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Title 紡・織業の産業革命と女工の結核病

Author(s) 三島, 康雄

Citation 經濟論叢 (1954), 74(3): 143-164

Issue Date 1954-09

URL https://doi.org/10.14989/132376

Right

Type Departmental Bulletin Paper

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Kyoto University

経議与論叢言書七十回春 替え読

反帝園主義者ホプY:/ …静岡 均(1)

紡・織業の産業革命と女工の結核病 三島康雄 (19)

「抽象的・人間的苦手働」について…・・ 金 主童 小頁 (41)

日本銭鋼業の成立と封外投資 ノト野一一郎 (52)難波平太郎

〔昭和二十九年九月]

京都え手線瀞苧曾

前・織業の産業革命と女王の結核病

一九五三年秋の厚生省の金園調査によれば、全園民八六六

O高人のうち、川町重症白結核息者は二九三高人

四%)、

ω無理な作業をすると都民病・再裂の危険のある者二六一高入門一一-一%可印結核病の困った跡が見られる者

八四四再人円九・八%)であり、合計一、=一九七商人ハ一六・三%Uすなわち六人に一人と

wう驚くべき多数

ω闘民が

-

結核病のために苦Lh?を受けていゐ。(以上の数字は↓九主四年三月一四日付の「朝日新岡」忙よる。)

近年まで日本白結

核死亡教は毎年一五高人以上をかぞえ、文明諸圏中最高田結核死で率E示してHた。最近、新柚鳴り出現、外科手術

の殻達により、一兆亡教は著しく減少したが、患者の貫教は増加の傾向にあり、問題

ω重要性は少しも減じていない.

