の数をこれらに対応させている複合的なメタファーに

58 59第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第2章 メタファーの体系としての日本語の敬語

なっている(われわれが本書で明らかにしようと企てている敬語体系も実は複数個のメタファーが輻輳する複合メタファー系である)。詩人は事物の間に横たわるイメージ・スキーマを巧みに見抜く能力を高度に備えた人たちといえる。ウォルト・ホイットマンは不朽の詩作「おお! 船長、われらの船長」で、[船長=リンカーン][船=アメリカ][凄惨たる航海=南北戦争]というイメージ・スキーマを荒波を越え疲れ果てて帰港する 1艘の船に投影した複合メタファーを用いて、栄光の前夜に逝った大統領を謳っている2。これら 3

組の等式を成立させるためには、たとえば、リンカーンと甲板に息絶えた船長のどこが似ているかが――このような類似を可能にする特性(または属性)の束が――間違いなく即座に抽出されなければならない。傷付いた帆船と 60余万の人命をなくした分裂の危機を乗り越えてきたアメリカとの間に一束の隠れた共通性が見出されなければならない。このような Aと Bの間で意味をなす一束の隠れた特殊な属性(ホイットマンの詩では少なくとも 3組

の下位等式を含む)を詩の鑑賞者が積極的に解き明したとたんに A= Bの等式が記号的な次元の真理値を乗り越えてシンボル的次元での真と判断され、そして、そのときにはじめて Bはどうしようもなく Aなのだと解釈できるようになる。これは「換喩(メトニミー)」でも同じことがいえる。Lakoff &

Johnson (1980)からの例文を見てみよう。

(10)The ham sandwich is waiting for his check.

  ハムサンドイッチが勘定を待っている。(谷口 2003b:123から)

谷口(2003b)では、この場合の「ハムサンドイッチ」を状況依存的メトニミーと特徴付けていて、「客と注文した品」の間の近接関係がレストランという特定の状況に限られ一般性がないとされている。しかし、谷口自身も指摘しているように、その人が毎度同じものばかり注文する常連客であれば、「物品で使用者をさす」パターンのメタファーにもなれる。このような場合、(3)のようなイメージ・スキーマを考えることができる。

(11)メタファー関連領域の属性

   常連客 C          ハムサンドイッチ  a. 会社員          他メニューより値段やや高い  b. はげ頭          Cさんのいつもの注文  c. 背が高い         青色の皿に盛る  d.いつもハムサンドイッチ  おいしいとの評判  e.眼鏡かけ         コーヒー付き

上の例で挙げたはげ頭の Cさんとハムサンドイッチというメニューはその特定のレストランでだけ意味をなすものといえるが、ウエイトレスたちのサービスにはそれで事足りるものである。ウエイトレスたちにとって、Cさんを他の人から識別するもっとも有意義な情報は、店のメニューの 1つである属性(11b)のメニューと Cさんの属性(11d)である特定メニューの注文というように極度に限られた特に際立つ(同書 :133)2つの属性で充分であり、この 2つの属性がイメージ・スキーマとしてマッピングされ、(10)のようなメトニミーが成立する。「先生がお見えになった」という表現は、先生=上位者はいかにも現世的に「てくてく歩いてくる」ような存在ではなく、先生が独りでに湧いて出るようにすっと現れ、それが私に見えるようになったというふうに解釈できる。つまり、私の先生は 1つの理想的なモデルとしての対象になる。私の上に立って私を 1人の人格として育て上げてくださる尊敬すべき存在である。そのような属性をもっとも端的に理想的に完備している存在があるとすればそれはわれわれがカミサマと呼べる存在である。これを本書ではタブー的存在と呼ぶ。つまり、「先生は私の小さな世界のカミサマ『のような存在』である」、いや、「先生は私の小さな世界のカミサマである」というメタファー(隠喩)が成立する。このような考えは一見とてつもなく唐突で、大げさに聞こるかもしれな

い。上でも述べたとおり、真顔で自分の先生を神様だと信じる人はいないであろう。そして、本書は、目上のものがカミサマであるとばかげた主張をしようとするものでもない。この章の冒頭、そして、第 1章§1.6でも触れたことではあるが、「上位者はタブーである」のメタファーは敬語の対象にな

60 61第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第2章 メタファーの体系としての日本語の敬語

る人物、つまり「上位者」という対象が理論的にどのようなものでなければならないかということを示すための仮説なのである。くどくどしいが、もう一度このことを確かめておこう。上位者を理論的に規定するには、2つのこと、つまり 1つは、敬語が文法的な規則で行われるということ、2つは話し手の上位者になれる人の数が無限に多いということを考慮しなければならない。まず、敬語は、一人一人の上位者を対象に適用されるのであるが、その上位者は一様でなく千差万別である。しかし、そうであるからといって、敬語の種類を無限に用意しておくわけにはいかない。敬語は 1組の極度に限られた数の規則でしかない。この限られた敬語の規則を有効に適用するには、その対象を概念的に 1つに絞らなければならない。敬語が適用される無限に多い対象を代表する 1つの型の人物としての「上位者」という対象を設定しなければならない。ある集団社会の法律がその成員である「市民」に一様に適用されるが、この場合の「市民」は地位や身分や性別の差を超えた 1つの対象としての個人であって、1つの社会的モデルと解される。このような対象を、本書では上位者のモデルという。そして、このモデルである上位者がタブー的存在であるという仮説からさまざまなメタファーが形作られていくことになる。

2.2.2 敬語体系の中で「系列」をなすメタファー

今まで日本語の敬語がその表現において数多いメタファーで成り立っていることを見てきたが、このように偏在するメタファーがばらばらな集合でなく 1つのまとまった体系をなしていることが強調される。ここでいう「体系」は単に systematicというよりも systemicであるといったほうがより当を得ているといえるかもしれない3。このことを下で見てみよう。たとえば、序章で「先生に会う」ということを「先生にお目にかかる」と

する謙譲形表現が、先生の目(視野)がなにか網状になっていてそれにはしたない下位者である私が引っかかるというようなイメージに(少なくとも筆者には)とれるといったが、このようなメタファーは、2つの基本原理の現れと見なされる。まず「先生が私に会う」という主体的な動作を避けて、

「動作主の私が先生に(方向格)会う」という上位者の労役免除の原則と上位者枢軸(すべては上位者に収斂する)の原則を同時に満足させていて、「お目にかかる」が上述のような原理から独立した個別的な、単に面白い発想の表現でないことがわかる。「先生がお見えになる」のような表現にしても「先生の来着」が話し手の目に映るような事態になったということで、先生の「来る」という動作主的役割が話者に「見える」という経験に翻訳されていて、同じく、「上位者の労役免除」の原則が守られている。このように、さまざまな敬語のメタファー表現はその一つ一つがその場その場で偶発的なエピソードや気の利いたアネクドートの類でなく敬語の基底にひそむ原理を忠実に反映しているということである。つまり、敬語に起こるメタファーはすべて 1つの系列をなして敬語の全体系に有機的に関連付けられている。尊敬形には「なる」で代表される自発表現の「なる」型系列メタファーが、そして、謙譲形には「する」で代表される「働きかけ」表現の「する」型系列メタファーが関わっている。さらに、丁寧形はこれら 2つの系列のメタファーとは趣がまったく違う「です・ます」という言表様式の「提示型」系列メタファーを形作っている。これは考えようによっては極めて刮目すべき事柄であるといえる。独立した 3つの敬語システムが 1つの統一された系列をなして有機的にメタファーを通じて働き合っているという敬語の systemicな様相はこれからももっと深く研究されることが望まれる。この点、本論考で解明される日本語の敬語における「系列的メタファー」という特異なシステムは一般メタファーの研究分野にも 1つの新しい理論的課題を投ずるものといえよう。

1 沿岸警備隊は 2003年 3月に国土安全保障省(Department of Homeland Security)

の管轄となった。

2 「おお船長 ! 我が船長! われらの恐ろしい旅は終わった/船はすべての苦難を

超え、求めたものは得られた、/港は近く、鐘は響き、人々は狂喜乱舞し、/視線は頑丈な竜骨と勇壮で厳格な船体を追う。/それにしても、おお心よ、心よ、心よ、/おお赤い血が滴る、/この甲板にはわが船長が横たわる/冷たい骸となりはてて。」

62 第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説

3.1 新しい敬語概念の定立

本書で取り扱う敬語という概念をまとめてみると、次のようになる。敬語は禁忌的上位者を対象とする特殊な言語的表現、特に隠喩表現であり、高次のメタファー的顕示形式である。それは理念的な原則によって制約されている。これらの原則は、各々の原則に対応する 1組のガイドラインによって具体的な言葉に変換され、文法に投影される。要するに、日本語の敬語は 1組の理念的原則とそれの変換、または、翻訳メカニズムによって 1つのマイクロコズム(小宇宙)として日本語の文法体系に組み入れられているものと考えられる。敬語における上位者という概念は、タブー的な特性を持つ理念化された

1つの隠喩的な対象であると見なされる。上位者をこのように 1つの禁忌対象とすると、上位者の待遇表現に 5つの根源的な原則によってさまざまな制限が課せられる。これらは 5つの原理として表される。すなわち、(i)隔離の原則、(ii)労働対極化の原則、(iii)位相の原則、(iv)恩恵移動の原則、(v)使役特権の原則である。

3.2 「敬語の場」の設定

ここで、基本になる概念を 1つ導入しておこう。いうまでもなく、敬語は

第3章

敬語の原則とその文法化

(ホイットマン 2007:84)。

3 ここでいうシステミックという語句は、ある 1つの機能が反応を起こす場合、

1つの個別的なシステム(系または体系)の中だけでなく、他のシステムに広域的に効果を及ぼす、いわば共鳴的・共振的な体系間の反応のような事態を表す意味にとる。研究社の新英和大辞典で systemicを「(生理・病理)全身的な、全身を侵す」としているが、こうした意味での systemic circulation体循環などの例に見えるものである。1組の独立した体系を貫いて作用する広域的または共振的な間体系性とでも要約できよう。この場合、対象化された個々の要素体系を static(静態的)なsystemだとすれば、systemic的間体系または環体系は機能面が重視される dynamic

な systemともいえよう。ついでながら、今までのメタファー研究はそれらに内在する認知論的な本質に迫る systematicなアプローチで実り多い成果があげられている。最近の鍋島(2011)もその 1つで、12の認知領域で展開されるおよそ 230個に上る日本語の隠喩表現が体系的に分析されていて注目を引くが、日本語の敬語に見られるようなメタファー体系が持つ systemicな面は大きく見落とされている。また、Dobrovol’skij & Piirainen(2005)の文化や言語におけるメタファーの類型学的な研究でも、概略 1400個あまりのメタファー例のうち、116個の日本語の実例が取り扱われてはいるが、それにも敬語体系に見られるようなメタファー化の systemicな機能に関しては言及するところがない。

64 65第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第3章 敬語の原則とその文法化

あくまでも相対的な現象で、聞き手を上位者に見立てて使うのであるが、また、聞き手を下位者と見なしていわゆる反敬語を使いもする。ときによっては、そのいずれでもない比較的に中立的な無敬語の場合も考えられる。人々は場面場面によって敬語を使うか使わないかをおおかた自動的に判断し選択する。それだけでなく、同じ場面であっても、事情によっては敬語抜きから突然敬語のムードに切り換えもする。いうなれば、スイッチで切り換えができる電磁場のように見ることができる。話し手が相手を上位者に見立てると、会話は敬語ムードに変わる1。このような場面を敬語の原則と、それに基づく文法規則が適用される「敬語の場」と呼ぶことにする。ここでは、一応「敬語の場」を次のように定式化するが、これは命題外および命題内の 2

つの次元に現れる。

(1) 2つの敬語の場A型敬語の場:一般に、話し手と聞き手の間に社会的身分が規整されるような状況では社会慣習が要請する言語を含めた行動様式を遵守しなければならない。これを「対面性敬語の場」また「A型敬語の場」と呼ぶ。B型敬語の場:話し手と素材文に登場する人物との間において上下関係が規整されるような状況では、社会慣習が要請する言語上の規則を遵守しなければならない。これを「言及性敬語の場」または 「B型敬語の場」と呼ぶ。この場合、素材文に登場する人物が複数の場合、それらの人物の相互の間にもそれぞれ個別的な「敬語の場」が成立する。

たとえば、Kuno(1973:131)の次のような文の対立関係を、「敬語の場」という概念を導入すると(2)のようになって説明が簡明になる。

(2) a. 僕(または弟)が先生にペンを貸して差し上げた。b. *隣に座っていた見知らぬ人が先生にペンを貸して差し上げた。

(3)a. 僕(または弟)が先生からペンを貸していただいた。b. *隣に座っていた見知らぬ人が先生からペンを貸していただいた。

上の 2組の例文中の「先生」は話し手である「私」または話し手の弟にとっては上位者であるが、先生の隣に居合わせた人が特に先生の教え子でもなく私の「うち」に属するものでもない場合、その隣の人は一種の局外者である。「私」と「先生」の隣の人との間には直接敬語の場(特に、現場的な対面性敬語の場)Aを持たないことはもちろん、私の友人でもないかぎり、私を介して間接的に先生との間に起こる言及性敬語の場 Bも共有することができない。そうすると、(2b)と(3b)の非文法性は、「隣に居合わせた人」と「先生」の間の社会的な身分の差にかかわらず、「敬語の場」が成立していないからだと分析できるわけである。もちろん、「うち」の関係を持たないこの見知らぬ隣り合わせの人とも話し手が敬語の場を共有することができる。たとえば、話し手が隣り合わせの人と次のような会話を交わしたとしよう。そして、先生は話し手の隣り合わせの人とも離れた座席にいるとする。

(4)甲:ペンをあの人から(話し手の先生を指しながら)お借りしましたか。

  乙:はい、あの方から貸していただきましたよ。

上のやりとりには、次のような点が観察される。(i)甲と先生との間の敬語の場が背景化して「あの方」でなく「あの人」になっている。(ii)乙と第三者の「あの人」が「あの方」になっていて、両者の間に敬語の場が発動していることがわかる。(iii)甲と乙との間にはお互いにこれといった上下の関係がないにもかかわらず、丁寧な敬語が使われていて両者の間に敬語の場が発動している。(i)の場合、乙に対する配慮から甲が先生を自身の「うち」の一員としていて相対敬語様式による尊敬形は使われていない。つまり、「あの方」の代わりに「あの人」、この場合の「お借りしましたか」は甲が乙の行為を持ち上げた乙に対する尊敬+丁寧の丁寧表現であって、先生に対する尊敬でないことに注意しなければならない。(ii)での尊敬形「貸し

66 67第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第3章 敬語の原則とその文法化

ていただく」は、たとえ甲と「あの方」との間の師弟関係を乙が知っていなくても、それとは関係なく、乙と貸し手である未知の人をいったん上位者に見立てていて、その間に敬語の場が発動している。このように、(4)の例は一見簡単な日本語の敬語表現に捉えられるが、注意深く見ると、甲と乙の両者間では、2組の異なった敬語の場が関わっていることがわかる。その 1つは甲と乙の間の「お借りしましたか」の A型敬語の場であり、もう 1つは甲と乙が文中の第三者に対してそれぞれ違った敬語の場を持っていることである。1つは、甲と先生の間に形成されているべき敬語の場があたかも括弧の中に入れられているように乙の前ではサスペンド、つまり「留保」の状態になっている。上でもいったように、甲が乙の立場に同調して「あの方」と自身の師弟関係を明示することを控えている(または、甲が乙に対して自身の先生を身内のものとして控えめに言及しているともとれる)。反面、乙と「あの方」との間に特に上下関係がなくても敬語の場が成り立っている。つまり、文中の「あの方」が甲の先生であることを乙が知らなくても丁寧な物言いになっていて敬語の場が形成されている。甲と乙の関係、乙と文中の第三者の関係で表されている敬語には、「公の場」といった概念が深く関わっているように思われる。公の場では、たとえ話し手と聞き手が未知の間柄であっても、また、話し手と文中の人物が未知の間柄であっても敬語の場が容易に成立するように見える。つまり、公共の場は潜在的な敬語の場であると規定することができそうである。このような場では、話し手と聞き手がお互いを自身の上位者――つまりは、「自身よりは強力な存在」、うっかり挑戦することができない存在――と見なすことによるものと思われる。公の場が関与する(1)を、(5)のような但し書きで補完することができよう。

(5)公の場では、会話関与者が未知の間柄であっても、潜在的な敬語の場が形成される。ただし、関与者は相互に相手を上位者と見なす「相互対称性」を持つ。公共の場における敬語の場は A型敬語の場の特殊な場合である。

このようにして、お互いに知らぬ人の間では、たとえ上下の関係が実質的

にどんなものであっても、いったん話の相手になると、お互いが相手を潜在的な上位者に据えて敬語の場の成員のように待遇する。電車や劇場で話しかける隣席の人も公の上位者であり、相互対称性による敬語が話される2。

3.2.1 敬語の場のキャンセル

話し手と上位者との間の上下関係が決まっていて、しかも、両者が 1つの会話の場面に居合わせている場合に敬語の場が発動するのは、もちろんであるが、たとえば、当の上位者が何かの都合でその場を離れるとしても、上位者の身内の人物が居合わすような状況では「敬語の場」は活性状態を維持すると考えられる3。しかし、場合によっては、同じ身内のもの同士であっても、「敬語の場」が「キャンセル」されることがある。友達同士が、自分らの先生をあだ名で呼び捨てにして、敬語抜きで話すような場合である。『坊っちゃん』の赤シャツは教頭で、公の場では坊っちゃんの上位者であるが、当人の居合わせないところでの山嵐とのやりとりでは、公の敬語の場は非活性状態になり、教頭が「狸」になる。すなわち、敬語の場 Bがキャンセルされている状態である。言い換えれば、敬語の場という概念は話し手とその上位者(とその延長体)が 1つの会話の場を共有するという条件を満たしていなければならない。いうなれば、「現場性」がなければならない。Hamano

(1993)が「近接性(proximy)」といっている概念もこの現場性の 1つの側面を表しているのではないかと思われる。

3.2.2 敬語の場の持続

しかし、ここで特に注意しなければならないことは、敬語の場のキャンセルのちょうど反対の「敬語の場の維持」、または、「敬語の場の持続」という状況があるということである。

(6)梅ちゃん、この宅配便のお包み、7号室のお客様にお渡ししてきて頂戴。

68 69第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第3章 敬語の原則とその文法化

旅館の女将さんと接客係の間では、7号室の客によって形作られる B型敬語の場は、たとえ当人の居合わせないところでも、キャンセルされないまま活性状態が維持されている。

3.2.3  公の場と擬似敬語の場

記念日などの式典で校長先生が学生相手に敬語で演説や訓示をする現象も「敬語の場」が発動していると見る。この場合の学生は校長にとって単なる学生でなく式典という厳かな儀式に参列している聴衆であって公のイベントや機関の構成成分に見立てられる。この場合の敬語の場は、したがって、先に見たように、校長と式典参列メンバーとの間に成り立っている相互対称性敬語の場と見ることができる。このような場面の敬語は単にトポグラフィ的な近接性概念では捉えにくいと思われる。もう一つ、親、特に、母親たちが自分たちの子供に、または大人たちが道

端で会った子供に話しかけるときなどによく敬語を使うが、これは子供たちに早くから敬語に関するしつけをする教育的な狙いからであるという解釈が一般に行われている。このような現象も、「偽装的敬語の場」と呼ぶ現象の 1つとして分析できる。つまり、敬語の場の概念で、別の角度から分析が可能となる。通りがかりの人は、たとえ子供であっても、公の敬語の場の相手になると考えられる。道端の子供があたかもその子供の家族を代表する大人であるかのように、または、現在の子供ではなく未来に投射された、それも、家族の家長や奥様、または、「お上」という言葉で代表されるような公の社会機構の一員になっている息子や娘であるかのように見なしての話し方と解釈する。つまり、坊やを成人した大人になったもののようにあやして、つまり、仮の「大人」に仕立てて、「仮の敬語の場」を作るわけである。このような場合の敬語を「擬似敬語」と呼んでも差し支えないだろう4。敬語の場は、上位者と下位者との間の地位を決定する枠組みによって違っ

たものへの切り換えができる「可変性」または「可逆性」を大きな特性として持っている。上の式典における校長先生・学生関係の転換もそうである

が、たとえば、将校の息子と新兵の親父という状況を考えた場合、両者の間で行われる敬語の場は、兵営においてのものと軍営を出て里に帰ったときのものとでは当然逆転するであろう。このような敬語の場の切り換えが、可逆性スイッチのようになされると見られる。上でも指摘したように、敬語の場の変換は、1つの場から他の場への切り換えだけでなく敬語の場自体の取り消しや留保現象を説明するのにも便利である。たとえば、武家社会や現今のビジネス社会で一種の機構的安全弁の役割をしている風習に「無礼講」なるものがあるが、これなども敬語の場の一時的中止(キャンセル)または留保現象と見てよい例である。

3.2.4 敬語の場の束縛と無敬語または中立敬語の不在

いったん敬語の場が形成されると、その場に関わる人物は物言いにおいて敬語表現の規則に束縛される。つまり、敬語の場では、中立の敬語、または無敬語は語用論的にその中立性を失うことになる。ときによっては、敬語の場では、敬語の不在は上位者への直接挑戦的行為ととられもする。

3.2.5 半ば恒常性敬語の場

上位者が神体はもちろん国家の元首(少なくとも戦前と戦後の過渡期までの日本の伝統的な社会では)のような存在である場合は、敬語の場は恒常的に維持される。

(7)陛下に拝謁を賜った首相はその後記者会見で次のように述べた。

上の文の「拝謁」や「賜る」を規定している「敬語の場」はどのようなものであろうか。これには 2種類の敬語の場が関与していると考えられる。(i)「陛下」と「首相」の間の主従関係、(ii)「話者」と「陛下」の間の上下関係の 2つであるが、特に(ii)における敬語の場はコンスタントであって、文の脈絡や「話者」の「陛下」なる存在との個人的な関係に関わりなく活性

70 71第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第3章 敬語の原則とその文法化

状態を維持すると考えられ、このような意味で、「恒久性敬語の場」を想定することができる5。このような恒久性敬語はラジオや新聞などのメデイア報道でよく見かけるものである。

3.3 敬語の体系を司る枢密軸の原則と 5つの下位原則

さて、このように形成される敬語の場における上位者と下位者は次のような関係によって規制されるものと仮定する。

(8)上位者はタブーであるとする前提上位者はタブーである。その権益と安全が上位者をタブーとする共同体の他の成員、すなわちすべての下位者によって保障されなくてはならない。

このタブー対象の安全保障を図る共同体における上位者と下位者は特殊な力関係によって規制される。これを、枢密軸の原則と呼び、下のように規定する。

(9)枢密軸の原則敬語の場においては、上位者は常にすべての敬語現象の中心になり、下位者の行うすべての行為は枢密軸の周辺的な事象である。⒤ タブーなる上位者は忌避・隔離される。ⅱ 上位者は労力を必要としないおのずから在るもの、臨ずる存在である。

ⅲ 上位者はすべてが収斂する位相的枢軸である。ⅳ 上位者は恩恵の源泉である。ⅴ 上位者は命令・裁可の原点である。

つまり、上位者はタブーであって忌避隔離されなければならない。タブー

を危害から守り、それにどのような不都合も起こらないように、これを他から峻別する特別な標示を設けなければならない。上位者はそれ自身が満ち足りた存在であり、下位者の生存を支える絶対的な存在である。したがって、上位者は生存のためにあくせくと労働する必要がない。すべての労役は下位者によってまかなわれる。したがって、上位者は自らの労力によって運動することがなく、下位者の運動はすべて上位者を中心として収斂的または上方志向的になされる。上位者は他(下位者)から援助や恩恵を受ける必要がなく、その源泉である。上位者だけが下位者を使役したり、下位者の願い事を裁可したりする特権を持つ。その逆は可能ではない。すなわち、下位者は労役の責務を負い、依存する存在であるから上位者の恩恵にあずからなければならず、上位者を使役することができないのはもちろん、(そもそも満ち足りた存在である上位者が、何かを希求したり要請したりするはずがないから)下位者が上位者を相手に何かを裁可するような事態はまずない。上にいったようなことは上位者=タブーの共同体を支配する根本的な原則と見る。これをまとめると次のようになる。

(10)原則 A(隔離の原則)

⒤ 上位者とその延長体(身内、所有物、住居をはじめ、上位者の感情、思考などの抽象的な関係事項をも含む)は共同体の他の成員から隔離されなければならない。

ⅱ これによって、下位者である話者を含めた他の共同体の成員は上位者から自動的に区別される。

(11)原則 B(労役対極化の原則)

⒤ 上位者の労役はすべて免除されなければならない。ⅱ 下位者は上位者のための労役または奉仕を極大化しなければならない。

(12)原則 C(位相的枢軸の原則)

⒤ 上位者は常に上位または枢軸に位置する。上位者は何かを下賜し

72 73第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第3章 敬語の原則とその文法化

下命する。ⅱ 下位者は上位者に何かを捧呈し参上する。ⅲ 上位者はすべての位相的次元において下位者より優越であることが保障・確認されなくてはならない。

(13)原則 D(恩恵移動の原則)

  恩恵は常に下降運動である。⒤ 上位者は常に恩恵の授け手で始発点である。(施恵者)ⅱ 下位者は常に恩恵の受け手で到着点である。(受恵者)

(14)原則 E(使役特権の原則)

⒤ 上位者のみが常に使役したり、裁可したりする特権を有する。ⅱ 下位者は、使役・裁可の特権はなく、常に上位者によって、使役されるのみである。すなわち、上位者の使役権/決裁権は極大化する一方、下位者のそれは極小化しなければならない(これは原則 Bとは逆関係にある)。

ⅲ 下位者が上位者に対して命令者・債権者の立場に立つような場合は、下位者は上位者に自身の命令権、債権を委譲しなければならない。

上に整理した項目には、各々上位者に対する規制と下位者に対する規制が1組ずつ対になっていて、上位者と下位者との相補性を反映する。

3.4 敬語原則の文法化ガイドライン

前節§3.3(10)~(14)の敬語の原則はあくまでも 1組の原理であるが、このような抽象的な原理はすべて、暗喩・隠喩すなわちメタファーの形で文法に投射される。この節では、敬語を支配する原則を文法に翻訳する機構について考察する。まず、原則 Aの「隔離の原則」に付随するガイドライン

から見てみよう。

3.4.1 隔離の原則のための文法化指針

言語共同体の構成員の間では、タブーに根ざす特殊な関係が生じる場面、すなわち、「敬語の場」が発動すると、隔離の対象になるものは、このような場に属する構成員すべてに周知されなければならない。そうでないと、うっかり、タブーである上位者に不敬な行為を働き、上位者の平静を乱すおそれがある。このような事態を未然に防ぐために、上位者がタブー的存在であることを明確に標示する。敬語の場に居合わす構成員にタブーが現前することを知らせる警報のような働きをするなんらかの方策がとられなければならない。これを原則 Aの文法化へのガイドラインとして次のように規定する。

(15)原則 Aの文法化に関する特別付随条項上位者とその延長としての事象は象徴的表示によって他から峻別されなければならない。これには可視的表示のほかに、より概念的な質と量に関わる表示類として位相的区別による〈上

かみ

・下しも

〉〈前・後〉〈中心・周辺〉;数量的区別による〈偉大・卑小〉〈豊富・寡少〉〈広大・矮小〉;〈貴・賤〉〈美・醜〉;能力を表す力量的区別による〈全能・頓知(無知)〉などがある。

ガイドライン(15)は、このように、上位者の身なりや持ち物や住居や乗り物などを特別なしるし(徴)によって目立つようにするばかりでなく、上位者の性質、思考、情感、言語など抽象的な事柄に対する区別がなされる。そして、 上位者の「延長体」である上位者の身内の構成員などにも特定の標示が施されるようにする。隔離の原則の中で特記しておくことは、上記のような象徴的な標識が上位者の存在を明確に峻別するかたわら、もう一方では、上位者をつかみがたい神秘的な存在に仕立てることである。上位者即タブーは近寄りがたい存在で

74 75第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第3章 敬語の原則とその文法化

あることの表徴として上位者の位置を漠然とした 1つの領域、認識不可能な場所として表す。上位者は漠然と「上」または「お上」になる。上位者の名指し回避の手段として上位者の住居、すなわち、殿閣、それになぞらえた「殿様」「閣下」、それに対する下位者の「あばらや」「寒舎」、そのほか、「小生」「小息」「愚妻」などの表現に見えるものである6。

3.4.2 労役対極化の原則のための文法化特別付随要項

原則 B、つまり、労役対極化原則により、下位者は、自身の「労役の極端化」を図ることになるわけであるが、これは、上位者の完全な「労役の免除」、そして、下位者による「上位者の労役の身代わり的極大化」といった抽象概念に翻訳される。この翻訳過程は、下のようなガイドラインによってなされると仮定される。

(16)労役対極化の原則に関する文法化指針要領⒤ 項構造の上位者の動作主としての意味役割は極小化を通じて非焦点化されなければならない。

ⅱ 下位者の動作主性は極大化を通じて焦点化されなければならない。動作主としての下位者の上位者に対する行いのすべては上位者への奉仕でなければならない。

このように、原則とそれの付随条項としての文法化のためのガイドラインが素材文に適用されるが、特に、尊敬形式の文法には、動作主の意味役割を控えめにすることを目的とするいくつかの具体的な規則が働く。動作主を背景化する(または、非焦点化する)機能を持つ様式には典型的には受身・自発の「られる」や「なる」などがある。つまり、文法では、動作主の非対格化として具現される7。また、動作主の役割を最大限にする謙譲形式のためには「働き」の助動詞の「する」や、「上位者への奉仕」という概念を表す、いわゆる、古風な「もてなし」の動詞「申す」も利用される。日本語のレキシコンに収められている尊敬・謙譲の語彙が第一次的に使われるが、レキシ

コンでまかなわれない場合は、上にいった自発の動詞、自発の形態素、働きの助動詞、奉仕の動詞などが使われる次のような文法規則に従う。

(17)敬語の文法規則⒤ 尊敬形

    A型尊敬形:お Vになる(Vは連用形動名詞)

    B型尊敬形:Vられる(Vは本動詞の未然形)

    C型尊敬形:お Vなさる(Vは連用形動名詞)

ⅱ 謙譲形:お Vする/お V申す(Vは連用形動名詞)

このような規則によって、「お帰りになる」「帰られる」「お帰りなさる」のような尊敬形が作られる一方、謙譲形には、「かしずき」「奉仕」「接待」などを表現する助動詞「する」または「申し上げる」などにより、「お迎えする」「お迎え申し上げる」のような形の敬語表現が生産される8。特に、指針要領(16ii) により、謙譲形では、下位者の行為はすべて上位者のためのもの、上位者の福祉に資するものでなければならない。したがって、謙譲形を適用する動詞はすべて上位者への奉仕を表すものに限られ、そうでない動詞類、たとえば、「歩く」「走る」「寝る」「立つ」「落ちる」などの自動詞、特に、一切の滑稽またはしくじりに基づく「無様」な行為を表す言葉は自動的に排除される。菊地(1997:166)が指摘しているように、俗語的な響きを持つ言葉、たとえば、こける、くたびれる、バテる、たまげる等も除かれる。これは、本書の仮説に従うと、万能の上位者が俗人のようにてくてく歩いたり、走ったり、眠ったり、どこからか転げ落ちたり、こけたり、くたびれたり、バテたり、たまげたりするはずがないからである。

3.4.3 恩恵移動の原則のための文法化特別付随条項

第 1章§1.1と第 2章(3)のような前提からすると、上位者はそれ自らが満ち足りたものであって他からの援助や恩恵を必要としない自足する存在であるということができる。一方、下位者は、それが所有するすべてのもの

76 77第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第3章 敬語の原則とその文法化

は上位者の恩恵によってのみまかなわれる、依存的な存在である。上位者と下位者の間のもののやりとり――授与物の移動――でいう授与物は、単に事物であってもよく、抽象的な交換物、たとえば、考え、話、注意、予告などであってもよい。また、もののやりとりをすることによって、もらい手が何らかの利益または福利を得る場合を、特に「恩恵」と呼んでおこう9(ただ

し、貰い手が上位者になる場合は「恩恵」という言葉の代わりに「贈り物」また

は「貢ぎ」というような特別な呼称が用いられる)。本書では恩恵の移動という場合、「貢ぎ・贈与物」の移動を含む。先に、§3.3で、日本語の敬語には、「恩恵の移動」に関する、(12)の原則 Cなるものが働くと仮定した。それによると、(i)上位者は常に恩恵を施すものであって他からの恩恵にあずかることがない(受恵の禁止と施恵の原則)、(ii)下位者は常に上位者からの恩恵にあずかり、それが所有するものを上位者に「還付」または「奉納」することはできるが、「恩恵として与える」ことはできない(受恵・奉納の原則)ということであった。この原則は、次のような要領で言語的に表現される。

(18)恩恵原則の文法化のための指針要領A. 原則 Cにより、上位者が利益の受け手になる文は極力これを避けること。上位者がやむなく受け手に立たされる場合は、すなわち、下位者の恩に着せられる場合は、上位者への授与物は「貢ぎ」のような「進呈物」であることを明らかにすること。

B. 下位者への恩恵の移動は「下賜」、上位者への進呈物(貢ぎ)の移動は「捧呈」などのような特別な位相表現によって語彙的に峻別すること。

次に原則 D に関する文法化に伴う指針要領を見てみよう。

3.4.4 使役特権の原則と文法化指針

使役特権の原則 Eによると、(i)上位者は常に下位者を使役する特権を持

ち、(ii)けっして下位者によって使役されない。下位者のほうは使役そのものも恩恵として受けはするが、下位者自身は上位者を対象に命令文を発することができない。権益が上位者に独占されていることから、上位者に対する下位者の命令

は、原則的に不可能である。このような命令には「要求」と「指令」という2つのモードが考えられる。まず、上位者に何かを「要求する」という形の命令も原則 Dを犯すことであることから、「お願い」または「嘆願」の形に変換される。[命令 → 要求 → 嘆願]の変換方式は、いわば、下位者が行使する権利を上位者に委ねることを意味し、「~をせよ」という命令なり要求が「何々をしてくださいませ」、または、「~していただく」のような請願の形式を通じて、上位者への「お願い」に対して、上位者がこれを聞き入れるか聞き入れないかを裁く権利を有するもののような形に、つまり、「下位者の請求」を「上位者の裁可」の対象になるように言い直すことを意味する。また、上位者に対する指令も同様に命令の権限が上位者に委ねられ、「指令」自体も「させていただく」という「裁可」の形に還元される。下位者の命令(要求・指令)は上位者の「恵みあるお許し」になり、下位者の命令・要求による上位者のやむなき「労働」が逆に「恵み」に姿を変える。上のようなことを使役特権の文法化のガイドラインとしてまとめると次のようになる。

(19)使役特権の文法化のための指針要領上位者が被命令者、または被使役者になる命令または使役は、恩恵の原則 D(13)とその付随要領によって、受恵の形を持つ「嘆願文」に変換する。嘆願文では、上位者の労役対極化の原則(11)とその指針要領(16)を、そして、使役特権の原則 E、すなわち上位者の「使役の特権」(14)をも満足させること。この要領による文法化を「命令

→ 懇願の逆転」または「上位者への権限の委託」という。

この文法化要領(19)に従い、「くださる」や「いただく」のような授受動詞が援用され、[V1 – V2]のような複合形が作られる。V2には下賜(授恵)の動詞「くだす」や受恵の動詞「いただく」があてがわれる。V1は「お V

78 79第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説 第3章 敬語の原則とその文法化

になる」のような尊敬形かまたは使役形「させ」のいずれかになる。使役「させ」が介入する謙譲形は第 6章で「権力の譲歩」という概念で詳説する。(19)により(20a)と(20b)のような規則が成り立つ。

(20)a. [[[(お)V]]動名詞句[くださる]]授恵(上位者への命令)

b. [[お Vになって]非対格化[いただく]]受恵(上位者への命令)

c. [[Vさせて]使役[くださる] 授恵/[いただく]]受恵(上位者への施恵)

上に仮定したことは第 4章で検証される。

3.5 敬語の原則における「上位者・下位者」の相補関係

(10)~(13)に示した原則 A~ Dはそれぞれ対になっている 2つの陳述で成り立っている。これは偶然そうなっているのではなく、敬うものと敬われるものとの相関関係からの当然の帰結である。敬語のこの相補性については先学、特に、時枝(1941)の理論に強調されている。

(21)尊敬と謙譲は「寧ろ表裏の概念の如く、謙譲なくして尊敬なく、尊敬があれば必ず同時に謙譲がなければならない。故に、謙敬の二つの概念を以って敬語の二大別の範疇とすることは理論上からも決して妥当なことではない」(同書 :457)。

謙譲と尊敬の概念による敬語の分類を不可とする(21)の意見は問題であるが、尊敬と謙譲が表裏をなすという考え、そしてこの 2つが別々のものでないという時枝の主張は、われわれの上位者に関する事項と下位者に関する事項が相補的に関わっているという考えを支えてくれる。本書で仮定するメタファー理論では、このような上位者・下位者間の相補性は上で見たように敬語原則の諸項目の中に内在的に含まれている。したがって、特にそれを取り立てて扱う特殊要項を設ける必要がなく、その点、

本書での接近法がより広い説得力を持つものといえよう。

1 菊地(1997:43)にも、「場」の概念が導入されている。しかし、菊地の場合は、

「場」はたとえば、公の場または社交的な場というような会話が行われる状況または

場面を意味していて、本書での「場」の概念とは大いに異なることに注意されたい。

本論での敬語の場の概念は公的な場、私的な場、改まった場、砕けた場というよう

な語用論的な状況に関わるものでない、より一般的な概念である。

2 このような「潜在的上位者」という概念は Brown & Levinson(1978, 1987)の

Face Threatening Act(FTA=潜在的面子損傷行為)で説明できる特殊な事例と見る

こともできよう。敬語といわゆるポライトネスの相互干渉については第 9章で取り

上げる。

3 敬語の研究で「傍観者の次元」が論議されることがある。これは Comrie(1976)

によって導入されてから広く認められている敬語概念の 1つである。特に欧米の研

究者の間では、いわゆる〈bystander〉の敬語はまた「姑の敬語」として知られてい

るものである(たとえば Dixon 1972参照)。しかし、ここで上位者の身内の人物が

居合わすときの「敬語の場」の活性化または持続は上のような「姑の敬語」とは厳

格に区別されなくてはならない。なぜなら日本語では尊敬・謙譲・丁寧の 3つの形

式のほかに傍観者を意識した敬語の文法様式というものはないからである。日本語

でもたとえば妻の実家の家族に気兼ねして敬語の場のキャンセルを留保するような

事態はいくらでもあるが、かといって、これをオーストラリアの言語で観察される

とする傍観者用の特別な語彙や文法様式である「姑の敬語」と同一視してはならな

い。

4 清の目に映る「坊っちゃん」は、旗本の主人の次男坊という身分的な違いからで

あるというよりも、「麴町辺へ屋敷を買って役所へ通う」そういう人物、つまり未来

に投射されている、若旦那なのである。清の敬語は、そういう成人した若旦那に対

しての敬語だといったほうがより相応しいものであるかもしれない。

5 たとえば、Dasher(1995:144)は、「うちのわたらせたまうをみたてまつらせたま

うらむおんこころ」の「たてまつる」は話者(この場合は枕草子の筆者)と「皇太

后」との敬語関係でなく、「筆者」に対する「陛下」、または、誰か傍観者としての

第三者(皇太后の嗣子)に対する敬語であるとしているが、この場合の「筆者と陛

下」の間の敬語の場は上でいう「恒久性敬語の場」の規制を受けるからであると見

80 第1部 敬語の統合理論への新しい接近と作業仮説

るべきであろう。

6 これらのメタファーについては、豊富な資料に基づく彭(2000)、Kádár(2010)

などの秀逸な研究が大いに参考になる。

7 寺村の「なる」型言語の思想を発展させた日本語における動作主役割の背景化に

ついては、影山(1996, 1999, 2000, 2001b)などで論じられている非対格化、または、

非使役化現象に関する卓越した生成意味論を参照されたい。

8 この場合の「申し上げる」について、菊地(1997:296)では、「『お/ご~申し上

げる』の機能は『お/ご~する』と基本的に同じである。(『申し上げる』に『言う』

の意はない)。だだし、敬度はずっと高い。日常語ではなく、手紙や改まった挨拶な

どで使い、したがって、高められる補語もⅡ人称のことが多い」としている。また、

同書 :309では、小松(1967, 1968)の研究に触れ、「『お/ご~申す』、『~申す』は

江戸時代に盛んに使われた形で幕末の『お/ご~いたす』、明治期の『お/ご~する』

の成立に伴って、次第に『いたす』系や『お/ご~する』に押されて衰えていった

もののようである」としている。

9 この呼び方は菊地(1997)とMatsumoto(1997)に負う。

第2部

展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し

83

日本語の敬語表現の中でもっとも常用されるものといえば、なんといっても「です」と「ます」であろう。それというのも、この 2つは素材文をいわゆる丁寧形に仕立てる助動詞で、先生がいらっしゃいますにも、駅でお待ちしておりますにも付くが、明日は雪ですのように、目上の人物と関わりがない文にも現れる。このような「です・ます」による丁寧形は、本質的には、素材文を一つの贈り物として上位者へ捧げる一種の隠喩様式と見なし、これを「不浄」を守るための包装のメタファーであると特徴付ける。この章では包装メタファー様式を品詞ごとに調べ原則 Aの投射であることを示し、「ます」と「です」の文法化に関する新しい分析を行う。この節では、まず丁寧表現が発話命題文の外装部に当たるものとして、こ

れが敬語の原則 A(隔離の原則)を反映する禁忌・包装の概念メタファーであることを示す。

4.1 禁忌標示としての包装様式

第 2章と第 3章でタブー的存在である上位者は下位者の隔離の対象になり、上位者に対する下位者の行動は大きく制限されると述べた。タブーはその共同体の成員すべてに周知される。不注意によってこころもとない不敬な行為で、タブーである上位者の平静を乱す恐れがあるからである。このようなことを未然に防ぐために、上位者がタブー的存在であること、そして、そ

第4章

言葉の豪華包装のメタファー第 1部で「上位者はタブー的存在」であるという仮説の下に 5つの隠喩的原理を導出した。この第 2部はこれらの隠喩的敬語原理がどのように日本語の文法に具体化しているかを示す展開部になる。第 4章は「です・ます」の丁寧表現が一種の「包み」の様式であることが検証される。禁忌隔離の原則に従って、話し手が上位者に対する発話行為を助動詞の「ます・です」に包まれた陳述内容の隠喩的な贈呈様式であることを示す。第 5章では尊敬形式と謙譲形式が労役の原則の文法化であることが示される。第 6章では尊敬形と謙譲形の 2つの様式が「くださる」や「いただく」のような授受動詞を介して、二次的・副次的な構造を作り、これが恩恵・利益の移動に関する原則の具体的な隠喩表現であることを示す。使役・裁可の原則や位相の原則のメタファー化メカニズムもこの章で論証される。

84 85第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第4章 言葉の豪華包装のメタファー

れは汚されてならない神聖なものであることが明示される。Durkheim(1915)

のいう儀式はこのような隔離の仕組みのもっとも手の込んだ典型的な例といえよう。敬語の場でも、それに居合わす共同体の成員にタブーが現前することを知らす何らかの具体的な警報方策が採られなければならない。敬語においては、このような警報は隔離の原則 Aの文法化へのガイドラインによって具体化される。

(1)原則 Aの文法化ガイドライン上位者とその延長としての事象は象徴的表示によって他から厳密に区別されなければならない。反面、下位者は前者とは対極的に峻別される。場合によっては、下位者自身も特別なしるし(徴)により上位者から区別される。上位者の呼称には「お・おん・御」「様・さん・先生」などの接頭辞、接尾辞、そのほか、上位者・話者の動作・事象・状態などの表現には「大・小」「高・弊」「貴・卑」など漢語系敬語の品詞を用いる。

上位者が身なりや持ち物や住居や乗り物などで飾られるのと同じように、上位者の身内の成員、性質、思考、情感、言語など抽象的な事柄――これらを上位者の「延長体」といってもよい――に特定の言語的標示が施される。下位者はこれによって、上位者から自動的に区別されるが、別に、卑称(私共、小生)などによって特に下位者であることが表示される。

4.2 敬語の接頭辞と接尾辞

儀式で祭主が自らを清め、礼物を特殊な容器に入れたり、それを特殊な台に載せたりすることによって(たとえば、白装束になるとか白の手袋をはめるとかして)タブーの領域の神聖の保全を図るのであるが、このような行いはタブー的存在に対する「不浄」を保障する一連の象徴行為と解される。このような隔離の象徴様式が、上位者に向かって発言する文全体を包む文法的な

仕組みにも認められる。この場合、上位者への発言行為自体が発言内容、つまり、メッセージをあたかも何かの贈り物のように「ます・です」で包んでタブーである上位者に差し上げるというふうに喩えられている。この節では、包装のメタファー行為、または、単に「包装のメタファー」と呼ぶ。これを、品詞別に調べてみよう。

4.2.1 名詞の包装

日本語では、上位者および上位者の延長体に関する名詞のための隔離のメタファーは、(2)で見るように、特殊な語彙項目、または、規則的に接頭辞・接尾辞の形で現れる。敬語の接頭辞には「お」と「御」が常用される。「お」は古語で「偉大」を表す「オホ(大)」の縮約だとされている。「おところ」といえば、「偉大で尊厳なる貴方のところ」という意味のように解釈される(広辞苑 1998:322)。「御」は漢語では「制御する」の「ぎょ(御)す」で、人を自分の意志で動かす、指図する、国を統治するの意味があり、広辞苑(1969:585)には「(天子が)おつかいになる」の意も挙げられている。古代漢語で起こった動詞の「御」から敬語の接頭辞の「御」への変化は極めて自然な成り行きであったといえよう。また日本国語大辞典第 2版第 12巻(2001:603)に「み」と読まれる古典語の接頭辞「美・深」のグループに入れられている「御」は、「みけ(御食)・みあかし(御明)・みぐし(御髪)・みいくさ(御軍)」などの用例が挙げられている。「み空・み山・み雪・み籠・み吉野」は「美・深」の用例がある。このうち、「みぐし」のような例は「髪」が「櫛」のメトニミーで表れされているが、この種に見えるメタファー化現象の典型的なものといえよう1。 直接上位者の所有するところでない公共物、公共の場などは(3)で示すように、一般に「お・御」による包装操作から除外される。

(2)お考え、御気分、お疲れさま、御苦労さま、お蔭さま

(3) *お駅、*先生のおタクシー、*おスーパー、*お劇場 等々

86 87第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第4章 言葉の豪華包装のメタファー

商業活動に従事するものにとっては、すべての顧客は上位者であるという通念(たとえば、「消費者は王様」メタファー)があることから、顧客向けの用具・設備は、たとえ共用のものであっても、(4)に見るように適宜「包装」される。

(4)おしぼり、おさじ、お手洗い、おトイレ、お座席

顧客が直接消費するものにも接頭辞を付ける。

(5)お弁当、お茶漬け、お塩、お菓子、おつまみ、おビール 等々

上の(3)で見たように公の設備は「お・御」が付かないとしたが、同じ公共の場や行事の場合でも、(6)のように接頭辞が付く場合がある。

(6) a. お城、お寺、お役所、お墓b. お参り、お祭り

(6a)の場合は、禁忌体が安座する場所であり、(6b)の場合は、禁忌対象におもねる行事であることを示すからだと見られる。豪華包装メタファーとしての禁忌標示は上位者のものに限らず、下位者の事物や言動にも施すことがある。下位者によってなされるもの、作られるものが豪華包装される(7)のような場合は、どうした理由によるのであろうか。

(7)(下位者による)お手紙、おみやげ、お電話、お話、お知らせ、お祝い等々

これは、それらが「上位者の用に供せられる」という意味においてのみ可能である。すなわち、下位者が書く手紙は、上位者が読む手紙であるという意味で敬意表現の対象になる。また、「お土産」は、たとえ下位者が買ったものであっても、これは上位者のためのものであるかぎり、当然豪華包装

されるべきであろう。また、結婚式はそれが友人の息子の結婚式であっても「お祝い」であり、その結婚式に持って行くプレゼントも「御祝儀」である。これは、もちろん、婚礼そのものが、新郎新婦の幸ある未来を、タブーなる存在に託する厳粛な公の行事と見なされるからだと考えられる。「お葬式」という表現も単に、美化語というよりも亡き人の霊の安寧を同じようにタブーなる存在に祈願するためのものであるからだといえよう。

