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山すそに咲くホタルブクロ(岡部町青羽根) No.1058 広報ふじえだ 2010 7 5

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Page 1: 123456789 12 5 5 7 5...7 5 No.1054 広報ふじえだ 2010 5 5 No.1054 広報ふじえだ 2010 見 ゆるごとみ 蛍 ほたる 袋 ぶくろ に 来 てかがむき 化石 化石さんが幼少時代、魚を捕って遊んだ朝比奈川。今でも当時と同じ豊かな自然が残っている

特集

魂の俳人

村越化石

山すそに咲くホタルブクロ(岡部町青羽根)

2010No.1054広報ふじえだ

55

2010No.1054広報ふじえだ

1220

No.1058広報ふじえだ2010

2010No.1054広報ふじえだ

123456789

12

520

7 5No.1054

広報ふじえだ

2010

5 5No.1054

広報ふじえだ

2010

見み

ゆるごと蛍

ほたる

袋ぶくろ

に来き

てかがむ化

Page 2: 123456789 12 5 5 7 5...7 5 No.1054 広報ふじえだ 2010 5 5 No.1054 広報ふじえだ 2010 見 ゆるごとみ 蛍 ほたる 袋 ぶくろ に 来 てかがむき 化石 化石さんが幼少時代、魚を捕って遊んだ朝比奈川。今でも当時と同じ豊かな自然が残っている

▲化石さんが幼少時代、魚を捕って遊んだ朝比奈川。今でも当時と同じ豊かな自然が残っている

2広報ふじえだFujieda H22.7.53

 

平成14年、玉露の里の一角に村越化

石さんの句碑が建立されました。句碑

に刻まれた「望郷の目覚む八十八夜か

な」は、16歳のときに故郷を離れた化

石さんがふるさとを懐かしく思い、73

歳のときに詠んだ句です。

「望郷の句は私に多い。故郷を離れて

すでに久しく、見えない眼の奥にいつ

も故郷がある。夏も近づく八十八夜は

新茶の初摘みの頃こ

、村中が茶の香に包

まれるよき季節。生気溢あ

るる八十八夜

は望郷とともに私の好きな言葉でもあ

る」(村越化石句碑建立記念集『大龍勢』

より)

 

句碑の作者は、藤枝市在住の石せ

彫ちょう

家か

・杉村孝さん。赤し

ゃく

銅どう

色いろ

の句碑は、母

が子を抱くようにも見えます。句碑の

除幕式に出席するため、60年ぶりに化

石さんも帰郷し、ふるさとの人たちと

の再会を果たしました。

 

村越化石さんは、現在87歳。群馬県

草津町にある国立療養所栗く

生りゅう

楽らく

泉せん

園えん

で暮らしています。草津の自然の中で、

句作に励む化石さんを紹介します。

よき里

によき人

ら住す

み茶

が咲さ

けり

平成14年作

魂の俳人

村越化石

▼平成14年11月15日の句碑除幕式に出席した化石さん

藤枝市出身の俳人・村むら

越こし

化か

石せき

さん。16歳のときにハンセン病の宣告を受け、治療のために故郷を離れました。現在は、群馬県草

くさ

津つ

町まち

に暮らしています。治療法がなく、死と隣り合わせだった時期を過ごし、戦後、特効薬により病が完治した後も、後遺症を抱

かか

えながら、生命の力強さを詠よ

み続けています。その句作から「魂の俳人」と呼ばれ、多くの人々に勇気を与えています。昭和58年に蛇

笏こつ

賞、平成20年には山本健吉賞など、俳句界を代表する各賞を受賞。平成3年には紫

綬じゅ

褒ほう

章しょう

も受章されています。今号では、藤枝を代表する文学者の一人である村越化石さんを紹介します。

文化財課 ☎643・3111 内線758

「ハンセン病」は、「癩らい

」という言葉で呼ばれ、過去にはさまざまな偏見を伴い、患者およびその家族の尊厳を傷つけてきました。このことを踏まえ、『広報ふじえだ』では、固有名詞や資料を引用する場合など、必要最小限の範囲で「癩」という言葉を使用しています。

望ぼ

郷きょう

の目め

覚ざ

む八

十じゅう

八は

夜や

かな

平成7年作

茶ち

の花

を心

こころ

に灯

し帰き

郷きょう

せり

平成14年作

玉露の里の一角に立つ句碑。

点字も添えられている

Page 3: 123456789 12 5 5 7 5...7 5 No.1054 広報ふじえだ 2010 5 5 No.1054 広報ふじえだ 2010 見 ゆるごとみ 蛍 ほたる 袋 ぶくろ に 来 てかがむき 化石 化石さんが幼少時代、魚を捕って遊んだ朝比奈川。今でも当時と同じ豊かな自然が残っている

