スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開...

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57 スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開と その変容(197519821 はじめに 今から約 40 年前の 1975 11 月にフランコ将軍が死亡した。それから民主化移 行期(Transición Democrática)と呼ばれる 1982 年までの約 8 年を経て、スペイン 社会は 40 年間続いた独裁体制から民主主義国家へと平和裡に変化を遂げた。フラ ンコから後継者として指名されていた国王フアン・カルロス一世は即位後、前任者 の意志を無視し、アドルフォ・スアレス新首相と共に民主化の原動力となった。そ してスアレスは 1976 年の政治改革法成立を皮切りに、1977 6 月、41 年ぶりに 総選挙を実施し、さらに 1978 12 月に新憲法を制定するなど民主国家の体裁を 整えた。1982 年には「変化(cambio)」をキャッチフレーズにしたスペイン社会労 働党(以降PSOE)政権が誕生し、 1986 年にはEU加盟を果たした。現在(2016 年)、スペインは国内総生産世界第 14 位(2015 年IMF統計)となり国際的にも 政治・経済面においても無視できない存在となっている。 もちろんスペインの女性にとっても民主化は大きな変化をもたらした。彼女たち はそれまで独裁政権の下、良妻賢母像に縛られ社会的、政治的な活動を制限されて いた。しかし民主化を迎え、欧米諸国で広がっていた第二波フェミニズムやウーマ ンリブ運動の流れに乗り、性別による社会、文化的な差別への問題意識を深め、女 1 本原稿は 2015 10 30 日に開催された第 37 回スペイン史学会大会『フランコ没 40 年のスペイン』での報告、「民主化・グローバル化におけるスペイン男女平等参画社会 の展開と課題」の口頭発表の一部をベースに、時間の関係上、同発表で触れることのでき なかった点、また会場からの意見、質問から得られた考察などを補完し大幅に加筆したも のである。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開と

その変容(1975—1982)1

齊 藤 明 美

はじめに

 今から約 40年前の 1975年 11月にフランコ将軍が死亡した。それから民主化移

行期(Transición Democrática)と呼ばれる 1982年までの約 8年を経て、スペイン

社会は 40年間続いた独裁体制から民主主義国家へと平和裡に変化を遂げた。フラ

ンコから後継者として指名されていた国王フアン・カルロス一世は即位後、前任者

の意志を無視し、アドルフォ・スアレス新首相と共に民主化の原動力となった。そ

してスアレスは 1976年の政治改革法成立を皮切りに、1977年 6月、41年ぶりに

総選挙を実施し、さらに 1978年 12月に新憲法を制定するなど民主国家の体裁を

整えた。1982年には「変化(cambio)」をキャッチフレーズにしたスペイン社会労

働党(以降PSOE)政権が誕生し、1986年にはEU加盟を果たした。現在(2016年)、スペインは国内総生産世界第 14位(2015年IMF統計)となり国際的にも

政治・経済面においても無視できない存在となっている。

 もちろんスペインの女性にとっても民主化は大きな変化をもたらした。彼女たち

はそれまで独裁政権の下、良妻賢母像に縛られ社会的、政治的な活動を制限されて

いた。しかし民主化を迎え、欧米諸国で広がっていた第二波フェミニズムやウーマ

ンリブ運動の流れに乗り、性別による社会、文化的な差別への問題意識を深め、女

1 本原稿は 2015年 10月 30日に開催された第 37回スペイン史学会大会『フランコ没

40年のスペイン』での報告、「民主化・グローバル化におけるスペイン男女平等参画社会

の展開と課題」の口頭発表の一部をベースに、時間の関係上、同発表で触れることのでき

なかった点、また会場からの意見、質問から得られた考察などを補完し大幅に加筆したも

のである。

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性の権利獲得と地位向上のため立ち上がることとなる。彼女たちの貢献は、各国の

男女格差を図るジェンダーギャップ指数 2015年度 145か国中 25位(2015年世界

フォーラム統計、フランス 15位、イタリア 41位、日本 101位)の数字に如実に

表れているといえよう 2。これまで受け身であったスペインの女性たちが、広く政

治や社会において主体的な活動の場を獲得してきた証であり、その原点として、民

主化期のフェミニストたちによる女性解放運動を位置付けることができるのではな

いか。だが残念ながら一般的には、フランコが亡くなったとたん、急に女性たちが

元気になり、なにやら街頭で権利要求のためのデモやミーティングをしていたが、

数年でどこかへ消え去った、というようなイメージが強い。

 本稿ではこれまでの先行研究の整理と分析を通して、スペイン民主化期における

フェミニズム 3 の特色、さらには海外の第二波フェミニズムの影響や、その思想と

運動がスペインの民主化に果たした役割を考察することを目的とする。

 これまでスペイン民主化を扱う歴史研究において、フェミニズム運動を独立した

テーマとして取り上げられることは非常にまれであり、ジェンダーの視点から民主

化が語られることは少なかった(Threlfall, 2009, 18-19; Nash, 2011, 306)。例えば

保守派歴史家のリカルド・デ・ラ・シエルバは 1977年 2月 16日のエル・パイス

紙にてフェミニズム運動のリーダーらを「男のような女(marimachos)、性的に逸

脱した者、ノイローゼ患者、異常者」と誹謗したりと、論壇のフェミニズムやフェ

ミニストたちへのいわれのない偏見は依然として強かった(Beth, 2009, 61)。 しかし 1980年代からアカデミズムの場におけるフェミニズム運動出身の学者ら

の活躍の場が広がり、それとともに歴史学にもジェンダーの視点が導入された。そ

れ以後、フランコ体制後期から民主化期におけるスペインフェミニズム運動につい

ての包括的な研究も数多く蓄積されるに至った。

2 http: //www3. weforum. org/docs/GGGR2015/cover. pdf (2016年 9月 30日参照)

3 江原由美子は、「フェミニズム」を「女性解放思想、あるいはその思想に基づく社会運

動の総称、女権拡張主義、男女同権主義などと訳されることもある」と紹介している。『岩

波女性学事典』岩波書店(2002年)399頁。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

 その代表的な先行研究はグラウ(1993)、メリー・ナッシュ(2004, 2009,

2011)、フォルゲーラ(2007)、アウグスティン・プエルタ(2003)、ラルンベ(2004)、モレノ(2012)などによる。また共産党についてはモレノ(2014)、MDMはアリ

エロ(2016)、フェミニスト党についてはラルンベ(2014)などと各グループに関

する個別の研究も進んでいる。

 だがこの運動の全体像をつかむのは非常に困難であり、骨の折れる作業である。

モレノも、このわかりにくさの原因を、急激な政治変化の中、短期間にたくさんの

グループが生まれては消滅したこと、そしてその多様性、多元性にあるとし、この

テーマに取り組むことを一つの「挑戦」 (desafío) と語っている (Moreno, 2012: 86)。

 次に民主化期のスペインフェミニズム運動史の時期区分について考察してみた

い。その前史となる 1965年からとするエレナ・グラウ(Grau, 1993, 737)とフラ

ンコ没の 1975年を起点とするドゥランとガジェーゴ(1986)4 の 2つの流れに集

約される。

 前者の時期区分は、第一期「運動の受胎と反体制運動」(1965-1975)、第二期「運

動の孵化と可視化」(1975-1979)、第三期「運動の危機とその反省」(1979-1982)、第四期「運動の新しい局面、多様化と制度化」(1982~)となっている。一方後者は、

第一期「フランコ没から憲法制定まで」(1975-1979)、第二期「UCD政権からP

SOE政権獲得まで」(1979-1982)、第三期「それ以降」(1982~)とし、前者と

の違いはフランコ没前の 10年を含むか否かのみで、1975年以降はほぼ同じである。

 フォルゲーラやアウグスティンなどの多くの研究者は、後者を参考に時期区分を

行っている。例えばフォルゲーラ(Folguera, 2007, 166)は、①「民主化とフェミ

ニズムの復活」(1975-1979)、②「フェミニズム運動の危機」(1979-1982)、③「新

しいフェミニズムの形成」(1982-88)と定め、一方、アウグスティン(Augustín,

2003, 358-360)も、①「法改正のため一丸となった時期」(1975-1978)、②「イ

デオロギーの対立表面化」(1979-82)、③「新しい時代への岐路」(1982-85)とし

4 DURÁN, María Ángeles y GALLEGO, María Teresa: “The Women`s Movement in Spain and the New Spanish Democracy”, en Drude Dahlerup(ed. ), The New Women's Movement: Feminism and Political Power in Europe and the USA, London, Sage Publications, (en Folguera, 166, 2007)

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ている。アウグスティンは 1975年をフェミニズム誕生の年とした理由を、フラン

コ独裁終焉だけでなく、国連の国際女性年開催によるとした(Augustín, 2003, 12-

13)。一方モレノは、特に具体的な時期区分を行っていないが、運動のピーク期を

諸団体が協力して戦った 1975年から 1978年としている(Moreno, 2012, 93)。

 今回は後者のモデルに沿い、1975年から 1982年までの民主化期のフェミニズ

ム運動を、①誕生と発展期(1975-1979)と②その変容期(1979-1982)の二期に

分けて分析を進めるが、その因果関係の理解を深めるためにその前後の時代の女性

の権利やフェミニズム運動の状況についても触れる。具体的には次の手順で論を展

開してみたい。前史は第一章の「フランコ体制下の女性解放の萌芽(1950年代‐

1975)」にて扱う。①については第二章「民主化期のフェミニズム運動の誕生と発

展(1975‐1979)」と第三章「民主化プロセスとフェミニズム運動:1977年選挙

と 1978年憲法」にて、そして②については第四章「離婚法と中絶法をめぐるフェ

ミニズムの動き(1979‐1985)」、第五章「政府による男女平等政策への取り組み

の始まり(1982~)」においてそれぞれ分析する。まとめの「民主化期スペインに

おけるフェミニズム運動の歴史的意義」にて総合的な考察をおこなう。

1. 前史:フランコ体制下の女性解放運動の萌芽(1950年代 -1975)

1. 1. フランコ体制期の女性:「家庭の天使」

 1939年 4月のスペイン内戦におけるフランコ派の勝利は、第二共和制期(1931-

1939)に一人の「市民」として社会参加の権利と機会を得た女性たちの未来に暗

い影を落とした 5。フランコは早急な国家再建のため出生率の増加を目指したが、

5 第二次共和制および内戦時の女性の状況については NASH, Mary, Rojas, Las mujeres republicanas en la Guerra Civil. Madrid: Taurus, 1999, 砂山充子「戦争とジェンダースペイン内

戦の場合」姫川とし子他著『ジェンダー』ミネルヴァ書房 2008年 pp. 250-299. フランコ

独裁政権下の女性については MORCILLO GÓMEZ, Aurora, 2015等に詳しい。同時期の欧州

の女性の状況に関しては OFFEN, Karen, European Feminisms, 1700-1950. A Political History, Standford Uni. Press, 2000に詳しい。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

まず既婚女性を夫の管轄の下、出産や育児に専念させる必要があった(Morcillo,

2015: 125; Roca, 2003: 33)。教育現場では、男女別のカリキュラムが組まれ、女子

生徒にはカトリック教義と伝統的な「家庭の天使」像を下敷きとした良妻賢母教育

が、教会とファランヘ女子部により徹底された。また、前近代的なジェンダー規範

を女性に強要するために法の力を用いた。第二共和制期に獲得された普通選挙権、

市民婚、離婚権、合法的な中絶等の女性の諸権利は無効となり、代わりに 1938年3月には旧民法が復活、女性は家父長制の下、法的に妻や娘として「家長」である

夫や父親に従属する存在となりフランコ体制を末端から支える「家長」の地位は強

化された。さらに既婚女性の求職活動や就労は規制の対象となり、また独身であっ

ても裁判官等の高度な専門職への門戸は閉ざされた 6(齊藤 , 189-195, 2016)。 一方世界では、国家間の利害衝突から勃発した第二次世界大戦の反省として、

1945年国際連合が発足し、世界人権宣言(1948年)、人種差別撤廃条約(1965年)

そして女性差別撤廃条約(1979年)が締結され、国家を超えるレベルでの人権保

障が目標とされていた。また第二次大戦後の多くの欧米諸国では飛躍的に女性の権

利獲得が進んでおり、それに比較してスペインの女性は制度的にも社会通念的にも

時代に逆行した性差別を耐えなければいけなかった。

1. 2. フランコ後期における女性解放運動の萌芽(1950年代後半~)

 1. 2. 1. 法改正による性差別撤廃の試み

 スペイン女性たちはこのような差別的な状況に黙って耐えているだけではなかっ

た。スペイン民主化期の女性解放運動はフランコ没後、突然始まったわけではない。

その萌芽は、経済開放政策の下、多くの外国人観光客が訪れ始めた 1950年代後半

から見られ、主に性別による不平等な法改正と、反体制運動の中の女性運動という

2つの側面が存在した。

 前者に関しては、1950年代中盤から性別による法の下の不平等の是正を求めて、

女性弁護士を中心とする女性らが活躍した。彼女たちの活動は 1958年、1961年、

6 その他妻の口座開設、運転免許証取得、遺産相続、財産売買などには夫の許可が必要

であった。

齊 藤 明 美

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そして 1975年の法改正にて段階を踏んで結実し、フランコ没の前段階にてある程

