おける神話とその力 『土にまみれた旗』に見られる 北京日本学...

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ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二 The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato 73 本稿の著作権は著者が所持し、クリエイティブ・コモンズ表示 4.0 国際ライセンス(CC-BY) 下に提供します。 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」に おける神話とその力『土にまみれた旗』に見られる 葛藤とヴィジョン The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust 加藤 雄二 Yuji Kato 東京外国語大学大学院総合国際学研究院 Institute of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies 1. 革新性と保守性 2. 神話、アルージョンと断片化 3.『土にまみれた旗』における南部の神話とリアリズム 4.サートリス家の神話とその批判 5. 神話の暴力性とリアリズムの敗北 6. 作品における葛藤とその形式的問題 7. 周辺的プロットとセクシュアリティ 8. 女性、階級とセクシュアリティ キーワード:ウィリアム・フォークナー;モダニズム;小説;神話的語り;アメリカ南部 Keywords: William Faulkner; modernism; the novel; mythological narrative; American South ウィリアム・フォークナーの第3作『土にまみれた旗』は「最後の習作」とされることが多 い。フォークーは強くモダニズムの影響を受けた作家であるが、作品は 19 世紀アメリカ南部に 関する神話とリアリズムが融合した曖昧さによって特徴づけられている。現代を生きるキャラ クターたちは神話の力に抵抗するかのように見えるが、最終的にはその力に屈服せざるを得な い。現代小説でありながら、南部ロマンスに似た神話的物語が支配的力を持つのである。複層 化したプロットも、神話的過去への批判の可能性を垣間見せながら概ね中心的な神話を支持す

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  • ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato

    73

    本稿の著作権は著者が所持し、クリエイティブ・コモンズ表示 4.0 国際ライセンス(CC-BY) 下に提供します。https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

    資料

    北京日本学研究センター2003「中日対訳コーパス」 小学館 2015『日中辞典』第 3 版

    ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」に

    おける神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust

    加藤 雄二 Yuji Kato

    東京外国語大学大学院総合国際学研究院 Institute of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies

    1. 革新性と保守性

    2. 神話、アルージョンと断片化

    3.『土にまみれた旗』における南部の神話とリアリズム

    4.サートリス家の神話とその批判

    5. 神話の暴力性とリアリズムの敗北

    6. 作品における葛藤とその形式的問題

    7. 周辺的プロットとセクシュアリティ

    8. 女性、階級とセクシュアリティ

    キーワード:ウィリアム・フォークナー;モダニズム;小説;神話的語り;アメリカ南部

    Keywords: William Faulkner; modernism; the novel; mythological narrative; American South

    ウィリアム・フォークナーの第3作『土にまみれた旗』は「最後の習作」とされることが多

    い。フォークーは強くモダニズムの影響を受けた作家であるが、作品は 19 世紀アメリカ南部に

    関する神話とリアリズムが融合した曖昧さによって特徴づけられている。現代を生きるキャラ

    クターたちは神話の力に抵抗するかのように見えるが、最終的にはその力に屈服せざるを得な

    い。現代小説でありながら、南部ロマンスに似た神話的物語が支配的力を持つのである。複層

    化したプロットも、神話的過去への批判の可能性を垣間見せながら概ね中心的な神話を支持す

  • 74 東京外国語大学論集第 99 号 (2019)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 99(2019)

    る。『土にまみれた旗』は、後のフォークナーの傑作を予兆しながらも、神話批判としては不完

    全であり、後の作品が持つ現代的な特質を必ずしも持ち合わせていない。

    William Faulkner’s third novel is sometimes called his “last apprentice work.” In spite of the

    strong influence of the new modernist culture on the writer, it is characterized by an ambiguous

    form that merges mythological narratives on the nineteenth-century American South and more

    modern realistic representations. The characters living in the present of the novel seem to resist

    the power of the mythological narratives, yet they have to succumb to them in the end. The

    modern novel is dominated by mythological narratives similar to those of Southern romances.

    The multiplying plots hint at the possibilities of criticizing the mythological past but they, for the

    most part, are subservient to the dominant mythological narrative on the past and the present of

    the Sartoris family.

    1. 革新性と保守性

    ウィリアム・フォークナーの第3作『土にまみれた旗』(Flags in the Dust, 1973)は、フォー

    クナーの作家としてのキャリアにおける最初の飛躍を画する長編小説であり、「ヨクナパトーフ

    ァ・サーガ」と呼ばれる南部の一ミリュを舞台としたバルザック的連作小説群の最初の作品と

    して、後の『響きと怒り』(The Sound and the Fury, 1929)や『サンクチュアリ』(Sanctuary, 1931)

    を準備したことで知られる。

    第一次世界大戦の帰還兵ベイヤード・サートリスとその双子の兄弟ジョン・サートリスの死

    とその余波を題材とし、黒人帰還兵のキャスピーが現在時におけるアクションの一部を担うな

    ど、この作品はフォークナーの第一作『兵士の報酬』(Soldier’s Pay, 1926)から続く「ロスト・

    ジェネレーション」、あるいは「荒地」的なテーマの延長線上にあるともいえるだろう。フォー

    クナー作品における形式的なアヴァンギャルドが本格化するのは『響きと怒り』以降になると

    はいえ、『土にまみれた旗』ではおもにホレス・ベンボーのキャラクターに見出されるジョン・

    キーツへの傾倒や、『大理石の牧神』に見られるフランス象徴派からの影響と並んで、モダニズ

    ム芸術の影響はフォークナー初期作品の顕著な特徴となっている。『兵士の報酬』と『土にまみ

    れた旗』に見出される死と再生のテーマや、『蚊』(Mosquitoes, 1927)におけるアイロニーと芸

    術至上主義、若い女性との関係に執着する中年の男やもめタリアフェロのキャラクターなどは、

    T. S. エリオット(T. S. Eliot)の「プルーフロック」や「荒地」の反復でもあり、モダニスト

    たちからの強い影響なしには考えられない。『兵士の報酬』と『蚊』における第一次対戦時の若

    い男女の風俗描写と女性表象には、フォークナーに先んじてすでに流行作家となっていた F. ス

  • ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato

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    る。『土にまみれた旗』は、後のフォークナーの傑作を予兆しながらも、神話批判としては不完

    全であり、後の作品が持つ現代的な特質を必ずしも持ち合わせていない。

    William Faulkner’s third novel is sometimes called his “last apprentice work.” In spite of the

    strong influence of the new modernist culture on the writer, it is characterized by an ambiguous

    form that merges mythological narratives on the nineteenth-century American South and more

    modern realistic representations. The characters living in the present of the novel seem to resist

    the power of the mythological narratives, yet they have to succumb to them in the end. The

    modern novel is dominated by mythological narratives similar to those of Southern romances.

    The multiplying plots hint at the possibilities of criticizing the mythological past but they, for the

    most part, are subservient to the dominant mythological narrative on the past and the present of

    the Sartoris family.

    1. 革新性と保守性

    ウィリアム・フォークナーの第3作『土にまみれた旗』(Flags in the Dust, 1973)は、フォー

    クナーの作家としてのキャリアにおける最初の飛躍を画する長編小説であり、「ヨクナパトーフ

    ァ・サーガ」と呼ばれる南部の一ミリュを舞台としたバルザック的連作小説群の最初の作品と

    して、後の『響きと怒り』(The Sound and the Fury, 1929)や『サンクチュアリ』(Sanctuary, 1931)

    を準備したことで知られる。

    第一次世界大戦の帰還兵ベイヤード・サートリスとその双子の兄弟ジョン・サートリスの死

    とその余波を題材とし、黒人帰還兵のキャスピーが現在時におけるアクションの一部を担うな

    ど、この作品はフォークナーの第一作『兵士の報酬』(Soldier’s Pay, 1926)から続く「ロスト・

    ジェネレーション」、あるいは「荒地」的なテーマの延長線上にあるともいえるだろう。フォー

    クナー作品における形式的なアヴァンギャルドが本格化するのは『響きと怒り』以降になると

    はいえ、『土にまみれた旗』ではおもにホレス・ベンボーのキャラクターに見出されるジョン・

    キーツへの傾倒や、『大理石の牧神』に見られるフランス象徴派からの影響と並んで、モダニズ

    ム芸術の影響はフォークナー初期作品の顕著な特徴となっている。『兵士の報酬』と『土にまみ

    れた旗』に見出される死と再生のテーマや、『蚊』(Mosquitoes, 1927)におけるアイロニーと芸

    術至上主義、若い女性との関係に執着する中年の男やもめタリアフェロのキャラクターなどは、

    T. S. エリオット(T. S. Eliot)の「プルーフロック」や「荒地」の反復でもあり、モダニスト

    たちからの強い影響なしには考えられない。『兵士の報酬』と『蚊』における第一次対戦時の若

    い男女の風俗描写と女性表象には、フォークナーに先んじてすでに流行作家となっていた F. ス

    コット・フィッツジェラルドやアーネスト・ヘミングウェイの影響を感じとることもできる。

    リチャード・P・アダムズは、つぎのように述べている。

    A few critics have suggested that Faulkner, at some point in his early career, may have

    encountered T.S. Eliot’s essay “Ulysses, Order and Myth,” which was published in The Dial for