このような『病弱た産業滋備軍」

U存在は、皐に勢働問題のみなbず、あらゆる祉曾問題に暗い影を投じ

τいる。

結核病は別名を、資本主義病といいうるほどに、資本制生産と密接な関係主もフも白てあり、従って結核病の問題

は、墜事的・衛生息的な観貼だけから解決されるも白てはない。すなわち紅曾的・展史的な園民生活白構造の中に

こ白問題解決の鍵がひそんでHるDてある。こむような腕角白もとに、己の小論におい亡、日本を現在のような最

紡・職業の偉業草命Lζ

女工の結核病

第七十四巷

紡・融業の産業草命k女工の結核病

第七十四巻

~q

量定

O

高白一緒稜園たらLめた、もっとも有力た歴史的傑件てある産業資本確立期にbける紡・械業白勢働僚件の成立過程

を分析しようと思う。今まで、『結核女工』の問題は社合政策事・会衆衛生事て、部分的に論じられてきたが、私

は包括的な歴史的立場から、車に大紡績業のみならず製糸業・織物業の零細工業主含めて検討することにする。

それに先立って主要諸闘の結様死亡率年衣表を掲げると第一表の如くである。白木について若干の註躍を加える

と、

ω明治三三年には結核死亡率は一寓人につき一主・九人であったが、同その後上昇を績けて三八年山一日露戦争

時には-一

O人白ラインを突破し、その後漸捨を積け、同開第一次大識が勃裂するや異常な念上昇を見せて、遂にご五

人のラインを越え、川明大豆一

O年頃からのいわゆる慢性酌不況の時代に入ると、

二O人前後の横ばい昧態を綾け、的拘洲事費が勃補血した翌年の昭和七年の一七・

九人を最低鮪として再び上昇に縛じ、削判中日一品費、第-一決世界戦争を遁じて上昇

亡人口 1高人にワき〉

EFFJ7E日正|

一一一

を続け昭和一八年には、一二二人に遣している。叉品市・英・濁の他の女明園が、己

の四

0年聞に著しく結核死亡率を減少しているのに、ひとり日本のみが上昇を綾

一般に資本主義の稜展と共に、結核死亡率は、

戟時には著しい上昇を示しながら、位曾政策の質施、盤底干の脇氏蓬、衛生思想・設

けていることに注目せねばならぬ。

備の普及により、減少するのが普通であり、第一衰の米・英・濁の数字はこのこ

とを立詮し℃いるが、ただ目本のみは例外て、一減少したいのみか、増加の傾向を

見せている。このことこそ、白木の結核病とそ白吐合的・厩史的背景との特異な

運闘を端的に示しているのである。友治、戦時に結核死亡率が著しく増加する白

第 1最年夫別・主要因別結核死亡率

主主l星回|田|司戸戸1E7了汁τ

三三l空l日?日は、戟争にともなって必然的に起る軍需工場空中心とする弊働強化、軍事行動の

増大による肉殻負婚の増加、軍需イン

がもた

bす質賃貸金白低下による柴養

白木足たとによる、健全な園民経済白再生産山破壊が原因である己とは、いうま

でもない。

τ、結核病は古く人類山起源とモの歴史を同じくするが、資本制生産が開始

されるまては祉曾病ではなく、わが圏においては徳川封建駐倉山末にいたるまて、

ハイμウ

『肺勝』という呼名をもワ℃存在したが、ただ江戸・大阪・京都たどの大都市と

その問を交遁する符道すじ

ω地方都市の一隅に、車に個人病として存在し、農

村・山村・抽出村などは結板病に劃しては、ほとんど純然たる庭女地帯であった。

これは感染者の一部の者のみが裂病し、また強病者のうち、肺白病巣に盆洞を有

し結稜菌を空中に撒布する者のみが他人への感染源になるという結族病

ω病理事

的特徴によるものであり、このため、封鎖的な藩別地域経掛を基底とし、人民の

交流が比較的閑散な封建一航時閣のもとに島いては、結核蔓延山保件は少たかったか

らである。

明治六年の産業別人U構成によれば、七七・九万が農業人口であり、商-工・

交遇業人口は一九・

OMてあったか、町ドハ盛りは貴族・借似などの非生産階級U

明治

維新

ωこるには、同本人心約八割は結核病に封し℃発疫牲をもた左い未感染者て

紡・織業の産業革命と官工の結核病

第七十四巷

四王

童話

訪・織業の産業草AW

と世工の結核病

第七十四巻

一回大

賀基

宣E

あったと恩われる。

しかし、づいにとり『蒼白き騎士』が飛躍的た進軍全開始する時が宅ってきた。

「文明開化』

Dスローガン白も

と、あらゆる祉曾秩序は資本制生産への大遣を進むように再編成されていった。かくして官替軍需工場・化翠士場・

造船工場たどの大工場は漉々と政府によって建設され、機椎産業は紡績を主導力とする棉作・紡績・綿織の=一分化

工程をもっ棉業と、製糸業金、一士迫力とする養詑・製糸・絹織り一一一分化工程をもっ絹業白一一系列に編成替えされ、そ

して工業人口率は増加して都市へ集中し、新たに多数の工業都市が生まれた。このどうに資本主義の稜展そのもの

が結核蔓延への劃期的な保件を形成してゆき、かくして蛍然結核は、まず東京・大阪たどの大工業都市において猛

威をふるったが、そ

ω全図的蔓延K重要た役割を呆した白が本論白主題である紡績・織物業ハ綿・絹U

白特異た弊働

保件てあった。ゆえに、かかる務働僚件を成立せしめた原因である本源的蓄積過程における紡・織業白成立・稜展

の過程を検討せねばたらぬ。

いうまでもたく、明治一

0年代における本源的蓄積の過程は、寄生地主的土地所有をその基盤として行われ、専門

本臼封極としての賃勢働白創同は、零細農園小作人白増大と?っ形て進行したために、英閣むような閏由なプロレ

グリブート

ω形成は、きわめ

τ緩慢にしか進行し左由った。しかし資本主義の展開とともに、農民の階居分化は準

行し、自給的農村家内工業は破壊され、多くの家内副業白探用も貨幣経済む侵透とともにそり範園をせばめ、農民

の窮乏化は一暦激しくなって、方大な過剰人口金堆積していった。己れらの波落農民の娘たちは、家計補助のため

にその頃産業界白花形として登場してきた紡績工場を中心に、モ白外郭部士形成する織物・製糸業のマニュフアグ

チュ

7・家内工業に『工文」とし

τ、ぞ〈ぞくと身士投じた。彼女たちの弊働は、一ご年前後の契約期間企終えた後

は、農村の親元へ蹄郷して農家白主婦としての生活を始めるべく珠定した、典型的左阿穣型第働であった。との出

稼型蜂働は、営然に彼女たちの蜂働意識D上に反映し、無智にして幼稚た彼女たちの頭脳には誼代的な賃弊働者と

して白プライーも圏給意識も生まれず、特異左前近代的エトスの下に、容易に「低賃金・温度弊働』の原生的・身

7的努働傑件のなかに東惜制されていった。

一方、紡績資本白川川からみれぽ、明治絶封主義政府による堺・愛知・庚

島のゴ一官潜紡漬工場の梯下げを始めとし、一一、

000鍾紡演機械一

O基心轍入

1抑下げなどの手厚い保護政策のも

とに、資本の本源的蓄演は張力に遂行されたが、乙のモぴえ立つ轍入紡波大工場町

E大な生産力と、寄生地主的土

地所有制による零細農民を主とする閣内市場の狭血性との矛盾は、早くも明治一一一一一年に綿業を中心とする恐慌を勃

登せしめ♂たo

乙む解決は隣接諸園へ

D強行職出へと向わざるをえず、中園・朝鮮市場ては、ィ

yF・イギ

Fス備業

の続手を排除して進まねばなら、なかった。そして目清戟宰の勝利の結果、朝鮮市場の濁占と中園市場開拓により、

紡・織業は総出産業とし

τ白地位を確立し、熱狂的な景気に見舞われ、霊夜粂行の操業を行っても需要に限ずるこ

とができないほどにたった。モ白上、大機械削工場主天下りに輸入して、未熟た段階にある産業一世高度の資本主義

に念いイ確立せねばならなかった後進図的た明治期経済構地のよわさのため、あらゆる積類の新機械が無秩序につ

ぎつぎと職入され、そのため奮式た機械の相調的膳誠にたいする資本家白恐怖は非常に大さく、すみやかに投下資

本を回投しようとする織維産業資木家の慾求は、弊働時間の超生現的延長とたって現われた。己のようにして、本

源的蓄積期にbける同本的特質のご側面、すなわち出版型賃弊働者の前近代的エトスと、始めて世界市場という華

中、かな檎鉾蓋におどり出た、産業資本確立期の繊維産業費本家の利潤獲得への強い慾求が交錯したところに、女工

の原生的・肉控治磨的勢働保件が成立したのである。

訪・融業の産業草命

k女工の結核病

第古十四巻

四b

紛・織業の産業草AWと女工の結核病

第七十四巻

四J、

第三掠

(2) (1)

平野義太郎「日本者本主義世官の樺構」一一一頁。

大河内一男「梨明期の日本努働運動L

八一六頁参照。

肉腫阻消磨的勢働僚件と結核病

糸明

紡治績三及。紙年物代ノ「こ三 や工 け場 る八紡叩.