度の改善が進んだことは注目すべき点である。また運動の中心となったのは反フラ

ンコ派だけではなく、体制の内部に属した女性も重要な役割を負ったことは興味深

い。この件に関してはすでに拙稿(齊藤、2016)にて詳しく述べているが、以下

簡単に紹介しておく。

 1958年民法改正の立役者は、弁護士でファランヘ女子部の古参であったメルセ

デス フォルミカであった。幼少期に両親の離婚を経験、母親に引き取られた彼女は、

養育費がもらえず経済的に困窮した母の苦労を知り、また法学部卒業後には女性で

あるため外交官受験資格が与えられず、身をもって法律における性差別を経験して

おりその後の活動の原動力となった。1953年にはABC紙を舞台に婚姻に破綻し

た妻や子供の救済を訴え、民法改正の啓蒙運動を行った。彼女の記事は国内外で大

きな反響を呼び、法改正に肯定的な世論形成に貢献した。

 1957年の内閣改造は、その主軸がファランヘ党員から経済成長を目指すテクノ

クラートに移行した点で、民法改正にとって好都合であった。なぜなら開放政策の

ため、対外的に「法治国家」の体裁を整えることが急務とされたので、法律上の性

別による差別の解消は良いアピール材料になるとみなされたからだ。1958年改正

の主な内容は、フォルミカが主張した別居後の妻の法的立場の改善 7、また女性が

遺言状の証人や後見人になることなど、従来の家父長制を脅かさない範囲での「穏

やかな」改正にとどまり、その根幹である夫権(夫への妻の法的な従属)には手が

付けられなかったことが特徴である。

 また 1959年の経済安定化計画の実施は、女性の労働に関する政府の考えの変化

を引き起こし、以後女性は安い労働力としてだけでなく消費者としての役割も期待

されることとなった。以前から家庭の義務を怠らない範囲で女性の労働に積極的な

態度を示していたファランヘ女子部は敏腕政治家マヌエル・フラガを含む政府の準

備委員会を後ろ盾に、1961年「女性の政治、専門職労働の権利に関する法」案を

7 夫婦の住居は「夫の」ではなく「夫婦の家」となり、どちらが残るかは司法の判断に

ゆだねられる。またその際、妻の居所は夫により任意の場所へ「保管(強制移動)」されない。

夫婦の財産管理は共同管理となり、妻は夫に共有財産の半分と自分の財産全てを請求でき

る。寡婦の再婚の際、前の夫の間の子供の親権を維持できる。これまで女性だけであった「姦

通罪」が男性にも適用される等。(RUÍZ FRANCO, 2003: 134-135)

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

議会に提案し承認された。以後、軍隊や裁判官、検察などの司法行政職(労働、未

成年関係を除く)、海運業以外のすべての職種における女性の就労が可能となった

が、民法の「夫への従属」規定により、せっかく認められた就業機会も夫の許可が

必要とされた。

 ここにメスを入れたのは、マリア・テロを中心とする女性弁護士グループであっ

た。テロは体制側に属さなかったが、大学卒業後、女性であることにより希望す

る職に就けず弁護士の道を進んだという点でフォルミカと同じ経験を持つ。テロ

は 1958年国際女性法曹学会大会で、同年の民法改正の限界性(夫権の維持)を指

摘するなど、海外法曹団体との関係を軸に活動した点が特色である(Telo, 2014)。1969年にはマドリードで同学会大会を主催した。以後、女性法曹学会、司法勉強

会委員らとの協議を重ね、民法、商法改正案を政府に提出、1975年 5月にはつい

に民法 57条夫権が廃止された 8。フランコ体制終焉以前に夫権を代表とする多く

の女性差別規定が廃止・改正されたことは民主化期の女性解放運動にとっても大き

な弾みとなった。

 1. 2. 2. 女性解放運動の萌芽

 他方、これまで妻や娘として従属的な立場に追いやられてきた女性も、その一部

は同じ境遇にある仲間たちとグループを結成して自立と解放のために立ち上がるこ

ととなる。1953年には内戦前の 1920年にクララ・カンポアモールとマリア・デ・

マエツ 9 によって組織された女子大学生協会(Asociación de Mujeres Universitarias)

が復活(Seseña, 2009, 377-379)、以後 1950年代にはオビエド大学やマドリード

大学などで学習グループが出現し、文化的な側面から女性の問題を取り扱った。

1960年にはカンポ・アランへ婦人 10 を中心とした女性社会学研究セミナーSES

8 同時に妻の自由な商業活動も認められ、外国人と結婚した女性も国籍を保持できるよ

うになり、居住地も夫婦間で決定することとなった。

9 クララ・カンポアモール(1888-1972)政治家、弁護士。1931年共和制憲法に女性参

政権を盛り込むことに尽力した。

 マリア・デ・マエツ(1881-1948)教育者。1915年女子学生寮を創立、女子教育に力を

注いだ。

10 カンポ・アランへ伯爵夫人(1902-1986)本名マリア・ラフィッテ。セビリアの貴族出

身の文筆家。

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M(Seminario de Estudios Sociológico de la Mujer)(Pérez del Campo, 2009, 311-312)が結成され、同夫人の自宅にて毎週勉強会が開かれた。リリー・アルバレス 11 な

どが参加した。当時のスペイン女性にアンケート調査を行い、彼女らの知的好奇心

や教育水準の低さを浮き彫りにした『女性は語る(Habla la Mujer)』(1967)など

を世に出した(Nielfa, 2003, 285)。

 ・MDM

 より政治的な使命を主とする女性団体が生まれたのは、若者や労働者を中心とす

る反体制運動が本格化した 1960年代半ばごろからで、その代表はその後の女性団

体のルーツとなった「女性民主主義運動(Movimiento Demócratico de Mujeres 以下

MDM)であった(Romeu, 2005, 73; Nash, 2004, 214; Arriero, 2016)。1965年に当

時非合法であったスペイン共産党(以下PCE)の女性党員や党員の妻や娘が中心

メンバーとなった。共産党の女性解放についての考えは、女性搾取の原因は資本主

義による階級社会にあるとし、独裁打破と社会主義革命の達成によって女性の解放

はもたらされるという、伝統的な社会主義婦人解放論を下敷きとしていた。

 共産党は 1960年の第四回党大会から打倒フランコのため、労働者だけでなく幅

広い階層と協力する方針を打ち出しており、大学生や地域住民とともに女性も勧

誘の対象とした。MDMは特に一般女性のリクルートを担った。その他に投獄中の

党員や家族への支援活動などを行っていたが、地域の一般女性が日常的に抱えてい

る物価上昇や保育所、下水道などのインフラ改善などの問題を扱ううちに、女性が

抱える問題に意識が向くようになる。(Romeu, 2005, 86; Moreno, 2014, 267; Arriero,

2016, 31)。母体団体が非合法であったことから水面下で活動をおこなっていたが、

1960年代後半にはマドリード、サラゴサ、アストゥリア、ガリシア、バレンシア

に拠点を持ち、1970年以降はアンダルシア、バルセロナ、エストレマドゥーラな

どほぼスペイン全域をカバーした(Arriero, 2016, 89-125)。この成功の要は、住民

会や主婦会等の合法団体とのコラボレーションであったといえよう。多くの研究者

11 リリー・アルバレス(1905-1998)スポーツ選手。作家。スペイン女性で初めてオリン

ピックに参加した(1924冬季スケート)。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

は、MDMが共産党員だけではなく異なる政治・思想信条を有する幅広い女性から

構成されていたことに注目している(Comabella, 2009, 253)。1964年の団体組織

法の制定にて、新団体の結成が合法的に認められたことにより、地域生活の向上を

モットーに各地に住民会や主婦会が作られたが、非合法政党を母体とするMDMも、

これらの合法団体を通して地域の一般女性たちに食い込み、その活動の場を広げて

いった(Romeu, 2005, 86)。このように当初は労働者女性だけが対象であったのが、

ブルジョア婦人やカトリック信者などの幅広い階層や思想の女性にも門戸が開かれ

た。そして今まで家庭が唯一の居場所であった主婦達にとっても、妻として母とし

て家族の生活を守るために私領域から一歩飛び出して他の女性たちと知り合う絶好

の機会となった。そこでは物価上昇などの生活問題の他、家庭や社会における女性

への抑圧についても自由に議論され、民主化以前における女性解放運動の準備の場

の役割を果した。

 1967年の国連女性差別撤廃宣言が刺激となり、同年夏には教育、就労、家庭に

おける性差別撤廃を訴えた「スペイン女性の権利のために」という意見書が 1500名以上の署名と共に政府に送られたが、その草案はMDMが中心となり、カトリッ

クやほかの団体と共同で作成したものであった(Arriero, 2016, 177-178, Comabella,

2009, 253)。そして翌年にはこれを下敷きとし、MDM初の行動計画(プログラム)

が発案された。そこでは教育、雇用、社会福祉、公民権、避妊具、離婚、市民婚、

公民権と多岐にわたる要求がなされたが、特に雇用における男女平等など社会的

な権利獲得に重点がおかれた。アリエロはその特徴を、1960年代の欧米にみられ

た第二波フェミニズムの影響は少なく、1930年代の古い社会主義女性解放思想に、

ボーヴォワールとフリーダンの理念が加えられたものとした。女性のからだやセク

シュアリティなどラディカルフェミニストがもたらした新しい視点に関しては、避

妊の合法化のみが唯一とりあげられ、中絶や快楽としての性には触れられなかった

(Arriero, 2016, 182)。1968年にはマドリードにて機関誌『女性と戦い(La Mujeres

y la lucha)』がオビエドには『女性の世界(El Mundo Femenino)』が非合法で出版され、

啓蒙活動の一角を担うこととなる(Romeu. 2005, 79)。

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 1. 2. 3. 第二波フェミニズムの影響

 MDMを舞台にスペインの女性解放運動の萌芽がみられた 1960年代後半、欧米

諸国では第二波フェミニズム運動が発生した。19世紀末から 20世紀初頭にかけて

の参政権運動など法改正による男女平等の市民権や女性の地位向上を求めた第一波

のリベラル・フェミニズムに加えて、従来それまで政治の領域と認識されなかった

家父長制、セクシュアリティ、家事労働などの私領域における女性の抑圧を問題視

し、女性の解放のため制度のみでなく社会慣習の根本的な(ラディカルな)変革を

目指したラディカル・フェミニズムが出現、「個人的なことは政治的なこと」が第

二波のスローガンとなった。

 その背景として、1960年後半の米国のベトナム反戦運動やパリの 1968年五月

革命、そして日本の全共闘などの新左翼運動の興隆とそこからの分化、核家族化や

離婚の増加、高学歴化と労働市場進出による女性の社会や政治的関心の向上が挙げ

られる(Nash, 2004 他)。

 また第二波フェミニズムの支柱となった海外の著作の数々も、1950年代からフ

ランコ体制の検閲の網の目を潜り抜け国内に入ってきたが、その思想は女性知識人

によって段階的に紹介されることとなる。例えば「女に生まれるのではない、女に

なるのだ」と女性のありかたは生まれつきのものではなく男性を主体とする社会か

ら「他者」として与えられたものと明言したボーヴォワールの『第二の性』(1949)はカトリック教会から禁書とされていたにもかかわらず、原書やアルゼンチン版

(1952)が国内にて秘密裏に流通し、メルセデス・フォルミカやカンポ・アランヘ

伯爵夫人(マリア・ラフィッテ)など女性知識人に大きな影響を与えることとなる。

アランへ婦人は自著『男性と女性の秘密の戦い 12』の第二版まえがき(1950)に

て、ボーヴォワールの「女性は他者化された性である」という考えを高く評価した。

フォルミカも 1950年の同書の書評の中で女性の就職差別の観点を中心に社会規範

による性差別の撤廃に賛同した(Nielfa, 2003, 275-276; Ruiz Franco, 2007, 50-51)。1968年にはカタルーニャ語版も出され、『カタルーニャの女性』13(1966)の著者、

12 ALANGE, CAMPO, María, La secreta guerra de los sexos, 1948.

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

マリア・アウレリア・カプマニーがプロローグを担当した。

 またアメリカ中産階級の主婦の社会からの疎外感、家庭内の抑圧、個人の人生プ

ロジェクトの欠乏などの「名前のない不満」に注目した、ベティ・フリーダンの

『女らしさの神話』(1963年)(邦題『新しい女性の創造』)も 2年後にスペイン語

に翻訳され 14、そのまえがきを書いたリリー・アルバレスは「なぜここ(スペイン)

では名前のない不満がでないのか。その困難で危険に満ちた意識の覚醒の訪れが

遅れている証といえよう」と国内の女性の認識不足を指摘した(Nielfa, 2003, 282-

283)。

 1975年フランコ没後は、検問制度も解体したことからあたらしい思想の導入に

勢いがついた。家父長制の概念をもちいてこれまで不問にされてきた私的領域にお

ける女性の抑圧にメスを入れたラディカル・フェミニズムの「経典」とされるケイト・

ミレット『性の政治学』(1969年)も、1975年メキシコにてスペイン語訳が出版

された 15。また人工妊娠による女性の生殖からの解放を訴えたシュミラス・ファイ

アーストーン『性の弁証法』(1970年)が 1976年に 16、世界中で翻訳された女性

自身の手による女性のからだと生殖のてびきである『私たちのからだ、私たち自身』

ボストン女の健康の本集団(1970年)も 1978年にスペイン語普及版が出版され

た 17。 一方、家父長制の下での妻の家事労働は不払い労働で夫からの搾取である

ことに注目、女性は 1つの階級を構成するとしたフランスの唯物論的フェミニスト、

クリスティーヌ・デルフィの著作 18 も、リディア・ファルコンらラディカルフェ

ミニストたちの参考となった(Larumbe, 2004, 250)。 このようにして1970年代中盤までに海外の第二波フェミニズムの主要な著作は、

13 CAPMANY, María Aurèlia, La dona a Catalunya: consciència i situació. Barcelona: Ed. 62, 1966. 14 FRIEDAN, Betty, La mística de la feminidad, Barcelona: Sagitario, 1965. 15 MILLETT, Kate, Política Sexual, México, Aguilar, 1975. 16 FIRESTONE Shulamith, La dialéctica del sexo: en defensa de la revolución feminista, editorial Kairos, 1976. 17 TABOADA, Leonor, Cuaderno feminista Introducción al Self Help, Barcelona: Fontanella, 1978.18 DELPHY, Christine, The Main Enemy, W.R.R.C.P., London, 1977; Por un feminismo materialista, La Sal, Barcelona, 1982.