4.2.2 動名詞の包装

もちろん、禁忌標示は、敬語の接頭辞「お・御」のような形で名詞や形容詞に現れるばかりでなく、連用形の動詞から派生してすでに語彙化した動名詞にも現れる。

(8)おしぼり、お祭り、お祈り、お参り、お祝い、お茶漬け、おつまみ、お知らせ、お話

いわゆる「敬語動詞」として知られている語彙化した「お+動名詞」には、たとえば、次のようなものが挙げられる。

(9) a. 尊敬形:お越しになる、お出でになる、お休みになる、お隠れになる

b. 謙譲形:お伺いする、御覧に入れる

4.2.3 形容詞の包装

名詞類ばかりでなく、それを修飾する形容詞に接頭辞付加によって包装を施すのはもちろんである。次の例を見ていただきたい。

(10)a. 山田先生のお子様は大変御聡明でいらっしゃいます。b. 奥様のお召し物がとてもおきれいでございます。

88 89第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第4章 言葉の豪華包装のメタファー

c. 当節はお忙しいことと存じます。d. お嬢さんはさぞお美しくおなりでしょう。e. このあたりほんとにお静かですこと。

4.2.4 副詞の包装

少数ではあるが、「お大事に」「御無事に」「お気楽に」「御寛大に」「おめでたく」などのように副詞類にも「お・御」接頭辞が付く。

(11)a. お久しぶりに、こちらのほうへお見えになりました。b. おすこやかにお過ごしください。c. 御ゆっくりなさってください。d. 今日はお孫さんと御一緒にどちらかへお出かけですか2。

このように、「お・御」の選択も敬語の深層における原理的制限に左右されていることがわかる。この副詞の包装は、統語的な立場から、尊敬・謙譲の動詞句との同一標識による共鳴的なプロセスとして捉えられる。敬語の項構造の内部で上位者に指定されている項に尊敬を表す素性標識が付けられるとすると、そのような動詞の構文に現れる副詞も、同じように包装形態素の「お・御」をとることになる。謙譲の素性標識も同じように取り扱われよう。「みなお先にいただいて、お父様おひとりです」(川端 1957:292)に見える副詞「お先に」は謙譲の素性標識を持つものといえよう。この文における浮動数量詞「おひとり」は尊敬の対象「お父様」と同じ素性を持つことから接頭辞で包装されている。「先生は御ゆっくり浜辺をお歩きになった」と「私はゆっくりと先生に御説明申し上げた」のような文での「ゆっくり」の「御」による包装は先生が主語である場合においてのみ可能で、下位者の「私」が主語になっている謙譲文には適用されないことが統語的に説明される。もっともこのときの副詞は「+生態(animate)」という意味素性を持つものに限られるのはもちろんである。

4.2.5 美化語について

いわゆる美化語の範疇に入れられている表現の多くは、このような見方から再検討されてよいと思う。辻村敏樹(1968)は敬称・謙称・美称間の通時的な転移の問題について一連の原則を提案し、敬称と謙称はともに美称へと一方向的に転移するがその逆はないとしている。それにしても、記述的な説明を超えた、そのような転移がなぜ一定の方向にしか起こりえないのかという問いが残る。金田一京助(1951)では上位者宛の「お手紙」を新しい世代の間違いから来る新しい言葉だと分析されているが、すでに述べたように、上位者に読まれる「手紙」、上位者に届けられる「お手紙」も一種の進上物という解釈も可能であろうし、また、書信が通信機関を通じて行き来するという面から見れば、これも、多分に「おおやけ」性を持つものと見られることから、「お手紙」も一種の公共化の所産と見られよう。

4.3 文の豪華包装メタファー――丁寧形の助動詞「です」と「ます」

禁忌標示は語彙項目だけに限らず、下位者が上位者に向かっての発言内容を伝える文全体にも施されている。下位者の発言内容、つまり、素材文全体があたかも上位者への「贈り物の包み」のようになっている。丁寧形として使われている助動詞「です」と「ます」は上位者へ「言上する」に際しての豪華包装の働きをしている。丁寧の助動詞は、下の(12)が示しているように、言上する文全体を包み込むメタファー様式と解される。

(12)丁寧形の規則a. [   ]Sますb. [   ]Sです

   (ただし、「です」は繫辞の述語にだけ下接する)

この場合、助動詞の「です・ます」が相手に対する敬意の表現であるのは

90 91第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第4章 言葉の豪華包装のメタファー

もちろんであるが、文の意味構造には直接関与しない、いわば、触媒的な機能を持つ実体と見てよいであろう。素材文の真理値に中立的でありうる触媒的な動詞といえば、素材になる文を「話す」「告げる」のような発話・言明の動詞や人にメッセージを「伝える」のような伝達の動詞などといった談話遂行動詞が考えられる。実際、丁寧の助動詞「です・ます」は歴史的な資料から発話動詞から由来したことがわかる。上の(12)のような分析はすでに Harada(1976)の敬語体系の分類法に見えるもので、「です・ます」を丁寧形という代わりに、語用論的敬語(performative honorifics)と呼んでいる。つまり、それらは、素材文に当たる命題文から「です・ます」を命題外要素として構造的に分離されている3。Haradaのこのような分析は、Ross(1970)で提案された語用論的分析(performative analysis)の考えを想起させる。実際、Haradaは日本語の語用論的敬語(丁寧形)を Ross(1970)の談話遂行論・語用論的分析法で説明できるかもしれないと論じている。Rossの提案によると、すべての「文」の深層構造には(14)のような談話遂行動詞が生成され、表層構造への変形過程で遂行濾過装置によって消去される。

(13)a. 私があなたに S(文)という。b. 私が S(文の内容)をあなたに要請する。c. 私はあなたが私に S(文)を話してくれることをあなたに要請する。

(14) [[私が]NP [あなたに]NP [S]と]CP [いう]PREDITE]S (Harada 1976:560) 4

上の代表的な(13a)は、(14)のように、主語(私が)、間接目的語(あなたに)、直接目的語(埋め込まれた文)の 3つの項を持つ構造として示されている。ところが、この(14)の構造は「下位者の私があなたに何かをお V

する」という謙譲形の構造と変わらないことがわかる。すると、これは命題敬語の謙譲形の構造であって、談話遂行敬語(丁寧形)の構造になり、(14)で意図しているところに反する結果になることから Haradaは Rossの談話遂行消去変形仮説をとらないとしている。

しかし、われわれは Haradaが丁寧形の構造としては無効であると判断した(14)のような構造こそが、かえって丁寧形の真の姿を暗示するものと見る。丁寧形の「です」と「ます」はもはや本来の動詞ではなく助動詞になりおおせたもので、もともとは、それぞれ古典語の動詞「そうろう」と「申す」に由来したものである。そして、そのような丁寧形への転化を可能にしたのも、さらに、「そうろう」と「もうす」が元来謙譲の意味を持つ談話遂行動詞であったとする分析もある。つまり、下の(15)のような通時的文法化は偶然によるものでなく、このような文法化を起こす最適な条件がもともと備わっていたのである。

(15)謙譲の陳述動詞 → 丁寧の助動詞

まず丁寧の助動詞「ます」が備え持っていると思われる意味・機能の素性を見る。

(16)a. [+補助動詞性](←[+動詞性])b. [+二人称/談話遂行性](←[+陳述性])c. [+敬意性](←[+謙譲の敬語])

「ます」は陳述の補助動詞で、常に聞き手(二人称)が関わる丁寧の敬語である。このような「ます」から変化してきたソースになる言葉があるとすれば、それは(16)の丸括弧の中に示されている素性を持つ動詞である可能性がもっとも高いであろう。「ます」は語彙的に見て、上記(16a)(16b)(16c)の意味素性をすべて具有する陳述の動詞であり、丁寧形を除く素材の敬語といえば、尊敬と謙譲の 2つのうち、後者、つまり、謙譲形でなければならない。なぜなら、丁寧形が直接聞き手に対して敬意を表するのと同じように、話し手が奉仕する対象、つまり、間接目的語を持つ謙譲形のほうが、上位者を主語にする尊敬形より、丁寧の「談話遂行性」素質により近い関係を持つと見られるからである。さらに、謙譲形でも、素材文で斜格の上位者=聞き手になる B型謙譲形がより高い「談話遂行性」素性を持つことから、

92 93第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第4章 言葉の豪華包装のメタファー

丁寧の「ます」がより大きな親近性を持つのはいうまでもない。このように考えると、現代日本語の丁寧形の先行形は B型謙譲形であったと結論することができ、Haradaが破棄した(14)の文構造が上のような事情をよく反映しているものと見るのである。

4.4 告知・陳述の動詞から丁寧形の助動詞への文法化

上で、「お・御」のような接頭辞が、名詞類はもちろん他の品詞にも付くことができる一種の隔離の装置であり、上位者に対する発話文全体もまた上位者に差し出す「贈り物」であって、文末の「です・ます」の「不浄」を保障する言語的な包みのようなメタファーであると特徴付けた。この節では、日本語の丁寧の助動詞「です・ます」を一種の包みとする見方を支える通時的な変化を示す。命題文(ここでは辻村敏樹 1963に従って素材文と呼ぶ)を 1つの贈呈物として上位者に捧げるメタファーであると見なせば、このような「贈呈」機能は、二項動詞である授受動詞が用言に当てられるだろう。しかし、ここでの用言は上位者の聞き手に口頭で捧げるものであることから、授与動詞よりも告知・報知の動詞が贈与メタファーにより相応しいといえよう。言い換えれば、前節でも指摘したとおり、下位者の発言内容(素材文)を隠喩的に包む装置があるとすれば、それは何よりも 「あなたに素材文『Aが Bである』と申す」の「あなたに申す」のような報告の謙譲動詞が選好されるであろう。この場合の「マウス(申す)」のような報告の動詞が文法化を経て語用論的機能を持つ丁寧の形態素「マス」になる可能性はすこぶる大きいことから、§4.4.2で後述するように、[[Aが Bである]-マス]がのちに「Aが Bであります」のような丁寧文を生成するようになる可能性が他の補助動詞類に比して比較的高かったものと見られる。同じように、丁寧辞「です」も陳述・報告の動詞からの文法化と見られる。

4.4.1 「です」の起源――「そうろう・さぶらふ」

「です」の出自については、多様な説明がなされているが、Martin

(1975:1032)が引用している辻村敏樹(1967:193-194)の要約を見てみよう。

(17)a. de arimasu

b. de gozaimasu

c. de+ su(ru)(繋辞の「て」補助接続形に「す」がついたもの)

d. de owasu

e. de sourou

Martin(1975)自身は標準語の「です」は「であります」の省略形であり、大阪と東京の方言に共通の「だす」があって、「でございます」または「でおわす」をとるとしている。同じところで、Martinは Lewin(1959:128-129)

の分析に言及している。それによると、「だ」は室町期の「であり」とされる一方、「です」は江戸初期の「であります」または「でそうろう」の縮約形であり、江戸初期ごろの「です」が「であります」または「で候」から派生したものと分析されている。この節では上の 5つの説明のうち、(17e)のLewinの「でそうろう」説を採るが、その理由は全く違った根拠からであることを示す。われわれは先に§4.3の (16)で「です・ます」のような丁寧形の語彙的な素性として[+補助動詞性][+二人称 /談話遂行性][+敬意性(丁寧)]を持っているとした。(16)を再掲する。

(18)=(16)a. [+補助動詞性](←[+動詞性])b. [+二人称/談話遂行性](←[+陳述性])c. [+敬意性](←[+謙譲の敬語])

助動詞の「です・ます」が動詞から派生したものとすれば、そのような動

94 95第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第4章 言葉の豪華包装のメタファー

詞もこれら 3つの素性をはじめから備え持っていたであろうと判断される。そのような動詞は何よりも陳述の動詞であった可能性が高かったものと思われる。さらに、陳述の動詞でも特に話しかける相手が上位者である動詞は謙譲語の動詞でなければならない。このような条件を満足させることができる動詞として、「申し上げる」と「でそうろう」の 2語を挙げることができる。

(19)a. 申し上げる → ますb. でそうろう → です

はたして、この 2つの動詞が上代において陳述の動詞として機能していたであろうか。広辞苑(1969:900)には、「そうろう」は動詞として目上の人に「仕える」

「参上する」「伺う」の意、そして「あり」の丁寧語と出ていて、久松ほか編・角川古語辞典(1981:528)、小学館提供のデジタル大辞泉、大野ほか編・岩波古語辞典(1974:570-571)など一般に行われている定義と大同小異である。これらのソースからは(18)(19)のようなわれわれの仮説を支持する資料が見つからない。このような結果は他の先行研究を見ても同じであることがわかった。しかし、上掲の広辞苑の第 5版(1998:1557)は、同じ項目の助動詞の見出しに「活用は四段型。動詞およびある種の助動詞の連用形、「に」「で」などの助詞に付いて、目下の者が自分に関することを目上の者に述べるのに用いた」と出ている。この説明には例文がなくて確実なことはいえないが、たとえば、「私共の過ちで/(にて)候」(私たちの過ちであると申し上げます)のような文が考えられるとすれば、このときの「候」は助動詞でなく本動詞と見なされなければならない。したがって、このような「候」はわれわれの仮説からすると、「言上する・お告げする」のような「Aが B

に Cであると伝える」という解釈における B、つまり「です」文の命題に当たる Bを補語のように見なすことができて、それが「です」へ変化していったと見ることができる。この分析には謙譲の他動詞「言上する」の項構造と助動詞化した「です」の間に構造上の大きな変容を仮定しなくてもよいという利点がある5。 このような分析は「でそうろう」も「です」もともに

助詞「で」を共有していて、特に「Bである」ということを伝えるという場合の「である」という確定の助詞を新しく導入する必要がないということもわれわれの説を有利にするもう 1つのファクターになる6。

4.4.2 「ます」の起源――「申す」

丁寧の助動詞「ます」も報告・伝達の動詞から派生したとする考えを支えるような証拠があるのだろうか。「申す」ははっきりと弁別的に違った 2つの意味を持っている。1つは「申す1」で「言う」の謙譲語、もう 1つは「為す・する」の謙譲語としての「申す2」である。日本語の「申す」という動詞に 2つの違った意味があるとする松下(1978:29)の観察がある。

(20)a. 甲事務員が社長に向かって「乙はこの事業は有望と申しますが貴方はいかがお考えになりますか」

b. 甲事務員が乙事務員に向かって「社長がこの事業は有望かどうかとお尋ねになったら君は何と申し上げる?」

これらの例文に見える「申す」は「言う」の謙譲語で助動詞でなく本動詞に用いられている。われわれの仮定からすると、(20a)の場合、 「この事業は有望だ」ということを上位者である貴方に申し上げる(ご報告する)のでありますという意味に解釈できる。また、(20b)の「申し上げる」も「何というか」という報告の動詞に使われている。それに対して、下の(21)での「申す」は陳述の動詞でなく敬語の接頭辞を伴う目的語をとる他動詞である「申す2」である。括弧が施してある文は奉仕の補助動詞「差し上げる」によって言い換えたもので、「何々をした。そして、それを差し上げる」という二重構造が文法化したものであることを説明するためのものであって、括弧の中の(21c)~(21e)などの文が日常会話で聞けるものでないのはいうまでもない。

96 97第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第4章 言葉の豪華包装のメタファー

(21) [[[o / go[ ]N]NP [mousu2]V]VP

a. [[御尽力]  申す2]([御尽力して]差し上げる)b. [[御周旋]  申す2]([御周旋して]差し上げる)c. [[お見舞い]申す2]([お見舞いして]差し上げる)d. [[お話]   申す2]([お話して]差し上げる)e. [[お訪ね]  申す2]([お訪ねして]差し上げる)

上の「申す2」の用例は同じ松下(1978:34)からの引用であるが、動詞句の構造をブラケットで示した。こうして見ると、ブラッケットの中の動名詞句は「申す」の内項、つまり目的語になっている。このことから、(21)の「申す2」は「する」のような他動詞であることがわかる。これはやがて「する」によって[[VN]する]に代置され、生産的な「お・御 NVいたす」「お・御 NVする」の形を持つ現代の謙譲形になる。丁寧形「ます」が「申す」に由来するという説は「かなり広く行われて

いて、常識的にはほとんど疑いのないもののように思われるとする松尾(1978:62)の指摘がある。松尾は「申す」と「ます」が同じ意味に用いられている下のような例を挙げている。

(22)a. 「申す」→「ます」⒤ あな心憂などまし騒げど(栄花物語)ⅱ 播磨なる所にあらんとて罷るよしましければ、(後葉和歌集)

b. 「ます」→「申す」⒤ ひだるくてなり申さない(東海道中膝栗毛・初篇)ⅱ こなたのいういことがあたり申さない(同上)ⅲ はたごは十六文ずつ出し申そう(同上)ⅳ 世を忍ぶ身なれば一所には置きまされず(菅原伝授手習鑑)

また、現代でも南九州方言の丁寧形は、「行き申す」「読み申す」が一般的で「ます」はほとんど聞かれないという。しかし、松尾(1978:62)は同じところで上の「申す=ます」分析にとって不都合なものとして次のような例文

も挙げている。

(23)a. これはしかそう申しました(東海道中膝栗毛)b. 少しはおませ申しませう(同上)

しかし、(23)の「申す」はすでに論じたように報知の補助動詞「申す1」と区別される奉仕の他動詞「申す2」としなければならないであろう。松尾(1978:63-64)は結論として「要するに、『ます』は『申す』、『参らす(まらす・まつす)』、『おはす』三語の混合と見るのが妥当であろう」としているが、これについては別稿に譲りたい。

1 「み」読みの「御」については、角岡(2008:55)に日本国語大辞典の資料に基づ

いた考察がある。

2 (11)の用例で見るように、生産的な接頭辞による表現のほかにも、(11a)の「こ

ちらの)ほう」、(11d)の「どちら」などの語彙的敬語表現も用いられる。「xのほ

う」「xのかた」「xのへん」などの位相的な名詞、また「(xの)ころ」のような時

相的な名詞を本書では adessive(概略、または、ぼかし方位)性の名詞、そして、

それに「で」「へ」「に」などの位相的な助詞を伴った句を adessive(概略、おおよ

そ、または、ぼかし方位・場所)後置詞句と呼ぶ。たとえば、「このへんで」「5時

半ごろに」「そちらのほうへ」「ご来賓方に(おかせては)」などがその例で、この

ような adessive的な表現「概略・おおよそ方位場所格」が敬語表現に常用されるの

も上位者が所在する場所を枢軸域つまり禁域とするメタファーの顕れであると見ら

れる。これについては日本語の敬語における adessiveに関する筆者の論文(Kim in

print)を御参照されたい。

3 日本語の動詞句はアスペクト、時相、法相、文型などに関する要素を含み、それ

らがいわゆる膠着式に連結されるが、この膠着性連鎖には一定の順序があって、そ

れぞれの要素は本動詞の意味にもっとも深く関わる要素、たとえば他動詞を作る形

態素「す」、受身や自発の「られ」などは本動詞にもっとも近い位置に現れる反面、

動詞の意味の規定に直接関与しない疑問詞や「です・ます」のように動詞の意味素

性よりも談話の場における聞き手に関わる要素は本動詞から離れた文末に現れると

98 第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し

いう意味と様式の間に図像(icon)的な相関関係があって興味深い。このような文

法における図像性(iconicity)についは Bybee(1983, 1985)に詳しい。

4 このような構造は生成文法初期の枠組みによるものであるが、Haradaの論旨を理

解するには充分であり、かえって便利でもある。

5 岩波古語辞典(1974:1432)では、「さぶらふ」が samorafu → saburafu → souro →

soroのような変化過程をたどるとしている。なお、古語の「さぶらふ」が中期韓国

語の謙譲語 s vlo-taまたは s vloi-ta(申し上げる)に対比できる可能性を論じた筆者の

Kim(2006b, 2011など)を参照されたい。

6 このような考えに関しては、中世韓国語の s vlp-ta、または、saloe-ta(「申し上げ

る」または「謹んでお伝えする」 の意)を用いて韓国語と対比できることを示したKim(2006a, b)などを参照されたい。

この章では、前章で考察した命題外敬語が隔離の原理によって包装メタファーで表されているのと同じように、現代日本語の命題内敬語、すなわち尊敬形と謙譲形も労役の原則による自発または「臨場」のメタファーで表されることを示す。

5.1 贈り物の内容としての素材文の敬語とそのメタファー様式

前章で、話者と聞き手の間に働く「タブー標示の原則」が敬語、特に丁寧形の文法をどのように規制しているかを考察した。上位者をタブーとする共同体では、このような原則に従って、上位者を特別標示し、またその付属物もさまざまな象徴を通じて上位者自身はもちろんその身内、その付属物を侵すことがないよう共同体成員に警告・隔離されるとした。日常談話においても、このような隔離現象は、接頭辞・接尾辞、文末の

「です・ます」助動詞などの形を持つ包装のメタファーに見られる。下位者の発話文は「です・ます」で「豪華包装」され、それが上位者への贈り物として隠喩的に「謹呈」される。この場合、発話文の内容――すなわち、素材文 Pは、下の例文が示すように、与えられた文の外皮に当たる包装自体とは区別される。

(1) a. [あれが金門橋であり]P ます。

第5章

敬語における「する」と「なる」のメタファー

100 101第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

b. [雨が降ってい]P ます。c. [きれいな月が出てい]P ます。d. [僕の弟がビデオゲームをしてい]P ます。e. [先生がいらっしゃい]P ました。 f. [先生はもうお帰りになり]P ました。g. [先生が本を読んでいらっしゃい]P ます。h. [では、西宮北口で(先生を)お待ちしてい]P ます。 i. [そのことについて、先生にお伺いしてみ]P ました。 j. [コピー代は直接会計にお払いし]P ます。(私が先生の代わりに)

(1a) ~ (1c)の内容は外界の事象について、または、話者の身内のものの行為に関するもので聞き手の上位者とは直接なんの関係もない文である。「ます」で表されている上位者に対する畏敬の意識――すなわち、敬意は、これらの文がその内容とは関係なく、発話文の聞き手に対するものになっている。(1d)では、素材文 Pは、主語の「僕の弟」がゲームをしているという内容で聞き手の上位者とは直接関わるところがなく、したがって、話し手とその弟との間に敬語の場が成立せず、尊敬・謙譲のどちらも要求されない文である。これとは違って、その他の文では、すべて上位者がなんらかの形で関わっていてそれぞれ敬語の場を形作っている。(1e) ~ (1h)では、上位者が「先生」で文の内容の主語になっている。(1h)では、上位者の先生は、話し手の「待つ」という動詞の目的語である。(1i)の先生は与格で、「伺う」という他動詞の間接目的語の役割をしている。(1j)では、直接目的語(コピー代)も間接目的語(会計)も直接的には上位者とは関係がないように見えるが、「私が先生の代わりに」支払いをするという暗黙の関わりを持っている文である。このように、丁寧形の「ます」は聞き手の上位者に関わるものであって、文 P の内容には直接関係がないことがわかる。事情は「です」の場合もまったく同じである。この章では、(1e) ~ (1j)で示されているように、丁寧形の「です・ます」から一応区別される文の命題部、すなわち、素材文における敬語――尊敬形と謙譲形の 2つの下位範疇を持つ敬語が先に提示した枢密軸の原則、特に、

労役対極化の原則によってどのように支配されているかを考察する。本章は、大きく、3つの部分から成り立っている。第 1節では尊敬形の文法様式が動作主労役ゼロ化による非焦点化メタファーであることを、そして、第 2

節では謙譲の様式が労役極大化を通じた「奉仕」メタファーであることを明らかにする。第 3節ではわれわれの上位者即タブーのメタファーの仮説が統語論によっても支持されることを示す。

5.2 尊敬形における自発メタファー――動作主役割の極小化

この章では、素材文の中で動作主の役割を担う人物が上位者である場合、そのような人物に対する敬語、つまり、尊敬形が持つ特異な表現を分析し、これがわれわれの仮定する労役対極化の原則 Bによって動作主の役割をゼロ化するメタファーであることを明らかにする。

5.2.1 動作主性の隠喩的置き換え

日本語を母語とする話者が話すごく自然な尊敬表現も、言葉どおりにとってみると、表現の意匠が極めて凝っていることがわかる。そのような例をいくつか挙げてみよう。

(2) a. 私たちは山田先生がお出でになるのを待つことにした。b. 山田先生があるところから外へ出てくるような事態、すなわち、先生の出現というデキゴトを待つことにした。

上の(2a)では、先生が来るのを「お出でになる」としているが、字句どおりにすると、(2b)が示すように、先生があたかも「どこか四方が囲まれたところから外へ出でくることになる、または、そのような事態になる」のようにとれる。つまり、(2a)の字句どおりの表現には次のような 2つの意味が含まれていると分析できる。1つは、「出る」が、たとえば、「月が出た」

102 103第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

に見られるような「出る」であること、もう 1つは、「になる」が「何かがほかの事態に変わる」という意味にとれることである。これは、考えてみれば、大変面白い発想であって、「月」がひとりでに地平線から夕空に出現するように、「先生の出現」がまるで先生自身の働きによるものでなく、自然発生的に、何かの出来事のように表されている。つまり、先生の「来る」という意志的行為が意志の関与しない何かの出来事のように、先生が来るに際して費やされる労力がゼロであるような状態に喩えられている。これはまさに、われわれが第 3章で想定した労役量の極端化――この場合は先生の労力のゼロ化――の原則の予測するところで、「上位者の動作主としての意味役割は労役のゼロ化を通じて非焦点化されなければならない」という第 3章§3.4.2の文法化指針(16)が規定するところに忠実に沿っているものと見ることができる。このような表現は、自宅を訪ねる客を上座に据えて、何もさせないでもてなしをする日本人のメンタリティにぴったりの表現といえよう。A型尊敬形の「になる」も、このように、上位者が何かの動作をするような主体でなく自ら生起するものであるということを生成転化の動詞で言い換えるメタファー、つまり、上位者が「手を下さない存在」であるというメタファーになっている。自発の助動詞「なる」が主語敬語(尊敬形)においてこのような隠喩的な働きをしているという観察はことさら新しいものでなく、すでに、寺村(1976)、大野(1978)、池上(1981)、Hinds(1986)、久野(1983)、Shibatani

(1985)等の言語学者が指摘しているところである。特に、寺村(1976)、大野(1978)、池上(1981)らの研究では、日本語の 1つの特質として、「なる」のような自発動詞を使う表現の使用分布が、印欧語とは対蹠的に広いことに注目し、前者を「する」型言語、後者を「なる」型言語として捉えることを提案している。このような類型学的一般化ができる 1つの証拠として、池上(1981:199)は、特に日本語における尊敬形と「なる」の関係を下のような例を挙げて説明している。

(3) a. The Emperor ate.

b. 陛下におかせられては、お召し上がりになりました。

もちろん、この 2つの文は高貴な人の食事という出来事を表しているが、注意深く見るとその表し方において、両者の間に、かなり大きな差があることがわかる1。池上は(3b)の日本語の文を英語に直訳した(3a)と比較して、発想上どのような違いがあるかを調べている。

(4)AT EMPEROR,[   ]BECOME TO EATING

池上はこれについて、「ここでは〈動作主〉であるはずの主体が〈場所〉化され、その場所であたかも(主体なき)行為が生じたかのような形になっている。『する』的な出来事が『なる』的に捉えられて表現されているわけである」(同書 :199)といっているが、まさにそうであって、このようなデキゴト(尊者の出現)がその尊者の場所を指す尊敬の主格の助詞(「おかせられては」)で表されている。ちなみに、「おかせられては」が持つ形態論的適格性がわれわれの注意を引く。形態論的には(5)に示されている(i)から(v)までの 5つの分解可能な成分で成り立っているように見える。動詞の語幹に尊敬の助詞、それに丁寧形が承接、そして、それの連用形に「て」の付いたいわゆる「てフォーム」が認められ、最後に話題・対照の助詞「は」が配置されていて、動詞句の配列規則が厳格に守られている。「おかせられまして」を最終アウトプットにする経路には基底の動詞の活用によって 2つの可能性が考えられる。1つは(5a)のような下一段動詞と、もう 1つは(5b)のような五段動詞である。

(5)   ⒤     ⅱ     ⅲ   ⅳ    ⅴa. [okase ] +[rare]+[[masi]+ te] + [ha]b. [okaser] +[are ]+[[masi]+ te] + [ha]

    動詞   尊敬自発   丁寧  助詞 話題の「は」

ところで、(5)で想定されている 2つの動詞はどんな動詞であるかを見るために語句の各成分を末端部(v)から(ii)まで順番に消去していくとし

104 105第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

よう。(v)から(ii)までの各文法要素を取り除いていくと、(5ai)のような[okase-]か、または、(5bi)のような[okaser-]が最終的に残ることになり、これらの動詞の不定形はサ行下一段活用の(6a)またはサ行五段活用の(6b)のいずれかになろう。

(6) a. o ka s u 「犯す」「侵す」「冒す」b. o ka ser u (辞書に登録なし)

語幹部と推定される o ka suと o ka se ruを辞書で調べると、(16a)のokasu の項目はあるが、(6b)の o ka se ruはどの辞書にも登録されていない。ということは、o ka se ruはまったくの作為の動詞であって、(5b)のような規則を適用するために(3a)からの類推によって作られた仮想の動詞と見るほかないように見える。一方、(6a)の okasuのほうは広辞苑(1998:355)に「犯す・侵す・冒す」と見える。しかし、理論的に考えられる動詞としての「於かす」のような項目は見当たらず、「おいて(於いて)」の項に「漢文の「於」の字の訓読によって生じた語。『において』の形で格助詞的に用いられる。場所を示す。~のところにあって。~のなかで」と出ているばかりである(同書 :261)。この定義は、「おいて(於いて)」が動詞の連用形に「て」が付いたものでなく、元来、後置詞の一種であることを示唆しているものと見られる。また、岩波古語辞典(1974:207)にも「於かす」の見出しはなく、その代わり、連語と規定した「おいて(於いて)」が見える。この「おいて」については、「『置キテ』の音便形。『~において、~におきて』の形で、場所、日時、問題点・関係を示す助詞の役目をする」としており、また、同じところで、その出自について次のような解説が付いている。「もともと漢字の『於』は『在』に通用し、物の表面について存在するという意味で『オク(置)』と 読める字であった。そこで漢文の中で助詞として使われた『於』を~ニオキテ、~ニオイテと読む習慣が成立した。やがて、これが漢文訓読体の文章の中にも広がり、奈良時代以来使われていた『~にして』という形に取って代わり、広く使われるようになった」。つまり、広辞苑にも岩波の古語辞典にも「~において」について説明しているほか、「おかせ・於かせ」

自体に対しては問うところがない。「於かせ」の「於」が当てられている点、そして、「おかせ」が場所を表す斜格の「に」と共起する点、さらに、「おかせ」は上位者が主語である場合に限られて起こることなど、「おかせ」が場所を表す後置詞、特に素材の上位者に対する尊敬の後置詞であることを暗示しているものと思われる。たとえ、「おかせ」を「置かせ」と読んで目上の人が「何かを置かせられる」または「何かをお置きになられる」の意味にとるとしても、それが上位者の「自在」「自存」のような意味へ転換したものであるとするにはかなりの意味論的飛躍を要すると思われる。このように、「置かせられる」を、前述した「なさる」「くださる」のようなメタファー化した他動詞「なす」「くだす」と同じ型の動詞であるとするにはかなり無理な想定が必要になる。なぜなら、「なさる・くださる」はあくまでも意味的には他動詞であって、この場合のメタファー化は、「上位者が何かをする」ことがあたかも「おのずからなされる」ように擬することであって、上位者が「おのずからある場所に存在する」ことを表すのではないからである。したがって、 [okase-raretewa]または [okase-raremasitewa]から上で示したような比喩的な作為の文法素を取り去ったあとの部分、つまり、okaseは上位者が現れるところを指す場所を表す言葉、つまり単なる後置詞、または、尊敬の場所格ではないかと疑われる。また、okase自体も場所と意味的な関連性がもっとも大きい「置く」という動詞になぞらえたものとすると、敬語の接頭辞を連想させる「お」までも取り去った「かせ(kase)」に過ぎないかもしれないという見方も考えられる。しかし、これはあくまでも 1つの推論であって、現在のところ、このような考えを支えられるような日本語の資料は見当たらない2。要するに、「おかせられては」、または「おかせられましては」は助詞「かせ」をその外観と意味的な類似から連用形の動詞と見立てた analogyによる擬似動詞であり、それに敬語の規則を適用したものに過ぎないという結論になる。

5.2.2 「衆愚化」メタファーと複数表現

上で、池上(1981)が「おかせられては」を上位者の動作を場所化する

106 107第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

メタファーとして捉えていると述べたが、池上は、このような場所化メタファーは、さらに、敬意の対象となる人物が動作主であるというような直接的表現を避けることであって、敬意表現に「なる」が現れるのはごく自然なことだとする。そして、そのような例として、ヨーロッパの言語で敬意表現によく用いられる二人称代名詞の複数形もこのような直接的指示回避の手段であるとし、フランス語の tu と vousを挙げている3。 これは、Shibatani &

Kageyama(1988)がヨーロッパ言語の敬意表現における二人称代名詞の複数化を一種の「ぼかし」現象だとしているのと軌を一にする考えである。しかし、動作主の背景化・場所化と複数代名詞によるぼかし効果を同一視する考えにはたやすく与しがたい。

(7) a. I argue that...

b. We aregue that...

たしかに、(7b)文では、話し手が一人称の単数形を複数形の weにすることによって、話し手が多数の中の 1人として埋没されている。つまり、Shibatani & Kageyama(1988)に従えば、主張者の議論にたとえ間違いがあっても単数で表されている論者 1人の責任でなく漠然とした weのものであるという一種のぼかし効果を出すことができて、受身話法と同じように論議の根拠をある程度括弧に入れるような論法の例として見ることができる。しかし、そのような分析と違って、主張する論点が論者 1人だけでなく、他の人々も同じような考えであると暗示することによって、論点の妥当性をより積極的に擁護するという解釈もできよう。つまり、1つの主張を、複数の論者が「大勢よってたかって」強力な上位者である「あなたに対して言い張るのです」というような解釈を下すこともできるだろう。このような第二の解釈を適用すると、動作主の労力の背景化・場所化を通じてのゼロ化というせっかくの池上の優れた分析に反することになる。日本語では「私」の代わりに謙譲形ではよく「私ども」が使われるが、これは上でいう謙譲の「動作主の愚衆化」――「束になっても(複数化)」あなたには対抗できない愚かな私どもだとするメタファーであると見るのである。この点、日本語におけ

る動作主の労力のゼロ化とヨーロッパ諸語に見える複数概念による非焦点化(ぼかし)とはやはり区別されなければならない。「私共」とフランス語の丁寧表現 vousの間の差異についてはのちに再論される4。

5.2.3 「られる」による動作主性の非焦点化――Shibatani の受身の原型

動作主の役割を非焦点化する文法的な仕掛けといえば、なんといっても普遍的な言語現象の 1つである受動形が挙げられよう。動作主役割の非焦点化という面からすれば、受身の様式は日本語の尊敬表現にはかっこうのメカニズムであると考えられる。事実、日本語の B型尊敬形は、まったくわれわれの仮説の予測どおりに受身形、つまり、自発形式で作られている。

(8)上位者が[……Vられる]。(Vは本動詞の未然形)

「られる」は動作主の役割を非焦点化する機能を持つ形態素であるから、それが、動詞 Vに付加されると、Vが持つ他動詞の機能や、自動詞の意図性のようなものが中性化されるが、これを敬語の場合に適用すると、上位者である主語の動作がおのずから起こったもののように表すメタファーになる。尊敬形が受身と関連して動作主の非焦点化(または背景化)の隠喩的表現の一つであるということは Shibatani(1985:838)の受身の本質に関する研究で雄弁に語られている。受身の原型を動作主の非焦点化と見なし、単なる目的語の格下げや表題化の結果として付随的に起こるものではなく、動作主の非焦点化こそが受身の根本的機能であるとする。特に敬意表現が受身形と結びつきやすい理由として、敬意表現の普遍的特徴がその間接性にあるとし、これは特に「動作主の名指し」を避けることによく現れているとしている。

(9)この対象の非焦点化という概念は受身形がなぜ敬語や、可能や、自発のような表現に関わるかという疑問を解く鍵になる。この中でも、敬語は対象の非焦点化ともっとも結びつきやすい現象である。というの

108 109第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

は、敬意の言語表現の普遍的な特性が「間接性」に基づいているからである。すなわち、この特性がもっとも鮮明に現れるのは、聞き手、話し手、文中の(登場)人物に指定される動作主を特に浮き立たせることを避ける現象においてである。(Shibatani 1985:837-838)

Shibataniはさらに動作主の非焦点化は再帰、相互、自発、可能、敬意等の形に現れるとし、下のように日本語の助動詞「られ」の広い用法を示している。

(10)異なる構造に現れる受身の形態素(Shibatani 1985:822)

a. 太郎が叱られた[受身の(r)are] b. 僕は眠られなかった[可能の(r)are]c. 先生が笑われた[敬語の(r)are]d. 昔が偲ばれる[自発の(r)are]

上の例で見るように、助動詞「られる」が 4つの機能を持っていることがわかるが、それらに共通していることはみな動作主の行動が背景化されているということである。これら 4つのうち、助動詞「られ(る)」の自発機能が尊敬表現のメタファーに使われるのはごく自然なことであるということが肯かれる。日本語の助動詞「(ら)れる」が上のように 4つの機能を併せ持つことに

対しては、特に動作主の意味上の役割を非焦点化と断ってはいないが、大野(1978)も学校文法で生徒たちに「る・らる」が 4つの意味(自発・尊敬・受身・可能)を持っていると教え、それを生徒たちに暗記させるだけにとどまり、なぜ 1つの言葉がそういう 4つの意味を持つことになるのかということは考えないと学校文法の教授法を鋭く詰

なじ

っている。この 4つの意味の根本は自発、つまり、自然の成り行きを表すところにあるとし、次のように敷衍している。

(11) 「(ら)る」が可能を表すのも日本人は「奮闘努力の末に獲得する」こ

ととは考えず、自然の成り行きとしてそのコトが「現れ出てくる」ととらえる。(中略)英語の may(できる)はゴート語の mag(力)英語の might(力)と同根であり、ギリシア語でも「力」から「可能」を表現する言葉が派生している。これらと比較すると日本語の可能を表すデキル(出来ル)はきわめて目立つ。(大野 1978:123-124)

また、「(ら)る」が尊敬を表すことについても、たとえば、「校長先生は東京に行かれた」という表現は校長先生が東京に行くという動作が自然に成立したということであるとし、次のようにまとめている。

(12)ル・ラルによって「相手が自然に動作をした」としてあつかうことであり、それは相手の動作に対して自分が手を加えていない、干渉せず、関与していない、疎い関係にあるということを意味している。(大野 1978:127)

尊敬形が「ハタラキ」から「デキゴト」への変換装置であるとしている点から、大野の分析が池上のそれと同じく、上位者と話し手の間の関係の疎遠化に尊敬形の機能を求めていることがわかる。同じように、Shibataniにおいても、「動作主の名指し」を避けること、つまり、動作主の非焦点化を一種の「ぼかし」効果だとしている。これらの先行研究は、自発の動詞や受身の助動詞が上位者の動作に対する直接指示を避けて、おのずと生起するイベントのように表すものと見ている点で共通しているが、命題敬語という限られた分野の研究にとどまっている。本書では、このような先学の研究成果を踏まえて日本語の敬語に見える「出来事」的表現が上位者即タブーのメタファーによるより高次の原則によって支配されていることを明らかにし、尊敬表現もこのような原則の中の 1つに根ざしていることを示すものである。

5.2.4 他動詞「なさる」と Sells & Iida(1991)の例外

尊敬形のもう 1つの生産的な形成法に、下のような規則がある。

110 111第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

(13)上位者が[……お V]なさる。(Vは連用形の本動詞)

これは、前節でも触れたように、「なさる」を基調にする 1つの異型と見ることができるもので、本書では C 型尊敬形として他の尊敬形と区別する。この形は A 型と B型とは違う特性を持っていて研究者の注意を引いている。下に、Sells & Iida(1991:322)で「なさる」の例外性に関する観察を見てみよう。そこでは、主辞駆動句構造文法の立場から日本語の敬語組織について次のような一般化を行っている。

(14)a. 純粋名詞は繰り上げ動詞と統合する。b. 動名詞はコントロール動詞と統合する。

c. すべての尊敬形は繰り上げ動詞と関わる。 ただし、「お Vなさる」は例外。

d. すべての謙譲形はコントロール動詞と関わりを持つ。

一般生成文法理論と同じように、主辞駆動句構造文法の理論でも、自動詞は 2つの下位範疇に分けて取り扱われるが、その 1つは、繰り上げの自動詞、もう 1つはコントロールの自動詞である。繰り上げ自動詞は、その項構造に客語に当たる項(内項)だけがあって主語の外項が欠けている動詞のことをいう。これは、また、非対格動詞とも呼ばれ、英語では、影山(1993:67-

68)によると、(i)形容詞またはそれに相当する状態動詞、(ii)被動作主を取る動詞(burn, fall, drop, sink, float, explode)、(iii)存在ないし出現を表す動詞(appear, happen, exist, occur, disappear, last, remain)、(iv)五感に作用する非意図的な現象(shine, sparkle, glitter, smell)、(v)アスペクト動詞(begin, start,

stop, cease, continue, end)などの動詞がこれに当たる。もう 1つの自動詞は、非対格動詞とは対蹠的な項構造、つまり、主語の文法役割をする外項だけがあって内項の欠如している構造を持つもので、非能格動詞と呼ばれる。これも影山(1993:67-68)が例としているものに、(i)意図的ないし意志的な行為(work, play, speak, smile, dance, run, walk)、(ii)生理的現象の動詞(cough,

sneeze, hiccough, belch, vomit, sleep)などが見える。日本語でいうと、繰り上

げ動詞には、「落ちる」「沈む」「なる」「現れる」「起こる」「輝く」など、そして、非能格動詞としては「歩く」「駆ける」「笑う」などが挙げられよう。一方、Sells & Iida(1991)がコントロール動詞としているものは一様に他動詞で、ここでは「する」と解していいだろう。つまり、Sellsらの観察が示しているのは、尊敬形に関わる助動詞は「なる」、受身型の「(ら)れる」など内項が主語の位置に繰り上げられる類のものであるということである。したがって、上で述べた Sells & Iida(1991)で日本語の尊敬形に付く繰り上げ動詞といっているのは、非対格動詞の「なる」と受身形の動詞を指すものと見ればよい。さらに、日本語のレキシコンには次のような規則が含まれるとする。

(15)a. 「お」で規定されているすべての動詞の構造は敬語構造であって、そして、その項のうちの 1つは必ず上位者を表す(ただし語彙化されているものを除く)。項のうちのどれが上位者を表すかは下の(b)か (c)かで決まる。

b. 繰り上げ動詞によって支配されているすべての動詞構造は尊敬の動詞構造である。

c. コントロール動詞で支配されているすべての動詞構造は謙譲の動詞構造である。(ただし他動詞の「なさる」は例外)

このような Sells らの分析によると、日本語には尊敬・謙譲の形を生み出す統語的過程は不必要であり、語彙化されている「なさる」を除いては、敬語に関わる事柄は敬語の動詞の構造が持つ、より一般的な他の特質から予想できる。Sells & Iida(1991)のこのような見方は Harada(1976)など従来の統語論的分析に比べて、簡潔性(simplicity)の純度が高い理論といえるが、この章では、これらの主張の理論的な是非を正すことを目的とせず、その代わりに、Sells & Iidaが一般化した尊敬形文法規則に繰り上げ動詞でない他動詞の「なさる」が例外的に含まれているという但し書きについて本論からの注釈を試みる。

Sells & Iidaは「なさる」がコントロール動詞であることから、日本語の

112 113第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

敬語の一般化(15)に抵触するものと見ている。たしかに「なさる」は、他動詞またはここでいうコントロール動詞であり、伝統的に文語ではラ行四段、口語ではラ行五段活用の他動詞で、「する」と「なす」の尊敬語に当たる(広辞苑 1969:1657、新潮国語辞典 1965:1430、角川古語辞典 1981:872などを

参照)。しかし、われわれの仮定に立てば、「なさる」はけっして尊敬形規則の例外にならない。というのも、他動詞「なさる」の語構造は、Martin

(1975:290,351)も指摘しているように、動詞「なす」の古い受動形であるからである。つまり、「なす」の語根に尊敬の形態素である「る」が付いたもの、すなわち、「る」は「らる」を含めて(r)ar-uであると見なす。そして、動作主の動作を隠喩的にゼロ化する自発の形態辞と解釈するのである。このような考えを上位者の「読む」という動詞を例にして図示してみよう。語の内部構造を見やすくするために、ローマ字で表した。

(16)a. o- yom- i ni  nar u

b.   yom-     are ru

c. o- yom- i nas- ar u

上の形態的対応を見ると、nasは連用形の形をした動名詞 o-yom-iを目的語にする他動詞であることがわかる。しかし、-ar-は「読まれる」の areと対応が可能な受身の形態素と見ることができる。形からすれば、-ar-は古典語における受身のそれであって、「なさる」はいうまでもなく意味的には他動詞であるが、形態的に自発のメタファーに転換したものと見られる。つまり、この受動形 /ar/は、より一般的に、自発、成り行き、そして、尊敬を表す「る・らる」であって、機能としては、意味上の主語(上位者)の動作主性を隠喩的に非焦点化するものと見る。これは、本論で仮定している労役の原則、そして、第 3章§3.4.2(16i)の文法化指針要領を忠実に守っている尊敬表現であると見なすのである。このような「なさる」の分析はすでに菊地(1997:187)の次のような指摘にも見られる。「『なす』は『なる』の対で、『なる』がもちろん〈自然にそうなる〉意であるのに対し、『なす』はその他動詞で、〈『なる』ようにする〉、つまり『する』の意である。しかし、それ

はさらに、元来は自発の『る』がつくのだから、結局『ならる』は『なる』に近い趣をもつといってもよかろう」(同書 :187)。「なさる」が片や意味的には他動詞であり、片や認知機能的には自動詞あるというに二重性を見事に喝破している。本書では、菊地のこのような分析を踏まえて、「なさる」の機能的な「二面性」を「タブー」概念と「メタファー」概念でもってよりグローバルに解釈するわけである。このようなわれわれの分析は「なさる」だけでなく、それに似た語彙セットが存在することも予見できる。よく見れば、この擬似受身の形をしている動詞がそのほかにも見出せる。たとえば、尊敬の語彙である「くださる」がそれである。「くださる」は二項他動詞であるに違いないが、形式的には、「なさる」のように、古語における「食わる」や「襲わる」と同じく、受身の形態素 arによって「くだす」の受身・自発の形になっている。ローマ字で表すと、内部構造を透かして見ることができ、語幹と形態素 -ar-の組み合わせであることがわかる。

(17)a. kuw-  ar- u (食う → くわる)b. osow- ar- u (襲う → おそわる)

現今の日本語に語彙化された尊敬動詞からも /-ar-/のそれらしき痕跡が析出できる。これらは「なさる」を含めた尊敬表現に関わる 4つの動詞に見られる。

(18)a. なさる    ←  (なす+ある)b. くださる   ←  (くだす+ある)c. おっしゃる  ←  (おほせ+ある)d. いらっしゃる ←  (いらす+ある)

これらは、特殊な活用形を持ち 1つのグループをなしていて、特別ラ行五段活用敬語動詞と呼ばれているものである。ちなみに、(18c)の「おっしゃる」を、広辞苑(1969:308)、新潮国語辞典(1965:268)などでは、「おおせあ

114 115第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

る」から「おおしゃる」を経ての転としている。また、「いらっしゃる」は、広辞苑(1969:154)では、「いらせらる」、新潮国語辞典(1965:139)では、「いらせある」の転となっている5。興味深いことに、Martin(1975:280,347)によれば、これらには、使役と受身の形がないという。これは語彙がすでに使役なり受身の形になっていて、もはや使役や受身を適用する主体のないものになっているからだと推察される。これらの動詞に共通していることは古語の受身 -ar-が他動詞について尊敬形を作っていることであるが、これは -ar-

が持つ自発の素性によってこれらの他動詞が擬似的に自動詞に転換された尊敬メタファーであることを示唆している。このように見ると、「なさる」を Sells らが(15)でいうように必ずしも

敬語規則の例外として取り扱わなくてもよいように思われる。見方によっては、「なさる」のような動詞の形態的パターンが現代の日本語の尊敬形に生産的な規則として「られる」型に含まれているという事実は、かえってSells & Iidaの分析の要点を強く裏付けているものといえよう。

5.2.5 美化語と尊敬形の間

ここで問題になる点 1つを考えて見よう。なぜ下のような動詞に「お V

になる」の様式が適用できないのであろうか。

(19)a. *お居になる (いらっしゃる)b. *お行きになる (いらっしゃる、行かれる)c. *お来になる (いらっしゃる、来られる、お越しになる)d. *お寝になる (お休みになる)e. *お食べになる(お召し上がりになる) f. *お見になる (御覧になる、お目を通される)

1つの理由として考えられることは、もっとも通俗化された日々の行動は王様のように拝み敬う上位者には適さないものであるというメンタリテイがあって、たとえメタファーによって言い換えが可能であっても、卑俗性が取

