22020 0 2 0 2...semin thorac cardiovasc surg. 2019 s1043-0679 (19) 30275-8. doi:10.1053 2.teramoto...

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ቼ³ሗ᥄Π࿎੪ 2020 年 2 月 22 日発行 1 第 841 号 2020 2020 2 2 1.准教授就任 六鹿 雅登 ………………… 菱田 朝陽 ………………… 2.新春随想 坪井 英之 ………………… 3.叙勲のお知らせ 稲福 ………………… 4.150 周年記念記事 髙橋 ………………… 永津 俊治 ………………… 粟屋 ………………… 友田 ………………… 齋藤 英彦 ………………… 吉田 松年 ………………… 大島 伸一 ………………… 河村 守雄 ………………… 吉川 史隆 ………………… 有馬 ………………… 名古屋大学医学部硬式テニス部 ………………… 医学部バドミントン部 …………………………… 5.研修報告 下村 佳寛 ………………… 6.海外留学体験記 佐藤康太郎 ………………… 7.編集後記 ………………………………… 国試出発バス 時報部撮影

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  •  2020 年 2 月 22 日発行 ( 1 )第 841 号

    2 0 2 02 0 2 0

    22

    1.准教授就任 六鹿 雅登 …………………⑵ 菱田 朝陽 …………………⑶2.新春随想 坪井 英之 …………………⑷3.叙勲のお知らせ 稲福  繁 …………………⑷4.150 周年記念記事 髙橋  昭 …………………⑸ 永津 俊治 …………………⑹ 粟屋  忍 …………………⑺ 友田  豊 …………………⑺ 齋藤 英彦 …………………⑻ 吉田 松年 …………………⑼

    大島 伸一 …………………⑽ 河村 守雄 …………………⑾ 吉川 史隆 …………………⑿ 有馬  寛 …………………⑿ 名古屋大学医学部硬式テニス部 …………………⒀ 医学部バドミントン部 ……………………………⒀5.研修報告 下村 佳寛 …………………⒁6.海外留学体験記 佐藤康太郎 …………………⒂7.編集後記 …………………………………⒃

    国試出発バス 時報部撮影

  •  2020 年 2 月 22 日発行 第 841 号( 2 )

    准 教 授 就 任

    病態外科学講座 心臓外科学 准教授

    六むつ

    鹿が

     雅まさ

    登と

    〈経 歴〉

    平成 8 年 3 月 名古屋大学医学部卒業

    平成 8 年 5 月 大垣市民病院研修医

    平成 10 年 4 月 大垣市民病院胸部外科医員

    平成 18 年 4 月 大垣市民病院胸部外科医長

    平成 18 年 4 月 名古屋大学大学院医学研究科病態外科学心臓外科博士

    課程入学

    平成 18 年 10 月 名古屋大学心臓外科医員

    平成 21 年 3 月 名古屋大学大学院医学研究科病態外科学心臓外科博士

    課程終了学位取得(医学博士)

    平成 21 年 7 月 カナダアルバータ大学小児心臓外科クリニカルフェ

    ロー

    平成 22 年 7 月 カナダアルバータ大学心臓外科 心臓(肺)移植・補

    助人工心臓部門クリニカルフェロー

    平成 23 年 7 月 名古屋大学心臓外科特任助教

    平成 26 年 4 月 名古屋大学心臓外科病院講師

    平成 28 年 11 月 名古屋大学医学部重症心不全センター副センター長 

    病院講師

    平成 30 年 10 月 名古屋大学心臓外科講師

    令和 2 年 1 月 名古屋大学心臓外科准教授

    〈業 績〉

    1.Mutsuga M, Narita Yuji, Usui Akihiko.

    A floating stitch on the anterior mitral leaflet can eliminate

    systolic anterior motion in hypertrophic obstructive

    cardiomyopathy.

    Semin Thorac Cardiovasc Surg. 2019 S1043-0679 (19) 30275-8.

    Doi:10.1053

    2.Teramoto C, Mutsuga M, Kawaguchi O, Araki Y, Matsuda J,

    Usui A.

    A functional evaluation of cerebral perfusion for coronary

    artery bypass grafting patients.

    Heart Vessels. 2019;34 (7) :1122-1131.

    3.Mutsuga M, Narita Yuji, Oshima H, Usui Akihiko.

    Virtual angioscopy with multidetector combined tomography

    for the diagnosis of pannus formation in mechanical aortic

    valves.

    Eur J Cardiothorac Surg. 2017;52 (6) :1233.

    4.Mutsuga M, Quinonez LG, Mackie AS, Norris CM, Marchak

    BE, et al.

    Fast-track extubation after modified Fontan procedure.

    J Thorac Cardiovasc Surg. 2012;144 (3) :547-52.

    5.Mutsuga M, Narita Y, Araki Y, Maekawa A, Oshima H,Usui A,

    Ueda Y.

    Spinal cord protection during a thoracoabdominal aortic repair

    for a chronic type B aortic dissection using the aortic tailoring

    strategy.

    Interact Cardiovasc Thorac Surg. 2010;11 (1) :15-9.

     学友会の皆様におかれましては、ご清栄のこととお慶び申し上げます。

     この度、令和 2 年 1 月 1 日付けをもちまして名古屋大学大学院医学系

    研究会病態外科学講座心臓外科学分野の准教授を拝命致しました。ここ

    に謹んでご挨拶を申し上げます。

     私は、平成 8 年に名古屋大学医学部を卒業し、岐阜県大垣市民病院で

    初期研修を行いました。翌年の平成 9 年に名古屋大学心臓外科(故村瀬

    充也教授) に入局しました。外科系研修の後に、平成 10 年から心臓外

    科として玉木修司部長のご指導のもと臨床の研鑽を積むことができまし

    た。その当時は、非常に若いチーム編成であり、玉木部長(40 代前半)

