司法省法学校におけるボワソナード講義 一井上操の...

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明治大学社会科学研究所紀要 《個人研究(2006年度~2007年度)》 司法省法学校におけるボワソナード講義 一井上操の仏文(刑法講義)ノートを中心に一 博☆ The series of lectures by G.E.Boissonade at S Transcript of a lectUre on the criminal Kazuhiro Muraka はじめに 第一章 ボワソナードの法学講義 L司法省会議 2.私立法律学校 第二章 司法省法学校におけるボワソナード講義 1.正則科 2.速成科 第三章 司法省法学校正則科一期生に対するボワソナード講義録 1.既発見資料 2.井上操の仏文ノート(その一) 3.井上操の仏文ノート(その二) 第四章 井上操の仏文(刑法講義)ノート 1.仏文(刑法講義)ノートと『刑法撮要』の対照 2.仏文(刑法講義)ノートの内容 (a)犯罪行為の諸段階 (b)未遂犯 (c)不能犯 むすび ☆法学部教授 一65一

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                明治大学社会科学研究所紀要

《個人研究(2006年度~2007年度)》

        司法省法学校におけるボワソナード講義

      一井上操の仏文(刑法講義)ノートを中心に一

                                    村 上 一 博☆

   The series of lectures by G.E.Boissonade at Shih6sh6 H6gakk6:

         Transcript of a lectUre on the criminal law

                                   Kazuhiro Murakami

目 次

はじめに

第一章 ボワソナードの法学講義

 L司法省会議

 2.私立法律学校

第二章 司法省法学校におけるボワソナード講義

 1.正則科

 2.速成科

第三章 司法省法学校正則科一期生に対するボワソナード講義録

 1.既発見資料

 2.井上操の仏文ノート(その一)

 3.井上操の仏文ノート(その二)

第四章 井上操の仏文(刑法講義)ノート

 1.仏文(刑法講義)ノートと『刑法撮要』の対照

 2.仏文(刑法講義)ノートの内容

  (a)犯罪行為の諸段階

  (b)未遂犯

  (c)不能犯

むすび

☆法学部教授

一65一

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47巻 1号2008 10月

はじめに

 ボワソナード(Gustave Emile Boissonade de Fontarabie,1825-1910)は、明治政府によって招

聰された、いわゆる御雇い法律顧問のなかでも、ひときわ著名な人物である。近代日本における西欧

的な近代法体制の構築に貢献し、また司法省法学校をはじめ、東京法学校・明治法律学校などで講義

を行ってフランス法学の普及に努めたことでも知られている1。ボワソナードに関する研究は、とり

わけ刑法・治罪法および民法の編纂事業において:果たした役割を中心として、近年、飛躍的な進展が

見られる。刑法では岩谷十郎・藤田正の両氏2、治罪法では矢野裕子氏ら3による研究が注目され、さ

らに民法では、筆者も参加したボワソナード民法典研究会[代表:大久保泰甫(名古屋大学名誉教授)]

による資料集成[全48冊、雄松堂出版]が完成をみた4。こうした研究の進展状況とは裏腹に、司法

省法学校などでボワソナードが行った一連の講義一法典編纂事業とも密接に関連する一については、

近代日本における最初の本格的なフランス法講義であり、また、この講義を受講した生徒たちのなか

から、その後の近代法体制の構築に重要な役割を果たした法制官僚・司法官・外交官らが生まれたと

いう点からも、その重要性は頓に指摘されてきたにもかかわらず、未だに、その全容は明らかとされ

ていない。

 本研究の目的は、これまで知られているボワソナードの講義録を整理したうえで、新たな講義筆記

を発掘して、その講義内容の全容に迫ることにある。

第一章 ボワソナードの法学講義

 これまで、ボワソナードの講義と推測されている刊行物は、数多く知られているが、それらは、①

司法省法学校正則科、②同速成科、③司法省会議、および④私立法律学校一東京法学校(のち和仏法

律学校、法政大学の前身)と明治法律学校(明治大学の前身)において行った、四種類の講義に大別

することができる。

1.司法省会議

 このうち、よく知られているのは、③司法省会議における講義である。ボワソナードは、明治7(1874)

年4月から9(1876)年5月にかけて、司法省内において、官吏を対象に、フランス法を解説する「会義」

1 ボワソナードについての研究は多いが、代表的なものとして、大久保泰甫『日本近代法の父一ボワソナアド1(岩

 波新書、1977年)参照。

2 岩谷十郎「二っの仏文刑法草案とボアソナード」(『法学研究』第64巻1号、1991年)、「内閣文庫所蔵旧刑法手稿仏

文草案一ボアソナードの編纂過程関与の実態一」(『法学研究』第64巻9号、1991年)、「内閣文庫所蔵旧刑法手稿仏文

 草案一Projet de Code penal-(復刻と校訂)」(1・2)(『法学研究』第64巻10・ll号、1991年)、藤田正「旧刑法の

編纂におけるボアソナードの役割」(『北海学園大学・学園論集』第72号、1992年)など。

3 向井健=矢野裕子「村田本『治罪法直訳』」(『法学研究』第68巻9号、1995年)、「村田本『治罪法草案審査第二読

 会修正趣意書』」(『法学研究a第69巻3号、1996年)、矢野「ボアソナードと、その思想」(『早稲田法学会誌』第47巻、

 1997年)など。

4 大久保泰甫・高橋良彰『ボワソナード民法典の編纂』(雄松堂、1999年)は、近年のとくに注目すぺき研究である。

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明治大学社会科学研究所紀要

(諸法典を編纂する前提として、立法上の諸問題についての質疑も交えて)を行っている。「会義」は、

民事訴訟法・民法・商法・治罪法・刑法の順で開始され、それぞれの『会議筆記』は逐次活字化され、『講

義』として刊行された。名村泰蔵口訳『仏国訴訟法講義』・『仏国民法財産編講義』・『仏国治罪法講義』・

『仏国刑法講義』(明治8~ll年、いずれも司法省蔵版)が、これに当たると考えられる。ちなみに、

ブスケ述=黒川誠一郎口訳『仏国商法講義』(明治14年、司法省蔵版)も、同会議の筆記ではないか

と推測される5。

2.私立法律学校

④については、堀田正忠訳・薩唾正邦筆記『仏国民法売買篇講義』(明治16年、博文社刊)、⑤とし

ては、磯部四郎訳『性法講義』(明治25年、明治法律学校講法会刊)などが知られている6。

第二章 司法省法学校におけるボワソナード講義

1.正則科

 以上のような③④⑤の講義とは対照的に、講義録を確定しがたいのが、①②の司法省法学校におけ

る講義である7。まず、①正則科における講義について考えてみたい。ボワソナードは、明治6(1873)