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国内にも一通り輸入されたが、ニエルファはこれらがスペインの状況分析のための

良い参考書となった点と併せて、国内独自の状況も女性たちに現状把握を促し執筆

に向かわせたと指摘している(Nielfa, 2003, 290)。

 そしてスペイン女性たちも海外から一方的に知識を受け取るだけではなく、自分

達の言葉で自国の女性が日々直面している問題に取り組んだ。特に 1960年中旬に

かけて多くの重要な著作が出版された。

 アランへ婦人は、1964年に民主化以降のスペイン女性史研究の礎となった『ス

ペインの女性、その百年の歴史 1860‐1960』を執筆し、リディア・ファルコンも

法律専門家の立場から労働、民法、そして政治における女性の立場を分析した三部

作 19 を出した。そしてマリア・アウレリア・カプマニーはカタルーニャ地方の独

自な視点からの女性の歴史『カタルーニャの女性』を上梓した。彼女らはボーヴォ

ワールやフリーダンなどの海外の著作だけでなく、フランコ体制の教育で無視され

ていた 19世紀末から 20世紀前半に活躍したスペイン人フェミニストたちの功績

の再評価を唱えた。

 これらの著作は実用的な女性解放の方法理論というよりは、フランコ独裁政権下

における女性抑圧の制度やその歴史を扱ったものが大半であったが、フランコ体制

の下、教育や情報へのアクセスが限られていた多くの女性にとって、現状認識のた

めの材料となり、民主化期の女性解放運動の展開にも大きな指標を与えたと考えら

れる。

2. 民主化期のフェミニズム運動の誕生と発展(1975-1979)

 1960年代からアメリカやヨーロッパを中心に起こった第二波フェミニズムの影

響を受け、多くの国において女性差別撤廃を求めるウーマンリブ運動が社会現象と

なった一方で、国際機関を舞台としたグローバルな展開も見られた。1975年には

国連女性年が開催され、その後の 10年を「女性の 10年」(1975-85)と定められた。

19 FALCON, Lidia, Los derechos laborales de la mujer, 1963; Los derechos civiles de la mujer, 1965, Mujer y sociedad, Análisis de un fenómeno reaccionario, 1969

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

また 1979年には国連第 34回総会にて「女性差別撤廃条約」が採択、以後女性差

別撤廃にむけた国際的な動きが活発化した。このように 1970年代後半、男女平等

の実現は世界的な共通目標となった。その方針は欧州経済共同体(EEC)にも受

け継がれ、1975年から「男女同一賃金」や「雇用・昇進」などの男女均等待遇に

関する指令を出し、加盟国はそれらの指令を国内法に取り入れる義務を負うことと

なった。

2. 1. フェミニズム運動の組織化の試み 

 2. 1. 1. 1975年 国際女性年とマドリード全国集会

 1975年の国連国際女性年の開催と、同年 11月フランコ没からの民主化へのう

ねりは、これまで水面下で行われていたスペインの女性解放運動にとって大きな転

機となった。そして欧米よりかなり遅れるかたちで到着した第二波フェミニズムの

思想も運動の現場に生かされることとなる。国際女性年世界会議の公式会議(1975年 6月- 7月、メキシコ)にはファランヘ女子部の参加が決定されていたが、10月の非公式会議(ベルリン)への参加 20 や国内関連行事の企画の準備を大義名分

とし、女性団体による集会や催し物も大目に見られるようになった。例えばリディ

ア・ファルコンらラディカルフェミニストらはバルセロナに国連友の会(Asociación

de Amigos de la ONU)に参加し、女性の問題に関する講演会や勉強会などを企画す

るなどその後の活動の足場を固めた(Falcón, 2009, 36)。またマドリードでも 1974年末にMDMやSESM、大学生女性団体、各地域の主婦連や住民会、カトリック

団体を含む女性らの準備組織が結成され、翌年 2月の国内の開会行事に記者会見

を行い、ファランヘ女性部が公式行事の組織運営母体に選出されたことを批判し、

体制下の法や社会的な性差別により女性の社会進出が妨害されていることを世間に

訴えた(Larumbe, 2004, 59; Comabella, 2009, 254-256)。

 1975年の女性年の後も、その準備に関わった女性たちは継続して啓蒙活動を続

20 MDM を中心に計 13人が参加した。(SALA, Mary y COMABELLA, Merche(coord..) “Asociaciones de mujeres y movimiento feminista” en Españolas en la Transición, Biblioteca Nueva, Madrid, 1999, pp. 89, 90-91 (cit. en Varela, 2008)

齊 藤 明 美

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けた。民主化をきっかけに、これまで政治の主体とならなかった学生、政党、労働

者と共に時代の変化を敏感に察知した女性たちは団結し、様々なバックグラウンド

を持つ多様なグループが生まれることとなった。

 既存、新規ともこれらの団体は街頭運動や集会、言論、出版などの分野で個別に

活動していたが、政府や世間に向かって女性たちの要求をより強く効果的に主張す

るために、国内の運動家が一堂に会する全国集会が 1975年を皮切りに開催された。

ここではこれらの集会を通して女性たちの間でどのような議論が交わされたのか、

またその達成点と歴史的意義を考察していきたい。

 この全国集会の先駆けとなったのは 1975年 12月のウーマンリブマドリード集

会で、民主化期初のイベントとなった。この集会は前出のMDM 21 を中心に計画

されたが、フランコ没直後という事情からその開催は秘密裡に組織、実施された

が、半非合法という性質にも関わらず会場にはMDMの他、全国各地からカトリッ

ク信者、社会主義者からラディカルフェミニスト、多種多様な個人、団体、地域の

約 500名の参加がみられた(Nash, 2004, 215; Larumbe, 60, 2004)。 モレノによると、 終議決文のねらいとして「自らの女性として抱える問題を明

らかにするため、また一人の人間として、恩赦、集会、結社及び表現の自由の権利

や民主的に選ばれた政府の確立のためにも、民主主義にもとづいた自由の獲得を目

指す必要がある。」と明記されたとおり、具体的にはフランコ没直後であったことと、

国内のフェミニズム運動の未成熟から、その要求の大部分は政治や法改正に関する

ことが占めたという。そしてその結論部分では「女性解放のために結社、集会、表

現、ストライキ、デモ活動における重要な民主的権利の早急な回復、そして政治犯

や女性の罪人(姦通罪、堕胎、避妊の罪、売春犯など)の恩赦を求めたという 22。

21 1974年から従来の名称の後ろに「ウーマンリブ運動」(Movimiento de Liberación de la Mujer) を付け加え MDM/MLM となった。(Arriero, 2016, 184; Nash, 2004, 215)22 Primeras Jornadas Nacionales por la Liberación de la mujer, Conclusiones, Madrid, diciembre 1975 (cit. en Moreno, 2012, 90-91)

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

 2. 1. 2. 1976年 カタルーニャ集会

 その後も多種多様な団体が続々と生まれ、1976年 5月にバルセロナにて初のカ

タルーニャ女性集会が公式に開催された。同年 5月に政治結社法が施行され、共

産党以外の政党、団体の合法化が認められ新しいグループも誕生したことから、会

場となったバルセロナ大学にはカトリック団体を中心とする保守派からラディカ

ル、社会主義者、地域団体など、より多角化、拡散化したグループに所属する幅広

い層の女性たちが一堂に会した。出席者は前回をはるかに上回る 3000~ 4000人となり、名実ともにスペインのフェミニズム運動拡大期を象徴する大会となった

(Folguera, 2007, 168; Nash, 2011, 290)。この集会にも参加したリディア・ファルコ

ンは初期の参加団体の特徴として政党に関係した団体以外はまだその歴史は若くま

だ形成段階にあったと述べている(Falcón, 2009, 36)。一方、参加者増と団体の多

様化はグループ間の方針の違いや意見の対立を増長する要因となり、特にマドリー

ド大会から内在していた社会主義フェミニストを中心とした女性解放運動と労働運

動など党の活動を並行して行う兼任派(Doble militancia)と、ラディカルフェミニ

ストを中心とした専任派(única militancia)の間の溝が明確化した(Folguera, 2007,

168; Nash, 2011, 293-294)。 モレノは、このカタルーニャ集会にて政治参加による女性の権利獲得を目指し政

治権力との関係を厭わない兼任派と、政治権力を家父長制の象徴として拒絶する専

任派の論争が、オープンに提起された点に注目している(Moreno, 2012, 91)。話し

合いを重ねた末、政治、経済面など公的領域における女性差別の撤廃のみでなく避

妊具の保険適応、中絶、離婚、セクシュアリティなどこれまで扱われることの少な

かった女性のからだや性生活に関する事柄を含む幅広い内容の決議声明を発表する

までにいたった。これは「個人的なことは政治的なこと」に代表されるラディカル・

フェミニズムの思想がスペインにおいても浸透しはじめた表れといえよう。

 これらの全国集会について多くの研究者はポジティブな意見を述べている。例え

ばナッシュはグループ間の違いはあったものの、それをのりこえて平等主義にのっ

とった新しい政治文化の構築のため共同声明を出したことを評価している(Nash,

2009, 73—78)。またアリエロは、これらの集会を通してスペインの多様なフェミニ

ズムが顔をそろえ、その構成員一人一人がその違いを超えて、女性解放という一つ

齊 藤 明 美

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の運動に属することに納得し始めた点を評価し、この多様性こそがスペインフェミ

ニズムの強みにも弱点にもなったとした(Arriero, 2016, 204)。

2. 2. 多様なフェミニズム団体「たくさんの枝を持つ一本の木」

 1977年 2月 25日のインフォルマシオネス紙には「スペインフェミニズム運動に

は大小合わせて 200の名称がある」という記事が載り、また 1977年 2月のエル・

パイス紙にも「フェミニズム団体<辞典>」という特集が組まれた。両者におい

て国内の代表的な団体の説明がなされたが、このような大々的な取り上げ方は、あ

る意味、民主化期における女性団体の「分かりづらさ」の表れと考えられよう 23。

200という数字はもちろん大げさであろうが 24、1975年以降のスペインにて多種

多様なフェミニズム団体が現れたことは事実である。民主化期におけるスペイン

のフェミニズム運動は、ラルンべが「たくさんの枝を持つ一本の木(Un árbol de

muchas ramas)」(Larumbe, 2004, 69)と例え、ナッシュもその特徴を「様々な方向

性と内部闘争から構成される多様な運動」(Nash, 2004, 217)と指摘したとおり、

それらの多くの団体が入り混じりながら短期間で生成、分裂したことが運動の全体

像を把握することを非常に困難にしている。

 ここではそれらの団体の特徴について分析してみたい。この点に関して理解を深

めるために、先行研究におけるグループ分けを参照したい。研究者によって多少の

違いは見られるものの、総体として女性解放運動を唯一の目標とするかしないかを

指標として、社会主義フェミニストを中心とする兼任派とラディカルフェミニスト

の専任派を軸に、2ないしは 3つに区分されている 25。本稿では先行研究を参考に、

23 El País, (1977-2-17)(http: //elpais. com/diario/1977/02/17/sociedad/224982013_850215. html 閲覧日 2016年 9月 21日)

24 ラルンべは 1987年の女性研究所のカタログにて紹介された 600の女性団体のうちの

60がフェミニズム団体を自称していると紹介している。(Larumbe, 2004, 70) 一方、ナッ

シュは雑誌『フェミニズムの要求』(Vindicación Feminista)、1978年 7月号の付録に全国の

77のフェミニズム団体が紹介されていると述べている(Nash, 2004, 223)25 主な研究者の分類は以下の通りである。フォルゲーラ:①階級闘争系 ②ラディカル

系(Folguera, 2007, 167)。サルダとラルンベ:①法改正(MDM)系 ②社会主義系 ③ラ

ディカル系(ファルコン)(Moreno Saldad, 2007, 24-25; Larumbe, 2004, 57—58)。モレノ:

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

反体制運動から生まれた社会主義系グループの兼任派と、後発のラディカルフェミ

ニズムグループの専任派を、大きな 2つの潮流ととらえることとする。

 2. 2. 1. 社会主義フェミニズム

 当時の急激な社会、政治、経済の変容は女性運動のありかたに影響を与えた。社

会主義フェミニズムはフランコ没前の反体制運動における左翼団体から派生した

が、その大部分は共産党、社会労働党、労働組合などの活動を掛け持ちしていたこ

とが特徴的である。

 社会主義派の女性たちは、女性の要求を労働者の要求に組み込むため、マルクス

主義の再検討を試みることとなる。従来は、女性解放のためには資本主義からの労

働者の解放を目的とする社会主義革命を大前提と唱えた社会主義婦人解放論をベー

スとしていたが、そこにラディカル・フェミニズムの家父長制による抑圧の理論を

導入し、真の女性解放のためには資本制と家父長制の両方の撤廃が必要であると

いうような理論の刷新を試みた。またその批判は各政党における女性党員の差別的

な扱いにも向いた。そして「女性解放のために社会主義は必要だが十分条件ではな

い」という結論にたどり着き、党活動の他に女性解放のための独立した運動を並行

して行う必要があると考えた(Moreno, 2012, 90)。このマルクス主義に性差を導入

したマルクス主義フェミニズムは、1970年代のアメリカを中心として発展したが、

民主化期のスペインにおいても大きな影響を及ぼしたといえよう。だがスペインの

場合は資本主義、家父長制の撤廃の大前提として、フランコ独裁体制の打破と民主

主義の確立が緊急の課題と捉えられていたことが特徴である。(Larumbe, 2004, 57—58)。 彼女等は所属政党を批判するだけでなく、その連携を 大限に活用し、時には圧