    November 1923. . . . I think it is also likely that Faulkner understood Eliot’s own use of “the

    mythical method” in The Waste Land (1922), Fitzgerald’s application of it in The Great Gatsby

    (1925), and Hemingway’s adoption of the same technique in The Sun Also Rises (1926). [Adams

    1968: 58]

    しかしそうした先進的傾向が見られる一方で、『土にまみれた旗』には、それとは一見正反対

    の保守的な傾向も顕著に見てとられる。マイケル・ミルゲイト(Michael Millgate)はこの傾向

    を“what might be called aboriginal, essentially conservative” な要素と“essentially experimental”

    な要素の混在であるとしている [Millgate 1997: 27]。周知の通り『土にまみれた旗』は、すで

    に『大理石の牧神』その他の詩集を出版し、詩人としてのキャリアに乗り出していたフォーク

    ナーに小説を書くきっかけを与えたシャーウッド・アンダーソンからの示唆により、フォーク

    ナーが自身にもっとも親しいアメリカ南部ミシシッピを舞台とした最初の作品でもあった

    [Minter 1980: 75]。さらに『土にまみれた旗』は、ドナルド・デヴィッドソン、ロバート・ペ

    ン・ウォレンなど南部出身の文人たちによる論集 I’ll Take My Stand (1930)で知られる、南部農

    本主義を基本とした旧南部の過去のロマンティックな理想化が許容された時代に執筆されても

    いる。その間のフォークナーの作品の変貌には目を見張るべきものがあるとはいえ、代表作『ア

    ブサロム・アブサロム!』(Absalom, Absalom!, 1936)が、マーガレット・ミッチェルによる旧

    南部を題材としたロマンス『風とともに去リぬ』(Gone with the Wind, 1936)と同年に出版され

    ていたことがここであらためて確認されてもよいかもしれない。1930 年代はまた、画家トマ

    ス・ベントン(Thomas Benton)などに代表される、アメリカ芸術におけるリアリスティック

    な地方主義(regionalism)への保守回帰によって特徴づけられる時代でもあった。ミルゲイト

    は、フォークナー初期作品における”the regionalist’s need to map his region”を強調している

    [Millgate1997: 76]。

    エリオットやエズラ・パウンド(Ezra Pound)など英米の文人たちだけではなく、ピカソ、

    ストラヴィンスキー、モーリス・ラベルなど多くのモダニストたちが、過去の様式を再生産す

    る新古典主義的傾向と革新性を同時に併せ持っていたことを想起してもよいだろう。フォーク

    ナーの保守性は、作家がそれに習ったモダニズムの芸術運動そのものに内在する要素でもあっ

  • 76 東京外国語大学論集第 99 号 (2019)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 99(2019)

    た。後の作品と比較して未熟であるとはいえ、『兵士の報酬』や『蚊』が構成や着想、テーマの

    点で前衛的特徴を持っているのにたいし、『土にまみれた旗』は古典的なリアリズム小説に近い

    形式で執筆されている。執筆に際しては、おそらくジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』

    (Dubliners, 1914)に触発されたアンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』(Winesberg, Ohio,

    1919)などが参照されたと想像されるが、『土にまみれた旗』の多くの部分を占める田園牧歌的

    なロマンティシズムを孕むプロットは、それへの批判的視点を孕みながらも、南部ロマンス的

    な自己完結性に特徴づけられるノスタルジックな表象に繋がる。次作『響と怒り』から『アブ

    サロム、アブサロム!』『野生の棕櫚』(The Wild Palms, 1938)にいたる最盛期の諸作品以上に、

    南部家父長制を肯定し、あからさまな人種差別や性差別を孕む旧南部的イデオロギーの再生産

    に貢献している。『土にまみれた旗』がヨクナパトーファ・サーガを構成する最初の作品だとす

    れば、後に述べるように、保守性はこの作品の特徴でもあるとともに克服されるべき限界でも

    あった可能性をここで確認しておいてもよいだろう。

    従来の多くの批評・研究は、『土にまみれた旗』を、『響きと怒り』や『サンクチュアリ』、あ

    るいは『アブサロム、アブサロム!』などの偉大な作品に繋がる過渡期として議論してきた。

    しかし、フォークナー自身の回想を引用する形でしばしば指摘されるように、この作品が作家

    の自信作でもあり、マーク・トゥエインやウィラ・キャザーなど他の作家の作品にも見出され

    る、比較的ありふれた南部的リアリズムの手法で執筆された唯一の作品であることを考えれば、

    この点にユニークな特質を見出し、上記の観点に沿ってあらためてその是非を議論してみるべ

    きなのかもしれない。

    2. 神話、アルージョンと断片化

    モダニズム文学・芸術一般の特徴が、アルージョンによる過去の作品への言及や、いわゆる

    「神話的方法」に見出されることは周知の通りであり、第一次世界大戦前後の混乱の時代の西

    欧「文明」の「混沌に形式を与える」ことがその目的であったとされている。エリオットの「荒

    地」における多層的アルージョン、フィッシャー・キング伝説、フレーザーの『金枝篇』やイ

    ンドの神話の利用、ジョイスの『ユリシーズ』におけるホメーロスの利用などがその例である

    ことも、今更述べるまでもない周知の事柄だろう。フォークナー自身が『死の床に横たわりて』

    (As I Lay Dying, 1930)で、ホメーロスを現在のプロットの下敷きとして用いたこともまたよ

    く知られている。

    モダニズム文学におけるアルージョンや「神話的方法」は、「意識の流れ」やイマジズムにお

    ける「イメージ」「事物」などと同様、歴史的所与として一般に理解されている。モダニズム芸

    術が芸術一般の絶対的基盤であると考えられた時代には、その方法としての絶対性は疑問視さ

  • ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato

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    た。後の作品と比較して未熟であるとはいえ、『兵士の報酬』や『蚊』が構成や着想、テーマの

    点で前衛的特徴を持っているのにたいし、『土にまみれた旗』は古典的なリアリズム小説に近い

    形式で執筆されている。執筆に際しては、おそらくジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』

    (Dubliners, 1914)に触発されたアンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』(Winesberg, Ohio,