り去られないという考えからではないだろうか。もしそうであるとすれば、これは上位者のゼロ労働を保障する原則 Bよりもむしろ隔離の原則 A によるものと見ることができる。つまり、上位者を卑俗的なもの粗野なものから完全に遊離することによって、上位者の聖域を乱さぬようにするというメタファーと見るのである。このような現象をも単なる「美化語」としてでなく、第 3章で仮定した原則によって全部とまではいかなくても、それらの多くがより合理的に説明できる。

5.3 「奉仕メタファー」の他動詞「する」と謙譲形生成のメカニズム

本節では、素材文の中の上位者が直接目的語や間接目的語など主語以外の役割をする場合を考える。たとえば、下位者が行うアクションの対象になったり、メッセージや贈り物の受け手になったりする場合の敬語表現で、通常謙譲形と呼ばれているものである。このような謙譲形も、尊敬形と同じく、上位者即タブーのメタファーの仮説の予測に沿っているものであることを示す。

5.3.1 上位者への奉仕――「働きかけ」の他動詞「する」のメタファー

前節で、敬語の尊敬の下位範疇は語彙項目で満たされない場合は生産的な文法形式で表現され、そのような形式における動作主の役割が自発性を強調する動詞によって擬似的または隠喩的自動詞に転換されるメカニズムであると論じた。尊敬形と同じく、謙譲形でもわれわれの頭脳辞書に収められている語彙が

使われるが、その数に制限があって、生産的な文法規則に頼らざるをえなくなる。これに応えるものが第 2章§2.2で取り扱った非主語敬語パターン「お V-する」である。謙譲形においても動詞を動名詞に変換する。この変換にはターゲットになる動詞を連用形の形にしたものが使われる6。 このような動名詞には、尊敬形のときと同じく、敬語の接頭辞「お・御」の添加した

116 117第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

連用形[お V-i]、または、[御 V-i]に助動詞「する」がさらに付加される7。助動詞「する」は本来は「働きかけ」の他動詞から発展したものであろうが、謙譲形が他の動詞・助動詞をさしおいて特に「する」と共起する理由は何であろうか。この問いも尊敬形の場合と同じく、本書の仮説から合理的に答えられる。まず、下の例文(20)を見てみよう。

(20)私が山田君の電話番号を探す。

話者が山田の電話番号を探すという行為が話者の先生のために(または、先生からの御言付けがあって)なされた場合には、労役の原則 Biiとそれに付随する文法化に関する指針(3ii)によってメタファーが形成される。つまり、話者が、上位者の安寧・至福のために最大限の奉仕をするというメタファーを「働きかけ」の動詞「する」によって表す。これは、(21a)のような「お・御動名詞(NV)」を対象格にする(21b)から定式化できる。

(21)a. [ お/御 NV ]b. [[[お/御 NV]を]する](上位者のために)c. [ お/御 NV-する]

上の(21b)は一種の文法化を経て(21c)のような形になる。要するに、下位者が、上位者のために、または、上位者の福祉のために、「お NVする」ということになる。つまり、謙譲形に現れる「する」は下位者が主語として行う上位者への奉仕を象徴するメタファーと見なされる。実際の謙譲形は下の(22)のような形をとる。括弧に収めた副詞句の「上位者のために」、または、「上位者の福祉のために」は通常文中に現れない付加語であるが、復元可能な基底構造の要素と見る。

(22)謙譲形:[(上位者のために)[お NVする]]

もちろん、連用形をとる動名詞には禁忌標示である接頭辞「お・御」が付

加されている。なぜなら、Vで表される事柄は下位者の上位者に対する奉仕の内容であり、上位者に向けられたものであることから隔離の原則の対象になるからである8。 括弧の「上位者のために」は助動詞の「する」と同じレベルの動詞句の構成要素で、「奉仕する」という意味での述語「する」で表現される行為がどんな目的でなされるかを明らかにする語句である。言い換えれば、「私が上位者であるあなたにこのようなサービスをするのは、ひとえに、あなたの福祉のためなのです」というような高次の語用論的な含意――Noh(2000)に従って外延的含意(explicature)といってもよい――を持つものと見る9。 この謙譲の「する」を主要部とする謙譲動詞句の目標副詞句については、第 4章§4.2.4ですでに論じたところである。さて、(20)を(22)に適用すると、(23)が得られる。

(23) [僕が(山田さんのために)[山田さんの電話番号をお探し]する]

上のような考えに立つと、謙譲語の文法的パターンが動詞「する」をとるのが単なる偶然でないことがわかる。このときの「する」を動詞の連用形に付く助動詞と見なすか、または「お NVする」を 1つの尊敬の動詞として扱うかということが問題になるが、ここでは立ち入らない。いずれにしろ、定式(24)の「する」を「なる」に変えることも、§5.2.1 の(2)の中の「お出でになる」の「なる」を「する」に変えることもできない。これを「する」と「なる」の間の分布上の制約として(24)のように表しておく。

(24)敬語構造における述語動詞の相補的分布制約a. 尊敬形:* [  ]するb. 謙譲形:* [  ]なる/なさる/(ら)れる

このように、尊敬の様式が、非焦点化動詞「なる」と組み合わされるのと同じく、謙譲の生産的な形が「働きかけ」の動詞と結合するのは、上位者即タブーの仮説の原理的な要請であるといえる。(22)の定式に見える「上位者のためにする」または、「上位者の福祉のために奉仕する」ということは

118 119第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

私たちが仮定している「上位者即タブー」の大前提から必然的に引き出されるものといえる。

5.3.2 謙譲形にかかる制約のいろいろ――先行研究

上でも指摘したように、尊敬形はその作り方にいろいろな選択肢があって多少複雑になっているが、その使い方にはそれほどの制限はない。謙譲形もA型と B型の区別がないでもないが、形態的には比較的簡単で、助動詞「する」がターゲットになる本動詞の連用形に付く(この場合、動名詞形に敬語の接頭辞が付くのは尊敬形の場合と同様である)。しかし、その反面、それを使う段になると、さまざまな制約がかかって尊敬形に比べて一段の複雑性を見せる。これらの制約を先行研究をたどりながらまとめてみよう。

5.3.2.1 語彙的制約――謙譲形が作れない動詞第 3章では、謙譲形は上位者に対する奉仕のメタファー表現であることか

ら、主語の動作性を極小化するメタファーで表現される尊敬形の場合とは対蹠的に、謙譲形にもメタファーが働くとすれば、それは、主語になる下位者の動作を(上位者のために)極大化することが予想されるとした。事実、自発の「なる」とは対蹠的な働きかけの助動詞「する」が謙譲形の文法様式に関わっていて、われわれの予想を裏書していることを確かめた。逆にいえば、下位者の動作が構造的に他の対象に働きかけができないような状況を表す動詞、つまり、「倒れる」「落ちる」などの非対格の自動詞や「歩く」「走る」「立つ」「座る」などの非能格の自動詞では謙譲形が作られないであろう10。これは、まったく予想どおりで、先行研究でも指摘されているところである。たとえば、金田一春彦(1988:190)は上位者に対して話し手自身の動作を「お立ちする」「お座りする」「お休みする」「お起きする」「お駆けする」のようにはいわないとし、また、「見る」「聞く」「会う」「慕う」などはその対象になるものが上位者のときに限られるとしている11。 また、自動詞からの謙譲形、たとえば、「*お歩きする」「*お走りする」「*お倒れする」「*お落ちする」などは、特殊な事情でないかぎり、一般には適

切でないものとしている。Hamano(1993:94)も、Wenger(1983)が分析している話者中心的動作を

表す動詞(「学ぶ」「習う」「考える」「覚える」「帰る」)で謙譲形が作れないことを指摘している。これらの動詞は、Hamanoの分析どおりに、話者中心的で、謙譲形の中心条件である上位者に対する奉仕の対象を設定することができないことによるとしているが、まったくそのとおりであって、これはまたわれわれの仮説が予測するところでもある。謙譲形の制約については、森山(1990)の注目すべき論文がある。

5.3.2.2 B 型謙譲形――「まいる」と「いたす」金田一春彦(1988)は、謙譲形には主語でない素材の上位者と聞き手の上位者が同一人物である場合に使われる「まいる(参る)」と「いたす(致す)」について次のような例文を挙げている。

(25)週末には伊東へ参ります。

(26)きのうはすっかり寝坊致しました。

(25)の「参る」は、偉い人が伊東にいなくてもできる表現であり、(26)

はなおさらで誰にも関係のない動作であるのに謙譲形「致す」を使うのはどうしたわけかと問うている。これに対して、金田一自身は松下大三郎の「荘重語」による説明が正鵠を射ているとしている。また、「いかが」「左様」「このたび」「所望」「持参」、動詞としては、「致す」「参る」「申す」「存ずる」「ござる」などでもって言葉つきを荘重にして話者の威厳を保つためのものであるという松下(1924)の指摘を引用している(金田一 1988上 :26)12。上の(25)と(26)における「参る」と「致す」は、謙譲のターゲットになる上位者を文中に推定することが難しいケースである。このような場合の謙譲形も本書の仮説では、間接的にではあるがやはり「上位者の福祉のためになされる奉仕」という前提を定めることによって説明できるものと考える。共同体で生活する成員は生活上の衣食住に関わる物資が常時確保されて

120 121第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

いなくてはならないのと同じように、成員一人一人は常に身のまわりこと、生活上不可欠な「世界」についてのさまざまな情報が確保されていなければならない。そればかりでなく、このような「世界」に関する情報は常に新しく更新されなくてはならないものである。共同体の成員一人一人はこのような情報を確保・維持・更新する。これを共同体成員の情報プールの維持といってもいいだろう。下位者は下位者自身だけでなく、上位者のためにも、このような情報プールの平常水準維持に努めなければならない。さまざまな情報をそれが上位者のためになるものなら、それを上位者に報告するのも奉仕の 1つと見ることができる。「ここにこのような情報が用意されてございますので、何時なりとご利用になってくださいませ」というような下位者による情報提供の行為は立派な奉仕と見なされる。B型謙譲語「ございます」はこのような情報提供の動詞と見てよいであろう。(25)と(26)の「参る」と「致す」もこのような情報プールへの貢献という意味で、上位者の(福祉の)ためという語用論的目的を想定することができ、「労役対極化の原則」とそれの文法化指針を守っているものといえる13。

5.3.2.3 謙譲動詞句内の上位者構成要素に対する制約    (久野 1983;Hamano 1988, 1993)謙譲形は、尊敬形に比べて語形は簡単であるが、適用となると、さまざま

な制約の対象になる。この節では久野(1983)が問題にしている構文上の制約、そして、Hamano(1988, 1993)の語用論的な制約を考察する。まず、久野が、構文的な立場から謙譲形に関わる制約の 1つとして、提案

している次のような一般化を見てみよう。

(27)謙譲形[お[V]する]の敬意対象は Vのレベルでの構成要素でなければならない。(久野 1983:27)

(28)a. 田中はそのことを山田先生にお話しすることに 決めた。b. *田中はそのことを山田先生にお話しすることに お決めした。

例文(28a)の「決めた」の補文に当たる(29a)では、「田中が」と「山田先生に」がともに動詞「お話しする」と同じレベルⅠの構成要素であって適格な謙譲形を作っている。

(29)a. [田中が そのことを 山田先生に お話しする]Ⅰb. [田中は[(田中が)そのことを 山田先生に お話しする]Ⅰ ことに決めた]Ⅱ

田中が主語である(28a)の主文が謙譲形「お決めした」になっていないのは、久野の制約(27)が予測するとおり、山田先生が田中と同一構成要素になっていないからである。意味的にも、非適格な謙譲文(28b)にはなにか特別な事情があればまだしも、「田中先生のために」のような解釈は受け入れがたい(同書 :26)。

(30)田中は、木村に、山田先生をa. 見舞わせたb. *お見舞わせした

(31) [田中が木村に [木村が山田先生をお見舞いする]Ⅰ させた]Ⅱ

上の(31)は(30)の使役文の内部構造で、久野(1983:66)のいう尊敬・謙譲標識付加規則が巡回的に適用されることを示している14。謙譲のターゲットになる山田先生が含まれているレベルⅠでまず謙譲形[山田先生をお見舞いする]が作られ、その後、レベルⅡで使役形に変換されて[木村に[山田先生をお見舞いする]Ⅰさせる]Ⅱから(32)が得られる15。

(32)田中が木村に山田先生をお見舞いさせた。

しかし、謙譲形が埋め込み文で作られず、主文のレベルⅡの段階で作られると、(30b)のように非文になる。これは、もちろん、「山田先生が」がレ

122 123第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

ベルⅡの使役形態素と同一句構成要素になれないからである。(30b)と同じように構造的には使役文である下の(33)は、しかし、適格な文になっている。

(33)田中は、山田先生に、遠い道をa. 歩かせてしまった。b. お歩かせしてしまった。

(33a)と(33b)がともに完全な適格文になっているのは久野によれば、「『山田先生に』が『歩かせた』と同じレベルの構成要素(すなわち、埋め込み構造の構成要素でない)であることに由来しているものと考えられる」としている(同書 :26)。つまり、下の(34)で見るように、「山田先生に」と使役のレベルⅡで aseが同じレベルⅡの構成要素になっていて適格文になる。

(34) a. *田中が[[山田先生に[山田先生が遠い道を aruk ]Ⅰ ase]Ⅱb. 田中が山田先生をお歩かせした。

ここで(33b)と(34b)を比較してみよう。久野が分析するとおり、両文が構文的に見て適格であることがわかるが、後者の「先生を歩かせる」は不敬であると非難される可能性のある文であるのに反して、「しまった」で終わっている(33b)はこのような可能性のないより安定した文になっている。その理由は、(33a)の補助動詞「しまう」に関わることのように思われる。ということは、(33b)では、弟子の田中が先生を不敬にも「お歩かせ」はしたものの、それは何かの失策による不本意な出来事であることが「しまう」に表れているためであると考えられる。つまり、田中が心ならずも恩師を歩かせてしまったのであって、意図的な行為でなかったと解釈できるからである。このときの謙譲形は、第 4章§4.2.4で見た副詞句のように、ここでも暗黙の副詞節を想定すれば、ある抽象的なレベルでは(33a)と(33b)は下の(35)のような構造を持つと考えられる。

(35) a. [(田中は)不覚にも先生への奉仕を疎かにして[先生にお歩かせした]

b. [[(田中は)不覚にも先生への奉仕を疎かにして[先生にお歩かせして]しまった]

「先生に遠い道を歩かせる」のは上位者に対する労力の極小化原則 Bはもちろん、上位者の使役特権の原則 Eにまで違反するもので、滅私的「奉仕」を旨とする謙譲法とは相容れない。一般に下位者が不注意ややむをえない状況から上位者の権限や特権を侵したものと認識し、かつ、これを悔いて表白するということを前提とする(35)のような類の謙譲を「心ならずもの反奉仕的謙譲法」、または、簡単に、「反奉仕的謙譲」と呼ぶことにしよう。(35)の場合、下位者の懺悔を伴う告白的認識は、補助動詞「しまう」によく表れている。見ようによって、非意図的反奉仕は奉仕の別形態と見ることができ、逆説的に、これは、上位者の権力が実は絶大なものと確認するためであって、原則 E の再確認とも見なしてよい。(35)の場合、「した」と同レベルの上位者関連要素は、したがって、下線を施した「先生への奉仕を疎かにして」のような語用論的な副詞句であると見られる。通常、非意図的反奉仕謙譲形は、したがって、「不覚にも何々してしまった」のような文脈の中で起こるのが一般である。久野の構文的接近と違って、語用論的な角度から謙譲表現にまつわる制約

については Hamano(1988, 1993)に見える下のような語用論的制約がわれわれの注意を引く。

(36) 近接性(proximity)の制約:謙譲形における上位者は、必ずしも直接・間接目的語のような文法的な論項でなくてもよく、与えられた事象との関連性がもっとも強く、その事象の中でもっとも顕著な要素でさえあればよい。(Hamano 1993:87)

(37)a. *お客様のおことづけをボーイにお渡しした。b. お客様のおことづけをボーイにお渡ししました。

124 125第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

この制約に従えば、(37a)が不適格であるのは、上位者が斜格(所有格)として文の下位構造に埋め込まれていて、文法的な役割が低く、したがって、(36)の制約に反するのだと解釈している。同じ文が(37b)のように当のお客さんに向かって話す報告文のようにすると、適格になる。Hamano

によれば、(37b)では上位者が文中の間接目的語、すなわち、「あなた」になっていている報告文であって、語用論的な役割上優位性を保っているからだと分析する。同じように、下のような文の文法性を近接性の制約で説明している。

(38)お帰りになるとうちの娘からお聞きしました。

(39)a. *先生の御本をお買いしました。b. *先生の御本を休み中にお読みしました。

(40)*先生のお宅でこの本を友達からお借りしました。

(38)では、上位者が娘の陳述の内容の中に埋め込まれているが、当の先生が聞き手として近接性を保っているから、適格だとしている。(39)の場合はたとえ問題になっている本が先生の書いたものであっても、買ったり、読んだりすることが先生と直接関わるところでなく、近接性の制約が守られていないとされる。(40)が適格でない文になっているのは、先生が副詞句の中に閉ざされていて、上位者でない友達に比べて話者との近接性が薄いからだと説明される。このように Hamanoは近接性の制約という概念によって謙譲形が持つ多様な語用論的特性を説明することに成功している。しかし、上で見たような文を制約という概念を借りることなく、敬語体系全般にわたって働くより一般的な概念で把握することができれば、そのほうがより簡潔な理論と見ることができるだろう。このような簡潔性を本論の冒頭で設定した「敬語の場」という概念に求めることができることを下に示してみよう。たとえば、先の(37a)の不適格性は、お客様と話し手の間に形成される

敬語の場が話し手とボーイの間の関係から独立している場であって、一方が他方を触発したり、干渉したりすることができないからだと考えることができる。つまり、お客様対話者の敬語の場は「お客様のおことづけ」の段でいったん留保されるものと見るべきであって、ボーイと話者との間の関係にまで及ばないからだと判断される。(40)も同様に、先生と話者との間の敬語の場がたまたま「先生のお宅に」という形で現れてはいるが、そのような敬語の場は「先生のお宅」という場所柄の域にとどまるものであって、友達と話者の間の関係は前者の場とは何らの関わりも見出すことができないことから「友達からのお借り」は不適格になるといえる。さらに、(40)でもう1つ問題になるのは、先生の意図が介在する余地のない文脈であるにもかかわらず先生が編集者を通じて話し手に本を貸すような、つまり、下位者である話者が上位者を勝手に貸し手の立場に追い込むような形になり、結局、原則 Eを侵すことになってしまっているということである。また、近接性の制約(36)と関連して、Hamanoは下のような巧妙な一連の興味ある例文を挙げている。

(41)a. 先生のお写真を編集者を通してお借りいたしました。b. #先生のお写真を編集者からお借りいたしました。c. *先生のお写真を編集者にお借りいたしました。

上の(41)は(a)文から(c)に移るに従って受容度が下がっていることを Hamanoは編集者に対して上位者が持つ相対的な優越性の差異に求めている。適格である(41a)では、編集者が単なる仲介者であることが後置詞「x

を通して」によって表されており、上位者が聞き手になるまでもなく、その優越性がはっきりと示されている。(41b)では、下位者の編集者が「xから」を伴ってソースになっていて上位者の優越性を脅かしていることから、上位者が必ず文の聞き手になっていなければならないという条件が付く。この場合、上位者が聞き手として直接談話の中に関与することが要求され、いうなれば、この条件が(41b)を非文から辛うじて救っている。ところが、この繕い策も(41c)では、功を奏さない。というのは、そこでは、編集者が

126 127第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

「xに」というより強いソースを表す後置詞を伴っていることによって、優越であるはずの上位者を凌いでいるからである。このように、Hamanoはこれらの例文の文法的な受容度の差について後置詞の機能の違いを利用して相対的優越性概念による説明を試みている。本論の仮説からすると、(41b)も(41c)も上位者の使役特権の原則 Eと恩恵の原則 Dを犯している。それらが含意しているところは借りるものが上位者の真影でおろそかにできないものであると同時に、それの貸し借りは全的に上位者の特権によるものであるということである。写真を貸す貸さないはまったくのところ先生自身の意思によるものであって、編集者の自由になるようなものでない。先生のお写真は先生から直接借りるか、または、たまたま編集者がそれを預かっているものなら、編集者を通して借りるかするであろう。(41b)と(41c)が適格性を欠くのは、上位者をさしおいて編集者が奪格または源泉格の「から」や「に」の項役割が示すように、あたかも貸付の権利を持っているかのように見られる文になっているからで、上位者だけが恩恵の授与者または使役の行使者であるという原則に反するからだと見られる。いずれにしろ、Hamanoの観察しているところはいま 1つ別の面からわれわれの仮説を支えているといえる。

5.3.2.4 主語寄りの視点と謙譲形(久野 1983)謙譲形と授受動詞の交渉関係で、もう 1つ注目に値する制約として、久野の次のような貴重な観察がある。

(42)謙譲形は話し手が主語寄りの視点をとらなければならない。すなわち、持ち上げるべき敬意対象とは距離を置き、もち下げるべき主語には距離を置かない。(久野 1983:27)

(43)保護者有志が、引退する校長を、夕食にa. 招いた。b. お招きした。c. 招いてくれた。d. *お招きしてくれた。

上の(43b)の謙譲形は、話し手がおそらく保護者グループの一員であるということが前提になっていると考えられる。(43c)は、「くれる」が示しているように、話し手が校長寄りで、たとえば、学校の教頭とか、事務局長あたりの人であろう。そういう人たちには、校長は「内」のものであり、保護者たちは「外」の向こう側の人たちである。(43d)はどうだろう。まず、授受動詞「くれた」によって話し手が校長寄りであることがわかるが、「お招きする」は(43b)の場合と同じく話し手が保護者グループの 1人と想定しなければならない。これでは、話し手が相矛盾する 2つの立場に立つわけで、予想どおり適格でない文になっている。

(44)山田がアメリカから、校長先生に絵葉書をa. よこした。b. *およこしした。

また、上の文では、「よこす」は「くれる」と同じく与格目的語寄りに視点を固定する動詞であることから、(42)の制約によって、山田寄りの視点を要求する謙譲形(44b)は許されないとされている。つまり、この場合、校長寄りと山田寄りの相容れない 2つの視点が含まれていて(44b)を不適格にしているということである(同書 :28)。これを、われわれの敬語の場の見方で言い換えると、「よこす」は、「くれ

る」と同じく話し手を到着点または標的とする動詞であって、自身を高める自敬的な場でないかぎり、または目下のものが「私」に何々してくるのような状況でないかぎり、謙譲形を要求する敬語の場が発動する余地のない動詞といえる。つまり、山田寄りと校長寄り視点の間の不都合が起こる以前に語彙形成の段階で「およこしする」のような表現は排除されるからと見なされる16。もちろん、「私」に対して上位者が何かを贈与したり、命令したりするような状況では、たとえば、「先生が私に先生の近著をおよこしになった」のような状況では敬語の場が発動することができる。謙譲の「*およこしする」は不可能であるが、尊敬の「およこしになる」が適格になるのはそのためである。もっともこの場合の敬語の場は尊敬のそれであることが注意され

128 129第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

なければならない。

5.3.2.5 有益性(benefactivity)の条件(Harada 1976)この節では、Harada(1976)で観察されている下の(45)のような謙譲形

に関わる「有益性の条件」について考察し、これの修正拡大が必要であることを論じる。

(45)謙譲形の動詞は意図的他動詞でなければならない。(Harada 1976:527)

  お会いする、お話する、お返しする、お聞きする、  お断りする、お待ちする、お願いする、お誘いする、  御説明する、お勧めする、お伺いする

(46)a. *私は山田先生の甥におあたりします。b. *私は神をお信じします。

「xが yに当たる」の「当たる」は制御可能でない自動詞で、(45)のような意図的な他動詞でないことから、(46a)が示しているように謙譲形を許さない。これは、原則 Biiに違背していて、下位者は非意図的な自動詞では奉仕をしようにもしようがないからである。(46b)について、Haradaは有益性と関係があるとしているが、詳しい説明は見られない。私たちの仮定からは、次のような解釈が可能である。たとえば、事業で倒産した友人に 「僕は誰がなんといおうと君を信じてやまない」と勇気付けることで、この絶望の友を自殺から救ったとしよう。しかし、(46b)の告白で「信じる」とされる神的存在は「私」などの個人的な信仰の有無に左右されるものでない超越者である。したがって、「私の信仰で神様であるあなたの存在がより確実になるのです」と解釈されかねない可能性を含む(46b)のような謙譲形は、われわれの仮定する枢密軸の原則、使役特権の原則 Eに対する違背であって、許されない文であるといえる。第二の制限は形容詞に関わる(47)の制約である。

(47)形容詞または名詞化形容詞句で謙譲形を作ることはできない。(Harada

1976:528)

次のような例文が挙げられている。

(48)a. あの方はお美しい。b. *私は山田先生がお可愛い。

(49)a. 社長はゴルフがお好きだ。b. *私は山田先生がお好きだ。

そのほか、先生が「おいたわしい・おうらやましい・おいとおしい」などの形容詞もそうであるが、これらが謙譲形に適格でないのは、おそらく形容詞が本質的に非制御的な素質を持っていて、上位者に対する奉仕には向かないという語彙的な限界によるものと考えられる。ここでもう一度「仕えること」または「奉仕」という概念を調べてみよ

う。第 3章§3.3(10)の枢密軸の原則で仮定したように、上位者は象徴的に究極的な不動の畏敬の軸であり、恩恵の源泉であり、さらには命令・裁可の原点である。しかし、このような原則は下位者から完全に独立した現象ではなく、下位者によって常時維持確認されなくてはならない相対的なダイナミックスを持っている。下位者がこれをおろそかにすると、直ちに不幸が災いするというおそれがある。したがって、下位者は上位者の安寧福祉を増進するために積極的に奉仕しなければならない。しかし、また上位者の根源的権限を認識し、それを確認するという消極的奉仕も考えられる。すなわち、奉仕性の低い動詞類も謙譲形に適さない。しかし、このような動詞も何らかの消極的奉仕に貢献できる場合には許容されるものとする。たとえば、「お会いする」の「会う」自体には奉仕性が希薄であるように見えるが、「先生にお会いするその日をお待ちしております」のような行為が上位者の権限や威厳を確認することになれば、それはそれなりに上位者への奉仕になると考えられる。また、物事について上位者に訊くことは上位者こそが究極的な知識の所有者であることを上位者に思い知らせるという効果があって、これなどは

130 131第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

「へつらい」を根底にした消極的奉仕といってよいであろう。これについては、§5.3.3.3で再論する。このような消極的奉仕概念は授受関係を持つ謙譲形に現れる制約も説明で

きる。まず、Haradaの「誰々に誰々のことを話す」「誰々に誰々を紹介する」における「話す」「紹介する」などの二項目的語動詞が受ける制約について考えてみよう。

(50)a. *私は弟に先生のことをお話しした。b. 私は先生に弟のことをお話しした。

(51)a. *弟に先生をご紹介した。b. 山田先生に弟をご紹介した。

このような直接目的語と間接目的語との間の文法上の非対称性は、また、「教える」「知らせる」「伝える」などにも観察されるが、Haradaはこれらについては自然な説明ができないとする一方、日本語の敬語に関するかぎり、主語 > 間接目的語 > 直接目的語 > 斜格項という文法役割の階層関係を想定するとすれば、(50a) (51a)のような非適格性が説明できるかもしれないと注(p.530)を付けている。しかし、この場合、直接目的語が間接目的語より下位になっているような階層の妥当性が訝

いぶか

れるとしてそれ以上詮索しないと断っている。ここで想起されることは、謙譲形の真の機能が素材文にある上位者をター

ゲットにする敬語法であるということ、つまり、常に「上位者に対して」「上位者のために」、または、「上位者から(恩恵)」のように、上位者の福祉のためであるか、上位者の恵みにあずかるかというような典型的な状況が前提されなければならないということである。(50a)では、「弟」と話者との間に敬語の場が成り立たないことから、用言の謙譲形は不法である。しかし、話者の弟が高名な書道の大家であって、その弟にかねがね一幅を求めている先生に「弟に先生のことをお話しさせていただきました」は適格になるが、これは、発話文の中に暗黙の「先生であるあなた」と話者との間に敬

語の場が正常に発動するからであると見られる17。一方、(50b)の「先生」と話者との間には敬語の場が発動して適格文を作る。(51b)も(50b)と同様な解釈ができよう。不適格の(51a)でも、先生と話者が作る敬語の場で「弟に先生をご紹介して差し上げてもよろしいでしょうか」というコンテクストが可能であることから、適格文になる。この場合、使役特権の原則に対する違反が辛うじて「差し上げてもよろしいでしょうか」という下位者の上位者に対する自身の権利委託の方式によって免れているといえる。

5.3.3 謙譲形における奉仕概念の諸相

上位者が手を下すことがないよう上位者の面倒を見るためには、下位者は自身が立ち回って働かなければならない。そのため、「持つ」「送る」「取り替える」「取り揃える」などの他動詞が謙譲形にはうってつけの動詞類であることがわかる。そのほかにも、恭順または服属を本来的に含意するもの、たとえば、「お取り次ぎする」(取り次ぐ)、「お迎えする」(迎える)、「おもてなしする」(もてなす)、「お付き添いする」(付き添う)、「お伺いする」(伺う)、「お慕いする」(慕う)などの他動詞が謙譲形と共起しやすいのも第 3

章§3.3で定立した敬語の一般原理(2)から予想されるものである。反面、同じ他動詞でも上位者への奉仕またはサービスを表すのに適しないものもあるわけで、たとえば、上位者の権益を侵すもの、タブーの安寧を乱すおそれがあるもの、特に上位者を対象にする他動詞類、たとえば、「蹴る」「殴る」「抑える」「捕らえる」「脅す」「負かす」「倒す」「侮る」「叱る」などが本質的に謙譲形に不向きであることはいうをまたない。ただし、これらの攻撃的敵対行為を表す動詞が上位者の要請に応ずる場合、または、演劇の場面などの特殊な場合は、いうまでもなく、別問題である。たとえば、「台本どおりに、先生をお殴りして、車の中にお押し込みしますんで……」のようにである。さらに、上位者を債務者の側に立たせることになる「貸す」などの場合は「お貸しさせていただく」のような使役形を使って、かえって、債権者の下位者が「恐れ多くもやらせていただく」側に立たされるというような擬似表現がとられもする。このような表現法は「権限の譲歩または信託」による

132 133第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

謙譲形といえる。また、「非奉仕動詞」であっても謙譲形が作れる場合があるばかりでなく、奉仕を表しそうにない動詞類もときとしては謙譲形に現れることも見た。謙譲形を大まかに「奉仕」の敬語であるといっても、「奉仕」の概念の内

容は、上の図が示すように一様でなく、5つほどの違った類型が見分けられる。第一はもっとも典型的な奉仕(A)、つまり、積極的であり滅私的な奉仕行為、第二はもっぱら授受関係に立つ請願性奉仕行為(B)で、懇願、贈呈・拝受、債権・債務の逆転などによる奉仕行為をいう。第三は消極的な奉仕(C)ともいうべきもので、上位者の後光のような恩恵に浴することによって仕える行為、そして、結果的に、上位者の権威を確認する効果を出す謙譲表現になっている。第四と第五型の奉仕は、逆説的な謙譲行為といえるもので、上位者にとっては迷惑であったり、または、実質的には害になったりする、いわば反奉仕性行為であること、もう 1つは両者がともに「甘え」に根差した行為であることが特徴的である。つまり、第四は甘えに立つ意図的な反奉仕、そして、この程度のあなたへの侵害(隔離の原則 A)は愛嬌としてお許しくださるでしょうというような甘えを前提としていて、上位者の尊厳をむしろ逆説的に確認する行為のことをいう。第五も実質的には反奉仕ではあるが、それが話し手が意図しなかった粗忽であったがゆえに上位者が

A. 積極的奉仕行為

B. 授受関係に見える請願性奉仕行為 C. 消極的奉仕行為

D. 意図的反奉仕行為

E. 無意図的反奉仕行為

上位者の禁域

図 1:謙譲形における「奉仕」概念の諸相

情け深く容赦または容認するだろうという甘えに萌していて、反奉仕性謙譲表現は恩恵の原則 Dに基づくものと解釈される。これらは、下のようにまとめてみることができよう。

(52)謙譲表現における奉仕行為の類型A. 積極的奉仕行為

    ⒤ 立ち回り    ⅱ 恭順・服従の表明、権威の確認、または、へつらい    ⅲ 命令・要請の履行

B. 授受関係における請願性奉仕行為    ⒤ お願い・祈願    ⅱ 贈呈・拝受    ⅲ 権力の放棄(債権・債務の逆転)

C. 消極的奉仕行為:浴恩的行為D. 「甘え」に立つ意図的押し付けの反奉仕行為

    ⒤ 上位者の対象物化    ⅱ 上位者に対する使役    ⅲ 甘え的強制(おいとま、お邪魔)

E. 無意図的反奉仕行為    ⒤ お見落とし/おみそれ    ⅱ お見かけ/お通り    ⅲ 下位者の近親のものによるふつつか

とりあえず、これらを上のように 5つの範疇にまとめて詳論に入ることにする。

5.3.3.1 A型奉仕――積極的奉仕積極的奉仕は、下のように、少なくとも 4つの下位範疇に分けて考えることができる。(i)もっとも典型的な奉仕行為で話し手の行為が明らかに上位者の意に適う場合である。「私がお荷物をお持ちしましょう」「お茶をお出し

134 135第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

します」「お部屋をお掃除しします」「今すぐお湯をお沸かし致します」「こちらから明細書をお送りします」などなど、上位者が何事にも手を下すことがないよう、こちらが立ち回って上位者に仕える類の謙譲形に見られるもの。(ii)こちらの恭順または服従を本来的に含意するもの、たとえば、「お取り次ぎする」(取り次ぐ)、「お迎えする」(迎える)、「おもてなしする」(もてなす)、「お付き添いする」(付き添う)、「お伺いする」(伺う)などである。そのほかにも、「先生に自分の落ち度をお詫びした」も入れられるだろう。また、「お喜び申し上げる」「ご機嫌伺いに参上する」のような表現もこの類に入れることができる。(iii)上位者の明確な指示または要請による行為で、たとえば「ご希望どおり早速お取り替えします」「今週中にお取り揃え致します」「では、別々にお包みいたします」などが挙げられる。また、「おっしゃるとおりに、2時から講演をお続け致します」のような文もこれらと同じ類に見なされるが、特に、「続ける」のようなアスペクト動詞と関連して、Hamano(1988)が下のような観察を行っている。

(53)a. *説明をお始めした。b. 説明をお続けした。c. *説明をお終えした。

Hamanoによると、(53b)は、出来事の継続または維持はサービス行為であるから適格であるが、(53a)と(53c)にはそのような解釈を許さず不適格になっている。これに対して、Mori(1993:81)は、(53a)と(53c)は、上位者の領域を侵す行為で許可が必要であるのに対して、(53b)は自然な成り行きの結果であるから許可が不要であるとしている。このような Hamano

(1988)とMori(1993)のアプローチは謙譲形における本書のメタファーによる分析と軌を一にするものと見られる。メタファー理論からすると、(53a)と(53c)の話者は上位者の権限に逆らうもので、使役特権の原則 Eを犯している一方、(53b)では既存または既成の事実としてのイベントの継続であることから、こと新しく上位者の権限侵犯如何に対するチェックを必要としないものと見なすことができる。(iv)もう 1つ、積極的奉仕には、次のよ

うな極端な(54) ~ (56)のような場合も考えられる。

(54)指図どおりに、きんたの奴をこっぴどくお殴りしておきました。

(55)親分のお謀りどおり、大奥の玉出箱をまんまとお盗みしやした。

(56)お上のお戒めに従い、無念をお忍びいたしておりまする。

これらは、「下手人的積極奉仕」とでも呼べるもので、枢密軸の原則が示唆する上位者の「絶対性」「尊厳性」の概念に反する行為を表す動詞類――「蹴る・殴る・盗む・逃げる・ 唆

そそのか

す」など――は一般的に敬語のメタファーでは忌避されるが、狂信的な忠誠として[上位者のためなら]という意味での奉仕の表現として取り扱うこともできる。

5.3.3.2 B 型奉仕――授受関係における請願・嘆願性奉仕行為奉仕行為のもう 1つの類型は請願性奉仕とでも呼べるもので、懇願形式、

贈呈・拝受形式と使役形式で表される。もちろん、授受形式はほかの範疇の謙譲形に付いて複合構造を作る。原則 Dの規定するところが上位者の絶対的権限を保障することから、下位者の請願・懇願形式はそのような上位者の権限を前提しており、また、上位者のお恵みを仰ぐというようなことを考えると、このような請願行為も授受関係における奉仕行為と見ることができる。いうまでもなく、上位者寄りの「くださる」、下位者視点寄りの「いただく」などが懇願性奉仕の典型的な形になる。

(57)a. 先生にお願いして、一筆揮っていただいた。b. 先生からお手紙をいただいた。c. 先生からご招待いただいた。

(58)a. ぜひ参加させていただきます。b. 今日休業させていただきます。

136 137第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

c. その節はぜひご同行させていただきます。d. 拝見させていただきます。

「休業させてもらう」などの表現はいかにもお客様をカミサマのように見なす伝統的な商人気質を反映していて、このような言い方が上方から広がったという説明がうなずかれる。この懇願性奉仕グループには、下のような権利の譲歩、または、債権・債

務の逆転による謙譲表現といえる重要な現象がある。

(59)a. 力添えさせていただきます。(力添えします)b. お譲りさせていただきます。(譲ります)c. 喜んでお貸し申し上げます。(お貸しします)d. それでは、まことに恐縮ながら、お手ほどきさせていただきます。(お手ほどきします/して〈差し〉あげます)

これは、下位者が権利を保有しているいわば債権者の位置にあって、そのことによって、禁忌を犯す可能性が高い場合である。したがって、文法的な使役形式を使って債権者である話し手を債務者に、そして逆に、実質的には債務者である上位者を債権者にする逆転メタファーである。使役特権が前提になることから、これも、授受・贈呈の場合とあいまって懇願性奉仕行為の1つと見なされる。

5.3.3.3 C型奉仕――浴恩的奉仕行為第三の C型奉仕のタイプは「浴恩的行為」、つまり、非積極的、受身的な奉仕のことをいう。

(60)a. おそばにお立ちした。(Hamano 1993:102)

b. 先生を蔭ながら生涯お慕いして参りました。c. 毎週、先生の NHKラジオ番組を 1つもらさずお聴きしております18。

例文(60)での下位者の謙譲形に表れている上位者に対する待遇表現は積極的な奉仕ではない。「お立ちする」や「お慕いする」のような行為はたとえその対象である上位者を崇める行為であっても、上位者への直接的で具体的な奉仕にはならない。むしろ、上位者の下位者に対する積極的な意向とか働きかけがなくても、上位者が持つおのずからの威光なり恩恵に下位者が「浴して」いるという意識があって、そのような認識の下に下位者が発する謙譲的表現と特徴付けることができる。このような意味で、(60)の謙譲形は上位者の意図的な、ある特定の行為によるものでなく、上位者の責任でない類の恩恵、すなわち、上位者が意図しなくても後光のようにそれがおのずから発せられるような恩に対する下位者の反応に現れる類の謙譲である。これを恩恵の原則 Dと使役特権の原則 Eから予測できる謙譲表現の誇張版、いわば、「おもねり(阿附)」の謙譲形と見ることができよう。 このような謙譲表現をさしあたり浴恩的謙譲表現と呼んでおく。

5.3.3.4 D型奉仕――意図的反奉仕行為第四の D型意図的反奉仕行為は、下位者が上位者を対象化または被使役

化する点で B類型の懇願性奉仕行為と似ている。後者では、上位者を利益を受ける立場から恩恵を授ける側に転換することによって上位者の尊厳をメタファーで庇護する表現であるのに対して、前者では、上位者の対象物化・使役化を通じた原則 Eの侵犯を意図的にそのままにしておく点、両者の間には大きな差異が認められる。

(61)a. 銀座の雑踏の中をあちこち先生をお探しして回った。b. このシーンで、貫一の私がお宮の校長をこうお蹴りしますんで、ご承知願います。

c. 順番がきたら、お客様のお名前をお呼びしますので、あちらのほうでお待ちくだい。

上の(61)は、話し手が上位者の権限損傷になることを承知しながらも、状況によってはこのような対象化・使役化がやむをえないものであるものと

138 139第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

して認めている。下の(62)では、入院中の師匠を見舞いに来た弟子の介抱のようすを表しているとすれば、たとえ上位者が使役の対象になっていてもこの上ない適格文になる。

(62)a. 先生をお起こしして、ベッドにお座らせした。b. 先生にジュースをお飲ませした。c. 先生に廊下をお歩かせした。

下もやはり D型の 1つであるが、これは、かなり「甘え」に根ざす言外の意味合いが容易に見て取れる。

(63)a. 先に失礼します。b. お邪魔しまーす。c. こんなわけでひたすら先生におすがりに参った次第です。d. このホッチキスお借りします。e. お騒がせして申し訳ありません。

これらは、明らかに、上位者の利益に反する行為、または、上位者の威厳を損なう危険がある行為であって、意図的な反奉仕的行為と見られる。それにもかかわらず、「咎め」を受けることなく通るのはどんな理由からなのであろうか。この挑発的に聞こえる言表は相手が制裁権を保有しているという前提なしには成り立たない。言い換えれば、こちらが「あなたの絶対的な采配の権利をひとえに是認しているのです」という暗黙の含みが入っている。挑戦的な発言が逆に相手の権威を高める働きをするばかりでなく、「そのような絶対的な権威を持っているあなたですもの、私が少々お邪魔なんかしたって私をお咎めなさることなんかないじゃないですか」というような意味合いを含んでいる表現である。Ohta(1987:23)は、特に、「させて もらう・いただく」構文が「甘え」に根拠を持っているということを下のような例文で示している。

(64)あがらせてもらうよ。

(65)お邪魔させていただきましょう。

このような表現には相手がこちらの要求を相手の面目を傷つける恐れがある行為として受け取ることはないだろうとたかをくくる「甘え」のメンタリテイが働いているとしている。Ohtaはこのような現象を日本人が持っている社会的心理的敏感性の言語的な現れだと指摘しているが、まさにそのとおりであって、このような観点から、使役と授受の複合構文だけでなく、上の(63)でのような表現をも包括するより一般的な説明をすることができる。「甘え」に根ざすこの「させていただく」のような表現が、「上位者への滅私的奉仕」を建前にしていると思われる謙譲形の概念とどのようにして両立できるのだろうか。本論の立場からすると、上位者への甘えは、上位者の権限に対する全面的な服属の表明であり、意図的に相手に甘え取り入ることによって、逆説的に相手の権威を確認することになり、これが結果的には相手への奉仕につながるものと見る。これも逆説的な意図的反奉仕行為を表すものと見なし、謙譲形のもう 1つの範疇とする。

5.3.3.5 E 型奉仕――無意図的反奉仕行為E型無意図的反奉仕行為には、2つがある。1つは「お見落とし・お見それ」、近親のものによる「ふつつか」、そして、もう 1つは「お見かけ・お通り」などの謙譲形に現れるものである。

(66)a. つい、お見落とししてしまいました。申し訳ございません。b. お見それいたしました。お赦しください。

上の例文では、こちらの不注意から相手の威厳を損ねる結果になったことを是認している。そして、しくじりや過ちや不遜に対してこちらが責任を負うことを認めるばかりでなく相手のどのような制裁にも甘んじますという意向を伝えるもので、一種の「自供的言語行為」といえる性質のものである。根本的には、服属の言表といえる。

140 141第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

(67)a. 駐車場で先生のお車をお見かけしました。b. 先生がお帰りになると娘からお聞きしました。(Hamano 1993:87)

c. 昨日、山田先生のお宅の前をお通りした。

「お車をお見かけした」のは、「あなたの許可なしに見てしまった(隔離の原則 Aの違反)のでお赦しください」というようなメッセージといえる。「お帰りになると娘からお聞きしました」は、先生の恐れ多い進退についてこちらが何の断りもなく聞いてしまいましたと自供している。「昨日、山田先生のお宅の前をお通りした」という発言にも、山田先生のお宅はいわば不可侵の禁止区域であることを万事承知していながらも恐れ多くも無断で通ってしまったという言明で、これに対する制裁を頂戴する覚悟ができているのですといっているように解釈できる。また、次のような場合も E型無意図的反奉仕行為の範疇に入れてよいよ

うに思われる。

(68)a. 子供が先生にご面倒をおかけした。b. お待たせしました。

これらは不本意ながらの反奉仕行為で明らかに原則 Bを犯しているが、犯則に対する処罰を受ける覚悟ができていますという意思を伝達する。ところが、また一方では、犯則に対する上位者の「お赦し」をひそかに期待する「甘え」を根底に置いているような言明でもあって無意図的反奉仕行為と特徴付けられる。

5.3.4 反奉仕性の概念設定とその認可条件

上で奉仕の反対概念として「逆説的奉仕」または「反奉仕」という概念が謙譲の意味機能の重要な要素になることを示唆したが、これをもう少し立ち入って考えてみよう。反対概念としての「反奉仕」は奉仕のゼロ化を意味するのでなく、上位者の利益に反するような行為が上位者への「絶対的な服

属」を逆に表明する結果になる奉仕を指す。次の文を見てみよう。

(69)先生におすがりして推薦状を書いていただいた。

他動詞「すがる(縋る)」は子供が親に駄々をこねるときの「すがる」である。すがられる当事者には迷惑になる可能性が多分にある表現である。ところが、このような動詞が反奉仕的謙譲形には誂え向きなのである。というのも、なんら力にならないものにすがるわけがないからである。「すがる」の対象には「こちらから寄りかかって利を得ることができる潜在的な能力を持っている存在」であることが前提されていなければならない。これは、相手が持っている影響力・権力を確実なものとして認識しており、「あなたのほかには私の望みを叶えてくれるような力を持った人はいないのです、それであるからこそ、こんなにあなたにおすがりするのです」ということが含意されていると考えられ、相手に対するこちらの完全な服従を前提とする表現であると見なされる。謙譲形に見られる動詞「すがる」は、このように相手への従順な帰依ばかりでなく、上で見たような甘えを暗に含んでいる。「おすがりする」は、「お邪魔します」「失礼します」のような表現のように、邪魔になると思われる行為、失礼になると思われる行為を先方の意向など頓着しないでやってのけるのが一般のように思われる。「甘え」の対象は常に「私の願いを叶えてくれることができる人」「どんなことでも駄々をこねることができると思い込んでいる存在」、すなわち、私を庇い包んでくれる「大きな存在」である。「甘え」の対象は復讐を知らない存在である。それはまさに母なる存在である。すなわち、「反奉仕」が「奉仕」になるためには、この「甘え」の対象の「赦し」が必要かつ充分な条件になっているものと考えられる。このような理由で、反奉仕の謙譲形の述語動詞と組になる構成要素は「上位者のために」の代わりに「上位者のご威光によって」、または「上位者の無限なる庇護の下に」のような副詞句となる。これをさしあたり一般的な様式として(70)のように規定しておこう。

(70) [ 私は(上位者の庇護の下に)お Vする]

142 143第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

ここで、§5.3.2.3の謙譲形の定式(27)を想起されたい。そこでは、無標(unmarked)の奉仕謙譲文の上位者関連副詞句を「上位者のために」とした。

(71) (= (27)) 謙譲形:[(上位者のために)[お V連用形]する]

(70)と(71)の定式の中で、丸括弧の部分が 1つは「上位者の利益のために」、もう 1つは「上位者の庇護の下に」のように同じ謙譲形でありながら意味的に隔たりがあるのが多少気にかかる。このような定式を 1つのより一般的な概念の副詞句にまとめることはできないものだろうか。

(72)謙譲形: a. (上位者のために)

                    [お V連用形]する]       b. (上位者の庇護の下に)

(73)謙譲形:[ (上位者への服属の証として)[お V連用形]する]

とりあえず、上の(72a)と(72b)に見える 2つの副詞句をくくって「上位者への服属の証として」というふうに整理すると(73)のような一般化ができる。(73)の謙譲形は、上位者はタブーであるの大原則、またはより具体的な原則 D(恩恵の原則)をほどよく満足させている形であるといえる。

5.4 久野の統語論からの支え

この節では、意外なところからわれわれの仮説を支えてくれる 1つの論文について記しておこう。それは久野(1983)の複合動詞を基にした敬語の構文的分析である。これは、尊敬の自発性・謙譲の他動性との二分法に、形態論的な観察からでなく、統語構造から帰納的に迫る注目すべき研究である。

動詞 beginはその半助動詞的な特性で 1970年代の学会を賑わしたテーマの 1つであるが、この構文的スコープについて、Permutter(1970)は、下のような文に現れる beginは、2つの異なる深層構造において分析されるべきだと主張した。日本語との対応関係を見るために、日本語の訳をつけておく。