年ll月15日に来日、翌年4月9日から一したがって、前述した司法省会議と同時並行的に一司法省明

法寮において、性法=自然法(内容的には民法の財産法関係)の講義を開始している。このときの生

徒(いわゆる正則科[8年制]第一期生)は、井上正一・栗塚省吾・熊野敏三・木下広次・岸本辰雄・

加太邦憲・関口豊・宮城浩蔵・小倉久・磯部四郎・岡村誠一・井上操・木下哲三郎・内藤直亮・矢代

操の15名であった(明治5年8月当初の入学者は20名であったが、講義開始までに、近藤孝一・野々

村保次郎・横田孝敬・佐藤金三郎・高畠里美・浅岡一・中村健三・水野貞次・中村元の9名が退学、

井上操以下の4名が4月4日付で入学を認められている)8。

 4月9日の初回講義において、ボワソナードは、性法の大要を述べるとともに、法学校における講

義の予定について、次のように述べている9。

   …性法ハ公法ト私法トヲ問ハス都テー国ノ法律ノ本原…憲法ハ固ヨリ公法ノー部二居ル者ナリ

   ト錐モ余ハ憲法二付テハ性法ヲ論セス只社会ノ守護タル刑法(公法ノー部)ト及ヒ社会ノ開達

5 司法省会議におけるボワソナードの講義の詳細については、藤田正・前掲「旧刑法の編纂におけるボアソナードの

役割」を参照。

6 『法律学の夜明けと法政大学』(法政大学、1992年)、『明治大学百年史』第3巻通史編1(明治大学、1992年)。

7 司法省法学校について詳しくは、手塚豊「司法省法学校小史」(手塚豊著作集第9巻『明治法学教育史の研究』慶

慮通信、1988年)33頁以下、参照。

8 これら第一期生の法学理論を多面的に研究することは、我国における近代法学の歴史的位置を明らかにするために

不可欠な作業である。村上一博編『日本近代法学の巨撃一磯部四郎論文選集』(信山社、2005年)および、平井一雄・

村上一博編『日本近代法学の巨購一磯部四郎研究』(信山社、2007年)、村上一博編『日本近代法学の揺藍と明治法律

学校』(日本経済評論社、2007年)などは、こうした試みの一つである。

9 『明治文化全集』第8巻法律篇(1929年、日本評論社)468~469頁。なお、この巻に収載されている性法講義は、

井上操筆記『校訂増補 性法講義』(明治14年、中正堂刊)である。

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47巻 1号2008 10月

   ヲ進メ其繁昌ヲ保スル所ノ政法(同シク公法ノー部)トニ付テ性法ヲ説カント欲ス。…経済学

   ハ日本ニテ之ヲ学フヲ得ヘキ時節ヲ期シテ諸君ノ為メニ講説セン。…[親族]法ヲ講スルハ同

   僚「ブスケ」君ノ任二在ルニ依テ余ハ之ヲ説カス。…是二反シテ余ハ純粋ノ私法即チ貨財上ノ

   法ヲ講スヘシ。…商法モ亦「ブスケ」君ノ教フル所ナリト錐モ契約及ヒ義務ノ理論ハ商業二付

   テハ通常必要ノ事ナレハ未夕商法ヲ講セサルノ前二於テ諸君ノ為メニ余ハ必ス之ヲ言ハサル可

   カラス。

 右の発言によれば、ボワソナードは、(1)公法では、憲法を除いて「政法」と「刑法」を、私法では「貨

財上ノ法」=財産法を通じて、「性法」を講義するとともに、(2)他日、「経済学」の講義も行う予定で

あること、(3)「親族法」と「商法」はG・ブスケの担当であること、が知られる。司法省における講

義時間表などが残存していないため、この講義予定がそのまま実行されたのか否かは明らかでないが、

明法寮が閉鎖(明治8年5月)されて後も、引き続き、司法省内に移管された法学校において、ボワ

ソナードとG・ブスケiOの二人が、正則科第一期生に対して、いくつかの講義を分担していたことは

確かである。

 ちなみに、第一期生のうち、明治8(1875)年8月に、木下広次・熊野敏三・井上正一・磯部四郎・

栗塚省吾・関口豊・岡村誠一の7名についてフランス留学が決定し、生徒数が8名に減ったため(定

員20名)、9月に、大島三四郎・福原直道・一瀬(沢井)勇三郎・橋本絆三郎・井田鐘次郎・亀山貞義・

立木頼三・高木豊三・杉村虎一・藤林忠良・岩野新平・大塚成吉の12名が補欠入学した(この12名は、

結局1年に満たない期間しか在籍できなかったが、正則科第一期生として扱われている)。この20名

に対しても、引き続き、講義が行われたようだが、明治9(1876)年3月上旬にG・ブスケが帰国し

たため、4月からはもっぱらボワソナードが担当したと考えられる。同年8月初めに、20名の処遇が

決定、宮城浩蔵・小倉久・岸本辰雄の3名がフランスへ留学、木下哲三郎ほかll名が司法省出仕に任

命された(杉村・藤林・立木・福原・矢代・大塚の6名は不採用)。

 ちなみに、第二期生(104名)は、明治9年7月下旬に決定し、9月から講義が開始されたようだが、

専任の法学校教師として、アペール(Georges Appert,1850-1934)11が招聰された(明治12年lI月)ため、

彼らに対する法学の専門科目は、もっぱらアペールが担当し、ボワソナードは関与しなかったと推測

されている。

2 速成科

次に、②速成科における講義について検討してみたい。正則科第二期生の募集が行われた翌月、明

10ブスケ(George Hilaire Bousquet,1846-1937)は、明治5(1872)年3月に、司法省雇の法律顧問として来日し、

 明治9年3月に帰国した。その間、司法省法学校でフランス法講義を行ったほか、民法および商法典の編纂に携わっ

 たことでも知られている。

 なお、詳しくは、手塚豊「明治法制史上におけるヂュ・ブスケとブスケ」(手塚豊著作集第10巻『明治史研究雑纂』

慶応通信、1994年)、向井健「司法省御雇外人ブスケと商法講義」(『法学研究』第44巻1号、1971年)、西堀昭『日仏

文化交流史の研究(増訂版)』(駿河台出版、1988年)など、参照。

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明治大学社会科学研究所紀要

