珠玉と石 - tvk komatsu-nomikshs/text/memorial/h30/memorial2.pdf第14回ふるさと小松...
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第 14回ふるさと小松こ ま つ
検定け ん て い
メモリアルコース
珠玉し ゅ ぎ ょ く
と石い し
の文化ぶ ん か
テキスト&ドリル
NPO法人ほうじん
ふるさと小松こ ま つ
検定けんてい
目 次
はじめに
1.火山か ざ ん
活動かつどう
から生み出された石の資源し げ ん
・・・・・1
2.輝かがや
く小松こ ま つ
ブランドの誕生たんじょう
・・・・・・・・・3
~小松産こ ま つ さ ん
碧玉へきぎょく
で作られた弥生や よ い
時代じ だ い
の管くだ
玉たま
~
3.古墳こ ふ ん
時代じ だ い
の凝灰岩ぎょうかいがん
切石きりいし
・・・・・・・・・・・5
~河田山こ う だ や ま
古墳群こ ふ ん ぐ ん
の横穴式よこあなしき
石室せきしつ
~
4.中世ちゅうせい
の石造物せきぞうぶつ
や石窟(やぐら)・・・・・・・・6
5.小松の石材せきざい
産業さんぎょう
・・・・・・・・・・・・・・7
6.小松の石材を使つか
った建造物けんぞうぶつ
・・・・・・・・・11
7.小松の鉱山こうざん
・・・・・・・・・・・・・・・・16
8.花坂はなさか
陶とう
石せき
と九谷焼く た に や き
・・・・・・・・・・・・・21
ドリル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
はじめに
小松こ ま つ
の人々ひとびと
は、弥生や よ い
時代じ だ い
の玉たま
つくりを始はじ
まりとして 2300年にわ
たり、メノウやオパール、水晶すいしょう
、碧玉へきぎょく
の宝石群ほうせきぐん
、良質りょうしつ
の凝灰岩ぎょうかいがん
石材せきざい
、
九谷焼くたにやき
原石げんせき
の陶とう
石せき
、金きん
や銅どう
の鉱石こうせき
など、石の資源し げ ん
を見出み い だ
し、時代じ だ い
のニ
ーズに応おう
じた加工か こ う
技術ぎじゅつ
を磨みが
き上げ、人・モノ・技術が交流こうりゅう
する豊ゆた
か
な石の文化を築きず
きあげました。この石の文化のストーリーが、『珠玉しゅぎょく
と歩あゆ
む物語ものがたり
』小松~時とき
の流なが
れの中で磨き上げた石の文化~として、
平成 28 年度の「日本に ほ ん
遺産い さ ん
」に認定されました。
日本遺産とは、地域ち い き
の歴史的れきしてき
魅力みりょく
や特色とくしょく
を通つう
じて日本の文化ぶ ん か
・
伝統でんとう
を語かた
るストーリーを文化庁ぶんかちょう
が認定にんてい
するものです。ストーリーを
語る上で欠かせない有形ゆうけい
や無形む け い
の文化ぶ ん か
財群ざいぐん
を、地域が主体しゅたい
となって
整備せ い び
・活用かつよう
し、国内こくない
だけでなく海外かいがい
へも発信はっしん
していくことで、地域の
活性化かっせいか
を図ることを目的もくてき
としています。
平成 20 年度の第 14 回ふるさと小松こ ま つ
検定けんてい
のメモリアルコースで
は、この日本遺産認定にんてい
を受けて、その内容を皆様みなさま
に知っていただき
たく取り上げました。「珠玉しゅぎょく
と石いし
の文化ぶ ん か
」をキーワードに、ふるさ
との自然し ぜ ん
や歴史れ き し
、文化ぶ ん か
にふれ、その魅力みりょく
を再発見さいはっけん
する機会き か い
となれば
幸いです。
- 1 -
1.火山か ざ ん
活動かつどう
から生み出された石の資源し げ ん
今いま
からおよそ 2500万年前まんねんまえ
まで日本に ほ ん
列島れっとう
はユーラシア大陸たいりく
の一部い ち ぶ
でした。2000 万年前ごろには大規模だ い き ぼ
な火山活動が起お
こり、大陸の
東側ひがしがわ
が裂さ
け、その間に日本海にっぽんかい
のもとができました。そして、裂けた
部分ぶ ぶ ん
は日本列島の原形げんけい
となり、東ひがし
へと移動い ど う
を始はじ
めました。
この大きな地殻ち か く
変動へんどう
により日本に ほ ん
海側かいがわ
で
は火山の噴火ふ ん か
が頻繁ひんぱん
に起こり、流れ出た
溶岩ようがん
や降り積もった火山か ざ ん
灰ばい
の厚あつ
い地層ち そ う
が
できました。その地層は緑 色りょくしょく
凝灰岩ぎょうかいがん
※
を多くふくむ地層で、分布ぶ ん ぷ
する地域ち い き
はグ
リーンタフ地帯ち た い
とも呼よ
ばれています。こ
うしてこの一帯いったい
は、火山活動によって生み出された鉱物こうぶつ
や岩石がんせき
など、
地下ち か
資源し げ ん
の宝庫ほ う こ
となりました。
小松はこのグリーンタフ地帯に位置い ち
しています。メノウや碧玉へきぎょく
な
どの美うつく
しい石。良質りょうしつ
な凝灰岩の石材せきざい
。九谷焼くたにやき
の原料げんりょう
となる陶とう
石せき
。
金きん
や銅どう
などの鉱石こうせき
。小松の人々は、そうした石の資源を見出み い だ
すととも
に、時代じ だ い
のニーズに応おう
じた加工か こ う
技術ぎじゅつ
を磨みが
き上げ、人・モノ・技術ぎじゅつ
が
交流こうりゅう
する豊ゆた
かな石の文化を築きず
き上あ
げました。
※ 緑 色りょくしょく
凝灰岩ぎょうかいがん
:火山か ざ ん
灰ばい
が固かた
まってできた岩石で緑色みどりいろ
をしたもの。グリー
ンタフとよばれる。
- 2 -
鉱物こうぶつ
と岩石がんせき
鉱物:原子げ ん し
が規則的きそくてき
にならんで結晶けっしょう
をつくり、均一きんいつ
の成分せいぶん
をもつ
天然てんねん
の物質ぶっしつ
。(例れい
)自然し ぜ ん
金きん
、ダイヤモンド、石英せきえい
、黄銅鉱おうどうこう
など
岩石:複数ふくすう
の鉱物が集あつ
まったもので、火成岩かせいがん
・堆積岩たいせきがん
・変成岩へんせいがん
がある。
火成岩:マグマ(溶岩ようがん
)が冷ひ
え固かた
まってできた岩石
(例)流りゅう
紋岩もんがん
、花崗岩かこうがん
、安山岩あんざんがん
など
堆積岩:砂すな
や泥どろ
などが堆積たいせき
して固かた
まった岩石
(例)砂岩さ が ん
、泥岩でいがん
、凝灰岩ぎょうかいがん
など
変成岩:既存き ぞ ん
の岩石が地下ち か
の深ふか
いところで温度お ん ど
や圧力あつりょく
を受う
け
て変化へ ん か
した岩石
(例)片へん
麻岩ま が ん
、ホルンフェルスなど
いろいろな石
水晶すいしょう
:無色むしょく
透明とうめい
で六角ろっかく
柱 状ちゅうじょう
の結晶けっしょう
の形が見える石英せきえい
。
不純物ふじゅんぶつ
が混ま
ざって紫 色むらさきいろ
になるものもある。
玉髄ぎょくずい
:目に見えないほどの微細び さ い
な石英の結晶が緻密ち み つ
に固まったもの。
碧玉へきぎょく
:微細な石英の結晶と不純物が混ざった不透明ふとうめい
な石。不純物の
違ちが
いで緑色みどりいろ
や赤色あかいろ
などがみられる。
メノウ:微細な石英の集まりで、玉髄や碧玉と成分は同じだが、色や
透明度とうめいど
の違いから縞しま
模様も よ う
をもつもの。
- 3 -
オパール:二に
酸化さ ん か
ケイ素そ
が水みず
分子ぶ ん し
とゆるくつながったもので、
乳 白 色にゅうはくしょく
のものが多おお
い。
2.輝かがや
く小松こ ま つ
ブランドの誕生たんじょう
~小松産こまつさん
碧玉へきぎょく
で作られた弥生や よ い
時代じ だ い
の管くだ
玉たま
~
小松の縄文じょうもん
時代じ だ い
の遺跡い せ き
からは、流りゅう
紋岩もんがん
で作られた矢や
じりなどの
石器せ っ き
が出土しゅつど
しています。
弥生時代には、那な
谷た
・菩提ぼ だ い
・滝ヶ原たきがはら
地区ち く
で採と
れる良質りょうしつ
な碧玉を、
その時代の最先端さいせんたん
技術ぎじゅつ
によって管玉に加工か こ う
し、小松ブランドのアク