力団体として要求を党の行動計画に盛り込み、政治的プロセスによる男女平等の獲

得を目指した(Moreno, 2012, 87)。

①民主主義確立を求めた兼任派 ②政治権力、政党との協力を否定 専任派(Moreno, 2012, 86)。アウグスティン:①社会主義系 ②ラディカル系(ファルコン+独立系)

(Augustín, 2003, 15)。

齊 藤 明 美

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 そして民主化が始まった 1975年以降、多種多様な社会主義系の女性団体が生ま

れたが、それは 1960年代から存在している前出のMDMと、1975年以降に生ま

れた新しい団体に二分できよう。

 MDMについては、従来の研究では「民主化期フェミニズム運動の前史」に位

置づけられ、1975年以降は軽視される傾向にあったが、 近の研究ではMDMの

民主化期の働きが再評価されている(Arriero, 2016, 18; Nash, 2011, 289; Comabella,

2009, 236)。MDMも 1976年に「女性自身のからだをコントロールする権利」と

いう文書にて避妊具と中絶の合法化は民主主義の下保障されるとし、セクシュアリ

ティの視点からの女性解放にも注目した 26。MDMは、その門戸をブルジョア層に

も解放し、また法改正による女性の権利獲得を目標としたが、真の労働者による社

会革命を目指した女性の中には、MDMを脱退して以下の新しい団体に加わった者

もいた。

 以下、簡単に社会主義系の主な団体を紹介してみよう。

 ・FLM(ウーマンリブ戦線 Frente de Liberación de la Mujer)

 ブルジョア的な民主主義の確立は女性解放にとって不十分であり、社会主義の

導入を不可欠と考えた女性たちにより、1976年 1月「ウーマンリブ戦線」 (代表

Jimena Alonso)が結成された。彼女らは家父長制と資本主義に反対を唱え、社会主

義を女性解放達成のための必要条件とした。民主主義における自由の獲得を緊急

課題としたが、中期的な目標として女性犯の恩赦、同一労働同一賃金、教育、労働

における男女平等や文化的、社会的な女性抑圧の解消を掲げた。(Nash, 2004, 224;

Augustín, 2003)しかし要求の内容はMDMと基本的に同じであり、また政党から

独立した形であれば女性運動とのかけもちを許容した。主なメンバーに後の女性研

究所の初代所長となるカルロータ・ブステロ、大学教授セリア・アモロやニエルフ

ァなど 80年代のフェミニズムをけん引する人物が数多く含まれていたことが特徴

である。

26 Asociación Democrática de la Mujer: La mujer y el derecho a controlar su propio cuerpo. Madrid 1976 (cit. en Moreno, 2012, 93-94)

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

 ・ADM (女性民主主義協会 Asociación Democrática de la Mujer )

 PCE、PSUCから分離した毛沢東思想をベースにするスペイン労働党(P

TE)と労働者革命機構(ORT)の女性党員を中心に、1976年 5月にADMが

設立された。彼女らは、女性の抑圧は経済・政治・社会的な要因から生じるとし、

よって社会主義の達成は女性解放の必要条件と考えた。地域の住民会や婦人会と

連携した点はMDMと共通している。一時的に機関紙『フェミニズム広報(Gaceta

Feminista)』を発行したり、民主化運動の女性団体をまとめたフェミニズム団体連

盟(FOF, Federación de Organizaciones Feministas)(1977)を組織したが、PC

EとPTEの争いや、PTEの解散、資金不足などの問題により 1979年に短い

活動を終えた。一方、1977年ORT系のメンバーはADMを抜け、女性解放のた

めのユニオン(ULM , Unión para la Liberación de la Mujer)を結成した(Larumbe,

2004, 74; PÉREZ DEL CAMPO, 2009, 320)。 その他、共産党系の労働組合のスペイン労働者委員会(CC . OO . )や、共産

党、スペイン労働社会党などの政党の内部にも女性問題を扱う専門部署が誕生した

が、それについては後で触れることとする 27。

 2. 2. 2. ラディカル・フェミニズム

 民主化期のフェミニズム運動の中で一角をしめたのはラディカル・フェミニズム

であった。社会主義フェミニズムが政治権力や法律制度とリンクして男女平等の社

会を目指した一方、彼女らはセクシュアリティ、家事労働、家父長制という新しい

概念をキーワードとして、男性が支配する政治権力を否定した。そして真の女性解

放は法律や既存の政治体制によってのみ達成されるのではなく、家父長制という

根本的な性支配の変革を必要とすると訴えた。そのため社会主義系グループとは異

なり、既存政党の活動との掛け持ちはせず、女性解放の問題に専念した(Moreno,

2012, 90; Nash, 2004, 224-225; Amorós, 2009, 194)。その活動は 1970年代から本

格化したが、それは欧米からの第二波フェミニズムにおいて誕生したミレット、フ

ァイアストーンやデルフィーらのラディカル・フェミニズムの潮流 28 のスペイン

27 また共産主義運動MC(Movimiento Comunista)や極左の革命的共産主義同盟LCR(Liga Comunista Revolucionaria)も女性組織を持った(Pardo, 2007, 207)。

齊 藤 明 美

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での浸透の反映といえよう。具体的にはデルフィーの唯物論的ラディカル・フェミ

ニズムの系譜を引くリディア・ファルコンのグループと、アメリカの意識覚醒グル

ープ活動をモデルとする 2つの流れに分けられるが、スペインでは前者の方が主

流となった(Augustín, 2003, 15, 139)。

 ・唯物論ラディカル・フェミニズム(リディア・ファルコンのグループ)

 リディア・ファルコンを中心としたラディカルフェミニスト達も、前出の社会主

義フェミニストとともに民主化期のウーマンリブ運動にて重要な役割を担った。た

だしその性質は実践と反省の繰り返しにより少しずつ形を整えていった。

 まずファルコンは有志と一緒にバルセロナ・フェミニストコレクティブ(El

Colectivo Feminista de Barcelona)を 1975年に結成した。1977年にはそこから分離

する形で革命フェミニズム機構(OFR, Organización Feminista Revolucionaria)を、

そして 1979年にはスペインフェミニズム党に新しく生まれ変わった(Larumbe,

2014, 304)。国内外の様々な状況にあわせ、変化し続けてきたことが大きな特徴と

いえる。2016年 10月現在、80歳をむかえたファルコンは、今もフェミニズム党

の党首として、また弁護士、作家としてもメディア出演、執筆、講演会等、精力的

に活動を続けており、名実ともにスペインを代表するフェミニストとなった。

 ここでファルコンのフェミニズム運動との関係を検討する前に、民主化期以前の

彼女の軌跡を追いたい。1935年 12月、マドリードの共和主義者の家庭に生まれ

た彼女は、戦後「敗者の娘」として貧困と差別を体験した。若くして結婚、出産、

離婚を経験した彼女は、生計を立てるために教員、ウェイトレス、事務員などの仕

事についたが、その傍ら、演劇研究所やバルセロナ大学法学部、ジャーナリズト養

成所で学んだり、小説、新聞記事、戯曲の執筆に従事した。1959年にパートナー

となったエリセオ バヨの影響で共産党系のカタルーニャ統一社会党(PSUC) に

入った。女性や労働者の問題を扱う弁護士や執筆業の傍ら、1963年から正式な党

員(militante)として政党活動に励んだ。だが内部の女性差別や革命路線の放棄に

28 デルフィーは、家父長制の生産様式における夫による女性の家事労働の搾取に注目し

て女性は一つの階級となると主張。 ファイアストーンは、出産、育児などの再生産を基盤

とし、男女を異なる「性の階級」と認識した。(ピルチャー , 2004, 24)

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

疑問を抱いたファルコンは、1968年に離党、その後、前出の国連友の会に参加し

女性の権利部会長として活動した。1974年には仲間とバルセロナにて国際フェミ

ニスト会議を準備していたがその矢先にマドリードのコレオ通りのテロ事件の容疑

で 9ヶ月拘禁された。出獄後はフランコ没後の民主化の機運が高まる中、女性解

放運動にまい進、1975年にバルセロナにてバルセロナフェミニストコレクティブ

を組織するに至った(Falcón, 2003, 2009, 2012)。これらの経歴から読み取れるこ

とは、ファルコンが非常に理論と実践のバランスのとれた人物だということである。

 このコレクティブ(共同体)運動はスペインだけでなく、日本を含む 1960年代

後半から 70年代にかけてのウーマンリブ運動 29 においてみられた形態である。従

来の男性的なピラミット型の上意下達組織と異なり、小グループのフラットな集ま

りでの気軽な話し合いという性質から、女性の会合に非常に適していた。このコレ

クティブの活動は 1960年代後半からマドリードとカタルーニャを中心としてその

萌芽は見られ始めた。そして 1975年 12月のマドリード全国集会に、マドリード

のコレクティブセミナー(同年 9月誕生)とバルセロナ(同年 12月誕生)のコレ

クティブが参加したことをきっかけとし、その後、バレンシアやセビリア、オビエ

ドなどの 6つの地域でも組織化が進んだ 30。

 ファルコンのバルセロナコレクティブは、女性は家内労働により男性に経済的に

搾取・抑圧されている一つの階級である、というデルフィーの考えを礎に、兼任を

認める社会主義系とは異なり女性解放を唯一の目標とし、男性から女性の手に権

力を奪い取る政治的な闘争をめざしたことが特徴である。またその組織については

リーダー不在の水平的な運営を図った(Augustín, 2003, 141)31。ファルコンらは

29 西村 光子『女(リブ)たちの共同体(コレクティブ) 七〇年代ウーマンリブを再読す

る』社会評論社、2006年30 オビエド、カステジョン、セビリア、イビサ、バレンシア、バルセロナ、マドリード。

マドリードの責任者はクリスティーナ・アルベルティであった。アルベルティは 弁護士で

女性初の司法評議会の理事となった。1993年から 1996年まで 社会問題大臣。1995 北京

女性会議にて EU スポークスマンを務めた。

31 その後ファルコンはフェミニスト党の理論の集大成となった『フェミニズムの根拠

(Razón feminista)』を執筆した。

齊 藤 明 美

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1976年に『フェミニズムの要求』(Vindicación Feminista)という戦後スペインで初

のフェミニズム専門月刊誌を発行、国内外のフェミニズムの運動、思想および民主

化プロセスの経過を資金切れになる1979年まで国内のスペイン女性たちに伝えた。

さらに 1976年のバルセロナのカタルーニャ女性集会の会場では、男性の参加を非

難するなど波紋を呼んだ。ラルンベはファルコンの女性の性的経済的な搾取者とし

ての男性像を、ミレットやファイアストーンの影響のあらわれとみている(Larumbe,

2014, 307)。

 一方、マドリードコレクティブセミナーは、ファルコンらが女性抑圧の原因を男

女の身体的な差を軽視し、経済を軸とする唯物論的な考えに限定したこと、政治と

女性解放を結びつけたことを批判した。そして唯物論フェミニズムに賛同する者

らは、そこから分離して新たにマドリードコレクティブを結成するなど、グループ

の分化が進んだ(Gahete, 2015)。またバルセロナ・コレクティブ内部でも、ファ

ルコンの方針に賛同しないメンバーも存在した。彼女らは政治にコミットするこ

とを否定し、女性のからだやセクシュアリティなどの個人的な問題に力点を置い

た。そして 1976年コレクティブから独立、「反権威主義の自立した女性」(LAMAR

Lucha Antiautoritaria de Mujeres Autónomas)を結成した。(Larumbe, 2014, 309)。一方、

1977年にはファルコンとその仲間は、新団体の革命フェミニズム機構を立ち上げ

た。

 ファルコンは新団体では、水平的な関係が逆効果となり組織の統制が取れなかっ

たコレクティブ時代を反省し、組織の形についてはリーダーを頂点とする従来のピ

ラミット型に戻した。この切り替えの早さは、ファルコンの型にはまらない柔軟性

と、試行錯誤を重ねてより良いものを作り上げようとする実践的な性質を示してい

るといえよう。

 そして 1979年にはこれまでの女性解放運動による法律や社会の変革という目的

から一歩進んで、スペインフェミニスト党という女性だけの政党を結成(1981年合法化)し、女性の権利獲得のための政治へのコミットへと本格化に乗り出した

(Nash, 2004, 225; Larumbe, 2014, 309)。数ある団体の中で政党へ推移したのはファ

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

ルコンらだけである。党の基本方針は大筋コレクティブ時代と同様、ミレット、フ

ァイアスト―ン、デルフィーの思想を掛け合わせたもので、女性は男性から経済的

に搾取された一つの階層であり、女性の解放のためには全ての女たちは力をあわせ

て男性優位の社会を変革しなければいけない、というものであった。党員数はおよ

そ 100名で、バルセロナの他、マドリード、バスク、バレンシアに地方センター

を構えた。(Larumbe, 2014, 310)。また出版・言論・文化活動も活発であり、1979年には機関紙『権力と自由(Poder y Libertad)』を発行し、党の理念を広めた。ま