(74)a. John began to work

a’. Johnが働き始めた。b. [John began[John work]S]S(begin1 )

b’. [Johnが働くの]を Johnが始めた。(John:「始める」の主語)

c. [[John work]S began]S(begin2 )

c’. [Johnが働くの]が始まった。(John:「始まる」の主語でない)

この分析 によると、beginには他動詞の begin1と自動詞の begin2の 2つがあるわけである。(74a)は begin1で、「Johnが働くのを始めた」のように、「Johnが働くの」を目的語にする他動詞の意味がある一方、(73c)の「John

が働くのが始まった」の「始まった」は文全体が主語になっている、いわゆる、繰り上げの動詞、すなわち、自発の自動詞 begin2と見るわけである。

久野は、これが生産的な敬語形式とどのように関連するかについて、次のような仮説を提案している。

(75)V1-V2型の複合動詞の尊敬形は V2が他動詞なら、[V1-V2]全体に、V2が自動詞なら、V2だけに尊敬の形態素を付加して作る。(ただし V1

は連用形)

次の(76a)は、仮説の予測どおりに、V1が他動詞であるから、複合句の全体が尊敬化されている。すなわち、複合句全体を代表する他動詞 V2の主語は先生であって、適格な文になる。ところが、(76b)では、V1が自動詞でなく、他動詞であるため、V1だけの尊敬化は非適格となる。

144 145第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

(76)a. 先生が手紙を[[お書き]終えになった]b. *先生が手紙を[[お書きになり]終えた]

V2が自動詞的機能しか持たない[V1-V2]の場合は、V1だけに尊敬法がかかるはずである。

(77)a. スミス先生も、やっと、日本語が[おわかりになり]始めたらしい。

b. *スミス先生も、やっと、日本語が[おわかり始めになった]らしい。

V1が「わかる(解る)」のような自動詞である場合は、(77b)のように、[V1-V2]全体に尊敬化ができないが、(77a)は、V1だけが尊敬形になっていて、仮説(75)の予測どおり適格である19。(76b)が示しているように、V1が尊敬標識の適用によって、いったん、その動作主性が非焦点化されてしまえば、意図的行為を要求する他動詞の「終える」の主語になれないのである。同じように、(77b)でも、「ものが自然にわかってくる」のような文における「わかる」のような自発の動詞は、本来、主語がコントロールできない動詞であって、不意図的な経験の動詞であることから、他動詞であるV2の「始める」の主語になりえないのはいうまでもない。それが V1と統合してできた(77b)が、適格でないのは当然といえるだろう。これは、まさに、われわれの労役に関する原則と、それに付随するガイドライン(3i)が予測するところでもある。つまり、「お書き」は(76a)でも(76b)でも先生が手紙を書くという他動詞であるが、「お書き」が「お書きになる」という自発表現になると、「始める」や「終える」のような他動詞と共起できなくなるということは、自発メタファーによる尊敬形表現が文法的にも「自発」のように取り扱われるということを意味する。すなわち、尊敬の「お書きになる」という表現は実質的な意味では紛れもない他動詞であるにもかかわらず、「なる」が介入する自発の尊敬メタファーになると文法がそれをまったく 1つの自動詞として認識することになるということである。このよ

うな自発のメタファーによる尊敬形が文法的にもあたかも自動詞のように振る舞うことが久野(1983)で明らかにされたわけである。そのほかに、また、久野(1983:27)は、謙譲形がいろいろな面で制約を受

けることを例証しているが、本節と直接関係のあるものを挙げれば、そのうちの 1つに、謙譲形が、必ず、主語がコントロールできる動詞にしか適用できないというのがある。

(78)a. *私は、山田先生のことは、よくおわかりしない。b. *僕は、山田先生にお叱られした。c. *田中は、山田先生にお似している。d. *田中は、去年はじめて、山田先生(のこと)をお知りした。

久野は、上の文が適格でないのは、自発の「わかる」や「知る」、受身の「叱られる」、自動詞の「似る」など、主語がコントロールできない事象であることから、謙譲化されないという意味論的な制約があるからだとしている。さて、このような制約は一体どこから来るものなのだろうか。われわれの仮説がこの問いに答えてくれる。述語動詞が不意図的な自動詞だとすると、下位者が、上位者にその奉仕量を最大限にしようにもしようがないだろう。それは、下位者が意図的な奉仕を前提にする原則(3ii)に従うことができないからである。ちなみに、謙譲形は、その主語がコントロールできない動詞であるだけでなく、たとえコントロールができても、「休む」「走る」「倒れる」「泣く」などの非能格の自動詞とされる動詞類には、適用しにくいように見える20。

(79)a. *私がお休みします。b. *私がお走りします。c. *私がお倒れします。d. *私がお泣きします。

このような自動詞が表す下位者の行動は、本質的には、下位者自身の事柄

146 147第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

であって、上位者に対する奉仕になる可能性は極めて低いといえる。しかし、上のような行動に、特に、「上位者のために、(私が犠牲になって)遂行する」というような条件が与えられれば、それは、「奉仕」として解釈できることから、適格度が高くなる。久野(1983:29)は、さらに、このような特性を持つ謙譲形についても、仮

説(75)が適用できるかを調べている。尊敬形と同じく、「V1-V2」の複合形に謙譲形を適用するには、次の(80)のような 2つの制約がその過程に介入するとし、(81)のような例を挙げている。

(80)a. 動詞に対する主語のコントロールが可能であること。b. 謙譲形(お Vする)の敬意対象は Vのレベルでの構成要素でなければならない。すなわち直接目的語、間接目的語、または他の斜格などであること。

(81)原稿料は今月末から[先生に[お払いし]]始めます。

上の(81)の「払う」は、主語の話者がコントロールできる動詞であるから、謙譲形が可能で、「お払いする」が派生する。明らかに、「始める」もコントロールが可能な動詞ではあるが、「先生のためにお始めする」というわけにはいかない性質のものである。予算や事務的な都合による出版社内の事情に関わるものであって、先生 1人のために始めることはできないからである。久野の(80)の規則が予測するように、「始める」が間接目的語「先生に」と共起できる Vレベルを持たないからである。さらに、このような場合の「始める」には§5.3.1の(22)と(23)で見たように、基底構造「上位者のためにお Vする」を設定することができないからだともいうことができよう。例文(81)のように敬語規則の運びが文の統語構造の中に深く入りこんでいる現象が久野の分析によって見事に明らかになったが、これはまた、原理的な解釈を目指す本論の予測するところであって、上位者即タブー対象のメタファー仮説が統語論の面からも支持されることを間接的に示唆している。

5.5 なぜ謙譲形に語用論的制約が多いか

以上、本章では日本語の敬語の文法の仕組みについて考察してきた。4つの部分にわたる語法、すなわち、命題外敬語である丁寧形、命題内敬語と尊敬形と謙譲形の文法メカニズムを考察してきたが、同じ命題内敬語の領域の敬語でありながら、尊敬と謙譲の 2つの形式の間にまた注目すべき差異があることもわかった。このような違いの 1つは、謙譲形が尊敬形に比べて用法上に制限が多いことである。久野(1983:24)も Hamano(1993:107)も「なぜ謙譲形に語用論的な制約が特に多いか」と問いかけているが、興味深い問題といえる。これについて、Hamano自身は、上下関係を厳格に区別する日本社会の特性によるからだろうといっている。たとえば、店頭での顧客に対する販売員のサービスに見える謙遜ぶり、くつろいでいる上位者のまわりで下位者が忙しく立ち回って用を足している状況での上位者と下位者の対蹠的な関係などから説明できるとしている。しかし、このような状況でも、下のような、謙譲形でない尊敬表現もいくらでも聞くことができるものである。

(82)a. いらっしゃいませ。b. 何をお求めでしょうか。c. こちらのほうがお客様にはもっとお似合いのようですが……。d. お気に召さないときはいつでもお取り替えがおできになります。e. お待ちどおさまでした。

このほかにも、「別々にお包み致しましょうか」「2万円お預かりします」などとともに盛んに使われる「いろいろな柄を揃えてございます」「これでよろしいでしょうか」などは、中性の謙譲といえる表現である。事実、Wenger(1983)が行った尊敬形と謙譲形の使用頻度数の調査によれば、457

個の動詞のうち半数が尊敬形であるのに反して、謙譲形は全体の 4分の 1

弱であったということである21。 店員たちのサービス表現も尊敬形が大勢と

148 149第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

いってよい。これは、また、ホテルや旅館などでの客応対にもおおよそ同じことがいえると思う。それにしても、この章では、特に、尊敬形では問題にならなかったさまざまな規制が謙譲形にかかることが明らかになったと思われるが、Hamanoの説明には、このような尊敬と謙譲の 2つの領域での不均衡性については触れないまま残されているといえる。この問題について、われわれの仮説からどのようなことがいえるだろう

か。まず注意すべきは、尊敬も謙譲も語法の領域では、ともに簡単であることである。尊敬形は話し手(上位者)の動作性の非焦点化、そして、謙譲形は逆に主語である下位者労力の極大化ということに尽きる。尊敬形に 3通りの異なる語法があって一見複雑なようであるが、動作主役割の非焦点化には 2つの違った方法――実は、生産的な自発形「なる」を利用するか、「なさる」も加えて 1つの自発の形態素[(r)ar(er)u](これの変異形としての「ある・らる・あれる・られる」)を利用するか――しかない。謙譲形にいたっては、頭脳辞書に登録されている語彙のほかはターゲットになる動詞の連用形、つまり、動名詞に他動詞「する」を添えさえすればよい。もちろん、ターゲットの動詞には両者とも敬語の接頭辞が付加される。したがって、謙譲形が尊敬形に比べてより複雑であるのは、語法または文

法規則による語形のことでなく、適用の問題であることがわかる。つまるところ、謙譲形の適用が尊敬形のそれに比べてより煩雑になるのは、何によるものであるかということである。これは、下位者の上位者に対する立場の次元が、尊敬形では一元的、そして、謙譲形では多元的であるということに帰するものと考えられる。これについてもう少し立ち入って考えてみよう。

5.5.1 尊敬形における主語(上位者)の一元性

尊敬形の対象はもちろん上位者であり、その上位者が尊敬文の主語になる。主語の上位者は 1つのモデルとして絶対的なタブーになる。

(83) アメリカでは東海岸の 2、3の大学で御講演なさったあと、Y図書館で新著のためのリサーチをなさるそうですが、来年の春学期には御帰

国なさるとおっしゃっておられます。

上の文 (83)には 4ヵ所にわたって動詞の尊敬形が見られ、下の(84)でのように、語形は「られる/なさる/おっしゃる/になる」などさまざまであるが、いったん尊敬語のターゲット(この場合は先生)が決まれば、「なさる・される」のような形のより分けのほかは特に制約といえるものはない。主語のモデルに対する崇め方は 1つであるといえる。

(84)a. 御出席されるb. 御静養(される・なさる)c. 発たれるd. 御講演なさるe. リサーチをなさる f. 御帰国なさるg. なさるh. おっしゃっておられる

もちろん、敬度は千差万別であって、一元的に適用されたモデルに対する尊敬表現は適宜調整されなくてはならないが、この調節は修辞法という手続きでなされ、実質的には尊敬形を作り出す文法的規則の埒外で行う操作である。この点、文法規則さえ習得すれば尊敬語の運用は単純だといえば単純である。それに反して、謙譲形はその作り方は尊敬形に比べてよりいっそう簡単であっても、いかに適用するかということなると、尊敬形の場合とは比較にならないほどの複雑性を示す。これを次の節で見てみよう。

5.5.2 謙譲形における主語(下位者)の立場の多元性

下は中川(1994:163)からの引用であるが、謙譲形が随所に使われており、主語の筆者がいろいろな側面から違った形の謙譲表現を使っていることがよくわかる。

150 151第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

(85)a. 拝啓 昨日は大勢でお伺いし、お言葉に甘え遅くまでご厄介になりました。

b. 数々のご馳走にあずかり、子供たちはご子息にいろいろと遊んでいただき、その上、帰りには結構なお土産まで頂戴し、何とお礼を申し上げてよいものかわかりません。

c. ご主人はもとより奥様、ご子息様までも、さぞやお疲れのことと恐縮に存じます。

d. お蔭様で楽しい一日を過ごすことができたと、帰途みな口々に申しておりました。まことにありがとうございました。何卒奥様、ご子息様にも、くれぐれもよろしくお伝えくださるようお願い申し上げます。

e. 手紙にて失礼ながら、とりあえず、昨日のお礼のみ謹んで申し上げます。 拝具

上で見るように、謙譲形の奉仕機能は多岐にわたっている。(85)の書信は受取人が上位者 1人であるにもかかわらず、差出人の下位者は、下の(86)を分類整理した次頁の(87)で見るように、さまざまな謙譲表現が多彩に駆使されている。

(86)a. お伺いするb. ご厄介になるc. ご馳走になる(相手の負担になる)d. 遊んでいただくe. お土産まで頂戴する f. お礼を申し上げるg. 恐縮に存ずるh. みな口々に申しておる i. ありがとうございました j. お伝えくださいk. お願い申し上げる

l. 謹んで申し上げる

上の 12項目にわたる異なる謙譲表現が示している事柄を整理してみると、下の(87)で見るような 4つのファクターが関わっていることがわかる。

(87)a. 権威の確認(伺う/存ずる〈へりくだり〉)b. 恩恵に浴する(ご馳走にあずかる)c. 恩恵の受理(いただく/頂戴する/くださる)d. 上位者の情報プールのアップデート(申し上げる/申しておる)

いつ、どのような場面で、どのような謙譲表現を選択するかが問題になり、謙譲形の適用では一筋縄ではいかない複雑性を示している。ここで、強調しておきたいことは、このような謙譲形の適用面での多様さにもかかわらず、語形では、ちょうど尊敬形の場合と同じく、いや、尊敬形よりもはるかに簡単であるということである。尊敬形では、序章の§0.4.2.1の(6)で見たように、「~になる」「~なさる」「~られる」のような変異形があるが、謙譲表現は文法的には、[お Vする]一式しかない22。上の(85)では「お伺いする」に表れているだけ(これも、実はレキシコンからの語彙項目である「伺う」に謙譲形様式を適用したものである)であって、そのほかは、「あずかる/頂戴する/存ずる/申し上げる/くださる」など辞書項目になっている。つまり、文型生成パターンは至極簡潔に保たれている反面、状況や場面による語用論的適用の違いは語彙部門に大幅に委ねられているという按配になっている。謙譲の文法様式が適用面での多様さに関係なく簡単であるということは、考えてみれば、神妙極まりないものといえる。もしこのような適用の複雑性が語法の形式にまで持ち込まれるとすれば、途轍もなく複雑な文法が編み出されることになり、母国語の話者が扱いきれない体系になってしまうだろう。実際の日本語の語法はそうでなく、謙譲形の形成パターンは、幸いにも一様に簡単に規定されている一方、謙譲形の適用は、文法様式の枠外(つまり、レキシコンに)にとどめられている仕組みである。これなどは「文法の叡智」と呼んでも言い過ぎではないと思われるのである。

152 153第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

5.6 まとめ

本章では、謙譲形が上位者に対する奉仕のメタファーであるという仮説から、奉仕の形態を 5つの下位範疇に分類できることを示し、それらの特質を析出した。その中で、われわれのメタファー仮説による「反奉仕」の概念を導入することによって従来省みられなかった諸現象に新しい光を当てることができた。

1 もちろん、英語でも、ateの代わりに、いわゆる尊敬語的な表現に当たる dineと

いう慇懃な表現がないでもないが、ここでは、説明上 ateのほうが「お召し上がり」

との対立を鮮明にしていてより効果的になっている。

2 「おかせられ(まし)ては」が「kase」である可能性を示唆したが、この分析を間

接的に支えるような現象が韓国語にあることを付記しておこう。現代韓国語にも日

本語の尊敬の主語格に当たる kkes e(<skesyo)が見られ、日本語同様、話題の「は」

を伴って kkes e-nunも頻発する。これについては筆者の Kim(in print)に詳しい。

3 上位者が働く主体であってはならないとする日本語話者のメンタリティから敬語、

特に、尊敬形では上位者を隠喩的に「動作」性を持たない主体であるかのごとく表

現することにこだわっているとする本書でのような考え方とちょうど正反対な見方

がWenger(1982:269,280)、Dasher(1995)などに見える。Wenger は尊敬形式を行

為者形式(the actor form)、謙譲形式を非行為者形式(the non-actor form)と呼んで

いる。Dasherは、上位者の行為と存在が「たくましい動作(robust motion)」とし

て表されるのに対して、下位者のへりくだりは「行動・動作の欠如」としてコード

化されるものとしている(同書 :173-178)。前者の例として「いらす」という使役の

動詞から派生したものとして「おりやる・いらっしゃる・いらしむ」を挙げている。

後者の例としては、「さぶらふ・はべる」などを挙げ、上位者の前にかしこまって命

令を待つことを表すとし、「伺う」はひそかに上位者の機嫌をさぐることによって将

来の事態に処するというふうに解釈している。このような見方は明らかに本書での

考え方とは相容れないところで、これについては次節とそれ以降の節で触れること

になる。

4 ここで付記しておきたいことは、Hinds(1986:567)が、敬意を自発的な「出来事」

として表す日本語の仕組みについて次のように指摘していることである。「西光教

授は下にいうような使い分けは主体敬語の使用に関係があるだろうと示唆している。

すなわち、相手に対して敬意を払うだけでなく、このような文構造を使うことによっ

て、上位者が積極的に物事をするのでなく、上位者の行動が正常なイベントの中に

ひとりでに起こったことを指すのものだということである。もしもこのような推論

が正確なものであるとすれば、これは将来の研究が待たれる極めて興味深いことと

いえる」とされている。

5 「なさる」を「する+られる」、また、「おっしゃる」を「言う+られる」の補充形

(suppletive) とする見方(柴谷方良教授の個人的ご指摘)も考えられよう。

6 日本語の動名詞化は動詞の連用形で作られるとされている。しかし、なぜ動名詞

化が連用形という特殊な活用に頼らなければならないのか疑問になる。これは、上

代の日本語に動名詞を作る形態素 i があったものと仮定すると、動名詞は活用とは

無関係に[動詞の語幹+ i]のような操作によって自動的に生成されるということ

ができる。たとえば、「聞く(kik-u)」「飛ぶ(tob-u)」の場合、kik+ i tob+ i)の

ように。つまり、名詞の「聞き」は「聞く」の連用形でなく、動名詞の「聞き」を

類推によって、「聞く」の連用形と混同するようになったものと見る。本書ではこの

ような動名詞を伝統的な「動詞の連用形」という呼び方も混用して使う。

7 助動詞の「する」は、また、それ自体の謙譲形「致す」と交替してより敬度の高

い「(上位者の福祉のために)お V致す」のような形も作る。

8 ごく最近、Ivana & Sakai(2007)は Harada(1976)の尊敬・謙譲の統語的構造を

発展させ、「られる」による尊敬形と違って、尊敬形と謙譲形の動詞は形態的に分離

が可能な構造であり、軽動詞としての「なる・する」による尊敬・謙譲法には敬語

の接頭辞「お・御」が統語論的に機能範疇 HP(honorific phrase)を形成し、その主

要部になると提案している。さらに、Ivana & Sakai(2007)では、尊敬形に「なる」

軽動詞が関与する理由を、大野(1966)に従って、ある人物を自然の威力に対する

ごとく遇することはそのような人物をあたかも大自然のように強大な威力ある存在

のごとく遇することに等しく、したがって、自然現象を表す「なる」が人物に対す

る敬意を意味することになるとしている。一方、「する」は意志的行為を表すものだ

とし、その主語が事態に対する責任を持つということを意味するものだという。そ

して、話者の主語をイベントに対して責任を持つものとして記述するという事実は

(主語の)意図がどのようなものであるかを知っていることであり、したがって、話

154 155第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第5章 敬語における「する」と「なる」のメタファー

者が主語と近接関係を持っていることを意味し、このような話者と主語の間の近接

性によって主語は敬意の対象になることができず、その代わり、イベントにおける

対象、つまり、目的語が敬意の対象になるのだとしている。「なる」の機能について

の著者たちの論点は一応首肯できるとしても、「する」についてはより明確な説明

が望まれる。「田中先生が校長にそのことを申されました」のような文での「申す」

の謙譲形は素材文の客語である「校長」に対する敬意の現れであるのは確かである

が、「田中先生」も話者の敬意の対象になっていることを見逃がしてはならないだろ

う(もちろん、田中先生も相対的に校長に対しては下位者になっている)。 でなかっ

たら、「田中教諭が校長にそのことを伝えました」にならなければならない。いずれ

にしても、Ivana & Sakai(2007)の研究は、本書で提案する上位者即タブーのメタ

ファー仮説も最新のミニマリスト・プログラムの理論的枠組みの中で統語論的に定

着させる可能性があることを示すものとして、その発展が大いに期待される。しか

し、Ivana & Sakai(2007)の論文では、「なる」や「する」が関わる尊敬・謙譲形式

が構文的な補文構造を持つという時枝(1941)に触れるところがないばかりでなく、

また、「なさる」の取り扱いは保留するとするほか、丁寧形の生成についても言及す

るところがなく、これらをも統括するより総合的な将来の統語理論が期待される。

9 Sperber & Wilson(1986)では、このような含意を explicature(外延的含意)と

呼んでいる。Noh(2000:71)は explicatureを Wilson(1993)の講義からの抜粋と

して次のような定義を下している。「陳述によって理解された命題が(a)真理条件

的な内容を持つ場合、または、(b)このような命題が談話行為または陳述―態度の

記述に内包された結果である場合、このような命題を外延的含意と呼ぶ」。たとえ

ば、Noh(2000)によれば、John dropped the glass and broke itのような陳述文は語

用論的な含意として If John dropped the glass and it broke, he is the one who will have

to replace itという真理条件文として聞き手にとれるものとし、後者を前者の外延的

含意と見ている。

10 菊地(1997:287-293)は謙譲形が作られにくい 9項目の動詞類を挙げている。こ

のうち主なものは本節で取り上げられている。

11 Hamano(1993:91)が指摘しているように、「先生がお出でになったので、私がお

立ちしました」のような場合は、われわれが仮定する使役特権の原則 Eを満足させ

るものと見られる。つまり、話者の起立は先生の優越性を確認するかたわら、「先生

のために」席を譲ることを暗示する動作とも見なされる。Hamanoはこれを後述す

る「近接性」の概念で説明している。座ったままの姿勢は上位者に対する奉仕行為

には不適であることはいうまでもない。われわれの労役の原理からすると、起立状

態と坐臥状態にかかる労役量が前者のほうが明らかに大であることから、起立する

ことによって労役の原則違反になる条件を取り消す効果を狙うものと解することが

できる。

12 同じところで、金田一は謙譲形にこの種の丁寧形に近いものがあることを指摘、

これらを今の学校文法で謙譲語として取り扱っているが、「ございます」のような表

現が愛用されているのは、「日本人が堅くまじめに振舞うのが、目上に対する礼儀だ

と思ってきたことによる」と述べている(金田一春彦 1988上 :26)。

13 菊地(1997:356)の「ただいま電車が参ります」「プラトンが申しますには」など

もこの類の典型な例で望ましくないとされるが、前者のような例を上位者の情報プー

ルのアップデートであるというふうにとるとすれば、それほど度を過ぎるものでも

ないのではなかろうか。

14 久野(1983:66)の尊敬・謙譲標識付加規則は次のように規定されている。「巡回

的に、単純受身規則適用後、そして、『動詞繰上げ』規則、『が/に交替』規則に適

用される。尊敬標識付加規則は、この段階での主語を、謙譲標識付加規則はこの段

階での非主語を、その敬意対象とする」(同書 :66)。

15 久野の統語論的な敬語現象の分析のほかに階層的語彙と構文的素性の継承の概念

による語彙論(HPSG理論)の立場からのような分析も考えられるが、ここでは立

ち入らない。

16 この点に関する観察は角岡賢一教授の示唆に負う。

17 この文は柴谷教授のご教示による。

18 (59b)と(59c)は話し手が当事者の先生に対して申し上げる場合であるが(柴谷

教授の個人的ご指摘)、(59a)のように上位者の先生が同席していない状況でもいえ

る文であると考えられる。

19 もちろん、(77b)の場合、「おわかり」が不意図的でなく意図的な意味に解釈でき

るような状況も考えられる。たとえば、話し手が不当に誤解されているような事情

を、他人事のように見てきたスミス先生が客観的な立場からそのような事情の真相

をようやく正しく把握するようになったとしよう。その場合には、下のように「お

わかり始めになった」が可能になる。

 (例)スミス先生も、やっと、われわれのことを[おわかり始めになった]らしい。

この点は柴谷教授の個人的なご教示による。

20 非能格自動詞は主語が意図的にコントロールできる自動詞類で、このほかにも「働

156 第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し

く」「遊ぶ」「騒ぐ」「暴れる」などが挙げられる。これに対して、同じ自動詞でも、

コントロールがきかない自動詞は非対格自動詞と呼ばれ、「燃える」「落ちる」「沈む」

「すべる」「沸く」「凍る」などがこれに当たる。これらについては、影山(1993:67-

68)、鄭(2006:58-59)に詳しい。

21 柴谷教授の個人的なご指摘どおり、方言に尊敬形はあるが謙譲形の欠けている場

合が比較的多いのもこのような事情を反映しているものと見られよう。

22 もちろん、[お V致す]がないでもないが、これは本体の[お Vする]の変異形

と見る。つまり、「致す」は「する」の語彙化された謙譲語であることから、謙譲法

の「お Vする」を「お V致す」とすることによって敬度を過剰に増やしている。

日本語が英語のような西欧語と異なる特徴の 1つを挙げるとすれば、それは「あげる・もらう」のような授受動詞の活躍である。たとえば、英語の“John came to greet me at the airport”を日本語にすると「ジョンが僕を空港に迎えにきてくれた」のようになる。これをただ「僕を迎えにきた」と言い切るとなにか座りのよくない文になってしまう。どうしても「僕のためにわざわざ来てくれる」のように恩恵を蒙るということが明示されるような言い方が望まれる。また、“John repaired my sister’s sportscar”は「ジョンが妹のスポーツカーを直した」でなく、「ジョンが妹のスポーツカーを直してくれた」になるだろうし、“John took Mary to the hospital”のように話し手が直接関わらない文も「ジョンがメアリーを病院に連れて行ってあげた」のようになるだろう。もちろん、“I asked John to take my sister to the party”なら、アメリカでも“I asked John the favor of taking my sister to the party”であるように、「ジョンに妹をパーティに連れて行ってもらった」が自然であろう。日本語が英語と違う点は誰が誰かのために何かをするというコンテクストでは特に人を煩わすような気遣いのない場合でも必ずといってよいほど授受動詞が介入することである。この現象は日本語の話者は誰かに何かを施す、誰かに何かをしてもらうのような状況での「誰が何かをする」ことを1つの「恩」と見なす傾向が強いことを示しているように思われる。日本語ではこのような「恩」の移行を司る手続きがなくてはならない文法の重要な下位部門の 1つをなしている。これなどは、日本語が特に会話の中にすでに言及されてある事柄を取り立てて話すときには、これを既存の助詞に「は」

第6章

「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

158 159第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

を挿入して、いちいち区別を付ける語法が日本語の大きな特徴の一つになっているのと同じように、少しでも「恩」が関わる文になるとその恩恵の授受運動の方向性に異様にこだわって、とても厳しい文法規則を適用する。この恩恵移行に関する語法は敬語の体系の中にもそのまま受け継がれて、「~申し上げる」「~して差し上げる」「~してくださる」「~していただく」などの形に表れる。この場合、敬語法では「恩」の概念は大体「恵み」という概念で捉えられる。「恩」は受恵者である話者寄りであるのに反して、「恵み」は上位者が話し手に下す、すなわち、与えるものであって、やはり上位者を軸にしているメタファー的敬語体系の議論ではそのほうが説明上便利であるからである。この章では、このような「恩恵」すなわち「恵み」がどのように敬語の文法にあずかっているかを考察する。

6.1 恩恵移動の原則と文法化のためのガイドライン

第 2章で論じたことは、タブー的な隠喩存在である「上位者」は、それが属する共同体の安全を保障する、魔力を持つ守護神のような存在であるということであった。しかし、このようなタブー対象はその共同体の積極的関与によってのみ成り立つ相対的観念である。タブーを守る共同体成員のいないところにタブーは存在しない。Durkheimがいっているように、タブーは強力な魔力で共同体の安全を保障するという「間違った信念」、つまり、「虚構的な存在または概念を信じること」によって成り立つものである。タブー的守護神の安寧と共同体成員の安全は両者の相互関係によってのみ成立する。タブー的存在である上位者、そして、それを認識する下位者という相互依存関係がメタファーとしての日本語の敬語を成り立たせる根本的な基礎になっている。このような相互依存性を端的に表している現象の 1つが恩恵授受の敬語である。この章では、この仮定をいろいろな言語的データで検証する。まず、第 3章で導入した恩恵の移動に関する原則 Dとそれに付随する文

法化のためのガイドラインと規定したものをもう一度ここに挙げてみる。

(1)(=第 3章(13))原則 D恩恵移動の原則:恩恵は常に上から下への下降運動である。⒤ 上位者は常に恩恵の授け手、すなわち、始発点である。(施恵者)ⅱ 下位者は常に恩恵の受け手、すなわち、到着点である。(受恵者)

(2)(=第 3章(18))文法化のための指針要領:授受関係においては、下の(i)と(ii)による翻訳要領に従う。⒤ 原則 Cにより、上位者が利益の受け手になる文は極力これを避けること。上位者がやむなく受け手に立たされる場合、つまり、下位者の恩に着せられる場合は下位者のなすことが「貢ぎ」のような「進呈物」であって、上位者に施される事柄が「恵み」でないことを明らかにすること。

ⅱ 下位者への恩恵の移動は「下賜」、上位者への進呈物(貢ぎ)の移動は「捧呈」などのような特別な位相表現によって語彙的に峻別すること。

このような原則を基にするわれわれの予測が、日本語の敬語で実際に観察できるものであるかを調べてみよう。

6.2 恩恵の原則Dによる敬語の授受表現のメタファー

厳密にいえば、上位者が恩を受けるということは原理的に排除される。なぜなら、上位者が何かに不足して下位者に頼るようなことはないからである。上位者が下位者に対して恩を施す状況を表す尊敬形は可能であるが、逆に、上位者が下位者から恩を受ける有様を表す尊敬形は日本語にはありえないとする予測は日本語の辞書の恩恵の授受に関する語彙項目の分布に如実に現れている。すなわち、「もらう」に該当する尊敬語彙が見当たらないのである。また、生産的なパターンによる「おもらいになる」もあまり聞かない

160 161第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

表現である。さらに、下位者の「もらう」のほうは、「いただく」が頻繁に使われる。広辞苑(1969:116)によると、「いただく」は「あがめ敬う」「敬い仕える」「奉戴する」の尊敬語のほかに、「もらう」の謙譲語として「賜る」「頂戴する」になっている。原義は、「頭にのせる」、そして、「高く捧げる」であって、受理物が下位者の頭上のレベルにとどまる状態を表す。もちろん、下位者が腰を屈めて頭の高さを相対的に下げることによって、同様な低頭の効果を上げることもできる。「拝受する」はこのような意味の表現である。中国の皇帝に対する叩頭の礼はその極端な様式であろう。つまり、「いただく」は、「拝受」という下位者の「恩恵の受け入れ」が位相的なイメージによってメタファー化された語彙表現といえる。表 1で、授受動詞の敬語の語彙の分布状態を見てみよう。この表の作成に当たっては、菊地(1997:254ff)が大いに役立った1。規則上、可能ではあるが、実際にはあまり起こらないものは、括弧で示し

ておいた。表 1で特にわれわれの注意を引くのは、授与動詞(give) が「くれる・やる(与える)」で、その尊敬形は「くださる(賜る・給わる)/さずける(授ける)」であるが、それに該当する謙譲形はまったく欠けている。

表1:授受動詞の敬語の語彙項目と生産的形式の分布

授受動詞 尊敬形 謙譲形語彙化 生産的 語彙化 生産的

くれる くださるたまわる

おくれになる*くれられるおくれなさる

Ø (*おくれする)

やるあたえるあげる

さずける おやりになる(#やられる)おやりなさる(#おあたえになる)(#あたえられる)(#おあたえなさる)おあげになるおあげなさるあげられる

さしあげる (*おやりする)*おあたえする*おあげする

もらう Ø おもらいになるもらわれるおもらいなさる

いただく (*おもらいする)

その反面、受理動詞(receive)の「もらう」は、謙譲形に「いただく」がある代わりに、尊敬形が欠けている2。このような授受動詞における尊敬と謙譲の非対称性・不均衡性は原則 D

とその付帯条件の予測するところである。つまり、敬語の場では、「恩恵」または「支給物」の移動が典型的に上下運動であることによって、そのような移動は、水平的な場合と違って、[+上方][+下方]のような特殊な位相マーカーによって区別して表示されるが、移動に上下の位相的違いがない場合には、したがって、特殊な尊敬・謙譲の語彙項目もないと予想される。この予想は、上位者と下位者の間を移動する物品が 1つの「恵み」として授受されるものでない場合、たとえば、「渡す」「預かる」「返す」「貸す」「借りる」「売る」「買う」のような動詞の意味構造の中では授受の対象が「贈り物」でなく、ただの「物品」であり、したがって、位相の違いに関する意味素性も本質的に欠如する。物品の水平移動を表す動詞群に尊敬・謙譲の語彙項目がないのは当然といえる。したがって、「Xがその本を本屋さんで買った」は、Xが上位者の先生であれば、尊敬・謙譲は語彙項目によることができず文法の生産的な規則によって、「先生がその本を本屋さんでお買いになった/買われた」のようになるだろう。さらに、たとえ下位者の「私」が関わっていても、その本が私に対する贈り物でない場合は「先生がお買いになったその本を私にお渡しになった/お渡しになられた」であって、「その本を私にくださった」にはならない。このような意味的な対比は下の(3)と(4)の文の(a)と(b)にも現れている。

(3) a. 先生が私に褒美に 1万円くださった。b. 先生が銀行に行く私にご自分の預金額 1万円をお渡しになった/渡された。

(4) a. 私は先生に昨年 Aから出版した私の詩集を差し上げた。b. 私は先生に論文の初稿をお渡しした。

上の(3a)の「1万円」は褒美、(4a)の「私の詩集」はそれぞれ贈り物

162 163第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

であってその移動は位相的な区別がなされている「くださる」「差し上げる」で表される一方、(3b)と(4b)では、同じような上下の間の物品の移動であっても、移動の性質が非恩恵的であることから位相素性のない「渡す」が用いられており、「渡す」の動作そのものは文法的な様式をとって「お渡しになる・渡される」になっている。つまり、日本語の敬語は、恵み(贈り物)の移動を表す動詞(「くださる」「差し上げる」)とそうでない物品の動詞(「渡す」)を区別し、前者は語彙部門で、後者は統語部門でそれぞれ敬意表示がなされている。この点、時枝が強調してやまなかった「詞」の概念はさらに2つの階層に下位分類されなければならない素地が残されているとも考えられるのである。このような敬語の仕組みは「買う」と「売る」のような売買行為の動詞にも観察される。

(5) a. お客様、私どもの店で何をお求めになりましたか。b. お客様、私どもの店で何をお買いになりましたか。

上の(5)の「お求めになる」「お買いになる」はともに「買う」という「動作」そのものに対する敬語表現であって、「くださる」「差し上げる」「いただく」のような移動の方向性が規定されている上昇・下降の位相の意味素性を持つ動詞とは区別される。(5b)の「お買いになる」はそれ自体労苦免除の原則 Bによる動作主非焦点化メタファーを経ているが、(5a)では「お求めになる」になっていて、これには原則 Bのほかに「隔離」の原則、または、「不浄」の原則によって、聖なるものであるべき上位者が建前上世俗的な売買行為に関与しないという禁忌条例に関わっていて面白い。このような表現は一般に「美化語」とされているものでるが、これも第 5章§5.2.5

で論じたように「不浄・隔離」の原則の現れと見る。

(6) a. 先生が中野のお宅をお売りになったのはいつごろのことでございますか。

b. 先生が中野のお宅をお手放しになったのはいつごろのことでございますか。

(7) a. 先生がお買いになりたいお品物はもう品切れでございます。b. 先生がお求めのお品物ははもう品切れでございます。

上の(6)と(7)もわれわれのいう「水平性物品移動」の概念とともに反映されている「不浄・隔離」の原則によって合理的に説明できる例といえよう。

6.3 敬語の相互承接――恩恵授受の複合形式

この節では、授受動詞が本動詞でなく、助動詞として複合的な敬語作り(敬語の相互承接)に関与する有様を観察する。複合的な敬語は単純形式の敬語の土台の上に築かれるが、これには、もちろん移行対象の方向によって「恵み」の下方志向と「お助け」または「貢ぎ」の上方志向運動の 2つがあり、作り方に多少差異がある。

(8)複合敬語としての恩恵授受の生産的文法規則a. 恩恵の「くださる/いただく」⒤ [([お/御 N]、[Vて])Ⅰ くださる]Ⅱⅱ [([お/御 N]、[Vて])Ⅰ いただく]Ⅱ

b. お助け/貢ぎの「差し上げる/申し上げる」⒤ [([Ø]、[Vて])Ⅰ 差し上げる]Ⅱⅱ [([お/御 N]、[Vて])Ⅰ 申し上げる]Ⅱ 3

ローマ数字のⅠは単純形式、Ⅱは複合形式をいう。単純敬語の「お/御 N」は、恩恵の下降では上位者の活動を、貢ぎの奉納では下位者の謹呈活動を表す。

「恵み」の下降も「お助け」の贈呈も敬語の接頭辞を冠する動名詞句に「くださる」と「いただく」がそれぞれ続く。また、「て」形式の動詞にも続く。上の(8bii)の「お Vて申し上げる」は現代日本語ではあまり見られな

いものになっている。菊地(1997:309)は「(御)案内申す」のような表現を

164 165第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

挙げているが(第 3章§3.4.2)、このような表現の衰退過程について、小松(1968)の研究を挙げ、「『お/御~申す』、『~申す』は、江戸時代に盛んに使われた形で、幕末の『お/御~いたす』、明治期の『お/御~する』の成立に伴って、次第に『いたす』系や『お/御~する』系に押されておとろえていったもののようである」と指摘している。敬語の複合形は、本動詞と補助動詞の 2つの動詞を組み合わせることから

意味的に多少の複雑性が見て取れる。本動詞が敬語形でそれに敬語の補助動詞が付いて二重の敬語になっている場合が特にそうである。次の例文を見てみよう。

(9) a. 先生が僕の作文をお読みになった。b. 先生が僕の作文をお読みになってくださった。c. 先生が僕の作文を読んでくださった。

人によっては(少なくとも筆者にとっては)、(9a)が(9b)に比べてより自然に聞こえる。そればかりでなく、本動詞が無敬語になっている(9c)がより自然に聞こえると解釈する。このような違いが下の(10)にも感じ取られる。

(10)a. 先生が僕に先生のお車をお貸ししてくださった。b. #先生が僕に先生のお車をお貸しになってくださった。c. 先生が僕に先生のお車を貸してくださった。

1つの解釈として考えられることは、補助動詞による敬語形で充分で、本動詞まで重ねて尊敬の形にするのは重複であるという経済的な理由で、本動詞のほうを中性化するという見方である。しかし、そうすると、(9) (10)の(a)文の文法性が説明できなくなる。もう 1つの分析は、これらの例文の(b)文に共通していることは、先生が特に下位者の「要求・注文」に応えて何かをやらされているという印象を与えるということである。つまり、(b)文は、先生の行為が特に「注文」に応えるというふうな開き直った意味

に聞こえる。特に、(10a)の場合の補助動詞は上位者が主語になっている能動文であることから、「先生」の行為が 2つの層で、比較的非焦点化されてはいるものの、上位者の動作主性が目立つ構造であるといえる。それに反して、(9c)と(10c)の文は、先生の行動から下位者のためだという意図や含みが表に出るのでなく、むしろそのようなありがたい事態が自然に起こったという印象を与えるように聞こえる。つまり、原則 Bも原則 Dもともにほどよく満足させる表現になっている。(9c)と(10c)が適格なのはそのためではないかと思われる。こようなことを考慮に入れて、下のような補充要項(11)を作っておくこともできよう。

(11)恩恵移動の原則Dについての補充指針要領(第3章§3.4.3(18)を参照)

  上位者の動作主役割の非焦点化メカニズムは複合敬語法でも守られなければならない。そればかりでなく、上位者の好意(下賜)が下位者の要求による行為であるかのように解釈されるおそれがある場合、特に、授受動詞が能動の「くださる」の場合、たとえ一次敬語法を犠牲にしても、これを排除しなければならない。

もちろん、このように、尊敬形の「くださる」を謙譲形の「いただく」にすれば、(9)や(10)に見られるような問題は自然に解消されるであろうが、また、別の面で補助動詞「いただく」は上とは反対になる次のような現象も考えなければならない。

(12)a. 僕は先生に式場までお越しいただいた。b. 僕は先生に式場までお越しになっていただいた。c. 僕は先生に式場まで来ていただいた。

上の例文では、(12b)がもっとも自然な感じを与えてくれる。(12c)では明らかに丁重さを欠いている。これは、「くださる」と「いただく」の 2つの動詞が持つ特性の差が 1つの理由になっているのではないかと考えられる。この 2つは両方とも他動詞ではあるが、「くださる」は動作主が上位者

166 167第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

であって、話し手は上位者の行為について言及していて、上位者の行為への干渉行為になりかなねない可能性を潜在的に孕んでいる。したがって、上位者からの贈り物の「下賜」は全面的に上位者の意思によるものであるにもかかわらず、ともすれば、そのような恵みの施しがあたかも下位者の請求によってなされた、すなわち下位者の意思に左右されたという解釈になるおそれがある。もちろん、このような可能性は忌避されなければならない。これが、尊敬形になっている上の(12a)や(12b)の適格度を低めるもとになり、敬語でない中性の(12c)のほうが、かえって適切安全な表現になる。一方、「いただく」は、たとえそれが何であってもいただくものはすでに上位者の意思による 1つの既成事実である、したがって、そのような下し賜るものは下位者側からの干渉を不可能にするものであることから、その意味では「いただく」という謙譲表現は上位者の権限を脅かす危険性の少ない安全な表現法ということができよう。このように見れば、「いただく」は、上位者の決裁権を上位者側にあることを確認する反面、下位者が「請願・懇願」の動作主になって、「ひとえに」上位者の決定を仰ぐという表現につらなると同時に、懇願者、すなわち、下位者を「受益性」または「被益性」という「受身」的な側に立たせる効果を持つ表現になっている。同じことが「~お

Vになってください」のような依頼文または請願文についてもいえよう(上記の恩恵移動の原則 Dについての補充指針要領(11)および本章§6.4を参照)。したがって、「先生のお越し」はこちらの懇願の焦点になるもので、一次敬語形式が適用されなければならない。先の(8b)の「貢ぎの捧呈」様式では、本動詞も補助動詞もともに謙譲形

であることから、懇願形式の場合のようにこみ入った選択条件が省かれる利点がある。この点については、§6.2の命令のメタファーの使役と裁可の条で再論するが、ここでは、一応、下のような共起制約を設けておこう。

(13)懇願様式における謙譲形の調和的共起制約懇願様式では、単純敬語形式も複合形式もともに調和的に謙譲形でなければならない。

したがって、(14a)のような形は、(13)により、原理上不可能なわけで、下のような文は自動的に排除される。

(14)a. * [お Vになって]Ⅰ 差し上げる]Ⅱb. [お Vして]Ⅰ 差し上げる]Ⅱ

(15)* [僕は先生に先生の御論文を[御校訂になって]Ⅰ 差し上げた]Ⅱ

もう 1つ、「くれる」を第 3章§3.4.2の規則(17)によって尊敬形にすると、「おくれになる」(A型)/「くれられる」(B型)/「おおくれなさる」(C型)のようになるはずだが、そのいずれもあまり聞かない。B 型「くれられる」にいたってはまったく見かけない。ところが、「くれる」が「なさる」と結合した「おくれなさる」だけは、もちろんそのままの形では使われない表現ではあるが、例文(16)のような表現の中に生き残っている。

(16)書斎の花瓶、持ってきておくれ。

(16)の「持ってきておくれ」は、参考までに挙げた下の(17c)か(17d)のような尊敬の命令文の省略形であると考えられるが、このような形が特に身内の目下のものに常用されるのはなぜなのだろううか。

(17)a. 持ってきておくれな(さい)。b. 持ってきておくんな(されま)せ。c. 持ってきておくれなさい。d. 持ってきておくれなされよ。e. 持ってきておくれなされませ。 f. 持ってきておくれなされませよ。

この「おくれ」を「ください」に変えると、改まった物言いになって、話者がそれで意図しているせっかくの親密感が霧散してしまう。ここでまず受

168 169第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

理動詞「くれる」の意味素性がどのようなものであるかを考えてみよう。

(18)「くれる」の特殊意味素性[+内輪性]:受け手=話し手、または、話し手の身内のもの  ↓[+親密性]

「くれる」は「やる」と同じく受け取りの二項動詞であるが、後者と違って、受け取り人は常に話し手(または、その身内〈うち〉のもの)に限るという語彙上の制限がある。一般的に授受物は受け手にとって有益なもの、いわば、「贈り物」であり、また、そのような贈り物の受け手が常に話し手自身であること、さらに、それらは話し手自身だけでなく話し手の分身または「うち」のものたちへ贈られることから、「与え手」に対して話し手が身近に感じるようになるのはごく自然なことと思われる。そして、「内輪性」という「くれる」の意味素性が「親しみ」の素性、つまり「親密性」と結合、または、それに向かって推移していくというような意味的変化が容易に考えられる。つまり、「おくれ」には、「くれる」が持っているこの「親しみ」の意味的素性が敬語の文法形式に伴われている感じの表現であり、さらに「おくれなさる」から「なさる」の部分を落とすことによって、「くれる」が持つ内輪的親密感をいっそう浮き出させる効果を生み出すのではないだろうか。これに反して、「くださる」の場合は、「くださいませ」の「ませ」を落として「ください」にしても、語彙項目自体が持つ改まった授受の意味がなくならないという事情によるもののようである。もう 1つここで指摘しておきたいことは、そもそも(17)では、(17a)を

除くほかはすべて不自然に聞こえるという事実である。これも(18)のような「くれる」が持つ特殊な意味素性によるものと考えられる。つまり、「与え手」と「もらい手」の間の[+親密性]から、前者に対する「よそ行き」的な尊敬形「なさる」の適用に制限が加えられる。[+親密性]のために「与え手」を一途に原則 Bや原則 Dでのような「上位者」概念に見立てることが容易でないという理由からだと見なすのである。つまり、(17)の背景

には少なくとも 3つの文法的・語用論的・修辞的操作が関わっていると思われる。「持ってきておくれ」は、(i)はじめから他人行儀の「ください」とは違って「持ってきて」までは「マイナス敬語」であるものに、(ii)授受の補助動詞、それも、「プラス内輪性」の素性を持つ「くれる」の尊敬形「おくれなさる」(「ください」でないところに注意)が組み合わさって「持ってきておくれなされ(よ)」のような異色の尊敬形になるが、(iii)これも最後にはこの中の「おくれなされ(よ)」に対する大胆な省略を加えて「おくれな」または「おくれ(な)」にした、一種の「甘え」の媚を含んでいて親しみを伴う表現になっている。これなどは、敬語が必ずしも堅苦しい形式ばった表現にすることで終わるのでなく、語用論的な調整過程を経ることによって日常の日本語を薫り高くし、その奥行きを深めるものでもあることを示すかっこうの例といえよう。

6.4 下位者による命令/要請から上位者の裁可への変換

第 3章(14)で規定した使役特権の原則 Eと併せて、使役特権の文法化のための指針要領(19)をもう一度下に見てみよう。

(19)(=第 3章(14))原則 E(使役特権の原則)

⒤ 上位者のみが常に使役したり、裁可したりする特権を有する。ⅱ 下位者は、使役・裁可の特権はなく、常に上位者によって、使役されるのみである。すなわち、上位者の使役権/決裁権は極大化する一方、下位者のそれは極小化しなければならない(これは原則 Bとは逆関係にある)。

ⅲ 下位者が上位者に対して命令者・債権者の立場に立つような場合は、下位者は上位者に自身の命令権、債権を譲歩しなければならない。

しかし、当然のことながら、上位者も下位者から実際には命令にほかなら

170 171第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

ないさまざまな要求に応じて「仕事をさせ」られもし、下位者の「助けに頼り」もするのであって、原則 Eのとおりにならないのが現実である。つまり、原則 Dも隠喩であって、原則 Aが包装の隠喩で「です・ます」の丁寧補助動詞が文に現れるのと同じように、また、原則 Bにより上位者のアクションを「になる」を使ってあたかも「おのずと起こった」事象であるかのように表す。上位者への「要請」をかえって「恵み」として受け取れるような「~していただきます」のように表現するのと本質的には軌を一にしているといえる。