セサリーとして西日本にしにほん
各地か く ち
の有力者ゆうりょくしゃ
たちに広ひろ
まっていきました。
八日市ようかいち
地方じ か た
遺跡い せ き
と弥生時代の玉たま
づくり
JR小松駅こまつえき
の東側ひがしがわ
に広がる八日市地方遺跡は、今から 2300 年ほ
ど前の弥生時代中期ちゅうき
のムラの遺跡です。発掘はっくつ
調査ちょうさ
による出土品のな
かには、ヒスイ製せい
勾玉まがたま
や碧玉製管へきぎょくせいくだ
玉たま
、農具の う ぐ
や容器よ う き
などの木もく
製品せいひん
が
大量たいりょう
にあり、加工か こ う
途中とちゅう
のものや加工道具ど う ぐ
なども出土しています。こ
のムラではさかんにモノづくりを行おこな
っていたことが分かります。
ここで作られたヒスイ製勾玉や碧玉製管玉は、日本海にほんかい
沿岸えんがん
を経へ
て
北部ほ く ぶ
九 州きゅうしゅう
にまで渡わた
っていました。その一方いっぽう
で各地か く ち
から貴重きちょう
な鉄てつ
の
道具や進すす
んだ技術ぎじゅつ
が八日市地方遺跡のムラへ入ってきました。八日
- 4 -
市地方遺跡は、玉づくりとその交易こうえき
を通じて、列島れっとう
各地か く ち
のヒトやモノ、
文化ぶ ん か
が交差こ う さ
するムラとして発展はってん
しました。
※ ヒスイ:緑色の半透明はんとうめい
の石。小松では産出さんしゅつ
しない。現在げんざい
の新潟県にいがたけん
糸魚川市い と い が わ し
の姫川ひめかわ
流域りゅういき
が産出地として知られている。
管くだ
玉たま
にみられる弥生や よ い
時代じ だ い
の技術ぎじゅつ
八日市地方遺跡のムラで作られ
た碧玉製管玉の直径ちょっけい
は約 2mm。メ
ノウや安山岩あんざんがん
でできた石いし
針ばり
を使い
直径 2mm の円柱えんちゅう
に 1mm 程の穴あな
を開あ
けていました。半分はんぶん
に割わ
れた管玉を観察かんさつ
すると、穴あけ用よう
の石針
で 3 分の 2 ほど開けたのち、反対側はんたいがわ
から穴を開けて貫通かんつう
させていた
ことが分かります。しかし、この細ほそ
い石針を使って、どのように穴を
開けていたのかは、いまだに解明かいめい
されていません。
那な
谷た
・菩提ぼ だ い
・滝ヶ原たきがはら
の碧玉へきぎょく
産出地さんしゅつち
玉たま
づくりに利用り よ う
された良質りょうしつ
な碧玉の産出地として全国的ぜんこくてき
に知ら
れているのは、島根県しまねけん
松江市ま つ え し
の花仙か せ ん
山ざん
、兵庫県ひょうごけん
豊岡市とよおかし
の玉谷たまたに
、新潟県にいがたけん
佐渡市さ ど し
の猿八さるはち
、そして石川県小松市の那谷・菩提・滝ヶ原の4ヶ所で
す。
- 5 -
那な
谷た
・菩提ぼ だ い
・滝ヶ原たきがはら
地区ち く
の碧玉へきぎょく
は、弥生や よ い
時代じ だ い
中期ちゅうき
には小松の八日市ようかいち
地方ぢ が た
遺跡い せ き
のムラに運はこ
ばれて管くだ
玉たま
が作られました。古墳こ ふ ん
時代じ だ い
前期ぜ ん き
には
現在げんざい
の加賀市か が し
片山津町かたやまづまち
にある片山津
玉造たまつくり
遺跡い せ き
へ運ばれ、貝かい
の腕輪う で わ
をモデル
とした碧玉製の腕輪が作られました。そ
れは新たな権威け ん い
のしるしとして大和や ま と
地方ち ほ う
(現在の奈良県な ら け ん
)を中心ちゅうしん
に各地の豪族ごうぞく
へ広がりました。
3.古墳こ ふ ん
時代じ だ い
の凝灰岩ぎょうかいがん
切石きりいし
~河田山こうだやま
古墳群こふんぐん
の横穴式よこあなしき
石室せきしつ
~
縄文じょうもん
時代じ だ い
や弥生時代において石は、刃物は も の
などの石器せ っ き
や管くだ
玉たま
などの
アクセサリーとして使われていました。古墳時代後半こうはん
には、岩石がんせき
を切き
り出だ
す技術ぎじゅつ
が進化し ん か
し、切石きりいし
を使う横穴式石室も出現しゅつげん
しました。
小松では、国府こ く ふ
台だい
に広がる河田山
古墳群に切石を用いた横穴式石室が
あります。河田山古墳群は総数そうすう
62基き
を数かぞ
える加賀か が
地域ち い き
最大級さいだいきゅう
のもので、
その多くは古墳時代前期ぜ ん き
のものです。飛鳥あ す か
時代じ だ い
(古墳時代終末期しゅうまつき
)の
12号ごう
墳ふん
と 33 号墳では、切石を用いた横穴式石室が確認かくにん
されていま
す。地元産じもとさん
の凝灰岩ぎょうかいがん
の切石を使用し、石のズレを防ふせ
ぐ「鍵かぎ
手積て づ
み」
- 6 -
という高度こ う ど
な技術によって積つ
まれています。特とく
に、アーチ型がた
の天井てんじょう
は、国内こくない
では他ほか
に例れい
がなく、朝鮮ちょうせん
半島はんとう
の王おう
墓ぼ
の影響えいきょう
とも考かんが
えられ
ています。
4.中世ちゅうせい
の石造物せきぞうぶつ
や石窟(やぐら)
中世ちゅうせい
(鎌倉かまくら
・室町むろまち
時代じ だ い
)に入ると鉄製てつせい
の石工い し く
道具ど う ぐ
の進化し ん か
と普及ふきゅう
に
より、細こま
かな細工さ い く
を施ほどこ
す石造せきぞう
彫刻ちょうこく
品ひん
の制作せいさく
も活発かっぱつ
となりました。
行火あ ん か
や囲炉裏い ろ り
、井戸枠い ど わ く
、火鉢ひ ば ち
等など
の生活せいかつ
道具ど う ぐ
のほか、五輪塔ごりんとう
等など
の様々さまざま
な
石塔せきとう
や石仏せきぶつ
など、生活・信仰しんこう
・文化ぶ ん か
に密着みっちゃく
した石の利用り よ う
が浸透しんとう
して
いきました。
滝ヶ原町たきがはらまち
にある滝ヶ原八幡はちまん
神社じんじゃ
の境内けいだい
には、
五層ご そ う
の屋や
蓋ぶた
がのこり、その高さが225cmと
なる大型おおがた
の石塔せきとう
(石造せきぞう
多層塔たそうとう
)があります。14
世紀せ い き
に建立こんりゅう
されたと推測すいそく
されるもので、地元じ も と
凝灰岩ぎょうかいがん
の滝ヶ原石を用もち
いたものとしては最古さ い こ
の例れい
です。同じ神社の境内には、2基き
の石窟(や
ぐら)があり、そのうちの1基には背面はいめん
に梵ぼん
字じ
が刻きざ
まれています。13
世紀から14世紀頃のものと推察すいさつ
されます。
- 7 -
また、観音か な が
下町そ ま ち
にある白山社はくさんしゃ
の境内
にも1基が発見はっけん
されおり、内部な い ぶ
には石
塔が散在さんざい
しています。
なお、このころはまだ大規模だ い き ぼ
な石切
り場での採掘さいくつ
はなく、地面から露出ろしゅつ
した部分ぶ ぶ ん
を切り出していました。
※ 梵ぼん
字じ
:古代こ だ い
インドの文字も じ
。文字自体じ た い
を仏法ぶっぽう
の神聖しんせい
なものとして崇あが
め、石な
どに彫ほ
り込んだ。
5.小松の石材せきざい
産業さんぎょう
本格的ほんかくてき
な石切い し き
り場ば
の採掘さいくつ
が行われるようになったのは江戸え ど
時代じ だ い
か
らで、鵜川う が わ
や遊ゆう
泉寺せ ん じ
などの石切り場から切り出された石材は商品しょうひん
と
して流通りゅうつう
しました。
『小松こ ま つ
旧記きゅうき
』の寛かん
文ぶん
8年(1668)の条じょう
には「小松より他国た こ く
に出し
中世ちゅうせい
那な
谷寺た で ら
のメノウ
戦国せんごく
時代じ だ い
に周防す お う
や長門な が と
(今の山口県やまぐちけん
)を治めていた
大内おおうち
氏し
が、中国ちゅうごく
交易こうえき
のために那谷寺のメノウを欲ほ
しが
ったという記録き ろ く
が残のこ
っています。1度目ど め
は、20の要望ようぼう
に対たい
して、5のみを送おく
りました。二度目の要望は断っています。当時から、「那な
谷たに
観音堂かんのんどう
」の下のメノ
ウは有名で、貴重きちょう
なものだったようです。