治9年4月、司法省は、正則科とは別に生徒を募り、司法官を短期(2~3年)で「速成」的に養成

する課程を置くことを決定した。明治10(1877)年9月から開始された講義では、ボワソナードが、「性

法」と「フランス民法」を、その後、第二期生に対して「日本民法草案」、三期生に対しては「法律大意」

を講義したことが知られている。

 速成科第一期生に対する講義録としては、『性法講義』(関西大学所蔵、訳者不明ノート)、『仏国民

法契約編第二回講義』・『仏国民法財産編講義』・『仏国民法期満得免編講義』(以上、一瀬勇三郎ほか筆記、

明治13年3~4月刊)、第二期生に対する講義録としては、『法律大意講義』(加太邦憲筆記、明治13

年6月刊)・『民法草案財産編講義(一・二)』(加太邦憲ほか筆記、刊行年月不明)、さらに、三期生

に対する講義録としては、『法律大意 第二回講義』(一瀬勇三郎ほか筆記、明治16年12月刊)が、そ

れそれ該当すると考えられる。

 ちなみに、ボワソナードの講義を通訳する任にあたったのは、正則科を修了して、司法省出仕に任

じられた一瀬勇三郎;2であった。同科第二期生の国分三亥は当時を回想して、一瀬は、ボワソナード

llアペール(Georges Victor Appert,1850~1934)は、明治12(1879)年ll月に、司法省雇の法律顧問兼法学教師と

 して来日し、明治22年1月に帰国するまで、一時帰国した期間を除くと、8年余りにわたって日本に滞在したが、そ

 の間、司法省法学校(その後、東京大学法学部・帝国大学法科大学)をはじめ、東京法学校・明治法律学校などで、

 フランス刑法・行政法や経済学の講義を担当し、多くの法律家を養成した。アペールの言ト報に接して、織田萬は「我

 が司法界の恩人」とその功績をたたえている。明治法律学校では、開校直後の明治14年2月から49回にわたって経済

 学を、続いて、翌15年10月から9回にわたって理財学を講義している(通訳は宇川盛三郎)。経済学講義では、経済

学の目的を、富の形成とその流通・分賦・消費方法の解明にあるとするが、これはフランス古典派経済学者のジャン・

 バチスト・セイ(Jean Baptiste Say)の影響を受けたもので、明治政府による殖産興業に指針を与え、また法律と経

 済の関連を自覚する機会を与えたものと評価されている。理財学講義では、国庫の歳出と歳入について語り、歳出に

 おいて主体を国家から地方へ転嫁させるべき項目を指摘したり、歳入の比率を直接税から間接税へ移行していく必要

 性を指摘するなど、経済自由主義を基調とした講義を展開している。

  彼は、また、日本の文化・旧法制度について関心をもち、離日前年の明治21(1888)年には、木下広次の協力を得

 て『旧日本(Ancien Japon)』(博聞社)を刊行し、フランスに帰国してからも、大宝律令や貞永式目のフランス語

 訳など多くの論文を発表している。日本の文化・旧法制度に関する彼の幅広い研究は、御雇外国人のなかでも、とり

 わけ際だっている。

  なお、詳しくは、西堀昭・前掲『日仏文化交流史の研究(増訂版)』、村上一博「アペール・日本におけるフランス

 法の影響について」(『同志社法学』第202号、1988年)、同「司法省御雇法律顧問ジョルジュ・アペールー「我が司法

 界の恩人」一」(大学史の散歩道64)(『明治大学学園だより』第336号、2005年1月)など、参照。

12一瀬勇三郎は、安政元(1854)年ll月、肥前大村城下から一キロ以上離れた地(武部町、旧佐古郷)に、食禄20石

 の下級藩士の次男として生れた。貧窮に喘ぎながら藩校五教館に学び、明治3年、藩侯大村純煕の下命により大村藩

 貢進生に抜擢され、大学南校(東京大学の前身)に入学した。明治8年9月に、司法省法学校の正則科の第二次欠員

 募集に応じて、第一期生の列に加わり、翌9年7月、司法省出仕として任官している。司法省出仕としての彼の職務

 は、主に、9年9月から開始された司法省法学校速成(司法官養成)科第一期生に対するボワソナードの講義(性法・

 フランス民法〉を通訳することであった。こうした司法省法学校における講義と通訳のかたわら、明治法律学校にお

 いても、創立直後の明治14年9月から一年間にわたって、仏国民法の売買および賃貸借法を講義していたことが知ら

 れている。19年1月に東京始審裁判所詰となり、翌月から、在官のまま欧州へ留学(主にベルリン・パリ)、23年5

 月に帰朝、8月の検事(長崎始審裁判所詰)拝命を皮切りに裁判実務に携わるようになり、長野・横浜・大阪地裁検

 事正、検事長などを経て、34年6月広島控訴院長、41年2月函館控訴院長を歴任し、自己の信念を貫き通す「剛直」「硬

 骨漢」の控訴院長として知られ、「其学其識に於て、其徳其勇に於て、司法官中の雄」(中央公論)と称えられた。し

 かし、大正2年4月、平沼駅一郎検事総長が、松田正久司法大臣らを通じて政友会と結託し、司法部内の刷新と制度

 改革に名をかりて、自派に不都合な大審院長・控訴院長・検事長以下、約200名におよぶ判検事を休職または退職に

 追い込んだとき、一瀬もまた休職を余儀なくされた(60歳)』その後、昭和2年10月に郷里大村に帰棲し、7年6月

 に同地で死去した(享年79歳)。

  なお、詳しくは、『一瀬勇三郎伝』(一瀬翁伝記編纂会、1933年)および、村上一博「一瀬勇三郎一“法曹界の乃木

 将軍”と称えられた控訴院長一」(大学史の散歩道78)」(『エムスタイル』第8号、2007年)、参照。

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第47巻 1号2008 10月

の通訳として「日々颯爽たる風姿を講壇に顕はされ、流暢周密なる通訳を以て法律の初歩を学ぶ者に

も能く了解せしめら」れ、さらに自ら民法証拠編の講義を担当したほか、ボワソナードの「試験答案

も亦先生に於て採点せらるSを例と」したと述べている。一瀬の司法省第七局(法学校)勤務は、明