副主静ユ二 三ヰー

場 な綿 b悔O. v: :ノに九女害j ヱ九 の分零ヲ 5長占J¥l

ぺ害事之Iimヲクト

各 に種 lγ/りァる

逗吏咽口

掻 z掛る

上七 久ス

明Jレ y 、

モ 巴情三英五ノ

K E守~

盟主五六= 恒置官

営 生

リ、職工数=於テハ共ノ六割一歩一一営ル、向是観之本邦一一於グル工場/大部分ハ繊維工場ニシテ、市モ生紙工場紡

績工場及織物工場司

y成ル手ノト一一一同フヲ得んケ」すなわち紡・織業は全産業界の六一一一だをしめ、『職工綿数約=一十

四高二干人ノ内、男工十ご高二千人邸チ僅力三二割五接関、女てハ三十二高人町千六割四分強一一営ル、由是観之現

時ノ工場開吋働ハ主トシテ女工ニ依テ行ハルルモノグルヲ知ルへシ」とあるの陀上白、営時の静働人口構成における

女エ白比率の重要さがうかがわれる。さらにとれを繊維一二業についてみれば、明治一三一一ーー一一一六年に恥いで女工の

比率は、紡蹟業ては七五ガか

b八三%。ニ重紡績・大阪紡績・鍾ケ淵紡績・苧野紡績・東京紡績その他一六工場調査U

製総

業ては九一

γli一一一%ハ長野勝

25玉工場調査)織物業ては八O%ーー一

ood川会主園調査U

であって、紡・織業の勢

働者中における女工の屋倒的地位を示している。こ白比率は、日露戦争を経て産業界が濁占資本主義の段階に達し

ても疲らず、明治四三年農商務省後表

KZれば、職工抽制裁は六九回、一七一人て、染織工場に四四-一、一六九人(六

二努)が集中し、そのうち女ムは一二八一、二七三人(静紺勢働者中λ六%Uであった。己白よろに明治後半期比女工は

弊働岡山の重要在地位をしめ、モの弊働侭件の如何は、営時の野働問題の中心をなしていたのである。そもそも自然

的・純生理的限外をずら超える弊働力の磨耗は、本源的蓄積期とそれに綾〈産業資本確立期に会ける拶働僚件を特

徴ブけるものであるが、これか

b日本の産業革命時代における紡・織業の女工の原生的弊働篠件と、結核病の蔓延

との関係を見てみよう。

ω良商誹省「エ場調査要領」第二庇ハ明治一一一七年刊u一一一頁。

ω同上七頁o

m川

wm土犀橋雄校閲「職工事情」第一位門生活世版)六一

O頁、一六ニ頁、

制農商請省「工場止が職工L

ハ大河内前掲許二一一頁よp引日)。

ニ一七頁。

A

f動

日寺

紡績工場に沿いては、霊・夜d訟の三交替献を原則とし、「勢働時間は十三時間、即ち雲間業を操るは朝六時

IP

院の六時まて、夜業に出づるは午後六時より午前六時迄は通例たるが如し』であったが、『徹夜葉山一般職エノ堪

へ難キ所ナルヲ以一ア、夜謙一一八快勤渚多夕、操業上必要ナル人員ヲ飲ク場合多シ、認一一於テカ聾業ヲ柊〈一ア闘ラン

IRル職工中二就キ届残リヲ命ジ、建コ翌朝ユ至ルマデ一一十四時間ノ立業一一従事セシムルコト往々之7目、甚シキ

-一至UJ

テハ宵此工女ヲシテ翌日/蓑業】一従事セシメ、遁シテコ一十六時間-一及7

コト」も、しばしばあったととは、

日本近代史上あまりにも有名である。生赫マユュファグチュ7に治いては、弊働は主として叢紫、てあったが、

方ニヨリ日出ヨ

PE法一一五ル迄ヲ就業時間ト〉ナスモノアレトモ、或ハ日出前ニ始業シ、或ハ夜業ヲナシ、冬期ト雄

モ十三四時間乃至十五六時間ニ至ルモノ

7H〕最もひどい所ては、

白孟司

f也

「毎日ノ答働時間ハ決シテ十一二四時間ヲ降ルコ

トナク、長キハ十七八時間一一達スルコトモ亦之ナシト言フへカラス、

殊ニ諏訪地方一一於デハ此事貨ノ顕著ナル

モノ

7p、抑モ此/地方ニ於ケル生糸工場ノ務働時間ノ長キコト八金園ニ冠タリ、毎目平均十五時間ヲ下ラ+ルへ

紡・織誌の産業革命とす工の結核病

第七十四巻

四ブL

結・織業の産業革命と士工の結核病

第七十四巻

互王O

隼=一説

シ、加之ナラス市場/好況ヲ呈スル=及んハ、頻一一斉働時間ヲ延長シテ其生産額ヲ増加センコトヲノミ之レ務メ、

一日ノ弊働ハ十八時間二培スルコト屡々之レナリトス1L。

bk零細マユユファグチュ

7・問屋制家内工業の混在

が支配的形態ゼあった織物業におhては、「日出後三初マリ白波前二昨リ、共時間十二三時間ナル?ノハ最号短カ

キモノュシテ、日出後一一初マリ午後九時又ハ十二時ニ終

p、其時間十五六時間ナルプ

F、之

ν多数織物工場一一於ケ

ル努働時間トス、中=ハ一日十七八時間ノ弊働7m局十シムル慮71ハ』と「職工事情」は、雄問問に女工の勢働時間を

措いているが、賢に紡・織業に沿いては短かくても一二時間、長さは一八時間にわたる生理的限界全超えた弊働時

聞が強制されていたのてあって、このようた長時間弊働が毎日くり返されるときは、残された時聞から推計される

腰眠時間・休養時閣はあまりにも短かく、疲弊は疲弊の上に重たり、健杢た肉障のエネルギーの再生産は行われず、

結接病の裂病白第一傍件である疲勢の累貸か短時日の一うちに進行した己とは、火を見るよりも明bかてある。さら

に紡績業の連続徹夜業は、生糸マニュ

7ァグチュア・織物家内エ業に較。へて、組織的た機械憧系をもっ近代的大工

場であったため、紡績女工は機械生産の総過程の附随物として、弊働の密度は一唐他よりも古向く、また日光浴の機

舎も少怠いから、衛生に悪影響をもたらすことが蔭だしく、

「試みに早朝工場に赴吉、夜業を終ってヱ場を出る所

の女工を庖れば顔容蒼白、形容枯楕ならざるものは殆ど之恋し、殊に幼者に至つては更bに一暦の甚しさを加へ観

月当

る者をして覚えず顔全蔽はしむるなり]という般態であった。たとえ二一時間白砂働時間ても、紡績の連績徹夜業

が結核の護病の最も重要た原因てあづたことは後に述べるごとく明らかである。

世事 (叫

稲山源之凶「日本の下居世曾」岩波文庫仮一六二頁。

前調「職工事情」第一巻二六頁。同「工場調査要領」三五頁。

「職工事情」停一巻一七三i四頁。

ω向上コ一ニO頁。

桑田煎殿博士「エ揚法LL

輔働保肱」=一二六買ハ名和統一つE本初績業自主的分析」コ一八二頁より引用)。

B (叫(叫

勢働者の掃取する町営養の質と量主規定するのは、勢賃の水準てある。ゆえに女工心食事につい

τ見る前に、その

賃金水準を検討しなければな

bぬ。前記のごとく、大陸市場における英・印綿綿布との競争を排除して準まねばな

らなかづた日本紡績業の唯一の一武器は低コストてあり、したがって「印度以下的低賃金』(山田盛太郎「日本資木主義

分析」三四買U

と稿せられる低賃金水準が、その基礎にあったことは衆知のごとくである。第三表をみると、紡績女

紡績業 ・ 軍 需 工 廠 賃 金 表

C明治39年〉

l曾 酔 名| 男女別平均日給額(l.'l.s1:・世皇)