    の下には、7 年目でチーフレジデントであった村山弘臣先生、その 1 年

    下で当時 6 年目の加藤紀之先生、現在もお世話になっている当時 6 年目

    の成田裕司先生、当時 4 年目のラグビー部でも先輩であった横手淳先生

    の 6 人体制で、小児の複雑心奇形および成人の弁膜症、冠動脈、大血管

    などたくさんの症例を経験でき、日々手術そしてその後の術後管理にあ

    けくれていたことを思い出します。手術に入らない時は、背の高い玉木

    部長の繊細で洗練された手術を、足台を2―3段重ねて背中越しに学ば

    せていただきました。2 年目から直接指導いただいた村山弘臣先生とは、

    ほぼ毎日(平日)のように寝食をともにし、集中治療室に泊まりこみ、

    重症患者管理のご指導を賜りました。現在では、働き方改革に問題とな

    るような働きかたではありましたが、これぞ“心臓外科医”の生活だと

    思っていたので、全く苦ではありませんでした。

     平成 18 年 4 月に、名古屋大学大学院医学研究科心臓外科博士課程(上

    田裕一教授)に入学し、半年間の社会人大学院生の後に、10 年半もの間、

    お世話になった大垣の地を離れ、名古屋大学心臓外科医員として帰局し

    ました。大学院の研究テーマは、血管吻合後の内膜肥厚防止であり、免

    疫抑制剤で有名なタクロリムスを使用し、それを綿状(エレクトロスピ

    ニング法にて)にし、経時的に薬剤溶出させ、その効果を動物実験で実

    証し、国際学会で発表することができました。その研究で、上田裕一教

    授、成田裕司講師、緒方藍花さんのご指導のもと博士号を取得すること

    ができました。

     平成 21 年 7 月、上田裕一教授のはからいでカナダアルバータ大学小

    児心臓外科 Ivan Rebeyka 教授のもとクリニカルフェローとして臨床留

    学する機会を得ました。毎日のように重症な先天性心疾患の手術を 2―

    3 例非常に早い手術時間で終え、術後は小児集中治療専門医が、病棟で

    は小児循環器科医が管理する一連の合理的なシステムを学ぶことができ

    非常に有意義な臨床留学でありました。その翌年からは、心臓(肺)移

    植・補助人工心臓部門クリニカルフェローとして、成人および小児の心

    臓および肺移植のドナー採取、移植手術、植込型補助人工心臓手術を多

    数経験できました。カナダではありましたが、米国にもドナー採取に行

    く機会もたくさんあり、システムの違い、米国―カナダ間の移植の取り

    決めなどを学ぶことができました。1 週間で最大 8 例の移植(心臓、肺

    移植)も経験でき、またそのような多数の移植手術が行われても動じな

    い麻酔科、集中治療体制に感嘆していました。この 2 年の臨床留学で非

    常に多くのことを学ぶ機会を得ることができました。

     平成 23 年帰国後、名古屋大学心臓外科学教室で上田裕一教授、碓氷

    章彦准教授(現教授)のご指導のもと主に成人の心臓疾患、大動脈疾患

    で臨床の研鑽を積むことができ、循環器内科の室原豊明教授、平敷安希

    博先生、奥村貴裕先生、麻酔科西脇公俊教授、集中治療室貝沼関志病院

    教授、精神科尾崎紀夫教授、木村宏之先生らの協力を得ることができ、

    看護師、臨床工学技師、リハビリテーション、栄養士も加わり、重症心

    不全多職種チームの設立および運営、遠心ポンプを使用した長期体外式

    補助人工心臓管理およぶ離脱、名古屋大学の植込型補助人工心臓施設認

    定(平成 24 年)、東海地区初の心臓移植施設認定(平成 28 年)に一翼

    を担うことができました。

     現在は、心臓外科碓氷章彦教授、藤本和朗先生、若手医師らとともに

    植込型補助人工心臓、心臓移植の重症心不全治療を充実させることに取

    り組んでいます。その他に循環器内科肺高血圧先端医療学寄附講座近藤

    隆久教授、足立史郎先生、小児科加藤太一准教授らとともに成人先天性

    心疾患の症例検討および手術を行っています。心臓外科碓氷教授、徳田

    順之先生、血管外科古森公浩教授、同級生である坂野比呂志先生らとと

    もに大動脈カンファレンスを月 1 回行い、胸部大動脈瘤、胸腹部大動脈

    瘤の治療方針を協議しています。平成 29 年より右小切開 3D 内視鏡補

    助による僧帽弁形成術、三尖弁手術、心房中隔欠損閉鎖術も導入し、症

    例数の増加を期待しています。

     これまで多くの先生からご指導いただき、大変感謝しています。今後、

    名古屋大学の強力な連携力を軸に、診療、教育、研究を通じて、名古屋

    大学のさらなる発展に貢献していきたいと存じます。学友会の皆様には

    今後ともご指導、ご鞭撻のほどよろしくおねがいいたします。

  •  2020 年 2 月 22 日発行 ( 3 )第 841 号

    准 教 授 就 任

    社会生命科学講座 予防医学分野

    菱ひし

    田だ

     朝あさ

    陽ひ

    〈経 歴〉

    平成 10 年 3 月 名古屋大学医学部医学科 卒業

    平成 10 年 4 月 名古屋第一赤十字病院 研修医

    平成 13 年 4 月 名古屋大学大学院医学系研究科・分子細胞内科学(血

    液内科)博士課程 入学

    平成 17 年 3 月 名古屋大学大学院医学系研究科・分子細胞内科学(血

    液内科)博士課程 卒業

    平成 17 年 4 月 名古屋大学附属病院血液内科 医員

    平成 18 年 4 月 東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センターシー

    ケンス解析分野リサーチフェロー

    平成 19 年 4 月 名古屋大学大学院医学系研究科予防医学分野 研究

    支援者

    平成 22 年 8 月 ノースカロライナ大学チャペルヒル校公衆衛生大学

    院修士課程

    平成 24 年 5 月 同上 修了

    平成 24 年 5 月 名古屋大学大学院医学系研究科医療行政学 特任講

    平成 26 年 5 月 名古屋大学大学院医学系研究科予防医学分野 特任

    講師

    平成 27 年 2 月 名古屋大学大学院医学系研究科予防医学分野 助教

    平成 27 年 5 月 名古屋大学大学院医学系研究科予防医学分野 講師

    令和 2 年 1 月 名古屋大学大学院医学系研究科予防医学分野 准教

    〈業 績〉

    1.Hishida A, Ugai T, Fujii R, Nakatochi M, Wu MC, Wakai K,

    et al.

    GWAS analysis reveals a significant contribution of PSCA to

    the risk of Heliobacter pylori-induced gastric atrophy.

    Carcinogenesis 2019; 40: 661-668.

    2.Fujii R, Hishida A, Nakatochi M, Furusyo N, Wakai K, et al.

    Association of genetic risk score and chronic kidney disease in

    a Japanese population.

    Nephrology (Carlton). 2018; 24: 670-673.

    3.Hishida A, Nakatochi M, Akiyama M, Kamatani Y,

    Nishiyama T, Wakai K, et al.; Japan Multi-Institutional

    Collaborative Cohort (J-MICC) Study Group.

    Genome-wide association study of renal function traits:

    Results from the J-MICC Study.

    Am J Nephrol 2018; 47: 304-316.

    4.Toiyama Y, Okugawa Y, Tanaka K, Araki T, Hishida A, et

    al.

    A Panel of Methylated MicroRNA Biomarkers for Identifying

    High-Risk Patients With Ulcerative Colitis-Associated

    Colorectal Cancer.

    Gastroenterology 2017; 153: 1634-1646.

    5.Shirai Y, Okugawa Y, Hishida A, Ogawa A, Okamoto K,

    Miki C, et al.

    Fish oil-enriched nutrition combined with systemic

    chemotherapy for gastrointestinal cancer patients with cancer

    cachexia.

    Sci Rep 2017; 7: 4826.

     学友会の先生方におかれましては、益々ご清栄の事と存じます。こ

    の度、令和 2 年 1 月 1 日付をもちまして、名古屋大学大学院医学系研

    究科予防医学分野の准教授を拝命致しましたので、この場をお借りし

    てご挨拶申し上げます。

     私は平成 10 年に名古屋大学医学部を卒業し、名古屋第一赤十字病

    院で 2 年間の内科研修を終えた後、当時の第一内科第 3 研究室(血液

    内科)に、研究生として入局し、大学病院での血液内科の臨床と、白

    血病・リンパ腫の分子生物学的研究、臨床研究を学びました。2001

    年には大学院に入学し、当時医局長でいらっしゃった、谷本光音先生

    のご紹介で、愛知県がんセンター研究所・疫学予防部の浜島信之先生

    の御指導の下、1 年間、がん予防のための分子疫学研究に携わりまし

    た。その後、血液内科に戻り、当時の教授でいらっしゃった、直江知

    樹先生の御指導の下、白血病の臨床と分子生物学研究に従事しました。

    自身の研究継続希望もあり、東大医科研・ヒトゲノム解析センターの

    中村祐輔先生の研究室に移り、固形がんのマイクロアレイによる遺伝

    子発現解析研究に約 1 年間従事し、連日の苦行に喘いでいたところ、

    浜島先生に「J-MICC Study という、新しい分子疫学コホート研究を

    はじめるので、やらないか」とのお誘いを受け、2007 年 4 月に、名

    大予防医学に研究支援者として入局しました。その後、学友会をはじ

    めとする先生方のご支援もあり、35 歳で漸く、米国ノースカロライ

    ナ大チャペルヒル校に無事、留学することができました。ここでの 2

    年間の留学生活を通じて、世界トップレベルの研究者たちと知り合い、

    世界レベルの研究に触れる機会に恵まれただけでなく、世界中の色々

    な国の人々とのコミュニケーションを通じて、様々な価値観や、生き

    方を学ぶことが出来たことは、一生の財産であると思っております。

     名大予防医学教室は、昭和 16 年から続く、日本の代表的な予防医

    学教室の 1 つで、2005 年から同教室が事務局を務めている日本多施

    設共同コーホート研究(J-MICC Study)は、我が国で最初の大規模

    ゲノムコホート研究です。

     私は、同研究の中央事務局員として、同研究のデータ管理・解析に

    主に携わり、ピロリ菌関連胃がんの前がん病変である、萎縮性胃炎に

    関する遺伝的要因や、近年高齢化に伴い罹患が増加傾向にある、日本

    人における慢性腎臓病の遺伝的要因、等を明らかにして参りました。

    現在、欧米をはじめとする、CHARGE 等の世界のゲノムコンソーシ

    アムにも参加し、共同研究を進めております。

     現在、全国・全世界で行われている GWAS(genome-wide asso-

    ciation study)等の分子疫学研究は、様々な病気の遺伝的体質を明

    らかにし、病気のなり易さを予測するのには有用ですが、実際の予防

    医療や、近年言われている先制医療(=早期診断・早期治療)を実現

    するためには不十分で、疾患予防の実践には、遺伝的に病気になり易

    い人が疾患を予防するための生活習慣に関する研究(遺伝子環境交互

    作用に関する研究)や、micro RNA などの新しい分子生物学的手法

    を取り入れた、がんなどの病気の早期診断法に関する研究を進める必

    要があり、これまでの経験を活かして、今後はその様な分野に力を注

    ごうと考えております。

     名大医学部は、全国でも有数の関連病院の多さを誇っており、患者

    さんへの医療に直結する研究が盛んであることが特徴です。その様な

    恵まれた環境を活かし、これからも少しでも多くの、病気の予防・早

    期発見に役立つ情報を発信できるよう、微力ながら、努力を続けてい

    きたいと考えております。学友会の先生方には様々な方面からお世話

    になることと存じますが、今後とも御指導の程、何卒宜しくお願い申

    し上げます。

  •  2020 年 2 月 22 日発行 第 841 号( 4 )