- 8 -
商売しょうばい
仕つかまつ
る物もの
」の一つに「宇う
(鵜)川がわ
石いし
」と書かれています。鵜川
石が小松の特産物とくさんぶつ
として安宅あ た か
の湊みなと
から運はこ
び出されていたことがわ
かります。また、天明てんめい
5年(1785)の『埴はね
田村半だむらはん
助跡組すけあとぐみ
村むら
鑑 帳かがみちょう
』
によると、鵜川村のところに「農業のうぎょう
の外ほか
、男稼おとこかせ
ぎ石切いしきり
仕つかまつ
り申もう
し
候そうろう
、当村領とうそんりょう
山の内にて石切場いしきりば
拵こしら
え、品々石切出いしきりだ
し申し候、小松町こまつまち
石屋共いしやども
等とう
に売り申し候」とあります。鵜川町の石切り場から切出され
た石が、切石きりいし
井筒い づ つ
、板いた
石いし
、土台ど だ い
石いし
、すびつ(いろり)、蔵くら
戸前と ま え
石いし
など
の製品せいひん
に加工か こ う
され、小松町こまつまち
の石屋へ売られていた事がわかります。遊ゆう
泉せん
寺村じ む ら
のところにも同様どうよう
のことが書かれています。その後、周辺の
里川さとかわ
や立りゅう
明寺みょうじ
でも採掘さいくつ
が行われるようになりました。
寛政かんせい
4年(1792)の『今江組いまえぐみ
巨細こ さ い
掌記しょうき
』によると、蓮代れんだい
寺村じ む ら
や三さん
谷村だにむら
、木場村き ば む ら
などに石切り場があったことが書かれています。さらに、
文政ぶんせい
5年(1822)の『江沼郡えぬまぐん
諸産物しょさんぶつ
品々書上帳しなじなかきあげちょう
』には、滝ヶ原村・
菩提ぼ だ い
村むら
の名が見られ、小松には当時25ヶ所以上の石切り場が開かれ
れていました。
※ 村むら
鑑かがみ
:村の様子よ う す
をまとめた村勢そんせい
要覧ようらん
のようなもの。
国府こ く ふ
地域ち い き
の石切り場跡と鵜川う が わ
石いし
鵜川や遊ゆう
泉寺せ ん じ
、里川さとかわ
など国府地域の丘陵地きゅうりょうち
は、河田山こうだやま
古墳こ ふ ん
の石室せきしつ
(飛鳥あ す か
時代じ だ い
)や、小松こ ま つ
城じょう
の石垣いしがき
(江戸え ど
時代じ だ い
)、明治期め い じ き
以降い こ う
の建物たてもの
土台ど だ い
- 9 -
まで、長く利用り よ う
されてきた凝灰岩ぎょうかいがん
の産地さ ん ち
です。
鵜川石は建築用けんちくよう
として使われたほ
か、火ひ
に強いことから火鉢ひ ば ち
などの生活せいかつ
用品ようひん
や、凍結とうけつ
に強つよ
いことから墓石はかいし
や灯とう
ろうなどにも使われました。
長いトンネル状に切り出されたことが特徴とくちょう
で、立りゅう
明寺町みょうじまち
にある
観光地かんこうち
ハニベ巌窟院がんくついん
は石切り場跡あと
の一部い ち ぶ
を利用り よ う
しています。また、遊
泉寺の石切り場跡は、第二次だ い に じ
世界せ か い
大戦たいせん
末期ま っ き
には、航空機こうくうき
生産せいさん
の地下ち か
軍需ぐんじゅ
工場こうじょう
や海軍かいぐん
の物資ぶ っ し
貯蔵ちょぞう
倉庫そ う こ
として利用されていました。
滝ヶ原たきがはら
石いし
切り場と滝ヶ原石
滝ヶ原では江戸え ど
時代じ だ い
の文化ぶ ん か
年間ねんかん
(1804~1818)以降い こ う
に本格的ほんかくてき
な
採掘さいくつ
が始まったといわれています。
滝ヶ原石は灰色はいいろ
から薄うす
い緑色みどりいろ
をしている凝灰岩ぎょうかいがん
です。硬かた
くて水
に強いのが特徴とくちょう
で、建物たてもの
の土台ど だ い
や棟むね
石いし
などに使われ、滝ヶ原のアー
チ石橋いしばし
もこの石材を利用しています。また、水に強い特徴を活かし、
風呂場ふ ろ ば
にも使われています。きめが細こま
かく、彫刻ちょうこく
に向む
いていること
から、灯とう
ろうや鳥居と り い
、記念き ね ん
碑ひ
などにも使われています。
- 10 -
最盛期さいせいき
には、滝ヶ原には10ヶ所ほどの石切り場があり、山肌やまはだ
を横よこ
に掘り進める方法ほうほう
で採掘さいくつ
されました。現
在はそのほとんどが廃止となりました
が、町の南東側なんとうがわ
にある本山ほんやま
石切り場
(上山丁場かみやまちょうば
)では、今も採掘が続けられ
ています。
観音下か な が そ
石切り場と観音下石
観音下の石切り場は大正期たいしょうき
に
始はじ
められた石切り場で、現在げんざい
も
採掘さいくつ
が行われています。この石切
り場では、山の地表ちひょう
から下に向か
って掘り進んでいく露天掘ろ て ん ぼ
りという方法ほうほう
で切り出されています。
観音下石は黄色き い ろ
みをおびた凝灰岩ぎょうかいがん
の石材せきざい
です。比較的ひかくてき
軟やわ
らかくて
加工か こ う
しやすく、熱ねつ
に強つよ
いという特徴とくちょう
をもっています。その特徴から、
主に石蔵に使われたり、建物たてもの
の土台ど だ い
や門もん
や塀へい
にも使われたりしてい
ます。
また、「日華に っ か
石せき
」という名で、広く県外けんがい
でも建造物けんぞうぶつ
に利用されてい
ます。有名ゆうめい
なところでは旧前きゅうまえ
田だ
侯爵こうしゃく
邸てい
や旧甲子園きゅうこうしえん
ホテル(現在の
武庫川む こ が わ
女子じ ょ し
大学だいがく
甲子園こうしえん
会館かいかん
)などがあります。
- 11 -
6.小松の石材を使った建造物けんぞうぶつ
江戸え ど
時代じ だ い
以降い こ う
、小松では凝灰岩ぎょうかいがん
の石材せきざい
が本格的ほんかくてき
に採掘さいくつ
され、流通りゅうつう
しました。こうした小松の石材を使った建造物が市内し な い
の各所かくしょ
で見ら
れます。
小松こ ま つ
城じょう
の石垣いしがき
江戸時代の寛永かんえい
16年(1639)、前田ま え だ
利とし
常つね
は、加賀か が
藩主はんしゅ
の座ざ
を息子む す こ
の光みつ
高たか
に譲ゆず
り、小松に隠居いんきょ
しました。それを機き
に、新あら
たな城しろ
を建設けんせつ
す
るような規模き ぼ
で小松城の大改修だいかいしゅう
が行われ、多くの建物たてもの
や石垣いしがき
が築きず
か
れました。これにより、堀ほり
と島しま
を配置は い ち
した浮うき
城しろ
の景けい
観かん
をもつ名城めいじょう
へ
と様相ようそう
を一新いっしん
しました。
小松城は明治め い じ
初期し ょ き
に取り壊こわ
されてしまいましたが、現在の小松こ ま つ
高校こうこう
の敷地内しきちない
には小松城本丸ほんまる
櫓やぐら
台だい
の石垣が残っています。この石垣
は 、 鵜川う が わ
石いし
な ど 小 松 産 の
凝灰岩ぎょうかいがん
と、金沢かなざわ
から運はこ
ばれて
きた戸室と む ろ
石いし
(安山岩あんざんがん
)で積つ
み上
げられたものです。整形せいけい
した石
材どうしを密着みっちゃく
させながら積
み上げる「切り込み接は
ぎ」とい
- 12 -
う工法こうほう
が用もち
いられ、不ふ
ぞろいな形の切石きりいし
をモザイク状じょう
に組み合わせ
ています。また、石垣の角かど
の部分は、直方体ちょくほうたい
に整形された石材の
長辺ちょうへん
と短辺たんぺん
とを交互こ う ご
に重かさ
ね合わせた「算木さ ん ぎ
積づ
み」という工法で積み
上げられています。「切り込み接ぎ」「算木積み」はともに築城ちくじょう
技術ぎじゅつ
がピークに達した江戸え ど
時代じ だ い
初期し ょ き
ごろから見られる工法です。本丸櫓
台の石垣は、当時の高い技術を使って築かれたことがわかります。
なお、本丸櫓台石垣の西側にしがわ
に残る堀ほり
の石垣には、鵜川石など小松産
の凝灰岩が用いられています。
那谷寺の棟むね
石いし
那谷な た
町にある那谷寺は、加賀か が
一向いっこう
一揆い っ き
の戦火せ ん か
に巻き込ま こ
まれて一時い ち じ
は荒こう
廃はい
しましたが、江戸え ど