    1919)などが参照されたと想像されるが、『土にまみれた旗』の多くの部分を占める田園牧歌的

    なロマンティシズムを孕むプロットは、それへの批判的視点を孕みながらも、南部ロマンス的

    な自己完結性に特徴づけられるノスタルジックな表象に繋がる。次作『響と怒り』から『アブ

    サロム、アブサロム!』『野生の棕櫚』(The Wild Palms, 1938)にいたる最盛期の諸作品以上に、

    南部家父長制を肯定し、あからさまな人種差別や性差別を孕む旧南部的イデオロギーの再生産

    に貢献している。『土にまみれた旗』がヨクナパトーファ・サーガを構成する最初の作品だとす

    れば、後に述べるように、保守性はこの作品の特徴でもあるとともに克服されるべき限界でも

    あった可能性をここで確認しておいてもよいだろう。

    従来の多くの批評・研究は、『土にまみれた旗』を、『響きと怒り』や『サンクチュアリ』、あ

    るいは『アブサロム、アブサロム!』などの偉大な作品に繋がる過渡期として議論してきた。

    しかし、フォークナー自身の回想を引用する形でしばしば指摘されるように、この作品が作家

    の自信作でもあり、マーク・トゥエインやウィラ・キャザーなど他の作家の作品にも見出され

    る、比較的ありふれた南部的リアリズムの手法で執筆された唯一の作品であることを考えれば、

    この点にユニークな特質を見出し、上記の観点に沿ってあらためてその是非を議論してみるべ

    きなのかもしれない。

    2. 神話、アルージョンと断片化

    モダニズム文学・芸術一般の特徴が、アルージョンによる過去の作品への言及や、いわゆる

    「神話的方法」に見出されることは周知の通りであり、第一次世界大戦前後の混乱の時代の西

    欧「文明」の「混沌に形式を与える」ことがその目的であったとされている。エリオットの「荒

    地」における多層的アルージョン、フィッシャー・キング伝説、フレーザーの『金枝篇』やイ

    ンドの神話の利用、ジョイスの『ユリシーズ』におけるホメーロスの利用などがその例である

    ことも、今更述べるまでもない周知の事柄だろう。フォークナー自身が『死の床に横たわりて』

    (As I Lay Dying, 1930)で、ホメーロスを現在のプロットの下敷きとして用いたこともまたよ

    く知られている。

    モダニズム文学におけるアルージョンや「神話的方法」は、「意識の流れ」やイマジズムにお

    ける「イメージ」「事物」などと同様、歴史的所与として一般に理解されている。モダニズム芸

    術が芸術一般の絶対的基盤であると考えられた時代には、その方法としての絶対性は疑問視さ

    れることもなく、多くの場合批判的に検討されることもなかった。しかし、モダニズムの時代

    とは異なった形で現在と過去の関係が見直され、エリオットの「伝統と個人の才能」における

    伝統の優位や、過去の現在にたいする優位性が疑問視されうる現在、モダニストたちの革新性

    と、伝統や歴史への傾斜が持つ意義が問い直されなければならないはずである。「神話的方法」

    はある種の固定化された歴史意識を作品に導入する。現代が混沌として無定形であり、それに

    秩序を与えるために過去の神話が必要とされるとするエリオットの発想は、過去を規範とする

    歴史化を絶対視することによって多くの他の可能性を捨象し、抑圧するものだったと言わざる

    を得ないだろう [Adams 1968: 58]。

    そもそもモダニズムの表向きの特徴は、過去の抑圧的芸術にたいする反逆と、その結果とし

    ての革新性であった。この時代には、ストラヴィンスキーやシェーンベルクの音楽、フォーク

    ナーへの影響が議論されもする、ピカソ、ブラックらによるキュビズムの絵画に代表されるよ

    うに、多くの過去の伝統的芸術形式が破棄された。そうした背景を考慮するならば、文学作品

    が過去の神話やエリオット的な過去の作品へのアルージョンによって秩序立てられることが必

    然であったとは考えにくい。また、作品の内在的秩序が絶対的に必要とされたわけでもなかっ

    たはずである。たとえばストラヴィンスキーによる『春の祭典』の音楽的秩序は、伝統的秩序

    から逸脱することそれ自体を目的としてもいた。内在的秩序を求めるとしても、モンドリアン

    のように幾何学的意匠にもとづいた擬似的秩序を構築したり、シェーンベルクのように従来の

    音階に代わる新しい音階法を用いるなど、神話以外の疑似的秩序を構想することもできたはず

    だからだ。

    そうであるにも関わらず、モダニズム文学における「神話的方法」は、ジョイスとその解釈

    者エリオットによって新しい革新的方法として絶対化され、西欧芸術の歴史的一局面となり、

    文学以外の芸術ジャンルでも頻繁に用いられ、モダニズム芸術を代表する手法となった。フォ

    ークナーをはじめとする多くの若い芸術家たちはその影響下にあって創作を開始した。その結

    果として、神話的過去の絶対化が現在に関する語りや表象を特徴づけ、現在を過去との対照に

    おいて描き出す手法が一般化したのだった。いうまでもなく『土にまみれた旗』もそうした風

    土の産物であり、モダニズム的ともロマンティシズム的ともつかない過去への憧憬とその絶対

    化は、歴史の現前を前提として語られるキーツの「ギリシャの甕」に似た物質性を伴って進行

    しつつある現在時を見下ろす、歴史的過程を超越した家父長としてのジョン・サートリスの像

    の偏在性とともに作品世界を支配している。

    通常、フォークナーがいわゆる「神話的方法」を用いたのは『響きと怒り』におけるキリス

    トの神話の利用以降であるとされる。しかし、『兵士の報酬』や『蚊』におけるギリシャ神話へ

    の言及や、『土にまみれた旗』の旧南部の神話への頻繁な言及は、モダニズムにおける神話への

  • 78 東京外国語大学論集第 99 号 (2019)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 99(2019)

    傾斜と少なくとも同一の方向性を指し示していると言ってよいだろう。『兵士の報酬』は、第一

    次世界大戦からの帰還兵たちと、男性たちに優越した強い意志を持つマーガレット・パワーズ

    など、当時の若者たちをリアリスティックに描きだす風俗小説であると同時に、すでにギリシ

    ャ神話やフレーザーの『金枝篇』、あるいはジグムント・フロイドの『トーテムとタブー』など

    に描かれた神話的過去に言及する作品でもあった [Adams 1968: 8-10]。ジョイスの『ユリシー

    ズ』を参照したともいわれる『蚊』もまた、神話的方法を取り入れていたとされているし、ミ

    ルゲイトが指摘するように、フォークナーはトーマス・マンとジョイスをエッセイで賞賛した

    こともあった [Millgate 1997: 86]。

    3.『土にまみれた旗』における南部の神話とリアリズム

    「ヨクナパトーファ・カウンティー(Yoknapatawpha County)」と後に命名されることにな

    る南部ミシシッピのミリュを、アンダーソンの示唆を受け入れる形でフォークナーが描きだす

    にあたっては、後に“little postage stamp”と呼び、自ら地図に描いた半ば架空の地理的空間だけ

    でなく、そのリアリティや現在の様相が南部の神話的過去によって深く影響された、神話とも

    現実ともいえない幻想的な空間が想定されていたはずである。それを極めてモダンなリアリズ

    ム改変の試みであったと考えることもできるし、後に「マジック・リアリズム」と呼ばれるよ

    うになった、より現代的な文学のモードの萌芽であったと考えることもできるだろう。アメリ

    カ南部の神話は、モダニズム芸術全般に見られる神話とは異なるものかもしれない。しかし、

    「ヨクナパトーファ」を舞台とする『土にまみれた旗』以降のフォークナーの代表作は、何よ

    りもまず、現在を拘束し偏った形式を与える南部の神話や伝承と現在との葛藤によって特徴づ

    けられており、19世紀南北戦争以来の過去と現在の関係の再検討が、『響きと怒り』や『アブ

    サロム、アブサロム!』など、フォークナーの代表作の主要なテーマとなっていることは明ら

    かだ。『土にまみれた旗』に関しても、たとえばジュディス・ロッキャーは以下のようにその特

    質を解説している。

    Flags marks Faulkner’s effort to unite his desire for authority as an author with his

    knowledge of the presence of the other in language. The effort is incomplete, in part because the

    two ideas may be irreconcilable and in part because so much of Flags is an elegy for the past.

    The novel certainly mourns a past that memory and words can only present; yet in the

    writing of that past, it very often becomes as real as the present. [Lockyer 1991: 21-22; my italics]

    こうした創作の過程で、登場人物たちの自我の構築性や、人種、ジェンダーにまつわる諸問題

  • ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato

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    傾斜と少なくとも同一の方向性を指し示していると言ってよいだろう。『兵士の報酬』は、第一

    次世界大戦からの帰還兵たちと、男性たちに優越した強い意志を持つマーガレット・パワーズ

    など、当時の若者たちをリアリスティックに描きだす風俗小説であると同時に、すでにギリシ

    ャ神話やフレーザーの『金枝篇』、あるいはジグムント・フロイドの『トーテムとタブー』など

    に描かれた神話的過去に言及する作品でもあった [Adams 1968: 8-10]。ジョイスの『ユリシー

    ズ』を参照したともいわれる『蚊』もまた、神話的方法を取り入れていたとされているし、ミ

    ルゲイトが指摘するように、フォークナーはトーマス・マンとジョイスをエッセイで賞賛した

    こともあった [Millgate 1997: 86]。

    3.『土にまみれた旗』における南部の神話とリアリズム

    「ヨクナパトーファ・カウンティー(Yoknapatawpha County)」と後に命名されることにな

    る南部ミシシッピのミリュを、アンダーソンの示唆を受け入れる形でフォークナーが描きだす

    にあたっては、後に“little postage stamp”と呼び、自ら地図に描いた半ば架空の地理的空間だけ

    でなく、そのリアリティや現在の様相が南部の神話的過去によって深く影響された、神話とも

    現実ともいえない幻想的な空間が想定されていたはずである。それを極めてモダンなリアリズ

    ム改変の試みであったと考えることもできるし、後に「マジック・リアリズム」と呼ばれるよ

    うになった、より現代的な文学のモードの萌芽であったと考えることもできるだろう。アメリ

    カ南部の神話は、モダニズム芸術全般に見られる神話とは異なるものかもしれない。しかし、

    「ヨクナパトーファ」を舞台とする『土にまみれた旗』以降のフォークナーの代表作は、何よ

    りもまず、現在を拘束し偏った形式を与える南部の神話や伝承と現在との葛藤によって特徴づ

    けられており、19世紀南北戦争以来の過去と現在の関係の再検討が、『響きと怒り』や『アブ

    サロム、アブサロム!』など、フォークナーの代表作の主要なテーマとなっていることは明ら

    かだ。『土にまみれた旗』に関しても、たとえばジュディス・ロッキャーは以下のようにその特

    質を解説している。

    Flags marks Faulkner’s effort to unite his desire for authority as an author with his

    knowledge of the presence of the other in language. The effort is incomplete, in part because the

    two ideas may be irreconcilable and in part because so much of Flags is an elegy for the past.