男 43.0女 21. 2

鏡淵紡蹟 K.K 男 46.4 多ぐ 25生

東京瓦斯紡績K.K 男 40.2 プ安 19.4

富士勧績 K.K 男 43.0

i会問訪続平均

女 21.0 男 33.8 1< 21. 2

j京且砲兵ヱ厩男 83.0 ム 26.0 男 59.0 y- 25.0 男

印刷局10.0

女 21. 7

第 z表

初・織業の産業革命と女工の柑核病

86頁

ヱω日給は一・九銭

ll一一一銭が大部分てあ白、男工の字分以

下てあワて、砲兵工廠・印刷局の女工より約一一割の低水準で

あワた。製糸・織物業が紡績業主りさらに低かった己とはい

うまでもない。このような低賃金山中から支出される食費は、

i"邑物論研究J1935年5月披

紡績業にhd

いて『寄宿職γ

ムハ遁常只食料ヲ負櫓セルノミ、其

フ銭他アニノ、

普シ糠

遁~アベ』川、テ

と ヨ二 ιιし業業た主主。ノ、ノ

モ ー支の人 出内ニス容 付 yレ

は約 庭、 ーナ

献、 M

立二表")銭食に/ 料よ補八れ充毎1'1'ヲ同

鴛 ハ朝 v 鐙食 之 乃はヲ 至香 賄 八

の物のみが大部分であり、良好た場合できえ己れに味噌討が

つhv

ているだけで、重・夜食は野菜・乾瓢・エ切・間野豆機・

第七十四巻

Z工

事三弦

ーヒ

紡・織業の産業草命Lζ

士工の結核病

第七十四巻

多存

/、、

昆布たどの乾物類ハこのうち一品又は二品U

士、王とし、五日に一度の割て目別・備などをつけた副食があるだけであっ

た。製総設にゐいて川、『食物ハ概シテ粗悪ナ

y、副食物ハ味噌行ト演物トヲ常例トシ、

乾魚ヲ興アルコトアリ』織物業に治Hて、

時々野茶ヲ給ス、

1希

『食物〈一般一一粗悪一一シテ、飯ハ米七萎=一/如キハ上等ニシテ普通ハ米

三分姿七分ナ日、副食物ハ味噌汁、浬庵及ピ菜・犬根・苧等/煮付トス一日るが、特に桐生・足利地方k

h

d

いては、

『かれ等が日々食する所の食物と言へば、飯は米と婆と等分にせるワリ飯、朝と閲は汗あれども霊食には菜なく、

しかも汁というもハ特に盤辛くせる味噌汁の中へ入

Pたるは遁例茶葉、秋に入れば大根の刻与たるものありとせば、

即ち是れ珍陪佳役以とする欣態てあり、美濃・尾張地方ては毎食、香の物もしくは味噌計であって、「肴ハ一日、

十五日ノ一一回位蓑飯一一干物ヲ添ユルノミ、生魚ヲ供スルハ年一回海老害講ノ日ナリト言7::::尾張地方郡部ノ機

業場ュ至レ〈其食物ハ甚グ粗ナリ、十月ヨリヤ二月ノ問ハ毎朝薩醸芋ヲ湯-一テ煮立テタルヲ奥〈、叉夕飯コハ雑炊

ヲ興へル所多シ山とυ

これら白食事において、

一二時間ーー一八時間という長時間勢働にたいして、カロリ・蛋

同質(特に宜野働に必要な動物性の)・脂肪・無機物・グィグミンのすべての皆養誌が極度の不足をつげているこ

とは一日日瞭然である。しかも町工場にゐい

τ食事時間は=一

O分ときめてはあるが、質際は『三

O分も休憩している

と言う様な事をした

b監督者に脱まれる。誰しも監督者の目付き白世間和左事を望むりて落ち着いて食事汀もじっとし

て届られぬc

中には島握りを傍に置い

τ食ひなが

b糸を紡ぐ或いは布を織って居る所も無きにしもあ、b』ざるゆえ

に皆吉査の吸牧すこぶる悪く、

慢性胃腸障害を起し、

そむため癖仕組るもりも多かった。

ここに女工が結核病にお

かされる凍二の重要な原因がひそんでいた乙とを知ることができる。

るものか]という女エ小唄白文何は、この一ような待遇にたいする彼女たち

ω精一杯白レジスタンスてあった。

『=一度=一度に菜っ葉を食べて、何て赫目が出

的制「職工事情」第一巻一四一宜頁。問

問横山源之明「E本の下暦酔曾L

丸九頁。

ω石原修寸新稿野働衛生」ハ犬

E一五年杉山書席刊〉ニ七三頁。

伺細井和審議「女工哀且」(大

E一回非政治社版)一九士一頁。

岡上

ニO三頁。

白B)帥

向上

O五|七頁。

C

事手

清揮ゼ遁蛍な漁ERと温度をふ〈んだ大気を呼吸するととは、呼吸器の衛生忙とって第一保件てあるが、

場等ノ或部分ニ於一アハ与一量/間関壊粉末ヲ飛散

v、計隣叉ハ職工徒弟-一危害ヲ生スルノ民多キモ、之カ珠防ノ設備方

『紡績工

法完カラサルモノ多シ、職工徒弟ハ場内一一塵挨充満シテ問問尺ヲ排セ+ルユ至ル号、僅-一千拭ヲ以テ鼻口ヲ覆汐位一一

止レリ、用園ノ窓八操業上支障『ノリトノ故フNHF曾一f

之ア開グコトナク、或ハ之ヲ朕メ殺す

T渇セル7リ凶漁

策については『棉繊維に漁気を奥へるとモの強度を増し作業が容易で能率の増準が計れると昔日ふ論披か

bして保健

の勲たどはいささかも考慮に置かず綿糸紡織工場では甚だしい漁度を有たせるのが常だ。噴霧器の数は凡そ床面八

坪くらひに各一個を十吠以上の高庭に取付け、高水区て間断友く水を吹き出すのであるゾとれが殆ど細霧献と在っ

て室鋳に飽和して行くのだか

bたまらたい着物中頭髪は年中しっとりとしめってゐか白」

温度についてみれば、

『平均温度六十五度以上、酷寒の時と雄、も五十度を降るやうたととは滅多忙たく・

•• 〉夏季には密集した人髄の熱と

機械の熱?と原動機の熱と太陽の熱とが加はる故、その焦熱地獄の苦しさは想像以上だ」と。以よの引例により明ら

かた工うに、紡・織工場においては、衛生設備に要する不療費本を節約して、利潤を増大するために、附官働濃境を

衛生的に調節する技術に謝する増庶は全く捕われていなかった。

「工場調査型倒」二一頁。

倒倒

「女工哀史」三一

OE。

紡・織業四産業革命と女工の結核病

第七十四巻

第三按

ブL

第七十四告

第三世

紡・織業白産業革命と女工白結核病

五四

以rh

のべたようた劣悪た弊働傑件の中て生活士余儀なくされた女工の肉憶は、念激に消耗し、いわゆる慢性農業

疲弊と呼ばれる般態におちい

P、病気に劃する抵抗力を失ぃ、結接菌の魔手K最もおかされやすい僚件を醸成した

のである。これを明らかに一示すのは第一二表に見られる開重の減少である。一重夜業のご週間後にとれだけの減少を

見るのてあるから、一年後・三年後の結果はいわずして朗らかである。一衛生畢者

三日をかりれば、『婦人勢働者の年齢別疾病苦一四歳を最高とし、妻唯下し、

一九援に至って最低に蓮する。爾後多少檎高すあがその程度は大きくは一ない』ので

あるが、

第s崇一重・夜業後白女エむ睦重表

仁二1EEE丞 11人平均瞳茸 36.609kg I 45.722 kg

夜業 7 白樺 -0.038:C<' 1, -0.576 kO'