4広報ふじえだFujieda H22.7.55

「子どものころの思い出というのは、

いくつになってもよく覚えているもん

だよ。ふるさとの小道や、そこに咲く

花など…どれもこれも懐かしいね。姉

と二人姉弟だったから、よく、ほかの

家の子どもたちと一緒に、朝比奈川で

魚を捕って遊んでね。ハエに似た『ジ

バチ』というハチをふるさとでは『ハ

イバチ』と呼んでいたけど、そのハチ

の巣を探して、掘る遊びが面白くて、

熱中したものだよ」

 

村越化石さん(本名・英彦さん)は、

大正11年12月17日に志太郡朝比奈村

(現・藤枝市岡部町)で生まれました。

 

昭和13年、化石さんが旧制志太中学

校4年生(現・藤枝東高校1年生)の

時、ハンセン病の発病が見つかり、化

石さんは中学校を中退します。

「まだ子どもだったから、事情がよく

わからない。とにかく東京へ行って治

療に専念するよう言われたんだよ。そ

れを拒むと母が『それなら私と一緒に

死んでくれますか?』と言ったんだ。

私は言葉を失ってね。今にして思えば、

そこまで言わなければ、この子は行か

ないと思ったんだろうね」

 

故郷を離れた化石さんは、東京のい

わゆる病人宿で治療に励みます。その

時、療友の勧めで、初めて俳句と出合

栗生楽泉園に入園。現在もここで暮ら

しています。

います。その後、東京から群馬県の草

津温泉にあった湯之沢地区へ。このこ

ろ、妻となる奈美さんとも出会います。

 

地元の俳句仲間との交流も始まり、

新聞の地方版に俳句を投稿するように

なります。「化石」という俳号は、こ

のころに付けたもの。

「新聞に投句するのに本名は名乗れな

いからね。化石という名は、故郷に帰

ることもできない、世の中に出て暮ら

すこともできない、生きながらにして

土の中に埋もれ、すでに石と化した物

体のような自分を『化石』になぞらえ

て名付けたんだよ」

 

昭和16年には、草津町の国立療養所

 

昭和18年、化石さんは、高た

浜はま

虚きょ

子し

「ホトトギス」に属する本田一い

杉さん

氏に

指導を仰ぎ、俳誌『鴫し

野の

』に入会。医

師でもある一杉氏は、各地の療養所の

ハンセン病患者に俳句を指導していま

した。

 

化石さんは、楽泉園にできた「栗の

花句会」(現・高原俳句会)で、同じ

療養所の句作の先輩であった浅あ

香か

甲こう

陽よう

氏と親交を深め、俳句精神を学びます。

昭和22年には、一杉氏が楽泉園を訪れ、

俳句の指導を受けます。

「その時、甲陽は病気が進行して声を

出すこともできず、目も見えなかった

んだよ。けれど、句作にはとても一生

懸命だったんだ。私は甲陽から、代わ

りに一杉先生のお言葉をいただいて欲

しいと頼まれたんだよ。そこで、甲陽

の句く

帖ちょう

を差し出し、お願いした。その

時、一杉先生がさらさらと書いてくだ

さったのが、

『肉眼はものを見る。

心眼は仏を見る。

俳句は心眼あるところに生ず。』

という言葉だった。俳句は肉眼で作る

のではない。心の眼で俳句を作らなく

てはいけないということだな。甲陽は

大変喜んだんだよ」

 

楽泉園での長い闘病生活。この間に

は、語りつくせないほどの悲しい思い

出もあったといいます。終戦前後は、

物資や食料が不足。療養する人たちは、

病気の体をおして、山を開拓し、ジャ

ガイモやカボチャを作ったそうです。

医薬品も不足していて、多くの人たち

が苦しみの中で亡くなっていくのを見

てきた化石さん。自身の死を覚悟しな

がらも、句作を続けていました。

 