    The novel certainly mourns a past that memory and words can only present; yet in the

    writing of that past, it very often becomes as real as the present. [Lockyer 1991: 21-22; my italics]

    こうした創作の過程で、登場人物たちの自我の構築性や、人種、ジェンダーにまつわる諸問題

    が真剣な批判的検討の焦点となり、現代の読者の興味を惹きつける[Snead 1986: 2-7]。アメリカ

    南部とその過去を題材とするフォークナーの作品一般が保守的でも革新的でもありまたアクチ

    ュアルでもあるのは、神話や過去と現在との関係にたいする先鋭な問題意識が、南北戦争後の

    アメリカ南部における語りの精緻な再検討を迫るからにほかならない。

    『土にまみれた旗』では、現在を生きつつも神話的過去の呪縛によって自死に近い死を遂げ

    る双子のベイヤード・サートリスとジョン・サートリスが従軍する第一次世界大戦と、サート

    リス家の伝説的家父長であるジョン・サートリスとキャロライナのベイヤード・サートリスが

    従軍した南北戦争との対比によって現在と過去の関係が描かれる。よく知られた作品冒頭では、

    フォールズ老人が家父長ジョン・サートリスのパイプをジョンの息子であるベイヤード・サー

    トリスに渡し、ジョン・サートリスが南北戦争当時、北軍兵士を出し抜いて家を無事脱出した

    武勇伝の一幕を、自分と同じように耳が不自由なベイヤードに向かってがなりたてる。舞台と

    なるジェファーソンの街は、老人たちのこうした声高な神話的語りや、ベイヤードの叔母にあ

    たるミス・ジェニー・デュプレによる、サートリス家の過去やその宿命に関する語りにみちて

    いる。若いジョンおよびベイヤード・サートリスと、サートリス家と並ぶもう一つの旧家であ

    るベンボー家のホレスとナーシッサなど、旧南部の貴族の家に生まれた現代の若者たちは、彼

    らよりも強い存在感を持つ老人たちと、彼らの過去に関する語りに囲まれている。同じく帰還

    兵のテーマを扱いながらも『土にまみれた旗』と『兵士の報酬』が大きく異なっているのは、

    『兵士の報酬』では、第一次大戦で傷ついた帰還兵ドナルド・メホンや、同じく帰還兵のジョ

    ー・ギリガン、大戦時の無謀な結婚によって若くして寡婦となったマーガレット・パワーズ、

    メホンの婚約者シシリー・サンダースなど若い世代が作品の中心となっており、メホンやシシ

    リーの年老いた親たちや彼らの家の過去が重要な意味を担うことがない点である。

    『土にまみれた旗』におけるジョン・サートリスを中心とした神話が、様々な補助的装置に

    よって補強されていることにも注目しなければならないだろう。作品冒頭でフォールズ老人が

    取り出すジョン・サートリスのパイプを始めとして、『土にまみれた旗』は神話を補強し具現化

    する現前としての象徴的事物にみちている。大理石で造られたジョン・サートリスの像は、老

    ベイヤード・サートリスの最期など重要な場面で繰り返し言及されるし、ジョン・サートリス

    がカーペット・バッガーたちを射殺する際に使ったデリンジャー銃、一族の過去の聖域である

    サートリス家の屋敷の客間に保管された刀剣類など、サートリス家の過去は、男性的アイデン

    ティティを反復的に確認するファリックな象徴性を帯びた数々の記念品によって、言語のみな

    らず物質的存在による裏づけを与えられてもいる。作品の現在時において、フォールズ老人や

    医師ピーボディと並んで彼ら以上に特権的な神話化の役割を担うミス・ジェニーは、熟したワ

    インに例えられる芸術性を帯び、神話的語りの隠喩にもなっているステンド・グラスを、ノー

  • 80 東京外国語大学論集第 99 号 (2019)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 99(2019)

    ス・キャロライナの家からジェファーソンへと運んでくる。老ベイヤードが家族の死没年月日

    を書き入れるファミリー・バイブルも重要な道具立ての一つとなっている。第一次大戦で無謀

    な死を遂げた若いジョン・サートリスや若いベイヤード・サートリスの妻子もまた、そこに名

    前と生没年を書き入れられることによって、意味なく暴力的な死を遂げるサートリス家の伝統

    に連なることとなる [Faulkner 1973: 97]。それらの事物とともに神話は現実あるいは歴史その

    ものであるかのように立ち現れ、現在時のリアリティを支配しつつ、ロッキャーが上で指摘す

    るようにあたかも神話とリアリズムが同一であるかのような幻想を生み出す。サートリス家の

    神話が現代において有効であることを示すかのように無謀な死を遂げた双子の兄弟ジョンの死

    を悼み、帰還後の葛藤を経てサートリス家の神話を自らも反復するかのようにして死んでゆく

    若いベイヤード・サートリスは、神話的過去によって形成される自我と、それに抵抗し葛藤す

    る現代の個人としての矛盾を演じ、ベイヤードという名が示唆する神話的ロマンスのキャラク

    ターとしての在り方と、現代を舞台としたリアリズム小説の心理的焦点としてのあり方の葛藤

    を提示しているとはいえないだろうか。後の『征服されざる者』(The Unvanquished, 1938)で

    父ジョン・サートリスの暴力を反復することを拒む老ベイヤードと同様、若いベイヤードは元

    来サートリス家の暴力と死の神話に囚われていたわけではおそらくない。出征前のベイヤード

    には、伝統的な南部女性である後の妻ナーシッサとは対照的な現代風の妻がおり、ミス・ジェ

    ニーが回想するように、南部の伝統にそぐわない生活を送っていたのだった [Faulkner 1973:

    55]。ダブリングの増殖によって対照を示すことがよい意味でも悪い意味でも原則となっている

    この作品において、ベイヤードの2人の妻たちは彼のキャラクターの二面性を示す装置にもな

    っている。

    4. サートリス家の神話とその批判

    『土にまみれた旗』を読む際の最も重要な要のひとつは、神話とリアリズムの混在をどのよ

    うに理解するかであろう。それがもたらす幻想性をこの作品のモダニズム的特質として賞賛す

    ることもできるし、逆にリアリズムの美学が完全に達成されなかった一例として批判すること

    もできる。あるいはその両者の混在を不完全さの兆候と考えることもできるだろう。多くの批

    評家たちがこの作品をフォークナー「最後の習作 (the last of his apparentice works)」と見なす

    のは、そのどちらともつかない作品の特質が作品の効果を損なうからなのかもしれない

    [Adams 1968: 49]。本作があくまで萌芽的なレベルの作品にとどまっていると判断するのはよ

    いとしても、ミシェル・グレッセなどがそうしたように、本作をその続編ともいえる『サンク

    チュアリ』と関連づけて解釈するなどすれば、そのような曖昧さに、通常のリアリズムを解体

    し、大きく変容させる萌芽が秘められてもいることが理解されるのである。『土にまみれた旗』

  • ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato

    81

    ス・キャロライナの家からジェファーソンへと運んでくる。老ベイヤードが家族の死没年月日

    を書き入れるファミリー・バイブルも重要な道具立ての一つとなっている。第一次大戦で無謀

    な死を遂げた若いジョン・サートリスや若いベイヤード・サートリスの妻子もまた、そこに名

    前と生没年を書き入れられることによって、意味なく暴力的な死を遂げるサートリス家の伝統

    に連なることとなる [Faulkner 1973: 97]。それらの事物とともに神話は現実あるいは歴史その

    ものであるかのように立ち現れ、現在時のリアリティを支配しつつ、ロッキャーが上で指摘す

    るようにあたかも神話とリアリズムが同一であるかのような幻想を生み出す。サートリス家の

    神話が現代において有効であることを示すかのように無謀な死を遂げた双子の兄弟ジョンの死

    を悼み、帰還後の葛藤を経てサートリス家の神話を自らも反復するかのようにして死んでゆく

    若いベイヤード・サートリスは、神話的過去によって形成される自我と、それに抵抗し葛藤す

    る現代の個人としての矛盾を演じ、ベイヤードという名が示唆する神話的ロマンスのキャラク

    ターとしての在り方と、現代を舞台としたリアリズム小説の心理的焦点としてのあり方の葛藤

    を提示しているとはいえないだろうか。後の『征服されざる者』(The Unvanquished, 1938)で

    父ジョン・サートリスの暴力を反復することを拒む老ベイヤードと同様、若いベイヤードは元

    来サートリス家の暴力と死の神話に囚われていたわけではおそらくない。出征前のベイヤード

    には、伝統的な南部女性である後の妻ナーシッサとは対照的な現代風の妻がおり、ミス・ジェ

    ニーが回想するように、南部の伝統にそぐわない生活を送っていたのだった [Faulkner 1973:

    55]。ダブリングの増殖によって対照を示すことがよい意味でも悪い意味でも原則となっている

    この作品において、ベイヤードの2人の妻たちは彼のキャラクターの二面性を示す装置にもな

    っている。

    4. サートリス家の神話とその批判

    『土にまみれた旗』を読む際の最も重要な要のひとつは、神話とリアリズムの混在をどのよ

    うに理解するかであろう。それがもたらす幻想性をこの作品のモダニズム的特質として賞賛す

    ることもできるし、逆にリアリズムの美学が完全に達成されなかった一例として批判すること

    もできる。あるいはその両者の混在を不完全さの兆候と考えることもできるだろう。多くの批

    評家たちがこの作品をフォークナー「最後の習作 (the last of his apparentice works)」と見なす

    のは、そのどちらともつかない作品の特質が作品の効果を損なうからなのかもしれない

    [Adams 1968: 49]。本作があくまで萌芽的なレベルの作品にとどまっていると判断するのはよ

    いとしても、ミシェル・グレッセなどがそうしたように、本作をその続編ともいえる『サンク

    チュアリ』と関連づけて解釈するなどすれば、そのような曖昧さに、通常のリアリズムを解体

    し、大きく変容させる萌芽が秘められてもいることが理解されるのである。『土にまみれた旗』

    のホレス・ベンボーとポパイが登場する『サンクチュアリ』冒頭のシーンでは、フォークナー

    は読者を“a realistic setting . . . and its dream . . . equivalent”へと誘う、とグレッセは指摘してい

    る[Gresset 1989: 148]。

    本作の最初のヴァージョンが出版を受け入れられず、作家の友人ベン・ワッソン(Ben Wasson)

    による改訂を経て『サートリス』として出版された経緯はよく知られており、研究者たちの関

    心を惹きつけてきた [Minter 1980: 88-90]。その主な理由が、『土にまみれた旗』が異なるプロ

    ットの混在によって成り立ち、“diffuse and nonintegral”であったことも周知の通りである

    [Minter 1980: 88]。しかし、たんに冗長さやプロットの複層性だけがこの作品の問題点であっ

    たと断定することはできない。『サンクチュアリ』や『八月の光』を参照すればただちに理解さ

    れることだが、フォークナーの作品の一部、とくに強くリアリズムに依拠したものは、多くの

    場合冗長で複層的だからだ。

    おそらく最大の問題点は、『土にまみれた旗』の効果の曖昧さであり、またとくにその曖昧さ

    に孕まれる矛盾にあるだろう。フォークナーが自信を持って完成させた『土にまみれた旗』の

    エンディングは、ついに無謀な死を遂げた若いベイヤードと妻ナーシッサとの間に生まれた息

    子「ベンボー・サートリス」の将来をめぐる、ミス・ジェニーとナーシッサとの議論で終わっ

    ている。ミス・ジェニーが提案する「ジョン」という名前を拒否し、「ベンボー」と名づけるこ

    とによって息子をサートリス家の神話の呪縛から解き放とうとするナーシッサにたいし、ミ

    ス・ジェニーはそんなことをしても無駄であり、サートリス家の呪縛から逃れることはできな

    いと言う[Faulkner 1973: 432-33]。後の作品におけるベンジーやジム・ボンドの叫びのように、

    サートリス家の最後の末裔の未来が曖昧なまま作品は幕を閉じることになるのだが、『兵士の報

    酬』や『蚊』などの初期作品にすでに見られ、後の多くのフォークナー作品を特徴づけること

    になるこうしたオープン・エンディングは、曖昧さが作者によって肯定されていたことの証左

    である。神話の絶対性を問い直す『土にまみれた旗』のエンディングの曖昧さは、そもそも神

    話的過去と現在との関係を問う『土にまみれた旗』のテーマの延長線上にある。多くの批評家

    が、ここで見出されたテーマがフォークナー生涯の課題となったと考えている。エリック・サ

    ンキストはつぎのように述べる。

    In particular, it[Satroris] anticipates a problem Faulkner would never fully resolve but,

    rather, would make the implied subject of all his work: that the estrangement of present from

    past is absolutely central to Southern experience and often creates the pressured situation in

    which the past becomes an ever more ghostly and gloriously imposing model . . . . [Sundquist

    1983: 7].

  • 82 東京外国語大学論集第 99 号 (2019)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 99(2019)

    こうした意味では、エンディングの曖昧さは作品のテーマとそれが提示する問いをむしろ明確

    化しているとも言えるだろう。神話的過去からの脱却の可能性が作品の進行にともなうひとつ

    のプロセスとして問われているのであれば、曖昧さはこの作品の美点でもあるかも知れないの

    だ。

    エンディングが示唆するように、『土にまみれた旗』のサートリス家に関わるプロットが、お

    もに神話の絶対性とそれからの脱却の可能性を問うプロセスであるとすれば、現代を生きる南

    部貴族の末裔の苦悩と敗北という『響きと怒り』や『アブサロム、アブサロム!』につながる

    テーマの探求を先取りしていた『土にまみれた旗』あるいは『サートリス』は、後の傑作にお

    ける南部の神話の解体を予期する優れた特質を示していると言える。フォークナーの「ヨクナ

    パトーファ」は、当初から男性的自我と南部の神話の解体と不可分なものとして成立したので

    あろう。

    5. 神話の暴力性とリアリズムの敗北

    しかし、故郷南部と断絶したマサチューセッツ州ケンブリッジで神話的南部のミリュを回想

    する『響きと怒り』のクエンティン・コンプソンとは異なり、若いベイヤード・サートリスは

    何よりもまず、南部の神話的ミリュに囲い込まれ、その神話的環境の中で現代を生きる若い南

    部人としてのアイデンティティを確立しなければならない。その助けとなるのは、神話的南部

    の継承者である老ベイヤードと、一方でウィスキーの代わりにミルクを差し出す母親の役割を

    果たしつつ、家系に連なる男たちの暴力的な死の神話を反復し再生産するミス・ジェニー、古

    典的な南部女性の生き方を現代において実践するかのようなナーシッサ、そしてサートリス家

    の過去の栄光を盲目的に信奉する、サイモンを筆頭とした忠実な黒人の召使いたち、狩猟を通

    して牧歌的な自然との合一をベイヤードに思い出させるマッキャラム家のものたちである。こ

    れらのキャラクターたちのほとんどは、サートリス家の神話を現代に再現するかのようにして

    自死に近い死を遂げる双子の兄弟ジョンと同様、サートリス家と旧南部の神話を反復し肯定す

    る [Davis 1983: 66]。老ベイヤードとサイモンにいたっては、若いベイヤードに前後していずれ

    も自ら非業の死を遂げるのである。ときに若いベイヤードの身の安全を慮り、サートリス家の

    神話を信じない合理的、客観的視点を垣間見せる老ベイヤードも、心臓の病による死の危険を

    承知の上で暴走する若いベイヤードの自動車に同乗し、発作を起こして命を落とす。家系にま

    つわる神話との葛藤を垣間見せる老ベイヤードも、結局のところサートリス家の男性の伝統に

    習い、意味なく暴力的な死を遂げるのだ。

    サートリス家の父権的伝統とは、あらかじめ死んでいること、あるいは生きながらもあらか

  • ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato

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    こうした意味では、エンディングの曖昧さは作品のテーマとそれが提示する問いをむしろ明確