     昨今「心不全パンデミック」というフレーズが盛んに

    使われておりますが、確かに毎週病棟の総回診をしてお

    りますと、入院患者の約7割以上が心不全患者でありま

    す。さて「心不全」の定義でありますが、心不全診療ガ

    イドライン 2017 年改訂版によりますと「心臓が悪いた

    めに、息切れやむくみが起こり、だんだん悪くなり、生

    命を縮める病気」と述べられています。また、心不全に

    は、左心室の収縮性が低下している HFrEF とそれが保

    たれている HFpEF の2つのグループがあります。最近

    はその中間群も分類していますが、今回は単純にその 2

    群に分けてみます。話は変わりますが我々の体の設計図

    である DNA は、その約 98.5% は、チンパンジー、オラ

    ウータンなどの類人猿と一致しているとのことです。つ

    まり我々の体の仕組みや、恒常性維持のための体の反応

    の仕方は彼らとほぼ同じと考えてよいと思います。と

    ころで彼らは野生環境で生活している限りは、減塩生

    活、運動を常に強いられ、喫煙もせず過剰なカロリー摂

    取もできません。そうしますと高血圧、動脈硬化、糖尿

    病、CKD は発症せず、その結果必然的に心不全の原因

    疾患とは無縁になり心不全も発症しないと思われます。

    ただし、彼等は、その反面獲物を捕るため、あるいは食

    べ物を収集するためにいつも動き回る必要があり、その

    時に怪我をして出血するリスク、またうまく食べ物や水

    を手に入れることができない時には飢餓、脱水のリスク

    に常にさらされていたものと思われます。本来血圧を上

    げるために血管を収縮させたり、血液をかたまり易くし

    て戦闘モードに備える交感神経や、塩分、水分を体にた

    め込むためのレニンアンギオテンシンアルドステロン系

    (RAS)は、そのような過酷な環境を乗り越えるために

    野生動物に備わった重要な仕組みでありますが、それは

    DNA が野生の類人猿とほぼ一致している我々の体にも

    当然強く引き継がれているものと思われます。

     そのような前提で HFrEF では、当初から心拍出量が

    低下すると思われますが、その時に我々はそれを出血、

    飢餓、脱水による心拍出量低下と間違って認識し、そこ

    から抜け出すことを目指して、交感神経を亢進させ、さ

    らに RAS も亢進させて体内に水分と塩分をしっかり貯

    め込もうとします。もともと我々の DNA は、心臓が弱っ

    て心拍出量が減少することは想定していませんのでやむ

    を得ないとは思いますが、その結果、循環血液量が十分

    にあるにもかかわらず血管特に静脈系が収縮し、臓器

    うっ血が生じてしまうと考えられます。

     特に腎うっ血による腎障害が起きますとそこから、中

    枢へ SOS 信号を送り、それに反応するように中枢から

    全身への交感神経を亢進させます。その結果腎臓からの

    レニン分泌が増加し、ますます腎髄質虚血を増悪させ

    るといった悪循環を生じさせ、心不全を進展させます。

    HFpEF では、さらに厄介なことに、当初は心拍出量は

    低下せず、心室拡張不全による臓器うっ血が先行します

    のでますます我々はそれに対応ができません。以上のよ

    うに、心不全の病態そのものが我々にとって、感染症や、

    外傷、飢餓、脱水といった DNA に想定された病態では

    ないことが心不全パンデミックの大きな要因であると思

    われます。それを食い止めるためには、心不全発症前あ

    るいは発症後もわれわれの体の設計図にあったような生

    活、つまり過食を避けて禁煙を実行し、減塩、運動に努

    めるしか有効な手段はないようであります。

    新 春 随 想新 春 随 想

    心不全の病態を考える

    大垣地方支部幹事長大垣地方支部幹事長

    坪つぼ

    井い

     英ひで

    之ゆき

    (S55 卒)

    令和元年秋の叙勲にあたり、稲福繁先生(S43 年卒)が瑞宝中綬章を、受賞さ

    れました。謹んでお祝い申し上げますとともに、今後の先生の一層のご活躍を

    お祈り申し上げます。 時報部叙 勲

    時報 1 月号に誤りがありました。訂正させて頂きますと共に、お詫び申し上げます。

    8 頁右段 21 行目   誤:大山さん 正:大岩さん

    8 頁右段 23 行目   誤:名古屋大学の生化学教授であった若林先生が

    正:名古屋大学解剖学第三講座の教授であられた若林先生が

    お詫びと訂正

  •  2020 年 2 月 22 日発行 ( 5 )第 841 号

    150 周年記念記事

    名古屋大学の礎に貢献した人名古屋大学名誉教授神経内科学  髙橋  昭 昭和 30 年 卒

     江戸幕府が終焉し、政治の中心が明治新政府に移った明治維新

    期に、名古屋大学の前身が呱々の声をあげた。未曾有の大激動期

    にあった日本において、どのようにして名古屋大学の礎が築かれ

    たのであろうか。

    1.幕末から明治新政府の樹立への日本

     慶応 3 年(1867)10 月、将軍徳川慶よし

    喜のぶ

    が朝廷に大政奉還を申

    し出で、12 月薩長両藩の主導により王政復古の大号令が発せら

    れ、二百数十年続いた江戸幕府が滅亡、慶応 4 年(1868)1 月戊

    辰戦争に勝利した薩長が中心となり、新政府が明治天皇のもとで

    発足した。

     江戸幕府の衰亡の主な原因は、天保 4 年(1833)美濃大垣大地

    震から安政 2 年(1855)の安政江戸地震にかけての頻発した大地

    震、この年から数年にわたる大飢饉(天保の大飢饉)、ハリスの

    強制により朝廷の反対を押し切り締結された日米修好通商条約の

    調印(1858)、これによる安政の大獄、国内経済の混乱、長州征

    伐、鳥羽伏見の戦い(1868)から戊辰戦争(1869)に至る一連の

    内戦、などであり、これらが重なって幕府は疲弊した。「明治維

    新 the Meiji Restoration」、「御一新」と呼ばれる近代日本はこ

    のようにして船出し、その激流の渦中において名古屋大学の前身

    が誕生した。

    2.近代西洋医学に瞠目し、仮医学校・仮病院を創設した尾張徳

    川藩主徳川慶勝(図1)

     幕末の日本に最初の系統的な近代的西洋医学を導入した偉人は

    松本順(旧名良順、号蘭らん

    疇ちゅう

    、1832-1907)である。彼の著『松本

    順自伝』に下記の記載がある(現代語として抄述)。

     「尾州公大患のた

    め、来尾せよとの命

    があった。使者によ

    れば、君公の病は 3

    月 に 発 症 し、10 月

    に至るも回復せず

    と。公の病は気管枝

    カタルで発熱があっ

    た。余は幸いにも最

    上のキニーネを所有

    していたので、まず

    前一位公に説明し、

    翌朝本薬を投与した

    ところ完全に解熱、

    15 日後には全治し

    た。」

     「前一位公」とは

    尾張徳川藩第 14 代

    当主徳川慶よし

    勝かつ

    (1824-

    1883)、「君公」とは

    第 16 代当主、慶勝

    の 三 男 義よし

    宜のり

    (1858-

    1875)、明治3年(1870)

    11 月~ 12 月頃の出

    来事である。松本順

    の往診時、義宜は 12 歳、前年の明治 2 年(1869)年 6 月に版籍

    奉還により藩主を解かれた慶勝の職を継ぎ、尾張藩が「名古屋藩」

    と改称された初代知事の職にあった。

     一方、慶応 3 年 12 月 3 日(1871 年 1 月 23 日)に第 2 代名古

    屋藩知事に就任した慶勝は、翌明治 4 年(1871)4 月、政治の統

    一化を図り学校制度の統一、人材の登用などを謳った「五策」を

    建議した。慶勝は、子息義宜の医療において発揮された近代西洋

    医学の強い威力に瞠目し、翌明治 4 年に仮医学校・仮病院の設立

    を決意したと考えられる。

     慶勝は、文政 7 年(1824)名古屋藩支藩の美濃高須藩第 10 代

    藩主松平義建の次子として出生、兄の夭折により高須家の嫡子と

    なった。幼時から賢明の誉が高く、嘉永 2 年(1849)尾張徳川家

    を相続、藩政の改革に当たった。日米通商条約に反対して開国を

    唱え、将軍家定の継嗣問題では一橋慶喜を押し、倒幕の立場をと

    るなど、王制復古に大きな役割を果たした。明治維新期の名君の

    誉れが高い。

    3.名古屋藩主徳川慶勝へ医学校・病院の設立の建議し、名古屋

    大学創設の礎を築いた伊藤圭介(図 2)

     卓越した近代西洋医学の威力と重要性に瞠目した名古屋藩主徳

    川慶勝に対し、藩医の

    石井隆庵、中島三伯と

    伊藤圭介(当時は名古

    屋藩一等医)の 3 名は、

    明治 3 年(1870)8 月

    頃に「洋医学 庠しょう

    」設

    立を連署して建議し、

    明治 4 年(1871)5 月、

    名古屋藩立の「仮病

    院」、次いで「仮医学校」

    が創設され、8 月には

    仮病院開業の布達が公

    布された。圭介は明治

    3 年(1870)10 月に明

    治政府から大学出仕を

    命じられ、10 月以降

    は東京に居を移したた

    め、仮医学校の設立時

    には在名していなかっ

    た。

     本学創設の生みの親

    の一人であった伊藤

    圭介(1803-1901)は、

    享和 3 年名古屋呉服町で出生、父西山玄道、兄大河内存真ととも

    に水谷豊文から本草学を、父や兄、吉雄常三らから医学を学んだ。

    天保 12 年(1841)には『英吉唎國種痘奇書』を刊行、嘉永 5 年(1852)に「尾張藩種痘所」を広小路大津町西に開設、種痘を広めるとと

    もに西洋医学の普及に努めた。本種痘所の発足は、東京大学医学

    部の前身とされる「お玉ヶ池種痘所」が設立された安政 4 年(1857)