た翌年にはバルセロナに、廃刊した雑誌の名前をとった「フェミニズムの要求」ク

ラブという文化センターを設置した。そこは女性たちに自由に意見交換できる「居

場所」を提供しただけでなく、法律や心理カウンセラーによる相談や、家族計画な

どの悩み相談や、文化活動やコンサートなど様々な役割を担った(Larumbe, 2014,

314)。

 選挙戦に関しては、党として独自の候補者を擁立できなかったが、1979年の

総選挙ではエンパル・ピネダのカタルーニャ共産主義運動(MC , Movimiento

Comuniste Catalunya)を支持し、また 1980年カタルーニャ議会初の民主選挙では、

MCなど左翼政党の女性たちに声をかけ、フェミニスト連合(Front de Dones)の

組織を提案、共同して女性の権利に主眼を置いた選挙マニフェストを作成した。当

時まだフェミニスト党は政府から認可が下りていなかったので、党員から候補者を

出すことはできなかったが、代りにこのマニフェストを採用した BEAN というグ

ループを応援した。結果として議席を得ることはできなかったが、ラルンベ等は

民主化後初めてフェミニストによるマニフェストが世に問われた点を評価している

(Larumbe, 2014, 311; Augustín, 2003, 147)。 また 1978年の憲法にて達成されなか

った離婚法や中絶合法案の成立のため、街頭デモ宣伝や出版物や講演会などの啓蒙

活動の他、フェミニスト団体の連名による政府への離婚法案の提案に参加するなど、

法改正の面でも大きな役割を果たした。

 ・女性の身体への意識覚醒運動(CR運動)

 フランコ時代は、カトリックや伝統主義の影響もあり、大っぴらに身体やセクシ

齊 藤 明 美

- 80-

ュアリティを語ることはタブーとされていた。避妊法も法律上認められていなかっ

たので、危険な堕胎による死亡事故が多発していた。一方、欧米ではボストンを発

祥とするセクシュアリティに関する意識覚醒運動が広まっていたが、スペインにも

紹介されたことは前章で触れたとおりである。

 特にこの運動に力を注いだのは、セクシュアリティと再生産の権利を重要視した

ラディカル・フェミニストたちであった。彼女らは、小グループにてスペクトラム

(膣鏡)を用いて自身の内部を観察したり、避妊具の使い方を学んだりと、自らの

からだを「アウトコンシエンシア(自覚)」し「アウトコントロール(自己コント

ロール)」する方法を広めた。特にこの少人数グループでの開催は、気心の知れた

メンバーとのふれあいの中で、一人ひとりが自分の殻を破り同じ境遇の女性たちと

問題や感情を共有するのに有効であった 32。活動の拠点はカタルーニャが中心であ

り、バルセロナの「自覚し自己コントロールする女性」(Mujeres de Autoconciencias

y Autocontrol)やバレンシアの「マジョルカ骨盤共同体」(Colectivo Pelvis de

Mallorca)などがあった。これらの団体は女性の出産、からだ、セクシュアリティ

の視点から、スペイン女性運動における新しいモデルとなった(Nash, 2004, 218)。しかしアウグスティンは、これらの運動は、セクシュアリティなど極めて個人的な

テーマに固執したことが災いし、グループ全体としての活動のモチベーションを欠

き、それが弱体化につながったと分析している(Augustín, 2003, 15)。

 2. 2. 3. その他

 ここまでフェミニズム運動と党活動の兼業を認める社会主義フェミニズムと、そ

れを認めないラディカル・フェミニズムに二分し、民主化期の女性団体を概観して

きたが、その他にも職能集団、地域団体などの様々な団体が存在した。以下代表的

なものを紹介する。1974年に結成された全国別居女性協会(ANMS)は、社会

面法律面で女性としてだけではなく、離婚者という二重の差別を受けていた妻の権

利を擁護する活動に取り組んだ。1971年には、マリア・テロによって女性法律家

協会(Asociación de Mujeres Juristas)が組織され、法律専門家集団の立場から法の

32 FLM など社会主義系の団体の一部も同様の活動を行っていた。(Arnedo, 2009, 222)

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

下の男女平等を目指した。カタルーニャやバスク地方では地域ナショナリズムに基

づく女性団体が出現するなど多種多様なグループが生まれた。

2. 3. 協力体制と言論活動

 2. 3. 1. 世話役会の誕生

 ここまでバルセロナ集会以降の 1976年から、さらに多様な団体が誕生しそれぞ

れ独自の活動を行ってきた様子を概観してきた。しかしいつも個別に活動している

わけではなく、法律改正や選挙戦などの大きな目標のために時には協力しあうこと

もあった。1975年国際女性年での協力体制はその一例であった。そしてマドリード、

バルセロナ、バスクなどに地域別の意見集約、調整を受け持つ世話役会が現れた。

 バルセロナには 1976年に「フェミニストコーディネーター」(Coordinadora

Feminista)が作られ、カタルーニャにある団体のまとめ役となった。またマドリー

ドにも「女性団体プラットホーム」(La Plataforma de Organizaciones Feministas)が

結成され、MDM、ULM、FLMなどの社会主義系団体の他、別居女性や法律

家協会、住民会などの独立団体も参加した。バスクでは主に地域ナショナリズムを

提唱する女性団体を中心とする「女性の自立的集団(アサンブレア Asamblea)」が

結成された(Folguera, 2007168-169)。ラルンベは、これらの「世話役」の乱立を、

スペインフェミニズム運動の多様性の反映と解釈したが、デモやキャンペーン、パ

ーティなどの共同開催、協力体制においては一丸となったとしている(Larumbe,

2004, 77)。

 2. 3. 2. 民主化期のフェミニズム出版事情

 第二波フェミニズムにとって、「運動」だけではなく「思想」も重要な要素であ

った。そして、ヴァージニア・ウルフの「女が小説を書こうとしたらお金と自分だ

けの部屋を持たなければならない」という言葉に沿い、スペインでも女性の問題を

専門に扱う書店や出版社が大都市を中心に現れた。1977年 5月にバルセロナにて

初の女性による女性のための書店「女性の本屋」(la Llibrería de les Dones)が登場

したのを皮切りに、マドリード、セビリア、サラゴサ、ビルバオなどにも同様の施

設が生まれ、本屋としてだけでなくフェミニストの集会場としての役割も果たした

齊 藤 明 美

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(Nash, 2004, 212)。なかでもカタルーニャは活発であった。1977年にバルセロナ

にできたラサル(LaSal)はフェミニズム関連の図書館と軽食店(バル)を兼

ねたもので、女性アーティストの展示会や演劇、音楽コンサートの他、フェミニズ

ム関連の講演会やダンス、絵画、文芸批評や講習会など幅広い文化活動が行われた。

また翌年には独自の出版社を立ち上げ、その「女性の手帳(la Agenda de la Dona)」

は 1990年まで女性の間で人気を博した(Katia, 2014, 88-90)。

 いくつかの女性団体も独自の雑誌を刊行した。例えば、リディア・ファルコンら

のグループの『フェミニズムの要求(Vindicación Feminista)』(1976-1979)と『権

力と自由(Poder y Libertad)』(1979~)、カタルーニャ地方のコーディネーターに

よる『戦いの中の女たち(Dones en Lluita)』(1977-1983)などがその代表として

挙げられる。

 一方、1977年くらいから、アギラルやプラサ・イ・ジャネスなどの大手の一般

出版社からも、メアリー・ウルストンクラフトやスチュアート・ミル、ローザ・ル

クセンブルグなど海外フェミニズムの「古典」が復刻された。それだけでなくケイ

ト・ミレット、ジュリエット・ミッチェル、マリア・ローザ・ダラ・コスタ、アリス・

ウォーカーなどの第二波フェミニズムの必読書も多く出版された(Larumbe, 2004,

161-162)。これは出版業界だけでなく読者の女性の問題への関心の高まりの表れ

といえるであろう。

3. 民主化プロセスとフェミニズム運動:1977年選挙と 1978年憲法

 ここまでフランコ没から民主化の始まりに至る期間までのスペイン国内における

フェミニズム運動の誕生とその組織化について概観してきた。この章ではこれらの

団体が実際の民主化プロセスの中で具体的に政治の主体としてどのように活動して

きたのか、特に 1977年の内戦後初の議会選挙と 1978年の憲法制定をめぐる問題

との関連を通して分析していく。

3. 1. 政党内における女性組織の誕生

 1977年の総選挙とその後の民主憲法の制定は、民主化の 2大政治イベントであ

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

ったが、そこに女性たちも社会の一構成員として参加することとなった。そしてフ

ェミニスト団体だけでなく、政党に所属する女性達も、新しいスペイン社会におけ

る女性の地位向上の達成のために戦うこととなる。

 1977年選挙の運動を発端として、左翼政党や労働組合を中心に、女性に関する

部署の組織化が始まった。1976 年まで消極的であったPSOEも、党内のフェミ

ニスト達の要請で「女性と社会主義(Mujer y Socialismo)」を発足させた。そこでは、

党外のフェミニズム団体FLMに所属する党員が中心となり、党内外の女性向け

に講演会や集会の企画、パンフレットの作成等をおこなった(Folguera, 2007, 174;

Larumbe, 2004, 76)。

 反体制運動の核であったPCEが、1960年代半ばからMDMに対して協力的で

あったことは前章でみた通りであるが、1970年代に入り、党内における女性の問

題への関心と取り組みは一層増した。特に 1975年の第二回共産党大会では、自

らを「女性解放を目指す政党」と呼び、党内外の性差別の解消の強化を目指した

(Moreno, 2014, 268; Arriero, 2016, 259; López, 2011, 308)。そこには 1977年総選挙

での女性票獲得という意図もあったと考えられる。1976年 5月に党内に女性専門

委員会が組織され、MDMで活躍したドゥルシネア・ベリドらが中心的な役割を果

たし、翌年 10月に党初の女性大会を開催した。そして同月、女性に差別的な法改

正だけでなく、これまでタブーとされていたセクシュアリティや避妊、中絶の合法

化に関する意見書を作成し、党内外の女性解放運動をけん引した(Moreno, 2014,

272-273)。

 共産党系の労働組合(CC . OO . )内にも女性問題委員会が作られた。この女

性委員会は、労働組合の立場から、主に雇用面に取り組んだ。特に同一労働同一賃

金の原則や女性の雇用促進に関心を寄せ、1980年 3月に制定された労働者憲章に

就職・昇進、労働条件、賃金などにおける性差別の禁止を盛り込むのに尽力した

(Folguera, 2007, 175; San José, 2009, 343-349)。一方、中道派で与党のUCDや右

派のAPにおいては 1980年代に入るまで同様の部局は組織されなかった(Folguera,

齊 藤 明 美

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2007, 173)。

 様々な困難や制約があったものの、これらの左翼系政党の女性たちは党内に「自

分だけの部屋」を獲得することにひとまず成功した。

 とはいえ政党内の女性団体の組織化は決して平たんではなかった。ロペスは、党

内全体に女性解放には社会主義革命が前提であるという考えが根強くあり、また党

内の多くの女性の役割は依然として伝統的性役割分担の枠組みに収まっていたと

述べ、女性の問題は党の利益より優先されなかったとその困難さも指摘している

(López, 2011, 308)。 フランコ時代は、「フェミニズム」や「フェミニスト」は反体制を連想させるも

のとしてマイナスのイメージが強かったが、民主化期の左翼政党内でも同じような

考えが横行していた。例えばPSOEの女性党員の中には「フェミニズム色」を党

内の昇進のためにマイナスになると恐れて「女性と社会主義」と距離を取るものも

いた(Folguera, 2007, 174)。一方党内の女性の間の分裂も見られた。低学歴で専門

的な職についていない者は、高学歴で女性運動に熱心な「フェミニスト」に反感を

もった。また多くの「フェミニスト」らは地域活動に見切りをつけて、大学や公的

団体などのより専門的な場に移ったりした。

3. 2. 1977年総選挙

 1977年 6月の 41年ぶりの民主選挙にて、上院、下院あわせて 500名以上の議

席が争われることとなった。もちろん女性も参加することとなる。なかでもアドル

フォ・スアレス首相の中道派の民主中道連合(UCD)、マヌエル・フラガを軸と

する右派の国民連合(AP)、フェリーぺ・ゴンザレスの中道左派の社会労働党(P

SOE)の他、同年 4月に合法化したサンティアゴ・カリーリョ率いるスペイン

共産党(PCE)の間で激しい選挙戦が繰り広げられた。社会主義系のフェミニズ

ム団体にとっては、選挙公約に自分達の要求を取り入れてもらう絶好の機会となっ

た。一方、政党側も人口の半分を占める女性票の獲得のため、党内に女性問題を扱

う専門部署を設置したり、女性解放運動を直接、間接的に支援した。

 1977年の選挙にむけ、左翼政党を中心として女性解放運動への取り組みが本格

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

化したが、それは選挙公約という形で具体化した。ここでは各党がどのような女性

政策を掲げたのか、またフェミニストたちの意見がどこまで取り入れられたかを考

察してみたい。フランコ体制の大きな特徴として、教育や思想面における伝統的な

カトリックの影響があげられる。特に離婚と中絶については教義上認められておら

ず、右派を中心とする宗教的な立場を擁護する側と、民主主義の自由と平等原則を

擁護する側とで意見の違いがみられ、大きな争点となった。と同時にこの 2点は

民主化期での国家カトリシズムから民主主義への新スペインの生まれ変わりの度合

いの指標となった。

 右派・中道グループの国民同盟(AP)や民主中道連合(UCD)は、女性の教

育、文化政策、家庭生活の保護を中心とする保守的な内容を掲げたが、離婚と中絶

の合法化には反対した。一方、社会労働党、共産党などの左派政党は、法律、雇用、

家庭、教育における男女平等の他、家事の社会化や離婚法、さらには産児調節につ

いても言及し、右派と比べフェミニストの要求がより多く反映されていたといえよ

う(Augustín, 2003, 276-277)。

 特に、離婚と中絶については各政党で意見の差が見られたが、投票先を決める際

に、女性たちにとってこの二点は大きなポイントとなった。

 この選挙公約を受け、各フェミニズム団体の間では、特定の党を支持するものか

ら棄権を呼びかける所まで、様々な対応の違いがみられた。社会主義系の団体は、

中絶や離婚などフェミニストの要求を取り入れた左派政党への投票を促した。一

方、ファルコンらラディカルフェミニストらは、選挙名簿の女性候補者の少なさや、

多くの女性候補者がフェミニズムの前提を崩して男性が作った公約に同意したこと

を批判し、投票の棄権を呼びかけた(Augustín, 2003, 277-278; Moreno, 2012, 94)。またカタルーニャ女性協会(La Asociacion Catanala de la Dona)のように「ただの