-4E 「職工問題香料C58J 6頁(貫t-kgに換封〉

『是等女工/割合ヲ奉クレハ、十四歳未満ノ少年女工ハ女工繍数ノ約一割

六歩、十四歳以上二十歳未満/女ヱハ約四割九歩、三十歳以上ノ女エハ約三割四歩

ナリハ生総工場)、・・・・・・其/割合〈、十四歳未満/者ハ女工総数/約一割二歩、十四

歳以上二十歳未満/女エハ約四割七歩、二十濃以上/女工ハ約四割一歩ニシテ、其

/内牟数三一十歳乃至一一十五歳ナリ門紡績工島』と未成年野働者が全数の六割||

六割五分をしめていたから、とれらの未成熟左肉醐聞に及ぼす影響は測

P知れぬもの

染した場合、その結果は言わずし

τ明らかである。モこで更に寄宿舎に治ける彼女たちの生活を見たければならぬ。

があった。とのように慢性的に衰弱しさった肉股が、なんらかの機曾に結核菌に感

側側

時岐義辛「批曾衛生」円融官障策大系第七容U

一八八員@

「工場調査吏領」一一頁c

D

寄宿舎における生活環境

出稼女エに釘ナる寄宿舎D宇強制的提供は、円女工の約七割は寄宿舎に牧容され℃いた)、生活の統制・能率の増進・

他工場よりの女工誘拐の防禦のため、経皆上快くことのどきないものであフた。紡績大工場のみたら一ず、中小織物・

製紙工場におHてもほとんど寄宿舎を持ヲていたが、その貫憶は、

「長野・岐阜等に治いては濁豆の家屋官設備し

ているものは極めて稀れであり、或ひは工場建物の一部、或ひは仕事場の一一階等、叉甚しさは倉庫の一一隔を仕切っ

て之に充て℃ゐるもの、叉物置のご階を寄宿合と悲し:宿舎として白第一保件たる、工場から分離された樹立の

家屋たることは完全に依除してゐ弘』そしてその内部を見ると、製糸業においては、『工女二人ニ封シ疲具一組

ハ上下空枚〉ヲ雪、室ニ押入号ナグ棚モナグ、往々畳一一代フルニ娃ヲ以アすグル壁アリ明』織物業に沿いては、

「査問管省・赫繰場=使用シ夜間是等器具ヲ取片付ケ寝所トスルモ

7リ-・・或ヒハ物置/一部ニシテ器械器具ノ散

乱セル場所ヲ寄宿合トナスぞノ7リ、特ェ寄宿舎/設グアル所一一於テモ共格鎧不完全ナルモノ多シ・

ω

付、三人位一一首ルヨトナキニアラス』というひどい有様であった。

往々一一塁一一

趨H昔比い車交般的熊良に 好左たつ欣て 態居 にりあb~l人つ

主乙紡績大二立場の寄宿舎J L

『部屋の中も採光などの充分になって居る所が少く多くは

『牧容人員ハ一昼一一付キ一人ノ割合ヲ普通トス・

-在室者/衣類。物品・雑品等各所一一

散在シ、掃除不行届一一シテ、室内ノ整難衛生土ノ注意ヲ紙夕ルモノ多シ、寝具ハ工業主ノ貸輿スル虎一一シテ、

ニ付回布蒲圏一哲人八一一人三二枚ニシテ、冬期一一二一人一組トナリ同会スルヲ常ト山し、霊長から闘った女工た 人

『E午寄宿A

骨門ヲ諮問セパ、国主一一二一十白人三十人列ヲ篤シテ泊ジメル滞圏ヲ上一一蔽ヒ、或ハ十五六歳ナル吐身

但ヲ露ハシ、枕ヲ落シテ眠リ居むのであった。そして連日嗣徹夜業はさらにこの寵た拍車を加え、『寝室の面積

に暴民な冶節約金加へ者一間工女のエ場に出せし其の疲具に、夜間工女をして眠らしめ居るも白甚だ多一し。二人一円杯

第三波

ちは、

紡・織業の産業革命と女工の結核病

第七十四砦

五五

一五六第三按

0

の慣習は少しも繭借りなさな担。紡績に於ける寝具は冷却さるL

の時金くなきなり』であるから、

結・織業。産業草AW

と女工の結核病

第七十四巻

一日中閉め遁して

日光と風は全く入る余地がたく、結局一一四時間の問、四人て同じ滞園を使い遇すことが多かった。己のように女工

遣は、不潔な居室に一人一轟士たはそれ以上の割合に詰めこまれて、主且も夜も同じ寝床に同会し、また身憶を擦り

合わせて農

τいたのであるが、もしそのうち一人目開放性結核忠者がいて、肺内の室洞から結核薗を熔出した場合

民、農村出身心一結核菌に濁して菟疫性をもたない彼女たちに、みるみるうちに濃厚感染したであろうことは火を見

るよりも明らかである。このよう左生活僚件kbいては、結核病にかからない方が不思議なほどであ泊。しかも病

気解雇・時四亡たどのため女工の出入りはすこぶる頻繁で、九ヶ月経てば殆んど全員の顔ぶれが交替するあ

Uさまで

一つの寝具は数人山女工に受けつがれてゆき、モの弊は一帰促進されたのであった。

あったから、

以上て弊働時間・柴養萱・努働諜境・生活環境の各面より、明治コ一

0年代に島ける女工の弊働傑件と結核との関