    よりも 5 年早い。圭介はシーボルトから本草学を学び、植物学者

    として明治 14 年(1881)東京大学教授、同 21 年(1888)日本最

    初の理学博士号を取得、明治 34 年(1901)に 99 歳で他界した。

    図 1.写真は徳川慶勝(1824-83)。幕末・明

    治維新期の尾張藩・名古屋藩主。徳川ご

    三家の家柄でありながら倒幕に努め、明

    治新政府の樹立に貢献。明治 4 年に伊藤

    圭介らの建議を受けて仮医学校を創設、

    これが名古屋大学の礎となる。[服部鉦太

    郎:明治の名古屋。泰文堂 (1968) から引用]

    図 2.写真は伊藤圭介(1803-1901)。幕末・

    明治の蘭方医・植物学者。名古屋大学

    の前身校の仮医学校創設を名古屋藩主

    に建議、明治 4 年にこれを発足させた。

    [名古屋市東山植物園(編・発行)。伊

    藤圭介の生涯とその業績。(2003)から

    引用]

  •  2020 年 2 月 22 日発行 第 841 号( 6 )

    150 周年記念記事

    名古屋大学医学部「創基150周年」をお祝いして藤田医科大学 医学部アドバイザー  永津 俊治

     「創基 150 周年」を心よりお祝い致します。私は 1955(昭

    和 30)年に名古屋大学医学部を卒業、1960(昭和 35)年

    に名古屋大学大学院医学研究科を修了しました。医学部入

    学直後に奥田潤先生(後年・名城大学薬学部教授・名誉教

    授)の紹介で生化学講座八木國夫先生(後年・教授・名誉

    教授)の研究室で、講義終了後に研究の手伝いをしました。

    医学部卒業後インターン中も、夜に生化学講座で研究しま

    した。当時は精神病院に住み込みで手伝いをしており、ま

    た精神医学・村松常雄教授は神経生化学にも理解があり、

    大学院は精神医学で、神経化学を生化学講座で継続し、ス

    エーデンのカールソン教授の神経伝達物質ドーパミンの発

    見や向精神薬クロールプロマジンの創薬に興味をもち、統

    合失調症やうつ病に関連すると推定されるカテコールアミ

    ン(ドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリン)の蛍

    光測定、D- アミノ酸酸化酵素の脳内存在と向精神薬クロー

    ルプロマジンによる阻害などの研究を行いました。1960

    (昭和 45)年大学院修了後、医学部生化学講座助手に移り、

    1962(昭和 37)年―1964(昭和 39)年の間、米国フォガ

    ティー国際研究員として、ユーデンフレンド博士の研究室

    で研究し、当時まで不明であった、カテコールアミン合成

    第一段階のチロシンより L- ドーパを合成する律速酵素、

    テトラヒドロビオプテリン補酵素要求・チロシン水酸化酵

    素(チロシンモノオキシゲナーゼ)を発見しました。帰国

    後 1965(昭和 40)年に、愛知学院大学歯学部生化学教授

    の藤田啓介先生(名古屋大学医学部 1950(昭和 25)年卒、

    後年・藤田学園藤田医科大学創立者・理事長・総長)のお

    招きで愛知学院大学歯学部生化学助教授より教授として、

    口腔生化学とアミン系神経伝達物資の神経生化学を研究し

    ました。愛知学院大学では医学部同級生の小出忠孝君(後

    年・愛知学院(愛知学院大学)学長・理事長)にお世話に

    なりました。愛知学院大学在職中に、1967(昭和 42)年

    ―1968(昭和 43)年に南カリフォルニア大学医学部客員

    教授として高血圧モデル動物におけるチロシン水酸化酵素

    の誘導の発見、1972(昭和 47)年―1973(昭和 48)年に

    米国ロッシュ分子生物学研究所で客員研究員としてノルア

    ドレナリン合成・ドーパミンベータ水酸化酵素の定量法開

    発とヒト血液内存在の研究ができたことを、深く感謝して

    います。1976(昭和 51)年に東京工業大学大学院総合理

    工学研究科生命化学専攻教授に転任して、チロシン水酸化

    酵素をはじめ、全てのヒト・カテコールアミン系神経伝達

    物質合成酵素とテトラヒドロビオプテリンのグアノシン三

    リン酸(GTP)よりの合成酵素 GTP シクロヒドロラーゼ

    やセピアプテリン還元酵素の精製、それらの酵素の抗体作

    成による免疫化学などの研究を推進しました。1984(昭和

    59)年に名古屋大学医学部教授に転任しましたが、1985(昭

    和 60)年まで東京工業大学教授を併任、月―水は名古屋

    大学、木―土は東京工業大学で、教員、大学院生と研究し

    ました。毎週日曜に名古屋と東京を往復しました。1985(昭

    和 60)年よりヒトとマウスのカテコールアミン類とテト

    ラヒドロビオプテリンの合成酵素の分子生物学研究を開始

    して、1987(昭和 62)年にヒト・チロシン水酸化酵素遺

    伝子、1994(平成 6)年までにすべてのカテコールアミン

    とテトラヒドロビオプテリンの合成酵素の遺伝子のクロー

    ニングに成功し、ドーパ反応性ディストニア(瀬川病)の

    原因遺伝子 GTP シクロヒドロラーゼ同定と変異を発見し

    ました。1986(昭和 61)年―1991(平成 3)年名古屋大学

    医学部長を併任し、名古屋大学医学部再建築計画が進行中

    で、医学部長として、文部科学省への請願に努力しました。

    同級生髙橋昭君が病院長で大きな援助をいただきました。

    1986(昭和 61)年に会議で東京に出張中に、医学部長に

    選出されたとの電話で驚きました。1991(平成 3)年に、

    藤田保健衛生大学総長藤田啓介先生より、総合医科学研究

    所を設立してどうしても来てほしいとの突然の要請があり

    ました。名古屋大学総長・飯島宗一先生が日本医学会総会

    会頭として、「日本医学会総会」をすすめておられ、また

    名古屋大学医学部再建築計画があり、医学部長としてお断

    りしたところ、医学部長任期の終了後に転任してほしいと

    の強い要請があり、苦慮しましたが、1991(平成 3)年医

    学部長任期終了の翌日に藤田保健衛生大学(現・藤田医科

    大学)に転任しました。2001(平成 13)年まで教授・研

    究所長として研究し、退任後は客員教授・医学部アドバイ

    ザーとして、藤田医科大学の研究支援に努力しています。

    この間に名大環境医学研究所でも客員教授として澤田誠教

    授・所長のお世話になりました。妻の永津(石橋)郁子(藤

    田医科大学医学部解剖学教授・名誉教授)は、名古屋大学

    医学部 1957(昭和 32)年卒ですが、1959(昭和 34)年に

    結婚して、この 60 年間、研究・家庭で計り知れない支援

    をうけました。現在の立派に再建された医学部施設は、私

    の後任の歴代の教員、医学部長、総長、事務職員の皆様の

    御尽力によるもので、深い感銘を覚えます。2019(平成

    31)年 4 月に齋藤英彦名誉教授・元医学部長が会頭として

    名古屋で見事な、歴史に残る第 30 回日本医学会総会が開

    催されました。名古屋大学大学院医学系研究科・医学部生

    化学も村松喬名誉教授、さらに門松健治教授(医学部長・