一票にはなりたくない」のスローガンのもと、女性問題に関する基本公約を各政党

に提案したところもあった(Moreno, 2012, 94)。

齊 藤 明 美

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 投票率 79%と国民の注目の集まったこの選挙において、中道のUCDが下院 350議席中 165を獲得し、スアレスUCD政権が誕生した。PSOEも健闘し、108議席を得て第二党となった(関、立石、中塚、214)。一方、女性議員は両院 571議員中、

計 27名(上院 6名、下院 21名)が当選した。その中には亡命から戻ったドローレ

ス・イバルリ共産党元書記長の他、1975年マドリード女性集会を主催、FLMの

設立メンバーのカルロータ・ブステーロ (下院PSOE)、PSUCにて女性の問題

に携わり 1976年カタルーニャ女性集会の中心となったマリア・ドローレス・カル

ベット(下院PSUC)など左派だけでなく、その直後憲法執筆委員会委員(39名中女性 1人)に選ばれたマリア・テレサ・レビージャ(下院UCD)や元ファラン

ヘ女子部のベレン・ランダブル 33(上院 王指名)など幅広い層から選出されたが、

議会全体の中では両院併せて女性は全体の 5% にも満たなかった 34。しかし、1978年 5月には、姦通罪が廃止、また 10月には避妊具の売買が合法化され、部分的で

はあるがこれまでのフェミニズム運動の成果が出たといえよう。

3. 3. 1978年憲法

 スアレス政権の次の目標は新憲法制定であったが先の選挙で過半数を獲得でき

なかったので、他の政党との合意形成が必要となった。そのため 1977年に下院議

員からなる憲法起草審議会 35 が制定されたが、実際の草案を担ったのはPSOE、

PCEの左派中道政党や右派のAP、カタルーニャ・バスクグループからなる「憲

法の 7人の父」であった。しかしその中に「母」は含まれていなかった(Larumbe,

2004, 95)。1978年 5月 6月に草案が審議会にて議論、承認された後、同年 10月に両院を通過、12月に国民投票を実施する運びとなった。新憲法制定は、法的な

フランコ体制の終焉を意味したが、女性たちにとっても公的、私的領域における男

女平等の達成を左右する焦点となったので、多くの団体は、単独または共同で、女

33 ファランヘ女子部では法律関係を担当した。民主化前からマリア・テロらと共に女性

に不利な法改正のために尽力した。

34 2011年のドキュメンタリー作品『憲法制定議会の女性議員たち(Las Constituyentes)』(オ

リーバ・アコスタ監督)にて、家事と仕事の両立の困難さ、「クリスタルの天井」の存在、

フェミニストへの世間の偏見など、民主化直後の女性議員の生の声が取り上げられている。

35 マリア テレサ レビージャを含む 39名の議員から構成された。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

性に関する憲法条文や意見書を作成し議員に郵送したり、機関誌やパンフレットで

世間に発信した(Larumbe, 2004, 96-97; Augustin, 2003, 288-291)。

 次に女性に関わる憲法案の内容を簡単に紹介してみよう。

 まず 14条に「スペイン人は、法の前に平等であり、出生、人種、性別、宗教、

意見その他個人的または社会的な条件状況を理由とするいかなる差別も広まること

があってはならない。」がうたわれ、法の前の男女平等が明記されたことは重要で

ある(大石 , 2009, 69)。その他、23条 2項の政治活動の平等、27条 1項の教育を

受ける権利と教育の自由、32条 1項の婚姻における平等、35条 1項の労働の権利

と義務、雇用の自由と平等、39条の法律・経済的な家庭の公的保護などが盛り込

まれた。だが、離婚に関してはその可能性には触れているものの明確とされず、ま

た中絶と女性の王位継承権も認めれず、フェミニストたちにとって不満が残るもの

となった(Moreno, 2012, 95)。これは 1977年 10月のモンクロア協定以降、法か

ら法へと民主化を平和裡に達成させるために各派閥間の「合意」(コンセンソ)が

重要視されたことを受け、右派が強く反対したこの三点に関して左派は譲歩したと

いう背景があった(Folguera, 2007, 170; Larumbe, 2004, 95; Augustín, 275-276)。

 国民投票に対する各団体の対応は、社会主義系の大部分は賛成、ラディカルは反

対と分かれた。

 賛成派の内訳はPSOE やPCEなどの女性党員をはじめ、MDM、ADMな

どの女性団体の他、別居女性団体などが含まれていた。彼女らは、憲法を「フラン

コ体制から民主主義への変化の象徴」と捉え、今後の女性の社会進出のための良い

足場となると認識していた(Augustín, 288; Moreno, 2012, 95)。一方ファルコンを

中心とするラディカルフェミニストは、憲法はフェミニズム運動の要求を十分反映

されていないことから「男による男のために作られた憲法」と批判し、国民投票に

反対票を投じることを要求した(Moreno, 2012, 95)36。FLMは憲法の内容に賛

成できず、棄権を呼びかけた(Larumbe, 2004, 99)。

36 MC,LCRの極左グループの女性たちも反対した。

齊 藤 明 美

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 そして 12月 6日の国民投票では、賛成が 88%を占め憲法が成立された。スペイ

ンはフランコ体制から民主国家への移行を平和裡に遂げたが、実質的な男女平等の

実現にはまだ至らなかったといえよう。

4. 離婚法と中絶法をめぐるフェミニズムの動き(1979‐1985)

 1978年 12月は民主憲法が発布され、スペイン社会にとって大きな前進となっ

たが、一方フェミニズム運動にとっても翌年の 1979年は重要な節目の年となっ

た。

4. 1. 1979年 グラナダ大会

 その代表は 1979年 5月グラナダで開催された第二回全国女性集会である。社会

主義系の各団体の他、ファルコンのフェミニズム党やCR運動系のラディカル団体、

CC . OO . の女性委員会などの多様な団体や個人からなる約 3000人が集まり、3日間に渡って女性に関する様々な問題についての発表や討論が行われた。今回初め

て男性の議論への参加が禁止されたことが特徴である。法改正、雇用問題、労働組

合などの社会的な視点だけでなく、中絶、産児制限、セクシュアリティ、婚姻など

に関する個人的なことも活発に議論された(Larumbe, 2004, 210-211)。特に女性の

からだについてはこれまで中絶や避妊が議論の中心を占めていたが、ラジカル・フ

ェミストたちはアン・コートや『ハイト報告』37 などを下敷きに、再生産だけでな

く快楽としての性行動のありかたを主張し、これまで社会慣習により抑圧されてい

た女性の性意識と性行動の解放と多様性について訴えた(Larumbe, 2004, 216)。こ

れはスペインにも新しいフェミニズム理論が浸透したことの表れといえるだろう。

 さらにリュス・イリガライらの精神分析フェミニズムの影響を受け、女性の文化

的、身体的差異を高く評価するべきだとするビクトリア・センドンの「差異派」や、

37 アン・コート『膣オーガズムの神話』(1968、1971)は反フロイトの立場から女性の

性行動における受動性を否定した。シェア・ハイト『女性の性に関するハイトリポート』

(1976)10代から 70代のアメリカ女性 3000人の性行動に関する面接調査。マスターベー

ション、オーガズム、性交やレズビアニズムについての生の声が取り上げられている。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

レズビアンの立場からフェミニズム運動における差別的な扱いを批判したグレー

テル・アムマンなどの新しい動きも現れた(Larumbe, 2004, 218, 221; Nash, 2004,

199; Augustín, 2003)。特に「差異派」は従来からの社会主義系を中心とする法改正

による男女平等を目指す社会主義系などの「平等派」に反対した。アウグスティン

はこの「平等派」と「差異派」間の対立は初めから明らかであり、それは「差異派」

側が公的、社会的な問題を無視したこと、また「平等派」の偏見が強かったことか

らの両者の対話不足を原因と考えた。と同時にスペインフェミニズム運動の視野の

狭さの表れと指摘した。この多様性への寛容の欠如が、グラナダ集会をフェミニズ

ム運動の衰退の始まりの要因とアウグスティンは分析している。(Augustín, 2003,

358)。またモレノは、1979年の時点で離婚と中絶以外の法の下の男女平等がほぼ

達成されたことによるモチベーションの低下、各団体におけるフェミニズム理念の

発展、または政治活動と女性解放運動の両立に関する意見の相違などがさらに溝を

深めたとした(Moreno, 2012, 91)。 一方、ラルンベは激しい意見の対立はフェミニズム運動の活発さの反映であると

いう、運営側や参加者のポジティブな感想を紹介している(Larumbe, 2004, 232)。

 もう一つは1979年3月の総選挙であった。UCDはかろうじて第一党を守ったが、

PSOEの進出は目を見張るものであった。しかしながら憲法改正後の初の選挙で

も女性議員の数は下院 18 名(5%)と伸び悩み、また女性大臣も誕生しなかったこ

とから、現実での女性の政界進出の困難さを如実に表しているといえよう 38。

4. 2. 街頭活動の特色

 離婚と中絶の二つの問題は、右派の反対により憲法に盛り込まれなかったので、

フェミニスト団体は運動を続けなければいけなかった。法案の提案や講演会の開催、

メディアへの投稿、出演だけでなく、デモや反対集会、ビラまきなどの大衆を巻き

込む街頭での活動にも積極的に取り組んだ。ここではまず、離婚と中絶の問題に関

38 女性大臣:スアレス内閣 0名  1981年のカルボ内閣 にてソレダー・ベセーリ初の女

性大臣(文部大臣)就任。ゴンザレス内閣 1982年 1期 0名、2期 0名、1988年 3期 マテ

ィルデ・フェルナンデスが 社会問題大臣に就任。

齊 藤 明 美

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するフェミニスト団体の街頭活動を分析したい。

 前章までは主に女性団体の集会やそのリーダーの言論活動を中心に見てきたが、

民主化期の女性解放運動は街頭での大衆運動という側面を強く持っていた。それは

第二波フェミニズムの興隆とともに世界的にも一つの戦法として広がったもので、

1968年 9月のアメリカミスコンテスト反対運動にて、化粧品、ハイヒール、ブラ

ジャーなどを「自由のごみ箱」に捨てる示威活動が有名である。その後イギリスや

フランスなどを中心に広がったが、特にフランスでのボーヴォワールや人気女優カ

トリーヌ・ドヌーヴを巻き込んだ「私も中絶した」という中絶合法化広告キャンペ

ーンなどがあった。ナッシュは、これらの過激な示威活動は、これまで表に出てこ

なかった女性への抑圧に光を当て、大衆の女性解放への理解を得るための一つの方

法となった、と指摘している(Nash, 2004, 182-183)。

 スペインにおいても、憲法制定前から生活保護、大赦、避妊具合法化や姦通罪に

関する街頭運動が繰り広げられたが、その多くは複数の団体による共同戦線の様相

を呈していた。女性差別的な法改正は、全ての団体にとって共通した課題であった

ので「世話役」の下理念の違いを乗り越えて各団体は力を合わせることとなった。

なかでも、参加者全員の気持ちを一つにする標語やシンボルなどが重要な働きを担

った。

 示威運動におけるスローガンの役割を研究したベルルーゴは、国内外のデモ活動

にて「私もピルを飲んでいる」などの「私は・・・である」という一人称の言い回

しがパンフレットやプラカード、横断幕に多く使用されていることに着目した。そ

してこの肯定的な「私」が一つの集合体を形成することにより、運動全体の連帯を

効果的に示したと指摘している(Verdugo, 2010, 266)。 スペインでも姦通罪や中

絶の合法化に関してこの言い回しが使われた。デモの場では従来の左翼運動のシ

ンボルの「握りこぶし」より、両手の人差し指と親指を合わせ「女性器」の形を頭

上に掲げるタイプがより多くみられたり、フェミニズムのシンボルカラーの紫色が

横断幕やプラカード、ユニフォームに取り入れられた。(Ergas, 2000, 610; Verdugo,

2010, 266)。また 1975年に国連が 20世紀前半に社会主義者のクララ・ツェトキ

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

ンが提唱した 3月 8日の国際女性デ―を公式に採用したこともあり、1976年ごろ

から国内でもフェミニズム団体を中心に国際女性デ―の集会が開かれ、女性解放運

動の恰好のデモンストレーションの場となった(Verdugo, 2010, 266)