    化しているとも言えるだろう。神話的過去からの脱却の可能性が作品の進行にともなうひとつ

    のプロセスとして問われているのであれば、曖昧さはこの作品の美点でもあるかも知れないの

    だ。

    エンディングが示唆するように、『土にまみれた旗』のサートリス家に関わるプロットが、お

    もに神話の絶対性とそれからの脱却の可能性を問うプロセスであるとすれば、現代を生きる南

    部貴族の末裔の苦悩と敗北という『響きと怒り』や『アブサロム、アブサロム!』につながる

    テーマの探求を先取りしていた『土にまみれた旗』あるいは『サートリス』は、後の傑作にお

    ける南部の神話の解体を予期する優れた特質を示していると言える。フォークナーの「ヨクナ

    パトーファ」は、当初から男性的自我と南部の神話の解体と不可分なものとして成立したので

    あろう。

    5. 神話の暴力性とリアリズムの敗北

    しかし、故郷南部と断絶したマサチューセッツ州ケンブリッジで神話的南部のミリュを回想

    する『響きと怒り』のクエンティン・コンプソンとは異なり、若いベイヤード・サートリスは

    何よりもまず、南部の神話的ミリュに囲い込まれ、その神話的環境の中で現代を生きる若い南

    部人としてのアイデンティティを確立しなければならない。その助けとなるのは、神話的南部

    の継承者である老ベイヤードと、一方でウィスキーの代わりにミルクを差し出す母親の役割を

    果たしつつ、家系に連なる男たちの暴力的な死の神話を反復し再生産するミス・ジェニー、古

    典的な南部女性の生き方を現代において実践するかのようなナーシッサ、そしてサートリス家

    の過去の栄光を盲目的に信奉する、サイモンを筆頭とした忠実な黒人の召使いたち、狩猟を通

    して牧歌的な自然との合一をベイヤードに思い出させるマッキャラム家のものたちである。こ

    れらのキャラクターたちのほとんどは、サートリス家の神話を現代に再現するかのようにして

    自死に近い死を遂げる双子の兄弟ジョンと同様、サートリス家と旧南部の神話を反復し肯定す

    る [Davis 1983: 66]。老ベイヤードとサイモンにいたっては、若いベイヤードに前後していずれ

    も自ら非業の死を遂げるのである。ときに若いベイヤードの身の安全を慮り、サートリス家の

    神話を信じない合理的、客観的視点を垣間見せる老ベイヤードも、心臓の病による死の危険を

    承知の上で暴走する若いベイヤードの自動車に同乗し、発作を起こして命を落とす。家系にま

    つわる神話との葛藤を垣間見せる老ベイヤードも、結局のところサートリス家の男性の伝統に

    習い、意味なく暴力的な死を遂げるのだ。

    サートリス家の父権的伝統とは、あらかじめ死んでいること、あるいは生きながらもあらか

    じめ暴力的で無意味な死を運命づけられていることである。プロットの多層的な分裂によって

    断片化された『土にまみれた旗』で最も強い存在感を放つのは、死を具象化するかのように聳

    え立つジョン・サートリスの石像であり、サートリス家の墓の墓石である。それらは死んだ過

    去の現在に対する優越性を、物質的な堅牢さによって示しているかのように思われる。ミス・

    ジェニーの語りもまた、それに比肩する影響力を作品に及ぼしている。後の作品に登場するキ

    ャディー・コンプソン、アディー・バンドレン、ジョアナ・バーデン、ドゥルージラ・サート

    リスなど、フォークナーの女性キャラクターたちの多くに似て、ミス・ジェニーは男性たちを

    助け育む母性や女性性と、死への怜悧で不吉な感覚を併せ持っている。現在のサートリス家の

    男たちを支えるミス・ジェニーこそが、サートリス家の神話を反復して流通し、一族の男性た

    ちの生と死を規定する不吉な役割を果たしているのだ。

    帰還後の若いベイヤードは、荒れ馬からの落馬、橋からの自動車の落下、老ベイヤードの死

    を招いた自動車事故をへて、旅行先での新型飛行機の実験でついに命を落とす。その限りでは

    若いベイヤードもまた、結果としてサートリス家の神話の現代における有効性を証し立ててい

    る。旧南部を象徴する馬や馬車、デリンジャー銃などの事物に代わって、若い世代のジョンと

    ベイヤードの暴力と死には、新しい世代の道具立てとして飛行機や飛行船、自動車などが用意

    されている。しかし、あくまでも神話を補完する象徴として機能する点で、それらはサイモン

    の馬車やジョン・サートリスのデリンジャー銃と変わりない。『土にまみれた旗』の複層的なプ

    ロットの大部分は、旧南部的な白人男性中心の家系とアイデンティティの神話を反復する結果

    に終わっている。

    6. 作品における葛藤とその形式的問題

    サイモン、キャスピー、アイソムら、サートリス家に代々仕えてきた黒人家族に関するエピ

    ソードにも相応の紙面が割かれており、黒人たちの存在が重要視されていることが理解される。

    しかし彼らは、あくまでも白人たちに忠実で、白人男性中心の差別的イデオロギーを強化する

    駒となっているにすぎず、『響きと怒り』のディルジーや『アブサロム、アブサロム!』のクラ

    イティーのように、白人たちの振る舞いへの批判的視点を提供するわけではない。

    若いベイヤードとほぼ同時にジェファーソンへ帰還する黒人帰還兵キャスピーは、第一次大

    戦、とくにヨーロッパ戦線への参加が黒人男性たちにもたらした変化と人権意識の高まりを典

    型的に示す例となりうるはずである。第一次対戦がアフリカン=アメリカンの人権意識の高ま

    りに繋がったことは、アメリカ史における常識的な知識でもあり、フォークナーだけでなくリ

    チャード・ライトが「長く黒い歌(Long Black Song)」で、ヒロインの出征した元恋人のエピ

    ソードを時代背景として利用するなど、文学作品でもしばしば触れられている [Wright 1991:

  • 84 東京外国語大学論集第 99 号 (2019)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 99(2019)