6.4.1 使役の原則と権限の譲歩による擬似恩恵化

では、ここで、もう一度、先に第 3章§3.3で見た動作主非焦点化装置としての自動詞化と脱使役化を想起しよう。タブーである上位者の行いが、現実的には意図的であっても、下位者はそれを「おのずからの顕れ」というメタファーにすることよって、上位者がどのような形の労もとらないとする原則Bを満足させるものとした。すなわち、上位者への「命令」または「要求」は、使役特権の原則 E と恩恵の原則 D(ii)の組み合わせによって「懇願」または「嘆願」の形に変えられる。下位者の命令(要求)は上位者の「恵みあるお許し」というふうに隠喩的に解釈される。下位者の命令・要求に応える上位者の「労働」は下位者への「恵み」になる。第 3章では、これを、使役特権の原則の文法化のためのガイドラインとして次のようにまとめた。

(20)(=第 3章 (19))使役特権の文法化のための指針要領上位者が被命令者、または被使役者になる命令または使役は、恩恵の原則 D(13)とその付随要領によって、受恵の形を持つ「嘆願文」に変換する。嘆願文では、上位者の労役対極化の原則(11)とその指針要領(16)を、そして、使役特権の原則 E、すなわち上位者の「使役の特権」(14)をも満足させること。この要領による文法化を「命令

→ 懇願の逆転」または「上位者への権限の委託」という。

この文法化要領(20)に従い、[V1-V2]のような複合形が作られ、V2は下賜(授恵)の補助動詞「くだす」や受恵の動詞「いただく」があてがわれる。V1は「お Vになる」のような尊敬形かまたは使役形「させ」のいずれかになる。(20)により(21a)と(21b)のような規則が成り立つ。

(21)「くださる・いただく」によるメタファー的懇願形式への変換a. 上位者への命令:[[(お)V]動名詞句[ください]恩恵受理 ]b. 上位者への命令:[[[お V]になって]尊敬形[いただく]恩恵受理 ]c. 上位者への助け:[[Vさせて]使役[ください]授恵[いただく]恩恵受理 ]

使役特権の原則とその文法化は次のような文を作り出す。

(22)ここにお名前を[書き入れて/お書き入れになって]ください。

(23)恐れ入りますが、皆様しばらくバスから[お降りになって]いただきます。

上の(22)は、そのままでは押し付けがましく聞こえ、ただの丁寧な命令でない場合は「ませ」または「ませんか」のような丁寧形との共起が必要となる。これは、もともと「くださいませ」の縮約によって「ください」になって、現今の日本語では、たとえば、生徒に対する教師の命令に見えるように、多分に一種の命令の丁重体の言い方になりきっている。したがって、実際の懇願体では丁寧形の補助操作が必要になると考えられ、「ませ」、または、「ませんか」の復元が必要になるものと考えられる。これと併せて、(23)は、実際に、嘆願の動詞「願う」を使うことによって、V1の部分を補語にする嘆願文(24a)、そして、それの省略形としての(24b)になったもので、使役特権の原則をよく反映している。

(24)a. ここにお名前を(お書き入れになることを)お願いします。b. ここにお名前をお願いします。

172 173第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

上で触れたような懇願形式に丁寧形が共起する現象については、次節で取り上げる。

6.4.2 権利の譲歩/委託による謙譲形式としての嘆願と裁可

懇願と裁可の次の 2つの文について考えてみよう。

(25)a. 私がお助けしましょう。b. 私がお力添えさせていただきます。

上の(25a)は、恩恵移動の原則 Dの違反、特に、施恵の原則にそむく発言で幾分「恩着せがましい」響きがするが、(25b)では「懇願変換形式」によって和らげられている。ここでは、まさに、原則 Dの予測どおり、「助ける」のような高飛車な表現が「お力添え」という婉曲表現になっている。また、拝受するという意味での助動詞「いただく」が使われている。特に、(25b)は下位者側が持っている債権者の権利が[使役+受益](「させていただく」)という複合形式に変換される、すなわち、「権利の委託・移譲」が行われるわけである。このような「恩着せがましさ」を防ぐ手立ては、このほかにも、「差し控え」の文法様式として否定、可能、推量、疑問等の構文的装置が利用される。

(26)a. あさってまでに御返事いただけないでしょうか。b. あさってまでに返事をもらえないだろうか。

下線が施してある部分は否定形と疑問形の組み合わせであるが、この類の構文的表現は、必ずしも敬語だけに限られたものでなく、敬語抜きの(26b)のような文にも現れることから、厳密には、本書で論じる敬語体系の原則が統括する領域の埒外の事柄と見なされる。Brown & Levinson(1978, 1987)の「面子」概念をもとにした理論で取り扱われている大部分の礼節表現は多分にこのような疑問、打ち消し、ためらい、見定め、推定などの修辞的な操作

による。

6.4.3 自由放任の使役

使役特権の原則 Eに関連した興味ある現象の 1つに、「自由放任の使役」とも呼べる使役形があるが、これを久野(1983:64)の次のような例文で考えてみよう。

(27)われわれは山田先生を、お威張りになりたいだけお威張りにならせておおきした。

上の尊敬構文は、[[お威張りになり]+[たい]]+[(さ)せる]+[おおきする]の連鎖でなっており、述語部に下位者を主語とする使役形[させる]が関わっていて、下位者が上位者を使役の対象にしており、これは明らかな原則 Eの違反になるにもかかわらず、適格性を保っている。これに対して、久野は、(27)では、その使役形が表す意味が「強制・干渉」でなく、「不干渉」であると特徴付け、「山田先生が威張るのを、そのままにしておいた、止めようとしなかった」という意味であると説明している。さらに、久野は尊敬形「お Vになる」は、元来、自発であって、自然発生の尊敬形は「不干渉」の使役(つまり放任の使役)とは矛盾しないとしている。これを本書の立場から敷衍すると、下位者の使役は、動作主性がすでに背景化されている「先生のお威張りになる」という隠喩的な表現そのもの、すなわち、自然現象化した事態自体そのものを「そっとさせておく」という、いわば「自由放任(lesser-faire)の使役」、すなわち、「容認の使役」であることから、(27)においては、使役の対象はもはや上位者である「先生」でなく 1つのイベント、つまり、「事態」であって、見かけと違って、使役特権の原則 Eに反するものでないと解釈できる。

174 175第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

6.5 「やりとり」の類型

敬語では、直接的な敬意の文法表現だけでなく、上位者から下位者に対する「恵みの施し」、また、逆に下位者から上位者への「奉仕」や「お助け」 というもう 1つの次元が層をなしているということを見てきたが、次に見るように、このような敬語における利益の上下移動の構造については先行研究によって多くのことが明らかにされている。

6.5.1 松下大三郎(1924)の「利益態」

早くは、松下(1924:394)が「利益態」という概念を導入、それには次のような 3つの形態があるとしている。

(28)a. 他行自利態:彼の先生がうちの子供に英語を教えてくださる。b. 自行他利態:忠告してあげたらかえって怨まれた。c. 自行自利態:ぜひ貴方に御賛成願います。

利益のやりとりが話者自身のためであるか他人のためであるかという見方から、(28a)では、上位者から下位者への恩恵の降下、(28b)では利益の上昇になっている。(28c)の場合は、下位者が自分の望むものを上位者に願ってその結果が自分自身に戻ってくるから自行自利であると分析されている。同じ「願う」でも「佐藤候補に御投票お願いします」のような文では、第三者の「佐藤候補」への利益になるから自行他利とすべきであるが、この候補が下位者自身の支持者でもありうることから、自行自利にとることもできて、動詞自体というよりは文脈によることになる。つまり、これは敬語の文法体系または文法形式の問題でなく語用論の問題であって、われわれのいう「水増し」「加減調節」という敬語文法の「調整」の問題ということができる。また「先生が田中さんの子供に英語を教えてあげられた」にすると、上の 3つのパターンのほかに他行他利態という第四の範疇も設けなければなら

ないだろう。そればかりでなく、多層構造の「もらってやってくれないか」のような形をどのように分析するかが問題になる。松下の利益態の概念は与えられた文脈に大きく依存するもので、その場その場の利益の移動が動詞自体の性格とかけ離れた次元での分析が要求されることから、理論としての一貫性が大きく限られている。

6.5.2 金田一春彦(1988)の「与益態・受益態」

利益の移動に関する敬語の重層構造については、そのほかに、金田一が「与益態」と「受益態」という敬語範疇を設定しているのが注目される。

(29)a. 与益態:本を[読んであげる]b. 受益態:ベルトを[お締めください]

金田一はこの「『与益態』と『受益態』」を動詞の「能動(使役)態・受動態」に対比する。動詞に能動または使役があるように恩恵の授受に「与益態」があり、動詞の受身と並行に「受益態」が考えられるとしている。

(30)利益の移動   項の転換 与益態    能動態 受益態    受動態

この種の対応については、最近、特に、語彙構造論、構文構造論などで賛否が議論されているが、ここでは立ち入らない。直接、敬語の仕組みとは関係はないが、参考のために、金田一が「与益態」と「受益態」の重層構造に着目し、下のような示唆に富む(31) ~ (33)のような例文を挙げていることを付記しておく。

(31)義理で診察してもらってやる。

176 177第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

(32)世話をしてやってくれ。

(33)この男は麻雀の自称天狗なんだが、一度指導を受けてもらってやってくれないか。

上のような重層構造を持つ利益の移動には、たとえば、(34)の場合だとすると、利益の始発点と終着点が重層する。金田一春彦(1988下 :130)はこれを「与益態・受益態の重なり」と呼んでいるが、さらに、分析を進めると、下に見るような 4組の「恩義」の移動を追跡することができる(B は

benefitの頭文字をとって便宜上「利益」または「恩義」のことを示す 4)。

(34)診断を[[[[受けて]Ⅰ もらって]Ⅱ やって]Ⅲ くれ]Ⅳa. 項構造内部の一次単純授受態[受けて]Ⅰ:聞き手が男から指導を受ける。(B1)

b. 項構造内部の二次複合授受態[もらって]Ⅱ:聞き手が男から恩義 B1をもらう。(B2)

c. 項構造外部の三次複合授受態[やって]Ⅲ:聞き手から男へ男のために B2をやる。(B3)

d. 項構造外部の四次複合授受態[くれ]Ⅳ:聞き手から話し手へ話し手のために B3をくれる。

異なる種類の授与物の移行に「もらう」「やる」、そして、「くれる」の 3

つの授与動詞を手際よく仕切って、話し手と話し手の 2人の友人の三角関係の間における「恩義」の移動、さらに、2人の友人の間に将来起こることが予想される上下の師弟関係にこだわる懸念など話者の心遣いまでもが遺憾なく反映されていて、授受関係の重義性を表す見事な例になっている。

6.5.3 謙譲形における受益構造

上で、恵みの移動とそれが受ける制約を考察した。この節では、謙譲の文

法形式「お Vする」とやりとりの表現との交叉メカニズムを集中的に取り扱っているMori(1993)とMatsumoto(1997)を調べ、それらについて本書で試みているメタファー仮説からどのような評価ができるかを見ていく。

6.5.3.1 Mori(1993)の 「させていただく」の分析第 5章の§5.3.2.5でも触れたことであるが、Harada(1976)は尊敬形に比べて謙譲形が数多い制約の対象になることを指摘し、(i)謙譲形の述語が話し手の上位者に仕える、つまり奉仕的働きかけの行為を表すものであることから、自動詞が謙譲形に不向きなこと(*私が山田先生の甥にお当たりしま

す)、(ii)「誰々に何かをする」のような二項目的語動詞では上位者が文法的には直接目的語よりも一般的に下位に見なされる間接目的語に指定されること(*弟に山田先生をご紹介した)などに注目し、謙譲形が表すイベントは上位者にとって必ず有益なものでなければならない、すなわち、謙譲形が「有益性解釈」を許すものに限ると分析している。謙譲形が持つこのような有益性の制約に関してMori(1993)は、特に、謙譲の基本形「お Vする」と「Vさせていただく」の対比を通じて、後者における上のような解釈上の制限について調べている。まず、先行研究で見られるように、基本形を満足させるためには、授受動詞文の中で上位者が主語以外の項(argument)、一般的には、与格または斜格として現れていなければならない。下の例文(35) ~ (57)はMori(1993)から引用した。

(35)この本明日お返ししてもよろしいでしょうか。(先生にお返しする)

(36)今晩お電話してもよろしいでしょうか。(先生にお電話する)

(37)午後 8時にお届けしてもよろしいでしょうか。(先生にお届けする)

(38)この本お借りしてもよろしいでしょうか。(先生からお借りする)

授受動詞の間接目的語に当たる上位者の項をたやすく復元することがで

178 179第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

きる上のような文は適格になるわけである(上の例文の括弧は筆者が添えたもの)。これに反して、下の(39) ~ (42)では、間接目的格の上位者に関する要素が欠けているばかりでなく、与えられた脈絡からは上位者にとって利益になるような適当な解釈もできそうにない。

(39)*この論文お読みしてもよろしいでしょうか。(?先生に論文をお読みする)

(40)*この論文コピーをおとりしてもよろしいでしょうか。(?先生にコピーをおとりする)

(41)*ピアノをお弾きしてもよろしいでしょうか。(?先生にピアノをお弾きする)

(42)*この辞書お使いしてもよろしいでしょうか。(?先生に辞書をお使いする)

これとは対蹠的に、次の(43)と(44)は上位者にとって利益になるという解釈が可能で、適格文になる。

(43)今お部屋をお掃除してもよろしいでしょうか。(きれいなお部屋を先生がお楽しみできるように)

(44)この紙でお包みしてもよろしいでしょうか。(お客様のお気に召すように)

ここで、Moriは、不適格な(39) ~ (42)も話し手が上位者の許可を願い出るというふうにすると、適格になれるとし、このためには、「させていただく」が使われる。下は「させていただく」で言い換えた文である5。

(45)この論文、読ませていただけませんか。

(46)この論文、コピーをとらせていただけませんか。

(47)ピアノを弾かせていただけませんか。

(48)この辞書、使わせていただけませんか。

ところが、このような「いただけませんか」を使った謙譲の使役・受益複合形が、相手への潜在的面子損傷威嚇行為の和らげ対策として功を奏さないばかりか、かえって、相手の権威の縄張りを侵すことになりかねない場合がある。Moriの下の例文を見てみよう。

(49)a. 会議中に電話が入りましたら、おつなぎしてもよろしいでしょうか。

b. 会議中に電話が入りましたら、つながせていただけませんか。

(50)a. ちょっとお聞きしてもよろしいでしょうか。b. ちょっと聞かせていただけませんか。

(51)a. 出張でそちらに参りますので、ぜひお会いしたいんですが。b. *出張でそちらに参りますので、ぜひ会わせていただきたいんですが。

日本語を母語として話す人なら、おおかた(b)文が(a)文よりどこか押し付けがましく聞こえるというであろう。Moriの説明では、拡張形の意味的な合成が「許可を受けること」と「好意/えこひいきを受けること」という 2つの要素で成り立っていて、間接的に「してもよろしいでしょうか」のほうが愛顧を要求するよりも心理的により礼儀正しいからだとしている。もう 1つ、「してもよろしいでしょうか」と「させていただけませんか」

180 181第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

を次のような脈絡で対比している。

(52)a. 先生のご本を息子からお借りしました。b. *先生のご本を息子から借りさていただきました。

(53)a. お帰りになると娘からお聞きしましたが。b. *お帰りになると、娘から聞かせていただきましたが。

(54)a. 先生のお宅の前をお通りしました。b. ?先生のお宅の前を通らせていただきました。

(55)a. 先生のお車を駐車場でお見かけしました。b. *先生のお車を駐車場で見かけさせていただきました。

Moriによると、上の(b)文は、単に話し手が上位者に関係がある事柄を体験した事実を上位者に報告することにとどまる文であり、特に上位者の許しを得る必要のない内容の文であることから、「させていただく」は余計な表現になって不適格とされる。また、「させていただく」が持つ 2つの意味素性(許可と愛顧)のうち、後者、すなわち「好意を受ける」という意味合いが場に不相応に強調されているからだとされている。

(56)a. お車をお呼びしました。b. お車を呼ばせていただきました。

(57)a. 先生の講演をお聴きしました。b. 先生の講演を聴かせていただきました。

上の状況では、基本形でも拡張形でもよいが、(b)文の場合は、「許可」よりも「相手の好意を受けること」、または「相手に取り入ること」に焦点が置かれていると見ている。

Mori(1993)は、このように、「してもよろしいでしょうか」と「させていただけませんか」の 2つの構文がそれぞれ違った効果を上げていることを要領よく例示している。たとえば、(49a)に比べて、(49b)の「させていただけませんか」が押し付けがましく聞こえるのは、この拡張形の意味が「許可を受けること」と「好意/えこひいきを受けること」という 2つの要素で成り立っていて、後者、すなわち、「愛顧を受ける」という面を話し手が要求しているような具合になっていて、それが相手に「押し付けの意味合い」を持たせる原因になっているようだとし、「してもよろしいでしょうか」と話し手の心理状態を間接的に表明するほうがより礼儀正しいことであるというもっともな判断を下している。これをメタファー仮説の立場から見ると、上位者の権限は絶対的であり他の容喙を許すものではない。たとえば「車を呼ぶ」「先生の講演を聴く」のような特に相手の裁可を必要としない場合に、許可を願い出ることはそのような裁可をこちらから強制することになり、上位者の使役特権の原則 Eを犯すおそれがある文になることから、不適格とはいわぬまでも押し付けがましく敬遠されるものと分析できて、Moriの分析と近い結論になる。この問題と関連したMatsumoto の分析を次に見てみよう。

6.5.3.2 Matsumoto(1997)の利益の移動Matsumoto(1997)もMori(1993)と同じく、特に「お Vする」形式にか

かる語用論的制約を調べている。

(58)阿部さんが先生をお助けした。

(59)阿部さんが太田先生から本をお借りした。

上の(58)の動詞「助ける」は先生のためになることで先生に対する阿部さんの奉仕を表していて問題がない。もっとも、これは、本書の立場からはこのような「お助け」の動詞を直接先生に向かって「先生、私がお助けしましょう」のように使うと、原則 Dを犯すことになる可能性の高い陳述になる。Matsumotoが挙げている(60) ~ (69)のような例文でもう少し考察を

182 183第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

進めよう。(59)の「借りる」は先生から恩恵を受けることになるので、三人称でよく見られる謙譲形と見なされる。動詞は「持つ」「話す」「説明する」などがよく使われる。

(60)私が先生のお荷物をお持ちします。

(61)愛子が昨日先生にお話しした。

(62)事情を先生に御説明した。

もちろん、下の(63)や(64)ような謙譲文はあまり聞かない。上位者の利益に反すると見られるこのような文も、(65) (66)のように適格性が認められるコンテクストを想定することができる。

(63)#阿部さんが太田先生をお殺しした。

(64)#阿部さんが太田先生の本をお盗みした。

(65)この大石が憎い吉良を(殿のために)お殺ししました。

(66)私がお弁当をお食べしましょう。

亡き主君の恨みを果たす家臣たちの仇討ちは「奉仕」としては最たるものといえる。また、付き添いが代わりに食べてあたかも若旦那自身が食べたように装うといったような筋にとると(66)も大いに可能である。このような観察を基にして、Matsumoto(1997:730)は(58)に見える「助ける」のような動詞は本来が受け手の利益になる行為を表すもので、このような動詞固有の性質から来る利益の受け手を「動詞の本性に基づく利益の受け手(verb

beneficiary)」と呼ぶ一方で、(65)や(66)のようにコンテクストから来るものを「事態または状況に基づく利益の受け手(event beneficiary)」と呼ん

で前者と区別している。さらに、謙譲文に起こる「利益」が向かう対象は(67)で見るように一様でない。

(67)a. 利益が下位者から文中の上位者に向かう。b. 利益が下位者から文外の暗黙の上位者に向かう。c. 話者に向かうが、利益の出処は上位者である。

たとえば、先に見た(60)と(62)は文中の「先生」に対する福利であり、(63) ~ (66)などは利益の受け手が暗黙裏の人物になっている。Matsumotoは正しく「借りる」のような動詞が(67c)の場合に当たるとしている。(67)のようなMatsumotoの「利益移動の対象」という考えを拡大して、金(2004:33)では、謙譲文が複数の解釈レベルを持つことを明かにし、このような異なるレベルにおける支給対象を類型的にまとめてある。下の例(68)は、学生が締切を過ぎてしまった期末論文を先生のお宅の奥さんに預けてもよろしいという先生の承諾を引き出した後の会話文であるとすると、異なるレベルにおける支給対象にどのようなものがあるかを見分けることができる。

(68)申し訳ございません。では、奥様に(自分の)論文をお預けさせていただきます。

授受動詞が関与する(68)の謙譲文には少なくとも下のような 4つの支給対象が識別できる。

(69)a. 委託の動詞「預ける」の与格の間接目的語としての「奥様」。b. 使役動詞「させる」の被使役者の「自分」。c. 委託の動詞「預ける」の対象になる事象受益者の「先生」。d. 恩恵受理の動詞「(させて)いただく」の受け手としての「自分」。

この例を見ても、上位者を一様に持ち上げて表しさえすればよい一元的な

184 185第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

尊敬形の使い方に比べて、謙譲形のそれがいかにこみ入っているかを察することができる。このような謙譲形の多元的機能をMatsumotoのいう「利益のソース」という概念に関する主張とそれに対する Hamano(1993)の批判を通じていま少し吟味してみよう。

(70)阿部さんが先生から本をお盗みした。

Matsumotoによれば、この場合の利益のもらい手は「阿部さん」で「先生」がその利益のソースということになっているという。貸し借りではもちろん貸す人(利益のソース)がそのつもりでないと成立しないが、(70)のような場合は「盗み」という行為によって被害者の「先生」が強制的に利益のソースになっている点が、善意の利益のソースである(66)とは違う点だとしている。

Matsumotoのこのような主張に対して、Hamano(1993)が下のような 2

つの反証になる例文を挙げている。

(71)子供が先生に御面倒をおかけした。

(72)お待たせしました。

しかし、上の(71)の「面倒」や(72)の「待たせる」というような「迷惑」はどう見ても謙譲形がターゲットにしている上位者、すなわち、(71)の先生、(72)の聞き手に利益を贈ることにはならない。日本語の謙譲形「お Vする」における「利益の移動」というMatsumotoの考えを批判している Hamanoに対して、Matsumoto自身は、このような場合でも謙譲形が使えるのは、話し手が先生に面倒をかけはしたが、そのお蔭で子供が利益を受けたこと、すなわち、子供が受けた先生の恩に対する話し手の暗々裏の感謝を表現しているからだと解釈している。(72)については、これも、相手を待たせることによって相手が知らず知らずのうちにこちらに利益を授けてくださったことをこちらが確認し感謝することだとしているが、どうであろう

か。上のような考え方でいくと、(72)のような文が「先生を待たせた結果、そのお蔭で私はそれからというものは他人を待たせるなんてことがまったくなくなること必定であることから、先生に深く感謝する」というような解釈を許しかねず、「迷惑からもたらさる利益」を想定するには大いに想像力を必要とすることになり、文法としては極めて経済性の低いものとなる。(71)と(72)はのちに第 7章§7.3.2で詳論されるが、子供による迷惑や先方を待たすことなど原則 B(上位者に労をさせてはならない)に違反していることを是認する一種の懺悔または告白のメタファーと分析する。もう一つ上のような問題と関連して、Matsumotoがいう「礼儀の虚像

(polite fancy)」という概念と「純粋な談話遂行論表現に成り果てた敬語」という考えについて本書での敬語メタファーの立場から見直す。Matsumotoは前掲した(54)および(55)のような例について、「礼儀の虚像」という概念で処理できる可能性を暗示している。これら 2つの文をもう一度見てみよう。

(73) (=(54a))先生のお宅の前をお通りしました。

(74) (=(55a))先生のお車を駐車場でお見かけしました。

つまりMatsumotoは、話者が尊敬する人物がいる周辺にたまたま居合わせたり、その周辺を通過させていただくだけでも利益を得ることができるとする仮想的条件を認めなければならないという。これについては、すでに前節で論じたように、われわれは下位者の「お見かけする」「お通りする」は上位者の禁忌領域への「無断立ち入り」と解釈すべきであり、それを文法的な謙譲でそのまま表すのはこのような過ちに対する上位者の「処罰」を甘んじて受けるための「自供データ」のようなものとして見ることができるとした。(73)と(74)に関するMatsumotoの分析はとらないが、そこで触れている「礼儀の虚像」という概念自体は上位者即タブー仮説における隠喩性に近い考えで、特にわれわれの注意を引く。もう 1つこれに加えてMatsumoto

(1997:737)が「純粋な談話遂行論表現に成り果てた敬語」という概念で説明

186 187第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

している次の例文を見てみよう。

(75)お醬油を少々お入れいたします。

これは、辻村敏樹(1992:478)に観察されるものであるが、テレビの料理番組で講師が視聴者に向かって説明している中に出てくる発言の一コマである。Matumotoは(75)のような表現は、謙譲形がその本来の素材の対者待遇の限度を超えて利益のもらい手がはっきりしない、いわば、「純粋な談話遂行論上の敬語(pure performative honorifics)」 表現に成り果ててしまった例だといっている。実際、「田中先生、それじゃ、木村君のパーティにご一緒に参りましょうか」に見えるような謙譲語の「参る」は問題で、「いらっしゃいませんか」が正しいとされるのと同じように、もはやすっかり一般化してまって、使っている当人も誤りと気づかないでいるケースである。最後に、Matsumotoが行き過ぎ表現だとしている下の文を見てみよう。

(76)#あと 1時間ほどで日付変更線をお迎えいたします。

これは、国際線を飛ぶ航空機の乗客に向かって機長が機内放送で話しているものであるが、Matsumotoはこのような表現を典型的な過剰丁寧の語用論的敬語であるといっている。なるほど、この謙譲形が結果する「利益」というものが定かでないのである。聞き手である乗客がこのことで得になるようなものは見えない、それかといって、この放送の内容を聞いて利益を得うるような第三者がいるのでもないのである。しかし、このような表現をごく自然なものにする機長の乗客に対する態度がうかがわれる。アナウンサーのメッセージを「自分たち乗務員一同はあなた方(お客様たち)をお乗せしたこの航空機はあなた方のための領域でございまして、その中ではあなた方の不便が少しもないよう、すべて自分たちが立ち回ってサービスを行っています。そして、これから近づいてくる日付変更線もあなた方に代わって自分たち搭乗員が総出でお迎えをするのです」というふうにも解釈ができる6。 つ

まり、機内の空間を「敬語の場」が発動する全乗客の境域であると見なし、自分たちのすべての作業は全乗客の労働からの解放のための「没我的奉仕」である――日付変更線を乗客の誰かが「お迎」えするならば、そのようなことまでも私たちが代わりにいたします――というような認識を持っているとすれば、航空機が日付変更線を越えるイベントをあたかも乗務員一同が全乗客のために迎えるという発想で、上のような告示を流すこともできるだろう。多くの場合、太平洋横断航空機が日付変更線を通過する時刻がちょうど乗客たちが長い夜間航行の後、荘厳な雲上の日の出を目撃する瞬間と時を同じくしていて、「お迎え」という表現がまんざら場外れでもないようにも思われる。要は、第 3章§3.3の(11)原則(Bi)が適用された発言と見なすのである。このような見方からすると、(76)の謙譲文が生み出す内容は「日付変更線(または日の出)を迎える」というイベントであり、これを上位者代わりの代行と受け取ることができ、または、贈り物として乗客に捧呈するという意味で乗客が利益の受け手に見立てられることも考えられるわけである。それにしても、柴谷教授も個人談話で指摘しているように、国際協定によって設定されている日付変更線という人工的な指標を何か貴重品のように、または、お土産か何かのようにこれを「迎えて差し上げる」という考え方自体に問題があるのであって、そのようなメンタリティ自体が大げさ過ぎるといわれても致し方ないであろう。

6.6 授受動詞と謙譲形軽動詞の意味構造上の対応

ここで HamanoやMoriなどの研究で提起された謙譲動詞の資質について、われわれの仮説による分析を試みる。謙譲形は根本的には上位者に対する下位者の奉仕を表す構造であることから、常にそのような奉仕を受ける対象を持っていなければならない。したがって、謙譲形「お Vする」に現れる「する」は、ある意味では「~にあるもの・あることをしてあげる」のような二重目的語を持つ動詞の性格を持つものと見る。つまり、謙譲形「お V する」の「する」の直接目的語は「お

188 189第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

V」の部分に、間接目的語には「上位者に」を、または、副詞句に「上位者の福祉のために」をそれぞれ対応させることができる。二重目的語動詞と謙譲形の動詞「する」との間の対応関係を意味構造上の対応として次のように一般的に捉えることができる。

(77)意味構造における授受動詞と謙譲形の隠喩的パラレル関係a. 二重内項動詞:[間接目的語]    +[直接目的語]b. 授受動詞:  [受益者]      +[利益・福利]c. 謙譲形動詞: [上位者(のため)に]+[奉仕(お V連用形 )]

上の並行的対応関係では、二重目的語動詞で間接目的語と直接目的語がともに意味構造の内項でなければならないのと同じように、謙譲形の「受益者」(この場合は定義上必然的に上位者を意味する)と「福利」が対応し、これらの 2つの構成要素はともに謙譲形の動詞「する」に対してそれぞれ内項のような意味役割が与えられるものとする。このことから、今まで漠然と謙譲形構造における必要構成要素と呼んでいたものを、より一般的な「上位者」と「奉仕」というラベルで呼んでもよいであろう。われわれの仮説における「上位者」と「奉仕」は久野(1983:27)での統語的制約にならって下のように規制することができよう。

(78)「上位者」と「奉仕」の 2つの要素は動詞「する」と姉妹関係に立つものでなければならない。

このような同一階層での姉妹関係を、次のように言い換えることもできる。

(79)局所的コントロールの制約「上位者」と「奉仕」の項相当要素は働きかけの「する」によって局所的にコントロールされる。

この定式化によると、謙譲形は、必ず、(78)の対応関係で明らかにされたように、奉仕の内容物、または、実質的なやりとりの対象物(「サービス内容」といってもよい)を持つと同時に、それの着点としての「上位者」という 2つの要素を持たなければならない。謙譲動詞が授受動詞、すなわち、二重目的語動詞であれば、それが持つ 2つの内項によって(79)は自動的に満足されるが、授受動詞でない動詞が使われる場合は、そのような動詞に間接目的語の「受益者」に当たる「上位者」と直接目的語の「福利」要素に当たる「サービス」という 2つの構成要素が設定できるものでなければならないということを意味する。先に、第 5章§5.3.2.5で、Harada(1976:527)が謙譲形の動詞が意図的な他

動詞でなければならないといっている条件は上の(75)の定式化から導出すことができる。そして、Hamano(1993)で近接性・最優越性などの用語で言い表されている事柄も(79)が予測していることにほかならないといえよう。また、§6.3.3.1で考察したところであるが、Mori(1993)が提起しているいくつかの問題も(79)の局部的統率の制約によって処理できる。Mori

(1993:82)で、「上位者が項であれば、『受益解釈』を要しないで『お Vする』様式が適用でき、そうでない場合は、『受益解釈』を許すものでなければならない」としているが、これも制約(79)が含蓄している事柄を表しているといえる。というのは、(79)が規制しているのは、謙譲形の隠喩的意味構造が、まさに、自動的に受益解釈が可能な構造にほかならないからである。ここでもう 1つ指摘しておきたいことは、上位者に対する要請、リクエストの方式が「ください(ませ)」のような命令形でなく、「いただきます」「お願いします」のような平叙文になっているということである。これは、命令文を平叙文型にすることによって、上位者に対する圧力(たとえば下位者からの要請に対する負担感)をなくすことであって、隠喩的な非命令化を通じて見せかけ上、上位者の負担を軽減するという語用論的機能を果たすことができるようになる。つまるところ、これもわれわれの原則 B(労役対極化の

原則)の現れであると判断される。この非命令文形化の現象は第 8章で詳しく再論される。ついでながら、Mori(1993:82)が論議している「させていただく」様式に

190 191第2部 展開――丁寧・尊敬・謙譲の三様式の見直し 第6章 「恵み」の言語学的ダイナミックスとその文法化

ついて、付言しておこう。前出(39)~(42)を下に再掲する。

(80)a. *この論文お読みしてもよろしいでしょうか。(?先生に論文をお読みする)

b. *この論文コピーをおとりしてもよろしいでしょうか。(?先生にコピーをおとりする)

c. *ピアノをお弾きしてもよろしいでしょうか。(?先生にピアをお弾きする)

d. *この辞書お使いしてもよろしいでしょうか。(?先生に辞書をお使いする)

Moriは、上の(80)の例文を使って受益解釈が可能でない請求文は「させていただく」文型に換えて表現することができると説明している。このような文というのは、言い換えれば、(79)が適用できない文であることから、受益解釈が不可能な文になる。さらに、受益解釈ができない請求文は、われわれが第 2章で設定した原則 Eを犯す不敬な文になるということである。原則 Eとそれに関わる文法化のガイドラインを想起してみよう。

(81)(=第 3章(14))原則 E(使役特権の原則)

a.上位者のみが常に使役したり、裁可したりする特権を有する。b.下位者は使役・裁可の特権はなく、常に、上位者によって、使役されるのみである。すなわち、上位者の使役特権/決裁権は極大化する一方、下位者のそれは極小化しなければならない(この点、原則Bとは逆関係にある)。

(82)(=第 3章(19))使役特権の文法化のための指針要領上位者が被命令者、または被使役者になる命令または使役は、恩恵の原則 D(13)とその付随要領によって、受恵の形を持つ「嘆願文」に変換する。嘆願文では、上位者の労役対極化の原則(11)とその指針要領(16)を、そして、使役特権の原則 E、すなわち上位者の「使役

の特権」(24i)をも満足させること。

このような原則と文法化のガイドラインに従って、「お Vくださる」「おVになっていただく」「Vさせていただく」の 3つの[V-V]複合構造が作られる(第 3章§3.4.4、第 6章§6.3の(8)および§6.4.1の(21)を参照のこと)。Moriの「してもいいですか」から「させていただきます」への転換は上のような原則と文法化のガイドラインによって統一的に説明できるものである。

1 菊地(1997)で確認したものには下記のようなものがある。

  (i)*おやりになる(同書 :395)

  (ii)もらわれる(同書 :306)

  (iii)*おもらいする(同書 :288)

2 この点については、近藤(1984:87)の 「たてまつる」の条参照。

3 菊地(1997)の 321, 347, 306, 309頁参照。

4 これは柴谷教授の示唆による。

5 柴谷教授(個人的通信)によると、(45) ~ (48)にしてもさほど丁寧度が高くな

らず、「~してもよろしいでしょうか」が好まれるとされる。

6 太平洋横断旅客機が日付変更線を越える頃合いがたまたま日の出ごろになるとい

う偶然の一致もあって、雲上の曙の荘厳さが「お迎え」という発想のもとになった

ろうとも推測される。

第3部

敬語と礼儀の接点

195

第7章

文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

この章では、特に日本語の敬語における「わきまえ」の概念と日本語の感謝表現の 1つである「すみません」の重義的表現をメタファーの仮説でどのように分析できるかを示す。人々は誰もがその成員である社会の中では自分以外の人と仲良く円滑な関係を維持しながら生活を営むことを望むであろうし、そうするためには、相手がたとえどのような人であろうと、年齢・地位・性別・出身などにこだわることなく、その人の人格を互いに傷つけないよう尊重しながら生きていく知恵を学ばなくてはならないであろう。このような知恵を日本人は一般に「わきまえ」として心得ている。ここでいう「人格」は人間であれば誰もが持っていると見なされる絶対的な価値、その人がそれなくしては「ひとでなし」になるほかない最後の「自己主張の弧島」、人間性を保障する最小の条件、つまりその人が持つ「顔」――それは「体面」とも「面子」ともいわれているものである1。このような「顔」や「わきまえ」という概念を通して敬語を含む広い意味での礼儀現象について考察する。1980年代から言語の使用・遂行部門の分野で大きな反響を呼んでいる Brown & Levinson の「礼儀(politeness)」の理論に対しては S. Ide (1986, 1998, 2005等)、Matsumoto

(1988, 1997)、中西(1993)、金水(1984, 1995)、金水・田窪(1998)そして、ごく最近の宇佐美(2001, 2002)、井出(2006)、滝浦(2005, 2008)、串田(2006)、加藤淳(2008)の研究で大きな進展を見せている。本章ではそのうちのいくつかに見える問題点、特に日本人にとっての「恩」に関連付けられる「感謝」と「陳謝」が礼儀現象でどのような意義を持つかという問題に焦

第 3部は、本書で試みたメタファーによる敬語の分析が語用論の部門においてどのように貢献できるかを示し、結論を含む 4つの章からなる。第 7章では、日本語の感謝表現に対する Benedict(1946)、Coulmas(1981)、R. Ide(1998)等の先行研究を概観し、メタファー仮説による分析を提示する。第 8 章では、日本語の丁寧表現の発展過程を主観化・間主観化(subjectification / intersubjectification)のプロセスだとする Traugott & Dasher(2005)の文法化理論を検討する。さらに、本書のメタファー作業仮説から「ます」「そうろう」「遊ばす」などの古典語の敬語表現に新しい照明を当てる。第 9章では、本書で展開した敬語をメタファーの体系とする仮説からどのようなことが明らかにされたかをまとめ、第 10 章では、本研究の理論的意義と限界、これからの研究課題を示す。

196 197第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

点を当てる。「すみません」はいうまでもなく何かの過ちに対する赦しを乞うときに使われるものであるが、この表現はまた実に頻繁に「ありがとう」の意味にも使われる。アメリカの友人から、日本人は Thank youというところをI am sorryというが、これは一体どうしたものかとよく訊かれる。「ありがたい」がどうして謝罪につながるのか納得がいかないというのである。感謝が謝罪につながるという矛盾する現象は簡単な回答では済まされない複雑性を含んでいる。この章はこのような問題に取り組んだ Benedict(1946)、Coulmas

(1981)、R. Ide(1998)の 3つの先行研究についての考察も含む。

7.1 ポライトネス理論と「わきまえ」の文化

Brown & Levinson(1987)は、礼儀現象の根本には特定社会の成人(自分がしたことに対して責任を持つことができる人格としての個人)一人一人が持っている個的な face(「顔」)という概念が関わっていると主張する。ここでは、概念的には、多少のずれがないでもないが、Brown & Levinsonの faceの概念をとりあえず中国語の「面子」のように理解しておくことにする。礼儀における「顔(face)」の概念はすでに Goffmann(1955, 1967)で「facework(顔

の働き)」という表現で展開されているものであるが、Brown & Levinsonは、すべての個人を理性に立脚するモデルとしての個人(成人)と見なし、「顔/面子」を持つ存在であるとする。「顔/面子」はこのようなモデルとしての理性人が持つ 2つの欲望――相手に自分の顔を認めてもらいたいという欲望(積極的欲望)、もう 1つは相手に自分の顔を汚されたり傷つけられたりされたくないという欲望(消極的欲望)――の象徴であると見る。言い換えれば、これは、個々人が相手に対して相手の顔の尊厳性を脅す仕打ちをしかねない潜在的な傾向があるということを意味する。これを彼らは潜在的面子損傷行為(face-threatening act:FTA)と呼んでいる。人間関係を円満に営むためにはこのような潜在的行為を未然に防ぐ方策(strategy)をとることが望まれ、これが politenessなるものにほかならないと彼らは見る。そうすると、モデルとしての個人は相手の積極的欲望を満足させること、つまり、「相手に取

り入りおもねる」こと、もう一方では相手に対するこちらの FTAをできるだけ和らげること、たとえば、相手の邪魔にならぬよう、負担にならぬようなるたけ控えめに話すよう心がけるというような方策が講じられる。前者を Brown & Levinsonらは positive politeness(積極的礼儀)の方策、後者をnegative politeness(消極的礼儀)の方策と呼んでいる。Brown & Levinsonらは、上のようなモデルとしての個人(model person:MP)、そして、このMP

が持つ最後の拠り所としての面子、相手の顔/面子を立ててやること、相手の顔/面子を損ねぬよう心がけること、さらに、このようなモデルとしての個人を根底にした人々の生き方は文化によって違いはあるにせよ、凡言語的な普遍性を持つものだとする。社会学、人類学、意味論、言語遂行論、コミュニケーション理論、修辞論など諸領域にまたがる多次元的な概念が関わる礼儀現象を緻密な論理と巧みな一次言語資料(互いに親縁関係のない、英語、マヤ語族に属するツエルタル語、タミール語の 3つの言語)を駆使分析したBrown & Levinson(1978)をのちにモノグラフにした 1987版の礼儀理論はpoliteness研究のもっとも重要な理論的根拠になっている。

7.1.1 Matsumoto (1988)、 S. Ide (1989)、 井出 (2006) の 「わきまえ」

しかし、Brown & Levinsonの普遍理論は日本の研究者たちによって鋭い批判の対象になり、このような批判は欧米の学会からも大きく注目され、Brown & Levinsonの「顔/面子」の理論自体に対する再評価が唱えられている。Matsumoto(1988)は、Brown & Levinsonの理論の「モデルとしての理性的個人」という基礎概念がアメリカやヨーロッパのようなヨコ的な平等主義に立つ社会組織に依拠しているものであって、日本のようなタテ社会(中根 1972)に見られる言語的礼儀現象における「個人」のそれとは相容れないものであると主張する。日本の社会における個人はそれが属する共同社会の中の成員としての個人であるという認識がことさら強く、共同社会の他の成員と切り離された自己像は考えられない。Sugiyama-Lebra(1976)は、日本の社会は成員の一人一人がその社会に与えられた身柄を知ること、すなわち、「分を知ること」に異常にこだわるものと特徴付けている。Matsumoto

198 199第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

(1988)でも利益のための対立よりも協調的な「思いやり」や「わきまえ」が基本になっているとし、これを discernmentと呼んで英国やアメリカのような負債意識に支配されている社会では見られない日本の文化的な特色であると強調している。井出(2006)も、Brown & Levinsonの理論では、「敬語を使え」という項

目が消極的礼儀ストラテジーの 1つとして挙げられているが、敬語を日常の言語行動の中のもっとも基本的なものとする日本語話者にとって、10項目にわたるネガテイブ・ポライトネスの方策の 1つに過ぎないとする考えに同調できないとする。さらに、S. Ideらは欧米の言語では相手と状況によって話者がどのようなポライトネス行為を選択するかを自身の自由意思によって決定することができるのに対して、日本語を話す話者は「わきまえ」という社会的規律によって厳格に規制されていると主張する。このように、Matsumotoも S. Ideもともに日本語における「ポライトネ

ス」は「わきまえ」または「配慮」という概念が根底になっている敬語を通じてなされることから、Brown & Levinsonで提唱される「ポライトネス」概念とは根源的な違いがあると主張するのであるが、本書では、敬語もBrown & Levinsonのいう普遍的礼儀の 1つの特殊なケースに過ぎず、「わきまえ」の概念も談話における「レジスター」の極端な例であることを§7.3

で明らかにする。

7.2 「すみません」の分析

まず、敬語をポライトネスの関連性について考察する前に、この節では「ありがとう」と「すみません」に対する先行研究――ここでは特に Benedict

(1946)、Coulmas(1981)、および R. Ide(1998)の分析を取り上げる。

7.2.1 Benedict(1946)の「負い目」の文化論

Benedictは『菊と刀』の「歳と世間への負い目」と題する章で、日本の文

化の重要な性格の 1つを「恩」だとし、これを 2つの側面、「恩に着ること」と「恩を返す」ことについて鋭い観察を行っている。恩に着ること・恩を受けることの面から見ると、5つの恩があって、それらは、皇恩、親の恩、主の恩、師の恩であり、そのほかに他人との接触を通じて受ける恩があるという。恩はその恩人に返さなければならないものであるが、恩返しには忠と孝があり、もう 1つに義理がある。後者はさらに「世間への義理」と「名に対する義理」に分けられるとする。日本人にとって、恩は、神の恵みに見られるように、それに浴することへの感謝で尽きるのでなく、返さなければならないもの、さらに、その返済の分量が限りなく大きいもので、恩を受けることは、つまり、返済の重荷を負うことを意味するとしている(Benedict

1946:99)。上のような考えに立って、Benedictは日本語のさまざまな感謝表現を分

析する。「ありがとう」は「私が恩返しをするには実に難しいことでございます」という意味であり、「かたじけない」は当て字「忝い・辱い」が示すとおり、「恩返しができないほどの恩を受けてまことに面目なく恥ずかしい」ということである。また、面識のない人からタバコを分けてもらって感謝するときに「気の毒」という表現を使うとし、これは、あたかも「あなたから恩の先手を打たれて、私は、永久にあなたに恩返しできる機会を失ってしまった実につまらない安物に成り下がってしまいました」とでもいえるような意味合いを持つのだという(同書 :105)。もっとも、このような場合に日本人が「気の毒」という表現を感謝の意味に使うことはまず考えられないことであるのはいうまでもなく、また、それを「気を毒する」と文字どおりに解釈していて、これは、Benedictの誤った判断であろうが、感謝を負い目と見る彼女の徹底した考え方が反映されていて面白い2。「すみません」という表現も文字どおりにいくら感謝してもきりがないということで、いってみれば、「あなたから恩は受けはしましたものの、今どきの経済的な按配ではどんなにあせっても恩返しなどできそうになく、つい、このような状況になってしまって、まことに残念でございます」のような意味になるという。たとえば、ある人の帽子が風に吹かれて飛んでいくのを道行く人が拾ってきてくれたときに、帽子の主は「ありがとう」という代

200 201第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

わりに「すみません」と感謝するであろうが、これには、おそらく、「恩を受ける羽目になってしまったが、この人は面識のない通りがかりの人で、いつまた私が恩を返すことができるやもしれず、それに恩を施すことを先打ちされて、呵責に耐えなく、今謝罪しておけば、気が晴れるだろう」といったような心持ちになっているだろうといっている(同書 :106)。Benedict

は日本人のこの異様なまでの「負い目」に対するこだわりを漱石の『坊っちゃん』の中の一節を使って説明している。それは、主人公が前に氷水を奢られたことのある無実の山嵐を、教頭の赤シャツにそそのかされて、疑っている場面である。「おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊い返礼をした気でいる……そんな表裏のある奴から氷水でも奢られてもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない……詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持がよくない……割り前を出せばそれだけで済むところを、心のうちで有難いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない」(夏目 1950:54-55)。恩人が尊敬すべき人格の人でないと判断されると、恩そのものを拒絶することになる。つまり、「あした行って一銭五厘返してしまえば借も貸しもない」(同書 :54)

ことになるわけである。このような Benedictの考えはその後、Kumagai

(1993)、 熊取谷(1988)などに受け継がれ、特に Coulmas(1981)は、「すみません」という日本語の表現を「負い目の倫理(ethics of indebtedness)」という概念で分析している。この Coulmasの議論をもう少し詳しく見てみよう。

7.2.2 Coulmas(1981)の「謝り」の分析

日本語で感謝表現に「謝り」を表す「すみません」が頻繁に使われることについて、日本の大学で多年教鞭をとっている Coulmas教授は、英語を話す人たちも感謝と陳謝の概念を互換的に使う場合が皆無でないと次のように説明している。たとえば、英語では thanks a lotに対して普通 not at allと答えるが I’m sorryに対する返答にも not at allが使われる。日本語で「どういたしまして」という表現が「ありがとう」にも「すみません」にも返答とし

て使えることに酷似しているとする。Coulmasは感謝と謝罪の談話の運びのこまに見えるこのような共通した応対表現が、そのほかにもドイツ語、フランス語、現代ギリシャ語にも見られると例示している(Coulmas 1981:77)。つまり、相手がこちらに対して何かの責務を負っている場合に使われた感謝表現と謝罪表現に対しては「どういたしまして(not at all)」の反応が可能であると分析している。すなわち、話し手が何かをされて負担になる場合と負担にならない場合が考えられるが、前者の場合、すなわち、負い目がある場合の「ありがとう」に対して「どういたしまして」と応対することによって、相手の負担のソースを取り消す効果を出すことができるわけである。もう 1つは、何かをして相手の邪魔になったと判断した場合、または、こちらが意図したことがうまくいかなかった場合、当然、話し手がそのような事態になったことを悔いている場合、すなわち、話し手がやはり負い目に立たされる羽目になったときに「すみません」というのである。このような場合に、「悔い」のソースがまったくないことを承知させるために、英語を話す人たちは I’m sorryという表現を使うという。つまり、一方がとった行為の結果からくるこのような 2種類の「負担」を相手に知らせるための感謝と陳謝に対して、他方、すなわち、聞き手のほうは、そのような「負担」の根拠を否定したり、取り消したりする効果を持つ not at allという表現で応対するものだといっている(同書 :77)。

Coulmasはさらに一歩進めて、ある行為に関する「負担」または「負い目」の感じの度合いは文化によって大きな差異があるという Hymes(1971)の研究に触れながら――これは Brown & Levinson(1978)のいわゆる「Rファクター」に当たるものと思われるが―― thanks a lotがアメリカでは比較的気軽に形式化しているのに対して、英国でのそれにはある程度の実質性を伴っているとし、また、マラティ語やヒンズー語の話者たちにはヨーロッパ人に比べて感謝と陳謝の間の関係がより緊密であるとしている。したがって、売買行為はこちらが金を払って相手が当然とるべきものをとるのであるから、負い目など感じることはなく、また、内輪の人たちの間の助け合いなどは構成員の義務に根ざすものであることから、ありがたがるのはタブーにまでなっているとしている(同書 :81)。

202 203第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

(i) Aの行為が Bに対して有益な結  果を、実際にしろ、見かけだけ  にしろ、もたらした場合

(i) Bの行為が Aに対して有害な結  果を、実際にしろ、見かけだけ  にしろ、もたらした場合

B/A(感謝) B/A(陳謝)

B/A(負い目なし) B/A(負い目あり) B/A(負い目なし)

B:Aに対して特にお返しをする  必要がない単なる感謝表現

B:Aに対してのお返しの義務が  ないただの同情表現

B:感謝 B:陳謝

B が Aに対して負い目を感じていることを慇懃にまたは表向きに認める。したがって Aの行為に対して適当なお返しをする

A, B:お互いに関係を持つもの

図1:「感謝」と「謝罪」の内部構造

注)Coulmus 1981:80より

さて、Coulmasは「すみません」を文字どおりにとって、「私の感謝は、これでおしまいでなく、私が負っているすべてをあなたにお返ししてしまうまで限りなく続くのです」という意味にとって、Benedictに近い解釈を下している。日本人は、贈り物をもらうことや人の世話になるということに対して、物をもらったことによるうれしさよりも、こちらが債務の負担を負うことになってしまった事態が考えの中心になるという。日本人にとっては、個としての面目を守りながら、また自分の共同体の他の成員に恥をかかせてはならないということ、すなわち、他から指差されないことに気をもむばかりに、すべての行動に粗忽さがないように前もって気を配るのだという。そして、社会的な規範に反する行為をしたとしても、それに対して自身をまず責めておくことは、そのような行為の取り直しに不可欠であると見る。これは、他の人から物をもらったり助けられたりした場合、その人がそのために費やした労苦に対してもらったほうのこちらが責任を感じて謝る点が西欧人たちにはたやすく理解できないのだという。Coulmasは感謝と陳謝の相関関係を負い目という観点から図 1で表している。恩恵を与える側がそのために費やした労苦に対してこちらが責任を感じ

るときに「謝り」がもっとも適する表現になるという。Coulmasの指摘は、後述するように、われわれの仮説を部分的に支持するもので特に注目される。

7.2.3 R. Ide(1998)の「すみません」論 

R. Ide(1998)では、日本人の対人接触で頻繁に現れる「すみません」を東京都内の眼科医院での受付と患者の間で交わされる談話の録音をもとにして興味ある分析を行っている。この研究から、「すみません」に文字どおりのお詫びから単に取って付けた挨拶表現にいたるまで少なくとも 7つの語用論的機能が判明したと報告している。下の(1)はそれをまとめたものである。

(1)「すみません」の 7つの機能(R. Ide 1998:522)

204 205第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

a. 文字どおりの陳謝としてb. 半ば陳謝・半ば感謝のしるし(徴)としてc. 請求の前触れとしてd. 相手の注意を引くためe. ことの終わり・別れのしるしとして f. お互いの了解のしるしとしてg. お互いの挨拶代わりに

R. Ideはこのような「すみません」表現の多様な機能が単なる寄せ集めでなく、意味どおりの「すみません」(1a)から単なる挨拶としての(1g)まで 1つのスペクトルとして組織的・階層的な秩序が見られるとしている。「すみません」の機能(1a)は相手に対してこちらが犯した過ちへの談話上の「繕いの慣習(remedial rituals)」とする一方、機能(1g)は反対の極であって、「すみません」の本来の意味を失った単なる挨拶の決まり文句になったものとし、これを談話を円満に運ぶための介添え的機能(supportive

ritual)と呼んでいる。この二分法は Goffman(1967)の「対人関係における儀礼的慣習」の理論によるものであるが、Goffmanではまたこの 2つのうち前者は外延性(denotation)を、後者は内包性(connotation)を、それぞれ持つものと特徴付けている。R. Ideはこの両極の間に呼びかけ、半ば陳謝・半ば感謝、依頼・要請、お互いの了解というような中間的な事態を表す機能があるとしている。「すみません」という表現は本質的に他人への「負い目」を象徴するものであるが、これは談話の場で日本語の話者が相手側の立場に立って物事をはかる傾向、つまり、「思いやり」に根ざすものとする。

R. Ideはこのような「すみません」の機能はそれぞれが互いに排他的でなく互いに輻輳するが、その核になるのは他人に対する「負い目の自覚」だとする。これらはみな(1b)の「すみません」、つまり、「半ば陳謝・半ば感謝」のカテゴリーを中心にして交叉するという。なるほど、R. Ideがいうように、これらの機能が対人関係における談話上

の儀礼化された慣習であること、談話における不調和を避けるメカニズムとして「補修的」機能と談話の潤滑な運びのための支援的機能を併せ持ってい

ることは議論の余地のないものではある。しかし、(1b)、すなわち、半ば陳謝・半ば感謝のカテゴリーを除く他の 6つの「すみません」機能が特に「ありがとう」、すなわち、感謝することとどのように具体的に関わるのかは疑問である。いずれにしろ、(1b)は、特に、「すみません」が持つ陳謝と感謝の両義性を考える上で、大きく関心が持たれる。下のような場面に対する R.