4. 3. 離婚をめぐる動き

 当時、他の西ヨーロッパ諸国ではアイルランドとバチカンを抜かして離婚はすで

に合法化され、カトリックの伝統の強いイタリアでも 1970年に認められた。一方

スペインでは 1975年の段階でも離婚は認められていなかったが、『フォエサ報告』

(Informe FOESSA 社会調査の一種)では当時約 7割のスペイン人が「離婚」に肯定

的であるというデータが示す通り、人々の意識の変化がみられた(Larumbe, 2004,

132)。1978年憲法では、離婚の手続きに関して具体的な記述はなかったものの、

32条に婚姻の解消を認めるという記載があったので、与党のUCDはその法制化

を進めた。UCD案は、直接離婚手続きに進めるのではなく、その前段階として従

来通りの法的別居の期間を必要とした。離婚の条件として、どちらかが婚姻生活を

困難にした場合、その相手側が離婚を請求できるという有責主義を採用したが、議

会において左派の強い反対にあった。一方、PSOEは有責主義、前段階としての

法的別居を否定し、合意による離婚や手続きの短縮化を求めた。PCEは独自の離

婚法案を作成し、カルベットを含む 4人の女性議員による記者会見を開いた。そ

こでは合意による離婚、有責主義の排除、法的別居と離婚の区別をなくすこと、宗

教婚より市民婚を尊重することなどを求めた(Augustín, 2003, 294-295)。

 フェミニズム団体もこのUCD案に反対し、各団体やプラットホーム単位で様々

な離婚法案が作られたが大きくわけてラディカルと社会主義系に 2分できる。

 前者は、ファルコンのフェミニズム党など 37グループを率いる全国フェミニス

ト団体コーディネーターのものであり、1979年 7月 3日にメディアに公表された。

基本的には有責主義の否定などPCE案と同様の内容であったが、加えて離婚した

女性への職業訓練と失業手当の給付や、10歳以下の子供の母親との同居を求めた

(Larumbe, 2004, 133-134; Arriero, 2016, 245; Augustín, 2003, 296)。その後も、「犠

牲者や加害者のない離婚を」というスローガンの下、共同キャンペーン活動をおこ

齊 藤 明 美

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なった(Augustín, 2003, 296)。 後者は、MDMや別居女性団体などのグループのもので、合意離婚と裁判離婚(法

的別居の手続、一年以上の法的別居、その上共同生活が不可能であるという条件付

き)を提案、養育費は経済的状況を考慮の上、両者が負担するとしたが、支払いが

困難な場合は国家が保障するとした。また親権は実際に子供の養育に深くかかわっ

た側に与えられるとした。(Arriero, 2016, 245)。MDMを中心とする女性たちは憲

法 87条で制定されている 500. 000人の署名を集めれば議会に法案を提案できると

いう市民イニシアチブを目指したが、目標人数には届かなかった。一方、マドリッ

ドのカトリック教会裁判所 39 の前で、離婚への教会の不介入を求めたデモをおこ

したりした(Arriero, 2016, 246)。

 両者の間では、特に意見のすり合わせはなかったものの、離婚法制定という共通

の目的達成のため戦い続け、世論や政府への圧力団体としての役割を果たした。そ

して社会民主主義派のオルドニェス法務大臣によって新しい離婚法案が出された。

これは合意による離婚を認め、別居の手続きを踏まずに直接離婚に進めるより進歩

的な内容となっていたが、教会勢力だけでなくUCDのキリスト系議員の批判を

浴び、結果としてスアレス内閣および与党の内部分裂を示すことになった。そして

1981年 7月に離婚法が議会で承認されたが、フェミニストの要求は全て取り入れ

られなかった。例えば、合意による離婚が認められたものの、その前段階として

低でも一年の法的別居が必要とされた。まだまだ離婚はスペイン人にとってハード

ルが高いものであったが、共同生活が破たんした夫婦にとっては新しい人生の第一

歩となった(Augustín, 2003, 298)40。

4. 4. 中絶合法化へのみちのり

 中絶合法化は離婚法よりも険しい道であった。それはキリスト教が伝統的に胎児

を人間と認識しており、中絶は殺人罪と見なされていたことと関係している。だ

39 1979年 12月まで法的別居の判決は教会裁判所の管轄であった。(Augusín, 2003, 297)40 離婚法に先立ち、同年 1981年に夫と妻の婚姻における平等(財産、親権、子)、嫡子、

非嫡子の平等に関する民法改正が行われた。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

が、20世紀に入って 1920年にロシアで初めて中絶が合法化されたのを皮切りに、

日本(1948年)、イギリス(1968年)、フランス(1975年)、イタリア(1977年)

などにおいて法律による中絶の合法化が制定されていた 41。一方スペインではフラ

ンコ没直後の刑法においても、中絶は堕胎罪とされ、6ヶ月から 6年の禁固刑とな

っていた。だが実際は、富裕層の女性はロンドンやフランスなどの病院で手術を受

けたり、貧困層の女性はハンガーの針金やパセリなどを挿入するなど、自己流の危

険な中絶が横行していた。 高裁判所年次報告によると、毎年 30万件ほどの堕胎

が行われ、そのうちの 2%が死亡、20%が心身に後遺症を残したという(Larumbe,

2004, 138)。そしてエル・パイス紙 1976年 10月 3日号に、「ロンドンで中絶」と

いう特集が組まれるほど社会問題化していた 42。女性のからだの自己決定権を家父

長制からの解放の一つの条件と考えていたフェミニストたちは、この状況を憂い、

各地で講演会や勉強会を開催した。また 1978年 2月には各団体から約百名がバル

セロナに集まり、中絶、避妊、性生活、女性の身体についての啓蒙キャンペーンも

行われた(Nash, 2004, 220)。1979年にビルバオにて中絶に関わった 11人(女 10名、男 1名)の裁判が始まった。これが起爆剤となり、全国各地で多くのフェミ

ニスト団体は署名活動、デモ、籠城などを行ってこの裁判の中止を求めるとともに

中絶の合法化を訴えた(Augustín, 2003, 224-227)。

 1982年の選挙でPSOEが政権を取ったことはプラスに動いた。新政府はただ

ちに 1983年に 3つの適用事由(①妊婦の精神、身体的に危険を及ぼす場合 ②強

姦による妊娠 ③胎児の精神的、身体的疾患)を条件とする中絶法案を議会に提出

した。この法案を巡り、国内は女性の自己決定権を擁護する賛成派(PSOE,P

CE , フェミニスト団体など)と胎児の命の保護を主張する反対派(教会、右派団体、

プロライフ)によるキャンペーン合戦が繰り広げられた(Augustín, 2003, 234-236;

Moreno, 2011, 328)43。

41 当時フランスでは妊娠 10週以内であれば妊婦の判断で中絶が許可された。一方イタリ

アは 3カ月以内であれば母体の精神、身体的健康を犯す場合、イギリスでも母体または胎

児の健康に棄権が及ぶ場合など条件付きであった。

42 http: //elpais. com/elpais/2011/11/24/actualidad/1322120268_850215. html (閲覧日 2016年 9月 22日)

齊 藤 明 美

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 この法案はAPの後を継いだ国民党(PP , Partido Popular)から憲法違反の理由

で憲法裁判所に訴えられたものの、1985年に成立した。3つの適用事由や決定権

が本人にはなく医者にあることなど、フェミニストたちには満足のいくものではな

かったが、カトリック勢力の強い反対を抑えて中絶が合法化されたことは、女性の

権利だけではなく、スペインの民主化が一歩進んだことの象徴であるといえよう。

モレノは、離婚と中絶法案に関わるフェミニスト団体の働きについて、女性の権利

と私的なことの重要性を政治の議論の俎上に載せたとし、街頭運動を含む彼女らの

活動が各政党に男女平等原則に基づいた法案の制定に大きく影響した、と述べてい

る(Moreno, 2012, 96)。

5. 政府による男女平等政策の取り組みの始まり(1982~)

 フランコ没以降の国際的な男女平等を巡る動向を見てみよう。1975年の国連女

性年以降、国際的な男女平等の推進は活発となり、同年、ILOにて雇用機会、待

遇の均等に関する決議が出され、また1979年には国連総会にて「女子差別撤廃条約」

が採択された。EECも加盟国に男女同一賃金や均等待遇指令を発令した。

 このように世界では男女平等への追い風が吹いていたが、国内の状況はどのよう

なものであっただろうか。教育面においては、1982-1983年度の初等教育進学率は

ほぼ 100%、大学進学男女比率も 46. 79%と改善がみられたが、依然として文学部

が 63%、工学部は 12%と、専攻分野の選択に関してはまだ伝統的な性別役割分担

意識が根強かったといえよう。また雇用面に関しても、1982年女性就業率 23%(男

性 62%)、労働力率 28%(男性 73%)、女性失業率は 20%(男性 15%)であり、

まだまだ女性の労働力は有効に活用されていなかった。政治参加についても、下院

の女性比率では 1977-79期 6%、1979-82期 5%、82-86期 5%と低いままであった。

43 一般的にカトリック勢力はフェミニズム運動に否定的であるという印象が強いが、モ

レノはそれを三分類し、必ずしも一枚岩ではなかったと指摘をしている。その内訳は次の

通りである。1親フェミニスト(フェミニストのカトリック信者、司祭、神学者) 2男女

平等と政教分離、民事離婚を認めたが、宗教上の離婚や堕胎を否定したカトリック穏健派 (UCD,DCなど) 3反フェミニスト(司教団、 AP、堕胎反対運動団体など)(Moreno, 2011, 310)。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

フランコ期と比べて女性をめぐる法的状況は大きく好転したものの、その現実的な

適応には多くの困難が伴っていたといえよう 44。

 このような状況を改善するために、与党のPSOEにより、政府主導型の男女均

等政策の取り組みが行われることとなったが、その主力となったのは他でもない党

の女性たちであった。1976年に公式に認められた党内女性組織「女性と社会主義」

は、当初は党員の母や妻、娘などを中心とする集まりであり、主に食事の用意な

ど補佐的な役割を担っていたが、1977年の選挙にてカルロータ・ブステーロなど

10名(全女性 27名中)の女性議員が誕生してから、党内での存在感を強めていっ

た。またFLMと掛け持ちしていた者も、自分たちの要求を実現するには党の方が

効率的と考え、次第に党の活動に集中した(Augustin, 2003, 56)。彼女らは党内で

の発言権を強めるため、党内執行部委員や選挙名簿でのクォーター制導入を目指

した。そして 1978年には、執行部内に女性専門事務局の設置と、選挙候補者名簿

の 10%を女性にすることを要求し、1979年の総選挙では女性候補者の増員や、選

挙公約に女性の視点を盛り込むことに成功した(Arnedo, 2009, 229)。だがその間、

憲法や法改正をめぐる様々な活動を通して経験と実力をつけることも忘れていな

かった。1981年にはカルメン・メストレが初の執行委員に選ばれたことを皮切り

に、重要ポストへの女性登用が推進された。その上、1988年の第 31回党大会では、

全ての組織において女性の 25%クォーター制が導入され、執行部女性も一挙に 6人に増員され、さらなる女性の意思決定の場の参加が進んだ(Folguera, 2007, 174;

Arnedo, 2009, 234)。

 1982年選挙のPSOE勝利は、党内外における女性党員の活躍の場の増加につ

ながった。

 その代表が、1983年にPSOE政権により文化省内(その後社会問題省へ)45

44 女性研究所データベース参照(http: //www. inmujer. gob. es/MujerCifras/Home. htm 閲覧

日 2015年 9月 13日)

45 1988年社会問題省へ移管。2008年平等省設立されたが、2010年保険、社会サービス

省へ統合された。

齊 藤 明 美

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の下部組織として設立された女性問題専門部署の女性研究所(Instituto de la Mujer)