    医学系研究科長)ら皆様のご尽力で国際的に発展しており

    深く感謝しております。

  •  2020 年 2 月 22 日発行 ( 7 )第 841 号

     名古屋大学(名大)医学部進学課程に入学した昭和 27 年以

    降ほぼ 40 年間名大にお世話になりました。感謝してもしきれ

    ない気持ちです。当時、教養部は名古屋市滝子の旧制第八高等

    学校の跡地にあり、講義室は学生寮に使用されていた古い木造

    建物でいつ崩壊してもおかしくない状態でした。当時はまだ第

    二次世界大戦の影響が多く残っており、食料など十分ではあり

    ませんでしたが、私達は平和な時代にのびのびと学生生活を

    送っていました。

     その頃は、教養部 2 年の修了後再び医学部入学試験があり、

    合格した後医学部に進学出来たのでした。卒業後、インターン

    医師国家試験に合格後、大学院(産婦人科講座)に進み、修了

    後助手になり間もなく米国に 2 年間留学し帰国後は産婦人科助

    手、講師、教授と良き多くの友人と優れた指導者(石塚直隆教

    授、学長、松本利貞教授、加藤延夫教授、総長)に恵まれ名大

    一筋に大学人としての生活を送ってきました。

     その後、医学部付属病院長の大役を命ぜられ、2 年間勤務し

    ました。当時、付属病院にとっては激動の時代で、鶴舞地区の

    本院と大幸地区の分院の統廃合が出来て初めて附属病院の再整

    備が進展する計画だったのです。

     分院には多数の教官、看護師、事務官が勤務し今後の配属等

    の重要問題がありました。様々な紆余曲折がありましたが、加

    藤総長の御助言もあり、なんとか乗り越えることが出来ました。

    更に西病棟には建築上の不備もあり、この解決も厳しいもので

    した。

     しかし多くの構成員の努力もあって乗り越えて、西病棟完成

    のテープカットも行い、私の名大定年退官後も附属病院の整備

    は着々と進み、今日の立派な病院が完成し本当に嬉しく思いま

    す。

     思いつくまま 40 年間の過去を振り返ってみましたが、一部

    には記憶違いもあるかもしれません。創立 150 年といえば一世

    紀と半世紀の長い歴史であります。この間の多くの関係者、学

    友会の会員のおかげもあり今日の名古屋大学医学部に発展しま

    した。今後ともこれまでの 150 年間と同様に名古屋大学医学部、

    附属病院が充実、発展し世の為人の為に多大の貢献することを

    期待しております。

     停年で現役を退いてから早くも 10 年あまりにならんとして

    いる。この問、入退院を繰り返し、mental にも physical にも

    障害は少しずつ進行して、まとまった文章も書けなくなり、在

    職中の回想もままならい。それでも朝の vital 値は正常範囲で、

    起伏のある症状に対して主治医、スタッフ、近年大いに進歩を

    とげているリハビリ担当の療法士らによる種々の訓練によって

    パソコンを駆使して少しずつ書きものをしている(Parkinson+

    α)。

     私が現職だったとき、年に 1 度行われていたバスハイクに参

    加する機会を得た。学生、教官、事務部、時報部、共済団など

    のみなさんの親睦と相互理解を深めるために、日帰りのバスツ

    アーが行われており、各教室からも最低1人ずつは参加して、

    教室の研究、指導方針や学生を対象に入局勧誘も兼ねた説明を

    していた。その年、私は学部長の身にあったので、眼科教室の

    代表を兼ねて参加した。学生を対象に眼科教室の研究内容を紹

    介し、さらに国際学会への積極的参加の重要性を述べた。眼科

    では、片目ずつの白内障や緑内障、網膜剥離など数多くの手術

    をするが、片目で見てもひとつに見えるものが両眼で見てもひ

    とつに見える不思議な「両眼単一視」の研究もすると話した。

    さらに眼球組織全体の電気生理学や形態学研究分野が無限に存

    在することに触れた。また学生たちに対し「最近の学生は欧米

    の原書をあまり読まない傾向があるようだ。私たちが学生の頃

    は各科で紹介される原書をよく読んだものだ。」と例えば、生

    理学では Fulton の Physiology、内科学の Harrison、Cecile

    をはじめ Wintrope の Hematology、Christopher の Surgey 等、

    Baker の Neurology、Adler の Physiology of the Eye 等々を

    紹介されたのを思い出す。

     バスハイクが無事終わった翌日、M-3 のクラス委員が2名、

    私の部屋に来て、「昨日の先生のお話は賛成です。私たちも医学

    英語を学ぶ機会が大切であると思いますので具体的にプランを

    進めてほしい。」と相談に来た。私は学生たちの積極性に感激し

    た。早速関係委員会に提唱して案を練った。出来上がった案の

    骨子は必須単位に加えなく、また賛同を得られる教室のみを対

    象として隔週の木曜日と土曜日の午後1~2時間を医学英語用

    に枠を当てるように協力を得て、いわばクラブ活動のような形

    で試行的にスター卜する案を教育委員会と教授会に了解を得た。

     予め希望登録した学生たちは各教室に3~4名ずつあった。

    眼科教室では5名ほど希望者があり私が担当した。さらに教材

    として、そのころ出版と同時にベストセラーになったアメリ力

    の女性海洋学者で作家の Rachel Carson の“The Sea Around

    Us" を使った。この本の中にちょっと難解な一節があったので

    興味があった。

     Carson によれば「遠い、遠い将来、1日のほうが1か月よ

    り長くなる日が来るだろう」と言う!ちょっと考えると1日の

    長さが延びるとそれにつれて1か月の長さも延びるように思わ

    れる。しかし1日は地球が 1 回の自転に要する長さであり1か

    月の長さは月が地球の周りを1回公転するのにかかる長さであ

    り両者の聞は現時点でたまたま、ほぼ 1 対 30 の関係にある天

    体の営みであるようだ。「地球上には莫大な量の海水があり、

    この海水の潮の満ち干きによって海底(地球の表面)と海水の

    間に生ずる強い摩擦力により地球の自転がゆっくりになりつつ

    ある。そしてついに1日と1か月の長さは逆転する。」に至る。

    これで一件落着。

     さて、医学英語の結末は教室によって異なったが1年ほど続

    いたと記憶している。各個人の得た収穫により外国の resident

    や fellow などとして留学した者もいたように聞いた。なお、

    伊藤勝基先生は現職中から引き続き国際部局において活躍され

    ていることは喜ばしい。また私自身も 1988 年から 2 年間アメ

    リカ留学の機会を得た。さらに 1997 年に名古屋大学医学部を

    無事退官した。その回想もここに fade out しつつある。

    周周年150 周年記念記事 回 想(バスハイクと医学英語) 昭和 33 年卒名古屋大学名誉教授 粟屋  忍

    周周年150 周年記念記事 名古屋大学在学 40 年 昭和 33 年 卒友田  豊

  •  2020 年 2 月 22 日発行 第 841 号( 8 )