Ideの分析を見てみよう。

(2)受付が患者に診察料 1469円を請求する。受付に小銭がないのを知って患者が財布を調べる。受付が「すみません、申し訳ありません」という。

R. Ideは「すみません」には、受付が小銭で患者を煩わせていて「申し訳ない」と同時に、患者の思いやりを「ありがたく」思う意味が含まれている。「すみません」という単一の表現が一方には「恩」を受けること、そしてもう一方では相手に面子損傷行為を犯したことからくる「負い目」を表すことという両面性があるとしている。R. Ideは、ここで熊取谷(1988:231-232)

を引用し、「おめでとうございます」や「その靴、似合ってるね」などに対しては「すみません」でなく、「ありがとうございます」でなければならないとする。このような場合、「すみません」が不適格と判断されるのは、御祝儀やお世辞に対してこちらが負い目を感じる必要がないからだとしている。「負い目」を感じない場合に「ありがとう」が適格になるという熊取谷の分析は大体において私たちと同じ線の考え方であるが、敬語のメタファー仮説からこれとは違った分析を次節で示す。

7.3 メタファー理論から見直す「わきまえ」と「すみません」

この節では、日本語における「わきまえ」の本性と感謝・謝罪表現をメタファー仮説でどのように説明できるかを示す。

206 207第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

7.3.1 礼儀方策としての「わきまえ」――そのもっとも極端なケース

ここで、本論に入る前にしばらく「ポライトネス」と「敬語」の概念について述べておこう。まず敬語は「ポライトネス」の 1つの言語の表れであってそれと対立するものでないということを確認しておこう。つまり、日本語におけるような敬語体系を「ポライトネス」という概念に対立する何か特殊な言語現象と見てはならない。Brown & Levinsonが唱える「ポライトネス」理論を基に、敬語を FTA(潜在的面子損傷行為)和らげ方策、より具体的には Brown & Levinson らのいうポライトネスの一形態に過ぎないという立場をとる。端的にいえば、敬語を FTA和らげ方策のもっとも極端なケースと見なすのである。これを以下で説明してみよう。まず話し手は自身の究極的自己存在の砦(保塁)としての「顔」の尊厳性

を相手の FTAの侵犯から守らなくてはならないのであるが、そうするためのもっとも賢明な方策として相手に対して自身が相手の「顔」を傷つける意思が毛頭ないことを明らかにすることが考えられる(この場合、Brown &

Levinsonらがモデルとしての「人」つまり個々の人が理性的存在であると特に断っ

ていることを想起しよう)。2組の方策――積極的ポライトネスと消極的ポライトネス、つまり、一方では、もっとも効果的な方法で相手に取り入る(おもねる・おだてる・へつらう)ようにする、もう一方では、相手に対して迷惑をかける可能性をゼロにする――ようにすることが可能であるとすれば、これは理想的というもので実現性が薄い予想であることは明白である3。しかし、上のような条件を話し手が比喩的に満たすことはできるであろ

う。実際、日本語にはこのような方策のためのメタファーによるほとんど完璧に近い体系が用意されているのである。このようなメタファー体系をこの論文では「敬語」と呼ぶ。相手を最上級の「上位者」として表現する尊敬形式、話し手自身を低める謙譲形式、「言上する」「申し奉る」という表現が示しているように、上位者に仕立てた相手にこちらが行う発言を、上位者に対する 1つの贈り物のように進上することを表す丁寧形式、これらはみな上のような礼儀方策のメタファーであると見る。このような文法規則としての敬語のメタファーのほかにもさまざまな修辞法を使って相手を権勢を持つ上位

者に持ち上げる一方、自身を卑下する言語的行為と見る。極端な表現を借りれば、敬語はいわば比喩的「完全武装解除」を相手に知らせる行為である。日本語では、相手にこちらが FTAを行使する意思が皆無であることを知らせることによって積極的ポライトネスと消極的ポライトネスを達成する仕組みになっていると見るのである。このような立場から、Matsumoto(1988)や井出(2006)のような先行研

究で取り沙汰されている敬語における「わきまえ」という概念を吟味してみよう。「わきまえる」は誰もが自分に与えられた自分の「分」または「所、位置」をよく知ること、すなわち、「おのれ」のこと、そして、そのようなおのれの自己認識のことをいうものと思われる。Matsumotoが引用している Sugiyama-Lebra(1976:67)は「日本人がもっともこだわっていることの1つは自身が属する集団なり、組織や機関なり、または社会全体の中で自分に許された場所を正確に認識すること(the concern with occupying the proper

place)」、そして、「個々人は自分を 1つの『実数』として認識する代わりに全体の 1つの切れ端またはかけら(fraction)として認識することである」と指摘している4。中世の荘園経営を基にする守護地頭制度から 17・18世紀にかけて完成する典型的な封建社会では、個人が与えられた自分の分際をよく知ること、そしてそれをよく「わきまえて」振る舞うことを封建支配層が伝統社会の秩序と平和の前提条件になる倫理的指導概念として強調してやまなかったことがうなずかれる。敬語における「わきまえ」もその 1つの表れであって、個々人の分際を明らかにし、そのような情報を発言に際して明確にすることが要求されるようになったのは当然の成り行きであった。Matsumotoや井出のような研究者たちは「わきまえ」が他人に対する「思いやり」や共同体の「和」を重んずる日本人の協調精神の現れであると強調し、これが利益関係や契約関係に立脚する西洋社会における個々人をモデルにした「ポライトネス」概念とは相容れないものと主張する。「思いやり」や共同体に対して責任をとることを肯

がえ

んじない成員の行動様式が「わきまえ」という概念に反映されているのはもちろんであるが、そのような面を強調するあまり、Brown & Levinsonの礼儀理論における「ポライトネス」の普遍性を全面的に否定する理論的拡張には無理があるように思われる。それ

208 209第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

よりも、日本語の敬語は世界言語の類型的な分布の面からすると、すこぶる異様に見られはするが、それらの間に見られる違いは質的なものでなく程度の差に過ぎないのではないか。一般的な「ポライトネス」の 1つの言語的――より詳しくは文法によって規制されている――方策の 1つに過ぎず、「ポライトネス」理論の枠組みの中で充分取り扱うことができるものである。要するに、一般に日本人の行動様式における「わきまえ」という概念は、端的にいえば、社会生活をしていく中、他人(特に上位者や権力者)の前では身のほど知らずにでしゃばることなく、慎み深く振る舞えるよう自分に与えられた身分・地位などをよく心得ておくべきだというようなことを意味しているのであって、これは、言葉遣いにおいてもまったく同様で、話し相手に対しての自身の社会における相対的な位置(年齢・親等数・公的な地位などにおける上下)を確認し、それに相応しい敬語様式を迅速に適格に選択適用しなければならない。それはちょうど乗車券や入場料に喩えることができよう。決められた入場料を払わずにたとえば万博を楽しむことができないのと同じように、日本人がいったん会話で敬語の場が活性化するとその場に相応しい敬度の様式を使わなければならない。会話に関与する参加者がその会話の場の性格に相応しい会話のスタイルを話し手が選択適用する現象を言語学では「レジスター」と呼んでいるが、これはどの言語にも見られるもので、会話のコンテクストに合う敬語を選択操作する一種のレジスター現象と見てよかろう。「わきまえ」の概念を単に日本人の所属集団に対する連帯意識や協調精神や倫理的な思いやりなどの観点から解釈するあまり、「わきまえ」の語用論的機能の本来の意義を見失ってはならないであろう。

7.3.2 奉仕義務遂行における怠慢と謝罪としての「すみません」

この節では、上で見た Benedict(1946)、Coulmus(1981)、R. Ide(1998)

の分析に対して、第 3章の原則 Bの仮説に立って「恩恵」を「用意する過程としての事象」とそのような過程を通じて「完結した産物としての結果事

象」という 2つの要素に還元できることを示す。まず、「すまない」という表現を見てみよう。いうまでもなく、人と人とが特殊な関係で結ばれており、そして、関係者はそのような束縛関係によってしかるべき義務/責任を負うことになる。その際、負わされている義務をまっとうできなかったり責任が果たせなかったりして、他方を不便にしたり、他方に迷惑をかけたりするようになった場合、こちらが自身の「不届き」を悔いながら相手に赦しを請うというような状況も起こりうる。たとえば、太郎と花子が決まった時刻に会う約束をしたとしよう。ところが、太郎が 20分も遅れてやってきたとしたら、そのときのお詫びは「すまない」になるだろう。上にいった特殊な義務の履行とそれに特に関係のない過ちに対して謝罪をする場合は「ごめん」とか「悪かった」とか「勘弁してくれ」とか「赦してくれ」とかいう表現が使われるだろう。たとえば、こんでいる電車の中で太郎が誤って花子の足を踏んだ場合の謝罪表現は「あ、ごめん」であって、「あ、すまん」にはならない。太郎が「花子」と呼ぶところを何かの拍子で不覚にも「愛子」と花子の妹の名前を呼んでしまって花子がすねた場合、太郎が「すまない」といったとしたら、それこそすねるどころの騒ぎでなく、花子との関係が取り返しのつかないことになってしまいかねないだろう。「勘弁」と区別される「すまない」の意味論的特性は敬語の場でも変わらない。話し手が上位者になすべきこと――たとえば、相手の平静または相手が満喫していると思われる均衡状態を乱すこと、相手に労をとらせないためにこちらが立ち回って奉仕すべきところをおろそかにしたことなど――、つまり、「すみません」は話し手の相手に対する負い目の「繕い(repair)」という概念で捉えられている手続きとしてというよりも、むしろ、第 3章の原則 B をまっとうできなかった「不届き」から相手を不便にさせたり、相手の迷惑になってしまったりしたとき、話し手の悔やみや、過誤に対する悔恨のしるしとしての陳謝が「すみません」になるものと考えられる。ここで特に注意すべきは、上にいった「不届き」はこちらのあからさまな疑う余地のない過誤だけに限らないという点である。すなわち、相手に不便をかけてまでもこちらが得をする場合、つまり、恩を受ける場合の「不届き」をも含む

210 211第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

ことである。日本人が感謝よりさらに重んじるのは「陳謝」であるとする金田一春彦(1988下 :283)は、たとえば、老婆がバスで若い娘に席を譲られたとき「ありがとう」より「すみません」と陳謝するほうが多いだろうとし、その理由を次のようにいっているが、これなどはまさに私が 2つ目の「不届き」と呼ぼうとしているものである。

(3)私が乗ってこなかったら、貴女は座っていられたものを、私が乗ってきたばっかりに立っていただいてすみません。

つまり、相手(このときの娘は年下ではあるがよそ行きの状況における相手であるばかりでなく利益を与えるという決裁権を持つ社会的上位者になっている)

に立たせるという労苦をさせる結果になってしまった老婆自身の「不届き」に対する悔いを表す陳謝になるわけである。表現を変えていえば、第 3章で規定した原則 Bの違反に対する謝りである。では、「ありがとう」を気遣いなしに使えるのはどういう環境においてで

あろうか。何よりもまず、利益の移動が公の場で行われる場合が挙げられる。旅先から帰ってきた友達のお土産には、こちらが特に頼んだものでないかぎり、「ありがとう」であって「すまない」ではない。緑の窓口で差し出された切符をもらったら、「すみません」でなく、「ありがとう」でなければならない。道を教えてくれた通行人には「ありがとう」でよい。こんなとき、「すみません」といったら、相手は、自分が好意でやったことをサービスのように受け取られていると誤解するだろう。パーティへ招待してくれたこと、招待したパーティに来てくれたこと、投票してくれたこと、病床に見舞いに来てくれたこと、推薦状を書いていただいたことなどに対するお礼は「ありがとう」でなければならない。推薦状を書いてくれた先生に「すみません」などといったらとんだ失礼になるだろう。先生の推薦状は何か天から降ってくるように尊いもので、そういうものをもらって「すみません」というと、こちらがあたかも先生を雇って働かせてできた推薦状のような結果になって、先生の尊厳を大きく傷つけることになるからである。一般的に、公共の場での取引では、提供する利益のために相手がどんな労苦をなめたかが

問題になることがない。提供されたものをこちらが率直になんのこだわりもなく安心して受け取ることができる類のものである。旅先から帰った人の贈り物をもらったときのように、食いしん坊だとか、浅ましいとか判断される気遣いのないような場合である。それとは、対蹠的に、自分のために特に相手を「煩わせた」と判断される可能性がある場合、こちらの要請や頼み事などを相手が拒むことができる充分な理由があるにもかかわらず、こちらの要求に応じてくれたような場合には、必ず「すまない」でなければならない。たとえば、銀行の窓口で、こちらが手形を現金に換えてもらったとしよう。上でいったように、このような場合は「ありがとう」でけっこうであるが、ここで、支払われた現金をもっと細かいものに替えてくれと頼むとしよう。そして、それに対して銀行員が快く応じてくれた場合は「すみません」になる。なぜなら、もはや自分のなす責務を果たしたと思っているはずの銀行員をこちらが「自分勝手な」要請でことさら煩わせたと思い、そのような「不届きな過ち」を詫びなければならないと判断できるからである。同じ窓口でたった 2、3

分間の同じやりとりであっても、一度は「ありがとう」一度は「すまない」になるわけである。このように、「すまない」は相手がこちらの「余計な・個人的な・不当な、要請」で「拒絶できる立場」にあるにもかかわらず応じてくれたと判断できた場合に使われる。先の金田一のお婆さんと礼儀正しい若いお嬢さんとの間の電車での応対の場合がこれである。同じように、相手が使っているペンをちょっとお借りできるかというこちらの「駄々」に応じてくれた場合、お礼は必ず「すまない」でなければならない。これを「ありがとう」にすると、相手は自分の好意ある応対をあたかも当然なことのように受け止められ、悪くすれば、「労をねぎらわれている」と誤解されることになり、せっかくの「ありがとう」が横柄に聞こえることになりかねない。同じ理由から、置き忘れた傘を親切に返しにきてくれた人に対してはやはり「ありがとう(ございます)」よりも「すみません」が自然である。「ありがとう」と「すみません」の表現の選択の条件を下のような図で表してみた。

212 213第3部 敬語と礼儀の接点 第7章 文化的パラメーターとしての「わきまえ」と「恩」

(4)

上の(4)のモデル図で示したように、提供される恩恵・サービスを 2つの部分に分けて考えることができる。第一の部分は与えられた恩恵のために費やされた労苦、第二の部分はその労苦による結果というふうに。そうすると、同じ恩恵に対する感謝であっても、恩恵という贈り物事象のどの部分に焦点が当てられるかによって「すみません」と「ありがとう」のいずれかが選択される。上の銀行の窓口で起こった 2つのエピソードのうち、はじめのエピソードには B部分に対する感謝、つまり公共的な「ありがとう」、2つ目のエピソードには私中心の「すみません」が振り当てられる。敬語を習得していく過程で幼い日本語話者が克服していかなければならない大きなチャレンジの 1つが、「感謝 1」と「感謝 2」を識別する判断力を築き上げていくことであるということができよう。

1 私は今ここで「孤島」という言葉を使ったが、これは人がなんらかの過ちで自ら

の「面目(これはまたその人の顔でもある)」を失った場合、その過ちが社会に対す

る過ちであろうとその人個人に限る過ちであろうと、そのような過ちに対する責任

を負うものはその人個人でしかないということをいう。つまり、そのような責任を

誰も肩代わりできない絶対的なその人そのもの(実存的な自己)という意味である。

2 Coulmas(1981)は感謝と陳謝を取り扱った論文であるが、ここにも「気を毒す

ること」という副題が付けられていて、Coulmas も Benedictもともにどのような理

焦点 A

焦点 B

感謝 1

感謝 2

[すみません]

[ありがとう(ございます)]

事象 (B) のためにかけられた労苦

労苦 (A) でもたらされた恩・福利

由で気の毒を感謝と関係付けるのか訝いぶか

れる。

3 Brown & Levison(1978)は積極的礼儀に 15の方策、消極的礼儀に 10の方策が認

められるとしている。

4 「わきまえ」という言葉に「分」や「切れ端」という意味が関わることから、「わ

きまえ」の語源がかつては「分け前」であって、[wakimae]も[wakemae]から由

来したものであるかもしれない。ちなみに、広辞苑(1998:2493)には、「前」は「そ

れ相当のもの。また、そのものとしての面目、わりあてられたものの数を数える語。

[五人前の料理]」と出ている。つまり、「わきまえ」はもともと「分け前」のこと

で、人の「面目」、すなわち、「顔」、そして、社会の構成員として与えられた「身分」

(往々にして「分際」「身のほど」「分限」などと卑下する表現)として使われる可能

性が多分にあると思われる。このようなことを考慮に入れれば、「分け前」が転じて

「身のほどを知って振る舞えよ」という意味での「わきまえ(弁え)」に変化したと

いう可能性も考えられる。

215第8章 敬語文法化の道程

この章では日本語における敬語体系の史的側面をメタファー理論から考察する。最近英語圏で Hopper & Traugott(1993)や Heine et al.(1991等)に代表される文法化理論に基づいて、日本語の敬語、特に、敬語の述語における意味的変化に対する本格的な取り組みが試みられている。代表的な研究としては、Dasher(1995)および Traugott & Dasher(2005)が挙げられるが、この章では、この 2つの研究を概観し、われわれの仮説からの批判を行う。Traugott & Dasher は、文法化はすべて「主観化」、そして、さらに、「間主観化」という線に基づいて進行するという理論を主に英語と日本語の多様な歴史的言語資料を使って展開している。特に本書の敬語の支配原理とその文法化というテーゼに深い関わりを持つ日本語の敬語の形成過程が論議されている。

8.1 助動詞「ます」の文法化(Dasher 1995)

Dasher(1995:21)は、日本語の用言の敬語表現が歴史的に「対象敬語(object honorification)」から「非対象敬語(non-object honorification)」へと変化したとし、このような変化は漸進的であり、Heine et al.(1991)、Traugott

& Heine(1991)、Hopper & Traugott(1993)などで提示さている主観化(subjectification)メカニズムがこのような変化のきっかけになるとしている。Dasherの理論的な接近法には Brown & Levinson(1978)の言語構造・言語

第8章

敬語文法化の道程

使用の通時的変遷論の影響も見られ、日本語の資料は辻村の史的分析に大きく依存している。Dasher の研究で取り扱われている問題の多くは、われわれが本書で取り組んでいるものでもあって、われわれに示唆する点が少なくない。しかし、Dasherの提案に見える問題点も見逃すことができない。本節では、Dasherが重点を置いている「ます」の分析に焦点を当てる。まず、Dasher は話題の敬語から対話の敬語への変遷という建前から理論を展開しているが、発展段階(stage)、範疇(category)、類型(type)という3つの分類概念が同時に用いられている1。ステージは 3つ、カテゴリーは4つが識別されている反面、タイプは 2種類に分けられている。ステージは変化(文法化)における発展段階で、カテゴリーは、動詞の意味内容が実質的であるものから形骸化を通じて完全に機能化した文法様式に変化するまでの各段階におけるパターンのことと解される。このような分類法を使ってDasher(1995)は丁寧形「ます」の発展過程を詳しく論じているが、上記の3つの範疇概念が輻輳していて格段の注意を要する。一応、表 1のようにまとめて考察する。この表で見るように、Dasherは敬語の動詞を「タイプ」「ステージ」「カテゴリー」という 3種の分類法を通じて分析し、Traugott や Heine の文法化プロセスの立場から従来の日本語の伝統的な分類法の再編成を試みている。動詞は普通の無敬語の段階から、敬語の機能を持つ第Ⅰ段階に進む。この段階では 2種類の敬語形が形成されるが、1つは語彙項目化の段階で、「いらっしゃる」「おっしゃる」のような敬語動詞と「いただく」「差し上げる」の助

表1:敬語動詞の分類

タイプ 発展段階 カテゴリー 語彙・動詞・助動詞 例

A

    無敬語の動詞 くる、いう、くだす、あげる

ⅠⅠ 語彙化された動詞

語彙化された助動詞いらっしゃる、おっしゃるくださる、さしあげる

Ⅱ 文法様式(尊敬)文法様式(謙譲)

おNVになるおNVする

Ⅱ Ⅲ 一般化された丁寧動詞(いわゆる謙譲 B型)

まいる

B Ⅲ Ⅳ 完全文法化様式 です、ます注)Dasher1995:第 5章からのまとめ。

216 217第3部 敬語と礼儀の接点 第8章 敬語文法化の道程

動詞類が見え、もう 1つは生産的な文法化様式「お NVになる」「お NVする」などが出現する段階である2。第Ⅱの段階では「まいる」が現れるが、これは話題の第三者と聞き手の両方に関わる敬語で伝統的な分類法では丁重語、大石(1938)が B型謙譲形と規定しているものであるとしている。そして、最終段階(ステージⅢ)では、機能的な形態素である聞き手向け敬語(丁寧形)の「です・ます」が出現するとされている。下の(1)は、とりあえず、このように複雑に重層する分類法に従って Dasherが追跡した「ます」の生成過程を要約したものである。

(1)「ます」の派生過程(Dasher 1995:215)

a. 発生初期段階(敬語構造)10世紀(後期古代語)ma(w)ir-asu =[ma(w)iru 「行く/上げる/する」の敬語形]+[使役形(s)asu]

b. 1050~ 1100年頃(前期中世語)第一期発展段階:カテゴリーⅠ:謙譲形への語彙化ma(w)irasu「差し上げる」の意 3

音韻変化:mairasu > marasu(ru) > mairasuru / ma(s)suru

c. 1600年頃(後期中世語)第二期発展段階:カテゴリーⅢへの推移(一般化した丁寧機能のタイプ A)

音韻変化:masuru > masu

d. 1800~ 1850年頃(前期現代語)第三期発展段階:カテゴリーⅣへの推移(非対象化機能)

要するに、現代語の丁寧形「ます」の出自は「まいる(参る)」と使役の「さす」の複合形で「行く・あげる・する」の敬語構造で始まり、中間段階で「差し上げる」の意になり、「意味内容の退化」に伴って丁寧の形態素へと変化したものであるという。このような Dasherの分析にはいくつか疑問になる点がある。まず、発生段階での「まいらす」が、通説どおり、「行く/上げる/する」

の敬語形であるとしているが、これには次ような点が定かでない。「行く/上げる/する」のような 3つのまったく独立した意味が 1つの語彙の中に混在することがどうして可能なのか。「まいらす」の「す」を使役の助動詞に見立てているが、このような使役が「まいる」の敬語化にどのような役割で寄与するのか。また、この段階では「まいらす」が尊敬とも謙譲ともつかない漠然とした「敬語の構造(honorific construction)」を持つものとされているが、それはなぜなのか。さらに、12世紀、いわゆる、第一の段階になると、源氏物語などで「まいらす」が謙譲形として「差し上げる・進上する」のように使われる例が出てくるが、これが、上の「まいらす」と同一のものであるかは別として、このようなやりとり、または、授受の概念がどのようにして丁寧形へ結びつくのかも説明されなくてはならない。[まいらす > まする

> ます]のような変遷過程に固有意味の褪色化(bleaching)、新しい意味の導入による意味の重層化(layering)、再分析(reanalysis)のような通時的なメカニズムが働くということはわかるが、具体的に「まいらす」が持っていると見られる固有意味素性のどの部分が色褪せるのか。意味の重層化をもたらす「新しい意味」とはどういうものなのか、そしてそれはどこから来るものなのか。このようなことが明らかにされなくてはならない。ここで、しばらく、観点を変えて、ある Xという語彙があるとしよう。

そして、この Xが丁寧形の「ます」のソースになるとした場合、Xから「ます」までもっとも無難な漸進的変化を可能にするような一連の条件を考えてみる。つまり、下に列記したような条件を満たすような Xがあれば、そのような Xこそがもっとも論理的かつ経済的なソースの候補になろうというものである。

(2) a. 発端になる Xが「ます」ともっとも近い意味的特性を持つ。b. 発端になる Xが「ます」ともっとも近い機能的特性を持つ。c. 発端になる Xが「ます」ともっとも近い音韻的特性を持つ。d. 発端になる Xが「ます」と同じ語用論的素性[+敬性]を備え持つ。

218 219第3部 敬語と礼儀の接点 第8章 敬語文法化の道程

はじめから、Xと丁寧形の「ます」がこのような意味的・機能的・音韻的・言語遂行的特性を共有しているとすれば(つまり、これは、Xと「ます」

が同一のものであることを意味するものであるが)、「ます」にいたる変化の経路が、飛躍のない、つまり、無理のないもっとも単純で緩やかな推移を可能にするであろう。それでは、上の(2)のような条件を満足させることができるような「ます」のソースを上代の日本語に求めることができるであろうか。まず、(i)「ます」が文に現れるのは、常に、聞き手が現前する会話の場

に限るということである。つまり、「ます」は本質的に「聞き手に何かを話す」という状況と切り離しては考えられない要素である。これには、聞き手が上位者であること、話し手がその上位者に「話しかける」こととの 2つを抽象することができる。次に、(ii)「ます」が助動詞であることに注意しよう。ある要素が助動詞の役割を果たすためには、それから区別される他の要素、つまり、助動詞「ます」に対する本動詞がなければならず、それを含む文(補文)が前提されなければならない。助動詞を必要とする文には必ず本動詞が用言になる項構造がなければならない。これは、「ます」を切り離しても、残りの部分が、活用を除くほかは、完全な文になることを意味する(たとえば、[[雨が降り]ます]の文で[雨が降り]の部分は一応丁寧の助動詞

「ます」からは独立している構文要素と見なされる)。ここで、(i)と(ii)を考え合わせると、Xは「陳述」という機能と関連性が深く、それも、特に、文の項構造からはある程度の独立性を保っている動詞類が考えられる。特に、この場合、聞き手が上位者であって語用論的な[+敬性]素性を持っているとしなければならないことを考慮に入れると、一応「言上する」のような動詞が考えられる。しかし、これは、いうまでもなく漢語が基になっていて音韻的条件を満たすことができない。そのほかに、もっとも可能性が高いものとして、「申し上げる」、または、単に「申す」を考えることができよう。いってみれば、「申す」は(3)の条件をほどよく備えているように見える。とりあえず、「申す」を Xに指定して、その語彙構造を調べてみよう。

(3)「申す」の語彙構造の特徴

a. 「申す」は発話・報告・言明の他動詞である。b. 「申す」は構文的に埋め込みの補文構造を持つ(「『……』と申す」のように」)。

c. 「申す」は「ます」とだけでなく「まいらす」との音韻的類似も著しい。

d. 「申す」は元来謙譲の動詞で上位者に「言上する」の意である。

「申す」が持つ(4a) ~ (4d)の意味構造の特性はすべて(3a) ~ (3d)の条件にそれぞれ対応し、それらを満足させていて、「ます」が「申す」から派生した可能性が高くなる。しかし、そうだとすると、「申す」に上のような「言上する」の意味のほかに下の(4b) (4c) (4e) (4f)などで見るように、「貴人に仕える」や「貴人を招待する」といった、「言上する」とは基本的に異なる意味素性が混在していて、「申す」が文法化して今日の「ます」のような丁寧形に変化したと簡単に結論付けることが難しくなる。

(4)「申す」(他 4)マオスの転[広辞苑(1969:2183)]a. 「言う」「告げる」の謙譲語(例:山城の筒城の宮に物申す)b. 請う、願う、所望する(例:つつみなく妻は待たせと我が皇神に幣奉り祈りまおして)

c. 政治を執り行って仕える、政事を執奏するd. 「~という名である」の尊敬語(例:くらつまろと申す翁)e. 貴人に対して行い奉る(例:風呂の奉行は申さぬぞ) f. 招待する(例:ヒトナンドニメシ〈飯〉ヲマウス)g. 「言う」を丁寧にいう語(例:これまでの不奉公の段々を申し聞かして) h. 動詞の連用形に添えて謙譲の意を表す(例:お話し申し上げる)

(4a) (4g)のような「言上」系の意味だけが文法化に関与し、そのほかの「非言上」系を疎外する文法化のメカニズムが何であるかが説明されなくてはならない。このような不都合をなくす 1つの方法は「申す」を同音異義(homo-phony)の語彙と見なすことである。これは、すでに、第 4章§4.4.2

220 221第3部 敬語と礼儀の接点 第8章 敬語文法化の道程

で詳しく論じたように、日本語の「申す」は 1つでなく互いに相容れない別々の「申す1」と「申す2」を認めることである。「申す1」は「言上する」の発言の助動詞、「申す2」は「何々して差し上げる」のサービスの助動詞と見る。要するに、丁寧の「ます」はもともとは「申す2」でなく、「xが上位者 yに zという内容のことを言上するまたは具申する」というときの陳述の謙譲語「申す1」であったと見るのである。そうすると、下に示すように、「申す1」から丁寧形「ます」への変化を合理的に説明することができる。

(5) a. [[話し手 xが上位者 yに[報告文 z]と申す1 ]b. [(話し手 xが上位者 yに)[報告文 z]と申す1 ](x, y項の消去)

c. [[報告文 z](と)申す1 ](接続詞「と」の脱落)d. [[報告文 z]申す1 ](「申す」から「ます」への移行)e. [[報告文 z]ます](報告文 zは連用形をとる)

陳述の謙譲の動詞「申す1」は(5b)から(5d)にいたる道程を経て(5e)のような丁寧形に変化している。(5)のような文法化過程には Dasherの分析(2)における派生上の難点がなく、1つの段階から次の段階への移行は単純な消去手続きによるもので、新しい構文を導入する必要のない経済性の高い分析といわれよう。そうすると、「申す1」は下の(6b)が示しているように、「ます」を取り去っても命題文[今雨が降っている]の内容に影響を与えることがないという文法的特性をも説明することができる。

(6) a. (私が)(田中先生に)[今雨が降っている]と申し上げる。b.          [今雨が降ってい]ます。

(7) a. 山田先生が明朝ロンドンへ[[tat]-are-ru]]b. 山田先生が明朝ロンドンへ [[o[tati]-ni-nar]u]c. [山田先生が明朝ロンドンへ[[o[tati]-ni-nar]i ]masu]

このことは、尊敬標識「る」や「になる」を取り去ると「尊敬形」が崩

れてしまう(7a)や(7b)と違って、時枝(1941)が主張する丁寧の広域スコープに従う(7c)では、助動詞「ます」の除去が命題文の中の尊敬形に豪も影響を与えることがなく、(7b)から(7c)への移行も文末形態素(終止形と連用形)の変換による枝葉的な現象であるということに対しても説明が容易になる。ここでは上のような考えを 1つの仮定的推論として提示するにとどめ、これに対する文献的検証は今後の大きな課題として残しておく。この節を閉じる前に、「お Vになる」と「お Vする」のような素材敬語規

則の発生について説明しておかなければならない。この 2つの規則様式は、他の語彙的敬語表現がそうであるように、たとえば、「いらっしゃる」「召し上がる」は、1つのメタファー的な飛躍によるものと考えられる。つまり、われわれが仮定するように、第 3章§3.3の労役対極化の原則 Bによると、実際の上位者の動作――移動はいうまでもなく、「寝る」こと、どこかに「所在する」ことまですべての上位者の動静は、「無造作な動き」として捉えるメタファーによって表されなければない。つまり、上位者のすべての動作を上位者自身の労力の関わらない「出来事」として表すしかないということであるが、このような「動作 → 出来事」のメタファー的変換にあつらえ向きの文法的表現としては、「受身」と「自発」の 2つが考えられる。「受身」においては、文の表面から動作主が持つ「主語」の役割を背景化(道具格に格下げする)させる代わりに、「直接・間接目的格」などの役割を当てられている「対象」を主語に取り立てる。「自発」は、いうまでもなく、ある出来事がおのずから現れるということであって、当初から「動作主」という役割が当てられていないもの、つまり、動作主概念に対する「無動作」の「対象」、または「目標物」などを主語に立てる文法の仕組みをいう。たとえば、「殿様」という上位者が文に与えられたとしよう。この上位者なる人物がどこかへ来臨・臨場するとしよう。これは話し手が処する状況によって下のようにいろいろな表現が採られる。

(8)[殿様]が来る。a. 来られる  (受身)b. いらっしゃる(所在「いる」と受身)

222 223第3部 敬語と礼儀の接点 第8章 敬語文法化の道程

c. お出でだ  (自発と動名詞化)d. お見えだ  (自動詞化と動名詞化)e. お成りだ  (自発と動名詞化) f. お越しだ  (自発と動名詞化)g. お出でになる(自発の動名詞化と自発の状態変化)h. お見えになる(自動詞化と動名詞化と自発の状態変化) i. お越しになる(自動詞化と動名詞化と自発の状態変化) j. お出でなさる(自発と動名詞化と「なさる」の受身自発化)k. お越しなさる(自発と動名詞化と「なさる」の受身自発化)

動作主である「殿様」の「主語」としての「動作性」がそれぞれ受身・自発などの文法様式でメタファー的に背景化、または、ゼロになっていることがわかる。「お出で」「お見え」「お成り」など動名詞化された表現が持つ共通性は上位者の「来る」という「動作性」を「おのずから出ずること」「上位者がすでにそこに来られているのが見えること」「お越しになって(飛躍的に越えて)下位者の眼前にすでにここにいられること」というふうに上位者の動作をゼロ化することによって自発的な表現に置き換えられているということである。これは、われわれの原則 Bの制約の具体的な隠喩表現であることを示す端的な証左である。さらに、(8j)と(8k)では、このような自発の動名詞がさらに半構文的にその自発動名詞が表す「状態に変わる」という「状態への変化」が「xになる」という自発生成表現によって過剰的にいやが上にも強化されている。(8h)の「お見え」は(8d)のそれと同じく「見える」がもとになっているが、これは、「見る」の自発形といえるもので、あるものを観察者が意思的にこちらから何かを仕掛けて見るのでなくて、そのあるものが観察者の視野の中に現れるという意味合いがあって、上位者の出現がすでに起こっていて、それが自然と下位者の目の中に入るというような状況を表していると見ることができ、なおさら、上位者側の動作の背景化が目立つ。歴史的には、(9)で見るような「お Vになる」・「お Vする」の元型が現れるのは 12世紀初頭(院政・鎌倉)で、まず、敬語の接頭辞が動詞に冠せら

れることから始まったようである(佐々木 1984:171;森野 1969:329)。

(9) a. [おん・お]+動詞の連用形 +なる・さす・さるる/あり (ある)

b. [ぎょ・ご]+動作性漢語名詞

様式(9)の「さす」は「する」の「す」による使役と見るよりも、自発をもとにした古代の尊敬の形態素「す」、または「し」と解すべきであろう(山田孝雄 1954a:230ff;吉田 1971:192;岩波古語辞典 1974:142;佐々木 1984:161)。そのほか、「なる・さす・さるる」を使った様式は中古語にすでに見られるところであるが、「お NVなさる」「お NVになる」様式は敬語の接頭辞付加による尊敬形動名詞「お NV」がまず現れ、その後それが(10)と(11)に見えるような自発性動詞と結合して新しい半構文的尊敬形を生み出したもののように見える。下のデータは佐々木(1984)から引用した「お Vになる」「お Vなさる」などの初期の用例である。

(10)a. 御ナリニケル(平家物語、二本・三十四オ)b. 御座ナシ奉ル(平家物語、二中・四十九ウ)c. 御留リ有テ(平家物語、二本・十三オ)4

(11)天草版平家物語からの例a. いづちへ御幸成るぞ(佐々木 1984:399)

b. おん忘れなれぬならば(同書 :97)

c. おとどめあるものから(同書 :185)

つまり、(10)の動名詞に「お・御」を冠する尊敬名詞化、さらに(11)で見るように、「なる・なさる」による「お・御 NV」の補語化へと進んだものと見られる。その間、[おん → お]の簡素化も起こったであろう5。

(12)「お」動名詞の形成

224 225第3部 敬語と礼儀の接点 第8章 敬語文法化の道程

a. おん・お(御)+ 普通名詞b. おん・お(御)+ 連用形による動名詞/動作性漢語名詞

(13)「お」動名詞の補語化a. [お NV]に+なる  → お NVになるb. [お NV]  +なさる → お NVなさる(ここでの NVは連用形の形をした動名詞)

もちろん、上のような過程より、「なす」動詞の形成とそれの「し・す」による尊敬語化が先行したであろう。また、上の(8a)の「来られる ko-

RARE-ru」や(8j)と(8h)の「なさる nas-AR-u」に見える尊敬の副語尾RAREや ARはもともと文法的な「自発・受身」の形態素であったものが、「動作主格の背景化」という機能的拡張を通じて「自発」の形態素になり、さらに、これがその「自発」の素性のゆえにメタファー的「敬性」の形態素になったものと解される。このように上位者の日常の基本的な(したがってもっとも頻繁に起こる)行為に関する尊敬表現は一つ一つの個別的な敬語の語彙の形でレキシコンに蓄えられていく。もとより、このような語彙化は無限に広げられるのでなく、大部分の敬語は、一般的な普通名詞を効果的に敬語化することができる生成規則も上の(12)や(13)のような経路を通じて徐々に形作られてきたものと考えられる。要するに、敬語化は一方では語彙化、もう一方では生産的な規則化によって発展してきたものと考える。それには、(12)で見るように、漢語系名詞か連用形と同形の動名詞かに接頭辞「おん・お」を冠して作る二様の敬語化がある。(13)は、(12)と違って、統語構文が介入していてより複雑な生成規則からなっている。これらは、(12)で形成された「おん・お」を冠する動名詞[おん・お NV]を自発動詞「なる」の動詞句に繰り入れられ、[おん・お NVになる]と助動詞「なさる」によって補語化され、やがては[おん・お NVなさる]のような半ば統語的構造を持つようになるが、これはこれまでは見られなかった特徴である。このような接頭辞「おん・お」による比較的単純な敬語化が漢字の導入で触発されたものであ

るか、または、以前にも日本語固有の敬語造形法であったかを判別できる資料はない。いずれにしろ、かつての日本人が「おのずからしかる」ものとして捉えた尊敬概念を古代中国の敬語標識である接頭辞「御」を援用することによって彼らの敬語法をより豊かなものに築き上げることができたのは確かであるといえよう。ここで、特に記しておきたいことは、山田孝雄(1954a:230);吉田(1971:

192);岩波古語辞典(1974:142);佐々木(1984:161)で見られる古代日本語の自発型尊敬形の出現と衰退が持つ意義である。文中における主語の上位者を上げて表現するために用言を連用形にしたものに尊敬の副語尾と呼ばれる4段活用の「す」または「し」を直結するこの方法は、しかし、平安期になるとその生産性を失って、語彙化した敬語にわずかその面影を残すばかりになるが、このような古代日本語の尊敬の助動詞「す」または「し」の衰退要因の 1つとして考えられることは、はからずも他動詞の「す」や使役の「す」などとその形が同形であったことから、文法上の葛藤を惹き起こし、そのような葛藤のさなかで、自発性の「す」や「し」が生き延びることができなっかたのではないかという可能性である。もしそうであるとすると、その結果として文法に尊敬形の規則的な生産性を補う後釜として接頭辞を用いた敬語の動名詞が現れ、ひいてはそのような敬語動名詞を擁する「お Vになる」や「お Vする」のような半ば統語的な構文の尊敬法への発展を促したものではないかとも考えられるのである。このような統語構文型の尊敬法は、高度に文法化された敬語を持っているとされる韓国語や、インドを含めて東南アジア系の言語には見られない現象である。どのような経緯で特に日本語に限って出現発展したかが原理的に説明されなくてならない。この章では古い日本語に見られる「す」の形をした同音異語間の文法的葛藤という面から、このような問いに対する答えを隠喩論の立場から暗示した。この問題に関しては、別稿、金(2010b)を参照されたい。ここで Dasherの表 1をもう一度振り返ってみよう。これには、類型

(type)、段階(stage)、範疇(category)という 3つのファクターが錯綜しているが、これは前述したように、文法化という普遍的なプロセスを考慮に入れての設定であるように見える。しかし、敬語の分類は表 1よりも、やは

226 227第3部 敬語と礼儀の接点 第8章 敬語文法化の道程

り、伝統的な三分法に立つ表 2ようなものでなければならないと思う。表 2は従来の敬語の分類法であって、分類の基準が敬語の類型と敬語の作

り方の 2つになっている。これに反して、上で見た Dasherの分類法には 3

つの基準からなっているばかりでなくこれらが相互依存的に関わっており、発展段階によりカテゴリーが次々と変えられていくという図式になっている。そうすると、いったん語彙化された「いらっしゃる」や「召し上がる」が第三の段階へ、「お NVになる」が第二の段階へ移っていって第三のカテゴリーに変わることを想定しなければならず、無理が生じる。表 1の図式が持つもっとも大きな問題点は、ある種の動詞が 1つのカテゴリーから他のカテゴリーへ変化していかないということに対して、原理的な説明ができなくなることである。たとえば、「お NVになる」や「お NVする」がなぜ第二ステージで第三のカテゴリーに変化していくことができないのかという問題が起こる。事実、この 2つの文法規則による敬語形は袋小路のような、いわゆる第二カテゴリーで終わってしまっているのである。伝統的な分類法を踏まえた表 2の長所は、類型とその作り方が完全に独立している部門であるということである。文法化のプロセスは尊敬形でも謙譲形でも、丁寧形でもそれぞれ独立して起こる。語彙化による敬語の形成は尊敬形だけでなく、謙譲形にも丁寧形にも共通に起こる。また、表 1では尊敬形の動詞が一般的に謙譲形へ、謙譲形から丁寧形へと変化する傾向を持っていることも考慮されていないのである。丁寧形の「です・ます」が表 1のすべての段階とカテゴ

表2:伝統的敬語の分類法

敬語動詞の選択と作り方すでに語彙化しているもの 規則的な文法様式によるもの

尊敬形 いらっしゃる;おっしゃる召し上がるくださる

おVになる (動作主非焦点化自発句構造)*おVなさる (動作主非焦点化自発句構造)Vられる (動作主非焦点化自発形態素)

謙譲形 申す1;申し上げる;伺う;存ずる参る;致す;お目にかかる差し上げる

おVする (動作強調句構造)おV致す (動作強調句構造)

丁寧形 ます;です;そうろう

注)* お Vの Vは動名詞。

リーをたどって変化しているのは、Dasherのいう主観化から間主観化過程を理論が予測するとおりに経由したからであるというよりも、上述したように、これらの丁寧形が他の動詞と違って、たまたま本質的にそのような経路をたどることを可能にした言語的素性――「申す1」の言語的素性――を備え持っていたからであると見なければならない。つまり、「申す1」は、(i)「上位者のために何かを報告する」という二項告知/報告の他動詞であること、(ii)謹んで報告するという謙譲機能が備わっているということ、(iii)報告する内容になる部分が補文の構造を持っていて「申す1」の補語になることができること、という 3つの特性を備え持っている。そうすると、「申す1」が持っている「謹んで報告する」の文の機能から単なる「謹んで報告する」を表す形態的な機能標識・マーカーへとごく自然な転化をたどることができたであろうし、これはさらに「謹んで差し上げる」への記号化、つまり、包装メタファーへの変化も無理なく進んだものと見ることができる。ここで付け加えておくことは、丁寧形が上位者への贈り物の包装メタファーであるという分析には、また、そのような贈り物、つまり、「言上される要件」が上位者の安寧と平和に資するものであるというもう 1つの理由によるものだといえる。上位者が下々の共同体の庇護を最善のものにするためには上位者が持つ情報源を恒常的にもっとも豊かなレベルに維持しておかなければならない。そのような要請を下位者は情報を贈るという形で上位者に奉仕するわけである。このようなメタファー的な考えからすると、上位者への「言上の贈呈物」は単なる「贈り物」でなく上位者の情報源をも豊かに維持すべく、インフォーメーションのアップデートとしての贈呈と見なすことができる。