治19年1月に東京始審裁判所詰となるまで続いているから、およそ10年間にわたって、速成科での司

法官教育に従事していたことになる。

第三章 司法省法学校正則科一期生に対するボワソナード講義録

 第一・二章で述べたように、明治期に刊行されたボワソナード講義録の多くについては、その元と

なった講義をある程度確定することができるのだが、依然として不明なのが、司法省法学校正則科に

おけるボワソナード講義の内容である。

1.既発見資料

 正則科におけるボワソナード講義の筆記としては、受講生の一人であった関口豊の仏文ノート

℃ours de Droit naturel”(法務図書館蔵)がひろく知られており、井上操筆記『性法講義』(司法省蔵版、

明治10年6月刊、改訂版あり)がその翻訳である一若干の異同があるが一と指摘されてきた13。この

ほか、井上操筆記『刑法撮要』(司法省蔵版、明治10年12月刊)も、右の『性法講義』の「序」において、

井上操が「余嘗テ司法省法学校二在リシ日教師仏国巴里法学校プロヘッスール、アグレゼー、ギュス

ターウ、ボワソナード氏ノロ授スル所ヲ録取シ…其刑事二属スル者ハ載セテ刑法撮要二在リ亦既二印

行セラル」と記していることから、正則科でのボワソナード講義に間違いないと言われてきた一もっ

とも、両書ともに、明法寮時期の講義なのか、あるいは法学校が司法省へ引継がれて以後の講義なの

かは判然としない一。

2.井上操の仏文ノート(その一)

 ともあれ、これまで、関口豊の仏文ノートと、井上操筆記『性法講義』および『刑法撮要』のみが

知られていたにすぎなかったのだが、15年ほど前に、関西大学の調査によって、井上操14の孫にあた

る井上脩氏(操の三男三郎の子)宅から、井上操の三冊の仏文ノート

  1.“Cours de Droit civir’

  2.“Cours de Droit administratif, Tome I”

  3.“Conf6rence sur le Minist6re public en France”

が発見された(明治大学大学史資料センターでも、井上脩氏のご理解を得て、一昨年、当該三冊を撮

影した)。これらの三冊、すなわち『民法講義』・『行政法講義第一巻』・『フランスにおける検察官に

関する会議』は、正則科におけるボワソナードの講義筆記である可能性が高いと考えられている15一

13 この講義の内容については、池田真朗「ボァソナード『自然法講義(性法講義)』の再検討」(『法学研究』第55巻8号)

 が、詳細な検討を加えている。『性法講義』の諸版については、同論文5頁の注(7)を参照。

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明治大学社会科学研究所紀要

しかし、第三冊目はその表題から見ると、前述した司法官会議での講義と考えた方が良いかもしれな

い一。

 このほかにも、東京大学法学部所蔵の、手塚太郎(正則科第二期生)の仏文ノート五冊“Boissonade

Gustave Emile, CEuvres choisies,1~V”(筆者は未見であるが、これがボワソナードの講義録だと

すれば、先述したように、正則科第二期生に対する講義は、ボワソナードではなく、アペールの担当

であったから、手塚は、一期生某のノートを書写したのではないかと推測される)、および明治大学

図書館所蔵の、杉村虎一の仏文ノート三冊℃our de Droit g6n6ral(法律概論[法律大意か]講義)”、

“Droit p6nal(刑法講義)”、℃ode D’instruction criminelle(治罪法講義)”が知られている。

 しかし、いずれのノートもまだ、司法省法学校正則科第一期生に対するボワソナード講義の筆記録

であると断定されるには至っておらず、またG・ブスケあるいはアペールの講義である可能性も残さ

れている(東京大学法学部には、鶴丈一郎(正則科第二期生)によるアペール講義の仏文ノート六冊

『性法』・『民法』・『商法』・『刑法・治罪法』・『民事訴訟法』・『行政法』も所蔵されているようである)。

3.井上操の仏文ノート(その二)

 このような状況下にあって、あらたに、井上操の曾孫にあたる井上章氏(操の四男精一の孫)宅か

ら、井上操の仏文ノート四冊が発見された(このノートは、章氏ご夫妻のご厚意により、明治大学大

学史資料センターに寄贈された)16。この四冊とは、

14 井上操は、弘化4(1847)年9月20日に、松代藩の中級藩士井上五郎左衛門(俸禄百石)の長男として生まれた。

 藩内の兵制士官学校で武田斐三郎に学んだのち東上、明治6年7月の司法省明法寮生徒の欠員募集に応じて、矢代操

 ら三名とともに合格し、7年4月から正規の明法寮生徒となった。9年7月に同校を卒業してのちは司法省に出仕す

 るが(パリ大学への留学は、予算の関係で認められなかったと言われている)、その傍ら、15年10月から明治法律学

 校で治罪法(刑事訴訟法)の講義を担当した。19年2月に東京大学教授に任じられたが、まもなく判事となり、同年

 7月、大井憲太郎ら自由党左派による大阪事件を裁くため(臨時重罪裁判所の裁判長として)、大阪控訴院評定官へ

 の転進を命ぜられた。おりしも大阪では、法律学校創設の機運が高まっており、同年lI月に関西法律学校(のち関西

 大学)が開設されたが、井上はこれに積極的に関与し、当初から刑法など諸講義を担当、その後も教学において中心

 的役割を担った。22年10月に大阪控訴院部長に栄進、司法官として、また関西法律学校教師として、まさに脂の乗り

 切った時期を迎えたが、不運にも、26年のある雪の日に天満橋上で落馬したことが起因となって、ついに執務不能の

 状態に陥り、28年に大阪控訴院判事を辞任、同年秋、松代に帰臥することとなった。それから10年、静養の甲斐もな

 く、38年2月23日に松代で死去した(享年59歳)。  なお、詳しくは、春原源太郎編『明治初期の法学講義一井上操と関西法律学校一』(関大法曹会、1965年)、薗田香融「井