    150 周年記念記事

    医学部長時代の思い出名古屋医療センター 齋藤 英彦

     学友会時報から「創基 150 周年」記念誌に原稿を書く

    ようにと依頼を受けたので、150 年の歴史のごく一部と

    して思い出すままに記す。私は平成 3 年 7 月~ 7 年 6 月

    まで 2 期 4 年間医学部長を務めた。ヒヤヒヤしながらも

    何とか務めることができたのは教授会をはじめとする職

    員の方々のご協力、ご支援によるものである。あらため

    て感謝を申し上げたい。

     学内と学外に分けてみると、学内では鶴舞地区再開発、

    分院と本院の統合と医療短期大学の4年化、および教授

    選考法の改革が主な課題であった。附属病院の病棟、外

    来ともに施設が老朽化・狭隘化し一日でも早い建て直し

    が急務であった。長年の文部省との折衝でも明るい見通

    しがない頃で、早川幸男学長の許可を得て、高校の先輩

    である地元の海部俊樹元総理大臣へ坂本信夫病院長とと

    もにお願いに行った。ホテルオオクラの海部事務所で力

    を貸すよと言ってもらった時にはホッとした。その後、

    間もなく平成 5 年 5 月の文部省の国立学校施設計画調整

    会議においてゴーサインが出て、再開発は動きだし、新

    西病棟が平成8年12月から稼働を始めた。学部長とし

    てもう一つ努力したけれども、うまく行かなかったこと

    は教官(教員)ポストの増員である。名古屋大学は 7 大

    学の中で後発であるために各講座の助手定員は東大、阪

    大などと比べて半分以下と少なかった。文部省と交渉す

    るときに教員一人当たりの論文数は多いとデータを示し

    て説明しても、東大や阪大よりも総数が少ないからと反

    論されて残念に思った。

     本院と分院の統合はもっとも苦労した案件であった。

    分院の歴史は昭和 18 年の付属医院分室に遡れる。はじ

    め東新町にあり、私も学生時代にポリクリで行った記憶

    がある。昭和 36 年には東区東門前町に、昭和 47 年には

    東区大幸町へ移転した。大幸医療センターとして 10 以

    上の診療科があるとともに、医療技術短期大学部も隣接

    して人材育成を行っていた。鶴舞地区が狭い医学部とし

    ては大幸キャンパスを手放すことは避けたかったが、当

    時、文部省は全国的に分院の廃止を目指していた。当然、

    分院の構成員には自分たちの将来のポストとスペースは

    どうなるのかと強い不安があった。忍耐強い学内の話会

    いを経て鶴舞地区に統合する意見統一ができた。1996

    年(平成 8 年)11 月に分院は閉院となった。文字どう

    り医学部全体の犠牲になったともいえる当時の分院の職

    員の方がたには申し訳ない気持でいっぱいであった。東

    大、京大などの分院も本院へ統合され、唯一残っている

    のは東大医科研付属病院のみである。

     大学院重点化は我が国が厳しい国際競争に生き残るた

    めに研究拠点大学を作る目的で文部省が考えたものだ

    が、教官定員の増員はなしという中途半端は施策であっ

    た。医学部進学課程の廃止と並んで文部省の悪政の典型

    である。しかし、平成 5 年から京大医学部で始まり、名

    大でも教授会で議論を重ねて大学院研究科を再編成する

    ことが決まった。助手を振り替えて教授の数は増えた。

     学外では平成 3 年から 4 年にかけて医師国家試験委員

    長を務めた。月に何度も厚生省へ集まり朝から夜まで問

    題を吟味、検討したのは懐かしい想い出である。また平

    成 7 年の第 24 回日本医学会総会は飯島宗一会頭、加藤

    延夫・武内俊彦副会頭のもとに医学部教授会、学友会の

    総力をあげて取り組んだ。前回(昭和 42 年)の名古屋

    総会から 20 年以上たち当時を知る人は殆どいなかった。

    私は準備委員長であったが、堀田知光幹事長をはじめ松

    尾清一現名大総長らの若手の活躍により成功裡に終わっ

    た。地元の企業の方々にも大変お世話になった。直前に

    は阪神大震災やオオム真理教の地下鉄サリン事件などが

    起こる騒然とした世の中にもかかわらず 2 万9千人の参

    加者があった。新幹線も西からはまだ不通であったこと

    を思うと、これは奇跡的であった。余談ではあるが、こ

    の時の経験が平成 31 年(2019 年)の第 30 回日本医学

    会総会 2019 中部の成功に役立った。

     最後に一言。今回の名大医学部「創基 150 周年」はお

    めでたいことではある。一方、古いことだけが尊いので

    はない。これまでの経験を生かして今後どのように人材

    育成、診療、研究を通じて社会に貢献していくかが問わ

    れていると思う。

  •  2020 年 2 月 22 日発行 ( 9 )第 841 号

    150 周年記念記事

    滝子教養部の思い出昭和 38(1963)年卒吉田 松年

     昭和 32 年 4 月、入学して最初に通ったのは「滝子教

    養部」であった。金山から市電か市バスで滝子まで、そ

    れからは細い街並みを数分歩くと名大教養部、旧第八高

    等学校の学舎につく。

     旧八高の建物のうち、「南校舎」は、米空軍による空

    襲にも焼け残った古い建物で、医学部進学課程の我々の

    教室があった。教官室のある二階への階段は、目の粗い

    麻の布が補強として張ってあり、ぎしぎしときしんで柔

    い。教室の床はいつ抜けるかと思わせる箇所がいくつも

    あって、天井にはなぜか無数の足跡があり穴も開いてい

    る。一階東のはずれの便所は、「カムイン便所」とも言っ

    たらしい。小さな裸電球が一つだけともり、深夜にノッ

    クをすると、か細い女の声が「カムイン」と答える、と

    いう八高時代からの伝説があった。ちなみに、この建物

    は全寮制であった旧八高の寮の一つ、南寮、であったと

    の事。

     戦災に焼け残ったもう一つは、赤レンガ作りの正門で

    ある。これはほかの建物に似合わず堂々とした作りで、

    あまりに立派だからか、今は「博物館・明治村」の正門

    として犬山に移築されてしまった。しかし、滝子から通

    学していた我々はいつも裏門を出入りしていたので、こ

    の正門にはなじみが薄い。

     生協食堂ではイワシの天丼が 35 円で最も値打ちで

    あった。食堂の二階では混声合唱団の歌声が響き、その

    裏には緑豊かで、いつも鳥がさえずっている小高い丘が

    あり、そこに運動部が合宿する「山の家」があった。

     この滝子教養部の良かった点は、東山や鶴舞から離れ

    て孤立し、全学の教養部が一か所に集まっていたため、

    学部間の垣根がほとんど無く、講義もクラブ活動でも、

    入学して初めの二年間、全学の学生が自由に交じり会っ

    た事である。原則としてクラブ活動でもサークルでも、

    医学部と他学部が同居する「全学」だから、4 年で卒業

    するほかの学部に比べて、6 年も居る医学生は大きな顔

    ができる。しかし一方で、安保反対などの学生運動では、

    腰の引けた我々医進生は、純粋で激しい理学部生や文学

    部生、教育学部生に引きずられた感もあった。

     私はこのような環境に魅せられて、運動部としてはバ

    レーボール部と、文化系としては男声合唱団に入った。

    家は豊かでは無かったので、家庭教師のアルバイトにも

    精を出し、結果として、勉強する時間とエネルギーがま

    るで無くなってしまって、進学するのには、特にドイツ

    語でえらく苦労したけれど、その話はここでは省略する。

     バレーボール部(排球部)の夏の合宿は前記の山の家

    で毎年行った。丘のふもとにあるバレーコートで汗を流

    した後には楽しみな食事が待っている。滝子から教養部

    に行く途中の右手に、「やきそばドラゴンズ」があった。

    ここの老夫婦は中日ドラゴンズの大ファンで店中ドラゴ

    ンズ・グッズだらけ。試合のある日には店はお休み。名

    物は醤油とソースを左右の手に持って、同時にドバドバ

    とかけて鉄板の上で焼くドラゴンズ・ヤキソバ。トイレ

    には、「西へ東へ垂れ流し、南る人が北ながる。」と書い

    た茶色に変わった張り紙があった。夜は近所の銭湯で入

    浴、代金は 20 円であった。余談であるが、この 20 円が

    21 円に値上げとなった時には、困った同級生が「おい、

    一円貸してくれ。20 円しか持ってない」と言ってきた、

    そんな時代である。

     バレー部は八高時代からの歴史が古く、同門会(名大

    クラブと称する)には、旧八高、名高商(名大経済学部

    の前身)の諸先輩も集い、その昔の全国優勝を争い、制

    覇した話で我々を圧倒した。バレー部長は八高、東大で

    バレーをやってきた法学部の山田鐐一教授である。山田

    先生には多くの部員が公私ともにお世話になったが、特

    に卒業後、結婚の仲人をしてもらった者が多い。先生は

    愛知県バレーボール協会のトップとして、国際大会の際

    に会長としていつも挨拶をされた。これより随分と後に

    なるが、山田先生は、かの医学部紛争の裁定役として手

    腕を振るわれることになる。

     当時の名大バレー部は東海リーグで一部優勝を成し遂

    げたことがある。残念ながら当時サブの私には出番はな

    かったが。

     歳月は過ぎて、すでに当時の仲間たちの何人かとは、

    すでに幽明を異にする。しかし、又うれしいことに、生

    き残った仲間たちとは年に何回か酒を酌み交わす機会が

    ある。

     最後に男声合唱団であるが、迫力満点のハーモーニー

    に魅せられてふらふらと入団したものの、一年過ぎても

    楽譜が読めずに無念の退団をした。二足の草鞋を履くの

    は難しい、

     なつかしい滝子の教養部も、それからしばらくして東

    山地区に統合され、滝子の八高あとはきれいに整備され

    て名市大のキャンパス変わったそうだ。そのうちに一度

    訪問して、ゆっくり昔日の夢の跡を散策してみよう。

  •  2020 年 2 月 22 日発行 第 841 号( 10 )