係主検討した心ぜあるが、いずれの面から見ても、紡-織業における女工の生活は、肺結按の侍染・蕊延の最良白

温床であったと結論しても、決し

τ過言ではない。このようにして結核患者は稜々と裂生した。高熱と激しい嘆に

苦しみ左がら、見る影もたくやっれ果てた身関を工場へ追い立てられる「お芳の話」(「女工哀史」一七九頁U

は、

の悲惨な「結板女工」の運命士、われわれの限前に努髭とさせるに充分である。

側川内早λ十ニ「日本一昨曾政曲県民」ハ日半評論世版)七七頁。

倒酬明「職工事情」第一審三Oニ頁、一二Oニ頁。

削一石原修「新稿出町働梧生」二八二頁。

酬明「職工事情」第一春一四一頁。

例制駒

横山源之助「日本の下層一世曾」門岩波文庫版)

「職工問題寄料Cノ五」九l一O頁。

「人日本紡績聯合曾月報」=五回銃瓦頁。

一七六頁。

工場から農村への結核の蔓延

都市民家庭を持たた何回稼女工が結接K侵された場合、彼女たちの多〈は、不具痩疾者としで誠首きれ、開郷の

遣をたどるほかは・ゅなかった。第四表を見ると、明治=一

O年直後忙はて場中の死亡者の中の結核病の率は

0・一二七五、

工場死亡者・未治解雇者中D結核む翠

早川守合計 290入つ示7

1rz;!tfI4日L~竺土J_6竺L

竺て71ぺ」巴計

措按病

第 4表

E市

劫・織業白産業草命主主ヱの結核病

0.566

明治31-35年の数字は「職工事情」第一巻 99-101頁

の表よ E算出

明油田-41年の数字は農商務省商工用編「工場宿生調

査資料J(明治43年明U)3-6頁よ E算出

結 核病

第七十四巻

病気解雇者の中の結核病の率は

0・四

三八ぞあったのが、明治四

O年前後K

たると、"それぞれ

0・石三、

0・五六

と著しい土鼻筆を示している。また第

T1

表により、紡讃工場寄稿女工白金人

数中の結殺死AL者の率と、

一般結核死

亡率争比較すると、前者は後者上りも

著しく高率であり、そ白差は年と共に

大をくたっているのが見られる。己の

己とは、

『本邦人一般の結板死「率は、

死亡千中男一四一、女一四一了八てあ

品。然るに工業従事者に於℃は男二五

i¥ 第=四

払長績である

之の事を

一五七

妨・織業の産業革命ξ女工の結核荊

第 5褒結核によるー般死亡率とこE場内死亡率

白土tllB表c1商人につき〉

EK竺竺 1工場内竺空J旦竺竺|-J竺A I 竺土

一一主主 2竺~I_. __ 1竺-問主~r.;,1 J I ワo,

空豆正一孟主ヒι己ヱ場内は「職工事情」第一巻101-3頁の表より

算出,一般死亡寧は「結核統計資料J1頁の表

~ ~引用

一般托亡車

第七十四砦

"、第三韓

以てしても減園の工業と結核とむ関係の深川ド事

を知り得る。』

という長商務省工場監督官の一吉

7頁 C大正6年〉

葉によでフても立詩号吉

れてh

これらの結接女エがたどった経過を第六表に

よって見ると、結様患者は遁常、裂病後死亡

K

「職工問題菜料JC 76

至るまで最低一年を要するのであるが、彼女た

ちは死亡のニヶ月前までは健康人として、弊働

を強制され、また完全治癒に至るまゼに最低

年から一一一年の時日を要するにもかかわらず、わ

ずか一ヶ月て治癒といろ判定を下きれ、斗立た宋

治解雇にたる者は、論理病の診断後一ヶ月たらず

て、工場を誼われたのであった。そして女工の治癒・死亡・解雇に至る経過日数は、男工よりも常に相嘗短かいこ止

に注目したければならないo

バて紡骨倣工場か、り諸積の理由て蹄郷した者は、明治四一二年には出稼人員一、

000λ

κ封し三二一九人の割であった品、モの蹄郷原因調査に上れば、『疾病ノグメ蹄郷シグルモノ二四%、弊働ニ堪エ粂

ヌとノ豆仇』すたわち蹄郷女工中約-云udpは、病策むため警訳者とたって工場を温われ、ぁ沿いは慰霊?となる

一歩手前でそれ以上の弊働に堪え粂ねて逃げ跨った者ゼあり、己の疾病蹄郷女工中、質に一ニガは故郷に師って一、

一一年のうちに死亡したのであった。第七表により、四=一年中に蹄郷・死亡した者由業務別・病名別の比較数を見る

F百 第 T表師郷・死亡女工の主義務別・病名別

は tF跡事 山口出抽n

21 1-I生色L巳 l

i〉二日出石原修「新稿努倒衛生J30,頁(,その他の結

核」には肺結核四疑ある者も合む〉

第 8表 IfWJ内死亡女工の莱務別・病名JJIj

比鞍表 抑制9-41&~不灼)