 上操」(『関西大学を築いた人々』関大校友会、1973年)、同「井上操」(『関西大学百年史 人物編』関西大学、1986年)、

 関大法学部百年史編纂委員会『関西法律学校の創立とその精神』(関大法学部、1986年)、関大法学研究所『司法省法

 学校におけるボアソナードの講義に関する研究』(1989年)、明治大学歴史編纂事務室報告21『明治大学と校友(II)』

 (2000年)、鈴木秀幸「井上操と関西法律学校(大学史の散歩道36)」(『明治大学学園だより』300号、2001年)および、

 村上一博「悲運の司法官一井上操の仏文ノートー(大学史の散歩道71)」(『明治大学学園だより』346号、2006年)な

 ど、参照。

15 井上脩氏所蔵の井上操仏文ノート三冊にっいては、千藤洋三・市原靖久「司法省法学校におけるボアソナードの講

 義一井上操筆記『民法講義』『行政法講義第一巻』『フランスにおける検察官に関する会議』ノートについて一」(関

 西大学法学部百年史編纂委員会『関西法律学校の創立とその精神』関西大学法学部、1986年)、および『司法省法学

 校におけるボアソナードの講義に関する研究』(関西大学法学研究所、1989年)、同書に対する拙評『法制史研究』第

 41号、1992年、参照。

16 この仏文ノート四冊については、既に、村上一博「司法省法学校における法学講義一井上操による七冊の仏文ノー

 トー」(大学史紀要第10号『尾佐竹猛研究II』2006年)でも紹介しておいた。

一71一

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47巻 1号2008 10月

  (1).仏文の表題なし

  (2).℃ours de Droit commercial”

  (3).℃ours de Droit administratif, Tome II”

  (4).“Dict6e r6sum6e du cours de droit p6nal”

であり、先に発見された井上操仏文ノート三冊(井上脩氏所蔵)と併せて、井上操の仏文ノートは、

少なくとも七冊が存在していたことが明らかとなった。’(1)は、関口豊の仏文ノート“Cours de Droit

nature1”の内容とほぼ一致するから、井上操筆記『性法講義』の原文ではないかと推測される。(2>『商

法講義』は、先のボワソナードの言によれば、ブスケの講義であろう。(3)『行政法講義第二巻』は、1.

『行政法講義第一巻』の後半部分、(4)『刑法講義レジュメ』は、井上操筆記『刑法撮要』(以下、『撮要』

と略す)の原文ではないかと推定される。このように考えると、井上操仏文ノート七冊のうち、少な

くとも五冊は、司法省正則科第一期生に対するボワソナード講義を筆記したものである可能性がきわ

めて高いことになる。

第四章 井上操の仏文(刑法講義)ノート

 以下では、今回新たに見出された井上操仏文ノート四冊(井上章氏所蔵)のうち、まずは、(4)の“Dict-

6e r6sum6e du cours de droit p6nal”(以下、仏文(刑法講義)ノート)について検討してみたい。

仏文(刑法講義)ノートと井上操筆記『刑法撮要』(司法省蔵版、明治10年12月刊)(以下、『撮要』)

の対応関係を明らかにした上で、内容を検討することにしたい。

1.仏文(刑法講義)ノートと『刑法撮要』の対照

 さて、仏文(刑法講義)ノートの冒頭部分を、解読してみると(原文にないアクサンテギューやア

クサングラーヴも適宜補った)、

    Dans ce cours, a la diff6rence du cours du droit civil, je m’attacherai plus au texte de

   notre loi positive franCaise qu’aux principes du Droit naturel.

    Mais au lieu de prendre pour base des principes premiers de raison et de justice, et de

   verifier en suite comment le legislateur frangais les a appliqu6s, je prendrai le texte de la

   loi et je l’examinerai, le jugerai au point de vue de ces principes premiers.

と読み取ることができる。当該部分は、『撮要』では、次のように訳されている。

    民法ノ講説二於テハ余ハ法朗西法ヨリモ殊二性法ノ要領二因リシト錐モ刑法ノ講説二於テハ

   是レニ反シテ性法ヨリモ法朗西法ノ法文二因ルコト殊二多カルヘシ

    然レハ道理至正ノ要領ヲ基礎トシ而シテ立法官ノ之ヲ法朗西二当行セシ所以ヲ弁解セスシテ

   余ハ直チニ法文ヲ取リ而シテ此ノ要領ノ目途二於テ之ヲ点検シ之ヲ論決スヘシ

 井上の訳文では、les“principes”および、 les“principes premiers”が「要領」と訳されている点

が気になるが、おおよそ、原文の意に適った訳文であると言えよう。

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明治大学!t会斗学 究所紀

 『撮要』では、冒頭の「総論」のあと、「犯罪ノ等級」・「重罪無期ノ刑」・「施体有期ノ刑」・「懲治ノ刑」・

「詮誤ノ刑」・「刑中企望スヘキ形情」・「刑ノ起発ノ点」・「罪科成立ノ元素」・「民籍」・「年齢」・「神疾」・「脅

迫」・「正当ノ官或ハ法」・「正当防禦」・「責任ノ元素タルヘキ意趣」・「刑ヲ軽減スルノ方法」・「法上ノ

宥恕」・「軽減ノ情状」・「加重ノ情状」・「再犯」・「官吏タル身分」・「加重ノ原因ト軽減ノ原因トノ混合」・「犯

罪ノ集積及ヒ刑ノ不集積」・「附従」・「重罪或ハ軽罪ノ試犯」という25項目が立てられているが、仏文

ノートをみると、「総論」にあたる項目は特になく、℃lassification des infractions(犯罪の等級)”,

“Des peines correctionnelles(軽い刑罰)”、“Des points de d6part des peines(刑罰の起点)”、“Des