    150 周年記念記事

    独法改革の時代国立長寿医療研究センター 名誉総長  大島 伸一

     鶴舞キャンパスに在籍したのは、学生時代の 1966 年

    からの 4 年間と教授になった 1997 年からの 7 年 2 ヶ月

    の約 11 年間である。

     学生時代を思う時、すぐに浮かんでくるのは学園紛争

    である。小児科の教授選考での不正が露見し大騒ぎに

    なった。私達が医学部で学んでいた時期のほとんどがこ

    の問題に費やされたような印象がある。学生自治会、職

    員組合を含め、教授会を問責し、大学としての機能は止

    まってしまった。何年続いたのか、定年退職等で教授が

    退官しても後任が決まらず授業もまともに開講されない

    といった状態であった。社会では 60 年安保から 70 年安

    保へと時勢が変わり、医学部関連ではインターン制度反

    対運動が盛り上がっていた。安田講堂立てこもり事件が

    起こったのも私達の学生時代のことである。

     こうした社会状況を言い訳にするつもりはないが、学

    生時代にまともに勉強に励んだという記憶がない。私達

    の学年はこうした環境のなかで学部生活を過ごし卒業す

    るときには、大学の医局には残らず学位も拒否するとい

    うクラス決議をした。

     こうして卒業後は全員が大学外に研修先を求め、私は

    社会保険中京病院に入職し、以降 1996 年までの約 27 年

    間を過ごした。クラス決議が効力を持ったのはせいぜい

    一年間である。翌年からはぼつぼつと大学の医局に戻る

    者が出始め、数年後には、医局講座制という伝統的なシ

    ステムの堅固さを改めて思い知らされることになった。

     学生時代は、サッカーと麻雀とアルバイトに時間を費

    やし、いわゆる劣等生であった私は、医師となってから

    は一流の臨床医を目指し、生活態度を改めた。

     転機は 1996 年に訪れた。泌尿器科の教授の最終選考

    に残り、学部長から選ばれたら就任するかどうかという

    打診があったときには、迷わず行くと返事をした。当時、

    私は中京病院の副院長職にあり、そのまま病院に残ると

    いう選択肢もあったが、去就につき相談した誰もが大学

    へ行くべきで選択の余地などないと断言した。

     こうして 1997 年 1 月 1 日に、名古屋大学医学部泌尿

    器科学講座第五代教授として名古屋大学に赴任した。そ

    の後、医学部での生活は 7 年間と短かったが中味は極め

    て濃いものになった。大学に籍を置くことのなかった私

    には、大学というものがよく理解できておらず、それま

    で養ってきた常識と大学の習慣との違いに途惑うことが

    多かった。

     社会では成長期から成熟期に向かう時期にあり、二十

    世紀の最後の十年は改革、改革で日本中が揺れていた。

    大学にも抜本的な機構改革の波が押し寄せてきていた。

    1998 年 11 月に齋藤先生が病院長に就任されてから、

    2000 年 2 月に副病院長制をつくられ、第一外科の二村

    教授と私が任命された。大学経験の浅い私には異例の人

    事であったが、一般病院での経営の経験があることも選

    ばれた理由の一つであった。同年 11 月には二村教授が

    病院長となり、私は続けて副病院長に指名され二年間を

    務めることになった。

     二村病院長の時代に、大学の設立母体が国立から独立

    行政法人へ変わることが決定され、法人化に向けた改革

    の嵐が大学中を揺るがせた。こんな状況のなかで私は、

    2002 年の 11 月に病院長となった。病院は大学のなかで

    はもっとも予算規模が大きく、その経営のあり方によっ

    て大学全体へどれほどの影響を及ぼすか、大学の評議員

    会でも大きな問題とされた。松尾稔(故)総長も、病院

    改革抜きに大学の法人化は進まないと強く認識され、病

    院の改革のための支援を惜しまなかった。

     独立行政法人化は 2004 年 4 月であり、累積赤字を抱

    えたまま新体制への移行は認めないという国の方針があ

    り、病院を挙げて新体制への移行計画を立て、全職員に

    具体的な行動目標と役割を明示し計画を進めた。

     2003 年の暮れ、国立長寿医療センターへという内示

    を受けたが、全く予想をしていないことであった。2004

    年3月1日に長寿医療センターの発足と同時に移ったが、

    大学独法化の真っ只中で道半ばでもあり、心残りもあっ

    た。以降の名大病院の改革は、次期井口病院長、次々期

    松尾病院長(現総長)に引き継がれ、現今の隆盛につな

    がっているのは周知の通りであり、私の心配はまったく

    の杞憂であった。名古屋大学の医学部には大学本来の使

    命・役割をよく理解した優れた能力を持つ人材が溢れて

    いることを改めて知らされた。

  •  2020 年 2 月 22 日発行 ( 11 )第 841 号

    150 周年記念記事

    昭和52年卒業生の医学部時代と解剖学、そして私昭和 52 年(1987) 卒河村 守雄

     昭和 52 年卒業生の医学部入学は、激しかった名大紛

    争が終息した 1 年後、ようやく大学の機能が落ち着きを

    取り戻し、勉学に集中できる環境が整い始めた昭和 46

    年であった。最初の 2 年間は教養部のある東山キャンパ

    スで暮らし、3 年目から鶴舞キャンパスでの医学部の専

    門授業が始まった。当時の医学部は大学紛争の爪痕が歴

    然と残っており、多くの講座の教授ポストが空席のまま

    だった。3 講座あった解剖学もご他聞に漏れず、すべて

    の教授ポストが空いていた。そんな不安定な状況の中で

    解剖学の講義と実習が始まった。第 1 解剖学の教員は助

    手の鬼頭純三先生(後に名大教授)と磯村源蔵先生(後

    に藤田保健衛生大教授)のお二人だけだった。われわれ

    学生は初めての解剖実習に驚きと厳粛さを覚えつつ、ご

    遺体と向き合った。しかし、毎回与えられる解剖実習の

    課題が定時内にこなしきれず、ほとんどの学生が夜遅く

    まで解剖台の横に残って実習を進めた。私は岐阜市から

    通学していたが、最終電車で帰ることもあった。そんな

    われわれに、若いお二人の先生はいつまでも付き合いな

    がら、多くの質問にも優しく真摯に答えて下さっていた。

    このような雰囲気だったからこそ、われわれ 52 年卒業生

    の団結力も強いものになったと、今になって思っている。

     そんな昭和 48 年度前期の半ば頃、第 1 解剖学に待望

    の新教授が着任された。酒井恒教授である。後にターヘ

    ルアナトミアの新版を上梓されたことでも有名な新進気

    鋭の教授であった。酒井教授とお二人の助手の先生のも

    とで、われわれは徹底的に解剖学を教え込まれた。とく

    に解剖学用語は「日本語ではなくノミナ・アナトミカで

    覚えなさい」と指示され、ラテン語に馴染みのないわれ

    われは大変苦労した。このような厳しい指導の中で前期

    の講義と実習をやっとの思いで終え、最初の学位試験を

    向かえた。

     必死で覚えた解剖学の知識を携えて試験に臨み、高

    ま る 不 安 の 中 で 試 験 用 紙 が 配 布 さ れ た。 設 問 1 は

    「Kiemenbogen と発生について記せ」。Kiemenbogen

    は鰓弓(えら)のことだが、勿論、日本語では書かれて

    いない。設問 2 は「diaphragma pelvi (urogenitale? だっ

    たかもしれない)について記せ」。勿論、解剖用語はす

    べてノミナ・アナトミカで答えなければならない。私の

    場合、設問 1 はヤマだったので、ある程度答えられた。

    ところが設問 2 は全く想定していない問題、と言うより

    「この語は一体何のことだ?」というのが実際のところ

    であった。白紙状態で答案用紙を提出したので、当然、

    不合格。なんと、合格者は 100 余名の受験者のうち、たっ

    たの 10 人。良くそこまで勉強してあったと、その 10 人

    には感心した。

     しかし感心ばかりしていられない。何としても半年後

    に行われる第 2 回学位試験(いわゆる再試)に合格しな

    ければならない。必死で勉強したが、何しろ分厚い教科

    書 3 冊分。とても覚えきれる分量ではない。試験は確か

    月曜日の午後だったと記憶している。前日の日曜日の夕

    方には、とうとう自暴自棄になり、自宅の布団に大の字

    に寝ながら、枕元にあった教科書のうちの 1 冊を取り、

    「エイヤッ」とばかりに、ある 1 ページを無造作に開いた。

    そこには頸部横断面の解剖図が記載されていた。「へー、

    こんな解剖もあるのか。取りあえずこれは覚えておこう」

    と、解剖図の文字に線を引きながら、頭の中に叩き込ん

    だ。そして、翌日の試験、半分あきらめムードで臨んだ。

    例のごとく問題用紙が配布され、設問を見た。驚くこと

    に、一問に「頸部の断面図を描き、説明しなさい」とあ

    るではないか。一瞬、背筋に震えが走るのを覚えた。そ

    して、ここぞ、とばかりに 10 時間ほど前に覚えたばか

    りの図とノミナ・アナトミカを必死で答案用紙に書き込

    んだ。その衝撃が余りにも強く、あとの一問がどんな問

    題だったかは、今は全く覚えていない。この試験の合格

    者は 90 余名の受験者のうちのわずか 25 人。運良く、そ

    の一人に入ることができた。まさに細い綱を渡るような

    学位試験であった。勿論その後の学位試験で、残りの殆

    どの同級生も合格したことは追記しておく。

     現在、私は大学で教鞭を取っている。日頃読み書きす

    る医学論文にもノミナ・アナトミカがふんだんに出てく

    る。ありがたいことに、辞書を引くこともなく読み進め

    ることができる。どれもこれも、あの時、あの 3 人の先

    生が、まさに鞭で叩くように教え込んで下さったおかげ

    だと非常に感謝している。私が教えている学生は医療系

    なので、専門の整形外科学のほかに解剖学も教えている。

    当初はノミナ・アナトミカと日本語両方で教えていた。

    しかし、現代は教えなければならない医学の情報量が多

    すぎる。とても学生にノミナ・アナトミカまで教える余

    裕がない。今では、あきらめて日本語だけで解剖用語を

    教えている。3 人の先生と比べたら、教師失格だ。

     3 人の先生のお名前とお顔は、医学部時代の苦しくも

    良い思い出の一つとして、今も昔のまま頭の中に浮かん

    でくる。そして、つくづく良い時代を生きたと振り返る

    毎日である。

  •  2020 年 2 月 22 日発行 第 841 号( 12 )