    140]。しかし『土にまみれた旗』でのキャスピーの人種差別への抵抗は、積極的な社会的意義

    を持つというよりも、愚かな怠け者という黒人のステロタイプを肯定し強化する笑劇の一幕と

    して提示されているにすぎない。老ベイヤードを揶揄し命令に逆らうキャスピーが、老ベイヤ

    ードに薪の一片であっさりと殴り倒されるエピソードは、本作における人種関係の表象のなか

    で最も衝撃的な場面である。『土にまみれた旗』が執筆された 1920 年代末はいまだ人種差別が

    肯定されていた時代であり、こうした暴力的場面が書かれ出版されたとしても不思議でなかっ

    たとはいえ、この場面で読者は、旧南部の神話に根ざした白人の家系の神話が、何よりも暴力

    によって支えられていたことに気づくはずだ。しかし、そうした気づきの可能性が与えられて

    いながらも、それが南部社会の批判に繋がることはない。キャスピーは暴力に屈し、父親のサ

    イモンに促されて老ベイヤードに従うのである [Davis 1983: 67]。また、キャスピーは白人女性

    との親しい関係という、南部の階級制度と人種関係にとってきわめて重要でセンシティヴな問

    題にも触れている [Faulkner 1973: 67]。しかし、キャスピーが実際に白人女性に親しくする素

    振りを見せる場面は描かれていない。

    このようにサートリス家に関わるプロットの大部分は、結局のところ南部白人のイデオロギ

    ーを肯定し、神話のパターンに回収されてしまう。エンディングでジョン・サートリスの墓石

    の刻印がことさらに強調され、またその神話の性質があらためて説明されるため、その神話の

    圧倒的な優位性が反復的に強調される結果となっている [Faulkner 1973: 426]。あくまで第一次

    大戦後の現在時に舞台がおかれたリアリズム的な現代小説でありながらも、『土にまみれた旗』

    の現在時でのアクションも語りも、最後には墓石とその刻印に還元されてしまう若いベイヤー

    ドに似て、神話化と死と固定化を免れない。ベイヤードが動きにみちた荒れ馬や自動車、翼の

    固定金具を省いた新設計の飛行機などに惹かれるのは、おそらくそうした還元と固定化に意識

    的あるいは無意識的に抵抗するためだろう。しかし、その抵抗は可能性にとどまり、神話に忠

    実な死を遂げる若いベイヤードのキャラクターにおいて結局は無意味であり、抵抗としての意

    味をなさない。作品の大部分を占めるサートリス家に関わるプロットは、現在に関するリアリ

    スティックな描写を侵食し呑み込む暴力的な神話の反復として理解されざるを得ないのだ。そ

    の意味で若いベイヤードの死は、白人か黒人か人種的アイデンティティが判然としない『八月

    の光』のジョー・クリスマスが、南部のコミュニティが共有する人種と性に関する言説によっ

    て黒人として殺される事例と類似している 。フォークナー作品におけるこの2つの死の事例は、

    ガブリエル・ガルシア=マルケスがフォークナーに習って描いた『予告された殺人の記録』の

    噂によって必然化される殺人と同様、共同体の神話や言説が個人を規定し抹殺してゆく力とそ

    のプロセスを強調している。神話の暴力性を逃れ、肯定的な生の可能性をかろうじて残すのは、

    サートリス家の愚かな悲劇を見守るかのように偏在する自然との親和性を持つナーシッサと、

  • ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato

    85

    140]。しかし『土にまみれた旗』でのキャスピーの人種差別への抵抗は、積極的な社会的意義

    を持つというよりも、愚かな怠け者という黒人のステロタイプを肯定し強化する笑劇の一幕と

    して提示されているにすぎない。老ベイヤードを揶揄し命令に逆らうキャスピーが、老ベイヤ

    ードに薪の一片であっさりと殴り倒されるエピソードは、本作における人種関係の表象のなか

    で最も衝撃的な場面である。『土にまみれた旗』が執筆された 1920 年代末はいまだ人種差別が

    肯定されていた時代であり、こうした暴力的場面が書かれ出版されたとしても不思議でなかっ

    たとはいえ、この場面で読者は、旧南部の神話に根ざした白人の家系の神話が、何よりも暴力

    によって支えられていたことに気づくはずだ。しかし、そうした気づきの可能性が与えられて

    いながらも、それが南部社会の批判に繋がることはない。キャスピーは暴力に屈し、父親のサ

    イモンに促されて老ベイヤードに従うのである [Davis 1983: 67]。また、キャスピーは白人女性

    との親しい関係という、南部の階級制度と人種関係にとってきわめて重要でセンシティヴな問

    題にも触れている [Faulkner 1973: 67]。しかし、キャスピーが実際に白人女性に親しくする素

    振りを見せる場面は描かれていない。

    このようにサートリス家に関わるプロットの大部分は、結局のところ南部白人のイデオロギ

    ーを肯定し、神話のパターンに回収されてしまう。エンディングでジョン・サートリスの墓石

    の刻印がことさらに強調され、またその神話の性質があらためて説明されるため、その神話の

    圧倒的な優位性が反復的に強調される結果となっている [Faulkner 1973: 426]。あくまで第一次

    大戦後の現在時に舞台がおかれたリアリズム的な現代小説でありながらも、『土にまみれた旗』

    の現在時でのアクションも語りも、最後には墓石とその刻印に還元されてしまう若いベイヤー

    ドに似て、神話化と死と固定化を免れない。ベイヤードが動きにみちた荒れ馬や自動車、翼の

    固定金具を省いた新設計の飛行機などに惹かれるのは、おそらくそうした還元と固定化に意識

    的あるいは無意識的に抵抗するためだろう。しかし、その抵抗は可能性にとどまり、神話に忠

    実な死を遂げる若いベイヤードのキャラクターにおいて結局は無意味であり、抵抗としての意

    味をなさない。作品の大部分を占めるサートリス家に関わるプロットは、現在に関するリアリ

    スティックな描写を侵食し呑み込む暴力的な神話の反復として理解されざるを得ないのだ。そ

    の意味で若いベイヤードの死は、白人か黒人か人種的アイデンティティが判然としない『八月

    の光』のジョー・クリスマスが、南部のコミュニティが共有する人種と性に関する言説によっ

    て黒人として殺される事例と類似している 。フォークナー作品におけるこの2つの死の事例は、

    ガブリエル・ガルシア=マルケスがフォークナーに習って描いた『予告された殺人の記録』の

    噂によって必然化される殺人と同様、共同体の神話や言説が個人を規定し抹殺してゆく力とそ

    のプロセスを強調している。神話の暴力性を逃れ、肯定的な生の可能性をかろうじて残すのは、

    サートリス家の愚かな悲劇を見守るかのように偏在する自然との親和性を持つナーシッサと、

    神話からの脱却の可能性を担う彼女とベイヤードの息子だけである。

    サートリス家の物語が論理的にも分量的にも作品の中心的をなす構成を見れば、『土にまみれ

    た旗』が改訂され『サートリス』というタイトルで出版されたことには十分な理由があったと

    納得できるはずである。この作品の大部分は旧南部の神話そのものを現代に再現し、それが孕

    むイデオロギーを再提示する物語を構成しており、本作を読む読者はそれをなぞらざるを得な

    い。神話的暴力への批判と抵抗は、若いベイヤードの心理の断片や、周辺的なプロットが提供

    する、サートリス家や貴族の末裔たちへの内在的な批判の可能性をのぞき、きわめて不十分に

    しか提示されていないからだ。『蚊』以降のフォークナーの緻密な文章はすでに完成された作家

    の安定感と技量を見せており、その意味では『土にまみれた旗』が十分に完成された作品であ

    ると認めることもできるだろう。しかし、作品の魅力の多くは、南部の過去に属する英雄的物

    語や、白人男性中心のイデオロギーへの賛同を促すアクションの数々、それを肯定する女性と

    黒人たちの形式化された語りや行動の美しさに依拠して成り立っていると判断せざるを得ない

    のだ。キャロライン・ポーター(Carolyn Porter)は、この作品の多層的な豊かさを肯定・否定

    両面にとらえている。[Porter 2007: 35]。しかし、読者はいくぶんの違和感と抵抗を感じながら、

    現実味を欠いた南部ロマンスや、ヒーローの信じがたい行動を描いた大衆小説を消費するよう

    にして作品を鑑賞せざるを得ないだろう。ジョン・サートリスの過去の栄光や、南北戦争時の

    華々しいエピソード、若いジョンとベイヤードの理解しがたい暴力性と死などが、たとえ現代

    読まれるに値すると仮定しても、それがこの作品を批評精神に富んだ小説として高く評価する

    理由となることはおそらくあり得ない。モダニズム以降の作家であったフォークナーを、南部

    的物語の作家として評価することはおそらく不可能であろう。

    フォークナーによる南部の神話批判の到達点である『アブサロム、アブサロム!』において、

    クエンティン・コンプソンとともにトマス・サトペンの神話を再構築するカナダ出身の学生シ

    ュリーヴ・マッキャノンが、アメリカ南部的語りを物語として消費する読者を代表しているこ

    とをここで思い出してみてもいいだろう。南部の神話に囲まれて育ったクエンティンがサトペ

    ンの神話を必ずしも相対化し得ないのにたいして、シュリーヴは南部という地域とその神話を

    客観視し、読者の共感の一部を担う重要な視点を提供している [Faulkner 1986: 302]。『土にま

    みれた旗』には、そうした客観化を担い、読者の共感を繋ぎ止める批評装置は用意されていな

    い。そのためおそらく『土にまみれた旗』の読者は、若いベイヤードその他のキャラクターた

    ちに十分に感情移入し得ない距離感を『アブサロム、アブサロム』のシュリーヴ同様に感じざ

    るを得ず、その距離感を正当なものとして認識し、シュリーヴとともに語りを揶揄することす

    らできない。現代に生きるジョンやベイヤードが、神話の暴力的な作用によって破滅するプロ

    セスをありのままに肯定する以外、この作品を理解する方法はあり得ないはずだ。作品の効果

  • 86 東京外国語大学論集第 99 号 (2019)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 99(2019)