時代じ だ い
に入り、前田ま え だ
利とし
常つね
によって復興ふっこう
されました。那谷寺
の本堂ほんどう
や三 重 塔さんじゅうのとう
などの5棟とう
の建造物けんぞうぶつ
は、その時に建立されたもの
で、国くに
の重要じゅうよう
文化ぶ ん か
財ざい
に指定し て い
されています。そのうちの本堂ほんどう
・護摩堂ご ま ど う
・
鐘楼しょうろう
の屋根や ね
には、地元産じもとさん
凝灰岩ぎょうかいがん
の棟石が使われています。棟石につ
いては、国の登録とうろく
文化ぶ ん か
財ざい
である粟津あ わ づ
温泉おんせん
「法師ほ う し
」の玄関棟げんかんとう
の屋根や、
滝ヶ原町の家々いえいえ
の屋根などにも見られます。
- 13 -
滝ヶ原アーチ石橋いしばし
滝ヶ原町には、滝ヶ原石で造つく
られたアーチ石橋があります。以前い ぜ ん
に
は少なくとも11 橋きょう
はあったといわれていますが、現在は西山にしやま
橋ばし
・
大門だいもん
橋ばし
・我山が や ま
橋ばし
・丸竹橋まるたけばし
・東口ひがしぐち
橋ばし
の5橋が残っています。日本で
現存しているアーチ石橋の多く
は九 州きゅうしゅう
にあります。生活用せいかつよう
のア
ーチ石橋がまとまって現存して
いる滝ヶ原のような例は、本州ほんしゅう
ではあまり見られません。滝ヶ原の5橋の内、架か
けられた年代が明確めいかく
に分かるのは丸竹橋まるたけばし
で、昭和しょうわ
10年(1935)に架けられました。こ
の橋は、北海道ほっかいどう
開拓かいたく
事業じぎょう
に成功せいこう
した滝ヶ原出身しゅっしん
の坂さか
本竹もとたけ
次郎じ ろ う
から
寄贈き ぞ う
されたものです。橋の名は、坂本竹次郎の通称つうしょう
「丸竹まるたけ
さん」か
らきています。なお、丸竹橋以外の4橋が架けられた年代については
明治め い じ
後期こ う き
~大正期たいしょうき
ごろと推測すいそく
されます。となりの菩提ぼ だ い
町にも滝ヶ原
石で造られたアーチ石橋1橋が現存しています。この橋も同じく明
治後期~大正期ごろに架けられたのでないかと推測されます。
- 14 -
観音下か な が そ
石いし
を使った石蔵いしぐら
小松では、黄色き い ろ
みをおびた観音
下石を使った石蔵をよく目にし
ます。観音下石は比較的ひかくてき
軟やわ
らかく
加工か こ う
しやすい石材で、断熱だんねつ
効果こ う か
に
優すぐ
れ、熱ねつ
に強つよ
いという特徴とくちょう
をも
っています。その特徴から蔵の
外壁がいへき
として多く利用り よ う
されるようになりました。
小松では昭和しょうわ
5年(1930)に橋はし
北きた
の大火た い か
、昭和7年(1932)に
橋はし
南みなみ
の大火があり、小松の街まち
なか一帯いったい
が焼や
け尽つ
くされました。この
とき観音下石の石蔵が焼け残り、耐火性たいかせい
のある石材せきざい
として見直み な お
され、
蔵くら
の建築けんちく
に盛さか
んに用もち
いられるようになったともいわれています。
野田の だ
町の東酒造ひがししゅぞう
にある昭和しょうわ
20年代につくられた酒蔵さかぐら
や道具蔵どうぐくら
は、
観音下石を使ったもので、国くに
の登録とうろく
文化ぶ ん か
財ざい
となっています。
タンコロ石の護岸ご が ん
タンコロ石とは円えん
柱 状ちゅうじょう
に加工した石材せきざい
を筒状つつじょう
にくりぬいたも
のです。
文ぶん
久きゅう
3年(1863)の「別べつ
小物こ も の
成なり
百歩ひゃっぽ
壱等いちとう
口銭こうせん
取立とりたて
品々書上帳しなじなかきあげちょう
」
- 15 -
は、安宅あ た か
の湊みなと
で出入で い
りする産物さんぶつ
を書き上げた史料しりょう
です。そこに「丹木た ん こ
呂ろ
石いし
」と書かれています。また、大正たいしょう
12年(1923)に発行はっこう
された
『能美郡誌の み ぐ ん し
』の国府村こくふむら
の産業さんぎょう
の項目こうもく
には、鵜川う が わ
や里川さとかわ
の石材があり、
製品せいひん
の一つに「短木た ん こ
呂ろ
」が見られます。その販路は ん ろ
は福井ふ く い
・富山と や ま
の両県りょうけん
に及およ
んでいたと書かれています。こうした資料から、幕末ばくまつ
以降い こ う
には、
鵜川や里川の石材でタンコロ石が作られ、流通りゅうつう
していたことがわか
ります。
タンコロ石は、おもに建物たてもの
の基礎き そ
や
川岸かわぎし
の護岸ご が ん
に使われました。筒つつ
の穴あな
を
上下じょうげ
に数段すうだん
積つ
み上げ、その中に砂すな
や
小石こ い し
をつめたり、木の柱はしら
を通とお
したり
して、基礎や護岸を築きず
きました。
安宅あ た か
の 梯かけはし
川がわ
河口か こ う
の右岸う が ん
には、タンコロ石でできた護岸が、今も見
られます。明治め い じ
29年(1896)の安宅の大洪水だいこうずい
で川岸かわぎし
が崩ほう
壊かい
し、そ
の改修かいしゅう
工事こ う じ
で築かれたものです。
このように小松の石材はさまざまな建造物けんぞうぶつ
に使われてきました。
しかし、コンクリートが使われるようになると、昭和しょうわ
30年代ごろか
ら石切り場は減少げんしょう
していきました。現在げんざい
、市内し な い
で石の切り出しが行
われているのは、滝ヶ原たきがはら
、観音下か な が そ
、大杉おおすぎ
の3ヶ所です。
- 16 -
7.小松の鉱山こうざん
小松の山々には金きん
や銅どう
などの豊富ほ う ふ
な鉱物こうぶつ
資源し げ ん
があり、江戸え ど
時代じ だ い
から
昭和しょうわ
にかけて20ヶ所近くの鉱山が開ひら
かれました。なかでも、金平かなひら
金山きんざん
は加賀藩か が は ん
の財政ざいせい
を支ささ
える鉱山となり、尾お
小屋ご や
鉱山こうざん
は日本に ほ ん
有数ゆうすう
の
鉱山に発展はってん
しました。また、遊ゆう
泉寺せ ん じ
銅山どうざん
には世界的せかいてき
な建機け ん き
メーカーの
コマツへとつながる歴史れ き し
があります。
金平かなひら
金山きんざん
十村役とむらやく
を務めていた沢村さわむら
の石黒源いしぐろげん
次じ
は、明和め い わ
年間ねんかん
(1764~1772)
に金平金山を発見はっけん
し、石黒家の自営じ え い
として採掘さいくつ
を始めました。藩はん
の
許可き ょ か
を得え
て熟練じゅくれん
した鉱夫こ う ふ
たちを他藩た は ん
から招まね
いて金の産 出 量さんしゅつりょう
を増ふ
やしていき、安永あんえい
2年(1773)に1貫かん
20匁もんめ
(約3.8kg)だった産
出量は、天明てんめい
元年がんねん
(1781)には7貫30匁(約26.4kg)と増加ぞ う か
しま
した。産出された金は銀ぎん
と引ひ
き換が
えに藩に上納じょうのう
され、金平金山は加
賀藩の財政ざいせい
を支ささ
える重要じゅうよう
な鉱山となりました。静しず
かな山村さんそん
は、にぎ
やかな鉱山こうざん
町まち
へと栄さか
え、最盛期さいせいき
には100人以上が働はたら
き、その人々の
ための商店しょうてん
が立ち並ぶようになりました。その様子よ う す
は加賀藩の役人やくにん
の矢田四如や た し じ ょ
軒けん
が描いた金平金山の絵巻え ま き
に見られます。
最盛期が過す
ぎ、金の産 出 量さんしゅつりょう
が減へ
ってくると、天明8年(1788)
には加賀藩直営ちょくえい
となりました。それは石黒源次の申し出によるもの
- 17 -
で、藩は重要じゅうよう
な収 入 源しゅうにゅうげん
である金平金山の立て直しを図はか
ろうと
直接ちょくせつ
経営けいえい
に乗り出したのです。しかし、藩の負担ふ た ん
が増大ぞうだい
したため、
寛政かんせい
8年(1796)には再ふたた
び石黒家の経営けいえい
となりました。その後は、
明治期め い じ き
に村民そんみん
共有きょうゆう
の鉱山となったのち、昭和しょうわ
9年(1934)、尾お
小屋ご や