昭和18年、アメリカでハンセン病の

特効薬「プロミン」が開発されます。

長らく不治の病とされていたハンセン

病は、治療によって治る病気となった

のです。しかし、日本でプロミンによ

る治療が始まるのは、戦後になってか

らでした。このプロミンの効果は絶大

で、これまで、死と隣り合わせの闘病

生活を送ってきた人たちにとって、新

しい時代の幕明けとなりました。

生お

い立た

ちは誰

も健

やか龍

りゅう

の玉

平成12年作

龍の玉の艶つ

やかさから汚れのない幼

おさな

子ご

を連想。生い立ちは誰も

みな、健やかであったのだ。生きることのいとしさ、ありがた

さ、命の尊さを改めて思い起こしての句である。

生い

き堪た

へて七

夕ば

の文も

字じ

太ふ

く書か

く昭和26年作

楽泉園内の俳句仲間で七夕を祭った時の作。子どもたちにも来

てもらい一緒に飾り付けをした。生きていてこそと思った。

つるばらや生い

き会あ

ひて母は

の辞じ

儀ぎ

篤あ

昭和29年作

母との面会。「会あ

ひて安や

し夏な

の夜よ

母は

の横よ

坐ず

り」とも詠う

った。会えた

ことで母は安心し、10日ほど泊まって帰っていった。

除じ

夜や

の湯ゆ

に肌

触ふ

れあへり生い

くるべし

昭和25年作

新年への希望。ハンセン病の特効薬プロミンの開発により、療友と

ともに奇跡的な薬効に浴して一年。生命感を初めて見いだし、決意

を詠んだ句。

化石さんの部屋の前のワレモコウ

村越化石さん略年譜大正11年 12月17日、静岡県志太郡朝比奈村(現・藤枝

市岡部町)で生まれる。昭和13年(16歳) ハンセン病の宣告を受け、治療のため郷里を

離れ上京。東京で治療に専念。16年(19歳) 奈美と結婚。草津湯之沢を経て、国立療養所

栗生楽泉園に入園。23年(26歳) プロミンによるハンセン病の治療が日本で始まる。24年(27歳) このころ化石さんもプロミンを注射。大野林

火主宰の『濱』に境遇を隠したまま初投句。25年(28歳) 林火に境遇を打ち明けて、楽泉園高原俳句会

の指導を依頼する。

30年(33歳) 高原俳句会合同句集『火ひ

山やま

翳かげ

』刊行。片目の視力を失う。

37年(40歳) 第1句集『獨どく

眼がん

』刊行。45年(48歳) 残る片目の視力も失う。49年(52歳) 第2句集『山

やま

國ぐに

抄しょう

』刊行。第14回俳人協会賞受賞。57年(60歳) 第3句集『端

たん

坐ざ

』刊行。58年(61歳) 第17回蛇

笏こつ

賞受賞。63年(66歳) 第4句集『筒

つつ

鳥どり

』刊行。平成3年(69歳) 紫

綬じゅ

褒ほう

章しょう

受章。4年(70歳) 第5句集『石と杖』刊行。9年(75歳) 第6句集『八十八夜』刊行。14年(80歳) 村越化石句碑除幕式。60年ぶりに故郷に帰郷。15年(81歳) 第7句集『蛍袋』刊行。19年(85歳) 第8句集『八十路』刊行。20年(86歳) 第8回山本健吉賞受賞。

▲化石さんの8つの句集

▲化石さんの部屋の庭先

▲ ▼化石さん直筆のノート。投稿した俳句を年代順に記してある

掲載句の注釈は、村越化石句碑建

立記念集『大龍勢』の自註句を参

考にしました。

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6広報ふじえだFujieda H22.7.57

ので、不安だった。おそるおそる先生

に手紙を出したんだよ。すると、先生

は快く引き受けてくださったんだ。本

当にうれしかった。そして、1年に1

回、楽泉園に来ていただき、高原俳句

会のみんなの俳句を見てもらいたいと

お願いしたら、それも快く受けてくだ

さったんだよ。すばらしい先生に指導

してもらえることになって、みんなで

大喜びしたんだよ」

 

林火氏と高原俳句会の親交は、その

後年々深まりました。

「林火先生は我々に『みなさんは、不

幸な病気で肉体を病んでいる。けれど、

心まで病気ではないのだから、その心

を大事にしなさい。心の俳句をお作り

なさい』と言われたんだよ。心の俳句

を作れば、その俳句は人の心を打ち、

感動する者が広く得られる。そのこと

で世の中とつながってゆける。そう教

えてくださったんだよ」

 

昭和24年、大野林り

火か

氏の句に感銘を

受けた化石さんは、林火氏の主宰する

俳誌『濱は

』に入会します。初めは、病

を隠し、匿名での投句でした。この年、

本田一杉氏が亡くなります。翌年、化

石さんは自らの病気を明かし、林火氏

に高原俳句会の指導を依頼します。

「本田一杉先生が亡くなられた後、高

原俳句会の指導者がいなくなってし

まった。ちょうど、私が林火先生の『濱』

に入っていたもんだから、頼んでみよ

うということになってね。けれど、ま

だ病気のことを打ち明けていなかった

 