616ments constitutifs de la culpabilit6(罪状の構成要素)”、“De 1’ intention consid6r6e comme

616ment de responsabilit6(責任要素としての故意)”、“Des circonstances aggravantes des peines

(刑罰の加重情状)”、“Du cumul des d61its et du non cumul des peines(軽罪の併合と刑罰の不併

合)”、“De la complicit6(共犯)”、“De la tentative de crimes ou de d61its(重罪ないし軽罪の未遂)”

の順で9項目が設けられているにすぎない。『撮要』に見られる詳細な項目は、その内容を勘案して、

翻訳に際して、井上が付したもののようである17。

 『撮要』の最終項は、“la tentative”、すなわち井上の訳語では「試犯」一今日で言う「未遂」一で終わっ

ているが、その末尾では、「性法二依ルモ人為法二従フモ共二困難ナル場合」として「発者ハ銃二弾

薬ヲ装スルモ拙ナルニ依テ発セス或ハ只雷管ノミ発シテ装薬二火ヲ伝ヘス或ハ距離過遠ニシテ弾丸ノ

達セサル如キ場合」を挙げて、

    余ヲ以テ之ヲ考フルニ通常ノ刑ヲ科スルヲ得可シ何トナレハ自然ノ理二於テ為ス能ハサルノ

   重罪二非レハナリ仮令上文ノ如キ情状アルモ猶ホ再発スルニ於テハ或ハ之ヲ仕遂クルヲ得可ケ

   レハナリ然リト錐モ性法二於テハ重罪ノ効ヲ有セシ者ヨリモ其刑ハ緩ナル可キア[ナ]リ何ト

   ナレハ社会ノ害悪ナル危険ハ人ヲ殺セシトキニ比スレハ必ス小ナル可ケレハナリ

との説明を加えている。仏文(刑法講義)ノートの末尾部分を見ると、当該部分は、

    Dans ce cas, je crois qu’il y a lieu a la P6nalit60rdinaire, parce que le crime n’ etait pas

   impossible par la nature des choses:1’ acte r6it6r6 dans les memes circonstances pouvait

   r6ussir.

    Mais, je soutiens qu’en droit naturel la peine ici devait etre moindre que dans le cas de

   crime ayant produit son e ffet, car Ie mal social consistant dans un p6ril, dans un danger,

   dans un risque, est moindre que le mal r6sultant de la mort d’un homme.

と解読される。井上の訳文は、原文の意味をよく把握しており、なかなかの名訳であると言える。

 ここでは、仏文(刑法講義)ノートと『撮要』について、冒頭部分と末尾部分を照合したにすぎな

いが、この仏文(刑法講義)ノートが『撮要』の原文であることは、まず間違いないと言ってよいで

あろう。

17 このことは、『性法講義』においても同様であった(前掲・池田真朗「ボアソナード『自然法講義(性法講義)』の

再検討」ll~13頁)。

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 もっとも、仏文(刑法講義)ノートには、『撮要』訳出部分(菊版96頁分)にとどまらず、数頁の

白紙をはさんで、さらに、ほぼ同分量の講義が収められている。

 刑法が公法に属する云々に始まる後半部分の講義は、以下、項目を拾うと、“Appr6ciation des

peines(刑罰の判断)”、“La loi distingu6e des crimes des delits(軽犯罪を区別する法)”、“Des juges d’

instruction(予審判事)”、“Des plaintes(告訴)”、“Des mandats(令状)”、“De la libert6 provisoire(仮