鉱山こうざん
の経営をしていた日本に ほ ん
鉱山こうざん
株式かぶしき
会社がいしゃ
に買収ばいしゅう
されました。尾小屋
鉱山の大谷支山おおたにしざん
の一部い ち ぶ
となりましたが、昭和47年(1972)に閉山へいざん
となりました。
※ 十村役とむらやく
:他藩た は ん
の大庄屋だいしょうや
にあたる加賀藩か が は ん
独特どくとく
の役職やくしょく
で、十~数十ヶ村か
らなる組くみ
を治おさ
める役職やくしょく
※ 金平金山の絵巻え ま き
:金平かなひら
町まち
石黒家いしぐろけ
の文書にある小松市こ ま つ し
指定し て い
文化ぶ ん か
財ざい
「金平
鉱山絵巻」と、石川いしかわ
県立けんりつ
歴史れ き し
博物館はくぶつかん
所蔵しょぞう
の石川県いしかわけん
指定し て い
文化ぶ ん か
財ざい
「加州かしゅう
鉱山図巻こうざんずかん
」がある。
尾お
小屋ご や
鉱山こうざん
尾小屋鉱山の始まりはあまり詳くわ
しくは知られていませんが、
『改作所かいさくしょ
旧記きゅうき
』によると、天和て ん な
2年(1682)には採掘さいくつ
が行われてい
たことがみえます。江戸え ど
時代じ だ い
には尾小屋鉱山の採掘が何度な ん ど
か試こころ
みら
れたようですが、本格的ほんかくてき
な採掘には至いた
りませんでした。
本格的な採掘は、明治め い じ
10年代に入って、金沢かなざわ
の士族し ぞ く
の吉田よ し だ
八百や お
松まつ
が採掘に着手ちゃくしゅ
し、同じ士族の横山よこやま
隆たか
興おき
がそれに加くわ
わったことから始はじ
- 18 -
まりました。
明治14年(1881)には、横山家
が尾小屋鉱山の鉱業権こうぎょうけん
一切いっさい
を譲ゆず
り
受う
け、隆興は鉱山こうざん
長ちょう
として採掘を行
いました。しかし、当初とうしょ
は良好りょうこう
な
鉱脈こうみゃく
に当あ
たらず、経営けいえい
の危機き き
に
直面ちょくめん
しました。
ようやく明治19年(1886)に、
銅の大鉱脈に当たり、明治20年代・
30年代に採掘量を順 調じゅんちょう
に増ふ
やしていき、大正たいしょう
9年(1920)には
年間ねんかん
2,276トンと全国ぜんこく
8位い
の生産量せいさんりょう
となり、日本に ほ ん
有数ゆうすう
の鉱山へと
発展はってん
しました。また、大正8年(1919)には、尾小屋と新小松駅間しんこまつえきかん
を結むす
ぶ尾お
小屋ご や
鉄道てつどう
が開かい
通つう
し、鉱石こうせき
や鉱山用こうざんよう
資材し ざ い
の輸送ゆ そ う
のみならず、沿えん
線せん
住民じゅうみん
の足あし
としても利用り よ う
されました。
しかし、第一次だいいちじ
世界せ か い
大戦後たいせんご
の不況ふきょう
と銅価ど う か
の下落げ ら く
で横山家は経営けいえい
不振ふ し ん
に陥おちい
り、尾小屋鉱山の経営けいえい
から撤退てったい
しました。昭和しょうわ
6年(1931)
からは日本に ほ ん
鉱業こうぎょう
株式かぶしき
会社がいしゃ
による経営となりました。
その後、第二次だ い に じ
世界せ か い
大戦たいせん
の終戦しゅうせん
直後ちょくご
に生産量せいさんりょう
が 著いちじる
しく減少げんしょう
し
ましたが、戦後せ ん ご
は新技術しんぎじゅつ
の導入どうにゅう
と合理化ご う り か
を推進すいしん
し、昭和30年ごろを
ピークに経営けいえい
が発展はってん
しました。
- 19 -
しかし、昭和30年代の後半に
なると、良質りょうしつ
な鉱脈こうみゃく
の枯渇こ か つ
、
貿易ぼうえき
自由化じ ゆ う か
による安価あ ん か
な海外かいがい
銅どう
の流 入りゅうにゅう
などで採算さいさん
がとれなく
なり、昭和37年3月、尾小屋鉱
山の製錬所せいれんじょ
が廃はい
止し
され、9月には尾小屋周辺しゅうへん
の本山ほんざん
が閉へい
鎖さ
されまし
た。その後、日本鉱業株式会社から分離ぶ ん り
・独立どくりつ
した北陸ほくりく
鉱山こうざん
株式かぶしき
会社がいしゃ
が経営けいえい
を引き継ぎ、五ご
国寺こ う じ
・金平かなひら
周辺の大谷支山おおたにしざん
の採掘を行っていま
したが、昭和47年(1971)、大谷支山が閉山し、尾小屋鉱山の全面ぜんめん
閉山となりました。
遊ゆう
泉寺せ ん じ
銅山どうざん
安永あんえい
6年(1777)、沢村さわむら
の石黒源いしぐろげん
次じ
は、金平かなひら
金山きんざん
に次いで遊泉寺銅山
の経営けいえい
に乗り出し、大坂おおさか
に銅どう
を送おく
っ
ていたとの記録き ろ く
もあります。その
後、一時い ち じ
休山きゅうざん
したのち、加賀藩か が は ん
直営ちょくえい
となったり、埴はね
田村だ む ら
の田中た な か
三郎さ ぶ ろ
右う
衛門え も ん
の経営になったりしなが
ら明治め い じ
に至り、金沢かなざわ
や東京とうきょう
、京都きょうと
の民間みんかん
経営者けいえいしゃ
の手て
に移うつ
りました。
そして、明治め い じ
35年(1902)、竹内たけうち
明太郎めいたろう
が経営する竹内たけうち
鉱業こうぎょう
株式かぶしき
- 20 -
会社がいしゃ
が遊泉寺銅山を買収ばいしゅう
し、その経営に乗り出しました。竹内明太
郎は現在げんざい
の高知県こうちけん
宿毛市す く も し
の出身しゅっしん
で、万まん
延元年えんがんねん
(1860)に土佐と さ
藩士は ん し
・
竹内たけうち
綱つな
の長男ちょうなん
として生まれました。明治18年(1885)からは父の
綱とともに佐賀県さ が け ん
の芳よし
谷たに
炭鉱たんこう
の経営にあたり、明治27年(1894)
には東京に本社を置く竹内たけうち
鉱業こうぎょう
株式かぶしき
会社がいしゃ
を創立そうりつ
して複数ふくすう
の炭鉱たんこう
経営けいえい
を行っていました。そうしたなか、芳谷炭鉱の共同きょうどう
出資者しゅっししゃ
の
外村宗そとむらそう
次郎じ ろ う
が保ほ
有ゆう
していた遊ゆう
泉寺せ ん じ
銅山どうざん
を買収し、経営に乗り出しま
した。遊泉寺銅山の経営にあたっては、鉱山用こうざんよう
電力でんりょく
が必要ひつよう
となり
鳥越村とりごえむら
で神子か み こ
清水し み ず
発電所はつでんじょ
を建設けんせつ
したほか、電気分解でんきぶんかい
製錬せいれん
装置そ う ち
といっ
た最新さいしん
設備せ つ び
を購入こうにゅう
して鉱山こうざん
敷地内しきちない
に電気分でんきふん
銅所どうじょ
を開設するなど、当
時としては画期的かっきてき
な欧米おうべい
の最新さいしん
技術ぎじゅつ
を積極的せっきょくてき
に取り入れました。
銅山どうざん
経営けいえい
は順 調じゅんちょう
に進み、経営当初とうしょ
は約12万まん
坪つぼ
だった鉱区こ う く
は、
大正たいしょう
5年(1916)には114万坪に拡大かくだい
し、生産量せいさんりょう
は年間ねんかん
600tを
超こ
えました。遊泉寺は巨大きょだい
な鉱山こうざん
町まち
として賑にぎ
わうようになり、明治
40年(1907)には小松と遊泉寺との間を結ぶ銅山専用せんよう
鉄道てつどう
が敷し
か
れました。
銅山経営を進める一方、明太郎は機械き か い
工業こうぎょう
にも関心かんしん
を示し、大正
6年(1917)、鉱山用こうざんよう
機械き か い
を製作せいさく
する目的もくてき
で小松こ ま つ
鉄工所てっこうしょ
を設立せつりつ
しま
した。翌よく
7年には、機械に用いる鋳鋼品ちゅうこうひん
の品質ひんしつ
アップを図はか
る目的で
小松こ ま つ
電気で ん き
製鋼所せいこうじょ
を発足ほっそく
しました。そして、見習生みならいせい
養成所ようせいじょ
を設立するな
- 21 -
ど人材じんざい
育成いくせい
にも力を注いで高い工業こうぎょう
技術力ぎじゅつりょく
を蓄たくわ
えていきました。
しかし、第一次だいいちじ
世界せ か い
大戦後たいせんご
の不況ふきょう
により、竹内鉱業株式会社の鉱山経
営は危機き き
に直面ちょくめん