国主J竺竺|笠J主肺結核 I34.5 % I 16.5 % I 1止3%

1E亙 E 目玉合計 I54.2% I34.5 %1 32.6 %

石原修「新稿捗倒宿生j306頁 σその他の結

核」には肺結核四疑ある者も含む〉

また大正二一年には、

と、貨に蹄郷死亡女工由、六割五分から七割二分

の者が、結核のために死んでいる。

ζ

れは内閣統

%,,0)言十と f司なのヲ調て査'13'てりあ、る

iJ{

岡主主氏のさAム

"' 算によれば八

一般にはこのく

bいの高率てあ

ったことが想像される。

ζ

のよう悲歎態は明治末

期だけではなく、その後も引額いて見bれたので

あり、たとえば大正七年における岐阜廓蛍局白調

査によると、

『賑外工場か

b病と黙のため蹄郷した

女工六二四人中、結核息者は一九

O人て金問。三

CM川に営り、病気のため蹄郷し死亡したものの八

『懸外工場から病無断鴻した女工六六三人中結核患者は一二五人、

これは全人員の一九彪を占め、闘郷死亡者中の七一ガは結核であったば

さらに一一一時間の濯績徹夜業主強行する紡績業と、

l一八時間の長時間務働を行う製糸・織物議の女工の

結核に及ぼす影響を見ると、第七表にゐいても紡績乱誌は他にぬきんでているが、第八表の工場内における女工死亡

き業務刑・病名表ても、紡積業の他の二部門に針

Tる高率は堅倒的であり、二了i

一八時間の超生避的た長時

間接倒て芦一え、紡績業の連結徹夜業工りは、『結核女工』の生産に劃してより良川円扶態にあったといえるのであるe

↓職工問題資料

c一目武拾武」

対・蝿刷業。葎業草命と士工の結核荊

一一頁円古調器事士詩。〉

白7)

石原修「新稿捗働衛生」ニ丸

O頁。

第七十四巻

一五九

弟一一一盟

続・織業。産業革命と女工O

結核病

ω 申事倒側

第七十四巻

ノ、O

第三弦

ノ、

閲覧寸工場法論」九大正二年有斐悶刊U

四八九

1九O頁の表

ZP算出。

「名古屋野皐曾雑誌」昭和一四年三月齢丸山頂

AR論文主主二頁。

名和前掲書三九

O頁

このようにし亡エ場て大量に生産吉札た結核女工は、各自白郷里に引あげたわけであるが、営時はまだ弊働市場

が確立されてhなかった心て、甘い頑曾祉は新務倒源を求めるために募集業者を全園氏祇遣していたから、女工は全

閣白農・漁・山村の恨地白すみずみに至るまで、その一出身地を持ワていた。

したがづて結核女工が病身を提げて

踊る先もまた全閣にわたっていた。彼女たちを符ち受けていたも白は、ーますます貧困の中に時臥7

する設務零細長、

あるいは停来の回畑をも手放して小作農に轄落したモの父兄であって、傷心と病躯を提げて蹄郷した少女たちを療

養せしむるにたる部屋も、州官養も、安静も、充分に提供される筈は↓なかった。モし亡愚味、な因漢と、衛生に封

Fる

無智識と、極度に低MV

生活水準と、封建的な家庭および農村枇舎に冶ける婦人の地位D劣

悪性と、集約的農業による農民心温度弊働友どは、相まって農村に結核を蔓延させる白に

::;::lJ:Jiltl王役立った。

「伊賀白一部落て五十戸ばか

Dの所がありました。山刊の若者の一人が紡績の職

工に出た所が、間もなく結核に不幸にも悟り℃蹄郷して死亡しました。其後五ヶ年間に三

十名ばかり結核死亡者が出来ため』

『山形燃には私の恩師や先

また東北地方に治いても、

茸がありますが、英の人達白御話を聞くと、買に驚acます。出稼人中工場へ白出稼人が病

来て蹄る

ωは主として結様でありますが、其白矯めに一家全滅した例は少一申なくないさうで

あります。叉宮城燃の山奥から女が出稼に出

τ居りますが、或る年に三十人ばかり蹄フて

来ました。共内十i六人は結核患者てあワた例もあります・〕

という悲劇はいたる所で演

第 9崇男女別・年齢別結核死亡率

ヨ奄ro':'5f6":10-1…116-20 121-251 26-3布石昌 I 11.1 I 5.9 i 7.9; 34.3 I '15.2 I 34.2 I 2ω