判決の自由)”、“Les ordonnances des juges d’instruction(予審判事の決定)”と続き、さらにその

後に、“Code d’instruction criminelle(刑事訴訟法)”の講義が数頁だけあって、中途で断絶した形

となっている。刑法講義ノートの後半部分は、おそらく、『撮要』に引き続いて行われた、刑事訴訟法(当

時は治罪法)関係の講義ではないかと推測されるのである。なお、ボワソナードによる刑事訴訟法(治

罪法)講義については、前述の杉村虎一の仏文ノートとも比較対照する作業が不可欠であるが、ここ

ではその用意がない。今後の課題としたい。

2.仏文’(刑法講義)ノートの内容とその特徴

 さて、仏文(刑法講義)ノートと『撮要』の内容が同一であることは確認できたが、次は、その講義

内容の特徴について検討しなければならない。ボワソナードの刑法学説18のすべての論点について検討

する余裕はないので、以下では、とくに、最終項の未遂論に焦点を当てて検討することにしたい19。

 (a)犯罪行為の諸段階 ボワソナードは、19世紀後半のフランスで支配的であった「新古典学派」(折

衷説)一オルトラン(Ortolan)に代表される一の立場をとり、「道徳上の悪」(mal moral)と「社会上

の悪」(mal・social)という二つの基準を用いて、犯罪の各段階、すなわち、①“id6e(思)”ないし“pens-

6e(念)”、②“intention(意)”ないし“desir(望)”、③“decision(決断)”、④“pr6paration(預備)”、

⑤“ex6cution(執行)”、⑥“tentative(試犯)”、⑦“consommation(成就)”のそれぞれの段階に

対応して、刑罰の可否および量刑を判断する。

 ボワソナードは、各段階について、次のように説明している。

 まず、①は、人の心中の悪念邪思であり、ここには道徳上の“faute(過)”も社会上の過もなく、

“punition(刑)”を科せられることはない。②は、悪念邪思が心に駐留している状態であり、ここに

は道徳上の過(努めて抑制し根絶すべきであるのに、それをしない)があるが、社会的に“unv6-

ritable danger(真ノ危害)”を見ないため、罰せられることはない。③罪を犯すことを決断した状態

18 とくに明治15年施行の旧刑法を対象として、ボワソナードの刑法理論の特徴を論じた研究として、小野清一郎「旧

 刑法とボアソナードの刑法学」(『杉山教授還暦祝賀論文集』1942年、のち、小野『刑罰の本質について・その他』有

 斐閣、1955年)、佐伯千例=小林好信「刑法学史」(『講座 日本近代法発達史』第ll巻、1967年)、吉川経夫「ボアソナー

 ドと罪刑法定主義」(『法学志林』第71巻2・3・4合併号、1974年)、澤登俊雄「ボアソナードと明治初期の刑法理論」

 (吉川経夫ほか編『刑法理論史の総合的研究』日本評論社、1994年)参照。

19 中野正剛『明治時代の未遂論について』(雄松堂出版、2001年)は、明治期の主要な刑法学説として、ボワソナード・

 宮城浩蔵・井上正一・江木衷・古賀廉造の未遂論を順次検討した労作であるが、ボワソナード学説については、前注

 (18>に掲げた諸研究と同様に、主として(『撮要』も部分的に参照されているが)『刑法草案注釈』(上下)を検討の

 対象としている。

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明治大学社会科学研究所紀要

は、道徳上の過は重く、社会上の害も大きい。決断が、心中に隠れて未だ外部の発露していないとき

は、刑に問われることはない(証拠が得られないため)が、談話や書簡によって告発された場合には、

論定しうる。しかし、フランス刑法では、この段階では、まだ社会上の害とするに足らないと見て、

第89条に定める2つの例外、“r6volution(国安ヲ害スル重罪)”と“complot(陰謀)”を除き、一般

に罰せられないとした。④有形の事為の最初が、予備の行為である。予備と⑤「執行」=実行の着手、

とを混同してはならない。予備は一般に刑せられないが、執行は常に刑せられる。たとえば、塙壁の

修繕あるいは鼠や轟を駆除するという正実な目的のために、梯子あるいは毒剤を貯蓄していた場合、

これを犯罪の予備として罰せられることはない。法において人の心志の捜索を禁じているのは、たと

え一人の犯人を逃しても、外面のみで無皐の人を刑することを恐れたためである。しかし、犯罪のた

めに予備した事実について、行為者が自由に自白した場合について、フランス刑法が規定していない

のは非難されるべきである。逆に、未だ社会上の悪が発生していないにもかかわらず、予備を罰する

場合を設けていることについて、法を批判するのは誤りである。「国安ヲ害スル重罪」の予備は、正

実の目的に使用するとは弁解しえず、「社会ノ危害」・「動揺ノ種子」たることは明白だからである。もっ

とも、予備から執行への移行の判断を、行為者の意思の表明のみに、依拠することはできない。その

原因の“circonstance(情状)”あるいは家族の供述などによって、裁判官は、当該行為の用方を識

別して、実行の着手の開始を判断しなければならない。

 (b)未遂犯次は、⑤着手したものの、⑦「成就」=既遂に至らなかった、⑥「試犯」=未遂の段

階である。フランス刑法は、「発者ノ存意二不関係ナル情状二依テ支障セラレシ場合」を規定するに

すぎない。ここで言う「発者ノ存意二不関係ナル情状」とは、他人の行為・有形の障碍・物音・偶然

の恐怖などをひろく含み、およそ本人の存意以外の情状によって中止されるに至った未遂について、

既遂の場合と同一の刑罰を科すのである。この場合、社会上の害は、既遂の場合より甚だ微にすぎな

く、道徳上の悪についても、自ら行為を中止する可能性が残っているから、何れの観点からみても、(未

遂に刑の軽減を認めないのは)フランス法の欠点である。もっとも、陪審によって、刑を軽減する情

状を認めることは許されているので、法の過厳な所を改更することができる。しかし、常に刑を免れ

るべきだと言うのではない。「為サント欲セシ悪」について刑を受けるのではなく、「実際二於テ生シ

タル所ノ悪」について刑を受けるべきなのである。重罪を既遂すべき行為を行ったが、その結果が発

生しなかった場合、たとえば、人を毒殺しようとして毒薬を飲ませたが、被者は介護を受けて解毒剤

を服用したため死を免れたような場合、結果の不発が行為者の存意とは無関係な情状によるか否かが

判断されねばならず、もし行為者の存意と無関係であれば、通常の刑を言い渡されることになるが、

これは、厳に過ぎる。なぜなら、道徳上の悪は十分であるが、社会上の害については、確かに社会に

とって危険であり、社会に動揺と恐怖を与える行為ではあるが、結果が発生しておらず、実害は軽く

かつ小さいから、やや刑を緩めて然るべきである。

 行為者自身が悔悟して、結果を消除した場合はどうか。これは、犯罪行為を中止したのではなく、

既に実行したものの、自らが悔悟して罪悪の効果を除去した場合である。たとえば、人を殺そうとし

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て殴打して負傷させたが、自ら悔悟して被害者を扶助介護して出血などを防ぎ、死に至らしめなかっ