8.2 Traugott & Dasher(2005)の「そうろう」の分析

Traugott & Dasher(2005)では、さらに、1章を設け、礼儀表現の歴史的変遷に関する「主語化・間主語化」の理論を英語の prayと please、日本語の「いただく」と「さぶらふ」を挙げて細部にわる分析を行っている。この節では、前近代語で盛んに使われた「さぶらふ」に対する彼らの分析に焦点

228 229第3部 敬語と礼儀の接点 第8章 敬語文法化の道程

を当てる。第一の段階で、「貴人のおそばにて仕える」の意の「さぶらふ」、または、より古い形の「さもらふ」が古代から中古までの日本語の時期に現れる。しかし、この期の「さぶらふ」には、「敬意の意味素性」は欠けるという意外な解釈を下していて、特に、注目を惹く6。第二期になると、「さぶらふ」は話者が「仕える」でなく、「上位者の周辺に居ること」を意味するようになるとし、これを対象敬語(referent honorific、本書での命題内敬語、つまり、素

材の敬語)のもとになるものとしている。この場合の主語は他の人物に対して下位であるということから、「対象敬語」は「謙譲形」と解される。中古(後期古代語)では、「さぶらふ」の意味内容には「無敬語としての伺候」と「敬語としての存在詞『いる』の重層 layering」が起こったものと解されている。これが、第三の段階に移ると、「さぶらふ」は「どこどこにいる」の意味に定着すると同時に話し手寄りの視点に立つ意味合いを含む聞き手向け敬語(addressee honorific、つまり、丁寧形)になる。動詞の意味に話し手寄りの視点が関わってくることを「主観化(subjectification)」という7。このような丁寧形の「さぶらふ」は 10世紀の文献に散見されるが、一般化するのは11世紀中葉以後のことであるとしている。

(14)「さぶらふ」の通時的推移(Traugott & Dasher 2005:6.5.1からのまとめ)

a. 第一段階([-敬性]の段階)b. 第二段階([+敬性]と[-敬性]の共存の段階)c. 第三段階([+敬性]と[-敬性]の機能的分離の段階)d. 第四段階([+敬性]だけの段階)(ただし、「敬性」は「敬意の素性」の略とする〈筆者〉)

「さぶらふ」の歴史的変遷に対する、このような Traugott & Dasher(2005)

の分析にはいくつかの点で容易に首肯できない点がある。まず、その 1つは、彼らのいう第一期の「さぶらふ」が敬語の意味を持たない動詞であるとする前提である。「さぶらふ」を wait on(「待つ」)とし、機会、条件、イベントの到来を待つこと、または、命令や召喚を特定の場所で待つことである

という。しかし、「さぶらふ」は、もともと謙譲の「伺候する」の意味を持つものであって、敬語の意味素性のない単なる「待つ」とは本質的に異なると見なければならない。たとえば、広辞苑(1998:1087)を見てみよう。「『候ふ・侍ふ』(自四)サモラウの転、じっとそばで見守り待機する意、『居り』、『有り』の謙譲語、(i)目上の人のそばに控える、(ii)目上の人のそばに近づく、参上する、(iii)品物などが目上の人の手もとにそなわる、(iv)『ある』『居る』の意を丁寧にいう語、(v)指定の『有り』の丁寧語、(vi)他の動詞や助動詞(『る』『らる』『す』『さす』などの連用形に付いて、丁寧の意を添える)」とある。広辞苑の定義に従うと、「じっとそばで見守り待機する」はバスや電車を待つの「待つ」とは本質的に違う性質の単語であることを認めなければならない。Traugott & Dasher は、敬意の意味素性のない第一期の「さぶらふ」の例として、日本国語大辞典から下のような文を引用している(同書 :264)。

(15)かせさもらふといふにかこつけて、ひさしくととまることつきをぞへぬ。(日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳)

上の例文は「彼/彼らが風を待つという口実で、(船出せずに)何ヵ月も経った(Having made the excuse, saying that(he / they)will wait for / on wind,

months pass)」、つまり、下線の部分を「風を待つ」と訳しているが、これは、しかし、「風がある」とすべきであろう。「さもらふ・さぶらふ」には「仕える」のほかに「あり」「をり」の丁寧語として「あります」「おります」「ございます」の意味があって(角川古語辞典 1981:538)、書紀に見える「集聚百済貢今来才伎於大嶋中、託称候風、淹留数月」の「候風」は「風があり候というにかこつけて」と訳すことができる。つまり、「強い風でござるということを口実に」と訳すべきではなかろうか。「風がある」ということは「海が時化る」のような意味合いの「強い風が吹く」であって、「風が吹いてくるのを待つ」のような意味ではなかろう8。さらに、Traugott & Dasher はこのときの「さもらふ」は『書紀』の編者と敬語関係のきっかけになる上位者が文中にないことから、敬語と見なされないという。しかし、この文のコ

230 231第3部 敬語と礼儀の接点 第8章 敬語文法化の道程

ンテクストから推すと(本章の注 3参照)、新羅の技術者募集の目的で弟君をからくに(韓国)に遣わせた雄略天皇が暗黙の「上位者」であり、弟君の口実は天皇に対する口実であることから「さもらふ」を単なる無敬語の「待つ」と同様に見るのは誤りといわなければならない。次に、Traugott & Dasher の「さぶらふ」の取り扱いで問題になるのは、

「さぶらふ」が第二段階で、はじめて敬語の語彙に転ずるという分析である。われわれが上で見たように、「さぶらふ」は彼らが第一期と見なすその出発点からすでに謙譲語であるばかりでなく、一歩進んで考えられることは、「さぶらふ」には丁寧形としての機能が、早くは平安期以前にすでに備わっていたふしがあるということである。その理由としては、「さぶらふ」が平安後期に、丁寧形として確立していた古語の丁寧語「はべる」(「ございます」のような用法の「さぶらふ」のこと)に取って代わるという史的事実である。もし「さぶらふ」に丁寧の機能がその時期に備わっていなかったとすれば、「はべる」との交替は不可能であったろう。もう 1つの理由は、上述したように、平安期の「さぶらふ」が「ある/いる」の丁寧語であったことである。たとえば、「おもてをふたぎてさぶらへど」(同書 :365)を現代語にすると、「顔を(袖で)ふさいでいましたが」となるが、このときの「いました」は「さぶらへど」の「さぶらふ」と同じく「存在の丁寧表現」に対応するといえる。さらに、「いました」は存在詞の「いる」と丁寧形の「ました」の複合形であるのと同じように、「さぶらふ」は深層的には「(いる)+さぶらふ」で、「いる」と「さぶらふ」の複合形であったと思われる。つまり、「おもてをふさぎて(い)さぶらふ」と解釈するわけである。後世になっての「でさう(で候)」も「である+候」、または、その約の「であり候」のような統合形もこの類であろう。要するに、平安期の「さぶらふ」は、Traugott & Dasher が見るように、その期にはじめて存在詞の素材敬語(referent honorific)になったのではなく、存在詞とともに丁寧の形態素(addressee honorific)として比較的安定した形になっていたと見るほうが合理的であると思われる。Traufott & Dasher らのいわゆる第一期の「さぶらふ」は、むしろ、彼らのいう第三期に当たるものと解釈すべきであり、したがって、いわゆる文法化過程における「主観化」もその時期にすでに具現されて

いたものと見るべきであろう。では、それ以前の「さぶらふ」は何であったかということが問題になるが、これについては第 4章§4.4.1ですでに取り扱ったところである。

1 本章では菊地(1997:380)にならって、対象敬語または素材の敬語を「話題の敬

語」、そして、非対象敬語または対者敬語を「対話の敬語」と呼ぶことにする。

2 「お NVになる」「お NVする」などの NVは Nominalized Verbの略で動名詞、つま

り動詞の連用形に当たる。本書では NVの代わりに Vをとって「お Vになる」「お V

する」として表してきたが、特にこの節では便宜上 Dasherが使っている NVをその

まま踏襲する。

3 この段における「まいらす」の意味に「give (humil.), also used as benefactive

auxiliary (humil.)」という項目が見えるが、例なし。

4 佐々木(1984)は、これら 3つの例文は山田孝雄(1954a)からの引用だとしてい

る。

5 広辞苑(1998:322)には「(おほ〈大〉の約。平安時代、限られた語の上に付い

た)尊敬する人に関係のある人に冠する」と出ている。岩波古語辞典(1974:234)

でも「おほ」は「数・量・質の大きく、すぐれていること」とされていて 1つの抽

象名詞として取り扱われている。「おほ」またはそれの縮約とされる「オオ」は「お

ほい」のように形容詞とされる一方、「おん」は接頭辞「オホム」の約とされ「御」

と付記されている。同辞典によると、御の「おん」は院政時代以後に現れた形。室

町以後は、書き言葉、荘重な話し言葉に使われ、日常会話にはこれに省略形である

「お」が使われたとされている。つまり、現代日本語の敬語の接頭辞「お」は形容詞

の「おほ・おお」と漢語由来の接頭辞「御」という 2つの源泉から 1つの形に融合

したものであることがわかる。ちなみに、南廣祐の教学古語辞典(1997:1111)には

온 onには、3つの語彙項目になっていて(i)は数詞の「百」を意味し、(ii)は「す

べて」、(iii)はまたㅎ・ㄴ(hʌn)とも読まれ「完全な」を意味するとしていて、日

本語の「おほ・おお」とは明らかな対応を見せている。

6 この章での日本語の時代区分は国語学会編『国語の歴史』に従う。上代(奈良

時代以前 710年まで)、中古(平安期 800~ 1100年)、中世(鎌倉・室町期 1100

~ 1600年)、近世(江戸期 1600~ 1870年)、現代(1870年以降)のことをいう。

232 第3部 敬語と礼儀の接点

Dasher(1995:98)では、平安期の日本語を後期古代語とし、鎌倉期(1100~ 1330

年)の日本語を前期中世語、室町期(1330~ 1600年)のそれを後期中世語として

いる。

7 たとえば、日本語では「メアリーはジョンに会いたい」を「メアリーはジョンに

会いたがっている」といわなければならないのはダイクシス(deixis)現象の一つと

いえる。Filmore(1975)や Levinson(1983)は敬語現象を社会的ダイクシスと規定

している。

8 この条は、新羅や百済の国に巧みな工人がたくさんいるということを聞いた天皇

が弟君(おとぎみ)を新羅に遣わす。そして、海を渡っていった弟君が百済の国で

多くの才伎を募集引率して現在の韓国の慶尚南道の南海島あたりに到着、そこから、

帰国の船に乗る段の話である(岩波書店刊・日本書紀(三)1994:48参照)。 序章から第 8章にかけて日本語の敬語現象に関していろいろな面を考察してきた。この章では、「上位者即タブー」という仮説によって、どのようなことが予測でき、明らかにできたかを総まとめのつもりでもう一度振り返ってみる。また、これまで説明が充分でなかったものとか、言い落としたり、言いそびれたりしたものもこの機会に補充しておきたい。

9.1 統一場の理論として

尊敬や謙譲表現で「お宅」「御旅行」「三郎さん」「皆様」「先生方」に見える「お」「御」「さん」「様」「方」などの接辞がなぜ付くかと訊いたら、どうしてそんなわかりきったことを訊くのかと、反問されるに違いない。この本では、このようなごく当たり前なことに対する問いを通じて、日本語の敬語に対するほとんど完璧に近いまでの従来の記述的研究成果を踏まえて、原理的な説明を可能にする新しいタイプの接近法を試みた。たとえば、上のような質問に対してこれをタブー対象に対する隔離の表

徴として解釈する。そして、このしるし(徴)は聖なるものを恭しく包んだり、それを取り扱うものが自身を清めたりする行いに現れるように、上位者の存在そのもの、その所在するところ、その所持品、付属品などを隔離の対象にし、上位者に差し出すものはいうまでもなく、上位者に向かっての発話自体までも素材文のスコープ全域に及ぶ「です・ます」のような包装様式、

第9章

総まとめ

234 235第3部 敬語と礼儀の接点 第9章 総まとめ

「申し上げる」に見えるような隠喩的言語様式によって具現される。また、尊敬の文法規則に「なる」や「られる」のような自発性動詞が現れるのは、タブーである上位者自ら手を下してはならない、すべては下位者が立ち回って上位者の安寧を図らなくてはならないという原則が働いているからだと見る。そうすると、上位者の行うすべての行為はおのずからそうなるもの、すなわち、上位者の動作主としての役割をゼロにする「上位者が~になる/~られる/~なさる」のような「隠喩的な自発」として表現されることになる。この場合、「~なさる」の nas-ar-uは他動詞ではあるが、自発・受身の助詞 arを通じて形態的に自発形にメタファー化しているとして捉える。そうすることによって、「お NVになる」「Vられる」とともに尊敬の自発メタファーとして数えることができる。一方、下位者の上位者に対するすべてのアクションは上位者への奉仕というふうに考えることができ、すべて下位者が上位者のため行うことは「働きかけ」の他動詞「する」によってなされ、これも「隠喩的奉仕」と見なされる。もっとも、「子供が迷惑をおかけした」のような場合、「かける」が上位者の福利に資するところでないことは明らかであるが、このような表現の背後には、身内のものの「粗忽な行い」という考えがあり、これにも結局は上位者の無限の慈悲によって、赦されるだろうとたかをくくる「甘え」が関わっており、それによって、逆説的に仕えるものへの絶対的服属、そして、その権威を揺るがないものにする「反奉仕」、または、「アンチ・サービス」とも呼ぶべき隠喩的概念が関わるものであると分析した。さらに、授受行為の面でも上位者は「永久なる債権者」であり、上位者の「贈与物」は「恩恵」として「上方から下方へくださるもの」であって、これまた「永遠の負債者」である下位者への贈呈という隠喩的な位相表現として捉えた。このように、「理想化された上位者はすなわちタブーの対象である」とする隠喩的前提の下に対者敬語(丁寧語)も素材敬語である尊敬形も謙譲形も、さらには、授受の敬語も、ひいては、使役、認定、裁可などの敬語――これは助動詞の介入による副次的な敬語体系であるが――までも、1つの、いうなれば、「統一場」の敬語として統括的に理論化ができることを示した。そして、それらの下位分野を支配する 1組の原則を設定し、それらが文に投影されて実際の発話文として実現するに当たって

の文法化指針ともいえる媒介的ガイドラインも併せて提示した。また、これらの原則が持つ特色はどれも 1対の相対的な陳述――上位者に

関するものと下位者に関するもの――で成り立っている点であるが、これは敬語の本質が上位者と下位者の相対的関係でのみ成り立つという特殊な言語表現であるということを如実に反映しているからだとした。

9.2 2つの次元――文法としての原則体系と語用論

第二は従来あまり問題にされなかったことであるが、敬語の表現における文法的規則と修辞的規則を区別し、それらがそれぞれ異なる原則によって支配されているということを明らかにした。下の文を見てみよう。

(1) a. すまないけど、その本花子にもちょっと見せてやってくれないこと?

b. その本花子にも見せてあげなさい。

上の(1a)(1b)の文は意味上はほぼ同じ内容のことをいっているが、(1a)の文は「あげる」のような謙譲語が使われていないにもかかわらず、「あげなさい」という尊敬形が用いられている(1b)よりはるかに丁寧に聞こえる。これを Brown & Levinsonの FTA (潜在的面子損傷行為)和らげ対策に照らして見てみよう。(1a)の話者も(1b)の話者もともに潜在的面子損傷行為(FTA)を行使していることになるが、前者では FTAの和らげ方が行き届いている。すなわち、(i)疑問文にする[和らげ法 2]、(ii)(所詮できないだろうこと)と悲観的に見る[和らげ法 3]、(iii)要求をなんでもないことのように瑣末視する[和らげ法 4]、(iv)前もって、失礼をあえてする旨を「すまないけど」で断ること[和らげ法 6]、(v)名詞化(nominalization)することによって事象を抽象化、一般化して角を立てないようにする[和らげ法 8]等である。ところが、一方、(1b)は文法的には立派な尊敬形であるが、FTAの観点から見ると、いかにも粗野で直截的な表現であって「和ら

236 237第3部 敬語と礼儀の接点 第9章 総まとめ

げ法 1」に違反している。これに比べると、(1a)は、敬語の文法形式が使われていない文である。面子理論からいうと、(1a)は礼儀正しい表現といえる半面、(1b)は粗野で礼儀の面では落ちるわけである。しかし、このような言語遂行論的な Brown & Levinsonの理論によっては、(1b)の表現が敬語形式的に見て完璧である事実を説明することができない。というよりも、はじめから、このような意味での敬語形式が理論の枠外に置かれているからであるといったほうがより正しいかもしれない。しかし、この枠外の(1b)こそが、日本語における礼儀表現、または、敬語の核心部をなすものである。このように見ると、ある文が丁寧であるということ(英語では politeに当た

るだろうか)と敬意が払われている(英語では honorificに当たろう)ということの間にはかなりの違いがあることがわかる。これは、また、礼儀という概念と敬語のそれとが異なる次元に属していることを暗示する。上の(1)を若干変えた(2)を見てみよう。この会話は、話者である嫁と、夫の弟との間のやりとりとする。

(2) a. ちょっと、健ちゃん、その本お祖父ちゃんにもちょっぴりお見せしてあげてくれないこと?

b. 健ちゃん、その本お祖父さんにもお見せして差し上げなさい。

上の(2a)と(2b)のような文は尊敬・謙譲の敬語法が複雑に錯綜しているが、丁寧形はまったく欠けている。Brown & Levinsonの理論では、(1a)

の「見せてあげて」のところが(2a)では「お見せして差し上げて」になっている理由が説明できないであろう。「お見せして差し上げる」のターゲットはもちろん「お祖父さん」である(それは夫の弟の観点からでもある)が、また、(夫の弟を通じて)同時に嫁の観点からでもあるというような、久野(1983)や Kuno(1987)のいう「カメラ・アングル」的要素が関わっている事情は Brown & Levinson 流の対象敬語(referent honorifics)の概念では把握しようのないものといえよう。これは、すでに第 5章と第 6章でも見たとおりで、労役の原則と恩恵移

動の原則によって、(1a)に対しても、そして、(1b)に対しても限られては

いるが、ある程度の説明ができる。まず、(1b)は、文法的メタファーとしての「なさる」を通じて動作主性の抑制が効いてはいるが、恩恵移動の原則 Dと使役特権の原則 Eの規制を犯していて、尊敬文としては度が落ちることになる。(1a)は、はじめから、聞き手が上位者でなく、敬語の文法形式はかからないが、本を見せる見せないは「健ちゃん」に決定権があって、力の関係からすると、子供の健ちゃんが実質的な権力を持つ――もちろんその場に限ってのことではあるが――「上位者」になるわけである。そうすると、その健ちゃんはほかから「見せてやれ」という命令を受けることになって使役特権の原則 Eに違反する結果になる。これには、奉納の規制や権利委譲の規制という条件があって、上位者が受け手になる場合は、「~してやる」という行為を「~してもらう・いただく」という下位者への贈与の形への置換が好まれる。上位者への命令を下位者への贈与の形に変換するわけである。そうすることによって、上位者が使役特権を侵されることなく、逆に恩恵の形で下位者に「してやる」というふうに、いわば、「権力の逆転」が起こることになる。また、「ちょっとだけ見せる」に現れている瑣末化の表現は、考えようによっては、上位者の「やる」という行為を極小化する労役の原則を守るためと見ることもできよう。この「ちょっとだけ」を Brown

& Levinson のいう瑣末化と見ることもできるし、本稿での労役の極小化と見ることもできよう。重要なのは、語用論的調整メカニズムを適用することによって上位者に対する下位者という垂直的礼儀関係だけでなく上下関係が目立たない水平的礼儀の場までも広く解釈できるという点である。厳格な敬語規則による文法領域を超えた語用論的領域においても上位者即タブー対象の仮説が有効である可能性を示している。

9.3 文法化のメカニズムと制約

第三は、敬語の文法形式は 1組の原理によって支配されているが、この原理が実際に文法に投射されるには媒介的な規制や条件が介入する。このような制約や条件を本書では文法化のガイドラインという形で導入した。たとえ

238 239第3部 敬語と礼儀の接点 第9章 総まとめ

ば、丁寧形には隔離の原理が働いているが、上位者の聞き手に話される発話文は内容が盛られる命題部とそのスコープ全体にかかる聞き手向けの提示部によって構成されるとする。命題部の構成要素になる品詞のうち、聞き手の権利領域に属する項は、すべて隔離を表す接頭辞、接尾辞等で表示されるようにする。具体的に体言要素には「お・御」「先生・様・さん・君」などを添付する。発話文の外装になる提示部には補助動詞「ます・です」を接続させる(前者の用言の動詞の連用形に後者を接続するというふうな具体的な規則に従うように規制される)。つまり、一般原理を具体化する文法規則がガイドラインによって設定されるものとした。尊敬形や謙譲形においてももそれぞれ具体的なガイドラインによって文法に具現されるものとした。

9.4 「非焦点化」の解釈――複数と受身と「ぼかし」と「にごし」の機能

第四に、日本語の敬語のタブー概念を基にした作業仮設から得たもう 1つの収穫は、世界の諸言語の礼儀表現の中で大きな役割を演じている「受身」「遠まわし」「ぼかし」のような現象に対する従来の考え方と根本的に異なる見方を提示した点である。日本語における複数表現、正確さを忌避する「概略化」などを下位者である話し手の陳述が上位者にとって脅威になる FTA

要素を極小化するストラテジーとして再解釈した。このようなアプローチによって、Brown & Levinson らが主張する礼儀現象の普遍性がけっして日本語と無縁でないということ示した。これらをもう少し詳しく見てみよう。

9.4.1 人称複数表現によるFTAの和らげと日本語の複数表現

複数形による二人称の代名詞が聞き手を崇める方策に使うのは、多くの言語に共通するところであるが、Brown & Levinsonは、[you+ respect][you

+ powerful][I+ powerful]などの解釈が可能な一人称と二人称の代名詞について言及している。要するに、相手なり、話者自身なりをそれが属する集団から特に選り出して焦点化することを回避する方策と見ている。そうする

ことによって、こちらの要求に対して相手が逃げ口上を作る余裕を与える一方、積極的面子保持の目的で、「王者の we」や、いわゆる「司祭の we」と呼ばれる権威的な一人称複数形が使われもする。特に、タミール語の namma

viiTTee(our house)の用法の nammaは、いわゆる内包的一人称複数と呼ばれるもので、話者が相手を自身の共同体のメンバーの一人に見立てて、すべてをともに享受するという意味合いを持つ表現であると分析されている。Brown & Levinsonが「王者の we」や「司祭の we」といっている概念が日本の平安時代のいわゆる自称敬語に匹敵する面があるようで興味深い。しかし、それよりも、日本語では、Brown & Levinsonが取り上げていない、一人称の「私ども」における複数形の謙譲形態素「ども」が特に注目に値する。この複数の「ども」は、必ずしも[I+ respect]でなく、[I+exaltation]に対立する[I+ humility / abasement]にその意味論的素性が認められなくてはならないということである。つまり、ここでの複数概念は、意味的に敷衍すれば、「わたくし」という個体は「それを束にしても上位者である貴方に匹敵できるようなものでない卑小な存在である」ということを闡せんめい

明する働きをしていると考えるのである。いうなれば、話し手、一個人だけでなく、「ども」が含意する話し手を含む集団全員が上位者の前で無条件の武装解除を表明するばかりでなく、それによって、上位者の権限の偉大さをいやが上にも確認するという含みをも持つ表現と見なさなければならない。複数化表現は、広く礼儀の普遍的表現法の 1つとみなされているが、日本語の場合の「私ども」に見えるような複数化は、Brown & Levinson がいっているような聞き手の権力の増加を意味するものでなく、下位者を複数化または「衆愚化」することによって、相対的に、複数化されているその集団の一員である話し手を「矮小化」するメタファー、すなわち、相手の持ち上げでなく、話し手のへりくだりの表現様式と見なされるべきで、前者の解釈とまったく逆になっていることが注目される。

9.4.2 「ぼかし」の方位表現/方角・位相の迂回表現

すでに第 3章§3.4.1の隔離の原則に関わる文法化指針の項で論じたよう

240 241第3部 敬語と礼儀の接点 第9章 総まとめ

に、タブーとしての上位者とその延長体がさまざまな物理的な標識によってほかから区別される一方、上位者は捉えがたい、幽玄な神秘的存在として認識され、それが現前する場所も漠然とした空間として表される。これを「ぼかし」の効果と規定した。このような現象は日本語の大きな特徴の一つになっていて枚挙にいとまがない。人称代名詞の「あなた」「そちら(の方)」「こちら(の方)」「あちら(の方)」「あの方」、特定の地点の「東京のほう」「当社のほうで」「オフィスのほう」、数量に関する「2時ごろ」「1時間ほど」「卵 3つぐらい」「このへんで(よろしいです)」等の敬語表現はもちろん「遠まわし、または、迂回表現(circumlocutions)」に違いないが、Brown

& Levinsonのいうような単なる遠隔化、または、疎遠化というものでなく、われわれのタブー仮説からすると、下位者の「自らの無知」の表明、すなわち、「私は何事もまともに正確に知っているものがなく、すべてはおおざっぱで用に立たない性質のもでございます。このような愚か者ですので、すべて上位者の『叡智』に頼ることしかなく、その叡智を恩恵として享けて、はじめて生存できるのです」とでもいえる原則 C、つまり、位相の原則の言語的投射、すなわち、顕れであると見る。上の「私ども」の「ども」が話し手の「矮小化」「衆愚化」を表現しているように、話し手の「無知化」表現によって、相対的に、上位者の絶対的な優越性、「全知的権能」を確認するメタファーであると見なした。

9.4.3 敬意表現に見える「自発」態の意義

受身が礼儀表現の重要な装置になっていることは、類型的に関係の疎いものも含めて、多くの言語で広く観察されているところである。英語がそうであるように、日本語でも受動形は敬語組織の中で重要な役割を果たしている。しかし、受身の形態的語彙または構文的な構造がなぜ敬語現象で特出した働きをするのかという問いに対する答えが必ずしも一様であるとはいえない。礼儀表現における受身の機能は、動作主の項役割を抑制する背景化によっ

て、話し手と相手との関係を疎遠にする、FTAの和らげ策の 1つであるなどと、多様な解釈がなされてきているが、動作主の項役割の抑制・背景化が

なぜこのような効果を生むようになるかという問題に対する根源的な解答はなされなかったと見る。この問題に対して、われわれは、第 4章で、日本語の敬語に見えるこのような言語表現を「自発」として特徴付け、上位者を労働から解放させるためのものであると解釈することによって、従来の考えとは根本的に異なる接近法を提唱した。さらに、このような動作主の役割の背景化による自発メタファーが特に尊敬形に根深く関与していることを示し、これを他動詞「する」によって動作主役割の極大化を図る謙譲形の生産様式とは極めて対蹠的であることも指摘した。

9.5 尊敬形構造における「なさる」の不整合性

尊敬の文法形式が、A型の「お Vになる」と B型の「Vられる」に見られる自発を表す構造になっていることが、われわれが本書で提案している動作主の役割抑圧の隠喩的表現としての尊敬法という考えを支える上で極めて意義ある現象であると見てきたが、Sells & Iida(1991)たちが C型尊敬形「お Vなさる」に自発概念とは相容れない「なさる」というコントロールの他動詞が関わっていて、他の尊敬形のパターンから本質的にかけ離れているという指摘に触れた。本書では、この問題について、C型尊敬形の「なさる」も隠喩的には「られる」のように自発性の様相を呈するという分析を行った。このように他動詞をメタファーでもって自発に見せかける動詞は、「する → なさる」のほかにも、「くだす → くださる」「教える → 教わる」などがあることを指摘することによって、「なさる」が自発動詞を要求する尊敬の文法形式に現れるのは偶然でないことを示した。

9.6 複合授受様式の設定と恩恵移動のタイポロジー

第五は、敬語における恩恵や上位者への贈与物の移動に関する事柄を一つの独立した下位範疇に収めたことを挙げることができる。一般的な敬語の分

242 243第3部 敬語と礼儀の接点 第9章 総まとめ

析では、「くださる」「(差し)あげる」「いただく」のような授受動詞または授受の助動詞は、尊敬や謙譲の文法形式の枠組み中で、構造上特別な地位が与えられることなく処理されている。しかし、授受動詞のこのような平面的な取り扱いは、恩恵・贈呈内容の移動に関わる重層的な起点と到着点を持つ構造を体系的に明らかにするには適さないと指摘した。第5章§5.1.4で観察した「利益の移動」の類型を想起されたい。

(3) a. 素材文の構造の中での語彙項目の間の移動。b. 素材文の構造の中での第二次複合授受構造内での移動。c. 素材文の構造の外の語用論的レベルにおける移動。

上のような考えは、山田孝雄(1922, 1924)の「絶対敬称」と「関係敬称」、そして、「絶対謹称」と「関係謹称」という下位分類法に沿っている。ここで、「関係敬称」というのは「くださる」のように、「尊敬すべき対象がその敬称の語を使用するものに対して起こす作用についていえるものと」とし、「関係謹称」は「いただく・あがる・伺う・あげる・差し上げる・進上する・参上する・頂戴する」などに見えるように、「謹称を用いるものの、尊敬すべきものの行動についていうものだ」としている。山田の「関係敬称」「関係謹称」を辻村敏樹は「関係上位主体語」「関係下位主体語」と呼んでいるが、両者が授受関係の敬語を他から分離しているのには、賛成であるが、われわれと異なる点は、これらの「関係語」の類型に第一次単純授受形式(語彙化されている授受動詞によるもの=「くださる」など)と第二次複合授受形式(生産的な文法規則によるもの=「てくださる」など)を類別していないことである。

9.7 「命令と授与」から「裁可と贈呈」への変換形式

原則 Cでいっているように、このような理想化された上位者は絶対的に自足的存在であるから、他の助けを必要としないものである。また、他から

何やかやと指図を受けたりもしない。したがって、上位者に対する命令が禁止される。また、上位者を債務者に回すことも禁じられる。しかし、現実はそうでなくこれらの「現実の上位者」もみな人の助けや物を受けながら生存するものたちである。この「理想」と「現実」の違いは原則 Cの文法化ガイドラインによって、嘆願形式を贈呈形式に変換することによるメタファーによって調整される。これを、下位者の権限の上位者への譲位または委託のメタファーとして特徴付けた。すなわち、「上位者に何かをしてやる」を「上位者に何かをやらせてもらう」の形に変換する。また、「上位者に何かをあげる」は「上位者になにかを差し上げる」になる。このような「命令と授与」から「使役と懇願」への変換は実は日本語の敬語の中でも中枢部をなすメカニズムであるのだが、これが、今までは原理的に分離摘出されずにいたといえる。日本語を母語とする話者が自動的に行っているこのような変換を本書では敬語体系の中で分離することができることを示し、かつ、それを敬語モジュールの重要な部分に定着することができることを示した。

9.8 文化的特殊性のパラメーター化

メタファーという視座から見た敬語体系は日本語の文法の一部として、厳格にはその 1つのモジュールとして捉えてきたわけだが、それを超える語用論とのインターフェイスは言語的礼儀、または、ポライトネスという形で現れる。特に、日本語では、ポライトネスといわれる現象の中にその大きな部分が文法によって規制されている言語ということもあって、敬語とポライトネスのインターフェイスは殊に重要な意義を持つ。本書では、日本語の言語的礼儀表現が個人主義的傾向の強い欧米の言語を基調としている普遍的なポライトネス理論からは一義的に解釈できないとする議論を「わきまえ」と「すみません」に焦点を絞って検討した。日本語においては、敬語は話者が自由に選択して駆使するようなものでな

く、社会の階層的なシステムに大きく規制されており、話者はそのような社会的規約を「わきまえ」として体得することが要請され、敬語の使用も「わ

244 245第3部 敬語と礼儀の接点 第9章 総まとめ

きまえ」によって厳格に律せられている。わきまえは敬語の運用に当たっての「作法」といえるものである。しかし、敬語のさまざまな文法的規則を運用する作法としての自律的な「わきまえ」とそれによって運用される文法的規則そのものは区別されなければならないであろう。なぜなら、「わきまえ」という認知装置が発動するのは、与えられた状況の下で話し手が適切な敬語のオプションを選び出し、そして、それをどのように発話文に適用するかを決定・執行する時点においてであるといえるからである。本書で特に問題にしているのは、この、前もって与えられている敬語表現の諸形式が拠って立つところの原理、これらの諸原則を特にそのような形で顕在化させる背後の仕組みがどのようになっているかを模索することである。「わきまえ」の概念と同じように、日本語の敬語が英語のような言語と異なる点の 1つとして、感謝表現の特異性を挙げることができよう。特に奇異に感じられるのは、「あやまり」の表現がよく感謝表現に使われるいう点である。この点については、Coulmas(1981)が深く掘り下げているが、要は、相手からもたらされる利益はこちらの負い目になることになり、その負担を是認しそれについて謝るのが、感謝表現になってしまうとしている。R. Ide

(1998)も実地の質問調査を通じて Coulmasの研究の裏付けを図っている。これに対して、われわれは「すみません」の表現が感謝表現になる場合、話し手が相手に労苦をさせてはならないという義務をおろかにした結果だと解釈する。いいかえれば、相手に恩を着ることは、こちらが上位者の労苦免除を保障すべき義務を怠ったからだという意識を反映するもので、話し手がそのことを謝るのだと分析した。「すみません」は、したがって、CoulmasやR. Ideらがいうような負債とか負担からのものでなく、われわれの仮定する労役対極化原則 Bを犯したことに対する「謝り」であるとする点、根本的な差異があることを示した。

9.9 加減調節の領域――修辞的表現の次元

敬語の対象は「目上の人」「上位者」であるが、これは、あくまでも理想

化された対象と見なされるべきであることを強調した。電車で隣り合わせに座った「おじさん」「2年先輩の木村さん」「山田先生のお嬢さん」などは話し手にとってみな「上位者」になるが、実質的にはわれわれが「上位者即タブー」で仮定しているような存在でないことはいうまでもない。敬語の体系の対象になる存在は上のような現実的な人たちとはかけ離れた絶対的な、自足する存在として規定した。言い換えれば、日本語の敬意語体系における「上位者」はすなわち「モデルとしての上位者」であった。「下宿のおかみさん」「窓口の銀行員」「デパートの従業員にとっての小学生のお上りさん」のように「上位者」といっても千差万別ではあるがそれらに使われる敬語は 1

組の体系でしかないということになる。これについては、序章で原則の対象はみな 1つの概念的なモデルとしての「上位者」であり、それに適用される敬語の装置も一式しかないが、適用に際しては、事情に応じて、「典型的な敬語」は他の装置によってさまざまに水増しされ、調整されるものであるとした。

(4) a. お話ししてください。b. お話ししてくださったらと思いますが……。c. お話しになっていただきたいのですが……。d. お話ししてもらえないでしょうか。e. お話ししてくださいませんか。

(5) a. してくれる?b. してくれること?c. してもらえる?d. してもえないだろうかe. してもらったらと思って…… f. してもらえたらと思って……g. してくれないもんだろうか

(4)と(5)に示されている丁寧度の差異は私たちが文法として扱ってい

246 247第3部 敬語と礼儀の接点 第9章 総まとめ

る敬語体系そのものの問題でなく、これらを調整する言語的装置はあくまでも、修辞法、または Brown & Levinson(1978, 1987)に見られるような語用論の問題であるということが強調された。

9.10 日本語文法のマイクロ・コズムとしての敬語

日本語の文法は、尊敬と謙譲の区分にやかましく、それを表すための簡単な標示として形態素、たとえば、丁寧の「お・御」のような接頭辞や「さん・様」のような接尾辞などを付けるほかに、生産的な文法では、述語動詞として象徴的な「する」や「なる」が用いられる。そればかりでなく、それぞれが補語をとる、半ば「構文的な構造」を持つようになっている。それに、そのような構造が、なんらの分析も許さない恣意的な語彙的に化石化した表現でなく、内部構造がすこぶる透明で、より深い分析を可能にしている点が注目される。実は、日本語のこの半構造的な形式こそが、比較的精妙な敬語組織を持っていることで知られているタイ語や韓国語の敬語組織から日本語のそれを大きく引き離している。敬語は文法の中の 1つの独立したモジュールのようになっているが、それ

自体に固有な文法的表現が用いられるのでなく、実質的な構成要素はみな核心文法から借りてきている。まず、基本的に「Sです」「Sます」「Vられる」「お NVなさる」「お NVになる」「お NVする」などの特殊な動詞句が用いられる。これを便宜上一次的な単純語法と呼んだ(Sは命題文を表す)。これを基に、二次的な複合敬語語法が作られる。授受動詞を根幹にするものとしては、[[お NVして]くださる][[お NVして]いただく][[お NVして]差し上げる][[お NVして]申し上げる]がある。これらをみな二重括弧で表したが、内側の括弧の部分は単純敬語であって、それを基に複合授受語法が被さっている。それに、「ます」が付くと、高次敬語といえるような複合敬語法が作られる。日本語の敬語を平面的なものでなく多階層的な立体的構造として捉えることによって、その本質をより透明に分析できることを示した。

このように独特な 1つの体系を形作っている敬語は日本語の文法体系の中でどのうような位置を占めているものだろうか。もちろん、敬語はあくまでも日本語の全体系の下位部分をなすのだが、このことは敬語の本質を追究するわれわれにとって、重要な意義を持つ。極端な言い方をすれば、およそ、それなくしては一言も発話できないほ

ど、敬語は日本語の日常言語表現のもっとも重要な成分になっている。なるほど、敬語を「敬語―対等語―軽卑語」の 3つの層として考えた場合、もっとも中立的な平叙文すらも、対等語として敬語表現の一形態と見ることができる。事実、二人称の「あなた、君」などと同じく、一人称の代名詞の「僕、私、俺」を簡単に中立的な表現だと断定できない意味合いがある。しかし、少なくとも、一人称と二人称の代名詞を除けば、敬語がゼロである中立的な文を考えることができないこともない。いずれにしろ、敬語が日本語の発話でいかに決定的な役割を演じているかがうかがえる。しかし、それにもかかわらず、敬語は、また周知のように、日本語の文法

体系の核心部でない周辺部の一分野をなしていることにも注意することが必要である。この点は、敬語がちょっと副助詞のように機能するということができる。それがなくても文の命題そのものの項構造を変えることがない。副助詞のほうは、文の焦点を変えることによって、違った意味合いを出すことになる。同じように、敬語の場合は、文の意味そのものに変化を来たすことはないが、語用論的には決定的な効果を出すことになる。したがって、敬語の文法体系は、意味の世界に関与することがない、いわば、日本語の文法体系の周辺部における 1つの現象に過ぎない。しかも、それ自体は、1組の規則を基にマイクロ・コズムとして完結した小体系として、1つの独立の領域を作っている点、日本語の敬語はその文法の全体系から見た場合、実に特異な領域の 1つといえる。

249第 10章 結びと展望――新しい型の解明的理論作りを目指して

日本語の敬語が今日のような体系を持つようになったのは近代になってからのことだといわれている。19世紀の後半から 21世紀初頭にわたる約 150

年間に起こった大きな社会的革命――明治維新による西欧化と、天皇の人間宣言、アメリカの大規模な前進兵站基地化から、新しい G4の日本へという躍進を経てきたが、グローバル規模で広がりつつある世界経済の不況、さらに東アジアに台頭しつつあるパワーバランスの変動、そしてそれにあおりをかけるような東日本巨大地震の余波など、日本が新たに取り組まなければならない問題も多い。それにつれて、日本の風土も人間も大きく変わってきている。日本語の敬語もこのような激動の流れの外に立つことはできない。社会階級の平等化に沿って敬語全般が平準化に向かっているのは否みがたいが、その反面、消費大衆向けの巨大型商業主義メディアの波に乗って、敬語がまた幸か不幸か 1つの王政復古を経験しているのも面白いパラドックスである。そういう日本語の敬語ではあるが、日本人の後裔たちが言語の博物館に眠る敬語の体系を見ながら、その昔こんな範疇の文法もあったのかと不思議に思う日もいつかはやってくるであろう。この本はそういう彼らのために日本語の敬語の今の姿をタイム・カプセルに収めるスナップショットのコレクションの一品目のようなものだと思ってもよい。この写真自体は焦点も絞りもいい加減で、露出も充分でなく、ピクセルもフィルムも印画紙もその質が低くあやふやなものではあるが、対象になっている当の日本語の敬語の姿だけは毅然としている。敬語はさながら、日本語の中でも文法の全体系からすれば一地方の小藩領のようなものではあるが、それ自体は精緻な組織を持

第10章

結びと展望――新しい型の解明的理論作りを目指して

つ 1つの独立した下位体系であって、いかにも小王国といった風貌があるのである。本書はいくつかの点で従来の敬語現象の取り扱い方から離別している。第

一は、敬語の体系を分類整理する記述的研究法による研究成果を踏まえた上で、それらを支配しているより根源的な原理の樹立を試みた点である。そして、そのような根源的な原理体系に 5つの原則が見分けられること、そして、これは敬語表現に表れる二価元体(dyad)の上位者と下位者を各々 1つのモデルに想定することによって可能になることを示した。第二は、敬語体系を支配する上のような 5つの原理が実は 1つのシステミックなメタファーの体系であるということをさまざまな資料で例示した。第三は、このような新しいアプローチによって今まで見過ごされてきた現象が明るみに出てきたが、また、今までの記述的な伝統文法で処理されてきた現象に対しても、より一貫性のある解釈を与えることができた。本書では紙面の関係で取り扱うことができなかったいくつかの問題は後日

に譲ることにした。日本語の枠を超えて他の言語資料で本論の仮定を検証してみたかった。われわれの作業仮説が高度に文法化した敬語組織を持つといわれている他の言語群、たとえば、タイ語、ジャワ語、タミール語、トルコ語などの言語にどの程度有効であるかを検証する機会がなかった。特に、日本語の旧い姿を秘めていると思われる琉球語の敬語はいうまでもなく、極東の辺境で言語地域学的には寄る辺のない天涯の孤児である日本語と奇跡的にそれに似通った文法を持っている唯一の言語とされる韓国語における敬語体系との比較研究までは、手が届かずじまいになり、これは今後の大きな課題として残しておく他なかった。そして、このような作業がある程度完成した暁には、より普遍的な礼儀現象というものと敬語といわれている文法装置を、より広い視野から理解することができるようになるであろう。

1986年オレゴン大学で開かれた the Pacific Linguistic Conferenceで日本語の敬語の形態素に関する小さな論文を発表した後、1988年にポートランド州立大学の筆者とリード大学の J. B. Havi1and教授とが共同で Conference on

Honorificsを主催したのがきっかけになって、専門の日本語と韓国語における否定構文や諸言語におけるWH疑問文、関係節構文、浮動数量詞句などとはかけ離れた分野の日本語の敬語現象にとりつかれて、20年の歳月があっという間に過ぎ去った。その間、特に、Sells & Iida (1991)が投じた 1つの例外事項の分析から始まった新しい考えを、影山・岸本編(2004)柴谷方良教授還暦記念論文集に書いたものにいろいろ手を加えて今の形にした。一応の脱稿は 2005年のことであるが、やむをえない事情、そして書き直し、書き足しなどで出版が延び延びになっていた。今回、明石書店の皆様方のご協力を得てようやく出版の運びとなった。まことに感無量である。この本の執筆中、とりわけ韓国語の敬語の仕組みが日本語の敬語の理解にいかに重要な意義を持つものであるかを痛感してきたが、それにつけても比較研究を通じて得た数多い予期しなかった観察資料をいろいろな制約で本書に盛ることができなかった点、遺憾ではあるが、これは本書の続編のような形で近々出版できればと願っている。

あとがき

253

((1)=(10))原則 A(隔離の原則)

⒤ 上位者とその延長体(身内、所有物、住居をはじめ、上位者の感情、思考などの抽象的な関係事項をも含む)は共同体の他の成員から隔離されなければならない。

ⅱ これによって、下位者である話者を含めた他の共同体の成員は上位者から自動的に区別される。

((2)=(11))原則 B(労役対極化の原則)

⒤ 上位者の労役はすべて免除されなけらばならない。ⅱ 下位者は上位者のための労役または奉仕を極大化しなければならない。

((3)=(12))原則 C(位相的枢軸の原則)

⒤ 上位者は常に上位または枢軸に位置する。上位者は何かを下賜し下命する。

ⅱ 下位者は上位者に何かを捧呈し参上する。ⅲ 上位者はすべての位相的次元において下位者より優越であることが保障・確認されなくてはならない。

((4)=(13))原則 D(恩恵移動の原則)

恩恵は常に下降運動である。⒤ 上位者は常に恩恵のやり手で始発点である。(施恵者)ⅱ 下位者は常に恩恵の受け手で到着点である。(受恵者)

付 録

※第 3章 71~ 72頁で取り上げているが、重要な原則なのでここに再 度収録する。

255254

((5)=(14))原則 E(使役特権の原則)

⒤ 上位者のみが常に使役したり、裁可したりする特権を有する。ⅱ 下位者は、使役・裁可の特権はなく、常に上位者によって、使役されるのみである。すなわち、上位者の使役権/決裁権は極大化する一方、下位者のそれは極小化しなければならない(これは原則 Bとは逆関係にある)。

ⅲ 下位者が上位者に対して命令者・債権者の立場に立つような場合は、下位者は上位者に自身の命令権、債権を委譲しなければならない。

Grammatical Encoding of Politeness: Systemic

Metaphorization in Japanese Honorifics

ABSTRACT

1. Politeness is encoded in grammar. In addition to polite interjections like

sir, madame, and your honor, English speakers also show their sociolinguistic

deference toward superiors or foreigners by using expressions like ‘(If you)

please, .....,’ and ‘I would like to...’ : these expressions are highly grammaticalized

in terms of subjunctive mood (would) and conditionals (if ~ then Clause).

Grammatically encoded politeness is often referred to as honorifics. In Asian

languages, such as Hindi, Tamil, Korean, and Japanese, the politeness-encoding

in grammar is more extensive and profound than that of Western languages.

Japanese is well known for the complexities of its system of honorifics. This book

proposes the hypothesis that Japanese honorifics are organized by a relatively

simple set of principles (1) and (2) below, where a superior is metaphorized as a

taboo entity.

(1) The Superior is sacred and is the source of power over, and benevolence

toward, the Subordinate. The Superior is a taboo entity.

(2) Five principles induced from (1):

a. The Superior is to be segregated. (Principle of Taboo)

b. The Superior is free from labor. (Principle of Waiver of Labor)

c. The Superior is found above the level of Subordinate. (Principle of

 Location)

d. The Superior bestows benevolence. (Principle of Benevolence)

e. The Superior alone issues commands. (Principle of Authority)

257参考文献256

2. In this hypothesis, the Superior is a model person in honorifics.

Metaphorically, the Superior is kept separate from the rest of the community.

Secular contamination is avoided by cleansing. Enveloping is one cleansing

ritual. Violations of taboo will result in consequences fatal to the well-being of the

Subordinate. The Superior is waived from labor, while the Subordinate serves

the Superior by maximizing labor. Topologically, the Superior occupies a higher

location with respect to the Subordinate’s place. The Subordinate’s movement

toward the Superior is upward, and the reverse is true when the Superior is

a provider. Note that, from premise (1), no energy-consuming movement is

possible for the Superior. Metaphorically, however, the Superior’s movement may

be interpreted as “emergence (with no involvement of effort).” The Superior is

a commander/benefactor/creditor, to whom the Subordinate is subservient. The

Subordinate cannot do a favor for the Superior, but the Subordinate petitions the

Superior to allow the former to do such favor-giving for the latter.

The honorific rules set in the system are analyzed in light of metaphorization

in each domain of Japanese honorifics, namely, Subject Honorification, (via

inchoation metaphors reflected in o-V-rareru/o-V-ni naru), Non-Subject

Honorification (via servitude metaphors as in o-V-suru/o-V-itasu), and Addressee

Honorification (via cleansing and enveloping metaphors as in ([.......V]-desu/-masu,

the scope of which ranges over the entire square-bracketed proposition).

3. The politeness metaphorization shown in this book offers a new perspective

of the honorific system of Japanese, and also produces some unexpected findings

in the field of comparative studies of Japanese and Korean. The metaphor-based

approach may be instrumental for typological investigations of grammatical-

encoding of politeness in general.

青山秀夫(1969a)「現代朝鮮語の敬語と敬語意識(1) 京畿道驪州邑における実態調査報告」『朝鮮学報』51,1-18.

――――(1969b)「現代朝鮮語の敬語と敬語意識(2) 京畿道驪州邑における実態調査報告」『朝鮮学報』52,1-28.