女 1---;;;:;;-1 日 |τJJE瓦I50.3 I 1J.O.3 30.2

「滴核統計寛容fJ16頁よ刀扶革

じられたυ

出稼人の中ても、底倒的医数が多かった女性が男性よりも多〈の犠牲を揚った

己とはい

h

つまてもな〈、「賞一一余ガ郷里一一於ケル村落ノ如キハ共/適例ヂ

7Vテ、一時少女

ノ工場出稼ギト共一一、暫グ-一

γテ肺結核部落ト鑓佑シグノヂ7ル。其他一般一一統計上出稼

女工/多キ地方一一ハ結核革延/度甚シグ吉年/死亡率ガ男子ユ比Yテ甚グ高率ナルヲ常ト

スルu

例へパ彼/長野防相一一於イテハ人結核病ノ死亡者男子千人ニ就キ女子千五百人、岐阜廓

=於イテハ男子七百人ニ就キ女子千百余人ノ割合デ7ル。就中其最モ甚シキモノハ飛駄/

凶デアケテ、税、近=至

yテ十五歳乃至二十王歳/女子ノ死亡率ハ男子ノ二倍ヰ以上=達、γ

グノJ77

ル@』このよう在悲惨た事態は会図的に展開され、師郷女工は自b血を略いて昇

天すると共に、有力な感染源となって結核菌を撒布し、官時まだ結核に封して庭女地帯で

あった多くの農・山村は、次々と『蒼白き騎士」の攻略を受けて、『農村結萩』という言

葉が恐怖感をもって流行するに至った。府間制別結核死亡率統計に沿いて、大正初期には東

京・京都・大阪の=一大都市が一・一一・=一位を占めていたが、大正末期ては石川・脂井が一、

三一位K躍進し、北海道・群馬・岐阜・滋賀・徳島・愛媛などの農業燃は著しい上昇を一示し

ている。昭和一

O年頃には、東京・京都・大阪・兵庫・稲岡・愛知などの工業プロッタは

死亡率を減少または横ぼいを示しているのに、北海道・東北六腕・九州・四幽・中園の農

業プロアクの大部分の豚はさ

bに上昇をみせている。ハ以上白順位は、「特私統計資料」四回l

五一頁の表によるU

紡・融業の産業革命左官工の結核病

第七十四巻

一六一

第一一一蹴

結・融業の産業革命と女エの柿核病

一O歳頃から念ム昇して

害計三需主;1コr引宰臣i均阿王子下 13.0二云下平-r-;;司 23.9 戸

1L川到すヨー止可七|平

1901年

第七十四巻

プミ

第三掠

A

第九表によれば、杢圏平均の女性心結核死亡曲線は、

男性宛亡曲線を温い抜き、一五

11二O歳頃

r最高射凡人口一寓人につ台一王三・九人)

に遣し、二

Oil二五歳の頃は男性心最高射門四主・二人μ

を相官に上廻り、以後

漸落して四

O歳をナぎた頃に男性曲線を下廻っている。このように、生産年齢人

口階層

2011四O歳山において女性白方が男性より透かに高卒ゼあるとと、た

b

ぴに男性白方はご0111二五歳にピークを持つ広反し、女性の死亡率が一五11l

『生物撃的に女子の方が結ー核に擢忠し易hv

一一

O歳Q同にピ

lグを有ナることは、

と昔日ふ確詮はないA

』と多くの岡国間中者が断定しているりぜあるから、本論て述べ

てきた日本白中封建的な枇舎に沿ける女性の(特に農村の〉生産弊慨に加うるに家

事附労働の負婚、な

bびに幼年・未成年女子弊働者に封ずる紡績業の涼績徹夜川日未を

中心とする織惟産業の、「肉髄消鷹的問甘働僚件』ハ山田感太郎「白木授本主養分析」

一一五頁U

が目本人の結核列ム「に謝し、

いか托大一さた意味を持つ

τいたかを示して

いる。モして「消磨された肉特」に結核菌が侵入し、浸潤し、破壊し、途に己れ

を死に至

bしめる過程が、このようた劣悪友努働抗体件白必然的障給てあることを

認識

Tるべきである。またモ白歴史的前提として、勢働意識がきわめて劣弱で、

流動常なさ出綜女工という努働型態を出現せしめ、農村に前近代的た社合nu生産

関係を溢存せしめた、日本資本、豆誌の特異な機構が大きな意味を持っていること

を見逃しては左らないo

ちなみに第一

O表により英国の場合士見れば、

一五歳より四

五歳まで女性の方が男性よりも高卒を不し亡おり、第九表の白木三九二O年U

と同じ

ME示しているが、一九

O一

年内明治=一四年〉には、一一

O歳以一ム七五歳に至るまぜいずれの年齢階居を見亡も、女性の死亡率は男性のそれはるか

に下姐っている。これは、英園においては一九世紅白後半以-来、衛生設備の改善と共に民、主主義的祉曾関係が確立

されて、二

O世紀初頭には女性の相針的な社合的立場の優位がこのような結国取を生じさせたものであると考えられ

るの(もっとも、日木においても終戦後は女性が男性を下廻っている。U

一八五一

l六O年平均ては、

掛川田「職工問題資料C五十五」、六頁ハ良商務省工場監骨官某氏稿〉。

岨「工場宿生菜料」一八頁戸田正コ一氏請文門前掲凪早八十二「目本社曾政策旦」八五頁主ワ引用UO

刷古浬嘉夫「購入持務者保護」丸一耳。

τt

日本における最初心一蹴曾政策立訟であった工場法は、第一一七帝閣議官(明治四回空コ月U

を通過して公布された。

しかし務働者階級の未成熟のため、モ町内容は紡績資本家をまとする反割により、女字通り骨抗告にされ、二一歳

未満の児童弊働禁止・一主歳未満白男文弊働者心徹夜業禁止の微調的原則さえ、多〈の工場はモの遁用外に沿かれ、

一主歳未満白者および女子の保護職工白勢働時間ハ原則一一一時間U

制限に幾多の重大な例外規定を設け亡一四時間弊

働を許容した。モればかりか、法施行は大玉五年に延期され、工場法白眼目ともいうべき徹夜業禁止規定は、法施

行後一五年間停止された。かくて運績徹夜来は昭和四年六月まで綾けbれた。

紡・織業円産業革命と女工の結核病

第乞+四巻

-ハ古

ブL

第七十四番一六四第三韓

日清・日露の雨敵役て著Lhv躍進を遂げ、鮮-漏・支白市場~主主配しヲ『百世間Fd和製Hd地位を獲得した紡・織業

紡・職業の摩謹革命之女工の結核病

pa O

は、原棉問題の不利にもかかわらず、世界大戦およびその直後の戦争白折撃による敵洲紡績業の楓度白木振に乗じ

τ、インド・南米・南7フリ方・濠洲・南洋なと世界市場に進出して黄金時代士築hvたが、モ白舞蚕裏ては低賃金

と、愛ゐことたき蓮績徹夜業主中心とする原生的静働関係が駿けられ、入れ替り立ち替り短期間の回線のために工

場と農村世往復する糸姫たちが、都市白工業地帯か

b日本金閣の農村に結核菌をばら播く過程が、間断なく綾けら

れていワた。その蛍峠世間て結核病の己とを「テグステイル病』すなわち寸紡・掛川病L

と呼んていたDは、己白病

無白祉曾的本質をずぽりと表現して戸告。そし工八幡製鍛所白開設〔珂治一一四呈山と共に、百本の生産手設生産部門

が本格的に確立され、生産構遣が紡・織業主中心とする軽工業か

b重・化事工業へと重心を移行するとともに、問

題は『女工心結核』か

b一般勢働者の結核へと抜大

L、芭らに勢働者階級か

b一般市民へと蔑延して

wった。表画

的には隆々たる殻展を観けてゆく世田作山爾見『高邦一一比類ナキ帝閤日本」をX線て透視してみれば、盛光板のょに

『高邦=比類ナキ結核日本』であった。

7pブ

Hと投影されるものは、

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