し、大正9年(1920)、遊泉寺銅山は閉山へいざん
となりま
した。
小松鉄工所も不況の影響えいきょう
を受けていましたが、大正たいしょう
10年、竹内
鉱業株式会社から分離・独立して小松こ ま つ
製作所せいさくしょ
となりました。翌11年
には小松電気製鋼所を小松製作所に吸 収きゅうしゅう
・合併がっぺい
しました。遊泉寺銅
山は閉山になりましたが、その経営から小松鉄工所が設立せつりつ
され、機械き か い
工業こうぎょう
生産せいさん
が発展はってん
し、小松製作所さらには世界的せかいてき
建機け ん き
メーカー「コマ
ツ」へとつながったのです。
8.花坂はなさか
陶とう
石せき
と九谷焼くたにやき
加賀か が
地方ち ほ う
の伝統でんとう
産業さんぎょう
を代表だいひょう
するものに九谷焼があります。この
九谷焼を支ささ
えているものに花坂はなさか
町まち
で採掘さいくつ
されている九谷焼原石げんせき
(花坂はなさか
陶とう
石せき
)があります。この陶石は流りゅう
紋岩もんがん
が地下ち か
で熱水ねっすい
作用さ よ う
を受
けて変質へんしつ
したものです。流紋岩は、かつて縄文じょうもん
時代じ だ い
に石器せ っ き
の材料ざいりょう
と
して使われていました。熱水作用で変化することで、九谷焼の原石と
いう全く違った価値か ち
が生み出されたのです。
九谷焼の始まりについてはいろいろな説せつ
があります。その一つと
して、大聖寺藩だいしょうじはん
の九く
谷村たにむら
で陶とう
石せき
が発見はっけん
され、明暦めいれき
元年がんねん
(1655)ごろ
- 22 -
から、その地で色絵い ろ え
磁器じ き
が焼かれ始めたと言われています。この窯かま
は
謎なぞ
が多く、約50年で途絶と だ
えてしまいました。この時期に焼かれたも
のを「古九谷」と呼んでいます。
約100年後の江戸え ど
時代じ だ い
後期こ う き
、加賀藩か が は ん
は陶磁器と う じ き
の自給じきゅう
生産せいさん
を目指め ざ
し、
京都きょうと
の陶工とうこう
の青木あ お き
木もく
米べい
を金沢かなざわ
に招まね
きました。文化ぶ ん か
4年(1807)、木
米は助工じょこう
の本ほん
多貞だ さ だ
吉きち
らを伴ともな
って金沢卯う
辰山たつやま
で藩営はんえい
の春日山かすがやま
窯がま
を開
きました。その後、加賀藩内で様々な窯が興おこ
り、陶磁器と う じ き
が焼かれます。
これらの窯で焼かれたものを「再興九さいこうく
谷たに
」と呼んでいます。
若杉わかすぎ
窯がま
は文化ぶ ん か
2年(1805)に若杉村の十村と む ら
の
林八はやしはち
兵衛べ え
が開ひら
いた窯で、初めは瓦かわら
窯がま
を利用り よ う
して
趣味し ゅ み
で茶道具ちゃどうぐ
などを焼いていました。文化8年
(1811)、春日山窯にいた本多貞吉(右図)が若
杉窯に招かれました。このとき貞吉は、花はな
坂村さかむら
の
六ろく
兵衛べ え
山やま
で良質りょうしつ
な陶とう
石せき
(花坂陶石)を発見はっけん
しました。この発見によ
り若杉窯で本格的な磁器じ き
生産せいさん
が開始か い し
され、5年後の文化13年(1816)
には、藩は若杉窯を郡ぐん
奉行ぶぎょう
直轄ちょっかつ
とし、「若杉わかすぎ
陶器所とうきしょ
」と改称かいしょう
しまし
た。文政2年(1819)には他国た こ く
からの磁器の移入いにゅう
を禁止き ん し
し、若杉窯
を積極的せっきょくてき
に保護ほ ご
・援助えんじょ
しました。
その後、若杉窯は天保てんぽう
7年(1836)の火災か さ い
で八幡村やわたむら
に移うつ
ります。
やがて、近くに小野お の
窯がま
が開かい
窯よう
したことで、次第し だ い
に衰退すいたい
し、明治め い じ
2年
- 23 -
(1869)には藩窯から民窯になり、明治8年(1875)には廃はい
窯よう
と
なりました。
この若杉窯からは本多貞吉のほか、
粟生屋源あ お や げ ん
右う
衛門え も ん
や三田さ ん だ
勇ゆう
次郎じ ろ う
などの
名工めいこう
が輩出はいしゅつ
されました。また、若杉窯
で修業した斉田さ い だ
伊三郎いさぶろう
、九く
谷庄たにしょう
三ざ
な
どの名工たちが、各窯かくかま
で多くの門人もんじん
を
育そだ
てました。それは明治以降い こ う
の九谷焼くたにやき
産業さんぎょう
の飛躍的ひやくてき
な発展はってん
につなが
ります。現在でも花坂陶石は、九谷焼の原料として使われ続けていま
す。この陶石の発見は、九谷焼の歴史のなかで大きな意味をもち、こ
の発見がなければ、現代げんだい
に至る九谷焼の発展はってん
はなかったともいえま
す。
花坂はなさか
陶とう
石せき
から九く
谷たに
陶土と う ど
をつくる
九谷焼の陶土は、スタンパーで陶石を砕くだ
いた粉こな
から粘土ね ん ど
を作る昔むかし
ながらのやり方で、作られています。今年度こんねんど
、若わか
杉町すぎまち
にある陶とう
石工せきこう
場ば
が、九谷セラミック・ラボラトリーに生まれ変わります。
- 24 -
八幡や わ た
の登のぼり
窯がま
八幡は九谷焼くたにやき
の置物おきもの
発祥はっしょう
の地ち
で、現在げんざい
でも九谷焼に従事じゅうじ
する人
が多く住す
んでいます。かつては、
登窯がいくつも建ち並た なら
び、窯から
煙けむり
が上る様子よ う す
はまさに焼物やきもの
の里さと
の景けい
観かん
そのものでした。登窯は、丘陵地きゅうりょうち
の傾斜けいしゃ
を利用り よ う
して、製品せいひん
を
焼や
く部屋へ や
を階段状かいだんじょう
に連つら
ねた窯かま
をいいます。1200度ど
を超こ
える温度お ん ど
で、
白磁は く じ
の素地そ じ
を焼や
いていました。現在げんざい
は、昭和しょうわ
40年(1965)ごろま
で使われた登窯が残のこ
っており、展示館てんじかん
として活用かつよう
されています。当時
のまま残された県内けんない
唯一ゆいいつ
の登窯で、昭和48年(1973)に小松市こ ま つ し
指定し て い
文化ぶ ん か
財ざい
となりました。
上絵付う わ え つ
けの窯かま
錦にしき
窯がま
錦窯は、九谷焼くたにやき
の鮮あざ
やかな色いろ
をつけるための
上絵付け専用せんよう
の窯です。800度ど
程度て い ど
と登窯より
低温ていおん
で焼成しょうせい
されるため、昭和しょうわ
初期し ょ き
には町家ま ち や
の
工房こうぼう
に備そな
え付けられ、使用し よ う
されていました。そ
の部分を、「窯かま
納屋な や
」いいます。大文字だいもんじ
町ちょう
の「錦にしき
窯がま
展示館てんじかん
」や龍助りゅうすけ
町ちょう
の「ジャパン九谷のふるさと松しょう
雲堂うんどう
」では、
- 25 -
町家の中にある窯の様子よ う す
を見ることができます。窯かま
焚た
きには薪まき
を使
うため、内部な い ぶ
を二重にじゅう
構造こうぞう
にすることで製品せいひん
に直接ちょくせつ
火ひ
があたらないよ
う工夫く ふ う
されています。また、発色はっしょく
をよくするための温度お ん ど
調節ちょうせつ
が難むずか
しく、窯かま
焚た
きには熟練じゅくれん
の技わざ
が必要ひつよう
でした。昭和40年代以降、ガス窯
や電気で ん き
窯がま
が使われるようになると、このような薪まき
窯がま
は使われなくな
っていきました。
- 26 -
ふるさと小松検定 メモリアルコース
「珠玉と石の文化」ドリル
1.平成へいせい
28年に小松市こ ま つ し
が文化庁ぶんかちょう
から認定にんてい
を受けたのは?
① 有形ゆうけい
民みん
俗文化ぞくぶんか
財ざい
② 世界せ か い
遺産い さ ん
③ 石川県いしかわけん
遺産い さ ん
④ 日本に ほ ん
遺産い さ ん
⑤ 重要じゅうよう
無形む け い
文化ぶ ん か
財ざい
2.石材せきざい
の原料げんりょう
となる緑 色りょくしょく
凝灰岩ぎょうかいがん
が多おお
く取れる地域ち い き
を何なに
地帯ち た い
と呼よ
ぶ?