昭和30年、片目の視力を失った化石

さんは、ますます俳句が心のよりどこ

ろになります。そして、自分たちの代

でハンセン病患者の苦しみを終わりに

したいという強い思いを持って句作に

苦しみを味わってもらいたくない。『寒

餅や最後の癩の詩つよかれ』は、その

気持ちを込めたものだ。林火先生は

常々、病気の句は作ってもいいが、病

気に負けたり、甘えたりした句は駄目

だと言われた。ようやくこの病気が

治ってきたと実感できたとき、『我々

が最後の癩ら

者しゃ

になると思って作ってい

ます』と林火先生に申し上げたんだ。

先生は『そうだ、その覚悟で俳句を作

りなさい』とおっしゃったんだよ」

 

昭和37年、化石さんは初めての句集

『獨ど

眼がん

』を刊行します。

 

その後、化石さんは、第2句集『山や

國ぐに

抄しょう

』、第3句集『端た

坐ざ

』、第4句集

『筒つ

鳥どり

』と次々に句集を刊行。この間、

残る片目の視力も失い、師と仰ぐ林火

氏が死去するなど、悲しい出来事も起

こります。しかし、化石さんは「心の

俳句を作りなさい」という師の教えを

胸に刻んで、あるがままを受け入れる

境地に至ります。ハンセン病に対する

嘆きや苦しみを超越した生命の尊厳、

力強さを詠み、いつしか「魂の俳人」

と呼ばれるようになりました。そして、

「句集を出すとき、実家に迷惑をかけ

てはいけないと思い、母に手紙を出し

たんだよ。母からの返信には『今度句

集を出してもらえる様よ

になった由よ

、結

構です。大いに張り切ってやって下さ

い。(中略)色々家に迷惑とかいう点

は心置きなくやってください。別に尊

い人生を世間に秘ひ

している訳わ

でなし、

よい事をやってくれるのでしたら却か

て、誇りにもなるくらいです。どうぞ

ご心配なく』と書いてあったんだよ」

 

ところが、句集の完成を待たずして、

母・起き

里り

さんは亡くなります。

今もなお、「生きる」とは何かを、俳

句を通して真し

摯し

に追求し続けています。

「日本の伝統文化・俳句は、省略の詩

であり、こういうものは日本にしかな

い。松尾芭蕉の句が今も愛されている

のは、簡潔で短い詩の中に良さがある

からなんだよ。私は、俳句は永遠に滅

びないと思う。いつまでも俳句を愛し、

日本語の美しさ、深さ、面白さを、こ

れからも楽しんでいきたいと思う」

 

化石さんの俳句への情熱は、今も尽

きることはありません。

打ち込むようになります。このときを

境に、化石さんの俳句は、生きる証あ

かし

込めたものになっていきます。

「我々が最後のハンセン病患者であり

たい。もう二度とほかの人たちにこの

闘たたか

うて鷹

のゑえ

ぐりし深み

雪ゆ

なり

昭和43年作

松ま

虫む

草そ

今こ

生じょう

や師し

と吹ふ

かれゆく

昭和44年作

かつては楽泉園内にたくさん咲いていたという松虫草。林火氏は楽泉園を訪れるたびに、花を摘んで帰ったという

▲楽泉園近くの諏訪神社の森。何度も足を運んで、水音や鳥のさえずりに耳を傾けた。林火氏とここで句作したという。

▲園内を散歩する化石さん

▲大野林火氏(明治37年~昭和57年)。第3代俳人協会会長。

深雪に残った傷跡から、ひろがった鷹へのイメージ。俳句作りは気

合い。気合いが奥にあるものを引き出す。この句は共鳴者が多く、

私の代表作となった。

寒か

餅も

や最

後ご

の癩

の詩

つよかれ

昭和31年作

私たちが最後のハンセン病患者になるのを願っていることを、林火

先生に申し上げた。その覚悟で俳句を作りなさいと励まされた。

生い

きねばや鳥

とて雪

を払

ひ立た

つ昭和46年作

失明から立ち上がるも、私の日常はまだまだおぼつかなかった。

毎年おいでくださる林火先生と、先生の好まれる

松虫草の咲く原っぱへご一緒した。私は病室から

の参加であった。師恩は尽きない。

天あ

が下

雨あ

垂だ

れ石

の涼

しけれ

昭和51年作

林火先生に、この句は無欲の境地だといわれた。ぽっとんぽっとん

という雨垂れの音、青あ

苔ご

のついた形のよい石を頭の中に浮かべた。