である 46。そこでは、男女平等の実現や社会・政治・経済・文化面におけるさらな

る女性の参加が主な目的とされた(Astelarra, 2005, 144-148)。初代所長にはPS

OEのカルメン・ブステーロが就任、民主化期のフェミニズム運動で培った経験と

人脈を活かして任務にあたった。以後、女性研究所は現在まで 30年以上にわたり、

国内の男女均等問題政策の中枢として男女平等に関する政策計画、遂行を中心に、

調査、資料の作成・出版や、男女別の統計の整備、女性団体や研究団体への助成も

行っている。それらを通して、時には欧州と比較して、雇用、教育 家庭面での男

女平等政策の取り組みの遅れを示唆したりしている 47。このように政府による上か

らの男女均等政策が始まったが、その担い手は与党の女性党員だけでなく民主化以

降、政治や研究の場に参入した女性政治家、党員、公務員、研究者などであり、そ

の中に多くのフェミニズム運動家も含まれていた。

 80年代半ばになると、スペインも国連や欧州を後ろ盾とするグローバルな男女

平等政策に組み込まれることとなった。まず 1984年に女性差別撤廃条約を批准し

たことから、4年ごとに国連の女性差別撤廃委員会に国の男女均等への取り組み

の報告書を提出し、国連の審査、勧告を受けることとなった。また 1986年のEU

加盟をきっかけとし、それ以後、「EU市民」の義務を果たすために男女均等待遇

原則指令 48 を遵守する必要に迫られた。女性研究所はEU男女均等指令の具体的

な実現プランであるEU行動計画の国内への適応のため、2000年まで 3つのプラ

ンを策定、第一期均等計画(1988-1990)では賃金、雇用、昇進、社会保障分野に

おける EU 指令の国内適用がなされた。(Astelarra, 2005, 178-186; Nash, 2004, 228-

229)。

46 1977年スアレス内閣に文部省の管轄下に女性部署(Vicesecretaria de Asuntos de la Mujer)が設置された。

47 また 1988年以降から各自治州にも女性研究所が設けらた。市町村単位でも社会サービ

ス部門などにて女性課が設置され、女性の医療、教育、福祉関連の情報提供、問題解決に

当たった。(Astelarra, 2005, 152-154)。スペインには現在 17の自治州があり、各政策の遂

行は各自治州が担っている。

48 指令(Directive) 欧州議会、理事会、委員会の立法権に基づく二次法。国内法として制定、

改正しなければいけない。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

まとめ:民主化期スペインにおけるフェミニズム運動の歴史的意義

 これまでフランコ体制末期から 1980年代までのスペインフェミニズム運動の誕

生と展開、そして変容について、国内外の政治・経済・社会の動向と関連づけなが

ら概観してきた。

 スペインフェミニズム運動の特色は何であったのか、また女性たちの活動はスペ

インの民主化にとってどのような役割を果たしたのか考察してみたい。

 その大きな特徴として、約 40年にわたるフランコ独裁体制の存在は無視できな

い。この「空白期間」はスペインの女性にとって大きなマイナスとなった。同時期

の欧米では、第二波フェミニズムの思想が広まり、1960年代後半から女性解放運

動が組織されていた。一方、スペインでは国家カトリック主義の下、伝統的な良妻

賢母教育による家父長制の強化や厳しい検閲制度などが障害となり、フェミニズム

思想などの海外の新しい思想へのアクセスは困難であった。フランコ後期になる

と、進歩的な女性により第二波関連の書物が紹介されたり、女性運動団体MDMが

誕生したりとその萌芽は見られたものの、実際にフェミニズム運動が活発化したの

はフランコ没の 1975年以降であり、他国と比べてかなり遅れていた。これに関し

て「平等派」フェミニストのバルカルセルは、「スペインのフェミニズムは読書か

らではなく、実践をもって得られた。まず怒りと憤りが押し寄せた。読書はその後。」

と興味深い指摘をしている(Valcárcel, 2000, 100-127)49。またその担い手につい

ても、フランコ独裁の「空白期間」により前世代との断絶が見られたことが特徴で

ある。内戦前に活躍したクララ・カンポアモールやビクトリア・ケントなどの多く

のフェミニストは迫害を恐れ亡命した。よって残されたものは彼女ら先輩たちに頼

ることができず、必然的に大学生などの若い世代が運動の中心となって一から作り

上げることとなった(Larumbe, 2004, 69; Valcárcel, 2000, 100-127)。

 次にスペインフェミニズム運動そのものの分析をしてみよう。当時、フランコ体

49 Valcárcel Amelia, Rebeldes hacia la paridad, Plaza & Janés, Barcelona, 2000. (cit. en. VARELA, 2008)

齊 藤 明 美

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制から民主国家への移行という重要な政治・社会変革の中、労働運動や学生運動な

どの社会運動への大衆の参加が増えていたが、女性運動もこの大きな流れに合流し

た。このことによりフェミニズム運動は、反体制運動や民主化運動と必然的にリン

クすることにつながり、結果として非常に政治的な色彩を帯びることとなった。ス

ペインだけでなく、当時民主化期であったポルトガル、ギリシャでも同様の傾向が

見られた(Nash, 2004, 181; Augustín, 2003, 355; Moreno, 2012, 88等)。

 さらにフランコ後期の国内女性運動の中心が、左翼政党の女性メンバーであった

ことから、女性解放の達成のためには、独裁体制の消滅と民主主義の確立が前提と

考えられ、またフェミニズム第一波の特徴とされた法改正による男女平等の獲得が

急務とされた。フランコ独裁期では労働、政治、教育面だけでなく家庭においても

法律上、女性は男性に従属するものと定められていたからである。だがこのような

公的領域での男女平等だけではなく、第二波のスローガン「個人的なことは政治的

なこと」の下、家父長制批判、避妊具、中絶、離婚の合法化、性の問題などの私的

な問題を公的な議論に盛り込んだ点が民主化期のフェミニズム運動の新しい点であ

った。(Moreno, 2012, 87-88, 93; Nash, 2004, 2011, 298-302)。つまり民主化期のス

ペインには第一波(法改正)と第二波(意識革命)が同時に押し寄せたといえよう。

フェミニスト達はこの大波に乗り、新しい政治主体としてスペインの社会そのもの

を変革しようとしたのだ。

 この二つの波の「共存」は女性解放の起爆剤となったが、以前から反体制運動に

関わってきた社会主義系の団体と後発のラディカル系団体に二分する要因ともなっ

た。そのような意味でスペインのフェミニズム運動は一枚岩ではなく、その内部に

緊張を抱えていたといえよう。対立は 1975年のマドリッド集会から明らかとなっ

た。階級闘争を基軸に置いた前者は、党活動と女性解放運動の兼任を認めたが、後

者は否定した。両者の対立の原因となったのは主に政党と女性団体との協力関係の

是非についてであったが、そこには既存権力と共同して男女平等の達成を中心課題

とするのか、家父長制や政治機構などの男性が作り上げてきた従来の枠組みを壊し

て女性が主体となる新しい社会を作り上げるのかというような方針の違いの表れが

みてとれる。

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

 だが両者はいつも対立していたというわけではでなかった。女性の差別的な法改

正には両者とも積極的に取り組んだので、離婚や中絶法キャンペーンなどでは協力

することもあった。

 そして海外の 新のフェミニズム思想を取り入れながら、絶え間なく変容してい

ったことは注目すべき点であろう。社会主義系は従来の階級闘争一元論から一歩進

み、その要求の中に女性の身体の自己決定権や家父長制反対を取り入れた。ラディ

カル系も、唯物論フェミニズムの影響を受け女性を一つの階級と見なしたファルコ

ンらのフェミニズム党設立に見られたよう、政治権力を否定せずむしろ使用しよう

としたことがその例である。スペインのラディカル・フェミニズムはアメリカ発の

意識覚醒運動よりもフランスの唯物論ラディカル・フェミニズムが主流であった。

 また、他国の第二波フェミニズムの担い手はラディカルが主流であったが、ス

ペインでは民主化という政治的背景が影響し社会主義系が主流となっていた

(Augustín, 2003, 356)。社会主義派が主流だったとはいえ、ラディカル派も、セク

シュアリティや家事労働という新しい女性搾取の物差しを、運動全体に提供したこ

とで、スペインにおけるさらなるフェミニズムの深化に貢献したといえよう。この

二つが融合し、フェミニストたちは資本主義と家父長制による女性の二重の支配か

らの脱却を目指すこととなった。

 民主化期のフェミニズム運動が短命であったこともその特徴に数えられよう。多

くの団体は 1975から 76年に生まれ、70年代後半には消滅した。その原因として

スペインのフェミニズム運動自体が発展途上であったことが考えられる。現実には、

まずは行動に移し、その試行錯誤の結果として団体の分裂や衣替えが繰り返された

と捉えられる。と同時に、この点は「枝分かれ」「短命」という第二波フェミニズ

ムの共通した特徴を示しているといえよう 50。1970年代のスペインのフェミニズ

ムは、フランコ体制や民主化という特殊な政治背景を持っていながらも、全体を俯

50 第二波フェミニズムの組織の特徴としてジョー・フリーマンは、気軽なグループの

参加や設立、脱中心的、枝分かれ、網状に広がる性質などをあげている(ピルチャー、

2004、170)。

齊 藤 明 美

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瞰してみると遅ればせながらも世界的な第二波フェミニズムの流れの中に組み込ま

れていたと考えられる。

 また第二波フェミニズムの終焉と共に、男女平等の問題は社会運動の場から、政

府や公共団体による上からの女性政策へと変容したことも、他国と共通できる点で

あろう。スペイン民主化期では、女性の問題はフェミニスト団体の「草の根」の活

動が主力であったが、80年代以降は運動の中心軸が民間から公的機関に移行、政

府による女性政策の基盤が完成し、女性政治家や官僚、地方自治体職員が担当した。

スペインの場合は、民主化期から政治団体と良好な関係にあった社会主義系の団体

やPSOEの女性党員らが中心的役割を果たし、1982年に誕生したPSOE政権

の下、女性研究所や各自治州、市町村関係機関などで活躍した。もちろん「棚ぼた

式」に突然チャンスが回ってきたわけではなく、彼女らも党内や女性団体の活動な

どで地道に経験を積み重ねてきた結果、発言力を増していったことを忘れてはいけ

ない。彼女らは女性たちの要求を政府中枢 (議会、行政)に届け、政府や社会全体

に女性の問題を認識してもらうパイプ役となった。

 このように、1980年代は、政府による上からの女性政策が進んだが、民間のフ

ェミニズム運動が完全に消滅したわけではなかった。1981年の離婚の合法化と

1985年の条件付きの中絶の合法化においては全国でさまざまなフェミニズム団体

による講演会、キャンペーンやデモ、署名活動が実施され、政府あてにも独自の法

案が提出された。フェミニストたちの要求の全ては通らなかったものの、その活動

を通して一般の人々の意識に影響を与え、結果として政府にとって大きな圧力団体

となった。

 さらにフェミニズムは政治面だけでなく、学術面にも重要な変化をもたらした。

例えば、フランコ期に中断していた内戦以前の女性解放運動の歴史が再発見される

など、女性史やフェミニズム研究分野の研究が進んだ。また専門の研究機関もでき、

多くのフェミニストがその一員となり、アカデミズムの場に活動を移した。1979年にはバルセロナ自治大学とマドリード自治大学に、1980 年バスク大学、1982年バルセロナ大学にて女性学に関するセミナーや研究所が置かれ、以後その数は大

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スペイン民主化期におけるフェミニズム運動の展開とその変容(1975—1982)

学におけるジェンダー研究の認知の高まりとともに増えていった(Gallego, 1995,

24)。このように民主化期のフェミニズム運動の中で、試行錯誤の上培われた経験

が、アカデミズムの現場で理論化、体系化されていった。このような意味でスペイ

ンフェミニズムも他国と同様に、運動団体による直接行動から官制フェミニズムや

アカデミズムにおける研究などへと、その活動の場や性質もより多様化していった

と考えられよう。

 多くのアカデミズムの研究者は、女性運動をスペイン社会が真の民主主義を達

成するために重要な役割を担ったとポジティブな見方をしている(Nash, 2011,

Moreno, 2012, Augustín, 2003, Larumbe, 2004, 他)。例えばモレノは、彼女らは独裁

の終焉だけでなく、男女平等精神の下、女性を政治の主体に含める新しい社会の形

成を目指したが、これにより、これまで私的と考えられていた事柄(家父長制、中絶、

避妊など)を公的な議論の場に導入し、結果としてスペイン全体における市民意識

や政治概念の再構築を促したと指摘している(Moreno, 2012, 87)。またナッシュも

避妊や中絶など、生殖に関する女性の権利の問題を民主的な法体制に組み込んだこ

とを例にあげ、フェミニズムは女性を一つの政治主体に形成し、その意味でスペイ

ンの民主主義に新しい概念を提供したと評価している(Nash, 2011, 304-305)。さ

らにトレルファルは「民主化期におけるフェミニズム運動の変革者(transformador)

としての役割」という論文のタイトルが象徴するように、女性たちの運動はスペ

インの民主主義に男女平等という概念を組み込んで社会全体に変化をもたらしたと

した。もしフェミニズム運動がなかったら、スペインの民主主義はより伝統的で

自由度の低いものとなり、まったく違ったものになっただろう、と分析している

(Threlfall, 2009, 44-45)。

 このように多くの研究者はフェミニズム運動を肯定的にとらえたがなかには懐

疑的な意見も存在した。リディア・ファルコンは 1990年機関誌『権力と自由』12号にて執筆した「フェミニズム運動の頂点と転落」にて興味深い見解を示している

(Falcón, 1990, 36-41)。ファルコンは、スペインのフェミニズム運動は 1985年中

絶法の制定をピークに衰退したとし、フェミニズム運動は失敗に終わったと考えた。

齊 藤 明 美

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その理由として①目標の喪失、②組織不足、③イデオロギーの欠如、④資金不足⑤

敵の多さ、などをあげている。

 一番目に関しては、もともと多くの団体は女性差別的な法改正を第一の目的とし

ていたことから、その達成をもって一気に目標を喪失し、存在意義を失ったとして

いる。二番目についてはフェミニズム団体をまとめる「世話役」(バルセロナでは

コーディネーター、マドリードではプラットホーム)の運営が水平式で、リーダー

や議事進行係、議事録、会費などを置かないアサンブレア方式であったので、組織

運営自体が非常に求心力に欠けた脆弱なものとなったと考えた。三番目について

は、運動の核となるイデオロギーが存在しなかったので、そこに集まった女性たち

はその思想に感銘を受けたのではなく、離婚や中絶の問題など個人的な問題の解決

のためであるとした。そして問題が解決した者はフェミニズムが必要なくなり、ま

た解決しなかった者も役に立たなかったとしてフェミニズムを捨てたと指摘してい

る。四番目の資金面についても、各団体は経常的に資金不足に苦しんでいたが、そ

の上、女性研究所などの公的な資金援助も、社会的、文化的な活動に集中し、真に

女性解放を目指す団体にはほとんど与えられなかったと述べている。また五番目に

ついてはカトリック教会、政党、メディア、大衆、政党など男性権力に迎合する女

性、家庭の夫も含め、フェミニストはたくさんの敵に囲まれたが、味方は少なかっ

たとした(Falcón, 1990, 36-41)。 このファルコンの見解は当事者として、またラディカルフェミニストとして、こ

れまで様々な研究者にて肯定的に語られることの多かった民主化期におけるフェミ

ニズム運動の影の部分に光を当てたといえよう。これはアカデミズムの世界から一

歩距離を置いたファルコンの立ち位置が関係しているかもしれない。今回は時間と

枚数の制限でファルコンの人物像や思想、作品などに詳しく踏み込めなかったが、

さらに民主化期のフェミニズム運動の理解を深めるための今後の課題としたい。

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