た場合、あるいは毒剤を調合して人に飲ませたが、自ら解毒剤を与えて蘇生させた場合、あるいは品

物を掠奪したが、裁判所の捜索を受ける前に、これを持主に還付した場合である。第二・第三の場合

には、刑を言い渡すべきではない。なぜなら、社会上の悪について言えば、既に危険なところがあるが、

法文の予期していない所であるから、刑を言い渡すことはできない。第一の場合には、たとえ介護し

ても被害者が不具あるいは廃人となったとすれば、そのために行為者は刑せられることになる。故意

による折傷・殴打は別の犯罪となるのは勿論である。

 (c)不能犯 また、重罪たるべき有形の行為を行っても、重罪となりえない場合があり、これを

“crime impossible(不能為)”の重罪と言う。行為者の意中では十分に他人を害しうると思って有形

の行為をなしたが、「自然ノ理」において害悪を生じえない場合である。たとえば、人を毒殺しよう

として、毒剤と誤信して良薬を与えた場合、あるいは弾薬を込めていない銃で人を撃った場合などで

ある。行為者には道徳上の悪があるから、刑法の基礎は道徳上の悪のみで足りるとすれば、刑を科す

べきだが、刑法は、社会上の悪も必要とするが故に、刑を科すべきではない。社会あるいは人に危険

を及ぼし、およそ社会上の悪があるからは、行為者の存意と無関係な情状によって結果の発生を欠い

た重罪であり、刑を科すべきだとする論者もいるが、この意見は、第三者が行為者の悪意を推知して

毒剤に解毒剤を入れて毒性を消した場合や行為者が込めた弾丸を抜き取ったような場合には、当て嵌

まるかもしれない。しかし、不能犯は、人為法では、法文にこうした場合を規定しておらず、社会上

の悪はないと考えたからであり、刑を科すことはない。もっとも、性法から見れば、裁判官の見込み

によって、社会に疑催する所ありとして、刑を科すこともできる。第三者が弾薬を抜き去り、あるい

は解毒剤を入れても、世間は弾薬あるいは毒剤のあるなしを推し測ることはできないからである。

 性法でも人為法でも、ともに判断が困難な場合もある。行為者が銃に弾薬を込めたが拙かったため

に弾丸が発しなかった場合、あるいは雷管は作動したが火薬に火が伝わらなかった場合、あるいは距

離が遠すぎて弾丸が達しなかった場合である。これらの場合には、通常の刑を科すべきだと考える。「自

然ノ理二於テ為ス能ハサル」重罪=不能犯ではないからである。同じ情状の場合でも、次は結果を発

生する恐れがある。もっとも、性法によれば、既遂の場合より、緩刑にすべきである。社会の害悪で

ある危険は、人を殺したのと比較すれば、必ず小さいからである。

むすび

 以上が、仏文(刑法講義)ノートにおける、未遂論を中心とした最終項の講義内容の要約である。

ボワソナードは、司法省会議の講義のなかで、未遂の問題は「大切ナル事故二曾テ司法省ノ学校ニテ

講釈ヲ為ス時刑法中ノ第最後二至リ殊更二差別ヲ立テ・講義シタ」20と述べており、この発言からも、

仏文(刑法講義)ノートが、司法省法学校における講義筆記であることが裏付けられる。

20 ボァソナード講義・名村泰蔵口訳『仏国刑法講義』(弘令社翻刻版、明治14年7月刊)11頁。

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 仏文(刑法講義)ノートからは、まず、未遂を論じる前提として、実行の着手と予備を区別する基

準について、ボワソナードが、行為者の意思ではなく、情状から判断して、結果発生への直接的な行

為があったか否かに置いていたことが分かる。また、ボワソナードが、旧刑法の起草にあたって、未

遂犯にっいて刑の減軽を認めなかったフランス刑法(第2条)を批判し、基本的に、既遂よりも刑を

減軽すべきだとする立場をとったこと(草案注釈書では、減刑することで、犯罪の中止を誘うという

政策的な配慮も見いだされる)、さらに「障擬未遂」(犯人の意思に因らない未遂)と「訣効犯」(実

行行為は完了したが結果が生じなかった場合)を区別して、前者については二等又は三等を、後者に

ついては一等又は三等を減ずべきとしたことは既に知られているが21、こうした旧刑法草案の基本的

な考え方は、既に、仏文(刑法講義)ノートに見出されるのである。

 中止犯(「障磯未遂」と対比される、犯人の意思に因らない未遂)については、ボワソナードは旧

刑法の起草にあたって、着手未遂と実行未遂を区別することなく、処罰の対象から除外した。中止に

至った動機・理由のいかんを問はず、自己の意思によって犯行を中止すれば殺意が消滅したと認め、

未遂犯としては不処罰とするという考え方である。仏文(刑法講義)ノートにおいても、「為サント

欲セシ悪」ではなく「実際二於テ生シタル所ノ悪」について刑を受けるべきだという基本的な認識が

示されている。

 最後に、ボワソナードは、フランス刑法をはじめ、当時どの国の刑法にも規定がなかった不能犯の

規定を旧刑法に盛り込もうとしたのだが、仏文(刑法講義)ノートでも、結果を発生する恐れ、社会

の害悪である「危険」の欠如が不能犯不処罰の根拠として示されている。ここでの「危険」は、一定

の結果発生の危険性ではなく、自然法の立場から、実行に際して、一定の結果を客観的に発生させる

「直接的な危険源」が存在したかどうかが問題とされていることが分かる。

 以上のように、ボワソナードは、社会の安寧秩序の維持や、犯罪が国民一般に与える騒擾恐催につ

いても考慮しているが、未遂犯の処罰について、今日のような「危険」概念を中心とした有力説の立

場をとらず、行為者の意図していた結果が発生しなかった点を重視する立場、すなわち現実に発生し

た結果(実害)の範囲で処罰すべきだとする見解と採っていたのであり、この考え方は、旧刑法の起

草段階に入ってからではなく、司法省法学校での講義にも既に見出される。来日以前からのボワソナー

ドの持論だったのである22。この意味で、中野正剛氏のように、ボワソナードの未遂論は、「未遂犯

の体系論を示したというよりも、採証上の観点を重視した未遂犯の認定論を示した」ものと評価しう

るとはいえ、さらに進んで、ボワソナード自身が、自覚的に、「近代司法の担い手として歩み出した

ばかりの我が国の立法官、実務家に適正な事実認定の仕方を示しながら、その中で刑法理論を示そう

と意図」23していたと言えるかどうかについては、さらに検討してみる必要がありそうである。

                                  (むらかみ かずひろ)

21小野清一郎・前掲「旧刑法とボアソナードの刑法学」451-452頁。

22 こうしたボワソナードの基本認識は、当時のフランス新古典学派の刑法学が、経験的ないし実際的、言い換えれば、

 現実の訴訟の進行(証拠の認定)に則した形で、犯罪・刑罰論を展開していたことの影響とも解されよう。

23 中野正剛・前掲『明治時代の未遂論について』27頁。

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