① グリーンタフ地帯ち た い
② モンスーン地帯ち た い
③ グリーンベルト地帯ち た い
④ 火山か ざ ん
地帯ち た い
⑤ 砂漠さ ば く
地帯ち た い
3.日本海にっぽんかい
グリーンタフ地帯ち た い
ができるきっかけとなった火山か ざ ん
活動かつどう
が始まったと
される時期じ き
は?
① 2500万年前まんねんまえ
② 1000 万年前 ③ 2000 万年前
④ 2000 年前 ⑤ 200 万年前
4.石材の原料げんりょう
となる凝灰岩ぎょうかいがん
は、どの岩石がんせき
の仲間な か ま
でしょう。
① 火成岩かせいがん
② 堆積岩たいせきがん
③ 変成岩へんせいがん
④ 溶岩ようがん
⑤ 片へん
麻岩ま が ん
5.小松で取れない石は?
① 水晶 ②メノウ ③オパール ④碧玉 ⑤ヒスイ
6.八日市ようかいち
地方じ か た
遺跡い せ き
は、いつ頃ごろ
のムラの遺跡い せ き
でしょう
① 2600 年前 ② 2300年前 ③ 1500 年前 ④ 1000 年前
⑤ 800 年前
7.八日市地方遺跡で使つか
われた管くだ
玉たま
の原料げんりょう
は
① 水晶すいしょう
② 碧玉へきぎょく
③ オパール ④ メノウ ⑤ ダイヤモンド
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8.管くだ
玉たま
に穴あな
を開あ
けた石いし
針ばり
に使われた石は?
① メノウ ② ダイヤモンド ③ 黄銅鉱おうどうこう
④ 砂岩さ が ん
⑤ 流りゅう
紋岩もんがん
9.碧玉へきぎょく
の産地さ ん ち
にあてはまらないのは?
① 島根県しまねけん
松江市ま つ え し
花仙山かせんざん
② 兵庫県ひょうごけん
豊岡市とよおかし
玉谷たまたに
② 石川県いしかわけん
小松市こ ま つ し
那な
谷た
・菩提ぼ だ い
④ 新潟県にいがたけん
佐渡市さ ど し
猿八さるはち
⑤ 新潟県にいがたけん
糸魚川市い と い が わ し
姫川ひめかわ
10.片山津かたやまづ
玉造たまつくり
遺跡い せ き
で作られた腕輪う で わ
は、何なん
の形かたち
をモデルにしたのでしょう?
① 虫むし
② 花はな
③ 山やま
④ 貝かい
⑤ 動物どうぶつ
11.河田山こうだやま
古墳群こふんぐん
の横穴式よこあなしき
石室せきしつ
の切き
り石いし
の積つ
み方かた
はどれでしょう。
① 乱積ら ん づ
み ② 野面の づ ら
積づ
み ③ 算木さ ん ぎ
積づ
み ④ 切り込み接つ
ぎ
⑤ 鍵かぎ
手積て づ
み
12.河田山こうだやま
古墳群こふんぐん
の石室せきしつ
のアーチ型かた
の天井てんじょう
はどこの影響えいきょう
といわれている
でしょうか
① 畿内き な い
地方ち ほ う
② 奈良な ら
地方ち ほ う
③ 中国ちゅうごく
大陸たいりく
④ 朝鮮ちょうせん
半島はんとう
⑤ 東北とうほく
地方ち ほ う
13.滝ヶ原たきがはら
八幡はちまん
神社じんじゃ
の境内けいだい
にある大型おおがた
の石塔せきとう
は何層なんそう
の屋や
蓋ぶた
が残のこ
って
いるでしょう。
① 1層そう
② 2 層 ③ 3 層 ④ 4 層 ⑤ 5 層
14.戦国せんごく
時代じ だ い
に那な
谷寺た で ら
で取と
れるメノウを中国ちゅうごく
との交易こうえき
でほしがった大名だいみょう
は?
① 大内おおうち
氏 ② 前田ま え だ
氏 ③ 豊臣とよとみ
氏 ④ 織田お だ
氏 ⑤ 長曾我部ち ょ う そ か べ
氏
- 28 -
15.戦国時代せんごくじだい
那な
谷寺た で ら
のメノウが採と
れる場所ば し ょ
として知し
られていたのは?
① 奇岩き が ん
の下した
② 金堂こんどう
の下 ③ 観音堂かんのんどう
の下 ④ 参道さんどう
の下
⑤ 金剛院こんごういん
の下
16.戦国せんごく
大名だいみょう
の求もと
めに応おう
じ、那な
谷寺た で ら
が送おく
ったメノウの数かず
は?
① 5個こ
② 10個 ③ 15個 ④ 20個 ⑤ 25個
17.滝たき
ケが
原はら
八幡はちまん
神社じんじゃ
の石窟(ヤグラ)の壁かべ
に刻きざ
まれている文字も じ
の種類しゅるい
は?
① 梵ぼん
字じ
② 漢字か ん じ
③ ひらがな ④ カタカナ ⑤ 数字す う じ
18.小松こ ま つ
の特産物とくさんぶつ
として安宅あ た か
湊みなと
から運はこ
び出されていた石いし
は?
① 鵜川う が わ
石いし
② 蓮代れんだい
寺石じ い し
③ 三谷さんだに
石いし
④ 滝ヶ原たきがはら
石いし
⑤ 立りゅう
明寺石みょうじいし
19.江戸え ど
時代じ だ い
に丁ちょう
場ば
として石を切き
り出していなかったのは?
① 観音下か な が そ
② 滝ヶ原たきがはら
③ 里川さとかわ
④ 鵜川う が わ
⑤ 三谷さんだん
20.鵜川う が わ
石いし
の記述きじゅつ
で間違ま ち が
っているものは?
① 火ひ
に強つよ
い ② 切出き り だ
した石いし
は小松町こまつまち
の石屋い し や
に売う
られていた ③水みず
に強つよ
い
③ 凍結とうけつ
に強い ⑤ 彫刻ちょうこく
に向む
かない
21.滝ヶ原たきヶはら
石いし
の記述で間違っているものは?
① 黄色き い ろ
みがかった色いろ
をしている ② 風呂場ふ ろ ば
などに使つか
われている
④ 山肌やまはだ
を横よこ
に掘ほ
っている ④ 水みず
に強つよ
い ⑤きめが細こま
かい
22.観音下か な が そ
石いし
の記述で間違っているものは?
① 露天掘ろ て ん ぼ
りで採掘さいくつ
されている ② 熱ねつ
に強つよ
い ③ 小松こ ま つ
城じょう
に使つか
われた
④ 黄色き い ろ
みを帯お
びている ⑤ 旧甲子園きゅうこうしえん
ホテルに使われている
- 29 -
23.小松こ ま つ
城じょう
に使われた石で、金沢かなざわ
から運はこ
ばれたものは?
① 鵜川う が わ
石いし
② 滝ヶ原たきヶはら
石いし
③ 大杉谷おおすぎたに
石いし
④ 戸室と む ろ
石いし
⑤ 里川さとかわ
石いし
24.小松こ ま つ
城じょう
の石垣いしがき
にあてはまらないものは?
① 切り込み接は
ぎ ② 算木さ ん ぎ
積づ
み ③ 鵜川う が わ
石いし
を使っている
④ 前田ま え だ
利とし
常つね
が整備せ い び
⑤ 現在げんざい
は残のこ
っていない
25.那な
谷寺た で ら
の建物たてもの
で凝灰岩ぎょうかいがん
を使った棟むね
石いし
を使っているのは?
① 山門さんもん
② 護摩堂ご ま ど う
③ 宝物館ほうもつかん
④ 書院しょいん
⑤ 三 重 塔さんじゅうのとう
26.滝ヶ原たきヶはら
石いし
を使ったアーチ橋ばし
で残っているものはいくつ?
① 2 ② 3 ③ 4 ④ 5 ⑤ 6
27.滝ケ原のアーチ石橋で、一番いちばん
新あたら
しい橋は?
① 丸竹橋まるたけばし
② 我山が や ま
橋ばし
③ 西山にしやま
橋ばし
④ 東口ひがしぐち
橋ばし
⑤ 大門だいもん
橋ばし
28.滝ケ原アーチ石橋で、橋を寄贈した坂本竹次郎氏の通称は。
① 我山さん ② 西山さん ③ 東口さん ④ 大門さん
⑤ 丸竹さん
29.小松の大火た い か
で焼や
け残のこ
り、耐火性たいかせい
が見直み な お
され蔵くら
の建築けんちく
に盛さか
んに
用もち
いられた石材は?
① 観音下か な が そ
石いし
② 滝たき
ケが
原石はらいし
③ 鵜川う が わ
石いし
④ 菩提ぼ だ い
石いし
④ 長谷ながたに
石いし
30.観音下か な が そ
石いし
の用途よ う と
に向む
かないものは?
① 蔵くら
② 門もん
③ 土台ど だ い
④ 洗あら
い場ば
⑤ 彫刻ちょうこく
31.それぞれの石切い し き
り場ば
の切出き り だ
し方かた
で間違ま ち が
っているものは?