     明治 9 年に公立医学講習所に教師として招かれたアルブレヒ

    ト・フォン・ローレツが外科通論、臨床講義、皮膚病論と共に

    婦人病論、産科学をも講義していたと思われる。明治 22 年に

    愛知病院に婦嬰科が新設された。明治 27 年には産婆養成所が

    開設された。明治 42 年、小児科を分立し、舟木重次郎教諭が

    産科婦人科部長として赴任したが、間もなく病に倒れ、同年清

    水由隆教諭の部長就任となった。その後、大正 6 年に山崎正董、

    昭和 2 年に吉川仲、昭和 30 年に山元清一、昭和 36 年に石塚直

    隆、昭和 52 年に友田豊、平成九年に水谷榮彦、平成 16 年に吉

    川史隆と引き継がれている。第 1 回教室同窓会が昭和 36 年に

    開催され、吉川仲によって当同窓会は「尚和会」と命名された。

     多くの学会研究会を開催しているが、日本産科婦人科学会総

    会は大正 4 年に第 13 回、大正 14 年に第 23 回。昭和 16 年第 39 回、

    平成 7 年第 47 回、令和元年に第 71 回を開催している。

     昭和 37 年には、石塚直隆が中心となり愛知県下の絨毛性疾

    患地域登録管理が開始され、友田豊、後藤節子らにより引き継

    がれ、絨毛性疾患では名古屋大学が日本のオピニオンリーダー

    として、現在に至っている。これらの業績が評価され、石塚直

    隆は中日文化賞を受賞した。吉川史隆もベトナムにおいて日本

    の登録システムを普及させた功績によりベトナム国家平和友好

    勲章を受賞している。

     これまでに下記に列挙するごとく数多くの人材を輩出した。

    昭和 25 年 吉川  仲 附属病院長

    昭和 33 年 渡辺金三郎 名古屋市立大学産婦人科教授

    昭和 50 年 川島 吉良 浜松医科大学初代産婦人科教授

    昭和 47 年 石塚 直隆 医学部長

    昭和 47 年 石塚 直隆 中日文化賞

    昭和 50 年 石塚 直隆 名古屋大学総長

    昭和 54 年 中西  勉 名古屋大学医療技術短期大学部看護

    科教授

    昭和 55 年 石原  実 愛知医科大学産婦人科教授

    昭和 60 年 石塚 直隆 勲一等瑞宝章叙勲

    平成 2 年 川島 吉良 浜松医科大学学長

    平成 2 年 寺尾 俊彦 浜松医科大学産婦人科教授

    平成 5 年 後藤 節子 名古屋大学医療技術短大教授

    平成 6 年 友田  豊 附属病院長

    平成 17 年 菅沼 信彦 京都大学保健学科産婦人科看護学講

    座教授

    平成 18 年 板倉 敦夫 埼玉医科大学産婦人科教授

    平成 20 年 吉川 史隆 ベトナム平和友好勲章

    平成 25 年 板倉 敦夫 順天堂大学産婦人科学講座教授

    平成 20 年 後藤 節子 椙山女学園大学教授

    平成 20 年 玉腰 浩司 保健学科看護学専攻教授

    平成 22 年 井箟 一彦 和歌山県立医科大学産科婦人科学教授

    平成 23 年 那波 明宏 愛媛大学産科婦人科学教授

    平成 29 年 柴田 清住 藤田医科大学ばんたね病院産婦人科

    教授

    平成 30 年 岩瀬  明 群馬大学産科婦人科学教授

     医療を取り巻く環境は厳しさを増していますが、学友会の皆

    様のご指導を賜りつつ、名古屋大学産婦人科では伝統を更に発

    展させるべく励んでいく所存です。

     名古屋大学医学部の糖尿病・内分泌内科学教室は、2002 年

    に第一内科の内分泌研究室と第三内科の糖尿病研究室が合併し

    て誕生しました。したがって当教室の歴史はまだ 20 年にも満

    たず、やがて 150 年となる名古屋大学医学部の歴史とは比べる

    こともできません。しかしながら、私たちの教室においても前

    身の研究室のそれぞれの長い歴史があってこそ今日があるわけ

    です。そう思うと、2021 年に名古屋大学医学部が 150 周年を

    迎えることは、当教室に身を置く者としても大変感慨深いもの

    があります。

     我々の医局には毎年 10 人程の先生が入局してくれますが、入

    局者のほとんどは医学部を卒業後、関連病院で数年間勤務する

    ことになります。2 年前に新内科専門医制度が始まりましたが、

    名古屋大学医学部の伝統とも言える上記の卒後研修の在り方に

    大きな変化はありません。そして私たちの医局では数年間の卒

    後研修後の進路、例えば大学院に進むか、関連病院で引き続き

    勤務するか等については、各自の判断に委ねています。この点は、

    かつての医局のイメージとは程遠く、民主的と言えば民主的で

    す。一方で、毎年 10 人もの入局者があっても 30 余りの関連病

    院のほとんどは慢性的な人手不足の状態となっています。

     2019 年 11 月現在、教室員は 34 名(教員 10 名、非常勤医員 6 名、

    大学院生 18 名、うち中国からの留学生 1 名)です。当教室で

    は長年、神経内分泌の基礎研究に取り組んでまいりました。具

    体的なテーマとしては視床下部による水バランスやエネルギー

    バランスの調節機構などが挙げられますが、こうして当教室に

    根付いた基礎研究は今後も継続し、さらに発展させたいもので

    す。また、最近では iPS 細胞を用いて視床下部・下垂体を再生

    する基礎研究も展開し、上記の神経内分泌の研究との融合も目

    指しています。臨床研究に関してはまだ緒に就いたばかりでは

    ありますが、現在は免疫チェックポイント阻害薬による内分泌

    障害や IoT を用いた糖尿病管理等の研究に取り組んでいます。

     今回は名古屋大学医学部が 150 周年を迎えるにあたって原

    稿執筆の依頼を受けましたが、150 年前に、あるいは 50 年前、

    100 年前に、糖尿病・内分泌内科学と冠した教室が名古屋大学

    医学部に誕生することを誰が予見したでしょうか。現に私には

    50 年後の私たちの教室がどうなっているのか、想像すること

    もできません。ただ言えることは、その時、糖尿病・内分泌内

    科学の教室に在籍している人たちのほとんどは、今はまだこの

    世に生を受けていないということ。こうして過去と未来に思い

    を馳せると、私たちの教室が名古屋大学医学部と共に今後さら

    に発展していくことを願う想いが募ります。50 年後の糖尿病・

    内分泌内科学の教室員がこの文章に目を通してくれることも想

    像しながら、名古屋大学医学部が間もなく 150 周年を迎えよう

    としている、今、この時の教室の姿を記させていただきました。

    周周年

    周周年

    150 周年記念記事 発育・加齢医学 創基 150 周年に寄せて 産婦人科 吉川 史隆

    病態内科学 創基150周年に寄せて150 周年記念記事 糖尿病・内分泌内科学 有馬  寛

  •  2020 年 2 月 22 日発行 ( 13 )第 841 号

    名古屋大学医学部硬式テニス部 主将 関沢悠紀彦

     本年度、名古屋大学医学部硬式テニス部主将を務めさ

    せていただいております医学科3年の関沢悠紀彦と申し

    ます。名古屋大学の OB、OG の先生方におかれまして

    はご清栄のこととお慶びを申し上げます。またこの場を

    お借りいたしまして、日頃からの格別のご高配に心から

    感謝申し上げます。

     テニス部は医学科男子 53 名、医学科女子 10 人、保健

    科男子 12 人、保健科女子 36 人からなる、医学科、保健

    科の交流が盛んな医学部最大級の部活です。活動日は学

    科、学年ごとに異なりますが、週に 1 度の正規練やレ

    ギュラー向けの朝練などがあります。平日には毎日自主

    練コートもありやる気を出せばメキメキ上達できるシス

    テムでやっており、実際、大学でテニスを始めた後輩た

    ちがどんどん上手くなる姿を見て、頼もしく思っており

    ます。

     参加必須の練習は少なめですが、このような練習環境

    の中で各部員が自由に、自分のペースでテニスを楽しん

    でいます。テニスに打ち込む部員もいれば、しっかり学

    業に励んだり、趣味に打ち込んだりする部員もいて、そ

    の多様性がテニス部の魅力であると感じています。

     お恥ずかしいことに最近、テニス部は大きな大会で活

    躍できていない状態です。経験者、初心者の差が出やす

    いこのスポーツで初心者始めの多いテニス部では結果を

    出すのは難しいのかもしれませんが、この部活には他大

    学にない自由な雰囲気があります。この強みを活かして

    これから更にいい部活を作って、結果を出していきたい

    なと思います。

     最後になりましたが、名古屋大学医学部が創基 150 周

    年を迎えるにあたり、心からのお祝いを申し上げます。

    テニス部の長い歴史を考えると、自分が活動してきた 3

    年間はほんの小さいものに感じますが、これから色々な

    ことに挑戦し新たに歴史を創っていきたいと思います。

    名古屋大学医学部とともにテニス部も発展できるように

    部員一同一丸となり努力してまいりますので、今後とも

    名古屋大学医学部硬式テニス部を末長く見守ってくださ

    いますようにお願い申し上げます。

    医学部バドミントン部 主将 3年 臼井 皓音

     今年度の名古屋大学医学部バドミントン部の主将を務

    めさせていただいております、臼井皓音です。OB・OG

    の皆様には日頃から格別の支援を承っておりますこと、

    この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

     創基 150 周年という大きな節目を迎えられたことを、

    医学部バドミントン部を代表して心よりお祝い申し上げ

    ます。私自身もこの節目の年に在籍していることを大変

    喜ばしく思うとともに、築き上げられた歴史に恥じない

    よう、心新たに精進努力いたす所存です。

     さて、私たち医学部バドミントン部には男子 36 名、

    女子 26 名の総勢 62 名が所属しており、活動は大幸地区

    体育館にて火曜・木曜・土曜の夕方から全体練習を、日

    曜の午前に自主練習を毎週行っています。私たちの部活

    では大学始めの初心者が経験者に数で上回っており、い

    わゆる大会における勝利至上主義といった経験者のみを

    育成するやり方ではこの部活は成り立ちません。そのた

    め、初心者と経験者が同じコートで、同じ練習をするこ

    とによって、その経験者が中心に指導を行い、初心者で

    も大会で勝てる環境づくりを心がけています。このよう

    に実力差を問わず部員が一丸となって、厳しくもあり、

    また楽しくもある日々の練習に勤しんだ先に得られるも

    のはバドミントンの上達のみでは無いと思っています。

    そこには忍耐力や協調性といった人間的な成長が必ずや

    認められるでしょうし、私はそれこそがこの部活の魅力

    だと信じて疑いません。

     今年度は全医体にて男子団体 3 位、西コメで男子シン

    グルス優勝 , ミックスダブルス 3 位、医歯薬では男子ダ

    ブルス優勝 , 女子シングルス 3 位など輝かしい成績を収

    めることができました。また、前述の通り、大学始めの

    部員も多く大会にて勝ち進むことができています。今後

    とも全員が大会でより良い成績が残せるように、そして

    技術的にも、精神的にも大きく躍進できるように、部員

    一同誠心誠意努めて参りますので、引き続きの御指導御

    鞭撻のほどお願い申し上げます。

    周周年150 周年記念記事 創基 150 周年に寄せて 部活動

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