    と評価における問題点は、この点に起因し集約されるはずである。ポーターは、初期フォーク

    ナーにおける「距離感(distance)」にも触れている[Porter 2007: 35]。サートリス家の神話が結

    局のところ白人男性の破滅と死をテーマとしていることが、白人中心主義への批判になりうる

    と冷静に判断することができて初めて、読者は歴史的プロセスとしての南部貴族の頽廃と白人

    男性中心主義への批判的視点に気づくことができる。上で作品の特質として論じた問いのプロ

    セスとしての曖昧さは、その時初めて形式としての意義を見出される。しかしそれは、作品の

    読書体験の外部で生起する気づきである。

    7. 周辺的プロットの役割と『響きと怒り』との連続性

    本作のキャラクター、特に二人のベイヤードたちが心理的に一貫せず読者の理解を超えてい

    るのも、個人としての一貫性と、神話に従属するサートリス家の男性構成員としての一貫性が

    葛藤していることが原因となっている。「ジョン」という名を与えられたキャラクターは、そう

    した葛藤を経験しない神話そのものである。初代ジョン・サートリスには、自死に近い死を遂

    げるに際しても逡巡や葛藤はなく、若いベイヤードやナーシッサの回想によれば、現代のジョ

    ンもまた悩みや葛藤とは無縁の明朗な人物であり、ヨーロッパ戦線でドイツの戦闘機に銃撃さ

    れ飛行機から飛び降りる際にも、ベイヤードに華麗な挨拶を送ってよこす。二人の「ジョン」

    たちは、その名前にふさわしくサートリス家の神話を実践し伝える役割を果たす。それにたい

    して、若いベイヤードの身の安全を慮る老ベイヤードと、サートリス家の神話を反復するかの

    ようなジョンの死に衝撃を受け、帰還後もその死に対する責任と罪悪感を感じるあまり、サー

    トリス家の老ベイヤードやミス・ジェニーにジョンの死の顛末を自己弁護的に語る若いベイヤ

    ードは、神話とは相容れない個人としての心理を垣間見せる [Faulkner 1973: 46-47]。若いベイ

    ヤードは、ナーシッサと出会って以降もジョンの死の記憶に悩まされ、老ベイヤードの死の原

    因となる自動車事故以後は、その死への罪悪感にも苛まれ続けなければならない。

    南部の過去や神話との葛藤は、前述のように『響きと怒り』以降のフォークナー作品の主要

    テーマとなる。ジョン・T・マシューズも指摘するように、『響きと怒り』は、クエンティン・

    コンプソンの語りによって、若いベイヤードの心理をその死から逆算する形で心理的に表出し

    た作品であると言えるだろう[Matthews 1982: 58]。『土にまみれた旗』と『響きと怒り』は、そ

    の意味で双子的な合わせ鏡を構成している。しかし、『土にまみれた旗』では、若いベイヤード

    の心理は十分な一貫性を持って描き出されてはおらず、根拠なく推測されるほかない。ミス・

    ジェニーがベイヤードには「魂がない」と述べるにもかかわらず、ベイヤードは苦悩する心理

    を持ち合わせている[Faulkner 1973: 225]。しかし、その苦悩の原因が、ジョンをみすみす死な

    せたことへの罪悪感なのか、悲しみなのか、サートリス家の神話への恐怖なのかは、本作を読

    む限り判然としない。読者に判断できるのは、ジョンの死が第一次大戦やそこでの戦闘によっ

    てもたらされたのではなく、それとは別の、ジョンに内在する要因によって引き起こされたと

    いうことだけである。

    8. 女性、階級とセクシュアリティ

    サートリス家と対照されるベンボー家に関わるプロットと、バイロン・スノープスに関わる

    プロットは、サートリス家の神話を批判的に検討する視点を提供しうるし、サイモンやキャス

    ピーなど黒人たちに関わるプロットも、批判的に検討されることによって同じ役割を果たしう

    る。サートリス家の神話の外部に相当するこれらのプロットは、よくも悪くも中心的なサート

    リス家の神話を相対化しうるはずである。しかし、上のキャスピーのエピソードが、白人中心

    のイデオロギーを強化するのと同じように、サートリス家と姻戚関係を結ぶベンボー家に関わ

    るプロットも、サートリス家の銀行で働くバイロン・スノープスに関わるプロットも、本作に

    おいて広義にはサートリス家の中心的物語に従属している。ベンボー家に関わるプロットは、

    女性とセクシュアリティに関わりの薄い若いジョンとベイヤードと、女性とセクシュアリティ

    に囚われ、グレッセの言葉を借りるならば、それに「魅惑(fascinate)」されるホレスとの対比、

    そしてやはり女性性とセクシュアリティに無縁であるかのような独身のミス・ジェニーと、バ

    イロン・スノープスの欲望を喚起してやまないセクシュアリティの秘かな横溢を体現するナー

    シッサとの対比によって、『響きと怒り』ではクエンティン・コンプソンに集約される二面性を

    補完的に提示している。『アブサロム、アブサロム!』のクエンティンは、冒頭から二面的な主

    体(“two separate Quesntins”)であるとされている [Faulkner 1986: 4]。バイロン・スノープス

    のプロットは、ナーシッサによって体現される貞淑で純潔な南部のレディーの主体が、階級的

    差異による排除によって構築された虚像である可能性を示唆している。しかし、バイロンが醜

    悪な下層階級の動物的人間として描かれているため、バイロンとナーシッサのエピソードは結

    果的に南部の身分階層制度を肯定する結果となる。ナーシッサとベイヤードの結婚を知ったバ

    イロンは、勤務するサートリス家の銀行から金を盗み、許嫁を夜間呼び出し、マシューズも指

    摘するように彼女の身体をナーシッサの身体の代理として欲望するのである [Matthews 1982:

    56] 。

    ラーヒー(Michael E. Lahey)が述べるように、階級を超えた男女の愛は階級にもとづいて

    構築される女性主体にとって危険であるが、バイロンが送りつける猥雑な恋文を自分の下着と

    同じ場所に保管するナーシッサは、「虎」に例えられるホレスの愛人ベル・ミッチェルや、ベル

    の姉が持つ貪欲で強力な性的欲望の片鱗を覗かせている [Lahey 1996: 167]。マシューズによれ

    ば、ベル・ミッチェルはホレスにとって近親相姦的な愛で結ばれたナーシッサの代理であるし、

  • ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」における神話とその力—『土にまみれた旗』に見られる葛藤とヴィジョン:加藤 雄二The Power of Myth in William Faulkner’s “Yokanapatawpha”: Conflicts and Visions of Flags in the Dust : Yuji Kato

    87

    む限り判然としない。読者に判断できるのは、ジョンの死が第一次大戦やそこでの戦闘によっ

    てもたらされたのではなく、それとは別の、ジョンに内在する要因によって引き起こされたと

    いうことだけである。

    8. 女性、階級とセクシュアリティ

    サートリス家と対照されるベンボー家に関わるプロットと、バイロン・スノープスに関わる

    プロットは、サートリス家の神話を批判的に検討する視点を提供しうるし、サイモンやキャス

    ピーなど黒人たちに関わるプロットも、批判的に検討されることによって同じ役割を果たしう

    る。サートリス家の神話の外部に相当するこれらのプロットは、よくも悪くも中心的なサート

    リス家の神話を相対化しうるはずである。しかし、上のキャスピーのエピソードが、白人中心

    のイデオロギーを強化するのと同じように、サートリス家と姻戚関係を結ぶベンボー家に関わ

    るプロットも、サートリス家の銀行で働くバイロン・スノープスに関わるプロットも、本作に

    おいて広義にはサートリス家の中心的物語に従属している。ベンボー家に関わるプロットは、

    女性とセクシュアリティに関わりの薄い若いジョンとベイヤードと、女性とセクシュアリティ

    に囚われ、グレッセの言葉を借りるならば、それに「魅惑(fascinate)」されるホレスとの対比、

    そしてやはり女性性とセクシュアリティに無縁であるかのような独身のミス・ジェニーと、バ

    イロン・スノープスの欲望を喚起してやまないセクシュアリティの秘かな横溢を体現するナー

    シッサとの対比によって、『響きと怒り』ではクエンティン・コンプソンに集約される二面性を

    補完的に提示している。『アブサロム、アブサロム!』のクエンティンは、冒頭から二面的な主

    体(“two separate Quesntins”)であるとされている [Faulkner 1986: 4]。バイロン・スノープス

    のプロットは、ナーシッサによって体現される貞淑で純潔な南部のレディーの主体が、階級的

    差異による排除によって構築された虚像である可能性を示唆している。しかし、バイロンが醜

    悪な下層階級の動物的人間として描かれているため、バイロンとナーシッサのエピソードは結

    果的に南部の身分階層制度を肯定する結果となる。ナーシッサとベイヤードの結婚を知ったバ

    イロンは、勤務するサートリス家の銀行から金を盗み、許嫁を夜間呼び出し、マシューズも指

    摘するように彼女の身体をナーシッサの身体の代理として欲望するのである [Matthews 1982:

    56] 。

    ラーヒー(Michael E. Lahey)が述べるように、階級を超えた男女の愛は階級にもとづいて

    構築される女性主体にとって危険であるが、バイロンが送りつける猥雑な恋文を自分の下着と

    同じ場所に保管するナーシッサは、「虎」に例えられるホレスの愛人ベル・ミッチェルや、ベル

    の姉が持つ貪欲で強力な性的欲望の片鱗を覗かせている [Lahey 1996: 167]。マシューズによれ

    ば、ベル・ミッチェルはホレスにとって近親相姦的な愛で結ばれたナーシッサの代理であるし、

  • 88 東京外国語大学論集第 99 号 (2019)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 99(2019)

    異なる階級間の性的交わりの可能性を示唆しもするのである [Matthews 1982: 51]。『土にまみ

    れた旗』では女性のセクシュアリティへの関心がベル・ミッチェルのプロットに集約されてい

    るとはいえ、ナーシッサは『響きと怒り』の性的に奔放なヒロイン、キャディー・コンプソン

    を先取りするキャラクターでもある。彼女の兄であるホレスは、若いベイヤードと並んで『響

    きと怒り』のクエンティンを予兆している。妹および女性一般のセクシュアリティへの興味と

    恐れは、ホレスに関わるプロットではベル・ミッチェルとその姉、娘のリトル・ベルらに投影

    され、ナーシッサの性的側面は、『響きと怒り』『死の床に横たわりて』『サンクチュアリ』『八

    月の光』『アブサロム、アブサロム!』『野生の棕櫚』などの女性たちの場合とは異なり、それ

    以上の追求をまぬがれ、曖昧なままに放置されている。ここでも神話の解体は不十分なものに

    とどまっている。

    『土にまみれた旗』だけでなくフォークナーの作品一般において、キャラクターの主体は顕

    著に階級的前提にもとづいて形成される。『八月の光』や『アブサロム、アブサロム!』では、

    アイデンティティ形成の核となるのは人種である。この2作において人種的混交と雑婚

    (miscegenation)が焦点となるのは、言うまでもなくそれが階級と人種によって明瞭に規定さ

    れるべき主体のあり方を撹乱するからに他ならない。フォークナーの諸作品において、ナーシ

    ッサやキャディー・コンプソン、リーナ・グローヴなど若い女性のセクシュアリティと出産が

    注目されるのも、女性と自然の親和性がロマンティックに信じられているからと言うだけでは

    なく、キャディーが性的奔放さによって階級的前提を撹乱しコンプソン家から追放されること

    が示すように、女性のセクシュアリティとその可能性が、ラーヒーが指摘するように社会制度

    を脅かし、さらには人種的アイデンティティを崩壊させる力と可能性(”potentially disruptive

    energy”) を秘めているからである [Lahey 1996: 167]。

    フォークナーが女性のセクシュアリティに異常なほどの関心を示し、そのためにしばしば読

    者の興味を失わせるのは、女性の自然なセクシュアリティの発露が、南部社会と小説の成り立

    ちに決定的な影響力を与えうるからである。フォークナー自身が『響きと怒り』の発端として

    木に登る女の子の汚れた下着のイメージを挙げたことや、クエンティン・コンプソンが妹キャ

    ディーの性的奔放さを病的に気に病み、キャディーとの近親相姦的な愛のフィクションにとら

    われることは、若いベイヤードの死への欲求と同様、通常の読者の理解の範囲を超えている。

    クエンティンの死に至る苦悩も、読者自身が性や女性にたいする偏った異常な執着を持ってい

    るのでなければ、南部的な階級・人種の制度を前提として初めて理解できる特殊なものであり、

    いかなる意味でも普遍的であるとは言いがたい。『響きと怒り』のキャディーの性的な相手はせ

    いぜい北部人であり、そのことが兄クエンティンの階級的アイデンティティを崩壊させるにし

    ても、キャディーは人種的雑婚にまで踏み込むわけではない。しかし、『八月の光』のジョー・

    クリスマスの母ミリーが、人種的アイデンティティが不明な男と関係したことがクリスマスの

    悲劇を生み、『アブサロム、アブサロム!』におけるサトペンの娘