①観音下か な が そ
-露天掘ろ て ん ぼ
り ②滝ヶ原たきがはら
-トンネル状じょう
の切出し③鵜川う が わ
-露天掘り
③立りゅう
明寺みょうじ
-トンネル状の切出し ⑤遊ゆう
泉寺せ ん じ
-トンネル状切出し
- 30 -
32.タンコロ石の特徴とくちょう
で違ちが
うものは?
① コンクリートと併用へいよう
して使う ② 鵜川う が わ
や里川さとかわ
の石で作る
③ 護岸ご が ん
工こう
事じ
に使う ④安宅あ た か
湊みなと
から流通りゅうつう
した ⑤砂すな
や小石こ い し
をつめて使う
33.金平かなひら
金山きんざん
や遊ゆう
泉寺せ ん じ
銅山どうざん
を経営けいえい
した十村役とむらやく
の人物じんぶつ
の名字みょうじ
は
① 多川た が わ
② 喜多き た
③ 岡部お か べ
④ 亀田か め だ
⑤ 石黒いしぐろ
34.江戸え ど
時代じ だ い
に加賀藩か が は ん
の財政ざいせい
を支ささ
えた重要じゅうよう
な鉱山こうざん
は?
① 遊ゆう
泉寺せ ん じ
銅山どうざん
② 金平かなひら
金山きんざん
③ 尾お
小屋ご や
鉱山こうざん
③ 足尾あ し お
銅山どうざん
⑤ 尾去沢おさりざわ
銅山どうざん
35.天明てんめい
元年がんねん
(1789)の金平かなひら
金山きんざん
の産 出 量さんしゅつりょう
は、現在げんざい
の重おも
さに
するとどれくらい?
① 10kg ② 15kg ③ 20kg ④ 25kg ⑤30kg
36.金平かなひら
金山きんざん
の絵巻え ま き
を描か
いた人物じんぶつ
は?
① 矢田四如や た し じ ょ
軒けん
② 佐々木さ さ き
泉せん
敬けい
③ 岸がん
駒く
④ 梅田九うめだきゅう
栄えい
⑤ 久隅守景くすみもりかげ
37.尾お
小屋ご や
鉱山こうざん
の経営けいえい
に関かか
わっていないのは?
① 横山よこやま
隆たか
興おき
② 竹内たけうち
明太郎めいたろう
③ 日本に ほ ん
鉱業こうぎょう
株式かぶしき
会社がいしゃ
④ 北陸ほくりく
鉱山こうざん
株式かぶしき
会社がいしゃ
⑤ 横山よこやま
章あきら
38.明治め い じ
35 年(1902)遊ゆう
泉寺せ ん じ
銅山どうざん
の経営けいえい
にのり出した人物じんぶつ
は?
① 竹内たけうち
明太郎めいたろう
② 河合か わ い
良よし
成なり
③ 石黒源いしぐろげん
次じ
④ 横山よこやま
隆たか
興おき
⑤ 竹内たけうち
綱つな
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39.鉱山用こうざんよう
機械き か い
の製作せいさく
のために設立せつりつ
された会社かいしゃ
は?
① 日本に ほ ん
鉱業こうぎょう
株式かぶしき
会社がいしゃ
②遊ゆう
泉寺せ ん じ
鉱山こうざん
鉄道てつどう
③小松こ ま つ
鉄工所てっこうしょ
④ 小松こ ま つ
電気で ん き
製鋼所せいこうじょ
⑤ 竹内たけうち
鉱業こうぎょう
株式かぶしき
会社がいしゃ
40.ハニベ巌窟院がんくついん
は、何なん
の跡あと
を利用り よ う
して造つく
られたものでしょう。
① 鉱山こうざん
跡あと
② 石切い し き
り場ば
跡あと
③ 古代こ だ い
寺院じ い ん
跡あと
④ 軍需ぐんじゅ
工場こうじょう
跡あと
⑤ 古墳こ ふ ん
跡あと
41.本ほん
多貞だ さ だ
吉きち
により花坂はなさか
陶とう
石せき
が初はじ
めて発見はっけん
された山やま
の名前な ま え
は?
① 権兵衛山ご ん べ い や ま
② 六ろく
兵衛山べ え や ま
③ 鞍くら
掛山かけやま
④ 観音山かんのんやま
⑤ 岩倉山いわくらやま
42.九谷焼くたにやき
の原料げんりょう
となる陶とう
石せき
が採と
れる町まち
は?
① 鵜川う が わ
町 ② 花坂はなさか
町 ③ 那谷な た
町 ④ 菩提ぼ だ い
町 ⑤ 赤瀬あ か ぜ
町
43.陶とう
石せき
の原料げんりょう
のとなるのは、どの岩石がんせき
が変化したものでしょう。
① 砂岩さ が ん
② 安山岩あんざんがん
③ 花崗岩かこうがん
④ 流りゅう
紋岩もんがん
⑤ 片へん
麻岩ま が ん
44.陶とう
石せき
を発見はっけん
し、若杉わかすぎ
窯がま
で陶磁器と う じ き
を焼や
いた本ほん
多貞だ さ だ
吉きち
が、以前い ぜ ん
に
関かか
わっていた窯かま
は?
① 民山みんざん
窯がま
② 春日山かすがやま
窯がま
③ 吉よし
田屋だ や
窯かま
④ 小野お の
窯がま
⑤ 蓮代寺れんだいじ
窯かま
45.若杉わかすぎ
窯がま
の記述きじゅつ
で間違ま ち が
っているものは?
① 九く
谷村たにむら
で採と
れる陶とう
石せき
を使っていた ② 林八はやしはち
兵衛べ え
が開ひら
いた窯
③ 藩はん
直轄ちょっかつ
の「若杉わかすぎ
陶器所とうきしょ
」となった ④ 粟生屋源あ お や げ ん
右う
衛門え も ん
が働はたら
いていた
⑤ 明治め い じ
まで操業そうぎょう
していた
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46.若杉わかすぎ
窯がま
が若わか
杉村すぎむら
から八幡村やわたむら
に移うつ
った理由り ゆ う
は?
① 工人こうじん
が増ふ
え手狭て ぜ ま
になったため ② 陶とう
石せき
が取と
れなくなったため
② 藩はん
の直轄ちょっかつ
となったため ④ 人出ひ と で
不足ふ そ く
になったため
⑤ 火災か さ い
にあったため
47.若杉わかすぎ
窯がま
の稼動か ど う
期間き か ん
で正ただ
しいのは?
① 1811~1873 ② 1805~1875 ③1816~1855
④ 1816~1869 ⑤ 1811~1836
48.八幡や は た
に残のこ
る「登のぼり
窯がま
」であてはまらないものは?
① 昭和しょうわ
40年ねん
頃ごろ
まで使われた ② 昭和 48年に市し
の指定し て い
文化ぶ ん か
財ざい
になった
③ 丘陵地きゅうりょうち
の傾斜けいしゃ
を利用り よ う
して作られている
④ 白磁は く じ
の素地そ じ
を焼や
く
⑤ 火が直接ちょくせつ
あたらないように壁かべ
が二重にじゅう
構造こうぞう
になっている。
49.町家ま ち や
の中で、錦にしき
窯がま
がある場所ば し ょ
を何なん
と呼よ
んだでしょう。
① 窯かま
納屋な や
② オエ ③ 居間い ま
④ 納戸な ん ど
⑤ 工場こ う ば
50.錦にしき
窯がま
の平均的へいきんてき
な焼成しょうせい
温度お ん ど
は?
① 600度ど
② 800 度 ③ 1000 度 ④ 1200 度 ⑤ 1300 度
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「珠玉と石の文化」ドリル 回答
1.④日本遺産
2.①グリーンタフ地帯
3.③2000 万年前
4.②堆積岩
5.⑤ヒスイ
6.②2300 年前
7.②碧玉
8.①メノウ
9.⑤新潟県糸魚川市 姫川
10.④貝
11.⑤鍵手積み
12.④朝鮮半島
13.⑤5 層
14.①大内氏
15.③観音堂の下
16.①5 個
17.①梵字
18.①鵜川石
19.①観音下
20.⑤彫刻に向かない
21.①黄色みがかった色をしている
22.③小松城に使われた
23.④戸室石
24.⑤現在は残っていない
25.②護摩堂
26.⑤6
27.①丸竹橋
28.⑤丸竹さん
29.①観音下石
30.④洗い場
31.③鵜川―露天掘り
32.①コンクリートと併用して使う
33.⑤石黒
34.②金平金山
35.④25kg
36.①矢田四如軒
37.②竹内明太郎
38.①竹内明太郎
39.③小松鉄工所
40.②石切り場跡
41.②六兵衛山
42.②花坂町
43.④流紋岩
44.②春日山窯
45.①九谷村で採れる陶石を使っていた
46.⑤火災にあったため
47.②1805~1875
48.⑤火が直接あたらないように壁が
二重構造になっている。
49.①窯納屋
50.②800 度
第 14回ふるさと小松検定
メモリアルコース「珠玉と石の文化」
テキスト&ドリル
2018年 9月 25日 発行
NPO法人ふるさと小松検定