――――(1969c)「現代朝鮮語の敬語と敬語意識(3) 京畿道驪州邑における実態調査報告」『朝鮮学報』53,13-34.

穐田定樹(1976)『中古中世の敬』大阪:清文堂出版.荒木博之(1983)『やまとことばの人類学――日本語から日本人を考える』東京:朝日新聞社.

安秉禧(1981)「敬語の対照言語学的考察」森岡健二ほか編『講座日本語学 9 敬語史』東京:明治書院,88-113.

飯豊毅一(1981)「方言の敬語」『武蔵野文学』29 (12).池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学――言語と文化のタイポロジーへの試論』東京:大修館書店.

――――(2007)『日本語と日本語論』東京:筑摩書房.石坂正蔵(1969)『敬語――敬語史と現代敬語をつなぐもの』東京:講談社.――――(1978)「敬語的人称の概念」北原保雄編『論集日本語研究 9 敬語』東京:有精堂出版,965-980.

井出祥子(1992)「日本語のうちそと認知とわきまえの言語使用」『言語』16,26-31.――――(2006)『わきまえの語用論』東京:大修館書店.井出祥子ほか編(1986)『日本人とアメリカ人の敬語行動――大学生の場合』東京:南雲堂.

魏峰皓(2007)「『古事記』にみられる「賜」の文法化――中古漢語との比較を通して」 『人間社会学集録』3,107-129.

上原敏(2004)「日韓対照研究による敬語の文法化に関する一考察」佐藤滋ほか編『対照言語学の新展開』東京:ひつじ書房,257-277.

宇佐美まゆみ(2001)「ポライトネス理論から見た〈敬意表現〉――どこが根本的に異なるか」『月刊言語』30(12)(特集:〈敬意〉はどこからくるか――ポライトネスと敬意表現)東京:大修館書店,18-25.

参考文献

258 259参考文献

――――(2002)「ポライトネス理論の展開」『月刊言語』31 (1, 5, 7, 13),東京:大修館書店,18-25.

梅田博之(1974)「朝鮮語の敬語」林四郎・南不二男編『敬語講座 8 世界の敬語』東京:明治書院.

――――(1977)「朝鮮語における敬語」『岩波講座 日本語 4』東京:岩波書店.大石初太郎(1938)『現代敬語研究』東京:筑摩書房.――――(1975)『敬語』東京:筑摩書房.――――(1976)「待遇語の体系」『佐伯梅友博士喜寿記念国語学論叢』東京:表現社(北

原保雄編『論集日本語研究 9 敬語』東京:有精堂出版,129-142に再掲).――――(1977)「敬語の研究史」『岩波講座 日本語 4』東京:岩波書店.大江孝雄(1976)「大邱方言における半敬語について」『朝鮮学報』81 (24).大島建彦ほか編(1971)『日本を知る事典』東京:社会思想社.大野晋(1966)『日本語の年輪』東京:新潮社.――――(1978)『日本語の文法を考える』東京:岩波書店.大野晋ほか編(1974)『岩波古語辞典』東京:岩波書店.岡崎正男・小野塚裕視(2001)『文法におけるインターフェイス』東京:研究社.奥津敬一郎(1967)「自動詞化 ・他動詞化および対極化転形――自 ・他動詞対応」『国語

学』70,46-65.小倉進平(1929)『郷歌及び吏読の研究』京城帝国大学(『小倉進平博士著作集 1』所収).――――(1938)『朝鮮語に於ける謙譲法・尊敬法の助動詞』東洋文庫論叢 26,東洋文庫(『小倉進平博士著作集 2』所収).

沢瀉久孝ほか編(1967)『時代別国語大辞典』全 6巻,東京:三省堂.影山太郎(1993) 『文法と語形成』東京:ひつじ書房.――――(1996)『動詞意味論――言語と認知の接点』東京:くろしお出版.――――(1999)『形態論と意味』東京:くろしお出版.――――(2000)『自他交代の意味的メカニズム』東京:ひつじ書房,33-70.――――(2001a)「非対格構造の他動詞――意味と統語のインターフェイス」伊藤たかね

編『シリーズ言語科学 第 1巻 レキシコンと統語の接点』東京:東京大学出版会.――――(2001b)『日英対照――動詞の意味と構文』東京:大修館書店.影山太郎・岸本秀樹編(2004)『日本語の分析と言語類型――柴谷方良教授還暦記念論文集』東京:くろしお出版.

春日和夫(1992)「古代の敬語Ⅰ」辻村敏樹編『講座国語史 5 敬語史』東京:大修館書店.

加藤淳(2008)「現代日本語の認証システムと待遇表現」名古屋大学修士論文.加藤正信(1974)「全国方言の敬語外観」林四郎・南不二男編『敬語講座 6 現代の敬語』

東京:明治書院.角岡賢一(2008)「日本語における和語起源の一拍接頭辞について」『龍谷大学国際セン

ター研究年報』 17,49-71.川端康成(1957)『山の音』東京:新潮社.菊地康人(1980)「上下待遇表現の研究」『国語学』39-50.――――(1997)『敬語』東京:講談社.菊地康人編(2003)『朝倉日本語講座 8 敬語』東京:朝倉書店.岸本秀樹(2002)「日本語の存在、所有文の文法関係について」伊藤たかね編『文法理論――レキシコンと統語』東京:東京大学出版会.

北川善久・上山あゆみ(2004)『生成文法の考え方』東京:研究社.北原保雄(1978)「敬語の構文論的考察――詞の敬語法とそのアスペクト」北原保雄編『論集日本語研究 9 敬語』東京:有精堂出版,147-165.

金思燁(1974)『古代朝鮮語と日本語』東京:講談社.金顕玉(2004)「日本語の敬語体系の原則とメタ言語的文法化」影山太郎・岸本秀樹編『日本語の分析と言語類型――柴谷方良教授還暦記念論文集』東京:くろしお出版,25-46.

김현옥(金顕玉)(2010a)「일본어 공손법 <desu/masu> 의 기원에 대하여:새로운 은유화이론의 시각에서」정성여・이정민편『한국언어학 최전선』서울:탑 출판사[キム・ヒョンオク「日本語丁寧形『です・ます』の起源について――新しい隠喩理論の視角から」鄭聖汝・李廷珉編『韓国語研究の新地平』ソウル:太学社]227-283.

金顕玉(2010b)「奈良朝古語の尊敬接尾語『賜』の消滅をめぐって――敬語の文法化に及ぼした通時的余波」国立国語研究所サロン研究会口頭発表論文.

金水敏(1984)「てにをはの敬語法」鈴木一彦・林巨樹編『研究資料日本文法 敬語法編』東京:明治書院,102-126.

――――(1994)「連体修飾の『た』について」田窪行則編『日本語の名詞修飾表現」東京:くろしお出版,26-65.

――――(1995)「敬語と人称表現――視点との関連から」『國文學 解釈と教材の研究』40 (114),学燈社,62-66.

金水敏・田窪行則(1998)「談話管理理論に基づく『よ』『わ』『よね』の研究」堂下修司ほか編『音声による人間と機械の対話』東京:オーム社,257-271.

金田一京助(1941)「女性語と敬語」『国語研究』東京:八雲書林.――――(1951)「敬語法上の一つの問題――目的格への敬称」『日本文学論究』國學院大

學国文学会.―――― (1959) 『日本の敬語』 東京:角川書店.金田一春彦(1988)『新版 日本語 上・下』東京:岩波書店.

260 261参考文献

串田英也(2006)『相互行為秩序と会話分析――「話し手」と「共‐成員性」をめぐる参加の組織化』東京:世界思想社.

久野暲(1983)『新日本文法研究』東京:大修館書店.熊取谷哲夫(1988)「発話行為理論――談話行動から見た日本語の詫びと感謝」『広島大学教育学部紀要』2 (37),223-234.

小路一光(1980)『万葉集助動詞の研究』東京:明治書院.河野六郎(1952)「朝鮮語」市河三喜・服部四郎編『世界言語概説 下巻』東京:研究社,

400-412.――――(1971)「朝鮮語の膠着性について」『言語学論叢』11(熊沢竜先生古希記念特集号),東京教育大学言語学研究会,49-56.

国語学会編(1951)『改訂 国語の歴史』東京:刀江書院.国立国語研究所編(2006)『言語行動における「配慮」の諸相』東京:くろしお出版.小松寿雄(1967)「お…するの成立」『国語と国文学』44 (4),93-102.

――――(1968)「『お…する』『お…いたす』『お…申し上げる』の用法」『近代語研究』2,313-328.

近藤泰弘(1984)「用言の敬語」鈴木一彦・林巨樹編『研究資料日本文法 9 敬語法編』東京:明治書院,78-88.

斎藤正二(1971)「日本人のこころ」大島建彦ほか編『日本を知る事典』東京:社会思想社.

坂本太郎ほか編(1995)『日本書紀(三)』東京:岩波書店.佐々木峻(1984)「敬語の変遷」鈴木一彦・林巨樹編『研究資料日本文法 9 敬語法編』

東京:明治書院,153-196.佐藤喜好(1962)『日本語の要説 古語編』東京:日本書院.佐藤謙三校注(1992)『平家物語 上・下』東京:角川書店.佐藤信夫(1993)『レトリックの記号論』東京:講談社.尚学図書編(1989)『日本方言大辞典』東京:小学館.新村出編(1969/1998)『広辞苑』東京:岩波書店.鈴木一彦(1976)『日本文法本質論』東京:明治書院.鈴木一彦・林巨樹編(1984)『研究資料日本文法 9 敬語法編』東京:明治書院.鈴木睦(1997)「日本教育における丁寧体世界と普通体世界」田窪行則編『視点と言語行

動』東京:くろしお出版.滝浦真人(2005)『日本の敬語論――ポライトネス理論からの再検討』大修館書店.――――(2008)『ポライトネス入門』東京:研究社.谷口一美(2003a)「類似性と共起性――メタファー写像、アナロジー、プライマリーメタファーをめぐって」『日本認知言語学会論文集 第 3巻』.

――――(2003b)『認知意味論の新展開』東京:研究社.鄭聖汝(2006)『韓日使役構文の機能的類型論研究――動詞基盤の文法から名詞基盤の文

法へ』東京:くろしお出版.築島裕(1982)「尊敬語タマフの系譜」『武蔵野文学』29,東京:武蔵野書院,14-20.辻村敏樹(1961)「敬語史の方法と問題」辻村敏樹編『講座国語史 5 敬語史』東京:大修館書店.

――――(1963)「敬語の分類について」『国文学言語と文芸』5 (2),東京:明治書院.――――(1967)『現代の敬語』東京:共文社.――――(1968)『敬語の史的研究』東京:東京堂.――――(1992)『敬語論考』東京:明治書院.  辻村裕(1981)「敬語意識史」森岡健二ほか編『講座日本語学 9 敬語史』東京:明治書

院,26-42.辻幸男編(2001)『ことばの認知科学事典』東京:大修館書店.土橋寛(1990)『日本語に探る古代信仰』東京:中央公論社.角田太作(1990)「所有者敬語と所有傾斜」土田滋ほか編『文法と意味の間』東京:くろしお出版,15-27.

寺村秀夫(1976)「『ナル』表現と『スル』表現――日英『たい』表現の比較」『寺村秀夫論文集Ⅱ 言語学 日本語教育篇』東京:くろしお出版,213-232.

土居健郎(1971)『「甘え」の構造』東京:弘文堂.藤堂明保(1974)「中国語」林四郎・南不二男編『敬語講座 8 世界の敬語』東京:明治

書院,145-146.時枝誠記(1938)「場面と敬辞法との機能的関係について」鈴木一彦・林巨樹編『研究資料日本文法 9 敬語法編』東京:明治書院,272-295(『国語と国文学』1938年 6月号からの再掲載).

――――(1941)『国語学原論』東京:岩波書店.中川越(1994)『完全手紙書き方事典』東京:講談社.中田紀夫ほか編(1983)『小学館古語大辞典』東京:小学館.中西泰洋(1993)「文末詞の待遇的な機能についての一考察」『神戸大学留学生センター紀要』1.

中根千枝(1972)『適応の条件』東京:講談社.中村幸彦ほか編(1982)『角川古語大事典』東京:角川書店.夏目漱石(1950)『坊っちゃん』東京:新潮社.鍋島弘治朗(2011)『日本語のメタファー』東京:くろしお出版.南廣祐(1997)『教学古語辞典』ソウル:教学社.西田直敏(1987)『国語学叢書 13 敬語』東京:東京堂.

262 263参考文献

西宮一民(1981)「上代敬語と現代敬語」林四郎・南不二男編『敬語講座 6 現代の敬語』東京:明治書院,114-138.

西村美樹(2002)『シリーズ言語科学 2 認知言語学Ⅰ 事象構造』東京:東京大学出版会,285-311.

日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編(2001)『日本国語大辞典 第 2版 第 12巻』東京:小学館.

橋本進吉(1969)『助詞助動詞の研究』東京:岩波書店.林四郎・南不二男編(1981)『敬語講座 6 現代の敬語』東京:明治書院.韓美卿(1982)「韓国語の敬語の用法」森岡健二ほか編『講座日本語学 12 外国語との対照Ⅲ』東京:明治書院,185-198.

久松潜一編(1981)『角川古語辞典』東京:角川書店.藤井茂利(1984)「上代日本の補助動詞『賜・給』の表記」鹿児島大学法文学部紀要『人

文学科論集』17,171-201.――――(1994)「万葉集と郷歌の用字『賜』と『給う』の表記から」『和歌文学論集 うたの発生と万葉和歌』東京:風間書房.

――――(1996)『古代日本語の表記法研究』東京:近代文芸社.彭国躍(2000)『近代中国語の敬語システム――「陰陽」文化認知モデル』東京:白帝社.ホイットマン,ウォルト[飯野友幸訳](2007)『おれにはアメリカの歌声が聴こえる――

草の葉(抄)』東京:光文社.穂積陳重(1926)『実名敬避俗研究』東京:刀江書院.堀素子ほか編(2006)『ポライトネスと英語教育』東京:ひつじ書房.松尾捨治郎(1936)『国語文法論攷』東京:文学社.――――(1978)「敬語法」北原保雄編『論集日本語研究 9 敬語』東京:有精堂出版,

41-84.松下大三郎(1924)『標準日本文法』東京:勉誠社.――――(1978)「敬語の体系」北原保雄編『論集日本語研究 9 敬語』東京 :有精堂出版.

松村明編(1988)『大辞林』東京:三省堂.馬渕和夫(1971)「『三国史記』『三国遺事』にあらわれた古代朝鮮の用字法」『言語学論

叢』11(熊沢竜先生古希記念特集号),東京教育大学言語学研究会.丸山林平ほか編(1967)『上代語辞典』東京:明治書院.南不二男(1981)「言葉のタブー――言いかえ・言い控」林四郎・南不二男編『敬語講座

6 現代の敬語』東京:明治書院,43-61.南不二男(1987)『敬語』東京:岩波書店.宮地幸一(1980)『ます源流考』東京:桜楓社.

宮地裕(1971)「現代の敬語」辻村敏樹編『講座国語史 5 敬語史』東京:大修館書店,377-402.

――――(1981)「敬語意識史――敬語史における敬と卑、親と疎、公と私」森岡健二ほか編『講座日本語学 9 敬語史』東京:明治書院,1-25.

森野宗明(1969)「謙譲の助動詞」松村明編『古典語・現代語助詞助動詞詳説』東京:学燈社,32-64.

森山由紀子(1990)「謙譲語成立の条件――「謙譲」の意味をさぐる試みとして」『奈良女子大学文学部研究年報』33.

――――(1998/1999)「古事記の補助動詞「―タマフ」の用法――敬語補助動詞としての文法化の一過程 上・下」『国語語彙史の研究』17,大阪:和泉書院.

山崎良孝(1965)『日本語の文法機能に関する体系的研究』東京:風間書院.山田孝雄(1922)『日本文法講義』東京:宝文館.――――(1924)『敬語法の研究』東京:宝文館.――――(1954a)『奈良朝文法史』東京:宝文館.――――(1954b)『平家物語の語法』東京:宝文館.山田達也(1986)「方言と敬語」飯田毅一ほか編『講座方言学I 方言概説』東京:図書

刊行会.山田俊雄ほか編(1965)『新潮国語辞典』東京:新潮社.吉田金彦(1971)『現代語助動詞の史的研究』東京:明治書院.吉野政治(1998)「古事記の補助動詞タマフの通時的位置について」『国語語彙史の研究』

17,大阪:和泉書院.ロドリゲス[土井忠生訳注](1955)『日本大文典』東京:三省堂.和田義一(1971)「古事記に於ける敬語補助動詞」『古事記年報』14.和辻哲郎(1952)『日本倫理思想史 上』東京:岩波書店.

Alexander, Jeffrey C. (ed.) (1988) Durkheimian sociology: cultural studies. Cambridge:

Cambridge University Press.

Austin, J. L. (1962) How to do things with words. Cambridge, MA: Harvard University Press.

Benedict, Ruth (1989/c1946) The chrysanthemum and the sword: patterns of Japanese culture.

Boston: Houghton Mifflin.

Blum-Kulka, Shoshana, Juliane House and Grabrieke Kasper (eds.) (1989) Cross-cultural

pragmatics: requests and apologies. Norwood, NJ: Ablex. 123-154.

Boyle, Mary Patricia (1991) Variation in levels of language: a study of politeness patterns in

Japanese. Ph.D. Dissertation. University of Southern California.

Brown, Penelope and Stephen C. Levinson (1978) Universals in language usage: politeness

264 265参考文献

phenomena. In E. N. Goody (ed.) Questions and politeness: strategies in social interaction.

Cambridge: Cambridge University Press. 56-324.

―――― (1978/1987) Politeness: some universals in language usage. Cambridge: Cambridge

University Press.

Bybee, Joan L. (1983) Diagrammatic iconicity in stem-inflection relations. In John Haiman (ed.)

Iconicity in syntax. Amsterdam: John Benjamins. 11-47.

―――― (1985) Morphology. Amsterdam: John Benjamins.

Chamberlain, Basil H. (1888) A handbook of colloquial Japanese. London: Trubner.

Chapman, Siobhan (1996) Some observations on metalinguistic negation. Journal of Linguistics

32. 387-402.

Cole, Peter and Jerry Morgan (eds.) (1975) Syntax and semantics 3: speech acts. London:

Academic Press.

Comrie, Bernard (1976) Linguistic politeness axes: speaker-addressee, speaker-referent,

speaker-bystander. Pragmatics Microfische 1.7: A3. Department of Linguistics, University

of Cambridge.

Consta, R. (1975) A functional solution for illogical reflexives in Italian. In R. E. Grossman et al.

(eds.) Papers from the parasession on functio nalism. Chicago: Chicago Linguistic Society.

112-125.

Cook, Haruko Minegishi (1997) The role of the Japanese masu form in caregiver-child

conversation. Journal of Pragmatics 28. 695-718.

Coulmas, Florian (1981) “Poison to your soul”: thanks and apologies contrastively viewed.

In Conversational Routine: explorations in standardized communication situations and

prepatterned speech, ed. by Florian Coulmas. The Hague: Mouton Publishers.

Coulmas, Florian (ed.) (1981) Conversational routine: explorations in standardized

communication situations and prepatterned speech. The Hague: Mouton.

Dasher, Richard (1982) The semantic development of honorific expressions in Japanese. Papers

in Linguistics 15 (3). 217-228.

―――― (1995) Grammaticalization in the system of Japanese predicate honorificis. Ph.D.

Dissertation, Stanford University.

Diamond, Jared (1998) Japanese origins. Discover 19 (6). 86-95.

Dixon, R. M. W. (1972) The Dyirbal language of North Queensland. Cambridge Studies in

Linguistics 8. Cambridge.

Doborovol’skij, Dmitrij and Elizabeth Piirainen (2005) Figurative language: cross-cultural and

cross-linguistic perspectives. Amsterdam: Elsevier, B.V.

Dubinsky, S. (1997) Predicate union and the syntax of Japanese passives. Journal of Linguistics

33. 1-37.

Du Bois, J. A. (1985) Competing motivations. In John Haiman (ed.) Iconicity in syntax.

Amsterdam: John Benjamins. 343-366.

Dunn, Cynthia Dickel (2005) Pragmatic functions of humble forms in Japanese ceremonial

discourse. Journal of Linguistic Anthropology 15 (2). 218-238.

Durkheim, Emile (1915) Durkheim, The elementary forms of religious life (1912, English

translation by Joseph Swain: 1915). The Free Press, 1965; new translation by Karen E.

Fields 1995.Eelen, Gino (1999) Politeness and ideology: a critical review, Pragmatics 9 (1). 163-173.

―――― (2001) A critique of politeness theories. Manchester: St. Jerome.

Fauconnier, Gilles (1997) Mappings in thought and language. Cambridge: Cambridge University

Press.

Fauconnier, Gilles and Mark Turner (1996) Blending as a central process of grammar. In Adele

E. Goldberg (ed.) Conceptual structure, discourse and language. Stanford: CSLI Publications.

―――― (2002) The way we think. New York: Basic Books.

Fillmore, Charles J. (1971) Toward a theory of deixis. Working Papers in Linguistics 3 (4).

Honolulu: University of Hawaii Press. 219-242.

―――― (1975) Santa Cruz lectures on deixis 1971. Mimeo. Indiana University Linguistics

Club.

Frazer, James G. (1890) The golden bough: a study in magic and religion. Robert Frazer (ed.)

Oxford world’s classics.

Freud, Sigmund (1938) Totem and Taboo. In Sigmund Freud, The Basic writings of Sigmund

Freud (translated and edited, with an introduction by Dr. A. A. Brill. New York: The

Modern Library). Random House, Inc.

Fukada, Atsushi and Noriko Asato (2004) Universal politeness theory: application to the use of

Japanese honorifics. Journal of Pragmatics 36. 1991-2002.

Fukushima, Saeko (2000) Requests and culture: politeness in British English and Japanese. Bern:

Peter Lang.

Geary, James (2012) I is an other: the secret life of metaphor and how it shapes the we see the world.

New York: Harper Perennial.

Goffman, Ervin (1955) On face work: an analysis of ritual elements in social interaction.

Psychiatry 18. 213-231.

―――― (1967) Interaction ritual: essays on face to face behavior. New York: Anchor.

Grady, Joseph (1997) Foundations of meaning: primary metaphors and primary scenes. Ph.D.

Dissertation. Department of Linguistics, University of California at Berkeley.

266 267参考文献

Grice, H. P. (1975) Logic and conversation. In Peter Cole and Jerry L. Morgan (eds.) Syntax and

semantics Vol. 3. speech acts. New York: Academic Press. 41-58.

Gumpertz, John J. (1987) Forward. In Penelope Brown and Stephen C. Levinson. Politeness:

some universals in language usage. Cambridge: Cambridge University Press. xiii-xiv.

Habermas, Jürgen (1982). Gōrisei no yukue: kyōikukaikaku, shin-hosyusyugi, seikatsusekai

(The future of rationality: reformation of education, the new conservatism, and life world)

(Interview). Shisō 6. 54-85.

―――― (1991) The structural transformation of the public sphere: an inquiry into a category of

bourgeois society. trans. by Thomas Burger. Cambridge, MA: MIT Press.

Haiman, John (1985) Iconicity in syntax. Amsterdam: John Benjamins.

Halliday, M. A. K. (1994/1985) Introduction to functional grammar. the second edition. London:

Arnold.

―――― (1996) On grammar and grammatics. In Ruqaiya Hasan et al. (eds.) Functional

descriptions. theory in practice. Amsterdam: John Benjamins. 1-38.

Hamano, Shoko (1988) ‘Service activities’ and ‘non-service activities’ in Japanese grammar.

Paper presented at the Honorifics Conference at Portland State University and Reed

College.

―――― (1993) Nonsubject honorification: a pragmatic analysis. Journal of Japanese Linguistics

15. 83-111.

Hanaoka-McGloin, Naomi (1976) Negation. In Masayoshi Shibatani (ed.) Syntax and semantics 5.

Japanese generative grammar. New York: Academic Press. 371-419.

Harada, S. I. (1976) Honorifics. In Masayoshi. Shibatani (ed.) Syntax and semantics 5. Japanese

generative grammar. New York: Academic Press. 488-561.

Haugh, Michael and Yasuko Obana (2011) Politeness in Japan. In Dániel Kádár and Sara Mills

(eds.) Politeness in East Asia. Cambridge: Cambridge University Press. 125-146, 147-175.

Heine, Bernd, Ulrike Claudi, and Freiderike Huenemeyer (eds.) (1991) Grammaticalization: a

conceptural framework. Chicago and London: The University of Chicago Press.

Hendry, Joy (1993) Wrapping culture: politeness, presentation, and power in Japan and other

societies. Oxford: Oxford University Press.

Hill, Beverly, Sachiko Ide, Akira Ikuta, Akiko Kawasaki, and Tsunao Ogino (1989) Universals of

linguistic politeness: quantitative evidence from Japanese and American English. Journal of

Pragmatics 10. 347-371.

Hinds, John (1986) Situations and person focus. (Nishimitsu, Yoshihiro (Remarks).

Nihongorashisa to Eigorashisa) Tokyo: Kuroshio Shuppan.

Hiraga, Masako K. (1994) Diagrams and metaphors: iconic aspects in language. Journal of

Pragmatics 22 (1). 5-21.

―――― (1999) Deference as distance: metaphorical base of honorific verb construction in

Japanese. In Masako K. Hiraga et al. (eds.) Cultural, psychological and typological issues in

cognitive linguistics. Amsterdam: John Benjamins. 47-68.

Hopper, Paul, J. and Elizabeth C. Traugott (1993) Grammaticalization. Cambridge: Cambridge

University Press.

Horn, Laurence R. (1989) A natural history of negation. Chicago: Chicago University Press.

Horn, Laurence R. and Gregory Ward (eds.) (2004) The handbook of pragmatics. Malden. MA.:

Blackwell Publishing.

Hwang, Juck-Ryoon (1990) ‘Deference’ versus ‘politeness’ in Korean speech, International

Journal of the Sociology of Language 82. 41-55.

Hymes, Dell (1971) Sociolinguistics and the ethnography of speaking. In Erwin Ardener (ed.)

Social anthropology and language. London: Tavistock. 47-93.

Ide, Risako. (1998) ‘Sorry for your kindness’: Japanese interactional ritual in public discourse.

Journal of Pragmatics 28. 508-528.

Ide, Sachiko (1986) Introduction: the background of Japanese sociolinguistics. Journal of

Pragmatics 10. 281-286.

―――― (1989) Formal forms and discernment: two neglected aspects of Japanese linguistic

politeness. Multilingua 8. 223-248.

―――― (2005) Poiteness forms. In Ulrich Ammon et al. (eds.) Sociolinguistics: an

International handbook of the science of language and society. 2nd edition. Berlin: Walter de

Gruyter. 605-614.

Ide, Sachiko and Megumi Yoshida (1999/2002) Sociolinguistics: honorifics and gender

differences. In Natsuko Tsujimura (ed.) The handbook of Japanese linguistics. Malden, MA:

Blackwell Publishers. 444-480.

Ide, Sachiko and Naomi Hanaoka McGloin (eds.) (1990) Aspects of Japanese women’s language.

Tokyo: Kuroshio Publishers.

Ide, Sachiko, et al. (1992) The concept of politeness: an empirical study of American English

and Japanese. In R. J. Watts. S. Ide, and K. Ehrlich (eds.) Politeness in language: studies in

its history, theory and practice. Berlin: Mouton de Gruyter. 281-297.

Ikegami, Yoshihiko (2003) How language is conceptualized and metaphorized in Japanese: An

essay in language ideology. In H. Cuyckens, Th. Berg, R. Dirven, and K.-U. Panther (eds.)

Motivation in language: studies in honor of Güenter Radden. (Current issues in linguistic

theory 243) Amsterdam: John Benjamins.

―――― (2005a) Japanese as seen from outside and from inside. In André Wlodarczyk (ed.)

268 269参考文献

Paris Lectures in Japanese Linguistics. Tokyo: Kuroshio.

―――― (2005b) Indices of subjectivity-prominent language: between cognitive linguistics and

linguistic typology. Annual Review of Linguistics 3.

Ivana, Adrian and Hiromu Sakai (2006) Honorification in the nominal domain in Japanese: An

agreement-based approach. Ms. Hiroshima University.

―――― (2007) Honorification and light verbs in Japanese. Journal of East Asian Linguistics

16. 171-191.

Kádár, Dániel Z. (2010) Exploring the historical Chinese politeness denigration/elevation

phenomena. In J. Coulper, Daniel Kádár. Historical (Im)politeness. Berne: Peter Lang.

Kádár, Dániel Z. and Sara Mills (eds.) (2011) Politeness in East Asia. Cambridge: Cambridge

University Press.

Kádár, Dániel Z. and Yuling Pan (2011) Politeness in China. In Dániel Z. Kádár and Sara Mills

(eds.) Politeness in East Asia. Cambridge: Cambridge University Press. 147-175.

Kádár, Dániel Z. and Yuling Pan (2011) Polineness in China. In Dániel Z. Kádár and Sara Mills

(eds.) Politeness in East Asia. Cambridge: Cambridge University Press. 125-146.

Kim, Alan Hyun-Oak (2006a) Grammaticalization in sentence-final politeness marking in

Korean and Japanese. In Susumu Kuno et al. (eds.) Harvard Studies in Korean Linguistics

XI. Department of Linguistics, Harvard University. 72-85.

―――― (2006b) On origins of Korean supni-ta and Japanese desu/masu. In William O’Grady, et

al. (eds.) Inquiries into Korean Linguistics II. Seoul: Thaehaksa. 15-26.

―――― (2011) Politeness in Korea. In Kádár, Dániel Z. and Sara Mills (eds.) Politeness in East

Asia. Cambridge: Cambridge University Press. 176-207.

―――― (in print) How sdessive becomes nominative in Korean honorifics?: metaphor of de-

agentivizing superior. In Mikio Giriko et al. (eds.) Japanese/Korean Linguistics 22. Stanford:

CSLI Publications & Stanford Linguistics Association.

Kokubungaku (ed.) (1978) Anata mo keigo ga tadashiku tsukaeru [You too can use honorific

language correctly]. Tokyo: Gakuchosha.

Köveceses, Zoltán (2002) Metaphor: a practical introduction. Oxford: Oxford University Press.

―――― (2005) Metaphor and culture. Cambridge: Cambridge University Press.

Kumagai, Tomoko (1993) Remedial interactions as face-management: the case of Japanese and

Americans. In honor of Tokuichi Matsuda. Tokyo: Iwasaki Linguistic Circle. 278-300.

Kuno, Susumu (1973) The structure of the Japanese language. Cambridge, MA: The MIT Press.

―――― (1987) Functional syntax: anafhora, discourse and empathy. Chicago: Chicago

University Press.

Kuno, Susumu and E. Kaburaki (1975) Empathy and syntax. In Susumu Kuno (ed.) Harvard

Studies in Syntax and Semantics Vol. 1. Department of Linguistics. Cambridge, MA:

Harvard University. 1-73. (also in Linguistic Inquiry 8 (4). 627-672)

Lakoff, George (1987) Women, fire, and dangerous things: what categories reveal about the mind.

Chicago: University of Chicago Press.

―――― (1993) The contemporary theory of metaphor. In Andrew Ortony (ed.) Metaphor and

thought. Cambridge: Cambridge University Press. 202-251.

Lakoff, George and Mark Johnson (1980) Metaphors we live by. Chicago: University of Chicago

Press.

Lebra, Takie Sugiyama (1976) Japanese patterns of behavior. Honolulu: University of Hawaii

Press.

Levinson, Stephen C. (1983) Pragmatics. Cambridge: Cambridge University Press.

―――― (2004) Deixis. In Laurence R. Horn and Gregory Ward (eds.) The handbook of

pragmatics. Victoria, Australia: Blackwell Publishing. 97-121.

Lewin, Bruno (1959) Abriss der Japanischengrammatik. Wiesbaden: Harrassowitz.

Lucy, John (ed.) (1993) Reflexive language: reported speech and metapragmatics. Cambridge,:

Cambridge University Press.

MaCawley, James D. (1978) Conversational implicature and the lexicon. In Peter Cole (ed.)

Syntax and semantics Vol. 9. Pragmatics. New York: Academic Press. 245-256.

Martin, Samuel E. (1964) Speech level and social structure in Japanese and Korean. In Dell

Hymes (ed.) Language in culture and society. New York: Harper and Row. 407-415.

―――― (1975) A Reference grammar of Japanese. New Haven: Yale University Press.

Matsumoto, Yoshiko (1988) Reexamination of the universality of face: politeness in Japanese.

Journal of Pragmatics 12. 403-426.

―――― (1997) The rise and fall of Japanese non-subject honorifics: the case of ‘o-Verb-suru’.

Journal of Pragmatics 28. 719-740.

Maynard, Senko K. (1993) Discourse modality: subjectivity, emotion and voice in the Japanese

language. Amsterdam: John Benjamins.

McGloin Hanaoka, Naomi (1984) Some politeness strategies in Japanese. Studies in Japanese

language use. (Current inquiry into language, linguistics and human communication 48.)

Edmonton: Linguistic Research Inc.

Miller, Andrew R. (1967) The Japanese language. Chicago: University of Chicago Press.

Moeran, Brian (1988) Japanese language and society. Journal of Pragmatics 12. 437-443.

Mori, Junko (1993) Some observations in humble expressions in Japanese: distribution of

o-V(stem)suru and V(causative)itadaku. In Soonja Choi (ed.) Japanese/Korean Linguistic

Vol. 3. Stanford, CA: CSLI. 67-83.

270 271参考文献

Mushin, Ilana (2001) Japanese reportive evidentiality and the pragmatics of retelling. Journal of

Pragmatics 33. 1361-1380.

Nakane, Chie (1970) Japanese society. Berkeley, CA: University of California Press.

Neustupný, J. V. (1968) Politeness patterns in the system of communication. In Proceedings

of the eighth international congress of anthropological and ethnological sciences. Tokyo and

Kyoto. 412-419.

―――― (1972) Remarks on Japanese honorifics. Linguistic Communication 7 (Papers in

Japanese Linguistics 1). 78-117.

―――― (1978) Post-structural approaches to language. Tokyo: University of Tokyo Press.

Noh, Eun-Ju (2000) Metarepresentation: a relevance-theory approach. Amsterdam: John

Benjamins.

Ohta, Kaoru (1987) Japanese humble expression sasete itadaku: linguistic, social, and

psychological perspectives. Selecta 8. 17-26.

Okamoto, Shigeko (1998) The use and non-use of honorifics in sales talk in Kyoto and Osaka:

Are they rude or friendly? In Noriko Akatsuka et al. Japanese/Korean Linguistics 7.

Stanford, CA: CSLI.

Okutsu, Keiichiro (1975) (review) “Gary G. Prideaux (1970) The syntax of Japanese honorifics

The Hague: Mouton.” Linguistics 162. 90-93.

Permutter, David M. (1970) The two verbs begin. In R. A. Jacobs and P. B. Rosen-baum (eds.)

Readings in transformational grammar. Waltham, MA: Ginn and Company. 107-119.

Pizziconi, Barbara (2011) Honorifics: The cultural specificity of a universal mechanism in

Japanese. Kadar, Daniel Z. and Sara Mills. Politeness in East Asia. Cambridge: Cambridge

University Press.

Pizziconi, Barbara and Mika Kizu (eds.) (2009) Japanese modality: Exploring its scope and

interpretation. Basingstoke, UK: Palgrave Macmillan.

Poser, William J. (1992) Blocking of phrasal constructions by lexical items. In Ivan Sag and Anna

Szabolsci (eds.) Lexical Matters. Chicago: University of Chicago Press. 111-130.

Prince A. and P. Smolensky (2004) Optimalty Theory: Constraint Interaction in Generative

Grammar. Oxford: Oxford University Press.

Pzziconi, Barbara (2003) Re-exminaing, face and the Japanese language. Journal of Pragmatics

Vol. 35:10-11. 1471-1506.

―――― (2011) Honorifics: The cultural specificity of a universal mechanism in Japanese. In

Dániel Z. Kádár and Sara Mills (eds.) Politeness in East Asia. Cambridge, UK: Cambridge

University Press. 45-70.

Ross, John R. (1970) On declarative sentences. In R. A. Jacobs and P. S. Rosenbaum (eds.)

Readings in English transformational grammar. Washington: Georgetown University Press.

222-272.

Ruud, Jorgen (1960) Taboo: A study of malagasy customs and beliefs. Oslo: Oslo University Press.

(reprinted by London: George Allen & Unwin)

Sansom, G. B. (1928/1995) An Historical Grammar of Japanese. Wilshire, UK: Curzon Press.

Scalise, Sergio (1984) Generative morphology. Dordrecht: Foris.

Searle, John (1975) Indirect speech acts. In Peter Cole and Jerry L. Morgan (eds.) Syntax and

semantics 3: speech acts. London: Academic Press. 59-82.

Sells, Peter and Masayo Iida (1991) Subject and object honorification in Japanese. In Laurel

A. Sutton, Christopher Johnson with Ruth Shields (eds.) Proceedings of the 17th annual

meeting of the Berkeley Linguistics Society. 312-323.

Seto, Kenichi (1999) Distinguishing metonymy fron synecdocje. In Klaus-Uwe Panther and

Günter Radden (eds.) Metonymy in language and thought. Amsterdam: John Benjamins.

Shibamoto, Janet S. (1985) Japanese woman’s language. New York: Academic Press.

―――― (2011) Honorifics, “politeness,” and power in Japanese political debate. Journal of

Pragmatics 43. 3707-3719.

Shibatani, Masayoshi (1985) Passives and related constructions: A prototype analysis. Language

61. 821-848.

―――― (1988) Honorifics. In K. Brown and J. Miller (eds.) Concise Encyclopedia of

Grammatical Categories. Amsterdam: Elsevier. 182-201.

―――― (1990) The languages of Japan. Cambridge, UK: Cambridge University Press.

Shibatani, Masayoshi and Taro Kageyama (1988) Word formation in a modular theory of

grammar: postsyntactic compounds in Japanese. Language 64. 451-484.

Silberstein, Michael (1983) Metapragmatic Discourse and Metapragmatic Function. In J. Lucy

(ed.) Reflexive language. Cambridge: Cambridge University Press. 33-58.

Sperber, Dan and Deirdre Wilson (1986/1995) Relevance: Communication and cognition. Oxford:

Blackwell.

Sugiyama-Lebra, Takie (1976) Japanese patterns of behavior. Hawaii, HW: University of Hawaii

Press.

Sweetser, Eve E. (1990) From etymology to pragmatics: Metaphorical and cultural aspects of

semantic structure. Cambridge: Cambridge University Press.

Talmy, Leonard (1985) Force dynamics in language and thought. In Papers from the Parasession

on causatives and ergativity, Chicago: Chicago Linguistic Society. 293-337.

Taniguchi, Kazumi (1996) A cognitive grammar account of metonymy and its relation to

272 273参考文献

metaphor. Osaka University Papers in English Linguistics 3. 119-134.

Traugott, Elizabeth C. and Bernd Heine (eds.) (1991) Approaches to grammaticali-zation Volume

1. Focus on theoretical and metholodological issues. Amsterdam: John Benjamins.

Traugott, Elizabeth C. and Richard Dasher (2005) Regularity in semantic change. Cambridge:

Cambridge University Press.

Tsujimura, Natsuko (ed.) (1999) The Handbook of Japanese Linguistics. Malden, MA: Blackwell

Publishing.

Tsujimura, Natsuko (2007) An introduction to Japanese linguistics. Malden, MA: Blackwell

Publishing.

Turner, Mark (1996) The literary mind: The origins of thought and language. Oxford: Oxford

University Press.

Usami, Mayumi (2002) Discourse politeness in Japanese conversation: Some implications for a

universal theory of politeness. Tokyo: Hituzi Shobo Publishing.

―――― (1994) Politeness and Japanese conversational strategies: Implications for the

teaching of Japanese. Doctoral dissertation, Harvard University.

Uyeno, Tazuko Yamanaka (1971) A study of Japanese modality: a performative analysis of

sentence particles. Unpublished Ph.D. dissertation. Dept. of Linguistics, University of

Michigan, Ann Arbor.

Watanabe, Kilyoung (1972) Japanese complementizers. In George Bedell (ed.) Studies in east

asian syntax: UCLA Papers in Syntax 3. 87-133.

Watts, Richard J. (2003) Politeness. Cambridge: Cambridge University Press.

Watts, Richard, Sachiko Ide and Korad Ehlich (eds.) (1992) Politeness in language: studies in its

history, theory and practice. Berlin: Mouton de Gruyter.

Wenger, James, R. (1982) Some universals of honorific language with special reference to Japanese.

Ann Arbor: University Microfilms International.

―――― (1983) Variation and change in Japanese honorific forms. Papers in Linguistics 16

267-301.

Wetzel, Patricia (1991) Are ‘powerless’ communication strategies the Japanese norm? In S. Ide

and N. McGloin (eds.) Aspects of Japanese woman’s language. Tokyo: Kuroshio Pulishing.

117-128.

―――― (2004) Keigo in modern Japan: Polite language from Meiji to the present. Honolulu:

University of Hawaii Press.

Wilson, Deidre (1993) Pragmatic theory. Lecture notes. University College London.

Yamashita, Margaret Yoriko (1983) An empirical study of variation in the use of honorific forms

in Japanese: An analysis of forms produced by a group of woman in an urban setting. Ann

Arbor, MI: University Microfilms International.

274

安秉禧  12

池上嘉彦  4, 12, 17, 102, 103, 105

井出祥子  13, 195, 197, 198, 207

上原敏  12

宇佐美まゆみ  13, 195

大石初太郎  18, 216

大野晋  36, 42, 94, 102, 108, 109, 153

影山太郎  80, 110, 156, 250

加藤淳  195

角岡賢一  97, 155

川端康成  88

菊地康人  4, 17, 75, 79, 80, 112, 113, 154,

155, 160, 163, 191, 231

岸本秀樹  250

金顕玉  12, 183

金水敏  195

金田一京助  40-42, 89

金田一春彦  118, 119, 155, 175, 176, 210,

211

串田英也  195

久野暲  4, 12, 17, 102, 120-123, 126, 142,

143, 145-147, 155, 173, 188, 236

熊取谷哲夫  12, 200, 205

小松寿雄  80, 164

近藤泰弘  191

佐々木峻  223, 225

佐藤信夫  54

柴谷方良  30, 153, 155, 156, 191, 250

鈴木一彦  24, 29

鈴木睦  54

滝浦真人  13, 195

田窪行則  195

谷口一美  54, 58

鄭聖汝  156

辻幸男  54

辻村敏樹  12, 18, 20, 29, 89, 92, 93, 186,

242

辻村裕  40, 42

寺村秀夫  12, 17, 80, 102

藤堂明保  40

時枝誠記  11, 12, 18, 24, 25, 29, 30, 78, 154,

221

中川越  149

中西泰洋  195

中根千枝  197

夏目漱石  200

鍋島弘治朗  62

南廣祐  231

西田直敏  4

西光義弘  153

林巨樹  24, 29

韓美卿  12

久松潜一  94

彭国躍  12, 80

ホイットマン,ウォルト  58, 62

穂積陳重  40-42

松尾捨治郎  96, 97

松下大三郎  95, 96, 119, 174, 175

南不二男  42, 43

森野宗明  223

森山由紀子  119

山田孝雄  11, 223, 225, 231, 242

吉田金彦  223, 225

リンカーン  58

人名索引

276 277人名索引

Asato, Noriko  12

Benedict, Ruth  194

Benedict, Ruth  196, 198-200, 203, 208, 212

Boyle, Mary Patricia  12

Brown, Penelope  13, 23, 79, 172, 195-198,

201, 206, 207, 213, 214, 235-240, 246

Bybee, Joan L.  25-27, 98

Claudi, Ulrike  214

Comrie, Bernard  79

Coulmas, Florian  12, 194, 196, 198, 200-

203, 208, 212, 244

Dasher, Richard  12, 13, 79, 152, 194, 214-

216, 225-230, 232

Deirdre, Wilson  154

Dixon, R. M. W.  79

Doborovol’skij, Dmitrij  62

Dunn, Cynthia Dickel  45

Durkheim, Emile  84, 158

Fauconnier, Gilles  54

Fillmore, Charles J.  232

Frazer, James G.  38, 39

Freud, Sigmund  39

Fukada, Atsushi  12

Fukushima, Saeko  12

Geary, James  56

Goffman, Ervin  196, 204

Grady, Joseph  54

Hamano, Shoko  12, 67, 199, 120, 123-126,

134, 136, 140, 147, 148, 154, 184, 187, 189

Harada, S. I.  12, 18, 29, 90-92, 98, 111, 128,

130, 153, 177, 189

Haviland, J. B.  250

Heine, Bernd  214, 215

Hinds, John  12, 17, 102, 153

Hiraga, Masako K.  12

Hopper, Paul J.  214

Huenemeyer, Freiderike  214

Hymes, Dell  201

Ide, Risako  12, 194, 196, 198, 203-205, 208,

244

Ide, Sachiko  12, 195, 197, 198

Iida, Masayo  4, 12, 109-111, 114, 241, 250

Ivana, Adrian  13, 153, 154

Johnson, Mark  54, 56, 58

Kim, Alan Hyun-Oak  97, 98, 152, 225

Kumagai, Tomoko  200

Kuno, Susumu  64, 236

Kádár, Dániel Z.  80

Kageyama, Taro  106

Lakoff, George  54, 56, 58

Levinson, Stephen C.  13, 23, 79, 172, 195-

198, 201, 206, 207, 213, 214, 232, 235-240,

246

Lewin, Bruno  93

Martin, Samuel E.  12, 20, 29, 93, 112, 114

Matsumoto, Yoshiko  12, 80, 177, 181-186,

195, 197, 198, 207

McGloin Hanaoka, Naomi  12

Mori, Junko  12, 134, 177, 178, 181, 187,

189-191

Neustupný, J. V.  12

Noh, Eun-Ju  117, 154

Ohta, Kaoru  138, 139

Permutter, David M.  143

Piirainen, Elizabeth  62

Ross, John R.  90

Sakai, Hiromu  13, 153, 154

Sells, Peter  4, 12, 109-111, 114, 241, 250

Seto, Kenichi  54

Shibamoto, Janet S.  12

Shibatani, Masayoshi  4, 17, 102, 106-109

Sperber, Dan  154

Sugiyama-Lebra, Takie  197, 207

Sweetser, Eve E.  54

Talmy, Leonard  54

Taniguchi, Kazumi  54

Traugott, Elizabeth C.  13, 194, 214, 215,

227-230

Turner, Mark  54

Usami, Mayumi  12

Uyeno, Tazuko Yamanaka  12

Watanabe, Kilyoung  29

Wenger, James R.  12, 119, 147, 152

Wilson, Deirdre  154

Yoshida, Megumi  12

2014 年 6月 30 日 初版第 1刷発行

           著 者  アラン・ヒョンオク・キム           発行者 石 井 昭 男           発行所 株式会社 明石書店

〒101-0021 東京都千代田区外神田 6-9-5電 話 03(5818)1171FAX 03(5818)1174振 替 00100-7-24505http://www.akashi.co.jp

           装幀 明石書店デザイン室           印刷・製本 モリモト印刷株式会社

メタファー体系としての敬語――日本語におけるその支配原理

(定価はカバーに表示してあります)ISBN978-4-7503-4002-9

    〈(社)出版者著作権管理機構 委託出版物〉本書の無断複写は著作権法上での例外を除き禁じられています。 複写される場合は、 そのつど事前に、 (社)出版者著作権管理機構 (電話 03-3513-6969、 FAX 03-3513-6979、 e-mail: [email protected]) の許諾を得てください。

【著者紹介】

アラン・ヒョンオク・キム(Alan Hyun-Oak Kim, 金顕玉)南イリノイ州立大学外国語外国文学部/言語学部准教授1932年兵庫県生まれ。旧制岡山県閑谷中学校、慶北国立大学人文科学哲学科卒。ソウル国立大哲学修士、サンノゼ・カリフォルニア州立大学言語学MA、南カリフォルニア大学言語学 Ph.D。 韓国空軍士官学校教官、梨花女子高校講師、ソウル女子大学講師、ロサンゼルス・カリフォルニア州立大学講師、ハーバード大学言語学科客員研究員、UCLA Post-doctoral Fellow、ポートランド州立大学助教授、その他、ソウル国立大言語学科、関西学院大などで客員教授、日本・国立国語研究所外来研究員。

主要著書・論文The grammar of focus in Korean and its typological implications (1985) 博 士論文,韓信文化社;Preverbal focusing and the type XXIII language (1988) Moravcsik et al. Studies in Syntactic Typology. John Benjamins;Word order at the NP-level in Japanese (1995) Noonan and Downing (eds.) Word Order in Discourse. John Benjamins;日本語の敬語体系の原則とメタ言語的文法化(2004)影山・岸本編,柴谷方良教授還暦記念論文集;Politeness in Korea (2011) Kadar and Mills (eds.) Politeness in East Asia. Cambridge University Pressなど。